姉妹二人ともスイカが大好きだった。
その日朝食のデザートにスイカが出たので、二人はたいそう喜んだ。小さいのが一切れずつ、小柄な彼女らには、それで充分な量。
ところであたかも一般家庭でスイカに塩をかけるが如く、紅魔館ではスイカに少量の血液をまぶして食べる。スイカの甘さを引き立てるためではない。血の味わいを深めるためだ。
いつも心にカリスマを燃えたぎらせたお嬢様が先日に曰く、「スイカの冷たくシャクシャクとした、水気をおびた仄かな甘味が、深く鉄じみた血液のあの濃厚なる、また芳醇なる味わいを引き立てるのだ!」
横でフランドールが満面の笑みを浮かべて力強くうなずく。なるほど、なんかよくわからんがかっこいい。用意した十六夜咲夜もメイド冥利に尽きるというものである。
血、吸血鬼が語る、その美味。生粋の人間、それ以外の何物でもない咲夜にはその辺の感覚はよくわからないが、最近「おおよそ度数の高い洋酒をストレートでいった時の風味に似ているよ」と言われてちょっとわかったような気になったところである。だからってなんでスイカと合うのかはまた理解しがたい所ではあったが……。
さて時は冬。今や館の外では木枯らしが荒れ狂う。裸になった庭の樹にゆうべの雪が薄く積もって、白と黒、そのコントラストが美しい。
室内は薪を焚いてほかほかと暖かいにせよ、スイカなんぞは季節外れの最たるものだ。
いま幻想郷の市場に行っても手に入りはしないそういうものを、咲夜がいつもどこから探し出してくるのか誰も知らなかった。
スイカ、座椅子、新しいメイド服。時に生きた犬とか人間とか。
いかに時間を止められた所でどうにもならない事もありそうなものだが、我らがメイド長は命じられたものを的確に用意しなかった事など今まで一度も無かった。
命じずとも、紅魔館の住人たちが少し心に求めれば、気を利かせて用意してくる。
一体どこから探し出してくるのか、その主人たるレミリアすらよく知らなかったが、彼女がそれを疑問に思った事は無かった。
完璧、瀟洒、十六夜咲夜。完璧でないところは全て時間を止めてひとときに済ませてしまうのが彼女の常だった。
醜い姿は決して見せない。全ての小規模な奉仕はまるで氷山の一角の如く、水面下の様々な下準備と、その場ぶっつけ本番の巧みな動きとによって成立していた。
レミリアなどはこのメイドにこの上無く満足していた。
白鳥のバタ足のようなその努力、それには例え気づいても、気づかぬ風に振る舞うべきではないかね。余計な気遣いもしなくて済む。
結果としてその奉仕が完璧である事は誤魔化しも嘘偽りも無い、彼女の実力と努力との賜物であるのだし。
その日の夕方、図書館に集まって紅茶を飲みながら、レミリアに十字架が無効なのは何故かという話をしていた時である。
ましてや、あるいは聖遺物、ロンギヌスの槍やらなんやかや、そういうものに触れてしまったら、一瞬で浄化されてしまうのでは? 儚い命よ。
ところが
「いいえ高位の聖遺物を所有している事は、むしろ悪魔としての格を高めるわ」
などと、日蔭の魔女が解説する。レミリアも同調して
「レッサーデーモンならまだしも、私のような、高貴なる吸血鬼には効きはしないわ」
へえお嬢様って分類上、低級悪魔じゃあなかったんだ。トリビアー。なんて失礼な事を咲夜は思っていたり。まあ実際良い意味で、悪魔の階級なんてお嬢様のカリスマに比べたらどうでもいい事だ。
どうでもいい事ではあるのだが、そのまま徒然に悪魔の階級制度、その奥処までぼんやりと勝手に思いを馳せていると、ところで、私もそういうものをひとつだけ持っているのだよなんてレミリアは上機嫌に、やや自慢げに言葉を続けた。
紅魔館地下宝物庫に納められている“1970年物”、キリストが処刑された時に流れた血、と言い伝えられる、赤い液体のなみなみと注がれたボトル。
ラベルにA.D.33と書いてあるのがかえってわざとらしく怪しい。そんな長い間持つのか。なんでも聖人の血液は腐らないらしい。
「……それはなんとも眉唾物ですわ」
「まったくだな」
「しかしそうなると、本物の聖遺物というのはどんな風なんでしょうね、光り輝いてたり?」
「あれっ? もう偽物確定?」
「ええ。きっと赤インクかなにかですよ」
「そんな。何かおめでたい事の有った時に、飲んでやろうって楽しみにしてるんだぞ私は」
しかし、ふむ……と、咲夜の無邪気な質問に対応して、レミリアは何やらカリスマっぽく顎に手を当てて一旦言葉を区切った。
「聖遺物というのはきっとまるでそこらに有るもののような見た目のうちに、内面には強大な魔術エネルギーを、秘めているものこそを言うんだろうね」
あれ、ちょっとカリスマ充電した? まあまあ誤差の範囲内か。
「それは例えばどんなものを?」
「聖杯とか?」
「わお、いきなり最高ランクですね」
「まあ、この私にふさわしいものとなるとね」
単にレミリアが一般的聖遺物というものをほとんど知らないだけである。
「トリノの聖骸布」、「フランシスコ・ザビエルの右手」……。
……聖杯。
レミリア・スカーレットでも知っている、聖遺物のメジャーリーガー、聖遺物中の聖遺物。
漢字では二文字。英語では、「Holy Grail」と短い。
けれども固有名詞として、この言葉の持つ意味は計り知れない。
イエス・キリストが弟子たちとの最後の晩餐で用い、さらにアリマテアのヨセフがキリストの血を受けた杯。
それを手にした者は、世界を支配するとも、永遠の命を得るとも言われる、文句無し、掛け値なし、あのやっかいなロンギヌスの槍に並ぶ、世界最高の聖遺物。
中世ヨーロッパに於いて何百人もの騎士がこれを求め、諸国を冒険し、その誰もが、みな、望み半ばで倒れ伏していったのだと言うが……。
「巷間広く本物だと認められている様子なのが、スペインはバレンシアの大聖堂、ガラスのケースの中に納められている、赤瑪瑙のなんでもないカップ。でもあれは、どうやら四世紀ごろに造られた偽物らしいわね」
割りこんで来たのは今まで本を読んでいたパチュリーだった。
「本物の聖杯の見た目は伝承では、左右対称に対向して把っ手のついた、銀色の杯。材質は銀とも、錆びない鉄とも言われるが不明。その所在も、失われてからこっち多くの騎士、魔道士、権力者たちが、それこそ不老不死を求める旅路の果てには必ずここに行きつくのだけれども、ほうぼう手を尽くして探し求めたが未だ明らかではない。ただ魔女界での定説では、エジプトの、さる高名な二人組の魔法使いが所有しているとか」
レミリアは、書かれてあるものを読むように言う魔女を、さすが私の百年来の友達ね、やるときゃやるわと口に出さんばかりのキラキラした表情で見ていた。
そこに咲夜は珍しく嫉妬じみた感情を得て。レミリアからも見て取れたけれど、単純に、面白がっている様子。そんな事より今は聖杯だって。
「咲夜、私その聖杯っての欲しいわ、見てみたい」
「えっ!?」
「光も受けず自ら輝いているのか、いつまでも時が止まったように、古代の美しさを湛えているのか、それらを是非にも、知りたいからね」
探して来いという事か?
お嬢様この咲夜にも、さすがに可能な事と不可能な事が。と言いかけて、お嬢様に視線をやってぎょっ、とした。
目をうっとりと細め、カリスマたっぷりに聖杯を愛でる時の予行演習さえしている。まるで探すという手間も無く、咲夜に頼んだらどんなものでも即座に用意してくれるのは当然だ、と、言わんばかりの表情である。だとしたら……。
「私の悪魔のランクも上がるらしいし」
だとしたら、この十六夜咲夜をそこまで完璧なメイドだと、他ならぬお嬢様が信仰してくれているのであったら。そんな期待に、こたえない訳にはいかないわね。
お嬢様、十六夜咲夜はお望み通りに、スーパーウーマンにだってなりましょう。
「承りました」
ではいってまいります、と言って、それに対しては誰も、声をかける間もなく、薄暗い室内に溶け込むように、咲夜はその姿を消した。
レミリアは、あるいは誰も、その瞬間を捉える事が出来なかった。
レミリアはいってらっしゃいを言い損なったので、かわりに、「まったく、ドアくらい開けて出ていきなさいよね」と言った。
特に意味も無い戯言であるが確かにカリスマは膨れ上がっている。
パチュリーは書をぺらり、またぺらりと読み進めながら密かに、きっとそんなに簡単なものではない、と思うけれど、なんて、こちらも小さくひとりごちた。
時は冬、南の方に、緑の山なみ。それにかかって雲が有る。
日はやや東、おおよそに見立てれば午前の十時。
咲夜は紅魔館から出てきて以来ずうっと時を止めて、その時間、日の傾き具合のまま、大股でざっと幻想郷を横切った。
そのまま幻想郷と現実の境界を乗り越えて、山奥から、川をたどって彼女の時間で何十時間か歩き続けて、それでようやく海岸線に、辿り着いた。やや肌寒い。
言うまでもないが、彼女はこうやって時を止めたままエジプトまで行くつもりなのだ。
お嬢様たっての希望、命令と言えど、今またあまり長い時間紅魔館を不在とする訳にはいかないゆえ。
ある種悲愴な覚悟さえ帯びつつ、聖杯を手中に入れるまでは、この土地にまた舞い戻らぬ覚悟である。
それは聖地に巡礼に向かう、若い信者を思わせた。
勿論時間が止まっている以上、船も車もましてや飛行機も動いていない。動かすわけにもいかない。結局咲夜は遠くエジプトまで、歩いてゆかねばならないのだった。そういえば途中海が有る。ルート取りにもよるだろうが、おそらくはそれより何十倍も長いであろう、陸の路も。まあ、なんとかなるだろう。なんて咲夜は楽観的だった。
時間とともに空間を操る事ができるとはいっても、この能力は流石に行った事の無い場所で軽々使える程便利なものではないのだ。
勿論、場所と場所の間を移動したという事実無しにはワープなんかできない。それは時間を操って、ある時間からある時間へと跳躍して、その間存在しないという事が彼女には不可能なのと同じだ。
一方で、時間の方は無限大だ。精神力、集中力の続く限りは止めておく事ができる。
これは、人が気合いで長い時間息を止めていられるのと、おおよそ同じに考えたらいい。
力技だ、力押しだ。その土地の、魔法使いが確か二人組と言ったか、一人だろうが二人だろうが、ましてや三百人も居ようが構うものか。
きっと私はその眼の前から、わずか気配に気付かせもしないで、その宝物を華麗に、いや違った、完璧、瀟洒に、きっと奪い去ってご覧にいれよう。
とにかく咲夜の目の前の障害は魔術師より海である。咲夜は時を止めて海を渡らんとするのははじめてだった。
レミリアの願いを聞いてこうやって幻想郷の外に出てきた事は何回か有るものの、その全て、この狭い島国の中で解決のつくものだった。
そうやって辿り着いた、海は荒れ模様、しかし時間は止まっている。葛飾北斎の有名な絵みたいに、いやあれほど大きくは見えないものの、崩れかかりながら静止した波たちも、なるほど規則正しく並んでいる。
磯の、海独特の、あのなんだか水っぽい感じのする香りが鼻をつく。
岩にぶつかり砕けた飛沫がだいぶ高くまで上がって半面に黒い海、半面に青い空を、映しているのが見えた。
音は無いが今にも音の伝わってきそうな光景ではないか。咲夜は、わずかに息を呑んだ。海の無い幻想郷ではこの風景、ふだんはお目にかかれない。
町が近い。港である。大船小舟がよりどりみどりに有るが用は無い。きっと櫂も動くまい、動かしても先には進むまい。所詮歩くしか道は無いのだ。歩く? 歩くだって? 歩けるのか? この海を。
一体、止まった時間の中で水の性質はどうなるのであろうか。咲夜が疑問に思ったのはこれだった。
古今、創作の中で色々な解が提示されてきただろうがその多くも、別段合理的に考えられたものではあるまい。
同じ流体として空気に準じ、咲夜が通ろうとする限りは邪魔をせず普段と同じように振る舞う筈であるか?
それとも今から探す聖杯の持ち主、イエス・キリストみたいに水の上を歩いて行けるか?
雨は空中に静止していて、触れればぴしゃりと肌を濡らすけれども、雨と海とで同じとも限らない。こういう現象には概念の問題さえ関わってくるからだ。どっちだ、さあどっちだろう。
紅魔湖で水の上を歩く練習をした事が有る訳ではない。従ってわからない。でもだからって、迷っていたって仕様が無い。ふっと意を決したように息を吐き出すとそれまで歩いてきたのと同じような大股で、いざとなったら何の躊躇も無しに、歩こう、なんとしても歩いてやろう、と、強い意思を持って海へと踏み込んだ。
するとざぶんと落ちて居なくなった。
ひととき経って、物凄い形相で海の中から埠頭へ這い上がってきた。なんだなんだ、空気と同じの方だったか。そりゃそうだただの人間に、救世主の真似事なんかできる筈が無い。そうでなくては困る。そうでなくては、キリストの血を受けた聖遺物なんて求める価値も無い。私の血で十分だ。
一息ついて、落ち着くと、衣装に水を滴らせたまま限りなく瀟洒に、
「工夫が必要ね」
とひとりごちた。困ったことにとんでもなく孤独なこの世界では、喋る台詞はなんでも全部ひとりごとになってしまうのだ。その事実は咲夜の様子を完璧からは、少し遠ざからせた。
海を泳ぎきる事は出来ない。
歩くのは気合いでなんとかなるし、休みながらでも良いからともかくとしても、そう長い距離を、泳ぎ続ける事は出来ない。プッチ神父がイルカに乗ったエンポリオを追いかけて行けなかったのと同じ理屈である。さて、どうしたものか。
そもそも咲夜さんは飛べるんじゃあないのかという疑問も有るだろうが、普段咲夜が飛ぶときは、周囲の大気の時間をゆっくりにして泳げる程度に流体的にしたのちに、エプロンドレスに羽根の役割を持たせて滑空しているのだ。なにしろ聖杯までどのくらい遠いのかわからない、一秒たりとも世界の時間を進められない、この状況でその方法は使えない。
時をゆっくりにしたら空気が流体になるのならば、時が止まっていたら固体になってしまって、動けないのではないか、と野暮な疑問も浮かばないではないだろう。そこは、こういう能力の効果には概念の問題もついてくるというものだ。世界全体の時を止めるのと、ものの時の流れを変えるのとでは、物質は全く別の様相を呈してくるのだと考えてもらえば差し支えないだろう。
さて、少し試した結果、宙を歩けないのと同じように、水は止まった時の中では足場としての用をなさないが、ナイフを投げて、ある地点で時を止めるという操作をする事でそのナイフを足場にできるし、在りし日の桃白白みたいに飛んでいく事も出来なくはないらしい事がわかった。
これで海を渡る方法は確立した。
と、そもそも。あれ、エジプトってどこだったろうか。
きっと外国だろうって事はわかるのだが。もしも外国じゃなかったら、今海を渡ろうとしているのもさっき海を渡ろうとしていたのも骨折り損のくたびれ儲けである。又聖杯について詳しく知る必要も有るわね、と考えた咲夜、すぐ近くの人里まで足を伸ばす。ずぶぬれのメイド服、不審なかっこうに好奇の目を向けるべき人々も、今は停止して、静まり返っている。
まずは手近な書店に入って、「図説 聖杯伝説 ~その起源と秘められた意味」という便利そうな、分厚い本と、「関東道路地図(スーパーマップル)」……地図らしきものを勝手に拝借してきた。
海辺に行って、まずは地図を開く。
それから書店まで戻り、すぐに道路地図を返して、子供向けの世界地図と取り替えて出てきた。
260日が過ぎて、辿り着いた土地は当然、と言おうか、真夜中であった。時間の経過によってそうなったのではない。場所の移動によって、時刻が変化したのだ。
いくら遠いとはいえ、もちろんこんなにかかるとは思っていなかったのである。
しかもここまで海をはじめ、灼熱の砂漠、空中に弾丸が、留まっている戦場、それだけならいいが、なんとも恐ろしい地雷原、などと、それはまったく並大抵な道程ではなかった。
急に降り出したらしいスコールの中を停止した雨粒に濡らされながら突っ切るのなどは流石に躊躇われた。
時間が止まっているからには濡れた服は基本的に乾かないので、べたべたするのが嫌だったら、是が非でもいったん脱いで絞ってやるしかないのだ。それでも机を拭く時の雑巾くらいには湿ったままになってしまう。
砂漠、流砂は流れないので決して脅威ではないものの、風に煽られて、宙に静止した砂塵は口に入って、苦い味を主張してきて鬱陶しい。目に入るほどだとこの上無く痛いし進めないので目を閉じて行くか、大きく迂回せざるを得ない。
更に高山では薄い酸素が、低地では洪水のあとが彼女を悩ませた。活力の有るこの若い身にも、ただでさえ坂道は余計に足腰、身体を疲れさせるのだ。
またこれは咲夜の旅と直接は関係の無い事だが、世界、幻想郷の外側では、思いも寄らぬ様々の悲劇が人々に巻き起こり降りかかっている事を知った。それは今まで彼女が知らなかった事であった。何が有っても決してお嬢様を、このような悲劇の真っただ中に放り出す事が有ってはならないと、強く決意を新たにした。
そもそも遠い。眠くならないので寝ていないが、明らかにそれが又蓄積された疲労の除去、回復を妨げている。今にも死ぬかという辛さ。下手をしたらこれで魔道士とやらと渡り合わなくてはならない訳だ。
だが静かに、誇らしげなもの、達成感も有った。自分はこの土地エジプトまで歩きとおしたのである。
またその土地の魔法使いの言語で書かれた本によれば、件の二人組の魔法使いの所在地も容易に知れた。
容易にとは言っても古代エジプト語やルーン文字、魔法言語、暗号の読み解き方など初歩的な部分を、道中このために色々と学んできたのだが。
それは幻想郷と同じような土地で、常識の世界にのみ生きる人間たちには侵入はおろか発見すらも困難であったが、幻想郷から来た咲夜は、容易にその結界を打ち破り、侵入する事が出来た。
彼らの居城は黄色い石が組み合わさって出来た建物で、内側は迷路のような構造をしていた。
侵入者撃退の魔法、呪い、結界は勿論様々に施されていたけれども、咲夜の対魔法使い用に準備し、溜めこんだ知識および生来の時間停止の能力によってそれらのほとんどが無効化された。
いくつかのダミー、偽造工作それらすべても見破って、ついに咲夜は、聖杯の保管されているらしい木箱を、開けた。
だがひと目みて瞭然、それはエメラルドで出来たなるほど高級そうなカップだが、しかし明らかに、聖杯としては粗悪な部類に入る偽物であった。
言わなかったが咲夜には時を操る応用で、サイコメトリーの能力というのが有って、直接触れさえすれば、それがどのくらい前に作られたものか、くらいはわかるのだ。
しかるにそれはせいぜい400年程度の歴史しか持たないものであった。
……たった一つの手がかりが、かくして消滅した。
たった一つの手がかりが、かくして消滅したのだ。咲夜は聖杯を、否、今や聖杯ではないと見抜かれてしまったただの杯を、そっと、もとのケースにしまいこんだ。
次に、十六夜咲夜は途方に暮れた。時を止めたのを、余りの気力の喪失ゆえ解除してしまうかしまわないかという程にショックだった。しかし途方に暮れている暇など今は無かった。
気を取りなおせば、すぐに、この、なんという名前だかわからぬ魔術師の館攻略の途中に、広大な地下図書館らしきものを見たのに思い至った。
紅魔館の大図書館にも匹敵せんと思えるこの魔道士の蔵書、資料、それらの中にも聖杯の手がかりがいくらか有るかもしれない。
まさか教えられた場所には有りませんでしたなどと言って済むものか。まさか、手ぶらで帰れるものか。きっと探し出してご覧にいれましょう。お待ちくださいお嬢様、それも、きっとほんの、お嬢様にとってはほんのひと時の間ですから。
咲夜はそれから更に100日ほど本職の魔術師か、鬼、読書の鬼にでもなったかのように、眠りもせずに、一心不乱にその書物を読んで回って、手掛かりを探していた。きっとそんな滅茶苦茶な様子を真似出来るのは世界でも他にただ一人、かの日蔭の少女、パチュリー・ノーレッジくらいのものであっただろう。
もしもその時止まった時のなかを覗ける人が居たら、メイド服の上にこげ茶色のコートを着て地図や資料を広げて立ちつくす少女を、あるいはその大股に歩きまわる姿を、世界中いたる所に見ただろう。
そしてさらにもっとよく注意して見たならば、少女のその服が薄汚れやがてぼろぼろになり、美しい銀の髪はくすんだ色になって風に舞う、そのさまをも見る事ができただろう。
そう、それから更に実に10年、20年、咲夜は時の止まった世界で、驚嘆に値するその忠誠心と言おうか、精神力と言おうか、それでもって時を止めたまま、地上全部を駆けずり回っていたのだ。
一つ一つの大陸には咲夜の他に動くもの、障害になるものこそ無いとはいえ、隅々まで歩きなにものかを探すとなれば案外広くて、東京という都市でめぼしい場所を巡るのに四年も留まった事さえ有った。
勿論バレンシア大聖堂、時のローマ教皇が本物と墨を付けた瑪瑙の聖杯も見に行った。残念ながら、確かに年代だけを考えても矛盾が生じる代物であった。
他に聖杯と言い伝えられるものを見て、触って、やった、確かにこれはおおよそ2000年以上前に作られたカップに間違いない、とわかっても、しばらくの裏付けののちに同じくらいの年代に出来ただけの偽物であると判明する事さえ何度も有った。
咲夜はその度鑑定について、また魔法言語について更に集中して学び、知識を深く、厚くしていった。物質の出自を悟るその精度も又、そのように臨んだ訳ではないけれども、磨きあげられて、どんどんと鋭くなっていった。
いつしか、世界の時を止めたままに、周囲の大気だけを緩やかな時間の流れで動かす、そういう複雑な時間操作の手技をも既に会得していた。ついに時を止めたまま、空を飛べるようになったのだ。
時に道なき道を行き、また一度など海の底、サルガッソー海に沈んだ沈没船の、宝箱の中を捜索したものの空振りに終わったという日さえも有った。
もちろんその時は魔術的手段を、イギリスのウェールズかどこかから、鰓昆布とかいう珍しい魔法植物を勝手に持ってきて、惜しげもなく使ったものである。
世の魔術師たち全てを長い間欺いてきた様々な暗号や歴史書の秘密たちが、彼女によって解きほぐされていった。
あてどない旅だ。ときどき聖杯に一歩か二歩、ほんの僅か近づいたような印象を受けるものの、それでもやはりいくらかその方向へと進んでみれば、道程の、遠さばかりがまた明らかになるのであった。
もう聖杯なんて無いんじゃないか。心が折れかかる事の、なかった訳がない。ストレートに失われた、という証拠と思しきもの、記述も沢山、様々な場所から見つかったりしたけれども、咲夜はそのほとんどを無視した。そしてそのごく一部からは、隠されたメッセージを読み解いて、聖杯の探索に積極的に役立てたりした。
その間咲夜の身体は通常の歳の取り方をした訳ではなかったが、だからといってそのメイドの服にばかり疲労と傷がたまっていったというわけではない。
時間は年月は咲夜の肉体にまた精神に歴然と刻み込まれ、彼女を酷く疲れさせた。北半球では空中に止まっている雪の粒たちが、南半球では焼ける熱さが、まったく余計に彼女の体力を奪っていた。
やがて時を止めてから秒にして93億2000万秒……実に295年余りが咲夜の時間で過ぎた頃……、ようやく彼女はトルコの田舎の小さな、古い教会の、地下の隠し部屋にその聖杯を見出した。
銀色でもなんでもなかった。黒いガラス様の材質でできた、小さな杯だった。持ち主が大工である以上、粗末であるのは考えて見れば当然の事であった。それは確かに、二つの特徴的な形の把っ手を、両側に備えていた。
長年……弾圧から逃れておおよそ10世紀余りを世から隠され、いつしか忘れ去られ、埃をかぶるがままになっていた姿は汚れた布にくるまれてみずぼらしい……。長い冒険を経て辿り着いた少女、咲夜の姿にも似ていた。
そうして見つけたそれが本物であるか否か確かに鑑別できる目も、咲夜は長い冒険の末に、もうその頃には持ち合わせていた。
さて、十六夜咲夜の精神から、もはやちょっとの成功や前進でもって、やった、やりきったと満足したり、自分を誇りに思ったりしてぬかよろこびする心境は全く拭われていたけれど……、今度はでも、しかし、確実に、本当にやりきったのである。幻想郷は紅魔館に帰る、ちゃんとこの聖杯を守りきって帰還するまでが聖杯探索の旅である、とはいえ……。
この杯は2000年ほど前に、キリストが弟子たちとの最後の晩餐に用いた杯である!
さらには、アリマテアのヨセフが処刑されたキリストの血を受けた杯である!
と、思えばこの黒い杯の、杯から漂う歴史の堆積の波が、オーラのようなものが、どうだろう、際立ってくる気がするではないか、しないか。ううん、いまいちしないなあ。
時の止まった世界の中で、ようやく出会えた聖杯を、咲夜はまじまじと眺めていた。
けれどもまあ聖遺物というのはここぞという時には何やら奇蹟を起こすにせよ、普通には所詮ただの物質であるから、普通の人間である咲夜にとってはこういうものであるのかもしれなかった……。
「ただいま戻りました」
「うわっ、びっくりした」
紅魔館備え付けの浴室で、時間停止を解除して、何百年もの間溜まりに溜まった垢と汚れを落とし、また清潔な服に着替えて、咲夜は本物の聖杯のみを携え、レミリアの前に戻ってきた。
帰ってきた時美鈴が門の前で、この土地を出た時と寸分たがわぬ、直立不動のやり方で居眠りをしているのを見ると、全く懐かしさなど有って、半分泣きながら笑ってしまったものだ。
今戻ってきた、この別離の時間の意味は、二人にとって大きく異なる。
十六夜咲夜にとっては数百年、レミリア・スカーレットにとってはせいぜいあなたがここまでこの話を読み進めてきた程度の、ほんの少しの短い時間。
だから再びお嬢様の前に立てる事、この事実に感動して、膝から崩れ落ちて、ぜひ咽び泣きながら抱きつきたい所であるが、もちろん咲夜はそれをしない。
それは瀟洒ではないからだ。完璧なる従者は常に主人に合わせるもの。ほとんどまったくの無感動を装って、なんでもないもののように聖杯を主に差しだせば、魔法使いは本を読む手をぴったりと止めて目を丸くしている。
「これが」
「ええ、聖杯です。本物の」
「ほう」
汚れたような、くすんだ黒色のカップ。
僅かな時間でもよほど待ちかねたのだろう、ひったくるように受け取ってレミリアは、右手で掴んで、何を思ったか急に、聖杯を宙に高く掲げた。ジブリ映画のもののけ姫で、サンとアシタカがシシ神の首をそうしたみたいに。
……じゃーん。
しかし、世界はそうする前と、なんら表情を変えなかった。
薄暗い紅魔館の地下図書館に、しかし、埃ひとつとて舞わない。
「なあんだ、何にも起こらないじゃない」
「えええ? お、おそらくそういう種類のものではないんじゃないかと」
なんだかレミリアは納得がいかない様子。聖遺物とはレミリアによればそこらに有るもののような見た目のうちに、内面には強大な魔術エネルギーを秘めているものらしい。
とすると今のは彼女なりの内蔵エネルギーを表に放出させる、儀式だったのだろうか。
「やっほーパチュリー、来てやったぜ!」
と、馴染みの有る白黒鼠の声がその場に響いたかと思うと一瞬、時を止めて守る暇も無く、音源は、レミリアの頭上すぐ上を通ってその後方に突き抜けた。
頭上すぐ上、には、掲げた聖杯、宝物が有った。
パチュリーの抗議と咳こみは、突入の大音量によってかき消された。
聖杯が、
咲夜がたいへんな苦労、と一言で言うには言葉があまりにも、あまりにも軽すぎる、ような、苦労をして、外の世界に探し求め、ついにトルコより持ち帰ってきた聖杯が、あっけなくばりん、ばりばりん、と、割れてしまうその音も。
その音も。
突入の大音量によってかき消された。
紅魔館にほとんど窓は無い。主が吸血鬼であるがゆえの配慮である。
ということは我らが霧雨魔理沙は、壁を平気でぶち抜いてきたのか、いやそうではなかった。そもそもが地下室である。壁をぶち抜くには地面を掘り進む必要が有るじゃないか。いくら霧雨魔理沙が豪快でもそんな事は出来ない。
今回図書館に突っ込んで来たのは、前に魔理沙その人が扉をぶっ壊したのを修復作業中で、今は穴のあいている所からだった。
衝撃が来なかった。咲夜にしてみればだからこそ対応が遅れたという事も有る。いや、だが、嘆かじな、この不運を。この瞬間十六夜咲夜は、完璧で瀟洒ではなくなった。主の宝物を守れもしなかった。結果が全てというならそれが事実よ。
侵入を許したのは何故だ、門番が寝ていたからだ。嗚呼さっき、叩き起こしておくんだった! あんなのでもきっと派手にやられる音の鳴るお陰で、私たちはこの不運の襲来を警戒できただろうに。
ざざあっ、と、皺一つ無い、いや無かった赤絨毯を蹴散らす風を巻き起こしつつ、衝撃とともに着地して、床にもまた不必要な大穴をどんと開ける。それでこっちを向いた、彼女の顔は自信満々喜色満面、にやにやしている。
……いつもならそのまま図々しくお茶など要求する所、それが、主に咲夜のまわりに漂うただならぬ空気、オーラと言おうか、これに気圧されてか、魔理沙の笑顔が一瞬、少しひきつる。
パチュリーもいつもと違う深刻な面持ちで、目を見開いて魔理沙を見た。主、レミリアは、まだ魔理沙の方を振り返らない……。
「あ、あれ。どうかしたか」
全く不思議な事だ。咲夜は思う。本当に、全く不思議だ、どうしてここまでやっておいて、悪魔の館の住人に、殺されてしまわないと思えるのか、たかが人間風情が。ひとたびお嬢様の命令が、抹殺の号令が有ればあなたなんか、時を止めて、世界じゅうを廻って身につけてきた、様々な呪いの標的にしてやるのであるが。さあお嬢様、ご命令を。躊躇う事は有りません、この大切なものを破壊した、白黒鼠の脳天を割れよと、いざ、いざご命令を!
レミリアは、今、咲夜の方からしか見えない、少しだけ、少しだけ残念そうな顔を浮かべたが、すぐに転換して魔理沙に向き直った。それで言った。
「ええ、別になんでもないわ」
と。
お嬢様は、魔理沙を責めない罰しない事を選択したらしい。ならば、不服も何も無い。従者はそれに従うだけだ。
咲夜がぱちんと指を鳴らせば、絨毯に散らばっていた破片全部が、きれいさっぱり無くなった。
聖杯の欠片を回収して捨ててしまったのである。咲夜の能力では、時間を戻す事は出来ない。起こってしまった事を、無かった事にする事は出来ない。
壊れてしまったものを直す事も。だから聖杯を修復する事は出来ない。これほど粉々になってしまっては修理も何もないものだ。
ましてやお嬢様が興味を持ったならまだしも、直して欲しいと言ったのならば、是が非でもまた直す為の努力を咲夜は怠らないだろうが……、そうと言いもしない。ならばそれが全てだ。お嬢様にとって無価値であればいかな聖杯とはいえ、それに付属してくるという全世界を支配する権利であれ、永遠の命であれ、十六夜咲夜にも同様に無価値である。
と、掃除を済ませたその姿に振り返ってレミリアが、ふふ、咲夜はまったく完璧で瀟洒なメイドだ、と、漏らした。
予期しないその称賛に、
「光栄です」
微笑を湛えて返した裏に、背筋のぞくぞくするような、素晴らしい感激だけが有った。
咲夜は自覚し、誇りに思うのだ。
言うまでもないことだ。お嬢様に喜んでもらう、その為だけに自分は存在しているのだから。
完璧に瀟洒に。その為になら、嗚呼、決して不可能なんか無い。どんなに無茶な事だって、自分にはきっとできるのだから。全て物事時間をかけさえすれば。
もしもお嬢様が望むならば、独り手作業で10秒のうちにあの三大ピラミッドを砂漠から幻想郷へ移転させる事だってやってみせる。
聖杯だって取ってこよう。それに、掃除だって滞りなく、いざ、完璧に、瀟洒に、成し遂げよう。
それら全て、この十六夜咲夜の、十六夜咲夜自身にとっては、重大な仕事で有ったり、またすぐに出来る些細な仕事であったりもするのだが……。
レミリアお嬢様からしたら、全て気軽に申しつけられるような、取るに足らない事であったって良い。
そうだ、聖杯の探索さえ気軽に言ってくださるように、それこそがこの十六夜咲夜の、小規模なご奉仕なのだ、などと、そう思っているうちに、くるっとレミリアが、魔理沙の方へ振り返る。それで意識の集中、と言おうか、あたかも陶酔のようなそれが特に前触れも無く途絶えると、咲夜はさっき時を止めて片付けた時に、自分の指の先の皮膚が、杯の破片によってちょっとだけ、切れていた事に気がついた。
こういう時は、完全瀟洒なメイドの指先に切り傷なんてあってはならぬと、その部分だけ時間を早めてさっと治るようにする。
それが完全に治りきるその直前に、なんとはなしに舐めてみる。
ぺろり、と、あの鉄じみた血の味が、舌の上のある限定された一か所にじわりと残った。
……なんでこれがスイカに合うのかは、やはりまったくわからなかった。
それから顔をあげて魔理沙の方へ駆けていくレミリアの背中、ぴょこぴょこと動いているかわいらしいその翼をぼうっと眺めながらふと、ほんの短い間だけ、まだ木屑が僅かに舞って、埃も上がっているこの地下室に重ね合わせて、あの冒険の初期に出遭ったエジプトはサハラ砂漠の、砂の混じった懐かしい大気を、あの大冒険の日々を自然に、じわりと懐かしく思い出していた。
素敵です。
そんな完璧で瀟洒な従者でした。
非常に心苦しいが満点をくれてやろう
完全に人間じゃないね
この発想力が欲しい。
…ちょっと魔理沙。きれちまったよ。久々に
てか咲夜さんの知識はもうパチュリーを完全に超えているのでは?
というか今回が初めてでないなら、生きてきた時間はレミリア以上なのか…?
兎に角、紅魔館最強は咲夜さんっぽいんだけど…
最高でした!
ただ、魔理沙のアレ過ぎる無神経さについムカッとしてしまった分をマイナス10して、140点にします(笑)
あとはこの主従の無言の信頼関係に、性的興奮すら覚えました。
好きです。
もっと読んでいたいなあと思わせる素敵な作品をありがとうございました。
例えば咲夜に歩かせたいがためだけに空を飛ぶのには時間の経過も必要としたり。
この内容で書きがために設定を構築してる、というのが透けて見えたため
イマイチ物語に乗り切れませんでした。
…で、瀟洒ってバケモンって意味でしたっけw
例はとにかく多すぎて上げきれません。
止まった時間で飛べないなら弾幕ごっこのときは時間を止めるたびに落下してるのかとか、止まった時間での水の性質もその説明も納得がいかないとか、時間が止まってるなら地雷原なんて怖くないでしょとか、なんで時が止まってるのに風がふくのとか、咲夜さんが約300年も時を止めてるのとか。
作風も文章もギャグならまだいいですよ、でも文章がなんか真面目な感じなのにそういうところが突拍子もなさすぎて受けつけなかったです。
時間の止まった世界について詳しく書くことはそれだけで多少の読者を限定してしまう要素なんじゃないかと思います。時の止まった世界は全人類が知りようのない世界ですから、そこに説得力を持たせることは並大抵ではありません。そして説得力を感じなった設定は作者だけが楽しんでいる設定と読者は感じてしまいます。
この物語に説得力なんてない。だけど、それが逆に面白かったです。
言うならば、B級映画。リアリティを求める人には合わないだろうが、これはこういうものなのだと納得してしまえば、存分に楽しむことができると思います。
自分はこの話は非常に楽しめました。大満足です。
作者様こんなに良いSSありがとうございます!