目が覚めてまず視界に映し出されたものは、ぼんやりと闇に霞む天井だった。薄暗さから考えて、時刻はまだ薄明の頃といった所か。普段より随分早く目覚めてしまった。
けれど曖昧な意識ながら、その天井の眺めに違和感を感じた。いつもとどこか違う気がしたのだ。あら? と思いながら、ころんと顔を横に向けてみると、すやすやと眠る妖夢の顔が目の前に現れる。
あ、そうそう、昨日は妖夢の布団で一緒に寝たんだっけ。
意識が覚醒へと向かうのに並行して、何だかんだと言われつつ半ば強引に妖夢の布団にもぐり込んだ昨夜の事が次第に思い出されてくる。やはり雪の見られるほど寒い冬の夜は、1人より2人で寝た方が暖かい。あらためてそう思った。
再度、妖夢の方を見やる。
先程と変わらず、すやすやと小さな寝息を立てて妖夢は眠っていた。何か良い夢でも見ているのだろうか、かすかにその頬が緩んでいる気がする。それとも、この幸せそうな表情が、いつもの妖夢の寝顔なのだろうか。――もしくは、私がそういう目で妖夢の事を見ているからか。
考えてみれば、妖夢の寝顔を見るのは随分と久し振りだ。普段妖夢は私よりも早く起きて朝食の支度をしているし、夜も基本的には私の身の回りの世話や雑務を全て終えてから床に就いているはず。つまり私が起きている時間帯は、必ず妖夢も起きている。……全く、よくできた従者である。
そうして考え事をしている内に、意識もはっきりしてきた。いつもならまず間違いなく二度寝する時間だけれども、たまには早く起きてしまうのも良いかも知れない。
傍らで眠る妖夢を起こさぬ様に、こっそりと布団から這い出る。
……寒い。
思わず暖かい布団に逆戻りしてしまいたくなった。そう言えば普段は、「朝なんですから早く布団から出てくださいよ~」なんて言われながら妖夢と仁義無き掛け布団争奪戦を繰り広げていたっけ。そんな私が、こんな朝早く自分から布団を出て起きようとしているのだから世話が無い。後で妖夢に、「普段もこれだけ寝起きが良ければいいのに……」などとぼやかれる事だろう。それはそれで構わないけれど。
「……うぅ……ん」
ほら噂をすれば影……じゃなくて。……妖夢の事を起こしてしまっただろうか。布団から出てから、妖夢の方を振り返る。
「……ん」
目覚めた様子は無かった。どうやら、寝返りを打っただけの様だ。……それにしても、妖夢は寝相があまり良くないのだろうか、今の寝返りで、掛け布団から肩がはだけてしまっている。
そっと、布団を掛け直してあげるが、それでも目覚める様子は無い。本当に良く眠っている。
あまりにも無防備で隙だらけなので、ついつい妖夢の事をいじりたくなる衝動に駆られる。もちろん、こんなに安らかに寝ているところに可哀想だから、そんな事はしない。
……それに、私はただ単に楽しいからというだけで妖夢をからかっている訳ではない。
もう一度妖夢の布団を直してから、立ち上がる。そう言えば、昨日ずっと降り続いていた雪――この冬の初雪である――はどうしただろうか。
縁側のある、庭に面した側の障子を開ける。すると、ひゅう、と外の寒気が部屋に侵入してきた。
あわてて表に出て、部屋が冷えない様に速やかに障子を閉める。
外は、まさに凍て付く様な寒さだった。残っていた眠気は、頬を叩く冷気によって一瞬にして取り払われた。よく考えたら、最も冷え込む時間帯。余計に寒くて当たり前だ。
けれど、雪は止んでいた。そして二百由旬の庭は、一面の雪化粧に飾られている。
遠く上空を仰いでみれば、沢山の雪をもたらした雲は既にどこかへ流れ去っていて、空には、上天から東へと向かって藍色から明色へと移り変わる緩やかなグラデーションが描かれている。
広く庭を見渡してみれば、白いはずの雪も、薄明の中では淡い青紫色に浮かび上がっている。
夜と昼の境界。それは青、藍、紫――全てが青系統の色で構成された世界。それはどこまでも幻想的で、あたかも夢と現の境界に居る様で。
素直に、綺麗だと思った。
暖かい布団の中でぬくぬくと朝を過ごすのも良いけれど、これほどに美しい光景を目の当たりに出来るのならば、早起きをするのも悪くはない。初雪にしては、良く積もってくれたと思う。
――初雪の降る頃。
この季節になると私は決まって、昔のある二つの出来事を思い出す。どちらも、もう何十年も前の事だ。
ひとつは、白玉楼先代の庭師であり妖夢の師匠でもある魂魄妖忌が、ここ白玉楼から姿を消した事。
妖忌が今どこにいるのか、なぜ突然いなくなってしまったのか、私には分からない。けれど、数百年も私に仕えてきていた妖忌の事だ。何か考える所があったからなのだろうとは思う。
もうひとつは、妖忌がいなくなった数年後。妖夢との、ある出来事。
その時の事を思い出すと、今でも微かに胸の痛みを覚えてしまう。まるで古傷が疼く様に。私らしくない、と思うけれど、その疼きは妖夢への私の想いそのもの。だから、否定などという事は決してしない。
それはまだ、妖夢が今よりももっと幼い頃の事。妖夢はきっと憶えてなどいないだろう。けれど私の記憶の中では、その時の出来事は確固たる位置に鎮座している。
思えば、妖夢も随分と変わったものだ。
妖夢は、昔は今よりももっと生真面目で、まわりが見えていなくて、何でも1人で勝手に思い込んでしまう様な子だった。そういう点は今でも残ってはいるけれど、その「残っている」という位が、妖夢にとっては丁度良いと思う。生真面目でなくなった妖夢なんて想像する事すら叶わない。
私の一日は、妖夢に起こされるところから始まる。それが、いつもの朝。
妖夢の事をからかったり、妖夢の料理した食事を口にしたり、時には真面目に妖夢から剣術指南を受けてみたり。それが、いつもの一日。
そんな日々が、そんな幸せが、当たり前の様に繰り返す。それが、私の日常。
決して大きな出来事という訳では無かったけれど、その時の事があったからこそ、今のこの日常が存在し得ているのだろうと思っている。
振り向いて、妖夢の部屋を見やる。
きっとまだ妖夢は、心地良い眠りの世界に身を置いている事だろう。
だから私も今は、心地良く懐かしいけれど、ちょっとだけ胸の痛む、過去の世界に身を置こう。
そう思って、私はゆっくりと、視点を現在から過去へと移す様に目を閉じた。
*
「一緒に……寝てもいいですか? 幽々子様……」
障子を少しだけ開けて、妖夢が遠慮がちに顔をこちらに覗かせている。そろそろ来る頃と思っていたらやはり来た。
妖夢の師匠である魂魄妖忌が、ここ白玉楼から姿を消した冬の日から数年。雪が降る頃になると、決まって妖夢は私の寝床にやって来る。雪の日の朝にいなくなっていた妖忌の事を思い出して、寂しさに駆られてしまうのだと思う。妖夢にとって妖忌は、それだけ大きな存在だったのだろう。
「寒いでしょう? 早くいらっしゃい」
私がそう言うと、妖夢はおずおずとした様子で部屋へと入ってきた。枕をぎゅっと抱きかかえているあたりが何とも可愛らしい。そして障子をたん、と閉めると、抱いた枕を左右に揺らしながら小走りに私の寝床までやって来る。その姿に、思わずくすりと笑ってしまった。
いつもの様に、半分空けた布団の中に妖夢がもぐりこむ。
そこからが問題だった。
一緒の布団に入った後、妖夢は必ず私に背中を向けてしまうのだ。何も言わずに。
きっと恥ずかしさがあるのだろうけれど、私から見れば妖夢はまだまだ幼い子ども。だから、何ら気にする必要なんて無い。けれど妖夢の背がまるで会話を拒絶しているみたいに感じられて、それを言葉にする事は出来なかった。
だからせめて、
「おやすみ、妖夢」
そう言って私は妖夢に身体を寄せ、その背を軽く抱いてあげた。
微かに身体を震わせるも、特に嫌がる様子は無い。
抱いてあげてから気付いたが、妖夢の身体は存外に冷えていた。もしかしたらこの部屋を訪ねるまで、寒い廊下で迷っていたのかも知れない。私に甘えすがってなどいていいのだろうか、と。
「……おやすみなさい」
消え入りそうな、妖夢の返事。
それはあくまで寝るための挨拶であるのに、どこか申し訳なさそうな色合いを帯びていた。
妖夢の内面は、意外と複雑だ。
普段の妖夢は一分の甘えも許さないほどに、自分に厳しい。毎日の修行は決して欠かす事は無いし、主である私の世話も、忘れる事は無い。師匠であった妖忌の教えもあるのだろうが、基本的には妖夢の根っからの真面目さによるところが大きいと言える。年端の行かぬ女の子とは、到底思えない。
かと思えば、私の所に来て一緒に寝たがるなど、年相応の幼い側面を見せる事もある。刀を持たせれば並大抵の妖怪の類などものともしない妖夢も、その心の中だけは、年齢を反映している。
問題は妖夢が、自身のそういう内面を「甘え」として断じ、許容していないという事だった。
「妖夢ー、何やってるのよー」
「修行です」
「こんな雪の中で修行なんて、風邪引いちゃうわよー!」
「大丈夫ですっ!」
根拠も何もない、言葉だけの「大丈夫」だった。
次の日の朝、私が目覚めた時には既に、妖夢は傍らにはいなかった。
表に出て庭を見てみると、昨夜から続く雪の中、刀を手にして佇む妖夢の姿があった。正眼に構えたまま、妖夢は身動き一つしない。いや、実際は寒さに身を凍えさせている事だろう。威勢の良い返事は、震えが声に出てしまうのを隠そうとしている様で、却って痛々しかった。
それにこれは、精神統一か何かの修行のつもりなのだろうか。私には、苦行と言うよりは、ただ自分の身体を痛めつけているだけの様にしか見えない。
「いいから、上がってきなさい」
「…………」
返事は無い。その間にも、しんしんと雪は降り続いている。
随分と間があってから、やっと妖夢は刀を下ろした。
おかっぱ頭に積もった雪を払う事も無く、妖夢はとぼとぼとこちらへ歩いてくる。先程の返事の様な覇気は欠片も感じられず、その身体がいつも以上に小さく見えた。
「こんなに雪まみれになるまで……」
どれ位の時間、妖夢は表に居たのだろうか。1時間か、それともそれ以上か。
どうあれ、私は全身についた雪を払ってあげる。
そばまで来て分かったが、やはり妖夢は身体を震わせていた。
「すみません……」
雪を払い終えて、ようやく妖夢が言葉らしい言葉を発した。
「いいから。……それと、あなた朝食まだでしょう? 私が作ってくるから、こたつにでも当たってなさい」
「はい……」
妖夢がこたつのある部屋へ入るのを確認してから、私は炊事場へと向かった。
妖夢が風邪を引いた事を私が知ったのは、その次の日の朝だった。
普段なら私が起きるより早く妖夢が起こしに来るのだが、この時は私の目覚めの方が先だった。
何となく、嫌な予感――いや、ほとんど確信めいた予感がする中、私は妖夢の部屋へと向かった。
すると案の定、妖夢が布団の中で苦しげに咳き込んでいたのだった。
「だから、風邪引くわよ、って言ったのに……」
妖夢の事を責める意図は全く無いけれど、ついついため息混じりにそんな言葉がこぼれてしまう。
水の入った桶を傍らに置いて、私は妖夢の枕元に座る。手拭いを水に浸して絞り、その額に乗せてあげた。
掌で額に触れてみたところでは、熱はあったものの、重度のものではなさそうだった。さしたる心配は要らないだろう。2、3日安静にしていれば、良くなってくれると思う。
「すみません、今、朝食のご用意を……」
「いいから、私が用意するからあなたは寝ていなさい」
風邪にもかかわらず、いつも通りの仕事をこなそうとする妖夢。
私は起き上がる妖夢を制して、寝かせる。落ちてしまった手拭いをもう一度乗せてあげながら。
「でも、昨日に続いて今日も……」
「いいから、寝てなさい」
「……はい」
なおもぐずる妖夢に対し、私は自分の声から優しさを捨てて言葉を放った。そうする事で、ようやく妖夢が私の言う事に従ってくれた。
優しさを捨てて、とはよく言ったものだ。要は、半ば命令口調でものを言っただけの事。そう思うと、私は少なからず空しさを覚えてしまう。命令でなくては、妖夢は私の言う事を聞いてはくれないのだろうか、と。
もちろん、従者として主である私に尽くそうとしているが故の、妖夢の行動であるという事は分かっている。考え過ぎだと思いながら、けれどその反面、その問いは繰り返し私の心の中に投げ掛けられて来る。
「お粥か何か作ってきてあげるから、ゆっくり寝てなさい」
そう言って、私はその場を立ち上がる。
その言葉は、半分は嘘。何故だか妖夢のそばにいづらくなって、部屋から立ち去るそれらしい要件を口にしたに過ぎないのだから。
「申し訳ありません、幽々子様……」
部屋を出る私の背中にのしかかる、妖夢の声。その言葉以上に、声そのものが申し訳なさそうだった。
私はそのまま、後ろ手に障子を閉めた。
言葉を返す事は、出来なかった。
夕刻の事だった。
様子を見るついでに、夕餉に何か口にしたいかを訊こうと思い、この日何度目かの妖夢の部屋の訪問。
相変わらず止まぬ雪を横目に、底冷えする廊下を、駆け足とまではいかなくとも早足で進む。
妖夢の部屋の前へとたどり着き、障子の取っ手に手を伸ばし――
――そこで私の手は止まった。
……泣いてる?
障子の間から、嗚咽のような声が漏れ聞こえてくるのに私は気が付いた。
体中が強張る感覚に抗いながら、私は全神経を集中して中の声に聞き耳を立てた。すると確かに、時折しゃくりあげる音が聞こえてくる。
それは確かに、妖夢の嗚咽であった。
考えを巡らすまでもなく、妖夢が泣いてしまっている理由は推測がついた。まず間違いなく、従者としての不甲斐なさや弱さを自ら責め立てているからなのだろう。普段なら自分が主の世話をするのに、その主に世話を焼いてもらっているという、今のこの状態。
なにより妖夢としては、雪の中勝手に修行していた結果勝手に風邪を引いてしまった訳であり、それは自責の念をより一層深めるのには十分過ぎるものだ。
そうして内に溜め込んだ負の感情に抗う術も無く、押し潰されてしまうのだろう。
仕方の無い事として状況を受け入れるには、妖夢は真面目過ぎる。
いや、そんな事はどうでも良い。
何よりもまず、妖夢を泣き止ませる事が先決だ。このままでは、風邪なのに余計に喉を痛めてしまう。
けれど。
取っ手に触れた右手を、私はどうしても動かす事が出来なかった。
部屋に立ち入った所で、私は妖夢にどう声を掛けてあげればいい? 何と言って慰めてあげればいい?
何を言ったところで、それはまた妖夢が自分自身を責める理由が1つ増えてしまうだけに思えてならなかった。
薄い障子紙1枚を隔てた向こうでは、妖夢が泣きじゃくっている。
うつ伏せになって、
枕を強く抱きしめて、
嗚咽が漏れぬ様に顔を枕に押し付けて、
そんな妖夢の様子が、それこそ手に取る様に分かるのに、肝心のその手は、まるで凍り付いてしまったかの様に硬直していた。妖夢を慰める術が手の内に見い出せない自分がもどかしかった。
雪の止まぬ初冬の空。
痛いまでの静寂が支配する白玉楼。
その中で私は、部屋に足を踏み入れる事も、顔を背ける事も出来ず、妖夢の嗚咽に胸を刻まれながら立ち尽くすしかなかった。
夜も更け、普段ならばとうに深い深い夢の中を漂っているであろう頃、私は妖夢の部屋を訪れた。
結局あれから、私は妖夢の様子を伺う事が出来ないまま夜を迎えた。
静かに障子を閉めて、持って来た灯りで妖夢の寝顔を確認する。
時間も時間。妖夢は眠りに就いている。眩しくならない様に注意しながら、灯りを妖夢の顔にかざした。眼の周りが腫れて見えるのは気のせいではないだろう。
灯りを消すと、部屋には暗闇が舞い降りる。
私は妖夢の枕元に座って、暗さに慣れない目のまま、闇に覆われた膝元の妖夢の顔をじっと見つめた。そうする事で、夕方、身を切るような冷さと妖夢の嗚咽にさらされていた時に、私の中に生まれた問いがあらためて思い出された。
――この子にとって、私は一体どういう存在なのだろう。
妖夢が私に対して尊敬の念を持って接し、忠実な従者として私に仕えているという事は、今までの妖夢を見ていれば考えずとも分かる。
けれどそれは、もしかしたら白玉楼の主という私の立場に対してであって、西行寺幽々子という私個人に対してではないのかも知れない。そうであるから、「主」への申し訳なさという思いばかりが先行して、思わず泣いてしまうまでに自分を責めてしまうのだろうか。
だから、妖夢にとって「私」はどういう存在なのか、それが知りたかった。
そしてその問いは、翻ってもうひとつの問いを生み出す。
――私にとって、この子は一体どういう存在なのだろう。
私はもうかなりの長い年月、妖夢と生活を共にしている。それこそ、家族の様に。
そして何より、私は妖夢の事が好き。私は掛け値なしにそう言う事が出来る。だから、妖夢の事は一から十まで分かる。そう思っていた。
でも、妖夢の事を慰めるにはどうすれば良いのか、私には分からなかった。月並みな慰めの言葉しか考え付かない自分自身が歯がゆかった。私にとって妖夢はその程度の存在だったのかと思うと尚更だった。
次第に目が暗闇に慣れてきて、おぼろげながら灯りなしで妖夢の顔が確認出来る様になった。
私は覗き込む様にして、妖夢の寝顔を見つめる。
そっと閉じられた瞼。
すっと通った鼻筋。
ちょこんと小さく、可愛く閉じた唇。
ふっくらと丸く、柔らかな曲線を描く頬。
さらさらと、清流の様に透き通る銀糸の髪。
私が見つめる先には、それぞれの要素が見事な調和を成した、魂魄妖夢という名の一人の愛らしい女の子の顔が形作られている。
将来はさぞ美しい娘に育つだろうと、私は常々思っている。
けれど……
けれどどこか、今はその表情に翳りがある様に見えてしまう。
暗さの加減でそう見えているのだと理性では断じながら、一方で、余計な思惟の網に掛かってしまう自分がいた。その表情の翳りが、私と妖夢とを隔てる距離を象徴している様だ、と。
私を捕らえようとする思考の網を断つように、目を閉じた。
そう言えば、最近は妖夢があまり笑顔を見せなくなっている様な気がする。以前はよく、可愛らしい表情を私に向けてくれたものだったというのに。
……やはり、妖忌がいなくなった事が影響しているのだろうか。
妖忌がいた頃は例えば、3人で食事をしている時には、よく笑いがあった。
修行中に妖忌に褒められたと、嬉しそうに私に報告しに来た事もあった。
妖忌は、時に厳しく、時に優しく妖夢に接していた。妖夢にとっては良き師匠であり、そして良き祖父であった事だろう。
けれど今、その妖忌はここにはいない。
妖忌がいなくなっても妖夢は泣き言ひとつ口にせず、また寂しいという素振りも日常の中では殆ど見せなかった。そして、それまでより一層、修行に励む様になった。
ただ時々、私の寝床を訪ねて来る様になった。
考えてみれば、妖夢の性格からして寂しさを直接言葉にして私に訴えて来る事はまず有り得ない。だから、私が察してあげるべきだったのだろう。
私は、そんな妖夢をどう受け止めてあげれば良かったのだろう……。
目を開ける。
目の前には、深い深い眠りに就く妖夢。
そんな妖夢が、いつも以上に愛おしく感じられた。
抱きしめてあげたかった。
もう、1時間以上はここにいる。
次第に、眠気が私の意識を侵食してくるのが分かる。
でも今は、妖夢の傍から離れたくなかった。
……このまま、寝てしまってもいいかな――そう思ってから間もなく、意識の糸は私の手から離れていった。
「おはようございます、幽々子様」
私が目を開けると、すぐ正面に、布団の上で膝を正して座り、恭しく頭を下げる妖夢の姿があった。
丁度明け方くらいなのか、薄暗いながらも周囲の様子を見渡す事が出来る。ここは妖夢の部屋だ。どうやら私は、あのまま寝入ってしまった様だった。
「……身体は、大丈夫なの?」
挨拶の返事よりも、妖夢の体調を伺う言葉が先に走った。
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
そう言って、妖夢は顔を上げた。
……ちっとも大丈夫そうではなかった。
微かに開いた口からは深く長い呼吸が漏れて来るし、私の姿を映し込む瞳はどこか虚ろで、生気がほとんど感じられない。無理をしている事は明らかだった。
「ねえ、どうして、そんなに無理をするの?」
私は妖夢を真正面に見据える。それを受ける妖夢の目線は、やはり安定していない。
「いえ、私は無理なんて……」
「私に嘘をつくの?」
「それは……」
我ながら、卑怯な物言いだと思った。どういう言い方をすれば妖夢が答えに窮するか、すぐに分かってしまう自分が嫌だった。妖夢を慰めてあげる言葉は、今になってさえも浮かんで来ないというのに。
実際、目の前の妖夢は余計に表情を暗くしている。どうすれば良いのか、何を言えば良いのか分からないでいるのだろう。心根が素直すぎる妖夢を責めている様で、胸が痛んだ。
私は問いを変える事にした。
「ねえ妖夢、妖忌がいなくなって、寂しい?」
「え……?」
妖夢にとっては恐らく、唐突な問い掛けなのだろう。質問の意図を窺う様な視線を向けてくる。なにしろ妖忌がいなくなって以来、私達は妖忌の事を殆ど話題にして来なかったのだから。
いくらかの逡巡ののち、やがて、妖夢は無言でこくりと頷いた。
「そう……」
思った通りだった。
「でも……」
「えっ?」
搾り出す様な声。
気が付くと妖夢は、膝の上に乗せた自身の手を固く握り締めていた。
「でも、そんな事では駄目ですよね、寂しいなんて言ってては……」
「妖夢、そんな……」
「いえ、全ては私が弱いからいけないのです。寂しいからと言って幽々子様に甘えてしまったり、勝手に風邪を引いて迷惑ばかりかけてしまったり……。私は……本当に未熟です」
うつむいて。
歯を食いしばって。
瞳にいっぱいの涙をためて。
泣き出すのだけはどうにかこらえて。
「……だから、無理でも何でも、私は幽々子様へのお勤めだけはしっかりと果たさなければいけないんですっ」
それでも、震えが声に表れてしまうのだけは、防ぐ事が出来なくて。
危うく、泣いてしまうところだった。妖夢が、ではなくて、私が。
この子は、どこまで健気でいれば気が済むのだろう。
でも、この子はやっぱり分かっていない。自分自身のどこが本当に未熟なのかと言う事が。
私は腕をそっと妖夢へと差し伸べて、ゆっくりとその小さな身体を抱いてあげた。
「幽々子様……」
胸元で妖夢が、くぐもった声でつぶやく。
「そうね……あなたはまだまだ、未熟。
剣の腕は妖忌には遠く及ばないでしょうし、庭師としても技量が足りない。
私を護衛する身としては、もっと身体も心も強くなければならない」
「はい……」
私の言葉を、素直に肯定してしまう妖夢。
剣の腕も、庭師としての技量も、確かに妖夢はまだまだ未熟。
けれど一人の幼い少女のものとしてのそれは、十分過ぎるものだと本当は私は思っている。
「でもね、そんなものはどうでも良いの」
「……え?」
胸元で妖夢が顔を上げる。
その瞳に浮かぶのは、幾ばくかの疑問の色と、そして涙。
妖夢を抱く手に、思わず力がこもる。
「あなたが何より未熟なのは、そうやって無理をして、私に心配を掛けるところ。
そして、私のそういう心配に、これっぽっちも気付いてくれないところ」
ぴくり、と妖夢が震えを見せる。私は構わず続けた。
「主の……、私の心が分からないなんて、妖夢は本当に、まだまだ未熟……ね」
「……あ……っ」
小さな声が上がる。続いて、ゆっくりと、まるで時間が引き延ばされたかのようにゆっくりと、その表情が崩れていく。
そして、
「……ごめんなさい……っ」
許容量を超えた感情と涙を、妖夢は溢れさせた。
私の胸にすがって泣きじゃくる妖夢の背中を、私はいたわる様に撫でてあげた。
……分かっている。
自分が誰かに心配を掛けているのかも知れないという事――本当はこういう事は、教え諭すものではなくて、いつか自分で察する事が出来る様になるべきものだろう。
けれど、そういう事に気が付くには、妖夢は考え方が何から何まで真っ直ぐ過ぎると私は思う。
迷惑を掛ける事と、心配を掛ける事。
その違いに妖夢が気付くまで、私の方が待てなかった。
「ごめんなさい……」
私の腕の中で、妖夢がもう一度、謝った。「申し訳ありません」ではなく「ごめんなさい」と。
それはまるで、白玉楼の主と言う私の立場にではなくて、何の飾りのない、私そのものに届けようとしているかの様に。
それは、私が都合良く考えているだけなのかも知れない。
でも、今はそう信じていたかった。そうであると願いたかった。
いつしか夜は完全に明けていて、薄く差し込む朝日が私達を優しく包み込んでくれている。今日は晴れの天気の様だ。
三日続いた初雪が、ようやく止んでくれたみたいだった。
*
それからの事だった。私が妖夢の事をからかったりする様になったのは。
もっと楽にして……と言えば語弊があるけれど、何から何まで完璧にこなそうと無理をしてしまいがちな妖夢には、もっと肩の力を抜いていて欲しかった。
そして何より、妖夢には笑顔でいて欲しかった。
初めの内妖夢は、どう受け答えれば良いのか戸惑っていたものだったけれど、今では、笑ったり、怒ったり、拗ねたり、困ったり、焦ったり、照れたり……、それこそ色んな表情を見せてくれる様になった。
思えば、妖夢の泣き顔と言う表情を私が見たのはあの時が初めてだった。そしてそれ以来、妖夢が私に涙を見せた事はただの一度もない。つまり私が妖夢の泣き顔を目にしたのは、唯一その時だけ。だから、今でもそんな昔の事をはっきりと憶えているのかも知れない。
もっとも、泣かせた張本人は私だとも言えるのだけれど――
「うわ、寒うっ」
――背後から聞こえてきた声に物思いが中断された。
振り向くと、自分の両腕を抱いてさも寒そうにしている妖夢が、部屋から出て来ていた。何だか情けない声だなぁと思っていたら、凍えている表情もやっぱりどこか情けない。
「あら、おはよう妖夢」
「あ、お、おはようございます、幽々子さま。……さ、寒いですね今日も」
「あら、この程度でそんなに凍えてるの?
これだから庭師は敏感だって、ぼろくそに言われるのよ」
「う……、寒いものは寒いんですから仕方が無いじゃないですか~。
っていうかぼろくそに言われた覚えなんて無いですって」
ぷう、と、大福の様に頬を膨らませて抗議をする妖夢。いつ見ても、幼い仕草だ。何と言うか、ぷんすかとかいう効果音が丁度良くその表情に馴染みそうだった。
余りに妖夢にお似合いなその擬音を想像して、ぷっと吹き出してしまう。一人勝手にそんな想像にふける私を、妖夢は首を傾げて不思議そうに見つめてくる。そのくりっとした純真な瞳で。
そんな妖夢が可愛くて、面白くて、そして……愛おしくて。
「ねぇ、妖夢」
「はい、何でしょうか?」
私はその問い掛けには答えずに、妖夢と真正面に相対する。少しばかり腰を屈めて、目線を妖夢と同じ高さに合わせる。そして、両腕を差し伸べ、寝間着越しに妖夢の腕、肩と撫でる様に触れてゆき、先程まで丸く膨らませていた両の頬にそれぞれの手を添えた。
「……幽々子さま?」
私の行動の意図が分からず、妖夢の瞳には純粋に疑問の色が宿る。
私は、微かに赤みが差したその頬に軽く触れてみた。
その感触は柔らかくて、まるで絹の様に滑らかで、そして暖かかった。
妖夢からすれば、ずっと表にいた私の手は氷の様に冷たく感じられる事だろう。けれど妖夢は、自身の頬に触れてくる私の手を拒絶したりはせず、ただくすぐったそうに僅かに表情を崩すだけだった。
妖夢の頬に触れる――たったそれだけの、それだけの事なのに、私の胸が、何か暖かなものに満たされてゆく様に感じられた。妖夢の頬のぬくもりが、直接私の胸にまで届いたかの様に。
それが嬉しくて。
……でも、それ以上に気恥ずかしくて。
むにっ
「ふぇっ?」
私は、妖夢の両の頬を指でつまんだ。
「ひょっ、ひょっほやえへふははい!」
なんだろう、形容しがたい柔らかさだ。触っていて、震えるほど気持ちがいい。これはクセになりそうだ。
ついでなので、むにむに押してみたり、みょ~んと引っ張ったりしてみる。
「おー、よく伸びる伸びる」
「ふぁにふゅうんれふゅかゆゆこひゃま~!」
抗議の声を上げるも、ほっぺたを引き伸ばされているので、ただひたすらに間の抜けた叫び声がこだまするだけだった。手をわたわたさせての抵抗も、寝起きである為か余り力が入っていない。
ひとしきり妖夢の頬の柔らかさを堪能してから、ようやく私は手を離した。
「んもうっ、朝から何するんですか幽々子さま!」
「だぁって妖夢のほっぺたって美味しそうなんだもの、大福みたいで。食べていい?」
「なっっ!」
妖夢が頬をいちご大福みたいに赤く染めている。きっと、怒っているのと照れているのとで。
ほんとう、豊かな表情を持った子だ。
そうやって、いつもいつも私にからかわれて、私を楽しませてくれて、それでも、甲斐甲斐しく私の世話をしてくれる。そんな従者が私には居てくれて。
きっと、私は幸せ者なんだろうな、と思う。
「ねえ妖夢」
「……なんですか?」
むすっとした様子で問い返す。
「私が今、どんな事を考えてるか、分かる?」
「幽々子さまの考えてる事、ですか?」
「ええ」
ちょっと前まで怒っていたのも忘れ、そうですねえ……と、首を捻って真剣に考え出す妖夢。
と、すぐさま何か思い当たった様で、ぽんと手を叩いた。
「朝食の事ですね、幽々子さま」
「は?」
正答なんて期待してなかったけれど、まさかこうまで右斜め45度にズレてくれるとは思わなかった。しかもこんな即答に近い早さで。というか何なのだ自分の答えに何ら間違いなど無い事を確信しているこの瞳は。
「気が付かなくてすみません、今すぐお作りいたします」
「ちょっとちょっと」
私は思わず苦笑いしながら、本当に炊事場へと向かってしまう妖夢を呼び止める。
「私がそんなに食い意地張ってる様に見える?」
「見えます」
今度は本当に即答された。
「だって人の事を大福だの美味しそうだの言うんですから。
それに幽々子さまがわざわざ早起きするなんて、その位しか理由が無いです」
むぅ、妖夢にしてはかなり練られた回答だ。悔しいけれど。……そもそも根本からズレているのだけれど。
私は小さくため息をつく。
「全く……、私の心の中が分からないなんて、妖夢は本当に、まだまだ未熟……ね」
「え? じゃあ違うんですか?」
なんですかその意外そうな物言いは。つくづく失礼な。
……でも、これで良いのだろうな、とも思う。
従者としての勤めをしっかりとこなし、それでいて無理なく自然体でいられる。昔の妖夢では考えられなかった事だ。もっとも妖夢の場合は、自然体と言うよりは天然と言った方がしっくりくるのかも知れないけれど。
「まあそんな事はどうでもいいわ。朝ごはん、よろしくね」
「え? それで幽々子さまは何をお考えだったのですか?」
「秘密」
「教えて下さいよ~」
「それを考えるのも、修行の内よ」
「……何だかそれっぽい事言ってごまかしてる気がします」
その通り。私はごまかしている。そのあたりは、この子は私の心の中を分かっている様だ。その心の更に先にはまだまだ到達しそうには無いけれど。
第一、恥ずかしくて自分から言える訳無いじゃない。妖夢がいてくれて……私は幸せだ――なんて。
そのあたり、我ながら素直ではないなと思う。
「……分かりましたよ、朝食、作ってきます」
「お願いね~」
私の前を辞して炊事場へと向かう妖夢を、今度は呼び止めずに見送る。私はその後ろ姿を見つめた。
妖夢も随分成長したものだ。かつては私の腕の中にすっぽりおさまってしまう位、小さな身体をしていたと言うのに。まだまだ頼りない部分もいくらでもあるけれど、その背中は昔よりもずっと頼もしく見えた。
廊下の角を曲がっていった妖夢から、庭の方へと視界を移す。
太陽は既に、地平線の向こうからしっかりと顔を覗かせている。
先程までの幻想的な青の世界はすっかり取り払われていて、庭に積もった初雪は、自らの存在を主張せんばかりに白くまばゆく輝いていた。
やっぱり 冥界組は 最高 だな!