「咲夜」
急に呼び止められた。誰かだなんて、考えるまでも無い。
「はい、なんでしょうかお嬢様」
私、十六夜咲夜は振り向いた。主レミリア・スカーレットの方へ。
「明日1日、ナイフその他諸々、実力行使的なことは一切禁止ね」
「はい、かしこまりまし…って、今なんと仰いました?」
予想もしなかったことを言われ、つい聞き返してしまった。
「だから、ナイフを使っちゃダメ。何も包丁も無しに料理を作れ、なんて言わないから安心しなさい」
「えっと、それは何故でしょうか…」
「それがねぇ、さっきパチェから聞いたんだけど。新人たちからあなたに対する不満が多いらしいわ」
時期は3月末。メイドの大半が妖怪とはいえ、ここ紅魔館でも新人は雇う。何故なら死んだり、いなくなったり、逃げ
出したりすることが多いからである。
死んだりいなくなったりした者は仕方ないとして、逃げ出した者を追いかけて連れ戻す、なんてことはしない。
簡単だ、逃げ出した分だけ仕事に穴が開くので、その補填をしたあとに、人員の余裕などあるわけがない。
こういった理由から。紅魔館では3月と9月に。大規模な採用試験を行っているのだ。
採用試験、というのは人間に向けたものだが、その実、外で人間を襲うことに手間を感じた妖怪達が、衣食住を求めて
くるほうが、圧倒的に多い。
自分に対する不満が来るのは当然だが、咲夜はいつもの如く「人間だから」と思われていたと思い込んでいた。
「そうですか、それなら私が彼女らに私の力を見せ付ければ、不満も無くなると思いますが」
レミリアは「あぁ、そう来ると思った」というような顔で言い返した。
「違うの、そうじゃなくてソレが原因なの」
「違う、と言いますと?」
「不満があるのはもっぱら真面目なタイプかららしいわ。彼女らの弁を借りると『メイド長は失敗した人に情け容赦な
くナイフを投げる、もしかしてメイド長は脅迫で今の地位にいるのではないか』ってことだってさ」
「えぇっと、つまりはどういうことでしょう」
咲夜は初めて言われたことに混乱していたが、そこに更に混乱させるようなことをレミリアは言った。
「簡単に言えば、咲夜としてでなく、メイド長としての威厳を見せてあげなさい、っていうことよ。
私は別に、強いからってメイド長にした訳でも無いことを思い出して欲しいの。
たまにはやさしくしてみるのも面白いわよ、今の咲夜みたいな反応が見れて、面白いんだから。
それにたしか咲夜は明日、図書館で仕事でしょう? 図書館は簡単な仕事しかないんだから、監督業っていうのもいい
かもね」
「分かりましたよもう、明日はナイフを部屋に置いていきます」
「分かればいいのよ、それじゃおやすみなさいね」
そうして咲夜はレミリアを“いつもの顔”で見送った。
だが、内心は物凄くあせっていた。
(おおおおおおお嬢様の鬼! 悪魔! ナイフが無かったら向こうが襲い掛かってきたとき、どうしようも無いじゃな
いですか! はっ、お嬢様は吸血『鬼』だし吸血鬼は一般的に悪魔に部類されるじゃないか、私ったら何を言ってるん
だ。あれ? でも時を止めちゃいけないなんて言われてないからもしそうなったときは時を止めて取りに行けばいいの
かしら? いやしかし持ち出さないと言ってしまったし、けど襲われたら…)
とか思い悩んでるうちに気付けばお風呂に入って、気付けば歯を磨き終わって、気付けばベッドに入って寝ていた。
その様は普段の咲夜が出来ないような寡黙で美しい完全で瀟洒なメイドそのものだった。
見た者がいればそれはもう老若男女有象無象に人間妖怪関係なしにそれこそ正に時が止まったかのように見とれてい
たであろうが残念ながら目撃者はいなかった。
そんなこんなで翌朝…。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」
咲夜の部屋の前で、20人程度のメイド達が横に並んで挨拶をしている。今日の図書館で働くメイド達である。
実は、全員が全員特別シフトでパチュリーに愚痴っていたメイド達だということを、咲夜は知らない。
「おはようございます。突然ですが、今日はちょっとしたテストになります。
今日の掃除する場所、図書館ですね。ここをあなた達だけで掃除してもらいます。
私は、監督として見守りますが、全員に目が届くように少しづつですが範囲を狭めて、時間を増やして掃除を行います
ので注意して下さい」
「あの、失礼ですが突然言われましても・・・」
一人が、恐る恐る発言した。次の瞬間に、他の皆は目を背けた。メイド達の思いは皆、「骨は拾ってやる」と思って
いただろう。
だが、今日の咲夜は違った。
「こういうことは急にやるものよ、事前に告知したらズルしたりする人たちが現れるでしょう? ズルをしてテストを
通ってもその後に仕事がしっかりしてなきゃテストをした意味が無いんだし。
テストというものは普段の出来を見るものなんだから。安心していいわあなた達だけでなく、ちゃんと明日からは順番
にテストして回っていくから。
あ、でもあなた達が皆に言っちゃうと抜き打ちにならないからその辺りは覚えておいてね」
言い終わった後、咲夜は顔を上げメイド達の顔を見たが、このとき時を止めていないのに時を止めたかのような錯覚
が生まれた。
メイド達が怯えた顔で驚いた顔で固まっていたのだった。
(怖かった、怖かったよう)
(な、何で頭にナイフが生えてないの! メイド長は壊れたの!)
(もしかしてこないだパチュリー様に言ったことがバレたの?)
(いや、バレたなら私達は生きてない、だからそれは無いと言っていいわ)
(じゃあ何で?)(もうすぐ春だから浮かれてるとか?)
(春だったらイベントの準備で忙しくなるからそれは無いでしょう)
(実はパチュリー様に言ったことがバレてたけどそれが何かの形で歪曲されてこんな感じになってるってこと?)
(もっとありえないわよ)(兎に角、テストなんだって言われたからには、気をつけてやらないといつナイフが飛んで
くるか分からないわ)
(そ、そうねいつも通りにやればいいわよね)
と、メイド達が咲夜に聴こえない程度の声で、一瞬の間でここまで無駄なことを言いつつ会議をしていたのはやっぱ
り咲夜は知らない。
「それでは、図書館へ移動しましょう」
「はい」
そして一見日常が、しかし内心非日常が始まったのであった。
「それでは、5人ずつに別れて、全体的な埃落とし、リトルと蔵書整理、床掃除、窓拭きに分かれて始めて下さい。私は
上空で待機していますので、何かあれば、私のほうへ」
この後、数秒で班分けが完了し、滞りなく掃除が始まった。
(しかしまぁ、監督ってのは暇なものね…)
数時間経過し、咲夜は完全に暇だった。メイド達の仕事は今のところ、初めて一ヶ月としてはまずまず、なやり方だ
った、途中手順を間違えたりしたものの、しっかり他のメイドがフォローする形で補っていて、この時点でテストを終
わらせてもいいくらいだった。
(とはいえねぇ…これじゃなんでも1日掛かっても終わらないわ)
問題は時間であった、確かにちゃんとした仕事はするとはいえ、時間が掛かっているのである。
一つ一つの動作に対して掛ける時間は、とてもじゃないが、早いとは言えなかった、それでも遅いとも言えないが、失
敗してフォローしていたり、確認していたりして、その分時間が掛かっているのだ。
(あぁ、時間が掛かる…私がやれば一瞬で終るのに、でも控えてるって言っちゃったし、でも時間掛かるし…)
とか苦悩していた矢先。
「きゃあーー!!」
張り裂けるような悲鳴が聞こえた。
「あぁ、危ない!」
苦悩していただからだろうか、咲夜は時を止めることも忘れて、落ちていくメイドの元へ行き、何とか落ちる前で抱
きとめた。
「あなた、大丈夫?普通、飛んでる途中に落ちたりしないわよね?」
「すみません、私はここに来てから飛ぶことを覚えたもので、慣れていないのです。それに、昨晩は少し寝るのが遅か
ったもので…」
よく見ると数少ない人間の新人の一人だった、村で暮らしていたのだろうか、ここ紅魔館で暮らして、仕事していく
には必要不可欠なことを満足に出来ないことは致命的だ。
「言い訳は聞きたくないわ。それより、次から失敗しないことの方が重要よ。とりあえずバケツの水を替えて来なさい。
ついでに顔でも洗って目を覚ますといいわ」
このときの咲夜は無意識のうちに笑っていた、いつもの獲物を見つけたような笑顔では無く、娘か何かをあやすよう
な笑顔だった。
「はい、分かりました…あのメイド長」
「あら、何かしら?」
「もう、大丈夫ですので…降ろしてほしいのですが…」
そういうとメイドはうつむいてしまった、よく考え直せば咲夜は落ちてくるこのメイドを「抱きとめた」のだった。
それはつまりどういうことかというと…今の状況は咲夜がメイドをお嬢様抱っこしてい
る状態である。
「あら失礼、気付きませんで」
そしてゆっくりメイドを降ろすと、メイドは一目散にバケツを持って行ってしまった。
よく見たらメイドの耳は真っ赤だった。
「まったく、何で耳が赤いのかしら…」
独り言を呟いていると隣にいたバケツで雑巾を洗っていたメイドが言って来た。
「いやー、メイド長カッコよかったですよ。今のは惚れちゃいますって」
「あら、怒るわよ?それからあなた、雑巾が随分綺麗だけど、雑巾を使うときは、手に収まるくらいの形に折って使え
ば、その分だけ使える面積が増えて洗う回数が減るわよ。
あの子が戻ってくるのにも、時間が掛かりそうだし、そういうことでもしないと、バケツが無いのに雑巾を洗うハメに
なるわ、気をつけなさい。
そんなのだから髪もセットすることも忘れるの、メイドだからって、身だしなみにも手を抜いちゃダメよ、メイドの格
は主の格でもあるんだから」
『また』この笑顔である、彼女もまた俯いてしまった。
「分かりました…ありがとうございます…それでは仕事に戻りますんで」
「はい、頑張ってね」
そうこうしている内に掃除が終わり、一日が終わっていったのだった。
「咲夜、今日1日どうだった?」
就寝前にレミリアにお茶を入れにきたときにいきなり聞かれた。
「疲れましたわ、当分はナイフを手放させるのは止めて下さいね」
「はいはい、明日からは明日からでまた楽しそうだからそんなことはもう言わないよ」
後日、メイド2人と一部始終を見ていた窓拭きメイド隊が、同僚達にこのことを話し、メイド達の咲夜に対する不満は
消え去った。
が、その2人から言い寄られ、更に日を重ねるごとに恋する目で見るメイド達が増えたの
は言うまでも無い。
でもそれは、また違うお話。