「っくちゅん!」
かわいいクシャミの音。春もそろそろ終わりを告げようかという時の、ちょっとしたミスマッチだ。
「あれ?妹紅殿は花粉症だったか?」
「ぐず・・・そんな事ないはずなんだけどなぁ・・・・・」
「じゃあ今年からって奴かも知れないぞ。それにしては季節はずれな感じだが」
「・・・・・・誰かが私の噂でもしてたりして?」
「・・・月からやって来た?」
「それだったら私はクシャミ地獄だよ・・・どうせ鼻に埃でも入ったんじゃっくちゃん!」
「ハハハ、話をするのかクシャミするのかどちらかにしてくれ」
「うぅー・・・・」
クシャミと格闘しつつ談笑に興じる妹紅と、その永遠の伴侶・慧音。
穏やかな日々を過ごし、たまに山と谷の夜を送り、それでも時は穏やかに流れていく。
それは、小さな『変化』など気付かず見逃してしまいそうなほど遠大で緩やかな時の流れだった・・・・・・・・・
永夜 終わる時
「慧音~・・・・・・」
月が上弦の弓張から少しずつ膨らみを得てきた頃。いかにも恨めしげな声で妹紅が慧音の部屋に入ってきた。
顔を見ればその色は元々の白を通り越して蒼く、表情は重く、背筋は若干歪んでいる。
いつもの真っ直ぐな様子がどこにも見受けられず、人間に対してはやや過保護で心配性になりがちな慧音は
当然のごとく妹紅の異常な姿に反応した。
「・・・ど、どうしたんだ妹紅殿!?」
「どうもこうも・・・・・頭が痛い。体がダルい。寒気がする。吐き気もする」
「・・・・・・・・ええと、風邪・・・・・・・・・・・・・・・・・・か?」
「分かんないけど・・・・・・とにかくこんなんじゃ輝夜を殺しに行けないよ。慧音、布団敷いてくれる?」
「・・・・・・・・・・・・・・・あぁ、少し待っててくれ」
どうにも納得がいかなかった。
妹紅は普通の人間ではない。見た目は割と普通だが中身は別物、何しろ彼女は不老不死なのだ。
ちょっとしたかすり傷や切り傷程度なら止血するまでもなく勝手に傷が塞がり、重傷もまた同じ。病原菌の類なら、
体内に侵入した瞬間その存在の全てを拒まれてしまうはずである。
ゆえに妹紅は病苦を忘れ、数多の怪我を乗り越え今の今まで生き延びてきたのだ。
それが今更にして風邪の症状を訴えている・・・・・・慧音は疑問を感じこそすれ、それが滑稽だとはとても思えなかった。
もちろん、第一に妹紅の体の心配があるのだが。
「・・・これでよし、と・・・・・・・では妹紅殿、医者を呼んでくるから」
「医者?それって・・・・・・・・アイツ?」
「少なくとも腕は確かだし、私よりもあなたの事をよく知っているはずだ」
「アイツか・・・・・・・・・ま、いいか。気をつけてね、慧音」
「ん」
妹紅の言葉を背で受け、大急ぎで竹林へと飛び出す慧音。
独りになり、特にする事もなく、妹紅は慧音が敷いてくれた布団にのそのそと入っていくと
そのまま眠りに落ちてしまった。
「この子が風邪ねぇ・・・・・・」
「私だって信じられなかったさ・・・だがこうして弱っている」
「この子を床に就かせるなんて、相当強い菌・・・・・・・・・・ん?」
「ど・・・どうした?」
「いや、これは・・・・」
慧音が言う所の『腕の確かな医師』――本人は薬師だと否定しているが――八意 永琳。
彼女が慧音の依頼に応じてくれるかは、慧音にとっては一か八の賭けだった。なにしろ慧音の伴侶と
永琳の主ときたら、顔を合わせればその場で殺し合いを始めてしまうような仲なのだ。
だから永琳は来てくれなくて元々、下手を打てば慧音がその場で襲われてしまうかも知れなかった。
だが意外な事に永琳は首を縦に振ってくれたし、彼女の主・輝夜も認めてくれた。
「・・・・風邪ね。完膚なきまでに」
「・・・・・・・・・・本当か?」
「私はこういう事で嘘はつかないわよ」
永琳は妹紅に触れるまでもなく、彼女を見るなり風邪だと断定した。
あまりの即断ぶりに妹紅は呆け、慧音は手抜きだと思い、拍動や体温をしっかり測らせたがそれでも初見の所見が覆る事はない。
だが、永琳の自信に満ちた態度を見れば二人ともそれをこれ以上否定するわけにはいかなかった。
「栄養のある物を食べて温かくしていれば問題ないわ。それでも病状が改善しなかったら、これを」
救急箱から出したのは、白い紙に包まった白い錠剤だった。
紙には何も書かれておらず、その素っ気なさがかえって二人の興味を引く一方で疑心暗鬼にもさせていく。
「毎食後に一錠、一日分。これで治らない風邪はないわ」
「そうか・・・・・済まない」
「いいのよ。姫の『お客様』ですもの」
にこりと永琳が微笑む。
時を辿れば彼女こそが妹紅を不死に仕立て上げた張本人と言えるのだが、もうそんな事はどうでもいい。
今は今、妹紅の助けになってくれたことが二人にとっては重要だった。
「お客様ときたか・・・・・・・・私の結界が及ばなくなる所まで案内するよ」
慧音と妹紅が住む住居は、慧音が歴史の表面からその存在を消し去っているため
他の人間には見ることも触る事もできなくなっている。
外敵の侵入を防ぐためとも、妹紅の存在を徒に外に晒さないためとも言えるが、
とにかく慧音なしにはこの屋敷への出入りは『月の頭脳』の二つ名を持つ永琳でも不可能なのだ。
「じゃあそういう事で。お大事ね、蓬莱のお姫様」
「ありがと・・・・・・・・・・輝夜に伝えといてよ、『治ったらすぐ殺しに行ってやる』って」
「・・・そうそう、その事に関して私どもの姫から言伝を預かってるの。『いつでもいらっしゃい』ってね」
「・・・・・・・・ッ」
「仲がいいわね、お二人とも」
顔を赤らめて歯噛みする妹紅、したり顔なのか挑発しているのか微笑を浮かべたままの永琳。
その二人に割って入り、慧音が永琳の背中をそっと押す。
「で、では見送ってくる!」
――月人に深く関わりすぎるとこちらまでおかしくなってしまいそうだ・・・・・・
まさかそんな事を口に出して言うわけにもいかず、冷や汗を垂らしつつ慧音は屋敷の戸を開けた。
「・・・・・・ところで永琳殿」
「何かしら」
慧音が創り出す結界を抜けたあたりで、唐突に慧音が足を止めた。
屋敷がある場所からはかなり距離があり、よほど騒ぎ立てない限り妹紅に気付かれる心配はない。
そこまで離れた上で、慧音はさらに念を押し小声で話しかけた。
「あなたの、医師としての技量を」
「私は薬師ですけど?」
「・・・・・・ともかく、あなたの技量と知識を十分に見込んだ上で聞きたい事がある」
風のざわめきと笹の掠れる音が、二人の会話をいい具合に押さえ込んでくれている。
これなら、多少感情が昂って声が大きくなっても問題ないだろう・・・・・・
一呼吸置いて、慧音は一字一句を間違えないよう慎重に言葉を続けた。
「なぜ・・・・・・不老不死のはずの妹紅殿が風邪など引くんだ?」
風のざわめきが、少し大きくなったような気がした。
(続)