誰にも知られず出掛けては、誰にも知られず帰る。
その日の内に帰ることもあれば、一週間経っても帰らないこともある。
まぁ私は空気みたいなものだし、いようがいまいが誰も気付かないだろうし心配もしていないだろう。
そういうのはお姉ちゃんにだけ思ってもらえればそれでいいや。
こんな能力を操れるようになって周囲と隔絶しても、お姉ちゃんとだけはずっと繋がっていた気がした。姉妹だからなのかな。そうだとしたら何だか嬉しいな。
ああ、お姉ちゃんのことを考えたら地霊殿に帰りたくなってきた。うん、ここで遊ぶのももう飽きたし、そろそろ帰ろうかな。
「ただいまー」
どうせ返事もないだろうと分かり切っているのに、ついついいつものクセで言ってしまう。私は礼儀はきちんと守る妖怪なのだ。
それにしても……、この地霊殿の扉は無駄に背が高いなぁといつも思うんだよね。私の身長の2倍はある。地霊殿にこんな扉を屈んで入らないといけない子なんていないだろうに。
「きっと意味なんて無いんだろうなぁ……っと、うわわっ!」
「ギニャッ!!?」
とりあえずキッチンに行って夕食の残りでもつまんでこようかと思った矢先に、何かに引っ掛かって顔面から盛大にこけてしまった。それと、何かの悲鳴が聞こえた気がする……猫的な悲鳴が。
「いたた……」と呟きながら身体を起こして振り返ってみると、案の定猫がいて悶絶している。
彼女は普通に歩いていただけだったろうけれど、そこへ無意識で行動していた私の足が彼女の腹を蹴りつけてしまったようだ……可哀想に。完全に不意打ちだった。
そんな風にどこか他人事のように思いながら彼女、火焔猫燐の側にしゃがみ込んで「大丈夫? お燐」と声を掛ける。
お燐は彼女の愛称だ。お燐は自分の愛称を大層気に入っているようで、周囲に自分のことをそう呼ぶように言っている。私やお姉ちゃんもその例に漏れない。
心配して彼女を見下ろしていると、よろよろとお燐が立ち上がる。ちなみに、今の彼女は猫の姿をしている。
そして、自らを蹴り上げた張本人である私を見上げた途端にぎょっと目を見開いた。
どうしたというのだろうか。あぁ、もしかしたら返り血でも着いていたのかな。ついつい無意識に誰かを殺っちゃったのかもしれない。
過去に何度かそんなことをやらかしていたので、今回もそれかな、と思い至った私は自分の服を見てみる。
「ありゃりゃ」
幸いなことに見下ろした自分の服に返り血などは着いていなかったものの、あちこちが破れてしまっていて、これをファッションと呼ぶには憚れるほど酷い有様であった。ブラとか見えちゃってるし。
誰にも気付かれずにここまで帰って来れたのはいいが、自分でもこんなことになっているとは気付かなかったことを、この場合問題にすべきだろう。無意識ってこわいなぁ。
「こ、こいし様! どうされたんですか!? お怪我はありませんか!?」
いつの間にか人型に変化していたお燐が、サバイバル感剥き出しの私の身体をまさぐりながら言葉を掛ける。
「私は大丈夫よ、お燐。それよりあなたの方こそ平気なの?」
特にどこかに痛みは感じなかった。あるとするならば、今し方ぶつけた鼻の方だ。
私でこれならば、むしろ私に蹴られたお燐の方こそ痛い思いをしたんじゃないだろうかと思った。
「実はすごい痛いです……って! あ、あたいのことは気にしなくとも平気ですから!」
つい本音をこぼしてしまったお燐だったが、そりゃそうだろうなぁと納得出来た。
私ならもっと文句を言う。ただお燐から見れば、私が主人であるお姉ちゃんの妹だということで、痛みをぐっと我慢しているのだろう。主従関係の悲哀を垣間見た気がした。
「怪我はしていないようですね……良かったです。でも随分と汚れてしまっていますからお部屋に戻られる前にシャワーを浴びた方がいいですね」
私の身体に傷などがないことを確認したお燐は、安堵してホッと一息吐いてから、私にシャワーを浴びることを勧めた。
私はお燐の提案に対して素直にコクリと頷いた。良い子だな、と思った。お姉ちゃんのことが羨ましくなった。
そんなことを思いながら浴場へと足を踏み出したと同時に「ぐぅ~」と盛大に腹の虫が鳴ってしまった。
「「あ」」
まったく自重しないお腹の虫の音に、思わず声が重なってしまう。
二人の間に何とも言えない沈黙の時間が生まれた。流石の私もこれはかなり恥ずかしかった。
「あはは、今回も随分と動き回られたんですね。じゃあ、シャワーを浴びられている間にあたいはご飯の用意をしてきますね」
「うん、ありがとう……ごめんね?」
「いえいえ、気にしないで下さいよ~。あ、でも着替えも用意しないと」
「え、着替えくらい自分で取りに行くわよ」
「いやいや、これもあたいらの仕事みたいなもんです。となると、あいつの手も借りないとな……お~~~い!! お空~~~!!」
自分だけでは手が回らないと思ったのか、お燐は援軍を呼ぶべく親友の名を大声で叫んだ。
かなりの声量ではあったが、地霊殿もそれなりに広い。地上にも大きな家がいくつもあったが、それらにも引けを取らない。
果たして声だけで届くものだろうか……、しんと静まり返ったエントランスでしばらく待っていると、通路の奥からバッサバッサと翼を羽ばたかせたような音が聞こえた。
次第にその音が近づいてきたところで、お燐に負けないくらい大きな返事が聞こえてきた。
「おり~~~ん!! 呼んだ~~~??」
そう叫びながら暗い通路から飛び出してきたのは霊烏路空。お燐の親友で、同じくお姉ちゃんのペットの地獄鴉だ。
火焔猫燐に『お燐』という愛称を考えたのは、彼女である。そして、空の愛称である『お空』はお燐が考え出したものだ。二人はとても仲が良かった。
鳥頭故か若干忘れっぽいおばかさんだが、持ち前の元気さと無邪気さでお姉ちゃんから良く可愛がられている。
「あ! こいし様だ! お帰りなさい!」
「ただいま、お空」
疾風の如く登場したお空は、私の姿を見つけて満面の笑顔を浮かべた。
そんなお空に私は軽く手を振って返す。
ほどなくして、お空も私のボロボロになった服に違和感を覚えたらしく、顎に人差し指を当てて小首を傾げる。
「うにゅ? こいし様、どうしたんですか……?」
まぁ、当然の反応だろう。
ただ、私としては特に怪我をしているわけでもなかったので、彼女に余計な心配をかけないように「大丈夫大丈夫」と言って笑い掛けた。
そうは言ったものの、流石に説得力が無さ過ぎだったのかお空は「本当に? 本当にどこも痛くないんですか?」と心配そうな顔をして、私の体のあちこちを触って確かめていた。
しばらくお空になすがままにされていると、「やれやれ」といった表情のお燐が手を二回ほど叩いて言った。
「ほらほら、お空。こいし様はお疲れなんだ。あんたがそうまとわりついてちゃあ、こいし様が身動きがとれないじゃないかい」
「うにゅ!?」
お燐に指摘されて、私に触れる手の動きがピタリと止まる。お空と目が合う。申し訳なさそうな顔をしている。
「大丈夫、気にしていないよ……心配してくれてありがとうね」
私はしょげたようにしているお空の頭をそっと撫でてあげてあげると、彼女は「うにゅぅ……」と気持ちよさそうな声を上げる。
目を細めて満足そうな顔をしているお空が可愛くてそのまましばらく撫で続けていると、お燐がこちらを見ていることに、ふと気が付いた。
私がお燐の目に合わせると、お燐は慌てて視線を逸らした。
どうやら私がお空にそうしているように、お燐も頭を撫でて欲しいようだ。
「おーりーん」
お燐を手招きでこちらに呼び寄せる。
それを見たお燐は嬉しそうに私の側まで来て、ずいっと頭を差し出した。
私はお空と同じようにお燐の頭を優しく撫でてあげる。
「お燐も心配してくれてありがとう」
お燐は「にゃぁあ~」とこれまたお空と同じく気持ちよさそうな声を出した。
二人の頭を撫でていた私は、お姉ちゃんがいつも二人にこうしている姿を何となく思い出していた。
それはとても温かい光景でいつもそれを眺めていた私は、それがとてもとても大好きだった。
しかし、その輪の中に加わろうという気は全く起きなかった。
ろくすっぽ家に帰って来ない、どころか能力のおかげで帰って来ていても気付かれない、そんな私のことを皆気味悪がっていたように思っていたからだ。
だがそんな考えも、私の勝手なイメージに過ぎなかったのかもしれない。考えを改める必要があることを、二人の頭を撫でながらそう感じた。
私が無意識の能力を手に入れる切欠は、周囲が私を拒絶したからだと自分では思っていた。
でも実際そうではなくて、私が周囲を拒絶したから覚りの能力を棄てていたのかもしれない。
だって、目の前にいるお燐やお空、そしてお姉ちゃんは、私のことをちゃんと気遣ってくれていたじゃないか。拒絶なんてしていない。
それなのに、私ときたら……。
「ほんと弱虫だなぁ……、私」
「えっ?」
「うにゅ?」
私の呟きに二人が反応する。
「ううん、なんでもないよ」
二人の頭から手を離す。何でもないことをアピールするために微笑を浮かべる。多分、微妙な笑み。意識してやるのはどうにも苦手だ。
二人が顔を見合わせてきょとんとしているところを見ると、やはり上手く笑えていなかったのだろう。今度、鏡でも見ながら練習してみようかなあ。
そう心の中で自分への課題を課していると、お燐がまさに今思い出したように「あ」と声を上げる。
「こんなところで甘えている場合じゃなかったよ! ご飯の用意をして来なくちゃ!」
「ご飯? さっき食べたじゃん」
「ばーか! お空のご飯じゃない。こいし様のご飯の用意だよ」
お空は自分のご飯じゃないのかと、あからさまにしゅんとなってしまっていた。
そう言えば、盛大にお腹の虫が鳴いていたんだったな、私。
お空も元々お燐の手伝いのために呼んだのだっけ。
「ほら、お空! あたいがこいし様の夕食の支度に回るから、あんたはこいし様の着替えを用意してきな!」
「うにゅ……、わかった」
「着替えはそのまま風呂場に持っていきなよ。それが終わったら台所まで来てあたいの手伝いに回っておくれ」
「うにゅ……、わかった」
本当にわかっているのだろうか。露骨に重たい足取りでその場を後にしようとするお空。
廊下に達するまでそんな調子の彼女を見かねたお燐が、仕方ないとばかりに頭を掻く。
「まったく、しょうがない奴だよ……。ほらお空! 後で温泉玉子作ってやるからシャキっとしな!」
「うにゅ! わかった!」
お燐の言葉に途端に元気になる。くるりとこちらに振り向いたお空は満面の笑みを浮かべている。あれくらい単純になれると人生楽しいんだろうな。
「えへへ……、お燐大好き!」
「んにゃっ!? い、いいから早く行きなっ!」
完全に不意打ちのお空の言葉に、顔を真っ赤にして追い払った。
お燐は「やれやれ」だの「まったくあいつは」だの何事かをひたすら呟いている。気恥ずかしいのだろう。
私は二人のやり取りを見て、とても微笑ましい気持ちになっていた。その思いを、表情に上手くトレース出来ているか、努力はしてみたがいま一つ自信はなかった。
人知れずそんな奮闘をしている私に振り返ったお燐が、ばつの悪そうな顔をした。
「こいし様、あんまり笑わないで下さいよ……。じゃあ、あたいも台所に向かいますので。こいし様はそのまま風呂場に行って下さい。お空が3歩歩かなきゃあ、着替えを持って来てくれるはずなので」
そう残して、お燐も台所へ向かっていった。
しかし、お空はエントランスを抜ける段階で3歩歩いてしまっていたので、もし彼女が忘れてしまっていたのならその段階で立ち止まっていたはずだろう。
つまり何だかんだ言いながらも、お燐はお空のことをちゃんとわかっているし、信頼しているのだろう。
何だか、私とお姉ちゃんみたいだなあ。
それにしても……。
「笑えてたんだ……、私」
何だか少し嬉しくて、私は鼻歌混じりで風呂場へと向かっていった。
風呂場には先客がいた。
「あら、こいし。帰ってたの?」
「ただいま、お姉ちゃん」
ちょうど、お風呂に入るつもりだったのだろう。お姉ちゃんは脱衣中で、具体的に言ってしまうと既にドロワ一枚の状態だった。
「おかえりなさい、こいし。あなたもお風呂ね?」
「うん。一緒に入ろう」
「いいわよ。それにしても外では随分はしゃいでいたみたいね……」
お姉ちゃんは上から下までボロボロになった私の服を見て、げんなりした表情になった。
「えへへ……、面目ない」
「そう思うなら少しは自重して頂戴。心配するこっちのことも考えて欲しいわ……」
そのまま二人で風呂場に入った。お姉ちゃんが一糸纏わぬ姿になる前に、私は全裸になっていた。脱ぐ、というより破り捨てる、という表現が適切な脱衣であった。
「今日はお姉ちゃんが洗ってあげますからね」
鏡を通して、私の後ろに膝立ちになったお姉ちゃんが、肩に手を乗せてふんふんと鼻を鳴らしている。どうやらかなり張り切っているようだ。
お姉ちゃんは地霊殿の外では嫌われていて、周囲の妖怪たちは近寄ってすら来ないけれど、中に住む私やペットたちの間ではかなりの世話好きで通っている。
お姉ちゃんはきちゃない子を綺麗にするのが大好きなのだ。そして今宵のターゲットは私に決まったらしい。こうしてお姉ちゃんとお風呂に入るのも久しぶりだ。
私はお姉ちゃんを背もたれにして身体を預ける。柔らかくて、温かくて、とても安心出来るお姉ちゃんの身体を背中いっぱいに感じる。
ついさっきまで、私はこの感触だけが私のことを想ってくれているのだと、そう思っていた。でもそうじゃなかったんだ。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なあに?」
私は先程のお燐とお空とのやりとりを思い出しながら、お姉ちゃんに話し始めた。
「私ね、私のことを心配してくれるのって、この世界でお姉ちゃんだけだってずっと思っていたんだ」
「……」
「でも……、さっきね。あんなボロボロの格好で帰ってきた私を見て、お燐とお空はすごい心配そうな顔して『大丈夫ですか?』『怪我はないですか?』って聞いてくれたの。そんな二人を見た時に、ああ私ってほんとばかだなあって思った。私のことを気にかけてくれているのは、お姉ちゃん以外にもちゃんといたんだって、その時初めて気付けたの。なのに私ったらそんなことにも気付かないで、勝手にみんなに嫌われていると思って、お姉ちゃんやペットのみんなの優しい心を見ないで覚りの目を閉ざして、いっぱい迷惑かけて、いっぱい心配させて……、本当にごめんなさい」
嫌なものばかり見えて、嫌なものばかり聞こえて、世界は嫌なことばかりだと、当時の私はそれだけに囚われていて、本当に大切なものがすぐそばにあったことにすら気付けなかった。
そしてそれに気付くのに長い長い時間を要してしまった。後悔してももう遅すぎるのだけれど、今はただただそれが悔しかった。
そんな私の言葉を静かに聞いていたお姉ちゃんは、柔らかい微笑を鏡越しに浮かべた。
「過ぎた事をとやかく言うつもりは私にはないわ。けど……、こいしがその事に気付いてくれただけで、お姉ちゃんは嬉しい」
「お姉ちゃん……、ありがとう」
お姉ちゃんの口から出たのは、その優しい表情と同じくらいの優しい言葉だった。
そして、お姉ちゃんは鏡越しに私の顔を見つめて、何やら思案顔になった。
「どうしたの?」
私の顔に何か付いていたのだろうか。一緒になって反射して映る自分の顔を覗き込んでみる。顔にちょっと泥が付いているくらいで、何かおかしなものは特に付いてないように見えた。
私が自分の顔についての感想を思って数瞬の後、「うん、そうね」とお姉ちゃんが呟いて頷いた。
そして私に一つの提案を出した。
「他人の気持ちに気付けた今のこいしになら、私のペットの何匹かを任せても大丈夫かしらね……」
「ペット? お姉ちゃんの?」
コクン、とお姉ちゃんは頷いた。
「前々から考えてはいたの。無意識に生きているあなたの心を、少しでも開くことは出来ないかと。今のあなたになら出来ると私は思うのだけれど……、どうかしら? やってみる?」
それが、私に自分のペット数匹の世話を任せる、ということらしい。
フラフラと目的もなく今まで過ごしてきた私に任せられなかったことが、今ならば大丈夫だとお姉ちゃんは判断したようだ。
お姉ちゃんの信頼に応えない理由は、まったく無かった。
「……うん、頑張ってみるよ」
「頑張ってね、こいし」
私の快諾に、お姉ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
お姉ちゃんは私が第三の目を閉ざしてからも、何とかして私の心を取り戻そうと考えてくれていたのだ。
私はとにかくそのことが嬉しくて、お姉ちゃんに振り向いて力いっぱい抱きついた。
お姉ちゃんはちょっと苦しそうにしながらも、ぽんぽん、と私の頭を優しく叩きながら抱き返してくれた。
「もう……、この子ったら。まだ髪の毛も身体も洗ってはいないのよ」
「ありがとう……ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ……、姉妹なのだから。ほら、洗うから座りなさい」
「……うん」
お姉ちゃんが蛇口を捻って、勢いよくお湯が私とお姉ちゃんを打ちつける。
「さぁ、綺麗にするわよ!」
「えへへ……、お手柔らかにお願いします」
そうしてお姉ちゃんの手によって、私はすっきりさっぱり綺麗にされた。
私の心に纏わりつくように溜まった澱も、少しだけ洗い流されたような、そんな気がした。
その日の内に帰ることもあれば、一週間経っても帰らないこともある。
まぁ私は空気みたいなものだし、いようがいまいが誰も気付かないだろうし心配もしていないだろう。
そういうのはお姉ちゃんにだけ思ってもらえればそれでいいや。
こんな能力を操れるようになって周囲と隔絶しても、お姉ちゃんとだけはずっと繋がっていた気がした。姉妹だからなのかな。そうだとしたら何だか嬉しいな。
ああ、お姉ちゃんのことを考えたら地霊殿に帰りたくなってきた。うん、ここで遊ぶのももう飽きたし、そろそろ帰ろうかな。
「ただいまー」
どうせ返事もないだろうと分かり切っているのに、ついついいつものクセで言ってしまう。私は礼儀はきちんと守る妖怪なのだ。
それにしても……、この地霊殿の扉は無駄に背が高いなぁといつも思うんだよね。私の身長の2倍はある。地霊殿にこんな扉を屈んで入らないといけない子なんていないだろうに。
「きっと意味なんて無いんだろうなぁ……っと、うわわっ!」
「ギニャッ!!?」
とりあえずキッチンに行って夕食の残りでもつまんでこようかと思った矢先に、何かに引っ掛かって顔面から盛大にこけてしまった。それと、何かの悲鳴が聞こえた気がする……猫的な悲鳴が。
「いたた……」と呟きながら身体を起こして振り返ってみると、案の定猫がいて悶絶している。
彼女は普通に歩いていただけだったろうけれど、そこへ無意識で行動していた私の足が彼女の腹を蹴りつけてしまったようだ……可哀想に。完全に不意打ちだった。
そんな風にどこか他人事のように思いながら彼女、火焔猫燐の側にしゃがみ込んで「大丈夫? お燐」と声を掛ける。
お燐は彼女の愛称だ。お燐は自分の愛称を大層気に入っているようで、周囲に自分のことをそう呼ぶように言っている。私やお姉ちゃんもその例に漏れない。
心配して彼女を見下ろしていると、よろよろとお燐が立ち上がる。ちなみに、今の彼女は猫の姿をしている。
そして、自らを蹴り上げた張本人である私を見上げた途端にぎょっと目を見開いた。
どうしたというのだろうか。あぁ、もしかしたら返り血でも着いていたのかな。ついつい無意識に誰かを殺っちゃったのかもしれない。
過去に何度かそんなことをやらかしていたので、今回もそれかな、と思い至った私は自分の服を見てみる。
「ありゃりゃ」
幸いなことに見下ろした自分の服に返り血などは着いていなかったものの、あちこちが破れてしまっていて、これをファッションと呼ぶには憚れるほど酷い有様であった。ブラとか見えちゃってるし。
誰にも気付かれずにここまで帰って来れたのはいいが、自分でもこんなことになっているとは気付かなかったことを、この場合問題にすべきだろう。無意識ってこわいなぁ。
「こ、こいし様! どうされたんですか!? お怪我はありませんか!?」
いつの間にか人型に変化していたお燐が、サバイバル感剥き出しの私の身体をまさぐりながら言葉を掛ける。
「私は大丈夫よ、お燐。それよりあなたの方こそ平気なの?」
特にどこかに痛みは感じなかった。あるとするならば、今し方ぶつけた鼻の方だ。
私でこれならば、むしろ私に蹴られたお燐の方こそ痛い思いをしたんじゃないだろうかと思った。
「実はすごい痛いです……って! あ、あたいのことは気にしなくとも平気ですから!」
つい本音をこぼしてしまったお燐だったが、そりゃそうだろうなぁと納得出来た。
私ならもっと文句を言う。ただお燐から見れば、私が主人であるお姉ちゃんの妹だということで、痛みをぐっと我慢しているのだろう。主従関係の悲哀を垣間見た気がした。
「怪我はしていないようですね……良かったです。でも随分と汚れてしまっていますからお部屋に戻られる前にシャワーを浴びた方がいいですね」
私の身体に傷などがないことを確認したお燐は、安堵してホッと一息吐いてから、私にシャワーを浴びることを勧めた。
私はお燐の提案に対して素直にコクリと頷いた。良い子だな、と思った。お姉ちゃんのことが羨ましくなった。
そんなことを思いながら浴場へと足を踏み出したと同時に「ぐぅ~」と盛大に腹の虫が鳴ってしまった。
「「あ」」
まったく自重しないお腹の虫の音に、思わず声が重なってしまう。
二人の間に何とも言えない沈黙の時間が生まれた。流石の私もこれはかなり恥ずかしかった。
「あはは、今回も随分と動き回られたんですね。じゃあ、シャワーを浴びられている間にあたいはご飯の用意をしてきますね」
「うん、ありがとう……ごめんね?」
「いえいえ、気にしないで下さいよ~。あ、でも着替えも用意しないと」
「え、着替えくらい自分で取りに行くわよ」
「いやいや、これもあたいらの仕事みたいなもんです。となると、あいつの手も借りないとな……お~~~い!! お空~~~!!」
自分だけでは手が回らないと思ったのか、お燐は援軍を呼ぶべく親友の名を大声で叫んだ。
かなりの声量ではあったが、地霊殿もそれなりに広い。地上にも大きな家がいくつもあったが、それらにも引けを取らない。
果たして声だけで届くものだろうか……、しんと静まり返ったエントランスでしばらく待っていると、通路の奥からバッサバッサと翼を羽ばたかせたような音が聞こえた。
次第にその音が近づいてきたところで、お燐に負けないくらい大きな返事が聞こえてきた。
「おり~~~ん!! 呼んだ~~~??」
そう叫びながら暗い通路から飛び出してきたのは霊烏路空。お燐の親友で、同じくお姉ちゃんのペットの地獄鴉だ。
火焔猫燐に『お燐』という愛称を考えたのは、彼女である。そして、空の愛称である『お空』はお燐が考え出したものだ。二人はとても仲が良かった。
鳥頭故か若干忘れっぽいおばかさんだが、持ち前の元気さと無邪気さでお姉ちゃんから良く可愛がられている。
「あ! こいし様だ! お帰りなさい!」
「ただいま、お空」
疾風の如く登場したお空は、私の姿を見つけて満面の笑顔を浮かべた。
そんなお空に私は軽く手を振って返す。
ほどなくして、お空も私のボロボロになった服に違和感を覚えたらしく、顎に人差し指を当てて小首を傾げる。
「うにゅ? こいし様、どうしたんですか……?」
まぁ、当然の反応だろう。
ただ、私としては特に怪我をしているわけでもなかったので、彼女に余計な心配をかけないように「大丈夫大丈夫」と言って笑い掛けた。
そうは言ったものの、流石に説得力が無さ過ぎだったのかお空は「本当に? 本当にどこも痛くないんですか?」と心配そうな顔をして、私の体のあちこちを触って確かめていた。
しばらくお空になすがままにされていると、「やれやれ」といった表情のお燐が手を二回ほど叩いて言った。
「ほらほら、お空。こいし様はお疲れなんだ。あんたがそうまとわりついてちゃあ、こいし様が身動きがとれないじゃないかい」
「うにゅ!?」
お燐に指摘されて、私に触れる手の動きがピタリと止まる。お空と目が合う。申し訳なさそうな顔をしている。
「大丈夫、気にしていないよ……心配してくれてありがとうね」
私はしょげたようにしているお空の頭をそっと撫でてあげてあげると、彼女は「うにゅぅ……」と気持ちよさそうな声を上げる。
目を細めて満足そうな顔をしているお空が可愛くてそのまましばらく撫で続けていると、お燐がこちらを見ていることに、ふと気が付いた。
私がお燐の目に合わせると、お燐は慌てて視線を逸らした。
どうやら私がお空にそうしているように、お燐も頭を撫でて欲しいようだ。
「おーりーん」
お燐を手招きでこちらに呼び寄せる。
それを見たお燐は嬉しそうに私の側まで来て、ずいっと頭を差し出した。
私はお空と同じようにお燐の頭を優しく撫でてあげる。
「お燐も心配してくれてありがとう」
お燐は「にゃぁあ~」とこれまたお空と同じく気持ちよさそうな声を出した。
二人の頭を撫でていた私は、お姉ちゃんがいつも二人にこうしている姿を何となく思い出していた。
それはとても温かい光景でいつもそれを眺めていた私は、それがとてもとても大好きだった。
しかし、その輪の中に加わろうという気は全く起きなかった。
ろくすっぽ家に帰って来ない、どころか能力のおかげで帰って来ていても気付かれない、そんな私のことを皆気味悪がっていたように思っていたからだ。
だがそんな考えも、私の勝手なイメージに過ぎなかったのかもしれない。考えを改める必要があることを、二人の頭を撫でながらそう感じた。
私が無意識の能力を手に入れる切欠は、周囲が私を拒絶したからだと自分では思っていた。
でも実際そうではなくて、私が周囲を拒絶したから覚りの能力を棄てていたのかもしれない。
だって、目の前にいるお燐やお空、そしてお姉ちゃんは、私のことをちゃんと気遣ってくれていたじゃないか。拒絶なんてしていない。
それなのに、私ときたら……。
「ほんと弱虫だなぁ……、私」
「えっ?」
「うにゅ?」
私の呟きに二人が反応する。
「ううん、なんでもないよ」
二人の頭から手を離す。何でもないことをアピールするために微笑を浮かべる。多分、微妙な笑み。意識してやるのはどうにも苦手だ。
二人が顔を見合わせてきょとんとしているところを見ると、やはり上手く笑えていなかったのだろう。今度、鏡でも見ながら練習してみようかなあ。
そう心の中で自分への課題を課していると、お燐がまさに今思い出したように「あ」と声を上げる。
「こんなところで甘えている場合じゃなかったよ! ご飯の用意をして来なくちゃ!」
「ご飯? さっき食べたじゃん」
「ばーか! お空のご飯じゃない。こいし様のご飯の用意だよ」
お空は自分のご飯じゃないのかと、あからさまにしゅんとなってしまっていた。
そう言えば、盛大にお腹の虫が鳴いていたんだったな、私。
お空も元々お燐の手伝いのために呼んだのだっけ。
「ほら、お空! あたいがこいし様の夕食の支度に回るから、あんたはこいし様の着替えを用意してきな!」
「うにゅ……、わかった」
「着替えはそのまま風呂場に持っていきなよ。それが終わったら台所まで来てあたいの手伝いに回っておくれ」
「うにゅ……、わかった」
本当にわかっているのだろうか。露骨に重たい足取りでその場を後にしようとするお空。
廊下に達するまでそんな調子の彼女を見かねたお燐が、仕方ないとばかりに頭を掻く。
「まったく、しょうがない奴だよ……。ほらお空! 後で温泉玉子作ってやるからシャキっとしな!」
「うにゅ! わかった!」
お燐の言葉に途端に元気になる。くるりとこちらに振り向いたお空は満面の笑みを浮かべている。あれくらい単純になれると人生楽しいんだろうな。
「えへへ……、お燐大好き!」
「んにゃっ!? い、いいから早く行きなっ!」
完全に不意打ちのお空の言葉に、顔を真っ赤にして追い払った。
お燐は「やれやれ」だの「まったくあいつは」だの何事かをひたすら呟いている。気恥ずかしいのだろう。
私は二人のやり取りを見て、とても微笑ましい気持ちになっていた。その思いを、表情に上手くトレース出来ているか、努力はしてみたがいま一つ自信はなかった。
人知れずそんな奮闘をしている私に振り返ったお燐が、ばつの悪そうな顔をした。
「こいし様、あんまり笑わないで下さいよ……。じゃあ、あたいも台所に向かいますので。こいし様はそのまま風呂場に行って下さい。お空が3歩歩かなきゃあ、着替えを持って来てくれるはずなので」
そう残して、お燐も台所へ向かっていった。
しかし、お空はエントランスを抜ける段階で3歩歩いてしまっていたので、もし彼女が忘れてしまっていたのならその段階で立ち止まっていたはずだろう。
つまり何だかんだ言いながらも、お燐はお空のことをちゃんとわかっているし、信頼しているのだろう。
何だか、私とお姉ちゃんみたいだなあ。
それにしても……。
「笑えてたんだ……、私」
何だか少し嬉しくて、私は鼻歌混じりで風呂場へと向かっていった。
風呂場には先客がいた。
「あら、こいし。帰ってたの?」
「ただいま、お姉ちゃん」
ちょうど、お風呂に入るつもりだったのだろう。お姉ちゃんは脱衣中で、具体的に言ってしまうと既にドロワ一枚の状態だった。
「おかえりなさい、こいし。あなたもお風呂ね?」
「うん。一緒に入ろう」
「いいわよ。それにしても外では随分はしゃいでいたみたいね……」
お姉ちゃんは上から下までボロボロになった私の服を見て、げんなりした表情になった。
「えへへ……、面目ない」
「そう思うなら少しは自重して頂戴。心配するこっちのことも考えて欲しいわ……」
そのまま二人で風呂場に入った。お姉ちゃんが一糸纏わぬ姿になる前に、私は全裸になっていた。脱ぐ、というより破り捨てる、という表現が適切な脱衣であった。
「今日はお姉ちゃんが洗ってあげますからね」
鏡を通して、私の後ろに膝立ちになったお姉ちゃんが、肩に手を乗せてふんふんと鼻を鳴らしている。どうやらかなり張り切っているようだ。
お姉ちゃんは地霊殿の外では嫌われていて、周囲の妖怪たちは近寄ってすら来ないけれど、中に住む私やペットたちの間ではかなりの世話好きで通っている。
お姉ちゃんはきちゃない子を綺麗にするのが大好きなのだ。そして今宵のターゲットは私に決まったらしい。こうしてお姉ちゃんとお風呂に入るのも久しぶりだ。
私はお姉ちゃんを背もたれにして身体を預ける。柔らかくて、温かくて、とても安心出来るお姉ちゃんの身体を背中いっぱいに感じる。
ついさっきまで、私はこの感触だけが私のことを想ってくれているのだと、そう思っていた。でもそうじゃなかったんだ。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なあに?」
私は先程のお燐とお空とのやりとりを思い出しながら、お姉ちゃんに話し始めた。
「私ね、私のことを心配してくれるのって、この世界でお姉ちゃんだけだってずっと思っていたんだ」
「……」
「でも……、さっきね。あんなボロボロの格好で帰ってきた私を見て、お燐とお空はすごい心配そうな顔して『大丈夫ですか?』『怪我はないですか?』って聞いてくれたの。そんな二人を見た時に、ああ私ってほんとばかだなあって思った。私のことを気にかけてくれているのは、お姉ちゃん以外にもちゃんといたんだって、その時初めて気付けたの。なのに私ったらそんなことにも気付かないで、勝手にみんなに嫌われていると思って、お姉ちゃんやペットのみんなの優しい心を見ないで覚りの目を閉ざして、いっぱい迷惑かけて、いっぱい心配させて……、本当にごめんなさい」
嫌なものばかり見えて、嫌なものばかり聞こえて、世界は嫌なことばかりだと、当時の私はそれだけに囚われていて、本当に大切なものがすぐそばにあったことにすら気付けなかった。
そしてそれに気付くのに長い長い時間を要してしまった。後悔してももう遅すぎるのだけれど、今はただただそれが悔しかった。
そんな私の言葉を静かに聞いていたお姉ちゃんは、柔らかい微笑を鏡越しに浮かべた。
「過ぎた事をとやかく言うつもりは私にはないわ。けど……、こいしがその事に気付いてくれただけで、お姉ちゃんは嬉しい」
「お姉ちゃん……、ありがとう」
お姉ちゃんの口から出たのは、その優しい表情と同じくらいの優しい言葉だった。
そして、お姉ちゃんは鏡越しに私の顔を見つめて、何やら思案顔になった。
「どうしたの?」
私の顔に何か付いていたのだろうか。一緒になって反射して映る自分の顔を覗き込んでみる。顔にちょっと泥が付いているくらいで、何かおかしなものは特に付いてないように見えた。
私が自分の顔についての感想を思って数瞬の後、「うん、そうね」とお姉ちゃんが呟いて頷いた。
そして私に一つの提案を出した。
「他人の気持ちに気付けた今のこいしになら、私のペットの何匹かを任せても大丈夫かしらね……」
「ペット? お姉ちゃんの?」
コクン、とお姉ちゃんは頷いた。
「前々から考えてはいたの。無意識に生きているあなたの心を、少しでも開くことは出来ないかと。今のあなたになら出来ると私は思うのだけれど……、どうかしら? やってみる?」
それが、私に自分のペット数匹の世話を任せる、ということらしい。
フラフラと目的もなく今まで過ごしてきた私に任せられなかったことが、今ならば大丈夫だとお姉ちゃんは判断したようだ。
お姉ちゃんの信頼に応えない理由は、まったく無かった。
「……うん、頑張ってみるよ」
「頑張ってね、こいし」
私の快諾に、お姉ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
お姉ちゃんは私が第三の目を閉ざしてからも、何とかして私の心を取り戻そうと考えてくれていたのだ。
私はとにかくそのことが嬉しくて、お姉ちゃんに振り向いて力いっぱい抱きついた。
お姉ちゃんはちょっと苦しそうにしながらも、ぽんぽん、と私の頭を優しく叩きながら抱き返してくれた。
「もう……、この子ったら。まだ髪の毛も身体も洗ってはいないのよ」
「ありがとう……ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ……、姉妹なのだから。ほら、洗うから座りなさい」
「……うん」
お姉ちゃんが蛇口を捻って、勢いよくお湯が私とお姉ちゃんを打ちつける。
「さぁ、綺麗にするわよ!」
「えへへ……、お手柔らかにお願いします」
そうしてお姉ちゃんの手によって、私はすっきりさっぱり綺麗にされた。
私の心に纏わりつくように溜まった澱も、少しだけ洗い流されたような、そんな気がした。
この空気は好きだなあ。
でも私はさとりさまはドロワじゃなくてぱんつ派だと信じてます。
私の理想の地霊殿にピタリとはまるものがあり、
表現などもすっと胸に入ってくるようで素敵です。
ほのぼのとした雰囲気が素晴らしいですね^^
暖かいお話ありがとうございました。
ありがとうございます。
タイトルに惹かれて読み始め、幸せな古明地を堪能できました。