「おー、見てみろ」
遠く山間に沈んでゆく太陽が、赤い光を横殴りに放っている。
それが青と交じり合い紫色に染まった空を、二人の魔法使いがゆっくりと飛行していた。
「アリス。久方ぶりの、幻想郷の夕陽だぜ」
「どこも日暮れは変わらないわよ」
「さすが都会派。言うことが冷めていること、独り暮らしの夕餉の如し」
「失礼ね」
「失礼。そうか、アリスの家の晩飯はいつも冷えてるのか」
「重ねて失礼だわ。あんた」
およそ三、四日ぶりだったろうか。空気が澄んでいるせいか、陽射しは外のものより幾分か強い気がした。
「魔理沙、これからどうする?」
正面から差し込んでくる光に腕を翳して、アリス・マーガトロイドはまぶしげに訊いた。
「んー? どうって、そりゃあ帰るんだろ?」
「いや、まあ――それは、そうなんだけど」
「なんだ? はっきりしようぜ」
「う、うん」
眉を寄せて苦い表情を浮かべるアリスを、魔理沙は心中で「春でも湧いたか」と安易に切って捨てた。
「その……あのね?」
「うん?」
「ま、魔理沙の家に、お、温泉、あるじゃない?」
「ああ、あるな。外じゃ結構いろいろあって疲れたし、今晩あたりゆっくりつかるつもりだz「そう、それよ!」
急に怒鳴られた。魔理沙はそう感じた。
「あたしも疲れたのよ! いろいろ、うんそういろいろあったし! 新しいスペルも作ったし使ったし、いろいろあったし! ありすぎてここには書ききれないし! よって次回以降に再投稿するつもりだし! ああもうなに言ってんのあたし!」
こっちが訊きたい。魔理沙はそう感じた。
「だから! だからせっかくだし、あんたのところの温泉、あたしも――――あたしも入っていいかしら!?
一緒に!」
アリスは一息に言い切ると、こんどはぴたりと沈黙する。そして瞳まで紅く染まりそうな勢いで、顔色を激変させた。
異常だ。魔理沙は言いようのない怖気を感じた。
「――――――――――ああ、いいぜ」
「――――――――――っ」
YES!
明度を失いつつある空に、勝利の号が轟いた。
「あら萃香。久しぶりね」
「うん霊夢。面白いことになりそうな悪寒だよ」
博麗神社の正面、長く伸びる階段の途中で、箒を片手にたたずんでいた博麗霊夢は、思わぬ相手と出くわした。
「面白い、それも悪寒? 予感でなくて悪寒なわけ? もう始まってるんだ」
「そう、紅い悪魔の館でね。大きな力の澱みが起こってる」
一本の石灯篭の上に腰掛けた少女は、始終笑顔で、祭の前夜の子供のようにはしゃいでいた。
太い鎖を身に巻いた角付きの少女、伊吹萃香だった。
「澱み、ねえ。あんた、疎密以外にも感知できるんだ」
「いんや、澱みは密の一形態だもん。重石を敷かれて、力の流れが滞ってるの。おまけにその重石自体も、濁った力を噴き出してる」
行きずりの世間話にしては物騒な内容だった。しかも、霊夢にはひとつ心当たりもある。
「もしかして、その重石って七色の羽根が付いてたりするわけ?」
「的中!」
狭い足場の上で、萃香は手を叩いて笑っている。霊夢は重い息を吐いて、首をこきりと回した。
「で、あたしにどうしろと?」
萃香はにっと笑みを深める。
「見物。一緒に見に行こうよ」
「いつ頃? 今はまだでしょ。だって」
顎で背後を、消えかかった夕陽をしゃくった。
「月すら出てないもの」
「そうね。それも一理」
萃香は思案顔で首を傾げると、
「じゃ、まずはお茶でも飲むわ」
言ってひと飛び、遥か上の境内まで跳ね、姿を消した。
先ほどから同じところを掃き続けていた箒を担ぎ、霊夢は「どいつもこいつも」と顔をしかめた。
「また面倒臭いことになるのかしら。……あの宴会好きが出てくる辺り、特に凄いのが」
懐から取り出した一枚の霊符は、すでに、中程まで黒く染まっている。
「確かに、今晩あたりが山、か。……にしても、こうも早く結界が喰われるなんてねー」
表情を変えることもなく、気楽な様子で霊夢は符を仕舞った。
森と、山、そして見下ろす村々。周囲の景色が、急速に色を失い始める。背後の山から射す光が、一筋、また一筋と細くなり、ふ、と消えた。
紫から藍へと変わりつつある空を見上げる。その半分閉じた瞳には、隠す気も感じられない気だるさがある。
「こりゃ、永くて楽しい、派手な夜になりそうだわ」
霊夢は後ろに向き直り、軽く跳躍。先の萃香と同じように、ひと飛びで境内の高さまで飛び上がる。
着地。箒を手近な木に立てかけると、両手を振り上げ、大きく伸び。
でも、とつぶやく。
「まずは、お茶の用意でもしようかしら」
うーんと一声うなってから、霊夢は神社へ足を向け、今晩の茶葉を頭の中で吟味し始めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
幻想郷の黄金週:「藤原妹紅」「上白沢慧音」のケース・その参
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『部屋』に立ち入る直前、図書館の主に紙を一枚手渡された。箇条書きで二三行、注意事項らしい。
・妹様の神経に障らないよう、細心の注意を払ってお世話をすること。
・もし妹様の状態が悪化、最悪『暴走』となった場合、迅速に対応、無力化すること。
・上記の項がどうしても実行不可能な場合、自身の安全を第一に考え、個人の判断で行動すること。
追伸 こちらの都合で、無茶をさせてごめんなさい。
パチュリー
最後の走り書きを、慧音は数秒、じっと見つめていた。
視線を上げる。
「そらっ、お次は炎の綱渡り!」
「わー!」
――予想外の展開だな。かなり。
結構な広さの、一階建ての家屋に見えた。シャンデリアの下がった天井は遥か高く、部屋すべてを数えれば、慧音の自宅なら九つは詰め込めそうな奥行き。無論、窓はない。
奥にはキッチン、手前にはダイニングとリビングをひとつなぎにした広間があり、随所にソファーとテーブルが、白い壁には大きな掛け時計が据え付けてある。
慧音はその中のひとつに腰を下ろし、向かって左のソファーに目をやっていた。着慣れないひらひらした服装も、いい加減馴染んできていた。
「凄い凄い! もこお姉ちゃん凄ーい!」
妙な呼び名だ、と慧音は苦笑した。確かに、彼女の周りで妹紅や自分くらい外見が成長していて、かつ客分扱いの人妖はそうはいない。そのあたりに由来したものだろうか。
「むふん、あたしにかかればこのくらい。ほれ慧音、すーぷすぱげてぃーもう二皿追加ねー」
空いた片手をひらひらさせて催促。注意書きの一つ目はもとより頭にないらしい。
「食うのが早いぞ。……待っていろ、あと二分で麺が茹で上がる」
――『狂気』をどう定義するのかは、八方で意見の分かれるところだったが、
首を傾けて、時計を見た。振り子を揺らす豪奢な造りのそれは、太陰暦とは違う時の刻み方をする。
最初は違和感があったが、馴染んでしまえば以外に便利だった。
「けー姉ちゃん、二分二分」
妹紅は、手の平から熾した炎で水芸まがいの手品を披露していた。宙でひらひらと踊る火の粉に無心に注いでいた視線をふと外し、少女は慧音に言う。
向けた視線が、少女の瞳と正面からぶつかり合い――――一瞬、意識がどこかへ飛びかかった。
「ん。……ああ、そうだな。すまん、フラン」
「えへへー」
「慧音早く。伸びちゃうじゃんか」
「はやくはやくー」
「よし」
気を入れて立ち上がると、妹紅が「ババ臭せー」と揶揄してきた。失礼極まりない。幻想郷で年齢を問うことにいかほどの価値があるというのだ。というか、お前は私の二倍以上生きているはずだろうが。
慧音は思い切り顔をしかめると、奥のキッチンに向かう直前に振り向き、すでに妹紅の火芸に視線を戻していた少女の『目』を覗き込んだ。
――まるで、爆弾だな。
どこまでも、深い。
あたかも、底の見えない、血色の底なし沼があるようだった。正直、どこかの月の兎のそれとは比べ物にならない。『狂気を呼び起こすもの』ではなく、ある種の『狂気そのもの』がそこにあった。純粋とすら呼べるほどに澄み切ったそれは、薄皮一枚を隔て、この少女の内側で、たゆたうように、ほころんでいる。
「すぐに皿に盛ってくる。その間に、机の上は幾らか空けておけよ」
内面の揺らぎは顔に出さず、努めて冷静に振舞った。
「んー。おっけー」
「おっけー」
片手間な返答だった。ふ、と息を吐き、慧音はキッチン奥の厨房に向かう。さて、実際問題、麺が伸びるのは御免被るところだ。急がなければ。
「そりゃ、火の鳥連続火輪くぐりー!」
「きゃはははは!」
そんな調子がもう、かれこれ数時間は続いていた。
驚くほどに、平和な夜だった。
「静かね」
「ええ。今のところは、だけれど」
「満月までは?」
「あと一刻」
レミリアの寝室だった。
昼間は固く締め切っている窓を開け放ち、レミリアは身を乗り出して夜空を見上げた。
雲ひとつない、宵闇に浮かぶ月は、真円の一歩手前の状態で天頂に上りつつある。
身をもって感じる。日頃の夜とは一線を画した力が、内側から湧き出してくることを。
だが、それはあの妹も同じこと。ひとたび全力でぶつかり合えば――
「どちらが死ぬのかしら」
「なにが?」
月光を明かりに本を広げていたパチュリーが、ふと問いかける。
「戦ったらの話。私とフランが」
「それは分からないわね。要は組み方次第だもの。でも、強いて言うならば」
ぱたん、と本の閉じる音。
「正面切って押し合えば、負けるのはレミィよ」
「カーブをかけて脇から行くと?」
「勝てるかもね」
「ならいいわ」
こちらも、ぱたん、と窓を閉めた。
「行きましょう。地下も、そろそろ変化があるはず」
「ええ」
「パチェ」
部屋から出る直前、レミリアは訊いた。
「どうなるかしら」
「お月様に訊いてみて」
パチュリーは、柄にもないことを言った、と肩をすくめた。
「ふぃー。食った食った」
「おいしかったー」
「そうか。それはよかった」
「――ねえ、慧音。お茶の替えってある?」
「なんだ、紅茶じゃ不満か? 私は――――もう、いい加減慣れたが」
「んー。なんかね、しっくりこないのよ。悪いけど、番茶の類でも取ってきてもらえる?」
「そうだな……」
「……なに」
「妹紅」
「……大丈夫だって」
「もこお姉ちゃん、紅茶苦手なの?」
「うーん。なんというか……鉄臭いのよ」
「…」
「鉄くさい?」
「そ。なんかさ、ねっとりくるというか、まるで生血でも混ぜ込んであ」
「妹紅」
「…………なに?」
「茶葉の取替えだ。行ってくる」
「……行ってらっしゃい。ゆっくりで、いいからさ」
「……ああ」
ばたん。
「さて、と。お話しましょ。フランドール・スカーレットちゃん」
「? うん。なにから話す?」
「年上だし、学のあるとこ見せなきゃなんないしね。とりあえず、難しいこと話そ」
不意に、妹紅の声が、纏う空気が変わり始めていく。少女、フランドール・スカーレットはそれをなんとなく感じつつも、反応に困っていた。
「難しい……うー、わたしは難しいこと苦手だよ」
「じゃあ身近で難しい話」
「なに?」
「狂うということについて」
「――へえ?」
ぃん。と、真紅の目が小さく鳴いた。
「講釈たれるんだ。お茶の席で」
にいっ、と、口と目尻をひん曲げる。
妹紅は目を細めた。
少女が変わった。少し口数が増えた。語調が荒くなった。語気が強くなった。
そして、気配も変わる。赤から紅へと変化する。
慧音の弁を借りれば、薄皮の向こう側から、なにかが染み出してきている感じがする。
妹紅は笑った。
――よし、踏んだ。幻想郷ごと吹っ飛びそうなくらい、でっかい地雷。
その部屋に窓があれば、残らず微塵に砕けそうな圧迫感が、そこにはあった。
妹紅はその瞳を、同じ真紅の目で覗き返す。フランドールは、そこで少なからず驚愕する。萎縮するどころか、こちらを威圧するような反応を返されたのは初めてだった。
「そこそこ長く生きてるからね、忘れるものも多いけど、その一方で溜まり積もっていくものも多いんだわ」
立ち上がり、フランドールと正対するソファーに座りなおすと、妹紅は露出した素足を組み、額を小突いてみせた。
「それと狂気と、どういう関係なのかしら? 永生きの小鳥さん」
「は、急に元気になっちゃって。外では月が綺麗でしょうね」
「自分で振っといて話逸らすの?」
「逸らしてない。あたしも気になるのよね。天然モノの狂気と、養殖モノの狂気。どう違っているのかね。月は、捌け口の大きさの調節役でしょ、要するに。狂気の大元はあんたのその脳みそだ」
天然。養殖。
「どっちが?」
「知らないわね。フラン、あんたは知ってるの?」
「なに?」
「まずひとつ質問。自分が狂ってるっていう自覚はある?」
「なにそれ?」
フランドールは、場違いに無邪気な笑みを見せた。
「よくわかんない」
「じゃあ方向を変えてみる。あんたは、自分が地下に括られていた、本当の理由を知ってる?」
「知らないよ?」
「そう。あたしは知ってる」
「――――――――――――」
閉め切った空間を、うっすらと風が巻いた。妹紅の肌と髪を、湿気を含んだ空気が触れて過ぎた。
「あたしの過去を知ってるんだ。もこお姉ちゃん」
「うん」
フランドールは、不思議そうな様子は微塵も見せない。妹紅は心中で舌を巻いた。
――この子、『バラけて』る。
無邪気な子どものフランドール、狂気に染まったフランドール、――そして、狂気に狂ってなお、貴族の血で理性を保つ、修羅ともいうべき悪魔の妹。
「わたしも知りたいなぁ」
それが、入れ替わり立ち代り、妹紅の目の前で踊るように少女を変える。変えていく。
――面白いなぁ、この子。
ついつい、笑みがこぼれ落ちてしまう。大仰に手を広げ、頭にぼすんと乗せた。
「あいにく。あたしってば口ベタでさ、言葉だけじゃ、うまくモノが伝えられないんだわ」
「ふーん」
慧音には、胸のどこかで謝っておこうと思う。
結局、こういう方法ばかり取ってしまう自分を。悪いとは思わない。いいとも思わない。けれど、そうしたいから。この子は、あたしに、どこかが似ているような気がするから。たぶん、こういうことを望んでる。こういうほうが、届きやすい。
「よって、こっちで語ろうと思うのよ」返した手の平に、ほのかな火が灯る。
「こっち、ね」こちらも習い、手の平を上にして念じる。同時に、手の中には緩いカーブを描く『杖』が浮かぶ。
なるほど。
そうか。
そうか。それが本音か。
フランドールの内側で、『それ』は歓喜に身を震わせた。
「やってみるんだ。弾幕ごっこ」
混じり気のない、澄んだ瞳の虹彩に、濁った泥が湧き上がる。
「やってみようか。弾幕ごっこ」
煙に巻かれ曇ったような、赤と黒との瞳には、永久に消えない炎が揺れる。
「もこお姉ちゃんが壊れちゃったら、けー姉ちゃんに怒られるよ?」
「あたし壊れないし、それにいつものことなんで。ついでに言うとさっき了解は貰ってあるよ」
「そう」
「うん。そう」
妹紅は頷き、フランは妹紅の服を指し示す。
「その格好。どうするの? スペルカードないんでしょ?」
「取って置きならあるわよ。それにそっちも、ここじゃずいぶん苦しいらしいじゃない? お姉さまは随分ヘトヘトだったのに。うん。元気で大変よろしいわよ」
「元気が一番の取り柄なの」
「そうね。唯一の」
妹紅は後ろ手を組んでソファーに身を沈めた。
「さて、前口上タイムだよ」
フランが嗤う。
「遺言かしら」
妹紅も哂った。
「お好きなように」
「んじゃ」
妹紅は謳うように唱える。
「―――肝試しの肝は富士の煙。
月まで届く永遠の火山灰。
不尽の火から生まれるは、
何度でも蘇る不死の鳥。
蘇るたびに強くなる伝説の火の鳥。
―――今宵、狂いに狂った弾幕は、そこのお嬢ちゃんのトラウマになるよ」
「じゃあ。わたしもなにか即興で」
フランドールは謡うように囁く。
「――暗き冥府の戸を開けて、
宿る狂気の戸を開けて、
続く血濡れの道の果て、
赤い夜空のその果てに、
きっとあなたは見るだろう。
赤くて紅い、
紅魔のユメを、見るだろう」
「お上手」
「ありがとう」
妹紅は、フランドールは、先ほどと変わらない様子で、ソファーに身を埋め、笑みを浮かべて、そして、
「弾幕りましょうか」
「弾幕ろうじゃない」
『ごっこ』など意味を成さない、全身全霊全力で、目の前の相手を、
瞬間、『部屋』は紅蓮の渦に飲み干された。
「――――」
慧音は、ふと振り返った。
といっても、なにかが聞こえたわけでもなければ、なにかがそこにいたわけでもない。錯覚と自覚していて、なお慧音は振り返った。
そこには、暗い廊下が、下方に向かって螺旋を描いて続いている。径の大きい路だったが、明かりの弱さがどうにも不安を掻き立てる。
「……まったく、あいつは昔から」
妹紅を止めることはできた。
止めてもよかった。
しかし、妹紅はああすることを望んでいた。
きっと、終わらせたかったのだろうと思う。
フランドールに、変わって欲しかったのだろうと思う。
「昔から……」
自分の命を軽んじているはずがない。
他者の命を軽んじているはずもない。
あいつは、死なないからこそ生を求めている。
死んでもいいから、誰かに生きろと叫んでいる。
その代わり、誰に死ねとも言わない。
その妹紅が、そこまでして、あの少女のなにを救おうというのか。
妹紅は、『殺す』と明言はしなくとも、必ず『殺意』を示すだろう。でなければ、あの少女の、狂気の底は見られない。
底なし沼など存在しない。
存在しないといわれているのは、沼の底まで潜っていける存在のほうだ。
ならば、妹紅は。
妹紅は、やれるだろうか。
振り向けていた首を、軽く、払うように振った。
「昔から、勝手ばかりだ」
やる。
あいつなら、やってくれる。
ならば、
だからこそ、
「ここからは……行かせられんぞ。門番」
「……邪魔、するんですか」
螺旋の回廊は、視線の先で終わっている。
そしてそこには、片手を壁につけた、赤髪の女の姿があった。
「邪魔はせんよ。むしろ」
正面から、にらみつける。
「こちらの邪魔を、するな」
「勝手ですよ。あなたたちは」
門番、紅美鈴は、慧音を見返した。
その表情は、奥に続く廊下の窓が通す月光に隠れ、伺い知れない。
「妹様の問題は我らが家の問題です。あなたたちが、口出ししていいものじゃないんです。それが――
たとえ、お嬢様方からの頼みだとしても」
なるほど、おおよその事情は知っているらしい。慧音は腰を下ろし、身を屈めた。
「あいにくだが、私の連れは世話焼きでな。フランのような娘は、一度ひっぱたいてやったほうがいいと思っているらしい」
「なんですって?」
美鈴の身体から滲む気配が、色を変える。
「そのうちに始まるぞ。『その場凌ぎ』ではない、正真正銘の正面衝突が」
「させません」
美鈴も体勢を変えた。軸足を引き腕を下ろし、半身の姿勢で慧音に正対する。
「お前たちは知っていたはずだ。
フランドールの狂気は、生半可な時間経過で消滅するほど、柔なものではないことを」
「あなたになにが判るんですか!?」
美鈴は声を荒らげた。
「判りはしないさ。だが理解は、知識としての理解はできる。なにぶん面倒な血を抱えているのでな」
慧音は、胸騒ぎを感じていた。
「時間を経ることによって生じたものは、ひどく陰湿で厄介だ。
それ以上の時間か、それだけに相当するなにかを与えてやらねば消すことはできん。
五百年の間積もり続けたあの娘の中の狂気の沼は、おそらく、同じ五百年をかけても干上がることはない。
お前たちの方法でも、まだ足りない」
ざわり、ざわりと、血が騒いだ。
「私はあの娘に大したことはしてやれん。できるとしたら、あいつの泥をぬぐう手伝いくらいだ。
私は確信している。あいつなら――妹紅なら、やれるはずなんだ。だから頼む。ここは――」
「退けますかっ!」
慧音は、次の瞬間壁に叩きつけられていた。視界が暗褐色に染まり、すぐさまぼやけつつも元に戻る。
今までいた場所に、拳を突き出した美鈴が静止していた。
――殴られた。それも、知覚の外から?
「退けるわけがないでしょう!? あなたたちには判らないんです!」
美鈴は叫んだ。手を翳すと、極彩色の気弾が、広い廊下全体に現れた。
背後の月が、静かに浮遊する結晶のような欠片を、幻のように輝かせる。
口を切った。背骨が折れていないかが心配だった。唇に浮かぶ血を拭い、慧音はゆっくりと身を起こす。
「ああ……判らん」
前かがみになり、握り締めた拳をじわりと広げた。爪が、痛かった。
『牙』を、噛み締める。
ざわめきが、次第に増えていく。頭痛がしてきた。皮膚が引きつる。血が騒ぐ。
「まったく判らんな。……そして、判ってやる気も――無い!」
前兆。
そして、変化。
「…………っ」
美鈴が息を呑むのが聞こえた。
目の前の存在が、なにかに、知らないなにかに、
「すまんな……見苦しい容貌だが」
頭が少し重かった。身体も動きが若干鈍い。慣れない服を着ているせいか、久方ぶりの変化のせいか。
「お前は、ここで止める」
変貌していた。
「……上等です」
門番は再び構えを取り、威嚇の気配を消した。転じて、殺気まがいの闘気が溢れる。
慧音は拳は握らず、指を少し曲げた状態で構える。白沢の爪は、手を握るのには不向きだ。思い切って、牙で切り破った。
「符がないのでな。少々痛いだろうが、お返しだ。殴るぞ」
「それこそ、こちらの真骨頂ですよ」
「そうか。ならば」
「ええ」
『勝負』
「む……あと少しかな」
「……」
暗い部屋の中に、一箇所、舞台の脚光を浴びるように白い場所がある。
波間に浮かぶ光が、反射した白い影を天井に映し、揺らめかせていた。その輝きが、時折薄まり、時折濃くなる。
「切れ切れなら光は届いてるんだがな……」
「……」
波打ち際には木板が敷かれ、周囲は簡単な石で円形に組まれ、渕を彩る塗料は文字を描いてそれらを囲んでいる。
傍らには二脚の肘掛椅子。それぞれに、白黒は乱雑に、薄紅、薄氷色の服は畳まれ、掛けられている。
光の中に、湯気が立ち昇っていた。
「……お、ばっちりだ。見えたぜ、アリス。今夜は満月だな」
「え、ええええええええええエエエエエエえ柄ええ得ええええええええええええええええええええエエええ得得、
……ええ、そうね。綺麗だわ」
「最後だけ取り繕ってもなぁ」
霧雨家の温泉は、地下階に拵えてある。しかし、それでも月が見たいという魔理沙の要求に答え、家は屋根から地下まで、一直線に吹き抜けにされていた。
暗い天井の一角、一気に開けた十メートル近い上空に、四角いガラス窓がはめ込まれ、そこから月と光が注いでいる。
窓が小さいため、月は霧雨家の直上を通る瞬間しか拝めないが、ここの温泉の成分は魔理沙の細工で塩分過多となっているので、湯船に浮かぶようにして空を見上げることができた。
月が見えるわずかな時を、魔理沙とは正反対の向きに浮かび、月夜を見る。
互いの首と肩が触れ合うような距離の中、アリスの脳は完全に煮立っていた。
「今何時だろうな……」
「と、時計、見れば……?」
「ここを今離れるのは惜しいぜ」
「そ、そうね……」
地下室内は保温の式が組んであるのか、身体の上半分を外気に晒しても寒さはない。
アリスは、むしろ寒いほうがよかった。とヤカンを乗せれば鳴きそうな頭で考えていた。
身体にタオルは巻いている。太ももががら空きで少々心もとないが、なにせ相手は魔理沙だ。なにを心配……
(……するだけ、無駄よね)
魔理沙に『そういった』意識はこれっぱかしもないのは明白だった。タオル一枚巻こうともせず、この世に誕生した瞬間からのベーシックスタイルで湯に浸かっている。
後頭部で手を組み、胸元もフルオープン。足は不敵に組んでおり、アリスにその場で起き上がって骨董品の映写機で一晩中撮影してやりたい欲求を覚えさせる。
「……なあ、アリス」
タオルですまきにしていた胸が、どきんと飛び上がった。胸元で組んでいた指が震える。
冷静に、冷静に、努めて自然に冷静に、それは密林に潜む、狼か野獣のように冷静に――。言っている意味はもはやどうでもいい。反復を繰り返し、脳の機能を麻痺させるほうが本来の作戦だ。口ごもらないよう、ゆっくりと声を出した。
「な……なに、かしら?」
「今晩。どうするんだ?」
「今晩、って?」
「いや、ウチに泊まるのかと思ってな」
「―――――――――――TOMARU?」
いけない地が出た。日本語変換機能が脳の彼方に飛翔毘沙門天。Shit! How was I speak Japanese !?
----I can't remember,Shit!!!!
「アリス? なに悶えてんだ?」
WRYYYYYYYYYYYYYYYYY!!! Harry! Harry,Alice! Remember Japanese! Harry up!!
「Sorry! Marisa,no problem. No problem Marisa. OK?」
「なに英語話してんだ」
「Oh my goodness!!!」
瞬間、
頭上のガラスが、音を立てて砕け散った。
「なっ!?」
「What!?」
魔理沙はとっさにアリスの上に覆いかぶさる。
翳した手が瞬時に現れた箒を握り、それを盾にし上を見上げ――
頭上を埋め尽くしていたガラスが、ひとつ残らず消えているのを見た。
「……なぁ?」
「……! ……!? …………!!!!!!!」
胸の下で、アリスが騒いでいる。腹がくすぐったかった。
「悪いわね。お楽しみのところ」
湯船の側に、蒼いスカートがふわりと翻る。その足元に、大量のガラスの破片が乱雑に落とされた。
「停止中は物が壊せないから。一瞬だけ解除したの」
「そう、みたいだな」
数日振りの顔合わせだった。今帰ってきたのだろうか。そうすると、ずいぶんな時間延長だ。果たして向こうでなにをしてきたのやら。
魔理沙は思考を巡らせるが、下腹部に当たる、アリスの胸の感触がいちいちコンプレックスを刺激して集中できない。
「まったく、せっかくの月見が台なしだぜ」
傍らの影は嘆息して膝を曲げた。
「そっちなんだ。まあいいけど。……って、そろそろどいたら? 死ぬわよ、彼女」
「あ、いかん」
魔理沙は身を起こし、湯の中に沈んだアリスの顔を見た。
「……笑ってるぞ。なんでだ?」
「不幸ね。あなたたち。それよりも、伝えたいことがあるの。一直線に館に戻らなければならないところを、わざわざ寄り道してきたんだから」
夜風が入り込んできた地下室は、少しずつ気温を低下させていく。
ぶるりと身震いした魔理沙に、傍らの椅子にかけてあった乾いたタオルを放りつつ、十六夜咲夜は言った。
「今宵。妹様を狂気の夢から覚ますわよ。協力して。魔砲使い」
「…………なに?」
「……しあわせでぇす……」
アリス、復帰完了。
――まだです。まだ終わらんのです!――
そしてギャグの折込具合も私好みでした。次回期待しています。
次回はハルカさんの言うとおり最終鬼畜妹を聞きながら楽しもうとおもいます。