【introduction】
私が彼女に初めて出会ったのは闘いの最中だった。
それは今までに私たちが繰り広げてきた、ルールに沿った弾遊びなんかじゃない。
本当に相手を殺すつもりなら、弾幕(むだだま)なんていらない。
彼女達が纏った炎と、光。それらが放つ殺意が、誰かが言ったそれを肯定していた。
私は……ただ見ていた。彼女達の闘いを。
いや……彼女の闘う様を。姿そのものを……だ。
ただ我を忘れたように呆然と。詩を発する事も忘れ、ひたすらに目の前で繰り広げられる光景の美しさに、瞳と心を奪われ続けていた。
暗闇に……身を隠すことすらもせずに……。
刹那、光が私の眼前に迫っていた。
恐らくは別に私を狙った訳でもない、単なる流れ弾。
我に返り、瞳を閉じた瞬間。
その閉じた瞼の奥すら焼け付かせる、強力な朱が目の前で爆ぜた。
恐る恐るゆっくり開いた瞼の先。ほんの一瞬、彼女と目があった。彼女は直ぐに私など意に介した風もなく、闘いに躍り出ていったけど……。
その時に見た彼女の姿は私の内を焼き尽くし、未だに燻り離れない。
涼しく悲しく……しかし優しく澄んだ瞳。そしてその背に生えた、闇夜すらも灼こうと猛り狂った紅蓮の翼、その緋の色を……。
だから……かも知れない。偶然出会っただけの彼女の為に、人の世で言う「余計なお節介」と言うやつをしたくなったのは。
【scene-one】
細く天へとのびた竹林の隙間に、満ちた月から銀色の光が覗く。
妹紅の意識が目覚めて彼女が最初に感じたのは、自分の瞼の向こうから向かってくる突き刺すほどの眩さだった。
(……んぁ、そっか。そのまま気絶しちまったんだっけか)
すでにどれほど時間が過ぎたのかは分からないが。妹紅の脳裏に気を失う刹那に見た、眼前で爆ぜる光の濁流が蘇る。
またそれに飲まれ悲鳴をあげる己の身体。押し殺した絶叫。
そして……。
(……あれ?)
ふと、最後で何か心に引っかかったが……思い出せない。
記憶の中にすでに答えは無い。思考する間に、朧気だった意識もすっかり冴えてきて、妹紅はその瞼を押し上げる。
開いて、違和感は直ぐに来た。
「あ……れ?」
今度は独り、言葉にして疑問を紡ぐ。目の前に広がった光景が、あまりにも自分の予想していた光景と違いすぎていたからだ。
まず。月明かりだと思っていたのは月では無かった。狭苦しさを感じていたはずの竹林さえ無かった。
そこは全体的な印象を木目で統一された、狭い一室だった。四畳……も無いかも知れない。
殺風景なその部屋には、壁の一角に申し訳程度の、これまた狭い窓が一つ付いていて、そこから月の優しい光とは対照的な、澄み切った朝の光が差し込んでいた。
「朝……」
その事実だけを理解する。そして、
(んで、ここ何処……なのよ?)
身体を起こした瞬間、掛け布団が腰元に落ちた。
そう布団だ。妹紅は目覚めたら、何処とも知らぬ家で一夜を迎えていたのだ。
しかも……真新しい真っ白の寝衣にまで着替えさせられていて。
(輝夜の所……な訳無いよな)
妹紅はまず最初に、気を失う瞬前まで一緒に居たはずの女の顔を思い出す。
そして直ぐに首を振った。輝夜が自分を屋敷に連れて帰る理由が無いし、もし万が一にも連れて帰ったとしても、彼女の住む屋敷に、例えなんの嫌がらせだろうと、こんな小さな部屋があるとは思えなかった。
(となると……やっぱ慧音っていうのが妥当かな)
妹紅は己の数少ない知人の名を思い浮かべる。
その時だ。不意に音と声が、静寂を破って訪れた。
まず耳に届いたのは襖がサンを擦り開かれる音。次いで、
「あっ、起きたんだ。良かった」
甲高いソプラノがきんと響く。寝起きに聞くには少々耳障りな声だった。
明らかに妹紅が先ほど思い浮かべた知人の、緩やかなアルトとは一線を駕している。
妹紅の生きてきた内に身に付いた感覚が警笛を鳴らし、彼女は素早く身をひる返し声の主を見上げた。
「おはようお姉さん。とりあえずお腹空いてない? もし空いてるなら直ぐなんか作ってくるから」
「……へ?」
しかし目があった瞬間。警戒の表情がみるみる崩れていく。
いや実際には、目の前にいる妖怪は人にとって天敵とも言える存在で。自分とて確かに人の身で在りながら、人以外の能力を持っているとは言え、決して油断して良い相手ではなく。
しかしそれでも妹紅が警戒心を解いてしまったのは、目の前の彼女の表情と口調があまりにも柔らかく――と言うか、脳天気過ぎたからかも知れない。
背に生やした猛菌類を想像させる翼と、指の数倍の長さがある爪の存在は確かに、彼女が人の天敵たる妖怪の獰猛さを窺わせる物だったが。しかし彼女が身に着けたフリルとリボンで彩られたワンピース。そして何より丸っこい小さな顔は人懐っこく、その獰猛さを包み隠して余りある愛くるしさだった。
まあある意味それは、この人を誘い、食らう妖怪として最も妥当な容姿であると言えるのかも知れないが。
いずれにしても妹紅は、この目の前の妖怪に、助けられたという事は確かな様だった。
(ん……まぁ、とりあえず礼は言っておいた方がいいかな)
「あのぅ、お姉さん?」
ずっと黙したままの妹紅に、目の前の彼女は首を傾げ、目を細め覗き込んできた。
ふと呼ばれて気づく。当然な事として、お互いの名前を知らないのだと言うことに。
妹紅は微笑を浮かべると言った。
「もこう」
「え?」
「藤原妹紅。私の名前だよ。助けてくれてありがとうな。それにわざわざこんな場所まで運んでくれてさ。え~と……」
「ん?」
妹紅の言葉尻が名前を尋ねているのだと、彼女が理解するのにはわずかな時間が必要だった。
「ああ、私はミスティア・ローレライよ」
「みす……てぃあ? じゃあ、貴女が例の夜雀か……」
妹紅はミスティアを見たのは初めてだったが、その名前には聞き覚えがあった。
いや、見覚えと言った方が正しいかも知れない。
確か知り合いが持ってきた新聞の一面のどこかに、人里で居酒屋を始めた夜雀の記事を見たことがある。
その夜雀の名前が……確かミスティア・ローレライ。
「ふ~ん。貴女がねぇ……」
「な、何よ急に?」
名前を聞いた瞬間、意味深な笑みを浮かべる妹紅に、ミスティアは小さく頬を膨らまして抗議を発する。
「いやさ……まあ機会さえあれば、一度会ってみたいと思ってたんだよ」
「え?」
「人を食らう妖怪の身でありながら、人里に寄り、あまつさえ商売しだす妖怪なんて珍しすぎるだろう。一体どういう経緯があったのかね知りたくてね。うんまあ……単なる興味本位だから。別に変な他意はないよ」
さらに言えば。なぜそんな危険極まる妖怪を里の民が受け入れたのか。里には妹紅のとある知り合いが居るはずで、彼女など真っ先に排除しそうなものなのに。
むしろ妹紅の興味はミスティアに話した部分よりも、伏せたこちらの部分が大きとも言える。
まあしかし、それとてやはり興味の範疇を出るような物ではない。もし本格的に知りたいと思ったのなら、もっと早くこの雀のお宿に、妹紅自身から出向いて居ただろうから。
そう……たまたま。偶然。
たまたま出会うことになったから、彼女にたまたま興味が沸いた。
少なくともこの段階では、妹紅にとってミスティアという少女は、それ以上でも以下の存在でも無かったのである。
「そっか、なるほどね」
妹紅の返答に今度はミスティアが頷く。それから少し困った風に眉を潜めると、座ったままの妹紅の視線に合わせて腰をかがめ、その愛くるしい笑顔の乗った頭を傾げた。
「まあそれは追々に話すとして。とりあえずお腹空いてないかな? もし空いてるなら、私なにか作ってくるけど?」
「……?」
なぜかもの凄く話題を強引に戻された気がするが、しかし妹紅も大して気にしなかった。
とりあえず目の前の夜雀は、妹紅になにか食べさせたくて仕方ないらしい。
訊かれてみれば腹は減っている気はする。寝起きでいまいち胃は空腹を訴えてはこないようだが、それも時間の問題だろう。
「うんそうだね。ここまで世話になったんだ。ついでに後一つくらい世話になろうかな」
「よし分かったわ。もう朝食の準備は終わってるし、そんなに掛からないと思うから待っててね」
「ああそれと、もう一つ」
身をひる返し、羽音を残して去って行こうとしたミスティアを、妹紅は直前で呼び止めた。ミスティアは、顔だけ振り返った状態で「ん、なぁに?」と軽く問う。
「この寝間着。着替えさせてくれてありがとうな。……で、私の服ってどこに有る?」
「え?」
瞬間、ミスティアの眉と唇がきゅっとひん曲がった。気まずさと困憊を合わせたような、微妙な表情だ。
「あ……もしかして捨てちゃった?」
「え? ああううん、捨てては無いけど……。もう凄いぼろぼろだったよ。着ても多分……隠れない肌の方が多いくらいに」
「まあ……そうだろうね」
言って妹紅は苦笑い。服の状態など妹紅にしてみれば、今更ながらいつもの事だった。なにしろ一晩中、輝夜と全力でやり合っていたのだ。衣服など戦っている最中にボロ布に変わり果てている事くらい、既に承知していた。
「うんまあ……ぼろぼろでも良いよ。灰だけでも、一握りでも残っててくれればそれで言い」
「そ、そうなの?」
「ああ」
ミスティアがボロ布にしたわけでも無いのに、なぜかすまなそうな表情のミスティア。妹紅はその表情の曇りをとってやるつもりで、自信たっぷり、満円の笑みで答えてやる。
「じゃあ分かったわ。ご飯と一緒にここに持ってくる。もう少し待っててね」
妹紅が頷き、今度こそミスティアはその場から去ろうとした。
だがそれは再び、別の何かによって遮られる事となった。
――ぉ……ぃ。……ティア。
ふと妹紅の耳に、遠く微かに人の声が聞こえた様な気がした。
恐らくは屋外からだ。外から叫ぶような、張りのある女性の声。
どうやらそれが妹紅の幻聴でないことは、目の前のミスティアを見れば一目瞭然。彼女は妹紅よりもはっきりとした反応を部屋の向こうへ。恐らく廊下のさらに奧から聞こえている、外の方へと視線を向けている。
鳥の妖怪だけあって、さすが聴覚は人の比ではないのだろう。
「もしかして……誰か来た?」
「ああうん、どうやらもうお客さんがくる時間だったわ」
「きゃ……く?」
こんな朝早くから、居酒屋に客など来るものなのだろうか?
「ミスティアの店って、こんな朝からやってるわけ?」
「お客って言っても飲みに来る方じゃないわよ。その逆ね」
――お~い、ミスティア。居ないのか~?
今度の声は妹紅にもはっきり聞こえた。僅かにハスキー掛かった、女性のアルト。
(……って、この声、まさかっ?)
妹紅の瞳がいっぱいに開かれる。
その声の主を一瞬で理解する。なにしろその人物は今の自分にとって、親の敵の次になじみ深い知り合いだったのだから。
「ごめんねお姉さん……じゃなくて妹紅。ご飯の準備はもうちょっとだけ待っててね」
ミスティアが呟き。そうして妹紅が迷ったのはただ一瞬だ。
「あ、いや……私も付いてっていい?」
「え?」
「多分さ、今来た客って、私も知ってる奴だと思うんだよね」
「……まあ、別に良いけど?」
「よしっ」
言うなり妹紅は勢いよく立ち上がった。そのまま不思議そうな表情のミスティアについて、板張りの廊下をひた歩く。
家全体は結構広いようだった。一般的な店主が過ごす場所と、店のカウンターが繋がっているタイプの家らしく、ミスティアに付いて出たのは、その調理側だった。
妹紅が初めて見た店内の構造は思っていたよりも全然広く、かなりの広さがある様だった。さっきまで思い描いていた、カウンターが数席だけのこじんまりした居酒屋ではない。テーブル席が四つも配置された、ちゃんとした食事も出来そうな軽食堂程度の広さはあった。
妹紅が読んだ新聞によれば、盛況している時には、行列すら出来るということだから、この規模の店をミスティア一人で切り盛りしているとすれば、意外にも彼女の接客スキルは相当高いのかも知れない。
「お~い……ミスティアっ。ったく……本当に居ないのか?」
来客用の大きな引き戸の向こうで、今度は彼女の付いた悪態までもがはっきり聞き取れた。
「はいは~い。今開けるよ~」
そしてミスティアは一羽ばたきで、カウンター席を飛び越え、引き戸へとその手を掛ける。カウンターの端っこには、もちろん通り抜け用に開閉できる部分が有るのだが、確かにこっちの方が早いし、なにより彼女らしい。
――がらりっ。
ミスティアの手で戸が引かれると、その向こうから強烈な朝の日差しが入り込んできて、妹紅は一瞬だけ目をくらました。
そして視力を回復して見たその向こうに、やはり彼女が居た。
「おはよう慧音。今日も朝から発注品ありがとうね~」
ミスティアが元気に挨拶するその相手は、さんざん待たされた故にか、いつもの生真面目な顔に唇がつり上がっていて、若干不機嫌そうだ。
「何がありがとう……だ。何回呼んだと思ってる。私はてっきりいなぃ……っえ?」
そして言葉の途中で、慧音はミスティアの背後に居る妹紅の存在に気づいたのだろう。口をぽかんとあけたまま、視線を外せずにいる。
妹紅はそんな知人の、普段は見れない間抜けな表情に、唇を真横に伸ばしにやり笑った。
「やぁやぁおはよう慧音。奇遇だねこんな場所で……さ」
そんな対照的な表情を浮かべる妹紅と慧音の間で、ミスティアだけが何がなんだか分からず、二人の顔を交互に見返し、ただぽか~んとしていた。
【scene-two】
文明の三大ライフライン。
すなわち――電気。水道。ガス。
こと幻想郷に置いて、それらは別段めずらしいと言うほどの物ではない。
しかしそれは人の歴史の中で発達してきたものであって、もちろん郷に住まう種族その全てが平等に使ってきたわけではない。
だからこそだろか? 妹紅はこっちの客席とカウンターが隔てた調理場で、それら文明の利器に囲まれ楽しげに調理する妖怪――ミスティアの事をさも珍しげに観察していた。
「どうかしたか妹紅?」
ミスティアを目で追い続ける妹紅に、テーブルの対面に座った慧音が怪訝な表情で問いかける。
「ん? いや別に……さ」
妹紅は視線だけで慧音を振り返ると、ぶっきらぼうにそれとだけ答えて、再びミスティアへと視線を戻した。
「まあいい。とにかくだ、成り行きはだいたい分かった」
慧音は呟き一息。持った茶碗の上に盛られたご飯を箸で掬い咀嚼する。さらにテーブルの上に置かれた小皿からキュウリの浅漬けを運ぶと、彼女の口がカリコリと軽い音を立て始めた。
ご飯と漬け物。それに加えて薄紅色に焼けた鮭の塩焼き。椎茸の吸い物。慧音前にあって彼女がつつくそれは、もう完璧なまでの定食屋の朝メニューと言える物だった。
そうして彼女の朝食と同じ物が、先ほどまで妹紅の側にも置かれていたのだが、こちらは既に綺麗に食べ終わっている。
二人の朝食は、二人が話をする際にミスティアが用意した物だった。
盛りつけ下準備が既に終わっていた事を考えると、どうやらミスティアは妹紅が起きる前から、既にごちそうする機満々だったのだろう。
それが二人分。恐らく慧音の分が本来ミスティア自身の物だったのだろうが、今カウンター向こうで動き回るミスティアは、そんな事を気にする様子はない。慧音からの仕入れが届き、今宵の下準備に勤しみながら楽しそうに歌っている。
「はぁ……いつもいつもあんな不毛な喧嘩ばっかりしてるから、こうやって他人にまで迷惑を掛けることになるんだ。全く、すまなかったなミスティア」
慧音の感謝にも、ミスティアはどこふく風と言った感じで歌い続けている。確かに歌い始めると周りが見えなくなると言う、いつかの記事に書かれていた内容は本当のようだ。
「別に慧音が謝ること無いだろ。まあ……それにしても、こっちも納得行ったよ」
「なにがだ?」
「いやさ……妖怪が人里で商売するなんて、まずイの一番に慧音がさせないと思ってたんだけど。なるほどね、その里の番人自らが一枚噛んでたわけだ?」
「わざとらしく誤解を招くような言い方をするな。……ん、まあ、正直最初は私も驚いたがな、こいつがいきなり人間相手に、商売などやりたいと持ちかけてきたときには。だが……今後一切、里の人間に手を出さないと言う条件で承諾してやった」
そして慧音は里の人間を頼り、ミスティアの為に一軒の店を用意してやった。そうして人間を襲わない限り、ある程度の食材等を提供してやる事も。
「へぇ……大盤振る舞いじゃん慧音にしては?」
「それで妖怪一匹から里の安全が約束されるなら、安い物だ。それに……例え人間だろうと妖怪だろうと……まじめに働くというのは良いことだ。まあもっとも、まさかこいつにここまで商売気質があるとは、まったくもって予想外だったがな」
「それは確かにね」
妹紅は目を細めて呟き、眼下、一粒のこらず食べ終わった己の膳を見る。
人里で人気の居酒屋というから、どの程度の味かと期待していたのだが。ミスティアのそれは想像以上だった。
今は半分起き抜けで、しかも昨夜は輝夜と殺りあった身。精神的にも体力的にも、食欲はさほど湧かなかったのだが、彼女の朝食を一口食べた瞬間、それまで止まっていた満腹中枢がいきなり覚醒したかのごとく、妹紅は目の前のそれを一心にかきこんだ。
『食べるのは結構だがな。そろそろなんでお前がここにいるのか説明してくれ……妹紅』
ジト目の慧音が妹紅にそう言ったのは、妹紅がほぼ全ての食材を食べ終わった後だった。
先の妹紅の「確かにね」と言う感嘆は、慧音が言ったミスティアの商売気質の部分についての事なのだが、しかし当の慧音は別の意味でとったらしい。
「そうだな。毎夜毎夜……不毛な喧嘩に明け暮れる人間なんかより、働く妖怪の方がよっぽど健全な生き方を送っていると言えるだろうな」
「……ぐっ」
妹紅の頬が引きつる。もしかして慧音のことだ、妹紅の感嘆の意味をちゃんと分かった上で、あえて皮肉を言っているのかも知れないが。
下手をするとこのまま、また慧音の説教をねちねち聞かされるハメなるかも知れない。妹紅のカンがそんな危険信号を告げていた。
ただでさえ、慧音相手に口先では勝算が薄い。ここは深みにはまるより、早々に退散したほうが良いかも知れない。
「さ、さてと。美味しいご飯も頂いたし、私はそろそろ行くよ。ごちそうさまミスティア。この恩は、またいつか返させて貰うよ」
妹紅は機械的な動作で席を立ち、歌い続けるミスティアへ必要以上の大声で挨拶した。
(どうせ聞こえて無さそうだけどさ)
そう妹紅が思った矢先。
「あれ、妹紅帰っちゃうの?」
慧音が呼びかけたときとはうって変わって。ミスティアは歌うのを止め、妹紅を呼び止めた。
「あ、うん。今日は本当にありがとさん」
「え、でも……」
急にミスティアが眉を顰める。どうしたのだろうと……刹那、思い至ることが一つだけあった。
「ああもしかして……服の事?」
そう言えば、ぼろぼろの状態も良いから返して欲しいと言ったのだった。でもそれなら別にミスティアが困った顔をする必要はない。今この場で貰えば済むことだ。それとも……本当は捨ててしまったとか、そもそも回収してないとか言うことだろうか。
「ああ服なんか無ければ、別に良いんだけどさ」
そもそもそれに関して、ミスティアに罪は無いわけだし。
だが彼女は、そう言う事じゃないと首を横に振った。
「ううん、服の事じゃなくてさ。ええと妹紅の住んでる場所って……もしかしてあの、もう一人の女の人と戦ってた場所に有った、一軒家?」
「え、うん。そうだけど?」
妹紅と輝夜。二人が日々戦う場所は大体にして二通りに限られる。お互いの住処、屋敷の周り――その竹林だ。
そして昨日は前者。妹紅の家、それもかなり近場、というかまんま妹紅の住処だった。
「やっぱりね。じゃあさもう無いよ……妹紅の家」
「………は?」
「うん……昨夜二人が戦ってるその流れ弾? っていうか余波でさ……妹紅の家って完全に全焼してるの」
「……あ……え?」
「だってそうじゃなきゃ、私もさすがに一人担いで、自分の店まで飛んでこないよ。そのまま妹紅の家にお邪魔して、そこで介抱してたと思うし」
「……」
ミスティアの言葉に、妹紅は真っ白になりかけた思考をなんとかフル回転させて、昨夜の最後の方の記憶を思い起こそうとした。
そうだ。確か昨夜は二人ともいつにも増し白熱してしまって、もう周りの現状把握が出来ていなかった気がする。
そして屋根の上に立つ輝夜。あからさまな挑発に妹紅は揺らめく翼を羽ばたかせ、こん身の一撃を撃ち放つ。
強力だが単純なその一撃は、避わした輝夜の足下、その屋根を吹き飛ばし……。赤い炎は……みるみる内に家屋全体を包み込み、ものの数分でそれを炭の山へと変えてしまった。
「あ……あ、あぁぁぁぁぁぁっ、あの女(アマ)ぁぁぁぁぁ!!」
「わはははははははははははっ」
妹紅の絶叫に重なるように響いたバカ笑いは、それまで事成りを見守っていた慧音のものだった。
「け、慧音っ」
妹紅はキッと慧音の方を向き直る。
「いやはや妹紅? いつかは、どちらかがやるんじゃ無いかと思っていたがな。と言うより……今までしでかさ無かった不思議なくらいだろう? は、ははっ」
慧音は未だ笑いの発作が収まらない様で、涙すら浮いた目で妹紅を見た。もちろん同情や悲しみからくる涙ではない。
「で、でも慧音」
「まあ……なら良い機会かも知れないな」
妹紅が何か言う前に、慧音は一人で自信満々に納得し。そして妹紅のことを見た。
「まあ妹紅。お前の家の方は、私の方でなんとかしてやる。今すぐには無理だがな……。そうだな……おおよそ一月と言ったところか?」
「能力を使う気?」
一月経てば、月は巡り再び満月になる。そうすれば慧音の能力で、妹紅の家の歴史を作り直すことが出来る。全く以て便利な能力だ。
妹紅の言葉に、慧音は応とも否とも答えず、ミスティアの方を見た。
「だからミスティア、それまで……こいつの事を頼んだぞ」
「え?」「なっ?」
頼まれたミスティア自身。慧音の言葉に疑問を返し、それが妹紅の疑問符とはもる。
「ミスティア……お前確か、最近はますます店も賑わい始めて、一人じゃ切り盛りが追いつかないって、嬉しい悲鳴で鳴いていたじゃないか。妹紅はこう見えても私やお前なんかより全然、長い時を生きてるしな。料理はもちろん、掃除や洗濯だってそれなりに出来る。決して居て、お前の足を引っ張るような真似だけはしないさ。ほら妹紅……暫くの宿主に改めて挨拶しろ」
そう言って慧音は、意地の悪い笑みを消さないまま、妹紅の背中をバシッと強く叩きだした。
「ちょ……ちょっと勝手に決めないでよ。そんないきなり、ミスティアだってこま」
だが妹紅の言葉が言い終わらぬ内、
「やったっ、ほんとに妹紅と一緒に暮らせるの。ありがとうけ~ね!」
ミスティアは歌い流れる様な口調で、大声で喜びを表現すると、カウンターをひとっ飛びに、妹紅の眼前までやってきた。
「じゃあ妹紅。これからよろしくね」
「な……ミスティア? いや……だって……ね?」
慧音の方に視線を向けても、その意地の悪い笑みは「家を直して欲しければ従え」と語っている。
「もう……分かったよ。こちらこそ……これからよろしくな、ミスティア?」
結局……妹紅は慧音の提案をのむことにした。
だがそれは慧音の策略にはめられた訳ではなく、はまってやったのだと、妹紅は自分に言い聞かせる。
これほど喜んでくれるミスティアの、その夜の妖怪とは思えぬ、太陽の様な笑顔。妹紅はなかばそれに惹かれる感じで、介抱と食事の恩返しをすることに決めたのだから。
【sceneーthree】
どうしてかは分からない。
しかし妹紅は、どうにもこうにも初対面のはずのミスティアから、よほど気に入られてしまったらしい。
それもどうやら妹紅が思っていたよりも、いや妹紅が想像していたのとは、少しばかり違う明後日の方向へ。
朱い斜陽が差し込む一室で、妹紅の眼前にミスティアの顔がある。
まだ半開きなままの瞳には、あっけに取られたままの妹紅の表情が映り込んで、驚嘆を吐き出すはずのその唇は、同じく相手の唇によって粘っこく塞がれていた。
背後――その首筋には、ミスティアの細くしなやかな腕が絡みついている。指よりも長く伸びた爪先が、妹紅の灰色の髪を梳く。
妹紅は力が入らないと言うより、どうして良いか分からず両腕をだらりと下げ、今はただ思考が現状に追いつくその時まで、ただミスティアにされるがままになっていた。
不快……では無かった。むしろその触れ合った部分から流れ伝わってくる熱は、妹紅の全身を心地の良い暖かな温度で包み込んでいく。
心地良いが……少しだけ危険な心地よさだと、妹紅は悟った。全身に回った熱は、恐らくは間もない内に凝縮し、胸の一点から身を焦がすような焔へと、その性質を変化させてしまうことを、彼女は経験から思い知っていた。
そうして至った。そんな焔を灯せるほどの感情に。
実のところ自分だって、この少女の事を同じくらい気に入っていることに。
そのまま二桁は瞬ける時が過ぎたのだろうか。
寝ぼけ眼のミスティアの瞳に、確かな光が宿った。
そして刹那、相手の事を突き飛ばすように開放したのは、そのミスティアの方が先だった。
あの後で慧音は、妹紅をミスティアの元で働かせる段取りを作ってしまうと、朝食を一粒残らずごちそうになり、大満足の表情で帰っていった。
そうしてその後。妹紅はミスティアが宵からの開店に先駆け、今より料理の仕込みに歌いながら勤しむ姿を、客席からぼ~っと眺めていた。
彼女の仕込みを手伝うという案は、数秒迷っただけで却下された。
慧音が言っていたように、妹紅の調理の腕は折り紙付きだ。だからそんな妹紅だからこそ、今のミスティアに中途半端な手伝いは不要だと悟ったのだろう。
妹紅にとってはこれまた意外なことに、それほどまでにミスティアの仕込みの手際は洗練されサマになっていたのだ。
妹紅で無くとも誰であれ、下手に声を掛けて彼女のリズムを乱せば、逆に足を引っ張ることになってしまう。
だから仕込みの最中は妹紅の方からは、ほとんど話しかける事もなく。ミスティアの、元人食い妖怪とは思えぬ脳天気な歌声を背景に、時間はたんたんと流れていった。
仕込みも後は鍋にかけて待つだけという段階になって、妹紅はやっとミスティアに声を掛けて、一度、家の方へ戻ってみると告げた。
ミスティアは早速に顔を曇らせたのだが、ただ現状を把握しに行くだけだからと言う妹紅に言葉に、直ぐに笑顔を取り戻し送り出してくれた。
そして、
「仕込みが終わったら、私それから寝てると思うから……勝手に入ってきて良いよ?」
聞いたミスティアの言葉を背に妹紅は、いざ雀のお宿を出発する。
またそれから半刻ほども歩いた頃だろうか。妹紅が実は、未だミスティアに借りた寝衣のまま出てきてしまった事に思い至ったのは。
結局今から引き返すのは面倒くさいのと、竹林ではほとんど人目に付かないと踏んで、彼女はそのまま歩き続けることにしたのだが。
そう、妹紅は歩いて向かっている。
蓬莱の薬で不死の能力を得た時より、妹紅は空を駆るための能力も身に着けたが、普段の生活で彼女はその能力をあまり表に出さず、まず歩くことにしている。
例え人目少ない場所であろうと、上空を見れば、やはり彼女の持つ炎の翼は目立ちすぎる。特に日中ともなれば尚更だ。
まあ数多の妖精、妖怪が跋扈するここ幻想郷だ。目立った所でさしたる問題は無いのかも知れないが。そこは並の妖怪以上に長く生きてきた彼女の、その内で育ってしまった世捨て人的な生き方の影響かも知れない。
(でも不思議だね。ただ一夜の宿を借りただけの夜雀風情に、こんな興味が沸くなんて)
心でそう呟き。彼女は暢気に鼻歌を囀りながら、今は無いという自分の家に向かって歩き続けた。囀るそれは、仕込みの間中ミスティアが歌っていて、ついには妹紅もその歌詞を覚えてしまった歌だった。
ミスティアの元から自分の住処まで、歩くとなるとさりげにかなりの距離があった。
妹紅が見覚えのある開けた"庭"を発見した頃、竹林の隙間から見える太陽は僅かに西へと傾きかけていた。
妹紅の直ぐ目の前に木材の成れの果て、昨日までは確かに妹紅の家だった黒い炭の塊が、視界いっぱいに積み上げられている。
これでは中にある家具やその他諸々も、焼かれ、潰され、全滅だろうと言うことが、焦げた柱をどけることも無くはっきり分かる。
「これはまた……派手にやられたというか、やってしまったというか。さすがに骨が折れそうだわ……」
二度のため息を挟み妹紅は呟くと、不意に右手を掲げて、その手中に昼の光の中でも煌々と輝く赤い炎を一つ生み出した。
同時に背中から吹き上がる炎の形は、ミスティアと同じ猛禽類の翼を想像させる。
だからだろう。妹紅の脳裏を掠めたのは、今日自分を介抱してくれた妖怪の容姿だ。
そして……彼女の店を出てくる際に見た、夜の妖怪とも思えぬ太陽のごとく眩しい笑顔。まるで十年来の親友を送り出すような……純粋な笑顔だった。
――きゅん……。
妹紅は手の炎と背の翼を、締め付けられた意志でうち消す。
「……よし……帰るか……」
先ほどよりも深い、肩を落としたため息をやはり二回。妹紅は自分の家だったモノに、背を向け歩き出した。ミスティアの家に帰る為に。
はたして自分があんな純粋な笑顔を浮かべる事が出来たのは、どれほどの過去の事だろうか。来た道を辿る際にそんな記憶をも辿りながら。
行きにそれだけ時間が掛かるということは、同じように歩いて帰れば、当然帰りも同じだけの時間が掛かると言うことだ。
妹紅がミスティアの元に戻る頃には、空はすっかり茜色に変わっていた。
彼女の店がはたして何時から開店なのか。妹紅は何も聞いていないが、表の提灯に火は灯っておらず、まだのれもの掛けられていない所を見る。出かけに彼女が言っていたことからも予想するに、彼女はまだ寝ているのかも知れない。
店側の入り口から入る。そこにはやはり、ミスティアの姿は無かった。
カウンターを越え厨房の方へ回る。奧へと続く廊下に上がり、朝の記憶を頼りに、自分が目覚めた例の寝室を探す。
少しだけ迷ったが、妹紅はやがてそこへ辿り着いた。
そして……彼女もそこに居た。
妹紅が目覚めた布団は未だ敷きっぱなしになっていたが、しかしミスティアはそこで眠っている訳では無かった。
部屋の隅。彼女は布団から離れたそこで膝を抱え、毛布の代わりに己の翼で身を包み込むような格好で瞳を閉じていた。
「ミスティア?」と、妹紅が小さく呼びかける。
眠ると言うにはあまりにも奇妙な寝相だったので、妹紅はもしかしてどこか体調でも悪いのかと、ミスティアの方へすり寄った。
ヒザ立ちになり、横から覗き込むように彼女の顔色を観察する。
だが見えたその顔色は、健全そのものの寝顔だ。そして聞こえた寝息は規則的で、彼女は今、安眠の最中にいるのだという事実は疑いよう無い。
「えと……ミスティア?」
どうして布団があるのに、わざわざこんな格好で?
妹紅の呼びかけに反応したのか。不意にミスティアの唇が開く。そして息の抜ける分かりづらい口調ながらも、妹紅は彼女の告白を聞いた。
「もこう……あん…にきれい。だいすき、だよ……」
「…………。おーい、みすてぃあ~?」
妹紅は軽くミスティアの頬をつついてみる。店を何時に開けるのかは知らないが、なんにしろそろそろ起きて、開店の準備をしたほうが良いのではないか?
ミスティアは頬をつつかれたくすぐったさに、わずかに顔をそむけ半目をむいた。
まだ焦点の定まっていない瞳が、妹紅の瞳を見つめてくる。
「おはよミスティア。ええと……ただいま?」
「もこう?」
妹紅はこくりと、ぎこちなく頷き返す。
するとミスティアは、唇を結んで頬を綻ばせた。膝から両腕を離すと、のろりとした動作で腕を妹紅の首に回す。
「ちょ、ミスティア」
そうして次に膝を内股に崩すと、今度はとても寝起きとは思えない力強さで、妹紅の顔を胸元へ抱き寄せる。
そしてさらに妹紅が何か呟こうとする前に、ミスティアは自分の唇を、妹紅の唇へと滑らせた。
【scene-fore】
ミスティアからの、いきなりの抱擁と口づけ。
それから妹紅は、ミスティア自身の手で突き飛ばされた。
いつもなら何でもない程度の衝撃でも、あまりにも予想外の事が続けて起こりすぎた為、うまく思考が追いつかなかったのだろう。妹紅はそのまま無様に仰向けに倒れ込み、西日で靄掛かった様な天井を眺めるハメとなった。
「あっ。ご、ごめんなさいっ! だいじょう……ぶ?」
向こうから慌てふためいたミスティアの声が届く。直ぐさま駆け寄ってきた彼女の顔が、妹紅の事を覗き込み、強い握力が妹紅の肩を抱く。
(ああなんか……結果だけ見ると、そのままミスティアに押し倒された感じがするね)
そんな事を思い、口元に苦い笑みを浮かべる。
「も、妹紅?」
「ああ、平気。でも……あんな風に唇を奪った後に押し倒すんだったら、どうせなら向こうの布団の上の方が良かったんじゃ無い?」
「へっ?」
妹紅に言われて初めて、自分の状況を客観視することが出来たのだろう。ミスティアの頬が一気に茹で上がる。
「あ、違うよ。これはその……そう言うのじゃなくて。起きて直ぐに妹紅の顔があったから、びっくりして突き飛ばしちゃったから」
「ふふ……冗談だって」
想像したよりずっと初々しい反応を見せるミスティアに、妹紅はそのギャップが面白くて小さく笑った。
「と、とにかくごめんなさい。も、もうどくからっ」
そうしてミスティアの握力が、妹紅の肩から離れた瞬間だった。
妹紅は自由になった腕で、さっと彼女の肩を抱き竦めると強引に自分の方へ倒れ込ませた。
可愛い悲鳴が妹紅のすぐ耳元で発せられる。再び両者の鼻先が、触れるかの寸前まで密着した。
「でもさ……さっきのキスは、別に間違いじゃないでしょ?」
「も、もこ……う」
妹紅は腕をミスティアの背中まで回し、力を込めてくびれた腰元を抱きしめた。かさり……と彼女の翼が擦れ、妹紅の手の甲を掠める。その柔らかな感触が妙にくすぐったく、心地良い。
衣の向こうからミスティアの鼓動と体温、そして何より肉感が伝わってくる。同じく妹紅の胸元で潰れ合ったミスティアのそれは、妹紅が外見から想像していたものよりずっと豊かな盛り上がりで、同性ながらも――いや、同性だからこそ強い嫉妬が湧きそうになる。
(そっか……ミスティアは着やせするタイプなのか)
いつの間にか喉に溜まっていた唾を、喉を鳴らして飲み込む。
「ねえ……ミスティアはどうして私の事を?」
妹紅は真っ直ぐにミスティアの瞳を、正確にはそこに写り込んだ己の瞳を見て問うた。
妹紅の言葉に、最初ミスティアは戸惑っていたようだったが。真摯に目を逸らさぬ妹紅の意気に促されたのだろうか。やがて伏せ目がちにはにかみながら口を開いた。
「うんそうだね。やっぱ一言でいうとあれ……一目惚れかな……」
「……なるほど」
頷きはしたものの。やはり腑に落ちないという感じはある。
ミスティアの瞳鏡に映り込んだ、自分の姿。その姿は、外見だけならどこにでもいる人間そのものだ。誰かを一目で虜にするような魅力(カリスマ)など、どれだけ客観的にひいきしても感じられない。
この腕の中の少女は、いくら人里で商売を始めたと言っても、本来は人を誘い食らう妖怪がだ。そんな妖怪が偶然居合わせたというだけで、見ず知らぬ人間の事を介抱するために、わざわざ大変な思いをして自分の家に運び込んだりなんかしないだろう。
妹紅にはミスティアに対する、直接的な認知は無かった。恐らく相手にとっても同じ筈だろう。
それが一夜にして、唇を奪われるほどの恋慕を向けられる事になる理由を、妹紅は知りたかった。
「あのさ、妹紅がもう一人の女の人と戦ってるときの姿」
「輝夜……と?」
「名前は知らないけど……あの黒髪のお姉さん? 彼女と戦ってる時の真っ赤な翼を生やした妹紅がね、もうすっごく綺麗で……素敵で、格好良かったの。まるで目の前で炎が躍ってるみたいで……さ?」
「はは……みたいね~」
実際妹紅の翼は、不死の象徴である不死鳥を具現化したものだから、みたいでなくそのまんま炎の翼なのだが。
「でもそっか。それだけのことだったのか」
「それだけって……私にとっては、凄く大事なことなんだよ?」
「あ……いや。別にミスティアの気持ちを軽く扱った訳じゃないんだ。ただ……」
妹紅の持つ力は彼女にとって最大の武器であると同時に、それは彼女にとっては忌まわしき過去の具現でもある。
それもあって、妹紅はその力を日常でほとんど使おうとしない。
使うのはその忌まわしい過去の根本である輝夜と交えるときか、もしくはどこから身に降りかかる火の粉を払い落とす時くらいだ。
だからそんな力を『綺麗』と評し、あまつさえ惹かれるミスティアの様な存在が居ることに、妹紅は意外な己の一面を知らされたのだ。
「ただミスティア。悪いと思うけど……やっぱり私の事はさっさと忘れた方が良いと思う」
「どう……して?」
悲痛に歪んだミスティアの顔を直視できなくて、妹紅は首を傾け視線を逸らした。
「慧音が言ってたろ。私は人間でありながら、妖怪の貴女なんかより遙かに長い年月を生きてきたって?」
「……うん」
ミスティアは頷いたが、表情は不安なままだ。妹紅が言葉を理解は出来ても、その言葉の裏にある、妹紅が告げたい心理まで考えが及ばないのだろう。
「もうかれこれ千年以上を生きる身だ。貴女以外にも、数え切れない程のモノに愛されて、そして私自身も愛してきた」
妹紅があえてモノと表現したその色沙汰の中に含まれるのは、もちろん人間だけでは無い。
多くの人間、多くの妖怪、中には神と呼ばれる域にある存在も居た。
性別は問わず……男も居れば女も居た。性別すら存在しないモノすら……妹紅は愛し愛されてきた。
「でもそれは結局、私に取ってはどれも同じ。過去の一つの出来事でしかないんだ。例えその時身を焦がすほど愛しても、死すら厭わないほど愛されても。時間が私達を離してしまえば、私にとっては同じ。長い時が流れる中で、それらは全て同じ一つの過去という認識の中に埋もれて行ってしまう。私に取って色恋沙汰、いや他人との関係なんて……過去を積み重ねる事でしかない」
それが永遠を生きると言うこと。
「そんなの……ミスティアは嫌だろ。貴女がどんなに私を好きでも、私がどんなに貴女を好きでも。結局時が経って、貴女が私の側から居なくなれば……。他と一緒、単なる過去という一つの言葉で片づけられる存在にしかならないなんて?」
「なんで? 全然嫌じゃないよ」
「……ミス……ティア?」
ミスティアの言葉に、妹紅は呆気にとられ振り向いた。そこには一片の迷いすら感じさせない、ただ真っ直ぐな笑顔がある。妹紅が永遠を生きる中で、何度思い出そうとしてもおおよそ出来なかった、無垢な笑顔がまたそこに浮かんでいた。
「むしろ私は嬉しいよ。だって妹紅も私の事が好きだって言ってくれたもの。自分の想いが叶って、なんで嫌な気にならなくちゃいけないの?」
「いや……だからミスティア?」
「ねえ妹紅。実は私には、妹紅の言った難しい事なんてよく分からないんだけどさ」
ミスティアは正直に告白し、そうして先ほどの様に妹紅の肩を抱くと、今度はまるで猫が飼い主に甘えるような仕草で、妹紅の首筋に頬を擦りつけた。
それに妹紅はわずかばかりの息苦しさを覚えるが、彼女の仕草に身を委ねた。直接肌から伝わる体温が妙にくすぐったい。
「妹紅がさ、私のことを思ってダメって言ってくれたのは、何となく分かるよ。でも妹紅はさっきさ、私が離れようとしたらぎゅって引き留めてくれて、今こうやって抱きしめてくれたでしょう。それって結局は……私の事を受け入れてくれたって事じゃない?」
妹紅は沈黙する。なんと言い訳していのかも思いつかなかった。
どうしてさっきミスティアを引き寄せてしまったのか。実のところ妹紅自身にも分からない。ただ……自分の肩を抱くミスティアの手が離れていく事に――刹那、胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。覚えて……気が付いたらその手を追い、握りしめていた。
そうして妹紅が、ミスティアへの気持ちがそう言う代物であると確信したのは、恐らくその瞬間だったのだろう。
(さっきは……彼女の気持ちをそれだけなんて言ったけど。なんだ、私だって変わらないじゃないか……ははっ)
一夜、闘い舞う不死鳥の姿を見て、それに惹かれた一羽の夜雀。片や夜に舞う夜雀の、その太陽の様な笑顔一つで心を鷲掴まれていた、千年を生きてきた自分。
「そっか、そうだ……ね。私はまた……誰かを好きになってしまったのか。まだ……誰かを愛することを欲していたのか」
「ねぇ妹紅は。もしかして……私を好きになった事を、後悔するのが嫌なの?」
「ん? ううんそうじゃ無いんだ……むしろその逆だから困ってる。こんなに好きになった貴女を、他の誰かと一緒にしか感じられなくなる日が……私は嫌なんだ」
今度は、ちゃんとミスティアの瞳を見て言った。だがやはり目の前の彼女は、訝しげに表情を歪めてしまう。
「……うん、やっぱりよく分からないわ」
「ああ……長きを生きないと分からないさ」
「そうかな。私だって、この先何年経っても……妹紅は妹紅、ただ一人だよ。そこに他の誰かと間違ったりしないと思うけど?」
「……まあいいさ。ならさ……ミスティア。最後にこれだけ教えてくれない?」
「ん?」
妹紅は考える。彼女に理解できるようになるべく簡単に。自分の気持ちを偽らない……ただ単純な問いを。
「ねぇ……ミスティア。私はさ……これからも、ここに帰ってきて良いのかな?」
妹紅は思い出す。今日の昼間、残骸と化した自分の住処を。
そこで自分の能力を具現し、しかし発揮せず。その後なんと呟いたかを。
『よし……帰るか』
妹紅は確かに帰ると呟いたのだ。偶然が重なった末に辿り着いた、この雀のお宿に。
考えてみれば……自分の気持ちの行方など、実はあの時すでに決まっていたのかも知れない。
「そんなのもちろんだよ。もし妹紅が気に入ってくれたら、一月なんて言わずにずっと居てくれても良いよっ。ここ、私と妹紅の愛の巣にしようよ」
やはりミスティアには、妹紅が問うたその言葉の裏の意味まで理解しきれなかったのだろう。軽い調子で了解すると、すでに気持ちが舞い上がっているのか、最後にとんでもなく歯の浮く台詞を口にする。
ならばどうせなら。こっちからも、ちょっとは小粋な告白をしてやろう。
「よしミスティア。そうと決まったら早速だけど、私の服を持ってきてくれない?」
「え?」
「だってさすがに、この借りてる寝衣じゃ店の手伝いに出ていけないだろ?」
「で、でも妹紅の服って、朝も言ったけど」
「分かってるって。良いから取りあえず、こっちに持ってきてよ。ね?」
妹紅が着ていた服は闘いの中で既にぼろぼろで、とても着られる状態でないと、朝この部屋でミスティアに言われた。
そんな事は妹紅自身が一番分かっている。何しろ今日に至るまで輝夜とは数えるのもばからしいほど殺りあって来たのだ。身に着けていた自分の服がどんな状態であるかなんて、見なくともだいたいの想像は付く。
ミスティアは不振な表情を拭えないままに、妹紅の身体からするりと抜けだし、「じゃあ待ってて」と一言残し、部屋の向こう側へと消えた。
時間にしてわずか一分ほどしか待たなかっただろう。部屋の向こう側からとんとんと廊下を駆る軽快な音が聞こえた事からすると、わざわざ駆け足で持ってきてくれたようだった。
「なるほど。予想以上の惨状だわこれは……」
「でしょう?」
妹紅の服は原型を止めていないくらいまで、ぼろぼろにされていた。元々真っ白だった上着は半分以上が焼かれ、残った部分も炭なんだか布なんだか分からない有様だし、足を通すもんぺ袴は、既に履くという行為が困難なくらいにざっくり消し飛んでいる。
そしてそんな状態の服でも、きちんと畳んで持ってくるミスティアの行為がおかしくも微笑ましく、ちょっと嬉しかった。
部屋の中央。ミスティアが興味津々に見つめてくる中で、妹紅は二つのボロ切れを片手で掴み、目線の高さまで持ってきた。
「なあ今朝さ、ミスティアが今夜の仕込みをしてる時、私はいったん自分の家の方に戻ったよね。あれって……一体何をしに戻ったのか、想像付く?」
妹紅は視線をあくまでボロ布から逸らさすに、言葉だけでミスティアに問いかける。
「何って……。焼けた自分の家を、どんな感じか見に行ったんじゃ無いの?」
「ああその通り。でも別にそれは、ミスティアの言っていた事を疑った訳じゃないんだ。それならわざわざ片道数時間掛かる距離を、わざわざ歩くのもバカらしいだろ」
「つうか妹紅、わざわざ歩いていったの? 飛べる……んだよね?」
「まあね。でも普段はあんまり能力を使いたくないんでね。よっぽどせっぱ詰まった時くらいしか。例えば……自分の家が焼けちゃって、手っ取り早く修復したいときとか……さ」
「ど、どう言う意味?」
「私の扱う炎って言うのは、私が蓬莱の薬を飲んだ時に得たモノなんだ。輪廻、転生、それを司る不死鳥。世界という概念を作り出したと言われる、始源の焔。そのごく一部、それ操るのか私の能力なのさ」
呟いた瞬間、妹紅の背中が煌めいた。赤く、猛き、狂おしい程に燃え上がる炎の翼。ミスティアが昨晩の内に魅せられ、そしてその持ち主である少女に心奪われた原因とも言える――不死鳥の翼。
もちろんこれは妹紅の能力を象徴したもので、この翼自体に引火させる能力はない。まあそれも妹紅がそれと望めば可能だろうが。少なくとも今ここで発揮した妹紅の力は、全てを焼き尽くす炎とは、むしろ対極にある物だった。
「やっぱり……きれい……」
うっとりとため息を吐いたミスティアの言葉に、妹紅は楽しげに微笑む。
「だからさ。私と……。私のこの力と長く共に在って、私の力の影響が染みついた物ならば、例えどれほど朽ち果てようと、そこに灰の一片だけでも残っていれば、まさに不死鳥のごとく甦る。こんな風に……ねっ?」
瞬間。妹紅のボロ布を掴んだ手から炎が吹き出し、布を跡形もなく包み込み燃やした。布は炎の熱さでのたうち回り、数秒の後にその姿を塵へと変えられた。
そうして……まるで無から熱が生まれたかのように、宙に一雫の焔が灯った。焔は内側から吹き出すように徐々に大きくなり、やがて妹紅の手に絡みつき、意志が在るようにとある形を纏いながらゆらゆらと広がっていく。
「あ、熱くないの?」
「ああ……。この火は全てを焼き尽くし、破壊する炎じゃ無いからね。破壊から転じて再生を生み出す、もう一つの焔だから……」
「…………凄い……。綺麗……」
「私も何度か見るけど。やっぱり何かを壊すより、物を生み出すこっちの火種の方が見てて心地良い」
「ううん違う、妹紅の事。やっぱりそうやって焔を操ってる姿の妹紅が、何より格好良くて好き」
「……」
柄にもなく照れた妹紅が、気を抜けばにやけそうになる頬を必死に堪えている間に、再生は完成しつつあった。
焔が揺らめく形は、持っていた妹紅の服の形を成していき、紅い色は一部は白く弾け、もしくは更に朱く、その色彩を変化させていく。
そうして揺らめきが完全に消えたそこには、新品同様に再生された妹紅のシャツともんぺ袴が、その手に握られていた。
「さて……それでミスティア?」
掴んだ服を胸元に引き寄せ、妹紅は今一度ミスティアの方に向き直る。
その頬に赤らみがさしているのは、熱を帯びない、恋と言う焔の熱気にやられた為だ。
「これで分かっただろ。今朝、私はさ……自分の家を再生させるために……わざわざ行ってきたんだ」
「う、うん。でも妹紅は結局……ここに戻ってきてくれた」
「違うよミスティア」
「え?」
疑問符と同時、わずかに表情を曇らせるミスティア。そんな彼女に妹紅は、悪戯っぽく微笑みかけた。
「私はここに戻ってきたんじゃない。この家に……帰って来たんだよ。そうさっきの貴女の言葉を借りるなら……。私とミスティアの……あ、愛のす、巣に……さ?」
どもりながらも確かに放った妹紅の告白に、ミスティアが弾丸の勢いで抱きつき、今度こそ敷いたままの寝床に押し倒したのは、ほぼ同時だった。
その晩。
評判高い夜雀の店を訪れた客の中で、その日だけは開店時間がやたらめったら遅くなってしまった真実を知るものは一人も居ない。
【extend】
「そういえばさミスティア? さっきは何で布団あるのに、わざわざ座って寝てたわけ?」
「え、なんでって……私にとっては普通だよあれ。ここに来るまでは、私横になって寝るって事無かったし。第一……人間みたいな寝かた、翼痛めちゃうかも?」
「ええと……じゃあこの布団は?」
「あ、それは私がここで店をやるって言ったとき、慧音がいろいろ用意してくれたの。その時に布団も有ったんだけど、私使わないじゃん。今まで放置だったんだけど、世の中何が幸いするか分からないわね~」
「ふ~ん、なっとく……」
「あ、でもこれからはちゃんと、布団で寝れる様に練習しなくちゃダメだね。後は……ツメも切るね。このままだと妹紅の……傷つけちゃう」
「いや……そ、それはその。はぁ……もう好きにしてくれよ……」
私が彼女に初めて出会ったのは闘いの最中だった。
それは今までに私たちが繰り広げてきた、ルールに沿った弾遊びなんかじゃない。
本当に相手を殺すつもりなら、弾幕(むだだま)なんていらない。
彼女達が纏った炎と、光。それらが放つ殺意が、誰かが言ったそれを肯定していた。
私は……ただ見ていた。彼女達の闘いを。
いや……彼女の闘う様を。姿そのものを……だ。
ただ我を忘れたように呆然と。詩を発する事も忘れ、ひたすらに目の前で繰り広げられる光景の美しさに、瞳と心を奪われ続けていた。
暗闇に……身を隠すことすらもせずに……。
刹那、光が私の眼前に迫っていた。
恐らくは別に私を狙った訳でもない、単なる流れ弾。
我に返り、瞳を閉じた瞬間。
その閉じた瞼の奥すら焼け付かせる、強力な朱が目の前で爆ぜた。
恐る恐るゆっくり開いた瞼の先。ほんの一瞬、彼女と目があった。彼女は直ぐに私など意に介した風もなく、闘いに躍り出ていったけど……。
その時に見た彼女の姿は私の内を焼き尽くし、未だに燻り離れない。
涼しく悲しく……しかし優しく澄んだ瞳。そしてその背に生えた、闇夜すらも灼こうと猛り狂った紅蓮の翼、その緋の色を……。
だから……かも知れない。偶然出会っただけの彼女の為に、人の世で言う「余計なお節介」と言うやつをしたくなったのは。
【scene-one】
細く天へとのびた竹林の隙間に、満ちた月から銀色の光が覗く。
妹紅の意識が目覚めて彼女が最初に感じたのは、自分の瞼の向こうから向かってくる突き刺すほどの眩さだった。
(……んぁ、そっか。そのまま気絶しちまったんだっけか)
すでにどれほど時間が過ぎたのかは分からないが。妹紅の脳裏に気を失う刹那に見た、眼前で爆ぜる光の濁流が蘇る。
またそれに飲まれ悲鳴をあげる己の身体。押し殺した絶叫。
そして……。
(……あれ?)
ふと、最後で何か心に引っかかったが……思い出せない。
記憶の中にすでに答えは無い。思考する間に、朧気だった意識もすっかり冴えてきて、妹紅はその瞼を押し上げる。
開いて、違和感は直ぐに来た。
「あ……れ?」
今度は独り、言葉にして疑問を紡ぐ。目の前に広がった光景が、あまりにも自分の予想していた光景と違いすぎていたからだ。
まず。月明かりだと思っていたのは月では無かった。狭苦しさを感じていたはずの竹林さえ無かった。
そこは全体的な印象を木目で統一された、狭い一室だった。四畳……も無いかも知れない。
殺風景なその部屋には、壁の一角に申し訳程度の、これまた狭い窓が一つ付いていて、そこから月の優しい光とは対照的な、澄み切った朝の光が差し込んでいた。
「朝……」
その事実だけを理解する。そして、
(んで、ここ何処……なのよ?)
身体を起こした瞬間、掛け布団が腰元に落ちた。
そう布団だ。妹紅は目覚めたら、何処とも知らぬ家で一夜を迎えていたのだ。
しかも……真新しい真っ白の寝衣にまで着替えさせられていて。
(輝夜の所……な訳無いよな)
妹紅はまず最初に、気を失う瞬前まで一緒に居たはずの女の顔を思い出す。
そして直ぐに首を振った。輝夜が自分を屋敷に連れて帰る理由が無いし、もし万が一にも連れて帰ったとしても、彼女の住む屋敷に、例えなんの嫌がらせだろうと、こんな小さな部屋があるとは思えなかった。
(となると……やっぱ慧音っていうのが妥当かな)
妹紅は己の数少ない知人の名を思い浮かべる。
その時だ。不意に音と声が、静寂を破って訪れた。
まず耳に届いたのは襖がサンを擦り開かれる音。次いで、
「あっ、起きたんだ。良かった」
甲高いソプラノがきんと響く。寝起きに聞くには少々耳障りな声だった。
明らかに妹紅が先ほど思い浮かべた知人の、緩やかなアルトとは一線を駕している。
妹紅の生きてきた内に身に付いた感覚が警笛を鳴らし、彼女は素早く身をひる返し声の主を見上げた。
「おはようお姉さん。とりあえずお腹空いてない? もし空いてるなら直ぐなんか作ってくるから」
「……へ?」
しかし目があった瞬間。警戒の表情がみるみる崩れていく。
いや実際には、目の前にいる妖怪は人にとって天敵とも言える存在で。自分とて確かに人の身で在りながら、人以外の能力を持っているとは言え、決して油断して良い相手ではなく。
しかしそれでも妹紅が警戒心を解いてしまったのは、目の前の彼女の表情と口調があまりにも柔らかく――と言うか、脳天気過ぎたからかも知れない。
背に生やした猛菌類を想像させる翼と、指の数倍の長さがある爪の存在は確かに、彼女が人の天敵たる妖怪の獰猛さを窺わせる物だったが。しかし彼女が身に着けたフリルとリボンで彩られたワンピース。そして何より丸っこい小さな顔は人懐っこく、その獰猛さを包み隠して余りある愛くるしさだった。
まあある意味それは、この人を誘い、食らう妖怪として最も妥当な容姿であると言えるのかも知れないが。
いずれにしても妹紅は、この目の前の妖怪に、助けられたという事は確かな様だった。
(ん……まぁ、とりあえず礼は言っておいた方がいいかな)
「あのぅ、お姉さん?」
ずっと黙したままの妹紅に、目の前の彼女は首を傾げ、目を細め覗き込んできた。
ふと呼ばれて気づく。当然な事として、お互いの名前を知らないのだと言うことに。
妹紅は微笑を浮かべると言った。
「もこう」
「え?」
「藤原妹紅。私の名前だよ。助けてくれてありがとうな。それにわざわざこんな場所まで運んでくれてさ。え~と……」
「ん?」
妹紅の言葉尻が名前を尋ねているのだと、彼女が理解するのにはわずかな時間が必要だった。
「ああ、私はミスティア・ローレライよ」
「みす……てぃあ? じゃあ、貴女が例の夜雀か……」
妹紅はミスティアを見たのは初めてだったが、その名前には聞き覚えがあった。
いや、見覚えと言った方が正しいかも知れない。
確か知り合いが持ってきた新聞の一面のどこかに、人里で居酒屋を始めた夜雀の記事を見たことがある。
その夜雀の名前が……確かミスティア・ローレライ。
「ふ~ん。貴女がねぇ……」
「な、何よ急に?」
名前を聞いた瞬間、意味深な笑みを浮かべる妹紅に、ミスティアは小さく頬を膨らまして抗議を発する。
「いやさ……まあ機会さえあれば、一度会ってみたいと思ってたんだよ」
「え?」
「人を食らう妖怪の身でありながら、人里に寄り、あまつさえ商売しだす妖怪なんて珍しすぎるだろう。一体どういう経緯があったのかね知りたくてね。うんまあ……単なる興味本位だから。別に変な他意はないよ」
さらに言えば。なぜそんな危険極まる妖怪を里の民が受け入れたのか。里には妹紅のとある知り合いが居るはずで、彼女など真っ先に排除しそうなものなのに。
むしろ妹紅の興味はミスティアに話した部分よりも、伏せたこちらの部分が大きとも言える。
まあしかし、それとてやはり興味の範疇を出るような物ではない。もし本格的に知りたいと思ったのなら、もっと早くこの雀のお宿に、妹紅自身から出向いて居ただろうから。
そう……たまたま。偶然。
たまたま出会うことになったから、彼女にたまたま興味が沸いた。
少なくともこの段階では、妹紅にとってミスティアという少女は、それ以上でも以下の存在でも無かったのである。
「そっか、なるほどね」
妹紅の返答に今度はミスティアが頷く。それから少し困った風に眉を潜めると、座ったままの妹紅の視線に合わせて腰をかがめ、その愛くるしい笑顔の乗った頭を傾げた。
「まあそれは追々に話すとして。とりあえずお腹空いてないかな? もし空いてるなら、私なにか作ってくるけど?」
「……?」
なぜかもの凄く話題を強引に戻された気がするが、しかし妹紅も大して気にしなかった。
とりあえず目の前の夜雀は、妹紅になにか食べさせたくて仕方ないらしい。
訊かれてみれば腹は減っている気はする。寝起きでいまいち胃は空腹を訴えてはこないようだが、それも時間の問題だろう。
「うんそうだね。ここまで世話になったんだ。ついでに後一つくらい世話になろうかな」
「よし分かったわ。もう朝食の準備は終わってるし、そんなに掛からないと思うから待っててね」
「ああそれと、もう一つ」
身をひる返し、羽音を残して去って行こうとしたミスティアを、妹紅は直前で呼び止めた。ミスティアは、顔だけ振り返った状態で「ん、なぁに?」と軽く問う。
「この寝間着。着替えさせてくれてありがとうな。……で、私の服ってどこに有る?」
「え?」
瞬間、ミスティアの眉と唇がきゅっとひん曲がった。気まずさと困憊を合わせたような、微妙な表情だ。
「あ……もしかして捨てちゃった?」
「え? ああううん、捨てては無いけど……。もう凄いぼろぼろだったよ。着ても多分……隠れない肌の方が多いくらいに」
「まあ……そうだろうね」
言って妹紅は苦笑い。服の状態など妹紅にしてみれば、今更ながらいつもの事だった。なにしろ一晩中、輝夜と全力でやり合っていたのだ。衣服など戦っている最中にボロ布に変わり果てている事くらい、既に承知していた。
「うんまあ……ぼろぼろでも良いよ。灰だけでも、一握りでも残っててくれればそれで言い」
「そ、そうなの?」
「ああ」
ミスティアがボロ布にしたわけでも無いのに、なぜかすまなそうな表情のミスティア。妹紅はその表情の曇りをとってやるつもりで、自信たっぷり、満円の笑みで答えてやる。
「じゃあ分かったわ。ご飯と一緒にここに持ってくる。もう少し待っててね」
妹紅が頷き、今度こそミスティアはその場から去ろうとした。
だがそれは再び、別の何かによって遮られる事となった。
――ぉ……ぃ。……ティア。
ふと妹紅の耳に、遠く微かに人の声が聞こえた様な気がした。
恐らくは屋外からだ。外から叫ぶような、張りのある女性の声。
どうやらそれが妹紅の幻聴でないことは、目の前のミスティアを見れば一目瞭然。彼女は妹紅よりもはっきりとした反応を部屋の向こうへ。恐らく廊下のさらに奧から聞こえている、外の方へと視線を向けている。
鳥の妖怪だけあって、さすが聴覚は人の比ではないのだろう。
「もしかして……誰か来た?」
「ああうん、どうやらもうお客さんがくる時間だったわ」
「きゃ……く?」
こんな朝早くから、居酒屋に客など来るものなのだろうか?
「ミスティアの店って、こんな朝からやってるわけ?」
「お客って言っても飲みに来る方じゃないわよ。その逆ね」
――お~い、ミスティア。居ないのか~?
今度の声は妹紅にもはっきり聞こえた。僅かにハスキー掛かった、女性のアルト。
(……って、この声、まさかっ?)
妹紅の瞳がいっぱいに開かれる。
その声の主を一瞬で理解する。なにしろその人物は今の自分にとって、親の敵の次になじみ深い知り合いだったのだから。
「ごめんねお姉さん……じゃなくて妹紅。ご飯の準備はもうちょっとだけ待っててね」
ミスティアが呟き。そうして妹紅が迷ったのはただ一瞬だ。
「あ、いや……私も付いてっていい?」
「え?」
「多分さ、今来た客って、私も知ってる奴だと思うんだよね」
「……まあ、別に良いけど?」
「よしっ」
言うなり妹紅は勢いよく立ち上がった。そのまま不思議そうな表情のミスティアについて、板張りの廊下をひた歩く。
家全体は結構広いようだった。一般的な店主が過ごす場所と、店のカウンターが繋がっているタイプの家らしく、ミスティアに付いて出たのは、その調理側だった。
妹紅が初めて見た店内の構造は思っていたよりも全然広く、かなりの広さがある様だった。さっきまで思い描いていた、カウンターが数席だけのこじんまりした居酒屋ではない。テーブル席が四つも配置された、ちゃんとした食事も出来そうな軽食堂程度の広さはあった。
妹紅が読んだ新聞によれば、盛況している時には、行列すら出来るということだから、この規模の店をミスティア一人で切り盛りしているとすれば、意外にも彼女の接客スキルは相当高いのかも知れない。
「お~い……ミスティアっ。ったく……本当に居ないのか?」
来客用の大きな引き戸の向こうで、今度は彼女の付いた悪態までもがはっきり聞き取れた。
「はいは~い。今開けるよ~」
そしてミスティアは一羽ばたきで、カウンター席を飛び越え、引き戸へとその手を掛ける。カウンターの端っこには、もちろん通り抜け用に開閉できる部分が有るのだが、確かにこっちの方が早いし、なにより彼女らしい。
――がらりっ。
ミスティアの手で戸が引かれると、その向こうから強烈な朝の日差しが入り込んできて、妹紅は一瞬だけ目をくらました。
そして視力を回復して見たその向こうに、やはり彼女が居た。
「おはよう慧音。今日も朝から発注品ありがとうね~」
ミスティアが元気に挨拶するその相手は、さんざん待たされた故にか、いつもの生真面目な顔に唇がつり上がっていて、若干不機嫌そうだ。
「何がありがとう……だ。何回呼んだと思ってる。私はてっきりいなぃ……っえ?」
そして言葉の途中で、慧音はミスティアの背後に居る妹紅の存在に気づいたのだろう。口をぽかんとあけたまま、視線を外せずにいる。
妹紅はそんな知人の、普段は見れない間抜けな表情に、唇を真横に伸ばしにやり笑った。
「やぁやぁおはよう慧音。奇遇だねこんな場所で……さ」
そんな対照的な表情を浮かべる妹紅と慧音の間で、ミスティアだけが何がなんだか分からず、二人の顔を交互に見返し、ただぽか~んとしていた。
【scene-two】
文明の三大ライフライン。
すなわち――電気。水道。ガス。
こと幻想郷に置いて、それらは別段めずらしいと言うほどの物ではない。
しかしそれは人の歴史の中で発達してきたものであって、もちろん郷に住まう種族その全てが平等に使ってきたわけではない。
だからこそだろか? 妹紅はこっちの客席とカウンターが隔てた調理場で、それら文明の利器に囲まれ楽しげに調理する妖怪――ミスティアの事をさも珍しげに観察していた。
「どうかしたか妹紅?」
ミスティアを目で追い続ける妹紅に、テーブルの対面に座った慧音が怪訝な表情で問いかける。
「ん? いや別に……さ」
妹紅は視線だけで慧音を振り返ると、ぶっきらぼうにそれとだけ答えて、再びミスティアへと視線を戻した。
「まあいい。とにかくだ、成り行きはだいたい分かった」
慧音は呟き一息。持った茶碗の上に盛られたご飯を箸で掬い咀嚼する。さらにテーブルの上に置かれた小皿からキュウリの浅漬けを運ぶと、彼女の口がカリコリと軽い音を立て始めた。
ご飯と漬け物。それに加えて薄紅色に焼けた鮭の塩焼き。椎茸の吸い物。慧音前にあって彼女がつつくそれは、もう完璧なまでの定食屋の朝メニューと言える物だった。
そうして彼女の朝食と同じ物が、先ほどまで妹紅の側にも置かれていたのだが、こちらは既に綺麗に食べ終わっている。
二人の朝食は、二人が話をする際にミスティアが用意した物だった。
盛りつけ下準備が既に終わっていた事を考えると、どうやらミスティアは妹紅が起きる前から、既にごちそうする機満々だったのだろう。
それが二人分。恐らく慧音の分が本来ミスティア自身の物だったのだろうが、今カウンター向こうで動き回るミスティアは、そんな事を気にする様子はない。慧音からの仕入れが届き、今宵の下準備に勤しみながら楽しそうに歌っている。
「はぁ……いつもいつもあんな不毛な喧嘩ばっかりしてるから、こうやって他人にまで迷惑を掛けることになるんだ。全く、すまなかったなミスティア」
慧音の感謝にも、ミスティアはどこふく風と言った感じで歌い続けている。確かに歌い始めると周りが見えなくなると言う、いつかの記事に書かれていた内容は本当のようだ。
「別に慧音が謝ること無いだろ。まあ……それにしても、こっちも納得行ったよ」
「なにがだ?」
「いやさ……妖怪が人里で商売するなんて、まずイの一番に慧音がさせないと思ってたんだけど。なるほどね、その里の番人自らが一枚噛んでたわけだ?」
「わざとらしく誤解を招くような言い方をするな。……ん、まあ、正直最初は私も驚いたがな、こいつがいきなり人間相手に、商売などやりたいと持ちかけてきたときには。だが……今後一切、里の人間に手を出さないと言う条件で承諾してやった」
そして慧音は里の人間を頼り、ミスティアの為に一軒の店を用意してやった。そうして人間を襲わない限り、ある程度の食材等を提供してやる事も。
「へぇ……大盤振る舞いじゃん慧音にしては?」
「それで妖怪一匹から里の安全が約束されるなら、安い物だ。それに……例え人間だろうと妖怪だろうと……まじめに働くというのは良いことだ。まあもっとも、まさかこいつにここまで商売気質があるとは、まったくもって予想外だったがな」
「それは確かにね」
妹紅は目を細めて呟き、眼下、一粒のこらず食べ終わった己の膳を見る。
人里で人気の居酒屋というから、どの程度の味かと期待していたのだが。ミスティアのそれは想像以上だった。
今は半分起き抜けで、しかも昨夜は輝夜と殺りあった身。精神的にも体力的にも、食欲はさほど湧かなかったのだが、彼女の朝食を一口食べた瞬間、それまで止まっていた満腹中枢がいきなり覚醒したかのごとく、妹紅は目の前のそれを一心にかきこんだ。
『食べるのは結構だがな。そろそろなんでお前がここにいるのか説明してくれ……妹紅』
ジト目の慧音が妹紅にそう言ったのは、妹紅がほぼ全ての食材を食べ終わった後だった。
先の妹紅の「確かにね」と言う感嘆は、慧音が言ったミスティアの商売気質の部分についての事なのだが、しかし当の慧音は別の意味でとったらしい。
「そうだな。毎夜毎夜……不毛な喧嘩に明け暮れる人間なんかより、働く妖怪の方がよっぽど健全な生き方を送っていると言えるだろうな」
「……ぐっ」
妹紅の頬が引きつる。もしかして慧音のことだ、妹紅の感嘆の意味をちゃんと分かった上で、あえて皮肉を言っているのかも知れないが。
下手をするとこのまま、また慧音の説教をねちねち聞かされるハメなるかも知れない。妹紅のカンがそんな危険信号を告げていた。
ただでさえ、慧音相手に口先では勝算が薄い。ここは深みにはまるより、早々に退散したほうが良いかも知れない。
「さ、さてと。美味しいご飯も頂いたし、私はそろそろ行くよ。ごちそうさまミスティア。この恩は、またいつか返させて貰うよ」
妹紅は機械的な動作で席を立ち、歌い続けるミスティアへ必要以上の大声で挨拶した。
(どうせ聞こえて無さそうだけどさ)
そう妹紅が思った矢先。
「あれ、妹紅帰っちゃうの?」
慧音が呼びかけたときとはうって変わって。ミスティアは歌うのを止め、妹紅を呼び止めた。
「あ、うん。今日は本当にありがとさん」
「え、でも……」
急にミスティアが眉を顰める。どうしたのだろうと……刹那、思い至ることが一つだけあった。
「ああもしかして……服の事?」
そう言えば、ぼろぼろの状態も良いから返して欲しいと言ったのだった。でもそれなら別にミスティアが困った顔をする必要はない。今この場で貰えば済むことだ。それとも……本当は捨ててしまったとか、そもそも回収してないとか言うことだろうか。
「ああ服なんか無ければ、別に良いんだけどさ」
そもそもそれに関して、ミスティアに罪は無いわけだし。
だが彼女は、そう言う事じゃないと首を横に振った。
「ううん、服の事じゃなくてさ。ええと妹紅の住んでる場所って……もしかしてあの、もう一人の女の人と戦ってた場所に有った、一軒家?」
「え、うん。そうだけど?」
妹紅と輝夜。二人が日々戦う場所は大体にして二通りに限られる。お互いの住処、屋敷の周り――その竹林だ。
そして昨日は前者。妹紅の家、それもかなり近場、というかまんま妹紅の住処だった。
「やっぱりね。じゃあさもう無いよ……妹紅の家」
「………は?」
「うん……昨夜二人が戦ってるその流れ弾? っていうか余波でさ……妹紅の家って完全に全焼してるの」
「……あ……え?」
「だってそうじゃなきゃ、私もさすがに一人担いで、自分の店まで飛んでこないよ。そのまま妹紅の家にお邪魔して、そこで介抱してたと思うし」
「……」
ミスティアの言葉に、妹紅は真っ白になりかけた思考をなんとかフル回転させて、昨夜の最後の方の記憶を思い起こそうとした。
そうだ。確か昨夜は二人ともいつにも増し白熱してしまって、もう周りの現状把握が出来ていなかった気がする。
そして屋根の上に立つ輝夜。あからさまな挑発に妹紅は揺らめく翼を羽ばたかせ、こん身の一撃を撃ち放つ。
強力だが単純なその一撃は、避わした輝夜の足下、その屋根を吹き飛ばし……。赤い炎は……みるみる内に家屋全体を包み込み、ものの数分でそれを炭の山へと変えてしまった。
「あ……あ、あぁぁぁぁぁぁっ、あの女(アマ)ぁぁぁぁぁ!!」
「わはははははははははははっ」
妹紅の絶叫に重なるように響いたバカ笑いは、それまで事成りを見守っていた慧音のものだった。
「け、慧音っ」
妹紅はキッと慧音の方を向き直る。
「いやはや妹紅? いつかは、どちらかがやるんじゃ無いかと思っていたがな。と言うより……今までしでかさ無かった不思議なくらいだろう? は、ははっ」
慧音は未だ笑いの発作が収まらない様で、涙すら浮いた目で妹紅を見た。もちろん同情や悲しみからくる涙ではない。
「で、でも慧音」
「まあ……なら良い機会かも知れないな」
妹紅が何か言う前に、慧音は一人で自信満々に納得し。そして妹紅のことを見た。
「まあ妹紅。お前の家の方は、私の方でなんとかしてやる。今すぐには無理だがな……。そうだな……おおよそ一月と言ったところか?」
「能力を使う気?」
一月経てば、月は巡り再び満月になる。そうすれば慧音の能力で、妹紅の家の歴史を作り直すことが出来る。全く以て便利な能力だ。
妹紅の言葉に、慧音は応とも否とも答えず、ミスティアの方を見た。
「だからミスティア、それまで……こいつの事を頼んだぞ」
「え?」「なっ?」
頼まれたミスティア自身。慧音の言葉に疑問を返し、それが妹紅の疑問符とはもる。
「ミスティア……お前確か、最近はますます店も賑わい始めて、一人じゃ切り盛りが追いつかないって、嬉しい悲鳴で鳴いていたじゃないか。妹紅はこう見えても私やお前なんかより全然、長い時を生きてるしな。料理はもちろん、掃除や洗濯だってそれなりに出来る。決して居て、お前の足を引っ張るような真似だけはしないさ。ほら妹紅……暫くの宿主に改めて挨拶しろ」
そう言って慧音は、意地の悪い笑みを消さないまま、妹紅の背中をバシッと強く叩きだした。
「ちょ……ちょっと勝手に決めないでよ。そんないきなり、ミスティアだってこま」
だが妹紅の言葉が言い終わらぬ内、
「やったっ、ほんとに妹紅と一緒に暮らせるの。ありがとうけ~ね!」
ミスティアは歌い流れる様な口調で、大声で喜びを表現すると、カウンターをひとっ飛びに、妹紅の眼前までやってきた。
「じゃあ妹紅。これからよろしくね」
「な……ミスティア? いや……だって……ね?」
慧音の方に視線を向けても、その意地の悪い笑みは「家を直して欲しければ従え」と語っている。
「もう……分かったよ。こちらこそ……これからよろしくな、ミスティア?」
結局……妹紅は慧音の提案をのむことにした。
だがそれは慧音の策略にはめられた訳ではなく、はまってやったのだと、妹紅は自分に言い聞かせる。
これほど喜んでくれるミスティアの、その夜の妖怪とは思えぬ、太陽の様な笑顔。妹紅はなかばそれに惹かれる感じで、介抱と食事の恩返しをすることに決めたのだから。
【sceneーthree】
どうしてかは分からない。
しかし妹紅は、どうにもこうにも初対面のはずのミスティアから、よほど気に入られてしまったらしい。
それもどうやら妹紅が思っていたよりも、いや妹紅が想像していたのとは、少しばかり違う明後日の方向へ。
朱い斜陽が差し込む一室で、妹紅の眼前にミスティアの顔がある。
まだ半開きなままの瞳には、あっけに取られたままの妹紅の表情が映り込んで、驚嘆を吐き出すはずのその唇は、同じく相手の唇によって粘っこく塞がれていた。
背後――その首筋には、ミスティアの細くしなやかな腕が絡みついている。指よりも長く伸びた爪先が、妹紅の灰色の髪を梳く。
妹紅は力が入らないと言うより、どうして良いか分からず両腕をだらりと下げ、今はただ思考が現状に追いつくその時まで、ただミスティアにされるがままになっていた。
不快……では無かった。むしろその触れ合った部分から流れ伝わってくる熱は、妹紅の全身を心地の良い暖かな温度で包み込んでいく。
心地良いが……少しだけ危険な心地よさだと、妹紅は悟った。全身に回った熱は、恐らくは間もない内に凝縮し、胸の一点から身を焦がすような焔へと、その性質を変化させてしまうことを、彼女は経験から思い知っていた。
そうして至った。そんな焔を灯せるほどの感情に。
実のところ自分だって、この少女の事を同じくらい気に入っていることに。
そのまま二桁は瞬ける時が過ぎたのだろうか。
寝ぼけ眼のミスティアの瞳に、確かな光が宿った。
そして刹那、相手の事を突き飛ばすように開放したのは、そのミスティアの方が先だった。
あの後で慧音は、妹紅をミスティアの元で働かせる段取りを作ってしまうと、朝食を一粒残らずごちそうになり、大満足の表情で帰っていった。
そうしてその後。妹紅はミスティアが宵からの開店に先駆け、今より料理の仕込みに歌いながら勤しむ姿を、客席からぼ~っと眺めていた。
彼女の仕込みを手伝うという案は、数秒迷っただけで却下された。
慧音が言っていたように、妹紅の調理の腕は折り紙付きだ。だからそんな妹紅だからこそ、今のミスティアに中途半端な手伝いは不要だと悟ったのだろう。
妹紅にとってはこれまた意外なことに、それほどまでにミスティアの仕込みの手際は洗練されサマになっていたのだ。
妹紅で無くとも誰であれ、下手に声を掛けて彼女のリズムを乱せば、逆に足を引っ張ることになってしまう。
だから仕込みの最中は妹紅の方からは、ほとんど話しかける事もなく。ミスティアの、元人食い妖怪とは思えぬ脳天気な歌声を背景に、時間はたんたんと流れていった。
仕込みも後は鍋にかけて待つだけという段階になって、妹紅はやっとミスティアに声を掛けて、一度、家の方へ戻ってみると告げた。
ミスティアは早速に顔を曇らせたのだが、ただ現状を把握しに行くだけだからと言う妹紅に言葉に、直ぐに笑顔を取り戻し送り出してくれた。
そして、
「仕込みが終わったら、私それから寝てると思うから……勝手に入ってきて良いよ?」
聞いたミスティアの言葉を背に妹紅は、いざ雀のお宿を出発する。
またそれから半刻ほども歩いた頃だろうか。妹紅が実は、未だミスティアに借りた寝衣のまま出てきてしまった事に思い至ったのは。
結局今から引き返すのは面倒くさいのと、竹林ではほとんど人目に付かないと踏んで、彼女はそのまま歩き続けることにしたのだが。
そう、妹紅は歩いて向かっている。
蓬莱の薬で不死の能力を得た時より、妹紅は空を駆るための能力も身に着けたが、普段の生活で彼女はその能力をあまり表に出さず、まず歩くことにしている。
例え人目少ない場所であろうと、上空を見れば、やはり彼女の持つ炎の翼は目立ちすぎる。特に日中ともなれば尚更だ。
まあ数多の妖精、妖怪が跋扈するここ幻想郷だ。目立った所でさしたる問題は無いのかも知れないが。そこは並の妖怪以上に長く生きてきた彼女の、その内で育ってしまった世捨て人的な生き方の影響かも知れない。
(でも不思議だね。ただ一夜の宿を借りただけの夜雀風情に、こんな興味が沸くなんて)
心でそう呟き。彼女は暢気に鼻歌を囀りながら、今は無いという自分の家に向かって歩き続けた。囀るそれは、仕込みの間中ミスティアが歌っていて、ついには妹紅もその歌詞を覚えてしまった歌だった。
ミスティアの元から自分の住処まで、歩くとなるとさりげにかなりの距離があった。
妹紅が見覚えのある開けた"庭"を発見した頃、竹林の隙間から見える太陽は僅かに西へと傾きかけていた。
妹紅の直ぐ目の前に木材の成れの果て、昨日までは確かに妹紅の家だった黒い炭の塊が、視界いっぱいに積み上げられている。
これでは中にある家具やその他諸々も、焼かれ、潰され、全滅だろうと言うことが、焦げた柱をどけることも無くはっきり分かる。
「これはまた……派手にやられたというか、やってしまったというか。さすがに骨が折れそうだわ……」
二度のため息を挟み妹紅は呟くと、不意に右手を掲げて、その手中に昼の光の中でも煌々と輝く赤い炎を一つ生み出した。
同時に背中から吹き上がる炎の形は、ミスティアと同じ猛禽類の翼を想像させる。
だからだろう。妹紅の脳裏を掠めたのは、今日自分を介抱してくれた妖怪の容姿だ。
そして……彼女の店を出てくる際に見た、夜の妖怪とも思えぬ太陽のごとく眩しい笑顔。まるで十年来の親友を送り出すような……純粋な笑顔だった。
――きゅん……。
妹紅は手の炎と背の翼を、締め付けられた意志でうち消す。
「……よし……帰るか……」
先ほどよりも深い、肩を落としたため息をやはり二回。妹紅は自分の家だったモノに、背を向け歩き出した。ミスティアの家に帰る為に。
はたして自分があんな純粋な笑顔を浮かべる事が出来たのは、どれほどの過去の事だろうか。来た道を辿る際にそんな記憶をも辿りながら。
行きにそれだけ時間が掛かるということは、同じように歩いて帰れば、当然帰りも同じだけの時間が掛かると言うことだ。
妹紅がミスティアの元に戻る頃には、空はすっかり茜色に変わっていた。
彼女の店がはたして何時から開店なのか。妹紅は何も聞いていないが、表の提灯に火は灯っておらず、まだのれもの掛けられていない所を見る。出かけに彼女が言っていたことからも予想するに、彼女はまだ寝ているのかも知れない。
店側の入り口から入る。そこにはやはり、ミスティアの姿は無かった。
カウンターを越え厨房の方へ回る。奧へと続く廊下に上がり、朝の記憶を頼りに、自分が目覚めた例の寝室を探す。
少しだけ迷ったが、妹紅はやがてそこへ辿り着いた。
そして……彼女もそこに居た。
妹紅が目覚めた布団は未だ敷きっぱなしになっていたが、しかしミスティアはそこで眠っている訳では無かった。
部屋の隅。彼女は布団から離れたそこで膝を抱え、毛布の代わりに己の翼で身を包み込むような格好で瞳を閉じていた。
「ミスティア?」と、妹紅が小さく呼びかける。
眠ると言うにはあまりにも奇妙な寝相だったので、妹紅はもしかしてどこか体調でも悪いのかと、ミスティアの方へすり寄った。
ヒザ立ちになり、横から覗き込むように彼女の顔色を観察する。
だが見えたその顔色は、健全そのものの寝顔だ。そして聞こえた寝息は規則的で、彼女は今、安眠の最中にいるのだという事実は疑いよう無い。
「えと……ミスティア?」
どうして布団があるのに、わざわざこんな格好で?
妹紅の呼びかけに反応したのか。不意にミスティアの唇が開く。そして息の抜ける分かりづらい口調ながらも、妹紅は彼女の告白を聞いた。
「もこう……あん…にきれい。だいすき、だよ……」
「…………。おーい、みすてぃあ~?」
妹紅は軽くミスティアの頬をつついてみる。店を何時に開けるのかは知らないが、なんにしろそろそろ起きて、開店の準備をしたほうが良いのではないか?
ミスティアは頬をつつかれたくすぐったさに、わずかに顔をそむけ半目をむいた。
まだ焦点の定まっていない瞳が、妹紅の瞳を見つめてくる。
「おはよミスティア。ええと……ただいま?」
「もこう?」
妹紅はこくりと、ぎこちなく頷き返す。
するとミスティアは、唇を結んで頬を綻ばせた。膝から両腕を離すと、のろりとした動作で腕を妹紅の首に回す。
「ちょ、ミスティア」
そうして次に膝を内股に崩すと、今度はとても寝起きとは思えない力強さで、妹紅の顔を胸元へ抱き寄せる。
そしてさらに妹紅が何か呟こうとする前に、ミスティアは自分の唇を、妹紅の唇へと滑らせた。
【scene-fore】
ミスティアからの、いきなりの抱擁と口づけ。
それから妹紅は、ミスティア自身の手で突き飛ばされた。
いつもなら何でもない程度の衝撃でも、あまりにも予想外の事が続けて起こりすぎた為、うまく思考が追いつかなかったのだろう。妹紅はそのまま無様に仰向けに倒れ込み、西日で靄掛かった様な天井を眺めるハメとなった。
「あっ。ご、ごめんなさいっ! だいじょう……ぶ?」
向こうから慌てふためいたミスティアの声が届く。直ぐさま駆け寄ってきた彼女の顔が、妹紅の事を覗き込み、強い握力が妹紅の肩を抱く。
(ああなんか……結果だけ見ると、そのままミスティアに押し倒された感じがするね)
そんな事を思い、口元に苦い笑みを浮かべる。
「も、妹紅?」
「ああ、平気。でも……あんな風に唇を奪った後に押し倒すんだったら、どうせなら向こうの布団の上の方が良かったんじゃ無い?」
「へっ?」
妹紅に言われて初めて、自分の状況を客観視することが出来たのだろう。ミスティアの頬が一気に茹で上がる。
「あ、違うよ。これはその……そう言うのじゃなくて。起きて直ぐに妹紅の顔があったから、びっくりして突き飛ばしちゃったから」
「ふふ……冗談だって」
想像したよりずっと初々しい反応を見せるミスティアに、妹紅はそのギャップが面白くて小さく笑った。
「と、とにかくごめんなさい。も、もうどくからっ」
そうしてミスティアの握力が、妹紅の肩から離れた瞬間だった。
妹紅は自由になった腕で、さっと彼女の肩を抱き竦めると強引に自分の方へ倒れ込ませた。
可愛い悲鳴が妹紅のすぐ耳元で発せられる。再び両者の鼻先が、触れるかの寸前まで密着した。
「でもさ……さっきのキスは、別に間違いじゃないでしょ?」
「も、もこ……う」
妹紅は腕をミスティアの背中まで回し、力を込めてくびれた腰元を抱きしめた。かさり……と彼女の翼が擦れ、妹紅の手の甲を掠める。その柔らかな感触が妙にくすぐったく、心地良い。
衣の向こうからミスティアの鼓動と体温、そして何より肉感が伝わってくる。同じく妹紅の胸元で潰れ合ったミスティアのそれは、妹紅が外見から想像していたものよりずっと豊かな盛り上がりで、同性ながらも――いや、同性だからこそ強い嫉妬が湧きそうになる。
(そっか……ミスティアは着やせするタイプなのか)
いつの間にか喉に溜まっていた唾を、喉を鳴らして飲み込む。
「ねえ……ミスティアはどうして私の事を?」
妹紅は真っ直ぐにミスティアの瞳を、正確にはそこに写り込んだ己の瞳を見て問うた。
妹紅の言葉に、最初ミスティアは戸惑っていたようだったが。真摯に目を逸らさぬ妹紅の意気に促されたのだろうか。やがて伏せ目がちにはにかみながら口を開いた。
「うんそうだね。やっぱ一言でいうとあれ……一目惚れかな……」
「……なるほど」
頷きはしたものの。やはり腑に落ちないという感じはある。
ミスティアの瞳鏡に映り込んだ、自分の姿。その姿は、外見だけならどこにでもいる人間そのものだ。誰かを一目で虜にするような魅力(カリスマ)など、どれだけ客観的にひいきしても感じられない。
この腕の中の少女は、いくら人里で商売を始めたと言っても、本来は人を誘い食らう妖怪がだ。そんな妖怪が偶然居合わせたというだけで、見ず知らぬ人間の事を介抱するために、わざわざ大変な思いをして自分の家に運び込んだりなんかしないだろう。
妹紅にはミスティアに対する、直接的な認知は無かった。恐らく相手にとっても同じ筈だろう。
それが一夜にして、唇を奪われるほどの恋慕を向けられる事になる理由を、妹紅は知りたかった。
「あのさ、妹紅がもう一人の女の人と戦ってるときの姿」
「輝夜……と?」
「名前は知らないけど……あの黒髪のお姉さん? 彼女と戦ってる時の真っ赤な翼を生やした妹紅がね、もうすっごく綺麗で……素敵で、格好良かったの。まるで目の前で炎が躍ってるみたいで……さ?」
「はは……みたいね~」
実際妹紅の翼は、不死の象徴である不死鳥を具現化したものだから、みたいでなくそのまんま炎の翼なのだが。
「でもそっか。それだけのことだったのか」
「それだけって……私にとっては、凄く大事なことなんだよ?」
「あ……いや。別にミスティアの気持ちを軽く扱った訳じゃないんだ。ただ……」
妹紅の持つ力は彼女にとって最大の武器であると同時に、それは彼女にとっては忌まわしき過去の具現でもある。
それもあって、妹紅はその力を日常でほとんど使おうとしない。
使うのはその忌まわしい過去の根本である輝夜と交えるときか、もしくはどこから身に降りかかる火の粉を払い落とす時くらいだ。
だからそんな力を『綺麗』と評し、あまつさえ惹かれるミスティアの様な存在が居ることに、妹紅は意外な己の一面を知らされたのだ。
「ただミスティア。悪いと思うけど……やっぱり私の事はさっさと忘れた方が良いと思う」
「どう……して?」
悲痛に歪んだミスティアの顔を直視できなくて、妹紅は首を傾け視線を逸らした。
「慧音が言ってたろ。私は人間でありながら、妖怪の貴女なんかより遙かに長い年月を生きてきたって?」
「……うん」
ミスティアは頷いたが、表情は不安なままだ。妹紅が言葉を理解は出来ても、その言葉の裏にある、妹紅が告げたい心理まで考えが及ばないのだろう。
「もうかれこれ千年以上を生きる身だ。貴女以外にも、数え切れない程のモノに愛されて、そして私自身も愛してきた」
妹紅があえてモノと表現したその色沙汰の中に含まれるのは、もちろん人間だけでは無い。
多くの人間、多くの妖怪、中には神と呼ばれる域にある存在も居た。
性別は問わず……男も居れば女も居た。性別すら存在しないモノすら……妹紅は愛し愛されてきた。
「でもそれは結局、私に取ってはどれも同じ。過去の一つの出来事でしかないんだ。例えその時身を焦がすほど愛しても、死すら厭わないほど愛されても。時間が私達を離してしまえば、私にとっては同じ。長い時が流れる中で、それらは全て同じ一つの過去という認識の中に埋もれて行ってしまう。私に取って色恋沙汰、いや他人との関係なんて……過去を積み重ねる事でしかない」
それが永遠を生きると言うこと。
「そんなの……ミスティアは嫌だろ。貴女がどんなに私を好きでも、私がどんなに貴女を好きでも。結局時が経って、貴女が私の側から居なくなれば……。他と一緒、単なる過去という一つの言葉で片づけられる存在にしかならないなんて?」
「なんで? 全然嫌じゃないよ」
「……ミス……ティア?」
ミスティアの言葉に、妹紅は呆気にとられ振り向いた。そこには一片の迷いすら感じさせない、ただ真っ直ぐな笑顔がある。妹紅が永遠を生きる中で、何度思い出そうとしてもおおよそ出来なかった、無垢な笑顔がまたそこに浮かんでいた。
「むしろ私は嬉しいよ。だって妹紅も私の事が好きだって言ってくれたもの。自分の想いが叶って、なんで嫌な気にならなくちゃいけないの?」
「いや……だからミスティア?」
「ねえ妹紅。実は私には、妹紅の言った難しい事なんてよく分からないんだけどさ」
ミスティアは正直に告白し、そうして先ほどの様に妹紅の肩を抱くと、今度はまるで猫が飼い主に甘えるような仕草で、妹紅の首筋に頬を擦りつけた。
それに妹紅はわずかばかりの息苦しさを覚えるが、彼女の仕草に身を委ねた。直接肌から伝わる体温が妙にくすぐったい。
「妹紅がさ、私のことを思ってダメって言ってくれたのは、何となく分かるよ。でも妹紅はさっきさ、私が離れようとしたらぎゅって引き留めてくれて、今こうやって抱きしめてくれたでしょう。それって結局は……私の事を受け入れてくれたって事じゃない?」
妹紅は沈黙する。なんと言い訳していのかも思いつかなかった。
どうしてさっきミスティアを引き寄せてしまったのか。実のところ妹紅自身にも分からない。ただ……自分の肩を抱くミスティアの手が離れていく事に――刹那、胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。覚えて……気が付いたらその手を追い、握りしめていた。
そうして妹紅が、ミスティアへの気持ちがそう言う代物であると確信したのは、恐らくその瞬間だったのだろう。
(さっきは……彼女の気持ちをそれだけなんて言ったけど。なんだ、私だって変わらないじゃないか……ははっ)
一夜、闘い舞う不死鳥の姿を見て、それに惹かれた一羽の夜雀。片や夜に舞う夜雀の、その太陽の様な笑顔一つで心を鷲掴まれていた、千年を生きてきた自分。
「そっか、そうだ……ね。私はまた……誰かを好きになってしまったのか。まだ……誰かを愛することを欲していたのか」
「ねぇ妹紅は。もしかして……私を好きになった事を、後悔するのが嫌なの?」
「ん? ううんそうじゃ無いんだ……むしろその逆だから困ってる。こんなに好きになった貴女を、他の誰かと一緒にしか感じられなくなる日が……私は嫌なんだ」
今度は、ちゃんとミスティアの瞳を見て言った。だがやはり目の前の彼女は、訝しげに表情を歪めてしまう。
「……うん、やっぱりよく分からないわ」
「ああ……長きを生きないと分からないさ」
「そうかな。私だって、この先何年経っても……妹紅は妹紅、ただ一人だよ。そこに他の誰かと間違ったりしないと思うけど?」
「……まあいいさ。ならさ……ミスティア。最後にこれだけ教えてくれない?」
「ん?」
妹紅は考える。彼女に理解できるようになるべく簡単に。自分の気持ちを偽らない……ただ単純な問いを。
「ねぇ……ミスティア。私はさ……これからも、ここに帰ってきて良いのかな?」
妹紅は思い出す。今日の昼間、残骸と化した自分の住処を。
そこで自分の能力を具現し、しかし発揮せず。その後なんと呟いたかを。
『よし……帰るか』
妹紅は確かに帰ると呟いたのだ。偶然が重なった末に辿り着いた、この雀のお宿に。
考えてみれば……自分の気持ちの行方など、実はあの時すでに決まっていたのかも知れない。
「そんなのもちろんだよ。もし妹紅が気に入ってくれたら、一月なんて言わずにずっと居てくれても良いよっ。ここ、私と妹紅の愛の巣にしようよ」
やはりミスティアには、妹紅が問うたその言葉の裏の意味まで理解しきれなかったのだろう。軽い調子で了解すると、すでに気持ちが舞い上がっているのか、最後にとんでもなく歯の浮く台詞を口にする。
ならばどうせなら。こっちからも、ちょっとは小粋な告白をしてやろう。
「よしミスティア。そうと決まったら早速だけど、私の服を持ってきてくれない?」
「え?」
「だってさすがに、この借りてる寝衣じゃ店の手伝いに出ていけないだろ?」
「で、でも妹紅の服って、朝も言ったけど」
「分かってるって。良いから取りあえず、こっちに持ってきてよ。ね?」
妹紅が着ていた服は闘いの中で既にぼろぼろで、とても着られる状態でないと、朝この部屋でミスティアに言われた。
そんな事は妹紅自身が一番分かっている。何しろ今日に至るまで輝夜とは数えるのもばからしいほど殺りあって来たのだ。身に着けていた自分の服がどんな状態であるかなんて、見なくともだいたいの想像は付く。
ミスティアは不振な表情を拭えないままに、妹紅の身体からするりと抜けだし、「じゃあ待ってて」と一言残し、部屋の向こう側へと消えた。
時間にしてわずか一分ほどしか待たなかっただろう。部屋の向こう側からとんとんと廊下を駆る軽快な音が聞こえた事からすると、わざわざ駆け足で持ってきてくれたようだった。
「なるほど。予想以上の惨状だわこれは……」
「でしょう?」
妹紅の服は原型を止めていないくらいまで、ぼろぼろにされていた。元々真っ白だった上着は半分以上が焼かれ、残った部分も炭なんだか布なんだか分からない有様だし、足を通すもんぺ袴は、既に履くという行為が困難なくらいにざっくり消し飛んでいる。
そしてそんな状態の服でも、きちんと畳んで持ってくるミスティアの行為がおかしくも微笑ましく、ちょっと嬉しかった。
部屋の中央。ミスティアが興味津々に見つめてくる中で、妹紅は二つのボロ切れを片手で掴み、目線の高さまで持ってきた。
「なあ今朝さ、ミスティアが今夜の仕込みをしてる時、私はいったん自分の家の方に戻ったよね。あれって……一体何をしに戻ったのか、想像付く?」
妹紅は視線をあくまでボロ布から逸らさすに、言葉だけでミスティアに問いかける。
「何って……。焼けた自分の家を、どんな感じか見に行ったんじゃ無いの?」
「ああその通り。でも別にそれは、ミスティアの言っていた事を疑った訳じゃないんだ。それならわざわざ片道数時間掛かる距離を、わざわざ歩くのもバカらしいだろ」
「つうか妹紅、わざわざ歩いていったの? 飛べる……んだよね?」
「まあね。でも普段はあんまり能力を使いたくないんでね。よっぽどせっぱ詰まった時くらいしか。例えば……自分の家が焼けちゃって、手っ取り早く修復したいときとか……さ」
「ど、どう言う意味?」
「私の扱う炎って言うのは、私が蓬莱の薬を飲んだ時に得たモノなんだ。輪廻、転生、それを司る不死鳥。世界という概念を作り出したと言われる、始源の焔。そのごく一部、それ操るのか私の能力なのさ」
呟いた瞬間、妹紅の背中が煌めいた。赤く、猛き、狂おしい程に燃え上がる炎の翼。ミスティアが昨晩の内に魅せられ、そしてその持ち主である少女に心奪われた原因とも言える――不死鳥の翼。
もちろんこれは妹紅の能力を象徴したもので、この翼自体に引火させる能力はない。まあそれも妹紅がそれと望めば可能だろうが。少なくとも今ここで発揮した妹紅の力は、全てを焼き尽くす炎とは、むしろ対極にある物だった。
「やっぱり……きれい……」
うっとりとため息を吐いたミスティアの言葉に、妹紅は楽しげに微笑む。
「だからさ。私と……。私のこの力と長く共に在って、私の力の影響が染みついた物ならば、例えどれほど朽ち果てようと、そこに灰の一片だけでも残っていれば、まさに不死鳥のごとく甦る。こんな風に……ねっ?」
瞬間。妹紅のボロ布を掴んだ手から炎が吹き出し、布を跡形もなく包み込み燃やした。布は炎の熱さでのたうち回り、数秒の後にその姿を塵へと変えられた。
そうして……まるで無から熱が生まれたかのように、宙に一雫の焔が灯った。焔は内側から吹き出すように徐々に大きくなり、やがて妹紅の手に絡みつき、意志が在るようにとある形を纏いながらゆらゆらと広がっていく。
「あ、熱くないの?」
「ああ……。この火は全てを焼き尽くし、破壊する炎じゃ無いからね。破壊から転じて再生を生み出す、もう一つの焔だから……」
「…………凄い……。綺麗……」
「私も何度か見るけど。やっぱり何かを壊すより、物を生み出すこっちの火種の方が見てて心地良い」
「ううん違う、妹紅の事。やっぱりそうやって焔を操ってる姿の妹紅が、何より格好良くて好き」
「……」
柄にもなく照れた妹紅が、気を抜けばにやけそうになる頬を必死に堪えている間に、再生は完成しつつあった。
焔が揺らめく形は、持っていた妹紅の服の形を成していき、紅い色は一部は白く弾け、もしくは更に朱く、その色彩を変化させていく。
そうして揺らめきが完全に消えたそこには、新品同様に再生された妹紅のシャツともんぺ袴が、その手に握られていた。
「さて……それでミスティア?」
掴んだ服を胸元に引き寄せ、妹紅は今一度ミスティアの方に向き直る。
その頬に赤らみがさしているのは、熱を帯びない、恋と言う焔の熱気にやられた為だ。
「これで分かっただろ。今朝、私はさ……自分の家を再生させるために……わざわざ行ってきたんだ」
「う、うん。でも妹紅は結局……ここに戻ってきてくれた」
「違うよミスティア」
「え?」
疑問符と同時、わずかに表情を曇らせるミスティア。そんな彼女に妹紅は、悪戯っぽく微笑みかけた。
「私はここに戻ってきたんじゃない。この家に……帰って来たんだよ。そうさっきの貴女の言葉を借りるなら……。私とミスティアの……あ、愛のす、巣に……さ?」
どもりながらも確かに放った妹紅の告白に、ミスティアが弾丸の勢いで抱きつき、今度こそ敷いたままの寝床に押し倒したのは、ほぼ同時だった。
その晩。
評判高い夜雀の店を訪れた客の中で、その日だけは開店時間がやたらめったら遅くなってしまった真実を知るものは一人も居ない。
【extend】
「そういえばさミスティア? さっきは何で布団あるのに、わざわざ座って寝てたわけ?」
「え、なんでって……私にとっては普通だよあれ。ここに来るまでは、私横になって寝るって事無かったし。第一……人間みたいな寝かた、翼痛めちゃうかも?」
「ええと……じゃあこの布団は?」
「あ、それは私がここで店をやるって言ったとき、慧音がいろいろ用意してくれたの。その時に布団も有ったんだけど、私使わないじゃん。今まで放置だったんだけど、世の中何が幸いするか分からないわね~」
「ふ~ん、なっとく……」
「あ、でもこれからはちゃんと、布団で寝れる様に練習しなくちゃダメだね。後は……ツメも切るね。このままだと妹紅の……傷つけちゃう」
「いや……そ、それはその。はぁ……もう好きにしてくれよ……」
好きですわ
惜しむらくは展開がちょっと早いことか。
気持ちの良い甘さでした
ただ、コメ24さんと同じでもうちょいじっくり恋に落ちる様を見たかったですね