「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです……(略)つまりですねぇ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ」
「アルジャーノンに花束を」チャーリィ・ゴードンの台詞より抜粋。
*
――雨の匂いがする。
ナズーリンはふと頭上を見上げた。
と同時に、頭上に広がる黒い雲に、顔をしかめた。
「聖。今にも雨が降りそうだよ」
そう言われ、聖も上を見上げる。
「あらあら。大変。服を買ったばかりなのに」
人里から出た直後だった。このまま歩いていけば、間違いなく雨が、着ている服もろともびしょ濡れにしてしまうだろう。濡れた服は体に密着するから、大分気持ちが悪い。洗濯物も増える。百害あって一理なし、だ。
そういうことで、二人は走って帰ることにした。なるべく早く帰るために、人外の力を使って。
走る速度は吹く春風にも負けてはいなかった。
人間が見たら目を疑うような速度。里の中をこの速度で駆けようものなら、恐らく周囲あるもの――商品とか洗濯ものとか――が走者が起こした風によって吹き飛ばされてしまうだろう。人里の守護者が出張っても文句が言えないスピードだ。
ただ、ここは妖怪の山に近い道であるし、だからこそナズーリンと聖はこの速度で走っているのだが。
目の前に聖が走る。身体能力の強化に長けた魔法使いに、さすがの妖獣であるナズーリンと言えども、距離を離されないようにするのが精一杯だ。今にも始まったことではないが、どうもこの人物が元は人間であることをナズーリンは実感できない。
――ま、おかげで早めに命蓮寺に帰れそうだけどね。
走りながらナズーリンは軽く周囲を見回す。道は森に入ったようで、周りに木が多くなってきている。厚い雲によって光は薄く、暗い。雨の匂いが益々強くなってきたことをナズーリンは感じた。
と、同時に、全く別の匂いも。
ナズーリンはスピードを緩めた。いくつかステップを踏んで、土埃を上げながら徐々に徐々に。ザッザッ、と音を立てて、最終的にズザーと音が繋がった。
ナズーリンの減速に聖も気がついて、同じように止まり、振り返ってナズーリンを見る。
「どうしたのですか?」
「いや、今……」
ナズーリンが感じた別の匂い。その匂いに惹かれ、ナズーリンたちは元来た道を戻る。
地面が削られた跡を見つけて、そこから、より強い匂いを求めて脇道へと入った。
「……あ」
ナズーリンの視線の先には洞窟があった。妖怪の山近く。断崖の下。そこに自然と出来た思わしき洞窟が。
そしてナズーリンの嗅覚が最も強く、敏感に反応した。
それは種族として、最も忌み嫌うべき匂いで。
なのにナズーリンは自分と同じ匂いを感じた。
聖が洞窟の中に入る。ナズーリンもそれに続く。
中には――赤と白の服、二つに分かれた尻尾、そして決定的な特徴――猫耳。
「……ふぇ?」
その娘は怯えていた。しかし、ナズーリンと聖にではないようだ。聖はすぐにその娘の正体を悟った。
「あなた、式神ですね?」
「式神?」
「ええ。魔力の感触から。式神は水に弱いですからね。もうすぐ降ってくる雨に怯えているのでしょう」
「なるほど……」
じっと猫の式は二人の様子をうかがっている。その目は不審に思っているというよりも、不思議に思っていると言ったほうが自然だ。きょとん、と二人のやりとりを聞いている。
「どうして、こんなところに?」
「さぁ。しかし、それどころではありませんね。このままでは、この娘は動けずじまい……さて、どうしたものか……」
ナズーリンは洞窟の中を見回す。
洞窟はまるでスイカにスプーンを立てて繰り抜いたような感じで開いている。聖の背の高さでは屈まないと入れないが、ナズーリンの背の高さなら余裕で立って入れるくらい高さがあった。
奥深さはナズーリンの身長の約二倍くらい。ナズーリンが横になって眠ることもできそうだ。
ナズーリンが洞窟を舐めまわすように見ている時、聖は「あ、そうだ」と表情を柔らかなものに変えた。
それは慈母の笑みそのものなのだが、ナズーリンにはまずいことを言い出す予兆にしか見えない。
聖は柔らかい微笑を湛えて言った。
「よろしかったら、家に来ないかしら?」
ナズーリンは振り返って空を眺めた。そこには先程よりも濃い影が染みついた雲しか見えなかった。
*
猫の式は橙という名前だった。
事情を聞くと、家に帰る途中で雲行きが怪しくなってしまい、洞窟に逃げこんだ、と橙はたどたどしく説明した。
――確かに、この雨じゃ洞窟に逃げ込むのが正解だったな……。
命蓮寺の窓から見える景色は雨によってすっかり単色になってしまっている。
一面に水のカーテンを引いたかのように、帰った時の雲行きに比例して、今や断続的に雨が降る音が続いている。
ナズーリンはこの色を何に例えるのかで忙しい。――銀色? 鉛色? いや、水の透明さをうまく表すには……雨の色、じゃそのまんまだな……。
「ナズーリン。聞いているのですか」
――聞きたくないからこうして忙しくしてたのに。
そんなことは思っても口に出さないのが、ナズーリンである。
「はいはい、聞いてますよ聖……」
「そうですか。まぁ念のためもう一度言いますよ。この娘――橙ちゃんと言うのですけれど、しばらくはここに置くことにします」
「はぁ……」
星が聖の膝の上で、体を丸めて寝息を立てている子猫に視線を向ける。
「あのぉ、いいんでしょうか」
星が不安げな顔を浮かべて訊いた。
「何がですか?」
「だって、その幼さだと、保護者がいると思うんです。なのに、勝手にここで預かっても……」
――いいぞ、ご主人。
ナズーリンは心の中でひっそりと応援した。
何も天敵を家に招くのを反対するのに理由はあるまい。ナズーリンはこの幼い猫を家に置いておくことに反対している。ただ、面と向かって言うことはできないだけで。
聖の博愛主義にかかれば、鼠と猫という相容れないはずの関係も、愛を障害する壁――もちろん乗り越えるべき目標として、なおさら家に置くべき理由にしてしまうからだ。
それともう一つ、ナズーリンには橙を嫌う理由があるのだが……。
「確かに、本来ならその保護者さんに連絡をする必要があります。しかし、この子が式神であるということ、式神は水に弱いということ、外は大雨だということ、あの状況ではこの子は寒い洞窟から出られなくなっただろうということ――これらの理由から、今回は保護という形でここに置くことにするのです。もちろん、然るべき時に保護者の方には連絡を入れます。……よろしいですか?」
「あ、あぁ。それなら問題ないですね」
あぁ……とナズーリンはこめかみを押さえる。
これで、あの猫を命蓮寺に置かない理由はなくなった。今反対なんてしようもんなら、冷徹無慈悲な妖獣として、聖にこってりとお説教を聞かされるはめになるだろう。愛とはなんのなのか、愛というものに境はないだとか、そんなのが延々と。
ナズーリンは身震いを起こす。そんなのは真っ平だ、と。
「さて、これで決まりましたね。とりあえず、お布団を用意しましょうか。ナズーリン」
「は、はい?」
いきなり呼ばれて、嫌な予感が全開になった。
「布団用意してください」
「え、えぇ? どうして私なんで――」
ナズーリンはそれ以上は言うことは出来なかった。
聖の日本刀のような切れ味の視線に身が固まってしまったから。
「あなた、私が気がついてないとでも思ってましたか? さっきからこの橙ちゃんを避けているでしょう」
「ぎくっ」
――やばい。とっくにばれてたのか。
「鼠と猫がいくら種族的に仲が悪いからと言ってあなたたちがそうなる必然性はどこにもないのです。そもそも鼠と猫の仲が悪くなった原因は干支を決める際の諍いと聞くではありませんか。ならばこの――」
「分かった! 分かったよ聖! 布団しけばいいんだろ!」
ナズーリンが聖のありがたい説教を中断させたためか聖の頬は若干膨らむ。
「……まぁ、いいでしょう。では、よろしくお願いしますよ、ナズーリン」
「あ、あぁ……」
ホッとため息を吐くナズーリン。
「あぁ、そうそう」
「……?」
「布団はナズーリンの部屋に敷いてくださいね?」
「……」
ナズーリンの動きが止まった。一見では聖の輝かんばかりの笑顔に見惚れてしまったかのようだが、もちろんそんなことは一切ない。
「え、え?」
「寝食共にすればというやつです。それでは」
戸惑うナズーリンを置いて、聖は微笑みを浮かべて自分の部屋へと戻っていった。
「…………」
「あ、えっと……、頑張ってね、ナズーリン」
星はあははと笑いながら逃げるようにしてその場を去って行った。
「…………はぁ」
ナズーリンは長く、ため息を吐いた。
*
ナズーリンは橙をおんぶしながら部屋を開けた。ナズーリンの部屋は質素倹約という言葉がよく似合う部屋で、つまり必要最低限な家具以外何も置いてないような、殺風景な部屋である。広さは四畳半くらいで、ナズーリンは畳が敷いてある床に橙を置き(本当は放り投げたい気分だったが)、布団を二つ敷いて、片方に橙を寝かせた。その後、手早く寝まきに着替えて、もぞもぞと布団に潜り込む。
(……そう言えば)
この部屋で誰かと一緒に寝るのは、初めてだな。
そんな思いが心によぎり、なんとなくナズーリンは橙の方へ顔を向けてみる。
橙は静かで、それでいて幸せそうな寝顔をしていた。先程までは嫌っていたが、なるほど。こうして見ると可愛いものだ。
「……おやすみ」
一言呟いてみた。
案外、悪くないものだな、とナズーリンは思って寝た。
*
一面に花畑が広がっている。
光が水底に差し込むように、日差しは柔らかく温かい。風は花を揺らし、花粉や種子を乗せてまた遠くへと流れて行く。
一人の少女が花畑に中心にいた。きれいな文様の服を着て、丸い耳をぴょこぴょこ動かす。どうやらご機嫌の様子だ。花の上でゴロゴロ。満面の笑みをたたえて、肺いっぱいに花の香りを吸い込む。
一通りゴロゴロして体中に土や泥をまぶした後、少女は花を摘んだ。
優しい色合いにうっとりとして、そして花に口を付けた。少女はこれを「幸せのチュー」と呼ぶ。
「幸せのチュー」をすると、口に甘い香りが残るからだ。幸せな気持ちになれて、またお花でゴロゴロしたくなる。お花を摘んで、チューしたくなる。
「ナズーリン」
女の人の呼ぶ声が聞こえた。気がついた少女は少し名残惜しさを感じながらも、あらかじめ摘んでいた花を持って、その女性に走りよる。
花が家の中にあれば、家にも幸せな匂いで満たされる――。少女はそう考えていて、いつも花を摘んで家の中に飾るのだ。それがあまりモノがない家の中でも、彩を加えられる方法なのだから。
少女は女性に抱きついた。顔をあげて、満面の笑みをたたえて、
「おかあさん!」
そう少女は大声で叫んだ。
*
ナズーリンは布団を押しのけた。
動悸が激しい。
汗が鬱陶しい。
服が濡れて気持ち悪い。
(嫌な、夢を見たな……)
ナズーリンははぁ……と息を漏らすようにして吐く。ドキドキドキと、心臓がうるさい。今すぐ胸を開いて、握りしめて止めたいくらいに。
――昨日、おやすみなんて言ってしまったのが悪いんだろうか。あんな昔の夢を見たのは。ナズーリンはそう思いつつ、息を整える。――鼓動が鎮まる。もう大丈夫だ。
そこで、初めてナズーリンは隣に橙がいないことに気がついた。布団はきちんと畳まれて、隅っこに寄せてある。どうやら早めに起きたらしい。
「どこに行ったんだ……」
ナズーリンは汗で気持ち悪くなった寝まきを脱ぎ捨てて、いつも服に着替える。灰色の、色合いのない服。いつものお気に入り。落ち着いた色が一番好きだ。花みたいなヴィヴィッドカラーなんて嫌いだ。
――まぁ、あいつの行くところなんて普通に考えれば分かるな。つまり起きた後にすること、朝食だ。
ナズーリンは部屋を出た。
自分も同じように居間に行き、朝ごはんを食べようと考える。とりあえず気持ちを鎮めるためにも、落ち着いた食事がしたかった。命蓮寺の朝食は胃を驚かせない、自然元来のおいしさで構成された食事だ。少々大人向けだが、はたしてあいつは文句を言わずに食うことは出来るんだろうか?
*
ナズーリンの心配は杞憂に終わった。
テーブルに置かれたカレーを見て、ナズーリンは眉をひそめた。
「あれ? ナズーリンどうしたの?」
「村紗か……。なるほど、これはぬかった」
「ぬかったって……? 何が?」
「嫌、何でもない」
今日が金曜日なのが運の尽きだ。命蓮寺には時を計る時計も、ましてやカレンダーなんてものもない。それは、聖が時を計るものは人間を縛り付けるものとして、忌避しているためだ。
しかし、それでも世間では時間に縛られている。そこで、村紗が週感覚を狂わせないようにと、聖に毎週金曜日はカレーにするように提案したのだ。外の世界にある「海軍」とやらが取っている手法である。それを、聖は承諾し、毎週金曜日にはカレーが出るようになったのだ。
テーブルに置かれたカレーに、橙は満面の笑みで食べている。その様子に、作った村紗も嬉しそうだ。ただ、橙がカレーを喜んで食べるのは当然だろう。カレーが嫌いな子どもはいない。
(カレー……そういや、昔は好きだったな)
ふと、追想しそうになって、ナズーリンはぶんぶんと顔を振った。いけない、今日見た夢のせいで変な気分になってる。
とりあえず、今日もナズーリンは顔をしかめてマズそうにカレーをかっ込む。
もちろんこれに村紗はいい顔をしない。
「ナズーリン、相変わらずカレー嫌いだねぇ。あぁ、そうか。さっき顔をしかめていたのは、今日が大嫌いなカレーだったからだね」
「ならどうだって言うんだ?」
本当は違うが、今日がカレーだったのが幸いした。村紗や他の連中は『ナズーリンが嫌がってカレーを食べいるため、顔をしかめている』と思っていた。
「駄目ですよナズーリン。せっかく村紗が作ったものなんですから」
「そうは言っても聖。嫌いなものはどうしようもないじゃないか」
「ほんと、変わってるよねぇ。カレーが嫌いだなんて」
一輪が頬杖をつきながら、ナズーリンを一瞥する。
「見た目は子どもなのにさ」
その言葉にナズーリンはカチンときた。
「一輪、それどういう意味だ?」
「あれ? 怒った?」
ナズーリンはがちゃん、と音を立てて部屋に戻っていった。もちろん、大きな音をわざと立てたのは誰の目で見ても明らかだった。
「あれま。本当に怒っちゃった……」
「一輪。今のはあなたの失言ですよ」
「あぁ、聖。そんな鋭い目で見ないでくださいよぉ」
一輪はすっかりまいってしまった。ほんのジョークを言ったつもりだったのだ。まさか、ナズーリンがあそこまで怒るとは。
「でも、ナズーリン、今日は少しおかしかったですよね」
カレーを黙々と食べていた星が、ナズーリンが消えていったほうに目を向ける。
「いつもなら、少し皮肉を言うくらいなんですがね。『そんな子どもに仕事の量で負けてるのはどこのどなただろうねぇ?』みたいことを言うと思ってたんですが……」
「それ、少しの皮肉じゃないような……」
「そうですねぇ。確かにナズーリンは賢い子です。仕事も命蓮寺の中で一番効率よく、また量もこなしています。でも――」
聖は、顔を向けた。ナズーリンの食べ残したカレーに。
「――本当なら、橙ちゃんのくらいの精神年齢でちょうどいいんですがね……」
ふぅ……とその場にいる誰もがため息を吐く。過去に何があったのか、みんな知らない。もちろん、妖獣なのだから長く生きていることは事実だ。しかし、それは人間よりもという意味で、妖獣のカテゴリーに加えてしまうと、まだまだ子どもなのだ。あの、猫の式みたいに。
「あれ? そう言えば橙ちゃんは?」
村紗の一言に、その場にいた全員がそこにいたはずの橙がいないことに気がついた。
カレーを食べ終えた皿だけが、そこに残っていた。
*
――今日はおかしい……。いつも通りの反応が出来ない。あの夢のせいだ。あんな夢を見てしまうから……。
ナズーリンは部屋に戻り、仕事をしていた。しかし、いつもならスラスラとはかどる仕事も今は手の動きが止まってしまって全く進まない。ナズーリンの頭にあるのは、さっきの一輪のあの言葉だ。
『見た目は子どもなのにさ』
――子ども、に見えるのだろうか。
――私はまだ子どもなのだろうか?
何もできない非力、無知、幼さ……。それが子どもだ。ただ好き勝手やって周りを困らせる乱暴者だ。大人になる過程でしかなく、たまに振り返る人もいるがそれは愚かだ。子どもには、何もできないのだ。ほんとの、ほんとに……。
益々ナズーリンの気持ちが落ち込んでいく。これではいけないと思いつつも、ぐるぐるぐるぐると、思考がループする。まずい、抜け出せない。そう思った時だった。
「ねぇ」
部屋の入り口から声がした。
橙だった。
「ナズーリン、っていう名前なんだよね?」
「それが?」
ナズーリンの親の敵を見るような眼に橙は気圧される。しかし、(実際にこいつが来てから夢を見たことは間違いないが、それでもこれは八つ当たりだな)とナズーリンは思いなおし、普通の態度に戻した。
「で、何か用なのか?」
「あ、うん。あのね……えっと……」
「あぁ、もう。言うべきことをはっきりさせてから声をかけろよ」
「ひゃ、え、えっと……」
ナズーリンは橙がしどろもどろしてるのに腹を立てる。これだから子どもは、と。もっと効率よく、論理的に動けないのか。
「あ、あの……。ナズーリン、が私を見つけてくれたんだよね?」
「あ、あぁ……。そうだけど、それが?」
見つけてくれた、とはあの洞窟のことだろうとナズーリンはすぐに分かった。しかし、それがどうしたというのか。
「あの、ありがとう! 私を助けてくれて!」
「あぁ……お礼か。別に、大したことじゃないさ」
「それでね……。あの、お礼なんだけど……その、とっておきの場所私知ってるの!」
「はぁ、それで?」
「一緒に行こ!」
「……はぁ?」
ナズーリンは呆れた声を出した。
「あのね……。お礼っていうもんは、普通なんか物で払うんだよ。相手の時間を取らせないようにするためにね。でも、それは、私の時間を使うものじゃないか」
「え? あ、う、うぅ……」
橙は本当に困ったという顔をした。耳がぺたんと垂れて、どうしようかどうしようかと全身で言っているみたいだった。
「でも私、そんなお礼にあげられるような物持ってないし……」
「あぁ、いいんだよ。お礼なんか」
「いいじゃありませんか、ナズーリン」
「聖?」
部屋の入り口、つまり橙の後ろににゅっ、と聖が出てきた。恐らくこの猫の式に用があるか、私に用があったのだけれども、こいつと私が話している内容を盗み聞きしてたのだろうな、とナズーリンは推測した。それは両方正解であった。
「ナズーリン。この娘の親が分かりました。あの八雲の式の式ですよ、橙ちゃんは」
「八雲の……式の式!?」
なんということだ。八雲と言ったらあの八雲なのだろう。幻想郷の管理者。八雲 紫。そして式の式、ということは、八雲 紫の式――つまりあの有名な「九尾の狐」、八雲 藍の式ということではないか。この猫の式はあの八雲家の系譜を受け継ぐものだったのか。にわかには信じられない。
ナズーリンは内心少し混乱しながらも、橙を見る。橙は「それがどうしたの?」とでも言っているかのように、小首を傾げていた。聖が嘘をつくわけないし、何より当の本人はこの様子だ。十中八九間違いないだろう、とナズーリンは思った。
「それで、どうしたんだ?」
「はい。橙ちゃんの、親――まぁ、八雲 藍さんですが、連絡が取れました。ここに直接迎えに行くそうです」
「そうか、それはよかったな」
「しかし、藍さんは現在境界の修復を行っているらしく、迎えに行けたとしても夕方になってしまうそうです。そこで、橙ちゃんは夕方までここで預かることになりました」
「……それで?」
「しかし、先程の話を聞いてると、橙ちゃんはあなたにお礼がしたいそうじゃありませんか。礼を尽くす相手にもまた礼を尽くす必要があります。あなたの今日の仕事は橙ちゃんのお礼を精一杯の感謝の気持ちで受け取ること。いいですか」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ聖! 私にはお礼なんて必要ないって!」
「しかし、それでは橙ちゃんのお礼をしたいという気持ちはどうするのですか? まさか、橙ちゃんに物でも要求するつもりですか? それとも、八雲 藍さんにでも要求しますか?」
「う、うぐぅ……」
ナズーリンは言葉に詰まった。いくらナズーリンが賢いからと言っても、聖には敵わない。まぁ、それはナズーリンが聖に従う理由の一つでもあるのだけれども。
とにかく、ナズーリンは橙と一緒に、橙の「とっておきの場所」へと行くこととなった。
この時、何か嫌な予感をナズーリンは感じたが、そういうのを信じないナズーリンはすぐに気のせいの一言で片づけてしまった。
*
空は一面の青空だ。とても昨晩大雨が降ったとは思えないほどだ。風が強く、前に歩く橙の服がぱたぱたと動く。春のうららかな日差しがとても気持ち良い。気分転換にはちょうどよかったかもな、とナズーリンは素直に思った。
春らしさが出ていた。道端の草樹は若緑に萌え、心地よい温かさが心を和ませる。こうして歩いていると、足の裏から大地の喜びが伝わってきそうなほど、土はふっくらとしていた。
命蓮寺から出て、魔法の森へと向かっていた。橙の「とっておきの場所」とやらはどうやら魔法の森にあるらしい。ナズーリンは期待はしていない。どうせ子どもの「とっておき」なのだ。しょうもない所に決まっている。
一方、橙の足取りは軽い。ふわふわとしていて、押したら柔く戻るスポンジを連想させる。まるで、スポンジの上で飛び跳ねてるような歩き方だ。前は見えないが、笑顔であるに違いない。事実、後ろに振り返った橙は笑顔で輝いていた。
「ねぇ、ナズーリン! どんなところだと思う?」
「さぁ、どうだろうなぁ……。どういうところなんだい?」
「ふふっ。ヒ・ミ・ツ!」
全く、自分から振っておいて秘密はないだろう、とナズーリンは苦笑した。先程の気分ならこんなつまらないことでもキレてたかもしれないが、今は春の陽気のせいで気分がよかった。いつものナズーリンに戻れたようだった。
と、軽い足取りで歩いていると――
「うらめしやー!」
「ひゃああああ!!」
橙は突如として現れた小傘にあらん限りの悲鳴を上げて、ナズーリンに抱きついた。ナズーリンも驚いており、もしも橙が叫んでなかったら自分が叫んでいただろう、と思わせるほど仰天していた。心臓がバクバク動いているのを気づかれないように鎮める。
「やったー! おっどろいたー! 驚いたよ、ぬえ!」
小傘が後ろに振り返ると、木だと思っていたものが突如ぬえになった。この怪現象に橙は再び悲鳴を上げるが、ナズーリンは納得していた。
「なるほど。ぬえの仕業だったのか」
「そういうこと。正体不明の種で姿を完全に隠し、そして時を見計らって大声を上げながら姿を現す、って寸法よ」
「また暇だなぁ、お前らは」
ぬえの手ににょろにょろと蛇みたいなものが蠢いていた。これがぬえの持ったものを正体不明にさせる「正体不明の種」であることをナズーリンは橙に教えた。
「へー、そんなのがあるんだぁ」
「ここまで驚いてくれたのは久々だったよ!」
小傘は満足そうに「ない」胸を張った。
「私のおかげだっつの」
「ふぇー。幻想郷には色んな妖怪がいるんだなぁ」
「ところで、お前さんたち」
ぬえの顔がナズーリンと橙に向いた。
「いつまでくっついているつもりだい?」
「え? ……あ」
「あぁ……」
指摘されて初めて気がついた、という顔を二人ともする。ナズーリンの腕に体を絡ませて、二人は密着していた。その光景はまるで――
「カップルみたいだな」
ケタケタとぬえは笑った。
「誰がだよ、全く……」
「まぁまぁ。ところで、今更だけどさ。その娘、誰?」
「そう言えば説明してなかったか」
ナズーリンはぬえと小傘に橙の名前を教えて、昨晩雨風で困っていたところを拾ったこと、もう親には連絡がいっていて、夕方まで命蓮寺で預かっていること。で、橙がお礼にということで「とっておきの場所」を案内してくれることを簡潔にまとめながら話した。
「へぇ。あの八雲の式の式か。こんなのが」
「むぅ。こんなの言わないでください」
「ははは。悪い悪い。じゃ、邪魔したな」
「ほんとにな」
ぬえと小傘はまたどこかへと行ってしまった。恐らく、また「正体不明の種」を使って通行人を驚かすのだろう。ナズーリンは巫女にはち合わせないことを命蓮寺に出入りしているよしみとして祈っておいた。
ナズーリンと橙はなんとなく並んで「とっておきの場所」まで行った。
*
一面に花畑が広がっている。
光が水底に差し込むように、日差しは柔らかく温かい。風は花を揺らし、花粉や種子を乗せてまた遠くへと流れて行く。
一人の少女が花畑に中心にいた。
ただし、それは夢の中にいた少女ではなく、橙だった。
ナズーリンは絶句していた。
「ここがとっておきの場所だよ!」
そこはナズーリンの夢の中と全く同じ光景だった。もしかしたら、ナズーリンはかつてここにいたのかも知れない。橙が花畑の上でゴロゴロ。これも同じだ。ただ、少女が橙になってるだけで。
「……」
「ほら、ナズーリン! 一緒にゴロゴロしようよ!」
「……いや、私は止めておくよ……」
「ふぇ? どうして?」
ゴロゴロを止めて、純粋な目でナズーリンを見つめる。ナズーリンの事情を何も知らない、無垢な瞳。
「……私は、花が嫌いなんだ」
「え? どうして?」
「どうしても何も、苦手なものは苦手なんだ」
ははは、とナズーリンは乾いた笑いを上げた。橙は首を傾げた。
「お花嫌いな人なんていたんだぁ……」
「今、目の前にいるじゃないか」
「うーん……」
「ところで、もうこれでおしまいかい?」
「え、まぁ、うん」
「じゃあ、私は帰らせてもらうよ」
「えーっ!?」
橙の抗議の声にナズーリンは苦笑した。弱々しい笑いだった。
「ごめんね。聖はああ言ってたけど、やっぱり仕事に戻らないといけないから」
「ふーん……」
「君はどうする?」
「私は……あ!」
俯きながら話していたが、顔をあげてにかっと笑った。
「もう少しここにいる!」
「そうか。じゃあ、私は先に帰ってるよ。夕方までには帰ってくるんだよ。君の親御さんが迎えに来るからね」
「うん!」
ナズーリンは少しよろめきながら花畑を下った。ちらりと橙のほうを向いて見ると、橙が摘んだ花に「幸せのチュー」をやっていたのを見て、もう耐えられなくなった。ナズーリンはそのまま全力で走って命蓮寺まで帰った。
「よーし、頑張るぞぉ!」
そのナズーリンが走り去るところを見ていなかった橙は、花を摘み始めた。笑顔を浮かべて、先程思いついたささやかながらも、とっておきな作戦を成功させるために。
日は傾き始めていた。橙がその作業を終えたのは、夕方近くになってからのことだった。
*
命蓮寺に帰ったナズーリンは誰ともろくに話さずに、部屋へと篭ってしまった。
とにかく、心拍数がひどかった。鎮めるためにも部屋に篭り、畳んである布団に転がった。喘ぎ声が部屋に満ちて、汗がひどく服がびっしょりだ。
――あぁ、もう……。
自分が嫌だった。こんなのに屈する自分が。昔のことを未だに引きずる自分が。
――あの時に決めたはずなのに……。
たかが、猫の式がよく似た花畑に案内した。それだけでもう駄目だった。精神が悲鳴を上げる。胸がキュッと絞まる。呼吸が苦しくなる。声が漏れる。汗が止まらなくなる。もう死にたくなる。
そんな時に襖がスー……っと開いた。聖が、心配そうな顔つきで覗いていた。
「ナズーリン? 大丈夫ですか?」
聖の、優しく柔らかい声。心の底から心配してくれている、そんな声。子どもじゃ出来ない、大人でもここまで優しい声が出来るのか。聖はいつも真っすぐな人だった。真っすぐな大人だった。そこに、惹かれていた。
「あぁ……大丈夫、だ」
「あまり、無理はしないでくださいね?」
「あー……ところで、聖。何か用?」
「えぇ。橙ちゃんの保護者に方がいっらしゃったんですが、橙が見えないようなので……。ナズーリン、橙ちゃんはどうしたんですか?」
あの娘の保護者が来た。つまり、もう夕方か。こうやって喘いでいるうちに、大分時が経ってしまったようだな、とナズーリンは身を起こした。
「あ、ナズーリン」
「いいんだ。もう大丈夫だ。今、そっちに向かう」
ここでへこたれるわけにはいかない。聖に無様なところを見せたくない。シャンとしろ。相手は八雲の式であり九尾の狐だ。しっかり冷静に対応しろ。
ナズーリンは自分の心を鼓舞して、部屋を出た。聖がその後をついていった。
居間に着いたら、そこには九本の尾を持った狐がいた。気品にあふれる佇まいで、居間に入ったナズーリンをジッと注視している。間違いなく、八雲 藍である。
「すみません、どうも」
「いえいえ。あなたが、うちの橙を?」
「はい。ナズーリンと言います」
「あぁ、どうも。私は八雲 藍と言います」
「存じてます。あの有名な八雲 紫の式ですよね?」
「えぇ、まぁ。あんなグータラの式ですが、一応ね」
藍は軽く笑った。完璧な微笑みで、ナズーリンが思わず見惚れるほどだった。
「突然ですみませんが、うちの橙はどこにいるのでしょうか?」
藍からの呼びかけで呆けていたナズーリンは正気に戻った。
「え、えぇ。実は、途中まで一緒だったんですが――」
ぱたぱたぱたと、何かが駆けるつける音がした。音に気付き、音の方角を向くと、橙が泥んこになって走ってきた。
「あ、藍さま!」
「橙! あぁ、もう。無事でよかったぁ。――うわっ! すごい泥だらけじゃないの!?」
「あぅ……ごめんなさい」
「もう……まぁ、服は洗濯すればいいだけだけどさ。でも、橙。お前はただ一人の橙なんだよ? あまり私に心配をかけさせないでおくれ」
「はい……すみませんでした……」
藍は再び微笑んだ。やはり完璧な、大人の笑みだった。橙が隣にいるからか、なおさら完成具合が強調される。理知的で、でもあどけなさもある微笑み。ナズーリンは自分が小さく見えた。勝てない――。そう感じざるを得なかった。――九尾の狐は、伊達ではない。
「ほら、橙。お礼をいいなさい」
藍に促され、橙はナズーリンの前に立つ。手を後ろにして、幼さを多分に含んだ笑顔をナズーリンに向けた。
その時、ナズーリンに嫌な予感が走った。
橙の後ろに回された手が、目の前に移っていくのがスローモーションで見えるような気がした。その手に握られているモノが、ナズーリンを破滅に導く『何か』である気がした。橙は、先程と変わらぬ笑顔でそれをナズーリンの目の前に掲げた。
「ありがとう! ナズーリン! これ、お礼の花束!」
ナズーリンの目の前に差し出されたのは、様々は色の花が混ざり合い、丈夫な茎で一括縛った、小さな花束。橙が思いついた、とっておきの贈り物。
その時、ナズーリンは絶叫した。
*
ガラガラガラ――。牛車の牽く音が、響く。牛車には、あの夢の中に出てきた小さな女の子――幼き日のナズーリンが乗っていた。
「……え?」
ナズーリンは今でも起こったことが理解できなかった。手に持った自作の小さな花束が、所在なく揺れた。牛車の窓から見えるのは、泣いている母親と気難しそうにしている父親。そして、数多くの兄と姉。
何が起こったのか、思い返してみる。まず、変な男が家にやってきた。今日も花畑に遊びに行こうとしていたら、母親に止められた。変な男は幼いナズーリンをジロジロ見て、満足そうにいやらしく笑うと、父親にお金を渡した。そして、幼いナズーリンが変な男に手を牽かれて、牛車に乗せられた。幼いナズーリンは必死に抵抗したのに、お母さんとお父さんを叫ぶようにして呼んだのに、家族は一向に幼いナズーリンを助ける兆しがなく、ただ悲しそうにこちらを見ているだけであった。
咄嗟に母親が動いた。やっぱり助けてくれるんだ――! そうナズーリンは思ったが、母親は家に飾ってあった花を束にしてナズーリンに渡しただけだった。それは、ナズーリンがあの花畑で摘んだ花たちだった。もう枯れかかっていて、新しく摘もうと思っていたことを思い出した。
家族は、結局助けるどころか、助けようともしなかった。ナズーリンは、自分が売られたことを悟った。
ふと、手にした花束を見た。枯れかかった花束。自分のように、もういらなくなって捨てられそうになった花束。
ナズーリンは花束を床に叩きつけた。何回も何回もそれを踏んだ。力の限り踏んだ。
そして、泣き叫んだ。
家族が憎かった。幼い自分が憎かった。花すらも憎かった。
母親が、泣きながらこちら見ていた。ナズーリンは窓に張り付いた。
『花束押しつけてどうするつもりだ! 私はこの花束みたいに捨てられたくないのに! 私を売るんならどうして生んだんだ! 売るために生んだのか! 摘まれて売られる存在なのか私は! ふざけんなよ! どうにか言ったらどうなんだよ! 何も言えないのかよ! 嫌いだ! 大っ嫌いだ! 消えてしまえ! お前なんて、いなくなってしまえ!』――
*
ナズーリンがハッと気がついた時には、過去に母親に投げかけた言葉と同じことを言っていた。
ただしそこにいるのは、母ではなく、橙だった。
「ご、ごめんね……。そんな、そんなつもりなくて……」
橙は、ただ花のよさを知ってもらいたかっただけなのだ。自分が選んだ花をまとめて送れば、きっと花が好きになってくれると、そう一途に信じていたのだ。
橙が一歩、二歩下がった。目にじわっと涙が溜まり、耐えきれず、橙は泣き叫びながら命蓮寺の外へと飛び出した。ナズーリンはただ茫然とそれを見ているしか、出来なかった。
――今、私は何をしたんだ?
問いかけた瞬間に理解した。つまり、自分は花束を渡された時に、フラッシュバックして、勢いで橙を罵倒してしまったのだ、と。
ふと、ナズーリンは藍を見た。三途の川の長さを求めたという頭脳を持っていても、今なにが起こったのかを理解するのに時間がかかっているようだった。
ふと、藍の毛が逆立った。理解したのであろう。橙を泣かせ、命蓮寺から走って出て行かせた原因を。殺気が居間に満ちて行くのをナズーリンは肌で感じた。
――あぁ、私死ぬな。
ナズーリンは自嘲した。構わなかった。むしろ死にたかった。自分が愚かで矮小な存在なのを、ここまで強く感じたことはなかった。ナズーリンは長い歳月を自分を磨くことに使ってきたが、それも無駄なことだと感じた。
藍が身を屈めた時だった。左の頬に、衝撃が走った。
ナズーリンは吹っ飛ばされて、壁へと叩きつけられる。ナズーリンは若干混乱していた。藍が屈めただけだったから、攻撃はしていないことになる。では、誰が――?
見れば、聖だった。聖が拳を突き出していた。
――怒ったのか、無理もない。命蓮寺の顔に泥を塗ってしまったのだから。
しかし、ナズーリンは聖の顔を見て、絶句した。
聖は大粒の涙を流していた。流した涙は球状になって、聖の服へと吸い込まれていく。聖だけではなかった。村紗も一輪も星も、全員、同じように号泣していた。
――おい、なんだよこれは。なんで泣いてるんだよ。怒れよ。私を怒って、命蓮寺から追放しろよ。そうすればせいせいするじゃないか。こんなやつ置いてどうするんだよ。早く責めたてろってば、早く。
「――ナズーリンッ!!」
聖が大声を張り上げた。その声は喉から絞り出したようだった。ナズーリンはようやく自分が責められるのかと思ったが、違った。
「早く、橙ちゃんを追いかけなさい!」
「え……でも……」
「早く!!!」
聖に急かされて、ナズーリンは慌てて立ち上がり、走り始めた。チラリと、後ろを見ると、聖や星、一輪、村紗までもが藍に向けて、地に額をつけていた。ナズーリンはズキリと心が痛む余地もなく、前を向いて走り続けた。
*
命蓮寺を出た時、真っ先に空が目に入った。先ほどまでの青空はどこへ。まるでナズーリンの心を投影しているかのように、空は一面灰色で染まっていた。もしかしたら、直に雨が降るかも知れない。
――それは、やばい。
天気に舌打ちせざるを得ない。橙は式なのだ。式は水に濡れると落ちてしまう。早く橙を見つけ出したいところだったが、一体どこにいるのか分からない。とりあえず、ナズーリンは走り続けた。
ナズーリンは知っているところを全部巡った。名前だけしか聞いたことがなかった、幻想郷の各所、有名なところも全部回った。そして訊きまくった。巫女に、魔法使いに、風祝に、ナズーリンの知らない人にも訊いて回った。もちろん、マヨイガにも行った。しかし、情報は一向に手に入らなかった。天気は機嫌を損ねたようにますます悪くなっていって、もう、いつ雨が降ってもおかしくはない。
さらにナズーリンにも限界が近づいていた。最初は飛んでいたが、途中、魔力が尽きて走らざるを得なくなってしまった。ナズーリンは走るのにもただ走るのではなく、全身全霊で走り抜けていた。しかし、そこまで骨身を削っても、橙はどこにもいなかった。何の情報も手に入れることは出来なかった。しかも、天気の時間制限が近づいていた。
それでもナズーリンは諦めない。体力が限界に近付いたせいで、ろくに走ることが出来ないが、ナズーリンは走り続けた。少なくとも、走ろうとはしていた。
途中に転んだ回数は数知れなかった。つまらないところでも何度もこけて、そのたびに生傷が増えていった。痣が、擦り傷が、切り傷が、体中に増えていった。
意識が朦朧としてきたナズーリンはふと思った。どうして、ここまでしてあの猫の式を追いかけているのだろう? ――と。
それは、きっと過去の自分の取り戻したいのだろうとナズーリンは思った。実は、橙を見るたびにナズーリンには疼きに似た思いがあった。それは、もう戻れない過去、もう取り戻せない幸福を、橙を見るたびに思い出していたのでないか、とナズーリンは理屈をつけた。――だから、橙に出会ったあの夜、過去の幸せを夢見たのではないか。
そして、橙を見つけて、命蓮寺に連れ帰ることが出来れば、そういった失ってしまった過去を取り戻せるのではないのかと、そうナズーリンは思っているようだった。
そんなことがあるわけないのに。ナズーリンは自嘲した。いつのまにか走るのを止めて、体を引きずっていた。足跡ではなく、足を引き摺った跡が後ろに残った。それに、場所も魔法の森の中にいたことに気がついた。もう何がなんだか分からなかった。自分が何をやっているのか、自分が何を求めているのかも。
そんな時、声が聞こえた。
「ナズーリン!?」
小傘の驚いていた声だった。おいおい、驚かせる妖怪が驚いてどうする、と皮肉が胸中に湧いたが、それを言う余裕をナズーリンには残っていなかった。
小傘の隣にはぬえがいた。小傘が持っている紫色の傘に二人仲良く並んで入っていた。最初、ナズーリンは何で二人が傘に入っているのか分からなかったが、意識の彼方に放り投げていた感覚を取り戻して、ようやく分かった。
――雨だ。
雨が降っていた。それはすなわち、時間切れも意味していた。ナズーリンは膝から崩れそうになった。
それを、ぬえが受け止めた。
「大丈夫か? ――ひどく、ボロボロだな……」
「もう、放っておいてくれないか……」
「君は、橙を探しているんだろう?」
ぬえの言葉を聞いて、ぬえの顔を見た。――なぜそれを? そう訊きたがっている目をナズーリンはしていた。
その目を見て、ぬえは苦笑した。
「状況を見れば分かるさ。ナズーリンがそこまでになって探す相手なんて、私の知っている限りあの猫しかしらないからね」
「そう、なのか……?」
ナズーリンがこうまでして探す相手をぬえは事前に知っている、とそう聞き取れる言葉だった。
「そうなんだよ」
ぬえは苦笑とともに、その疑問に答えた。その後、すぐに顔を引き締めた。
「ナズーリン。君はここで膝を折れて、くたばっている場合じゃないだろう? まだ、君は橙を見つけてないじゃないか」
ナズーリンは唇を噛みしめた。
「……でも、あの子がどこにいるのか……」
「まだ、行ってない場所があるんじゃないか?」
そう言われて、ナズーリンは目を見開いた。なぜ最初に思いつかなったのか。なぜ真っすぐにそこへ行こうとしなかったのか。それに、そこには天が設けた時間制限なんて関係がない。なぜなら、そこは三方上下が岩壁に囲まれていて、雨を遮ってしまうのだから。
「……洞窟」
「どうやら、分かったみたいだね」
ぬえはナズーリンを立たせた。ナズーリンは体が限界に近付いているせいか、雨に濡れて体温が下がったせいか、ぷるぷると小刻みに震えている。
「ここで立ち止まっている場合じゃない。早く、行ってあげればいい」
「……ぬえ」
「早く」
ナズーリンはゆっくりと頷いて、体を再び引き摺り始めた。目指すは最初に出会った時の洞窟。橙との関係が始まった場所。
ナズーリンは今度こそ限界だと思った。でも、そこに絶対橙はいる。ナズーリンは執念にも似た思いで、体を引き摺って行った。
*
ナズーリンが体を引き摺って視界から消えた後、小傘は心配そうに訊いた。
「ねぇ、ぬえ? あの事を、教えなくていいの……?」
ぬえは目を閉じて、はぁ、と息を吐いた。
「いずれにしても教えないほうがよかったよ」
「でもっ!」
喰いついてくる小傘をぬえは制した。
「ここであのことを教えてしまったら、ナズーリンはいいとしても、橙の思いが無駄になってしまうよ。――確かに、あのせいで二人には永劫の溝が出来てしまうかも知れない。でも、ここは賭けるしかない。二人が本当の意味で仲直りするには、ああするしかないんだよ」
「……」
ぬえの言葉に、小傘は俯いた。恐らくどうしたらよかったのか、考えているのだろう。ぬえはあえて何も言わず、ナズーリンが消えて行った方向をじっと見つめる。
(……確かに、ああするしかなかった。もしも教えたとしてたら、きっと何もならない。真の絶望が二人を包むだけ)
ふと、どうして自分はあの二人のことをそんなに気がかりにしているのだろう、とぬえは思った。自分は他人がうまくいかないことを喜ぶような妖怪なのに。
(うーん……気まぐれ、かなぁ)
それとも、聖に感化されてしまったのだろうか? そんなことは……。
しばらく地面を見つめていた小傘が、顔を上げた。そして、小傘は手と手を組んで、目を閉じた。
ぬえはそれに目を見張って驚きながらも、すぐに柔らかな微笑へと変わったいった。
「そうだね。今出来ることは、うまくいくように祈るしかないね……」
そうして、ぬえも手を組んで祈りを捧げた。ほんとに聖に感化されているのかも知れないな、と内心苦笑しながら。
(……ここが正念場だ。頑張れ。ナズーリン、橙)
雨がシトシト降る森の中、二つの影が二人の幸せを祈った。
*
ズルズルズル――とナズーリンは体を引き摺って、洞窟までと辿りついた。全身が雨で濡れて、傷に沁みる。辺りはすっかり夕方を超えて夜へと変態してしまい、夜闇と雨のせいで方向感覚が狂いながらも、どうにか辿りつくことが出来た。
胸に熱いものが湧きあがる。失ってしまった過去が再びに手元に戻ってくるような錯覚を覚える。――もうすぐ、もうすぐだ……。ナズーリンは最後の力を振り絞って、洞窟の中へと入った。
――ナズーリンは今度こそ膝から崩れ落ちた。
――そこに、橙はいなかった。
ただ、花束がぽつんと置いてあった。あの時渡された花束。屈託のない笑顔で、ナズーリンに差し出された花束。
その花束は、ナズーリンが売られた時に渡された花束にも見えた。ところどころ、枯れてくすんでいる。雨に濡れて痛んでしまったのであろうか。とにかく、その時の花束にも似ていた。
今、ナズーリンの心は完全に折れてしまっていた。魂という油を最後の一滴まで使って洞窟まで辿りついた結果だった。ナズーリンはその花束を抱えて、壁へと寄り掛かった。この場所を示唆した、ぬえを恨む気持ちすらも湧いてこなかった。
もうクタクタだったのだ。全身の傷が痛いし、心はもうボロボロだし。茫然と外の雨を眺めるくらいしかナズーリンには選択肢がなかった。必死に追いかけながらも、過去にも橙にも逃げられてしまったナズーリンには。
ふと、初めて橙に出会った時のことを思い出した。この洞窟で、雨に怯えていた橙。安らかな寝顔を浮かべる橙。花畑に寝転がりながら、幸せそうな顔をする橙。そして、ナズーリンに罵倒されて、涙を流す橙。
そして、強く想起したのは、藍に抱かれている橙の姿であった。藍の安堵を喜ぶ顔と藍に会えて心底うれしそうにしている橙。幸せな空間。親と娘。かつてのナズーリンにあって、今のナズーリンにはないもの。ナズーリンが追いかけたもの。ナズーリンが取り戻せなかったもの。
ナズーリンの頬に涙が伝い、落ちた。悲しみに比例して量を増やす涙に、ナズーリンは止める術を持たない。理性の鎧は剥がれ落ちて、ただ子どもみたいに泣いた。大声をあげて、壁に反響させながら泣いた。うるさいなぁ、と遠くから見つめるナズーリンがいた。それは剥がれおちて、独立したもう一人の理性(ナズーリン)だった。ナズーリンの心に今二人のナズーリンがいる。一人は大声で泣いている、幼いナズーリン。過去から成長することなく、留まった人格。そしてもう一人が冷めた目で耳をふさいでるナズーリン。過去から決別して、今でも幼さを憎悪する人格。幼いナズーリンはすなわち過去のナズーリンであり、理性のナズーリンはすなわち現在のナズーリンである。
今までは理性が優位に立っていた。捨てられたその日から、ナズーリンは自らの幼さを恨み、憎み、そして嫌ってきた。馬車から逃げ出し、たまたま滞在していた毘沙門天の門扉を叩いた。そうして、毘沙門天に仕えた。
毘沙門天に仕えたナズーリンは、自分の無力と感じてきた、幼さ、幼さから来る甘え問等を一切合財捨てて、仕事に励んだ。そんな心持が故に、異例の速さで出世して、星を監視する役についたのだ。
しかし、今ナズーリンはそんな自分を疑っていた。ほんとに目指したかったのはそんな大人なのだろうか? 他人を蔑み、優越感に浸るような大人に?
八雲 藍を見て、その思いは強くなった。藍は理知的な大人の中に無邪気な子供を含ませている妖獣だった。子どもと大人の完璧な融合。童心を持ったまま大人になった妖獣。笑顔の中に含まれる、完全なる大人の姿。
――戻りたかった。ナズーリンは、ただ戻りたかった。あの幸せな日々に。甘えの許される日々に。
戻りたかった。戻りたかった。戻りたかった――
「泣かないで」
ナズーリンはハッと顔を上げた。今のは、間違いなく橙の声だった。
どこだどこにいる? 右、左、上――
「ここだよ」
下――。
橙はナズーリンの腕の中にいた。目の花の先に橙の泣き顔があった。先ほどまで花束があった場所に。
「泣かないでよ……」
そう言う橙も泣いていた。ナズーリンに負けないくらいの泣き具合だった。
一体なぜ――? どうして橙が腕の中に――?
それは、橙の足元を見てすぐに分かった。橙の足元には蛇――つまり、ぬえの「正体不明の種」が転がっていたのだ。
橙はここに来る前に、ぬえに会っていたことは明白だった。そして、そのことをぬえはナズーリンに一言も話さなかったのだ。
ぬえに対する怒りが湧いてくる前に、橙はナズーリンの様子を察してか、説明し始めた。
「あのね。命蓮寺から出て少し走ったところでね、ぬえと小傘にあったの。それでね、ナズーリンが傷ついちゃったのは私のせいだから、出来るだけナズーリンには会いたくなかったの」
ナズーリンを傷付けてしまった。橙は、ナズーリンを傷付けたのは自分にあると責めたのだ。それはナズーリンのトラウマが原因だっとしても半分事実だった。半分でも事実であるが故に、橙にも「ナズーリンを傷付けてしまったという」傷を負ったのだ。
傷を負った橙は、その場から逃げた。逃げて、すぐにどこへ行くか行き詰った。そんな時に遭ったのがぬえだった。
「事情を話したらね、ぬえがこれくれたの。『これを持てば、例えナズーリンが君を見つけてしまったとしても、別のものに見えるから大丈夫』って、言ってたの」
ぬえはその時、ほとぼりが冷めれば仲直りになる機会が来るだろうと思っていた。しかし、実際には違っていた。ナズーリンに会ったぬえは、すぐにナズーリンが罵倒したのは、ナズーリン自身の問題であることを見抜いていた。しかし、だからと言ってぬえが橙に「正体不明の種」を持たせていることを告げるわけにはいかなかった。そうすると、ナズーリンはすぐに橙だと分かっているから、話しかけることが出来るとして、橙の方はすぐに見抜かれてしまって混乱に陥ってしまう可能性のほうが高かったのだ。下手すると、橙がナズーリンの目の前で逃げてしまい、双方にマイナスしか生まれない可能性があった。
だから、ぬえと小傘は祈るしかなかった。うまくことが運んで、双方仲直りになりますように――と。
そして、今。ぬえと小傘の祈りが通じた。
「ナズーリン。ごめんね……私――」
「いや、君のせいではないよ。私の、私の心が弱かったせいなんだ……」
「でも――!」
「君の花束が原因でも、きっかけにすぎない。起こるべくして起こったんだ、この事態は……。だから、君を憎むどころか、感謝しているんだよ。私は」
「ナズーリン……」
ところで、とナズーリンは自分の体と密着している橙を見た。
「私、雨でビショビショなんだけど……」
「うん、知ってるよ」
「でも、君は……」
式なんだろ? と言おうとしたところで、橙は笑って言った。
「ナズーリン、寒そうにしてるんだもん。私が温めてあげるの」
屈託のない笑顔だった。太陽のよう、とはよく言ったもので。実際橙と密着している部分は日向に当たっているかのように、温かった。そして、心も温かった。さっきまで枯れかかっていた心という花が、橙という太陽に照らされて、再び色を取り戻したかのようだった。
橙の温かな気遣いに心が温まるナズーリンだったが、ふと疑問に思うことがあった。
雨を怖がる橙だったけど、水に濡れたナズーリンは怖がらない。
不思議と言えば不思議だった。
ナズーリンはそのまま橙に訊いてみた。すると、橙は顔を赤らめた。
「あ、あのね……。その、こういうのは初めてだから分からないんだけどね……。でも、前に藍さまが言っていたのとそっくりだから、多分これで合ってると思うんだけど……」
「……?」
ナズーリンは橙が何を言っているのか分からなかったのだが、とりあえず密着した状態で橙がもじもじ動くのでむず痒かった。一方、橙は頬を赤く染めたままで、「えっと」「うーんっと」としどろもどろしていた。しどろもどろしていた橙を、ナズーリンは最初苛立って見ていたが、今では微笑ましく感じていた。明らかに、変わったなとナズーリン自身でも思った。
しかし、そんな些細な思いは心の決まった橙の一言で吹き飛んでしまった。
「え、えっとね、私……ナズーリンのことが好きみたいなのっ!」
『好きみたいなのっ!』と言う時に橙は目をぎゅっと閉じて言った。そしてその後は顔をますます赤くして黙り込んでしまった。
「……」
ナズーリンも黙ってしまっていた。しかし、これは突然の出来事に脳の処理が追いついていないためであった。
――好き、て、ことはあれか? 私に告白したってことか? 確かに私の名前の後に好きって言ってたな。でも、あれ? これって異性でやるんだよな? 少なくとも女同士でやるんじゃないよな? あれあれ? どういうことだ? どうしてこうなった?
「……ダメ?」
「い、いや! そういうことじゃないよ! 別に君のことが嫌いってわけじゃなくて――」
――じゃあ、好きってことなのかな。え? でも私たち女だろ? え? ちょ……。
「――やっぱり、私のこと好きじゃないんだ……」
「い、いや! 違う! 断じて違う! えっと、そもそも好きっていうのはね、こう近くにいると心がドキドキしたりして、相手のことを放っておけなくなったりしている状態のことを指していて――」
「そうだよ? 私、ナズーリンとこうしてぎゅっとしているのドキドキしてるし、ナズーリンのことを放っておけないからこうやってぎゅってしてるんだよ?」
「え、えっと……」
「ナズーリンは、私とこうしてもドキドキしないの? 私のこと、気にならないの?」
「それは――」
――あれ? これは……えっと、おかしいな?
ぎゅっとしてるとドキドキするし、橙のことが気になってしょうがない……。
あれあれ? どういうこと? 私、この娘のこと好きなのかな?
「どうなの!?」
「……ドキドキしてるみたいだ。それに、君のことを、放っておけない……」
――そもそも、放っておけないから追いかけたんじゃ? 確かに、私の過去を取り戻すためでもあった。でも……橙のことを、気になって、しょうがなかったからでもないのか?
疑うとキリがなかった。それにナズーリンは過去にこんな想いを抱いたことは一度もなかった。だから、橙がナズーリンを好きであることも、ナズーリンが橙のことを好きであることも否定できなかった。
ナズーリンは橙を見た。大きく潤んだ瞳。花のような香りは目がくらむようで、こうしてぎゅっとしている時に伝わってくる温かさ、鼓動、感触。全てが愛おしかった。
ナズーリンは橙を愛していた。経緯はどうあれ、それだけは揺るがない事実であった。
ふと、寒さによって体を温めようと心臓が活発に動いているから、鼓動がこんなに速くなっている――という説を思いついたが、もう無駄だった。例えこれが吊り橋効果だろうと何だろうと、ナズーリンは橙のことが好きになってしまっていた。もちろん、橙も。
「……ねぇ」
「な、なんだい?」
「藍さまから聞いたんだけどね、その、恋人とか大切な人にだけ出来る特別なことがあるって……」
「そ、それは?」
「……チュー」
「……チュー……」
橙の言いたいことは分かっていた。つまり、橙は恋人の証として、キスがしたいと言っているのだ。ナズーリンは想像してみた。橙とキスをする自分の姿を。結果、顔が火照った。
「無理無理無理無理」
「えーっ!?」
「いや、でも……」
ナズーリンは頬を赤らめながら、目を泳がせた。恥ずかしい。こればかりは恥ずかしくてしょうがない。無理無理。絶対無理。
しかし、だからと言って、橙の願いを無下にすることも出来なかった。お互い、両想いなのだから、確かにキスくらいしてもいいだろう。しかし、これもやはりナズーリンの問題だった。ナズーリンの心持の問題だった。
――同じ轍を踏むのか。
ふと、そんな声が聞こえた。自分の中から。もう一人の自分から。
確かに、橙を傷付けたのもナズーリンの心の問題だった。これは、単なる恥ずかしいとかで終わらせるべき問題ではない。克服するためにも、是が非でもやらなければいけない問題だった。
しかし、やはり恥ずかしかった。急に克服とか言われてもとか、自分の言ったことに言い訳を言う始末だ。これではダメだ。なんとかならないのかなんとか――。
その時、ナズーリンは見つけた。なんとかなる方法を。今までに忘れていた存在を。
橙をそれを持たせた。そして、橙にジッとしているようにいった。外したら、なんか嫌だったから。
そうして、橙の唇の場所を目測で測って、橙に合図を送った。橙はそれに応じてそれ――「正体不明の種」を発動させた。
再び、目の前に花束が現れる。しかし、先程と違い、それは満開の花だった。そうして、ナズーリンは目測を頼って、一つの花に狙いを絞った。その時、ナズーリンはそれが、昔「幸せのチュー」をしょっちゅうしていた花によく似ていることに気がついた。ナズーリンは苦笑をして、それを思い出しながら、花に唇をつけた。昔の自分と今の自分。二つの自分が融合している感覚がこみ上げてくる。そのチューは「幸せのチュー」と同じでありながら、違っていた。確かに花は花だけど、その花は――橙という、掛け替えのない花なのだから……。
久方ぶりにやった「幸せのチュー」は、昔と変わらない幸せの味が口いっぱいに広がっていた。
*
気がついたら、橙とナズーリンは寄り添うようにして寝ていた。
すでに夜の闇は太陽によって追い払われ、朝日が洞窟内に差し込んでくる。昨晩の雨が嘘みたいに晴れ上がり、洞窟の外に滴ってい水滴が朝日に反射して眩しい。
ナズーリンの心は今の天気みたいに晴れ上がっていたが、体はそういうわけにもいかない。魔力の枯渇、身体の無理な駆動、転んで倒れた時による打ち身等で、ほとんど自力で動かすことは出来なかった。
そこで、橙はナズーリン担いだ。ナズーリンの腕を肩に回し、歩き始めた。ただ、ナズーリンは橙と同じくらいの身長があるのと、ナズーリンが少しの衝撃で痛がるために、一歩一歩で歩く必要があった。
それでも、橙は地道に歩いた。ナズーリンのペースに合わせ、ナズーリンの調子を訊き、ナズーリンとおしゃべりしながら歩いた。おしゃべりではお互いのことを話し合った。橙は八雲家のこと、自分のこと、最近の遊んだ時のこと等をしゃべった。ナズーリンは命蓮寺のこと、自分のこと、仕事のこと等をしゃべった。特にナズーリンは話す必要があると思い、自分の過去をことを話し、なぜ花が苦手なのはかを話した。橙はそれに憤慨したり、涙を流したりして、応えてくれた。そして――
「絶対私が幸せにするからね!」
そう、ありきたりなセリフを言った。ナズーリンはそれがありきたりだと分かっていても、嬉しかった。過去のことを話した後だったから、余計に嬉しかったのかも知れない。
ナズーリンに渡した花束をどうしたかを訊いた。そしたら、橙は苦笑して、「ナズーリンを傷付けたものだから、命蓮寺出た時に投げ捨てちゃったよ」と話した。もしも、ナズーリンが出た時に花束を見つけていた場合、また結果は変わったかも知れない。
そうしておしゃべりをしているうちに、午前が過ぎて、お昼になった。お昼が過ぎて日が傾き始めた時、二人はようやく命蓮寺へと辿りついた。
二人の姿が見えた瞬間、聖と藍が駆け寄ってきてナズーリンと橙を同時に抱きしめた。ボリュームのある二人の胸にサンドイッチされたナズーリンと橙は、そのボリュームに少し嫉妬する。
そうして、ナズーリンと橙は命蓮寺でブランチを取った。藍と聖が共同で作った豪華なブランチだった。その中にはカレーもあって、ナズーリンは久しぶりにカレーをおいしそうに食べた。そのことに、村紗初め、全員が驚いていた。
居間にはあの花束が飾ってあったのをナズーリンと橙は見つけた。ぬえが入り口で見つけたらしい。ナズーリンは飾られた花束を見たが、もうトラウマが現れることはなかった。
藍と聖はあの後一睡もしなかったらしい。それで二人はお互いの、娘を心配する気持ちに共感して、仲を深めたそうだった。今では、お互いに世間話が出来るほど、仲がいい。料理もしている最中もコンビネーションは抜群だった。
さて、問題はこの後だった。ブランチを食べ終えた二人に対し、ぬえがにやけ顔で「ところで洞窟で何があったの?」なんて訊いてしまったからだ。ナズーリンは絶対に意図的だった、と感じている。その問いかけに、橙は正直に答えてしまったのだ。確かにいつかは話すべきことだったかも知れないが、それでも正直すぎる――とナズーリンはため息を吐いた。まぁ、それがあの娘のいいところでもあるんだけどね――なんて惚気も混じりながら。
その日以来橙が命蓮寺来たり、ナズーリンがマヨイガに行ったりするようになった。ただ、ナズーリンは結果的に、村紗やぬえ等からからかいを受けるようになった。
橙が来るたびにこう言うのだ。ほら、ナズの『花束』が来たよ――と。
思わず泣きそうになりました
花を嫌っているのを聞いていたのに何で花束を送ったのだろう?
そんな違和感を最後まで拭えなかったので、申し訳ありませんがこの点数で。
むしろ読んでる時にまったく気にならなかったのは橙に感情移入したからなのかなぁ。花が嫌いな人なんているわけない、と。
その辺、無邪気というか幼さに妙に納得してしまいます。
読んでよかった。