《文々。新聞速報!!》
・白狼天狗の椛に、子供が生まれる!?
某月某日、清く正しく美しい記者である私が白狼天狗達のたまり場へ向かった所、馴染みの天狗である椛(×××歳)が子供を抱えており――
――もちろん虚偽の記事である。しかし事実無根、というわけでもない。
『大胆不敵』たる不遜な笑顔に『烏の濡羽色』の艷めく髪。靡く赤いマフラーと、手にはトレードマークのメモ帳とペンを抱えた少女。
幻想郷において知る人ぞ知る烏天狗――射命丸文。彼女は新聞を書く事で有名であり、先の独白も、眼前の光景に対する文なりの表現法なのだ。
「どうしたのでありますか文さま。鴉が『鳩が豆鉄砲を喰らったような顔』とはこれ如何に。ああ、烏賊という文字にも烏という漢字がありますね」
対するのは『慇懃無礼』な態度と白い髪――そして髪の隙間から生える犬の耳。揃いの赤いマフラーと大きな刀を携えた少女。
白狼天狗の犬走椛が、精一杯からかうような口調で言った。
ちなみに「烏賊」は『烏にとっての賊』という意味なので、烏と無関係というわけではない。
「羊頭狗肉が何を言うの。それで椛、『それ』どうしたのよ」
文が指差す先、そこには――
「……わふ?」
椛の腕の中で小首を傾げる、白い子犬の姿があった。
今まで幻想郷でみた事のない種類の犬だ。白い毛並みは薄汚れており、見る者にどことなく哀れさを感じさせる。
「はて、わたくしはこの子犬を昨日拾った、というだけの事でありますが?」
それがどうかしたのですか?――と言わんばかりに椛が小首を傾げて見せた。
そうこの日、文が白狼天狗達のたまり場を訪れた。そこで子犬を拾ったらしい椛の姿があった――話はたったそれだけの事である。
「そりゃ驚くに決まっているでしょう。『狼は気高い。人と馴れ合う犬とは違うのだ』って偉そうに言ってたアンタがそれ、どうしたの」
文にとって白狼天狗はプライドの高い妖怪という認識だ。それが普段の言を取り消して犬を飼うなど珍しい事なのだ。
現に椛も、前言撤回した者特有の気後れしたような様子がない。
「昨日、山を巡回していた所、この子がたった一人で迷っていたのを見つけたのでありますよ」
「ふむ、通りで薄汚れているわけね」
それで?と文がアイコンタクトで先を促す。
「つまりこの子は親がいないのでありまして……こんな子犬を見捨てるのも情がないと思ったのですよ。関係のない子供だろうと、独りで困っているのなら助けてやるでしょう?」
誇らしげに言う椛――そして嬉しそうに尻尾を降る子犬。何だかんだで椛も面倒見がよいのだ。
「でも椛、大天狗様のお許しは得たのかしら? 犬の世話にかまけて職務を怠っては……」
「すでに許可は貰っております!! この子の世話も哨戒任務に支障を出さずに行うと誓いました!!」
文の嫌味に対し威勢良く返事をする椛。
どうしてこんなにこの犬を気に入っているのだろう――不思議に思いながら、文が子犬に手を伸ばす。
すると、
「はふっ!!」
「ひゃあっ!?」
子犬にぱくりと指を咥えられ、あられもない声を出してしまったのだった。
「うぇ……くすぐったい」
指を舐め回され渋面を浮かべる文。犬の舌はざらつき感が強いため、舐められた時のくすぐったい感覚も一際なのだ。
当の子犬はと言えば、相手が凄まじい力を持つ妖怪だとも知らず、呑気に文の指を舐めまわしていた。
「しかしなかなか、これはこれで可愛い……」
慣れてしまえば文も満足気。椛に飼わせるのも勿体ないかもとまで思ったりもする。
そこで何を思ったか、文は何かを探すように視線を左右に彷徨わせた後、おもむろに自身のマフラーを解きだした。
「まあ折角だし、お前にこれをあげましょう」
そう言って子犬の首から胴を覆うように赤いマフラーを巻いてやる。子犬の白い毛に赤がよく映え、大層似合っていた。
物を貰った事が嬉しいのか、子犬も文の腕を舐め――それを羨ましそうに、椛が眺める。
「……文様、良かったではありませんか、どうやらこの子に好かれたようで。鶏肉が好みなんでしょうか」
「……この犬の前に、飼い主に躾が必要みたいね。ちょっと表に出なさい」
子犬に舐められていた指を懐へ突っ込み、そこから取り出したモノ――スペルカード。
幻想郷における耽美な遊びにして喧嘩の手段、弾幕ごっこの宣戦布告である。
「構いません、ここでわたくしが勝った場合、この子を飼う事に文句も出させませんよ!!」
抜刀――椛が刀とスペルカードを引き抜き、高々と空へとかざす。子犬は椛の腕の中から飛び降り、慌てて遠くへと逃げていった。
彼女たちの剣呑な雰囲気に気づき、周囲の白狼天狗たちや遊びに来ていた河童たちが騒ぎ出す――「喧嘩か、いいぞ、もっとやれ」と。
文はその囃声に応じるように、不敵な笑みと共に宣告した。
「では私が勝ったらひとつ、言う事を聞いてもらおうじゃない。――スペルカード『風符「天狗道の開風」』!!」
「上等、であります!! スペルカード、『猟犬「鋭角より迫る刺客」』!!」
――そんな、いつもの幻想郷の風景。しかし子犬は初めて見るその美しい光景に、尻尾を小気味よく振っていた。
●●●
「おーい、もみじー!! 御主人様が、この清く正しく美しい文が来ましたよー!!」
翌日/洞窟を利用した白狼天狗たちのたまり場に、文の威勢良い声が響き渡った。
そして続くように近づく足音――小さな影。
「わんっ」
マフラーを靡かせ文の足元に駆け寄り、威勢よく吠える件の子犬。腰を屈めて文はその頭を撫でてやる。
「よしよし、キミはいい子ですねぇ。無闇に吠えない噛み付かない名犬ですよ。――そう思うでしょう、椛?」
「文様、何故わたくしには敬語を使ってくれないのでありますか……」
子犬の後を追うようにして現れたのは椛だ。頬を膨らませ唇を尖らせたその表情=「わたくし、とても不機嫌ですよ?」の証。
それもそうだろう――自分が飼っている犬の名前を文に決められ、挙句自分と同姓同名の名前にされてしまってはたまったものではない。
「ん? もみじは良い子だから敬語を使うに決まってるじゃない。本当にもみじは可愛くて私想いの良い子だわ」
「い、いきなりそんなくすぐったくなる事をっ。歯が浮く!!」
文の甘言に身悶えする椛――実直な性格も考えものである。
「可愛いだけでなくこの凛々しい顔立ちも良いもので、まさに絶世の美犬ね」
「犬……ああ、そっちの子の話でしたか」
「違うわ、椛の話よ」
「うええ!? そんな、照れてしまうのであり――いや、でもそれってつまりわたくしを犬呼ばわりしてるではありませんか!!」
頬を朱に染めて照れたり、顔を赤くして怒ったりと椛も忙しない様子である。
実にいぢりがいがある――文の所感。幻想郷のブン屋は大層性格が弄れていた。
「ああごめんごめん、間違えたわね。椛じゃなくてもみじの話よ」
「本当にそうなのでありますか……? もうこれ以上からかったら怒りますよ?」
「ええ、山頂にいる二柱の神に誓ったほうがいい? 『犬走椛は射命丸文に対して不躾で、別に凛々しくも可愛くもない』って」
口元を手で抑えながら、にやりと文が笑った。
対する椛はいろいろな感情が混じり合った複雑な顔をしている。否定してもしなくても都合の悪い解釈をされてしまうのだから。
「しかしスムーズすぎて楽しくないわね。こう、もっと読者を楽しませられる展開を見せなさい椛」
「読者って何の話ですか……」
「文々。新聞の読者に決まっているじゃない。他に読者を指す相手がいるってわけ?」
文がそう返すと、椛は小馬鹿にしたように鼻で笑った――「文々。新聞に読者がいるのですか?」と言わんばかりに。
現に、インチキ新聞などと揶揄され読者は極々少数なのだが。
何と失礼な、もっと椛をイジメてお返ししてやろうと文が再び口を開きかけた所で――
「……」
足元で悲しげな顔をする子犬――尻尾もしゅんと垂れ下がりいかにも物悲しい雰囲気を発散していた。
もうやめてよ、と言っているかのようだ。
それを見た椛は我が意を得たりと、自信ありげな表情を浮かべた。
「ほら文様、この子もわたくしの味方をしてくれますよ? これが信頼というものです」
「ホントにアンタ達仲がいいわね……。まあ、良い方の“もみじ”に免じてここいらで勘弁してあげるわ」
手のひらを上に向け肩を竦める「やれやれ」ジェスチャーの文。どことなく椛も子犬もほっとした様子だった。
犬は飼い主に似るという言葉を思い出さずにはいられまい。
「時に椛、この子の餌はどうしているわけ? 人肉?」
「どこぞの低級な闇妖怪じゃあるまいし……。にとりに人里から牛の干し肉や骨を貰ってきてもらったのであります」
椛が人差し指を伸ばした先――大きな布包み。干し肉がたんと詰まっているだろうに、河童の技術が使用されているのか生臭さは感じられなかった。
「なるほど、人間と仲が良い河童の手を借りたわけね」
「ええ。わたくしが人里に降りると人間が怯えてしまいます。妖怪冥利に尽きるものですね」
椛はそう言って、誇らしげに胸を張った。
「あやや、牛の干し肉とはなかなか良いもの食べさせてるじゃない。ひとつ私も食べちゃおうかしら」
言うやいなや許可もなく、うきうき気分で勝手に布包みを漁る文――それに椛&子犬が異議を唱える。
「異議あり!!であります。それの代金はわたくしが全額出しているわけでして、勝手に食べて欲しくないですよ!!」
椛がそう吠え
「はっ、はっ、はっ……」
子犬が物欲しそうにヨダレを垂らしていた。
文は干し肉を齧り――「話を聞いてください!!」と椛が悲鳴を上げた――肉片を唇で咥える。そして膝を屈めて唇を子犬へと突き出した。
「んー♪」
「はふ!!」
干し肉を一心不乱に舐め回す子犬と、それを満面の笑みで受け止める文。犬とのキスにご満悦である。
ちなみに『犬とのキスはバイ菌が云々なので推奨されません』なんて注意は無用――あくまで彼女は妖怪だ。
ともあれ微笑ましいその光景に、椛はまたもや顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あわわわ、文様ってばなんて羨ましい事を!!」
「うふふふふー。羨ましいなら椛もする?」
にやりと、文が妖しく笑った。子犬を抱えて立ち上がり、正面から椛の顔を見据える。
椛はと言えば深く考えた様子もなく、「わたくしもしたいです!!」と拳を握りしめて熱弁。
「そう。それじゃあ、同じ事をしてあげる」
――文がその唇を、椛の唇に向かって押し付けた。
「みゅ――!?」
椛の驚愕。そして危機に対し反射的に身を引こうとする彼女を、文が片腕で抱きしめて妨害する。
「んー、んむぅー♪」
「むうううううう!?!?」
長い長い口づけ――ジタバタと藻掻いていた椛も、次第に身体から力が抜けてゆき成されるがままに。
そして濃厚なキスを堪能した後、ようやく文がその身を離した。
「ふぅ。どうしたの椛、四つん這いになって犬の真似事?」
ヨダレを拭きながら文が問う。
すると解放された瞬間に地へと四足をつけた椛がきっとなって面を挙げ、吠えた。
「いいいい、一体いきなり何をするのでありますか!!」
「ナニってそりゃ、『私もします』って言ったから“もみじ”と同じ事をしてあげたんじゃない」
文が飄然と断言した。
椛の最初の認識――「子犬と」舐め合いっこをする、という意味での『同じ事をする』
しかし文の口にした真相は――「文と」舐め合いっこをするという意味。わざと曖昧に言ったわけである。
「……それは詐欺というものですよぅ」
がくりと、椛がうな垂れた。
対して、椛の様子にホクホク顔な文――何歳になっても、他人をからかって遊ぶのは愉快なものだ。
「さて、と。十分暇は潰せたし、今日はこの辺で帰るとしますか。椛も“もみじ”も元気でね」
烏天狗、風を操り幻想郷のブン屋として知られる射命丸文。
そして代名詞たる『風神少女』の言葉の通り――彼女は『嵐のように現れて』、『風と共に去りぬ』だ。
ふと見上げてみれば、空が曇り始めていた。
●●●
――そしてその日の風は、異様なまでに荒れ狂っていた。
それは轟然と猛り、叩きつける雨は熱を奪い、あらゆるモノをその腕で攫う。
嵐が、幻想郷にきていた。
「面倒な……嵐の中飛ぶのも大変だってのに。スカートがめくれそうになっちゃうし」
その暴力的な嵐の空を悠然と文が飛ぶ。その細い身体で何故、というほど突風を諸共せず、呑気にスカートの裾を気にしている様は流石といった所か。
風の衣を纏っているので雨にすら濡れる事なく、白狼天狗たちの溜まり場に到着した。
「“もみじ”ー!! どこに行ったのでありますかー!?」
文を迎えたのは、そんな椛の叫び声だった。洞窟内を駆けまわり声を張り上げ、文が来ている事にも気づいていない様子。
通り過ぎざまに文がその背中に、声をかけた。
「どうしたの椛、“もみじ”に愛想尽かされて家出でもされた?」
その一言に、ピタリと椛の足が止まる。
そしてゆっくり振り返った彼女の顔に、文は仰天させられるハメになった。
「あやさまぁ……」
そこにあったのは、声を震わせ泣きべそをかいた椛の顔。
「ちょ、も、椛?」
滅多に見せない椛の弱々しい顔に、文も狼狽を隠せない。おろおろと両手を彷徨わせるばかりで何も言えず、何もできない。
「家出……あの子が、“もみじ”がぁ、いなくなっちゃったのであります……っ!!」
「いなくなったってアンタ、よりにもよってこんな天気で?」
「洞窟のどこを探しても見当たりませんし、同僚も見てないって」
白狼天狗――仮にも狼の属性を備えた妖怪が誰一人見つけられていないなら、洞窟の中にはいない事になる。
つまり子犬はここを出て、山へと出て行った他にないのだ。この大嵐の中で。
「……これはダメね。椛、諦めなさい」
冷淡に――風が吹き付けるような冷たさで、文は断言した。
一人前の野犬ならまだしも、野生に慣れていないただの子犬が嵐から身を守る方法を知るはずがない。
その極めて妥当な言葉に、椛は食って掛かる。
「で、でも探しに行きましょうよ!! わたくし達ならきっと……」
「それはそうでしょうよ。アンタの哨戒スキルと、私の『風を操る程度の能力』があればね」
なら――そう言おうと身を乗り出す椛を制し、文は続けた。
「でも私はそこまでする義理がないわ。嵐の中苦しむ動物を全部救うって言うなら、まあ道楽になるけど……犬一匹になんでムキになるのやら」
妖怪の途方もなく長い生涯、犬一匹の生死に頓着する理由がない。
そもそもどうして、この短期間で椛は子犬にそこまで愛着を抱いているのか――文にはそれが不思議でならなかった。
「まあ可愛い子だったし残念だけど、仕方ないわね」
最後にそう言って、文は椛に背を向け洞窟の奥へと去ろうとする。
――そこに、手を引かれる感触。
「ま、待ってください文様」
椛は、真剣な顔をしていた。
文の腕を握る力も強く、その手には確かな意思が宿っていた。
「あの子は、幻想郷に――幻の存在、夢の存在しか入れないこの世界に放り出されて迷子になっていたのです」
「ああ、そういえばそんな事を言ってたわね」
「つまりそれって、この子は外の世界で誰からも愛されてなかったって事でありますよ。……生まれた時からずっと、独りだったに違いないのです」
生まれた時からずっと孤独を生きる者。
妖怪が人から信じられる事で現に顕れるのなら、実体を持つ者も世界から忘れられる事で幻想と化す。
――それがすなわち、幻想入り。
「そんな天涯孤独な子をわたくし達が見捨てたらダメであります。幻想郷にいるのに、あの子はまた幻想となって消えてしまうようなものです。――全てを受け入れるのがここの在り方ではないのですか……?」
椛の懇願――あるいは祈り。外の世界で忘れ去られた妖怪だからこその、願い。
《関係のない子供だろうと、独りで困っているのなら助けてやるでしょう?》
以前の椛の言葉――そう、関係がなかったのではない。幻想郷の住人は皆同じ物を抱えた同類なのだ。
その意識が面倒見の良い椛には一際強かったからこそ、あの子犬にここまで執着しているのだ。
「文様お願い致します。全ての責任はこの椛が負いますので、どうか貴女のお力をお貸し下さい」
とうとう深々と頭まで下げ出す椛に文が逡巡した。
その数秒の後――ぽつりと一言、こう零した。
「どれだけ丁寧に言ってもダメ。私はもう帰るわよ」
掴む手を振りほどき、洞窟の外へと歩を進める。
「ああ椛、外に出てあの子犬を探す事は禁止――上官命令です」
「そん、な……」
去り際に釘まで刺され、椛の顔に浮かぶ絶望――悔しそうに歯を食いしばり、目が涙で潤む。
それでも文は、最後まで振り返ったりしなかった。
●●●
「ああ、どこに行ったってのよもう!!」
暴風に紛れる、苛立たしげな叫び――自身のそれを追い越す凄まじい速さで飛ぶ者。
射命丸文だ。音を超える速度で飛翔するその様は、鎌鼬といった風情である。
そんな高速飛行の中でも彼女の目は地上を見渡している。緑と山肌の土色の中に、白が見当たらないかと目を凝らす。
「“もみじ”ー!! 早く出てきなさいってばーっ!!」
文は、白い子犬、通称“もみじ”を、探していた。
どうしてわざわざ椛に辛辣な言葉をかけておきながらこんな事をするのか――それは彼女が『素直でない』からとしか言いようがない。
例えば、もし椛が子犬の亡骸を見つけてしまった場合、どれだけ悲しむかという事を考えてしまった、という所だ。
「ああもう、どうして私がこんな事をしなきゃならないってのよ」
ブツクサ文句を口にしつつも速度を上げ、本気で捜索にかかる文。
広大な山の中から子犬一匹を見つけ出すという難行。
それを持ち前のスピードと、カメラのように刹那を切り取る動体視力で力押し――妖怪だからこそ出来る荒業である。
だが、それを以てしても白い子犬は見当たらない。
「こんな調子じゃあ、見つけるのにしばらくかかりそうね……」
このままでも時間をかければ必ず見つけ出せる。その自信が文にはあったが、早く見つけないと意味がない。
手段はないわけではないが――それを行使する事に、彼女は躊躇いがあった。
ここは溜まり場周辺を重点的に捜すべきか/吹き飛ばされたとも考えて遠めな場所を捜すべきか。悩む数秒の間も山を駆け回っているが、子犬の姿はなく。
――その時、文の視界に見覚えのある赤い布が映った。
「――っ!!」
反射的に方向転換し、赤い布へと猛進。暴風に激しく舞うそれも片手で容易くキャッチする。
間近で見れば一目瞭然だった、何せこれは元々は文の持ち物だったのだから。
「……あの子にあげた、私のマフラーじゃない」
それがどうしてひとりでに嵐の中舞っているのか――そんなもの考えるまでもない。
だがそれは文に焦りを生ませ、躊躇いを殺すのに十分な効果があった。
「もう……こうなりゃどうとでもなれ、よ」
マフラーを首に勢い良く巻き付け、文は羽団扇を構えた。
彼女の能力は「風を操る程度の能力」。中でも文の力は、途方も無い程の規模を誇る。
文は自身が持つ妖力、人間で言う所の魔力を収斂/洗練――そして、放射。
「たかが自然災害ごときが、この私に敵うと思うな――!!」
大胆不敵極まる叫びと共に、研ぎ澄ませた妖力の風が嵐を切り裂く。
まさに鎧袖一触と呼ぶのに相応しい光景――なんと妖怪の山一帯だけ太陽が輝き、完全な快晴となってしまった。
これほど凄まじい力を持っているのに、何故ここまで温存していたのか?
それは実力を隠したがる天狗の性質でもあるし、何よりここまで派手な事をすれば大天狗からの叱責は必然である。
――それらの事も、今の文にとっては些事だった。
「これである程度の安全は確保できたから、あとはあの子を見つけるだけっ」
瞬、と再び文の姿が消えた。
ギリギリの低空飛行で子犬の姿を捜す。難易度は遥かに下がったとはいえ、異変に気づいて天狗達が来たら面倒である。
そんな事情が神にでも通じたのか、とうとう文の目が子犬の姿を捉えた。
「いたっ!!」
慌てて地面に降り立つ文――素早く子犬の身体を抱き上げ様子を確かめる。
抱き上げた瞬間伝わる冷たさ、ぐったりとして動かない小さな身体の感触。そして、か細い呼吸音。
「……この時までよく生きてたって喜ぶべきなのか、それとももうこのままじゃダメだって思うべきなのかしら……」
文が苦々しい表情を浮かべた。
子犬は死にかけ。間に合ったには間に合ったが、文は今際の際を看取る以上の何もできはしないという状況だ。
高速飛行すれば治療が出来る場所まで行けるが、そもそも弱った子犬を抱えて飛んでしまっては本末転倒の結果になりかねない。
「ねえ“もみじ”。アンタなんでこんな事したのよ……嵐の日が危ない事くらい、子供でも本能でわかるでしょうに」
やれやれ、とばかりに嘆息する。仕方のないバカだと呆れるように――間に合わなかったという徒労感を吐き出すように。
ふと、子犬が文の腕の中で身を捩った。
そして震える身体を精一杯伸ばして、鼻先を押し付ける――文が巻いているマフラーへと。
愛おしそうに、大切なモノを見つけたとでも言うかのような風情で。
それで文は、ひとつの仮説を導きだしてしまった。
「まさかアンタ――そのマフラーを捜す為に、あの嵐の中に飛び込んだってわけ……?」
流石の文も、もう動揺を隠せなかった。
真偽については誰も――読心能力を持つ妖怪を除いて――わからない。だがその可能性があるというだけで十分だった。
「あああ、もう!! どっちの“椛”も私をそんなに困らせたいの!!」
文は叫んだ。叫んでどうしようもない現状に対する苛立ちを露にした。
悲しいという気持ちなどないが、とにかく腹が立って仕方なかったし何とかできないのかと地団駄を踏んだ。
「……」
そして動物は人の感情に敏感で、苛立ちを悟ったらしい子犬が文の手を慰めるように舐め始める。それがまた文に形容しがたい感情を産ませるのだ。
ああ、神でも魔法でも奇跡でもいいから何とかしなさい――文が心の中で吐き捨てたその時、
「……異変かと思って来てみたら、こんな所でどうしたのです射命丸さん」
どこか天然じみた声が、背後から降ってきた。
そう、ここは幻想郷。
妖怪も、神も、魔法も――奇跡も、確かに存在する場所。
●●●
《文々。新聞緊急特集!!》
・本日の記事は、山の頂上にある、二柱の素晴らしい神々を奉った神社の特集であり――
「文様、今お時間は空いてますでしょうかー?」
その一言に、文は記事を書く手を止めた。
場所は彼女の住処――だが何があったのか、文の顔は珍しく暗く悄然としている。
「んー……椛か。いいわよ、入りなさい」
答える声もどこか気の抜けた風情である。きびきびと部屋に入ってくる椛もその様を目の当たりにし、面食らった顔をしていた。
――その腕に抱かれた、件の子犬も心配そうな顔をしている程だ。
「文様どうされたのでありますか。みにくいアヒルの子とてそんな陰気な顔はしないでしょう」
「……今日、大天狗様にこっ酷くお叱りを受けたのよ。昨日の嵐をいじくった事に関して」
「あれはやはり文様の仕業だったのでありますか。わざわざなんでそんなに目立つ事をしたので?」
何も気づいていない調子で椛が言う。その予想通りの反応に、文も予定していた答えを返す。
「昨日、いきなり山頂の風祝が弾幕ごっこを挑んできたのよ。あの子強いし、イライラしてつい嵐ごと吹っ飛ばしちゃってね」
『文々。新聞』に見られるように文は口達者で、嘘がうまい。表情や語調も巧みに操ってしまう。
そしてその言語は、真実と嘘を編み込んでもっともらしい事実に見立ててしまうのだ。
「そういえば椛、犬の方の“もみじ”、結局見つかったのね。聞いた話によると、倉庫の箱の中で眠ってたんだって?」
文が閑話休題とばかりに話の流れを変え、椛の腕に抱かれる子犬を指さす。
そして椛は納得がいかない、という風に眉をひそめて言った。
「そうなのですよ。どうやってあんな所に入ったのやら検討皆目つかないのでありますが……まあ、無事で安心しました」
安心した――椛の表情が、柔らかい笑みに彩られる。
昨日、文は偶然出会った『協力者』の手を借りて問題を解決した。
子犬の命を救って貰い、椛にバレないよう倉庫の中へ隠しておき――『最初から子犬は外に出てなかった』という体面を整えたのである。
そうすれば文が子犬を助けた事は露見せず、椛も子犬も不満なし。加えて言えば取引により『協力者』にも損がなし。
しかし、その取引内容が文の『他者の圧力、暴力、悪徳には屈しない』というジャーナリズムに反している部分だけが問題なのだが。
「ああそうだ椛。唐突なんだけど――その子の名前、ちゃんと決め直さない?」
「決め直し、でありますか。わたくしは願ってもない事ですが、文様は何の心変わりで?」
「そうね……強いて言うなら、名前を呼ぶ時に私も紛らわしいからよ」
昨日みたいに、“もみじ”を連呼するハメになった時恥ずかしいから――文が心の中で付け加えた。
「わふっ!!」
威勢のよく吠えるあたり、子犬も改名には賛成らしい。
それなら、と椛は胸を張って自信ありげな顔を浮かべた。
「ではわたくしの名前からとって『このか』に致しましょう。木の花、という文字を書いて」
「……椛、もう少し趣向を凝らしたらどうなの。そもそもその子、オスでしょう」
新人記者の記事を一蹴する編集長の如く、ぞんざいに文が手を振る。文字の扱いに関しては文の方に一日の長があった。
だが椛もその程度ではめげず、食って掛かる。
「では『くれは』――これも女の子っぽいのであります。『こうよう』などは男の子らしくて良くありませんか?」
「紅葉で、『こうよう』ね、悪くないわ。私は杖と書いて『じょう』なんて考えたのだけどどうかしら」
杖/じょう――何となく外国名のような感じもするが、何が由来だろうと訝しげな顔の椛。
いつもの文ならここでたっぷり焦らしてからかうのだが、生憎この日はそんな気分ではなかった。
「アンタの『椛』の字から木偏を貰って、私の『文』を少し崩して組み合わせたのよ。『杖』って」
「ははあ、なるほど。わたくし達の名前を組み合わせるなど、考えもしなかったです――」
椛はそこで、少し間を開けた。
そしてにやりと、いつも通り精一杯からかうような口調で、言った。
「これ、まるでわたくしと文様の子供に、名前をつけているような気分ですねぇ」
「――――はぁ!?」
隙だらけだった文の脳みそに、その言葉は大層響いた。
文と椛の子供――互いの名から取った名づけ。同時に自分と椛が子犬を打き抱え、まるで夫婦のように笑いあうヴィジョン/あるいは幻覚まで襲来。
僅かに文の頬が紅潮した。
「なな、文様も何を狼狽していらっしゃるのですか!!」
そして文が柄にもなく照れたりしたものだから、椛も戸惑い自分の言葉に顔を赤くしてしまう。その光景を、当の子犬が無邪気に眺める。
「私は別に照れてなんていませんっ。椛が馬鹿な事を言ったから呆れただけです!!」
「馬鹿だなんて文様。貴女、喋りも丁寧な取材口調になってますし、そ、そっちの方がよっぽど焦ってるではありませんか!?」
互いに赤面しながら小娘のようにしどろもどろの状態だ。
「焦ってなんかないわよ。とりあえずほら、名前、私の考えた『杖』でいいかしら?」
必死にいつもの大胆不敵で尊大な態度を取り繕う文――『私、何も照れてないし焦ってないです』とアピールするように、発端となった名前を口に出す。
そして椛も結局負けず嫌いで、文がそのような態度を取るのであれば必然答えは限られていた。
「ええ、特に気にする事もないので、それで宜しいかと思うのであります。ねえ、ジョーくん」
椛が腕の中にいる子犬――正式名称『杖』の方へと顔を向ける。
杖は本当に分かっているのかいないのか、今までで一番元気良く吠えてみせた。『その名前なら、良い』とでも言うように。
「ふむふむ、この子も――ジョーも、私のネーミングセンスに同意してくれるわけね。流石の名犬ね」
文も演技がかった、神妙な顔つきで首を縦に振る。
犬コロが犬コロ拾ってきた時はどうしようかと思ったけれど、これはこれでまあ良いものかもしれないわね――椛も、嬉しそうだし。
そんな事を、考えながら。
――それから白狼天狗達の洞窟の入り口には、一匹の子犬が頻繁に立つようになった。
その子犬の愛らしさに癒された、支えられたという天狗や河童も少なくはなく、
ブン屋の天狗などは、子犬の名前とその拾い主とを掛けてこんな文句を謳ったそうだ。
『犬が歩けば、転ばぬ先の杖に当たる』、と。
・白狼天狗の椛に、子供が生まれる!?
某月某日、清く正しく美しい記者である私が白狼天狗達のたまり場へ向かった所、馴染みの天狗である椛(×××歳)が子供を抱えており――
――もちろん虚偽の記事である。しかし事実無根、というわけでもない。
『大胆不敵』たる不遜な笑顔に『烏の濡羽色』の艷めく髪。靡く赤いマフラーと、手にはトレードマークのメモ帳とペンを抱えた少女。
幻想郷において知る人ぞ知る烏天狗――射命丸文。彼女は新聞を書く事で有名であり、先の独白も、眼前の光景に対する文なりの表現法なのだ。
「どうしたのでありますか文さま。鴉が『鳩が豆鉄砲を喰らったような顔』とはこれ如何に。ああ、烏賊という文字にも烏という漢字がありますね」
対するのは『慇懃無礼』な態度と白い髪――そして髪の隙間から生える犬の耳。揃いの赤いマフラーと大きな刀を携えた少女。
白狼天狗の犬走椛が、精一杯からかうような口調で言った。
ちなみに「烏賊」は『烏にとっての賊』という意味なので、烏と無関係というわけではない。
「羊頭狗肉が何を言うの。それで椛、『それ』どうしたのよ」
文が指差す先、そこには――
「……わふ?」
椛の腕の中で小首を傾げる、白い子犬の姿があった。
今まで幻想郷でみた事のない種類の犬だ。白い毛並みは薄汚れており、見る者にどことなく哀れさを感じさせる。
「はて、わたくしはこの子犬を昨日拾った、というだけの事でありますが?」
それがどうかしたのですか?――と言わんばかりに椛が小首を傾げて見せた。
そうこの日、文が白狼天狗達のたまり場を訪れた。そこで子犬を拾ったらしい椛の姿があった――話はたったそれだけの事である。
「そりゃ驚くに決まっているでしょう。『狼は気高い。人と馴れ合う犬とは違うのだ』って偉そうに言ってたアンタがそれ、どうしたの」
文にとって白狼天狗はプライドの高い妖怪という認識だ。それが普段の言を取り消して犬を飼うなど珍しい事なのだ。
現に椛も、前言撤回した者特有の気後れしたような様子がない。
「昨日、山を巡回していた所、この子がたった一人で迷っていたのを見つけたのでありますよ」
「ふむ、通りで薄汚れているわけね」
それで?と文がアイコンタクトで先を促す。
「つまりこの子は親がいないのでありまして……こんな子犬を見捨てるのも情がないと思ったのですよ。関係のない子供だろうと、独りで困っているのなら助けてやるでしょう?」
誇らしげに言う椛――そして嬉しそうに尻尾を降る子犬。何だかんだで椛も面倒見がよいのだ。
「でも椛、大天狗様のお許しは得たのかしら? 犬の世話にかまけて職務を怠っては……」
「すでに許可は貰っております!! この子の世話も哨戒任務に支障を出さずに行うと誓いました!!」
文の嫌味に対し威勢良く返事をする椛。
どうしてこんなにこの犬を気に入っているのだろう――不思議に思いながら、文が子犬に手を伸ばす。
すると、
「はふっ!!」
「ひゃあっ!?」
子犬にぱくりと指を咥えられ、あられもない声を出してしまったのだった。
「うぇ……くすぐったい」
指を舐め回され渋面を浮かべる文。犬の舌はざらつき感が強いため、舐められた時のくすぐったい感覚も一際なのだ。
当の子犬はと言えば、相手が凄まじい力を持つ妖怪だとも知らず、呑気に文の指を舐めまわしていた。
「しかしなかなか、これはこれで可愛い……」
慣れてしまえば文も満足気。椛に飼わせるのも勿体ないかもとまで思ったりもする。
そこで何を思ったか、文は何かを探すように視線を左右に彷徨わせた後、おもむろに自身のマフラーを解きだした。
「まあ折角だし、お前にこれをあげましょう」
そう言って子犬の首から胴を覆うように赤いマフラーを巻いてやる。子犬の白い毛に赤がよく映え、大層似合っていた。
物を貰った事が嬉しいのか、子犬も文の腕を舐め――それを羨ましそうに、椛が眺める。
「……文様、良かったではありませんか、どうやらこの子に好かれたようで。鶏肉が好みなんでしょうか」
「……この犬の前に、飼い主に躾が必要みたいね。ちょっと表に出なさい」
子犬に舐められていた指を懐へ突っ込み、そこから取り出したモノ――スペルカード。
幻想郷における耽美な遊びにして喧嘩の手段、弾幕ごっこの宣戦布告である。
「構いません、ここでわたくしが勝った場合、この子を飼う事に文句も出させませんよ!!」
抜刀――椛が刀とスペルカードを引き抜き、高々と空へとかざす。子犬は椛の腕の中から飛び降り、慌てて遠くへと逃げていった。
彼女たちの剣呑な雰囲気に気づき、周囲の白狼天狗たちや遊びに来ていた河童たちが騒ぎ出す――「喧嘩か、いいぞ、もっとやれ」と。
文はその囃声に応じるように、不敵な笑みと共に宣告した。
「では私が勝ったらひとつ、言う事を聞いてもらおうじゃない。――スペルカード『風符「天狗道の開風」』!!」
「上等、であります!! スペルカード、『猟犬「鋭角より迫る刺客」』!!」
――そんな、いつもの幻想郷の風景。しかし子犬は初めて見るその美しい光景に、尻尾を小気味よく振っていた。
●●●
「おーい、もみじー!! 御主人様が、この清く正しく美しい文が来ましたよー!!」
翌日/洞窟を利用した白狼天狗たちのたまり場に、文の威勢良い声が響き渡った。
そして続くように近づく足音――小さな影。
「わんっ」
マフラーを靡かせ文の足元に駆け寄り、威勢よく吠える件の子犬。腰を屈めて文はその頭を撫でてやる。
「よしよし、キミはいい子ですねぇ。無闇に吠えない噛み付かない名犬ですよ。――そう思うでしょう、椛?」
「文様、何故わたくしには敬語を使ってくれないのでありますか……」
子犬の後を追うようにして現れたのは椛だ。頬を膨らませ唇を尖らせたその表情=「わたくし、とても不機嫌ですよ?」の証。
それもそうだろう――自分が飼っている犬の名前を文に決められ、挙句自分と同姓同名の名前にされてしまってはたまったものではない。
「ん? もみじは良い子だから敬語を使うに決まってるじゃない。本当にもみじは可愛くて私想いの良い子だわ」
「い、いきなりそんなくすぐったくなる事をっ。歯が浮く!!」
文の甘言に身悶えする椛――実直な性格も考えものである。
「可愛いだけでなくこの凛々しい顔立ちも良いもので、まさに絶世の美犬ね」
「犬……ああ、そっちの子の話でしたか」
「違うわ、椛の話よ」
「うええ!? そんな、照れてしまうのであり――いや、でもそれってつまりわたくしを犬呼ばわりしてるではありませんか!!」
頬を朱に染めて照れたり、顔を赤くして怒ったりと椛も忙しない様子である。
実にいぢりがいがある――文の所感。幻想郷のブン屋は大層性格が弄れていた。
「ああごめんごめん、間違えたわね。椛じゃなくてもみじの話よ」
「本当にそうなのでありますか……? もうこれ以上からかったら怒りますよ?」
「ええ、山頂にいる二柱の神に誓ったほうがいい? 『犬走椛は射命丸文に対して不躾で、別に凛々しくも可愛くもない』って」
口元を手で抑えながら、にやりと文が笑った。
対する椛はいろいろな感情が混じり合った複雑な顔をしている。否定してもしなくても都合の悪い解釈をされてしまうのだから。
「しかしスムーズすぎて楽しくないわね。こう、もっと読者を楽しませられる展開を見せなさい椛」
「読者って何の話ですか……」
「文々。新聞の読者に決まっているじゃない。他に読者を指す相手がいるってわけ?」
文がそう返すと、椛は小馬鹿にしたように鼻で笑った――「文々。新聞に読者がいるのですか?」と言わんばかりに。
現に、インチキ新聞などと揶揄され読者は極々少数なのだが。
何と失礼な、もっと椛をイジメてお返ししてやろうと文が再び口を開きかけた所で――
「……」
足元で悲しげな顔をする子犬――尻尾もしゅんと垂れ下がりいかにも物悲しい雰囲気を発散していた。
もうやめてよ、と言っているかのようだ。
それを見た椛は我が意を得たりと、自信ありげな表情を浮かべた。
「ほら文様、この子もわたくしの味方をしてくれますよ? これが信頼というものです」
「ホントにアンタ達仲がいいわね……。まあ、良い方の“もみじ”に免じてここいらで勘弁してあげるわ」
手のひらを上に向け肩を竦める「やれやれ」ジェスチャーの文。どことなく椛も子犬もほっとした様子だった。
犬は飼い主に似るという言葉を思い出さずにはいられまい。
「時に椛、この子の餌はどうしているわけ? 人肉?」
「どこぞの低級な闇妖怪じゃあるまいし……。にとりに人里から牛の干し肉や骨を貰ってきてもらったのであります」
椛が人差し指を伸ばした先――大きな布包み。干し肉がたんと詰まっているだろうに、河童の技術が使用されているのか生臭さは感じられなかった。
「なるほど、人間と仲が良い河童の手を借りたわけね」
「ええ。わたくしが人里に降りると人間が怯えてしまいます。妖怪冥利に尽きるものですね」
椛はそう言って、誇らしげに胸を張った。
「あやや、牛の干し肉とはなかなか良いもの食べさせてるじゃない。ひとつ私も食べちゃおうかしら」
言うやいなや許可もなく、うきうき気分で勝手に布包みを漁る文――それに椛&子犬が異議を唱える。
「異議あり!!であります。それの代金はわたくしが全額出しているわけでして、勝手に食べて欲しくないですよ!!」
椛がそう吠え
「はっ、はっ、はっ……」
子犬が物欲しそうにヨダレを垂らしていた。
文は干し肉を齧り――「話を聞いてください!!」と椛が悲鳴を上げた――肉片を唇で咥える。そして膝を屈めて唇を子犬へと突き出した。
「んー♪」
「はふ!!」
干し肉を一心不乱に舐め回す子犬と、それを満面の笑みで受け止める文。犬とのキスにご満悦である。
ちなみに『犬とのキスはバイ菌が云々なので推奨されません』なんて注意は無用――あくまで彼女は妖怪だ。
ともあれ微笑ましいその光景に、椛はまたもや顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あわわわ、文様ってばなんて羨ましい事を!!」
「うふふふふー。羨ましいなら椛もする?」
にやりと、文が妖しく笑った。子犬を抱えて立ち上がり、正面から椛の顔を見据える。
椛はと言えば深く考えた様子もなく、「わたくしもしたいです!!」と拳を握りしめて熱弁。
「そう。それじゃあ、同じ事をしてあげる」
――文がその唇を、椛の唇に向かって押し付けた。
「みゅ――!?」
椛の驚愕。そして危機に対し反射的に身を引こうとする彼女を、文が片腕で抱きしめて妨害する。
「んー、んむぅー♪」
「むうううううう!?!?」
長い長い口づけ――ジタバタと藻掻いていた椛も、次第に身体から力が抜けてゆき成されるがままに。
そして濃厚なキスを堪能した後、ようやく文がその身を離した。
「ふぅ。どうしたの椛、四つん這いになって犬の真似事?」
ヨダレを拭きながら文が問う。
すると解放された瞬間に地へと四足をつけた椛がきっとなって面を挙げ、吠えた。
「いいいい、一体いきなり何をするのでありますか!!」
「ナニってそりゃ、『私もします』って言ったから“もみじ”と同じ事をしてあげたんじゃない」
文が飄然と断言した。
椛の最初の認識――「子犬と」舐め合いっこをする、という意味での『同じ事をする』
しかし文の口にした真相は――「文と」舐め合いっこをするという意味。わざと曖昧に言ったわけである。
「……それは詐欺というものですよぅ」
がくりと、椛がうな垂れた。
対して、椛の様子にホクホク顔な文――何歳になっても、他人をからかって遊ぶのは愉快なものだ。
「さて、と。十分暇は潰せたし、今日はこの辺で帰るとしますか。椛も“もみじ”も元気でね」
烏天狗、風を操り幻想郷のブン屋として知られる射命丸文。
そして代名詞たる『風神少女』の言葉の通り――彼女は『嵐のように現れて』、『風と共に去りぬ』だ。
ふと見上げてみれば、空が曇り始めていた。
●●●
――そしてその日の風は、異様なまでに荒れ狂っていた。
それは轟然と猛り、叩きつける雨は熱を奪い、あらゆるモノをその腕で攫う。
嵐が、幻想郷にきていた。
「面倒な……嵐の中飛ぶのも大変だってのに。スカートがめくれそうになっちゃうし」
その暴力的な嵐の空を悠然と文が飛ぶ。その細い身体で何故、というほど突風を諸共せず、呑気にスカートの裾を気にしている様は流石といった所か。
風の衣を纏っているので雨にすら濡れる事なく、白狼天狗たちの溜まり場に到着した。
「“もみじ”ー!! どこに行ったのでありますかー!?」
文を迎えたのは、そんな椛の叫び声だった。洞窟内を駆けまわり声を張り上げ、文が来ている事にも気づいていない様子。
通り過ぎざまに文がその背中に、声をかけた。
「どうしたの椛、“もみじ”に愛想尽かされて家出でもされた?」
その一言に、ピタリと椛の足が止まる。
そしてゆっくり振り返った彼女の顔に、文は仰天させられるハメになった。
「あやさまぁ……」
そこにあったのは、声を震わせ泣きべそをかいた椛の顔。
「ちょ、も、椛?」
滅多に見せない椛の弱々しい顔に、文も狼狽を隠せない。おろおろと両手を彷徨わせるばかりで何も言えず、何もできない。
「家出……あの子が、“もみじ”がぁ、いなくなっちゃったのであります……っ!!」
「いなくなったってアンタ、よりにもよってこんな天気で?」
「洞窟のどこを探しても見当たりませんし、同僚も見てないって」
白狼天狗――仮にも狼の属性を備えた妖怪が誰一人見つけられていないなら、洞窟の中にはいない事になる。
つまり子犬はここを出て、山へと出て行った他にないのだ。この大嵐の中で。
「……これはダメね。椛、諦めなさい」
冷淡に――風が吹き付けるような冷たさで、文は断言した。
一人前の野犬ならまだしも、野生に慣れていないただの子犬が嵐から身を守る方法を知るはずがない。
その極めて妥当な言葉に、椛は食って掛かる。
「で、でも探しに行きましょうよ!! わたくし達ならきっと……」
「それはそうでしょうよ。アンタの哨戒スキルと、私の『風を操る程度の能力』があればね」
なら――そう言おうと身を乗り出す椛を制し、文は続けた。
「でも私はそこまでする義理がないわ。嵐の中苦しむ動物を全部救うって言うなら、まあ道楽になるけど……犬一匹になんでムキになるのやら」
妖怪の途方もなく長い生涯、犬一匹の生死に頓着する理由がない。
そもそもどうして、この短期間で椛は子犬にそこまで愛着を抱いているのか――文にはそれが不思議でならなかった。
「まあ可愛い子だったし残念だけど、仕方ないわね」
最後にそう言って、文は椛に背を向け洞窟の奥へと去ろうとする。
――そこに、手を引かれる感触。
「ま、待ってください文様」
椛は、真剣な顔をしていた。
文の腕を握る力も強く、その手には確かな意思が宿っていた。
「あの子は、幻想郷に――幻の存在、夢の存在しか入れないこの世界に放り出されて迷子になっていたのです」
「ああ、そういえばそんな事を言ってたわね」
「つまりそれって、この子は外の世界で誰からも愛されてなかったって事でありますよ。……生まれた時からずっと、独りだったに違いないのです」
生まれた時からずっと孤独を生きる者。
妖怪が人から信じられる事で現に顕れるのなら、実体を持つ者も世界から忘れられる事で幻想と化す。
――それがすなわち、幻想入り。
「そんな天涯孤独な子をわたくし達が見捨てたらダメであります。幻想郷にいるのに、あの子はまた幻想となって消えてしまうようなものです。――全てを受け入れるのがここの在り方ではないのですか……?」
椛の懇願――あるいは祈り。外の世界で忘れ去られた妖怪だからこその、願い。
《関係のない子供だろうと、独りで困っているのなら助けてやるでしょう?》
以前の椛の言葉――そう、関係がなかったのではない。幻想郷の住人は皆同じ物を抱えた同類なのだ。
その意識が面倒見の良い椛には一際強かったからこそ、あの子犬にここまで執着しているのだ。
「文様お願い致します。全ての責任はこの椛が負いますので、どうか貴女のお力をお貸し下さい」
とうとう深々と頭まで下げ出す椛に文が逡巡した。
その数秒の後――ぽつりと一言、こう零した。
「どれだけ丁寧に言ってもダメ。私はもう帰るわよ」
掴む手を振りほどき、洞窟の外へと歩を進める。
「ああ椛、外に出てあの子犬を探す事は禁止――上官命令です」
「そん、な……」
去り際に釘まで刺され、椛の顔に浮かぶ絶望――悔しそうに歯を食いしばり、目が涙で潤む。
それでも文は、最後まで振り返ったりしなかった。
●●●
「ああ、どこに行ったってのよもう!!」
暴風に紛れる、苛立たしげな叫び――自身のそれを追い越す凄まじい速さで飛ぶ者。
射命丸文だ。音を超える速度で飛翔するその様は、鎌鼬といった風情である。
そんな高速飛行の中でも彼女の目は地上を見渡している。緑と山肌の土色の中に、白が見当たらないかと目を凝らす。
「“もみじ”ー!! 早く出てきなさいってばーっ!!」
文は、白い子犬、通称“もみじ”を、探していた。
どうしてわざわざ椛に辛辣な言葉をかけておきながらこんな事をするのか――それは彼女が『素直でない』からとしか言いようがない。
例えば、もし椛が子犬の亡骸を見つけてしまった場合、どれだけ悲しむかという事を考えてしまった、という所だ。
「ああもう、どうして私がこんな事をしなきゃならないってのよ」
ブツクサ文句を口にしつつも速度を上げ、本気で捜索にかかる文。
広大な山の中から子犬一匹を見つけ出すという難行。
それを持ち前のスピードと、カメラのように刹那を切り取る動体視力で力押し――妖怪だからこそ出来る荒業である。
だが、それを以てしても白い子犬は見当たらない。
「こんな調子じゃあ、見つけるのにしばらくかかりそうね……」
このままでも時間をかければ必ず見つけ出せる。その自信が文にはあったが、早く見つけないと意味がない。
手段はないわけではないが――それを行使する事に、彼女は躊躇いがあった。
ここは溜まり場周辺を重点的に捜すべきか/吹き飛ばされたとも考えて遠めな場所を捜すべきか。悩む数秒の間も山を駆け回っているが、子犬の姿はなく。
――その時、文の視界に見覚えのある赤い布が映った。
「――っ!!」
反射的に方向転換し、赤い布へと猛進。暴風に激しく舞うそれも片手で容易くキャッチする。
間近で見れば一目瞭然だった、何せこれは元々は文の持ち物だったのだから。
「……あの子にあげた、私のマフラーじゃない」
それがどうしてひとりでに嵐の中舞っているのか――そんなもの考えるまでもない。
だがそれは文に焦りを生ませ、躊躇いを殺すのに十分な効果があった。
「もう……こうなりゃどうとでもなれ、よ」
マフラーを首に勢い良く巻き付け、文は羽団扇を構えた。
彼女の能力は「風を操る程度の能力」。中でも文の力は、途方も無い程の規模を誇る。
文は自身が持つ妖力、人間で言う所の魔力を収斂/洗練――そして、放射。
「たかが自然災害ごときが、この私に敵うと思うな――!!」
大胆不敵極まる叫びと共に、研ぎ澄ませた妖力の風が嵐を切り裂く。
まさに鎧袖一触と呼ぶのに相応しい光景――なんと妖怪の山一帯だけ太陽が輝き、完全な快晴となってしまった。
これほど凄まじい力を持っているのに、何故ここまで温存していたのか?
それは実力を隠したがる天狗の性質でもあるし、何よりここまで派手な事をすれば大天狗からの叱責は必然である。
――それらの事も、今の文にとっては些事だった。
「これである程度の安全は確保できたから、あとはあの子を見つけるだけっ」
瞬、と再び文の姿が消えた。
ギリギリの低空飛行で子犬の姿を捜す。難易度は遥かに下がったとはいえ、異変に気づいて天狗達が来たら面倒である。
そんな事情が神にでも通じたのか、とうとう文の目が子犬の姿を捉えた。
「いたっ!!」
慌てて地面に降り立つ文――素早く子犬の身体を抱き上げ様子を確かめる。
抱き上げた瞬間伝わる冷たさ、ぐったりとして動かない小さな身体の感触。そして、か細い呼吸音。
「……この時までよく生きてたって喜ぶべきなのか、それとももうこのままじゃダメだって思うべきなのかしら……」
文が苦々しい表情を浮かべた。
子犬は死にかけ。間に合ったには間に合ったが、文は今際の際を看取る以上の何もできはしないという状況だ。
高速飛行すれば治療が出来る場所まで行けるが、そもそも弱った子犬を抱えて飛んでしまっては本末転倒の結果になりかねない。
「ねえ“もみじ”。アンタなんでこんな事したのよ……嵐の日が危ない事くらい、子供でも本能でわかるでしょうに」
やれやれ、とばかりに嘆息する。仕方のないバカだと呆れるように――間に合わなかったという徒労感を吐き出すように。
ふと、子犬が文の腕の中で身を捩った。
そして震える身体を精一杯伸ばして、鼻先を押し付ける――文が巻いているマフラーへと。
愛おしそうに、大切なモノを見つけたとでも言うかのような風情で。
それで文は、ひとつの仮説を導きだしてしまった。
「まさかアンタ――そのマフラーを捜す為に、あの嵐の中に飛び込んだってわけ……?」
流石の文も、もう動揺を隠せなかった。
真偽については誰も――読心能力を持つ妖怪を除いて――わからない。だがその可能性があるというだけで十分だった。
「あああ、もう!! どっちの“椛”も私をそんなに困らせたいの!!」
文は叫んだ。叫んでどうしようもない現状に対する苛立ちを露にした。
悲しいという気持ちなどないが、とにかく腹が立って仕方なかったし何とかできないのかと地団駄を踏んだ。
「……」
そして動物は人の感情に敏感で、苛立ちを悟ったらしい子犬が文の手を慰めるように舐め始める。それがまた文に形容しがたい感情を産ませるのだ。
ああ、神でも魔法でも奇跡でもいいから何とかしなさい――文が心の中で吐き捨てたその時、
「……異変かと思って来てみたら、こんな所でどうしたのです射命丸さん」
どこか天然じみた声が、背後から降ってきた。
そう、ここは幻想郷。
妖怪も、神も、魔法も――奇跡も、確かに存在する場所。
●●●
《文々。新聞緊急特集!!》
・本日の記事は、山の頂上にある、二柱の素晴らしい神々を奉った神社の特集であり――
「文様、今お時間は空いてますでしょうかー?」
その一言に、文は記事を書く手を止めた。
場所は彼女の住処――だが何があったのか、文の顔は珍しく暗く悄然としている。
「んー……椛か。いいわよ、入りなさい」
答える声もどこか気の抜けた風情である。きびきびと部屋に入ってくる椛もその様を目の当たりにし、面食らった顔をしていた。
――その腕に抱かれた、件の子犬も心配そうな顔をしている程だ。
「文様どうされたのでありますか。みにくいアヒルの子とてそんな陰気な顔はしないでしょう」
「……今日、大天狗様にこっ酷くお叱りを受けたのよ。昨日の嵐をいじくった事に関して」
「あれはやはり文様の仕業だったのでありますか。わざわざなんでそんなに目立つ事をしたので?」
何も気づいていない調子で椛が言う。その予想通りの反応に、文も予定していた答えを返す。
「昨日、いきなり山頂の風祝が弾幕ごっこを挑んできたのよ。あの子強いし、イライラしてつい嵐ごと吹っ飛ばしちゃってね」
『文々。新聞』に見られるように文は口達者で、嘘がうまい。表情や語調も巧みに操ってしまう。
そしてその言語は、真実と嘘を編み込んでもっともらしい事実に見立ててしまうのだ。
「そういえば椛、犬の方の“もみじ”、結局見つかったのね。聞いた話によると、倉庫の箱の中で眠ってたんだって?」
文が閑話休題とばかりに話の流れを変え、椛の腕に抱かれる子犬を指さす。
そして椛は納得がいかない、という風に眉をひそめて言った。
「そうなのですよ。どうやってあんな所に入ったのやら検討皆目つかないのでありますが……まあ、無事で安心しました」
安心した――椛の表情が、柔らかい笑みに彩られる。
昨日、文は偶然出会った『協力者』の手を借りて問題を解決した。
子犬の命を救って貰い、椛にバレないよう倉庫の中へ隠しておき――『最初から子犬は外に出てなかった』という体面を整えたのである。
そうすれば文が子犬を助けた事は露見せず、椛も子犬も不満なし。加えて言えば取引により『協力者』にも損がなし。
しかし、その取引内容が文の『他者の圧力、暴力、悪徳には屈しない』というジャーナリズムに反している部分だけが問題なのだが。
「ああそうだ椛。唐突なんだけど――その子の名前、ちゃんと決め直さない?」
「決め直し、でありますか。わたくしは願ってもない事ですが、文様は何の心変わりで?」
「そうね……強いて言うなら、名前を呼ぶ時に私も紛らわしいからよ」
昨日みたいに、“もみじ”を連呼するハメになった時恥ずかしいから――文が心の中で付け加えた。
「わふっ!!」
威勢のよく吠えるあたり、子犬も改名には賛成らしい。
それなら、と椛は胸を張って自信ありげな顔を浮かべた。
「ではわたくしの名前からとって『このか』に致しましょう。木の花、という文字を書いて」
「……椛、もう少し趣向を凝らしたらどうなの。そもそもその子、オスでしょう」
新人記者の記事を一蹴する編集長の如く、ぞんざいに文が手を振る。文字の扱いに関しては文の方に一日の長があった。
だが椛もその程度ではめげず、食って掛かる。
「では『くれは』――これも女の子っぽいのであります。『こうよう』などは男の子らしくて良くありませんか?」
「紅葉で、『こうよう』ね、悪くないわ。私は杖と書いて『じょう』なんて考えたのだけどどうかしら」
杖/じょう――何となく外国名のような感じもするが、何が由来だろうと訝しげな顔の椛。
いつもの文ならここでたっぷり焦らしてからかうのだが、生憎この日はそんな気分ではなかった。
「アンタの『椛』の字から木偏を貰って、私の『文』を少し崩して組み合わせたのよ。『杖』って」
「ははあ、なるほど。わたくし達の名前を組み合わせるなど、考えもしなかったです――」
椛はそこで、少し間を開けた。
そしてにやりと、いつも通り精一杯からかうような口調で、言った。
「これ、まるでわたくしと文様の子供に、名前をつけているような気分ですねぇ」
「――――はぁ!?」
隙だらけだった文の脳みそに、その言葉は大層響いた。
文と椛の子供――互いの名から取った名づけ。同時に自分と椛が子犬を打き抱え、まるで夫婦のように笑いあうヴィジョン/あるいは幻覚まで襲来。
僅かに文の頬が紅潮した。
「なな、文様も何を狼狽していらっしゃるのですか!!」
そして文が柄にもなく照れたりしたものだから、椛も戸惑い自分の言葉に顔を赤くしてしまう。その光景を、当の子犬が無邪気に眺める。
「私は別に照れてなんていませんっ。椛が馬鹿な事を言ったから呆れただけです!!」
「馬鹿だなんて文様。貴女、喋りも丁寧な取材口調になってますし、そ、そっちの方がよっぽど焦ってるではありませんか!?」
互いに赤面しながら小娘のようにしどろもどろの状態だ。
「焦ってなんかないわよ。とりあえずほら、名前、私の考えた『杖』でいいかしら?」
必死にいつもの大胆不敵で尊大な態度を取り繕う文――『私、何も照れてないし焦ってないです』とアピールするように、発端となった名前を口に出す。
そして椛も結局負けず嫌いで、文がそのような態度を取るのであれば必然答えは限られていた。
「ええ、特に気にする事もないので、それで宜しいかと思うのであります。ねえ、ジョーくん」
椛が腕の中にいる子犬――正式名称『杖』の方へと顔を向ける。
杖は本当に分かっているのかいないのか、今までで一番元気良く吠えてみせた。『その名前なら、良い』とでも言うように。
「ふむふむ、この子も――ジョーも、私のネーミングセンスに同意してくれるわけね。流石の名犬ね」
文も演技がかった、神妙な顔つきで首を縦に振る。
犬コロが犬コロ拾ってきた時はどうしようかと思ったけれど、これはこれでまあ良いものかもしれないわね――椛も、嬉しそうだし。
そんな事を、考えながら。
――それから白狼天狗達の洞窟の入り口には、一匹の子犬が頻繁に立つようになった。
その子犬の愛らしさに癒された、支えられたという天狗や河童も少なくはなく、
ブン屋の天狗などは、子犬の名前とその拾い主とを掛けてこんな文句を謳ったそうだ。
『犬が歩けば、転ばぬ先の杖に当たる』、と。
本文に関しては、しっかりと書かれていていいと思います。
本文は言葉遊びがいい感じでした。鶏肉が好きなんでしょうか?ってw
それにしてもどこかで氏の作品読んだことあるような・・・?
まさか自分の作品に出した文ちゃんと椛で「かわいい」と言ってもらえるなんて思いもしなんだでした。
>15
ダブルスポイラーのスペルがあることは知っておりましたが、実際に見たことがない+個人的な遊び心でオリジナルになっております…
クトゥルー神話ネタが、好きなので。
>16
デレデレよりも、最初のような毒の吐きあいの方が書きやすくて私は好きですw
そして東方ならpixivにも同じ作品があるので、そこで見たのかもしれませんね。他ゲームの二次創作経験もあるので、それかもしれませんが…
文も椛も可愛いし、お話そのものもシンプルかつ面白く、とても楽しませてもらいましたっ。
椛の口調に癖がありすぎるかな、とも思いましたがこれはこれで。
「これ、まるでわたくしと文様の子供に、名前をつけているような気分ですねぇ」
の台詞に、凄くにやにやさせてもらいました。