博麗霊夢が怪我をした。
そのような記事があの憎き文々。新聞の紙面に踊ったのはつい先日の話。
痛みを必死で堪えている私に、いい記事が出来たと嬉々として新聞を見せてきた天狗にタイガーニーかましたのを鮮明に覚えている。
確かにあの怪我は我ながら酷く間抜けだった。
香霖堂でもらった『えあこん』とか言う道具を抱えて神社の階段を上っていた時、ふと背後から聞こえてきた小銭の音。
瞬間的に音速をも越えた切り返しによって上半身だけで振り返ってみれば、遠心力とえあこんの重みに負けてごろごろがっしゃーんと言う訳である。
べ、別に小銭が欲しかった訳じゃないんだからね! ただの条件反射なんだからね!
とにかく、そんなこんなで丈夫が取り得の博麗アームが見事にポッキリ。
ストーカー妖怪(サポート妖怪だったっけ?)達がすぐさま永遠亭に連れて行ってくれたおかげで大事には至らなかったが、骨折など初めての経験であった私にとってあの痛みはトラウマ級と言って間違いない。
まぁ、そんな心理面へのダメージは置いておくとして、その後の経過は非常に良好。
未だ首からギプスをぶら下げている状態とは言え、既に安静を条件に自宅での療養を許可されていた。
私としてはなるべく普段通りの生活を心がけ、一刻も早くこんな怪我の事など忘れてしまいたい所である。
そう、普段通りにしていたいのだが―――――
「なんでアンタらそろいも揃ってここに居る」
「看病です」
「看病よ」
「看病に決まってるだろう」
朝、目を開けて真っ先に視界に入るは布団をぐるりと取り囲む、天狗、鬼、スキマ妖怪の要注意妖怪筆頭三人衆。
彼女達をどうにかしない限り、普段通りの生活など出来そうもない。
「えー、まずはおはよう御三方。相も変わらず頭の中のお花畑綺麗ですね」
「おはよう、霊夢。やー、そんなに褒められると照れるなぁ」
「萃香、そこは『それ程でもない』と返すのが、謙虚な鬼の秘訣よ」
「少女達に囲まれた状況をお花畑と表現するとは、霊夢も中々詩人ですね」
何を言っているのだ、この珍妙奇天烈大百科どもは。
一言皮肉を言っただけでこの返し、一人でも相手にするのが疲れるというのにこうして三人揃うと本気で手がつけられないから困る。
全く、女三人寄れば騒音公害とはよく言ったものである。
取り合えず寝起きから不快な気分にさせてくれたお礼として、夢想封印食らわせとこう。
「あぁ、駄目ですよ、霊夢。怪我人なんですから安静にしていないと」
「ほいほい、こんな御札はぼっしゅーっと」
「取り合えず怪我が治るまで、貴女の武器はスキマで預からせて頂くわ」
迅速かつやんわりと押さえ込まれた、コイツらの無駄な戦闘能力が憎い。
と言うか何でこんな時に限ってチームワーク抜群なんだ、コイツら。
あっという間に布団に寝かしつけられた私の口から、思わず大きな溜息が漏れる。
「さて、霊夢も目を覚ましたし、まずは朝御飯でもいただきましょうか」
「文、準備頼んだ」
「任されましたー」
「待て待て待て待て」
任されましたー、じゃねーよ。
おもむろに立ち上がろうとする文の肩を、無傷な方の腕でがっしりと掴む。
「なに勝手に人の家の朝御飯作ろうとしてるのよ。アンタ達、一体何がしたいの?」
「ですから、看病ですって」
「誰がそんな事しろって言ったのよ。見ての通り私は元気、極めて健康体だわ。アンタ達の手なんて借りなくても一人で十分普通に生活―――――」
「こつん」
「ひぎぃ」
萃香に横からギプスを小突かれた。
何て恐ろしい事をするのだ、この子鬼は。
電流の走ったかのような鋭い腕の痛みに、私は布団に蹲って悶絶する。
そしてそんな私を見下すように、上から目線で口を開くスキマ妖怪一人。
「本当、人間は脆いわね。それで健康体とはよく言えたものだわ」
「うぅ……それでもアンタ達に邪魔されなければ、自分の事くらい自分で出来るわよっ」
「相変わらず博麗の巫女の自覚が足りないわね、霊夢。もしも貴女の怪我が治る前に異変が起きたとして、利き腕の動かない貴女に一体何が出来るのかしら? それこそ低級妖怪の餌になるのがせいぜい、幻想郷の要がその体たらくでは示しがつきませんわ。博麗の巫女たる貴女の今の義務は、そんな事が起こらないよう一刻も早くその怪我を治す為に最善を尽くす事よ。お分かり?」
「要約すると、絶対安静にしてろやこのぼけーと言う訳さ」
無駄に回りくどい紫の言い回しを噛み砕きながら、萃香は涙を拭けとばかりに一枚の布を差し出してくる。
こいつ、この涙は誰のせいだと思ってやがる。
しかもこれ私のサラシだから、ハンカチじゃないから。
などと目の前で得意げになっている萃香に心の中で毒づいていると、何時の間にか消えていた文が台所から戻ってきた。
「つまりはそういう事です。怪我が治るまで生活は私達がサポートするので、どうか大船に乗ったつもりでいて下さい」
そう口にすると、両手の大きなお盆をちゃぶ台の上へと置く。
条件反射的に首を伸ばして覗き見てみれば、そこにあったのは御飯と味噌汁、漬物に……岩魚の塩焼きが人数分。
どうやら私が起きる前からあらかた準備は出来ていたらしい。
朝食としては少しばかり贅沢なような気もするが……。
「ふふん、美味しそうでしょう。今日の朝釣り上げてきたばかりの新鮮な岩魚ですよ。やはり怪我を治すには栄養ですからね」
私の視線を敏感に感じてか、文は得意げな笑みを浮かべながら自分の釣った魚を持ち上げた。
人里ではそう安々とは手に入らない新鮮な川魚の直火焼き、悔しいが確かに美味しそうである。
近頃まともな食事をしていない私のお腹が思わずぐぅと音を立てる。
もしも私が健康体であったのならば、ありがたく頂戴していただろう。
わざわざそのように仮定を置くと言う事は、残念ながら今は違うという意味である。
名残惜しい気持ちを噛み殺しながら、私は文に向かってゆっくりと首を横に振る。
「せっかく釣ってきて来てもらった所悪いけど、私はお見舞いでもらったお饅頭で十分。貴女達だけで食べて頂戴」
「えぇーっ! お饅頭も美味しいですけど、朝はきちんとした物食べないと身体に良くないですよ!」
「そうだよ。せっかく文が早起きして用意してくれたんだぞ。もっと自分の身体に気を使いなよ」
「年中酒浸りのアンタには言われたくないわね。とにかく、今はお魚よりお饅頭な気分なのよ」
萃香達の言葉を受け流しながら、魔理沙からもらった饅頭を一つ手に取る。
昨日も三食饅頭だった為、正直飽きてはいるのだが、背に腹は変えられない。
どれほど御飯に味噌汁、焼き魚が魅力的だろうと、今は饅頭を選択せざるを得ないのだ。
私の聞く耳持たない態度に唇を尖らせるサポート妖怪達。
しかしその中で、ただ一人紫だけがただただ無言のまま私の顔を見つめ続けていた。
全てを見抜く妖怪の賢者の鋭い視線が、私の身体を射抜く。
「ねぇ、霊夢」
「な、なによ」
「貴女、お箸使えないだけでしょ」
ぎくぅ。
完全な図星に、思わず饅頭が手から滑り落ちる。
だって仕方ないではないか、残念ながら私は逆腕で箸が扱えるほど器用ではない。
だからこそここ最近は、饅頭などの調理不要かつ手掴みな物ばかり食べて来た訳だ。
しかし、そんな事実を知られた日には、どのような未来が待っていようかは想像に難くない訳で。
まずいまずいまずい、何とか誤魔化さなければ。
「何言うてますのん。そんな筈無いやんかぁ」
焦りの余り何だかよくわからない言語になってしまった。
顔に貼り付けた作り笑顔も、自分でもわかる程に頬が引きつっている。
くそぅ、自分のアドリブ力の低さが憎い。
なんだか三人して、妙にニヤニヤ生温い視線向けて来てやがるじゃないかこんちくしょー。
「確かに怪我してるの利き腕ですもんねぇ。何だ。それならそうと早く言ってくれればいいのに」
「いやぁ、そうか。うん、箸が使えないんじゃしょうがない。なぁ?」
「そうね。仕方が無いわねぇ」
嫌な予感がした。
酷く嫌な予感がした。
否、むしろ確信とでも言うべきか。
不幸な事故により、箸を使う事の出来ない哀れな子羊博麗霊夢。
そんな獲物を前にした、この妖怪達の思考回路を私はこれまで身をもって思い知らされてきた。
「はい、あーん」
「……」
ああ、やっぱりですか。来ると思いましたよ、ちくしょー。
期待を全く裏切らない展開に、私は大きな溜息を吐きながら頭を抱えて蹲る。
これだから彼女達に箸が使えない事を知られるのは嫌だったのだ。
「ほら、口を開けてください。文お姉ちゃんが食べさせてあげます」
「誰がお姉ちゃんか。全く余計なお世話よ。さっきも言ったけど私はお饅頭でじゅうぶ……」
「もっちゃもっちゃ」
「ちょ、萃香! アンタなに食べてるのよ! 全部か! 残りのお饅頭全部喰ったのか!」
ハムスターのように頬を膨らませた萃香に詰め寄るが、返ってくるのはしてやったりと言わんばかりの笑顔だけ。
その頬の中身を全部ぶちまけさせてやろうかと私の足に力が篭った所で、紫の手がなだめるように私の肩を叩いた。
「諦めなさい霊夢。貴女は大人しく私達に食べさせてもらってればいいのよ。朝御飯抜きは今の貴女には厳しいでしょう?」
「う、うぐぐ。だったらスプーンで食べるわよ。アンタ達は魚の骨だけほぐしてくれればいいわ」
「御免なさい。スプーンなら超能力の練習で全部駄目にしてしまったの」
ねーよ。
そう心の中で吐き捨てながら台所に向かうと、用意されていたのは無残にも先っぽの失われたスプーンとフォークの山。
どう見ても新手のイジメです、本当にありがとうございました。
大方私達が言い合っている内に、紫の奴がスキマ使って一つずつ先を折っていったのだろう。
私に『あーん』させる事に対する妖怪達の異常なまでの執念に、私は思わず身震いしてしまう。
もっと別の所に執念を向けてくれと思うのは、私が常識を捨て切れていないからなのだろうか。
しかしどうする、どうするよ、私。
目の前に広がる絶望的なまでの状況に、博麗ブレインをフル回転させて、とるべき行動を考える。
はっきり言ってお腹は空いた、ここ最近お菓子しか食べていないのだから尚の事だ。
そんな今の私にとって岩魚の塩焼きは、望んでもいない程のご馳走と言って過言ではない。
だが、それを手に入れる為には、あの憎き変体妖怪どもに『あーん』して食べさせてもらわなければいけない訳で。
そのような恥辱に耐えてまで、空腹を満たすべきなのか否か、余りの難題に私は頭を抱えて唸ってしまう。
「あーん」
「……」
「あーん」
「うぅ……」
「あーん」
「うぎぎぎぎぎぎ……」
私が頭を悩ます間にも、周囲から襲い掛かる『あーん』の三重奏。
目の前に差し出された焼き魚の香ばしい匂いが、私の空腹を促進し冷静な判断力を奪っていく。
この際誘惑に負けてしまえと、心の中の悪魔が囁きかけてくる。
そうだ、頼みの饅頭も全て失ったのだ、現在私が食べる事が出来るのはそれこそ文の作った朝食くらい。
ここは恥を忍んでも実を取るべき所、意地になって貴重な食物を逃すのは愚の骨頂と言うものである。
例え憎き妖怪達相手に無様な『あーん』姿を曝す事になろうとも―――――
いやいやいや、駄目だ、冷静になれ、博麗霊夢。
食べ物如きで簡単に飼いならされては、それこそあの三馬鹿の思う壺じゃないか。
やはりここは博麗の巫女の威信に賭けて、固い意思を持って―――――
「いらないんですか?」
「いります」
思わずそう答えてしまった。
我ながらこんにゃくもびっくりのふにゃふにゃ意思である。
自分の意思の弱さに、私はがくりと肩を落とす。
対して、三馬鹿トリオは。
私が落ちた事がそれ程嬉しかったのか、揃って満足そうに頬を緩めながら、食べやすいサイズにほぐした焼き魚を私の鼻先へと差し出してくる。
勿論、件のおぞましい行為を私に要求しながら。
「あーん」
「あ、あーん……」
その日、博麗の巫女は妖怪に屈する事となった。
「うぅ、汚された……」
朝食と言う名の拷問を追え、余りの疲労感に私は縁側で突っ伏していた。
『あーん』くらいで大袈裟と思うかもしれないが、どうか想像して欲しい、三人からかわるがわる餌を差し出され、その度に馬鹿のように口を開かなくてはいけない屈辱を。
あの妖怪ども、確実に私の事をかよわい小動物としか認知していなかった。
一口私が彼女たちから料理を与えられる度にへらへらと生暖かい笑みを浮かべるのだ、そのような恥辱が他にこの世に存在するだろうか。
更に悪い事に、料理自体は悔しいくらいに美味しかった。
いっそまずければすぐさま吐き捨てられたものを、美味しかったからこそ拷問に耐えながらも味わわなければいけなかったのだ。
「あらあら、情けない姿ですこと」
隣に来るや否や嫌味な言葉を投げかける紫を、思い切り睨み付けてやる。
このやろう、誰のせいでこんな抜け殻みたいな状態になっていると思っている。
看病に来たと言うのならば、もう少し患者に気を遣えといいたい物である。
彼女の式神―――――八雲藍ならばその辺り、言わなくともバッチリ理解しているだろうに。
それこそ看病と言うならあっちの方が何倍も適しているだろうに、どうして藍じゃなくてアンタが来るのよ、駄目主人め。
「ふふ、どうして藍じゃなくてアンタが来るのよ、とでも言いたそうな顔ね」
「一字一句違わずその通りよ。家事とか看病なら藍の方が出来るでしょうが」
「せっかく存分に貴女をからかえる機会よ。簡単に藍に譲るのは勿体無いでしょう?」
「よし、今すぐ帰れ」
「冗談よ。生憎藍は結界の面倒を見ていて動けないわ。と言う訳で博麗の巫女の面倒は私ってね」
どう考えても逆だろう、その配役。
このスキマ妖怪には一度、適材適所と言う言葉を教えてやりたいものである。
怪我人を前に楽しそうな様子を隠そうともしない紫に、私は何処までも深い溜息を吐いた。
「アンタ達に面倒見られるくらいなら、まだ魔理沙に見られる方がマシだわ」
「まぁ、失礼ね。あの子に看病なんて出来るとは思えないけれど」
「それでもアンタ達より幾分か良質よ。あー、本当に誰でもいいからトレード要員来ないかしら。別に魔理沙じゃなくてもアリスでも咲夜でも早苗でも」
「さりげなく家事スキルの高そうな子ばかり選んでるわね。でも残念、今日は私達以外は誰も来ないわよ」
「は? どういう意味よ?」
やけにはっきりと断言してみせる紫に向けて、疑問と共に思いっきり訝しげな視線をぶつけてやる。
本人もその質問を待っていたのだろう、相も変わらず人を喰った笑みをその表情に浮かべながらも、私の疑問に答えるかのようにゆっくりとその口を開く。
「そのままの意味よ。どうも貴女の周りは世話焼きが多いみたいでねぇ。貴女の怪我が知れ渡るや否や、面倒を見たいって言う連中が大勢出てきて大変だったのよ」
「そりゃまた信憑性に欠ける話ね。それで、その世話好きの方々の姿が見えないのはどうしてなのかしら」
「余り大勢で神社に押し掛けても迷惑でしょう? 貴女の看病は少数精鋭で行う事にして、残りは極めて平和的手段でお断りさせて頂きました」
「少数ボンクラの間違いでしょ」
全く、吐くならもう少しマシな嘘を吐けばいい物を、それで私が騙されるとでも思っているのだろうか。
明らかな法螺話を適当に受け流しながら、私は紫の用意したお茶へと手を伸ばす。
対する紫はそんな私の態度に、ふむ、と顎に手を当てて何かを考えていたようだが、すぐにどうでもよさそうに煎餅を齧り始めた。
どうやら彼女にとっても、信じられようがられまいがどうでもいい話だったらしい。
日中の穏やかな風が頬を撫でる。
先程は地獄の時間を過ごす羽目となったが、今は三馬鹿のちょっかいも小休止。
隣で欠伸をしているスキマ妖怪が邪魔とは言え、束の間ののんびりタイムを楽しめそうであった。
視線の先ではせっせと境内の掃除をする鴉天狗が一匹。
団扇で風を器用に操りながら、ここ数日で派手に散らばった枯葉達を一箇所に集めている。
普段は煩わしいパパラッチも、こうして私の為に働いてくれるのならば愛らしく見えるものだ。
ちなみに萃香はと言えば、溜まりに溜まった洗濯物担当。
あれだけの量を洗うのも干すのも大変だろうに、二つ返事で承諾してくれたと言うのだからありがたい話である。
普段見ないだけに彼女の家事能力には些か不安が残るが……それでも、私の為に働こうとしてくれるその気持ちが嬉しい事には変わりはない。
先程から憎まれ口ばかり叩いている私だが、何だかんだで文と萃香に対しては感謝の気持ちを抱くようになっていた。
そう、『文と萃香に対しては』である。
私は努めて呆れたような表情をしながら、隣で眠そうに目をこすっているスキマ妖怪へと苦言を呈す。
「あのさぁ。アンタは何もしない訳?」
「私はこうして霊夢の暇を紛らわす係よ」
「それはまた随分と楽な仕事な事で」
「いえいえ、こう見えて一番の重労働ですわ」
舌戦でこのアホ賢者様に勝てるとは思っていないが、それでも納得はいかない。
人をからかうだけからかって、一人だけ私の為には一切働かないなど、許されていい筈が無い。
取り合えず博麗に伝わる最強奥義、『ジト目』で彼女の良心に訴えかける事にしてみた。
と言う訳でじとー。
「……そうねぇ、確かに暇を紛らわすだけでは不足かもしれないわね」
そんな私のジト目攻撃が通じたのか。
紫はその口から小さく息を吐くと、私の視線から逃れるかのように双眸を閉じる。
え、あれれ? これひょっとしてこのニートを働かせるチャンス?
思いもよらない勝機に私が追撃の手を考えていると、次の瞬間にスキマ妖怪が浮かべるのはこれ以上無いほどのいい笑顔。
「と言う事で、膝枕係になってもいいわよ」
「ぶっ」
ネジが二、三本ぶっ飛んでいそうな発言に思わずむせた。
ええ、どうせこんな事だろうと思ってましたよ。
この人をからかうのが大好きなスキマ妖怪が、素直に私の言う事を聞く筈などなかったのだ。
私の狼狽を尻目に膝をたたきながらドヤ顔を浮かべる紫の姿に、私は拳を握り締める。
「霊夢に快眠を与えるのも大事な役目ですもの。人間の枕になってあげるなんて、私はなんて慈悲深のかしら」
「黙れ、買出しでもして来い」
「また恥ずかしがっちゃってぇ。ほらほら、遠慮せずこっちいらっしゃい」
「ぎゃー! はーなーせー!」
強引に人の頭を膝へともっていこうとする紫に対し、全身に力を込めて抵抗する。
しかし元々の体格差に加えて利き腕が使えないのは痛すぎる、優雅な笑顔に似つかわしくない万力の如き腕の力に、私の頭は為す術も無く膝の上に押さえつけられ―――――
「ん」
その時、不意に紫の動きが止まる。
膝へと到達する前、丁度紫の顔の前を通り過ぎた辺りの位置に、私の頭が固定される。
目線だけで顔を見上げてみれば、そこにあったのは紫の訝しげな表情。
「な、何よ……」
正直キツいんだけど、この体勢。
抗議のニュアンスを含めた疑問の声を投げ掛けるが、紫の表情は難しいまま。
私の頭を両手で掴みながら、なにやら考え事をしているようだ。
「掃除終わりましたー……って何をやってるんですか」
そこに計ったかのようなタイミングで掃除を終えた文が帰還。
私達の世にも奇妙な体勢を見て、訳がわからないといった風に苦笑を浮かべている。
まぁ、一見膝枕の体勢のようで、斜め45度の中空に頭が固定されていると言うのだからそのリアクションも無理はない。
とにかく、これはチャンスである。
私はこの状況を打破するべく文に助けを求めようとして……しかして予想外な事に、先に文を呼び寄せようとしたのは紫の方であった。
「ねぇ文、ちょっとこっち来てくれないかしら」
「?」
紫の手招きに、文は首を捻りながらも縁側の前までやってくる。
今度はどんな悪ふざけをするつもりなのだ、このスキマ妖怪は。
身動きできない状態で私が戦々恐々としていると、紫は何を指示するでもなくちょいちょいと文に見せるように私の頭を指差した。
要領を得ない文だが、取り合えず紫の指差す私の頭を凝視するべく顔を近づける。
「む」
そして何かを納得した模様。
先程の紫と同じく難しそうな顔をしたかと思うと、二人顔を見合わせて何やらうんうんと頷いている。
何なんだ、こいつら気持ち悪い。
言いたい事があるならはっきりと言ってほしいものだ。
訳のわからない状況に私が心底うんざりしていると、まるで順番待ちでもしていたかのように今度は空の洗濯カゴを持った萃香が視界の横から現れる。
「おーう、洗濯終わったぞー。いやー、人間の服って脆いなー」
何か思いっきり剣呑な発言があった気がしたが、聞くのが怖いのでツッコまない事にした。
そんな私を尻目に紫と文は先程のように二人でアイコンタクトを交わすと、同時に萃香へと向き直る。
「萃香さん、良い所に」
「これをどう思うかしら?」
そして二人して私の頭をちょいちょいと指差し。
何故にコイツらこう、無駄にいい連携しているのだろう。
ともかく、紫と文の指示を受けた萃香は、小走りで私の目の前までやってくる。
そして先程の文のリプレイのように一瞬難しい顔を浮かべると、更に全身を嘗め回すように顔を近づけてきた。
よく見ると、私の身体に近づけた鼻先がかすかに動いている。
……ひょっとして匂いを嗅いでる?
「んー」
顔を離したかと思うと、顎に手を当てて何かを考えるように唸る萃香。
こ、コイツまさか私がずっと目を逸らしていた禁断の真実を暴くつもりでは……!
脳裏をよぎる嫌な予感に戦々恐々とする私を知ってか知らずか。
萃香は顔つきを真剣な物にすると、持ち前のよく通る声で隠された真実を指摘した。
「霊夢、お前風呂入ってないだろ」
グサァ。
流石は歯に衣着せない女幻想郷ランキング一位タイの伊吹萃香、見事な言葉のグングニルである。
おかげさまでナイーブな博麗霊夢マインドに痛恨の一撃がクリティカルヒットしてきゅうしょにあたったではないか。
……だって仕方ないではないか。
私だって花も恥じらう乙女、本当はお風呂に入りたいに決まってる。
しかし永琳からギプスを濡らすなと言われている以上、怪我が治るまでは我慢せざるを得ないのだ。
永琳曰く、誰かに手伝ってもらうか、身体を拭いてもらうようにとの事だが、何処にそんな事を任せられる奴がいる。
これまでもずっと一人で生きてきたのだ、今更そんな誰かに頼る生き方は御免だし、そもそも先程言った通り、私こと博麗霊夢は花も恥じらう乙女、そう簡単に他人に生肌を曝す事など出来る筈が無いではないか。
「萃香、よろしく」
「ほい、ちょっとお風呂沸かしてくるよー」
「じゃあ私は着替え用意しておきますねー」
ましてや目の前の三馬鹿妖怪になど……ってちょっと待て。
三妖怪でのアイコンタクトの後、おもむろに立ち上がろうとする紫の首根っこをむんずと掴む。
「えー、あの、紫さん?」
「あらあら、どうしたの? 急にさん付けしたりして」
「聞かない方がいい気もするのですが、三人して何を準備していらっしゃるのでしょうか」
「お風呂の準備に決まっているじゃない」
「……誰の為に」
「勿論貴女。博麗霊夢。女の子は清潔にしておかないといけないのよ?」
そう口にすると、スキマ妖怪は小さく舌なめずり。
笑顔で向きあったまま、一瞬の沈黙が二人の間に流れる。
そして次の瞬間、私は脱兎の如くその場から逃げ出した。
「逃がしませんわ」
「ひぃ」
スキマから出てきた紫の上半身により、ガッチリ捕獲された。
片腕且つ武器の無い私に為す術はにい、あっという間に羽交い絞めにされたかと思うと、怪我した方の腕をスキマへと突っ込まされる。
「ギプスが濡れると面倒だからね。はい、これで一安心」
「誰がお風呂入るって言ったのよ。早く放しなさい」
「放したら逃げるからだーめ」
そう言って紫はくすくすと楽しそうに笑う。
くそぅ、絶対に楽しんでやがるこのスキマ。
「別に今更恥ずかしがる事は無いじゃない。永遠亭では永琳達に入れて貰ったんでしょう?」
「それは、そうだけど……」
彼女達はあくまで医療者としての義務感しか無い訳で。
私をお風呂入れるとなった時に、爛々と目を輝かせたりしない訳で。
私の服に脱がせようと、手を突っ込みながら涎を垂らしたりしない訳で―――――!
働かない頭を必死で回転させて、私はこの危機的状況からの脱出方法を思案する。
しかしそんな私に追い討ちを掛けるかの如く、その場から離れていた文と萃香が物凄い勢いで戻ってきた。
「着替えその他お風呂セット用意できましたっ!」
「お風呂ばっちり沸かしたよっ!」
「早いな、おい!」
「私はほら、幻想郷最速ですから」
「私はほら、密度を操る能力の応用で熱をちょいとね」
二人して息を切らせながら、得意げに胸を張る。
……コイツら、そこまでして私をお風呂に入れたいのか。
わかってはいたが、改めて自分のサポート妖怪の変態ぶりに、軽く眩暈を覚えてしまう。
勿論、三馬鹿妖怪共はそんな私の気苦労など何処吹く風。
準備を終えた事でテンションも最高潮なのか、三人揃って煌々と光る瞳を携えながら唇の端を歪ませる。
「それじゃあ早速」
「お風呂に入るとしますか」
「さぁ、脱ぎ脱ぎしましょうねー」
間違う事なき人外の力をもって、三馬鹿は私の服を脱がせに掛かる。
こうなってしまえば人間など妖怪の為すがまま、コイツらに力を与えた奴は今すぐに退治されるべきだと思う。
心の中で世界の不条理さに文句をぶつけるが、それで何かが変わるなんて事があろう筈が無い。
私は自分の服が次々と剥ぎ取られていく様を目の当りにしながら、名前も知らない神様に祈りを捧げる事しか出来なかった。
助けて、博麗神社の神様。
「うぅ、もうお嫁に行けない……」
太陽が西に傾き、神社が紅く染まる夕刻。
三馬鹿妖怪の数々の暴挙により人間の尊厳を傷つけられた私は、ぐったりとちゃぶ台に突っ伏していた。
妖怪達にお風呂に入れられるだけでも、さとりにスペカにされるレベルのトラウマだった。
しかし悲劇はそれだけでは終わらない、昼食の際に『あーん』攻勢を受けたのは勿論、お昼寝タイムは膝枕に子守唄、終いにはお手洗いにまで補助と称してついて来るのだ。
本来ならば今すぐにでも、『君がッ死ぬまで夢想封印をやめないッ!』と行った挙句、閻魔の所に送りつけてやりたい所である。
しかし今の私にはそんなバイオレンスは愚か、三馬鹿の暴挙に対する抵抗もロクに出来ない状態な訳で。
こうして何かにしがみつきながらめそめそするのが精一杯なのである。
「大袈裟ねぇ。女同士だし別にいいでしょう?」
「……そういう問題じゃない」
まるで先ほどのデジャブのように、くすくすと笑う紫を思い切り睨み付ける。
それを見て妖怪どもはまたニヤニヤ、くそぅ、普段ならこんな醜態絶対に曝さないものを……怪我をすると精神まで病むと言うのは本当だったらしい。
いや、精神が衰弱しているのは主にコイツらのせいな気もするが。
相も変わらず楽しそうな妖怪達のアホ面を眺めながら、私は今日何度目かもわからない大きな溜息を吐く。
「あ、また溜息。霊夢、溜息を吐くと福が逃げるよ」
「もしそうだとしたら今日一日でどれだけの福が逃げたか。主にアンタらのせいで」
「またまた、そんな事言って。お風呂も入れたし、御飯も美味しい物を食べられて、お昼寝も十分。何だかんだで霊夢も楽しかったんじゃないですか? ほら、瞳からも生気が滲み出てますよ」
「とんだ節穴アイを持ったものねパパラッチ」
これは生気ではなく、殺意と言うのだ。
憎しみだけで妖怪が退治できればどれだけ楽だろう、と私は乾いた笑みを浮かべる。
今日一日ならばまだ我慢できるかも知れない。
しかし私の怪我はまだ完治までは時間が掛かるのだ、この妖怪どもの事だ、それまでずっと付きまとって来るに決まっている。
果たして怪我が治るのが先か、私がノイローゼになるのが先か。
これから我が身に降りかかるであろう災難を予想して、神に嘆こうとした丁度その時だった。
「さてと、それじゃあそろそろ戻るとしましょうか」
聞こえてきたのは、完全に予想外な紫の言葉。
弾かれたように振り替えると、先程まで意地悪い表情であった三人が揃って穏やかな笑みを浮かべている。
夕焼けに紅く染まる部屋の中、影のさしたその表情はほんの少しだけ寂しげに見えた。
「戻るって、え?」
「なに意外そうな顔してるのさ。もう戻らないとすぐに暗くなっちゃうじゃないか」
「この季節、夜の冷え込みは流石に妖怪といえども堪えますからね。今の内って訳です」
彼女たちは至極真っ当な事を言っている。
至極真っ当な事を言っているのだが、私は予想外の事態に上手く言葉を発することが出来なかった。
人にちょっかいを出すのが大好きで、どれだけ拒否しようとつきまとってくる彼女達が、こうも大人しく帰路につくとは思っていなかったのだ。
呆けたようにぽかんと口を開けたままの私に構うでもなく、妖怪たちはいそいそとその場に立ち上がる。
まるで夢が覚める時のように、突然且つあっさりと。
「あ、そうそう」
それぞれの住処に帰ろうと、障子に手を掛けようとしたその瞬間。
思い出したようにそう口にすると、三人の少女達はくるりと私の方向へと向き直る。
親が子を想うかの如き、優しげな瞳を携えて。
「やっぱり霊夢はそちらの方が似合ってますよ」
「……は? なにそれ、何が言いたいの?」
「元気が出たみたいで安心したって意味です」
「は、はぁ!? なに言っての!? こちとらアンタ達のせいで元気ガシガシスポイルされたんだけど」
「まぁ、そう言うだろうけどね。私達には纏ってる空気の質でわかるのさ。怪我してからの霊夢の周囲の空気ったら、すっかり淀んじゃって見れたもんじゃなかったからねぇ」
「全くその通りですわ。晴れ渡るような気質が持ち味の貴女が、うじうじ湿っぽくしてたら魅力も半減よ」
「何時誰が湿っぽくしてたのよ」
「やっぱり自覚無しかー。性質が悪いなぁ」
萃香はやれやれと首をすくめて見せる。
私がずっとうじうじ落ち込んでいた……?
嘘だ、そんな筈は無い。
確かに怪我をしてからここまで、外出も人との会話もほとんど無かったが、それでも自分が滅入っていたなんて考えた事もない。
どうせこの妖怪達が口から出任せを言ってるに決まっている。
そう切って捨ててやりたい所なのだが、彼女たちの表情は、とても嘘を吐いたりからかっている様には見えなくて。
私は思わず頭に手を当てて、今日までの自分を振り返ろうとしてしまう。
そんな私の様子を見ながら、萃香は困ったように頬を掻く。
「本当はさ、霊夢の怪我が治るまでは会いに来ないつもりだったんだ。霊夢はもともと何処か一人で居る事を好んでる節があったし、こういう時はそっとしておいた方がいいだろうなって。でも実際一人にしておいたら全然駄目だった。どんどん気質が乱れていって、あれじゃいずれ体調を崩しちゃうし、怪我だってよくなる筈がない」
「私達が騒がしくする事で少しでも気を紛らわせればと思ったのですが、予想以上にすっきりしたみたいでほっとしました。……少々、悪ふざけが過ぎたかもしれませんが、そこはご勘弁を」
どんな言葉を紡げばいいのか、わからなかった。
余計なお世話だと怒ればいいのか。
ありがとうと感謝すればいいのか。
彼女達の気遣いや起こした行動に対して、私はどのように反応してやればいいのかわからなかったのだ。
彼女達の言う、気質の変化が本当に私に起きていたのかはわからない。
何せ自覚が無いのだ、自分が変わっていく事に気付ける人間なんてそうはいないだろう。
ただ、それでも彼女達に言われて始めて気付いた事がある。
私は笑わなかった、怒らなかった、泣かなかった。
怪我をして、神社に戻ってきてからここ数日間、私の感情は大きく変化する事が無かった。
大声を出したのも今日が久しぶりだったし、恥ずかしいなんて思ったのも何時以来だったか。
腕を折るまで当たり前であったような事が、ここ数日間では全くと言っていい程失われていた。
他人との接触がほとんどなかったのだ、それはある意味当たり前の事なのかもしれない。
だけど、その当たり前が当たり前じゃなくなるくらい、少し前の私の周りには他人が溢れていて、私は笑って怒って泣いていた。
昔、魔理沙から言われた事がある、『霊夢は変わった』と。
『何時の間にか、一人で居る事が似合わなくなった』と。
思えばあの時も、私は自分の変化なんてまるで気付く事が出来なかった。
否、それどころか魔理沙が居なければ、未だ自分が変わったなんてこれっぽちも自覚できていなかっただろう。
もしかしたら人は日々変化して、自分でも気付かない内に自分の『当たり前』を書き換えてしまっているのかもしれない。
その事に気付かせてくれるのはいつも他人なのだ。
だとしたら、今回も。
今回も私は、自分で気付かない内におかしくなってしまっていたのだろうか。
誰とも交わらず、喜怒哀楽の感情が薄れていく事を『当たり前』としてしまっていたのだろうか。
わからない。
頭の中がぐしゃぐしゃとこんがらがって、自分の考えがまるでまとまらない。
わかるのは、彼女達が来た事で今日私が久しぶりに自分の感情を表に出したと言う事実のみ。
それがプラスな事なのか、マイナスな事なのかすら、今の私には見当がつかなかった。
博麗霊夢の為を思い、博麗霊夢の為だけに起こした彼女達の行動が、私にとってどのような意味があったのか、考えても理解できる気がしなかった。
そうして私が頭を悩ませている様を見つめながら、三妖怪はくっくとおかしそうに笑う。
まるで、満足したと言わんばかりにうんうんと頷くと、今度こそ彼女達の住処へと続く障子を開いた。
「それでは、また。ちゃんと寒くない格好して下さいね」
「またなー、霊夢」
あっけないまでに簡単な挨拶。
それだけを口にすると、文と萃香は私の返事も聞かずに障子の奥へと消えて行った。
思わず反射的に手を伸ばしてしまうが勿論届く筈も無い。
ただ一人、未だその場に残っていた紫だけが、その様子を見つめながらゆっくりと私の名前を呼ぶ。
「霊夢」
「何よ」
「私達妖怪には人間の感情、本音と言うものが上手くわからない。だから本当に私達の助けが必要な時は、ちゃんと声にして伝えて頂戴」
「無理よ、そんなの」
「頼り下手」
「うっさい」
自分の感情、本音なんて、自分でもわからない物をどうしろと言うのだ。
そんな心の声は彼女の耳に届いたのだろうか、紫は小さく笑うと、その表情のままスキマの中へと消えて行く。
その途端に、先程までの喧騒が嘘のように境内は静寂に包まれる。
「……何よ」
誰も聞いていないと知りながら、ぽつりと呟く。
話すという行為は、その相手が居て初めて意味を為すと言う事を今更になって噛み締めながら。
「ついでに夕飯くらい作っていきなさいよ」
こっちの言う事なんてお構いなしに三人で押しかけて、今度は勝手に一片に消え去って。
萃香なんて普段ですら神社に泊まって行く事が多い癖に、こういう時だけはさっさと帰っていって。
癪だった。
散々騒ぐだけ騒いで、最後にあんな言葉を残して去っていった妖怪達。
そんな何処までも自分勝手な連中の事が、未だ心の中で引っ掛かり続ける事が癪だった。
そして、昨日まで一人で使っていた筈の自室が、今はやけに暗く広く感じてしまう事が癪だった。
すっかり静寂が包み込んだ世界に、カタカタと障子が揺れる音だけが響く。
障子の隙間から感じる冬の夜風は、やけに冷たく感じられた。
……切り替えよう。
大きく深呼吸して、私は気持ちを切り替える。
これ以上連中の事を考えても、もやもやした気分になるだけだ。
まずは連中が帰ってしまった事で、心配しなくてはいけなくなった夕食の件だ。
饅頭は全部食べられてしまったし、何だかんだで昼食もおかわりまでしてしまった為残り物も無し。
全く、どうせずっと居ると思っていたから、夕食の事なんて何も考えてなかったのに……。
って、それじゃあ私が彼女達を頼りにしていたみたいじゃないか。
違う違う、アイツらが私の饅頭を食べてしまったから……って結局連中の事考えてるじゃないかああああっ!
ぶんぶんと頭を振って、脳内の三馬鹿の映像を吹き飛ばす。
しかし忘れよう忘れようとすればするほど、頭の中からはなかなか消えてくれないもので。
これから怪我が治るまでずっと、あの妖怪どもの映像ともやもやした気分を抱えて、過ごしていくのか。
背中に圧し掛かるうんざり気分に、私は今日一番の大きな溜息を吐いた。
くそぅ、三馬鹿め、私を元気付ける為とか言って、結局どん底まで叩き落しているではないか。
今度押しかけてきた時は、いらっしゃいの挨拶の代わりに陰陽球を投げつけてやる。
「ただいまー!」
はいはい、おかえりなさい、えっと陰陽球はっと……。
いや、ちょっと待て。
不意に背後から聞こえてきた聞き覚えのある……と言うかまさに先程まで耳にしていたロリボイスに、私はギギギとブリキ人形のように振り替える。
言うまでも無く、そこに在ったいたのは先程帰ったはずの子鬼、伊吹萃香の姿だった。
「おーう、とっておきのお酒も持ってきたぞー」
「や、アンタ帰ったんじゃ……」
「ん? 帰ったよ。これからの事を考えたら色々準備が必要だったからね」
悪びれる様子も無く楽しそうに笑いながら、床に降ろした荷物をぽんぽんと叩く。
それは萃香の身の丈程はありそうな、大きな大きな風呂敷包。
酒と言うには明らかに大きすぎるその荷物を目にして、私の頭の中にとても嫌な仮説が浮かぶ。
ま、まさかコイツら……。
「ただいま戻りましたっ」
私の予感を肯定するように、萃香と一緒に帰った筈の文までが、当然と言わんばかりの素振りで神社に戻って来る。
手にはやはり巨大な風呂敷、文は私に一礼だけすると遠慮も何も為しにその風呂敷を広げ始める。
その中から出てきたのは―――――着替えに布団、更には数々の私物に新聞用らしき原稿用紙の束。
目の前に広がる余りにも衝撃的な光景に、私は言葉を発する事ができない。
こ、コイツら本気だ……本気ここに住み着く気だ。
完全に嫌な予感が当たってしまった。
今日彼女達が行っていたのはあくまで様子見に過ぎない。
始めから彼女達は私の反応如何によっては、これから私の怪我が治るまで、泊り込んで看病し続けるつもりだったのだ。
先程戻るなどと言っていたのは、これから神社で暮らしても不便しないように、自分の物を取って来る為だったのだ。
開いた口が塞がらないとはまさにこの事。
私は口から魂が抜け出るのを感じながら、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。
そんな私に追い討ちを掛けるかの如く、今度は私の横の空間が裂け、中から紫が顔を出す。
「ただいま……っと二人とも早いわね」
「紫が遅いんだよ。スキマ使ってるんだから、一番早くてもいいだろうに」
「やれやれ、神社に一つしか布団が無いせいで持って来るのが大変でしたね」
固まっている私そっちのけで、早くも荷物を整理しながらきゃいきゃいと盛り上がり始める三馬鹿衆。
先程のしんみり空間は何処へ行ったのか、夜の境内に妖怪どもの笑い声が響き渡る。
どうやら既に神社を自宅としか思っていない様子、本当、この有害物質どもはどうすればいいのだろうか。
私は喧騒の中一人、働かない頭で幻想郷クリーン化計画を打ち立てていた。
しかし妖怪達は悪びれない。
一しきり荷物を整理し終えると、三人して笑顔のまま私の目の前に整列する。
その表情は何処からどう見ても、これから看病をしようと言う奴のそれではなかった。
「と、言う訳で。今日からしばらくよろしくお願いしますわ」
「私達がついてるんだ、大船に乗ったつもりで居てくれよ」
「困った事があったら、何でも言って下さいね」
一番の困りの種共がいけしゃあしゃあとそんな事を言ってのける。
本当に先程の意味深な別れは一体なんだったのか。
おかげで私は酷くもやもやした時間を味わったと言うのに、これでは完全に悩み損ではないか。
そんな事を考えながら私が思わず呆れた顔しか出来ずにいると、紫はくすりと小さく唇の端を歪ませる。
その人を食ったような笑みを見て、私はようやく気付いたのだった。
コイツら、わざとだ。
私にもやもやした気持ちを味わわせ、こうして度肝を抜く為に、先程はわざと意味深な言葉を残して去っていきやがったのだ。
何て性根の腐った連中なんだ、このサポート妖怪どもは。
ぴきぴきと、言葉にならない怒りが私の体の奥で燃え上がっていく。
感情が滲み出るのを抑えようともせずに、三馬鹿妖怪どもをギロリと睨み付けてやる。
「帰れ、すぐ帰れ。絶対に帰れ。ほら帰れ」
「まぁ、怖い顔。さっきはあんなに寂しがってた癖に」
「は?」
何を言っているのだ、このスキマ妖怪は。
訳がわからないと眉を顰める私を満足げに眺めた後、紫は頬に手を当てながら恋する乙女のように言葉を紡ぐ。
「……ついでに夕飯くらい作っていきなさいよ」
「―――――!」
その瞬間、一気に頭が真っ白になった。
こ、こ、こ、このババァ……!
覗いてやがったのか……煽るだけでは飽き足らず、その後の様子まで覗いてやがったのか!
つまりなんだ、ずっと覗かれて居たと言う事は、先程の女々しい仕草も全て見られていたと言う訳で。
余りの恥ずかしさに、自分の顔が見る見るうちに熱くなっていくのがわかる。
そんな私達の不自然な様子に、興味津々とばかりに萃香と文も首を突っ込んでくる。
「え、なになにどうしたの?」
「興味ありますね。紫さん、何があったんですか?」
「ふふ、実はねぇ……」
「言うなぁ!」
嗚呼、本当にコイツらと居ると碌な事が無い。
先程一人になった時、私が考えた事など今思えばはっきり言って愚の骨頂。
コイツらが私にプラスの何かをもたらすなんて、ある筈が無い。
この三馬鹿妖怪なんかと一緒の時間を過ごすくらいならば、それこそずっと一人で暮らして居たほうがいいに決まってる。
しかし脆弱な私の抵抗など、彼女達の前では結局意味を為さないのだろう。
これまでも、そしてこれからも。
それこそ、きっと私は死ぬまで彼女達に付きまとわれ、振り回される事になるのだろう。
だとしたら―――――嗚呼、何て不幸な人間なんだ、博麗霊夢と言う女は。
博麗神社の神様、いや、この際誰でもいい。
お願いだから、誰か私に安息の地をくれ!
「お前ら全員さっさと帰れぇっ!」
冬の夜空に、私の最大音量の叫びが久方ぶりに響き渡った。
そのような記事があの憎き文々。新聞の紙面に踊ったのはつい先日の話。
痛みを必死で堪えている私に、いい記事が出来たと嬉々として新聞を見せてきた天狗にタイガーニーかましたのを鮮明に覚えている。
確かにあの怪我は我ながら酷く間抜けだった。
香霖堂でもらった『えあこん』とか言う道具を抱えて神社の階段を上っていた時、ふと背後から聞こえてきた小銭の音。
瞬間的に音速をも越えた切り返しによって上半身だけで振り返ってみれば、遠心力とえあこんの重みに負けてごろごろがっしゃーんと言う訳である。
べ、別に小銭が欲しかった訳じゃないんだからね! ただの条件反射なんだからね!
とにかく、そんなこんなで丈夫が取り得の博麗アームが見事にポッキリ。
ストーカー妖怪(サポート妖怪だったっけ?)達がすぐさま永遠亭に連れて行ってくれたおかげで大事には至らなかったが、骨折など初めての経験であった私にとってあの痛みはトラウマ級と言って間違いない。
まぁ、そんな心理面へのダメージは置いておくとして、その後の経過は非常に良好。
未だ首からギプスをぶら下げている状態とは言え、既に安静を条件に自宅での療養を許可されていた。
私としてはなるべく普段通りの生活を心がけ、一刻も早くこんな怪我の事など忘れてしまいたい所である。
そう、普段通りにしていたいのだが―――――
「なんでアンタらそろいも揃ってここに居る」
「看病です」
「看病よ」
「看病に決まってるだろう」
朝、目を開けて真っ先に視界に入るは布団をぐるりと取り囲む、天狗、鬼、スキマ妖怪の要注意妖怪筆頭三人衆。
彼女達をどうにかしない限り、普段通りの生活など出来そうもない。
「えー、まずはおはよう御三方。相も変わらず頭の中のお花畑綺麗ですね」
「おはよう、霊夢。やー、そんなに褒められると照れるなぁ」
「萃香、そこは『それ程でもない』と返すのが、謙虚な鬼の秘訣よ」
「少女達に囲まれた状況をお花畑と表現するとは、霊夢も中々詩人ですね」
何を言っているのだ、この珍妙奇天烈大百科どもは。
一言皮肉を言っただけでこの返し、一人でも相手にするのが疲れるというのにこうして三人揃うと本気で手がつけられないから困る。
全く、女三人寄れば騒音公害とはよく言ったものである。
取り合えず寝起きから不快な気分にさせてくれたお礼として、夢想封印食らわせとこう。
「あぁ、駄目ですよ、霊夢。怪我人なんですから安静にしていないと」
「ほいほい、こんな御札はぼっしゅーっと」
「取り合えず怪我が治るまで、貴女の武器はスキマで預からせて頂くわ」
迅速かつやんわりと押さえ込まれた、コイツらの無駄な戦闘能力が憎い。
と言うか何でこんな時に限ってチームワーク抜群なんだ、コイツら。
あっという間に布団に寝かしつけられた私の口から、思わず大きな溜息が漏れる。
「さて、霊夢も目を覚ましたし、まずは朝御飯でもいただきましょうか」
「文、準備頼んだ」
「任されましたー」
「待て待て待て待て」
任されましたー、じゃねーよ。
おもむろに立ち上がろうとする文の肩を、無傷な方の腕でがっしりと掴む。
「なに勝手に人の家の朝御飯作ろうとしてるのよ。アンタ達、一体何がしたいの?」
「ですから、看病ですって」
「誰がそんな事しろって言ったのよ。見ての通り私は元気、極めて健康体だわ。アンタ達の手なんて借りなくても一人で十分普通に生活―――――」
「こつん」
「ひぎぃ」
萃香に横からギプスを小突かれた。
何て恐ろしい事をするのだ、この子鬼は。
電流の走ったかのような鋭い腕の痛みに、私は布団に蹲って悶絶する。
そしてそんな私を見下すように、上から目線で口を開くスキマ妖怪一人。
「本当、人間は脆いわね。それで健康体とはよく言えたものだわ」
「うぅ……それでもアンタ達に邪魔されなければ、自分の事くらい自分で出来るわよっ」
「相変わらず博麗の巫女の自覚が足りないわね、霊夢。もしも貴女の怪我が治る前に異変が起きたとして、利き腕の動かない貴女に一体何が出来るのかしら? それこそ低級妖怪の餌になるのがせいぜい、幻想郷の要がその体たらくでは示しがつきませんわ。博麗の巫女たる貴女の今の義務は、そんな事が起こらないよう一刻も早くその怪我を治す為に最善を尽くす事よ。お分かり?」
「要約すると、絶対安静にしてろやこのぼけーと言う訳さ」
無駄に回りくどい紫の言い回しを噛み砕きながら、萃香は涙を拭けとばかりに一枚の布を差し出してくる。
こいつ、この涙は誰のせいだと思ってやがる。
しかもこれ私のサラシだから、ハンカチじゃないから。
などと目の前で得意げになっている萃香に心の中で毒づいていると、何時の間にか消えていた文が台所から戻ってきた。
「つまりはそういう事です。怪我が治るまで生活は私達がサポートするので、どうか大船に乗ったつもりでいて下さい」
そう口にすると、両手の大きなお盆をちゃぶ台の上へと置く。
条件反射的に首を伸ばして覗き見てみれば、そこにあったのは御飯と味噌汁、漬物に……岩魚の塩焼きが人数分。
どうやら私が起きる前からあらかた準備は出来ていたらしい。
朝食としては少しばかり贅沢なような気もするが……。
「ふふん、美味しそうでしょう。今日の朝釣り上げてきたばかりの新鮮な岩魚ですよ。やはり怪我を治すには栄養ですからね」
私の視線を敏感に感じてか、文は得意げな笑みを浮かべながら自分の釣った魚を持ち上げた。
人里ではそう安々とは手に入らない新鮮な川魚の直火焼き、悔しいが確かに美味しそうである。
近頃まともな食事をしていない私のお腹が思わずぐぅと音を立てる。
もしも私が健康体であったのならば、ありがたく頂戴していただろう。
わざわざそのように仮定を置くと言う事は、残念ながら今は違うという意味である。
名残惜しい気持ちを噛み殺しながら、私は文に向かってゆっくりと首を横に振る。
「せっかく釣ってきて来てもらった所悪いけど、私はお見舞いでもらったお饅頭で十分。貴女達だけで食べて頂戴」
「えぇーっ! お饅頭も美味しいですけど、朝はきちんとした物食べないと身体に良くないですよ!」
「そうだよ。せっかく文が早起きして用意してくれたんだぞ。もっと自分の身体に気を使いなよ」
「年中酒浸りのアンタには言われたくないわね。とにかく、今はお魚よりお饅頭な気分なのよ」
萃香達の言葉を受け流しながら、魔理沙からもらった饅頭を一つ手に取る。
昨日も三食饅頭だった為、正直飽きてはいるのだが、背に腹は変えられない。
どれほど御飯に味噌汁、焼き魚が魅力的だろうと、今は饅頭を選択せざるを得ないのだ。
私の聞く耳持たない態度に唇を尖らせるサポート妖怪達。
しかしその中で、ただ一人紫だけがただただ無言のまま私の顔を見つめ続けていた。
全てを見抜く妖怪の賢者の鋭い視線が、私の身体を射抜く。
「ねぇ、霊夢」
「な、なによ」
「貴女、お箸使えないだけでしょ」
ぎくぅ。
完全な図星に、思わず饅頭が手から滑り落ちる。
だって仕方ないではないか、残念ながら私は逆腕で箸が扱えるほど器用ではない。
だからこそここ最近は、饅頭などの調理不要かつ手掴みな物ばかり食べて来た訳だ。
しかし、そんな事実を知られた日には、どのような未来が待っていようかは想像に難くない訳で。
まずいまずいまずい、何とか誤魔化さなければ。
「何言うてますのん。そんな筈無いやんかぁ」
焦りの余り何だかよくわからない言語になってしまった。
顔に貼り付けた作り笑顔も、自分でもわかる程に頬が引きつっている。
くそぅ、自分のアドリブ力の低さが憎い。
なんだか三人して、妙にニヤニヤ生温い視線向けて来てやがるじゃないかこんちくしょー。
「確かに怪我してるの利き腕ですもんねぇ。何だ。それならそうと早く言ってくれればいいのに」
「いやぁ、そうか。うん、箸が使えないんじゃしょうがない。なぁ?」
「そうね。仕方が無いわねぇ」
嫌な予感がした。
酷く嫌な予感がした。
否、むしろ確信とでも言うべきか。
不幸な事故により、箸を使う事の出来ない哀れな子羊博麗霊夢。
そんな獲物を前にした、この妖怪達の思考回路を私はこれまで身をもって思い知らされてきた。
「はい、あーん」
「……」
ああ、やっぱりですか。来ると思いましたよ、ちくしょー。
期待を全く裏切らない展開に、私は大きな溜息を吐きながら頭を抱えて蹲る。
これだから彼女達に箸が使えない事を知られるのは嫌だったのだ。
「ほら、口を開けてください。文お姉ちゃんが食べさせてあげます」
「誰がお姉ちゃんか。全く余計なお世話よ。さっきも言ったけど私はお饅頭でじゅうぶ……」
「もっちゃもっちゃ」
「ちょ、萃香! アンタなに食べてるのよ! 全部か! 残りのお饅頭全部喰ったのか!」
ハムスターのように頬を膨らませた萃香に詰め寄るが、返ってくるのはしてやったりと言わんばかりの笑顔だけ。
その頬の中身を全部ぶちまけさせてやろうかと私の足に力が篭った所で、紫の手がなだめるように私の肩を叩いた。
「諦めなさい霊夢。貴女は大人しく私達に食べさせてもらってればいいのよ。朝御飯抜きは今の貴女には厳しいでしょう?」
「う、うぐぐ。だったらスプーンで食べるわよ。アンタ達は魚の骨だけほぐしてくれればいいわ」
「御免なさい。スプーンなら超能力の練習で全部駄目にしてしまったの」
ねーよ。
そう心の中で吐き捨てながら台所に向かうと、用意されていたのは無残にも先っぽの失われたスプーンとフォークの山。
どう見ても新手のイジメです、本当にありがとうございました。
大方私達が言い合っている内に、紫の奴がスキマ使って一つずつ先を折っていったのだろう。
私に『あーん』させる事に対する妖怪達の異常なまでの執念に、私は思わず身震いしてしまう。
もっと別の所に執念を向けてくれと思うのは、私が常識を捨て切れていないからなのだろうか。
しかしどうする、どうするよ、私。
目の前に広がる絶望的なまでの状況に、博麗ブレインをフル回転させて、とるべき行動を考える。
はっきり言ってお腹は空いた、ここ最近お菓子しか食べていないのだから尚の事だ。
そんな今の私にとって岩魚の塩焼きは、望んでもいない程のご馳走と言って過言ではない。
だが、それを手に入れる為には、あの憎き変体妖怪どもに『あーん』して食べさせてもらわなければいけない訳で。
そのような恥辱に耐えてまで、空腹を満たすべきなのか否か、余りの難題に私は頭を抱えて唸ってしまう。
「あーん」
「……」
「あーん」
「うぅ……」
「あーん」
「うぎぎぎぎぎぎ……」
私が頭を悩ます間にも、周囲から襲い掛かる『あーん』の三重奏。
目の前に差し出された焼き魚の香ばしい匂いが、私の空腹を促進し冷静な判断力を奪っていく。
この際誘惑に負けてしまえと、心の中の悪魔が囁きかけてくる。
そうだ、頼みの饅頭も全て失ったのだ、現在私が食べる事が出来るのはそれこそ文の作った朝食くらい。
ここは恥を忍んでも実を取るべき所、意地になって貴重な食物を逃すのは愚の骨頂と言うものである。
例え憎き妖怪達相手に無様な『あーん』姿を曝す事になろうとも―――――
いやいやいや、駄目だ、冷静になれ、博麗霊夢。
食べ物如きで簡単に飼いならされては、それこそあの三馬鹿の思う壺じゃないか。
やはりここは博麗の巫女の威信に賭けて、固い意思を持って―――――
「いらないんですか?」
「いります」
思わずそう答えてしまった。
我ながらこんにゃくもびっくりのふにゃふにゃ意思である。
自分の意思の弱さに、私はがくりと肩を落とす。
対して、三馬鹿トリオは。
私が落ちた事がそれ程嬉しかったのか、揃って満足そうに頬を緩めながら、食べやすいサイズにほぐした焼き魚を私の鼻先へと差し出してくる。
勿論、件のおぞましい行為を私に要求しながら。
「あーん」
「あ、あーん……」
その日、博麗の巫女は妖怪に屈する事となった。
「うぅ、汚された……」
朝食と言う名の拷問を追え、余りの疲労感に私は縁側で突っ伏していた。
『あーん』くらいで大袈裟と思うかもしれないが、どうか想像して欲しい、三人からかわるがわる餌を差し出され、その度に馬鹿のように口を開かなくてはいけない屈辱を。
あの妖怪ども、確実に私の事をかよわい小動物としか認知していなかった。
一口私が彼女たちから料理を与えられる度にへらへらと生暖かい笑みを浮かべるのだ、そのような恥辱が他にこの世に存在するだろうか。
更に悪い事に、料理自体は悔しいくらいに美味しかった。
いっそまずければすぐさま吐き捨てられたものを、美味しかったからこそ拷問に耐えながらも味わわなければいけなかったのだ。
「あらあら、情けない姿ですこと」
隣に来るや否や嫌味な言葉を投げかける紫を、思い切り睨み付けてやる。
このやろう、誰のせいでこんな抜け殻みたいな状態になっていると思っている。
看病に来たと言うのならば、もう少し患者に気を遣えといいたい物である。
彼女の式神―――――八雲藍ならばその辺り、言わなくともバッチリ理解しているだろうに。
それこそ看病と言うならあっちの方が何倍も適しているだろうに、どうして藍じゃなくてアンタが来るのよ、駄目主人め。
「ふふ、どうして藍じゃなくてアンタが来るのよ、とでも言いたそうな顔ね」
「一字一句違わずその通りよ。家事とか看病なら藍の方が出来るでしょうが」
「せっかく存分に貴女をからかえる機会よ。簡単に藍に譲るのは勿体無いでしょう?」
「よし、今すぐ帰れ」
「冗談よ。生憎藍は結界の面倒を見ていて動けないわ。と言う訳で博麗の巫女の面倒は私ってね」
どう考えても逆だろう、その配役。
このスキマ妖怪には一度、適材適所と言う言葉を教えてやりたいものである。
怪我人を前に楽しそうな様子を隠そうともしない紫に、私は何処までも深い溜息を吐いた。
「アンタ達に面倒見られるくらいなら、まだ魔理沙に見られる方がマシだわ」
「まぁ、失礼ね。あの子に看病なんて出来るとは思えないけれど」
「それでもアンタ達より幾分か良質よ。あー、本当に誰でもいいからトレード要員来ないかしら。別に魔理沙じゃなくてもアリスでも咲夜でも早苗でも」
「さりげなく家事スキルの高そうな子ばかり選んでるわね。でも残念、今日は私達以外は誰も来ないわよ」
「は? どういう意味よ?」
やけにはっきりと断言してみせる紫に向けて、疑問と共に思いっきり訝しげな視線をぶつけてやる。
本人もその質問を待っていたのだろう、相も変わらず人を喰った笑みをその表情に浮かべながらも、私の疑問に答えるかのようにゆっくりとその口を開く。
「そのままの意味よ。どうも貴女の周りは世話焼きが多いみたいでねぇ。貴女の怪我が知れ渡るや否や、面倒を見たいって言う連中が大勢出てきて大変だったのよ」
「そりゃまた信憑性に欠ける話ね。それで、その世話好きの方々の姿が見えないのはどうしてなのかしら」
「余り大勢で神社に押し掛けても迷惑でしょう? 貴女の看病は少数精鋭で行う事にして、残りは極めて平和的手段でお断りさせて頂きました」
「少数ボンクラの間違いでしょ」
全く、吐くならもう少しマシな嘘を吐けばいい物を、それで私が騙されるとでも思っているのだろうか。
明らかな法螺話を適当に受け流しながら、私は紫の用意したお茶へと手を伸ばす。
対する紫はそんな私の態度に、ふむ、と顎に手を当てて何かを考えていたようだが、すぐにどうでもよさそうに煎餅を齧り始めた。
どうやら彼女にとっても、信じられようがられまいがどうでもいい話だったらしい。
日中の穏やかな風が頬を撫でる。
先程は地獄の時間を過ごす羽目となったが、今は三馬鹿のちょっかいも小休止。
隣で欠伸をしているスキマ妖怪が邪魔とは言え、束の間ののんびりタイムを楽しめそうであった。
視線の先ではせっせと境内の掃除をする鴉天狗が一匹。
団扇で風を器用に操りながら、ここ数日で派手に散らばった枯葉達を一箇所に集めている。
普段は煩わしいパパラッチも、こうして私の為に働いてくれるのならば愛らしく見えるものだ。
ちなみに萃香はと言えば、溜まりに溜まった洗濯物担当。
あれだけの量を洗うのも干すのも大変だろうに、二つ返事で承諾してくれたと言うのだからありがたい話である。
普段見ないだけに彼女の家事能力には些か不安が残るが……それでも、私の為に働こうとしてくれるその気持ちが嬉しい事には変わりはない。
先程から憎まれ口ばかり叩いている私だが、何だかんだで文と萃香に対しては感謝の気持ちを抱くようになっていた。
そう、『文と萃香に対しては』である。
私は努めて呆れたような表情をしながら、隣で眠そうに目をこすっているスキマ妖怪へと苦言を呈す。
「あのさぁ。アンタは何もしない訳?」
「私はこうして霊夢の暇を紛らわす係よ」
「それはまた随分と楽な仕事な事で」
「いえいえ、こう見えて一番の重労働ですわ」
舌戦でこのアホ賢者様に勝てるとは思っていないが、それでも納得はいかない。
人をからかうだけからかって、一人だけ私の為には一切働かないなど、許されていい筈が無い。
取り合えず博麗に伝わる最強奥義、『ジト目』で彼女の良心に訴えかける事にしてみた。
と言う訳でじとー。
「……そうねぇ、確かに暇を紛らわすだけでは不足かもしれないわね」
そんな私のジト目攻撃が通じたのか。
紫はその口から小さく息を吐くと、私の視線から逃れるかのように双眸を閉じる。
え、あれれ? これひょっとしてこのニートを働かせるチャンス?
思いもよらない勝機に私が追撃の手を考えていると、次の瞬間にスキマ妖怪が浮かべるのはこれ以上無いほどのいい笑顔。
「と言う事で、膝枕係になってもいいわよ」
「ぶっ」
ネジが二、三本ぶっ飛んでいそうな発言に思わずむせた。
ええ、どうせこんな事だろうと思ってましたよ。
この人をからかうのが大好きなスキマ妖怪が、素直に私の言う事を聞く筈などなかったのだ。
私の狼狽を尻目に膝をたたきながらドヤ顔を浮かべる紫の姿に、私は拳を握り締める。
「霊夢に快眠を与えるのも大事な役目ですもの。人間の枕になってあげるなんて、私はなんて慈悲深のかしら」
「黙れ、買出しでもして来い」
「また恥ずかしがっちゃってぇ。ほらほら、遠慮せずこっちいらっしゃい」
「ぎゃー! はーなーせー!」
強引に人の頭を膝へともっていこうとする紫に対し、全身に力を込めて抵抗する。
しかし元々の体格差に加えて利き腕が使えないのは痛すぎる、優雅な笑顔に似つかわしくない万力の如き腕の力に、私の頭は為す術も無く膝の上に押さえつけられ―――――
「ん」
その時、不意に紫の動きが止まる。
膝へと到達する前、丁度紫の顔の前を通り過ぎた辺りの位置に、私の頭が固定される。
目線だけで顔を見上げてみれば、そこにあったのは紫の訝しげな表情。
「な、何よ……」
正直キツいんだけど、この体勢。
抗議のニュアンスを含めた疑問の声を投げ掛けるが、紫の表情は難しいまま。
私の頭を両手で掴みながら、なにやら考え事をしているようだ。
「掃除終わりましたー……って何をやってるんですか」
そこに計ったかのようなタイミングで掃除を終えた文が帰還。
私達の世にも奇妙な体勢を見て、訳がわからないといった風に苦笑を浮かべている。
まぁ、一見膝枕の体勢のようで、斜め45度の中空に頭が固定されていると言うのだからそのリアクションも無理はない。
とにかく、これはチャンスである。
私はこの状況を打破するべく文に助けを求めようとして……しかして予想外な事に、先に文を呼び寄せようとしたのは紫の方であった。
「ねぇ文、ちょっとこっち来てくれないかしら」
「?」
紫の手招きに、文は首を捻りながらも縁側の前までやってくる。
今度はどんな悪ふざけをするつもりなのだ、このスキマ妖怪は。
身動きできない状態で私が戦々恐々としていると、紫は何を指示するでもなくちょいちょいと文に見せるように私の頭を指差した。
要領を得ない文だが、取り合えず紫の指差す私の頭を凝視するべく顔を近づける。
「む」
そして何かを納得した模様。
先程の紫と同じく難しそうな顔をしたかと思うと、二人顔を見合わせて何やらうんうんと頷いている。
何なんだ、こいつら気持ち悪い。
言いたい事があるならはっきりと言ってほしいものだ。
訳のわからない状況に私が心底うんざりしていると、まるで順番待ちでもしていたかのように今度は空の洗濯カゴを持った萃香が視界の横から現れる。
「おーう、洗濯終わったぞー。いやー、人間の服って脆いなー」
何か思いっきり剣呑な発言があった気がしたが、聞くのが怖いのでツッコまない事にした。
そんな私を尻目に紫と文は先程のように二人でアイコンタクトを交わすと、同時に萃香へと向き直る。
「萃香さん、良い所に」
「これをどう思うかしら?」
そして二人して私の頭をちょいちょいと指差し。
何故にコイツらこう、無駄にいい連携しているのだろう。
ともかく、紫と文の指示を受けた萃香は、小走りで私の目の前までやってくる。
そして先程の文のリプレイのように一瞬難しい顔を浮かべると、更に全身を嘗め回すように顔を近づけてきた。
よく見ると、私の身体に近づけた鼻先がかすかに動いている。
……ひょっとして匂いを嗅いでる?
「んー」
顔を離したかと思うと、顎に手を当てて何かを考えるように唸る萃香。
こ、コイツまさか私がずっと目を逸らしていた禁断の真実を暴くつもりでは……!
脳裏をよぎる嫌な予感に戦々恐々とする私を知ってか知らずか。
萃香は顔つきを真剣な物にすると、持ち前のよく通る声で隠された真実を指摘した。
「霊夢、お前風呂入ってないだろ」
グサァ。
流石は歯に衣着せない女幻想郷ランキング一位タイの伊吹萃香、見事な言葉のグングニルである。
おかげさまでナイーブな博麗霊夢マインドに痛恨の一撃がクリティカルヒットしてきゅうしょにあたったではないか。
……だって仕方ないではないか。
私だって花も恥じらう乙女、本当はお風呂に入りたいに決まってる。
しかし永琳からギプスを濡らすなと言われている以上、怪我が治るまでは我慢せざるを得ないのだ。
永琳曰く、誰かに手伝ってもらうか、身体を拭いてもらうようにとの事だが、何処にそんな事を任せられる奴がいる。
これまでもずっと一人で生きてきたのだ、今更そんな誰かに頼る生き方は御免だし、そもそも先程言った通り、私こと博麗霊夢は花も恥じらう乙女、そう簡単に他人に生肌を曝す事など出来る筈が無いではないか。
「萃香、よろしく」
「ほい、ちょっとお風呂沸かしてくるよー」
「じゃあ私は着替え用意しておきますねー」
ましてや目の前の三馬鹿妖怪になど……ってちょっと待て。
三妖怪でのアイコンタクトの後、おもむろに立ち上がろうとする紫の首根っこをむんずと掴む。
「えー、あの、紫さん?」
「あらあら、どうしたの? 急にさん付けしたりして」
「聞かない方がいい気もするのですが、三人して何を準備していらっしゃるのでしょうか」
「お風呂の準備に決まっているじゃない」
「……誰の為に」
「勿論貴女。博麗霊夢。女の子は清潔にしておかないといけないのよ?」
そう口にすると、スキマ妖怪は小さく舌なめずり。
笑顔で向きあったまま、一瞬の沈黙が二人の間に流れる。
そして次の瞬間、私は脱兎の如くその場から逃げ出した。
「逃がしませんわ」
「ひぃ」
スキマから出てきた紫の上半身により、ガッチリ捕獲された。
片腕且つ武器の無い私に為す術はにい、あっという間に羽交い絞めにされたかと思うと、怪我した方の腕をスキマへと突っ込まされる。
「ギプスが濡れると面倒だからね。はい、これで一安心」
「誰がお風呂入るって言ったのよ。早く放しなさい」
「放したら逃げるからだーめ」
そう言って紫はくすくすと楽しそうに笑う。
くそぅ、絶対に楽しんでやがるこのスキマ。
「別に今更恥ずかしがる事は無いじゃない。永遠亭では永琳達に入れて貰ったんでしょう?」
「それは、そうだけど……」
彼女達はあくまで医療者としての義務感しか無い訳で。
私をお風呂入れるとなった時に、爛々と目を輝かせたりしない訳で。
私の服に脱がせようと、手を突っ込みながら涎を垂らしたりしない訳で―――――!
働かない頭を必死で回転させて、私はこの危機的状況からの脱出方法を思案する。
しかしそんな私に追い討ちを掛けるかの如く、その場から離れていた文と萃香が物凄い勢いで戻ってきた。
「着替えその他お風呂セット用意できましたっ!」
「お風呂ばっちり沸かしたよっ!」
「早いな、おい!」
「私はほら、幻想郷最速ですから」
「私はほら、密度を操る能力の応用で熱をちょいとね」
二人して息を切らせながら、得意げに胸を張る。
……コイツら、そこまでして私をお風呂に入れたいのか。
わかってはいたが、改めて自分のサポート妖怪の変態ぶりに、軽く眩暈を覚えてしまう。
勿論、三馬鹿妖怪共はそんな私の気苦労など何処吹く風。
準備を終えた事でテンションも最高潮なのか、三人揃って煌々と光る瞳を携えながら唇の端を歪ませる。
「それじゃあ早速」
「お風呂に入るとしますか」
「さぁ、脱ぎ脱ぎしましょうねー」
間違う事なき人外の力をもって、三馬鹿は私の服を脱がせに掛かる。
こうなってしまえば人間など妖怪の為すがまま、コイツらに力を与えた奴は今すぐに退治されるべきだと思う。
心の中で世界の不条理さに文句をぶつけるが、それで何かが変わるなんて事があろう筈が無い。
私は自分の服が次々と剥ぎ取られていく様を目の当りにしながら、名前も知らない神様に祈りを捧げる事しか出来なかった。
助けて、博麗神社の神様。
「うぅ、もうお嫁に行けない……」
太陽が西に傾き、神社が紅く染まる夕刻。
三馬鹿妖怪の数々の暴挙により人間の尊厳を傷つけられた私は、ぐったりとちゃぶ台に突っ伏していた。
妖怪達にお風呂に入れられるだけでも、さとりにスペカにされるレベルのトラウマだった。
しかし悲劇はそれだけでは終わらない、昼食の際に『あーん』攻勢を受けたのは勿論、お昼寝タイムは膝枕に子守唄、終いにはお手洗いにまで補助と称してついて来るのだ。
本来ならば今すぐにでも、『君がッ死ぬまで夢想封印をやめないッ!』と行った挙句、閻魔の所に送りつけてやりたい所である。
しかし今の私にはそんなバイオレンスは愚か、三馬鹿の暴挙に対する抵抗もロクに出来ない状態な訳で。
こうして何かにしがみつきながらめそめそするのが精一杯なのである。
「大袈裟ねぇ。女同士だし別にいいでしょう?」
「……そういう問題じゃない」
まるで先ほどのデジャブのように、くすくすと笑う紫を思い切り睨み付ける。
それを見て妖怪どもはまたニヤニヤ、くそぅ、普段ならこんな醜態絶対に曝さないものを……怪我をすると精神まで病むと言うのは本当だったらしい。
いや、精神が衰弱しているのは主にコイツらのせいな気もするが。
相も変わらず楽しそうな妖怪達のアホ面を眺めながら、私は今日何度目かもわからない大きな溜息を吐く。
「あ、また溜息。霊夢、溜息を吐くと福が逃げるよ」
「もしそうだとしたら今日一日でどれだけの福が逃げたか。主にアンタらのせいで」
「またまた、そんな事言って。お風呂も入れたし、御飯も美味しい物を食べられて、お昼寝も十分。何だかんだで霊夢も楽しかったんじゃないですか? ほら、瞳からも生気が滲み出てますよ」
「とんだ節穴アイを持ったものねパパラッチ」
これは生気ではなく、殺意と言うのだ。
憎しみだけで妖怪が退治できればどれだけ楽だろう、と私は乾いた笑みを浮かべる。
今日一日ならばまだ我慢できるかも知れない。
しかし私の怪我はまだ完治までは時間が掛かるのだ、この妖怪どもの事だ、それまでずっと付きまとって来るに決まっている。
果たして怪我が治るのが先か、私がノイローゼになるのが先か。
これから我が身に降りかかるであろう災難を予想して、神に嘆こうとした丁度その時だった。
「さてと、それじゃあそろそろ戻るとしましょうか」
聞こえてきたのは、完全に予想外な紫の言葉。
弾かれたように振り替えると、先程まで意地悪い表情であった三人が揃って穏やかな笑みを浮かべている。
夕焼けに紅く染まる部屋の中、影のさしたその表情はほんの少しだけ寂しげに見えた。
「戻るって、え?」
「なに意外そうな顔してるのさ。もう戻らないとすぐに暗くなっちゃうじゃないか」
「この季節、夜の冷え込みは流石に妖怪といえども堪えますからね。今の内って訳です」
彼女たちは至極真っ当な事を言っている。
至極真っ当な事を言っているのだが、私は予想外の事態に上手く言葉を発することが出来なかった。
人にちょっかいを出すのが大好きで、どれだけ拒否しようとつきまとってくる彼女達が、こうも大人しく帰路につくとは思っていなかったのだ。
呆けたようにぽかんと口を開けたままの私に構うでもなく、妖怪たちはいそいそとその場に立ち上がる。
まるで夢が覚める時のように、突然且つあっさりと。
「あ、そうそう」
それぞれの住処に帰ろうと、障子に手を掛けようとしたその瞬間。
思い出したようにそう口にすると、三人の少女達はくるりと私の方向へと向き直る。
親が子を想うかの如き、優しげな瞳を携えて。
「やっぱり霊夢はそちらの方が似合ってますよ」
「……は? なにそれ、何が言いたいの?」
「元気が出たみたいで安心したって意味です」
「は、はぁ!? なに言っての!? こちとらアンタ達のせいで元気ガシガシスポイルされたんだけど」
「まぁ、そう言うだろうけどね。私達には纏ってる空気の質でわかるのさ。怪我してからの霊夢の周囲の空気ったら、すっかり淀んじゃって見れたもんじゃなかったからねぇ」
「全くその通りですわ。晴れ渡るような気質が持ち味の貴女が、うじうじ湿っぽくしてたら魅力も半減よ」
「何時誰が湿っぽくしてたのよ」
「やっぱり自覚無しかー。性質が悪いなぁ」
萃香はやれやれと首をすくめて見せる。
私がずっとうじうじ落ち込んでいた……?
嘘だ、そんな筈は無い。
確かに怪我をしてからここまで、外出も人との会話もほとんど無かったが、それでも自分が滅入っていたなんて考えた事もない。
どうせこの妖怪達が口から出任せを言ってるに決まっている。
そう切って捨ててやりたい所なのだが、彼女たちの表情は、とても嘘を吐いたりからかっている様には見えなくて。
私は思わず頭に手を当てて、今日までの自分を振り返ろうとしてしまう。
そんな私の様子を見ながら、萃香は困ったように頬を掻く。
「本当はさ、霊夢の怪我が治るまでは会いに来ないつもりだったんだ。霊夢はもともと何処か一人で居る事を好んでる節があったし、こういう時はそっとしておいた方がいいだろうなって。でも実際一人にしておいたら全然駄目だった。どんどん気質が乱れていって、あれじゃいずれ体調を崩しちゃうし、怪我だってよくなる筈がない」
「私達が騒がしくする事で少しでも気を紛らわせればと思ったのですが、予想以上にすっきりしたみたいでほっとしました。……少々、悪ふざけが過ぎたかもしれませんが、そこはご勘弁を」
どんな言葉を紡げばいいのか、わからなかった。
余計なお世話だと怒ればいいのか。
ありがとうと感謝すればいいのか。
彼女達の気遣いや起こした行動に対して、私はどのように反応してやればいいのかわからなかったのだ。
彼女達の言う、気質の変化が本当に私に起きていたのかはわからない。
何せ自覚が無いのだ、自分が変わっていく事に気付ける人間なんてそうはいないだろう。
ただ、それでも彼女達に言われて始めて気付いた事がある。
私は笑わなかった、怒らなかった、泣かなかった。
怪我をして、神社に戻ってきてからここ数日間、私の感情は大きく変化する事が無かった。
大声を出したのも今日が久しぶりだったし、恥ずかしいなんて思ったのも何時以来だったか。
腕を折るまで当たり前であったような事が、ここ数日間では全くと言っていい程失われていた。
他人との接触がほとんどなかったのだ、それはある意味当たり前の事なのかもしれない。
だけど、その当たり前が当たり前じゃなくなるくらい、少し前の私の周りには他人が溢れていて、私は笑って怒って泣いていた。
昔、魔理沙から言われた事がある、『霊夢は変わった』と。
『何時の間にか、一人で居る事が似合わなくなった』と。
思えばあの時も、私は自分の変化なんてまるで気付く事が出来なかった。
否、それどころか魔理沙が居なければ、未だ自分が変わったなんてこれっぽちも自覚できていなかっただろう。
もしかしたら人は日々変化して、自分でも気付かない内に自分の『当たり前』を書き換えてしまっているのかもしれない。
その事に気付かせてくれるのはいつも他人なのだ。
だとしたら、今回も。
今回も私は、自分で気付かない内におかしくなってしまっていたのだろうか。
誰とも交わらず、喜怒哀楽の感情が薄れていく事を『当たり前』としてしまっていたのだろうか。
わからない。
頭の中がぐしゃぐしゃとこんがらがって、自分の考えがまるでまとまらない。
わかるのは、彼女達が来た事で今日私が久しぶりに自分の感情を表に出したと言う事実のみ。
それがプラスな事なのか、マイナスな事なのかすら、今の私には見当がつかなかった。
博麗霊夢の為を思い、博麗霊夢の為だけに起こした彼女達の行動が、私にとってどのような意味があったのか、考えても理解できる気がしなかった。
そうして私が頭を悩ませている様を見つめながら、三妖怪はくっくとおかしそうに笑う。
まるで、満足したと言わんばかりにうんうんと頷くと、今度こそ彼女達の住処へと続く障子を開いた。
「それでは、また。ちゃんと寒くない格好して下さいね」
「またなー、霊夢」
あっけないまでに簡単な挨拶。
それだけを口にすると、文と萃香は私の返事も聞かずに障子の奥へと消えて行った。
思わず反射的に手を伸ばしてしまうが勿論届く筈も無い。
ただ一人、未だその場に残っていた紫だけが、その様子を見つめながらゆっくりと私の名前を呼ぶ。
「霊夢」
「何よ」
「私達妖怪には人間の感情、本音と言うものが上手くわからない。だから本当に私達の助けが必要な時は、ちゃんと声にして伝えて頂戴」
「無理よ、そんなの」
「頼り下手」
「うっさい」
自分の感情、本音なんて、自分でもわからない物をどうしろと言うのだ。
そんな心の声は彼女の耳に届いたのだろうか、紫は小さく笑うと、その表情のままスキマの中へと消えて行く。
その途端に、先程までの喧騒が嘘のように境内は静寂に包まれる。
「……何よ」
誰も聞いていないと知りながら、ぽつりと呟く。
話すという行為は、その相手が居て初めて意味を為すと言う事を今更になって噛み締めながら。
「ついでに夕飯くらい作っていきなさいよ」
こっちの言う事なんてお構いなしに三人で押しかけて、今度は勝手に一片に消え去って。
萃香なんて普段ですら神社に泊まって行く事が多い癖に、こういう時だけはさっさと帰っていって。
癪だった。
散々騒ぐだけ騒いで、最後にあんな言葉を残して去っていった妖怪達。
そんな何処までも自分勝手な連中の事が、未だ心の中で引っ掛かり続ける事が癪だった。
そして、昨日まで一人で使っていた筈の自室が、今はやけに暗く広く感じてしまう事が癪だった。
すっかり静寂が包み込んだ世界に、カタカタと障子が揺れる音だけが響く。
障子の隙間から感じる冬の夜風は、やけに冷たく感じられた。
……切り替えよう。
大きく深呼吸して、私は気持ちを切り替える。
これ以上連中の事を考えても、もやもやした気分になるだけだ。
まずは連中が帰ってしまった事で、心配しなくてはいけなくなった夕食の件だ。
饅頭は全部食べられてしまったし、何だかんだで昼食もおかわりまでしてしまった為残り物も無し。
全く、どうせずっと居ると思っていたから、夕食の事なんて何も考えてなかったのに……。
って、それじゃあ私が彼女達を頼りにしていたみたいじゃないか。
違う違う、アイツらが私の饅頭を食べてしまったから……って結局連中の事考えてるじゃないかああああっ!
ぶんぶんと頭を振って、脳内の三馬鹿の映像を吹き飛ばす。
しかし忘れよう忘れようとすればするほど、頭の中からはなかなか消えてくれないもので。
これから怪我が治るまでずっと、あの妖怪どもの映像ともやもやした気分を抱えて、過ごしていくのか。
背中に圧し掛かるうんざり気分に、私は今日一番の大きな溜息を吐いた。
くそぅ、三馬鹿め、私を元気付ける為とか言って、結局どん底まで叩き落しているではないか。
今度押しかけてきた時は、いらっしゃいの挨拶の代わりに陰陽球を投げつけてやる。
「ただいまー!」
はいはい、おかえりなさい、えっと陰陽球はっと……。
いや、ちょっと待て。
不意に背後から聞こえてきた聞き覚えのある……と言うかまさに先程まで耳にしていたロリボイスに、私はギギギとブリキ人形のように振り替える。
言うまでも無く、そこに在ったいたのは先程帰ったはずの子鬼、伊吹萃香の姿だった。
「おーう、とっておきのお酒も持ってきたぞー」
「や、アンタ帰ったんじゃ……」
「ん? 帰ったよ。これからの事を考えたら色々準備が必要だったからね」
悪びれる様子も無く楽しそうに笑いながら、床に降ろした荷物をぽんぽんと叩く。
それは萃香の身の丈程はありそうな、大きな大きな風呂敷包。
酒と言うには明らかに大きすぎるその荷物を目にして、私の頭の中にとても嫌な仮説が浮かぶ。
ま、まさかコイツら……。
「ただいま戻りましたっ」
私の予感を肯定するように、萃香と一緒に帰った筈の文までが、当然と言わんばかりの素振りで神社に戻って来る。
手にはやはり巨大な風呂敷、文は私に一礼だけすると遠慮も何も為しにその風呂敷を広げ始める。
その中から出てきたのは―――――着替えに布団、更には数々の私物に新聞用らしき原稿用紙の束。
目の前に広がる余りにも衝撃的な光景に、私は言葉を発する事ができない。
こ、コイツら本気だ……本気ここに住み着く気だ。
完全に嫌な予感が当たってしまった。
今日彼女達が行っていたのはあくまで様子見に過ぎない。
始めから彼女達は私の反応如何によっては、これから私の怪我が治るまで、泊り込んで看病し続けるつもりだったのだ。
先程戻るなどと言っていたのは、これから神社で暮らしても不便しないように、自分の物を取って来る為だったのだ。
開いた口が塞がらないとはまさにこの事。
私は口から魂が抜け出るのを感じながら、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。
そんな私に追い討ちを掛けるかの如く、今度は私の横の空間が裂け、中から紫が顔を出す。
「ただいま……っと二人とも早いわね」
「紫が遅いんだよ。スキマ使ってるんだから、一番早くてもいいだろうに」
「やれやれ、神社に一つしか布団が無いせいで持って来るのが大変でしたね」
固まっている私そっちのけで、早くも荷物を整理しながらきゃいきゃいと盛り上がり始める三馬鹿衆。
先程のしんみり空間は何処へ行ったのか、夜の境内に妖怪どもの笑い声が響き渡る。
どうやら既に神社を自宅としか思っていない様子、本当、この有害物質どもはどうすればいいのだろうか。
私は喧騒の中一人、働かない頭で幻想郷クリーン化計画を打ち立てていた。
しかし妖怪達は悪びれない。
一しきり荷物を整理し終えると、三人して笑顔のまま私の目の前に整列する。
その表情は何処からどう見ても、これから看病をしようと言う奴のそれではなかった。
「と、言う訳で。今日からしばらくよろしくお願いしますわ」
「私達がついてるんだ、大船に乗ったつもりで居てくれよ」
「困った事があったら、何でも言って下さいね」
一番の困りの種共がいけしゃあしゃあとそんな事を言ってのける。
本当に先程の意味深な別れは一体なんだったのか。
おかげで私は酷くもやもやした時間を味わったと言うのに、これでは完全に悩み損ではないか。
そんな事を考えながら私が思わず呆れた顔しか出来ずにいると、紫はくすりと小さく唇の端を歪ませる。
その人を食ったような笑みを見て、私はようやく気付いたのだった。
コイツら、わざとだ。
私にもやもやした気持ちを味わわせ、こうして度肝を抜く為に、先程はわざと意味深な言葉を残して去っていきやがったのだ。
何て性根の腐った連中なんだ、このサポート妖怪どもは。
ぴきぴきと、言葉にならない怒りが私の体の奥で燃え上がっていく。
感情が滲み出るのを抑えようともせずに、三馬鹿妖怪どもをギロリと睨み付けてやる。
「帰れ、すぐ帰れ。絶対に帰れ。ほら帰れ」
「まぁ、怖い顔。さっきはあんなに寂しがってた癖に」
「は?」
何を言っているのだ、このスキマ妖怪は。
訳がわからないと眉を顰める私を満足げに眺めた後、紫は頬に手を当てながら恋する乙女のように言葉を紡ぐ。
「……ついでに夕飯くらい作っていきなさいよ」
「―――――!」
その瞬間、一気に頭が真っ白になった。
こ、こ、こ、このババァ……!
覗いてやがったのか……煽るだけでは飽き足らず、その後の様子まで覗いてやがったのか!
つまりなんだ、ずっと覗かれて居たと言う事は、先程の女々しい仕草も全て見られていたと言う訳で。
余りの恥ずかしさに、自分の顔が見る見るうちに熱くなっていくのがわかる。
そんな私達の不自然な様子に、興味津々とばかりに萃香と文も首を突っ込んでくる。
「え、なになにどうしたの?」
「興味ありますね。紫さん、何があったんですか?」
「ふふ、実はねぇ……」
「言うなぁ!」
嗚呼、本当にコイツらと居ると碌な事が無い。
先程一人になった時、私が考えた事など今思えばはっきり言って愚の骨頂。
コイツらが私にプラスの何かをもたらすなんて、ある筈が無い。
この三馬鹿妖怪なんかと一緒の時間を過ごすくらいならば、それこそずっと一人で暮らして居たほうがいいに決まってる。
しかし脆弱な私の抵抗など、彼女達の前では結局意味を為さないのだろう。
これまでも、そしてこれからも。
それこそ、きっと私は死ぬまで彼女達に付きまとわれ、振り回される事になるのだろう。
だとしたら―――――嗚呼、何て不幸な人間なんだ、博麗霊夢と言う女は。
博麗神社の神様、いや、この際誰でもいい。
お願いだから、誰か私に安息の地をくれ!
「お前ら全員さっさと帰れぇっ!」
冬の夜空に、私の最大音量の叫びが久方ぶりに響き渡った。
迷惑そうにしてるけど実は心のなかでは依存してたりしたら俺得
霊夢かわいいw
魔理沙 咲夜 早苗 アリスverも妄想してみる
実は自分たちのやりたいことしかやってない
妖怪だなあw
平和的にお断りされた連中の巻き返しもありそう
見事なあいされいむ、ごちそうさまでした。
そして霊夢可愛い
あいされいむ万歳!
ニヤニヤしっぱなしでした
文章で世界を表現する以上はしっかりとキャラクターにあった文章で表現しましょう。
毎度のように後書きで愚痴ってくれる程度の出番でも良かったのにぃ。残念
ニヤニヤが止まらないw
それだけに地の文がおしい
貴方はきっとFFファンだ!
GJ!!!