※いちおう拙作<Bar, On the Border ~Prelude~>の続編となります。
しかし、ゆかりんの思いつきで、人妖の交流という名目で、藍しゃまがバーテンダーをやらされてるのかー、と認識頂ければ問題なく読めます。
―――――
「ねえマスター、聞いてよ」
「聞いていますよ」
Bar, On the Borderは、今日も営業中だ。
あまり客に話しかけることが得意でない、“カクテルメイカー”たりがちな私だが、客の方から関わってもらえることもある。
「ほんとさ、なんでやめないのか全然分かんない。いい加減割り切ればいいのに」
「そう……ですね。まだ詳しいお話は伺っておりませんが」
絡み酒だった。
油断すれば地のしゃべり方が出そうになる、年下の顔見知りは、鈴仙・優曇華院・イナバ
迷いの竹林に居を構える、月からの逃亡者:蓬莱山輝夜・八意永琳両名の配下である。
「だからさ、マスター。薬をやめないの」
「はあ」
「薬に頼ってんのよ。家具屋の旦那は」
「そうですか……」
鈴仙の右手には、空になったコリンズグラスが握られている。
先ほどまでそれを満たしていたのは、ピーチクーラー。
ピーチ・リキュール45mlに、真っ赤なグレナデン・シロップが5ml。
そしてソーダ・アップからのステア。
甘くてさっぱり、シンプルなビルド・カクテルである。
もちろん度数は高くない。
「旦那はさー、まだまだ若旦那って感じなんだけど、きちんと家業を守って、はたから見たら元気そうなのよ」
「はい」
「なのに精神薬と睡眠薬を飲み続けてるの。あれはさ、癖になってるみたいなもんなのよ。身体にもよくないのに、本当にもう!」
家具屋の旦那か。
八雲に連なる3名は、紫様の意向により、今は境界の狭間ではなく、マヨヒガに居を構えている。
だが家具に関しては、相も変わらず外界由来の特殊なものを使っており、電気を使用するものも多い。
故に家具屋に世話になることはあまりないのだが……
……それでも、顔ぐらいは思い浮かぶだろうか?
ふむ、確かに精神薬を服用しなければいけないとは、とても思われない顔が浮かんだ。
それにもし鈴仙の言う通り、強い薬を嗜好品のように服用をしているとすれば、それは適切でない行為と言えるだろう。
しかし……
「といってもお客様も客商売ですから、求められる方に求められるものを販売するのはいたしかたないのでは」
「むー! だから困ってるのよ」
「加えて、お客様の主である八意殿が、無闇に害になる薬を処方するとも思われませんし、そこのところは割り切られては?」
「あーもう、そんなことは分かってるわよ」
全く困ったものだ。
見知った妖怪、それも精神的に年下相手だと、私も饒舌かつ説教臭くなるようだ。
この調子が普段から出せればいいのだが。
いや、これじゃあ精神的な支えというより、諭しになっているから、良くはないか。
鈴仙がやって来たのは、開店間もない日が落ちたばかりの時間だった。
その華奢な身体に似合わない、大きな行李を背負っていたのを見るに、里での薬売りの帰りなのだろう。
永遠亭が病院として機能しだしてしばらく立つが、人里での薬売り、往診も業務の内らしい。
ただ、主治医である永琳が永遠亭を離れられないため、その任は主に鈴仙が担当するところのようだ。
普段の素行は、やや大人しくも真面目で丁寧。
幻想郷には珍しい、師を目標として医学に励むという姿勢も含めて、内心好感を抱いていた。
「むあー……マスター、おかわりー……」
「お客様、大丈夫ですか? あまり遅くなりますと、永遠亭の方が心配しますよ」
「店に入る前にウサミミ無線で連絡したから大丈夫―……」
「さようですか…」
ウサミミ無線……?
まあいい。
この、普段はまさに“いい子”の弱点は、酒に弱いというところにあるようだ。
そういえば宴会の席においても、酔って粗相をする様子を何度か見ている。
師である八意殿にしなだれかかり、その膝元で酔いつぶれる様は、仕える者として如何なものか。
そんなことを遠目に考えたこともあったか。
とにかく、このまま潰れさせておくわけにはいかない。
もしこれから他のお客様の来店があれば、邪魔以外の何者でもない。
私は思考の帰結として、チェイサーを飲ませてお帰り頂く流れを決定する。
そうしてグラスを取り出し氷を詰めるのだが、一方の鈴仙はというと、カウンターに頬を預け、苛立っているのか心地好いのか、判別しかねる溶けきった表情をしていた。
その時だ。
「こんばんは」
「……いらっしゃいませ」
新たなお客様が現れた。
内心で私は、手で額を覆い、困りきった表情を浮かべる。
本当に来店されてしまった。
ああこの、鈴仙の醜態をどうしよう。
しかも来店されたことのないお客様じゃないか。
これでも客の顔は今のところ、全て覚えているのだ。
幻想郷に新しくできたBar。
人妖の交流を目指して開かれたここOn the Borderは、一般的には多くの人にとって馴染みの薄い場所だ。
敷居の高さは、正直のところ否定できない。
それでも、いらっしゃってくれたお客様なのだ。
加えて、九尾の妖狐がマスターを務める店にやってくるような、物怖じしない人間でもある。
とにかく愛想よくご案内しなくては。
そんなことを考えて、私は接客用の特上の笑顔を浮かべる。
しかし巡り合わせとは奇妙なもので、私の予想を遥かに上回っていたのだ。
来店した客の方に、振り向きざまにうろんな視線をむける鈴仙。
最初に反応を示したのは、人間の男性の方だった。
「あ、鈴仙ちゃん……」
「………ん、んんー……、あ、家具屋の旦那!」
まるで仇を見つけたかのように、がばっと起き上がって男性を指差す鈴仙。
これは面倒なことになりそうだ。
いっそのこと、表の札を閉店にしてしまおうか……。
そんなことさえ思った。
「あのさ、旦那さん」
「はい……」
「薬との飲み合わせが悪いから、禁酒だって言われていましたよね?」
「はい……」
「だったら、どうしてお酒を飲む場所に来てるんですか!?」
「ご、ごめん、ちょっと、どうしても飲みたくて」
「医者の指示はそのちょっとも許さないんです!」
目の前で繰り広げられる、普段通りとは言えない光景。
説明すると、以下の通りである。
まず私の左手に座るのは、怒り心頭にウサミミを立てている、鈴仙・優曇華院・イナバである。
とっさにだしたチェイサーを一息に飲み干して、少しは頭は冷えたのか、口調はしっかりしている。
けれど、いまだ動作の隅々まで配慮が行き届いていないのか、先ほどから空のタンブラーグラスの底を、カウンターにコンコン打ちつけているのが非常に気にかかる。
タンブラーにしろカウンターにしろ、そう簡単に傷が入るようなものではないし、あらん限りに叩きつけているわけでもないが、それでもやっぱり止めてほしい。
対する右手には、鈴仙が文句をこぼしていたところの、家具屋の旦那。
家具屋の店先にいるのを見かけたこともあるし、若旦那という言葉のほうが似合いそうな、瑞々しさがある。
一方で、その顔付きにしろ腕回りにしろ、健啖な大人の男の頑丈さがあり、全体的な素朴な印象もあいまって、非常に落ち着いても見える。
しかしその引き締まった身体は、今は緊張いっぱいに、詰め寄らんとばかりの鈴仙に対して、からくも向き合うばかりだ。
その両手は押しとどめるように前に向かって開かれ、上背がある分だけ一層細く見える鈴仙を前にして、奇妙な対照を示している。
「もう、どうしてあなたは……!」
「お、落ち着いて鈴仙ちゃん」
「落ち着いてられません!」
しかしこのままではまずい。
次来るお客様はもとより、このままでは収拾が付かないだろう。
さて、どうするか。
バーテンダーとして、この2人にどのように関わればよいのか。
考えろ。
深入りするでなく、けれど浅すぎず、少しだけ偏向を加えるような……。
「お客様方!」
「……?」
Barの雰囲気にそぐわない、角の残る声色に、2人がこちらを振り向く。
うむ、この注意の惹き方はあまり良くないな。
無粋に過ぎる。
ただ、なんとか小休止をもたらすことはできた。
さて、うまくいくだろうか。
「とりあえずせっかくですから、いっぱい飲まれてください。元気になれるという曰くつきのカクテルをお出ししますので」
「ええ~…」
鈴仙が不満げな声をあげる。
けれど、本題はここからだ。
「お客様、家具屋の旦那様は、何か事情もあるようですし、ご不満があるのでしたら、詳しくお聞きになってはいかがですか? 旦那様も、鈴仙さんはあなたが心配でこのような状態のようですし、思うところを述べられてはいかがでしょう? もちろん、何か精神的に負担となるようでしたら、差し出がましい提案となってしまうわけですが…」
そこまで淀みない口調で一気に話す。
少しのどが疲れて、2人に分からないよう、口を閉じたまま溜息をつく。
これでいいはずだ。
この短時間とはいえ、旦那はそう不適当なことをする大人には見えない。
とすれば、薬を服用することには、何らかの真意があるのだろう。
もしこの推測が正しいとすれば、鈴仙の苛立ちは当にそれを知らないところにあるわけで、これが最良の解決策だろう。
それに旦那は、物腰を見る限り、自分の内面を語るに、そう負担を覚えるというでもなさそうだ。
もちろん、見かけで判断することは時に愚の骨頂となるが、そのときはまた修正を加えればいいこと。
さて、どうなるか。
私は2人の反応を待って、しばし直立する。
「……まあ、旦那が話してくれるなら、とりあえず聞きますけど」
「う~ん……あんまり話して面白い内容じゃないんだけどなぁ。けれど、それで鈴仙ちゃんが納まるんなら」
よし。
柄にも無く、カウンターの後ろで拳を握り締める。
いい流れになった。
後は旦那の話がどうなるか。
藪をつついて蛇が出ないことだけを、今は祈るばかりである。
元気になれるという曰くつきのカクテル。
いわゆるリバイバー・カクテルのことで、迎え酒用のカクテルだ。
もちろん健康にいいというわけではない。
用意するのは冷えたスクーナーグラスに、トマトジュース。
グラスに約半分となるようトマトジュースを注ぎ、ビール・サーバーの取っ手を押して、少しだけ泡の層を作る。
そしてバースプーンでほんの少しだけのステア。
今度は取っ手を手前に引き、ビールを流し込んでゆく。
グラスの角度は斜め45度。
序々に角度を浅くしてゆき、グラスを満たす。
最後にもう一度ステアを行えば、ビールの白い泡に混ざりこむ、トマトジュースの赤い線。
まるで充血した白目のような、レッド・アイの完成だ。
「どうぞ、レッド・アイです」
「へ~……“赤い瞳”かあ…」
自らの特徴でもある、”赤い瞳“の名を持つカクテルに興味を惹かれたのか、まじまじとグラスの中身を見つめる鈴仙。
その間に私は、同じ手順でもう1つレッド・アイを作り、旦那の前へと置いた。
「とりあえず、どうぞ乾杯されてください。この一杯はご馳走しますので」
「え、本当? やった!」
現金なものだ。
鈴仙は先ほどまでの怒りも忘れ、目を細めて嬉しそうに、まるで少女のような表情を浮かべる。
家具屋の旦那の方はと見遣ると、グラスを手にとり、興味深そうに眺めた後、こちらへと顔を向けて、小さく黙礼した。
「でもいかにもな名前の割に、内容は単純なのね」
「ええ………実はそのレッド・アイ、間違いだらけなんですよ」
「え?」
興味を示した鈴仙が、きょとんとした顔をこちらに向ける。
この話は流れとは関係はないが……まあいい、洒落た冗句も思いついたし、話すとするか。
「肝心要の、瞳が浮かんでいないでしょう」
「あー……そうね」
気になって家具屋の旦那の方を見ると、特にというわけではないが、それなりの関心は抱いてくれているようだった。
安心して話を続ける。
「生卵を割りいれるのが、このカクテルの正しいレシピです。そして、グラスを底のほうから見ると、真っ赤な目のように見えるという意味で、レッド・アイと名付けられたそうです」
「へー」
「さらにリバイバー・カクテルとしても、ソース・塩・コショウを混ぜ合わせ、まるでバーテンダーの朝食とばかりに“食す”のが、正しいあり方だそうで」
「うげえ、まずそう」
その通りだ。
別段、ビールのトマトジュース割りとして飲んでもおいしいのだ。
さすがに生卵というのは、いくら正しいレシピだとしても、少々冗談が過ぎるように思われる。
「ええ、ですから外の世界においても、このように単純化したレシピの方が一般的だそうで」
「そりゃそうよね」
「はい。なのでこのレッド・アイは、いわば普通でないレッド・アイ。“Crazy Red Eye”とでも言うべきものでしょうか」
「………」
……おっと、外してしまっただろうか。
鈴仙を最も特徴付ける、狂気の赤い瞳に掛けて、クレイジー・レッド・アイと評してみたのだが。
なお呆けたような表情のまま、動かない鈴仙。
家具屋の旦那はというと、思案げに俯いている。
ううむ……
「凄い!」
「え?」
「マスター、凄く巧いです! 私、なんか感動しちゃいました」
「あ、ああ、左様でしたら、嬉しい限りです」
どうやら私は、この子を見誤っていたらしい。
実に澄んだ反応を返してくれる。
うまいこと冗句が通じ、尻尾が垂れていくのが分かる。
いかんいかん。
カウンター内は広めに作ってあるが、油断すると何を引っ掛けるか分からないのだから。
「それではどうぞ、お飲みください」
「わ~い、いただきます」
「私も頂きます」
2人が同時にグラスを傾け、濃赤色の液体が喉元へと流れ込んでいく。
「おいしい。ビールって苦いから苦手なんですが、これだと甘いんですね」
「はい。その割に喉越しの良さは残りますので、いいとこ取りのカクテルと言えるでしょう」
「トマトだからなんとなく健康に良さそうな気もするしね。そんなことはないだろうけど」
……まあ、少し考えればバレることか。
そんな受け答えをする一方で、私は旦那の様子が気がかりだった。
やや動きの少ない物腰は変わらず、けれど陰りが増したようにも思われる。
もしかするに、本当にアルコールとの飲み合わせが悪いのか。
「狂ったレッド・アイ。本来あるべきもの、必要なものが欠けているけれども、なおうまい、か……」
「? どうしたんですか、旦那さん?」
「いえ、ふとこのカクテルが、私の境遇に似ているような気がしまして」
静かな表情を見せる旦那。
何か心の内を明かすときの、あのどこか他人事のような表情だった。
「実は私、妻に逃げられた身なんですよ」
「………」
「……ほう」
突然の告白。
私はとりあえず相槌を打って、相手の出方を伺うことにした。
鈴仙は事情を知っているのか、居心地が悪いような微妙な表情を浮かべた。
「仲良しの2人が、そのまま一緒にいることを決めてしまったような結婚でしてね。愛し合っていた面もあったと思っているのですが………どうやら妻にはずっと懇意にしていた男性がいたようで」
「……なるほど」
受け応えることが難しい。
女に裏切られていた男、そういう構図か。
こういう関係は少ないわけではないのだ。
親愛の情と恋慕の感情は、近いようで深い隔たりがある。
それを取り違えてしまうことも、混同してそのままにすることもあるかもしれない。
だが、やはり詰まるところは。
「一緒にいて、互いに素の自分でいられるような気安さ。それと男女の関係は違うようです。妻も想いの限り私の傍にいることを選んではくれましたが、最後には、はい。もう1人の男の元へ行ってしまって」
そういうことだ。
どれほど想われようと、大切にされようと、根本的な部分で大切にできないような相手もいる。
かつてそういう出会いもあったから、よくわかる。
本当に、それはそれは悲しいことなのだが…。
「小さい娘もいましてね。けれど今は会えません。寂しいことですよ。まるで本来あるべきものから、必要なものをあれやこれやと抜いてしまったみたいで。だから体調を崩してしまって、精神薬と睡眠薬に頼る日々です」
「………だったら、気持ちを切り替えればいいじゃないですか」
あははと笑う家具屋の旦那への応答は、鈴仙の底冷えしきった樹海のような声だった。
口元に寄せた、両手に握ったスクーナーグラスから、伺うように旦那を横目に睨んでいる。
「旦那さんは、薬をまるで便利な道具のように思っています」
「そんなことは――」
「ほんとは、身体にも良くないんです。好きだとおっしゃる、お酒だってダメです。本当に、飲まないですむなら、飲まなくてもちょっと落ち込むくらいなら、飲まないほうがいいんです」
「………」
「起こってしまったことは、取り返しが付かないじゃないですか。乗り越えるしかないじゃないですか。旦那さん。もう薬に頼るのはやめましょうよ。そんな、軽い気持ちで飲んじゃダメです」
まるで作業を進めるかのように、単調に、けれど蓄積された感情を滲ませながら、鈴仙が語る。
最後のほうは、少しだけ涙ぐんでか、語尾も震えているように感じられた。
それにしても、少々脅迫じみた感さえある語り口は、どうしてだろうか。
ただ家具屋の旦那のことが心配というには、気にしすぎのようも思われた。
「………そりゃあまあ、私だって飲まないで済むならそうしたいですよ」
「だったら…!」
「けれど、失くしたもののあまりの大きさを埋めるためには、こうするしかないんですよ」
納得いかないというように、鈴仙がきっと旦那の方を見遣る。
ほとんどそれは、突き刺そうとしているといってもよいくらいだった。
けれど家具屋の旦那とはいうと、飄々として応えていないようだった。
レッド・アイの濁った紅色のグラスを揺らして、ここで一口、愛おしむように傾ける。
「私が営んでいる家具屋。祖父の代からの引継ぎものですが、妻と娘との思い出が一杯に詰まっています。だから、本当に大切なことだというのに、その行動自体が私の心を蝕んでしまう」
「………」
「それでも、大切な店だから、なんとか続けたいんですよ。医者に続けることは精神的に不可能だと。身を削る結果にしかならないと言われても」
「………」
「ならば、あなたがどうしてもを続けたいというのなら、薬を出して助けましょう、と。あのとき八意さんは言ってくれたんです。身体はもちろん大切です。けれど、もっと大切にしたいことがある。だとすれば、薬を飲むことはいたしかたないと思っています」
「けれど、やっぱり乗り越えないと……」
鈴仙は不満を強烈に表した表情で、グラスを落ちつかなげに握りしめている。
家具屋の旦那が明かした本音は、筋道は立っている。
先ほどのように強硬に反対することは、難しいだろう。
けれど、鈴仙の気持ちもわかる。
気持ちの問題は、やはり本人の捉え方次第ではないだろうか。
私とて、そのような処世術は身に沁みているのだ。
「無理ですよ」
旦那は静かに断言した。
「例え身を削るだけの気持ちとなってしまっても、それでも妻と娘を愛する気持ちは、今も変わらないですから」
「………」
「台所で食事を作るとき、棚の醤油が届かないと背を伸ばす姿。散らかった作業場で、危なっかしく歩き回る落ち着きのなさ。居間の椅子に並んで座ったときに見つめていた、白い肌に映える黒い髪。様々なことを思い出して、辛い気持ちになるんです。それでも、そこで潰れてはいられませんから」
「………」
「実は第三者を通して、娘の養育費も渡していますから、休んでいる暇なんてないですしね」
「分かんない」
穏やかな表情で語り続ける旦那に対し、鈴仙の表情はいまだ固い。
分かり合うことは困難なのか。
どうだろう。
旦那が意図していること。
それを鈴仙が納得するためには、どんな話が必要なのか。
少し、鈴仙の過去と照らし合わせて考えてみる。
「……鈴仙ちゃん」
「なんですか? 旦那さん」
「辛い過去は、忘れて押しやってしまえば、それで乗り越えたとできるわけではないよ」
「!?」
鈴仙が目を見張る。
私が口を挟むまでもなく、旦那は何か落ちどころを見つけたようだった。
「取り返しの付かない過去を忘れ、新たな気持ちで励む。それは大事なこと。けれど、そこで重要なのは、行動ではなく気持ちなんじゃないのかな」
「普通逆ですけどね」
「うん。でも気持ちはあるのに動けないとすれば、動かないことは必要なことなのかもしれない。時には休んだり。時には本当は良くないことにも頼ってみたり」
旦那は予め選んでいたというように、淀みなく話し続ける。
もしかすると、それは何度となく自問自答された内容なのかもしれない。
ただ、ここで重要なことは、鈴仙にとっても納得できる内容を紡げるかということだ。
鈴仙は元:月の玉兎、いわば月の都を守る兵隊だが、そこから脱走して幻想郷にたどり着いた経緯がある。
本人はそのことをいたく気にしており、紫様の月侵攻計画の折には望郷の念も垣間見た。
そんな彼女にとって、過去に見切りをつけ、今を生きることは、非常に重要な価値観なのだろう。
もしかしたら旦那も、そのことを知っているのかもしれない。
けれど鈴仙の区切りの付け方が、至上というわけでもない。
旦那のようなやり方で、過去と向き合っていくこともまた、1つの方法だろう。
だから、
「少なくとも、不完全ながらも、家具屋としては十分にするべきことを果たしているつもりだよ。まるで、“レッド・アイ”のようにね。だとすれば、それでいいんじゃないかと思うわけだよ。過去を割り切って、次に向かって動くときは、気持ちさえしっかりしていれば、自然と来るんじゃないかな」
「………ふ~ん」
「鈴仙ちゃんには、そんな俺が、それこそ鈴仙ちゃんの言うような薬の使い方をしないよう、往診医として見てくれれば嬉しいけどね」
「それは、仕事だから、当然……」
「何はともあれ、そんな向き合い方もあると思うんだよ」
鈴仙は言われたことを反芻しているのか、考え込むような表情。
自身の過去も思い返してか、無表情のうちに少しだけの苦味が混ざっている。
旦那は相変わらず全てを受け入れているかのような波の立たない表情だ。
私はというと、話に聴き入りながら、グラスを拭いていた。
「俺はね、やっぱり立ち止まってでもじっくりと向き合いたいんだよ。失くしたくて失くしたわけでもない。むしろ、不完全ででも取り戻したい。せめて、あの仕事場で、家具を手にすることが楽しいと思えるくらいまでは。そのためには、時間が必要なんだ」
「………はい」
「だから鈴仙ちゃん。やっぱりまだまだ自分には、薬は必要だよ。明るく楽しく仕事をすることに、身体が慣れてしまうまでは。もう一度だけ、大切なものを大切と感じたくなる、その日までは」
旦那はそう言うと、グラスに残った“レッド・アイ”を飲み干した。
これで夜の薬は飲めないです。さてはて、どんな夢を見るやら―――
旦那がぼやいている。
そして、お腹を空かせた子犬のように黙りこくっていた鈴仙が、やっと口を開く。
「………分かりました」
一言。
「旦那さんの気持ち、分かりました。そうですね。そんな風に考えていらしゃったんなら、私からは何も言えないです。きちんとその場で気持ちを切り替えて、頑張るほうが私はいいと思いますけど」
「鈴仙ちゃん……」
そして鈴仙は笑った。
少しの不満が残る、苦笑いにも似たそれは、それが称える慈愛の分だけ、瑞々しい果実のように見えた。
ああそうか、この子はきっと、いろいろと考えて、その先で自身の価値観を選んでいるのだろうな。
そんなことを感じさせる、深みのある表情だった。
私より遥かに年下だというのに。
私は……どうだろうか。
「けれど、お酒はやっぱりダメです! 後一杯ですからね」
「そ、そんなぁ……」
「それに、今日はごちそうしてもらいますから」
「とほほ……」
なんて、家具屋の旦那はおどけて見せつつも、もう次の注文は考えていたらしい。
「本当の、レシピ通りの“レッド・アイ”を2つ」
「ええ!?」
「ここまで来たら飲むしかないよ。マスターさん。出来ますか」
「はい。ただ卵を取ってまいりますので、少々お待ちください」
いちおうある厨房にはあったか…。
しかし。
その実レシピ通りのレッド・アイにも、狂気は潜んでいるのだ。
なぜなら、投じる塩は“クレイジー・ソルト”。
結局のところ私達は、不完全な物事に、気の狂いそうな思いを抱きながら、それでもなお、完全に近いものを目指してもがいているのかもしれない。
完全な式である、私についても、きっと……
Bar, On The Borderのマスターこと私は、今日はバーテンダー足りえただろうか。
少しの不十分さを反省しながら、厨房への扉をくぐった。
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しかし、ゆかりんの思いつきで、人妖の交流という名目で、藍しゃまがバーテンダーをやらされてるのかー、と認識頂ければ問題なく読めます。
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「ねえマスター、聞いてよ」
「聞いていますよ」
Bar, On the Borderは、今日も営業中だ。
あまり客に話しかけることが得意でない、“カクテルメイカー”たりがちな私だが、客の方から関わってもらえることもある。
「ほんとさ、なんでやめないのか全然分かんない。いい加減割り切ればいいのに」
「そう……ですね。まだ詳しいお話は伺っておりませんが」
絡み酒だった。
油断すれば地のしゃべり方が出そうになる、年下の顔見知りは、鈴仙・優曇華院・イナバ
迷いの竹林に居を構える、月からの逃亡者:蓬莱山輝夜・八意永琳両名の配下である。
「だからさ、マスター。薬をやめないの」
「はあ」
「薬に頼ってんのよ。家具屋の旦那は」
「そうですか……」
鈴仙の右手には、空になったコリンズグラスが握られている。
先ほどまでそれを満たしていたのは、ピーチクーラー。
ピーチ・リキュール45mlに、真っ赤なグレナデン・シロップが5ml。
そしてソーダ・アップからのステア。
甘くてさっぱり、シンプルなビルド・カクテルである。
もちろん度数は高くない。
「旦那はさー、まだまだ若旦那って感じなんだけど、きちんと家業を守って、はたから見たら元気そうなのよ」
「はい」
「なのに精神薬と睡眠薬を飲み続けてるの。あれはさ、癖になってるみたいなもんなのよ。身体にもよくないのに、本当にもう!」
家具屋の旦那か。
八雲に連なる3名は、紫様の意向により、今は境界の狭間ではなく、マヨヒガに居を構えている。
だが家具に関しては、相も変わらず外界由来の特殊なものを使っており、電気を使用するものも多い。
故に家具屋に世話になることはあまりないのだが……
……それでも、顔ぐらいは思い浮かぶだろうか?
ふむ、確かに精神薬を服用しなければいけないとは、とても思われない顔が浮かんだ。
それにもし鈴仙の言う通り、強い薬を嗜好品のように服用をしているとすれば、それは適切でない行為と言えるだろう。
しかし……
「といってもお客様も客商売ですから、求められる方に求められるものを販売するのはいたしかたないのでは」
「むー! だから困ってるのよ」
「加えて、お客様の主である八意殿が、無闇に害になる薬を処方するとも思われませんし、そこのところは割り切られては?」
「あーもう、そんなことは分かってるわよ」
全く困ったものだ。
見知った妖怪、それも精神的に年下相手だと、私も饒舌かつ説教臭くなるようだ。
この調子が普段から出せればいいのだが。
いや、これじゃあ精神的な支えというより、諭しになっているから、良くはないか。
鈴仙がやって来たのは、開店間もない日が落ちたばかりの時間だった。
その華奢な身体に似合わない、大きな行李を背負っていたのを見るに、里での薬売りの帰りなのだろう。
永遠亭が病院として機能しだしてしばらく立つが、人里での薬売り、往診も業務の内らしい。
ただ、主治医である永琳が永遠亭を離れられないため、その任は主に鈴仙が担当するところのようだ。
普段の素行は、やや大人しくも真面目で丁寧。
幻想郷には珍しい、師を目標として医学に励むという姿勢も含めて、内心好感を抱いていた。
「むあー……マスター、おかわりー……」
「お客様、大丈夫ですか? あまり遅くなりますと、永遠亭の方が心配しますよ」
「店に入る前にウサミミ無線で連絡したから大丈夫―……」
「さようですか…」
ウサミミ無線……?
まあいい。
この、普段はまさに“いい子”の弱点は、酒に弱いというところにあるようだ。
そういえば宴会の席においても、酔って粗相をする様子を何度か見ている。
師である八意殿にしなだれかかり、その膝元で酔いつぶれる様は、仕える者として如何なものか。
そんなことを遠目に考えたこともあったか。
とにかく、このまま潰れさせておくわけにはいかない。
もしこれから他のお客様の来店があれば、邪魔以外の何者でもない。
私は思考の帰結として、チェイサーを飲ませてお帰り頂く流れを決定する。
そうしてグラスを取り出し氷を詰めるのだが、一方の鈴仙はというと、カウンターに頬を預け、苛立っているのか心地好いのか、判別しかねる溶けきった表情をしていた。
その時だ。
「こんばんは」
「……いらっしゃいませ」
新たなお客様が現れた。
内心で私は、手で額を覆い、困りきった表情を浮かべる。
本当に来店されてしまった。
ああこの、鈴仙の醜態をどうしよう。
しかも来店されたことのないお客様じゃないか。
これでも客の顔は今のところ、全て覚えているのだ。
幻想郷に新しくできたBar。
人妖の交流を目指して開かれたここOn the Borderは、一般的には多くの人にとって馴染みの薄い場所だ。
敷居の高さは、正直のところ否定できない。
それでも、いらっしゃってくれたお客様なのだ。
加えて、九尾の妖狐がマスターを務める店にやってくるような、物怖じしない人間でもある。
とにかく愛想よくご案内しなくては。
そんなことを考えて、私は接客用の特上の笑顔を浮かべる。
しかし巡り合わせとは奇妙なもので、私の予想を遥かに上回っていたのだ。
来店した客の方に、振り向きざまにうろんな視線をむける鈴仙。
最初に反応を示したのは、人間の男性の方だった。
「あ、鈴仙ちゃん……」
「………ん、んんー……、あ、家具屋の旦那!」
まるで仇を見つけたかのように、がばっと起き上がって男性を指差す鈴仙。
これは面倒なことになりそうだ。
いっそのこと、表の札を閉店にしてしまおうか……。
そんなことさえ思った。
「あのさ、旦那さん」
「はい……」
「薬との飲み合わせが悪いから、禁酒だって言われていましたよね?」
「はい……」
「だったら、どうしてお酒を飲む場所に来てるんですか!?」
「ご、ごめん、ちょっと、どうしても飲みたくて」
「医者の指示はそのちょっとも許さないんです!」
目の前で繰り広げられる、普段通りとは言えない光景。
説明すると、以下の通りである。
まず私の左手に座るのは、怒り心頭にウサミミを立てている、鈴仙・優曇華院・イナバである。
とっさにだしたチェイサーを一息に飲み干して、少しは頭は冷えたのか、口調はしっかりしている。
けれど、いまだ動作の隅々まで配慮が行き届いていないのか、先ほどから空のタンブラーグラスの底を、カウンターにコンコン打ちつけているのが非常に気にかかる。
タンブラーにしろカウンターにしろ、そう簡単に傷が入るようなものではないし、あらん限りに叩きつけているわけでもないが、それでもやっぱり止めてほしい。
対する右手には、鈴仙が文句をこぼしていたところの、家具屋の旦那。
家具屋の店先にいるのを見かけたこともあるし、若旦那という言葉のほうが似合いそうな、瑞々しさがある。
一方で、その顔付きにしろ腕回りにしろ、健啖な大人の男の頑丈さがあり、全体的な素朴な印象もあいまって、非常に落ち着いても見える。
しかしその引き締まった身体は、今は緊張いっぱいに、詰め寄らんとばかりの鈴仙に対して、からくも向き合うばかりだ。
その両手は押しとどめるように前に向かって開かれ、上背がある分だけ一層細く見える鈴仙を前にして、奇妙な対照を示している。
「もう、どうしてあなたは……!」
「お、落ち着いて鈴仙ちゃん」
「落ち着いてられません!」
しかしこのままではまずい。
次来るお客様はもとより、このままでは収拾が付かないだろう。
さて、どうするか。
バーテンダーとして、この2人にどのように関わればよいのか。
考えろ。
深入りするでなく、けれど浅すぎず、少しだけ偏向を加えるような……。
「お客様方!」
「……?」
Barの雰囲気にそぐわない、角の残る声色に、2人がこちらを振り向く。
うむ、この注意の惹き方はあまり良くないな。
無粋に過ぎる。
ただ、なんとか小休止をもたらすことはできた。
さて、うまくいくだろうか。
「とりあえずせっかくですから、いっぱい飲まれてください。元気になれるという曰くつきのカクテルをお出ししますので」
「ええ~…」
鈴仙が不満げな声をあげる。
けれど、本題はここからだ。
「お客様、家具屋の旦那様は、何か事情もあるようですし、ご不満があるのでしたら、詳しくお聞きになってはいかがですか? 旦那様も、鈴仙さんはあなたが心配でこのような状態のようですし、思うところを述べられてはいかがでしょう? もちろん、何か精神的に負担となるようでしたら、差し出がましい提案となってしまうわけですが…」
そこまで淀みない口調で一気に話す。
少しのどが疲れて、2人に分からないよう、口を閉じたまま溜息をつく。
これでいいはずだ。
この短時間とはいえ、旦那はそう不適当なことをする大人には見えない。
とすれば、薬を服用することには、何らかの真意があるのだろう。
もしこの推測が正しいとすれば、鈴仙の苛立ちは当にそれを知らないところにあるわけで、これが最良の解決策だろう。
それに旦那は、物腰を見る限り、自分の内面を語るに、そう負担を覚えるというでもなさそうだ。
もちろん、見かけで判断することは時に愚の骨頂となるが、そのときはまた修正を加えればいいこと。
さて、どうなるか。
私は2人の反応を待って、しばし直立する。
「……まあ、旦那が話してくれるなら、とりあえず聞きますけど」
「う~ん……あんまり話して面白い内容じゃないんだけどなぁ。けれど、それで鈴仙ちゃんが納まるんなら」
よし。
柄にも無く、カウンターの後ろで拳を握り締める。
いい流れになった。
後は旦那の話がどうなるか。
藪をつついて蛇が出ないことだけを、今は祈るばかりである。
元気になれるという曰くつきのカクテル。
いわゆるリバイバー・カクテルのことで、迎え酒用のカクテルだ。
もちろん健康にいいというわけではない。
用意するのは冷えたスクーナーグラスに、トマトジュース。
グラスに約半分となるようトマトジュースを注ぎ、ビール・サーバーの取っ手を押して、少しだけ泡の層を作る。
そしてバースプーンでほんの少しだけのステア。
今度は取っ手を手前に引き、ビールを流し込んでゆく。
グラスの角度は斜め45度。
序々に角度を浅くしてゆき、グラスを満たす。
最後にもう一度ステアを行えば、ビールの白い泡に混ざりこむ、トマトジュースの赤い線。
まるで充血した白目のような、レッド・アイの完成だ。
「どうぞ、レッド・アイです」
「へ~……“赤い瞳”かあ…」
自らの特徴でもある、”赤い瞳“の名を持つカクテルに興味を惹かれたのか、まじまじとグラスの中身を見つめる鈴仙。
その間に私は、同じ手順でもう1つレッド・アイを作り、旦那の前へと置いた。
「とりあえず、どうぞ乾杯されてください。この一杯はご馳走しますので」
「え、本当? やった!」
現金なものだ。
鈴仙は先ほどまでの怒りも忘れ、目を細めて嬉しそうに、まるで少女のような表情を浮かべる。
家具屋の旦那の方はと見遣ると、グラスを手にとり、興味深そうに眺めた後、こちらへと顔を向けて、小さく黙礼した。
「でもいかにもな名前の割に、内容は単純なのね」
「ええ………実はそのレッド・アイ、間違いだらけなんですよ」
「え?」
興味を示した鈴仙が、きょとんとした顔をこちらに向ける。
この話は流れとは関係はないが……まあいい、洒落た冗句も思いついたし、話すとするか。
「肝心要の、瞳が浮かんでいないでしょう」
「あー……そうね」
気になって家具屋の旦那の方を見ると、特にというわけではないが、それなりの関心は抱いてくれているようだった。
安心して話を続ける。
「生卵を割りいれるのが、このカクテルの正しいレシピです。そして、グラスを底のほうから見ると、真っ赤な目のように見えるという意味で、レッド・アイと名付けられたそうです」
「へー」
「さらにリバイバー・カクテルとしても、ソース・塩・コショウを混ぜ合わせ、まるでバーテンダーの朝食とばかりに“食す”のが、正しいあり方だそうで」
「うげえ、まずそう」
その通りだ。
別段、ビールのトマトジュース割りとして飲んでもおいしいのだ。
さすがに生卵というのは、いくら正しいレシピだとしても、少々冗談が過ぎるように思われる。
「ええ、ですから外の世界においても、このように単純化したレシピの方が一般的だそうで」
「そりゃそうよね」
「はい。なのでこのレッド・アイは、いわば普通でないレッド・アイ。“Crazy Red Eye”とでも言うべきものでしょうか」
「………」
……おっと、外してしまっただろうか。
鈴仙を最も特徴付ける、狂気の赤い瞳に掛けて、クレイジー・レッド・アイと評してみたのだが。
なお呆けたような表情のまま、動かない鈴仙。
家具屋の旦那はというと、思案げに俯いている。
ううむ……
「凄い!」
「え?」
「マスター、凄く巧いです! 私、なんか感動しちゃいました」
「あ、ああ、左様でしたら、嬉しい限りです」
どうやら私は、この子を見誤っていたらしい。
実に澄んだ反応を返してくれる。
うまいこと冗句が通じ、尻尾が垂れていくのが分かる。
いかんいかん。
カウンター内は広めに作ってあるが、油断すると何を引っ掛けるか分からないのだから。
「それではどうぞ、お飲みください」
「わ~い、いただきます」
「私も頂きます」
2人が同時にグラスを傾け、濃赤色の液体が喉元へと流れ込んでいく。
「おいしい。ビールって苦いから苦手なんですが、これだと甘いんですね」
「はい。その割に喉越しの良さは残りますので、いいとこ取りのカクテルと言えるでしょう」
「トマトだからなんとなく健康に良さそうな気もするしね。そんなことはないだろうけど」
……まあ、少し考えればバレることか。
そんな受け答えをする一方で、私は旦那の様子が気がかりだった。
やや動きの少ない物腰は変わらず、けれど陰りが増したようにも思われる。
もしかするに、本当にアルコールとの飲み合わせが悪いのか。
「狂ったレッド・アイ。本来あるべきもの、必要なものが欠けているけれども、なおうまい、か……」
「? どうしたんですか、旦那さん?」
「いえ、ふとこのカクテルが、私の境遇に似ているような気がしまして」
静かな表情を見せる旦那。
何か心の内を明かすときの、あのどこか他人事のような表情だった。
「実は私、妻に逃げられた身なんですよ」
「………」
「……ほう」
突然の告白。
私はとりあえず相槌を打って、相手の出方を伺うことにした。
鈴仙は事情を知っているのか、居心地が悪いような微妙な表情を浮かべた。
「仲良しの2人が、そのまま一緒にいることを決めてしまったような結婚でしてね。愛し合っていた面もあったと思っているのですが………どうやら妻にはずっと懇意にしていた男性がいたようで」
「……なるほど」
受け応えることが難しい。
女に裏切られていた男、そういう構図か。
こういう関係は少ないわけではないのだ。
親愛の情と恋慕の感情は、近いようで深い隔たりがある。
それを取り違えてしまうことも、混同してそのままにすることもあるかもしれない。
だが、やはり詰まるところは。
「一緒にいて、互いに素の自分でいられるような気安さ。それと男女の関係は違うようです。妻も想いの限り私の傍にいることを選んではくれましたが、最後には、はい。もう1人の男の元へ行ってしまって」
そういうことだ。
どれほど想われようと、大切にされようと、根本的な部分で大切にできないような相手もいる。
かつてそういう出会いもあったから、よくわかる。
本当に、それはそれは悲しいことなのだが…。
「小さい娘もいましてね。けれど今は会えません。寂しいことですよ。まるで本来あるべきものから、必要なものをあれやこれやと抜いてしまったみたいで。だから体調を崩してしまって、精神薬と睡眠薬に頼る日々です」
「………だったら、気持ちを切り替えればいいじゃないですか」
あははと笑う家具屋の旦那への応答は、鈴仙の底冷えしきった樹海のような声だった。
口元に寄せた、両手に握ったスクーナーグラスから、伺うように旦那を横目に睨んでいる。
「旦那さんは、薬をまるで便利な道具のように思っています」
「そんなことは――」
「ほんとは、身体にも良くないんです。好きだとおっしゃる、お酒だってダメです。本当に、飲まないですむなら、飲まなくてもちょっと落ち込むくらいなら、飲まないほうがいいんです」
「………」
「起こってしまったことは、取り返しが付かないじゃないですか。乗り越えるしかないじゃないですか。旦那さん。もう薬に頼るのはやめましょうよ。そんな、軽い気持ちで飲んじゃダメです」
まるで作業を進めるかのように、単調に、けれど蓄積された感情を滲ませながら、鈴仙が語る。
最後のほうは、少しだけ涙ぐんでか、語尾も震えているように感じられた。
それにしても、少々脅迫じみた感さえある語り口は、どうしてだろうか。
ただ家具屋の旦那のことが心配というには、気にしすぎのようも思われた。
「………そりゃあまあ、私だって飲まないで済むならそうしたいですよ」
「だったら…!」
「けれど、失くしたもののあまりの大きさを埋めるためには、こうするしかないんですよ」
納得いかないというように、鈴仙がきっと旦那の方を見遣る。
ほとんどそれは、突き刺そうとしているといってもよいくらいだった。
けれど家具屋の旦那とはいうと、飄々として応えていないようだった。
レッド・アイの濁った紅色のグラスを揺らして、ここで一口、愛おしむように傾ける。
「私が営んでいる家具屋。祖父の代からの引継ぎものですが、妻と娘との思い出が一杯に詰まっています。だから、本当に大切なことだというのに、その行動自体が私の心を蝕んでしまう」
「………」
「それでも、大切な店だから、なんとか続けたいんですよ。医者に続けることは精神的に不可能だと。身を削る結果にしかならないと言われても」
「………」
「ならば、あなたがどうしてもを続けたいというのなら、薬を出して助けましょう、と。あのとき八意さんは言ってくれたんです。身体はもちろん大切です。けれど、もっと大切にしたいことがある。だとすれば、薬を飲むことはいたしかたないと思っています」
「けれど、やっぱり乗り越えないと……」
鈴仙は不満を強烈に表した表情で、グラスを落ちつかなげに握りしめている。
家具屋の旦那が明かした本音は、筋道は立っている。
先ほどのように強硬に反対することは、難しいだろう。
けれど、鈴仙の気持ちもわかる。
気持ちの問題は、やはり本人の捉え方次第ではないだろうか。
私とて、そのような処世術は身に沁みているのだ。
「無理ですよ」
旦那は静かに断言した。
「例え身を削るだけの気持ちとなってしまっても、それでも妻と娘を愛する気持ちは、今も変わらないですから」
「………」
「台所で食事を作るとき、棚の醤油が届かないと背を伸ばす姿。散らかった作業場で、危なっかしく歩き回る落ち着きのなさ。居間の椅子に並んで座ったときに見つめていた、白い肌に映える黒い髪。様々なことを思い出して、辛い気持ちになるんです。それでも、そこで潰れてはいられませんから」
「………」
「実は第三者を通して、娘の養育費も渡していますから、休んでいる暇なんてないですしね」
「分かんない」
穏やかな表情で語り続ける旦那に対し、鈴仙の表情はいまだ固い。
分かり合うことは困難なのか。
どうだろう。
旦那が意図していること。
それを鈴仙が納得するためには、どんな話が必要なのか。
少し、鈴仙の過去と照らし合わせて考えてみる。
「……鈴仙ちゃん」
「なんですか? 旦那さん」
「辛い過去は、忘れて押しやってしまえば、それで乗り越えたとできるわけではないよ」
「!?」
鈴仙が目を見張る。
私が口を挟むまでもなく、旦那は何か落ちどころを見つけたようだった。
「取り返しの付かない過去を忘れ、新たな気持ちで励む。それは大事なこと。けれど、そこで重要なのは、行動ではなく気持ちなんじゃないのかな」
「普通逆ですけどね」
「うん。でも気持ちはあるのに動けないとすれば、動かないことは必要なことなのかもしれない。時には休んだり。時には本当は良くないことにも頼ってみたり」
旦那は予め選んでいたというように、淀みなく話し続ける。
もしかすると、それは何度となく自問自答された内容なのかもしれない。
ただ、ここで重要なことは、鈴仙にとっても納得できる内容を紡げるかということだ。
鈴仙は元:月の玉兎、いわば月の都を守る兵隊だが、そこから脱走して幻想郷にたどり着いた経緯がある。
本人はそのことをいたく気にしており、紫様の月侵攻計画の折には望郷の念も垣間見た。
そんな彼女にとって、過去に見切りをつけ、今を生きることは、非常に重要な価値観なのだろう。
もしかしたら旦那も、そのことを知っているのかもしれない。
けれど鈴仙の区切りの付け方が、至上というわけでもない。
旦那のようなやり方で、過去と向き合っていくこともまた、1つの方法だろう。
だから、
「少なくとも、不完全ながらも、家具屋としては十分にするべきことを果たしているつもりだよ。まるで、“レッド・アイ”のようにね。だとすれば、それでいいんじゃないかと思うわけだよ。過去を割り切って、次に向かって動くときは、気持ちさえしっかりしていれば、自然と来るんじゃないかな」
「………ふ~ん」
「鈴仙ちゃんには、そんな俺が、それこそ鈴仙ちゃんの言うような薬の使い方をしないよう、往診医として見てくれれば嬉しいけどね」
「それは、仕事だから、当然……」
「何はともあれ、そんな向き合い方もあると思うんだよ」
鈴仙は言われたことを反芻しているのか、考え込むような表情。
自身の過去も思い返してか、無表情のうちに少しだけの苦味が混ざっている。
旦那は相変わらず全てを受け入れているかのような波の立たない表情だ。
私はというと、話に聴き入りながら、グラスを拭いていた。
「俺はね、やっぱり立ち止まってでもじっくりと向き合いたいんだよ。失くしたくて失くしたわけでもない。むしろ、不完全ででも取り戻したい。せめて、あの仕事場で、家具を手にすることが楽しいと思えるくらいまでは。そのためには、時間が必要なんだ」
「………はい」
「だから鈴仙ちゃん。やっぱりまだまだ自分には、薬は必要だよ。明るく楽しく仕事をすることに、身体が慣れてしまうまでは。もう一度だけ、大切なものを大切と感じたくなる、その日までは」
旦那はそう言うと、グラスに残った“レッド・アイ”を飲み干した。
これで夜の薬は飲めないです。さてはて、どんな夢を見るやら―――
旦那がぼやいている。
そして、お腹を空かせた子犬のように黙りこくっていた鈴仙が、やっと口を開く。
「………分かりました」
一言。
「旦那さんの気持ち、分かりました。そうですね。そんな風に考えていらしゃったんなら、私からは何も言えないです。きちんとその場で気持ちを切り替えて、頑張るほうが私はいいと思いますけど」
「鈴仙ちゃん……」
そして鈴仙は笑った。
少しの不満が残る、苦笑いにも似たそれは、それが称える慈愛の分だけ、瑞々しい果実のように見えた。
ああそうか、この子はきっと、いろいろと考えて、その先で自身の価値観を選んでいるのだろうな。
そんなことを感じさせる、深みのある表情だった。
私より遥かに年下だというのに。
私は……どうだろうか。
「けれど、お酒はやっぱりダメです! 後一杯ですからね」
「そ、そんなぁ……」
「それに、今日はごちそうしてもらいますから」
「とほほ……」
なんて、家具屋の旦那はおどけて見せつつも、もう次の注文は考えていたらしい。
「本当の、レシピ通りの“レッド・アイ”を2つ」
「ええ!?」
「ここまで来たら飲むしかないよ。マスターさん。出来ますか」
「はい。ただ卵を取ってまいりますので、少々お待ちください」
いちおうある厨房にはあったか…。
しかし。
その実レシピ通りのレッド・アイにも、狂気は潜んでいるのだ。
なぜなら、投じる塩は“クレイジー・ソルト”。
結局のところ私達は、不完全な物事に、気の狂いそうな思いを抱きながら、それでもなお、完全に近いものを目指してもがいているのかもしれない。
完全な式である、私についても、きっと……
Bar, On The Borderのマスターこと私は、今日はバーテンダー足りえただろうか。
少しの不十分さを反省しながら、厨房への扉をくぐった。
★
男性?
素晴らしかったです
偶にはちょっとくらい立ち止まって……一杯やりたいですね。
「東方に酒の絡んだ話」じゃなくて、「酒の絡んだ話に東方を無理矢理当て嵌めた」と感じてしまう。
重ねて言うけど「お話」としては悪くない。久しぶりにレモンハートを思い出した。
でも、「東方のSS」としては欠陥品だと思う。
個人の想像の幅がある東方キャラであるからこそ、話の中のキャラを上手い具合に思い浮かべられるのだと思う
そういったあり得ない組み合わせすら、書き手の発想で
生まれる東方が私は好きなのですが…
人間よりも遥かに寿命の長い妖怪が、人から何かを教わる。
紫の目指した通りのバーになっているようで続きが楽しみです
こういう話があってもいいかも、と思えるのが
ここ東方創想話のいいところですよね・・!
藍様大好きなのでまたまた続きがみたいです
モフモフサービス受けれるくらい常連になるくらいSSの続きがみたいです
やっぱりキャラ愛とかあるから東方のSSでやっていただけると
すごくうれしいですっ
何が正しいのかはわからない,難しい話ですね。
藍様も鈴仙たちの話をうまく誘導するとは,ちょっぴり成長しましたねw
そして藍様のかつてあった出会いとは何なのか・・・ワクワクですw
酒と東方が大好きな自分はこの作品のシリーズに病み付きです~
それにしても、貴方様の描く幻想郷の男性は女性関係に関してはものすごく不憫ですなぁw
だが、そこから生まれるストーリーがこれまたいいもんですな!
心が動かない時は休む時、か……
ずいぶん長く休んでしまって、最近はこのままでいいのかと焦る日々ですが;
自分の状況とも重なって、大変揺さぶられました。
また、来店させていただきます。
SSと違って、原作のキャラを大切にしてるし東方の特徴である人妖の
触れ合いを書いてる点で東方に相応しい。
ただ少しでも独り善がりになったりキャラ崩壊させてしまうと途端に
東方から外れてしまうから、こういうキャラだけで物語を作り上げて行く
作品は難しいと思う。
でもファンとしてはギリギリのバランスを上手く見極めながら今後も続けて
言って欲しい。
この作品に東方でやる必要性を疑問視することは非常に
センスがない行為ですねえ。
今回もまたちょっぴりほろ苦い幻想郷をごちそうさまでした。
そのぶんが二十点減点(?)です
いや、別に東方キャラが不幸な世界を健気に生きているところを見たいわけではありませんとも、ええ、ええ。
はぁ……はぁ……夫に逃げられた鈴仙とかすげぇ興奮する……。
しかし、それはそれでそのキャラのファンが反感を持つのでしょうし、大変難しい
作者さんのやりたいバランスでやるのが一番なのだと僕は思います、だからこの二十点は諦めてしまってくださいお願いします、という感じです
話はとてもよかったです、お酒の衒学と上手くからみ合っておりました
これからも頑張ってください
~Prelude~ と合わせて拝読させていただきましたが、この雰囲気は素晴らしいです。カクテルを作る際の描写が丁寧で、藍様の姿が自然と脳内再生されました。さらに、カクテル選びのセンスがまた素晴らしい。トリニティしかり、レッド・アイしかり、脱帽ものです。
藍様の精神修行… 今後の展開にも期待させていただきます。
さて大好きな作品ですから"東方の必要性"について私として思うところを一つ。物語は観測者無しでは成り立たず、観測者の数だけ物語がある。です。だから人それぞれの東方があって、さらにそれから創られる二次創作も様々なのだと。
要約すると、私個人としてはこの物語はこの物語だからこそ最高です。ですからこの道を頑張って下さい!作者様の東方をどうぞ貫いて下さい!。
トマトジュースのように甘い鈴仙の優しさと苦みが上手く調和していて、すっきりと、だけど何か残るような味わいがありました。
面白かったです。