僕が日記を書き始めてから、幾らかの時が流れた。「幻想郷の歴史が誕生した」と言う一文で始まるそれは、文字を重ね、紙を重ね、表紙を重ね続けている。
歴史――少なくとも人間が紡ぐ歴史――に不可欠な要素は、客観性を持っているということだ。
かつて、僕は「幻想郷には歴史らしい歴史がない」と感じていた。妖怪の生は永過ぎると言っても良いほどに永い。妖怪が闊歩する幻想郷では、それが、歴史に必要な要素である「客観性」を拒むのだ。
主観による情報という物は、当事者が生きている間は当事者の都合がよいように変わり続ける。事実とは情報の上に立つ物である以上、その基盤である情報が定まらなければ、歴史は歴史たり得ず、不確定の情報の集積に過ぎない。
だから、僕は文字として残すことで定まった情報としているし、客観的な情報だけを日記に記すようにしている。例えば、ある日の日記を除いてみよう。
「霊夢に頼まれていた服の手直しを終える。ツケの総額――」
このような、極めて散文的なものだ。可能な限り、事実を客観的に描写したと言う自負はある。そして、誰が読んだとしても、これを元に同じ事実が呼び出せる情報であると、かつては感じていた。果たして実際にそうであるのか、今ではよくわからない。
わかるのは、僕にはこれを歴史と捉えることは無理だろう、と言う事だけだ。
外には雪が降り積もる。趣深いとは思うが、何故か昔の雪の方が趣深く感じたように思える。
ストーブの火を強めた。窓の向こうでは寒気が吹き荒れているが、ストーブの熱で暖められた香霖堂の中は、寒さの中でも快適だ。ストーブの上のヤカンが湯気を立てている。それを湯飲みに入れては少し冷まし、茶を淹れた。
上等な葉であるし、十分に満足できる香りが湯飲みから立ち上る。だが、何故か昔に飲んだ茶の方が美味に思える。
ストーブなど無い頃――香霖堂すらも無い頃。霧雨の親父さんの所での修業時代、厚着にくるまっては、休憩の間に茶を飲んでいた。しんしんと雪が降り注ぐ中で。
あれは、実に美味しく、心休まった物だ。それは、歳月を経る中で美化されたのかもしれない。あるいは、変わり続ける主観にねじ曲げられた物なのかもしれない。
茶を飲みながら、白化粧に覆われた木々に心を遊ばせる。それも悪くはないが、このような雪の中では客も来るまい。そんな時こそ、静かに、本の世界に心を遊ばせるのもまた、趣深いことだ。
書物の中に納められた冬の光景は、時に眼前の景色よりも深く、僕の心に染みこんでくる。それもまた一興だ、と思っては、現実の冬景色を離れることとする。
僕は卓上の灯りをつけ、本棚から一冊の本を取った。その薄い本の表紙には「白夜」と書かれている。大陸の遙か北の国、ロシアで書かれた本であるらしい。僕は、その国を写真以外で見たことはない。この香霖堂に、幻想郷に住まう限り、その世界をこの二つの眼で見ることはあるまい。
とはいえ、想像の世界故の美しさもまた良い物だ。歴史には客観性が不可欠だが、物語には無用だ。主観が支配するもの故の美しさがそこにはあるのだから。
そうして、僕が本を読み終えた頃、来客の姿が現れた。ドアの鳴る、カランカラン、と言う音はない。その中で現れる来客、と言えば一人しかいない。境界を操る妖怪少女、八雲紫の姿が、忽然として僕の前に現れた。
「あら? 案外ロマンチックな人だったのかしら?」
表紙を見やっては、少しからかうような口調で彼女は問いかけてきた。
「そうかもしれない。あるいは、現実の僕はそう言う人間ではないから、作り話に求めるのかもしれないね。ロマンチックな人、なんて問いかけると言う事は、君もこの話を読んだことがあるのかな?」
「ええ」
と紫は答えて、一瞬、何かを思い出すようにしては、
「……もう、内容は殆ど忘れてしまったけれど。そうですわね。読んだのはもう六十の周期が一回りするよりもっと昔の事ですから。悲しい男と、無邪気な少女が出てくるお話だったことを朧気に覚えているだけね」
これはあくまで紫の言、つまり、主観でしかない事柄ではあるが、妖怪という物は六十年を境に、それ以前の物事を急速に忘却するらしい。
一理はある。日と月と星の三精。春夏秋冬の四季。火、水、木、金、土の五行。世界の全ては、この三系統の組み合わせで表すことが出来る。それらを掛け合わせた数字。つまり、世界に存在する組み合わせの総数は六十だ。
そして世界は、その六十の組み合わせを年ごとに廻り、六十年に一度「日と春と土」の組み合わせが来た年、花の異変が起こる年に再生を迎える――つまり生まれ変わるのだ。
人間も、齢六十となれば歴が還った事を。つまり還暦を祝う。還暦とは、全てが一巡したことを、生まれ変わりを祝う儀式だ。還暦を迎えた翁や媼が赤い服を着るのも、そもそも産着とは赤とされていたことにちなむ。
「君たちは、本当に急激に忘れるのかな? 六十年より昔の事を」
「ええ、妖怪の生は長いのですもの。その全てを、些細な事までを覚えていたら頭が一杯になってしまいますから」
無論、彼女たちとて全てを忘れるわけではない。歴史となった事は記憶している。ただ、歴史の定義が人間と妖怪では違うのではあるが。
「ところで、何をするために、こんな寒空の下、香霖堂まで訪れたのかな?」
「ご心配なく。雪の道を歩まずとも、私は動けますもの」
別に心配したわけでもないが、確かにそうだろう。境界を自在に操る、神出鬼没の存在が、彼女、八雲紫なのだから。
……ただ、彼女は本来冬眠をする存在だったはずだが。
「そういえば、昔の君はよく冬眠をしていたはずだね」
「……ああ、言われてみればそうでしたね。それもまた六十年が廻るより昔の事。冬が、それはとても退屈だった頃の話ですわ」
僕がストーブを手に入れるよりも昔の事だろう。僕がストーブを入手して、ツケで全てを済ます二人の少女が入り浸るようになった頃にはもう、彼女は冬眠を半ばやめていた。おかげで僕はストーブの燃料を入手できていたし、代わりに貴重な品々を彼女に進呈する羽目にもなっていたのだ。
「で、何をしに来たかと言えば、貴方が燃料不足で困っていないかと思いまして」
冬の寒さの下では、よほどの事でも無い限り僕はストーブを焚き続けている。そして、燃料の入手先は彼女から以外の手は存在しない。彼女が訪れる時、それはいつも、燃料が底を付きかけた時だ。
「まあ……そうだね……二月も半ばだけど、まだ寒い。もう少し有ってもいいのかもしれないね」
「では、商談成立、ですわね」
虚空に開いた空間、スキマに手を伸ばしてはタンクを持ち出し、代わりに店内の品々を、彼女はスキマに入れていった。果たして公平な取引か否かもわからないが、一応は両者とも望みを叶えられたとも言える。
少なくとも、昔のように、誰かのように、払われることのないツケで商品を持って行かれるよりは、随分とマシだ。
彼女がタンクを取り出した頃、僕の手元の湯飲みは空になっていた。葉を変えるために奥へと向かい、棚の奥の葉を取り出した。大昔の僕にとって、それは特別な時に飲むためのお茶だったけれど、霊夢が葉を変えるたび、毎度毎度奥から取り出すようになってからは、特別な時に飲むためのものでもなくなっていた。
今では、単に値の張った茶葉を置いてある場所となっている。いや、あるいは今でも特別な時に飲む茶を置いてあるのかもしれない。
僕は二つの湯飲みにお茶を注ぐ。値段分の芳香が立ち上る。自分の机に一つを置いて、もう一つは彼女に手渡した。
「あら、良い匂い。サービスしてくれても何も出ませんけどね」
「そういうつもりでもないさ」
僕は苦笑しつつ返した。
「ところで、以前君は言っていたね。歴史の定義を」
「貴方に話したかは覚えていませんけれど……そうですわね。その定義自体はしっかりとありますよ。六十年を経ても記憶に留められていることとは、記録に残ることです。それは歴史であり、歴史とは時が止まる物。つまり、非日常の出来事です」
彼女の言が示すように、妖怪は、歴史に対して客観性という物を求めていない。故に、以前の、日記を書き始めたときの僕は「幻想郷に歴史はない」と感じていた。
「君たちは、歴史に客観性を求めてはいないんだね」
「私たちは永遠に近い命を持っていますから。人間が滅亡しない限りは生き続けてもおかしく無い存在に、客観性を求めるのは難しいのですよ」
主観と、それに左右される情報を、悠久に近い時間持ち続けられる妖怪と、出来ない人間。それが、両者の「歴史」という言葉の認識を分けている。
「長い間だけど……日記を書き続けているんだ。知ってるかな?」
「ええ、最後にその話を聞いてから、まだ六十年は経っていませんもの」
「忙しいわけでなければ、少し読んでみないかい? もしかすると、君も懐かしい気分になれるかもしれない」
「構いませんわ。お茶さえ頂ければ。棚の奥の葉っぱで出した一番茶をね」
聞こえない程度の大きさで溜息を付いては、僕はまた、奥へ向かった。二度目に淹れたお茶でも、彼女が入り浸っていた神社の出がらしよりは遙かに上等な茶だろうが、一番茶を、と言われれば仕方有るまい。今日は特別な日なのだ、と思い込みつつ、再び茶を淹れた。
「この時のこと、覚えているかな?」
どれほどの客観性を持とうが、妖怪の歴史になどなれまい、平凡な一日が、淡々と記されている。要約すれば、魔理沙に三陵鏡を奪われた日、となって、要約せずとも、それに日付や天気が付け加わった程度の事だ。
「……いえ、ごめんなさい」
紫は首を振ってはそう言うだけだ。その翌日の日記に僕が書き残した、霊夢と魔理沙の話によれば、その後、香霖堂から出た後に、霊夢と魔理沙、それに数匹の天狗が混じった花見をしていた際に、紫もいた、との事だったが。
初めて見直した際には自分でも意外ではあったが、日記を読み直すと、自分で考えていた以上に、その日の事を思い出すことが出来る。それは日記を書いた当時の、自分の気持ちを確認できるとい言うことでもある。それを思う度に、日記が歴史であるのか否か、と思い続けた。
そんな思いを抱きながら、僕は日記を捲っては、彼女に問いかけ続ける。だが、答えはどれも変わらず、否定だけが続く。
「薄情な妖怪と思うかしら? それとも、ボケ老人だと感じるかしら?」
霊夢達がいた頃の平凡な日常の数々、歴史になれなかった一日。その全ては彼女の記憶から――いいや、全ての妖怪の記憶からも消え去り、人の記憶からは肉と共に消え去り、いつまでその記憶と体を保てるかもわからない僕の中と、散文的な日記の中にのみ、残っているのかも知れない。
「……いや」
少し弱々しい声で僕は答えた。
「もちろん、全てを忘れるわけはありませんわ」
彼女は日記の一つを取り出しては、捲る。その日に関しては、日付を正確に覚えているのだろう。淀みなく捲って、開いた。内容に関しては、他の日付と殆ど変わらない。ただ単に、霊夢に服を作った、と記されているだけだ。
しかし、その服がいつもの巫女服ではなくて、白無垢であることは、十分にその日が歴史に、少なくとも霊夢を知る妖怪の記憶には留められるに足る資格を持っていたのかも知れない。
二人でそのような、歴史となれた日を見やり続け、懐かしい話を幾つかした。
「君が覚えているかはわからないけれど、以前君が言っていたんだ。『記憶の中の過去は美化される』とね」
「ありとあらゆる生き物にとって、生きていくことは辛いことの積み重ね。長く生きて、少し物事を知ると、時に、楽しいことですら辛くなるのですよ。だからこそ、もう自分が生きることの出来ない時代、辛さを積み重ねない――時の止まった時代は美しく思えるのです」
それを言ってから少し間を開けて、顔を少しだけ悲しそうにして、
「祇園精舎の鐘の声――」
有名な物語の書き出しを呟いた。どれほど栄えている者にも、常に没落は待つ。その栄光と、没落を共に見ることの出来る永い生を持つ彼女が呟けば、その言葉は虚しく聞こえた気もした。
「その物語を作った人間を、君は知っているのかな?」
「いえ。六十の周期が十数回、回るより昔は知っていたのかもしれませんけどね」
平家物語の名を知らぬ者は、この国にはいないだろう。だが、口伝でその物語を伝え、作り上げてきた琵琶法師達の名は、歴史には留められていない。彼らの名を知る者は、ただ一人としていない。
もし、僕と僕の日記が幻想郷から消え失せれば、あの日常もまた、琵琶法師の名と同じ運命を辿るのだろうか。
「過去を美化するのは決して悪いことではないのですよ。長く生きる者が過去を美化できなければ、水が下へ下へと流れるように、物事は悪くなるだけです。『昔より今がましだ』と思えば、皆、そこに安住して下に流れて行ってしまいますから」
「あるいはそれを執着と呼ぶのかもしれないけれど、そうだね。今でも生き続ける身としては、僕もそう思うよ」
それきり、僕らの間に沈黙が流れて、お茶をすする音だけが流れていた。幾らかぬるくなったお茶を飲み干し、そのまま窓の外を眺めれば、すっかり夜の帳が落ちている。外の白は、夜の闇に覆い隠されていた。閉店するにも十二分な時間だ。
「あら、もうこんな時間ですか。長居しすぎましたね」
「たまにはいいさ。どうせ暇な一日だったから」
彼女は「久々にお酒でも飲みませんか?」と誘ってきたが、それよりも今日は、他に行いたい事があったので、僕は断り、
「そうですか。また機会があれば」
「ああ、そうだね」
と言って、彼女はスキマの向こうへと消え、香霖堂には再び静寂が戻った。
僕は机に座り続け、古い日記を読み続ける。LED電球の柔らかい光に照らされた文字達が、鮮やかにその日の事を、僕に語りかけてくれる。
LEDとは便利な物だ。山から送られてくる電気さえあれば、数十年もの間灯り続け、僕に光を与えてくれる。ただ、幾らか味気なくも感じる、蝋燭の光に比べると、些か趣の無いようにも感じるのだ。
「これもまた、過去を美化すると言うことなのかな」
蛍雪の功、と言う故事に伝えられるところによれば、灯火の油すら貧民には手に入らぬ頃、古人は蛍の光を頼りに勉学に励んだという。その灯りを知る者ならば、あるいは蝋燭の灯火もまた、趣にかけると感じたのかも知れない。
実際にそう感じるのか? ということは物心ついたときから、蝋燭には不自由していない僕にはわからない。僕にわかることは、眼前で起こっていた時には平凡そのものと感じていた日常が、今にして思えばなんと滋味深く、美しかったのだろう、と言う事だ。
LED電球の光が、机の後ろに佇む、巫女服の目出度い色を照らし出す。霊夢と出会い、何代もの博麗の巫女と出会い、僕は彼女たちとの事を日記に記し続けてきた。
彼女たちが香霖堂に来ては――はた迷惑な客だと思い、そして彼女たちと過ごしてきた日常を平凡な一日だと感じてきた。
他人から見れば、やはりそれは平凡な一日で、歴史にはなれない一日。妖怪には、六十年が経てば忘却される程度の一日。
主観を歪ませた僕は、それをどれも美しく、特別な日だと思う。
だから、僕はまた、棚の奥のお茶を淹れた。
「特別じゃない日なんてあるの?」
と、棚の奥の――特別な日に飲むためのお茶を飲みながら、かつて霊夢は言っていた。それを聞いた時の僕は、特別な日に飲むための、貴重なお茶を無駄に開けた言い訳としか思っていなかったが、今の僕にはわかる。その日が「特別な日」だったと思えるには時間がかかるかもしれないけれど、時が経てば、全ての一日が特別な日だったのだ、と日記を捲るたびに感じられる。
平家物語。それは現実の歴史を題材にしているが、決して、歴史そのものではない。だが、それは時に、現実の歴史よりも深く、僕らの心に感銘を与えてくれる。
僕の日記は歴史たり得るのだろうか? それがわかるのは、僕が九泉の下で眠りにつき、主観が肉と共に消え去った後の事。この日記を後の世に生きる人間が見た時だろう。僕、森近霖之助が命脈を保つ間には、それはわからないのだろう。
それでも構わないのだ。
机の後ろには巫女服。倉庫には霧雨魔法店に納める品があって、右手の棚にしまわれたティーカップは紅魔館に納めるための物だ。
霊夢、魔理沙、咲夜。彼女たちの名前は残っている。歴史に刻まれて残り続ける。だけど、彼女たちの歴史になれなかった些細な事は、もう歳月に飲み込まれて消えてしまい、それを知る者は、もしかしたら半妖の僕と、僕の記した日記だけかも知れない。
だが、仮に歴史とはなれずとも、物語にはなれるかもしれない。だから、次に、彼や彼女が来たならば、彼女たちの話を伝えてあげよう。と僕は思った。
それは歴史ではなくて、僕の中で美化された古い物語なのかもしれない。
だが、どんな形であろうが、幻想郷に住む者が、僕の中で鮮やかに輝く日々を知ることが出来れば、あの時の彼女たちが、どのような形であっても、誰かの心中で存在することが出来れば。
それは、幸せな事だと思えたから。
六十年後も、願わくば霊夢たちのことを忘れていませんように。
覚えている、いつもと少し違った日。
前者の方が、大切だったはずなのに。
どうして思い出せないのでしょうか。
最後まできれいでよかった
すばらしいです
毎日を無駄にしないで生きていこうと思いますね
素晴らしい、の一言に尽きる。
久しぶりに日記でもつけてみようかしら
霧雨魔法店に魔女は居るんでしょうか。
そんな魔女も、六十年前のことなど忘れてしまうのでしょうか。
でもミニ八卦炉だけは、大事に持ってそう。何で持ってるのかも判らないまま。
じんわりときました。
それらがヒトの頭の中で複雑に絡み合って、一つ一つの物語を生み出していく。
後世に名を持って遺せる物は割と少ないかもしれない。
ありとあらゆるモノが掠れて霞んでいっても、それでも創られた意味も、遺される意味もちゃんとあるのでは。
……と長々とすみませんでした。百以上の単位をここで付けられないのが残念です……!
何だかしっとりとした、不思議な魅力を感じる作品でした。
自分も時が経てばそんな風に思えるのか。
不思議な魅力がありました。
どう頑張っても無粋な感想しか書けそうにないので、良かったとだけ。
この雰囲気がとても好きです。