春の手前、まだ肌寒い風がころころ運ぶ落ち葉のうえを、一匹の黒猫がたちまち駆け出していった。矢のように枯れ色の道をむかって、ひとつのあばら屋へ潜りこんだ。
人間の里をわずかに離れた山の近くに孤立したあばら屋がある。苔と草に侵食されほうだいで、虫と動物たちの半ばねぐらと化している。薄暗いその中に入った黒猫は、四足をのばして背中を弓なりにして、さいごにからだを震わせた。あまり心地良さそうではなかった。
「こんにちは」
とつぜん暗がりから声をかけられた黒猫は、一匹ぶんは後ずさった。だがそこから顔をのぞかせて来た者も、また黒猫だった。先の黒猫に比べて毛色に朱が混じっているそいつは、挨拶を繰り返した。
「こんにちは」
「ああ、その声は、わかるよ。お燐ね。どうしてこんなところにいるの」
「あんたこそどうしてここに」
二匹は、自分たちが打ち捨てられたあばら屋にいる理由を共有した。ある者に呼ばれてやってきたということが一致した。肝心のそいつはまだ見当たらなかった。
すきま風がひどかったので、橙とお燐はよりそって毛をこすりあわせて、四足をおりたたんだ。
「いちど地底においで。冬でも暖かいから」
「寒くていいの。暖かい冬なんて、春が待ち遠しくなくなる。春は待ち遠しくないと。でもいつかはご招待にあずかろうと思うわ」
「そうね。また折のいい機会に」
しばらく会話をしていた二匹は、あるとき二手に散らばった。橙が部屋のすみ、農作具が束になっている場所に飛びこんだかと思うと、妙に甲高い鳴き声がした。ふたたび橙とお燐は近づいて、橙はくわえていた鼠をそこに下ろした。もちろん鼠は逃げ出そうとしたが、橙が右足を槌のように振り下ろしてそれを制した。ねずみは行き場をうしなった。
橙はお燐に鼠をどうするかと尋ねた。活きがいいので遊ぼうといった。橙が抑えつけていた足を離すと鼠は走りだしたが、お燐が行く手をふさぐと足でかるく叩き飛ばした。向きを変えた鼠をこんどは橙が、何度か叩きつけて翻弄した。その反復がずっと続いた。やがて鼠に力がなくなると、橙とお燐はまたよりそった。
そのときだが、あばら屋の入り口を縦半分も埋める大きな影が現れた。お燐は驚いて後ろへ飛び退いたが、橙はなんともなさげに首をかしいだ。
「籃さま。どうしてここに」
「あなたを追いかけてきました。手伝ってほしい用事があります。さ、戻りましょう」
「でも、私もここに用事があってきているんですよ」
外でカラスが鳴いていた。さっきから鳴き続けている。
籃は鳴き声がするほうを見やりながら、大きなからだと九尾を部屋の中へ押しこんだ。とたんにこの場所は狭くみえた。薄暗くありながら、黄金の毛はよく目立つ。籃は、橙の用事が終わるまで待っていると言った。
いまいちど橙とお燐は分裂した。お燐が目の覚めるような跳躍で籃を飛び越し壁にかけてあったみのへ飛びつくと、木組みの縁を足で払った。ちょうど籃の目の前に鼠が落下した。ところが、その鼠は抗議の声をあげた。
「こらっ、やめないか」
「あ、なんだ、ナズーリンだったのかい。紛らわしい」
「紛らわしくあるものか。四日前に話をしたばかりだろう」
橙とお燐を呼び出したのは他でもなくナズーリンだった。彼女はうごかない仲間がいることに気づくと、ほか三匹を睨みつけた。
「ところでそこの狐さんは、呼んだ覚えがないのだけれど。ずいぶん、大きいね」
「橙がわるいネズ公にそそのかされないかと心配でね」
「そうかい」
ちょっと失礼と、ナズは籃のからだを登っていくと額のところに居座った。籃はびくともしなかった。狐の威を借るとか、そういうわけではないにしても、ナズは彼女たちを見下ろす形になった。そんな玉座の上で目的を語りだした。
「君たち。といっても実際に声をかけたのは橙とお燐だけなんだけども。君たちに協力してもらいたいことがあるんだ。なあに我々のようにこじんまりした身体があれば簡単に片付くことだよ。だから狐の君はできれば、いるだけにしてもらいたいね。なおかつお尻にひっついている毛玉を隠してもらえると助かるのだけれども」
「なるべく努力してやろう」
「ぜひともだ。では本題にもどるが、私は仕事と趣味をかねてたびたび親友を幻想郷中に遣わせているんだけれど、博麗神社でちょっと面白いものを見つけてね。まあそれを我々でいただこうじゃないかというわけだ」
「盗人か。まさに鼠だな」
「話は最後まで聞くもんだよ。まさか巫女の持ち物を盗んだって妖怪の我々には値打ちなしだ。いいかい。博麗神社の母屋の床下に、ある貴重なものがあったんだ。何だと思う? 殺生石の破片さ。あれに近寄った私の親友は目を回してしまったんだ、間違いない。アレをあんな場所に野放しにしておくのはもったいない。とくに九尾の狐の君なら分かるだろう」
「殺生石になった狐は私とはべつの者だ」
「へえ、なるほど。ともかくその殺生石を運び出したいんだが、私の親友たちでは目を回すか、重たくて持ち上げられないかのどちらかなんだ。だから君たちに運んでもらおうと思ってね。あの床下は猫ならなんとか入っていけそうだ」
ナズーリンは籃に振り落とされた。だが話したいことはひと通り話し終えていた。ナズは地面をうろうろしながら二匹の黒猫へ協力してくれるかどうか、答えをあおいだ。
籃は橙にむかって、賊に手をかしてはいけないと言い放った。橙は目をつむって喉をならしていたが、ナズから石を運ぶだけでよいのだと言われて意を決した。彼女が手伝うと気さくに申し出てしまったので、籃がよけいに口を鋭くさせた。ナズーリンが籃の説得を試みた。それをお燐は眺めていた。
橙はお燐に近づいていった。
「あなたはどうするの」
「やるよ。石ころくらい何個でも運んであげる」
ナズの説得は一日かかったらしい。みんなの解散後は籃の周囲をうろつきながら、ときにはさっきのように額まで上がってきた。尾のなかに紛れこみもした。籃は牙を剥きだして威嚇をしたし、殴りつけようともしたが。ナズはまったく怯まず、冷静でどこか蔑みの含まれているような口調はぶれなかった。籃はそのいまいましさに折れたと言ってもよかった。橙を手伝わせることを条件つきで許した。その条件とは、自分もついていくというものだ。
三匹に伝えられた予定だと、二日後の朝、博麗神社ちかくの枯れた柏に集合だった。
そしてそれは決行された。
橙は朝日に濡れる獣道を突き抜けていき、博麗神社がむこうに見える林へ入った。ただ一つ葉もつぼみもついていない柏を探し当てた。すでにお燐と籃がその傘下にいたが、灰色の小人がみえない。博麗神社へ視察にいっているということだった。三匹はここで待機した。
「籃さま。尻尾、どうかなってますよ」
籃の、米俵のように豊かだった尾は九本ともしなびてススキになってしまっていた。
「ああこれかい。尾は隠しておけとネズ公に言われたからね、水をかぶっておいたんです。これで私もちっとは小さく見えることでしょう。乾いたらどうするのかって。心配いらない、乾かないように術をかけています。おかげで寒いですが」
そばの茂みが物音をたてた。そうやって一匹の鼠が現れた。これはナズではなかった。だが彼は神社の様子を話しだした。三匹を、とくに飛びかかろうとしていたお燐を止めた。
鼠が言うには、ナズがカラスに捕まって神社のほうへ連れていかれたのだという。みんな急いで神社のすぐそこまで走った。あと一歩で敷地内だというところまで近づいて、茂みからこっそり伺った。
どうするかと相談をした。カラスはともかく霊夢に見つかるのがまずい。ナズがそうなっているとも限らないし、そこから足がつくかもしれなかった。
「頼みこんできた本人がつかまってはどうしようもない。自業自得ではありませんか。放っておいて私たちは失礼しましょう。だいたい殺生石なんて拾って何をするつもりなのか」
なげやりな調子の籃に、橙はムズムズするものを感じた。それはあんまりですよ、とは口に出さなかった。そうする前に我慢できなくなり、茂みを越えて庭を横切っていた。本堂の壁にそってぐるりと回っていくと、母屋へとつながる廊下の下にひとまず身をひそめた。
橙は耳をすませて周囲に気を張った。本堂から母屋のほうへ誰かが歩いていったかと思うと、とつぜんそいつは怒鳴りだした。
「ちょっと文。鼠なんて持ってこないでよ」
この声は霊夢だ。鼠というのはナズで、それを持ってきたのは射命丸文になる。
「これはただの鼠ではありませんよ」
「い、痛いな。その汚い足をどけないか」
「ほら、ね。ナズーリンです」
床の軋みが遠のいていく。彼女たちは母屋へむかっていた。あとを追おうとした橙のもとにお燐がすべりこんできた。彼女はひどく上機嫌でそこいらを往復するのだから、いかにも楽しさを隠しきれないという感じだった。一方で橙は、真っ先に飛び出したにも関わらず不安になっていた。
「さ、これからどうするんだい」
「ナズを助けようと思う」
「殺生石は」
「ナズを助けてから」
二匹そろって床下を潜り抜けていき、縁側の下を注意深く進みながら霊夢たちがいる部屋を探し当てた。床越しに文の喋り声が聞こえてきた。
「ナズーリンはただココにやってきたわけではありません。私はちゃんと知っていますよ。この鼠は博麗神社に盗みを働きにきたんです。なんと仲間も引き連れてね。黒猫二匹と狐一匹、さがせばそこら辺にいるはずです。いやもうとっくに家の中にいるかも」
「ははあ分かったぞ。小屋の外でやかましいカラスがいたと思ったが、君だったのか」
なにか物がせわしなく動き回っていて、ナズがそのたびごとに文句を言い、霊夢が黙りなさいと叱っていた。橙とお燐で音の正体を当てようとしていると、やがて静かになった。
「逃げられたりしませんか」
「そんなやわなものじゃないわよ、これは」
このやりとりから推察するに、ナズは箱か何かに閉じ込められてしまったようだ。
無闇に飛び出すわけにもいかなかった二匹はじっと待機していたが、やがてお燐がある提案をした。自分が囮になるからその間にナズを助けろと言うのだ。
大丈夫かと橙は尋ねた。
「まあ見てな」
お燐はそう返すと小粋に走りだしていった。間もなくすると本堂のほうから猫の鳴き声が大きくこだました。橙はからだを震わせた。霊夢と文が何事かと話しながら部屋を離れていく様子が、つたわってくる。
橙が部屋を覗いたときには誰もいなかった。縁側から侵入すると匂いをかいでナズの行方を追った。匂いがつよく残っている箇所を繋げて、繋げていって、橙は小箪笥のうえにあった木箱に目をつけた。古く黒ずんで端は欠けて、橙ならどうにか入りそうな寸法の木箱だ。ひといきで小箪笥まで乗り上げた橙は箱を開けようとしたが、爪を引っ掛けられそうな部分を見つけられなかった。だから思い切って床に落とした。
鈍い音がして木箱は半回転した。ナズの声が箱の中からくぐもって聞こえた。乱暴にするなと言ってきた。
「いま開けるよ」
橙はそう言い聞かせながらびくともしない箱を叩いたりなでたりしていた。古い割に想像もつかないほど頑丈にできている。橙はもっている式神の力まで利用しながら箱の開封に尽くしたが、木がほんのわずか呻き声をあげるばかりだった。自分の力だけでは開けられそうにないと分かると、ひとまず安全な場所まで運ぼうとした。
そこで彼女に跳びかかってくる者が。
真っ黒い鞠となって畳のうえに転げまわりもつれ合う。橙は力を込めた後ろ足でそいつを蹴り飛ばした。黒いものをまき散らして縁側までいったかと思うと宙に浮きだした。それはカラスで、つまり文だ。
「私の目を誤魔化せると思いですか」
文は橙が部屋から逃げ出そう素振りをみせるとたちまち接近して、くちばしと爪を光らせた。何としてもここに囲いこむつもりだった。橙もざらついた鳴き声をあげて応戦した。ニャアと鳴けばカアと返った。せわしない羽ばたきの音に翻弄されていた橙は、とうに逃げ出す機会を失っていた。
霊夢が戻ってくるのを待つばかりかと思われた。が、そうはならなかった。やはりこれも唐突にだが、飛行していた文が鬼火に付きまとわれたかと思うと、いっきに火だるまになった。彼女が甲高い悲鳴をあげながら井戸のほうへ消えていくと同時に、縁側にはいつの間にか籃がお座りしていた。
籃が木箱へ流し目をすると、開かなかったそれはあっけなく半分に割れ、中からちょろちょろとナズが這い出てきた。籃はその様子を見届けると本堂のほうへ駈け出した。
橙はまともにうごけなくなっていたナズをくわえた。彼女の指図をうけて部屋を出ると床下へと入りこんだ。
「ほら、あそこに一回り大きな石があるだろう。ああ、私はもうクラクラだ。あれが殺生石の破片だから、君の力で運ぶんだ」
ナズのいう殺生石はたしかにあった。他の石ころよりも大きく重たそうで、するどい角が痛そうだ。近づいていった橙はなんとも言えず具合がわるくなり、目を瞬かせた。前足を石にあてると、つめたいやら、おぞましいやら、彼女の肉球は妙な痺れに苛まれた。たまらなくなった橙がそこから距離を置くと、ナズは彼女を盛り上げようとした。
「こら、苦しいのは分かるとも。だが頑張るんだ。運ぶだけじゃないか。なに肉球が痛いだって、運びきってしまえばもう痛くなくなるさ。さあ君しか運べないんだよ。さあ。さあ」
橙は石を押しはじめた。石はまずゆっくりと土を削って、やがて軌道にのるとそれなりの速度でうごいた。だが歩いているのに比べればずっとノロマだった。
満身をこめて床下から石を取り出した橙、そのまま近くの茂みまで持って行こうとした。だが目の前を横切った閃光に彼女は反射的にしりぞいた。石と距離を置くことになってしまった彼女は、さらに周囲を御札にとりかこまれて身動きができなくなった。
その鮮やかな流れをこなしてみせた人物、霊夢は、さっきまで橙が運んでいた石の前に立ってこう尋ねた。これは何、と。それに答えたのはナズだった。
「同胞が封印されている石だよ。救出にやってきたんだ」
「あんた、嘘が下手ね」
霊夢は石を拾いあげてまじまじと見つめると、目を細めて渋い表情になった。
「あんたら、この石は神様が宿ってるじゃない。あんたらが石をどうするつもりか知らないけど、神様を石からほどいてあげるのは私じゃないとできないわ」
“神様”の話は橙には初耳だった、それどころかナズでさえ霊夢の言葉に動揺していた。
「それは殺生石じゃないのかい」
「そんな物騒なものがこの神社にあるわけないでしょう。あったら私は、とうの昔に死んでいたわ」
霊夢が母屋へ消えていくと、橙を封じていた御札は死んではらはらと落ちていった。くわえ放しだったナズを離すと、二人でとぼとぼ本堂へむかった。本堂よこの砂利道には籃とお燐がお座りしていて、二匹とも毛並みがずいぶん荒れていた。
籃が尋ねた。
「殺生石はどうなりました」
「うん。殺生石は殺生石じゃありませんでした」
「どういうことですか」
「神様が宿っているって巫女が」
話を聞いた籃がナズを睨みつけた。橙はまだいまいち把握ができていなかったが、籃にはおおよその見当がついたようだ。
「さっさとどっかに行きなさい」
母屋から届いてきた霊夢の一喝が彼女らの耳を打ったため、それぞれ一目散に駈け出していった。ナズの小さなからだは早々に見えなくなり、お燐は誰よりもはりきって前を突き抜けた。橙と籃はゆるやかに帰路を楽しんだ。
橙は博麗神社を背中にしながら籃の話を聞いていた。
「神様が宿っていたのね。そして鼠や橙は石にふれると気分がわるくなったけど、巫女はそうじゃなかった。巫女は神様の扱い方を心得ているから触っても大丈夫だったんですよ。でも心のうちでは、手がずきずきするとか気持ち悪いとか思っていたかもしれませんね。ああでも、あの鼠、殺生石と間違えるなんて」
籃は殺生石という言葉に思うところがあった。橙はそうとは知らなかった。ただ殺生石の本物はどんなものだろうかと胸をふくらませた。
人間の里をわずかに離れた山の近くに孤立したあばら屋がある。苔と草に侵食されほうだいで、虫と動物たちの半ばねぐらと化している。薄暗いその中に入った黒猫は、四足をのばして背中を弓なりにして、さいごにからだを震わせた。あまり心地良さそうではなかった。
「こんにちは」
とつぜん暗がりから声をかけられた黒猫は、一匹ぶんは後ずさった。だがそこから顔をのぞかせて来た者も、また黒猫だった。先の黒猫に比べて毛色に朱が混じっているそいつは、挨拶を繰り返した。
「こんにちは」
「ああ、その声は、わかるよ。お燐ね。どうしてこんなところにいるの」
「あんたこそどうしてここに」
二匹は、自分たちが打ち捨てられたあばら屋にいる理由を共有した。ある者に呼ばれてやってきたということが一致した。肝心のそいつはまだ見当たらなかった。
すきま風がひどかったので、橙とお燐はよりそって毛をこすりあわせて、四足をおりたたんだ。
「いちど地底においで。冬でも暖かいから」
「寒くていいの。暖かい冬なんて、春が待ち遠しくなくなる。春は待ち遠しくないと。でもいつかはご招待にあずかろうと思うわ」
「そうね。また折のいい機会に」
しばらく会話をしていた二匹は、あるとき二手に散らばった。橙が部屋のすみ、農作具が束になっている場所に飛びこんだかと思うと、妙に甲高い鳴き声がした。ふたたび橙とお燐は近づいて、橙はくわえていた鼠をそこに下ろした。もちろん鼠は逃げ出そうとしたが、橙が右足を槌のように振り下ろしてそれを制した。ねずみは行き場をうしなった。
橙はお燐に鼠をどうするかと尋ねた。活きがいいので遊ぼうといった。橙が抑えつけていた足を離すと鼠は走りだしたが、お燐が行く手をふさぐと足でかるく叩き飛ばした。向きを変えた鼠をこんどは橙が、何度か叩きつけて翻弄した。その反復がずっと続いた。やがて鼠に力がなくなると、橙とお燐はまたよりそった。
そのときだが、あばら屋の入り口を縦半分も埋める大きな影が現れた。お燐は驚いて後ろへ飛び退いたが、橙はなんともなさげに首をかしいだ。
「籃さま。どうしてここに」
「あなたを追いかけてきました。手伝ってほしい用事があります。さ、戻りましょう」
「でも、私もここに用事があってきているんですよ」
外でカラスが鳴いていた。さっきから鳴き続けている。
籃は鳴き声がするほうを見やりながら、大きなからだと九尾を部屋の中へ押しこんだ。とたんにこの場所は狭くみえた。薄暗くありながら、黄金の毛はよく目立つ。籃は、橙の用事が終わるまで待っていると言った。
いまいちど橙とお燐は分裂した。お燐が目の覚めるような跳躍で籃を飛び越し壁にかけてあったみのへ飛びつくと、木組みの縁を足で払った。ちょうど籃の目の前に鼠が落下した。ところが、その鼠は抗議の声をあげた。
「こらっ、やめないか」
「あ、なんだ、ナズーリンだったのかい。紛らわしい」
「紛らわしくあるものか。四日前に話をしたばかりだろう」
橙とお燐を呼び出したのは他でもなくナズーリンだった。彼女はうごかない仲間がいることに気づくと、ほか三匹を睨みつけた。
「ところでそこの狐さんは、呼んだ覚えがないのだけれど。ずいぶん、大きいね」
「橙がわるいネズ公にそそのかされないかと心配でね」
「そうかい」
ちょっと失礼と、ナズは籃のからだを登っていくと額のところに居座った。籃はびくともしなかった。狐の威を借るとか、そういうわけではないにしても、ナズは彼女たちを見下ろす形になった。そんな玉座の上で目的を語りだした。
「君たち。といっても実際に声をかけたのは橙とお燐だけなんだけども。君たちに協力してもらいたいことがあるんだ。なあに我々のようにこじんまりした身体があれば簡単に片付くことだよ。だから狐の君はできれば、いるだけにしてもらいたいね。なおかつお尻にひっついている毛玉を隠してもらえると助かるのだけれども」
「なるべく努力してやろう」
「ぜひともだ。では本題にもどるが、私は仕事と趣味をかねてたびたび親友を幻想郷中に遣わせているんだけれど、博麗神社でちょっと面白いものを見つけてね。まあそれを我々でいただこうじゃないかというわけだ」
「盗人か。まさに鼠だな」
「話は最後まで聞くもんだよ。まさか巫女の持ち物を盗んだって妖怪の我々には値打ちなしだ。いいかい。博麗神社の母屋の床下に、ある貴重なものがあったんだ。何だと思う? 殺生石の破片さ。あれに近寄った私の親友は目を回してしまったんだ、間違いない。アレをあんな場所に野放しにしておくのはもったいない。とくに九尾の狐の君なら分かるだろう」
「殺生石になった狐は私とはべつの者だ」
「へえ、なるほど。ともかくその殺生石を運び出したいんだが、私の親友たちでは目を回すか、重たくて持ち上げられないかのどちらかなんだ。だから君たちに運んでもらおうと思ってね。あの床下は猫ならなんとか入っていけそうだ」
ナズーリンは籃に振り落とされた。だが話したいことはひと通り話し終えていた。ナズは地面をうろうろしながら二匹の黒猫へ協力してくれるかどうか、答えをあおいだ。
籃は橙にむかって、賊に手をかしてはいけないと言い放った。橙は目をつむって喉をならしていたが、ナズから石を運ぶだけでよいのだと言われて意を決した。彼女が手伝うと気さくに申し出てしまったので、籃がよけいに口を鋭くさせた。ナズーリンが籃の説得を試みた。それをお燐は眺めていた。
橙はお燐に近づいていった。
「あなたはどうするの」
「やるよ。石ころくらい何個でも運んであげる」
ナズの説得は一日かかったらしい。みんなの解散後は籃の周囲をうろつきながら、ときにはさっきのように額まで上がってきた。尾のなかに紛れこみもした。籃は牙を剥きだして威嚇をしたし、殴りつけようともしたが。ナズはまったく怯まず、冷静でどこか蔑みの含まれているような口調はぶれなかった。籃はそのいまいましさに折れたと言ってもよかった。橙を手伝わせることを条件つきで許した。その条件とは、自分もついていくというものだ。
三匹に伝えられた予定だと、二日後の朝、博麗神社ちかくの枯れた柏に集合だった。
そしてそれは決行された。
橙は朝日に濡れる獣道を突き抜けていき、博麗神社がむこうに見える林へ入った。ただ一つ葉もつぼみもついていない柏を探し当てた。すでにお燐と籃がその傘下にいたが、灰色の小人がみえない。博麗神社へ視察にいっているということだった。三匹はここで待機した。
「籃さま。尻尾、どうかなってますよ」
籃の、米俵のように豊かだった尾は九本ともしなびてススキになってしまっていた。
「ああこれかい。尾は隠しておけとネズ公に言われたからね、水をかぶっておいたんです。これで私もちっとは小さく見えることでしょう。乾いたらどうするのかって。心配いらない、乾かないように術をかけています。おかげで寒いですが」
そばの茂みが物音をたてた。そうやって一匹の鼠が現れた。これはナズではなかった。だが彼は神社の様子を話しだした。三匹を、とくに飛びかかろうとしていたお燐を止めた。
鼠が言うには、ナズがカラスに捕まって神社のほうへ連れていかれたのだという。みんな急いで神社のすぐそこまで走った。あと一歩で敷地内だというところまで近づいて、茂みからこっそり伺った。
どうするかと相談をした。カラスはともかく霊夢に見つかるのがまずい。ナズがそうなっているとも限らないし、そこから足がつくかもしれなかった。
「頼みこんできた本人がつかまってはどうしようもない。自業自得ではありませんか。放っておいて私たちは失礼しましょう。だいたい殺生石なんて拾って何をするつもりなのか」
なげやりな調子の籃に、橙はムズムズするものを感じた。それはあんまりですよ、とは口に出さなかった。そうする前に我慢できなくなり、茂みを越えて庭を横切っていた。本堂の壁にそってぐるりと回っていくと、母屋へとつながる廊下の下にひとまず身をひそめた。
橙は耳をすませて周囲に気を張った。本堂から母屋のほうへ誰かが歩いていったかと思うと、とつぜんそいつは怒鳴りだした。
「ちょっと文。鼠なんて持ってこないでよ」
この声は霊夢だ。鼠というのはナズで、それを持ってきたのは射命丸文になる。
「これはただの鼠ではありませんよ」
「い、痛いな。その汚い足をどけないか」
「ほら、ね。ナズーリンです」
床の軋みが遠のいていく。彼女たちは母屋へむかっていた。あとを追おうとした橙のもとにお燐がすべりこんできた。彼女はひどく上機嫌でそこいらを往復するのだから、いかにも楽しさを隠しきれないという感じだった。一方で橙は、真っ先に飛び出したにも関わらず不安になっていた。
「さ、これからどうするんだい」
「ナズを助けようと思う」
「殺生石は」
「ナズを助けてから」
二匹そろって床下を潜り抜けていき、縁側の下を注意深く進みながら霊夢たちがいる部屋を探し当てた。床越しに文の喋り声が聞こえてきた。
「ナズーリンはただココにやってきたわけではありません。私はちゃんと知っていますよ。この鼠は博麗神社に盗みを働きにきたんです。なんと仲間も引き連れてね。黒猫二匹と狐一匹、さがせばそこら辺にいるはずです。いやもうとっくに家の中にいるかも」
「ははあ分かったぞ。小屋の外でやかましいカラスがいたと思ったが、君だったのか」
なにか物がせわしなく動き回っていて、ナズがそのたびごとに文句を言い、霊夢が黙りなさいと叱っていた。橙とお燐で音の正体を当てようとしていると、やがて静かになった。
「逃げられたりしませんか」
「そんなやわなものじゃないわよ、これは」
このやりとりから推察するに、ナズは箱か何かに閉じ込められてしまったようだ。
無闇に飛び出すわけにもいかなかった二匹はじっと待機していたが、やがてお燐がある提案をした。自分が囮になるからその間にナズを助けろと言うのだ。
大丈夫かと橙は尋ねた。
「まあ見てな」
お燐はそう返すと小粋に走りだしていった。間もなくすると本堂のほうから猫の鳴き声が大きくこだました。橙はからだを震わせた。霊夢と文が何事かと話しながら部屋を離れていく様子が、つたわってくる。
橙が部屋を覗いたときには誰もいなかった。縁側から侵入すると匂いをかいでナズの行方を追った。匂いがつよく残っている箇所を繋げて、繋げていって、橙は小箪笥のうえにあった木箱に目をつけた。古く黒ずんで端は欠けて、橙ならどうにか入りそうな寸法の木箱だ。ひといきで小箪笥まで乗り上げた橙は箱を開けようとしたが、爪を引っ掛けられそうな部分を見つけられなかった。だから思い切って床に落とした。
鈍い音がして木箱は半回転した。ナズの声が箱の中からくぐもって聞こえた。乱暴にするなと言ってきた。
「いま開けるよ」
橙はそう言い聞かせながらびくともしない箱を叩いたりなでたりしていた。古い割に想像もつかないほど頑丈にできている。橙はもっている式神の力まで利用しながら箱の開封に尽くしたが、木がほんのわずか呻き声をあげるばかりだった。自分の力だけでは開けられそうにないと分かると、ひとまず安全な場所まで運ぼうとした。
そこで彼女に跳びかかってくる者が。
真っ黒い鞠となって畳のうえに転げまわりもつれ合う。橙は力を込めた後ろ足でそいつを蹴り飛ばした。黒いものをまき散らして縁側までいったかと思うと宙に浮きだした。それはカラスで、つまり文だ。
「私の目を誤魔化せると思いですか」
文は橙が部屋から逃げ出そう素振りをみせるとたちまち接近して、くちばしと爪を光らせた。何としてもここに囲いこむつもりだった。橙もざらついた鳴き声をあげて応戦した。ニャアと鳴けばカアと返った。せわしない羽ばたきの音に翻弄されていた橙は、とうに逃げ出す機会を失っていた。
霊夢が戻ってくるのを待つばかりかと思われた。が、そうはならなかった。やはりこれも唐突にだが、飛行していた文が鬼火に付きまとわれたかと思うと、いっきに火だるまになった。彼女が甲高い悲鳴をあげながら井戸のほうへ消えていくと同時に、縁側にはいつの間にか籃がお座りしていた。
籃が木箱へ流し目をすると、開かなかったそれはあっけなく半分に割れ、中からちょろちょろとナズが這い出てきた。籃はその様子を見届けると本堂のほうへ駈け出した。
橙はまともにうごけなくなっていたナズをくわえた。彼女の指図をうけて部屋を出ると床下へと入りこんだ。
「ほら、あそこに一回り大きな石があるだろう。ああ、私はもうクラクラだ。あれが殺生石の破片だから、君の力で運ぶんだ」
ナズのいう殺生石はたしかにあった。他の石ころよりも大きく重たそうで、するどい角が痛そうだ。近づいていった橙はなんとも言えず具合がわるくなり、目を瞬かせた。前足を石にあてると、つめたいやら、おぞましいやら、彼女の肉球は妙な痺れに苛まれた。たまらなくなった橙がそこから距離を置くと、ナズは彼女を盛り上げようとした。
「こら、苦しいのは分かるとも。だが頑張るんだ。運ぶだけじゃないか。なに肉球が痛いだって、運びきってしまえばもう痛くなくなるさ。さあ君しか運べないんだよ。さあ。さあ」
橙は石を押しはじめた。石はまずゆっくりと土を削って、やがて軌道にのるとそれなりの速度でうごいた。だが歩いているのに比べればずっとノロマだった。
満身をこめて床下から石を取り出した橙、そのまま近くの茂みまで持って行こうとした。だが目の前を横切った閃光に彼女は反射的にしりぞいた。石と距離を置くことになってしまった彼女は、さらに周囲を御札にとりかこまれて身動きができなくなった。
その鮮やかな流れをこなしてみせた人物、霊夢は、さっきまで橙が運んでいた石の前に立ってこう尋ねた。これは何、と。それに答えたのはナズだった。
「同胞が封印されている石だよ。救出にやってきたんだ」
「あんた、嘘が下手ね」
霊夢は石を拾いあげてまじまじと見つめると、目を細めて渋い表情になった。
「あんたら、この石は神様が宿ってるじゃない。あんたらが石をどうするつもりか知らないけど、神様を石からほどいてあげるのは私じゃないとできないわ」
“神様”の話は橙には初耳だった、それどころかナズでさえ霊夢の言葉に動揺していた。
「それは殺生石じゃないのかい」
「そんな物騒なものがこの神社にあるわけないでしょう。あったら私は、とうの昔に死んでいたわ」
霊夢が母屋へ消えていくと、橙を封じていた御札は死んではらはらと落ちていった。くわえ放しだったナズを離すと、二人でとぼとぼ本堂へむかった。本堂よこの砂利道には籃とお燐がお座りしていて、二匹とも毛並みがずいぶん荒れていた。
籃が尋ねた。
「殺生石はどうなりました」
「うん。殺生石は殺生石じゃありませんでした」
「どういうことですか」
「神様が宿っているって巫女が」
話を聞いた籃がナズを睨みつけた。橙はまだいまいち把握ができていなかったが、籃にはおおよその見当がついたようだ。
「さっさとどっかに行きなさい」
母屋から届いてきた霊夢の一喝が彼女らの耳を打ったため、それぞれ一目散に駈け出していった。ナズの小さなからだは早々に見えなくなり、お燐は誰よりもはりきって前を突き抜けた。橙と籃はゆるやかに帰路を楽しんだ。
橙は博麗神社を背中にしながら籃の話を聞いていた。
「神様が宿っていたのね。そして鼠や橙は石にふれると気分がわるくなったけど、巫女はそうじゃなかった。巫女は神様の扱い方を心得ているから触っても大丈夫だったんですよ。でも心のうちでは、手がずきずきするとか気持ち悪いとか思っていたかもしれませんね。ああでも、あの鼠、殺生石と間違えるなんて」
籃は殺生石という言葉に思うところがあった。橙はそうとは知らなかった。ただ殺生石の本物はどんなものだろうかと胸をふくらませた。
題材が好みだっただけに残念
時折文章がふらふらとするのも良い味わいでした。こういうの大好き。
フルーツ一杯のケーキに対する落雁とか金つばとかの和菓子の味わいと言うか。
すごく貴重な作風だと思います。これからも応援させてもらいます。