※タグにもあるように、このお話は現代パラレルものとなっています。そのためキャラクターの設定が原作とは完全に異なっております。
また、百合要素も含まれています。そういった内容でも大丈夫という方のみ、お読み下さい。
1.
錆びついたフェンスを乗り越える、この瞬間がいつも一番はらはらする。
ここはまだ他の教室から見下ろすことが出来る位置にあるのだから、誰かの目に留まって後ろ指を指されてもおかしくない。倉庫が近くにある関係で、たまに体育教師が通りかかることもある。見つかったらきっと注意程度じゃ済まないだろう。私自身、日頃の行いは悪い方じゃないどころか優等生と言っても差し支えないだろうという自負はあるものの、なるべくならそのイメージを壊さず穏便な三年間を過ごしたいものだ。
周りに誰もいないのを充分確認してから、ローファーを歪んだひし形に引っかける。ぎぃ、と古びた音を立てるフェンスで出来た扉を乗り越え、コンクリートの地面に着地した所でほっと息を吐いた。
それからあちこち苔むしている、数段しかない狭い階段を上る。大丈夫、今日も誰にも見つからなかった。
階段を上りきれば、緑色の地面と二十五メートル×十三メートルの大きな窪みいっぱいに張られた水が広がっている。
その役目を終えて久しいプールサイドにはもちろん私以外の人間は誰もいなくて、それが私をひどく無防備な気持ちにさせた。大した広さでもないはずなのに、まるで広原の隅っこに立っているかのような。この世に私一人だけが取り残されてしまったような、そんな気分だ。
厳密に言えば人影はひとつ見えるのだけれども、私の言葉は間違ってはいない。「この世」にいるのは、今私だけだ。
「おまたせ」
そう声をかけると、飛び込み台の上に腰掛けてつまらなそうにぷらぷら足を振っていた人影がこちらを振り向いた。季節外れなせいであちこちに枯れ葉を浮かべている濁ったプールの水はそれでも、数えるのも嫌になるくらいのうろこ雲の群れを鮮明に映し出していた。ゆらゆらと不安定に揺れる水の表面には、彼女の姿はない。私は湿った緑色の感触を靴裏で確かめながら、やや早足に彼女の方へと近付いていった。
私が座ったままの彼女のつむじを見下ろすような形になった辺りで、ようやく彼女は顔を上げる。緩やかな癖を描く墨色の髪と、痩せぎすの身体を包むセーラー服。うちの学校の制服がセーラーからブレザーに変わったのがいつのことなのか、私はよく知らないけれど、ここ数年の間というわけではなかったはずだ。彼女が何期の頃の生徒だったのか、知りたいとは思いつつも未だに訊ねるタイミングを計り損ねている。
「遅かったね」
「日直。明日はもうちょっと早く来れるから」
「んー」
いつも通りの返事をして、彼女———村紗はふわあとひとつあくびをした。私はいつも通り村紗の隣にある、「2」と大きく書かれた飛び込み台に腰を下ろした。
「幽霊でも眠くなるの?」
「ならないよ? 夜の間はずっとここでぼうっとしてるし」
「でもあくびは出るのね」
「うん。息もしてないのにね。なんでかな」
大して不思議でもなさそうに村紗は言う。いつだって彼女は半袖の、多分夏服と思わしきセーラー服を着ていて、スカートから伸びている細い足だって何も履いてはいなかった。それでも寒さも何も感じないというのだから、息をしていないのにあくびが出ることくらいなんでもないのかもしれない。
目の前にいる少女の存在がどういったものか、未だに私は掴みきれていない。
幽霊であることは知っている。どういうわけか分からないけれど、私以外の人間には見えないらしい。例えば水泳の授業の時、他の生徒や教師が彼女の方にちらりとでも目を向けることはない。
私が初めてこの学校のプールに足を踏み入れた時から彼女はここにいたけれど、誰もそのことについて口に出したりしない辺り、少し変だなとは思っていた。だって絶対におかしい、一人だけ違う制服を着た少女がその格好のまま平然とプールに浸かっていたり、プールサイドを行ったり来たりしているのは。
そのことを口にすると、村紗はいつも唇をへの字に曲げて変な顔をする。
「それは私がおかしいんじゃなくて、一輪がおかしいのよ」
「なんでよ。どうして私なわけ」
「一人だけ私が見えてるあんたがおかしいの。そこそこ長い間ここにいたけど、一輪みたいなの初めてだし。霊感あんの?」
「ないわよ。今までに幽霊見たことなんて一度もない」
「じゃあやっぱり、一輪が変なんだわ」
それについていくつか反論の言葉を投げつけようかと思ったけれど、何を言った所で虚しくなるだけのような気がしてやめた。普通の学生なら部活や勉学や友人との遊びに精を出しているであろう放課後に、こんな所で幽霊少女と会話を交わしている辺り私も充分な変人のように思えなくもない。認めたくはなかったけれど。
小さな溜め息をひとつ吐き出して、自分で自分を抱くような格好で腕に手をやる。水面できらきらと反射する光を見ているとうっかり勘違いしそうになるけれど、もう夏はとうに過ぎ去って久しい。日が落ちるのも早くなってきたから、さっきまで圧倒的な青さだけを誇っていた空にも僅かな夕闇の匂いが混ざりつつある。
そろそろカーディガンが欲しい時期になるかなと考えていると、村紗がどこか深い水底を思わせる瞳をこちらにじっと向けていることに気付いた。
「何」
「寒いの?」
「少しね」
「もう随分感じてないから、あんまり寒いって感覚を覚えてないけど」
村紗はそう言ってからふいに立ち上がり、制服の裾を握る私の手のひらに腕を伸ばしてきた。
自分のそれと比べるとひどく白い、多分蒼白と言ってしまってもいいくらいのほっそりした手は、私の皮膚に触れることなく突き抜けた。痛みも感触も何もない。精巧に作られた立体映像のように、村紗の手は私の手を擦り抜けてしまっている。
「私じゃあったかくしてあげられないもんなぁ」
ぼそりと呟かれたその声が、まるで消毒液の匂いのように私の鼻をつんと抜けていった。
彼女の名前は村紗という。
名字らしい。下の名前は知らない。
私の名前は、雲居一輪という。
▽
友人と言えるのかも定かではない、この奇妙な少女と付き合うきっかけを思い返してみれば、およそ四ヶ月ほど遡ることになる。
村紗はたまにその時のことで私をからかう。平均的な女子高生に比べるとあまり笑わない彼女だけど、この話題を出している時は少しだけ意地悪そうに、綺麗な顔立ちをゆがめて笑う。
「だって、あの時の一輪の顔がさ……くくっ」
「もうそれはいいから。だって誰だって驚くでしょう、ていうか村紗が驚かなかった方がおかしい。話しかけられたの初めてだったんでしょ?」
「驚いてたわよ? 表情に出さなかっただけで」
平然とそんなことを言ってのけるのが腹立たしくて、軽く小突くふりをしてみたけれど「当たらないし」と村紗はにやにやするだけだ。私は諦めてそっぽを向く。
言葉で説明すれば単純明快、私達のクラスがプール掃除を行った際、私が彼女に話しかけたのだ。「どうしていつもここにいるの?」とひどく陳腐な台詞で。
だって疑問だったんだから仕方ないじゃないかと弁解したい。一年生の夏の水泳の授業で毎回目にしていた何やら怪しい少女が、二年生の六月になってもまだプールサイドにいるのだから、おかしいと思うに決まっている。疑問に思ったことはなるべく片付けたいタイプなのだ。もやもやしたままだというのは好きじゃない。女子には色々あるのだから、授業についてはいつも見学していたのだと思えばまだ納得出来たけれど(制服が違っていたり、そもそもうちのクラスの生徒ですらないという所は不思議に思っていたけども)、掃除の時間にまでせわしく動き回る生徒達をつまらなそうに眺めているというのはどう考えてもおかしいだろう。
そんなわけで本人に直接接触を試みてみたものの、当の彼女は無表情でありつつもお前は何を言っているんだ的目線を向けてきて私は少し苛々した。元々気が長い方ではないのだ。もう一度何か言葉を投げかけようと口を開こうとした瞬間、背後にいた友人が私に言ってのけたのである。
「誰もいないとこに話しかけて、どうしたの?」
あの瞬間の驚きを、多分私はしばらくの間忘れないだろう。
村紗が面白がっているのはこの時の私の顔らしい。確かに間抜けな表情をしていたであろうとは自分でも思うけれど、だからといって悶絶するほど笑うのはひどいと思う。はっとして振り返ってみれば目の前の少女は何やら俯きながら肩を震わせているし、どうしたら良いというのか。
「誰もいないって」とぱくぱく口を動かす私に、ひとしきり笑い終えたにも関わらずまだ表情に笑いの切れ端を張り付かせたままの彼女は、目尻に浮かんだ涙を拭いながら口にする。
「いや、だって私幽霊だし」
そうして唖然とする私の表情がツボに入ったのか、また声を抑えて笑い出した。
私と彼女の付き合いは、そんな、私にとってひどく面白くもない始まり方をしたのだ。
何年もの間誰とも会話をせず、何も食べず、限られた範囲から移動できないなんて私には想像もつかないけれど、村紗はそのことについては「慣れた」の一言でいつも済ませてしまう。そこで初めて、慣れざるを得なかったのだろうと私は想像して、自分の迂闊さを呪いながら口を閉ざす。
けれども村紗は大して気にしたような顔もせず、しみじみとした口調で呟いてみせるのだ。
「暇なのはもう諦めてるけどねえ。夏はまだマシだわ、ここも賑やかになるし。たまに気に入らないのがいたら足引っ張るけど」
「ちょっと、それ初耳。何それ、意地の悪い」
「別に溺れさせたりしないわよ。ちょっと引っ張って反応楽しむだけ。自分がされたこと思えば私は善人と言っていいくらいだと思うわね、うん」
「されたことって」
私の言葉に、「ほら」と村紗は自分の左足首を指で示してみせた。少し顔を近付けてみると、骨の浮き出た細い足首周りに、本当にうっすらと色の変色した跡のようなものが見受けられた。ひとつひとつは小さいけれど、そんな部分がいくつかある。先程の村紗の言葉に照らし合わせてみれば、なるほど、手形のように見えなくもない。
「私、足引っ張られて溺れて死んだんだって。言ってなかったっけ」
「初耳なんですけど」
「わお」
村紗はなぜか少し顔を明るくした。ここで楽しそうな顔をする意味が分からない。死ぬと感性もずれてしまうものなのかと私はうんざりした。
「制服のまま突き落とされてさ、プールの中にも三人くらいいて、沈められた。多分あっちは遊び半分のつもりだったんだろうけど、死んじゃったのよね」
笑顔でそんなことを話すものだから、軽い混乱によって私の頭が一瞬固まる。それは、笑って話せるようなことじゃないだろう。しかし村紗は何でもないような顔で続ける。
「一輪もいきなり呼び出されても付いていかない方がいいわよ? 私じゃ助けてあげられないし」
「そんな恨み買うようなことしてないわよ……」
「でも制服のままでまだ良かったかな。授業の時とかじゃなくて。寒くないにしてもさすがにずっと水着姿は嫌かも」
まあそれは、と言いかけてそういう問題でもないなと思い返してやめた。少しずつ村紗の思考に染められてきているが、もしかしたら私はあっちの世界に引きずられているのかもしれない。
幽霊といえば生きた人間を道連れにするイメージが強いけれど、環境を考えれば村紗がそういった行動に出たっておかしくはない———そう思って一瞬だけ寒気がしたけれど、いやそれは絶対ないなと小さく首を振った。
村紗が本当に誰かを道連れにしたがっていたとしたら、反応を楽しむ程度じゃなく誰かの足を引っ張って溺れさせていただろう。この学校のプールで誰かが溺れ死んだというのは耳にしたことがないし、第一毎日のように顔を合わせている私相手にだって、殺す機会なんていくらでもあっただろうに。
村紗は多分、本当に誰かを道連れにする気なんてない。少なくともさっきの口ぶりでは、自分が死ぬ原因になった相手を恨んでいる様子すらも見て取れなかった。単に長い時間が過ぎて、その気がなくなっただけかもしれないけれど。
そこまで考えて、ふと私の脳裏に疑問がひとつ浮かんできた。
「て、いうか」
「うん?」
「足、引っ張れるの? だって村紗、触れないじゃない」
何度か試してみたけれど、私から村紗に触れようとしても、村紗から私に触れようとしても、いつも私達の身体は相手を擦り抜けてしまう。水面にも映らないことから分かるように、彼女の身体は幽体なのだから仕方のないことなのかもしれない。しかし足を引っ張っていたとはどういうことなのか。
ああそれね、と村紗は前置きしてから続けた。
「自分でも不思議なんだけど、触れるのよね……。例えば足とか腕を引っ張るのは出来るんだけど、水中でただ誰かに触ろうとしても無理。まあ一応未練のせいで成仏できなかった幽霊だから、その未練を晴らすのに繋がるような行動でなら生きてる相手に触れる……んだと思ってるんだけど、どうなのやら」
「要は、相手を溺れさせるのに繋がる行動ってこと?」
「多分。便利なのかそうじゃないのか分からないね」
別に誰も溺れさせる気なんてないんだけどな、とぽつんと村紗が呟く。少し強めの風が吹いて、プールサイド一帯を囲む茂みと水面を揺らしていく。それに気圧されたわけでもないが、私は開きかけた唇を閉じて黙り込んだ。
村紗の顔色が悪いのはいつものこととしても、表情が翳っているわけでもないのにその胸中が窺える気がして、やや目線を落とした。底の青色が透けて見える、まだ残り風で僅かに揺らぐ水面を眺める。真っ直ぐに村紗の顔を見られる気がしなかった。
もしも私以外の人間にも村紗が見えたのなら。溺れさせる目的以外ででも、村紗が誰かに触れることが出来たのなら。
村紗は長い間一人きりでいることもなかったのかもしれない。例え私が村紗とこうして話すことが出来なくなったとしても、そっちの方が良かったんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、急に目の前に村紗の顔が迫ってきてびっくりした。隣に座っていたはずの村紗が、いつの間にか水面に立っている。生きた人間では到底出来ない芸当をしながら、村紗は目を細めて私の顔を覗き込んでいた。
「一輪、顔暗い」
「そうかな」
「そうよ。似合いもしないんだからやめなって。いつもの阿呆面はどうしたの」
「あのねえ」
文句を言いかけた途端、村紗が私の頭上辺りに手をかざした。何をされるのかと上を向こうとすれば、「動かないで」と釘を刺される。仕方なしに上目遣いに視線を向けてみれば、村紗は私の頭に触れるか触れないかのぎりぎりの位置でゆっくりと手を動かしていた。
「……何してんの」
「撫でてみた。感触ないのが寂しいけど」
私だけ考え込んでしまって馬鹿みたいだと思えるほど、いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのける。それから、村紗の口元がふと綻んだ。彼女がそんな笑い方をするのは初めて見るかもしれない。微笑みと形容するのが正しいようなその表情はいやに優しげで、私は本当の馬鹿みたいに、ただそんな村紗を見上げていた。
「よく分からないけど、私なら大丈夫だから。一輪がそんな顔することないんだって」
「……別に、そういうのじゃ」
そんなふうによく分からない返事をする私の頭を、村紗はぽんぽんと軽く叩いてみせる。もちろんそれも振りだけで感触はない。ただ、村紗に触ることが出来たらどんなにいいか、今の瞬間ほど私が願ったことがあっただろうか。村紗のためだけじゃなくて、私のために。
多分骨張っているであろう彼女の手のひらの感触を想像しながら目を閉じる。そうでもしないと、今自分がどんな表情をしていればいいのか分からなかった。きっと上手く笑うことも、ちゃかすことも、怒ることも出来ないだろう。何年もの間幽霊として存在してきた彼女と比べれば、そう長い時間を生きているわけでもない私は、こういう時にどうしたらいいのかが分からない。泣くのが一番正しいのかもしれない。
村紗に頭を撫でられながら、私は思考の半分を使ってそんなことを考え、またもう半分で別のことを考えていた。
馬鹿げた考えだと自分でも分かっている。村紗に言えば嫌な顔をされてしまうかもしれない。ただそれでも、一度浮かんできたそれが奇妙な重みをもって私の脳みそにぺったりと張り付き、思考回路に直接囁きかけてくるのを感じていた。
村紗に触れられるのだというなら、溺れるのも案外悪くないんじゃないか、なんて。
2.
「一輪」
名前を呼ばれる。
突き出されたものをノートだと認めるのに、というか私に向かって突き出されているのだということを自覚するのに、少し時間がかかった。
「なにぼーっとしてんの」
「ん、ごめん。何だっけ」
「借りてた古典のノート。ありがと」
生返事をして薄っぺらいそれを受け取る。友人は小首を傾げ、目を細めながら私に訊ねた。
「眠いの?」
「眠いわけじゃないんだけど……」
答えた後に時計に目をやる。もう放課後か、と私は小さく伸びをしながら思った。あまり好きでもない教室の喧騒が最近はやけに遠く感じられて、気が付けばもう一日の終わりを迎えようとしている。授業の内容なんてこれっぽっちも頭に残っていないのが不安ではあるけれど、試しにいくつかのノートを捲ってみればちゃんと板書が写してあった。無意識というのは恐ろしい。
受け取ったノートを鞄に放り込んで、椅子を引いて立ち上がる。友人がふと思い出したように「そうだ」と手を打った。
「試験近いし、今日どっかで勉強会しようかって話出てるんだけど、一輪も来なよ」
「んー……今日はやめとく」
「用事? 最近多くない?」
「うんまあ、色々と」
そう言うと友人はやや不服そうな表情になったもの、すぐ諦めたように「仕方ないか」と呟いた。僅かばかりの罪悪感を覚えて「ごめんね」と一応本心からの謝罪を述べる。友人は笑って私の机を離れていった。
その友人が別の生徒と合流して教室を出て行く様を寂しく見送りながら、どうして自分は毎日のように村紗の元を訪れることに躍起になっているのだろうと考えた。村紗が退屈しているであろうと決めつけて足繁く通ってはいるものの、向こうから頼まれたことは一度もない。日常生活を疎かにしてまであのプールサイドに向かうことが、正しい行動であるのかいまひとつ自信は持てなかった。
しかしそこまで考えても、じゃあ今日から会いに行く回数を減らそうかという考えにまで至らない自分に溜め息をつく。何だかんだで、私が彼女に会いたがっているというのが一番の理由なのかもしれない。
どうしてなのか、自分でも分からないけれど。
今日も天気が良かった。いつも通りに緑色のフェンスを越え、プールサイドに足を踏み入れるとやっぱり村紗がいた。
「おはよう」
「おはようって時間でもないけどね」
もう冬特有の乾いた空気が辺りに漂い始めている。さすがにプールの水も緑色になって、何かが潜んでいてもおかしくないような不気味さをたたえていた。私が飛び込み台に腰掛けて鞄を脇に置くと、村紗が身体をこちらに向き直す。冬服に衣替えを済ませた私と違い、当たり前ながら村紗は夏服の半袖セーラーという格好のままだった。袖から伸びる腕がひどく寒そうに見えるけれど、村紗は平然としている。
私がごそごそと鞄を漁り、弁当箱を取り出した所で村紗は眉をしかめてみせた。
「なにしてるの」
「今日はここでご飯食べる。昼に委員会があって食べ損ねたから」
「それは嫌がらせのつもりですか」
「全然。だってお腹減らないんでしょ?」
「そりゃそうだけどね……」
気の毒だとは思うけども空腹には勝てない。包みを解き、頂きますのポーズをした後私は弁当箱の蓋を開いた。友人達は弁当箱を開ける瞬間が楽しみだと言うけれど、私の場合自分で作っているからそんな楽しみなんて味わったことはない。母の料理の腕がどうこうというわけではなく、単に親が忙しい身だから自分で出来ることくらいは自分でしようと心がけているだけだ。味はそう悪くはないと思っているのだが、どうなのだろう。
もそもそと卵焼きを頬張りながらふと目をやると、村紗は珍しくそわそわした様子で私の弁当箱を覗き込んでいる。
「いいなあ。美味しそうだなあ」
「ちなみに作ったの私ね」
「料理出来るのねえ一輪は。家事駄目なのかと思ってた」
「あのね、勝手なイメージ持たないでくれる」
褒められたのかけなされたのか分からないから、とりあえず睨んでおいた。村紗はまだ名残惜しそうに私の弁当箱に詰まっている、ご飯やらコロッケやら里芋の煮付けやらおひたしやらを眺めていたけれど、諦めたように目を逸らす。そうして少し不貞腐れたように口を尖らせながら「前から思ってたんだけど」と口にした。
「うん」
「一輪って友達いないの?」
飲み込もうとした里芋が変な所に入り込み、私は激しく咽せた。
「図星か」
「違うわよ!」
「だってねえ。よく分からないけど、高校生って放課後に友達と遊んだりしないの?」
「うっ」
「確かに私と違って一輪は社交性はありそうだけどー。毎日こんな所来てたら友達なくすわよ? いいの?」
村紗はそこまで言ってから「死んだ人間より生きた人間大事にした方がいいよ」と付け足すように呟いた。私はどうにかこうにか咳を押さえ込みながら、むっとして村紗を見つめる。そんな言い方はないだろう。
「なにそれ。暗にもう来るなって言ってるの」
「そうじゃなくて。私は人生の先輩として一輪のこと心配してですね」
「私が来たいから来てるの、何が悪いのよ。それとも村紗は私が来ない方がいいわけ? ずっとここで一人でいた方が楽しいの?」
早口で捲し立てると村紗は黙り込んだ。しまったと思い口をつぐんだけれど、村紗は頬杖をついて俯いてしまう。小さめの顔を癖のある髪が縁取って、淡い影の溜まりを作り出している。黒い瞳がどこでもないどこかへと向けられていた。彼女の身体に触れようとする度に湧き上がる思いが、私の頭の中をふっと横切る。ああ、やっぱり村紗は幽霊なんだなあと。
「……んなわけないじゃん」
消え入りそうなその声に、素直に頭を下げた。
「……ごめんなさい。ひどいこと言った」
「いいよ。元々は私が変なこと言い出したからだし」
そう言った村紗の口調は、もういつも通りのそれに戻っていた。罪悪感の切れ端のようなものを胸の内に引っかけつつも、「ううん」とだけ私は口にする。村紗はどこか面倒くさそうな表情で頭に手をやり、もどかしそうに左右に振った。
「あー、話題変えよう。うん」
「じゃあ、私から。いいかげん下の名前教えてよ」
「パス」
「何でー?」
理不尽さに私は声を上げる。時々忘れそうになるとはいえ、「村紗」はあくまで名字なのだ。今更他の呼び方にするというのも何だか変な気もしたけれど、別に知っておいて損なことでもないだろうに。しかし村紗は整った眉をひそめて、
「嫌いなのよ。変だし」
「変なの?」
「ていうか、聞き慣れない。私が嫌な連中に目付けられるようになったそもそもの原因だし」
「名前が?」
「そう」
「難儀な人生送ったのねえ……」
私の名前もそう多く見かけるわけではないけれど、だからといってそれに難癖付けられたことはない。というか、周囲には絶対に他では見かけないような摩訶不思議な名前を持つ友人だっていくらかいるけども、たまにからかいこそすれそれを理由に嫌がらせをしようなんて思わない。もっとも、時代のせいもあるかもしれないが。私達の世代ならそれなりに突飛な名前でも笑ってすまされるけれど、村紗が生きていた頃はそうではなかったのだろうか。
村紗はどこか苛々した様子で、特別長くも短くもない自分の前髪を指で引っ張っている。本人にしてみれば面白くないのだろうが、あまり見慣れない村紗の様子に私は小さく笑いを洩らした。
「初見じゃ誰も正しく読んでくれないし。絶対別の読み方される」
「ふうん。じゃあ勝手に色々想像しておくわ」
「いいわよ。絶対に当てられない自信あるから」
それは楽しみ、と返しつつおひたしを飲み込む。少し薄味だった。次からはもう少し醤油を加えようと思いつつ残り少ないおかずに箸をつけようとすると、いつの間にか真横に立っていた村紗の腕がふわりと浮いて私の腕を掴んだ。
やっぱり感触はない。というか少し私の腕に村紗の指が入り込んでいる。いつ見ても奇妙な光景だ。
「一輪」
改まった口調で呼ばれて、何と私は返事をした。
「ひとくち」
「……食べられないでしょ?」
「いいから」
まあいいけど……と思いつつとりあえず箸で残っていた卵焼きを摘む。どうしたものか迷っていると、村紗が控えめに口を開いた。いつも何気なく誰かとやっている行為が、こんな時はなんとなく恥ずかしくなる。村紗は何も考えてはいないだろうに、何自分ばかり意識しているのか。
ぐっと手に力を入れて、慎重に卵焼きを村紗の口の中に運んだ。村紗が口を閉じるのを見計らって箸を離す。しかしやっぱりというかなんというか、卵焼きはそこに留まることなく村紗の身体を擦り抜けてぽとりと地面に落ちた。
僅かに砂利の付いてしまった卵焼きを見て、「あー」と村紗が切なそうに声を上げる。
「やっぱり無理だった……」
「だから言ったのに」
「……ごめん。おかずいっこ無駄にした」
「別にそれはいいから。……味もしなかった?」
「しなかった。味覚死んでるのかな」
村紗は地面に屈んで、名残惜しそうに落ちた卵焼きを拾い上げようとしていた。しかし白い指は相変わらず卵焼きを掴もうとしても突き抜けるだけで、僅かに動かすことすらも出来ていない。もう実体がないのが村紗の方なのか、卵焼きの方なのかすらよく分からなくなってきた。
あんまりにも村紗が悲しそうにしているものだから、私はいつだったか村紗がしてくれたように、村紗の頭の上に手を翳して撫でてみた。彼女の言葉通り、撫でているのに空気の感触しかないというのは寂しいものがある。
村紗は私のしていることに気付いたようだけども、何も言わずに三角座りの格好で自分の膝に顎を埋めた。
「……線香の煙とか食べられるんじゃない?」
「やだよそんなの、美味しくなさそうだし」
「じゃあ、箸立てたご飯持ってきてあげようか」
「それもやだな……」
不満そうに頬を膨らませて、村紗は恨めしげな視線を卵焼きに向けている。今が一番幽霊らしい顔つきをしているかもしれない。私は空になった弁当箱の蓋を閉じ、箸を戻す。
「きっと落ちた卵焼きは鳥が美味しく頂くことでしょう」
「羨ましい。さっさと転生すれば良かった」
「その前に成仏しなさいよ。何が未練なの」
私の言葉に村紗は困ったような表情になり、「自分でもわかんない」と肩をすくめてみせる。まあ、それが分かっていたのなら長い間ここに留まったままだということもなかっただろう。村紗が何もかもを忘れて成仏するというのは喜ばしいことなのかもしれないけれど、まだ、私はそのことについて考えたくなかった。今はこの時間をなるべく大事にしたい。
しかし、喋りながら弁当を食べていたせいでいささか時間をかけすぎた。完全に弁当箱を鞄にしまい込み、魔法瓶を取り出してお茶で一服し終えた時には既に、夕暮れの隅っこに絵具を混ぜたかのような濃紺が見え隠れしている。
私は鞄を背負い、長らく世話になっている飛び込み台から立ち上がった。
「そろそろ帰る。暗くなってきたし」
「冬はつまんないな。授業の水泳もないし、一輪は早く帰っちゃうし」
「長期休みにはなるべく来てあげるから。そしたら一日中話せるんじゃないかな」
さっきまで緑色をしていたプールの水は、黒々としてまるで底なし沼のように見えた。あるいは、夜の海。
その横で、村紗は薄く笑う。幽霊らしい青白い顔を愉快そうにゆがめて、
「暇人め」
「村紗に言われたくない」
そう返してから、「じゃあね」と言い残して私はプールサイドを後にした。村紗の手が暗闇の中に浮かび上がるようにひらひらと振られる。私も小さく手を振り返して、ひどく冷えたその手をブレザーのポケットに突っ込んだ。
手袋が欲しい。あとマフラーも。水場にいるからというわけでもないけれど、やっぱりこの時期に薄着は寒すぎる。ただでさえ空気が冷たいのだというのに、村紗の姿を見ていると余計肌寒く思えてくる。
吐き出した息が白く凍てついていくのを見ながら、それでも私の気分はそう悪いものでもなかった。本当のことを言えば、長期休みは例えば勉強だとか友人との付き合いだとか、それなりにすることは多いように思える。でもなるべく暇を見つけて、このプールサイドを訪れるつもりではいた。
もう開き直ってしまおう。村紗に会いたいのは、私の都合だ。一日の中で、友人と話す時間でもなく、退屈な授業を受けている時間でもなく、家族と過ごす時間でもなく、村紗と会うこの放課後の一時を、私は一番楽しみにしている。
そんなわけで、私は鼻歌でも歌いたいような気分でいつも通りフェンスを乗り越えた。別れを告げるこの時間帯への苦手意識は拭えないけれども、少なくとも明日は会える、多分明後日も会える。そのことが、びっくりするくらいに私の足取りを軽くさせている。
着地に失敗して足を捻ったことなんて些細なことなんだろう、うん。
▽
若干の不安はあったものの、試験はいつものように何の問題もなく終わらせることが出来た。
ようやく解放されたとばかりに連れ立って遊びに行く生徒達を横目に、私はもう何度越えたか分からないフェンスを上ってプールサイドへ侵入する。人の多い教室や校庭からこちらへと移動する度に、私はいつも奇妙な感覚に襲われる。同じ学校という敷地内にあるのに、どうしてこうも空気が違うのかと。例えば映画なんかでありがちな、トンネルをくぐったら違う世界が広がっていた、という感覚にも似ているのかもしれない。
幽霊が住み着いているという辺りもそれっぽいかもしれない、なんて思いながら階段を上がれば、村紗はいつもとは違い飛び込み台の脇に途方に暮れたように立ち尽くしている。その横顔はどこかうんざりしているふうにも見えた。
どうしたのかと私が近寄ってみると、村紗は私の方を向きつつ飛び込み台を指で示す。
「どうにかしてよ、これ」
村紗の指すお馴染みの「1」の飛び込み台の上に、見慣れない猫が丸くなって寝そべっていた。白と黒のぶち猫だ。重そうに太っている胴体といい、近付いてみても逃げようとせずふてぶてしい視線を向けてくる所といい、野良らしくない。第一よく見れば首にしっかりと嵌められているオレンジの首輪が、彼(顔立ちからして、おそらく彼)が飼い猫であることを声高に主張している。
ただぬくぬくと日差しを享受したいだけらしい彼は、私に対してその小さな灰色の瞳をうろんげに向けてきた。随分と人慣れしている、というか人慣れを通り越して図太くすらある。一般的に動物は霊がいる場所を嫌がると言うけれど、この猫は村紗が見えていないのだろうか? 単に猫にも鈍いのとそうじゃないのがいるというだけなのか、そもそも人間が勝手に言っているだけで動物も霊を知覚出来ないのか。
村紗は一旦は猫の方に向けた顔を再び私の方へ向け、
「どいてくれない」
と、暗に何とかするように訴えてきた。
私か。私なのか。
「別に他の場所座ればいいでしょ」
「癪じゃないそんなの、負けたみたいで」
「何変な所で意地になってるのよ……」
コンタクトが取れない猫相手じゃ、村紗に勝ち目はないというのに。やれやれと息を吐きつつ、私はそっと猫の前足の下に手を差し入れた。逃げるかなとも思ったけれど、まったくの無抵抗だったのでそのまま抱き上げる。そのまま私は隣の飛び込み台に座り、膝の上に猫を乗せた。猫は新しい寝床の感触を品定めするようにその場で足踏みながら半回転し、その後に私の膝の上で、さっきまでそうしていたように丸まった。
立ったままの村紗を見上げ、空いた飛び込み台を指してやる。
「ほら」
「やけに猫の扱い上手いね」
「家で一匹飼ってるから。猫の癖に、模様が虎みたいなの」
「へえ」
やけに興味なさげに簡素な返事をしてくるものだから、私はやや首を傾げながら「猫嫌い?」と訊ねた。私の場合、猫を飼いたいと言い出した母のように溺愛するほどではないにしろ、動物はそこそこに好きだ。
村紗はようやっと座れるようになった飛び込み台に腰掛けながら、どこか拗ねたような口調で言う。
「好きでも嫌いでもない。どっちにしろ触れもしないし」
「何拗ねてるのよ。そんなにお気に入りの場所取られたのが悔しかったの?」
「そういうのじゃないですしー」
はいはいと返事をしながら、そこそこに重い膝の上の珍客を撫でる。ごろごろ喉を鳴らすことはせず、かといって嫌がるわけでもなく、猫は目を細めて寝返りを打った。おおかた近所で飼われている家猫なのだろう。今までに顔を見たことはなかった辺り、何かの拍子に周りの茂みを越えて迷い込んで来たんじゃないだろうか。
この季節なので、動物特有の高い体温はちょっとありがたい。特に柔らかい腹の辺りの毛の感触を楽しんでいると、村紗が猫を凝視していることに気付いた。どうしたのかと訊ねてみれば、何故か感慨深そうに呟く。
「猫は、一輪に普通に触れるんだもんね……」
「別に猫に限らないわよ」
「知ってるって。ただちょっと改めて思い出しただけ。だってここ、いつも私と一輪しかいないし」
言われてみれば確かにそうだ。夏場ならともかく、水泳部の存在しないうちの学校ではシーズン以外には誰もプールに足を踏み入れようとはしない。村紗の話ではごくたまに用務員が積もった落ち葉を掃きに来るらしいが、平常授業が行われている時間帯の話なので鉢合わせたことはない。多分それは幸いというべきことなのだろう。
私の場合日常生活で、例えば家族や友人と身体が触れ合う機会は多いから、村紗と会っている時には彼女とその他の人間達との違いを意識せずにはいられない。気軽に相手の肩を叩いたり、手に触れようとすることが村紗相手には出来ないから。それについては、分かりきっているからもう半ば諦めてはいるけれども。
村紗は、私ほどこのことを意識してはいないのだろう。こんな言い方をするのは傲慢かもしれないけれど、村紗は私以外に生きている誰かと接することがない。だから誰かと誰かが触れ合う瞬間なんて、夏場以外には今日みたいなことでもなければ目に出来ないのだ。
何も抵抗してこないのをいいことに、わしゃわしゃと猫の喉元を撫でる。さっきまで薄目でどこかを見ていた猫は、目を閉じて眠ってしまっていた。おそらく可愛がられて、不自由のない幸せな生き方をしてきたのだろうと予感させる寝顔だった。ふてぶてしいけれど。
村紗が飛び込み台から立ち上がり、私の真横にしゃがみこむ。むっつりとした表情で眠っている猫を見つめ、不満そうに言った。
「可愛くない顔してる……」
「可愛いわよ。……太ってるけど」
「一輪は触れるから可愛いって思うのよ」
「そんなに触りたいの、猫? 好きでも嫌いでもないんでしょ」
私の返事に村紗は一瞬詰まったようだったけれど、続けて何かを言いたそうな顔をしていた。しかし億劫になったのか「まあそれでいいけど」とだけ口にする。
撫でたいのかそうでないのか分からないが、ともかく村紗は私のように猫を撫でることはせず、猫の鼻先をぴんと指で弾いただけだった。もちろん、触れられた感触のない猫は気付かずに眠り続けている。
「まったく、幸せそうな奴め」
村紗の声に反応したわけでもないだろうが、猫がぴすぴすと鼻を鳴らす。ついでに前足をくいくい曲げてみせた。
夢を見ているのかもしれない、うちの猫も寝ている最中にこんなふうに動いたり寝言を言ったりするから。それが微笑ましかったのか、村紗が溜め息混じりに笑う。参ったと言わんばかりに、負けを認めたかのように。
「お前はきっとめいっぱい愛されてきたんだろうね」
とても小さな声で「羨ましいよ」と聞こえてきたような気もしたけれど、それは本当に錯覚かもしれない。
日が傾き始める頃になって、猫は唐突に目を覚ました。足が痺れかけていたのに体勢を変えまいと気をつけていた私の努力なんてこれっぽっちも顧みず、猫は私の膝から緑色の地面に下りて大きくあくびをし、それから気持ち良さそうに四肢を伸ばした。
重しだったものが急になくなるというのは変な心持ちがする。今まで猫が乗っていた部分にはまだ仄かな熱のようなものが残っているものの、すぐに冷めてしまうだろう。少し惜しい気もするけれど仕方ない。
お腹でも減ってきたのか、猫は短い足でぼてぼてとプールサイドを横切り、意外な速さであっという間に破れたフェンスの穴をかいくぐったかと思えば茂みの向こうへと姿を消してしまった。妙に丸っこい後ろ姿を見ながら、村紗がうわあと声を洩らす。
「最後までふてぶてしい奴」
「また来るかな。家の煮干しか何か持ってきてあげたら喜ぶかも」
「そこまですんの……」
村紗が苦いものを飲んだような顔をするものだから、それが面白くて笑ってしまった。出会ったばかりの頃に比べて、ころころ表情を変えるようになってきた、というのは自惚れなのだろうか。言えば叱られてしまうかもしれないけれど、言わないまま自惚れさせてほしい。
「そうね、村紗に何か食べさせてあげる方が先だわ」
「線香は勘弁してよ。せめて箸立てご飯で」
「食べたらちょっとは太る?」
「いや太らないでしょ。死んでるし」
地面に落ちる影はだいぶ伸びていた。当たり前のようにそれは私の影だけで、村紗の足下にはまるで鋏で綺麗に切り取ってしまったかのように影が存在していない。いつものこととはいえやっぱりちょっと変な感じがする。
この間は結構長居してしまって家で心配されたから、今日は日が沈まないうちに帰ろうかと思いつつ鞄を手繰り寄せると、「帰んの?」と村紗が訊ねてくる。頷くと村紗はあーとかうーとか変な声を出し、何度か明後日の方向に視線を迷わせた後、言いにくそうに口を開いた。
「もうちょっとだけ」
「……いいわよ」
帰り際に村紗が引き止めてきたのは初めてだから、顔には出さなかったけども正直少し驚いた。
村紗は微かに息を吐き出して、無理言ってごめんと珍しく素直に謝ってくる。私は首を振り、持ち上げかけた鞄を今一度地面へと置いた。マーマレードみたいな色をした光が私の鞄を照らし、黒いそれを赤銅色に見せている。
夕焼けは好きだ。青白い村紗の肌に赤みを与えてくれるから。けれどもそれはほんの短い時間の幻想のようなものにすぎなくて、すぐいつも以上にその白さを際立たせることしか出来ない宵闇がやってくる。そのことを思うと、心臓を柔らかく締め上げられたように胸のうちが痛む。
けれども。
「分かった、村紗は妬いてるのね。猫に」
「ばぁか」
村紗が赤い頬を吊り上げて笑う。今ばかりは村紗が幽霊じゃなくて、正真正銘の、私と同じ生きた人間のように見えて。無意識にその剥き出しになった腕に触れようとする自分の手を、こっそりとまたポケットに捩じ込んだ。指先が冷えるからこんなことを考えてしまうというのなら、私は早急に手袋を買うべきなのだろう。先日思い立ったときにさっさと行動に移しておけば良かった。
いつものように私は何かを喋り出す。村紗がそれに相槌を打つ。
徐々に隠れていく夕陽を見ながら、こんな日々がいつまでも続きますようにと、いるかも分からない神様に私は心の奥底で願掛けをした。
ただ、同時に、少しまずいなとも思っていた。
村紗に触れてみたい、触れられてみたいという欲求が、風船のように私の中で膨らんでいくのを自覚していたから。
3.
季節は思っていた以上に目まぐるしくて、ほどほどに勉強したり友人と付き合ったり村紗と喋ったりしている間に春を迎え、そのうち新緑が目に眩しい時期になった。
当たり前だけれど、私もひとつ進級した。
「来週、プール開きだって」
私がそう言うと、村紗は「もうそんな時期なのかー」と大仰にリアクションを取ってみせた。村紗はさっきから緑色の地面に仰向けに寝転んで、空をぼうっと眺めている。何をしてるのと開口一番に訊ねたら、空見てたというひどく簡潔な返答が返ってきた。
「そういえばこの間、どっかの学年が掃除しにきてたっけ。ここ」
「村紗的にはどうなのよ、今回の掃除は」
「底の磨きが甘い」
「言うわね」
「なんかもう自分の家みたいなものだから。なるべく綺麗な方が嬉しいかな。たまに私も水入るけど、汚いと萎えるしねぇ」
そうは言っても、私はここしばらく村紗がプールに入っている光景を見ていない。私がまだ村紗を生きた人間だと思い込んでいた頃は、平気な顔で村紗はずぶずぶプールの中を歩いたり退屈そうに漂ったりしていた。要は一年時の水泳の授業の時だ。
不思議なことに、何も触れないはずの彼女の身体は、水から上がるとちゃんと濡れている。墨色の髪は濡れて額や首筋にへばりついているし、セーラー服も水気を含んで重そうに、かつやや透けている。あんな格好で恥ずかしくないのかと昔は疑問に思っていた。
彼女がその状態で歩けば、その跡には水が滴っている。以前「ナメクジが這った跡の筋みたいな」と表現したら怒られた。
しかし村紗のそんな姿を、最近はとんと見ていない。私がここに来ればいつだって村紗は「1」の飛び込み台に腰掛けていたし、水泳の授業の時にはプールサイドをふらふら歩きつつ、泳ぐ生徒達の姿を眺めている。村紗は誰かの足を引っ張ることもあると言っていたけれど、その現場だって私は見たことがない。私の前でしたら怒られると思っているのだろうか。怒るけれど。
「プール開き、ねえ」
村紗はそう呟いてごろんと寝返りを打った。その様子があまり面白くなさそうに見えたので、「どうかしたの」と訊ねてみる。夏はここが賑わうから、と言っていたのは他ならぬ村紗自身だ。
村紗はもごもごとしばらく口を動かした後に、はあぁと溜め息をついた。呼吸もしてないくせに、身体中の酸素を全部かき集めて吐いたような、そんな大きな溜め息だった。
「人恋しくなるし」
「なにそれ」
「夏以外の方が好きになったかも」
言葉の意味が掴みきれず、私は村紗の口が次に開くのを待った。しかし村紗は黙ったまま今度は上半身を起こし、胡座をかいてぼんやり空を眺めている。つられて私も同じようにしてみれば、冬場よりも確実に青さを増している空が目に滲みた。雲の流れが速い。
「一輪にはわかんないよ」
どこか投げやりな口調で村紗が口にした台詞の意味を、私はまだよく分かってはいなかった。
プール開きともなると、さすがに教室はその話題で持ちきりになる。
全員が水泳の授業を無邪気に楽しめるのなんて精々小学生までの話で、高校ともなると億劫に感じる生徒の方が圧倒的に多い。着替えも面倒くさいし、整えた髪が乱れるのも女子は嫌がる。かくいう私もそこそこの癖毛だから、あまり髪を濡らすようなことはしたくないけれど。泳ぐのが好きなわけでもないし、そんな私がひとえに水泳の授業を好いているのは、多分村紗がいてこそなのだと思う。
他の学年ではもう水泳の授業をやったクラスもあるようで、時々廊下を髪の濡れた集団がぞろぞろと歩いていく光景も何度か見た。彼らのことを村紗はどんな目で見ているのか。
「水泳、嫌だなぁ」
私の正面で菓子パンを齧っている友人は、プールなんて壊れてしまえと言わんばかりに憎々しげな口調で吐き捨てた。私としてはそれでは困るけども、別に泳ぐのが好きなわけではないというのは彼女と共通しているので、曖昧に頷きつつ弁当の焼き鮭を口に運ぶ。
「さぼれば?」
「さすがに単位落とすわけにもね……。なるべく休むつもりではいるけど」
「一輪はその辺りの要領いいから、一輪にタイミング教えてもらえばいいんじゃないかな」
私は苦笑して、ごまかすようにお茶をすすった。不真面目なわけでもないけれど、私は確かにちゃっかりしている所があるのは自分でも認める。ただどうすれば上手く物事が動くか、なるべく考えてやっているだけ。そのせいでそこまで多く勉強しているわけでもないのに、私の成績はいつだって学年でもそこそこ上の方だ。
他の友人が、紙パックの紅茶を吸いながら思い出したように目を見開く。
「ていうか、プールっていえばさ。聞いた?」
「何を」
「二年で、溺れかけた人いるんだって。別に泳げない子でもなかったらしいけど」
「足でもつったんじゃないの?」
「本人は、誰かに足引っ張られたって言ってるらしくて」
箸が、止まる。
力加減を間違えて、掴んでいたウィンナーがぽとんと弁当箱へと吸い込まれていった。
「……それ、本当?」
「後輩から聞いた。引っ張られて浮かび上がれなくて、もう駄目だって時に離されたらしくて」
「なにそれこわい」
「なんかいるんじゃないの。あるじゃん、そういうの」
怪談みたいな、と騒ぎ立てる友人達を視界から外して、私は一人喋るのをやめて思案に耽った。他の生徒の誰かがいたずらで引っ張ったという可能性だってなくはない。この年代なのだ、ふざけてそういうことをするような輩がいたって、別におかしいことでもなんでもないのだから。
けれどもそれなら、溺れかけた生徒は自分を引っ張った相手をちゃんと見ることが出来たはずだ。いくら水中で混乱していたって、自分の足を掴む相手の顔くらいは確認するだろう。「誰かに足を引っ張られた」なんて曖昧な物言いにはならない。
村紗、なのだろうか。
(……村紗しか、いないわよね)
大体溺れかけたとはいっても、ちゃんと直前に足を離されたと言っているじゃないか。村紗にしてみれば、それも「反応を楽しむ」範囲内なのかもしれない。やっていることは悪趣味だけど、彼女に本当に誰かを溺れさせようなんて意志はない。はずだ。
「一輪?」
黙り込んでしまった私に、友人の一人が声をかける。「あ、うん」と私は返事をして、しばらく手を付けていなかった弁当をまた食べ始めることにした。周囲の友人達はもうあらかた食べ終えてしまっていて、残っているのは私くらいのものだ。
元々食べるのが早い方でもないとはいえ、さすがにいつもより時間をかけすぎた。やけに味の薄いおかずをもくもくと咀嚼していると、右隣に座っている友人が「そういえば」と急に身を乗り出した。
「あたしがここ入る時に、親が言ってた気がする。うちの母さんもここの生徒だったんだけど、後輩の女の子で死んだ子がいたんだってさ。プールで」
今度こそ正真正銘に箸が止まってしまった。
微かに手が震えている気がする。それを抑えたくて指に力を込める。
震えは止まらない。どうして震えているのか、自分でもよく分からないが。
「溺れて?」
「よくわかんないけど、プールだしそうなんじゃないかな。家帰ったらもっかい聞いてみる」
「うわー。じゃそれじゃないの……? 足引っ張られた、とかさ」
「七不思議みたいだねー。ちょっと面白い」
「やだよそんなのいるとこで泳ぐの……いつ殺されるかわかんないじゃん……」
「えー、でも引っ張られただけで死んではいないんでしょ? ていうかその引っ張られたっていうのもなんか怪しいし」
「そうかなー」
「絶対そうだって、恨んで出てきてるんだよ。その子が」
「あほかっての。幽霊とか信じてるの?」
「でも、他に説明つかないじゃんか」
好き勝手に言い合う友人達の声が、まるでエコーがかかったかのように脳内で響く。聞き慣れている音声が変に捩じ曲げられて加工されて、いくつもいくつも混じり合って私の頭を直接揺らしているようだ。胃に入っていったばかりの食べ物が、そのまま逆流してきそうな不快感。圧倒的な怒りの感情だった。
おまえたちが村紗の何を知ってるんだと、そんな言葉をここにいる全員にぶつけてやりたかった。うっかり開いたら言ってはいけないことを口走ってしまいそうで、二つの唇をぎゅっと合わせる。それでも耳鳴りのような反響は止まない。大鍋で煮詰められてるみたいに、頭の中が熱い。
何だよ、面白いって。村紗がどんな気持ちでずっとあのプールで一人きりでいたか、欠片ほどでも知っているのか。村紗が誰かを恨んでるって? 勝手に決めつけるなよ。確かに今回のことが村紗の仕業だとしたら、それは決して褒められるようなことじゃない。でも、村紗は誰も恨んでなんてない。誰も沈めるつもりなんてない。
そしてなにより、村紗はちゃんとあのプールにいる。いつだって、あそこにいるんだ。
放課後、なるべく急いでプールへと向かった。
内心、やや焦っていたけれど。なるべくそれを出さないよう平静を装ってプールを訪れた私に、「一輪じゃん。お疲れ」と村紗はいつものように挨拶をしてみせた。いつもと何ら変わりのない、村紗がそこにいる。
「村紗……」
思わず小さくそう洩らした私の顔を村紗は不思議そうに覗き込み、どうしたの変な顔してと首を傾げた。私は口からこぼれそうになる言葉をぐっと喉元まで押しやり、変な顔は余計よと文句をつけた。
村紗は少し笑い、「これは失礼しました」とおどけた口調で言った。
やったのは村紗かもしれない。他の誰かかもしれない。もしかしたら、溺れかけた生徒は単に足がつっただけで、それを誰かに引っ張られたのだと勘違いしたのかもしれない。
どうだっていいだろう、と口の中だけで呟いた。もし村紗に訊ねて、それが私の思い違いだったとすれば、村紗を傷つける結果にもなりかねない。第一、その生徒は溺れたわけじゃない。確かに可哀想だとは思うけれど、なんともなかった。それでいいじゃないか。
村紗なら、どこまでしていいか悪いかのラインはちゃんと分かっているはずだ。自分が溺れて死んでしまったくらいなのだ、呼吸の出来ない苦しみは、誰よりも彼女自身が知っているはずで。
そう自分に言い聞かせ、私は今日もいつもの飛び込み台に腰を下ろした。
その四日後。
隣のクラスで、プールで溺れたのだという生徒が一人出た。
水を飲んで気を失ったらしい。体育教師が人工呼吸をして、ようやく意識を取り戻したらしい。
「誰もいないはずなのに、誰かに足を引っ張られた」と、その生徒は言ったそうだ。
▽
まだ夏と言ってしまうにはほんの少し早いような気もするけれど、日差しだけは紛れもなく真夏のそれだった。しかし夕暮れ時にもなれば日光も弱まり、少しは過ごしやすくなってくる。六割ほどの赤色を加えたような空は、今日も嫌になるくらい私達の世界の全てを覆い尽くしている。
息を切らせてプールサイドに駆け込んだ私に、村紗は珍しいものでも見るような目つきを向けてきた。
「なんでそんなに慌ててるのよ。誰かに見つかった?」
「……別に、誰にも」
「良かった。さすがにここ来れなくなっちゃうものね。一輪、割にそそっかしいとこあるから、そのうち誰かに見つかっていきなり来なくなるんじゃないかって心配してたんだけど」
「……村紗が、やったの?」
唐突な私の質問に、村紗は目を細める。
逆光で村紗の表情の細部が見えない。ただ戸惑っているようにも、驚いたようにも見えなかった。
「隣の教室で、今日、溺れた人が出たんだって」
「ふうん」
「気失ったって言ってた。誰かに、足、引っ張られて」
村紗は頬杖をついて、立ったままの私をじっと見上げた。温い風が吹いて、私の髪とプールの水面を揺らしていく。村紗の髪は揺れない。村紗に何か影響を与えることが出来るのは、世界中どこを探してもこのプールの水以外には存在しない。それはひどく、もどかしいことだけれど。
村紗の口が動く。いつもとまったく変わらない、あっさりした口調で言う。
「私だっていうなら、一輪はどうしたいわけ」
ああもう、と歯噛みしたくなる。
だって、それは。
それは肯定だろう。
「……怒る」
「どうやって? 言葉で言われたって、別に何ともないよ私は。殴る? 無理だよね。触れないし」
「誰かを溺れさせる気なんてないんじゃなかったの」
「いいでしょ、殺してはいないんだからさ」
ぎりぎりと歯車がずれていく音を脳裏に聞いた。何かがおかしい、噛み合ってない。
私は大きく息を吐き出し、拳を握った。昔から、すぐ手を出してしまいそうになるのが私の悪い癖だ。もちろん自制するようにしているけれど、ごくたまにどうしようもなく相手を殴りつけたい衝動に駆られる時がある。そしてそれが、今だった。
けれども、殴っても仕方ない。第一殴れない。相手は幽霊なのだから。
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何よ。殺した方が良かったの」
「そんなわけないでしょ!」
「一輪は、私にどうしてほしいのよ」
いつの間にか、村紗の瞳が剣呑な光を含んでいた。いつだったかここで見た、夜のプールを思い出す。何者かを潜ませているような黒色。夕闇の中で改めて真正面から覗き込む村紗の双眸は、どこか緑色に輝いているようにも見える。
なんだこれ。いつもの村紗じゃない。
「私は殺されたのよ。水に引きずり込まれて殺されたの。私が誰かをそうさせたっていいでしょ」
「いいわけないじゃない。村紗、どうしたのよ。最近絶対おかしい」
「おかしくなったとしたら、一輪のせいじゃない!」
村紗の叫び声がびりびりと空気を伝い、私の鼓膜を振動させた。まるで突然の高波に襲われたみたいに、意識がぐらつき、村紗の言葉が私を飲み込む。彼女の声がまるで私の内側で反響しているみたいだ。ピンポン球みたいにずっと跳ね回って、その度にぶつかった場所が赤く腫れ上がる。湧き出た膿みの熱さに、火傷してしまいそうだ。
村紗は今なんて言った? 私の言葉を暗に肯定した。でもそれだけじゃない。誰のせいでこうなったって言った?
私が悪いのか。私が。
村紗の表情が、奇妙にゆがんだ。
それはまるで、人混みで親とはぐれた子どものようで、
「さびしいの」
そんな、やっぱり子どもみたいなことを、村紗は口にした。
「もう死ねないけど、死ぬほど寂しいのよ。ここで大勢の奴らが楽しそうに騒いでるのが、どうしようもなく羨ましいの。だって私は死んじゃってるのよ。もう私は二度とあいつらみたいにものを食べたり、誰かに触ったり出来ないの。
あいつらはこれからどこへだって行けるけど、私はこのプールの中からは二度と出られないの。あいつらはいくらだって一輪に触ったり触られたり出来るけど、私はそうじゃないの。どんなにあんたに触りたくても、出来ないのよ。あいつらがどれだけ自分が幸せな立場にいるか分かってないから腹が立つの。妬ましいのよ。
……全部一輪のせい。私だって、こんなふうに最初から誰かれ構わず嫉妬してたわけじゃない。あのプールで死んで幽霊になったその時から、生きてる奴らは羨ましかったけど、しょうがないことだって自分に言い聞かせてたの。だってまさか殺すわけにもいかないでしょう。そんなの、私を殺した奴らと一緒になるじゃない。だから誰も意識しないようにしてたのよ。あいつらからは私が見えないのに、私はあいつらを見られるなんて理不尽だって思いながら、それでも嫌な感情全部、ようやっと忘れられそうだったのに。
……他の誰でもなく、あんたに引き戻されたの。
幽霊なのよ。誰かを道連れにしたいって思ったっていいじゃない!」
最後の方は、半ば悲鳴が混ざっていたようなものだった。
私も村紗も、何も言わなかった。およそ一メートルしかないはずの互いの間の距離が、どうしようもない隔たりとなってしっかりとそこに腰を据えてしまっている。もう日が沈もうとしていた。村紗は自分で言ったことに自分で傷ついたような顔をして、手の甲にもう機能していない血管が浮かぶくらいに強く、ぎゅうとスカートの裾を握りしめていた。
微かな手の震えを隠したくて、私はまた手のひらを丸く握った。四本の指を折り畳んだ後に、上から親指でその全てを押さえつけるように。誰かを殴りつけるための拳を作っておきながら、私はただ木偶の坊みたいに立ち尽くして村紗を見据えた。違う。今は村紗を殴りたいわけじゃない。
言いたいことは分かったよ、村紗。
ずっとここに一人だったんだものね。それを私が変に引っかき回しちゃったんだ。村紗のことが分かってなかったのは私の友人達だけじゃなくて、私もだったんだ。私が中途半端にこっち側の世界を持ち込むものだから、境界に立ってる村紗はどうしたらいいのか分からなくなって、長い間一人で悩んでたんだろう。まるで足に錨が括りつけられたみたいに、浮かび上がれずに水底でうずくまってたんだろう。それに気付かずにいた私は大馬鹿だって、本心からそう思う。
でも。
寂しいのは、何も死んでる方だけじゃあないんだよ。
「寂しいのが自分だけだなんて、思わないでよ」
私の言葉に、村紗は空ろな双眸をこちらに向けた。置いてきぼりにされた子どもが泣きつかれて、ようやく誰かに声をかけられた時みたいに、疲労と諦観と不安を全部一緒くたにして混ぜ込んだような表情だ。私は一歩、二歩と村紗に近付く。靴の裏が乾いた音を立てる。
村紗は逃げない。たださっきまでは存在していなかった、強い戸惑いの色がそこには浮かんでいる。初めて見る大人を前にしているような、そんな。嫌だな、だって私は大人でもないし、初めて村紗と顔を合わせたわけでもないのに。
「いいよ。私が道連れされてあげる」
「……何、言って」
「私がそっち側いけば、何にも問題ないでしょ。寂しくないでしょう」
「……一輪、あんま変なこと言うと私本気で怒るから、」
「どうやって? 言葉でも殴るのも無理なんでしょ」
さっきの村紗の台詞をそのまま返すと、村紗は言葉に詰まったように黙り込んだ。
飛び込み台に足をかける。座ることはしない。初めてローファーで踏みしめた飛び込み台は存外に固くて、これなら安心して任せられるなと思った。
何を? 自分をだ。
「前から思ってたのよ。村紗に触れるなら、溺れるのも悪くないかなって」
「……ねえ、さっきから何」
「だから、」
にっこりと笑顔を村紗へ向ける。
疲れきった村紗の目にも、なるべく綺麗に写っていればいいなと思った。
「ちゃんと、上手く沈めてよね」
村紗の腕がこちらに伸びてくる。
それを紙一重で交わすような形で、私は飛び込み台を思い切り蹴った。
飛沫が上がる。
服のまま水に飛び込むというのは初めてで、あまり気持ちのいい感覚でもなかった。靴の中に、下着の中に、容赦なく水が入り込んでくる。当たり前だけれど夏とはいえ、水は冷たい。全身の肌が一瞬粟立ち、それが徐々におさまっていく。ゆらゆらと揺れる自分の前髪が時々視界を横切って、それがうっとうしかった。
音もなくもうひとつ飛沫が上がる。数えきれないほどの無数の泡の向こうに、私は村紗を見た。
泣きそうな顔をしていた。村紗の腕が私の腕を懸命に掴もうとするけれど、いつものようにその指は私の身体を突き抜けてしまう。いつだってそうだ。村紗は私を引き上げようとしてるんだろう。駄目だよ、そんなんじゃ。私は小さく首を振った。村紗は泣きそうな表情のまま、ぱくぱくと口を動かした。揺らいでいる表情だった。私を助ければいいのか殺せばいいのか、分からずに戸惑っている表情だった。
私はもう一度、今度は首を縦に振った。村紗だってその意味はちゃんと分かったはずだ。ほらだって、ちぎれそうなくらい強く唇を噛み締めて、真っ直ぐに私を見据えてくる。
ごめん、と村紗は確かに、唇だけで私にそう伝えてきた。
二本の腕が、私の喉元に伸びる。
今までずっと焦がれていた、その両の手のひらが。私の首へと張り付いた。
(あ)
そのまま水底に押さえつけられた。後頭部に底の感触がする。鼻に水が入ってすごく痛いけれど構うものか。
初めて触れる村紗の手は、思っていた通りに所々かたい骨の感触がして、けれどもその反面すごく柔らかかった。そして冷たかった。氷を触っているんじゃないかと錯覚するくらいの冷ややかさが、温かな私の首元から少しずつ熱を奪っていく。紛れもない死者の体温だ。
華奢な指が私の首に絡みつく。そうして、このほっそりした手のどこに宿っているのか分からないくらいの強い力で私の首をぎゅうと締め上げた。指先が私の首元の皮膚に沈んで食い込む。それだけで痛いくらいなのに、私は笑っていた。村紗だけが泣きそうな表情のまま私を見下ろしていた。
自然と浮かび上がろうとする身体を押さえつけるように、村紗が私の上に馬乗りになる。見た目からは想像も出来ないような重さがお腹に、腰に、脚に加えられて、私はべったりと仰向けにプールの底に張り付けにされた。
塩素の匂いがひどい。脚や腕が自分のものじゃないみたいに重くて上手く動かせない。すぐ目の前にいる村紗の髪がまるで生き物みたいに好き勝手にうごめいている。そのせいで普段は隠れている滑らかな額が見えて、可愛らしかった。
セーラー服が水にはためいて、鎖骨や白いお腹がちらちらと見え隠れしている。
こうしてみると色っぽいななんて場違いなことを考えながら、私は徐々に視界が霞むのを感じていた。目の前がいつもより随分と暗い。
肺の圧迫感が徐々に強くなる。口の端から貴重な酸素が気泡となってこぼれていく。塞がれた気道に下っていった唾液が行き場を失い、変な音を立てながらまた口内へ戻ってくる。全身の筋肉が痛くて、指先まで鉛がぎゅうぎゅうに詰まったような気分だった。
目前にある村紗の顔と、水面を通して見える夏の夜空が時折ぐにゃりとゆがむ。
苦しい。いっそ、水を飲んでしまった方が楽なのかもしれない。
でも駄目だ。本当に意識を失うまで、自分からそんなことはしたくない。村紗の身体に少しでも長く触れていたい。このまま死ぬのは構わない。でも一人で勝手に満足して死ぬのは駄目だ。村紗と同じになれなきゃ駄目なんだ。そうじゃなきゃ、彼女を本当に独りきりにしてしまうじゃないか。
(むら、さ)
声を出すことも出来ないから、微かに唇だけで呼んだ。酸素が不足しているせいで顔の筋肉が麻痺しかけていて、たったそれだけの動作に随分と時間がかかった。
死ぬ前に名前を教えてほしかったなと残念に思った。もしかしたらそれが未練で幽霊になれるかもしれない。
呼ばれたことに、村紗は気付いたようだった。返事をする代わりに、村紗が私に顔を近付けた。整っているけれどいささか血色の良さに欠ける顔立ちが、遠のきそうになる視界でもはっきりと見て取れた。
村紗は瞼を下ろして、ふたつの瞳を覆い隠してしまった。あ、と思った瞬間、村紗の唇が私のそれに押し付けられた。
どこか危ういような、未熟な柔らかさに目を閉じる。
まるでそれはさかさまな人工呼吸のように。私の口の中から村紗が酸素を奪っていく。
そうして。
村紗の手が、私から離れた。村紗自身もまた腰を据えていた私の身体から退いた。
重しを失った身体が、やがて水面へと浮かんでいって。そこから空気を求めて顔を出したのは、ほとんど本能的な行動だった。
「ぷ、はっ!」
呼吸をするのがなんだか途方もなく久しぶりのように感じられたけれど、時間に直せば一分も経っていないはずだ。
母親の胎内から出てきたばかりの子どもさながら、喘ぐように息を吸い込んだ。呼吸の仕方が分からない。息をするようにという表現があるけれど、あれはきっと間違いだ。人間だって息の仕方を忘れることもある。
頭がぐらぐらとして、プールの壁にもたれかかるようにして縁に顎を乗せた。あちこちに明かりがついているせいで星は見えないけれど、空はすっかり暗くなっていた。温い夜風が濡れた頬を冷やして、ここが現実なんだとようやく私の意識を引っ張り戻してくれた。
村紗は憎らしいことに、もう一人でプールサイドに上がっていた。
ぽたぽたと全身から水を滴らせている。一人だけ呼吸の荒い私を四つん這いの姿勢で見下ろしながら笑っていた。
両眼から溢れている涙が顔の輪郭を伝い、プールの水と混じり合って地面を濡らしていた。
「私が思うに、一輪は馬鹿なんじゃないかな」
「……なに、それ……」
「本当に死ぬとこだったよ」
「……惜しかったわね、道連れし損ねて」
息も絶え絶えに私がそう言うと、村紗の鼻の頭にしわがよった。何かの不具合みたいに瞳から流れ出る液体を拭うこともせず、眉を寄せて私を見下ろす。さっきまで私の首を絞めていた手が、熱を計る時みたいに私の額へとのせられた。
ほら、そうやって、すぐまた子どもみたいな表情になる。私より長い時間いきてるんでしょう。人生の先輩なんでしょう。そんなんじゃ駄目だってば。内心で毒づいてやったけれど、村紗はそれでも、僅かに甘えるような声色で私に話しかけるのだ。
「無理だよ。一輪はこっち側に連れてこれない」
駄々をこねてるみたいに首を横に振る。涙混じりに、時々詰まりながらも村紗は喋り続けた。
「殺せないよ。そりゃあ私だって、あんたが私とおんなじになってくれたらどんなにいいかって何度も思ったわよ。でも、無理なの。今だって、ほんとは殺すつもりだったのに。出来なかったの。いくら一輪がそうしていいって言ってもさ、殺せないのよ」
「なんで」
「言わせないでよ、そんなの!」
そうしてぺたんとその場に腰を下ろす。屈むようにして、今度は手を退けてから私の額に自分の額をくっつけた。さっきと同じようにすぐ近くにやってきた村紗の瞳を今度はちゃんと見るために、気を抜けば下がりそうな瞼を何とか押し上げる。村紗は目を閉じようとはしない。澄んだ瞳のこの深い色は、プールというより、まるで海みたいだ。
触れるか触れないかのぎりぎりの位置で、
「好き」
「私も」
「……両想いだ」
「うん」
「キスもさ、はじめてだった」
「私も」
「一輪はあったかいんだね」
「村紗は冷たいのね」
私達は、そんな会話を交わした。
今、何時くらいなんだろう。まだ部活で残っている生徒もいるだろうに不自然なくらい静かで、まるでこのプールサイドだけあの世でもこの世でもないどこかに隔離されてしまったみたいだった。この世界には今、私と村紗しかいない。
力の入らない腕をどうにか使って、重い身体をプールから引き上げる。水を含んだ制服は想像以上の重量で、鎧でも身に付けたような変な気分だった。びちゃびちゃと音を立てて滴る水も気にせず、大きく息を吐いて地面に仰向けに横たわる。全身がだるくて、何もする気が起きなかった。さすがにこのままというわけにもいかないが、少し休ませてほしい。
いつぞやの村紗みたいに空を眺める格好をしていると、そんな視界が村紗によって遮られた。私をまじまじと見つめて、
「透けてる」
なんて言うものだから、思わず殴るふりをした。
「お互い様でしょ」
「なんかえろい」
「えろい言うな」
突っ込むことにも疲れて、私は腕を投げ出す。ほとんど大の字のような格好だ。自分の部屋でも滅多にこんな体勢にならないのに、屋外でだなんて普段なら自分一人だったとしてもしたくない。ただもう、今だけはどうにでもなってしまえ。
村紗は私の隣で三角座りをしていた。今までにも何度か見てきた辺り、どうやら落ち着くらしい。細い脚を器用に折り畳んでまとまっている様はどこか律儀な犬のようにも見える。そうしてまた膝の間に顎を埋めていた彼女だけれど、ふいに思い出したように口にした。
「みなみつ」
「何それ」
「名前。私の」
「どんな漢字で書くの?」
「水に蜂蜜の蜜。水蜜」
村紗が空中に指で漢字を描く。聞き慣れない響きが、私の頭にすんなりと馴染んだ。ずっと前から知っていたみたいな不思議な感覚だ。そんなはずないのに。
みなみつ、と実際に口に出して呼んでみれば、村紗はうう、と恥ずかしそうに身を縮こまらせた。
「……やっぱり違和感がなあ」
「私はそうでもないけど」
「出来ればいつも通り村紗でお願いしたいんだけど、だめですか」
村紗にしては珍しい、懇願するような口調をしていた。今日は色んな村紗が見られた日だな、とぼんやり思う。強張った身体に鞭打って上半身を起こせば、濡れた制服がへばりついて気持ちが悪い。髪の一部や皮膚は生乾きの状態になってきたけれど、さすがに布地はそうもいかないようだった。ただそれでも、気分は悪くない。
私はプールに飛び込む直前のそれよりも綺麗に笑えるよう努めながら、村紗の方に少しだけ身を寄せた。
「いいわよ、忘れた頃に呼んであげる」
村紗が困ったように眉根を下げ、まあいいかと呟いた。
そうして私の肩に頭をもたせかけるみたいに、首をちょっと傾け、目を閉じた。
4.
まあ、普通に考えればこうなることは分かっていたけど。
あの夜、びしょ濡れのまま帰宅した私は家族に盛大に驚かれ、ついでに三十九度というなかなかお目にかかれない体温を叩き出して二日ほど学校を休んだ。
咳は出るし鼻水は流れるし寒気は止まらないしで散々だった。もうみんな私と同じ症状で苦しめばいい、と私は布団の中で世界を呪った。人はこれを八つ当たりと呼ぶ。
三日目の朝になって、ようやく熱は下がった。至って平常値を表示している体温計をケースに戻し、ベッドの上で大きく伸びをする。今までにも何度か経験してきたけれど、熱から冷めた後の頭はいつもより冴え渡ってるような感覚がして、そのおかげでそこそこ爽やかな目覚めだった。ベッドから下りてカーテンを開ければ空は快晴である。遠くに、夏らしい入道雲が棒に巻きすぎた綿飴みたいにそびえているのが見えた。
ふむ、と何となく頷いた所で、部屋の外からちりちりという鈴の音が近付いてくる。聞き慣れた軽快なその音に、すぐ自室のドアを開けた。廊下からするりと部屋に入り込んできたのはやっぱりうちの愛猫だった。金色のふさふさした毛に、黒っぽい焦げ茶の縞模様。
「とらまる、おいで」
ぐるぐる喉を鳴らしながらとらまるが足下に擦り寄ってくる。どこかずれた所のある私の母によって、女の子なのに男の子じみた名前を付けられてしまったこの猫は、それでも猫にしては珍しくとても従順な良い子だった。「お前は見た目は虎にも見えるけど実は犬なんじゃない」とうちの家族のお墨付きである。むやみに鳴いたりしないしものを散らかしたりもしないし、誰かが落ち込んでいれば、不思議なことにずっとその相手の側に寄り添っている。子猫の時に鼻先を噛まれて以来、猫の癖に鼠が大の苦手だったりするのだが、別に鼠取りのために飼っているわけでもないので特に困ることはない。
人間の風邪が猫に直接うつることはないと知ってはいたものの、私の風邪があまりにもひどかったのでこの二日間は部屋に入れずにおいたのだ。触れ合えなかった二日間を埋めるかのごとく、抱き上げてわしゃわしゃと撫で回す。目を細めて丸くなるとらまるを見ながら、私はふいに村紗のことを考えた。
私が風邪をひいたことは村紗は知らないのだから、どうして二日も来なかったのかとむくれているかもしれない。村紗は私の家がどこにあるかなんて知らないし、知っていたとしてもあのプールサイドからは一歩も外に出られないのだからどうしようもないのだが。
しかし私にした所で、村紗の生家も、お墓がどこにあるのかも知らない。聞いても多分ぼかされるんだろうということは分かりきっているが、「お墓を見つけたので墓参りしてきてやった」とでも伝えたらどんな顔をするだろう。絶対嫌な顔をするよなあと思いつつ、それがとても楽しみになってきた私は、顎の下を撫でてやりながらとらまるに話しかける。
「ごめん、とらまる。学校行く支度しなきゃいけないから」
私の言葉を理解したかのように、とらまるが膝の上から下りる。大きく伸びをしてドアから出て行くとらまるを眺め、私もベッドから立ち上がった。熱は下がったし、ぐしょぐしょになってしまった制服はちゃんと洗濯されてハンガーにかけられているし、何の問題もない。今日こそ学校へ行こう。学校へ行って、それから。
それから、まず村紗に会いに行こう。
自分の机に鞄を置いてすぐ教室を出ようとする私に友人達は不思議そうな目を向けてきたけれど、「休み中に先生から電話がかかってきて、進路のことで呼ばれたから」と言い訳しておいた。
怒られない程度に廊下をぱかぱかと小走りし、まっすぐプールへと向かう。もちろん、登校する生徒達の目に触れないように重々気をつけながらだが。夏場とはいえ、朝からこそこそとプールに侵入する姿なんて誰かに見られたくはないものだ。
軋んだ音を上げるフェンスを乗り越えて、コンクリートで舗装された敷地内に降り立った。水泳の時間は解放されるこのフェンスの扉は、それ以外の時間はいつだって鍵がかけられている。残念ながら私相手にその役目はろくに果たせていない南京錠を一瞥してから、私は弾むように階段を駆け上がった。村紗に会ったらまず何と言えばいいのだろう。二日顔を見せなかったことをいつものような口調で揶揄されたらつい反抗してしまいそうだけれど、それくらいが私達らしくていいのかもしれない。会いたかっただなんて、例え口が裂けたとしても言えるか自信がない。
水の張った消毒槽の横を通り、緑色の地面を踏む。滅多に朝に顔を見せたことはなかったから、驚いてくれたらいいなと思った。
いつもより鼓動を速めた心臓を抑えるように胸に手を当て、私はプールサイドに入る。
「村紗、おはよう」
そう勢いよく口にしてから、村紗の姿が見当たらないことに気付いた。
まずはいつもの飛び込み台に目をやったものの、そこにあのセーラー服姿は座っていない。珍しいこともあるものだと、プール際に駆け寄ってなみなみとした水を覗き込む。動物園のアザラシさながら、陸にいないならプールの中で泳いでるんじゃないかと思ったのだが、それも違っていたらしかった。底の水色や青いラインが透けているプールには人影なんてこれっぽっちも見えず、哀れなカナブンが一匹、端の方でゆらゆら漂っているだけだ。
「村紗ー?」
やや音量を上げて呼びかけてみたものの返事はない。むむ、と私は顎に指をやる。もしかしたらこれは拗ねているのだろうか。私が急に顔を見せなくなったものだから拗ねて隠れているのか。冷めているように見えて案外そうでもなかったりする村紗のことだから、有り得るといえば有り得る。こっちはそんなに時間があるわけでもないのにと思いつつ、私は辺りをぐるぐる見渡した。
プールサイド一帯は何の問題もなく見通せる。少なくともここから見える範囲内に村紗はいないようだった。気になるのは隅っこにちょこんと構えている、水泳の用具をしまっている倉庫の存在だが、あそこは確か鍵がかけられているはずだ。いや、幽霊である村紗が壁や扉を擦り抜けて中に入ることが出来たとしても何も不思議はないのだが。卵焼きは擦り抜けてしまうくせに飛び込み台に座ったり地面に立ったりは可能な辺り、その辺の基準がよく分からない。
朝とはいえじりじり照りつけてくる日差しは暑く、制服から剥き出しになった腕や首筋をじりじりと焼いてきた。途方に暮れたような気持ちではあぁと溜め息をつく。やけに青みを強調してくる空が何だか恨めしい。熱を出したせいで八つ当たり癖が残ってしまったのか。
携帯を取り出して見てみれば(防水加工のおかげでこの間の夜も無事だった)もう予鈴の鳴る寸前の時間帯だったので、私は諦めてプールサイドを後にすることにした。去り際、一応もう一度声をかけてみる。
「村紗、もう戻るからね、私」
それでもやっぱり返事はない。来るまでとはうってかわって、もやもやとする心中を持て余しながら私は階段を下った。
遅刻ぎりぎりにやってくる極一部を除き、もうほとんどの生徒は教室に入っている時間だ。まさか休み明け早々遅刻のペナルティを食らうわけにもいかないので、やや早足に教室へと向かう。変な話、朝だからいなかっただけということもあるかもしれない。いや午前中の授業がある時にもいつもここにいたのだから、その可能性は果てしなく薄いけれど。
少なくともプールから出られない彼女が、ここから別のどこかへ行ってしまうことなんてありえない。放課後にもう一度探しに来れば良いだけだ。拗ねて倉庫に隠れていたのだとしても、その頃には村紗の機嫌も直っているだろう。子どもじゃあるまいし。
ふっと別の可能性がひとつだけ頭の中をよぎったけれど、まさかなあとすぐに否定した。
肯定したくなかっただけかもしれない。
結局、教室に滑り込んだ途端に予鈴が鳴った。
夏場なのだから走ればそれなりに暑いわけで、汗がべたべたして気持ち悪かったが仕方ない。それもこれも全部村紗がいけないんだと心の中で文句を言いつつ席に座れば、脳内に浮かんできた村紗がにやにやしながら「そういうの責任転嫁っていうのよ。知ってる?」だなんて口にするものだから余計腹が立った。苛々ともやもやを促進させるだけなので今は引っ込んでいてほしい。
朝からそんな調子だったので、その日は一日授業にまったく集中出来なかった。右の耳から左の耳へ抜けていく教師の声を聞きながら、村紗はどこにいるのかとそればかり考える。放課後はこっそり職員室からプールサイドの倉庫の鍵を拝借して、それからあそこへ向かってみよう。
あの中でお決まりの三角座りの体勢でいじけているのか、私が困るのを知りつつこの状況を楽しんでいるのか。前者はともかく、後者はなさそうだなと思う。意地の悪い所がないわけではないが、そういうふうに行動に移すタイプじゃない。そういった捻くれ方はしていない。
そんなわけで、妙に長く感じられる授業をなんとかやり過ごした後、私はあっさりと手に入れることの出来た倉庫の鍵を持参して本日二度目のフェンス越えをした。もしかしたらと思ったが相も変わらず村紗の姿は見えず、だだっ広いプールサイドだけが広がっている。六時限目にどこかのクラスが使ったのか、地面のあちこちがまだ濡れていた。滑らないように気を付けて歩きながら倉庫へと向かう。
誰もいないと知りつつも一応辺りに気を配り、古びた鍵穴に鍵を差し込んだ。指に力を入れて回すとかちゃりという音がしたので、扉を横に引っ張る。やや重い扉は高い不協和音を奏でながらもゆっくり開き、妙に粉っぽく感じられるその中に私は足を踏み込んだ。
「村紗」
返答はない。狭い室内で跳ね返った自分の声が耳に刺さる。
倉庫の中は暗かったけれど、開けた扉から入ってくる光のおかげでものを見るのには困らない。ビート板やら予備のコースロープやら使われた気配のない救命胴衣やら塩素の塊やら、ごちゃごちゃしたものをどけつつ中を探る。袖口やスカートが埃にまみれ、別の格好に着替えてくるべきだったと後悔した。
狭い倉庫なので、人が隠れられるスペースを限定すればあっという間に探し終えてしまう。結論から言えば村紗はいなかった。元々期待半分だったとはいえ、落胆は隠せない。元々重かった扉が更に重く感じられて、閉めるという動作をこなすのすら面倒くさかった。制服に付いた埃を手で払い、またプールサイドを一周することにした。
朝よりも入念に、目を凝らすようにしながら歩く。ぐるりと辺りを囲むフェンスとさらにそれを囲む茂みの隙間も、夏の日差しを反射して光っている水面も、ちゃんと水を止めなかったのかぴちゃぴちゃと水を滴らせているシャワーも、狭い消毒槽の中も。どこを見ても村紗はおらず、嫌な不安が胸の中で少しずつ大きくなっていくのを私は感じていた。最初はほんの小さな粒程度だったそれが徐々に膨らんでいく、この感覚は昔からずっと嫌いだ。
「本当はいるんでしょ。返事してよ」
自分の声に焦りが滲んでいるのが嫌で、ああもうと首を振った。疲れたわけでもないが、フェンスに寄りかかって呼吸を落ち着ける。冷静に考えてみればいいんだ。もしかしたら何かの拍子に、村紗はこのプールを離れることが出来るようになったんじゃないだろうか。どこかへ行けることが嬉しくて、あちこち見て回っているのかもしれない。
でも、例えそうだとしても、一言くらい私に何か言うんじゃないだろうか。朝の間はどこかへ行っていたとしたって、放課後になれば私が来るのは分かりきっているんだから。私の目の前で自慢気に報告してみせる方が村紗らしい。そりゃあ二日間私がここに来なかったのだから、今日も来ないのかと思ってプールに帰ってきていないだけなのかもしれないけれど。でも、村紗がどこかへ行くことが出来るようになったとしても、完全にこのプールを捨てることなんて有り得ないように思えた。だってこのプールサイドは、この世に村紗を繋ぎ止めていた唯一の場所だったのだから。
朝方にほんとうにちらっとだけ浮かんだ考えが、今一度、今度は重さを増して私の脳裏に顔を出す。
もしかしたら。もしかしたら、村紗はあの夜に何もかも満足してしまって、成仏してしまったんじゃないかと。
暑さのせいだけではない、嫌な汗が制服の下にある背中を伝う。
足下にある濃い影を見下ろしながら、私は深く息を吸い込んだ。今日は、帰ろう。明日また探しに来ればいい。明日になれば何事もなかったような顔でひょこっと現れて、怒る私を見て笑うのかもしれない。数年ぶり、いや多分数十年ぶりに見て回ったこの街の感想を聞かせてくれるかもしれない。そうであってほしい。
もしそうでなかったら、とそこまで考えて手のひらを強く握る。短く切ってあるはずの爪が食い込んで痛かった。
そうでなかったら……私は、どうすればいいのだろう。
翌日も、翌々日も、私はプールサイドで村紗を探した。
彼女はいなかった。呼びかける私の声にだって、一度たりとも反応しなかった。
放課後だけじゃなく、朝も、休み時間さえも、私は暇さえあればプールサイドに立って村紗を見つけようとした。教室にいる時も、廊下を歩くときも、ブレザーの制服を着た集団の中に一人だけセーラー服の少女が混じっていないか、いやに白い肌の生徒がいないか探した。私に向かって笑いかける一対の瞳や、冷たいけども指の細い綺麗な手を求めた。
数日前までは確かに存在していたはずの村紗の姿は、この限られた世界のどこにも見当たらなかった。
私の中に埋めようのない空白を残して、村紗水蜜はあまりにも唐突に、私の日常から姿を消した。
▽
「散歩?」
「うん」
「帰りに友達と遊んできたんでしょう? 疲れたんじゃないの?」
「やっぱり、最後にもう一回学校見てきたいなって」
「そう……。大丈夫だとは思うけど、気を付けてね? 夜だし、変な人が出るかもしれないし」
「分かってる」
「九時までには帰ってくるのよ。約束ね?」
「分かってる」
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
家を出ると綺麗な星空だった。
うちの父は今時流行らないような頑固頭なので、八時過ぎにもなって娘が外を出歩いていることを知ったら怒るかもしれないけれど、そこは母が何とか宥めてくれると信じたい。それともさすがに、今日くらいは父も多めに見てくれるだろうか。
今日は卒業式だった。午前中のうちに式を終えて、午後は友人達と過ごして、夜には家族と夕飯を食べて。そこまでしてやっと、自分が卒業するのだという実感が生まれてきたような気がする。式の最中に泣き出したりはしなかったものの、数年間も同じ場所で過ごして愛着が湧かないはずもないわけで、寂しくないと言えばもちろんそれは嘘だった。今になってみれば悪くはない日々だったように思う。特に、村紗と出会ってからの一年ちょっとは。
吐く息が白い。やけに首筋が冷えるなと思えばマフラーを忘れてきてしまったことに気付き、しかし取りに戻るのも面倒なのでコートのフードを深くかぶった。手袋を嵌めた手を何となく持て余しながら歩く。去年からずっと何度も買おうと思っていたはずなのに、結局手袋を買ったのは今年の冬になってからだった。今までずっと買う機会を逃していた私を動かしたのが何なのか自分でも分からないが、まあ、多分、単に寒かったからなんだろう。
どうして私はこんな時間になって、学校に向かって足を運んでいるのだろう。
卒業なんてものを迎えてしまったせいでやや感傷的になっているのかもしれない。
母にはああ言ってしまったけれど、学校というよりはあのプールサイドにもう一度行ってみようという気になったからこそ、私はこうして家を出てきたわけで。おそらくこの機会を逃したら、二度とあそこへは行かなくなってしまうだろう、そんな気がした。
三月とはいえまだ夜の空気はびっくりするくらい冷たくて、考えもせず外に出たのは浅はかだったかもしれないと若干後悔した。こんな思いまでしてあのプールサイドへ向かった所で、どうせ村紗はいないのに。
六月の初めに姿を消して以来、村紗が私の前に現れたことは一度としてない。やっぱり成仏したんじゃないかと私は睨んでいる。
始めの頃こそ狂ったように、誰もいないプールサイドに馬鹿みたいに呼びかけて、必死に辺りを駆け回って村紗を探していた私だったけれど、この数ヶ月はあそこに足を踏み入れることさえしていない。あのプールサイドに行けば行くほど、村紗がいなくなったことを再確認させられているようで辛かったというのが一番の原因だ。
私達が水に潜った夜、村紗はまるで疲れきった迷子みたいな顔をしてたけど、今度は迷子になったのは私の方であるかのように。私が疲れてしまったのだ。
それでも、これでいいんじゃないかと私は考えるようになっていた。だって、ようやく村紗に終わりが訪れたんだ。いつまでもこっちの世界に縛られ続けていた村紗が、やっと行くべき所へ向かうことが出来たのだから、これが本当は正しかったのではないかと思う。死者に心を傷めるのは生者の仕事で、死者が生者のせいで心を傷めるなんてことがあってはいけない。私達は元々そんなふうに不完全な立ち位置にいたのだから、彼女がいついなくなってもおかしくなんてなかったわけで。
夏の最初の方こそ、「プールで生徒を溺れさせる幽霊」として生徒の間で村紗の存在はまことしやかに噂されたものの、飽きたのか単に時期の問題なのか今では誰も口にしない。実質私を除けば被害と言えるような目に遭ったのは二人だけで、それきりぱったりと止んでしまったのだから、生徒達の好奇心をくすぐるにはやや不足していたようだった。誰の目にも見えていなかったというのも相まって、村紗がこの世に存在していたことを知っている人間は誰もいない。私以外には。
だから多分、私が彼女のことを忘れてしまえば大団円なのだろう。まだ当分忘れることなんて出来そうにないけど、こればっかりは仕方ない。
遺された側の気持ちなんて、些細な問題でしかないのだから。
コンクリートで舗装された道路を歩きながら、昼間に来たばかりである学校へと足を向ける。
春の大会に向けて練習している部活動がいくつかあるから、学校自体は開いているはずだ。寄り道もせず真っ直ぐ進めば、歩いて十分程度の位置にあるおかげですぐに着いた。
昼間とは違い、白い校舎がやけに無言の圧力を放っているように見える。ちらほらと明かりのついている教室があるのが見えたが、校舎に特に用はないので迂回して裏へと回っていく。一応休み中でも三年生が学校へ来る際には制服の着用が義務づけられているので、見つかれば怒られてしまうだろう。そんな事態はご遠慮願いたい。用があるのはあくまでプールサイドだけであって、他はどうでもいいのだから。
相変わらずやけに軋むフェンスの扉を飛び越える。久々の感覚だった。足を捻ることもなく無事に着地して、それから狭い階段を上る。
初めてこの時間帯に訪れるプールサイドは以前よりも寂れているように感じたけれど、まあこんなものだろう。グラウンドにもあるような街灯は一応備え付けてあるものの、やっぱり暗い。
とりあえず水面に近付いてプールを覗き込んでみる。どろどろに濁った水には枯れ葉やらごみやら虫の死骸やらが浮いていて、頭上の星空も一応映ってはいるもののだいぶぼけていた。沼みたいに淀んだそこから漂ってきた、あまりよろしくない匂いが私の鼻っつらをしきりに押し返してくるので、覗き込むのはやめて飛び込み台に座る。
そこでぎょっとした。丸く光る瞳がふたつ、遠くからじっとこちらに向けられている。
しかし慌てて目を凝らして見てみれば何ということはなく、それはいつぞやの太ったぶち猫だった。一瞬跳ね上がった心臓を上からほっと撫で下ろす。
「びっ……くりした。……おいで?」
呼びかけてみれば、私の声を覚えていたわけでもないだろうが、一声鳴いてから猫はこちらへと近付いてきた。
大儀そうにのそのそと歩いてきて、私の足下で座り込む。私は腕を伸ばし、猫にしてはだいぶ大きなその背中を撫でた。手袋をしているせいで感触がよく分からないのが惜しい。首輪こそ別のものに変わっているが、ふてぶてしい顔つきといい白と黒の模様といい、あの時の猫だ。間違いない。
口元が微かに緩むのを感じた。そうだ、確か二年の冬の、期末試験が終わってすぐ辺りの時期だ。あの時は膝の上にこの猫がいたけれど、ともかくこんなふうに私が猫を撫でて。
隣には村紗がいた。私と私に撫でられる猫を、面白くもなさそうに見ていた。
(……)
自分で思っていた以上にあの頃の記憶が鮮明に残っていたものだから、それ以上考えるのをやめることにした。
猫は少しの間大人しく撫でられていたけれど、あの日と同じように唐突に立ち上がった。「あ」と私が小さく声を上げても、まるきり気にしない様子で去っていく。前と同じフェンスの穴から出て行く猫を、私は残念な気持ちで見送った。元来気まぐれな動物だということは知っているにしても、やはりちょっと寂しい。
することもなくなってしまったので、私はぽつぽつと控えめな明かりに照らされているプールサイドを見渡す。
ひとつふたつの蛍光灯だけでは広いこの場所を明るくするのには不十分で、辺りは薄暗い。幽霊か何かが出てきてもおかしくはないような雰囲気だったので、私はしばらく、隣の飛び込み台に村紗がやってきて座るのを待った。
しかしいくら待っても彼女の姿が見えないので、諦めて飛び込み台の上に立った。あの夏の夕暮れにそうしたみたいに。
嫌になるくらい広いプールが、私の足下にひたすら広がっていた。
もうあの猫すらもプールサイドにいない。何もいない。
この世界には今、私しかいない。村紗はいなくなってしまった。
そう思った途端目頭が熱くなって、眼球も押し流してしまいそうな勢いで涙が溢れてきた。
もうとっくに泣き尽くしたと思っていたのに、少し気を抜けばすぐこれだ。今までの十倍くらい涙腺が弱くなってしまったんじゃないだろうか。液体のくせに私の涙はやけに熱くて、目もそれが伝っていく頬も全部焼けただれてしまいそうだ。
私は、心の奥底ではまだ期待していたんだ。数ヶ月ぶりに訪れるこのプールで、村紗に再び会えるんじゃないか。学校を訪れなくなる前に一度、確認したかったんだ。村紗が本当にいなくなってしまったのかどうか。無意識の片隅では会えるのだと信じていたんだ。もう何十回も確かめたはずなのに、馬鹿みたいに、まだここで村紗に会える可能性を捨てきれていなかったんだ。
結果はどうだ。以前と同じように、村紗はもういないのだということを改めて思い知らされただけじゃないか。あの猫に会って、今まで無理に押しとどめようとしていた村紗と過ごした記憶が、雪崩みたいに思い起こされてしまっただけじゃないか。
あれからもう九ヶ月近く経つというのに、自分でも呆れてしまうくらいにあの頃の記憶は色鮮やかだった。鮮やかなはずのそれがすっかりと色を失って、私の両目から流れ続ける。まるで限りがないかのように、とめどなく。
ぼやけた視界で、地平線まで続いているのかと思えるくらいに広いプールの水面を見ていたら、飛び込んでもいいんじゃないかと思えてきた。
底なし沼みたいなここに飛び込んで、どこまでもどこまでも沈んでいけば、村紗に会えるのかもしれない。私の手を引っ張って底まで連れて行ってくれるのかもしれない。
そうだとしたらどんなに幸せだろう。村紗は私を殺せないと言っていたけれど、今の私を見てもそんなことを言えるのだろうか? 頭の中で村紗が苦笑する。何ひどい顔してんのと私の頭を撫でる。村紗の手はいつだって、私の頭に触れることなく擦り抜けてしまう。このプールの中でなければ。
ひどく頭が揺らいで、飛び込み台を踏みしめている足すらもおぼつかない気がする。気を抜けば飛び込んでしまいそうで、私は視線を下から上へと向けた。空気のひどく澄んだ夜空には星が浮かんでいて、名前を知っている星座もそうでないものも、一様に私を見下ろしていた。私のことを笑っているものもいたし、同情して慰めてくれているものもいた。
いずれにしてもそこに村紗はいなかった。どこにもいなかった。
立っているのが億劫で、私は飛び込み台の上にしゃがみこんだ。
本当は知っている。飛び込めるわけがない。村紗が溺れさせてくれないのなら意味がない。
顔を両手で覆って、嗚咽さえ上げながら私は子どもみたいに泣き続けた。
買ってそう経ってもいない手袋がぐしゃぐしゃになるくらい、ずっと泣き続けた。
▽
泣き腫らした目で家に着いたのが九時ぎりぎりだった。
門限を破ったとなればさすがに父も母も私を叱っただろうし、そうなればどうして泣いたのかということも訊かれたに違いない。そうはならなくて良かったと、心から思う。娘がいきなり幽霊と出会って別れるまでのいきさつを懇々と話し始めたりしたら、さすがに心配する所の騒ぎじゃ済まないだろう。私なら病院に連れていく。
居間から投げかけられるおかえりという声に曖昧に返事をして、真っ直ぐ二階への階段を上がる。外は寒かったけれど、暖房も何も付けていなかった自室もひどく冷えていて、指先が凍えた。それでもなんとなく窓を開けてしまったのがどうしてなのか、自分でも分からない。
明かりもつけずベッドに腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めていたら、ちりちりと鈴の音が聞こえた。
「……とらまる」
ドアの方を振り向く。
微かに開いていたドアの隙間から、滑り込むようにしてとらまるが入ってくる。私の足下に座り、なぁおと一声鳴いた。珍しいこともあるものだと思った所で、そういえばとらまるはよく出来た猫だということを思い出した。私が泣いたことに気付いて着いてきたのか。
「……そっか、慰めにきてくれたの……」
声をかけると、とらまるはベッドの上に飛び乗り、私の太腿に寄り添うようにしてうずくまった。そっと背中を撫でてやる。柔らかい毛と皮膚の下にある背骨の感触が、何となく私を安心させてくれた。冷えきった手を暖めてくれたのが嬉しくて、縞模様をなぞるようにとらまるを撫でた。とらまるは目を細め、うとうとと眠りかけの表情になる。
ふいに、とらまるが目を見開いた。
毛皮と同じ金の瞳が、今までに見たことのないような警戒の色を浮かべている。とらまるは温厚だから、鼠を前にした時くらいしか感情を露にしたりしない。そんなとらまるがひどく怯えている。いつの間にか背中の毛を逆立てて、尻尾だって膨らんで今度はまるで狸みたいだ。
どうしたのと声をかけても一向に私の方を見ず、とらまるはベッドの上でじりじりと後ずさりする。姿勢を限りなく低くし、尖った歯を剥き出しにして唸るその姿はやっぱり小さい虎のようでもある。なんだこれ。
「とらまる?」
名前を呼びながらとらまるの方へ向き直ろうとした途端、弾かれたようにとらまるはベッドを下りて部屋を出て行った。鉄砲玉みたいな速さで走っていくとらまるを、私は半ば呆然と見送った。何が起こったのかよく分からないけれど、とりあえず追いかけなければ。
私がベッドから立ち上がり、ドアの方を向いた瞬間に。
「おー、逃げられた」
この場に似つかわしくない、暢気な声がした。
ひどく懐かしい声だった。
声のした方を見る。
窓の縁に誰かが腰掛けている。
ひどく細い身体をしたその人影は、月明かりの逆光でも綺麗に笑ってみせる。
「ところでちょっと痩せた? ちゃんと食べてんの?」
自分の方がよっぽど痩せてるくせに、村紗はそんなことを言った。
私は馬鹿みたいに、ぽかんと口を開けて村紗を見た。
そんな私を失礼にも指差して、村紗が腹を抱えて笑う。おかしくてしょうがないというように。
初めて会った時みたいに。
「ひっどい顔!」
そんなふうにずっと笑い続ける村紗を、私は呆然と見つめた。とうとう自分の頭もおかしくなったのかと疑いたくなって、へなへなとその場にしゃがみこんだ後おもむろに自分の手の甲をつねる。痛い。違うこれは夢かどうか確かめる方法だ。じゃあ自分が正常かどうかなんて、どうやって確かめればいい?
村紗が窓から下りる。ふわりとスカートが揺れ、白い素足が私の部屋のカーペットをぺたんと踏んだ。側まで歩み寄ってきて、村紗は私と同じ目線になるように屈む。そうして、まだじんじんと痛んでいる『私の手を取った』。
「ただいま」
「……なんで、ねぇ、なんで、」
「おかえりくらい言ってくれないと寂しいんですけど」
入ってくる微弱な風にカーテンが揺れる。ぞっとするくらい優しい月明かりが村紗の頬を照らしていた。あの日に確かに水の中で私に触れた手が、私の手を握りしめる。冷たくて、所々骨張っていて、でも柔らかい。もう、視覚も聴覚も触覚もまともでいられている自信がなかった。私は自分が気付かないうちにもう死んでいて、村紗と同じ霊になったのかとさえ思った。
そうじゃない。どくどくとうるさいくらいに、この心臓は鼓動を刻んでいる。
「あの世から迎えに来たよとか言っちゃってもいいんだけど、生憎そういうわけでもなし」
「……じゃあ、どうして、村紗が……」
「話せば長いんだけどさ、色々あって、帰ってきちゃった」
「帰ってきちゃった、って……!」
「だってそんな顔してるのに一輪置いてけるわけないじゃん。私よりよっぽど幽霊じみてる。目腫れてるし」
片手は私の手に絡めたまま、もう片方の手で村紗が私の瞼をそっと撫でる。
腫れぼったく熱を持った眼球が冷たい指の腹で冷やされて、もう一度泣き出したいくらいにそれが心地良かった。
「私のことちゃんと見てくれた人、今までだーれもいなかったから。溺れたのも結構苦しかったし、このまま死んでやるのも癪だなって何となく思ってたせいで、今まであっちに行けなかったのかもしれなくて。私のこと好きだって言ってくれる人も出てきて、ようやく安らかになれるかなーとか考えたんだけど」
「じゃあなんで、戻って……」
「言った通り。今度は一輪が未練で戻ってきちゃいまして。思った以上に時間かかったみたいだけど」
私の記憶だと夏だったはずなんだけどななんてあっさりと口にする。いつの話だ、それは。もう半年以上の前のことじゃないか。もう半年以上も私達会えてなかったんだって、ちゃんと分かってる? ねえ。そんなふうに、何でもないみたいに、笑ってるけれど。
遊ぶかのように、村紗が私の手に触れ続ける。指と指の間を、関節を、手の甲に浮かぶ骨を、寒さのせいでささくれた爪を、柔らかい手のひらを。私の体温が少しずつ村紗の冷たい手に奪われていく。まるであの日の口付けみたいだ。
酸素でも体温でも何でもいい、いくらだってくれてやる。いくらだってあげる。
「……もしかして、今、触れてるの、って」
「うん。前はあのプールで死んだことが心残りだったし、だからあそこから離れられなかったけど。今の私は一輪に憑いてるようなものだから。一輪以外に触れないし、多分一輪から離れて遠くに行くことも出来ないんじゃないかな」
そこで村紗は一呼吸置いて、にっこり笑った。
「そんなわけで守護霊になってあげようと」
「……背後霊の間違いでしょ……」
「どっちでもいいよ」
「うん、どっちでもいい……」
せっかく冷えた目にまた熱が集まって、ぼろぼろ涙がこぼれだす。それは触れている村紗の指を伝い、手首の辺りからぽとりと垂れてカーペットに染みを作る。私一人で泣いた所で、そんな位置に染みが出来るはずがない。村紗は、確かにここにいる。
村紗が困ったように私の頭を撫でた。初めて味わうその感触にもっと涙が出てきたけれど、視界が滲むのが嫌で今度はちゃんと手の甲で拭った。拭いても拭いても後から後から流れてくる。でも泣くだけじゃ全然足りない。この喜びを、どう伝えよう。どうしたら村紗は分かってくれるだろう。私がどんなに会いたいと思ってたか、本当に分かってくれてるの? ねえ村紗。
乱暴に袖口で目を拭い、そこから顔を覗かせて私はちょっとだけ笑った。
「私を泣かせた罪は重い」
「一輪だって私泣かせたことあるし、おあいこじゃない」
「全然おあいこじゃない。私何度も泣いたもの。数えきれないくらい」
「そっか。じゃあこれから、数えきれないくらいいっぱい笑わせてあげる」
ただいま、と村紗がもう一度言った。おかえりと私は返事をして、勢い良く村紗に抱きついた。
頼りないくらい薄っぺらい肩口に腕を回して、首元に顔をうずめる。
村紗の手がぽんぽんと私の背中を叩いて、それからそうっと私を抱き締めた。待たせてごめんと小さな声が聞こえた気がした。
目が覚めると、すぐ目前に村紗の黒髪が見えた。
緩い癖のかかったそれに何となく触りたくなって手を伸ばす。指先に絡めたり引っ張ったりしてると、「君は何をしてるのかね」と村紗が妙な口調になりながらこちらを振り向いた。ベッドにもぐりんでいる私と、ベッドの縁にもたれかかるみたいにして座っている村紗。何時かと思って枕元の携帯を開いてみれば、深夜三時を過ぎた所だった。眠ってしまったのが十時くらいだから、およそ五時間ほど寝たことになるのか。
「起きたねー。おそよう」
「……まだ夜中だし。寝過ごしてないし」
「だからおそようなんじゃない。ていうか、今日は普通朝まで積もる話コースとかじゃないの。なぜ寝たし」
「……ここの所ぐっすり寝られてなかったし、それくらい許してよ……」
嘘は言っていない。上手く寝付けなかったり、寝たかと思えば村紗の夢を見ていたりでろくに眠れない日がずっと続いていた。こんなに面倒くさいくらい繊細な奴だったのかと自分にほとほと呆れてしまったくらいに。というか、もっと言えば泣き疲れた。二度も泣いて疲れないわけがあるか。
寝巻きに着替えもせず、普段着のまま眠ってしまったので何だか身体が妙に窮屈に感じられる。考えてみれば風呂にも入ってないし歯磨きもしていない。我ながら自分にうわあと思いつつ、しかしぬくい毛布から出る気力なんてもちろんなくて枕を抱え込むみたいにして村紗の方に向き直った。
じっと見つめると「どうかした?」と村紗が僅かに首を傾ける。
「……本当に夢みたい」
「夢じゃないってば。朝になったら叩き起こしてあげる」
「これから村紗が私の専属目覚ましになるのね。胸が熱くなるわ」
「不束者ですが精一杯叩き起こすんでよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
何だかまた眠くなってきた。うとうとと瞼を下ろしかける私を見て村紗は「やれやれ」と言いたげに息を吐き、それからふいに思い出したように腕を伸ばす。
「そうだ。窓、閉めなくていいの? 私じゃ閉められないし。風邪ひくわよ」
ぼんやり霞む目を向けると、確かにさっき開けたっきりの窓から入ってくる風がカーテンをたなびかせていた。二月も終わろうとしているとはいえ、まだ夜の空気はかなり冷たい。私はしばらくの間ぼうっと窓の方を見ていたけれど、やがて枕に押し付けた頭を微かに横に振った。
「……いい」
「横着者め」
「綺麗だし、いい」
「ん? 月? 星?」
確かに綺麗だけどさ、と続ける村紗に「そうじゃなくて」と返した。
不思議そうな顔をしてみせる村紗が面白くて、私はこっそり微笑む。
「やっぱ、水蜜には教えない」
「あっ、ちょ、それ不意打ち」
焦ったような村紗の頬に赤みがさす。なんだ、そんなふうな表情も出来るんだ。今の今まで、知らなかった。
月明かりに照らされた村紗があんまりにもきれいで可愛かったから、ずっと見ていたいなと思ったけれど。眠気には勝てないとばかりに私は再び目を閉じる。朝になったらまずお風呂に入って、それから村紗と一緒に街を歩こう。どこにも行けないと嘆いていた村紗を、どこまでも連れて行ってあげよう。私も知らない場所へ行こう。これから、どこへだって行こう。
幸いなことに、時間はたっぷりある。
死ぬまで一緒だ。死んでも一緒だ。
私の手に冷たいものが載せられる。柔らかな感触がする。優しげな力で手を握ってきたそれを、微かに握り返した。
溶けてしまいそうなくらい小さな声が、私の鼓膜をそっと打つ。
「あいしてる」
それは、どっちの台詞だったのだろう。
音もなく静かに溺れるみたいに、私は眠りの中に沈んでいく。
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村紗と一輪のキャラクターがしっかり描けていて、それが上手く溶け込んでいて
なんとも言えない満足感です
ありがとうと言わせてください
現代モノは抵抗があってなかなか入り込めないんですが、
すんなり読めたというか。
いい話をありがとうございました。
もう本当に素晴らしいとしか言えないお話でした!
現代物だからでしょうか、村紗の幽霊少女というキャラが一際立っていて、とてもよかったです。
一輪が卒業する時どうなるのかと思っていたら、こうなるとは。
不思議で楽しいお話でした。
あと、さり気なくいる雲山と、とらまるw
柚季さんの文章と、その端々から感じるさりげない細やかさが大好きです。濃縮された感情がフィルタを通して瑞々しく還元されたかのような作品でした。
胸の中にスッと入ってくるような感じで、非常に読みやすかったです
死ぬまで一緒だ。死んでも一緒だ。の独白でものすごい涙出ました
殴りんぼの一輪に雲山成分を、村紗の妙な口調にナズーリン分をひしひしと。村紗のセーラー透ーけろ!!
細かな設定面もうまい。
東方ということを良い意味で忘れて読みふけってしまいました。
両親やペットもさりげなくパラレル命蓮寺勢っぽいのにニヤニヤ。
このまま一輪が大人になっても一緒に居ることが幸せなのかどうか危うげな感じもしますがそれが幽霊との恋だもの。
仕方ないね。
俺は一輪の父が雲山でデブ猫はぬえだと思った。
こういう百合がもっと読みたいんだ。
読みながら一輪さんと同じ気持ちになっていました。上手く言葉にできないですが、とても、とても素晴らしかったです!
とにかく泣けました
一輪さんの心情描写が細かくて感情移入がしやすかったです
あと、さりげなくモブにも寺成分が入ってて良かったです