これを見ている諸君。
諸君、どうか恐れることなく聞いて欲しい。
私、博麗霊夢は、今、史上最大のピンチに遭遇している。
それがどういうことであるか、これから説明しようと思う。静粛にしてくれたまえ。うるさい奴は夢想封印だぞ♪
……こほん。
まず、それがどうして始まったのか。そこから語らなくてはなるまい。
私はその日、普通に過ごしていたはずだった。普通の一日を送っているはずだった。
朝起きて、境内の掃除をして、空っぽの賽銭箱に涙して、朝ご飯食べて、あそういえば雪かきもしないとなと思ってスコップ片手に表に出て、屋根の上からの雪が直撃して、境内めがけて夢想封印して紫に正座でお説教2時間くらって、お昼ごはん食べてお昼寝して目が覚めて――。
……そして、異変は始まった。
異変とは、この幻想郷における非日常を言う。
日常の中にほんの少しだけ現れる、別の世界への入り口。この世界自体が外の世界と切り離された別世界ではあるが、その別世界の中にさらに別世界が作り出されるのだ。
……難しいことを言ってしまったようだ。簡単に言うと、『何か変なこと』である。
私は今、それに直面している。
この博麗霊夢、これまでに数多の異変に遭遇し、それを解決してきた。
出会う奴ら出会う奴らをとりあえず弾幕勝負で黙らせてから事情聴取して、それから得た情報を右から左にポイ捨てし、自分の勘だけを頼りに主犯格に辿り着き、その主犯格をボコって神社に戻ってきてお茶を飲む――それが、この私のはずだった。
だが、しかし!
今の、この異変に限っては、私一人の力で解決出来る気がしない!
私は別段、弱気になっているわけではない。
その気になれば、幻想郷第七艦隊すらたった一人で相手できる自信がある。
しかし、今、私が直面している異変はそれどころの問題ではないのだ!
……熱くなってしまったようだ。
とりあえず、頭を冷やそう。お茶を飲もう。あれ、お茶どこやったっけ。ねぇし。
まぁ、いい。
話を戻すとしよう。
私はどうしたらいいだろうか。
異変を解決するのが私の仕事だとはわかっている。わかってはいるが、どうしようも出来ない。
かくなる上は幻想郷を壊滅させるべきだろうか? そうすれば異変は終わりを告げるのだ。だって、異変が起きてる場所がなくなるんだし。
まぁ、そんなことやったら、私が違う意味で壊滅させられるのでやめとく。私だって出番欲しいし。
さあ……どうする。
ん? その異変は何だ、って?
大変な異変なのだ。どれくらい大変かと言うと、鯛が変になるくらい。ところで、鯛って何?
……こほん。
何? 具体的に、だと……?
……あ、いや、その、それは……えーっと……んー……あっ! あっちにUFO! ……っちぃっ! 幻想郷じゃ珍しいものじゃなくなったから引っかからなくなったかっ!
こうなれば、博麗秘奥義『強制場面転換』で……!
そんな風に取り乱していた巫女の動きがぴたりと制止したのは、すぐ側から『すー……』という、小さな寝息が聞こえてきた時でございました。
さて、端的に説明することに致しましょう。
ここ、博麗神社には、普段、この神社の主である一人の少女しか住んでおりません。
ですが、その少女は何だかよくわからないけど何だかよくわからない連中に何だかよくわからないまま何だかよくわからず好かれております。結局のところ、人気者ということでございました。
さて、しかしながら、そんな、何だかよくわからない連中の中にも、明確な理由を持って、彼女を慕っているものがいるのも事実でございます。そして、そんな彼ら彼女らと接していると、この少女も時として気が気でなくなってしまうこともございます。
これはすなわち、少女もまた、一人のかわいい女の子であったということでございます。
それはさておきとしまして、特に、この少女がおかしくなることがございます。つまるところ、個人に起きる異変と言うわけでございます。その異変を起こすものは数ありますけれども、総じて、少女と特に親しいものによる御業と申しましょう。
――左様。
彼女、東風谷早苗も、その一人でございました。
彼女は日頃、この神社に足を運んできます。その理由は様々ございますけれども、根幹の部分は同じ。つまりは、『大好きな霊夢さんに逢いたいなー』という、いじらしい感情一つ故。
いかな霊夢とて、そんな風に素直に感情を向けられれば応えざるを得ないのが人の常。やってくる彼女を断ることなどするはずもなく、いつも神社の中に招き入れているのでございます。
さてさて、そんな風に、今日もいつも通りにやって参りました早苗は、神社の主、霊夢と楽しい時間を過ごしました。
そんなこんなでいつも通りのお泊りになってしまったわけですが、ここで若干、いつもと同じ時間に違和感が訪れることになります。
それが、霊夢が言っている『異変』であることに相違ないのは、今、改めて申し上げることではございませんので割愛させて頂きましょう。
それがどんな異変であるか。説明するのは簡単でございます。
仲のいいこの二人、寝る時は一緒なのですが、普段は霊夢の方が先に眠りに落ちてしまいますところ、今日は逆だった、ただそれだけでございます。
おっと、それがどんな異変なのかとは申しますまい。
常日頃、傍若無人だの極貧の赤貧巫女だの初代紅白の悪魔だのと言われている霊夢でございますが、その実は、なんてことはない一介の少女でございます。
説明が遅れましたが、この霊夢もまた、早苗のことを好いております。その感情は、未だ、それほど大きなものとしてご説明差し上げることが出来るものではございませんが、それでも当人にとっては立派な恋心。そんな自分と付き合うことに、まだ慣れていない少女でありますが故、それに振り回されることもままあります。
そうなりますと、いかがでございましょうか。
普段とは逆の立場になってしまう――それは、日常の中に現れた異変ということは出来ないでしょうか。
ともあれ、そのような、実に複雑かつ奇々怪々、それでいて旗幟鮮明の事情がございました。さて、この異変が、どのような騒動になるでしょうか。
それではこれよりお立会い。どうぞごゆるりとご鑑賞ください。
「……よし、まずは落ち着け。落ち着くんだ自分。
大きく息を吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー」
何度かの深呼吸を経て、わたしはしょうきにもどった!
……時計を見る。時刻、まだ夜の9時。
日中、散々、早苗とお喋りして疲れていたからって、こんな時間に布団に入るなんて、ちょっと寝るのが早すぎじゃないだろうか。夜の8時に寝てしまう、どこかの館の吸血鬼じゃあるまいし。
そうだ。ここで黙って寝てる理由はないんだ。とりあえず、起きて酒でも飲むことにしよう。うん、そうしよう。ついでだから、そのまま居間で夜を明かしてもいい。
「そーっと……」
布団から抜け出そうと身を起こして、動きを止めてしまう。
「ん……くー……」
「……うあ、かわいい」
誰かの寝顔をじっくり見ることなんて、これまでの博麗人生でなかった。
いや、もう、なんていうか。無防備なこの姿が何とも言えないくらいかわいい。
うん、まぁ、早苗はいつでもかわいい。それは私が認める。彼女の保護者の親バカどもの意見ではないけれど、私は決して、それは否定しない。
この甘ったるい丸顔を見ると、最近だと、何だか心がほっとするのだ。
私の知り合い連中で言うと、いわゆる美人系が咲夜とアリスだとすると、その対極にいるのが早苗である。
え? 魔理沙? あいつはどっちかっていうと『憎たらかわいい』ってところ。だからカテゴリー外。
話を戻すと、もう、うん。かわいいのだ。とにかく。
あー……この寝顔を眺めていたいなぁ……なんて。
「い、いやいやいやいや! 違う、違うだろ、自分」
この状況だと、色々と体によくないから、私はここから抜け出そうとしたのではないか。
その決意が鈍らないうちに移動しなくてはいけない。
よし、行くぞ!
「……っつーか、寒いなぁ」
布団から一歩、外に足を踏み出して、私はつぶやいた。
よく考えてみれば、寝る時に暖房はほとんど消していたんだった。寝室として使っているこの部屋だけは、隅っこで暖房が熱を放っているけれど、それもやっぱり心もとない。
居間などは暖房が消してあるから、きっと、もっと寒いだろう。
……やだなぁ。寒いの。この神社って、年代ものの建物だから、最近は隙間風がひどいのよねぇ……。
「……あったか」
布団の中に足を戻してつぶやく。
さっきまで、私がそこにいたというのもプラスして、お布団の中はふんわりぽっかぽか。
……風邪を引いてしまうのはよくない。うん。
私の意志は早々に別方向へとシフトして、もぞもぞ布団の中へとかむばっく。
「……さあ、どうする」
意識を集中して眠るべき。それが私に出来るただ一つの行動であり、結論。
「……くー」
………………………………いかん。気になる。
耳元で聞こえる早苗の寝息。すやすやむにゃむにゃしてる感じが、もう鋭敏に伝わってくる。
やはりここは、金をケチらず、ダブルサイズじゃなくてもっと大きい布団を買うべきだっただろうか。もちろんツケで。
いや、だけど、そんなでかいの買っても結局くっついて寝てるんだろうし、そもそもあんまりでかすぎたらしまう場所もないし、当時の私の考えは英断だったはずだ。
まぁ、それはさておけ。さておくんだ、自分。
「上を向いてるからダメなのよ」
私は早苗に背中を向けて眠ることにする。
よし、これなら完璧。意識は前にしか向かない。後ろを気にすることなく眠れる。まさにベスト!
「よし、寝るぞ! 寝るぞ……自分……!」
目をぐっと閉じて、パワーを集中する。あ、今なら、ラストスペルも通常弾幕で撃てそう。
「おやすみなさー……い?」
「……すー」
「……何……だと……」
早苗の声が、より一層、大きく聞こえるではないか。
そうか。さっきまでは私がもぞもぞしてたから、衣擦れの音とかが彼女の声を消していたのかっ……!
だが、こうなってしまえば、全ての音は消えていく。最悪と言うか何と言うか、今日は穏やかな夜なのだ。外からの騒音も期待することは出来ない。
「くー……」
落ち着け……落ち着くんだ、博麗霊夢……!
後ろから声なんて聞こえない。寝息なんてわからない。あったかさとか感じない。よし、お前はいつも通り一人で寝てるんだ。暗示完了!
――少女30分経過――
「……誰か、他人を眠らせる程度の能力とか持ってないかな」
私は、未だ、眠ることが出来なかった。
さてさて、こうして発生しました幻想郷の小さな異変。
しかし、立派で頑丈な堤もありの穴から崩れると言うのはよくあることでございます。
神社で起きた小さな異変は、その波紋を広げることで、徐々に大きなものへと変わっていったのでございます。何と驚くべき事実でしょうか。
しかも今宵は、その異変を解決するべき者達全てが、異変の中に異変と知らず巻き込まれてしまったのです。
あわや、幻想郷の一大事となりました。
「ぷはぁーっ……うまかったぁ」
「全くもう……。
魔理沙、あなた、もう少し自分の生活は自分でコントロールしたら?」
「ははは……面目ないぜ」
魔法の森のとある一角。
白亜の外壁が特徴的な館の中で、二人の少女が夕食会を開いていた。
つい先ほど、それは終わり、今、テーブルの上に残っているのはワインの入ったグラスだけだ。
「アリス、お前、料理がうまくなったんじゃないのか?」
「そりゃ、幽香の手伝いしてればね。と言うか、あいつの前で下手な料理なんて出そうものなら怒鳴られるなんてものじゃないもの」
「こだわりだねぇ」
「言っておくけど、そのワイン、高いんだから」
「紅魔館からもらったんだろ?」
「だから、高いのよ」
ぐいぐいと、まるで水のようにワインを飲み干している魔理沙へと、館の主、アリスは一言。
いつもながらに皮肉のきいた一言に、魔理沙は『悪い悪い』と笑った。
ちなみに、何で彼女がここにいるかと言うと、いつもながらいつものごとく、魔法の実験に没頭していたら蓄えが底をついたのである。
それで、お腹をすかせた彼女は『アリスぅ~……ご飯食べさせてぇ~……』と泣きながらやってきたというわけだ。
「ほんと、こりないんだから」
「そうでもないぜ?
とりあえず、明日からは金を稼ぐことにするぜ」
「毎日やりなさい」
「えー? やだよ、めんどくさい」
懲りてないじゃない、とアリスが言った瞬間、魔理沙の横にふわふわやってきた人形が、手にしたハリセンで彼女の頭をひっぱたいた。
なかなかいい一撃だったらしく、魔理沙はおでこをテーブルに激突させて、しばし沈黙。
「外、冷えてきたみたいね。夜なんだから当然だけど」
「あいててて……。私の心配くらいしてくれよ……」
「どうする? 泊まって行く?」
「……あー」
「ん?」
普段の魔理沙なら『それを待っていたぜ!』というなり、『風呂借りるぞー』と風呂場に直行していただろう。ちなみに、それを見越して、すでにアリスはお風呂を沸かしてあったりする。
しかし、今日はどうにも空気が違った。
「……どうしよっかな」
「……え?」
何と、あの魔理沙が、何だか恥ずかしそうに頬をかきながら、そんな殊勝な一言を口走ったのだ。
アリスの動揺は人形たちにも伝わり、
『どうなってるんだ!?』
『魔理沙さん、もしかして病気なんじゃ!?』
『大変ですわ! 竹林のお医者様をお呼びしなくては!』
『あ、あたしのせいじゃないわよ!』
『上海が手加減しないのが悪いんだよ、絶対!』
『打ち所が悪くてもああはならないと思うけど……』
『待て、落ち着くんだ、みんな。これには何か、我々が見落としている謎がある。それを解決するんだ』
『さすがは倫敦!』
『すなわち、これは異変だ! 人の人格がおかしくなるという異変だ!』
『そんな異変あるの?』
『あるんじゃない? 何か変な世界だし、ここ』
『けれど、ピンポイントで魔理沙さんだけと言うのもおかしくないかしら?』
『ほら、見なさい! あたしのせいじゃなかったでしょ!』
『上海、お前は程度を考えろ』
『そうそう。上海には手加減が足りない』
『あなたに言われたくないわよ!』
『ほら、みんな。女の子が大きな声出してはしたないどす。もっと静かにしまひょ』
『けれど、どう考えてもおかしいよ。状況的に』
「……うん。確かに」
『魔理沙さん、どうしてしまったのかしら……。やっぱり病院に連れて行ったほうが……』
『いや、落ち着くんだ。みんな。彼女は人をからかい、楽しませることを是としている……もしかしたら、この異変の主犯格かもしれない』
『な、なんだってー!?』
『何よ、その反応』
『外の世界の書物に書いてあったらしい。マスターが読んでいたのを見ていたらしいぞ』
『あー……みんな。ほら、静かに……』
『だけど結局、魔理沙さんがおかしいことには変わりないのよね』
『やっぱり、病院がいいかも』
『永遠亭の連絡先、調べてくるわ』
『――あんた達』
『そういえば、蓬莱はどこいった?』
『最初に驚いた時以外、そういえば姿を見ないね』
『ちょっと待ちなさい。こういう時にちゃっかり、蓬莱が姿をくらますってことは……』
『あんたら、やかましいわ! 黙っとき!』
『……はい、京姐さん……』(ここまで人形語を人間の言葉に翻訳して、わたくし、蓬莱人形がお送りいたしましたわ。君子危うきに何とやら、ですわ。うふふ)
やかましく騒ぎ立てる人形たちがしんと静かになったところで、アリスが「……どういう風の吹き回し?」と恐る恐る魔理沙に尋ねた。
魔理沙は『いやぁ……』と照れくさそうに笑いながら、
「ほら、アリスにはさ。何か迷惑かけてばっかりだからさ。
だから……その……あんまり図々しいと嫌われちゃうんじゃないかなぁ、って……。嫌われたくないなぁ……とか……」
アリスはしばらく停止する。
意識を停止させ、全ての力を思考に傾ける。彼女が言ったことの意味を、必死になって咀嚼し、理解しようとする。
「その……な。
食事までご馳走になってるんだし、これ以上、甘えるのもどうかなぁ、って思って……。
……変……かな?」
「……あー」
思考が動き出す。
アリスはこめかみを指先で押さえて、頭痛を黙らせてから口を開く。
「変なこと言ってないで。普段どおりにしてればいいじゃない」
「その……迷惑……じゃないかな?」
「迷惑。超迷惑。大迷惑。半端じゃないくらい迷惑」
ぴしゃりというよりずびしと言ってくるアリスに、『……たはは』と魔理沙は笑った。
そんな彼女の頭を、ぽん、とアリスは叩く。
「けど、気にしなくていいわよ。
そりゃ、ある程度はわきまえて欲しいとは思うけど。本当にいやなら、最初から、あなたを招き入れたりしないわ」
「……アリス……」
「ちゃんと感謝してよね。それでなら、いくらでも迷惑をかけてくれてもいいわ」
魔理沙は子供のように笑顔になると、『ありがとな!』と声を上げた。
その彼女を「はいはい」とあしらって、アリスは魔理沙の肩を叩いた。魔理沙はそのまま、踵を返して、何だか嬉しそうに風呂場へと歩いていく。
「……ったく。手のかかる子ほどかわいいって言うけれど」
それって本当のことなのよね、とアリスはつぶやいた。
困ったものね、と彼女は笑って。
「ねぇ?」
と、京人形すら含んで、唖然としている人形一同にウインクをしたのだった。
「どう?」
「……困ったわ。業務が回らないの」
「お嬢様たちは?」
「大丈夫。もう寝かしつけたわ」
「そう。この状況は、お嬢様たちには目の毒だものね」
場所は変わって、ここは紅魔館。
この紅の館にも奇妙な空気が流れていた。
館の一室に集まり、作戦会議よろしく円座を組んでいるメイド達。彼女たちは互いに状況を報告しあい、『頭が痛いわね』と言わんばかりにため息をつく。
簡単に状況を説明すると、だ。
紅魔館に勤めるメイドたちの大半が『今夜はちょっとお仕事をお休みさせていただきます』と言ってきたのである。
「夜勤のシフト、どうしたらいいかしら……」
「私たちがその気になれば、あの子達の分はこなせるけれど……」
「……困ったわね」
しかも、それに加えて。
『こら、あなた達! そういうことは部屋に戻ってからやりなさい!』
外から響く、あるメイドの怒声。
しばらくすると、その声を上げたメイドが部屋に入ってきて、『またよ、もう』とため息をつく。
本当に、一体どういう状況なのかはわからないが、集団で仕事を休むだけではなく、発情期を迎えた動物よろしく、あっちこっちでメイド達がいちゃいちゃし始めてしまったのである。
「いきなり、だものね」
「何があったのかしら」
ふぅ、と誰からともなくため息をついた後、「仕方ないわ。私たちだけでお仕事をしましょう」とその中の一人が立ち上がる。
「わたし、今夜は3ヶ月ぶりのオフだったのに」
「仕方ないわ。別の日にずらしましょう」
「だって……ねぇ」
そうして、
『メイド長ですらだもの……』
その時に、彼女たちの声音に混じっていたのは、『あの子ったら全くもう』という『先輩のお姉さん』的な雰囲気だったと言う。
「あの、咲夜さん」
「何? 美鈴」
「お仕事、いいんですか?」
「ちゃんとお休みの申請は出したわ」
そういう申請を許可するのがこの人の仕事なんじゃなかっただろうか。
美鈴の視線をよそに、やけに上機嫌の咲夜は、『どうぞ』とお茶を用意して持ってくる。一応、それを受け取り、一口してから、
「何か、今夜はメイドさんたちの姿もあまり見かけませんね」
「みんなお休みを出してきたの。不思議ね」
「はぁ」
確かに不思議な一言だった。
一人二人の休みならともかく、今夜の業務を担当する全員が休みを申請してくるとは。しかも、それを許可している辺りも理解が出来ない。
サボりたい……というわけではなさそうだ。
そもそも、そんな意思が見えた段階で、そのメイドは『お姉さま』たちにこっぴどく叱られることだろう。
「今日もお仕事、お疲れ様」
「ああ、ありがとうございます」
「外の仕事は大変でしょう? 寒くない?」
「あまり。
というか、大はしゃぎしてるフランドール様を見ていると、心が安らぎますよ」
この雪の中、元気に遊んでいる彼女を見守るのが、最近の美鈴の仕事である。日々、彼女の作る雪だるまの数は増え、最近は紅魔館の周囲にずらりと並べられ、美鈴と同じく、館の見張りとなっている状態だ。
「お嬢様も、もっと外で遊んでくれるといいんだけど」
「いや、まぁ、吸血鬼が日の光の下で大はしゃぎ、っていうのも何か変な構図ですけどね」
「……それもそうね」
ある意味、自殺行為ではあるのだが、フランドールがそれをやっていると全く違和感がないのが不思議である。
「そう言う咲夜さんは、お仕事、どうですか?」
「そこそこ……かしらね。
レストランも、最近は変な客も来ないし」
「一時期、来てましたよね。目からビームを出しながら巨大化された時はどうしようかと思いましたよ」
「……あの時、どうやって乗り切ったっけ?」
「さあ……?」
何だか微妙な空気が流れたりもする。
「あ、そうだ。美鈴、お酒、飲まない?」
「いいですよ」
「じゃあ、待っていてね。
昨日、美味しいワインが手に入ったの。一緒に飲もうと思って……」
「ああ、それなら」
と、美鈴。
彼女は一瞬、ひゅんと腕をしならせる。すると、どういう手品か、その手の先に酒の入った瓶が現れていた。
「これなんてどうですか?」
「何それ? あなたのよく飲むお酒?」
「ええ」
「紹興酒はちょっと……」
「これは白酒です」
ひな祭りとかの?
そう尋ねる咲夜に答えず、美鈴は、これまたどこから取り出したのか、お猪口に酒を注ぐと『どうぞ』と咲夜に手渡した。
受け取った咲夜は、まず、それの匂いをかいでから、一口。
――すると、
「……げほっ……! な、何これ!?」
「アルコール度数40%。ワインなんかよりずっと強烈でしょ?」
「けほっ、けほっ! め、美鈴っ!」
「まだまだですねー」
美鈴はけらけらと楽しそうに笑いながら、自分の分のぐい呑みに酒をついで、それを一気に飲み干した。
寒い時にはこれですよ、と笑う彼女を見ながら、咲夜は頬を膨らませる。
「咲夜さんって、今でこそ、だいぶマシになりましたけど。昔はお酒に弱かったですよねー」
「ほっといて」
「『あたしだってお酒くらい飲めるもん!』ってお嬢様のワインに手をつけてひっくり返ったりしましたよね」
ちなみに、レミリアの飲むワインはワインとは名ばかりのぶどうジュースである。
投擲すれば爆弾、ひっくり返して使えばレーザー砲、コルクの部分からは煙幕も放てる優れものである。
咲夜は頬を赤くして、「……昔の話はやめてよ」と上目遣い。その彼女の頭をなでながら、
「けど、年配の方々の方がひどいんじゃないですか?」
と、美鈴は意地悪く笑った。
よくからかわれるのよね、と咲夜はそれを隠そうともせずに告白すると、「けど、今は私がメイド長だもの」と胸を張った。
何だか、普段の彼女らしからぬ幼い仕草に、美鈴は声を上げて笑い、咲夜は「な、何で笑うのよ!」と違う意味で顔を真っ赤にして声を上げる。
そんな二人が夜を過ごす部屋からは、しばらくの間、楽しそうな笑い声が響いていたのだった。
射命丸は目の前の状況を理解できずにいた。
私は一体、この状況下で何をしたらいいんだ。そう、自問自答すらしていた。
ジャーナリストとしての力をフルに使って、状況の把握に努めようとした。
しかし、それはかなわない。
なぜなら、その状況を認識するための意識が閉じてしまっているのだ。それはとりもなおさず、彼女自身が、状況の理解を放棄したことに等しい。
彼女の視線は、部屋の隅で呆然としている椛に向いた。彼女もまた、状況を理解できないでいるのだ。
今、自分に出来ることは何だ。
射命丸は思った。
そう。今の自分に出来ることは、この事態を『理解』し『把握』することだ。
「……あの、はたてさん。何してるんですか?」
「え? その……文に、手作りの料理、食べて欲しいなって思って……」
再び、神速をもって文の視線は椛を向いた。
『椛さん、あなた、ずっとこの部屋にいたでしょう! 何があったのか言いなさい、きりきりと!』
『し、知らないですよそんなの! 事態がさっぱりですよ!』
一瞬の、視線と視線の会話。風に生きる天狗たちはアイコンタクトすら極めていた。
――オーケー、事態は把握した。
射命丸の意識は冷静の海に戻っていく。
今日、自分は幻想郷の空を、取材のために飛んでいた。疲れて家に帰ってきたら、留守番を任せていた椛が呆けている。理由を聞く前に、その原因を悟る。はたてがなぜか厨房に立っていて、テーブルの上に、やたら美味しそうな料理が並んでいた。
オーケー、理解してない。これっぽっちも。
「あ、あの~……なぜに……?」
「……その……り、理由なんてない……けど……」
普段のはたてを想像してみる。
『はぁ!? 何でわたしがあんたなんかに料理作ってあげないといけないのよ!』
『そう言わないでくださいよ、はたてさん。私、ほら、お腹がすいてまして』
『知らないわよ、そんなの! そのまま餓死すれば!?』
『え~……ひどいですよ~』
『ああ、もう、すりよるな! わ、わかったわよ! 作るわよ、作ってあげるわよ!
言っておくけど、別にあんたのためなんかじゃないんだからね! わたしだってお腹がすいてきたから、ついでに、あんたに食べさせてあげるだけなんだから! 勘違いしないでよね!』
うん。ツンデレバンザイ。
ここ、幻想郷にはそれほど珍しい存在ではなくなった『ツンデレ』と言う特性を備えたもの。
このはたては、その中でもまるっきりテンプレのような『ツンデレ』であることを文は知っていた。
ちなみに、何で彼女がそんななのかは全く理解していないのは言うまでもない。
――それはともあれ、文としては、己の行動によってはたてから受ける反応など、大体わかっている。だからこそ、困惑しているのだ。
「……いらない?」
「い、いりますいります! お腹ぺこぺこです!」
上目遣いで恐る恐る尋ねてくる彼女に、慌てて文は首を縦に振った。
この状況で『いらないです』とも『どうしたっていうんですか、はたてさん』と尋ねる豪胆な精神も、文は持っていない。と言うか、そんなことする勇気もない。
「……美味しい?」
「え、ええ。美味しいです。っていうか、はたてさん、料理上手ですね。驚きですよ」
「……あ……!
うん……ありがとう……」
頬を赤く染めて、嬉しそうに微笑むはたて。
それを見て、文の視線は椛に向かう。
『か、かーかーかーかーかーかー!(一体どういうことですかこれ!?)』
『わんわんわんきゃいんきゃいん!(わからないですってば!)』
ついに幻想郷の共通語すら忘れるほどに動揺する二人。
この状況は、それほどまでに、両者にとってインパクトのあるものだったようだ。
「あ、あのですね、はたてさん」
「な、何?
あ、食後のデザートもあるわよ。文が以前、『好きだ』って言ってたりんごをシャーベットにしてみたの。
季節的にはあんまりあわないかもしれないけど」
「こ、光栄です」
一体何があったのだろう。心変わりでもしたのだろうか。
いや、だけど、このはたてはこのはたてで悪くない。普段のつんけんとしたあの態度もまた捨てがたいが、今の、この自分に正直なかわいらしさはどうだ。思わず写真に撮りたいくらいじゃないか。
ああ、でも、あのはたてがいないというのは何だか寂しい気がする。張り合いがないというか。
――と言うか椛さん、この状況は一体どういうことなんですかってば。
――だから知りませんってば。何でこっちに振るんですか。
心と心で分かり合う二人。そんな二人を尻目に、テーブルの上にはりんごのシャーベット。
「椛も食べる? あんたの分もあるけど」
「頂きます!」
「……食い意地の張った子ですね、相変わらず」
「甘いですね、文さん。甘いものと美味しい食べ物は全てに優先するんです」
尻尾ぱたぱた左右に振っての力説は、なるほど、と思わせる説得力に満ちていた。
とりあえず、食いしん坊のわんこが役に立たないことはこれで判明した。
文は考える。まず、これを食べながら悩もう、と。
もしかしたら本気で心変わりをしたのかもしれない。妖怪の人生は長いもの。一度や二度くらい人格が入れ替わっても全くおかしくないのだから。
「……季節を無視した冷たいものも、またおつなものですねぇ」
そして、このシャーベットがまた美味しかった。
口の中にほんのり残る甘酸っぱさは、まさに絶妙の域だ。ただ、普通にシャーベットとして作ったのではこうはいかないだろう。
その味に、すっかりとご満悦の文である。
「はたてさん、おかわりないですか? おかわり」
「あるわよ。はい、どうぞ」
「わう♪」
ああ、もう何かこんな風に家庭的で優しいキャラでもいいかもしれないなぁ。
そしたら、毎日、美味しいご飯が食べられるだろうし。私の好きな甘いものも作ってもらえそうだし。
撮影から疲れて帰ってきたら、食卓にはあったかいご飯がすでに置かれていて、お風呂も用意されてる、なんて最高じゃないか。
そんなことを思いつつ、口の中にひんやりと広がる至福の甘さを味わっていた、その時だ。
「ねぇ、文。美味しい?」
「ええ、美味しいです。
はたてさんが、こんなに料理が上手だとは思いませんでしたよ。いいお嫁さんになれますね」
「……」
「……あれ?」
空気が一変した。
顔を真っ赤にして、はたてがうつむいている。
文は一瞬の間に思考をめぐらせ、やがて答えに辿り着く。
……あれ? 私、今、結構やばいこと言った……?
「……その……。ねぇ……文」
「は、はい……」
「……ありがとう。嬉しい……」
「え、ええ……それは何より……」
「…………」
まずい。
この沈黙、耐え切れない。
と言うか、違う意味で耐え切れない。
どうしよう。このままじゃシャーベット溶けちゃう。椛、何かいい知恵を……って、ああ、はいはいそうですか、この空気を察することもなくおかわり食べまくってますかこのわんこめどうしてくれよう。
「溶けちゃうから……早く食べて」
すごい深い意味を含んだ言葉だった。
文は行動することが出来ない。部屋を包み込む空気に完全に押し潰され、『ど、どうしよう……』と脳内で呻いていたのだった。
はてさて、今宵この時起きましたこの異変。
そのまま幻想郷に広がりゆくは、誰にも止められぬ流れとなりまして。
何か変だ、おかしいぞ。そうは思えど動き出せぬ、もどかしい枷となったのでございます。
そも、異変とは何らかの発端があります故、その発端をどうにかせんと致しますは自明の理。
実害がない異変とはいえ、ほったらかしにしていい道理もなく。さりとて、それを解決するに足りるものが異変に飲み込まれてしまってますがためにどうすることも出来ず。
かくて、ひょいとそこに一石が投じられたわけであります。
「……眠い。けど寝られない」
すでに時刻は12時を回っている。私は未だに寝付けずにいた。
お布団の中はあったかで、枕もふんわり柔らかくて、ほのかに香るお日様の匂い。
このまますやすやおねんねするには最高の環境なのだけど、悲しいかな、私はその状況にあっても睡魔に手を引いてもらえないでいる。
「ん……むにゅ……」
っていうか、後ろで聞こえる声がっ! 息がっ! あと体温がっ!
やはりもう一枚、布団を出すべきか!? だけど、絶対に冷たいよね! そんな冷たい布団の中でなんて寝たくないし! というかしばらくの間、押入れに突っ込みっぱなしだから、絶対なんかしけっぽいだろうし!
……落ち着けー……落ち着くんだ、博麗霊夢……。
気合を入れろ、パワーを集中させるんだ。瞳を閉じれば暗闇なんだ。寝られないことはない!
「うっ……」
いい加減、体の下側が痛くなってきたので、一回寝返りを打った、それが失敗だった。
体勢を反対にしたことで、目の前に早苗の顔がある。
幸せそうに眠っている彼女の顔を見ていると、もう何だか色々と……ね。うん。
「……っ……」
思わず、目を見張って、小さく喉を鳴らしてしまう。
かわいいなぁ。
もう、それだけしか考えられない。
髪の毛さらさらだし……肌はすべすべで……何かふんわり柔らかくて……。
「……よいしょ」
もう少しだけ彼女に身を寄せる。
私と彼女の距離は、あと10センチもないくらい。ちょっと動くだけで、彼女に触れられるくらい。
あったかくて柔らかい吐息が私のまつげを揺らす。彼女のぽかぽかの体温が布団を通して伝わってくる。そして、何だかほんわかした、ふんわりの匂いが鼻腔をくすぐっていく。
……ちょっとくらいならわからないよね?
たとえば……ほら、ほっぺた触ったり……ぺたぺた……。
手を握って……それを自分のほっぺたに押し当てたりとか……。
それから……えっと……。
……ちょっとくらい……キスとかしたって……。
――途端に心臓の音が大きくなった。かーっと顔が熱くなっていって、何だか普通じゃいられないくらい。
辺りをきょろきょろ見回す。誰かの姿があるわけもない。
小さく喉を鳴らす。
彼女の肩に右手をかけて、そっと体を寄せる。
……あと5センチ……あと3センチ……。
段々、彼女の顔が視界一杯に広がっていって、そして……。
「霊夢」
いきなり、後ろから声がした。
「なっ、ななななななっ!?」
慌てて飛び起きた私は音速すら飛び越える速度で後ろを振り返る。
そこに立っているのは、当たり前だけど紫。彼女は、何ともいえない怖い顔をして私をにらんでいる。
「な、何よ、いきなり。安眠妨害の抗議でもしにきたっての!?」
「……それもあるけれど。
根本は違うわ」
「じゃ、じゃあ、何よ」
「正座」
「ちょっと、何で……」
「正座」
「……はい」
彼女の迫力には逆らえなかった。
冷たい畳の上に正座する私。その私を見ながら、紫は『はぁ……』とため息をついた。
「……ほんと、こんなに情けない子だとは思わなかったわ。私の育て方が悪かったのかしら」
「いきなり何よ……」
「あなたのお母さんに、私は何て顔をして謝ればいいの。全くもう」
なぜそこで私のお母さんを引き合いに出してくる?
あれか? 私が、実はお母さんっ子で、お母さんに逆らえないからそういうこと言うのか、こいつは。
「今ね、霊夢。幻想郷のあっちこっちでカップル同士がいちゃいちゃする事件が起きているの」
「……え。何それ」
「異変よ」
……そんな異変があってたまるか……と言いたいところだけど、連日連夜宴会を開く異変ってのもあったから、あながちないとは言い切れないのが幻想郷くおりてぃだ。
「まぁ、実害はないし、風紀の乱れとかそういうのはあるけれど、それはともかくとして。
私はね、霊夢。その異変の原因を何とかしに来たの」
「……そう」
「というわけで、あなた、早苗ちゃんに恥をかかすんじゃありません。わかった?」
「へ?」
いきなりお母さん口調になる紫。腰に手を当て『めっ』といわんばかりに私を見下ろしてくる。
「あなたが異変の原因よ、霊夢」
「うぇっ!?」
「あなたがうだうだぐだぐだやってるからこんな空気になっちゃったの」
「ちょっと、何それ!? そんなことが……!」
「あるわ。
ここ、博麗神社は結界の要。要の部分でそれに綻びが起きていたら、それの影響が出ないはずないでしょう」
……んなバカな。
確かに、建物は大黒柱が傾いたら崩れちゃうものだけど。だからって、私の行動如何で幻想郷がどうたらこうたらなるんなら、私は何も出来ないじゃないか。下手なことして幻想郷壊滅とかしゃれならんし。
「神社の土地が持つ霊的な力と要としての結界の紡ぎがうまい感じに共鳴しあって、博麗神社を覆う霊気が空気となって増幅されて質量を増して、折りしも幻想郷に吹き付けていた西からの風がその空気を幻想郷上に押し流した結果、あなたの今の状態を取り込んだ『空気』が増幅された状態を維持したまま、幻想郷中を覆ってしまったのよ。
おかげで、その『空気』にあてられた子達が、普段、心の内側に理性で抑えている部分を外に出してしまって、もう詳細が語れないことになってるの。反省しなさい」
「あいてっ」
扇子で頭をひっぱたかれてしまった。
さっぱり事態が理解できず、目を白黒させた、その状態のまま、思わず涙目になる私に『……ほんとにもう』と紫はつぶやく。
「好きなら好き。そうじゃないならそうじゃない。しっかりメリハリつけなさい」
「……だって……」
「だって、はなし。
ほんとにもう。情けないんだから」
「いや……その……ほら、紫だってわかるでしょ? こう……何か手を出しづらいとか」
「わかるけれど」
そこでまた、彼女の扇子が私の頭をひっぱたいた。
う~、とうなる私。私はレミリアかっ。
「そこで勇気を出すのが恋愛と言うものでしょう。
いい? 霊夢。
奥手なのは美徳よ。そういう一面は、人間には必ず必要。だけど、度を過ぎると無粋なの。
何だってそうでしょ。過ぎたるは及ばざるがごとし。必要以上に奥手なのは、ただの情けないへたれよ。相手も回りもやきもきするし、いつまでもそんな状態が続くのなら、いつか誰かに愛想をつかされても文句は言えない」
ちがう? と彼女の視線。
……そう言われると逆らえない。と言うか反論できない。
押し黙る私の頭を、彼女はぽんぽんと叩いた。
「たまのチャンスくらいものにしなさい。逃した魚は大きいんだから」
「……はい」
「まぁ、無理にとまでは言わないわ。だけど、感情のメリハリはつけて、はっきりさせない。
いいわね?
それじゃ、おやすみなさい」
結局、彼女の結論はそれだった。何しに来たんだ、って言いたいのだけど、多分、言ったらもっと怒られるだろう。
紫は大きなあくびをしながら、どこぞへと消えていく。
残された私は正座をといて、布団の中にもぞもぞ戻っていく。
まぁ……うん。紫の言うこともわかるのだ。さっさと結論出せ、とか。何せ、それで彼女にさんざ怒られた過去があるのだから。
いや、まぁ……わかっていても出来ないことってあるのだけども。
これで、きっと、早苗が起きていたりしたら『霊夢さんの意気地なし』とか言われてるだろう。
……大人しく寝ることにしよう。
異変だか何だか知らないけど、もう夜も遅いのだ。紫に怒られたことで、何かすかっとしたし。
さてさて、おやすみなさーい。
「霊夢さんの意気地なし」
「へっ!?」
いきなり、耳元で声がした。
振り向くと、すぐ側に早苗の顔がある。彼女は、目をぱっちりと開いてこっちを見ていた。
「えっと……起きてた……?」
「起きてました」
「……いつ頃から?」
「霊夢さんが、わたしに背中向けちゃったくらいからです」
「……寝たふり?」
「はい」
沈黙。
早苗は、はぁ、とため息をついた。
「……待ってたのに」
「あ……いや、その……」
「ほんと、霊夢さんって子供なんだから」
「あ……うぅ……」
「しょうがないなぁ」
彼女はにこっと言うより、にやりと小悪魔(あいつじゃないわよ)ちっくな笑顔を浮かべて、
「お姉さんがリードしないといけないみたいね」
なんてことを言いながら、私のほっぺたにキスをした。
頬に当たるその感覚に、私は目を丸くする。
振り向いた先で、早苗がにこにこ笑って「それじゃ、おやすみなさい」と私にささやいた。
私の方に身を寄せて……というよりは、完全にくっついて、彼女は目を閉じる。
私はしばらくの間、そのまま天井を眺めていた。かちこち聞こえる時計の音が、やけに耳につく。
ふっ、と肩から力が抜ける。
「……そだね。お休み」
私は彼女の方を向いて、その手をぎゅっと握った。
いつも通りに、そうして、彼女の顔を眺めながら、私は眠りについたのだった。
今宵起きましたことは、かくも不思議な異変でございました。
たった一人の少女の心の機微が、あちらこちらで大きな事件を起こしてしまったのでございます。
ちなみに後日談を申し上げますと、その日の夜のことを覚えていたのは、事態を外で眺めていたもの達だけでございました。
これもまた、不思議な事件の一端をなしていると言うことが出来るでしょう。
普段、隠しているものだからこそ、一夜限りの自由を得た。そのたった一夜の自由で、今まで隠されていたものは、精一杯、羽を伸ばして飛び回ったのでございます。そして、それはいじらしいことに、そのたった一夜の自由で満足してしまわれました。
これはやはり、風情を理解しているということが出来ましょう。
一段飛ばしの駆け足よりも、一歩一歩の前進こそが意味あるものだということなのかもしれませぬ。
わたくしめには理解の出来ぬ、とうの昔のいじらしさ。
奇っ怪きわまりますこの異変は、こうして終わりを告げました。
ちなみに翌朝、霊夢は早苗に『お詫び』と称して甘味処に連れて行かされたそうでございます。それを眺めておりましたとある妖怪の立役者は『どうしてこうなのかしら』と、何ともいえない悩みを吐露されたのだとか。
これにて皆様にもいかようなる理由のある異変なのか理解頂けたことでしょう。
こうした不思議も起きるのが、幻想たる所以なればこそ、また同じような事件とならないのも、また不思議の端緒。
さてはて、お話の語り部たるわたくしめの役目もこれにて終わりとなりました。
一夜限りの恋の異変、これにて終幕でございます。
いかがでしたでしょうか。
全き白は遠ざかり、薄桃色の目立つ春が近づいてきたことを感じたことでございましょう。無論、その春が訪れるものと訪れないものとがいるのも、これまた世の理ならば誰の元に春が来るか。結局のところ、誰にもわからないものでございます。
おや、理不尽でございましたでしょうか。
しかしながら、今宵の異変で、その春の足音を聞いたものは確かにいるのもまた事実でございます故、幻想の郷の雪解けも近いものと存じ上げます。
さてそれでは、皆々様方におかれましても、冬に負けず春の足音をお待ち頂きたいと存じ上げます。
春は存外、人と妖のそばに近づいているのかもしれません。
語り手:八雲藍
諸君、どうか恐れることなく聞いて欲しい。
私、博麗霊夢は、今、史上最大のピンチに遭遇している。
それがどういうことであるか、これから説明しようと思う。静粛にしてくれたまえ。うるさい奴は夢想封印だぞ♪
……こほん。
まず、それがどうして始まったのか。そこから語らなくてはなるまい。
私はその日、普通に過ごしていたはずだった。普通の一日を送っているはずだった。
朝起きて、境内の掃除をして、空っぽの賽銭箱に涙して、朝ご飯食べて、あそういえば雪かきもしないとなと思ってスコップ片手に表に出て、屋根の上からの雪が直撃して、境内めがけて夢想封印して紫に正座でお説教2時間くらって、お昼ごはん食べてお昼寝して目が覚めて――。
……そして、異変は始まった。
異変とは、この幻想郷における非日常を言う。
日常の中にほんの少しだけ現れる、別の世界への入り口。この世界自体が外の世界と切り離された別世界ではあるが、その別世界の中にさらに別世界が作り出されるのだ。
……難しいことを言ってしまったようだ。簡単に言うと、『何か変なこと』である。
私は今、それに直面している。
この博麗霊夢、これまでに数多の異変に遭遇し、それを解決してきた。
出会う奴ら出会う奴らをとりあえず弾幕勝負で黙らせてから事情聴取して、それから得た情報を右から左にポイ捨てし、自分の勘だけを頼りに主犯格に辿り着き、その主犯格をボコって神社に戻ってきてお茶を飲む――それが、この私のはずだった。
だが、しかし!
今の、この異変に限っては、私一人の力で解決出来る気がしない!
私は別段、弱気になっているわけではない。
その気になれば、幻想郷第七艦隊すらたった一人で相手できる自信がある。
しかし、今、私が直面している異変はそれどころの問題ではないのだ!
……熱くなってしまったようだ。
とりあえず、頭を冷やそう。お茶を飲もう。あれ、お茶どこやったっけ。ねぇし。
まぁ、いい。
話を戻すとしよう。
私はどうしたらいいだろうか。
異変を解決するのが私の仕事だとはわかっている。わかってはいるが、どうしようも出来ない。
かくなる上は幻想郷を壊滅させるべきだろうか? そうすれば異変は終わりを告げるのだ。だって、異変が起きてる場所がなくなるんだし。
まぁ、そんなことやったら、私が違う意味で壊滅させられるのでやめとく。私だって出番欲しいし。
さあ……どうする。
ん? その異変は何だ、って?
大変な異変なのだ。どれくらい大変かと言うと、鯛が変になるくらい。ところで、鯛って何?
……こほん。
何? 具体的に、だと……?
……あ、いや、その、それは……えーっと……んー……あっ! あっちにUFO! ……っちぃっ! 幻想郷じゃ珍しいものじゃなくなったから引っかからなくなったかっ!
こうなれば、博麗秘奥義『強制場面転換』で……!
そんな風に取り乱していた巫女の動きがぴたりと制止したのは、すぐ側から『すー……』という、小さな寝息が聞こえてきた時でございました。
さて、端的に説明することに致しましょう。
ここ、博麗神社には、普段、この神社の主である一人の少女しか住んでおりません。
ですが、その少女は何だかよくわからないけど何だかよくわからない連中に何だかよくわからないまま何だかよくわからず好かれております。結局のところ、人気者ということでございました。
さて、しかしながら、そんな、何だかよくわからない連中の中にも、明確な理由を持って、彼女を慕っているものがいるのも事実でございます。そして、そんな彼ら彼女らと接していると、この少女も時として気が気でなくなってしまうこともございます。
これはすなわち、少女もまた、一人のかわいい女の子であったということでございます。
それはさておきとしまして、特に、この少女がおかしくなることがございます。つまるところ、個人に起きる異変と言うわけでございます。その異変を起こすものは数ありますけれども、総じて、少女と特に親しいものによる御業と申しましょう。
――左様。
彼女、東風谷早苗も、その一人でございました。
彼女は日頃、この神社に足を運んできます。その理由は様々ございますけれども、根幹の部分は同じ。つまりは、『大好きな霊夢さんに逢いたいなー』という、いじらしい感情一つ故。
いかな霊夢とて、そんな風に素直に感情を向けられれば応えざるを得ないのが人の常。やってくる彼女を断ることなどするはずもなく、いつも神社の中に招き入れているのでございます。
さてさて、そんな風に、今日もいつも通りにやって参りました早苗は、神社の主、霊夢と楽しい時間を過ごしました。
そんなこんなでいつも通りのお泊りになってしまったわけですが、ここで若干、いつもと同じ時間に違和感が訪れることになります。
それが、霊夢が言っている『異変』であることに相違ないのは、今、改めて申し上げることではございませんので割愛させて頂きましょう。
それがどんな異変であるか。説明するのは簡単でございます。
仲のいいこの二人、寝る時は一緒なのですが、普段は霊夢の方が先に眠りに落ちてしまいますところ、今日は逆だった、ただそれだけでございます。
おっと、それがどんな異変なのかとは申しますまい。
常日頃、傍若無人だの極貧の赤貧巫女だの初代紅白の悪魔だのと言われている霊夢でございますが、その実は、なんてことはない一介の少女でございます。
説明が遅れましたが、この霊夢もまた、早苗のことを好いております。その感情は、未だ、それほど大きなものとしてご説明差し上げることが出来るものではございませんが、それでも当人にとっては立派な恋心。そんな自分と付き合うことに、まだ慣れていない少女でありますが故、それに振り回されることもままあります。
そうなりますと、いかがでございましょうか。
普段とは逆の立場になってしまう――それは、日常の中に現れた異変ということは出来ないでしょうか。
ともあれ、そのような、実に複雑かつ奇々怪々、それでいて旗幟鮮明の事情がございました。さて、この異変が、どのような騒動になるでしょうか。
それではこれよりお立会い。どうぞごゆるりとご鑑賞ください。
「……よし、まずは落ち着け。落ち着くんだ自分。
大きく息を吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー」
何度かの深呼吸を経て、わたしはしょうきにもどった!
……時計を見る。時刻、まだ夜の9時。
日中、散々、早苗とお喋りして疲れていたからって、こんな時間に布団に入るなんて、ちょっと寝るのが早すぎじゃないだろうか。夜の8時に寝てしまう、どこかの館の吸血鬼じゃあるまいし。
そうだ。ここで黙って寝てる理由はないんだ。とりあえず、起きて酒でも飲むことにしよう。うん、そうしよう。ついでだから、そのまま居間で夜を明かしてもいい。
「そーっと……」
布団から抜け出そうと身を起こして、動きを止めてしまう。
「ん……くー……」
「……うあ、かわいい」
誰かの寝顔をじっくり見ることなんて、これまでの博麗人生でなかった。
いや、もう、なんていうか。無防備なこの姿が何とも言えないくらいかわいい。
うん、まぁ、早苗はいつでもかわいい。それは私が認める。彼女の保護者の親バカどもの意見ではないけれど、私は決して、それは否定しない。
この甘ったるい丸顔を見ると、最近だと、何だか心がほっとするのだ。
私の知り合い連中で言うと、いわゆる美人系が咲夜とアリスだとすると、その対極にいるのが早苗である。
え? 魔理沙? あいつはどっちかっていうと『憎たらかわいい』ってところ。だからカテゴリー外。
話を戻すと、もう、うん。かわいいのだ。とにかく。
あー……この寝顔を眺めていたいなぁ……なんて。
「い、いやいやいやいや! 違う、違うだろ、自分」
この状況だと、色々と体によくないから、私はここから抜け出そうとしたのではないか。
その決意が鈍らないうちに移動しなくてはいけない。
よし、行くぞ!
「……っつーか、寒いなぁ」
布団から一歩、外に足を踏み出して、私はつぶやいた。
よく考えてみれば、寝る時に暖房はほとんど消していたんだった。寝室として使っているこの部屋だけは、隅っこで暖房が熱を放っているけれど、それもやっぱり心もとない。
居間などは暖房が消してあるから、きっと、もっと寒いだろう。
……やだなぁ。寒いの。この神社って、年代ものの建物だから、最近は隙間風がひどいのよねぇ……。
「……あったか」
布団の中に足を戻してつぶやく。
さっきまで、私がそこにいたというのもプラスして、お布団の中はふんわりぽっかぽか。
……風邪を引いてしまうのはよくない。うん。
私の意志は早々に別方向へとシフトして、もぞもぞ布団の中へとかむばっく。
「……さあ、どうする」
意識を集中して眠るべき。それが私に出来るただ一つの行動であり、結論。
「……くー」
………………………………いかん。気になる。
耳元で聞こえる早苗の寝息。すやすやむにゃむにゃしてる感じが、もう鋭敏に伝わってくる。
やはりここは、金をケチらず、ダブルサイズじゃなくてもっと大きい布団を買うべきだっただろうか。もちろんツケで。
いや、だけど、そんなでかいの買っても結局くっついて寝てるんだろうし、そもそもあんまりでかすぎたらしまう場所もないし、当時の私の考えは英断だったはずだ。
まぁ、それはさておけ。さておくんだ、自分。
「上を向いてるからダメなのよ」
私は早苗に背中を向けて眠ることにする。
よし、これなら完璧。意識は前にしか向かない。後ろを気にすることなく眠れる。まさにベスト!
「よし、寝るぞ! 寝るぞ……自分……!」
目をぐっと閉じて、パワーを集中する。あ、今なら、ラストスペルも通常弾幕で撃てそう。
「おやすみなさー……い?」
「……すー」
「……何……だと……」
早苗の声が、より一層、大きく聞こえるではないか。
そうか。さっきまでは私がもぞもぞしてたから、衣擦れの音とかが彼女の声を消していたのかっ……!
だが、こうなってしまえば、全ての音は消えていく。最悪と言うか何と言うか、今日は穏やかな夜なのだ。外からの騒音も期待することは出来ない。
「くー……」
落ち着け……落ち着くんだ、博麗霊夢……!
後ろから声なんて聞こえない。寝息なんてわからない。あったかさとか感じない。よし、お前はいつも通り一人で寝てるんだ。暗示完了!
――少女30分経過――
「……誰か、他人を眠らせる程度の能力とか持ってないかな」
私は、未だ、眠ることが出来なかった。
さてさて、こうして発生しました幻想郷の小さな異変。
しかし、立派で頑丈な堤もありの穴から崩れると言うのはよくあることでございます。
神社で起きた小さな異変は、その波紋を広げることで、徐々に大きなものへと変わっていったのでございます。何と驚くべき事実でしょうか。
しかも今宵は、その異変を解決するべき者達全てが、異変の中に異変と知らず巻き込まれてしまったのです。
あわや、幻想郷の一大事となりました。
「ぷはぁーっ……うまかったぁ」
「全くもう……。
魔理沙、あなた、もう少し自分の生活は自分でコントロールしたら?」
「ははは……面目ないぜ」
魔法の森のとある一角。
白亜の外壁が特徴的な館の中で、二人の少女が夕食会を開いていた。
つい先ほど、それは終わり、今、テーブルの上に残っているのはワインの入ったグラスだけだ。
「アリス、お前、料理がうまくなったんじゃないのか?」
「そりゃ、幽香の手伝いしてればね。と言うか、あいつの前で下手な料理なんて出そうものなら怒鳴られるなんてものじゃないもの」
「こだわりだねぇ」
「言っておくけど、そのワイン、高いんだから」
「紅魔館からもらったんだろ?」
「だから、高いのよ」
ぐいぐいと、まるで水のようにワインを飲み干している魔理沙へと、館の主、アリスは一言。
いつもながらに皮肉のきいた一言に、魔理沙は『悪い悪い』と笑った。
ちなみに、何で彼女がここにいるかと言うと、いつもながらいつものごとく、魔法の実験に没頭していたら蓄えが底をついたのである。
それで、お腹をすかせた彼女は『アリスぅ~……ご飯食べさせてぇ~……』と泣きながらやってきたというわけだ。
「ほんと、こりないんだから」
「そうでもないぜ?
とりあえず、明日からは金を稼ぐことにするぜ」
「毎日やりなさい」
「えー? やだよ、めんどくさい」
懲りてないじゃない、とアリスが言った瞬間、魔理沙の横にふわふわやってきた人形が、手にしたハリセンで彼女の頭をひっぱたいた。
なかなかいい一撃だったらしく、魔理沙はおでこをテーブルに激突させて、しばし沈黙。
「外、冷えてきたみたいね。夜なんだから当然だけど」
「あいててて……。私の心配くらいしてくれよ……」
「どうする? 泊まって行く?」
「……あー」
「ん?」
普段の魔理沙なら『それを待っていたぜ!』というなり、『風呂借りるぞー』と風呂場に直行していただろう。ちなみに、それを見越して、すでにアリスはお風呂を沸かしてあったりする。
しかし、今日はどうにも空気が違った。
「……どうしよっかな」
「……え?」
何と、あの魔理沙が、何だか恥ずかしそうに頬をかきながら、そんな殊勝な一言を口走ったのだ。
アリスの動揺は人形たちにも伝わり、
『どうなってるんだ!?』
『魔理沙さん、もしかして病気なんじゃ!?』
『大変ですわ! 竹林のお医者様をお呼びしなくては!』
『あ、あたしのせいじゃないわよ!』
『上海が手加減しないのが悪いんだよ、絶対!』
『打ち所が悪くてもああはならないと思うけど……』
『待て、落ち着くんだ、みんな。これには何か、我々が見落としている謎がある。それを解決するんだ』
『さすがは倫敦!』
『すなわち、これは異変だ! 人の人格がおかしくなるという異変だ!』
『そんな異変あるの?』
『あるんじゃない? 何か変な世界だし、ここ』
『けれど、ピンポイントで魔理沙さんだけと言うのもおかしくないかしら?』
『ほら、見なさい! あたしのせいじゃなかったでしょ!』
『上海、お前は程度を考えろ』
『そうそう。上海には手加減が足りない』
『あなたに言われたくないわよ!』
『ほら、みんな。女の子が大きな声出してはしたないどす。もっと静かにしまひょ』
『けれど、どう考えてもおかしいよ。状況的に』
「……うん。確かに」
『魔理沙さん、どうしてしまったのかしら……。やっぱり病院に連れて行ったほうが……』
『いや、落ち着くんだ。みんな。彼女は人をからかい、楽しませることを是としている……もしかしたら、この異変の主犯格かもしれない』
『な、なんだってー!?』
『何よ、その反応』
『外の世界の書物に書いてあったらしい。マスターが読んでいたのを見ていたらしいぞ』
『あー……みんな。ほら、静かに……』
『だけど結局、魔理沙さんがおかしいことには変わりないのよね』
『やっぱり、病院がいいかも』
『永遠亭の連絡先、調べてくるわ』
『――あんた達』
『そういえば、蓬莱はどこいった?』
『最初に驚いた時以外、そういえば姿を見ないね』
『ちょっと待ちなさい。こういう時にちゃっかり、蓬莱が姿をくらますってことは……』
『あんたら、やかましいわ! 黙っとき!』
『……はい、京姐さん……』(ここまで人形語を人間の言葉に翻訳して、わたくし、蓬莱人形がお送りいたしましたわ。君子危うきに何とやら、ですわ。うふふ)
やかましく騒ぎ立てる人形たちがしんと静かになったところで、アリスが「……どういう風の吹き回し?」と恐る恐る魔理沙に尋ねた。
魔理沙は『いやぁ……』と照れくさそうに笑いながら、
「ほら、アリスにはさ。何か迷惑かけてばっかりだからさ。
だから……その……あんまり図々しいと嫌われちゃうんじゃないかなぁ、って……。嫌われたくないなぁ……とか……」
アリスはしばらく停止する。
意識を停止させ、全ての力を思考に傾ける。彼女が言ったことの意味を、必死になって咀嚼し、理解しようとする。
「その……な。
食事までご馳走になってるんだし、これ以上、甘えるのもどうかなぁ、って思って……。
……変……かな?」
「……あー」
思考が動き出す。
アリスはこめかみを指先で押さえて、頭痛を黙らせてから口を開く。
「変なこと言ってないで。普段どおりにしてればいいじゃない」
「その……迷惑……じゃないかな?」
「迷惑。超迷惑。大迷惑。半端じゃないくらい迷惑」
ぴしゃりというよりずびしと言ってくるアリスに、『……たはは』と魔理沙は笑った。
そんな彼女の頭を、ぽん、とアリスは叩く。
「けど、気にしなくていいわよ。
そりゃ、ある程度はわきまえて欲しいとは思うけど。本当にいやなら、最初から、あなたを招き入れたりしないわ」
「……アリス……」
「ちゃんと感謝してよね。それでなら、いくらでも迷惑をかけてくれてもいいわ」
魔理沙は子供のように笑顔になると、『ありがとな!』と声を上げた。
その彼女を「はいはい」とあしらって、アリスは魔理沙の肩を叩いた。魔理沙はそのまま、踵を返して、何だか嬉しそうに風呂場へと歩いていく。
「……ったく。手のかかる子ほどかわいいって言うけれど」
それって本当のことなのよね、とアリスはつぶやいた。
困ったものね、と彼女は笑って。
「ねぇ?」
と、京人形すら含んで、唖然としている人形一同にウインクをしたのだった。
「どう?」
「……困ったわ。業務が回らないの」
「お嬢様たちは?」
「大丈夫。もう寝かしつけたわ」
「そう。この状況は、お嬢様たちには目の毒だものね」
場所は変わって、ここは紅魔館。
この紅の館にも奇妙な空気が流れていた。
館の一室に集まり、作戦会議よろしく円座を組んでいるメイド達。彼女たちは互いに状況を報告しあい、『頭が痛いわね』と言わんばかりにため息をつく。
簡単に状況を説明すると、だ。
紅魔館に勤めるメイドたちの大半が『今夜はちょっとお仕事をお休みさせていただきます』と言ってきたのである。
「夜勤のシフト、どうしたらいいかしら……」
「私たちがその気になれば、あの子達の分はこなせるけれど……」
「……困ったわね」
しかも、それに加えて。
『こら、あなた達! そういうことは部屋に戻ってからやりなさい!』
外から響く、あるメイドの怒声。
しばらくすると、その声を上げたメイドが部屋に入ってきて、『またよ、もう』とため息をつく。
本当に、一体どういう状況なのかはわからないが、集団で仕事を休むだけではなく、発情期を迎えた動物よろしく、あっちこっちでメイド達がいちゃいちゃし始めてしまったのである。
「いきなり、だものね」
「何があったのかしら」
ふぅ、と誰からともなくため息をついた後、「仕方ないわ。私たちだけでお仕事をしましょう」とその中の一人が立ち上がる。
「わたし、今夜は3ヶ月ぶりのオフだったのに」
「仕方ないわ。別の日にずらしましょう」
「だって……ねぇ」
そうして、
『メイド長ですらだもの……』
その時に、彼女たちの声音に混じっていたのは、『あの子ったら全くもう』という『先輩のお姉さん』的な雰囲気だったと言う。
「あの、咲夜さん」
「何? 美鈴」
「お仕事、いいんですか?」
「ちゃんとお休みの申請は出したわ」
そういう申請を許可するのがこの人の仕事なんじゃなかっただろうか。
美鈴の視線をよそに、やけに上機嫌の咲夜は、『どうぞ』とお茶を用意して持ってくる。一応、それを受け取り、一口してから、
「何か、今夜はメイドさんたちの姿もあまり見かけませんね」
「みんなお休みを出してきたの。不思議ね」
「はぁ」
確かに不思議な一言だった。
一人二人の休みならともかく、今夜の業務を担当する全員が休みを申請してくるとは。しかも、それを許可している辺りも理解が出来ない。
サボりたい……というわけではなさそうだ。
そもそも、そんな意思が見えた段階で、そのメイドは『お姉さま』たちにこっぴどく叱られることだろう。
「今日もお仕事、お疲れ様」
「ああ、ありがとうございます」
「外の仕事は大変でしょう? 寒くない?」
「あまり。
というか、大はしゃぎしてるフランドール様を見ていると、心が安らぎますよ」
この雪の中、元気に遊んでいる彼女を見守るのが、最近の美鈴の仕事である。日々、彼女の作る雪だるまの数は増え、最近は紅魔館の周囲にずらりと並べられ、美鈴と同じく、館の見張りとなっている状態だ。
「お嬢様も、もっと外で遊んでくれるといいんだけど」
「いや、まぁ、吸血鬼が日の光の下で大はしゃぎ、っていうのも何か変な構図ですけどね」
「……それもそうね」
ある意味、自殺行為ではあるのだが、フランドールがそれをやっていると全く違和感がないのが不思議である。
「そう言う咲夜さんは、お仕事、どうですか?」
「そこそこ……かしらね。
レストランも、最近は変な客も来ないし」
「一時期、来てましたよね。目からビームを出しながら巨大化された時はどうしようかと思いましたよ」
「……あの時、どうやって乗り切ったっけ?」
「さあ……?」
何だか微妙な空気が流れたりもする。
「あ、そうだ。美鈴、お酒、飲まない?」
「いいですよ」
「じゃあ、待っていてね。
昨日、美味しいワインが手に入ったの。一緒に飲もうと思って……」
「ああ、それなら」
と、美鈴。
彼女は一瞬、ひゅんと腕をしならせる。すると、どういう手品か、その手の先に酒の入った瓶が現れていた。
「これなんてどうですか?」
「何それ? あなたのよく飲むお酒?」
「ええ」
「紹興酒はちょっと……」
「これは白酒です」
ひな祭りとかの?
そう尋ねる咲夜に答えず、美鈴は、これまたどこから取り出したのか、お猪口に酒を注ぐと『どうぞ』と咲夜に手渡した。
受け取った咲夜は、まず、それの匂いをかいでから、一口。
――すると、
「……げほっ……! な、何これ!?」
「アルコール度数40%。ワインなんかよりずっと強烈でしょ?」
「けほっ、けほっ! め、美鈴っ!」
「まだまだですねー」
美鈴はけらけらと楽しそうに笑いながら、自分の分のぐい呑みに酒をついで、それを一気に飲み干した。
寒い時にはこれですよ、と笑う彼女を見ながら、咲夜は頬を膨らませる。
「咲夜さんって、今でこそ、だいぶマシになりましたけど。昔はお酒に弱かったですよねー」
「ほっといて」
「『あたしだってお酒くらい飲めるもん!』ってお嬢様のワインに手をつけてひっくり返ったりしましたよね」
ちなみに、レミリアの飲むワインはワインとは名ばかりのぶどうジュースである。
投擲すれば爆弾、ひっくり返して使えばレーザー砲、コルクの部分からは煙幕も放てる優れものである。
咲夜は頬を赤くして、「……昔の話はやめてよ」と上目遣い。その彼女の頭をなでながら、
「けど、年配の方々の方がひどいんじゃないですか?」
と、美鈴は意地悪く笑った。
よくからかわれるのよね、と咲夜はそれを隠そうともせずに告白すると、「けど、今は私がメイド長だもの」と胸を張った。
何だか、普段の彼女らしからぬ幼い仕草に、美鈴は声を上げて笑い、咲夜は「な、何で笑うのよ!」と違う意味で顔を真っ赤にして声を上げる。
そんな二人が夜を過ごす部屋からは、しばらくの間、楽しそうな笑い声が響いていたのだった。
射命丸は目の前の状況を理解できずにいた。
私は一体、この状況下で何をしたらいいんだ。そう、自問自答すらしていた。
ジャーナリストとしての力をフルに使って、状況の把握に努めようとした。
しかし、それはかなわない。
なぜなら、その状況を認識するための意識が閉じてしまっているのだ。それはとりもなおさず、彼女自身が、状況の理解を放棄したことに等しい。
彼女の視線は、部屋の隅で呆然としている椛に向いた。彼女もまた、状況を理解できないでいるのだ。
今、自分に出来ることは何だ。
射命丸は思った。
そう。今の自分に出来ることは、この事態を『理解』し『把握』することだ。
「……あの、はたてさん。何してるんですか?」
「え? その……文に、手作りの料理、食べて欲しいなって思って……」
再び、神速をもって文の視線は椛を向いた。
『椛さん、あなた、ずっとこの部屋にいたでしょう! 何があったのか言いなさい、きりきりと!』
『し、知らないですよそんなの! 事態がさっぱりですよ!』
一瞬の、視線と視線の会話。風に生きる天狗たちはアイコンタクトすら極めていた。
――オーケー、事態は把握した。
射命丸の意識は冷静の海に戻っていく。
今日、自分は幻想郷の空を、取材のために飛んでいた。疲れて家に帰ってきたら、留守番を任せていた椛が呆けている。理由を聞く前に、その原因を悟る。はたてがなぜか厨房に立っていて、テーブルの上に、やたら美味しそうな料理が並んでいた。
オーケー、理解してない。これっぽっちも。
「あ、あの~……なぜに……?」
「……その……り、理由なんてない……けど……」
普段のはたてを想像してみる。
『はぁ!? 何でわたしがあんたなんかに料理作ってあげないといけないのよ!』
『そう言わないでくださいよ、はたてさん。私、ほら、お腹がすいてまして』
『知らないわよ、そんなの! そのまま餓死すれば!?』
『え~……ひどいですよ~』
『ああ、もう、すりよるな! わ、わかったわよ! 作るわよ、作ってあげるわよ!
言っておくけど、別にあんたのためなんかじゃないんだからね! わたしだってお腹がすいてきたから、ついでに、あんたに食べさせてあげるだけなんだから! 勘違いしないでよね!』
うん。ツンデレバンザイ。
ここ、幻想郷にはそれほど珍しい存在ではなくなった『ツンデレ』と言う特性を備えたもの。
このはたては、その中でもまるっきりテンプレのような『ツンデレ』であることを文は知っていた。
ちなみに、何で彼女がそんななのかは全く理解していないのは言うまでもない。
――それはともあれ、文としては、己の行動によってはたてから受ける反応など、大体わかっている。だからこそ、困惑しているのだ。
「……いらない?」
「い、いりますいります! お腹ぺこぺこです!」
上目遣いで恐る恐る尋ねてくる彼女に、慌てて文は首を縦に振った。
この状況で『いらないです』とも『どうしたっていうんですか、はたてさん』と尋ねる豪胆な精神も、文は持っていない。と言うか、そんなことする勇気もない。
「……美味しい?」
「え、ええ。美味しいです。っていうか、はたてさん、料理上手ですね。驚きですよ」
「……あ……!
うん……ありがとう……」
頬を赤く染めて、嬉しそうに微笑むはたて。
それを見て、文の視線は椛に向かう。
『か、かーかーかーかーかーかー!(一体どういうことですかこれ!?)』
『わんわんわんきゃいんきゃいん!(わからないですってば!)』
ついに幻想郷の共通語すら忘れるほどに動揺する二人。
この状況は、それほどまでに、両者にとってインパクトのあるものだったようだ。
「あ、あのですね、はたてさん」
「な、何?
あ、食後のデザートもあるわよ。文が以前、『好きだ』って言ってたりんごをシャーベットにしてみたの。
季節的にはあんまりあわないかもしれないけど」
「こ、光栄です」
一体何があったのだろう。心変わりでもしたのだろうか。
いや、だけど、このはたてはこのはたてで悪くない。普段のつんけんとしたあの態度もまた捨てがたいが、今の、この自分に正直なかわいらしさはどうだ。思わず写真に撮りたいくらいじゃないか。
ああ、でも、あのはたてがいないというのは何だか寂しい気がする。張り合いがないというか。
――と言うか椛さん、この状況は一体どういうことなんですかってば。
――だから知りませんってば。何でこっちに振るんですか。
心と心で分かり合う二人。そんな二人を尻目に、テーブルの上にはりんごのシャーベット。
「椛も食べる? あんたの分もあるけど」
「頂きます!」
「……食い意地の張った子ですね、相変わらず」
「甘いですね、文さん。甘いものと美味しい食べ物は全てに優先するんです」
尻尾ぱたぱた左右に振っての力説は、なるほど、と思わせる説得力に満ちていた。
とりあえず、食いしん坊のわんこが役に立たないことはこれで判明した。
文は考える。まず、これを食べながら悩もう、と。
もしかしたら本気で心変わりをしたのかもしれない。妖怪の人生は長いもの。一度や二度くらい人格が入れ替わっても全くおかしくないのだから。
「……季節を無視した冷たいものも、またおつなものですねぇ」
そして、このシャーベットがまた美味しかった。
口の中にほんのり残る甘酸っぱさは、まさに絶妙の域だ。ただ、普通にシャーベットとして作ったのではこうはいかないだろう。
その味に、すっかりとご満悦の文である。
「はたてさん、おかわりないですか? おかわり」
「あるわよ。はい、どうぞ」
「わう♪」
ああ、もう何かこんな風に家庭的で優しいキャラでもいいかもしれないなぁ。
そしたら、毎日、美味しいご飯が食べられるだろうし。私の好きな甘いものも作ってもらえそうだし。
撮影から疲れて帰ってきたら、食卓にはあったかいご飯がすでに置かれていて、お風呂も用意されてる、なんて最高じゃないか。
そんなことを思いつつ、口の中にひんやりと広がる至福の甘さを味わっていた、その時だ。
「ねぇ、文。美味しい?」
「ええ、美味しいです。
はたてさんが、こんなに料理が上手だとは思いませんでしたよ。いいお嫁さんになれますね」
「……」
「……あれ?」
空気が一変した。
顔を真っ赤にして、はたてがうつむいている。
文は一瞬の間に思考をめぐらせ、やがて答えに辿り着く。
……あれ? 私、今、結構やばいこと言った……?
「……その……。ねぇ……文」
「は、はい……」
「……ありがとう。嬉しい……」
「え、ええ……それは何より……」
「…………」
まずい。
この沈黙、耐え切れない。
と言うか、違う意味で耐え切れない。
どうしよう。このままじゃシャーベット溶けちゃう。椛、何かいい知恵を……って、ああ、はいはいそうですか、この空気を察することもなくおかわり食べまくってますかこのわんこめどうしてくれよう。
「溶けちゃうから……早く食べて」
すごい深い意味を含んだ言葉だった。
文は行動することが出来ない。部屋を包み込む空気に完全に押し潰され、『ど、どうしよう……』と脳内で呻いていたのだった。
はてさて、今宵この時起きましたこの異変。
そのまま幻想郷に広がりゆくは、誰にも止められぬ流れとなりまして。
何か変だ、おかしいぞ。そうは思えど動き出せぬ、もどかしい枷となったのでございます。
そも、異変とは何らかの発端があります故、その発端をどうにかせんと致しますは自明の理。
実害がない異変とはいえ、ほったらかしにしていい道理もなく。さりとて、それを解決するに足りるものが異変に飲み込まれてしまってますがためにどうすることも出来ず。
かくて、ひょいとそこに一石が投じられたわけであります。
「……眠い。けど寝られない」
すでに時刻は12時を回っている。私は未だに寝付けずにいた。
お布団の中はあったかで、枕もふんわり柔らかくて、ほのかに香るお日様の匂い。
このまますやすやおねんねするには最高の環境なのだけど、悲しいかな、私はその状況にあっても睡魔に手を引いてもらえないでいる。
「ん……むにゅ……」
っていうか、後ろで聞こえる声がっ! 息がっ! あと体温がっ!
やはりもう一枚、布団を出すべきか!? だけど、絶対に冷たいよね! そんな冷たい布団の中でなんて寝たくないし! というかしばらくの間、押入れに突っ込みっぱなしだから、絶対なんかしけっぽいだろうし!
……落ち着けー……落ち着くんだ、博麗霊夢……。
気合を入れろ、パワーを集中させるんだ。瞳を閉じれば暗闇なんだ。寝られないことはない!
「うっ……」
いい加減、体の下側が痛くなってきたので、一回寝返りを打った、それが失敗だった。
体勢を反対にしたことで、目の前に早苗の顔がある。
幸せそうに眠っている彼女の顔を見ていると、もう何だか色々と……ね。うん。
「……っ……」
思わず、目を見張って、小さく喉を鳴らしてしまう。
かわいいなぁ。
もう、それだけしか考えられない。
髪の毛さらさらだし……肌はすべすべで……何かふんわり柔らかくて……。
「……よいしょ」
もう少しだけ彼女に身を寄せる。
私と彼女の距離は、あと10センチもないくらい。ちょっと動くだけで、彼女に触れられるくらい。
あったかくて柔らかい吐息が私のまつげを揺らす。彼女のぽかぽかの体温が布団を通して伝わってくる。そして、何だかほんわかした、ふんわりの匂いが鼻腔をくすぐっていく。
……ちょっとくらいならわからないよね?
たとえば……ほら、ほっぺた触ったり……ぺたぺた……。
手を握って……それを自分のほっぺたに押し当てたりとか……。
それから……えっと……。
……ちょっとくらい……キスとかしたって……。
――途端に心臓の音が大きくなった。かーっと顔が熱くなっていって、何だか普通じゃいられないくらい。
辺りをきょろきょろ見回す。誰かの姿があるわけもない。
小さく喉を鳴らす。
彼女の肩に右手をかけて、そっと体を寄せる。
……あと5センチ……あと3センチ……。
段々、彼女の顔が視界一杯に広がっていって、そして……。
「霊夢」
いきなり、後ろから声がした。
「なっ、ななななななっ!?」
慌てて飛び起きた私は音速すら飛び越える速度で後ろを振り返る。
そこに立っているのは、当たり前だけど紫。彼女は、何ともいえない怖い顔をして私をにらんでいる。
「な、何よ、いきなり。安眠妨害の抗議でもしにきたっての!?」
「……それもあるけれど。
根本は違うわ」
「じゃ、じゃあ、何よ」
「正座」
「ちょっと、何で……」
「正座」
「……はい」
彼女の迫力には逆らえなかった。
冷たい畳の上に正座する私。その私を見ながら、紫は『はぁ……』とため息をついた。
「……ほんと、こんなに情けない子だとは思わなかったわ。私の育て方が悪かったのかしら」
「いきなり何よ……」
「あなたのお母さんに、私は何て顔をして謝ればいいの。全くもう」
なぜそこで私のお母さんを引き合いに出してくる?
あれか? 私が、実はお母さんっ子で、お母さんに逆らえないからそういうこと言うのか、こいつは。
「今ね、霊夢。幻想郷のあっちこっちでカップル同士がいちゃいちゃする事件が起きているの」
「……え。何それ」
「異変よ」
……そんな異変があってたまるか……と言いたいところだけど、連日連夜宴会を開く異変ってのもあったから、あながちないとは言い切れないのが幻想郷くおりてぃだ。
「まぁ、実害はないし、風紀の乱れとかそういうのはあるけれど、それはともかくとして。
私はね、霊夢。その異変の原因を何とかしに来たの」
「……そう」
「というわけで、あなた、早苗ちゃんに恥をかかすんじゃありません。わかった?」
「へ?」
いきなりお母さん口調になる紫。腰に手を当て『めっ』といわんばかりに私を見下ろしてくる。
「あなたが異変の原因よ、霊夢」
「うぇっ!?」
「あなたがうだうだぐだぐだやってるからこんな空気になっちゃったの」
「ちょっと、何それ!? そんなことが……!」
「あるわ。
ここ、博麗神社は結界の要。要の部分でそれに綻びが起きていたら、それの影響が出ないはずないでしょう」
……んなバカな。
確かに、建物は大黒柱が傾いたら崩れちゃうものだけど。だからって、私の行動如何で幻想郷がどうたらこうたらなるんなら、私は何も出来ないじゃないか。下手なことして幻想郷壊滅とかしゃれならんし。
「神社の土地が持つ霊的な力と要としての結界の紡ぎがうまい感じに共鳴しあって、博麗神社を覆う霊気が空気となって増幅されて質量を増して、折りしも幻想郷に吹き付けていた西からの風がその空気を幻想郷上に押し流した結果、あなたの今の状態を取り込んだ『空気』が増幅された状態を維持したまま、幻想郷中を覆ってしまったのよ。
おかげで、その『空気』にあてられた子達が、普段、心の内側に理性で抑えている部分を外に出してしまって、もう詳細が語れないことになってるの。反省しなさい」
「あいてっ」
扇子で頭をひっぱたかれてしまった。
さっぱり事態が理解できず、目を白黒させた、その状態のまま、思わず涙目になる私に『……ほんとにもう』と紫はつぶやく。
「好きなら好き。そうじゃないならそうじゃない。しっかりメリハリつけなさい」
「……だって……」
「だって、はなし。
ほんとにもう。情けないんだから」
「いや……その……ほら、紫だってわかるでしょ? こう……何か手を出しづらいとか」
「わかるけれど」
そこでまた、彼女の扇子が私の頭をひっぱたいた。
う~、とうなる私。私はレミリアかっ。
「そこで勇気を出すのが恋愛と言うものでしょう。
いい? 霊夢。
奥手なのは美徳よ。そういう一面は、人間には必ず必要。だけど、度を過ぎると無粋なの。
何だってそうでしょ。過ぎたるは及ばざるがごとし。必要以上に奥手なのは、ただの情けないへたれよ。相手も回りもやきもきするし、いつまでもそんな状態が続くのなら、いつか誰かに愛想をつかされても文句は言えない」
ちがう? と彼女の視線。
……そう言われると逆らえない。と言うか反論できない。
押し黙る私の頭を、彼女はぽんぽんと叩いた。
「たまのチャンスくらいものにしなさい。逃した魚は大きいんだから」
「……はい」
「まぁ、無理にとまでは言わないわ。だけど、感情のメリハリはつけて、はっきりさせない。
いいわね?
それじゃ、おやすみなさい」
結局、彼女の結論はそれだった。何しに来たんだ、って言いたいのだけど、多分、言ったらもっと怒られるだろう。
紫は大きなあくびをしながら、どこぞへと消えていく。
残された私は正座をといて、布団の中にもぞもぞ戻っていく。
まぁ……うん。紫の言うこともわかるのだ。さっさと結論出せ、とか。何せ、それで彼女にさんざ怒られた過去があるのだから。
いや、まぁ……わかっていても出来ないことってあるのだけども。
これで、きっと、早苗が起きていたりしたら『霊夢さんの意気地なし』とか言われてるだろう。
……大人しく寝ることにしよう。
異変だか何だか知らないけど、もう夜も遅いのだ。紫に怒られたことで、何かすかっとしたし。
さてさて、おやすみなさーい。
「霊夢さんの意気地なし」
「へっ!?」
いきなり、耳元で声がした。
振り向くと、すぐ側に早苗の顔がある。彼女は、目をぱっちりと開いてこっちを見ていた。
「えっと……起きてた……?」
「起きてました」
「……いつ頃から?」
「霊夢さんが、わたしに背中向けちゃったくらいからです」
「……寝たふり?」
「はい」
沈黙。
早苗は、はぁ、とため息をついた。
「……待ってたのに」
「あ……いや、その……」
「ほんと、霊夢さんって子供なんだから」
「あ……うぅ……」
「しょうがないなぁ」
彼女はにこっと言うより、にやりと小悪魔(あいつじゃないわよ)ちっくな笑顔を浮かべて、
「お姉さんがリードしないといけないみたいね」
なんてことを言いながら、私のほっぺたにキスをした。
頬に当たるその感覚に、私は目を丸くする。
振り向いた先で、早苗がにこにこ笑って「それじゃ、おやすみなさい」と私にささやいた。
私の方に身を寄せて……というよりは、完全にくっついて、彼女は目を閉じる。
私はしばらくの間、そのまま天井を眺めていた。かちこち聞こえる時計の音が、やけに耳につく。
ふっ、と肩から力が抜ける。
「……そだね。お休み」
私は彼女の方を向いて、その手をぎゅっと握った。
いつも通りに、そうして、彼女の顔を眺めながら、私は眠りについたのだった。
今宵起きましたことは、かくも不思議な異変でございました。
たった一人の少女の心の機微が、あちらこちらで大きな事件を起こしてしまったのでございます。
ちなみに後日談を申し上げますと、その日の夜のことを覚えていたのは、事態を外で眺めていたもの達だけでございました。
これもまた、不思議な事件の一端をなしていると言うことが出来るでしょう。
普段、隠しているものだからこそ、一夜限りの自由を得た。そのたった一夜の自由で、今まで隠されていたものは、精一杯、羽を伸ばして飛び回ったのでございます。そして、それはいじらしいことに、そのたった一夜の自由で満足してしまわれました。
これはやはり、風情を理解しているということが出来ましょう。
一段飛ばしの駆け足よりも、一歩一歩の前進こそが意味あるものだということなのかもしれませぬ。
わたくしめには理解の出来ぬ、とうの昔のいじらしさ。
奇っ怪きわまりますこの異変は、こうして終わりを告げました。
ちなみに翌朝、霊夢は早苗に『お詫び』と称して甘味処に連れて行かされたそうでございます。それを眺めておりましたとある妖怪の立役者は『どうしてこうなのかしら』と、何ともいえない悩みを吐露されたのだとか。
これにて皆様にもいかようなる理由のある異変なのか理解頂けたことでしょう。
こうした不思議も起きるのが、幻想たる所以なればこそ、また同じような事件とならないのも、また不思議の端緒。
さてはて、お話の語り部たるわたくしめの役目もこれにて終わりとなりました。
一夜限りの恋の異変、これにて終幕でございます。
いかがでしたでしょうか。
全き白は遠ざかり、薄桃色の目立つ春が近づいてきたことを感じたことでございましょう。無論、その春が訪れるものと訪れないものとがいるのも、これまた世の理ならば誰の元に春が来るか。結局のところ、誰にもわからないものでございます。
おや、理不尽でございましたでしょうか。
しかしながら、今宵の異変で、その春の足音を聞いたものは確かにいるのもまた事実でございます故、幻想の郷の雪解けも近いものと存じ上げます。
さてそれでは、皆々様方におかれましても、冬に負けず春の足音をお待ち頂きたいと存じ上げます。
春は存外、人と妖のそばに近づいているのかもしれません。
語り手:八雲藍
あと、アリスの人形達も相変わらずなようで。可愛い。
関係無い感想を一つ失礼。
藍様の名前が最後にしか無かったせいか、幕間の語りがカラ○リサーカスのあいつでしか想像できなくなりましたw
むしろ藍様が藤田絵になりました。
勘弁してくれェ……。
みんなちゅっちゅしてしまえ!
もう結婚しちまえよお前らぁぁぁぁぁ!