私は光の渦を潜り抜ける。
そして少しずつ、眠りから醒めるかのように――――不意に、視界が開けた。
ぎっ、と何かが軋む音。瞳を貫く、それまでとは別種の光。
急に戻ってきた五感に一瞬、立ち眩みを覚える。
額に手をあて見回すと、すでに景色は現れていた。
薄暗い。見上げると天井は高く、そこもまた暗い。
床も一面が木造で、足を強めに踏みしめると、ぎぎ、と軋んだ。
視線を下げる。
「……あ」
そこは、どうやら神社の一角、そう広くはない踊り場のようだった。
といっても、時折立ち寄る神社とは違う。人の住む気配は、これといって感じられなかった。
視線の先には下に続く石段。建物の周囲は割りと明るく、天気は悪くなさそうだった。
「……魔理沙」
左右には木立が広がっている。細い幹や枝が、木漏れ日の中で風に揺れていた。
天井よりも、もっと上の方から鳥の泣き声がした。ぴょい、ぴょい、ぴょい、ぴょい。と、静かな音色が幾度か踊り場に木霊する。
「……魔理沙、どこ?」
後ろには果たして慎ましやかな本殿。おそらく、自分はここから出てきたのだろう。
急に、もやもやした、けれども大きな衝動が襲ってきた。
「……魔理沙……っ!」
逃げるように、追うように、足早に石段を駆け下りる。地面の上に降りると、長めの草が足に絡んだ。
にわか雨でも降っていたのか、うっすらと濡れていた。
神社は、小高い丘の上に建っているようだった。肩越しに振り向くと、苔むした屋根の向こう側に小山が見える。
「魔理沙……!」
「何やってんだ、アリス」
不意に響いた声に、自分でも驚くほど身が震えた。
「ほら、早く行くぜ」
ゆっくりと振り向くと、そこには金髪の、見知った顔の、白黒の少女が立っていた。
愛用の帽子も、さらには箒も持たず、手持ち無沙汰な表情で立っているその姿は、こちらの目から見ても、
なんだろう、どこか抜けているような印象を受けた。
こみ上げてくる笑みと眠気、それからよくわからない何かを、頭を振って押さえ込む。
「……ええ」
分ってるわ、とつぶやいて、頬を両手でぴしゃりと打った。ぴしゃり、ともう一度。
――よし、目が覚めた。
「行きましょう。魔理沙」
「そのセリフはもう私が言った」
不本意気な魔理沙を尻目に私は――アリス・マーガトロイドは声を張り上げた。
「魔理沙、ちゃっちゃとこなすわよ。せっかくの外界だもの。用事を済ませて、この際楽しく遊ばなきゃ」
「さっきと言ってることが違うぜ」
「気が変わったのよ、今しがた」
呆れたもんだ、と魔理沙は苦笑し、呟いた。私は普段見せない満面の笑みを、あえて浮かべて諸手を挙げる。
「さあ、魔理沙。まずは買出し!」
「マリサマリサうるさいなぁ」
そう。私は、私達はいま――幻想郷の外にいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
幻想郷の黄金週 第一章:「霧雨魔理沙」「アリス・マーガトロイド」のケース・その零
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
浅い眠りの中で、霧雨魔理沙は声を聞いていた。
「魔理沙……ちょっと、魔理沙っ!」
目の前の厚ぼったい暗闇が、ぶるんぶるんと揺すられる。
それが自分の瞼の内側だと気づいてから、ようやく脳が動き始めた。
「んぁ……、ちょっと、タンマ、揺するな。今起きる」
目を半分閉じたまま、薄っぺらいシーツを払って身を起こす。
カーテンを閉め切っていたせいだろう、蔵書にまみれた自室は薄暗く、陽光は糸くずほども見えなかった。
「いつまで寝てるのよ。予定時刻は三十分前よ?」
「んー……、許せ。昨日の晩は忙しかったんだ。温泉の出が悪くて……」
ベッドの脇に腰を下ろし、股までまくり上がっていたズロースを伸ばす。
スリッパを履き、おもむろに顔を上げると、見知った顔が顔をしかめていた。小脇にカバンを抱え、すでに臨戦態勢だ。
「あのねぇ魔理沙……」
「待て待てアリス。小言は着替えてからだ。外で待っててくれ」
立ち上がり、壁に引っ掛けてある黒っぽい服を手に取りながら、後ろに向かって言う。アリスは憮然とした様子で、
「三分で出て来なさいよ」
それだけ言い残すと、何か小声でつぶやいた。小言だったのか、何がしかの詠唱だったのか、
気配が部屋から立ち消える。移動の魔法だろうか。ならば後者だろう。
「そう言えば、侵入探知の魔法が働かなかったしなあ。便利なもんだ――ふあぁ」
ひととおりの物を身に付けると、魔理沙は最後に机の上に置かれた何枚かの長方形の札――
――スペルカードに手を伸ばし――引っ込めた。
「おっと、今日はいらないんだったっけな」
何となくスースーする懐をひと撫でして、窓際に置かれた時計を見た。
九時三十四分。
「なんせ、今日はお忍びだからな」
「魔理沙ー! 時間厳守!」
窓の外から、騒がしい声が飛んだ。
今日は日差しが強く、雲が少ない。さぞや赤い悪魔は嫌な気分だろうな。
「空が青いなあ」
「そうね」
遥か上を流れていく白線のような雲。
朝方にもかかわらず、目を細めてもなお突き刺さる光に、魔理沙は帽子を深めに被り直す。
「それにしても、もうごーるでんうぃーくの時期だったんだな。私は言われるまで気がつかなかったぜ」
「ここにいるとそういう間隔はだんだんと薄れていくわね。でも、せっかくこの時期結界を開けてくれるんだし」
「いやあ、年明けにも開かない結界を今になって開けるなんて、こんな偶然はそうはないぜ。
おそらく、背後にデカい陰謀が渦巻いていると見た」
「大げさね」
箒にまたがりはや十分。直下から地平線まで続く森の中に、小高い丘と、赤い点が見えてきた。
樹林の海原から少し高く。時折突き出ている大木をかわしながら、ふたりは風を切って飛ぶ。
しばらくして、赤い点がじわじわと輪郭を現してきた。二本の柱に渡した棒。巨大な鳥居だった。
その鳥居の向こうから漂ってくる気配の数に、魔理沙は目を細める。
「あー、ずいぶんと集まってるなー」
「開門は十時から三十分の間だけだもの。みんな時間は守ってるのよ」
斜め右下を飛行していたアリスが、肩越しに白い視線を送ってくる。眼光から逃げるように、少し速度を上げた。
「あ、ちょっと待ちなさいよっ」
「待たないぜ。それにいいじゃないか。結果的に間に合ったんだし」
「あたしが起こしに来なきゃ、絶対に遅れてたわ。この機を逃したら次は来年よ?」
「一年くらい、私ならともかく、妖怪のアリスが気にすることじゃないだろ?」
「かもね。でも、だからって今日を見送る理由にはならないわ。――神社が見えてきた。降りるわよ、魔理沙」
「はいよ」
すでに目前にまで迫っていた鳥居の赤い柱を軽やかに避けて、二人は境内に向かって降下した。
「はーい押さない押さない。時間は逃げないから。そのまま並んでー。ほら並ぶー」
細長い払い棒をくるくると回しながら、紅白の巫女、博麗霊夢は間延びした声を上げた。
混乱の見えるところを見つけては、雑踏の上を浮遊して向かっていく。
「こらこら、最後尾はそこ。新たに列を作らないでよー」
只でさえ広いほうではない博麗神社の境内は、収容可能数を遥かに越える人妖で、完全に埋めつくされていた。
霊夢の交通整理も、さほどの効果はありそうにない。屋根の上まで飛び上がり、霊夢はようやく人心地ついた。
「……まったく、人手が足りなすぎるわ」
そこに、上空から影がふたつ――ひとつは箒に乗って、ひとつは身一つで、霊夢の前まで飛来してきた。
「よー霊夢。弔詞はどうだ?」
「過労死は御免こうむるわ……よって却下」
「気にするな。単なる誤変換だぜ」
「ねえ霊夢。時間はあとどのくらい?」
「もうまもなくね。あんた達も、外界行きを希望?」
「ええ。揃えたいものがいろいろあるし」
霊夢の隣に腰を下ろしつつ、アリスはカバンを開き、中から紙片をいくつか取り出す。霊夢はそれを覗き込んでから、眉を寄せた。
「……これ、服ばっかりじゃない。魔術に関するものも――いくつかあるけど。魔理沙もそうなの?」
「いんや。私は単なる観光だ。アリスがついて来てくれって聞かなくてなぁ。あははっはっは」
さもおかしげに笑ってから、魔理沙は箒にまたがったまま一回転した。アリスは目をむいて立ち上がった。
「誰がそんなこと言ったのよ!? いつ! どこで! 何時何分何秒何コンマ!」
「先週の水曜、私の家の庭先で、午後九時三分四十三秒一コンマ」
「嘘ぉ!?」
「嘘だ」
「うあー!」
「うーん。この勝負、アリスの負け、と」
「霊夢も締めくくらない!」
「だって、もう時間もなくなってきたわ」
霊夢が言った。ふわりと浮かび上がると、ふたりに告げる。
「ふたりとも、境内に降りて。あ、その前に社務所にアイテムその他、危険物は置いてってね」
「スペルカードも?」
アリスがカバンの奥から、いくつかのカードを取り出した。
「そりゃあダメだろう」魔理沙がへらと笑った。
「最たるものね」霊夢もそれに習う。
「む」アリスは表情をそのまま声に表した。「人形達はちゃんと置いてきたのに」と小声でつぶやく。
「いやいやアリス。人形なしじゃあんたのスペルカードってほとんど無意味じゃない?」
呆れた様子の霊夢に、アリスは「あ」と口を丸くした。
「私はカードは家に置いてきたぜ」
魔理沙は自慢気に腕を組む。
「あら賢明。出来れば箒と帽子も置いていったほうがいいわよ。目立つから。じゃ、社務所は向かってあっち」
「うー。だったらせめて、上海くらいは連れてきたかった」
「貫通ビーム機能を外すなら。私は別に構わないけど」
「う」
「人間界は魔女文化に厳しいぜ」
十時十分前。誓約書その他、様々な規約、というよりは契約を終えてから、ふたりは列に加わった。
その少し上で浮かぶ霊夢が、冷やかすように魔理沙に言う。
「観光するなら、ついでに街で服を買いなさいな。アリスがいろいろ手ほどきしてくれるわよ」
「しない!」
「そうだな、アリスはセンスがなさそうだ」
「そんな理由じゃなくて!」
「はいはい。じゃあ、もう始めるわよ」
そう告げて、霊夢はひと際高く飛び上がった。
それを何となく見ていた魔理沙の肩に、不意に、ぽんと手が置かれた。
「うおっ!?」
反射的に、上半身だけが飛び上がる。
「……そんなに驚かれると困るんだけど」
振り向くと、そこには銀色の髪をしたメイドの姿があった。
「あー、なんだあんたか」
決まり悪そうに頬をかく魔理沙に、メイドは軽く片手を上げた。
「お久しぶり」
「あ。あんた、いつかのメイド」
アリスは露骨に顔をしかめた。メイドは気にした様子もなく、
「そう、いつかのメイド。でも次からは咲夜と呼んでくれるとありがたいわね。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜よ。」
そう言って、手を差し出す。
「……アリス、マーガトロイド」
ぶっきらぼうに手を伸ばし、咲夜の手を軽くはたく。咲夜はそれに苦笑しつつ、問いかけた。
「紙の類はもう書いたと思うけど、おふたりは行き先は同じなの?」
「ええ」
「一応な」
「なによ一応って」
「気にしないことを薦めるぜ」
「ふぅん――私はちょっと大きな買出しを頼まれてるんだけど、そちらは何用かしら。外に出てまですることって」
「同じく買出し」
「単なる観光」
咲夜はまた苦笑する。
「観光って、そんな余裕あったかしら。期限は確か各人三日のはずだけど」
「見て回るだけだしな。楽なもんだ」
「あんたは、あたしを、手伝うのよっ。何のために呼びつけたと思ってるのかしら」
腰に手を当てて笑う魔理沙の背後で、アリスがきついメンチを切った。
「んー? ひとりじゃ寂しいから魔理沙お願い、ついて来て(はぁと)……って感じじゃないのか?」
「違うったら! 何度言ったら」
と、
アリスが今日何度目かの絶叫を上げたのと同時に、
「え……ちょっと――――魔理沙?」
「訊くな。私にもわからん…………これは?」
「ええ。結界が開くわ」
地面が、うっすらと光を帯びていた。足元だけではない。境内を多い尽くす一面の地が、淡い光を放ち始めている。
霞のようなそれは始めは白く、時折赤く、様々に色合いを変えていく。
そして蔓のようにするすると伸びると、空中で互いに絡み合い、段階的にその輝きを強める。
次第に光の蔓は、巨大な光のドームを形成していった。
「はーい、みんな動かない!」複雑に編まれていく蔓の更に上から、霊夢の大声が響いた。
「これから、行き先順にどんどん結界外へ飛ばすから、この光の外へは出ないように!」
「……お。あんた、身体が光ってるぜ」
魔理沙が指で示した先で、咲夜の身体がじわじわと光を放ち始めていた。
「ああ、どうやら私の方が先に飛ばされるみたいね」
と、いきなり咲夜の身体が、足から宙に溶けるように消え始める。
「私は何度か経験があるから、アドバイスをしておくわ」
すでに下半身は光になって消えていた。あっけに取られるふたりを見ながら、咲夜は続けた。
「向こうに行ってからはなるべく目立たないように心がけなさい。
騒ぎを起こしたりしたら、強制送還か、最悪こっちに戻れなくなるから」
「……前例があるの?」
咲夜は視線を周囲に向けた。
「この中の半分は、最初から戻ってくるつもりはないでしょうね」
ただ瞬くだけのその瞳からは、感情は全くといっていいほど読み取れない。
「全てを受け入れる此処は、自身の全てを受け入れ、そして全てを映し出す。そう、それはあたかも鏡のように」
咲夜は懐から手鏡を取り出すと、鏡面をふたりに、正確にはアリスに向かって差し出した。
アリスは、鏡に映る自身と向き合った。
自分と同じ姿。自分と同じ顔。自分と同じ表情。当然のはず、それは鏡に相違ない。だから、
――違う、これは私。別にもうひとりいるわけじゃない。私は私なんだから。
そう言い聞かせる。
けれども、小さな鏡に映るその表情は、どこか不安げで、一瞬先には張り裂けそうに見えた。
咲夜は小さく息をつくと、手鏡を下ろした。
「『それ』に耐えられないと、此処では生きて行けないわ」
「……余計なお世話よ」
上目遣いで咲夜をにらみつけるアリスの隣で、魔理沙も頷いた。
「そうだな。ちゃんと顔も洗ってきたし、どれだけ見せられても平易の平左だぜ」
「……顔ぉ?」
そのときアリスは初めて、咲夜の間の抜けた顔を見た気がした。
「……っは、」
最初、アリスは気でも違ったのかと、本気でそう思った。
「はは。そう、そうよね。あはは、あはははははっは!」
銀髪のメイドは、光に消えかけた腹を抱えて笑いを噛み殺す。
閉じた手鏡を懐に収めたとき、すでに笑みは穏やかなものに変わっていた。
「はぁ。悪いわね、変なとこ見せちゃって――――じゃあ。縁があれば、向こうでも会いましょう。それと」
「……なによ?」
不意に向けられた視線と言葉に、アリスは心で身構える。
「あなたも、斯くありなさい。それが此処で、退いては人生を楽しく生きる秘訣よ」
「斯く?」
「鏡は所詮、鏡なのだから、ね」
最後にひとことだけ言い残して、咲夜は完全に姿を消した。見れば、すでに大半の姿が消えていた。
頭上を見れば、霊夢は払い棒を構え、何かを静かに唱えていた。やっと博麗の巫女の腕の見せ所だろうか。
いや、巫女本人はそんな見せ所は少しも欲していないに違いない。
彼女は、名誉や誰かの賞賛を、少しも望んでいないのだから。
アリスはそう得心すると、魔理沙に視線を転じた。この魔法使いは、どうなんだろう、と。
「なぁアリス」
「……なに?」
「あいつ、最後になんて言ったんだ? 私にはよく聞こえなかったんだが」
立ち続けているのに飽きたのか、膝を曲げ伸ばししながら、魔理沙が訊いてきた。
「そうね…………魔理沙」
唐突に、思い当たる。
「ん?」
「ひとつ質問なんだけど」
何となく、訊いてみたかった。
「魔理沙は、この幻想郷をどう思ってる?」
「突飛な話だぜ……お」
足から順に伸びてくる光を見ながら、魔理沙はふむ、と思案した。
「……少なくとも、嫌ってはいないぜ。毎日飽きない上に、多少の無茶がまかり通るのが最高だしな」
「そう」
「そう。それに、」
「……それに?」
ふたりの姿も、ゆっくりと光の中に埋もれつつあった。
火の粉のように舞い散る光の中、魔理沙が笑っていることだけは分っていた。
「面白いヤツが大勢いるしな。うん、やっぱり好きなんだろう」
「……そうね」
視界が、白い光に塗りつぶされていく。その中でアリスは小さくつぶやいた。
「私も好き」
次の瞬間、辺りの景色が白に染まる。上下の感覚が消え、アリスは何もない空間に放り出される。
どこか遠くを見るような気分だった。そしてその先にいるのが自分であるようにも、また思えた。
その背中は、ひっきりなしに何かを訴えていた。それは、言葉では言い表せない思いのようで。
背中は段々と遠ざかる。
気忙しげに早足で、せかせかせかせか、前だけを見て。それ以外の、どこも見ないで。
(……もう少し、気楽にやってもいいんだろうか)
鏡の中の自分にそう問いかける。つい先ほどの言葉が、ふわりと記憶によみがえる。
――あなたも、斯くありなさい。
それは、少し昔から、ずっと踏み出せないでいたものだった。
取るに足らない、小さな小さな、でも大きな――――壁だった。
いや、ともすればそれは鏡だったのかもしれない。
「そうね。……うん、そうしよう」
光の渦が巻き起こる。消えていく五感を別の感覚で感じながら、アリスは次第に目を閉じていった。
ふと思う。
そうだ、向こうで何をして楽しもう。
魔理沙と一緒に、何をしよう。
―続いたり続かなかったり―
続編をお待ちしております