地底に朝は無い。
そして夜も無い。
常に暗く、そして冥い。
文字通り奈落へと繋がる縦穴は、大きく深い。
湿り気を帯びた空気は、一切の風も無く澱んでいた。
此処は旧地獄、地底へと続く深道。その途中には河すら無いにも拘らず一本の橋が架かっている。その橋の上には幾つもの篝火が置かれ、擬宝珠を乗せた朱塗りの欄干が明々と照らし出されていた。その橋の半ばには張出しが設けられている。
そして其処には何時もひとりの妖怪が座っている。
この妖怪がこの場所に居る事は地底の住人なら誰でも知っている事だ。たとえその場所に座っていなかったとしても、大抵欄干の別の場所に腰掛けているか、橋の近くをふらふらと散歩代わりに飛び回っているか、其れ位である。
ほんの偶に、旧都に買い物に行く事も有るが、其れも年に数える程度でしかない。
人を模した化生には、美形が多い。
しかも其れが力の強い、女性の妖怪ならば文字通り人外の美形である事が殆どである。
妖怪の定位置である橋の張出しには、色鮮やかな模様が精緻に編まれた敷物が広げられ、その上に置かれた長椅子と小卓は、幻想郷では珍しい中東を思わせる艶やかな意匠である。
金と銀の糸を混ぜ合わせた様な色の薄い金髪は、光の加減によっては若草の様な緑色の光を時折魅せていた。生まれて一度も日の光に焼かれたことが無い様な肌は、白磁を思わせる程にきめ細かい。肘掛に預けられた腕から伸びる指先は余計な肉付きは一切無く、其れで居て女性らしい柔らかさを損なう事は全く無かった。
その手に載せられた顎はすらりと細く、指が触れる口元は儚げな程に小さい。ほっそりとした鼻筋と高過ぎない鼻は、ほんのりと色付く唇の淡紅色と相俟って、可憐な印象を与えていた。
切れ長の双眸は色の薄い睫毛が彼女の高貴さを表している様に伸び、其の奥の瞳は鮮やかな緑色がまるで翠玉の様に輝いている。それはまるで銀細工の様な美しさだった。
そして其の緑色こそが、彼女が人にあらざる化生である事を示していた。
水橋パルスィは物憂げに半身を肘掛に傾け、右手に持った水煙管の吸い口を咥えた。
水の入った硝子の容器が、こぽこぽと音を立てて白い煙を吸い込む。
子供の背丈ほどもある大きな水煙管は良く手入れの行き届いた年季が入った物だった、其の上に乗せられた炭が微かに動き、聞こえない程度の音を立てた。
桜の花弁を思わせるパルスィの口元から、絹糸を思わせる白い息が糸の様にゆっくりと吐かれる。
解き放たれた炊煙は風の無い地底の空中を彷徨いながら、そろそろと迷う様に、高い所に昇って行った。
まるで地上を目指す様に。
しかし所詮煙である、五尺も往かずに文字通りほの暗い深道の闇に消え去った。
あとには何も残らない。
パルスィは茫と消えていった炊煙の方を眺めたまま、暫く動かなかった。
その先は暗くて此処から見える事は決して無いが、地上への道が続いている。湛えられた闇の向こうには、果てしなく広がる青空と煌々と輝く太陽が有る筈だ。
しかし彼女の緑色をした瞳に映るのは、醜くざらついた岩肌と、陰鬱な闇だけである。
ふう、ともう一度煙を吐く。
白煙はやはり大した高さにも往かず暗黒の中に消散した。
パルスィは、其れをずうっと、見詰めていた。
此処は地上の際にして地底の縁、端と端を結ぶ橋。
地底に沈む宇治の橋が三之間、幻想郷の橋姫が在す地所。
水橋パルスィが居所である。
■■■■■■■■■■■■■■■■
篝火の薪の音以外は時たま水煙管の音が混じる他、しじまに包まれた場所に、遠くから声が聞こえてきた。
先の間欠泉騒動の際、緩和された協定により、其れまでは一切が禁じられていた地上と地底の出入りが条件付ではあるが許される様になっていた。
元々地上に嫌気が差して地底に籠もった様な妖怪達は兎も角、止むに止まれぬ事情で地底に移り住んだ妖怪達の中には、やはり地上の空気が恋しいのかほんの暫くでもと、地上に向かう連中も少なくなかった。
無論地上で問題でも起こせばその僅かな機会も昔の如く奪われる。地上に出ようとする妖怪達には地霊殿を伝い閻魔からきつく注意を発せられていた。
その甲斐も有ってか、今の所地底の妖怪が地上で再び問題を起こすような事は起こっては居なかった。
声の主は暫くすると見えて来た。未だ妖怪としては年若い狒々だろうか、あるいはその眷属であろう、人獣を食い散らす凶暴な気性の妖怪である。
どうやら男女の一組ではあるが夫婦という訳でも無い様だ。久方振りの地上に思いを馳せてか浮かれている様だった。
特に男の方がこれ以上無い程はしゃぎ騒いでいた。女の方も満更ではない様で、大声で会話を交わしながら互いに飛んでいた。
地上に出るには必ずこの橋を通らなければならない。地上との出入りが禁じられていた頃は此処に近付く者も居なかったが、近頃はこういった輩が少なくなかった。
パルスィの形良い眉が僅かに顰められる。
精緻な彫刻が施された水煙管の吸い口は、木と真鍮で作られている。本来ならば中に唾液が入った時などは布に軽く叩く程度なのだが、パルスィはホースの付いている側を手元に持ち替えると、橋の欄干に叩き付けた。
元々殆ど音の無い場所である。騒いでいた妖怪の二人組が驚いて会話を止めるほど、その音は響き渡った。
妖怪の二人は、其れまでパルスィの存在にも気付いていなかった様だった。
音の元を見付け、ぎょっと目を剥いた。
パルスィはその緑色の瞳で、年若い妖怪達を睨み付ける。彼女の整い過ぎた美貌と、妖怪としての格から、それはぞっとする様な恐ろしさを仄めかせていた。
「…………二人で地上にお出掛けかしら?」
その声に男の方か慌てて頭を下げる。
「は、はい! 水橋様には御挨拶が遅れまして、大変失礼致しました!」
女の方は怯える様に、男の陰に隠れながら頭を下げる。どうやらこの男、其れ位の甲斐性は有るらしい。確か狒々の一族の中堅所、力自慢の夫婦が生んだ子の五番目の筈である、親に似ず狒々の中では頭が回る。女の方は頭領筋の末っ子だった筈だ、此処まで連れ合ってきたのだ、親公認の仲である事は間違い無い。
「…………上の許しは、得ているのかしら?」
「それはもう! 頭領より、三日ほどの許しをきちんと貰っております!」
「そう…………」
パルスィは再び持ち直した吸い口を咥えると、悠然と一口喫む。
男の妖怪は怯えを隠せずに、一刻も早くこの場から立ち去りたいとパルスィの顔色を伺う。
当然であろう、狒々の頭領でもパルスィには敵わないのだ。伊達に水神の一柱に数えられている訳ではない。たとえ妖神であっても、神は神だ。
パルスィは仕草だけで其れを許した。そうして、まるで逃げる様に慌ててその場から立ち去る二人に声を掛けた。
「お気を付けなさいな、当代の博麗は其れはもう強暴よ。更には新しい神社の巫女も妖怪狩りが趣味らしいし…………。余計な気を起こすと帰って来られるかどうか…………精々大人しくしてなさい」
二人組は恨めしげにパルスィを振り返る。
楽しみにしていた所に冷水を振り掛けられたも同然である、其れも止むを得まい。
二人は先程までとは正反対に、すっかり気が萎えた神妙な様子で縦穴を上って行った。
其れが見えなくなるまで見送ると、パルスィはぽつりと呟いた。
「…………お気を付けなさい」
そうして又、水煙管に口を付けた。
こぽこぽ、と水煙管が音を立てる。地底に移り住んで以来の、パルスィの愛用品である。
深い緑色をした硝子の器には格子を表した模様が誂えられている。その上に伸びる胴は真鍮製、表面の彫刻は蛇の様な紋様が精密に刻まれていた。頭部のボウルは大振り、その気になれば半日近くそのままで楽しめるサイズである。
音も無く熾る頭部の炭が、周りの空気を揺らしている。硝子に透ける器の中では、水面の上一杯に白煙が静かに踊っていた。
背凭れに身体を預け、だらしなく足を投げ出す。其の侭かくん、と頤を天に向けた。
視界にはどこまでも続くかの様な漆黒の闇が、陰鬱に湿った岩肌を伝って伸びていた。
もうあの二人は地上に着いた頃だろうか、此処から知る術は無い。
パルスィの人あらざる異形の耳が、ひくりと動いた。重たげに頭を正面に戻す。
「…………今日は騒がしいわね」
地底に向かう方の闇をすかし見ながら、平坦な口調のまま呟いた。
視線の先には、暫くすると一組の妖怪が現れた。
先程の二人とは違い、何とも対照的な二人組だった。
橋の上を、此方に向かい先に歩いて来るのは小柄な女妖怪だった。紫のショートカットの髪は手入れを忘れた様に方々が跳ね、その隙間から覗く眼つきは眠たげにも見える。身を締める事の無いゆったりとした服と良い、寝起きのままの様な雰囲気である。彼女が妖怪である証左として、胸の前、心臓の位置にぎょろりとした目の玉が浮かんでいた。其れは彼女の顔に付いている本来の目と違い、如何にも爛々と此方をねめつけていた。
その数歩後ろに付いている妖怪も、どうやら女性の様だった。しかしその身の丈は前を歩く女性の倍近いのではないだろうか。身体の線が良く判る薄着の為、その極めて女性的な体型を見なければ男性と見間違え兼ねない長身である。彼女が人外である事は一目瞭然だった、はっきりとした目鼻立ちの健康的な美人の額には、派手な色の角が一本、力強く伸びていた。
「お早う御座います、パルスィさん」
先を歩いてきた小柄な方が、立ち止まって挨拶してきた。
「…………もう昼も回っていますが…………何でも昼夜関係無く働く人間達の間では、時間に関係無く“お早う御座います”と挨拶するそうです」
「……………………」
「…………外の世界の話らしいですよ? うちのペットが聞いてきまして…………はい、黒猫のその子です」
「ちょっと手伝ってくれない? この長椅子を退かして欲しいのだけれど」
「あいよ」
一人で喋り続ける手前の妖怪を無視するかの様に、椅子から立ち上がりながら後ろの大柄な妖怪に話し掛けるパルスィ。その妖怪も気にする事無く答えた。
「…………ああ、お構いなく。……いえ、有難う御座います。手伝います」
長椅子の下には来客用のクッションと脇息が納められていた。其れを知っていたかの様に、一人話し続ける妖怪が取り出して並べる。
程無く三人は柔らかな絨毯の上に座り込んだ。
ちらりとパルスィは大柄な妖怪の方を見た。その妖怪は其れに気付き、笑いながら口を開いた。
「ああ、私はさとりの護衛役だよ。立場的にも一人で出歩かせる訳には行かないからね」
其れに答えようと口を開きかけたパルスィより先に、もう一人の妖怪が答えた。
「…………勇儀さんまで心を読まなくて宜しいそうですよ」
「おお、そいつは悪かった、水橋の」
来訪者は地底の管理を任された地霊殿の主、古明地さとりと、地底の妖怪のまとめ役である鬼の一族の更にまとめ役と言える星熊勇儀だった。
パルスィは呟く様な小声のまま、話す。
「…………茶は出さないわよ、用意していないもの」
「いえ、丁度予定が空きまして…………勇儀さんにお願い出来そうだったので少し見回りがてら顔を見に来ただけですので…………いえ、本当にお構いなく。はい、勇儀さんも手土産も無い事は気にしていらっしゃいましたので…………え? 麦の蒸留酒が……はい、手に入ったそうですから…………ええ、近いうちに、私からも肴を提供致します、はい」
さとりが一人喋り続ける中、パルスィが差し出した水煙管の吸い口を受け取った勇儀は、ゆっくりと薫らせる。
「この辛く無い感じは好いね、相変わらず」
「あげないわよ? 此れしか無いんだから……地上にも行ける様になったんだし、河童辺りに作らせれば良いじゃない」
「…………お前も読むんじゃないよ」
そう言って勇儀は口元を弛めた。
パルスィはさとりに目を向ける。
さとりは眠たげな眼差しのまま、ふわり、と静かに微笑んだ。
「…………有難う御座います、御相伴に預かります」
吸い口を受け取ったさとりは、慣れた様子で紫煙を口に含む。
「ああ…………此れは良い香りです。家にパイプは有るのですが、あまり良い葉が手に入り難いので仕舞い込んだままなんですよ…………へえ、葉は同じもので? 成る程、別に香りの出るものと練り合わせる…………色々楽しめるのですね。
…………ああ、勇儀さん、その時は私の分もお願いします」
どうやら勇儀は本気で河童に作らせる気になって来たらしい。
さとりは暫く水煙管を手放さなかった。パルスィも勇儀も其れを咎める事は無く、煙だけが穏やかに昇り続けた。
やがてさとりが吸い口をパルスィに返しつつ、用件は終わったと頭を下げた。
「そうですか…………やはり地上との出入りはそれなりに増えている様ですね。それで今の所は問題が起こるような事は無い……と。
ええ、地上からの来訪者が少ない事は予想の範疇です、何も好き好んで地底に来る輩は殆ど居ないでしょうから」
黙ったまま水煙管を薫らせるパルスィと、口を挟む事の無い勇儀。
閻魔より任された責任者と旧都のまとめ役、そして地上と地底を結ぶ縦穴の守護者。
外界を追われた妖怪達が住まう幻想郷、其処さえ追放された妖怪達の住処、地底の管理者達であるこの三名が集ると、何時もこんな調子だった。
方針には特に口を挟まない勇儀と元来その妖怪の性として話し好きのさとり。
そして水橋パルスィ、彼女は覚り妖怪に心を読まれる事を受け入れている。そうなれば口を動かす面倒も無いとばかりに、勇儀にしか声を掛けない。
斯くしてこの三名の会談は、さとりの声ばかりが常に響き渡っている。
「…………今地上に出ている者は六名ですか、丁度先程狒々の二人組が出て行ったそうですよ。…………え? そんなに若い連中ですか……狒々の頭領も甘い事で…………勇儀さん、後でちょっと話を聞いてきて貰えますか? 余り不用意に許可を出されても困りますので」
「あいよ。んで、どんな連中だい?」
勇儀の問いにも、さとりが答えた。
「…………二の郭近くに住むキュウタの五男坊でシンベェ、それとヘイノジョウの末娘のおコウ…………ですね、三日間の許可をもらった、と」
「あー、キュウタん所の餓鬼かぁ…………五男は知らないねぇ…………まあ、頭領には話し付けておくよ、最悪誰か大人を迎えに出すとしよう」
「お願いね」
「あいよ、…………他の連中は大丈夫なのかい?」
少し言い難そうに、さとりは声を潜めた。
「すいません、残りのうち二人は私の身内でして…………その他は知り合いに会いに行った大人です、何度も通っていらっしゃる方々ですので心配は無いと思います」
「そうかい」
両の指を忙しなく突き合わせていたさとりは、不意にパルスィの顔を見た。
「…………こいしはそろそろ帰ってくる頃、ですか。すいません、お手数をお掛けします。…………いえ、もう暫くはこのままにしておこうかと……近頃は家に帰ると挨拶をしてくれるようになりましたし、良い兆候だと思います…………はい、少しずつでも変わっていってくれれば…………時間は有りますから……有難う御座います」
顔の目の前に掛かる癖の強い髪の毛を弄りながら、さとりは礼を伸べた。
パルスィは無言のまま、其の癖っ毛にゆっくりと手を伸ばす。
「…………パルスィ、さん?」
其の侭、優しく、丁寧に、そして有無を言わさず、さとりの頭を胸にかき抱いた。
薄い紫色の髪を両の手でゆったりと、まるで赤子をあやすかの様に撫ぜる。白魚の様なパルスィの指の間に、撫でられてはしゃぐかの様なさとりの髪がぴんぴんと跳ねた。
さとりは肌触りの良い誂えの服に頬を埋め、安心しきったかの様に両の目を閉じた。
「……………………はい、家族は沢山居ますが、其れでもこいしはたった一人の肉親です…………はい、こいしが今度帰ってきたら同じ様にしてみます…………ふふ、出来るでしょうか?
…………ああ、そうですね…………心は話さなくても伝わるんですね…………温かいです」
勇儀はパルスィが手放した吸い口を拾うと、一人其の光景を眺めながら一服した。
翠玉の瞳がちらりと此方を向く。
「…………貴女にも、してあげましょうか?」
「よしとくれ! こちとら生まれてこの方この角を誰にも触れさせた事が無いのが自慢なんだ、謹んで遠慮しておくよ!」
そう言って可々と笑った。
■■■■■■■■■■■■■■■■
旧都から地霊殿に向かう道の半ば、さとりと勇儀が進んでいた。
二人とも無言のままであったが、やがてぽつりとさとりが口を開いた。
「…………勇儀さんは……“力”の妖怪ですね?」
「ん?」
「いえ、つらつらと色々考えながらも少しばかり退屈していらっしゃった様でしたので…………せめて道中の話し相手にでも、と」
勇儀は彼女の気遣いに形ばかり詫びながら、其の結構な提案に乗る事とする。
「そうさねぇ…………鬼の殆どがそうとも言えるが、確かに私は“力”の妖怪だね」
「はい、そして私は差し詰め“覚”の妖怪でしょうか?」
「まあ、違いない」
「では、パルスィさんは何の妖怪だと思います?」
「あー…………」
勇儀は色々と思い浮かべてみるが、どうやら其の想起は正解には辿り着けていないらしい。
さとりはくすくすと笑いながら話を続けた。
「…………中々惜しい所には行っているみたいですが、残念ながら正解は無さそうですね」
「ほう?」
「ええ、この問いには確りとした正解が有るのですよ…………何せ、閻魔様がお決めになられた事ですから」
「そいつは興味深いね」
「ええ…………彼女は“情”の妖怪です」
仏教では現世への欲望を捨てきれず、煩悩に塗れたままの、普通の者を『有情』と呼ぶ。
其れは執着であり、全てを手に入れ、手放したくないという欲である。其れを捨て去る事こそが仏性に近付く道であり、此れにしがみ付く事は現世の苦痛を受け続ける事に相違無い。
「…………地底に妖怪が住み始めた頃の事です、私が閻魔様に地霊殿の管理を任されました……そして閻魔様は仰いました、地底の妖怪達のまとめ役と、地上へ続く道の守護者を決めよ、と。
…………妖怪達のまとめ役はすんなりと決まりました、地上でも妖怪の山をまとめていた勇儀さん方、鬼の皆様が居りましたから」
「うん、そうだったね…………お陰で何とか退屈せずに暮らして行けたもんさね」
「ええ、助かりました。…………しかし、縦穴の守護者選びは難航しました。如何な人物が相応しいのか…………迷った私は閻魔様に相談する事にしました」
「へえ、そうだったのかい」
勇儀は当時に思いを馳せる。最初は陰鬱な所だった、其れを変える為の事は何でもした。
「ええ…………当時から勇儀さんは旧都に付きっ切りでしたから……パルスィさんともあまり面識は無かったのでしょう?」
「ああ、顔見知り程度の事だった…………近頃だね、良く話す様になったのは。旧都が落ち着いてから…………」
暫し二人は無言のまま進む。当時味わった二人の苦労は文字通り言葉に出来ない程だ。
「…………縦穴の守護者の役割は、地上からの侵入を防ぐ役目もありますが、何より地底の妖怪が……地上恋しさに……出て行く事を防ぐ役目が何よりでした。
望んでこの地に下りて来た様な妖怪は少ない。
如何に閻魔様と幻想郷の管理者の言付けとはいえ、逆らう輩は数多く居りました…………。そんな役目に相応しい妖怪はどんな者か? そこで閻魔様が仰ったのが…………情の妖怪でした」
「情、か」
「ええ、考えてみて下さい。当時地上に向かおうとする妖怪の目的は? 人食いの欲を満たす為? 或いは復讐? 単純にこの地に嫌気が差して? かつての地を夢見て?
…………例えば、その彼らに対して“理”を持って説得できるでしょうか? 或いは“力”を持って強引に防ぐ事が出来る? …………否です。“理”を聴けぬからこそ出て行こうとするのです、その彼らを“力”を持って塞き止めればどうなるか、同じ“力”を持って反発するでしょう。…………そうなれば地底の崩壊です」
容易に想像出来る。力とは反発するものだ、其れを逃げ場の無い地底の内側に向け使ったらどうなるか、反発は反発を呼び、全ては其の中に飲み込まれる。結果、最後に訪れるのは…………力の爆発。
そして理は妖怪達がこの地底に来る時に全て使い果たした。一度収まった其処からあえて漏れ出した者には、其れはもはや何の効力も無い。
「だから“情”なのです。“理”でも“力”でも無く、この地底からすら去ろうと、逃げ出そうとする妖怪達に…………其の心の内に有る情念に…………接する事の出来る妖怪こそが、あの道の守護者に相応しい、と…………閻魔様は仰いました」
さとりはその場でくるり、と一回りした。機嫌の良い子供がはしゃぐ様に、或いは気まずさを誤魔化す大人の様に。
「水橋さん…………当時はそう呼んでおりました、彼女に守護者の役を頼みに行った時の言葉…………何と言ったと思います?」
「さて」
「彼女は…………『つまり、一番地上に近い場所に居て良いって事?』…………開口一番がそんな言葉でした」
もう一度、くるり。
「こうも言っていました…………『地下の皆が言付けを守る様にすれば良いのね? 分かったわ、必ず皆地底に帰す』……………………地底の妖怪は、彼女の身内になっていたみたいです」
「彼女は……水橋パルスィは誰より情に厚い。そう、彼女は情に厚過ぎる」
情とは執着。一度手に入れたものは決して離さず、欲しいものを手に入れる事に手段は選ばず。
「誰よりも地上を恋しがり…………誰よりも地底を愛している、か」
ふと、勇儀は疑問に思う。
「そういや、その割には旧都に来る事が余り無いな?」
くすり、とさとりが微笑む。
「既に此処から逃げ場は無い…………全て彼女の腕の中ですよ?
…………ああ、少し勘違いしていらっしゃる様ですね? 腕の中の事もきちんと、把握してらっしゃいますよ、パルスィさんは。…………私は狒々のキュウタさんもヘイノジョウさんも、ましてや其のお子さん達の事など存じ上げません。全て彼女の知識です」
流石に勇儀も目を剥く。あの場での話は本人達が名乗ったか、さとりの知識とばかり思っていた。
「…………ああ、確かに滅多に旧都にも来ないパルスィさんが何故そんな事を知っているのか疑問でしょう、答えは意外と簡単です…………彼女の目が有るのですよ、この地底には。
…………其れが何かって? 其の目の名前は……古明地こいしと言います」
ほんの一瞬、絶句していた勇儀だったが、すぐに合点が行った様だ。
「…………ええ、当然こいしも地底の妖怪。ついこの前までは地上に出る事は許されませんでした…………しかし無意識を操るこいしが地底から出ない保障は無い。…………なのに、こいしが地上に出る事はあの騒ぎ迄一回も無かった。
…………あの人、何て言ったと思います? 言うに事欠いて『ああ、慣れれば分かるわよ』ですよ?」
「誰よりも相手を想い、求め、欲する……………………正に橋姫だな」
「お陰でこいしは四六時中地底を彷徨い、妖怪達の生活を見聞きする。そして偶然縦穴に向かうと…………彼女に捕まって、構って貰っていたそうです。その時に見聞きした事を話し続けていたそうですよ。
毎回、膝に乗って…………頭を撫でて貰いながら」
喋り続けるさとりを見ながら、勇儀は不意に悪戯心が芽生えた。さとりとの付き合いも良い加減長い、此れくらいの事は間違わない筈だ。
そして口端を吊り上げながら、少しばかり芝居がかった口調でさとりに話し掛けた。
「おいお前、お前が今何を考えているか当ててやろうか?」
さとりは苦笑しながら応えた。
「人の商売道具を盗まないで下さい…………ああ、貴女の考え当てて見せましょうか?」
星熊勇儀は旧都の番人である。自分達の手で作り上げたこの地底に対する愛情は誰にも負ける心算は無かった。
二人は声を揃えて、相手の胸の内を曝け出す。思い浮かべているのは同じ緑の瞳だった。
「「ああ、妬ましい!」」
■■■■■■■■■■■■■■■■
こぽこぽ
こぽこぽ
水煙管の音だけが暗く広い洞の中に響く。
幻想郷を抜け、海を渡り、広大な大陸の遥か先、かつて波斯と呼ばれた地でも人々は同じ様な水煙管を喫んでいる事だろう。鬼とはこの国に流れ着いた異人の末裔であるとする説がある。
水煙管の構造は複雑そうで意外と単純だ。頭頂部分のボウルに煙草の葉を入れ、其の上から炭で暖める。発生した煙は胴体部分を通り、底の水を張った器の中を通って水の上に溜まる。其れをゆっくりと吸って味わうのである。
煙草の葉は高い温度で熱するほど辛味が増す。間接的な弱火で熱し、其の煙を一度水の中を通す事により、水煙管は非常に穏やかな味わいとなる。
身を焦がすような情念は、下の冷たい水を潜り、とても優しくなる。
一時さえ同じ形に留まる事の無い水の流れに差し渡すは橋。
人あらざるその身を焦がすのは天上に決して昇れぬ地を這う者の情念。
この身が愛しい。
あの方が愛しい。
かの方が愛しい。
すべてが愛しい。
そう、地に塗れるこの苦痛さえ愛しい。
長椅子に身体を投げ出し、遥か天上の闇を見つめた。
己の身を焦がし生み出した白煙が、重い真鍮の身体を通り、冷たくも澄んだ水の中を通り出てくる。しかし其処も所詮器の中に過ぎない。広さを、自由を求め舞う白煙を吸い出す。甘く、優しい香りが身の内に広がる。だが、何時までも其の侭ではいられない。
情の妖怪は少し悲しげに、そして名残惜しげに白煙を空に放った。
広い空に、右へ左へ、踊る様に飛び回っていた煙は、ほんの僅かな時間で、其の空の中に消え去った。
彼女が解き放った煙は、何度でも、必ず消え去った。すべて、上に向かった。
ひとりの妖怪だけが、何時までも其処に残っていた。
彼女は動かない。地底を愛し、地上を愛し、すべてを愛した妖怪は、たったひとり、すべてに届かないが、すべてに触れているこの地を動かない。
情とは欲する事、求める事。其の為に掛ける橋の名は嫉妬。
此処は地上の際にして地底の縁、端と端を結ぶ橋。
情念に沈む嫉妬の橋が三之間、幻想郷の愛(は)し姫が在す地所。
水橋パルスィが居所である。
「ああ、地底が愛しい、地上が愛しい、すべてが愛しくて…………可愛過ぎて、妬ましい」
そう呟く緑色の瞳をした妖怪の笑みは、鬼女の様であり、聖母の様であった。
そして夜も無い。
常に暗く、そして冥い。
文字通り奈落へと繋がる縦穴は、大きく深い。
湿り気を帯びた空気は、一切の風も無く澱んでいた。
此処は旧地獄、地底へと続く深道。その途中には河すら無いにも拘らず一本の橋が架かっている。その橋の上には幾つもの篝火が置かれ、擬宝珠を乗せた朱塗りの欄干が明々と照らし出されていた。その橋の半ばには張出しが設けられている。
そして其処には何時もひとりの妖怪が座っている。
この妖怪がこの場所に居る事は地底の住人なら誰でも知っている事だ。たとえその場所に座っていなかったとしても、大抵欄干の別の場所に腰掛けているか、橋の近くをふらふらと散歩代わりに飛び回っているか、其れ位である。
ほんの偶に、旧都に買い物に行く事も有るが、其れも年に数える程度でしかない。
人を模した化生には、美形が多い。
しかも其れが力の強い、女性の妖怪ならば文字通り人外の美形である事が殆どである。
妖怪の定位置である橋の張出しには、色鮮やかな模様が精緻に編まれた敷物が広げられ、その上に置かれた長椅子と小卓は、幻想郷では珍しい中東を思わせる艶やかな意匠である。
金と銀の糸を混ぜ合わせた様な色の薄い金髪は、光の加減によっては若草の様な緑色の光を時折魅せていた。生まれて一度も日の光に焼かれたことが無い様な肌は、白磁を思わせる程にきめ細かい。肘掛に預けられた腕から伸びる指先は余計な肉付きは一切無く、其れで居て女性らしい柔らかさを損なう事は全く無かった。
その手に載せられた顎はすらりと細く、指が触れる口元は儚げな程に小さい。ほっそりとした鼻筋と高過ぎない鼻は、ほんのりと色付く唇の淡紅色と相俟って、可憐な印象を与えていた。
切れ長の双眸は色の薄い睫毛が彼女の高貴さを表している様に伸び、其の奥の瞳は鮮やかな緑色がまるで翠玉の様に輝いている。それはまるで銀細工の様な美しさだった。
そして其の緑色こそが、彼女が人にあらざる化生である事を示していた。
水橋パルスィは物憂げに半身を肘掛に傾け、右手に持った水煙管の吸い口を咥えた。
水の入った硝子の容器が、こぽこぽと音を立てて白い煙を吸い込む。
子供の背丈ほどもある大きな水煙管は良く手入れの行き届いた年季が入った物だった、其の上に乗せられた炭が微かに動き、聞こえない程度の音を立てた。
桜の花弁を思わせるパルスィの口元から、絹糸を思わせる白い息が糸の様にゆっくりと吐かれる。
解き放たれた炊煙は風の無い地底の空中を彷徨いながら、そろそろと迷う様に、高い所に昇って行った。
まるで地上を目指す様に。
しかし所詮煙である、五尺も往かずに文字通りほの暗い深道の闇に消え去った。
あとには何も残らない。
パルスィは茫と消えていった炊煙の方を眺めたまま、暫く動かなかった。
その先は暗くて此処から見える事は決して無いが、地上への道が続いている。湛えられた闇の向こうには、果てしなく広がる青空と煌々と輝く太陽が有る筈だ。
しかし彼女の緑色をした瞳に映るのは、醜くざらついた岩肌と、陰鬱な闇だけである。
ふう、ともう一度煙を吐く。
白煙はやはり大した高さにも往かず暗黒の中に消散した。
パルスィは、其れをずうっと、見詰めていた。
此処は地上の際にして地底の縁、端と端を結ぶ橋。
地底に沈む宇治の橋が三之間、幻想郷の橋姫が在す地所。
水橋パルスィが居所である。
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篝火の薪の音以外は時たま水煙管の音が混じる他、しじまに包まれた場所に、遠くから声が聞こえてきた。
先の間欠泉騒動の際、緩和された協定により、其れまでは一切が禁じられていた地上と地底の出入りが条件付ではあるが許される様になっていた。
元々地上に嫌気が差して地底に籠もった様な妖怪達は兎も角、止むに止まれぬ事情で地底に移り住んだ妖怪達の中には、やはり地上の空気が恋しいのかほんの暫くでもと、地上に向かう連中も少なくなかった。
無論地上で問題でも起こせばその僅かな機会も昔の如く奪われる。地上に出ようとする妖怪達には地霊殿を伝い閻魔からきつく注意を発せられていた。
その甲斐も有ってか、今の所地底の妖怪が地上で再び問題を起こすような事は起こっては居なかった。
声の主は暫くすると見えて来た。未だ妖怪としては年若い狒々だろうか、あるいはその眷属であろう、人獣を食い散らす凶暴な気性の妖怪である。
どうやら男女の一組ではあるが夫婦という訳でも無い様だ。久方振りの地上に思いを馳せてか浮かれている様だった。
特に男の方がこれ以上無い程はしゃぎ騒いでいた。女の方も満更ではない様で、大声で会話を交わしながら互いに飛んでいた。
地上に出るには必ずこの橋を通らなければならない。地上との出入りが禁じられていた頃は此処に近付く者も居なかったが、近頃はこういった輩が少なくなかった。
パルスィの形良い眉が僅かに顰められる。
精緻な彫刻が施された水煙管の吸い口は、木と真鍮で作られている。本来ならば中に唾液が入った時などは布に軽く叩く程度なのだが、パルスィはホースの付いている側を手元に持ち替えると、橋の欄干に叩き付けた。
元々殆ど音の無い場所である。騒いでいた妖怪の二人組が驚いて会話を止めるほど、その音は響き渡った。
妖怪の二人は、其れまでパルスィの存在にも気付いていなかった様だった。
音の元を見付け、ぎょっと目を剥いた。
パルスィはその緑色の瞳で、年若い妖怪達を睨み付ける。彼女の整い過ぎた美貌と、妖怪としての格から、それはぞっとする様な恐ろしさを仄めかせていた。
「…………二人で地上にお出掛けかしら?」
その声に男の方か慌てて頭を下げる。
「は、はい! 水橋様には御挨拶が遅れまして、大変失礼致しました!」
女の方は怯える様に、男の陰に隠れながら頭を下げる。どうやらこの男、其れ位の甲斐性は有るらしい。確か狒々の一族の中堅所、力自慢の夫婦が生んだ子の五番目の筈である、親に似ず狒々の中では頭が回る。女の方は頭領筋の末っ子だった筈だ、此処まで連れ合ってきたのだ、親公認の仲である事は間違い無い。
「…………上の許しは、得ているのかしら?」
「それはもう! 頭領より、三日ほどの許しをきちんと貰っております!」
「そう…………」
パルスィは再び持ち直した吸い口を咥えると、悠然と一口喫む。
男の妖怪は怯えを隠せずに、一刻も早くこの場から立ち去りたいとパルスィの顔色を伺う。
当然であろう、狒々の頭領でもパルスィには敵わないのだ。伊達に水神の一柱に数えられている訳ではない。たとえ妖神であっても、神は神だ。
パルスィは仕草だけで其れを許した。そうして、まるで逃げる様に慌ててその場から立ち去る二人に声を掛けた。
「お気を付けなさいな、当代の博麗は其れはもう強暴よ。更には新しい神社の巫女も妖怪狩りが趣味らしいし…………。余計な気を起こすと帰って来られるかどうか…………精々大人しくしてなさい」
二人組は恨めしげにパルスィを振り返る。
楽しみにしていた所に冷水を振り掛けられたも同然である、其れも止むを得まい。
二人は先程までとは正反対に、すっかり気が萎えた神妙な様子で縦穴を上って行った。
其れが見えなくなるまで見送ると、パルスィはぽつりと呟いた。
「…………お気を付けなさい」
そうして又、水煙管に口を付けた。
こぽこぽ、と水煙管が音を立てる。地底に移り住んで以来の、パルスィの愛用品である。
深い緑色をした硝子の器には格子を表した模様が誂えられている。その上に伸びる胴は真鍮製、表面の彫刻は蛇の様な紋様が精密に刻まれていた。頭部のボウルは大振り、その気になれば半日近くそのままで楽しめるサイズである。
音も無く熾る頭部の炭が、周りの空気を揺らしている。硝子に透ける器の中では、水面の上一杯に白煙が静かに踊っていた。
背凭れに身体を預け、だらしなく足を投げ出す。其の侭かくん、と頤を天に向けた。
視界にはどこまでも続くかの様な漆黒の闇が、陰鬱に湿った岩肌を伝って伸びていた。
もうあの二人は地上に着いた頃だろうか、此処から知る術は無い。
パルスィの人あらざる異形の耳が、ひくりと動いた。重たげに頭を正面に戻す。
「…………今日は騒がしいわね」
地底に向かう方の闇をすかし見ながら、平坦な口調のまま呟いた。
視線の先には、暫くすると一組の妖怪が現れた。
先程の二人とは違い、何とも対照的な二人組だった。
橋の上を、此方に向かい先に歩いて来るのは小柄な女妖怪だった。紫のショートカットの髪は手入れを忘れた様に方々が跳ね、その隙間から覗く眼つきは眠たげにも見える。身を締める事の無いゆったりとした服と良い、寝起きのままの様な雰囲気である。彼女が妖怪である証左として、胸の前、心臓の位置にぎょろりとした目の玉が浮かんでいた。其れは彼女の顔に付いている本来の目と違い、如何にも爛々と此方をねめつけていた。
その数歩後ろに付いている妖怪も、どうやら女性の様だった。しかしその身の丈は前を歩く女性の倍近いのではないだろうか。身体の線が良く判る薄着の為、その極めて女性的な体型を見なければ男性と見間違え兼ねない長身である。彼女が人外である事は一目瞭然だった、はっきりとした目鼻立ちの健康的な美人の額には、派手な色の角が一本、力強く伸びていた。
「お早う御座います、パルスィさん」
先を歩いてきた小柄な方が、立ち止まって挨拶してきた。
「…………もう昼も回っていますが…………何でも昼夜関係無く働く人間達の間では、時間に関係無く“お早う御座います”と挨拶するそうです」
「……………………」
「…………外の世界の話らしいですよ? うちのペットが聞いてきまして…………はい、黒猫のその子です」
「ちょっと手伝ってくれない? この長椅子を退かして欲しいのだけれど」
「あいよ」
一人で喋り続ける手前の妖怪を無視するかの様に、椅子から立ち上がりながら後ろの大柄な妖怪に話し掛けるパルスィ。その妖怪も気にする事無く答えた。
「…………ああ、お構いなく。……いえ、有難う御座います。手伝います」
長椅子の下には来客用のクッションと脇息が納められていた。其れを知っていたかの様に、一人話し続ける妖怪が取り出して並べる。
程無く三人は柔らかな絨毯の上に座り込んだ。
ちらりとパルスィは大柄な妖怪の方を見た。その妖怪は其れに気付き、笑いながら口を開いた。
「ああ、私はさとりの護衛役だよ。立場的にも一人で出歩かせる訳には行かないからね」
其れに答えようと口を開きかけたパルスィより先に、もう一人の妖怪が答えた。
「…………勇儀さんまで心を読まなくて宜しいそうですよ」
「おお、そいつは悪かった、水橋の」
来訪者は地底の管理を任された地霊殿の主、古明地さとりと、地底の妖怪のまとめ役である鬼の一族の更にまとめ役と言える星熊勇儀だった。
パルスィは呟く様な小声のまま、話す。
「…………茶は出さないわよ、用意していないもの」
「いえ、丁度予定が空きまして…………勇儀さんにお願い出来そうだったので少し見回りがてら顔を見に来ただけですので…………いえ、本当にお構いなく。はい、勇儀さんも手土産も無い事は気にしていらっしゃいましたので…………え? 麦の蒸留酒が……はい、手に入ったそうですから…………ええ、近いうちに、私からも肴を提供致します、はい」
さとりが一人喋り続ける中、パルスィが差し出した水煙管の吸い口を受け取った勇儀は、ゆっくりと薫らせる。
「この辛く無い感じは好いね、相変わらず」
「あげないわよ? 此れしか無いんだから……地上にも行ける様になったんだし、河童辺りに作らせれば良いじゃない」
「…………お前も読むんじゃないよ」
そう言って勇儀は口元を弛めた。
パルスィはさとりに目を向ける。
さとりは眠たげな眼差しのまま、ふわり、と静かに微笑んだ。
「…………有難う御座います、御相伴に預かります」
吸い口を受け取ったさとりは、慣れた様子で紫煙を口に含む。
「ああ…………此れは良い香りです。家にパイプは有るのですが、あまり良い葉が手に入り難いので仕舞い込んだままなんですよ…………へえ、葉は同じもので? 成る程、別に香りの出るものと練り合わせる…………色々楽しめるのですね。
…………ああ、勇儀さん、その時は私の分もお願いします」
どうやら勇儀は本気で河童に作らせる気になって来たらしい。
さとりは暫く水煙管を手放さなかった。パルスィも勇儀も其れを咎める事は無く、煙だけが穏やかに昇り続けた。
やがてさとりが吸い口をパルスィに返しつつ、用件は終わったと頭を下げた。
「そうですか…………やはり地上との出入りはそれなりに増えている様ですね。それで今の所は問題が起こるような事は無い……と。
ええ、地上からの来訪者が少ない事は予想の範疇です、何も好き好んで地底に来る輩は殆ど居ないでしょうから」
黙ったまま水煙管を薫らせるパルスィと、口を挟む事の無い勇儀。
閻魔より任された責任者と旧都のまとめ役、そして地上と地底を結ぶ縦穴の守護者。
外界を追われた妖怪達が住まう幻想郷、其処さえ追放された妖怪達の住処、地底の管理者達であるこの三名が集ると、何時もこんな調子だった。
方針には特に口を挟まない勇儀と元来その妖怪の性として話し好きのさとり。
そして水橋パルスィ、彼女は覚り妖怪に心を読まれる事を受け入れている。そうなれば口を動かす面倒も無いとばかりに、勇儀にしか声を掛けない。
斯くしてこの三名の会談は、さとりの声ばかりが常に響き渡っている。
「…………今地上に出ている者は六名ですか、丁度先程狒々の二人組が出て行ったそうですよ。…………え? そんなに若い連中ですか……狒々の頭領も甘い事で…………勇儀さん、後でちょっと話を聞いてきて貰えますか? 余り不用意に許可を出されても困りますので」
「あいよ。んで、どんな連中だい?」
勇儀の問いにも、さとりが答えた。
「…………二の郭近くに住むキュウタの五男坊でシンベェ、それとヘイノジョウの末娘のおコウ…………ですね、三日間の許可をもらった、と」
「あー、キュウタん所の餓鬼かぁ…………五男は知らないねぇ…………まあ、頭領には話し付けておくよ、最悪誰か大人を迎えに出すとしよう」
「お願いね」
「あいよ、…………他の連中は大丈夫なのかい?」
少し言い難そうに、さとりは声を潜めた。
「すいません、残りのうち二人は私の身内でして…………その他は知り合いに会いに行った大人です、何度も通っていらっしゃる方々ですので心配は無いと思います」
「そうかい」
両の指を忙しなく突き合わせていたさとりは、不意にパルスィの顔を見た。
「…………こいしはそろそろ帰ってくる頃、ですか。すいません、お手数をお掛けします。…………いえ、もう暫くはこのままにしておこうかと……近頃は家に帰ると挨拶をしてくれるようになりましたし、良い兆候だと思います…………はい、少しずつでも変わっていってくれれば…………時間は有りますから……有難う御座います」
顔の目の前に掛かる癖の強い髪の毛を弄りながら、さとりは礼を伸べた。
パルスィは無言のまま、其の癖っ毛にゆっくりと手を伸ばす。
「…………パルスィ、さん?」
其の侭、優しく、丁寧に、そして有無を言わさず、さとりの頭を胸にかき抱いた。
薄い紫色の髪を両の手でゆったりと、まるで赤子をあやすかの様に撫ぜる。白魚の様なパルスィの指の間に、撫でられてはしゃぐかの様なさとりの髪がぴんぴんと跳ねた。
さとりは肌触りの良い誂えの服に頬を埋め、安心しきったかの様に両の目を閉じた。
「……………………はい、家族は沢山居ますが、其れでもこいしはたった一人の肉親です…………はい、こいしが今度帰ってきたら同じ様にしてみます…………ふふ、出来るでしょうか?
…………ああ、そうですね…………心は話さなくても伝わるんですね…………温かいです」
勇儀はパルスィが手放した吸い口を拾うと、一人其の光景を眺めながら一服した。
翠玉の瞳がちらりと此方を向く。
「…………貴女にも、してあげましょうか?」
「よしとくれ! こちとら生まれてこの方この角を誰にも触れさせた事が無いのが自慢なんだ、謹んで遠慮しておくよ!」
そう言って可々と笑った。
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旧都から地霊殿に向かう道の半ば、さとりと勇儀が進んでいた。
二人とも無言のままであったが、やがてぽつりとさとりが口を開いた。
「…………勇儀さんは……“力”の妖怪ですね?」
「ん?」
「いえ、つらつらと色々考えながらも少しばかり退屈していらっしゃった様でしたので…………せめて道中の話し相手にでも、と」
勇儀は彼女の気遣いに形ばかり詫びながら、其の結構な提案に乗る事とする。
「そうさねぇ…………鬼の殆どがそうとも言えるが、確かに私は“力”の妖怪だね」
「はい、そして私は差し詰め“覚”の妖怪でしょうか?」
「まあ、違いない」
「では、パルスィさんは何の妖怪だと思います?」
「あー…………」
勇儀は色々と思い浮かべてみるが、どうやら其の想起は正解には辿り着けていないらしい。
さとりはくすくすと笑いながら話を続けた。
「…………中々惜しい所には行っているみたいですが、残念ながら正解は無さそうですね」
「ほう?」
「ええ、この問いには確りとした正解が有るのですよ…………何せ、閻魔様がお決めになられた事ですから」
「そいつは興味深いね」
「ええ…………彼女は“情”の妖怪です」
仏教では現世への欲望を捨てきれず、煩悩に塗れたままの、普通の者を『有情』と呼ぶ。
其れは執着であり、全てを手に入れ、手放したくないという欲である。其れを捨て去る事こそが仏性に近付く道であり、此れにしがみ付く事は現世の苦痛を受け続ける事に相違無い。
「…………地底に妖怪が住み始めた頃の事です、私が閻魔様に地霊殿の管理を任されました……そして閻魔様は仰いました、地底の妖怪達のまとめ役と、地上へ続く道の守護者を決めよ、と。
…………妖怪達のまとめ役はすんなりと決まりました、地上でも妖怪の山をまとめていた勇儀さん方、鬼の皆様が居りましたから」
「うん、そうだったね…………お陰で何とか退屈せずに暮らして行けたもんさね」
「ええ、助かりました。…………しかし、縦穴の守護者選びは難航しました。如何な人物が相応しいのか…………迷った私は閻魔様に相談する事にしました」
「へえ、そうだったのかい」
勇儀は当時に思いを馳せる。最初は陰鬱な所だった、其れを変える為の事は何でもした。
「ええ…………当時から勇儀さんは旧都に付きっ切りでしたから……パルスィさんともあまり面識は無かったのでしょう?」
「ああ、顔見知り程度の事だった…………近頃だね、良く話す様になったのは。旧都が落ち着いてから…………」
暫し二人は無言のまま進む。当時味わった二人の苦労は文字通り言葉に出来ない程だ。
「…………縦穴の守護者の役割は、地上からの侵入を防ぐ役目もありますが、何より地底の妖怪が……地上恋しさに……出て行く事を防ぐ役目が何よりでした。
望んでこの地に下りて来た様な妖怪は少ない。
如何に閻魔様と幻想郷の管理者の言付けとはいえ、逆らう輩は数多く居りました…………。そんな役目に相応しい妖怪はどんな者か? そこで閻魔様が仰ったのが…………情の妖怪でした」
「情、か」
「ええ、考えてみて下さい。当時地上に向かおうとする妖怪の目的は? 人食いの欲を満たす為? 或いは復讐? 単純にこの地に嫌気が差して? かつての地を夢見て?
…………例えば、その彼らに対して“理”を持って説得できるでしょうか? 或いは“力”を持って強引に防ぐ事が出来る? …………否です。“理”を聴けぬからこそ出て行こうとするのです、その彼らを“力”を持って塞き止めればどうなるか、同じ“力”を持って反発するでしょう。…………そうなれば地底の崩壊です」
容易に想像出来る。力とは反発するものだ、其れを逃げ場の無い地底の内側に向け使ったらどうなるか、反発は反発を呼び、全ては其の中に飲み込まれる。結果、最後に訪れるのは…………力の爆発。
そして理は妖怪達がこの地底に来る時に全て使い果たした。一度収まった其処からあえて漏れ出した者には、其れはもはや何の効力も無い。
「だから“情”なのです。“理”でも“力”でも無く、この地底からすら去ろうと、逃げ出そうとする妖怪達に…………其の心の内に有る情念に…………接する事の出来る妖怪こそが、あの道の守護者に相応しい、と…………閻魔様は仰いました」
さとりはその場でくるり、と一回りした。機嫌の良い子供がはしゃぐ様に、或いは気まずさを誤魔化す大人の様に。
「水橋さん…………当時はそう呼んでおりました、彼女に守護者の役を頼みに行った時の言葉…………何と言ったと思います?」
「さて」
「彼女は…………『つまり、一番地上に近い場所に居て良いって事?』…………開口一番がそんな言葉でした」
もう一度、くるり。
「こうも言っていました…………『地下の皆が言付けを守る様にすれば良いのね? 分かったわ、必ず皆地底に帰す』……………………地底の妖怪は、彼女の身内になっていたみたいです」
「彼女は……水橋パルスィは誰より情に厚い。そう、彼女は情に厚過ぎる」
情とは執着。一度手に入れたものは決して離さず、欲しいものを手に入れる事に手段は選ばず。
「誰よりも地上を恋しがり…………誰よりも地底を愛している、か」
ふと、勇儀は疑問に思う。
「そういや、その割には旧都に来る事が余り無いな?」
くすり、とさとりが微笑む。
「既に此処から逃げ場は無い…………全て彼女の腕の中ですよ?
…………ああ、少し勘違いしていらっしゃる様ですね? 腕の中の事もきちんと、把握してらっしゃいますよ、パルスィさんは。…………私は狒々のキュウタさんもヘイノジョウさんも、ましてや其のお子さん達の事など存じ上げません。全て彼女の知識です」
流石に勇儀も目を剥く。あの場での話は本人達が名乗ったか、さとりの知識とばかり思っていた。
「…………ああ、確かに滅多に旧都にも来ないパルスィさんが何故そんな事を知っているのか疑問でしょう、答えは意外と簡単です…………彼女の目が有るのですよ、この地底には。
…………其れが何かって? 其の目の名前は……古明地こいしと言います」
ほんの一瞬、絶句していた勇儀だったが、すぐに合点が行った様だ。
「…………ええ、当然こいしも地底の妖怪。ついこの前までは地上に出る事は許されませんでした…………しかし無意識を操るこいしが地底から出ない保障は無い。…………なのに、こいしが地上に出る事はあの騒ぎ迄一回も無かった。
…………あの人、何て言ったと思います? 言うに事欠いて『ああ、慣れれば分かるわよ』ですよ?」
「誰よりも相手を想い、求め、欲する……………………正に橋姫だな」
「お陰でこいしは四六時中地底を彷徨い、妖怪達の生活を見聞きする。そして偶然縦穴に向かうと…………彼女に捕まって、構って貰っていたそうです。その時に見聞きした事を話し続けていたそうですよ。
毎回、膝に乗って…………頭を撫でて貰いながら」
喋り続けるさとりを見ながら、勇儀は不意に悪戯心が芽生えた。さとりとの付き合いも良い加減長い、此れくらいの事は間違わない筈だ。
そして口端を吊り上げながら、少しばかり芝居がかった口調でさとりに話し掛けた。
「おいお前、お前が今何を考えているか当ててやろうか?」
さとりは苦笑しながら応えた。
「人の商売道具を盗まないで下さい…………ああ、貴女の考え当てて見せましょうか?」
星熊勇儀は旧都の番人である。自分達の手で作り上げたこの地底に対する愛情は誰にも負ける心算は無かった。
二人は声を揃えて、相手の胸の内を曝け出す。思い浮かべているのは同じ緑の瞳だった。
「「ああ、妬ましい!」」
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こぽこぽ
こぽこぽ
水煙管の音だけが暗く広い洞の中に響く。
幻想郷を抜け、海を渡り、広大な大陸の遥か先、かつて波斯と呼ばれた地でも人々は同じ様な水煙管を喫んでいる事だろう。鬼とはこの国に流れ着いた異人の末裔であるとする説がある。
水煙管の構造は複雑そうで意外と単純だ。頭頂部分のボウルに煙草の葉を入れ、其の上から炭で暖める。発生した煙は胴体部分を通り、底の水を張った器の中を通って水の上に溜まる。其れをゆっくりと吸って味わうのである。
煙草の葉は高い温度で熱するほど辛味が増す。間接的な弱火で熱し、其の煙を一度水の中を通す事により、水煙管は非常に穏やかな味わいとなる。
身を焦がすような情念は、下の冷たい水を潜り、とても優しくなる。
一時さえ同じ形に留まる事の無い水の流れに差し渡すは橋。
人あらざるその身を焦がすのは天上に決して昇れぬ地を這う者の情念。
この身が愛しい。
あの方が愛しい。
かの方が愛しい。
すべてが愛しい。
そう、地に塗れるこの苦痛さえ愛しい。
長椅子に身体を投げ出し、遥か天上の闇を見つめた。
己の身を焦がし生み出した白煙が、重い真鍮の身体を通り、冷たくも澄んだ水の中を通り出てくる。しかし其処も所詮器の中に過ぎない。広さを、自由を求め舞う白煙を吸い出す。甘く、優しい香りが身の内に広がる。だが、何時までも其の侭ではいられない。
情の妖怪は少し悲しげに、そして名残惜しげに白煙を空に放った。
広い空に、右へ左へ、踊る様に飛び回っていた煙は、ほんの僅かな時間で、其の空の中に消え去った。
彼女が解き放った煙は、何度でも、必ず消え去った。すべて、上に向かった。
ひとりの妖怪だけが、何時までも其処に残っていた。
彼女は動かない。地底を愛し、地上を愛し、すべてを愛した妖怪は、たったひとり、すべてに届かないが、すべてに触れているこの地を動かない。
情とは欲する事、求める事。其の為に掛ける橋の名は嫉妬。
此処は地上の際にして地底の縁、端と端を結ぶ橋。
情念に沈む嫉妬の橋が三之間、幻想郷の愛(は)し姫が在す地所。
水橋パルスィが居所である。
「ああ、地底が愛しい、地上が愛しい、すべてが愛しくて…………可愛過ぎて、妬ましい」
そう呟く緑色の瞳をした妖怪の笑みは、鬼女の様であり、聖母の様であった。
やっぱりパルスィはいい子ですね。これほど優しい人はそうそういませんよ
そうかあれは・・・良い物語ありがとうございました。
くどいような文章も印象的でした。悪く言うとまだまだ短くできそうな文章。よく言うとこの長さとくどさでも最後まですらすら読める文章でしょうか。
20kbありながら全体的に淡々としている印象を受けました。山場や盛り上がりがもっとあって欲しかったです。
橋姫は愛『情』の深さゆえに悲『情』に狂い生まれた魔性。
パルスィ情深い設定はぐっとくるなぁ。