ソファに横付けた安楽椅子で本を読んでいたさとりは、そう言えば、と顔を上げた。
思い返すように顎に手を当てて言った。
「バレンタインと言うイベントがあったわね」
それはもう一月前のことである。
ソファに仰向けになって、お腹にお燐を乗っけたこいしは、思わず「はぁ?」と漏らしてしまった。
バレンタイン=二月十四日にあったと言う、あのイベントであるが、しかし、この地霊殿においてそのような空気があったかと言うと、あまりなかった。二月十四日は、いつも通りの平常運行だった。まるでモテない学生のようであるが、それは関係ない。なによりさとりはバレンタインがあまり好きではなかったので家から出なかったし、そもそも部屋からさえも出なかった。
何故なら心の中が読める覚妖怪。
バレンタインの時期に旧都に繰り出せば、チョコレートよりも甘い心の中を見透かしてしまうこと必至なのだ。
だから家から出なかった。
しかし、家の中も安全とは言い難かった。ペットの存在がある。
人型に変化できるようになったペットは、やはり人間の風習に興味があるのか、チョコレートを作って渡しあったりした。変化できない普通のペットもチョコレートを食べた。ペットにチョコレートはだめだって? 地霊殿のペットは地獄の生物だから胃が強い。
部屋に篭って鍵を掛けて過ごしたのだ。
一歩でも外に出れば、らぶらぶであーんなことやこんなことをしている妄想を見せ付けられるのだ。
そんなもん堪ったもんじゃない。
だから、急にこんなことを言い出すのは、あってないようなことなのだ。たぶん。
「今さらどうしたの?」
ソファの縁に頭を乗せて、逆さまに姉に視線を向ける。
さとりは持っていた雑誌をこいしに向けた。
チョコ菓子の特集である。『愛しの彼のハートをゲット!!』そんな感じのキャッチコピーの下に、色とりどりのチョコレートが並んでいる。やけに凝ったものも多いけれど、こんなもの渡されたら、返す側が大変だろう、とこいしは思った。
そしてさとりは、くるりと雑誌の表紙を向ける。
二月の雑誌だった。
監修『水橋パルスィ』
さすが嫉妬心の塊である。こんな所で破滅させようと目論むとは恐ろしい。今度からはあの橋を渡るときは注意しよう。
雑誌を下げ、さとりは、
「チョコレートがね、あまってるのよ」
その言葉でようやく合点した。
地霊殿のペットの数は膨大である。
そして、そもそも動物は、あまり頭がよくない。
つまり、適当に大量にチョコレートを購入してしまい、冷蔵庫が埋まってしまったらしい。冷蔵庫の中身はチョコレート一色。
今日の晩御飯はチョコレートかしら? とこいしは妄想する。
チョコの煮付けにチョコの味噌汁にチョコのお浸し。ご飯はもちろんチョコフレーク。
嫌過ぎる夕飯だった。
それは置いといて。
「でもなんで今さら?」
「この間までは、大丈夫だったのよ。冷蔵庫の奥にあるの引っ張り出して使えばよかったから」
「ああ、夕飯の度に冷蔵庫の横に鎮座していた大量の茶色い物体はチョコレートだったの」
「でもね、後から後からチョコレートをぶちこんで、ようやく気がついたの。冷蔵庫になにも入らないってね」
「お姉ちゃん、質問いっこいい?」
はい、と手を上げる。
スカートが太ももまで捲くれている。反対側から見ればパンツが丸見えだろう。
「どうぞ」
びっと人差し指で刺す。物理的に。
「あのね、なんで今さら?」
「さっきから同じような質問ばっかりね」
「いやさ、お姉ちゃん、なに? 外出なかったの? ずっと?」
「出不精なんですよーだ。出不精と言ってもデブ症ではないのよ。私は細いわ」
「うん。聞いてない。それよりうちって買いだめだったの?」
「賞味期限は一週間までなら余裕よ」
「こら」
とりあえず頭にチョップ。
「なに? もしかしてずっとあれか、賞味期限切れのものだったの?」
「仕方がないのよ。バレンタインからホワイトデーまで、旧都の住人の脳内はまさに桃色空間なんですもの」
「頼めば良いじゃん! 誰かに!」
「おお」
ぽん、と手を打ち合わせた。
それを見て、ため息一つ。
それまで黙っていたお燐が「なぁ」と鳴いて欠伸をした。こいしは上半身を上げ、お燐を持ち上げて、目の前に持って来た。すっげー鬱陶しそうな顔。
「お燐お燐お願い。冷蔵庫の整理手伝って。じゃなきゃ今夜はチョコレート尽くしよ」
ひょいと手を振り払うように、お燐は跳んだ。
そしてくるりと回転して、床に立った瞬間には、もう人型だった。
「いいんじゃないですか? チョコレート尽くし」
「ところがどっこい」
「?」
「あれ、見て」
きっとお燐の脳内では、甘いお菓子が流れているのだろう。さとりの表情から明白だ。伊達に何年も姉妹やってきてるわけじゃないのだ。そもそもお燐の顔自体、若干緩んでるし。
しかしこいしは気がついていたのだ。
彼女の姉の隣に、積まれた本。
今読んでいるような雑誌の他に、普通の料理本も置いてある。
それが示すことはただ一つ。
「普通の料理に混ぜる気だよ、お姉ちゃん」
「そんな、まさか……」
「お燐、ありえないことはありえないの。お姉ちゃんだから」
「……じゃあ、まぁいいですが……」
「おっけー」
くるりとさとりに顔を向ける。首を傾げられた。
「そう言うわけで、お姉ちゃん、買出しよろしく!」
「いやよ! バレンタインからホワイトな日まで、延々甘々な妄想を垂れ流されるこっちの身になって考えなさい!」
「……私は、自分の仕出かしたことに、感謝した」
「妹がひどい! ……って言うかお燐がいるんだから、お燐に行かせればいいじゃない」
「だってお姉ちゃん、チョコレートで普通の料理作る気でしょ?」
「ええ」
「だからだよ!」
こいしの指がさとりの頬にめり込む。
その指を、掴んで、逃れながらさとりは弁解の言葉を探す。
しかし、ついさっき自分の心の内を言ってしまったからには、どの言葉も、なんの説得力も持たないのだ。
「し、しかし!」
「なに?」
「ブラッディバレンタインと言うものがあります! 危ないです!」
「シカゴマフィアの?」
「はい」
頷いた。
「ずいぶん昔の話じゃん。大丈夫。大丈夫。もうバレンタインとかとっくに終わってるし」
「バレンタインには血を見るのよ」
「チョコレートの食べすぎだね」
「え、ええ、ぇええ……っと」
「はい、いってらっしゃい」
「…………はい」
◆
「さってと」
きゅ、と三角巾を頭に結び、エプロンを付けて、こいしはキッチンに立った。
そのまま鼻歌でも歌いだしそうなステップを踏み、冷蔵庫の扉を開ける。みっちり詰まった茶色い物体。くるりと紙で包まれたチョコレートの山。山。山。積み上げられて、崩壊もかくやと言うほどなのに、それは絶妙なバランスを持って鎮座していた。
「うわぁ……」
そして、同じように三角巾とエプロンを装備したお燐に振り向き、
「どんだけ買ったのよ……?」
「いやね、邸中のペットの数を考えるとね、こうなるわけですよ」
しれっとした顔の中に幾分かの申しわけなさを包んだ奇妙な表情でお燐は言う。
「まぁいいけど。さっさと消費しちゃおうよ。どの道、冷蔵庫に空きを作らないといけないんだから」
「誰も買出しに行かなかったって言うこともありますしね。でもいいんですか? さとり様、買出しに行かせちゃって」
「大丈夫じゃない? そんな桃色妄想領域なんて、どうせそんなに持続しないって」
「泣いてましたけど」
「たぶん勘違いだから大丈夫」
ふむ、と顎に指を当て、思考する。一応姉の持っていた本は傍のテーブルの上に置いてある。だからこそレシピには困らないのだ。
困らないからこそ、困る。
さて膨大な量のチョコレート菓子の中からなにを作ろうか、っと。
椅子を引き出し、座り、肘を着きぱらりとページを捲る。
捲ったところで、一つ疑問が生まれた。
材料、あるかなぁ?
なかったら、チョコレートを固めよう。
それが手っ取り早い。でっかいハート型のチョコレート。
「それにしても」
とお燐は疑問を口にする。
「どうして作ろうなんて思うんですか? そのまま処分すればいいのに」
処分とはもちろん、そのまま全部食べればいいと言うことだ。
「だってそれじゃ、詰まらないじゃない」
「いや、これ全部溶かすのって、手間じゃないですか」
「いいの。作りたいんだから」
それに、とこいしは俯くようにして付け加える。
「たまには、ほら、いっつも作ってもらってばっかだし、だから、ほら、今日とか、なにか作るチャンスじゃない」
今さっき思い付いたのだけれど。
そもそもバレンタインと言う行事自体、あまり興味がなかった。
しかし、その雑誌には、気になる事実もあったのだ。家族への日ごろの感謝を込めて、そんな用途で渡してもいいらしい。ちょっと遅れたけれども、それで渡せばいいんじゃないだろうか。
「それで、ほっぽり出したんですか?」
「うん」
「さとり様、泣いて帰ってこなければいいんんですが」
「……うん」
ぱん、と本を閉じて、なにを作るのか心に決めた表情でこいしは立ち上がる。
鼻歌を歌いながら、軽いステップでチョコレートを取り出す。
その横顔を見ながら、お燐は思う。
ずいぶん、感情を表に出すようになってきたなぁ、と。昔は本当に周りを突っ撥ねて、奇妙で奇行な言動で誰にも心を見せないようにしていたような印象だった。どこか恐ろしいのも、きっとそのせいだ。
それは、きっと心を閉じてしまった痕なのだろう。
だから、お燐にはそのような印象しかなかった。どこか恐怖を感じてしまうような、よくわからない印象。けれどさとりは違うと言った。だとするならばこちらの方が本当なのだろうか?
昔には絶対に戻れないけれど、こっちの方がまだ話が通じる。
意思の疎通ができる。
だからこそ、お燐は思うのだ。
新しい刺激に出会って、少なからずこいし様は変わった、と。
それがいい方向に向かうかはわからないけれど。
◆
往来が賑やかな旧都の大通り。
「妹に追い出されました」
と、さとりは呟いた。
旧都の店の間の石段に買い物袋を敷いて座り込んでいた。
隣に座った、たまたま買い物に来ていたパルスィが「はぁ」と呟いた。そして面倒だ、と思った。限りなくめんどくせえ奴に会った、と。そもそも今日は普通に買い物していたはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろうか? わけがわからない。
買い物をしていた→お互い出会った→捕まった。実にシンプルな構図だが、実に意味がわからなかった。しかし、不安そうにびくびくしながら買い物をしているような知り合いを見捨てるほどパルスィは器量が小さいわけでもない。ゆえに、この場にいるのは当然なのだ。
先を促すと、猫のように(さとりが)頷いて、語ってくれた。
そして(パルスィが)頷いた。
「うん、あんたが悪い」
「悪くないでしょう!?」
「いや、悪いわよ。なんで買い物に行ってないのよ。それも先月からでしょう?」
「その間、旧都は桃色地獄なんです。私にとって」
「なにさ……?」
「ほら、私、心が読めるじゃないですか。バレンタインは聖の日です。真昼間からそっち系の妄想でぱんぱんなんですよ。夜中に出るともっとすごいです」
「それなら十四日過ぎてから出りゃいいじゃない」
「そんな、とんでもない!」
大声を上げ、辺りを見回して、ちょこっと頬を赤くして座り直した。なにか読んだのだろうか。
「……だって、十四日は男性の期待で溢れています。それからは三月十四日への女性の期待で溢れています。そう言うことです」
「なるほど確かにそりゃ辛いわ」
「ええ、今だって大量に流れ込んできますよ」
「シャットアウトできないの?」
「心を閉じてしまうのは、なんか負けた気になるのでいやです」
「負けた気になるって……って言うか四六時中そんなこと考えてる奴っているの?」
それにはっとして、さとりは俯いて黙り込んだ。数秒後、顔を上げ、目を見開いて言った。目からうろこが落ちたと言うような表情だった。
「……盲点でした」
「決め付けかよ!」
「しょ、しょうがないでしょう! 昔実際あったんですから!」
「一回じゃない」
「結構何回もあったんです!」
「ああそう」
「ぐ、ぐぬ……」
「だったら、ほら、行けるじゃん」
「それもそうですね……」
よし、と膝を叩き渇を入れ、痛かった。摩りながらさとりは立ち上がる。持って来た買い物袋を持ち上げて、ぐっと伸びをする。
「それでは行きましょうか?」
「うん?」
「……手伝ってくれるのではないのですか?」
「なんで?」
「だって、また買い込むのも面倒でしょう?」
「また買い込む気か!?」
「だって、じゃないと……」
少しずつ震え始める。ちょっぴり涙目。今だってこの場所は桃色妄想地帯なのだ。三月十四日まで凌がなければならないのだ。
その様子を見て、パルスィはため息を吐いた。
自分、ちょっといい人過ぎるだろう、と。
「はぁ……ま、わかったわよ」
「ほんとですか!?」
見るからに顔を明るくさせて、さとりが詰め寄る。反射的に顔を反らした。
「ま、乗りかかった船だし、聞いちゃった後だし、ちょっとくらいなら、手伝ってあげてもいいわよ?」
言いわけするようにごにょごにょと呟いて、よっこらしょ、とおっさん臭い声で立ち上がるパルスィ。
感動で目を潤ませるさとり。
奇妙な光景に、地底の住人は首を傾げた。
「ますは八百屋さんに行きましょうか」
「え、勇儀んとこ?」
「ええ、あそこのは美味しいです」
「ふぅん、それもそうね」
「ところで、今日、食べていきません?」
「まじで?」
「もち」
◆
テーブルの上に巨大な影。
「あの、こいし様?」
「言わないで」
「いや、でも、これ」
お燐の目の前には、見上げるほどに巨大なチョコレートの塊があった。詳しく言えば、巨大な一個のハート型のチョコレートケーキである。何故ハート型なのか、と言うこともわからなければ、どうして全部一個に固めてしまったのかもわからなかった。
こいしは頭を掻く。
「いや、無意識怖いわー」
「無意識ってレベルじゃないですよね」
「たぶん、遅れたバレンタインチョコを渡そうとでも思ったんではないでしょーか。私の無意識がそれを望んでいたのよ、きっと、たぶん。だって姉妹で渡そうが別にいいじゃない。日ごろの感謝を込めて、みたいな? たぶん、もしかしたら」
少し赤い頬を隠すように笑いながら言う。
「曖昧ですねー」
「あいまいみーまいんよ」
「なんですかそれ?」
「いや知らない」
砂糖たっぷりの激甘チョコレートケーキ。全部食べたら鼻血は必至だろう。一気に食べる必要はないんだけど。しかし、これをどう保存するのか。
冷蔵庫には入らない大きさだし。
ペットたち全員集合すれば、いけるかもしれない。
いやでも……これは。
地霊殿が血霊殿になるかもしれない。鼻血地獄的な意味で。
「でも冷蔵庫の中は処分できたよ?」
「ええ、いつ帰ってきても安心ですね。さとり様が引っくり返らなきゃいいですけど」
「引っくり返ったらぱんつが見えるね」
「見なくていいですよ」
「それもそうだね」
無為に会話を続けていると、ばたばたとバタ子さんみたいに廊下を走る音が聞こえた。接近してくる。そして、キッチンの扉が勢いよく開かれた。
「ここかぁー! ってなにこれー!?」
匂いの元を辿ってきたお空が驚愕の声を上げた。こいしとお燐の姿を認めると、そちらに歩いていく。そして、先ほどの疑問を口にする。
「なにこれー!?」
「喧しいわ!」
べご、と必殺お燐の猫パンチ。手だけ猫の手に戻してのパンチ。威力はないに等しいが、肉球が絶大な効果をもたらす。一瞬で、驚いた顔がふにゃふにゃと緩んでいく。
そのまましばらくして、はっ、と正気に戻ったお空が聞く。
「……で、なにこれ?」
「バレンタインチョコの材料をかき集めて、冷蔵庫を空けるために作った。あたいじゃないよ、こいし様が」
「食べていいの?」
「さとり様が帰ってきたらね」
「はーい」
と行儀よく手を上げて、
「それじゃ、私、玄関に行って見とくね!」
走っていってしまった。
「……ふむ、お空はナイスタイミングだったのかもね」
「どう言うことです?」
「いや、ほら、よくあるじゃない。噂をすればなんとやらってやつよ」
「そう言うこと、ほら帰ってきた」
まるで予想していたように言う。
ある種の直感だろうか? 兄弟姉妹。しかも、心を覗く覚妖怪だ。きっと、深いところでは繋がってるんだろうな、とお燐は思った。
だからお互いがなんとなくわかるのだ。
無意識に、繋がっているのだから。
◆
「さとり様! 早く早く!」
帰ってきた途端、お空に急かされる。
こちとら重いもの持ってるんだから少し持ってもらいたいのだけれど、そんなことよりも目先のことが楽しみなようで、お空の瞳はきらきらしていた。
とりあえずさとりはお空に買い物袋を押し付けて、さとりは一緒にやってきたパルスィの買い物袋を持った。
「え、別に構わなくていいんだけど」
「客にまでものを持たせるわけにはいきませんよ」
「ま、それなら楽させてもらうけど」
「早くぅ!」
押し付けられた買い物袋を振りながら、お空は催促。さすが、非力な覚妖怪とは力の具合が違うらしい。
こいしはちゃんと処分したんだろうか?
そう思いながら、さとりはお空の後を追う。
ゆっくりふらふら歩く。
「ねぇ、やっぱ持とうか?」
「いえ、大丈夫です」
「見てて危なっかしいんだけど」
「大丈夫です!」
主張し、ぬん、と力を入れる。
そして脱力する。
覚妖怪。非力なり。
そうして歩く。
長い廊下。先が見えない。
「あのさ」
パルスィが背中に言葉を投げる。
ふらふら歩きながらもさとりは応答する。
「なんですか?」
ふらふらふら。
「あんたんち、廊下長くない?」
「だって邸なんですし」
ふらふらふらふら。
「住み難くない?」
「……言わないでください。仕方がないんです」
ふらふらふらふらふら。
「管理者だからって?」
「ええ、威厳のある場所に住みなさいって四季様が……」
ふらふらふらふらふらふら。
「大変ね。私は橋の下だってのに」
「嫌味ですか」
「べっつにー」
ふらふら、廊下の端に寄ったりしながら話す。寄る度に、パルスィは内心ハラハラし、さとりはその心を読んで羞恥に顔を染める。もう既に、お空の姿は見えない。
さすが普通の、動物の妖怪なだけあって、力はある。
しばらく歩いて、ようやく扉を見つけたときには、さとりは疲れきっていた。
汗だくだくで、扉の前に荷物を置いて、肩で息をしている。
「だから持とうか、って言ったのに」
「だ、だい、じょう、ぶなんです……客にものを持たせるなんてできませんし。たとえ親しくても」
「いや、こっちが心配になってくるんだけど。客に無用な心配をさせるって実際どうなのよ?」
「う……いや、それは……」
「まぁいいけど。開けるわよー」
「お、お願いします……」
パルスィが扉に手を掛け、一気に開いた。
甘い匂いが、まるで嵐のように圧倒的な勢いで、さとりとパルスィを包む。思わず目を瞑って、腕で防御をしてしまう。鼻を遡り、脳味噌に直接響くような、高密度の甘味の奔流。押し込まれた匂いが一気に解放されたのだ。その威力、相当なものだ。匂いは地霊殿を駆け巡り、それの存在を図らずとも知らせてくれる。ペットが集合するのも時間の問題であろう。
「な、なんですかこれ!?」
その声に振り向いたこいし(装備品:三角巾、エプロン)が言う。
「あ、お姉ちゃんおかえりー」
「あ、ただいま。じゃなくて、なによ、これ」
これ、とはもちろん、テーブルを占拠する巨大チョコレートケーキだ。
「ちょっと作り過ぎた?」
「ええ、ちょっとどころではなく」
「だよね」
「まぁ、いいんですが……」
買い物袋を置いたまま、ふらふらとテーブルに寄って、ケーキを見上げる。でかい。
「これを全部食べるとなると、今日の夕飯はいらないと思うのだけど……」
「あ、大丈夫ですよ。あたいらも食べますんで」
「はぁ……」
そこで、入り口で立ち尽くしていたパルスィもやって来る。
「あ、パルスィじゃん」
「お久しぶり、古明地の妹。これって私も食べていいの?」
「どうぞどうぞ、きっと余るし」
やれやれ、と思いながらも、パルスィは椅子を引き出して座る。
さとりはうろうろとしながらも、冷蔵庫を開け、中身が空っぽになっているのを確認した後、買い物袋を持って来た。中身を移しながら、お空を見つける。ケーキの横で、唾を飲み込みながら、突っ立っていた。手には買い物袋。呼んだらすぐに来た。
「さ、さとりさま、早く、食べましょう!」
「あなたの持ってるそれを渡してくれたら」
「は、はい、どうぞ!」
ずばっと渡されて、それを冷蔵庫に放り込む。
ぱたんと閉じて、一息吐く。
こいしがやって来る。さとりの傍に立って、人差し指を合わせながら、もじもじと言う。なにを緊張しているんだ、と思うかもしれないけれど、実際家族に日ごろの感謝とか伝えるのって、結構恥ずかしいものだ。
目をあっちこっちに向けながら、こいしは意を決した。
「え、っと、あのね。日ごろの感謝ってことで、ちょっと遅れたバレンタインデーってことで、どうかな?」
聞いて、さとりは目を丸くした。
そして、笑った。
だって、そんなこと今までなかった。心を閉じてしまってから、そんなことは今までなかったのだ。新しい刺激を与えてくれた人間に、感謝をしようと思った。
昔と同じようにとはいかないけれど、それでも、多少、相手のことを考えるようになったのだ。
それはちっぽけだけれど、大きな変化なのだ。
だから、さとりはそろりとこいしの頭に手をやった。
そのまま、力を入れて、撫でてやる。
「……子供扱いしないでよ」
「私なりに感謝を表したのだけど、いや?」
「いやじゃないけど……」
「じゃあ、いいじゃない」
少し不貞腐れたような表情で、けれどどこか嬉しそうに頬を緩ませて、それを受け入れるこいしであった。
しばらく撫でて、ペットたちがキッチンに突撃してきて、お空が催促して、早速ケーキを切り分けることにした。
きっとこのケーキは、とんでもなく甘いのだろう。
でも、きっと美味しいのだろうな、ぼんやりとさとりはそう思った。
[了]
思い返すように顎に手を当てて言った。
「バレンタインと言うイベントがあったわね」
それはもう一月前のことである。
ソファに仰向けになって、お腹にお燐を乗っけたこいしは、思わず「はぁ?」と漏らしてしまった。
バレンタイン=二月十四日にあったと言う、あのイベントであるが、しかし、この地霊殿においてそのような空気があったかと言うと、あまりなかった。二月十四日は、いつも通りの平常運行だった。まるでモテない学生のようであるが、それは関係ない。なによりさとりはバレンタインがあまり好きではなかったので家から出なかったし、そもそも部屋からさえも出なかった。
何故なら心の中が読める覚妖怪。
バレンタインの時期に旧都に繰り出せば、チョコレートよりも甘い心の中を見透かしてしまうこと必至なのだ。
だから家から出なかった。
しかし、家の中も安全とは言い難かった。ペットの存在がある。
人型に変化できるようになったペットは、やはり人間の風習に興味があるのか、チョコレートを作って渡しあったりした。変化できない普通のペットもチョコレートを食べた。ペットにチョコレートはだめだって? 地霊殿のペットは地獄の生物だから胃が強い。
部屋に篭って鍵を掛けて過ごしたのだ。
一歩でも外に出れば、らぶらぶであーんなことやこんなことをしている妄想を見せ付けられるのだ。
そんなもん堪ったもんじゃない。
だから、急にこんなことを言い出すのは、あってないようなことなのだ。たぶん。
「今さらどうしたの?」
ソファの縁に頭を乗せて、逆さまに姉に視線を向ける。
さとりは持っていた雑誌をこいしに向けた。
チョコ菓子の特集である。『愛しの彼のハートをゲット!!』そんな感じのキャッチコピーの下に、色とりどりのチョコレートが並んでいる。やけに凝ったものも多いけれど、こんなもの渡されたら、返す側が大変だろう、とこいしは思った。
そしてさとりは、くるりと雑誌の表紙を向ける。
二月の雑誌だった。
監修『水橋パルスィ』
さすが嫉妬心の塊である。こんな所で破滅させようと目論むとは恐ろしい。今度からはあの橋を渡るときは注意しよう。
雑誌を下げ、さとりは、
「チョコレートがね、あまってるのよ」
その言葉でようやく合点した。
地霊殿のペットの数は膨大である。
そして、そもそも動物は、あまり頭がよくない。
つまり、適当に大量にチョコレートを購入してしまい、冷蔵庫が埋まってしまったらしい。冷蔵庫の中身はチョコレート一色。
今日の晩御飯はチョコレートかしら? とこいしは妄想する。
チョコの煮付けにチョコの味噌汁にチョコのお浸し。ご飯はもちろんチョコフレーク。
嫌過ぎる夕飯だった。
それは置いといて。
「でもなんで今さら?」
「この間までは、大丈夫だったのよ。冷蔵庫の奥にあるの引っ張り出して使えばよかったから」
「ああ、夕飯の度に冷蔵庫の横に鎮座していた大量の茶色い物体はチョコレートだったの」
「でもね、後から後からチョコレートをぶちこんで、ようやく気がついたの。冷蔵庫になにも入らないってね」
「お姉ちゃん、質問いっこいい?」
はい、と手を上げる。
スカートが太ももまで捲くれている。反対側から見ればパンツが丸見えだろう。
「どうぞ」
びっと人差し指で刺す。物理的に。
「あのね、なんで今さら?」
「さっきから同じような質問ばっかりね」
「いやさ、お姉ちゃん、なに? 外出なかったの? ずっと?」
「出不精なんですよーだ。出不精と言ってもデブ症ではないのよ。私は細いわ」
「うん。聞いてない。それよりうちって買いだめだったの?」
「賞味期限は一週間までなら余裕よ」
「こら」
とりあえず頭にチョップ。
「なに? もしかしてずっとあれか、賞味期限切れのものだったの?」
「仕方がないのよ。バレンタインからホワイトデーまで、旧都の住人の脳内はまさに桃色空間なんですもの」
「頼めば良いじゃん! 誰かに!」
「おお」
ぽん、と手を打ち合わせた。
それを見て、ため息一つ。
それまで黙っていたお燐が「なぁ」と鳴いて欠伸をした。こいしは上半身を上げ、お燐を持ち上げて、目の前に持って来た。すっげー鬱陶しそうな顔。
「お燐お燐お願い。冷蔵庫の整理手伝って。じゃなきゃ今夜はチョコレート尽くしよ」
ひょいと手を振り払うように、お燐は跳んだ。
そしてくるりと回転して、床に立った瞬間には、もう人型だった。
「いいんじゃないですか? チョコレート尽くし」
「ところがどっこい」
「?」
「あれ、見て」
きっとお燐の脳内では、甘いお菓子が流れているのだろう。さとりの表情から明白だ。伊達に何年も姉妹やってきてるわけじゃないのだ。そもそもお燐の顔自体、若干緩んでるし。
しかしこいしは気がついていたのだ。
彼女の姉の隣に、積まれた本。
今読んでいるような雑誌の他に、普通の料理本も置いてある。
それが示すことはただ一つ。
「普通の料理に混ぜる気だよ、お姉ちゃん」
「そんな、まさか……」
「お燐、ありえないことはありえないの。お姉ちゃんだから」
「……じゃあ、まぁいいですが……」
「おっけー」
くるりとさとりに顔を向ける。首を傾げられた。
「そう言うわけで、お姉ちゃん、買出しよろしく!」
「いやよ! バレンタインからホワイトな日まで、延々甘々な妄想を垂れ流されるこっちの身になって考えなさい!」
「……私は、自分の仕出かしたことに、感謝した」
「妹がひどい! ……って言うかお燐がいるんだから、お燐に行かせればいいじゃない」
「だってお姉ちゃん、チョコレートで普通の料理作る気でしょ?」
「ええ」
「だからだよ!」
こいしの指がさとりの頬にめり込む。
その指を、掴んで、逃れながらさとりは弁解の言葉を探す。
しかし、ついさっき自分の心の内を言ってしまったからには、どの言葉も、なんの説得力も持たないのだ。
「し、しかし!」
「なに?」
「ブラッディバレンタインと言うものがあります! 危ないです!」
「シカゴマフィアの?」
「はい」
頷いた。
「ずいぶん昔の話じゃん。大丈夫。大丈夫。もうバレンタインとかとっくに終わってるし」
「バレンタインには血を見るのよ」
「チョコレートの食べすぎだね」
「え、ええ、ぇええ……っと」
「はい、いってらっしゃい」
「…………はい」
◆
「さってと」
きゅ、と三角巾を頭に結び、エプロンを付けて、こいしはキッチンに立った。
そのまま鼻歌でも歌いだしそうなステップを踏み、冷蔵庫の扉を開ける。みっちり詰まった茶色い物体。くるりと紙で包まれたチョコレートの山。山。山。積み上げられて、崩壊もかくやと言うほどなのに、それは絶妙なバランスを持って鎮座していた。
「うわぁ……」
そして、同じように三角巾とエプロンを装備したお燐に振り向き、
「どんだけ買ったのよ……?」
「いやね、邸中のペットの数を考えるとね、こうなるわけですよ」
しれっとした顔の中に幾分かの申しわけなさを包んだ奇妙な表情でお燐は言う。
「まぁいいけど。さっさと消費しちゃおうよ。どの道、冷蔵庫に空きを作らないといけないんだから」
「誰も買出しに行かなかったって言うこともありますしね。でもいいんですか? さとり様、買出しに行かせちゃって」
「大丈夫じゃない? そんな桃色妄想領域なんて、どうせそんなに持続しないって」
「泣いてましたけど」
「たぶん勘違いだから大丈夫」
ふむ、と顎に指を当て、思考する。一応姉の持っていた本は傍のテーブルの上に置いてある。だからこそレシピには困らないのだ。
困らないからこそ、困る。
さて膨大な量のチョコレート菓子の中からなにを作ろうか、っと。
椅子を引き出し、座り、肘を着きぱらりとページを捲る。
捲ったところで、一つ疑問が生まれた。
材料、あるかなぁ?
なかったら、チョコレートを固めよう。
それが手っ取り早い。でっかいハート型のチョコレート。
「それにしても」
とお燐は疑問を口にする。
「どうして作ろうなんて思うんですか? そのまま処分すればいいのに」
処分とはもちろん、そのまま全部食べればいいと言うことだ。
「だってそれじゃ、詰まらないじゃない」
「いや、これ全部溶かすのって、手間じゃないですか」
「いいの。作りたいんだから」
それに、とこいしは俯くようにして付け加える。
「たまには、ほら、いっつも作ってもらってばっかだし、だから、ほら、今日とか、なにか作るチャンスじゃない」
今さっき思い付いたのだけれど。
そもそもバレンタインと言う行事自体、あまり興味がなかった。
しかし、その雑誌には、気になる事実もあったのだ。家族への日ごろの感謝を込めて、そんな用途で渡してもいいらしい。ちょっと遅れたけれども、それで渡せばいいんじゃないだろうか。
「それで、ほっぽり出したんですか?」
「うん」
「さとり様、泣いて帰ってこなければいいんんですが」
「……うん」
ぱん、と本を閉じて、なにを作るのか心に決めた表情でこいしは立ち上がる。
鼻歌を歌いながら、軽いステップでチョコレートを取り出す。
その横顔を見ながら、お燐は思う。
ずいぶん、感情を表に出すようになってきたなぁ、と。昔は本当に周りを突っ撥ねて、奇妙で奇行な言動で誰にも心を見せないようにしていたような印象だった。どこか恐ろしいのも、きっとそのせいだ。
それは、きっと心を閉じてしまった痕なのだろう。
だから、お燐にはそのような印象しかなかった。どこか恐怖を感じてしまうような、よくわからない印象。けれどさとりは違うと言った。だとするならばこちらの方が本当なのだろうか?
昔には絶対に戻れないけれど、こっちの方がまだ話が通じる。
意思の疎通ができる。
だからこそ、お燐は思うのだ。
新しい刺激に出会って、少なからずこいし様は変わった、と。
それがいい方向に向かうかはわからないけれど。
◆
往来が賑やかな旧都の大通り。
「妹に追い出されました」
と、さとりは呟いた。
旧都の店の間の石段に買い物袋を敷いて座り込んでいた。
隣に座った、たまたま買い物に来ていたパルスィが「はぁ」と呟いた。そして面倒だ、と思った。限りなくめんどくせえ奴に会った、と。そもそも今日は普通に買い物していたはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろうか? わけがわからない。
買い物をしていた→お互い出会った→捕まった。実にシンプルな構図だが、実に意味がわからなかった。しかし、不安そうにびくびくしながら買い物をしているような知り合いを見捨てるほどパルスィは器量が小さいわけでもない。ゆえに、この場にいるのは当然なのだ。
先を促すと、猫のように(さとりが)頷いて、語ってくれた。
そして(パルスィが)頷いた。
「うん、あんたが悪い」
「悪くないでしょう!?」
「いや、悪いわよ。なんで買い物に行ってないのよ。それも先月からでしょう?」
「その間、旧都は桃色地獄なんです。私にとって」
「なにさ……?」
「ほら、私、心が読めるじゃないですか。バレンタインは聖の日です。真昼間からそっち系の妄想でぱんぱんなんですよ。夜中に出るともっとすごいです」
「それなら十四日過ぎてから出りゃいいじゃない」
「そんな、とんでもない!」
大声を上げ、辺りを見回して、ちょこっと頬を赤くして座り直した。なにか読んだのだろうか。
「……だって、十四日は男性の期待で溢れています。それからは三月十四日への女性の期待で溢れています。そう言うことです」
「なるほど確かにそりゃ辛いわ」
「ええ、今だって大量に流れ込んできますよ」
「シャットアウトできないの?」
「心を閉じてしまうのは、なんか負けた気になるのでいやです」
「負けた気になるって……って言うか四六時中そんなこと考えてる奴っているの?」
それにはっとして、さとりは俯いて黙り込んだ。数秒後、顔を上げ、目を見開いて言った。目からうろこが落ちたと言うような表情だった。
「……盲点でした」
「決め付けかよ!」
「しょ、しょうがないでしょう! 昔実際あったんですから!」
「一回じゃない」
「結構何回もあったんです!」
「ああそう」
「ぐ、ぐぬ……」
「だったら、ほら、行けるじゃん」
「それもそうですね……」
よし、と膝を叩き渇を入れ、痛かった。摩りながらさとりは立ち上がる。持って来た買い物袋を持ち上げて、ぐっと伸びをする。
「それでは行きましょうか?」
「うん?」
「……手伝ってくれるのではないのですか?」
「なんで?」
「だって、また買い込むのも面倒でしょう?」
「また買い込む気か!?」
「だって、じゃないと……」
少しずつ震え始める。ちょっぴり涙目。今だってこの場所は桃色妄想地帯なのだ。三月十四日まで凌がなければならないのだ。
その様子を見て、パルスィはため息を吐いた。
自分、ちょっといい人過ぎるだろう、と。
「はぁ……ま、わかったわよ」
「ほんとですか!?」
見るからに顔を明るくさせて、さとりが詰め寄る。反射的に顔を反らした。
「ま、乗りかかった船だし、聞いちゃった後だし、ちょっとくらいなら、手伝ってあげてもいいわよ?」
言いわけするようにごにょごにょと呟いて、よっこらしょ、とおっさん臭い声で立ち上がるパルスィ。
感動で目を潤ませるさとり。
奇妙な光景に、地底の住人は首を傾げた。
「ますは八百屋さんに行きましょうか」
「え、勇儀んとこ?」
「ええ、あそこのは美味しいです」
「ふぅん、それもそうね」
「ところで、今日、食べていきません?」
「まじで?」
「もち」
◆
テーブルの上に巨大な影。
「あの、こいし様?」
「言わないで」
「いや、でも、これ」
お燐の目の前には、見上げるほどに巨大なチョコレートの塊があった。詳しく言えば、巨大な一個のハート型のチョコレートケーキである。何故ハート型なのか、と言うこともわからなければ、どうして全部一個に固めてしまったのかもわからなかった。
こいしは頭を掻く。
「いや、無意識怖いわー」
「無意識ってレベルじゃないですよね」
「たぶん、遅れたバレンタインチョコを渡そうとでも思ったんではないでしょーか。私の無意識がそれを望んでいたのよ、きっと、たぶん。だって姉妹で渡そうが別にいいじゃない。日ごろの感謝を込めて、みたいな? たぶん、もしかしたら」
少し赤い頬を隠すように笑いながら言う。
「曖昧ですねー」
「あいまいみーまいんよ」
「なんですかそれ?」
「いや知らない」
砂糖たっぷりの激甘チョコレートケーキ。全部食べたら鼻血は必至だろう。一気に食べる必要はないんだけど。しかし、これをどう保存するのか。
冷蔵庫には入らない大きさだし。
ペットたち全員集合すれば、いけるかもしれない。
いやでも……これは。
地霊殿が血霊殿になるかもしれない。鼻血地獄的な意味で。
「でも冷蔵庫の中は処分できたよ?」
「ええ、いつ帰ってきても安心ですね。さとり様が引っくり返らなきゃいいですけど」
「引っくり返ったらぱんつが見えるね」
「見なくていいですよ」
「それもそうだね」
無為に会話を続けていると、ばたばたとバタ子さんみたいに廊下を走る音が聞こえた。接近してくる。そして、キッチンの扉が勢いよく開かれた。
「ここかぁー! ってなにこれー!?」
匂いの元を辿ってきたお空が驚愕の声を上げた。こいしとお燐の姿を認めると、そちらに歩いていく。そして、先ほどの疑問を口にする。
「なにこれー!?」
「喧しいわ!」
べご、と必殺お燐の猫パンチ。手だけ猫の手に戻してのパンチ。威力はないに等しいが、肉球が絶大な効果をもたらす。一瞬で、驚いた顔がふにゃふにゃと緩んでいく。
そのまましばらくして、はっ、と正気に戻ったお空が聞く。
「……で、なにこれ?」
「バレンタインチョコの材料をかき集めて、冷蔵庫を空けるために作った。あたいじゃないよ、こいし様が」
「食べていいの?」
「さとり様が帰ってきたらね」
「はーい」
と行儀よく手を上げて、
「それじゃ、私、玄関に行って見とくね!」
走っていってしまった。
「……ふむ、お空はナイスタイミングだったのかもね」
「どう言うことです?」
「いや、ほら、よくあるじゃない。噂をすればなんとやらってやつよ」
「そう言うこと、ほら帰ってきた」
まるで予想していたように言う。
ある種の直感だろうか? 兄弟姉妹。しかも、心を覗く覚妖怪だ。きっと、深いところでは繋がってるんだろうな、とお燐は思った。
だからお互いがなんとなくわかるのだ。
無意識に、繋がっているのだから。
◆
「さとり様! 早く早く!」
帰ってきた途端、お空に急かされる。
こちとら重いもの持ってるんだから少し持ってもらいたいのだけれど、そんなことよりも目先のことが楽しみなようで、お空の瞳はきらきらしていた。
とりあえずさとりはお空に買い物袋を押し付けて、さとりは一緒にやってきたパルスィの買い物袋を持った。
「え、別に構わなくていいんだけど」
「客にまでものを持たせるわけにはいきませんよ」
「ま、それなら楽させてもらうけど」
「早くぅ!」
押し付けられた買い物袋を振りながら、お空は催促。さすが、非力な覚妖怪とは力の具合が違うらしい。
こいしはちゃんと処分したんだろうか?
そう思いながら、さとりはお空の後を追う。
ゆっくりふらふら歩く。
「ねぇ、やっぱ持とうか?」
「いえ、大丈夫です」
「見てて危なっかしいんだけど」
「大丈夫です!」
主張し、ぬん、と力を入れる。
そして脱力する。
覚妖怪。非力なり。
そうして歩く。
長い廊下。先が見えない。
「あのさ」
パルスィが背中に言葉を投げる。
ふらふら歩きながらもさとりは応答する。
「なんですか?」
ふらふらふら。
「あんたんち、廊下長くない?」
「だって邸なんですし」
ふらふらふらふら。
「住み難くない?」
「……言わないでください。仕方がないんです」
ふらふらふらふらふら。
「管理者だからって?」
「ええ、威厳のある場所に住みなさいって四季様が……」
ふらふらふらふらふらふら。
「大変ね。私は橋の下だってのに」
「嫌味ですか」
「べっつにー」
ふらふら、廊下の端に寄ったりしながら話す。寄る度に、パルスィは内心ハラハラし、さとりはその心を読んで羞恥に顔を染める。もう既に、お空の姿は見えない。
さすが普通の、動物の妖怪なだけあって、力はある。
しばらく歩いて、ようやく扉を見つけたときには、さとりは疲れきっていた。
汗だくだくで、扉の前に荷物を置いて、肩で息をしている。
「だから持とうか、って言ったのに」
「だ、だい、じょう、ぶなんです……客にものを持たせるなんてできませんし。たとえ親しくても」
「いや、こっちが心配になってくるんだけど。客に無用な心配をさせるって実際どうなのよ?」
「う……いや、それは……」
「まぁいいけど。開けるわよー」
「お、お願いします……」
パルスィが扉に手を掛け、一気に開いた。
甘い匂いが、まるで嵐のように圧倒的な勢いで、さとりとパルスィを包む。思わず目を瞑って、腕で防御をしてしまう。鼻を遡り、脳味噌に直接響くような、高密度の甘味の奔流。押し込まれた匂いが一気に解放されたのだ。その威力、相当なものだ。匂いは地霊殿を駆け巡り、それの存在を図らずとも知らせてくれる。ペットが集合するのも時間の問題であろう。
「な、なんですかこれ!?」
その声に振り向いたこいし(装備品:三角巾、エプロン)が言う。
「あ、お姉ちゃんおかえりー」
「あ、ただいま。じゃなくて、なによ、これ」
これ、とはもちろん、テーブルを占拠する巨大チョコレートケーキだ。
「ちょっと作り過ぎた?」
「ええ、ちょっとどころではなく」
「だよね」
「まぁ、いいんですが……」
買い物袋を置いたまま、ふらふらとテーブルに寄って、ケーキを見上げる。でかい。
「これを全部食べるとなると、今日の夕飯はいらないと思うのだけど……」
「あ、大丈夫ですよ。あたいらも食べますんで」
「はぁ……」
そこで、入り口で立ち尽くしていたパルスィもやって来る。
「あ、パルスィじゃん」
「お久しぶり、古明地の妹。これって私も食べていいの?」
「どうぞどうぞ、きっと余るし」
やれやれ、と思いながらも、パルスィは椅子を引き出して座る。
さとりはうろうろとしながらも、冷蔵庫を開け、中身が空っぽになっているのを確認した後、買い物袋を持って来た。中身を移しながら、お空を見つける。ケーキの横で、唾を飲み込みながら、突っ立っていた。手には買い物袋。呼んだらすぐに来た。
「さ、さとりさま、早く、食べましょう!」
「あなたの持ってるそれを渡してくれたら」
「は、はい、どうぞ!」
ずばっと渡されて、それを冷蔵庫に放り込む。
ぱたんと閉じて、一息吐く。
こいしがやって来る。さとりの傍に立って、人差し指を合わせながら、もじもじと言う。なにを緊張しているんだ、と思うかもしれないけれど、実際家族に日ごろの感謝とか伝えるのって、結構恥ずかしいものだ。
目をあっちこっちに向けながら、こいしは意を決した。
「え、っと、あのね。日ごろの感謝ってことで、ちょっと遅れたバレンタインデーってことで、どうかな?」
聞いて、さとりは目を丸くした。
そして、笑った。
だって、そんなこと今までなかった。心を閉じてしまってから、そんなことは今までなかったのだ。新しい刺激を与えてくれた人間に、感謝をしようと思った。
昔と同じようにとはいかないけれど、それでも、多少、相手のことを考えるようになったのだ。
それはちっぽけだけれど、大きな変化なのだ。
だから、さとりはそろりとこいしの頭に手をやった。
そのまま、力を入れて、撫でてやる。
「……子供扱いしないでよ」
「私なりに感謝を表したのだけど、いや?」
「いやじゃないけど……」
「じゃあ、いいじゃない」
少し不貞腐れたような表情で、けれどどこか嬉しそうに頬を緩ませて、それを受け入れるこいしであった。
しばらく撫でて、ペットたちがキッチンに突撃してきて、お空が催促して、早速ケーキを切り分けることにした。
きっとこのケーキは、とんでもなく甘いのだろう。
でも、きっと美味しいのだろうな、ぼんやりとさとりはそう思った。
[了]
パルスィいいひとすぐる