Coolier - 新生・東方創想話

東方狂魔館 Completed(前)

2005/05/16 08:17:21
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 それは、とても懐かしい光
 遥かな昔から、私たちはその光を浴び、その光と共に在る
 光は冷たく、どこまでも澄んでいて
 そこから生まれた私たちも、それにならうように冷酷であった
 忌み嫌われる、綺麗な純光
 とても綺麗な、純粋な狂気
 それは、とても懐かしい光だった




/0

 紅い悪魔と謳われしレミリア・スカーレット。
 かつての夏、彼女が作り出した妖霧により幻想の世界は赤く覆われた。その霧は幻想郷から日を隠し、結界を越えてついには外界へまで侵入しようとしていた。
 幻想郷の結界とは『知られていない』という事実。この霧という異常が外に漏れるということは幻想郷の存在そのものを揺るがしかねない非常事態だった。
 しかしある二人の人間によってこの事件は一夜にして収束することになる。
 紅白の巫女……博麗霊夢、そして黒の魔法使い……霧雨魔理沙の両名によって。

 それから僅かな時は流れ。

 とある日のこと。
 博麗神社の巫女、博麗霊夢はいつものように境内の掃除をとっとと済ませ、のんびりと夕暮れのお茶をすすっていた。

「今日は風がすずしくていい気持ちね」

 この上なく呑気だった。
 一応、霊夢はここ数日の不吉な空気……紅魔館のあたりでよくないことが起こっていることは知っている。だが霊夢にとっては、そんなことより最近お茶受けが不足していることの方がはるかに重要であった。
 最近の博麗神社は千客万来。なにしろ、亡霊の団体さんや月のお姫様まで来るようになった始末である。

「まったく、お賽銭のいくらかでも放り込んでいけっていうのよ」

 もっとも幻想郷において神仏を信仰するものなどいない。信じるも何もそこらじゅうに妖怪だの亡霊だの魔法使いだのが飛びまわっているのだから、わざわざ崇め奉ることもない、ということなのだろう。
 そんな幻想郷の端っこにある神社に、当の魔法使いがふよふよ飛んできたのはその時である。

「よ、霊夢。お邪魔するぜ」
「お茶菓子持ってきた?」
「それはもてなす側が用意するものだぜ」

 用意してきていないようだった。
 いつものことなので霊夢はそんなことで腹を立てたりしない。
 黒魔法使いはいつものように勝手に縁側に座って雑談を始め、紅白の巫女はいつものようにぶつぶつ言いながらお茶をいれるのであった。
 そんな巫女と魔法使いがいる神社に、当の亡霊がふわふわ飛んできたのはその時である。

「おじゃまするわよ、霊夢、いる?」
「―――お嬢さまぁー、待ってくださいよーっ!」
「お、亡霊に半人前、珍しいな」
「お茶菓子持ってきた?」
「ああ、あなたもいたのね。ちょうどよかったわ、気づいてると思うけど、例の赤い屋敷のことで話があるのよ」
「ふうん? 確かにおかしいとは思ってたけどな。血を吸うわけでもないのに何人もやられてるんだろ?」
「お茶菓子持ってきた?」
「別にかまわないと思っていたのだけれど。どうも意味なく死ぬと、成仏できなくてうちにくるらしいのよ」
「へえ、白玉楼にか?」
「ええ、仲間が増えるのはいいけれど、このままじゃいつか庭がいっぱいになっちゃうから困るのよ。って妖夢が言うのよ」
「ええっ!? 私ですか!?」
「お茶菓子持ってきた?」

 黒の魔法使いはしばし思案することもなく、散歩にでも行くかのように立ち上がる。

「それじゃあ、ちょっと様子見に行ってくるぜ。……ついでにパチュのところからまた何冊かいただいてくるか」
「ああ、ちょっとまって。ねえ、霊夢も行ってくれないかしら?」
「お茶菓子」
「…………」

 妖夢が無言でお土産の桜餅の包みを手渡す。

「あ、ほんとに持ってきてたのね」
「お嬢様の頼みだ。博麗も行ってみてはくれないか?」
「何言ってるのよ、妖夢。貴方も行くのよ」
「ええ!? 私も行きますの!?」
「わたしはこれから友人に会いに行くのよ」
「い、いや。しかし……」
「行くの」
「…………はい」
「?」

 珍しく幽々子の命令に躊躇う妖夢に二人は首を傾けた。
 だがどうでもいいのですぐに忘れた。

「というわけだから、行ってらっしゃい」
「はいはい、じゃあちょっと行ってレミリアをこらしめてくるわ」

 立ち上がり、やり投げにぱたぱたと手を振る霊夢。決して桜餅につられたわけではない。

 かくして紅魔館に二人と半分、幽霊半分が飛んでいく運びとなった。
 ある半月の夜のことである。



/1

<白亜の湖 上>

 広いひろい湖の上をふわふわと飛ぶ一人。びゅうびゅうと飛ぶ一人。あせあせと飛んでいる半分。
 魔理沙の、久しぶりに知り合いの家に転がりこもうか、などという気軽な空気は当のその館に辿りつく前に4割くらいは消えて無くなっていた。

「―――チルノがいないな」

 先頭をびゅうびゅう飛びながらボソリとつぶやいた。
 チルノがいない。
 この湖を遊び場にしている妖精。霊夢たちが紅魔館に行く時は十中八九ちょっかいを出しきては返り討ちにあっている雪ん娘。
 彼女は夏だからといって休まない。お子様は年中無休で遊ぶのが仕事である。実際、初めて魔理沙が彼女に出会ったのはある夏の日のこと。
 ……幻想郷が赤色の幻想に覆われた、あの夏のこと。
 そして、今の湖の周りには、あの時を越える程の濃密な霧の残滓が。

「今日はたまたま他に行ってるだけでしょ?」

 後ろをふわふわ飛んでいる霊夢がもっともなことを言う。
 魔理沙もそんなことは分かっているつもりだったが、片隅に残る、何か暗いモヤを振り払えないでいた。

「(嫌な予感、か……ガラじゃないぜ、まったく)」

 二人は順調に、一路、紅魔館へと向かっていった……。

「ちょ……待……」

 ……半分遅れているのがいた。
 人間は普通、箒やロケットなしに空など飛べない。霊夢とか咲夜は特別である。半分人間な妖夢だけは、水面近くをあせあせ飛んでいた。

 ついでに魔理沙の予感というのはあたった事がない、とだけ付けくわえておく。



<紅魔館 正面門前>

 紅魔館は変わり果てていた。
 いまなお赤い霧は壁をドス黒く染め、以前あった絢爛さは不気味さにすりかわっていいる。それは今が夜だから、というだけではもちろんない。
 僅かに残るのは霧の色。それは即ち死後の血液。
 僅かに香るのは霧の残り香。それは即ち強力な妖気。
 霊夢と魔理沙は闇の落ちる岸辺に立ち、目前の館のあまりの変わりようを眺めている。

「えらいことになってるわね」
「掃除が大変そうだな、メイド長」

 有能すぎるせいか色々とこき使われている銀髪の彼女を想って、二人は心底同情する。

「もともと紅いから変わらないんじゃないか?」
「こんなのは紅じゃないわよ。いい? 紅と赤と蘇芳と茜と臙脂は全部違う色なの」
「色の種類なんかどうでもいいぜ」
 
 まるで奇抜な模様替えでも目にしただけのような感想を言い合う二人。館にいるちょっとアレな主人のことを思うと、本当にただの模様替えかもしれなかった。
 その時。

「―――ろ! ―――げろ! 二人とも!」
「あー?」「え?」

 背後から必死で飛んでくる妖夢の必死の声。
 と同時。

「ッ!」「おいおいおいッ!」

 門の横から飛来した極彩色の気弾が二人を襲う―――!

―――ィイイインッ! ドドドドドドドドドドッドドドカァッ!

「博麗っ! 霧雨ーっ!」 

 遅れて岸に到着した妖夢が叫ぶ。見る限り、二人はオーロラの如き密度の弾を避けもせずくらっていた。
 巻き上げられた土塊、跳ね上げられた水膜でその姿は見えない。無事を確認するには少しの時間を待たなくてはならないだろうが……後回しだ。二人の安否の確認より先にすべき反応がある。

「(……いる、近くに攻撃した者が)」

 パラパラと土くれが地面を打つ。霧と夜に閉ざされた闇に潜むように、妖夢は身をかがめた。片手で楼観剣を抜き放ち、辺りをうかがう。
 妖夢は知っている。この攻撃の主。この場所で敵対者を撃退する門番の名を。
 先に見えれば終わる。妖夢とこの敵の性質を比べれば分かる事だ。正面からの勝負では互角、だが先手を取ることができるならば一瞬で制圧できる。

「……」

 身体と精神を周囲に同化させ、目線と気配だけで索敵範囲をゆっくりと動かす。

 ぱらぱらと飛礫が落ちていく。
 その、向こうに。
 ―――見えた。艶のある赤い髪。下げた二つの三つ編み。紅 美鈴。

 だん、と。確認が完了する前に地面を蹴る。

 彼女はあたりをうかがっている。遅い。
 こちらの蹴り音を聞きとどける。遅い。
 気配でこちらの襲撃を感じとる。遅い。
 短時間で迎撃できる方法を用意。遅い。
 最速で右手の平に気を集中する。遅い。
 ―――全て、遅い。

 だん、と。二度目の音は美鈴の寸前で破裂する。
 妖夢は楼観剣を巻くようにして構え、そのまま。
 剣の柄で美鈴の右手を強打。―――勢いのままに全身を当身した。

 首の上で、かは、と息を吐き出す音。
 後ろから足を払い、地面に押し倒してから、その眼前に空の掌底を寸止めした。


 目を見開いた美鈴は妖夢を凝視する。
 左の掌、右手に握られた楼観剣、『動けば容赦しない』と雄弁に語る目……。その完全な残心を目の前に負けを認め、くたり、と身体の力を抜いた。

「……どうしてこんな事を」

 手を引きながら妖夢は問う。美鈴はお互いに見知った人物だった。だから妖夢は紅魔館に来る際、彼女に撃退行動をとられるなどとは考えていなかった。

「美鈴さん、レミリア・スカーレットはどうしたんですか。ここに残る霧は……いったい」
「わからないわ」

 おそらく彼女の言い得る全てが、その一言にこもっていた。

「五日前くらいから……少しずつお嬢様はおかしくなっていってしまわれた。何故かは分からないけれど、人間が欲しい、と何度も……そんなに血をお召しになるはずがないのに」
「血を吸うためでも無いのに人をさらっていった……?」

 幽々子様と霧雨が話していた通りだ、と妖夢は確認する。

 この世界では妖怪が当たり前のように存在し、当たり前のように人を喰らう。それはきっと、本当に当たり前のことだからだ。
 だがここの妖怪たちは必要以上に人間を狩らない。こちらにいる人間は非常識な連中ばかりだし、幻想郷の境界を越えて『神隠し』を実行することは、幻想郷を隠しておきたがる妖怪たちにとってはあまり賢い方法では無いから。
 それは吸血鬼であるレミリアも同じこと。まして彼女はひと一人分の血液も飲み切らないほどの小食だった。

「何のためかは分からないわ……けれど、私達はそれに逆らえなかった」

 だって、と美鈴は唇を振るわせる。
 
「……お嬢様、とても苦しそうだった。紅魔館の一番奥の、ご自分の部屋に一人で閉じこもって、ずっと何かの病と戦っているみたいに、うめいたり、暴れたり。それで、館には誰も近づけるなって……人が連れてこられると、少しおさまるけれど、また……もっと苦しそうに。あんなお嬢さま、わたし、初めてみた」

 倒れたまま、美鈴は啼いていた。声に出さず、涙を流さず。主を襲っている不可思議な狂気に憤って。何も出来ない自分の無力を悔やんで。

「―――助けて。……お嬢様を、助けて」

 その意思だけを、紅魔館とは本来無関係な客人に託した。

 妖夢には、彼女の悲しみが分かる気がした。主を救えない部下としての、そしてそれを託すことしか出来ないことへの、身を切るような悲しみが。
 妖夢は自問する。自分はこの想いに答えられるのか。斬ることしか出来ない自分に、レミリアを救うことなど出来るのかと。

「今のを聞いてると」
「――――」

 聞き覚えのある声が聞こえた。振り返った先にはいまだ立ちこめる土化粧。それに映る人影が徐々に大きくなってくる。

「どうも、ただレミリアをとっちめればいいってわけでもなさそうね」
「……ふん、私はパチュの本を借りに来ただけだぜ」

 霊夢と魔理沙は、ぱたぱたと服をはたきながら何事もなかったように姿を現した。

「……無事だったのか、二人とも」
「これでも巫女やってるのよ。お守りと御札はいつでも取り出せようにしとかないとね」
「あー、販売用か?」
「お払い用よ!」
「…………」

 どこまでものんきな二人のかけあいに、妖夢はひとり、肩を落とす。
 と、すぐ近くで押し殺した笑い声が聞こえてきた。ついと顔を向けると、誰も何もない、それは美鈴だった。

「……なにが可笑しいんです」
「いいえ。……なんだか、安心してしまって」
「はあ……」

 妖夢の返事ともつかないため息は、赤い霧の残り香に溶けて宙に消えていく。
 自分がいくら剣を振っても、この霧を切り裂いて消し去ることなど出来ない。
 だけれど。この二人ならきっとこの赤い霧を吹き飛ばすことも出来るのだろう。そんなことを思ってしまった自分に、妖夢は少し情けない顔をする。
 
 夏の終わり、ある下弦の月の日であった。



/2

 幻想郷の境界にその屋敷はあった。
 古式ゆかしい、見るものに歴史を感じさせるその屋敷に立ち入る者などほとんどいない。
 そんな場所に歩み寄る者がいる。
 夕暮れの太陽に影を伸ばし、土を踏み、門をくぐり入る少女がいる。
 西行寺幽々子。亡霊の姫と呼ばれる冥界の一大人物であった。

「―――ちょっと待った!」

 突然空から降ってきた声に、幽々子は首を上向ける。
 見ると天を背に、何やらくるくるくるくると回りながら落っこちてくる影があった。
 すとん、と。
 両足をキレイに揃えて着地したのは雨後の土色の髪をした娘。頭の上にのっけた奇妙な帽子、ピンと立った耳は偽物ではない。
 彼女は屋敷に住まう黒猫の妖怪である。見たところあまり黒は入っていない気がするが、黒猫の妖怪である。加えて名前が橙というのだからもうワケが分からない。
 そのワケが分からない妖怪は元気いっぱいに来客を妨害してきた。

「そこのお前ッ! 何者だっ! 呼び鈴も鳴らさず入ってくるとはいい度胸だっ!」
「―――あのインターフォン、一度も鳴ったのを聞いたことが無いのよ」

 屋敷には幻想郷には珍しい人間の品物が結構集まっている。ただそれらはまるで機能していない、もしくは本来とは違った方法で使われていたりするのだ。
 件のインターフォンはナントカ堂という店から仕入れたらしい。設置後、一度として仕事をしない品物を売りつけるとは、なかなか信頼できる店である。

「というか、そもそもこっちに機械は合わないのよ」

 その最大の原因は電気が通っていないことだと思われる。

「さて、じゃあ橙ちゃん、ご主人さまを呼んできてくれる?」
「え……お前、藍さまの知り合いか……?」

 ぶんぶん振っていた右拳がぴたりと止まる。
 藍というのはこの子の主人ではあるが、屋敷の主人ではない。このあたりちょっとややこしいことになっていて面白いと幽々子は常々思っている。
 幽々子が用があるのは屋敷の主人の方だったが、言い直すのも面倒なのでそのまま流すことにした。

「まあ、そんなところかしら。勝手に入ってきたことは謝るから、呼んできてくれる?」
「…………わかった」

 主人の客ならばと急におとなしくなった橙は、ててててっと屋敷の方へ駆けていく。
 目を細め、遠ざかっていく元気な背中を眺めながら幽々子はこう思うのだった。
 あの子、また私の顔を忘れてたわね、と。
 西行寺幽々子、この屋敷に来るのは数十回目。
 意外と嫌われてるのかもしれない。


 藍という名の狐の式神に伴われて、幽々子は屋敷の縁側を歩いていく。
 そろそろ日が沈みきる。いまだ庭を赤く燃やしているヒはじきに消え、薄暗い夜が始まるだろう。
 夜は妖怪の時間であり、幽霊の時間であり、そして吸血鬼の時間である。
 吸血鬼は陽の下を歩かない代わりに夜を歩く。自らの象徴である月の光を存分に浴び、夜の世界を闊歩し、月の下で血を吸う。
 だが、ここ五日ばかり白玉楼にやってきた中におかしなことを言っていた者がいた。

 曰く、『自分は吸血鬼に殺された』

 ここまではよくある話だと幽々子は思った。しかし次の言葉に幽々子はかすかな違和感を覚えることになる。

 曰く、あの吸血鬼は自分たちの血を吸わずに殺した。

 成る程、だからこそ彼らは亡霊となって白玉楼にやってきたのだ。
 人は強い未練を残して死ぬと亡霊になる。それが基本であるが、それ以外にも亡霊になる条件は存在するのだ。
 それは、『無価値に殺される』という条件。
 事故や天災といったものではなく、本来その死によって果たされるべき役割が果たされなかった時、その死の行き所が無くなり亡霊を生む。
 だとすればその吸血鬼は、最初は血を吸う気で彼らを殺しておきながら途中で吸うのを止めたということになる。
 さらに彼らはこうも言っていた。

 曰く、自分たちは月の明るい夜、館の一番奥、暗いくらいただ広いだけの牢獄で殺された。
 曰く、そこには服を血で真っ赤にした少女がいた。
 曰く、少女は砂漠で迷った旅人のように血走った目をして、自分たちに近づいて……そして

 そこから先は覚えていないそうだ。
 その話から吸血鬼がレミリア・スカーレットであることは十分に分かった。

「―――紫さま。幽々子さまがお見えですが」

 その言葉にむしろ幽々子がはっと気がつく。どうやら考え事をしている間に友人の部屋に着いていたらしい。
 着いていたのだが、一向にその友人が出てくる様子が無い。

「紫さま、客人がお見えなのですが……」

 反応皆無。それを見て取った式神は幽々子と肩を並べてため息をつく。
 主人が、友人が中でどうなっているかなど、彼女と知り合って三日とたたない者でも理解できよう。
 あえて言うなら心身の活動を休止し目を閉じて無意識状態に入っている、と言うか。

「……それでは、少々離れてお待ちください」
「ええ、結構急ぎの用だから」
「承知しました」

 なんなら永眠させてやれ、という意味の言葉に躊躇いなく返答する式神。
 幽々子は式神の言葉に従って十歩ほど部屋から退いた。縁側から庭と、その向こうの風景を見る。

―――風が涼しくなってきた。
   夕闇が太陽を追って幻想郷を染めていく。
   昼から夜へ。
   世界が入れかわる光景を目にしながら。
   何処か、物凄く近い場所で炸裂する爆音を聞いていた―――



<紅魔館玄関前>

―――「貴方たちが来たことはもう館の中に伝わっています。玄関の扉が開くと同時、かなりの数の下僕が攻撃してくるはずです」

 美鈴が言っていたことは多分本当だろう、と霊夢は思う。
 小さな家なら一軒飲み込みそうなほどの大きな扉。それ一枚を隔てて何十という妖気が感じ取れた。
 それを告げて、ふいっと霊夢は後ろを振り返る。

「それじゃあ、魔理沙、妖夢、さっき言ったとおりに」
「ああ、任せな」
「……本当にやるのか? あんな出鱈目を」
 
 後ろには二刀を手に渋い表情の妖夢と、箒を置いて肩を鳴らしている魔理沙。
 
「いいのよ、待ち伏せが分かってるなんて状況、もう無いわよ? 罠にかけるつもりでいる相手を思いっきり罠にかけかえすなんて、素敵じゃないの」

 いたずら小僧さながらに目をきらきらさせる霊夢。

「せめて確認してから……」
「面倒だからだめ。―――じゃあ行くわよ。いち、にい、のう……」
「ちょ、ちょっと待……っ!」

 掛け声とともに霊夢がぱぁん、と手を叩く。
 妖夢が慌てて扉へと疾走し、楼観剣と白楼剣をそれぞれ三閃させた。最後に蝶つがいを斬り捨てられた扉は、その重量のままに崩れ落ちていく。

 中にいた下僕の数は確かに普通ではなかった。長く広い廊下の上と宙に何十もの人外が、手に火を、手に氷を、それぞれの武器を今にも放とうと準備していた。
 突然崩れた扉に面食らって動けない者が半数。あとの半数はその向こうに立つ人影を認め、準備した弾を容赦無く撃ち放ってきた。
 彼らにしてみれば飛んで火に入る無防備な獲物。それぞれの全力を存分に出しつくし、ストレス発散かのようにそれを叩きつける!

「恋の魔砲に」

 その声が聞こえた時。多分、彼らの時間が止まった。

 思いっきり振りかぶられた手には白光の塊。閉じ込められた力は風を生み、爛々とエモノを見るその目に麦穂色の髪がぱさりとかかった。
 離脱する霊夢と妖夢。その後ろに隠れて彼らには見えなかった三人目。
 幾度となくこの場所を訪れ、主の友人の持ち物である魔法図書館を勝手に漁り、彼らが妹様と呼び敬うフランドール・スカーレットと壮絶な弾幕ごっこを繰り返しては去っていく嵐。
 いわく、紅魔館では彼女を密かにこう呼ぶという。

 『破壊魔』 霧雨魔理沙 と。 

 飛んでいく氷雨、熱風、炎玉、あるいは雷。つい今しがた放ったばかりの攻撃を強制終了して逃げようとする下僕たち。皆必死。ほぼ恐慌状態で火事場から脱出する人間さながらに窓へ背後へ天井へ傍らのドアへとにかく殺到し

「―――吹き飛びな」

 遅かった。


 紅魔館が揺れる。というより紅魔館が建っている地面そのものが揺さぶられた。
 暴走列車じみた破壊の光は周りを巻き込みながら容赦なく廊下を突き進み、壁を貫通してあさっての方向へ突き抜けていった。

 ぉぉおおん、という風の断末魔が紅魔館の中から聞こえてくる。

 文字通り全てを吹っ飛ばすはずの光の大砲。しかし、魔理沙たちからまっすぐ見た廊下の向こう側は壊れてはいなかった。直線に貫くはずの大砲は紅魔館の中ほどで折れ曲がり、その向きを直角に変えて抜けていったのだ。
 この大砲を曲げることなど魔理沙自身にだって出来はしない。幻想郷の中でも単純な方法で魔砲の軌道を変えられる者などあんまりいない。
 故に曲げられたのは魔砲ではなく。その通り道となる空間の方だった。

「……ふん、メイド長のしわざか。咲夜も大変だな」

 右手を突き出した姿勢のまま魔理沙が口にしたその名前に、妖夢は僅かに肩を震わせた。
 先ほど美鈴が妖夢たちに口にしていた、もう一つの事柄。妖夢には分かりきっていたその事実。

「…………っ」
「結局けっこうまだ残ってるわね」
「私のせいじゃないぜ」

 霊夢と魔理沙がそれぞれ符と箒を手にする。
 見ると、紅魔館の奥に残った下僕と新しく集まってきた者たちが再び廊下を塞ぎだしていた。所詮二人の敵ではないにしろ邪魔であることに変わりはない。
 二人が紅魔館に足を踏み入れ、それらを迎え撃とうとした時。その間を。
 ひゅん、と。鋭風が薙いだ。

「……え?」
「なに……?」

 二人の戸惑いは一瞬。

―――ィン キィンッ!

 長柄の閃光が宙を舞う虫を落とす。

―――キュイン……ドスッ!

 収束する鋼が地面這う獣を刺す。

―――た、た、ダンッ!

 足運びに遊び一つ無く。
 その小さい体躯は床を蹴り壁を蹴り、目に映る障害を片端から斬り捨てていく。

―――サシュ!

 次へ。

―――斬ッ!

 次へ。

―――どんっ! カッ! ギャリィン! びしゃ! ドッ! ガスッ! たんっ! た、ドカッ!

 次へ、次へ、次へ、次へ、次へ、次へ次へ次へ次へ次へ次へ……!

 見る見るうちに下僕たちは地に伏せていく。
 廊下をうめつくすかのような数は瞬く間に減り、徐々に廊下の向こう側が見えるようになってくる。それは、まるで白光に切り払われる闇のようだった。

「……すごいぜ」

 魔理沙が素直に目を見張る。自分のような砲撃を使わず、ただ身体と刀のみで大量の敵を沈めていく妖夢の凄まじさを改めて確認して。

「先に行け」

 目前の敵をあらかた片付けた妖夢は、背を向けたまま端的に言い放った。

「あー? お前はどうするんだ?」
「おそらくこのまま進んでもレミリア・スカーレットにはたどり着けない。縮めるか曲げるか……どちらにせよ、通路の空間は歪められているだろう」
「咲夜か? ……なるほどな、そいつぁやっかいだ」

 十六夜 咲夜。この館のメイド長をしている彼女の能力は、時間を自由に操ること。
 時間と空間は密接な……同意と言っていい関係にある。空間を構成する距離。距離を決定する速度。速度を決定する時間。難しい理屈はよくは分からないが、彼女は空間を操ることが出来る。
 先ほど魔理沙の魔砲をねじまげたのも間違いなく彼女だ。同じ方法で妖夢たちを迷わせることだって出来るだろう。

「でもさっきのは館を守るためにやっただけで、咲夜が邪魔してくるとは限らないんじゃないの?」

 霊夢がのんきにそう言ってくる。
 妖夢は……そんなことは絶対に無いと思っていた。

「あのひとは、必ず立ちはだかる」
「どうして?」
「美鈴さんがそう言っていた」

―――「お嬢様は咲夜さんにも……、でもまだ……ずっとお嬢様の側にいる、って……」

 ……それに、妖夢には咲夜のことがよく分かる。
 妖夢は魔理沙の次に紅魔館をしばしば訪れていた。魔理沙がパチュー・ノーレッジに会いに来るように、妖夢は咲夜に会いに来ていたのだ。
 彼女は半幽霊である妖夢より歳若い。それに従者としての経験の長さも妖夢のほうが遥かに上だった。
 だけれど妖夢は彼女に話を求め、それを学ぼうとした。自分とは異なったあり方。人間でありながら吸血鬼の従者となった彼女の話は、自分よりもずっと先輩のもののようだった。
 妖夢には、咲夜のことがよく分かる。
 レミリア・スカーレットがどうなったかは分からなくとも、これだけは確実に。

「咲夜さんはレミリア・スカーレットを決して裏切らない。最後までついていくだろう」

 それは従者としてただ一つ、妖夢と咲夜が共通して持っている絶対のもの。

「十六夜咲夜は私が倒す。そうすればこの館の道も開けるだろう」
「ひとりで大丈夫なの?」

 妖夢は目線を霊夢に返して、一言だけ答えた。

「―――当然だろう」

 そう言い捨てて、妖夢は再び地面を蹴った。玄関付近にある階段。二階に上るために。
 その場所にいる、この館最高の従者と戦うために。

 ある満月の次の下弦の下。
 風穴の開いた紅魔館に、終夏の風が吹き込んでいた。
 


/3

<紅魔館 時計の間>

 今夜は、きっと永い夜になる。
 蝋燭の灯りが照らす部屋の中で、ひとり佇む彼女はふとそう想った。
 周りには無数の柱時計。カチコチと。絶対の時を刻みながら、時計はどれ一つとして同じリズムを奏でない。まるでこの部屋でだけは絶対であるはずの時が傾いでいるかのように。
 千の時が乱在する。
 その歪んだ時の間で、十六夜咲夜はナイフをもてあそんでいた。
 これからこの場所に誰が来るかは分かっている。あの子と戦わなくてはならないことも。そして、それを忌避する自分がいることも。

「…………」

 だからといって躊躇いなど無い。彼女はそれほど弱くも甘くもなかった。そして恐らくはあの子も同じだろう。

 ひゅ、と。スナップだけで手のナイフを飛ばす。そのナイフは正確に壁にかかった時計の中心に突き刺さり―――寸前で消失した。

 いや、そのナイフは今再び咲夜の手元に戻っていた。一瞬すら長すぎる時の間、咲夜は確かにナイフを戻したのだ。 
 時間・及び空間の操作。彼女に与えられた、あるいは彼女が掴みとった能力。その研鑽と駆使の結果がこれだった。妖が跋扈する幻想郷において人間である彼女が生き抜いていくための武器。
 ……だが、彼女の本当の武器とはそれではない。矛盾した言い方だが、彼女の持つ最高の武器は彼女自身である。
 瀟洒という形容詞で呼ばれる咲夜には、それにふさわしい機転がある。冷静な観察眼がある。判断する思考回転がある。なにより行動に移すための、すっぱりと切れ味のいい性格を持っている。
 彼女の持つ能力は全てが付属品だ。例え凡人の能力しか持っていなかったとしても、彼女の手はそれを数段上の領域にまで昇華できる。それこそが完全にして瀟洒と評される所以、彼女の持ちうる最高の武器―――。

「……来たわね」

 咲夜は部屋の中央に立ち、そちらを見る。
 この部屋には窓はない……けれど厚い壁を通して、ごろごろと蠢く雲の気配を感じ取った。
 ああ、きっと今夜は雨が降る。
 遠ざかるように、歯車の音が止んでいた。


 ギイと扉の開く音。足音を床に吸わせながら入ってきた侵入者は、やはり一人。
 咲夜はその方向に目だけを向けて応えた。
 性格を表すかのようにまっすぐの、銀白の髪。咲夜の数倍は生きているだろう彼女の顔立ちはしかし幼さを残し、だからこそこちらを見すえる瞳はどこまでも澄んでいた。
 咲夜はそれを羨ましいとは思わない。だけれど、その純粋さを好んでいたのは確かだった。もしかすると憧れてさえも、いたかもしれない。

「こんばんわ妖夢。今夜はいい月ね」 
「咲夜さん。どうしても退けませんか」

 話しかけた軽い調子を妖夢は全く無視した。
 ……もっともこの子にそんなのは似合わないのだろうけれど、と咲夜は思う。

「ええ。私はお嬢様にお仕えする者。お嬢様と共にあり、お嬢様の命令に従う。それが私なのだもの」

 妖夢は、苦しそうな表情を隠しもしない。

「……何故。レミリア・スカーレットは無差別に人間を襲うようになっている、不必要なのにです! 明らかに彼女はおかしくなっているのに、貴方はそれに従うというのですか……!?」

 火を吐くように、妖夢は言う。
 レミリアの異常は美鈴でさえ知っていることだ。咲夜が気づかないはずがないのに。それなのに、なお今のレミリアに付き従うというのかと。

「―――それがどうしたってのよ(・・・・・・・・・・・)

 妖夢の声を銀色に斬り捨てるように、咲夜は返した。
 冷たく。冷酷に。水面に映る月のように。

「吸血鬼が人間を襲うのは当たり前のことじゃないの。いまさら何を言っているの? 教えてあげる。お嬢様はね……元からああだったのよ」
「え?」
「血に染まり、紅に身を汚した悪魔―――お嬢様はスカーレット・デビルに……私と逢ったころのお嬢様に戻っただけなのよ」

 それで言葉は終わる。
 視線が射抜く。殺気が切り伏せる。
 もはや一片の話し合いも不要と咲夜は両手を振る。現れる短刀七つ。このまま呆けているようなら躊躇いなく穿つと、針となった意思が言っている。

 妖夢は軽く、少しだけうつむいた。

「……咲夜さん。貴方は、従者としてやはり私とは違うのかもしれませんね……」

 それで言葉は切る。
 目の色は消える。水脈のように身体は沈み、身中のいかなる雑気をもが霧散していく。
 そのまま崩れ落ちるかに見えた身体は曲げた両足に支えられる。落とした右手を長刀に、落とした左手を短剣へ。
 キン、と。愛刀の鯉口を切った。



 二刀を抜き、腰を落として疾する瞬間を探る。
 部屋は広く、その距離は一足ではあまりに遠い。しかし咲夜の間合いはこれを容易く超えてくるだろう。
 咲夜に武道の心得は無い。彼女が成し得るのはあくまで奇術師の芸だけ。しかし彼女にはそれだけで幻想郷の妖怪達と渡り合える何かが備わっている。
 例えばただ立っているだけの姿に、一つたりとも踏み込める隙が見出せない矛盾。
 例えばただ闇雲に投げているようなナイフが、その全てが直線に的へ中るという相違。
 何者をも超越したような、泰然とした彼女を。……妖夢は憧れ慕っていた。
 自分とはあまりにかけ離れた在り方。その主も、仕え方も、お互いの性質そのものまでも。されど主へ仕える者として、大切なものをしっかりと持っている彼女。
 自分とは異なる従者として。自分と同じ従者として。咲夜は妖夢にとって大切な“仲間”だったのだ。

「…………」

 そう、尊敬すべき“仲間”。だからこそ、咲夜が折れるはずがないのだと分かっていた。

 旋風が巻き起こる錯覚。
 同時に、妖夢は掻き消えるようにして自らの身体を発射させ。
 見極めた刹那、咲夜は最速で左手を振った。

―――ギキィン!

 迎え撃つ長刀楼観剣。地を蹴った直後の不安定な体勢のまま、妖夢は放たれた三本のナイフをはじき落とす。

「―――くっ!」

 悔やむようなその声は妖夢のものだ。
 ナイフはこれ以上ないタイミングで放たれた。お互いの距離は十五メートル、いくら飛び道具が相手と言えど、妖夢の足ならば相手が反応する前に詰められる間合いだった。
 だからこのタイミングは絶妙なのだ。走り出してからでは遅すぎる、気づかれては早すぎる。走り出してはいない、しかし走り出すのを止められない時点で放たれたからこそ。
 だからこそ、止まるはずのない疾走がここに停止している!

「――まずい!」

 離脱しようとする試みは遅い。足を止めた瞬間には、すでに次弾は雨の如く妖夢に降り注いできていた。

「くっ……ぅぅうっ!」

 離脱を諦め、その場での迎撃を決意する。両膝を沈め、両手の刀で向かい来るナイフを一本一本薙ぎ払う。

―――キン! カッ、カカッ! ギィ、リィン! カン、ギ、キキキィン!

 弾丸の速度で迫るナイフの弾幕を正確に打ち落としていく。
 二つの剣閃は交差することなく、それぞれが個別に、互いを妨げることなく複雑な軌跡を描き、妖夢の身体を捉える数十数百ものナイフを斬り落とす。
 それは修羅か、剣聖の技だ。ただでさえ難易度の極端に高い二刀流を、この高速、この精密さで振るうことが出来る者など果たして何人いることか。
 だが、それほどの技を振るっていてなお、妖夢は既に追い詰められている自らを自覚していた。

「(さあ、詰んだわよ妖夢……どうする?)」

 咲夜は次から次へとナイフを取り出し、手の一振りで十近い数を容赦なく放ち続ける。攻撃範囲は妖夢自身はもとよりその周辺にも及び、妖夢に離脱する隙間を与えない。
 だからこれで詰み。あとは妖夢の集中が切れ、その身体にナイフが刺さるのを待つだけで終わる。勝負は最初の一交差、妖夢の疾走を止めた三本の段階でついていたのだ。

「くっ……ぐっ……ぅ!」

 未熟、と妖夢は再度自らを戒める。
 最初の一歩を止められればこうなる事は必至と、対峙する前から分かっていたというのに。不用意に飛び出した自分の短慮をこれ以上無いほど悔いる。

―――「あなたは真面目すぎるのよ、妖夢」

 過去に聞いた、ある少女の声が蘇る。
 日がな一日中ぼんやりとしていて、笑い顔しか見たことの無い彼女。
 そういえば、私は彼女との遊びに勝ったことがなかった。

―――「そんなことではいずれ壁に突き当たろう。妖夢、敗北を許されぬ戦い、敗北も構わぬ戦い、そのどちらも今のお前では勝つことは出来ぬ」

 過去に聞いた、師と呼んだひとの言葉を思い出す。
 ……二人が云わんとしていた事が、今は分かる。私は物事を一方向でしか見ることが出来ていないのだ。だからこうして今も窮地に立たされている。
 ナイフを弾き続けた四肢が悲鳴を上げる。神速で振るい続けた両腕は殊に痺れ、もはや動かしている感覚も皆無。限界が、妖夢に迫っていた。

―――「あなたと遊ぶのは退屈よ、妖夢」

 主の声が聞こえる。
 そうですね、幽々子さま。私は未熟者です。幽々子さまを守ると誓ったけれど、私は咲夜さんに勝つことが出来ない。こんな体たらくで、幽々子さまを守るなどと。
 右腕が落ちる。息切れした身体がくらり、と揺らいだ。途切れることのない次弾が機械仕掛けのように冷酷に迫ってくる。

―――「……でも、わたしは」

 瞬間。
 苦しげに細められていた妖夢の目が。
 渇、と開いた。 



―――……ぃいんっ!

 迫るナイフが斬り落とされる。
 その次も変わることなく、二つの愛刀は乱舞し持ち主たる妖夢の身を守り続ける。
 それは、やがて体力が尽きるまでの悪足掻きか……否、そうではなかった。妖夢の鉄壁とも言える防御は今、確実な攻撃となって咲夜を追い詰めていた。
 そう、ゆっくりと咲夜を追い詰めていた。

「(―――まさ、か)」

 高速で二刀を振るい続ける妖夢の足が、少しづつ前に進んでいる。それはすり足というにも足りないほど緩慢に、しかし確実に咲夜へと向かっていた。

「(まずったわね……これじゃあ詰んでるのはむしろ……)」

 自分ではないか、と咲夜は歯噛みする。
 防御に徹さざるをえない妖夢に比べればまだ楽とはいえ、咲夜もまた自身の限界ギリギリでナイフを投擲し続けていた。
 正確には咲夜が一手で投げられるナイフの数、その限界はまだ先にある。限界に来ているのはその速度と密度だった。これ以上投げたところでナイフ同士が衝突するだけ。

「(一度離脱する……?)」

 それは危険な賭けだった。離脱しようとすれば必ず一瞬、ナイフの密度と威力が落ちるだろう。ごまかすための策などいくらでも用意できるが、それでも足捌きを背後に向けた瞬間に妖夢が目の前にいる可能性は否定できない。

―――では『時間操作』による停止ならば。

 論外。咲夜の『時間操作』は何も無制限に時間を操れるわけではない。
 その能力には操作できる時間量に制限がかかるのだ。止めていられる時間量は、能力を使うための集中時間に極端に影響される。
 だがこの状況では十分な集中はできない。それで止められる時間では背後に飛ぶことも出来るかどうか。しかも失敗すれば致命的なスキを生むことは言うまでもない。
 妖夢は神速を持っている。それは咲夜には無い、常にある絶対の能力。
 端的に言って、真正面からのぶつかり合いなら咲夜は確実に敗北する。
 どんなに優位に立とうとも次の瞬間には地に伏しているかもしれない。咲夜はそんな綱渡りじみた戦いを続けざるをえないのだ。それだけの力の差が、実は両者の間には存在する。
 だから咲夜は安易に危険な賭けにはのらない。必要があるならば躊躇いはしないが、今はまだ他に手段が無いわけではない。

「…………っ」

 ただ投げるだけの作業よりも精神的な疲労は数段上がるが、もはや待っていられる状況ではないと咲夜は判断した。
 ここからは本気。これをしのげるものなら……

「しのいでみなさい……妖夢!」

 直線が曲線に変化する。
 今までただ投げられるのみだったナイフの雨が、強い旋風に吹かれたようにその向きを変えて襲ってくる。生き物のように行き先を変化させるナイフの群れ。その光景は奇術師の見せる夢そのものだった。
 前のみを守っていてはやられる、と妖夢は意識を周囲に飛ばし襲い来る嵐を感知する。

―――右に十七、左に八、正面に二十五……!

 進めていた足を止め、やや大きく左右に広げる。地に張る根のさながらに下半身を固定し、腰より上のみで二本の愛刀を烈火の如く回転させる。
 鋼の弾ける音が響く。火花の散る光が照らす。弧を描くナイフの全てを、妖夢は完璧に弾き落としていく。
 …………その一瞬、妖夢は確かに見た。咲夜が狼狽し、そして生じた針先のような僅かな嵐の切れ目を。
 迷いは無い。妖夢は一条の光の軌跡を辿るように自身の身体をそこへ導いた。

 咲夜のうでが くん としなった。

―――ドスッ

「ぁ…………」

 背後から襲った衝撃に体勢を崩し、倒れこみそうになる妖夢。それを支えようとして左足を踏み出し、力が入らず片膝をついた。
 身体に鮮烈な痛みが走る。背中のあたりが奇妙に痺れていて何の感覚も無い。素足に何か温度を感じない粘りけのある液体がぴちゃりと垂れた。

「あ……ぁあ……あ?」

 身体が、まるで性質の悪い熱病にかかったように震えて止まらない。そう言えば背中がすうすうとして寒気がする。

「―――ぁ」

 視界の端に、赤いあかい液体に濡れた床と身体がうつった。
 血、だった。

 
 ……かくして咲夜のナイフは妖夢の背をつらぬいた。
 たかだかナイフの軌道を曲げただけではあの剣舞のすきまを抜くことはできなかった。それは咲夜とて承知のことだった。
 だから彼女は布石に隠した一本のナイフに託したのだ。ただ一本のみ妖夢の背後に回り、跳弾して正確に返ってくる本命の一撃に。

―――メイド秘技 「殺人ドール」

 それは何百というナイフをかわし弾いてきた妖夢には決して気づけない一本。まして絶好の好機を見出した一瞬ならばなおさらのこと。
 急所は外れているとはいえ、もはや決着はついたと言っていい。限界まで均衡していた両者、その一方が傷を負えば天秤は一気に傾くのは必然だった。

「……私の勝ちよ、妖夢」

 宣言するその声に誇るものはない。長い張りつめた空気は想像以上に両者の心身を削っていたのか……それとも。

「動揺している演技をした私に迷い無く飛び込んできたことがあなたの敗因。一瞬でも躊躇っていれば背後のナイフに気づいたでしょうに」

 だが、それは妖夢だからこそ犯せた過ちだ。あれほどの瞬間のスキを確実に見出し、そこに全てをかけられる潔さは、勝負においてむしろプラスになる場合の方が多い。
 卓越した剣士だからこそ可能な、生死を越える踏み込み。……相手が悪すぎたとしか言えまい。それを見越した上で罠にかけられる者など、咲夜をおいて他に誰がいよう。

「……悪く思わないで。私はお嬢様に仕える従者。私は……お嬢様をお守りするのよ。だから負けるわけには、いかない」

 妖夢はうつむいて、その表情を伺うことも出来ない。だがその放心した様子と、もはや戦う意思が無いことは見て取れた。
 咲夜は無言でナイフを取り出す。とどめまで差す気はないが、妖夢にはしばらくここで倒れていてもらう必要があった。

「悪く……思わないで」

 声には沈んだ陰りがあり。放たれたナイフに迷いはなかった。



「あ……あぁ……ぁ……ァ」

 体温があり得ない速度で下がっていく。背中だけだった痺れが全身に及び、かろうじて刀を握る手ももはや固まっているだけに過ぎない。
 ただ寒く。身体から抜け切った熱を取り戻す術もなく、妖夢はただ真っ白になった視界を受け入れていた。

「……悪く思わないで」

 誰かの声が聞こえる。それが誰であるか、名前を、顔を、人となりを妖夢は思い出せる。思い出せただけで、それを実感することが出来ないでいた。

「(誰ですか? あなたは?)」
「私はお嬢様に仕える従者」
「(ああ、あなたには仕えるひとがいるのですね)」

―――待って。

「私は……お嬢様をお守りするのよ」
「(立派です。わたしもあなたのように誇り高く生きていたいと思います。主の傍らで主を守り、その命に従い、その命と共に生きる。そういうものですよね、従者の生き方というものは)」

―――待って。どうして私はそんな事を知っているの?

―――それは、それは、誰の話?
―――私は、
―――私は、誰?

「だから……」

 灰色の声が言う。
 その先を、私は知っている。何故なら私は彼女と同じ―――

「「負けるわけには、いかない」」

 彼女と同じ従者だから。
 誰の? 誰が? 私は。お嬢様の。それは誰? お嬢様の。だから、それは

―――「あなたと遊ぶのは退屈よ、妖夢」
―――「……でも、わたしは」
―――「わたしは、そんな真っ直ぐなあなたが好きよ」

 まだ幼かったある春の日。桜の下で告げられた、彼女の真摯な言葉。
 私はそれに応えようと、小さい手に剣を握ったのだ。
 誓いを、いつまでも共にあるという約束を。
 彼女を、守り通すために。

「幽々子……お嬢様……!」 

 刀を握る手が力をこめる。それだけで全身が悲鳴をあげたが、そんなことは気にすべきことでは無い。傷ついた身体と心に、あの一言だけが染み渡っていく。
 私は負けるわけにはいかない。
 師がいつか言っていた。お嬢様をまだ未熟な私に任された時、全てを忘れてもこれだけは覚えておけと。

―――「妖夢、肝に銘じておけ。我らが負けた時、主の盾となる者は存在しないことを」

「……心せよ。我ら仕える者が膝を屈する時、うち倒されしは己ではない」 

 身体を起こす。気配がナイフの接近を伝えてくる。その勢いに迷いは無い。弾かなければ本当に戦うことが出来なくなる傷を負う。
 立ち上がろうとして、身体と心が最期の弱音を吐く。瞬間、心に刀を刺して迷いを殺した。

「―――ッ!」

 顔を上げ、迫る鋼を睨む。

―――ギッ……キキキィィン!

 立ち上がりざまに振るった楼観剣で、妖夢は四本のナイフを叩き落した。
 満身創痍。妖夢の受けた傷は決して浅いものではない。息は切れ、血は流れ。無理矢理身体を動かした反動は軋みとなって妖夢を苛んでいた。
 それでも妖夢は二刀を上げる。幽々子に仕える従者としての誓い。いつかの教えを深く思い出して。

「膝を屈する時、打ち倒されしは、我らが主。……故に、我らに決して敗北は無い」 

 そして。
 妖夢は自身が成し得る、最大の賭けに出た。



 信じられない、と咲夜は呆然とつぶやく。
 あれだけの傷を負って立ち上がってくるなど。もはや戦う意思は残っていないと確認したたにも関わらず。
 ……いや、今は状況の何故を問う時ではない。
 立ち上がった妖夢が取った構え。楼観剣を鞘に収め、右手に握り、腰構えに。十字を組むように、白楼剣を左手に、肩に乗せて。その意味するところを咲夜は瞬時に読み取る。即ち

「(居合……あの短剣は追撃、ね)」

 咲夜はナイフを握りなおす。それ以上は動けない。動けば両断される予感が嫌というほどした。居合いは後の先を取るための技術……こちらから仕掛けることは相手に機会を与えるだけ。
 …………空気が張りつめる。
 『時間操作』のための集中すらできない。反応を遅らせる可能性になるだけだ、と咲夜は自らの能力を放棄する。咲夜は自らの反応と技術だけで対そうとしていた。それは妖夢の次の一手を正面から受けてたつということ。
 言うまでもなく彼女が得意とするのは遠距離戦。
 だが、先に述べたはずである。咲夜の武器は彼女自身。近接戦闘だろうと、その能力を封じられようと、彼女の武器は損なわれてはいない。

 妖夢は、既に身に染み付いた構えを取る。
 それは幾度も繰り返しながら、一度も相手に放ったことのない技でもあった。
 咲夜と戦いたくはないという妖夢がいる。
 振るわなければ敗北するという妖夢がいる。
 そして、何をおいても主を守ると誓った妖夢が、最も確固として存在した。
 だから彼女は放つ。

―――奥義

 その身に宿る最大を超えた技量を以って。

―――「桜花狂咲斬」


 反応したというより、予感がしたといった方がいいだろうか。それとも時を操る彼女は、この一瞬未来を垣間視たのかもしれない。
 まだ妖夢が一歩を踏む前に、咲夜は全力で上体を反らし。
 刹那、その残像を銀の一閃が両断していた。
 はらり、と咲夜の前髪が一本、宙に舞う。断じて触れてはいない。咲夜は生まれて初めて、真空刃による切断……俗に『飯綱』と呼ばれる現象を体感した。
 その速度は咲夜の想像を二つ超越したもの。かわせたことは偶然以上の何ものでもない。
 心に走る動揺を噛み殺す。次が来ることは予測済み。そして、それをかわすことがこの勝負の決着となることを咲夜は知っている。
 伸びきった右手に追従するよう、妖夢の身体が四半回転する。遠心と体重を見事に左手に乗せ、迷断の白楼剣が咲夜に振り下ろされる。
 上体を反らした咲夜の体勢は不利。一瞬でもタイミングを外せば即座に短剣を浴びるというその状況でなお、咲夜は自らの呼吸を制し切る。

―――キィン!

 その音は咲夜にとって勝利を決定する音色。
 振り下ろされる白光の線を、横合いからの一突きで折り曲げた。
 妖夢は全力の二撃をしのがれ、もはや咲夜のナイフをかわせるはずもない。
 後はただ突き出すだけ、とナイフを持ち直して……
 咲夜は、その光景に、一瞬、本当に、我を忘れた。

 抜き放たれた楼観剣が残す軌跡を。
 辿るように戻って行ったその奇跡を。

―――キンッ!

 その音が響くと同時に、まるで時を戻したかのように、楼観剣は放たれる以前と全く変わらない位置に戻っていた。
 そう、同じ。鞘に戻ったのだ(・・・・・・・)。それが意味することは。

「―――ッ!」

 ぎりぎりで咲夜は正常な意識を取り戻す。
 次の瞬間に放たれるだろう長刀をかわそうとして、咲夜は躊躇した。
 この技の正体がどういうものかを見破ってしまったがため。
 そしてその躊躇が、この勝負の行方を決定した。

―――バギィンっ!

 鈍い音。咲夜がとっさに盾にしたナイフがへし折れる音だった。
 妖夢の楼観剣はナイフを叩き折り、そのまま咲夜の銅に直撃した。懐に仕込まれたナイフのおかげか惨事にはなっていないが、それでも骨の四、五本は折れているだろう。もっとも、盾が無かったとすればそれでは済まなかっただろうが。
 七メートル弾き飛ばした咲夜の姿を視界におさめ、妖夢は脱力して腕を下げる。
 妖夢が使った奥義の正体は、居合い抜き、追撃、納刀を繰り返す神速の連携技だ。中でも最難関とされるのは片手で、しかも抜きと変わらない速度で鞘に戻すという高速納刀。
 実際、妖夢ですら成功したのは先刻の一回が初めてだった。はっきり言ってしまえば連続抜刀術は出来て二回が限度だったのだ。
 これは妖夢にとって成し得る最大の賭け。
 そしてその賭けに、彼女は勝ったのだ。

「…………咲夜、さん」

 息を切らしながら倒れたままの咲夜に近づき、長刀を突きつけた。

「私の、勝ちです」

 咲夜は答えない。どこかぼんやりとした気勢で天井を眺めているだけだ。

「負けるわけにはいかない、のは、私も同じです。……でも、私は、咲夜さんを」

 そこで一度、迷うように言葉が切れる。

「……降参してください咲夜さん。勝負はつきました。もう、ここで大人しくしていて下さい」

 それはどこか懇願するような響きでもあった。
 そんな妖夢に初めて目をむけて、咲夜は眩しそうに目を細めた。

「そう、……でもね、最初に言ったはずよ。お嬢様と共にいるのが私だって」
「さく……!」

 涙すら零れそうな妖夢の目の前で、咲夜の身体が煙のようにかき消えた。

「なっ……!」

 目など一瞬たりともそらしていない。まばたきすらしなかった視界から、彼女は奇術師の芸のように消え去ってしまった。

「私はお嬢様の下へ行かせてもらうわ。あなたの足止めはこれで十分だから」

 その声は妖夢の背後から、この部屋の扉にもたれている咲夜自身から発せられた。
 そのまま咲夜はゆっくりと扉を閉めていく。
 伸ばそうとした手足が空回る。回転した視界はやがて床だけを映し、そしてついには暗闇に閉ざされる。倒れこんだ妖夢の身体は、もはや限界を過ぎていた。

「さく……や……さん」

 意識さえも落ちる直前にしぼり出された声もむなしく。
 バタン、と音を立てて、その重々しい扉は二度と開かない封印のように閉じてしまった。



「はぁ…………」

 廊下にへたり込んで、咲夜は疲れ果てたようにため息をつく。彼女を知る者なら全員が疑うほど、今の咲夜には余裕というものが無くなっていた。
 妖夢が放った技。最後に躊躇したからこそ、咲夜はこうしていられる。
 逆なのだ。
 咲夜は最後の長刀をかわすことが出来た。しかしそれをしていたなら、追撃の白楼剣が確実に咲夜を捉えていただろう。もしそれを防げたとしても、その次が、そしてその次が……。
 咲夜は、あれがそういう技なのだと直感的に理解した。だから躊躇い、そしてあえて居合いを受けることを選択したのだ。

「正確には、かわせるほど余裕が無くなっただけなんだけれどね……」

 しかしそれは正解だった。結果として最小の被害で妖夢に勝利を確信させることが出来た。
 咲夜が欲していたのはその時間。戦いが始まってから一度も使えなかった『時間操作』を使うだけの、集中時間が欲しかった。時間を止めている間に逃げられるだけの集中時間が。
 咲夜の目的は最初から妖夢を倒すことではなく、レミリアの下へ向かう敵の数を減らすこと。要は足止めで十分だったのだ。

「……は。お嬢様がそれを望んでいるかもわからないけれど、ね」

 何にせよ、目的はある意味で達成され、ある意味で失敗している。こんな相打ちでは意味が無い。かろうじて動ける程度の今の自分が果たして何の役に立つのか。
 正直、甘く見ていたと言わざるを得ない。……いや、もしかすると自分が手を抜いていたのか。

「……ふっ!」

 振り払うように、息を吐いて立ち上がる。胸の横が痛い。この種の骨折は応急処置が出来ない。動けば悪化するだけと理解しながら、咲夜は歩き出す。

「お嬢様……いま、参ります、からね……」

 そこにいるのは、傷を負いながら奥義を放った妖夢と同じ、一人の従者。
 足を引きずり、装飾は外れ、ぼろぼろになった無様な姿だとしても。
 妖夢が憧れ、完全で瀟洒と呼称されるにふさわしい、十六夜咲夜という一人の従者の姿だった。



/4

<紅魔館 大廊下>

「―――お?」

 箒に乗り先頭を行く魔理沙が振り返る。
 霊夢はそれに、こくりと頷いて返した。

「どうやら妖夢が咲夜さんと始めたらしいわね」
「ああ、この窓も戻ってるしな」

 こん、と魔理沙が壁際のガラスを叩く。それはいつもどおりの普通の窓だった。つい先程まで、二人はその窓ひとつを横切るのに全速飛行していたのだが。
 咲夜の空間操作。……妖夢の言ったとおり廊下の空間ごと伸ばすことで時間を稼ぐつもりだったのだろう。

「あのまま全員進んでたら袋小路だったぜ」
「その時は廊下の壁ぶっ壊すつもりだったんでしょう? どうせ」
「ひどいぜ、ひとを削岩機みたいに。……まあ、とにかくこれで」
「ええ、先に進めるわね」

「魔法図書館へ!」
「レミリアの部屋まで! ―――って!?」

 きゅん、と音を立てて箒を旋回させ、魔理沙はその進路を九十度折り曲げる。無論、そっちはレミリアのいる部屋ではない。

「最初から言ってたぜ!? 私は本を借りにきただけってな!」
「ちょっ、魔理沙―――!?」

 最後まで言い切る前に、麦穂色の髪は脇廊下の闇に消えていった……。
 あとには、ぽつんと残された霊夢ひとり。

 一分ほど誰もいない暗闇を見つめてから、霊夢はぼそりと呟いた。

「……なに、じゃあ私は一人でレミリアの相手をするわけ?」

 その通り。

 普通に戻った窓からは、涼しい風がこう、わざとらしく、ひゅうぅぅぅぅ、と。
 さらには淡い半月の光が降り注いで。
 それが霊夢には、なんか笑っているようで癪だった。



<紅魔館 魔法図書館>

 暗い図書館には薄暗い灯りしか似合わない。
 本を保管する場所に火はまずいとかいう論理はここには存在しないのか、広すぎる部屋を照らすのは本棚の上部と、そこここに浮かんでいるランプ。もちろんこのランプは壊しても火が引火することはない。

「パチュー、いるかー?」

 箒を片手に、その中を歩いていく魔理沙。
 左右には見上げるほどの本棚。その向こうにも本棚。その向こうにも本棚。その向こうにも本棚。その向こうくらいにテーブルセットが置いてあるはずだった。
 とにかくひたすらに本だらけである。本の森という表現も十分可能だろうこの図書館では、本当に本棚に登らないと目的の本を読めない。

「いないのか……?」

 めぼしい本をちゃっかり片手に積み上げながら、歩き回ること十八番目の本棚。ようやく物色にも飽きた頃に、魔理沙は図書館の主の不在に気がつく。
 いつも魔理沙は勝手に入り込んで勝手に漁っていく。そんなときはいつもこの図書館の主、パチュリー・ノーレッジがトコトコとこの無礼な客人、むしろ盗賊のもとへやって来るのだ。 
 そして言う。

―――「なによ、また来たの?」

 すごく不機嫌そうに言ったあと、メイド長が用意している紅茶をテーブルの上に置き、とっとと自分の世界に戻ってしまうのだ。
 今日は、来ない。

「今日は……いない、のか」

 そんな日もあるだろう。まして彼女は喘息もちだ。加減が悪くなって今日は自分の部屋で休んでいるのかもしれない。咳をしながら枕元に本を積み上げて、いつも通り本を読み漁っているのだ。
 きっと。
 きっと。
 絶対に。

 それでも魔理沙はもう少しだけ図書館内を探してみることにした。
 レミリアはおかしくなっている。
 紅魔館の空気がおかしい。
 嫌な予感………………………………………………がする。
 魔理沙は歩く。
 なにかがズレている。
 当たり前だ。これでいつも通りという方がおかしい。
 暗い図書館に響く足音は自分のものだけ。

 パチュリーはいない。だがそれは不安に感じるほどのことではない。今までだって不在だったことはある。レミリアの件は気にはなるが、それと結びつけるのは考えすぎだろう。
 ……考えすぎだと切って捨てただろう。切って捨てて家に帰るか、霊夢の手伝いに行くか、妖夢の様子を見に行くか、パチュリーを探しに行くか、ここで本でも読んでいるか。
 そう、きっと、切って捨てていただろう。
 今この瞬間に、この場所に、自分以外の気配さえ感じていなければ。

「―――誰だ」

 薄闇に魔理沙は問う。

「きゃはっ! 見つかっちゃったね!」

 答える声があった。声は底抜けに明るく、幼い。その声を魔理沙はよく知っていた。

「お前……どうしてここにいるんだ?」

 一歩踏み出すと、そのシルエットが浮かび上がった。
 身体は小さい。しかしそれは玩具か何かとしか思えない奇抜なシルエット背負っている。スピアヘッドを繋げたような奇怪な、翼。

「どうして? だって最近、マリサきてくれないんだもの。姉様も来てくれるようになってたのに、きてくれなくなっちゃったし。上がずいぶん騒がしいし気になるし。だからわたしの方から遊びにきたのよ? きゃはははははっ」
「パチュリーはどうした」

 知らず、声に険がこもった。
 目の前の彼女は、魔理沙にとって決して仲の悪いモノではない。
 ずっと一人だった彼女との遊びに付きあってやったり、何も知らない彼女に色々なことを教えてやったり。魔理沙は彼女にとっての第二の姉のような、そんな関係だった。
 だからこんな恐い声を出すことはない。だが、

「パチュリー……?」

 幼子はパチパチと目を瞬かせた。

 何故だろう。予感がする。
 今まで一度も当たったことのない悪い予感。今はそれが当たるのだと確信すら持ってしまうのは、何故だろう。

「あー、パチュリーね。さっき遊んでもらったわ、ここで」

 ぽんと手を打ち、くすくすと笑う目の前の悪魔。
 そうか、パチュリーがこいつと遊んでやったのか。でもそんなことを聞きたいんじゃなくて私が聞きたいのはパチュリーが今どこでどうなっているかということで。

「そしたら壊れちゃった」
「――――」

 あっさりと。
 悪魔の妹は、魔理沙の世界をひとつ、壊してしまった。
 罪悪感などあるはずもなく、何かを犯したという焦りもなく、本当にそこらに生えている雑草を踏み潰しただけのように、ついベッドの装飾を剥がしてしまった、それだけの意味すらも感じていないかのように。

「―――ン」

 霞んでも、こもってもいない、ただ音量だけが小さくて、その声は聞き取れない。

「え? なに? マリサ?」
 
 呆然と、してなどいない。
 状況は予想していたものだったのだ。この図書館に足を踏み入れた時から、パチュリーがいつまでたってもやって来ないから。
 だからどんなに簡単に告げられても、それを事実だと認識できた。

「―――ル」
「ええっ!? もう、聞こえないってばぁ!」

 その事態を受け入れて迸る感情も何もかも、全て一瞬で心の隅まで行きわたり。次に霧雨魔理沙を支配するものは……。

 嫌な予感は、はじめて的中した。
 ……いや、違う。これは予感なんかじゃなった。
 これは―――ただの確認だったから。だから当たり前に、当たってしまった。

 翼の生えた少女が近づいてくる。
 パキン。その足元で、何かが壊れた。
 魔理沙の視線がそちらに動く。
 それは……月かざり?
 変な帽子についた、月のカタチをしたかざり。
 ピンク色の、あいつがいつも、かぶっていた。帽子に。ついていた、かざり。月型をした。いつも見ていた
 魔理沙が、いつもみていた、月かざ、り。
 ――――

「ねー! もっと大きなこえで」
「―――フランドール・スカーレットォォッッッッッ!!!」

 悲鳴に似た、絶叫に近い叫びを魔理沙は上げていた。
 一度だけ、道化のように目を丸くしたあと。
 可愛らしい笑みを浮かべたフランドールのその身体は、赤く、濡れていた。



<幻想郷 境界の屋敷>

「知恵を貸して欲しいのよ」

 すっかり日の落ちた屋敷の一部屋、その前の縁側に二人は座っていた。
 一人は亡霊、一人は妖怪。
 亡霊が切り出したその言葉に、紫という名の妖怪はふぅん? と横を流し見た。

「それは結界の修繕とかではなくて?」
「そう、ちょっとわたしには分からないことなのよ」

 ずず、と式神がいれてくれたお茶をすする亡霊こと西行寺幽々子。
 ちなみにその式神は背後の崩れ落ちた部屋を必死で修復中である。

「……いいわ、話しなさい」

 とん、と湯飲みを縁側におく音。

「吸血鬼が月に狂うことがあるのかしら?」
「……それはまた珍妙な質問を」

 流石にわけが分からない、と苦笑する紫。
 それなら話を少し変えましょうと前置きをして、幽々子はこう直した。

「月の兎、覚えてるでしょう? レイセン・ウドンゲ・イナバ、だったかしら」
「永遠亭にいたあいつね。微妙に略されてるけれど」

 正式名称は鈴仙・優曇華院・イナバだ。
 月より来たり、長い間幻想郷に住み着いていた月の民たち。彼女らによって幻想の月が取り替えられた事件はついこの間のことだった。鈴仙とは彼女らと共にいた月の兎である。

「あの兎の目を見たものは狂う、のよね。ただ一人の例外もなく」
「だから? それがここ数日のレミリア・スカーレットのおかしな行動の原因だと言うの?」

 すこし微笑いながら、渦中の吸血鬼の名を口にする紫。
 その名前に幽々子は軽く目を瞬かせた。

「あら、知っていたの?」
「まあ、偶然。でも幽々子、それは違うわ。あの時あの兎の目を受けたのは全員ですもの。それにあの目の効力はそう長くないわ。レミリア・スカーレットだけが今も影響を受けている理由が無いわね」
「そうでしょうね」

 至極簡単にその説を却下する幽々子。
 む、紫はちょっと眉を寄せた。

「……それで? 月の魔力はどうなったの?」
「ええ。輝夜が来た古い真実の月。今も天上の裏側にはあのままの姿であるという話。……あの月は人間には毒なのよね」
「幻想郷にいるような人間には効果は無いようだけれど?」
「吸血鬼には?」
「……ええ?」

 予想外の言葉に、紫は返事を詰める。
 あの月は確かに危険だったが、月と夜のもとで生きる妖怪にはほとんど意味は無い。まして月下でしか生きられない吸血鬼に対して効果などあるはずが……。
 ―――いや、少し待て。
 あの月の危険性は、要するに極端な太陰だという点にある。
 陰陽における分類ならば、日中に生きる人間はおおむね陽に、夜に生きる妖怪はおおむね陰に傾いていると言える。
 太陽に対するは太陰。昼に対するは夜。即ち月。
 あの月は陰そのものだ。それも有毒の。
 それゆえに陽であり、かつ耐性の無い人間はあの月に狂わされる。妖怪に影響が無いのはその存在が同じ陰に傾いているからだ。
 しかし人間は陽が落ちても活動するし、妖怪だって昼の木陰で居眠りくらいするかもしれない。十六夜咲夜や博麗霊夢が狂わなかったのは、彼女たちが夜に生きる者でもあるからだ。
 それがつまり、生き物としてのバランスというもの。
 例えば本当に人間が昼にしか生きられないのなら、人間の世界は半分になる。人間は若干の陰を持ち合わせるからこそ、夜に生きることもできるのだ。
 だが、

「―――吸血鬼には、陰陽でいうところの陰しか存在しない……」

 呟いた言葉を逃さぬよう、急速に考えをめぐらせ続ける紫。
 隣りでそれを見つめる幽々子は、邪魔をしないようにそっと湯飲みに手を伸ばした。



<紅魔館 最上>

 その牢獄に彼女はいた。
 紅魔館最上階を全て使ったこの大広間が彼女の部屋だった。整わない調度品の頭上で、砕け散ったシャンデリアが歪な光を発している。元々数少ない窓にはカーテンが撃ち付けられ、部屋には一切の光は入ってこない。……だから、どこか屋根裏部屋のような気さえした。

「はっ……ん、あ……」

 その中央に彼女はいた。床に這いつくばるように座りこみ、ただ目の前の暗闇を敵のように凝視していた。

「ガ…………ぁ」

 時おり漏れ出る吐息は苦しげだった。彼女は何かの苦しみに耐えているのと同時に、ある衝動を必死で殺し続けている。彼女にとっては当たり前の、そして不可欠な衝動。それを圧し続けているから、こんなにも彼女は苦しんでいるのだ。

 彼女の目が動いて傍らにあるモノを見た。それを見てしまったことで彼女の衝動は倍化し、結果としてその苦しみも一気に増してしまった。

「ぎっ……ぃ!」

 ガリ、と自らの腕を引っかいて衝動を抑える。
 しかし無理矢理抑えられたところでやってくるのは唐突な虚脱感。波の満ちひきを押さえられないように、衝動は絶えず彼女を苛み続ける。

 既に五日。彼女は一時の休息もなく戦い続けていた。その相手は彼女自身であり、彼女たちを生んだものでもあった。

「はー、はー、はーっ。っ……私は、お前の下僕じゃ、ない…………そう簡単に、堕ちると、思う、な、よ……っ!」

 吐き捨てる声すらも絶え絶え。それでも彼女は耐え続けようとしていた。例えこのまま力尽きる事になっても。……誇り高き吸血鬼の名の下に。
 彼女は気がついていないのか。自らを苛む衝動、それを頑なに拒む理由、その果てにある末路を。

 そこは赤い館の廃墟。
 部屋の中央には吸血鬼が一匹。周りにはバラバラにされた人間の死体が転がっていた。



<紅魔館周辺森 上空>

 りぃりぃりぃ。虫が鳴く。
 いつもは静かな森。いつもはただ暗い森。
 夜が更ければ森は眠りにつき、闊歩する妖怪も足音を忍ばせたくなる、そんな夜だった。
 そんな夜、だった。

―――ズガァァァァァァンッ! ドゴォォォオオンッ!

 ギャア! バサバサバサッ! ピィィィーーッ!

「キャハハハハハハハハハハハッ!」

 森の静けさは、紅の洋館からやってきた二人の少女によって見事に切り払われることとなった。
 森の一部を焼き払った魔力の一閃は魔理沙が放ったもの。
 しかしそれを平手打ちで弾き飛ばしたのはフランドールの方だった。

「あははははっ! お外だおそとだぁっ!」

 翼をバサバサとはためかせてフランドールは狂笑する。
 495年もの間、暗い洋館の地下だけが彼女の世界だった。今でも部屋の外に、まして館の外に出たことなどほとんどない。
 だからフランドールにとって外の世界の全てが新鮮だった。半分の月も。よどみなどない空気の流れも。遠くに見える森。飛び込みたくなるほど澄んだ湖。視界の端で飛んでいる鳥の一羽一羽。そして夜の闇すらも。
 フランドールは夜空に目いっぱい身体を伸ばす。ただ気の向くままに全速で月夜を思う存分飛び回ることがくすぐったく、ひたすらに楽しかった。
 夜に自身を溶かして、フランドール・スカーレットは気の指すままに笑い声を上げる。

「きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」
「―――黙れ、餓鬼が」

 月を背に。
 箒の上に立った魔法使いの声が、この世界を凍らせた。冷酷な冷たさではない、溢れる怒気も感じない。ただ静かに胎動する火山の奥底のような、底なしの怒り。
 フランドールがくるり、とそちらを仰ぎ見る。しかし何かで目が霞んで、うまく見えない。

「……あれ? あれぇ?」

 ひとしきり笑いつくした目には涙が浮かんでいた。彼女はそれを指先でぬぐって、不思議そうに指先についた水滴を眺める。

「外に出れて満足か? でもお前に喜んでもらうためじゃないんだぜ」

 フランドールは指先を唇に運んで、ちろりと涙を舐めとった。濡れた唇が下弦の弧を描く。目の前の、魔理沙の本気を読み取って。

「……遊んでくれるんだぁ?」

 嬉しさを隠し切れない声色でフランドールは言った。

「ああ、思いっきりな」

 魔理沙は帽子を目深にかぶり直す。

「今度はいくらだせばいいの(・・・・・・・・・)?」

 ふざけたような声でフランは聞く。

―――「遊んでくれるのかしら?」
―――「いくらだす?」

 それは最初に出会った時にした問答。あのときの答えは、コインいっこ、だった。
 今度は―――

 魔理沙は箒の柄を持ち、一気に加速。小細工も何もなく、目の前のフランドールに襲い掛かる。

「お代は―――見てのおかえりだぜ!」 

 風が巻く。空が怯えるように鳴っていた。
 月は半月。満ちたあの煌煌とした灯りはなく、ただ薄い月影が闇雲と溶け合っていた。
 
 ここに二人の『破壊魔』の激突が巻き起こる。



 To the next
去年暮れにこちらに投稿させてもらった「東方狂魔館~ふたりの従者~」の完全版、ということでお目汚しさせていただきました。
コメントは後編にて。
michisato
http://michisato.com/st/index.html
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