守矢神社。
「早苗、正直に答えてほしい」
「はい」
「……外の世界に、未練はあるか?」
堂の中で座り、向き合う風祝と祀られる神。神の問いに、時がしばし凍りつく。それを破る風祝、東風谷
早苗の声。
「ない、といえば嘘になります」
「……そうか」
神の神らしからぬ重い溜息は、刺すような冬の大気を白く染め上げた。が、その吐息が空に散る前に、
早苗が重ねて言う。
「ですが、八坂様の思われているような事は、決してありません」
「ふむ。神を慮るか、早苗」
「長い付き合いですから」
見据えた瞳に揺らぎがないのを見て、心も同じと神奈子は確信する。
「では早苗は」
「えぇ。今でも瞼の裏には父と母の、そして友達の顔をはっきりと思い浮かべることはできます。未練が
なければそんなことはないのでしょうが……」
一度そこで、想いを飲み込むように息を吸い、神奈子の瞳を見据え早苗は言う。
「けれど、私は最後の風祝として、八坂様と洩矢様をお守りするためなら全てを犠牲にする、そんな覚悟
を決めてここにいます。ですから未練があろうとも、もう、外に戻りたいとは思いません」
神奈子は年頃の娘にそこまでの覚悟をさせたことで少しだけ心を痛めつつ、それを態度に見せては
かえって傷付けることになると、悠然と一つ頷いた。
「そう、か。それならばそれでいい」
「はい」
対する早苗は明るい笑顔である。心をいくぶん和らげる神奈子。
「うん、わかった。足を崩しなさい、早苗」
「え、あ、はい」
言われるがままに楽な姿勢を作る早苗。神奈子は元から胡坐をかいているが、背筋が少しだけ丸まり、
張った気を散らしたことが伺える。
「それを聞いて少し安心したよ」
「それはなによりです。だいいち、今ここで戻ってしまえばせっかく知り合いになった幻想郷の人たちと
またお別れしないといけなくなります。それは、流石にヤですから」
そう言って少しだけ寂しそうな笑顔を作る早苗。もちろんそこにかかる神奈子の言葉は優しい。
「うむ、早苗。そうならんよう私も力を貸そう。この幻想郷での生活を楽しめるように、ね」
「はい!」
日が差したように明るくなる早苗の顔に、神奈子も微笑みで返した。
と、笑みを交わした二人にまた沈黙が覆いかぶさる。会話が途切れた。同時にふ、と早苗に訪れる
違和感。そもそも話に誘ったのは神奈子の方だ。そして今しがた聞かれたことは、今更聞かれるような
ことでもない。すでに幻想郷の秋を経験し、元旦の賑わいも越え、これから春を迎えようとしているの
だから。
「ん? どうした、早苗」
「あ」
考えるうちにいつしか笑顔が消え去っていたのだろう。視線の先に心配していそうな神奈子の顔が
あった。反射的に笑顔で返そうとして、早苗は思いとどまり胸中を吐露する方を選んだ。
「八坂様」
「うむ」
「……他に、何かお話があるのじゃないですか?」
その言葉に神奈子の表情が引き締まる。疑問が確信に変わるには十分だ。
「あぁ……いや、そう……うむぅ」
神奈子が言い淀む間に、着々と早苗の脳内で推理が構築されていく。導き出される答えは。
「洩矢様のことですね」
「……あぁ、そうだ。良く、解るな」
「長い付き合いですから。しかし洩矢様のことで何が……。あ、え? まさか」
この場に諏訪子がいないことで、神奈子の悩みの種が誰であるかは悟れた。そしてもう一つ、何を
悩みにしているか。先までの座談で聞かれたことが関係しているのだとしたら。
早苗は驚くような表情で神奈子を見つめる。そこに苦悩の色がありありと見て取れた。言葉を次ぐ
までもなく神奈子が答える。
「あぁ、諏訪子は……諏訪子は、故郷に帰りたがっている」
早苗は空を舞っていた。その脳裏に神奈子の言葉がリフレインする。
『確証はない。けれどあいつは、ふっ、と寂しそうな顔で遠くを見つめている時がある』
『もとよりあいつの意見を聞かずにここに連れてきたんだ。あいつも外にいたら消えてしまったろう
からね。……だが』
『そこで早苗、あいつの本音をそれとなーく聞き出して欲しい。私が聞いたところで、反発されるか
はぐらかされるかだろうからねぇ』
二柱は長い長いつきあいではあるが、もともとは敵同士である。よく意見を対立させては早苗は
胃を痛めている。心のわだかまりは神代の時を超えても完全に消し去る事はできないのだろう。
「……けれど、やっぱり難題を押し付けられた気もします」
ついつい愚痴がこぼれるが、祀る神の命、無碍に断ることなど出来ようはずもなかった。はぁ、と
出てしまった小さい溜息が後ろに白くなびく。
やがて守矢神社の上殿が見えてきた。下殿のそれよりこじんまりとした境内にふわりと降り立つ
早苗。辺りを見回してから、声を上げて呼ぶ。
「洩矢さまー! 洩矢さまー!」
声が木霊となって辺りに響き渡る。晴れ渡る寒の空に声が吸い込まれてから、早苗はもう一度
呼ばわるために息を吸い込んだ、その時である。
「おー。早苗、どしたの?」
「もっ……。けほ、洩矢様」
社の裏手から現れる小さな影。麦わら色の髪の毛をした小さな女の子。彼女こそ洩矢諏訪子、上殿に
祀られる神である。呼び損ねて咳き込む早苗を、諏訪子は大きな瞳で見つめつつ歩み寄る。
「大丈夫かい、早苗」
「は、はぁ。大丈夫です。お心遣い感謝いたします」
「そうか。で、何の用だい?」
「あ、え、あのその」
至極まっとうな質問に、思わずたじろぐ早苗。諏訪子がホームシックなのか聞き出さなければいけない
のであるが、さてどうやって聞くかは全くの無計画。神奈子からそれとなくと言われている以上直接聞く
こともできずにしどろもどろである。そんな姿をきょとんとした顔で見守る諏訪子。見つめられつつ、
何とかこう切り出した。
「も、洩矢様が退屈してらっしゃらないかと思いまして……」
その言葉に、諏訪子はもとより大きな瞳を爛々と輝かせ、喜色満面の相貌へと変わる。
「お! いいねぇいいねぇ早苗。ゲームでもやるか? でもなぁ、早苗弱いからなぁ。”ボンバー男”でも
”配管工カート”でも負ける気がしないんだけど。”懐モンスター”の対戦でもやる? ハンデつきで」
「う……洩矢様はやりこみ過ぎなんですよぉ」
「時間なら幾らでもあったからねぇ」
封印されし神の暇潰しといえば、時代時代の遊戯であったらしい。そして、幻想郷に入ってから、と
なれば当然こう来る。
「じゃあさ早苗。弾幕勝負でもするー?」
「えっと……」
それなら勝機があるかもしれないが、やりたいのはそういう事ではない。
「洩矢様」
「ん?」
「あの、お話。お話をいたしませんか」
当てが外れて早苗の顔を覗きこむ諏訪子であったが、早苗がたじろぐより早く柔和な笑みを浮かべた。
「話、話か。うむ、いいよぅ。だがしかしここで立ち話ってのもなんだな。ちょいと早苗、縁側にいこうか」
「で、早苗。なんの話だい?」
「あ、はい」
縁側に座るふたり。歩きながら話の掴みは考えていた。
「洩矢様。幻想郷は、楽しいですか?」
「お……。あぁ、はは。楽しいよ。聞きたかったのはそんな事か?」
いかにも楽しそうな笑顔でそう返した諏訪子。だが、早苗は気付いてしまった。一瞬の逡巡、そこに
浮かんだ色を失ったかのような表情。疑問が確信に変わった。息を詰まらせた早苗に、にこやかな顔の
まま諏訪子が問い返す。
「そういう早苗はどうなんだい」
「え、はい。楽しんでますよ、凄く」
「そうか、そりゃあよかった」
そうして、しばしの無言。
「え、それだけか!?」
思わず諏訪子がそう叫ぶ。歓談するはずが早々に話が途切れてしまったのだから仕方あるまい。
「あ、え、その、いや」
早苗としてみれば、これからどうやって話を展開するか考えていたところ。そこを突っ込まれて曖昧な
返答をしてしまう。それに被せるようにして諏訪子。
「早苗、お前、私に隠してることがなんかあるんじゃないのか?」
挙動不審の核心を突かれ、どきりと早苗の鼓動が跳ね上がる。ほんの一瞬の迷いの後、早苗は笑顔を
作った。
「そ、んなことは……」
ありませんよ、そう続くはずの言葉が途切れる。一瞬にして傍らの祟り神は、身の毛もよだつほどの
壮絶なドス黒い神気を発した。その圧倒的な力に息さえ飲めず佇む早苗。諏訪子がゆっくりと、口を開く。
「……風祝が、神を謀るか」
いつもの陽気さを消し飛ばし、恐怖によって君臨した神としての諏訪子が顕在した。早苗はすぐさま
縁側から飛び降り、地に深く頭を下げて伏せる。
「も、申し訳ありません洩矢様!! し、真実を、真実をお告げいたしますから、お怒りをお鎮めになって
くださいませ!」
身を小さく縮めて、地面で震える早苗。確かに諏訪子の言うとおり、神奈子の命であったとはいえ
謀ろうとしていたことは事実。諏訪子が本気で怒れば早苗をこの世から消し飛ばすことさえ朝飯前だ。
最も早苗は己の身も当然のこと、諏訪子によってもたらされる幻想郷への被害を恐れているのだが。
さて、怒気を発した諏訪子であったが、早苗の姿を見るやすぐさまそれを引っ込めた。彼女自身として
みれば少々脅かすつもりだったのだが、思った以上に怖がらせてしまったらしい。まいったなぁと
小さく呟き、自らも縁側から降りる。そのまま早苗のすぐ側まで歩んで、しゃがみこんだ。
「あー……早苗?」
「お許しください洩矢様、お許しを……」
いつもの暢気な口調で話しかけるも、慈悲を乞う声しか返ってこない。心底困った風に諏訪子は頭を
掻いた。
「早苗ぇ。もう怒っちゃないってばぁ。だから顔を上げておくれよ、な」
優しげに声を投げかけ、緑の髪をそっと撫でる。そうしてようやく早苗は顔を上げた。その瞳からは
大粒の涙がぽろぽろと落ちている。
「あぁよしよしもう泣くんじゃない。私が悪かったよぉ」
「あぁ、いえ、その、うぅ。私が、私のほうが」
泣きじゃくりそうな早苗の涙を服の袖でぬぐう諏訪子。先の怒れる祟り神はもはや消え失せ、慈母の
優しさに溢れた大地神の雰囲気である。しばらく早苗をなだめて、ようやく落ち着きが見えたころに、
柔らかな声で語りかける。
「な、早苗。本当に聞きたいことを教えておくれ。普段のお前さんなら何事にも単刀直入に聞くだろう
から、どーせ神奈子がいらん入れ知恵でもしたんだろ?」
「……は、はぁ。……それにしてもよく分かりますね、そういう事まで」
「へへ、長い付き合いだからね」
いたずらっ子のような笑顔の諏訪子。促されて早苗も全てをありのまま、聞くつもりでいる。もはや
あの確信ですら回りくどく聞くことをやめようと決意した。
「では洩矢様。お伺いいたします」
「うむ。だが早苗その前に」
「はい」
「……いいかげんに立ったらどうだい」
「……はっ!?」
そのとおり、早苗はいまだ地面に座したままであった。指摘されて、少々顔を赤らめつつ立ち上がる
早苗。砂埃を払って仕切りなおす。くすくすと笑う諏訪子。
「……では洩矢様。改めてお伺いいたします」
「はは、うん。なにかな?」
くっと息を飲み、早苗は諏訪子の瞳を見据えた。
「洩矢様は、外に帰りたいと望んでいる。違いますか?」
見据えた先の瞳が、一瞬揺らいだ。が、諏訪子は笑みを浮かべた顔のままこう返す。
「はは、そんなこと本気で思っているのか?」
その言葉は早苗の確信をさらに強くした。普段ならもっと簡潔な是非で返すはずが、はぐらかすような
言葉。揺るがぬ心の早苗は強く頷いた。
「はい」
「お……。なぁ、早苗」
諏訪子が何かを語りかけようとする。そこに不敬であってもいいとばかり割り込んでこう言い放つ。
「洩矢様ご自身のお言葉を借りるようで悪いのですが、神が風祝を謀るのも、ナシです」
強い意思を含んだ言葉、射抜くような視線が早苗から諏訪子に投げかけられる。諏訪子は、まるで
蛇に睨まれた蛙のように笑みさえ凍らせた。その刹那の硬直が解けて、諏訪子の視線が少し泳ぐ。唇を
少し噛む。何かを言い出そうとして、小さな息が漏れた。その様を見逃すまいとばかりに、早苗はじっと
敬愛する神を見ている。やがて、観念したかのよう大きな息をひとつはくと、諏訪子は早苗を見上げ、
今にも泣き出しそうな微笑みで言った。
「……あぁ。私は、あの諏訪に、いまだ帰りたいと願う気持ちが、ある」
途切れ途切れの言葉が、その未練の重さをそのまま現しているようだと早苗は感じた。次いで諏訪子は
一つ大きく息をしてこう言った。
「ちょっと、場所を変えようか」
早苗は何も言わず、ただひとつ、頷いた。
ざぁ、と枯葉を飛ばして、風が吹き抜ける上殿の裏手。妖怪の山に移って以来始めて足を運ぶ早苗
だが、見晴らしの良さも風の冷たさも今は心を動かすに至らない。晴れ渡る空と真逆に、心には暗澹
たる雲が立ち込めている。敬愛する神は、この地を去りたいと願っている。それを思うだけで早苗を
覆う言いようのない悲しみ。
「なぁ、早苗」
「……あ、はい」
思いにふけるところに、柔らかい諏訪子の声。その様を見る限り、とてもこの地を離れたいようには
見えない。だが、恐らくは事実なのだ。
「ここ、どうだい。見晴らしがいいだろう!」
「え、あ、はい。とても」
「ここから何が見えるかね、早苗」
視線の先には、隣の神と同じ名を持つ湖が静かに横たわっている。故郷で見たものより小さく見える
のは、それが”諏訪湖”の神髄を集めた部分だから、だそうだ。
「はい。諏訪湖が見えます。そして遠くまで雪を被った山々が……。あそこに見えるのは人里、ですかね」
眼前に広がる幻想郷の風景。外の世界ではおよそ見ることの出来ない日本の原風景がそこにある。早苗の
言葉を受けて諏訪子が頷いた。
「そうだ。ここからは幻想郷がよく見える。私達がついこないだまで暮らしていた外とは大違いの、
幻想郷が」
和みかけた心が一瞬で締め付けられる。この風光明媚の遥か向こう、すでに見ることの出来ない場所を
眺めているのを知ったからだ。言葉に詰まる早苗に振り返り、諏訪子が告げる。
「なぁ早苗。ここに夜に来たことなど、ないよな?」
「え……はい」
「だろうね。私は昼も夜も、ここの眺めを知っている。夜は闇がなぁ、深いぞ。どこまでも、どこまでも。
空には星々が煌いて綺麗でなぁ……。だが、それだけだ。それだけなんだ。嫌いなわけじゃない。だが私が
生まれてから、そんな光景は飽きるほど見てきた」
神代の頃から生き続けてきた彼女にとって、季節ごとに彩を変える山も、天に瞬く星々もすでに心を
動かすには至らないものになってしまっている。そうまでさせた悠久の時の流れと重なっていった退屈は、
十と幾つかの歳を経ただけの早苗では想像することさえ難しい。
「だがな、早苗」
「は、はい」
「その変わらぬ光景を、大きく変えたのが、人間だ」
「え」
思いもよらぬ言葉に呆けたような声を出す早苗。その様に諏訪子が小さく笑う。それからおもむろに
背を向け、また視線を遠くに向ける。決して見えない、大結界の向こうへ。
「ここに来るほんの少し前まで、意識だけ空に飛ばして夜の諏訪の町を眺めることがよくあってね。そこ
には天の星にも負けないほどの美しい、煌びやかな光に満ち溢れていた」
「え……。あ、あぁ。家とかの光ですか」
「うむ。あと街灯とか、信号とか。あとはそうさなぁ、車のヘッドライトやテールライトとかかな。私には
あの一つ一つの光そのものが命の輝きに見えた。だからな、光に満ちた、あの地上の星空を見るたび、
いつも思ってたことがあるんだ」
「お聞かせ、願えますか」
「ふふ。神奈子、ざまぁみろ、ってね」
「え!?」
「星空は神奈子の領分だ。綺麗に飾り付けやがって悔しいと、大地に縛り付けられた私は思ってたよ。だがな、
私と同じ地を這う人間が、天幕に張り付いたそれより美しい光の銀河を、私の生まれた大地に作り上げて
くれた。それは決まった星々しかない夜空と違い、爆ぜるように広がっていった。赤に、黄に、青に、緑に、
色とりどりに光る街灯やネオンも、ヘッドライトやテールライトの流星も、神奈子が作り上げた夜空より
よっぽど美しいじゃないか。私の治める大地と人間の力を思い知ったか、とね。だからざまぁみろ、なんだよ」
諏訪の町も夜景は美しい。ゆたりと横たわる諏訪湖を囲むようにして、諏訪と近隣の町々が煌々と
輝いている。その様を早苗はテレビの映像や写真でしか知らないが、それでも諏訪子の声の調子と
雰囲気で、彼女が目にしたものが美しいものであることはわかった。
なにより、その夜景に諏訪子は命を見出していた。当たり前すぎて早苗も忘れていた事、家々の光の
下には確かに誰かの生活が、命がある。それは美しさよりもなによりも、尊くて素晴らしいもの。空に
光る星には見出せない事実だ。改めてあの諏訪の夜景を思い出し、捨てたはずの郷里への思いが心に
よぎる早苗。そこに、
「話は変わるが」
「え、あ。はい」
突然そう切り出した諏訪子。もの思いにふけりそうな気持ちから我に返り、多少居住まいを正す早苗。
そちらを見もせず、やはり遠い目をしたままの諏訪子が言葉を続ける。
「諏訪の町には、私の子孫が大勢いる」
「え」
唐突な言葉に驚いた声を上げる早苗。しかし意に介する風もなく淡々と諏訪子の言葉は紡がれる。
「とは言ってもその血の濃さは、そうさなぁ。早苗の行ってた高校にプールがあったじゃん。あれに
落とした墨汁一滴くらいのもんかなぁ。だがしかし、それでも私の血を分けた、愛しい民たちだ」
神として、そして一国を治めていた女王として、強き男達と交わり子を成すことは繁栄の手段として
ありえた事。そうであったことを早苗も重々理解している。ただ、今の諏訪子の声色は祟りという絶対的
な恐怖で統治を為した女王というより、数多の民を愛する慈母の柔らかさであった。
ならばこそ、ふっ、と早苗に沸いた思い。それを胸のうちに留めることができず、つい口に出して
しまう。
「しかし、しかし洩矢様。不遜ながらも申し上げます。洩矢様の子孫とはいえ、皆、あなたの事を忘れて
います。それゆえに……それゆえに、洩矢様もいずれその御身を失うことになったでしょう。それでも愛しい
と仰るのですか」
早苗の言葉の通り、信仰を失った神は骸を残しすらせず、ただ消える。訪れるもののなくなった社は
朽ち、誰の記憶にも残ることはなく、影も、形も全てが現世から消える。そうなることを厭ったからこそ、
神奈子は彼女ごと幻想郷へとやってきたのだ。諏訪の地も、信仰の代わりに科学へ傾倒し、二柱は力を
大きく失った。そんな科学世紀に生まれた早苗にとって、神は民を恨むならともかく、愛しいという言葉
は俄かに信じられない。
諏訪子が体ごと振り返る。早苗が想像していたような怒りも、迷いも、一切ない爽やかな笑顔の諏訪子。
「あぁ、愛しいよ。当たり前じゃないか。ほんとにばかはふりだなぁ、早苗は」
「ばっ!? ばかはふり!?」
とんでもない一言に驚く早苗に、そのままにこやかに語りかける諏訪子。
「信仰する、されるってのはたいした問題じゃ……いや、まぁ、たいした問題ではあるんだが。ええと、それは
さておき。私は忘れられてもね、それでもよかったんだ。大体あれだ、その地に生まれたものが、その地で
終焉を迎えたいって思うのは普通のことだろ? 元から諏訪に居たわけじゃない神奈子はそうは思いは
しないだろうけどね」
「しかし……」
「しかし、なんだというんだね? 私の子孫達が、神を忘れこそすれ立派に繁栄していく。私はそれを
見ているだけで良かったんだ。良かったんだよ、早苗」
朗らかにそう語る諏訪子の言葉の裏、その真意を早苗は口にする。
「……もしかして、それが洩矢様が持つ諏訪への未練、なのですか」
諏訪子の笑顔に、さっ、と影が落ちた。
「あぁ、そうだね」
小さく、しかしはっきりと諏訪子が答えた。身を引き締めた早苗に、諏訪子が告げる。
「誰にも言わなかったがね、私はある決意を心に秘めてたんだよ」
「よろしければ、お聞かせ願えますか」
「構わないよ。……実はな、ここに来なけりゃ、私は今ある全ての力を使ってだな、あの地に百年の平和と
安寧をもたらそうと思ってたんだ。そうすりゃ私や神奈子がいなくなろうとも、我が子孫の繁栄は続く」
「しかし……! そんなことをすれば、洩矢様が」
「遅かれ早かれ消える身だろう? だったらせめて民の為にこの力を使おうと思ってな。それが腐っても
神様の矜持ってもんだ」
笑顔に落ちた影が、いっそう濃くなる。
「だが、それももう、叶わぬ夢だ」
「う……」
諏訪子の意見を聞かずに幻想郷へ連れてきたが、神の延命に繋がる良き行いであると信じていた早苗に、
呟きが深く突き刺さる。そんな早苗の苦しみに感づいたのだろう。顔に明るさを作り出す諏訪子。
「だが気に病まないでおくれ早苗。過去は過去、現在は現在、だ」
「ですが……。もし、もし……洩矢様がお望みならば、外に帰れるようにすることもできますが……」
来る時と同じ手段を使えば、幻想郷の結界を打ち破り守矢神社上殿だけ外に戻すことも、無理やりでは
あるが可能である。もっと穏健な方法であるなら、霊夢に頼めば外へ出る事ができるルートを教えて
くれるだろう。が、それはつまり。
「おいおい早苗。私に一人寂しく外の世界で消えろって言うのか?」
「……っは! あ、いえ、けしてその、そういう事では……ッ!!」
「はは、冗談が過ぎた。許してくれ」
悪戯っ子の表情で早苗に詫びる諏訪子。だが心中は冗談でもなんでもないはずだ。風祝も、相方も
いない外の世界では諏訪子は即座に消える運命しか待っていない。それを望んでなどいない諏訪子だが
早苗に対しての優しさで本音を隠したのだろう。その効果があったか、早苗は取り乱さずにすんだようだ。
それをみて、諏訪子は頷いた。
「言ったろ? 過去は過去、だ。確かに未練はある。諏訪の未来を見れなくなったのは実に残念だ。
だがな、それを悔やんでも最早どうにもならんさ。それに……」
「はい」
「私のおせっかいな加護がなくとも、私の子孫なら百年、いや、千年くらい繁栄してくれる。大きな障害が
あっても乗り越えていける。あの町に力強く瞬く命の灯を見ていればね、自然とそう思えるんだ」
もはや笑顔に影はない。瞳にはもはや見る事も叶わないであろう己が子孫に向けた信頼の光に満ち溢れて
いた。
「ならば、ここで繋がった命を大事にして、ここでの生活を楽しまんとな。少なくとも私がお前や神奈子と
過ごしたこの数ヶ月を、そしてこれからの未来を、無駄にするようなことはしたくない。したくないんだ。
そこは分ってくれるか、早苗」
「はい……。はい」
頷く早苗の頬を、大粒の涙がふたつみっつ、落ちていく。
「はは、どうした早苗。何を泣くことがあるかね」
「ぐす……すみません」
巫女服の袖で顔をぬぐい、なんとか涙を止める早苗。今にもまた涙の堰が壊れそうな表情を優しく
覗き込む諏訪子。泣き止んだのを見て、嬉しそうに笑う。
「うむ、よしよし。それにな、もう、私はここでの生きがいを一つ見つけているしな」
「え」
早苗が少し驚いた顔で、問いかける。
「その、よろしければお聞かせ願えますか?」
その声に、じっ、と諏訪子は早苗の顔を見つめて、
「やだよ。ひ・み・つ」
と、輝くような笑顔で言い切った。
「え、えぇっ!?」
てっきり答えが返ってくるものだと信じきっていた早苗は素っ頓狂な声を上げる。が、反応が読めて
いたらしい。諏訪子はにやりと笑った。
「素敵な大人の女性には、秘密の一つや二つあるべきなのさ。早苗もそう思うだろ? ん? ん?」
そんなことを言いながら悩ましく見えるポーズ。もっとも見た目の幼さで微笑ましさしか感じない
のではあるが。早苗もそう思ったのだろうか、苦笑いである。
「そ、そんな目で見るなよぅ」
「はは……。あ、これはすみません洩矢様」
「まぁ、いいけどさ。そんなわけでさ、確かに郷愁の想い捨てがたくはある。けれどな、今はそれ以上に
この幻想郷で生きる意思のほうが強い。なぁに、早苗、あと万年すればここが私の故郷と思えるように
なるさ。その万年を、千年に、百年に、あるいはもっと短く思えるようになるにはお前と、まぁ、一応、
神奈子も、と言っておくか。ふたりの存在が必要だ。だから、これからも、よろしく頼む」
「勿論です。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
改めてそんな思いを交し合う。
「よし。なら早苗。一つ提案がある。私がもっとここを好きになる為のものだ」
「はい、洩矢様。私にできることなら、なんなりと」
「よし。ならその洩矢様、ってのをやめてくれ」
「え」
早苗が固まる。もちろん諏訪子はお構いなしに言葉を投げた。
「名前で呼んどくれよ、諏訪子、って」
「しかし、それではあまりに畏れ多く……」
「そこだよ。確かに私とお前は神と祀る者の関係だ。でもなぁ早苗。この数ヶ月、三人で寄り添って
暮らしてきたじゃないか。それをな、世間では”家族”、っていうと思う。家族がそんなにかたっくるしくて
いいものなのかね?」
その言葉に再び早苗は硬直した、かに見えた。だが、困惑しているわけではない。次の一言をどうにか
して喉から搾り出そうとしているのだと諏訪子はわかっていた。だから、じっと早苗を見つめ、待つ。
幾たびかか細い息をして、唇が開いた。
「わ、かりまし、た。す、諏訪子、さま」
「うむ! よろしい」
途切れ途切れながらも自らの名を呼ばれ、花が咲くように笑顔をほころばせる諏訪子。
「それができたら、神奈子にもそう呼んでやるといい。あいつもきっと喜ぶはずさ」
「そ、そうでしょうか」
「あぁ。まぁお前がそう呼んだら、あいつは、そうさな。”お、おぉ? 今、なんと呼んだか? ……あぁ、
そうかそうか。うん……うん。お、お前が呼びたいなら、そう呼ぶがいいさ”とかそんなことを顔真っ赤に
して言うんだぜ絶対そうだぜー。だいじょぶだいじょぶ。嫌がるわけが無いさ」
おどけた調子で神奈子の真似、だろう小芝居が入った。
「は、はぁ……。しかし、よくそんな事わかりますね」
「あぁ。なんたって無駄に長い付き合いだからねぇ。……さて、こうやってシミュレーションもしたこと
だし、できるかい早苗?」
「う、えっと。がんばってみます。洩矢様」
「ほれ、もう」
「あ。す、諏訪子様」
「そうそう。……あ、そうだ。話は代わるが、早苗」
「はい、なんでしょう。諏訪子様」
「あったかいクリームシチューが食べたい」
「え?」
あまりに話が切り替わり、躓きそうなほど驚いた。
「クリームシチューだよクリームシチュー。たーべーたーいー」
「は、はぁ。それでは今から取り掛かろうと思いますが……」
「うん。じゃあ頼んだぞ」
「それでは、も、あ、いえ。諏訪子、さま。下に戻ります。後でお呼びいたしましょうか?」
「うんにゃ。日が落ちる頃には行くさ」
「はい、では後ほど。……諏訪子さま」
一礼し、最後に敬愛する神の”名前”を呟いて立ち去る早苗。空を舞うその背中に、諏訪子は柔らかな
笑みのまま視線を注ぎ続ける。聞こえないのがわかって、その背に声を投げかけた。
「……私の生きがいってのはね、早苗、お前だよ。私の血をもっとも濃く受け継いだお前が、これから
ここでどう成長していくのか。それを私は見ていたい。子々孫々を区別しちゃいけないが、お前の血は
プールに落としたバケツ一杯ほどだものなぁ。神になるのか、あるいは人として生きるのか。……幸せである
なら、私はどっちでもいいのだけどねぇ」
穏やかな目で、小さくなる背をただ見つめる。その視界がぼやけた。早苗への想いを持ち続けることは、
故郷を捨て去る事に他ならない。思い出されたあの街の灯に、懐郷と幾許かの後悔が涙を誘ったのだろう。
「あぁ」
呻く様に、重い想いを吐き出すように。結界の向こう、諏訪に繋がっている空と大地の境界に向けられた。
それらは涙で滲んでいるけれど。
「すまん、我が子孫よ。この星に散らばる私の子たちよ。もう、お前たちの姿を見守る事ができぬ。
ごめんよ。……ごめんよ。だから、せめて、心からこの言葉だけ、贈らせてくれ」
大きく、息を吸った。
「みんな、みんな。がんばれ―――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!
がんばれ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!
がんばれ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
諏訪子が子々孫々に贈る言葉は、遠く木霊して、冬の強い風に乗る。
「……今の声、届くといいなぁ」
神ですら、それを知ることはできない。ただ、そうである事を己以外の何かに託して願うのみである。
見上げた空は、緩やかに日が落ちだしていた。
「ふぅ……」
中年、というに相応しいスーツ姿の男性が深い溜息をついてベンチに腰掛けた。よれよれになった
営業カバンを脇に置き、薄くなった頭髪をハンカチで撫で回し、冬だというのに出てくる汗をぬぐう。
諏訪は高原にあるゆえ、あちこちに積もった雪が解けずに残っている。道路もあちこち凍った場所が
あり普通に歩くのも一苦労だ。さりとて仕事は足で稼ぐものであるから暖房の効いた場所でじっとして
いるわけにもいかず、ようやく訪れた小休止に思わず溜息が出たのだろう。
先ほど買った温かい缶コーヒーの蓋を開け、一気にあおる。甘ったるい液体を喉に落とし込み、ふっ、
と空を仰ぐ。どこかしらから一陣の風。それはどこか春の訪れを感じるような、ただ冷たいだけのもの
ではないように感じられた。
「さて、もうひと頑張りするか」
男はベンチでひと伸びしてから立ち上がり、歩き始める。
「あぁぁあぁ……」
なんとも妙な声をあげてその大学生の女の子は机に突っ伏した。課題のレポート、そしてサークルの
原稿が山のように彼女を襲っているのだ。ちなみに無睡眠稼働時間は24時間を軽く越えている。空に
なったカフェオレのパックを死んだ目で眺めていたら、危うく睡魔に飲み込まれそうなところをすんで
で起き上がった。
このままではいかんと床に転がったリポDの瓶を蹴り転がしつつ窓を開ける。吹き込んだ風は清廉と
して、よどんだ部屋の空気と眠気を吹き飛ばす。気分を変えるきっかけになったか、少しばかりやる気が
復活してきた。ずり下がった眼鏡をかけなおし、ぼさぼさになった短髪を掻いてパソコンが置かれた
机の前へと戻る。
「しょうがない、あと少しだからなんとか今日中に終わらせるかー」
部屋の中から、軽快にキーボードを叩く音が聞こえ始めた。
「ふわぁ~ぁ」
その細身の壮年の男性は一つ、あくびをした。マウスを放し、席を立つ。冷蔵庫の前に立つ彼の目に、
今は離れてしまった地元の大きな社のお守り。何気なくそれを見つめると、何故だか不思議と郷愁とともに
活力が沸いてくるようであった。
「さて、ビール飲んで仕上げますか」
そう呟く背中の向こう。モニタの向こうには色とりどりの弾幕と、少女達の姿がみえていた。
大丈夫だよ神さま。あんたの子孫は、あんたと同じくらい強いさ。
しんみりしました
最後のオチは秀逸!
つまり私の中にも……がんばるぞ!
という私事はさておき、良い諏訪子様でした。
脈々と受け継がれる洩矢の一族、素晴らしいなあ……。
これだけ強く想われているのなら子孫の方々も頑張っていけることでしょう。
良いお話、ありがとうございました。
ぼやける視界を振り払い、頑張って生きてやろうと思いました。
がんばろう。
ただ最後のは正直いらなかったかな。
ずっと見守ってきたんだもんな
良い話でした
諏訪子としては神というよりも、子を見守る親の気持ちなんだろうなあ
諏訪子マジ大人気ないw
それを抜きにしても早苗が二柱を敬いすぎていてなんだか
気疲れしそうな関係だなぁと思った。
オチはいらない派かな。
しかし諏訪子心広いなぁ
素敵なお話でした。