Coolier - 新生・東方創想話

徒花

2011/02/22 21:04:48
最終更新
サイズ
108.42KB
ページ数
1
閲覧数
742
評価数
4/8
POINT
570
Rate
13.22

分類タグ


 人生が幾度あろうとも、私が筆をとらずに済む道理は無い。
 人生が幾度あろうとも、少なくとも私の考えられる限り、繰り返されるのは憂愁ばかりだろう。
 私はつまりその為に生き、その為に死ぬのだから。
 その為に何度でも生き、死んだのだから。
 それの九つ目、である。






 零

 しくしくと、

 すすり泣きが反響する。

 しくしくと、

 痛む心が手に取るように分かる。

 しくしくと、

 それほどに痛切な響きであった。

 しかし私には分からない。

 ――どうして貴方は泣くのです。

 その理由が分からない。

 泣き腫らした顔を上げる。

 輪郭がぼんやりと浮かび上がる。

 しかしそれ以上には何も見えなかった。

 恐らくひどく哀しい表情をしているのであろう。

 ロクに前も見えない暗闇で、しかし頬を伝う雫は鮮烈な光を放ちながら落下していく。

 雫は私の内面がそのまま感化されたように美しく、言ってみれば隙がなかった。

 しかし同時にその美しさに如何ともしがたい恐怖を覚えた。

 私はその雫の落下する先を見た事がない。

 投身の行く末を私は知らないのだが、身を投げたのであれば、その行く末を考える必要もないと思った。




 
 一

「涙を止める事ができないのです」
「涙を?」
「涙です」
 
 怪訝な顔をする慧音に、念を押すように私は言った。
 陽は翳り、ヒグラシの鳴き声に、私はあのすすり泣きを思い起こした。

「えぇっと、誰のだ?」
「分かりません」
「……ふむ。いつの事かな?」
「夢の中です」

 慧音がますます訝しむ。私としてはさほど突飛な事を言ったつもりはない。

「なぁ阿求」
「なんですか?」

 しばらくして慧音が私に向き直った。私と彼女の間に頓挫する机に、斜陽が降り注ぐ。
 元より疲れた色をしていた盤面は、いたくハッキリと退廃の色を浮かび上がらせる。

「泣いた事は、あるか?」

 ともすればその一言は、私をひどく驚かせる質問になり得たかもしれない。その感触はあったけれど。
 しかし私の心は、ただ静かに横たわっているだけだった。跳ねる事も、痛む事もなかった。

「ありません」
「ん、そうか。済まない」
「いえ、恐らく貴女もそう思って問うたのでしょう」

 どうしてだか謝る慧音に、取り繕うように付け足した。
 慧音は余計に申し訳なさそうにするだけである。それを見ているのも居た堪れず、窓の外に視線を泳がせた。
 雲は高く、白く。空は橙色に遠く。生気に溢れていた。
 大して部屋の中は薄暗く、窮屈で――あるいは私のせいか、えらく不健康に思えた。
 吸い込まれそうな程の大きさもなければ、飛び降りられるだけの高さもない。
 窮屈な部屋の中で、どうすれば消えていけるかと思案する。
 部屋の隅がふとした拍子にどこかに繋がってしまって、ふとした拍子にそこに落ちる。
 柱が畳が、総てが少しずつ腐って、着物が朽ちていく音を聞く時には身体も腐りゆく。
 しかしどちらにせよ、私が消えるとは言い難かった。
 恐らく、私が消える事はないのだ。
 永遠の巡りに私は組み込まれている。
 ――事あるごとに、私はこんな事を考えていた。
 華やかである必要はない、ただ純粋な『消えていくための方法』をである。

「ただ夢というのは」

 慧音の声に引き戻される。
 身体に戻る、そんな表現を使いたくなる。
 夏の空と比べ窮屈とはいえど、本間八畳の部屋に二人きりである。
 なんともいえない物悲しさは、何もない空間から発せられていた。

「夢というのは現実としては不可解な事であっても」

 ――普段は抑圧されて意識していない願望が、如実に表れるとでも言うのだろう。
 それを否定したくてお前のところを訪れたというのに。
 私は落胆を隠さず、溜息を漏らした。
 そんな機微など露知らず、慧音はなおもありふれた見解を述べている。
 私の事を思ってだとは知っているけれど、有り難くも無かった。
 無論、そんな素振りが伝わる事はないのだけど。
 御阿礼の子は往々にして勉強熱心だったのであろう。私もそういうフリをするのだから。満更でもない。



 * * *



「誰だろう」

 誰なんだろう。誰の涙であろう。机に向かい正座して、手にした筆の先から墨が滴る。
 雫の行く末を見送るのは、私の頭をひどく痛ませた。
 和紙に染み行く黒が次第に薄れていく。
 そのまま疑問まで薄れてしまいそうだったから、私は一度筆を置き、腕を組んだ。
 あの夢。夢、決して一度きりでないあの夢。嫌というほど、寝るたびに目にする光景。
 
「自分の事は棚に上げる」
 
 この際。
 私が泣いた事がないなんていうのはどうでもいい。
 夢の中の、存在感に反して判然としない姿に誰が思い当たるであろう。
 誰かの無く姿が物珍しいのではない。
 無論、寺子屋の子供たちが泣く姿は飽きるほど見ている。そうではない。
 あそこまで引きつけられるような、そんな涙を流す誰か。 
 どうして私はあれほど目を奪われるのだろうか。
 涙を流すのは――私が思うに、とても人間らしい行動である。
 この揺るぎない思いは、私が人間らしからぬという事を肯定する。私自身、人間らしからぬという心像に思い入れがあるようだ。
 幼き頃より智を有し、求聞持の力が多くの事を忘れさせてはくれない。他人から不気味がられるのは、一度きりの事ではなかった。
 その一方で、生易しい優しさに浴びせられてもいた。色々な負の思いを取り繕うような――
 求聞持の力。幻想郷縁起の編纂に於いて、まこと意味を持たぬその記憶すら覚えているのである。
 常より私の境遇は恵まれており、しかし同時に惨憺としていた。
 少なくとも阿求はそう思っている。
 なんにせよそんなのは涙の主を探す上で至極どうでもいい事に違いない。

「ぬ……あー」

 試しに瞼を指先で広げてみる。
 目玉が乾燥する。潤いを取り戻そうと、少しずつじんわりと涙が滲む。
 だけどそれまでで、零れるまでには至らないだろう。
 僅かに湿り気を帯びた視界の端、時計が見えた丑三時。
 近頃、私は眠るのが嫌になっていた。
 夢を見るからだ。
 だからだらだらと起きている。
 何をするでもないが、布団を敷きもせずにこうして正座で机に向かっている。
 足の感覚などとうになくなり、このまま壊死してしまってもいいと思う。
 ここから動けなければそれこそ窮屈に消えていける気がした。
 息がつまれば逃げ出したいと思うだろう。それすら叶わなければ――
 
「ふむ」

 私は泣いた事はない。
 しかしまぁ、それがそれほど珍しい事であろうか。
 だから私は泣いた事がなさそうな、そんな誰かを探してみようと、そう思い立った。
 しかしそれは人間に限ろう。妖怪を引き合いに出しても意味がないように思えた。
 先に慧音に尋ねられた質問が私の頭を反響するのだ。
 それに堪えていた。吐き出さなくてはならないと思った。
 同じ質問を投げかけて、どうにもならない思いを吐き出さなくてはならない。

 ――――泣いた事は、あるか?

 これは意地の悪い問いなのだろうか。間抜けな問いなのだろうか。不躾な問いであろうか。
 顔を上げる。窓に映った私の表情は固く、色もなかった。
 机の隅、置かれた髪飾りは白椿。
 造花であるところのそれに比べて、私のなんと不鮮明な事か。
 このまま色も何も消えてしまえばいいのに。
 はぁ、と溜息を吐く。
 眠らないのではない。
 眠れなかった。
 淀んだ部屋の空気を入れ替えるべく、窓を開ける。
 月が浮いている。三日月だ。
 
「……月は無情といふけれど、コリャ」 

 自然と口が開いた。
 か細い歌声が耳に届いた。私の声である。
 しかし夜風に吹かれたそれは妙に新鮮で、妙に懐かしかった。
 まるで誰かの歌声を聞いたような、そんな心地になる。あるいは草かげで鳴くスズムシの歌声にも思われた。
 はて、私はいつこの歌を教わったのであろう。顎に手をやり、考える。
 すぐに考え耽るのが私の悪いクセだ。思案せずに私が存在し得る方法を知らない。筆跡は私の存在を記録するが、生きてはおらぬ。
 なんにせよ、この唄を歌っていても、私には物憂げに横たわる秋の夜長を越せる気がしなかった。
 窓辺より離れて蓄音器に向かった。
 幺樂団の演奏を聴きながら寝るとしよう。夢を掻き消すほどの音の洪水を私は求めていた。
 誰かを起こしてしまうように思えたが、それすら気にしてはいられなかった。



 

 二

 まずはと思って森に足を踏み入れる。
 昼間だというのに薄暗い。歩きにくい。
 森の空気は澄み渡っているのかもしれないが、疲弊のせいで息をするのも辛かった。
 引きこもっているからで、その自覚はあるがどうしようもない。
 元より身体も弱いし、だから外に出なくて悪循環。
 ぜーはーと息をしながら、ドアベルを鳴らす。

「うーい、誰だー?」

 扉の向こうから、悩みの一つもなさそうな声が聞こえた。
 ドタドタと何かの落ちるような音と一緒にドアが開く。

「こん、にちは……魔理沙さん」
「お、おう。どうしたんだ? こんなとこまで」
「い、いえ……ちょっとした質問が、ありまして」
「なんかよく分からんが、とりあえず休め」

 肩を掴まれる。気を使ってくれているのは分かるのだが、少しばかり粗野なのが勿体ない。
 そのまま部屋に迎え入れられる。散乱した書物のせいで獣道以上に歩きにくい。
 先程の何かの落ちる音とはこの書物たちが発した音であろう。
 席につくまで始終肩を抱かれていたから、躓きそうになっても脛をぶつけても立ち止まる事は許されなかった。
 もはや魔境である。
 部屋を見回す。
 魔境の名にふさわしく、得体の知れないものばかりが目に付いた。
 どこの部族の物かは分からないがいかめしくもひょうきんな相貌の面。
 壁に立てかけられた槍の先にはきのこが刺さっていた。
 棚に並べられた瓶にはどれも毒々しい色の液体が満たされている。
 しかしよくよく眺めてみると、どうしようもなく突飛なものは見当たらない。 
 魔境などと呼んでおきながら無責任ではあるが、実に所帯じみているように感じた。
 
「はいよ、お茶でも飲みな」

 その上台所から戻ってきた彼女が紅茶の満たされたティカップなどを差しだすものだから、私は霧雨魔理沙の事を何か誤解していたのではとすら思い始める。
 
「ん? どうした?」
「い、いえ。ただ、意外だなと」
「緑茶だと思ったか?」
「別にそういう意味では」
「いやー、確か紅茶が好きだったな、って」
「……え?」

 私の知っている霧雨魔理沙と随分違う。
 いや、私が知らないだけか。知らないのだとすれば……知らないという事がそのまま不安になり、不安が恐怖を育み、そして気力が苛まれる。
 もしくはココは私の知る幻想郷ではなくて、何処かの並行世界であり、当の幻想郷から私は消えてしまった――
 ――としても、やはり私の消失願望を満足させるだけの出来事になりはしない。 

「あれ、違ったか?」
「いいえ、その通りです。ありがとうございます」

 ティカップに口をつける。その紅茶の味にケチをつける必要もなかった。
 彼女の髪の色を思わせる透き通った水面。鼻から抜けていく熱気が芳醇に香る。
 あぁ、何か音楽が欲しい。幺樂団の演奏を。意図せず心が安らぐのを感じた。
 この紅茶銘柄など知りもしないが、しかし決して安物ではないだろう。
 
「一息つけたか?」

 椅子の上で胡坐をかいた魔理沙が、知らない言葉の本をペラペラとめくりながらちらりと私を見た。
 琥珀の瞳は私を見ていた。私は彼女の瞳だけを見ていた。
 琥珀の色は混じり気なく真摯であったが、しかしその色は、心など見透かせないと、そう物語っていた。
 無論私も同じである。
 これまで述べた霧雨魔理沙についての全てが妄想である事も否定はできない。
 私に他人の心を見透かせた試しがないからだ。

「はい。少しは楽になりました」

 楽になったのは身体だけであったけど。
 身体だけでも楽になれば、自ずと心も落ち付くかもしれない。
 淡い期待を抱いておく。

「そういえばさあ、ちょっと前まで、風邪ひいてたんだ」
「風邪、ですか」

 何をいきなり、と思いながらも、こちらも似たように突飛な事しか口に出来そうにない。黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
 
「ああ。大したことは無かったけれど、念の為に外出できなくってな。誰かと会うっていうのが、ちょっと久しぶりだ」
「季節の変わり目ですからね。夏から秋へ。この時期、急に冷え込みますから」
「だな。生憎、私の知り合いは引き篭りばっかりだから、来客もそうそうないもんだ。だから、今日は久しぶりに、どこか行こうかと思ってたんだよ」
 
 魔法使いと言うと、確かに魔理沙のような快活な性質の者は少ない気がした。 
 それこそ往々にして魔法使いには、自分の殻に引篭れる性分が、必要な気すらした。
 自分も似たようなものだろうか。それだけが似てしまっただけかもしれない。

「――そうでしたか。それなら、お邪魔してしまいましたね」
「いやいや。お前が来てくれたから、その必要も無いかもな」

 ニヤリと、僅かな八重歯を私に見せる。
 白い歯の無垢な様子が、八重歯に見る僅かな不自然さが、何処となく儚さを思わせた。

「それで、お前の用事っていうのはなんだ?」
「あぁ、はい。それはですね」

 こうして口に出そうとして慧音の気持ちを理解した。もちろん、予想する答えは逆ではあるが。
 しかし私は、ただ世間話をするように問うだけだった。

「魔理沙さん、泣いた事、ありますか?」
「変わった質問だな……そのままの意味で良いなら、ある」

 本から顔を上げ、天井からぶら下がる電球を眺めながら彼女は答えた。
 さして迷った様子はない。が、そこに思案の影を見た。 
 それを眺めながら、私には霧雨魔理沙の泣いている姿を簡単に想像できてしまった。
 その姿は決して美しい物ではなく、夢のそれとは重なり得ない。
 ふとした瞬間に私はそう決めつけていた。
 先程私の肩に回された彼女の腕が想像以上に細かったからだとか、私の好きな物を覚えていただとか……確かにそれらは理由の一端を担う。
 しかしそれ以上に……具体的には言い表せない。
 ただなんとなく――あぁそうだよな、と感じてしまった。落胆とも言える。
 私の思う私同様に人間らしくない人間が、私の思う以上に人間らしかったからだ。
 悩みの一つも無さそうにすら見える――というのは、ひょっとしたら、とてつもなく失礼な考えだったのかもしれない。

「そうですか」

 ほんの少しの失望を抱えたまま、私は頷いた。
 下世話であるとは思いながら、問わずにはいられなかった。

「どんな時、泣きましたか?」

 魔理沙が目を丸くする。その表情にどこか満足した自分に気が付いて嫌になる。 
 嫌だとは思いながらも私は同時に何とは言えない優越感を感じていた。
 泣いた事が無いというのを、あまつさえ誇りに思い始めていた。

「……どんな時、ねぇ。はは、なんか恥ずかしいぜ」
「あ、いえ、別に無理に答えて頂かなくて結構ですが」
「あぁ、悪いな」

 そう言いながら、苦笑い。チクリと、胸が痛んだ。
 手にしたカップがまだ熱い。 

「ここにある本は、全て読んでいるのですか?」
「あぁ。散らかってるように見えるけど、読み返す頻度とかで探しやすいようになってるんだぜ、これでもな」 

 話を逸らそうと問いかける。魔理沙は快活に答えてくれた。
 
「私はそれほど物覚えが良いってわけでもないからなー。薬品の調合や魔法のアイデア……本に助けられる事は多い」

 言ってから、魔理沙は手にした本の背表紙を私に指し示した。紅魔館の大図書館の所蔵であると記されている。

「ま、パチュリーには感謝だな」
「なるほど。勉強熱心なんですね」
「まぁ、本の内容だって一目見て覚えられるなら、それに越した事はないがな」
「…………えぇ。まったくです」
 
 魔理沙が意図してその言葉を口にしたとは思えない。
 思えないが、些細な心情の吐露は私を責め立てた。
 一目見て覚えられるなら――
 当てつけなどではない。むしろ当てつけは私の方である。当てつけ染みた動機で『泣いた事があるか』などと尋ねたのは私である。
 理解していたが、しかし私は自分自身がひどく傷んで行くのを感じた。

「とはいえこうして本を読んだり、薬をいじったりっていうのが好きだからな。試行錯誤も悪くない」
「すごく、楽しそうですね」

 彼女の笑顔は眩しかった。部屋を舞う埃すら幽か差し込む光に輝き、躍っていた。
 陽を照り返す白色が目に痛いように彼女を見る事が苦しくなる。
 埃の匂いさえ掻き消す紅茶の香りは目を瞑ると余計にハッキリと感ぜられた。 

「あぁ楽しいさ。どんな魔法を発明して、皆をアッと言わせてやろうかって……考えるだけで楽しいもんだぜ」

 霧雨魔理沙はえらく勤勉であった。
 エプロンは薬品に汚れ、手入れの雑な髪の毛は変に捻じれている。けれど決して、みすぼらしくなど無いのだ。
 決して美しくはなかったが、しかし眩しかった。
 その燦然とした眩しさが美麗な物であるとも思えなくはない。認める事が出来ないけれど――
 彼女と共にいる事に居た堪れなくなり、私は礼も程々に霧雨邸を後にした。
 鼻腔には、未だ魔理沙の淹れた紅茶の香りが残っていた。



 * * *

 
 
 深夜。一度眠りに落ちた私は寝苦しさに耐えきれずに身体を起こした。
 疲労から早くに寝たが、しかし疲労では夢を掻き消せぬ。身を以て知る。
 涙が滴り落ちるのを見ると、身体が浮くように思えて、目が覚める。雫と共に落ちていく錯覚を覚える。
 陰険にも消失願望などを抱えておきながら、ふとした瞬間に足元をすくわれるのを恐れるのだ。
 中途半端な自身に苦笑する。
 それは不慮の出来事だからだろうか。予想の外からの出来事だからだろうか。
 そうとも限らない。少なくとも、私に於いては、そうとも限らない気がした。
 仮に本当に寸分の狂いも揺らぎも無い意志で自決を決心したとして、ナイフを喉元に突き立てるその一瞬に一切の恐怖も抱かない事が、果たしてあろうか――
 責めるべくは、自分の意志薄弱だろう。
 かくも考えながら、それでも消しきれない夢の情景。
 思い起こそうとすればそれは簡単に頭の中に再現できた。

 ――中核を成す姿を除いて。

 片手落ちなのである。夢の中でしかあの涙は完成されない。
 いや、だからこそ私は『それについて』知りたいのかもしれない。
 夢では無しに、現実にしたいのである。
 昨晩のように窓辺に向かう。鉄臭い金具に手をかけ、窓を開ける。
 風は待ち構えていたかのように勢いよく舞い込んできた。髪が波打ち、寝巻の襟元が揺れた。
 見上げると月は変わらず私を見下ろしている。総て風があそこから吹いてきているのではないかと、そんな事も思う。
 
 月は無情と云ふけれど、コリャ――

 月を眺めていると、知らず頭を過ぎる。
 
「主さん月よりなお無情、ねぇ」

 月は夜出て朝帰る、主さん今来て今帰る――と続くのだが。
 サテ、夢の姿に重なるように思えてしまう。
 
「花も様々散るも花、コリャ……咲くも花なら散るも花」
 
 窓縁に頬杖を付き、月を見上げる。 
 髪飾りは造花の白椿。散らずに花。元より咲きて散りはせぬ。
 月の無機質な輝きは造花によく似ていると思った。
 髪飾りを手に取り指先で優しく撫でる。か弱く、温もりも何もない。か弱さに釣られてか魔理沙の面影が思い浮かんだ。

 ――しかし彼女は温かく、勤勉であり、ひどく人間らしかった。
 
 しかし私はどうしたいのだ。
 夢の中の姿を誰かと特定して何になろう。
 流行り唄など歌って、まるで誰かに恋焦がれているようで。しかし可笑しな話である。すすり泣き声は女のものである。
 恋焦がれるなどあり得ないのだが、夢の中だからと、不可思議が正当化し得る。
 その心地がひどく背徳的且つ卑しいものに思えて、顔をしかめた。それすら月は無情に見下ろしているのだろう。
 それよりも、と思った。
 私は一番はじめ、慧音になんと尋ねた。

「涙を止める事ができないのです」

 すると私は『誰か』の涙を止めたいと思っているのだろうか。
 それすら判然としていないのは、感情の軸となるものが夢であり、夢とは判然としない物だからである。
 判然としないと繰り返しておきながら、しかし夢自体は殆どハッキリとしている。ひどい矛盾だったが、私の夢は中核を欠いていた。
 はて、涙を止めるにはどうしたら良いのだろう
 分からないから慧音の元を尋ねたのだ。どうしようもない事を理解しつつ尋ねたのだ。
 何にせよ、鬱屈とした思いを拭い去りたいという心地には違いない。
 寝不足にやつれた心が私に安穏を求める。
 安穏とはなんであろう。
 それを気休めと言い換えるのであれば『泣いた事があるか』というこの問いは十分な気休めになり得た。
 当初の気概とは反転するが、泣いた事がないというのが一つ特別に思えるからだろう。
 誰も私を理解してくれないと言う割り切った心づもりは、かえって私を楽にした。
 心の中で自身を苛むのは、事実剃刀の刃を腕や首に立てるなどするより幾らも簡便であった。

 すぅ、っと視界が翳った。月が雲に覆われた。
 月は無情と、流行り唄を続ける。
 
「もしも当座の花ならば、コリャ――」

 ――元の蕾にして返せ。
 痛いほどの気持ちであり、願いである。
 



 
 三
 
 高く登った陽を木陰でやり過ごし、一息つく。
 私が今日この陽盛りに湖の畔に訪れたのは他では無い。紅魔館に用事があるからだ。
 再び、今度は大きく溜息をつく。

 ――なぜ私がこれほど陰険とした性質をしているのかというと、それは必ずしも阿求による所だけではないように思えた。

 湖の畔で小休止している私は、自傷の癖を見直しながらそんな事を考えていた。
 しかしこれもまた判然としない。
 私の記憶は御阿礼の子の物であり、私だけのものでは無かった。薄ぼんやりとした輪郭も掴めぬ欠片が頭を漂い気持ちが悪くなる。
 先の記憶は不確かなのだ。つまり先代の出来事なんて、覚えていない。しかし存在している。
 私の思考が私のもので無いような気すらしてしまう――
 それがとても薄気味悪い。
 私が綺麗と思うもの、嫌だと思うもの、好きだと思うもの、総ての感覚に不純物を感じる。
 不純物というのは気が引けるけれど、他になんと言い表せば良いのか分からない。
 私の心から思う『とある感覚』の主軸は、私でない者によって確立されたのかもしれない。
 それが気味悪く、人はそれを気味悪く思うのだ。私を気味悪く思うのだ。
 胸のしこりの主因は夢のようであった。
 あの夢だ。しかし夢の中で感じる感情は些か透き通っていたように思う。
 だから私はどういう形であれ、これほどあの夢に固執するのであろう。
 
 二日続けての外出である。家の者は大層不思議がった。
 身体の弱い私を気遣っての事ではあろうが釈然としない。未知を知る事を否定されたような心地になる。
 無論、家に置かれた総ての書物を読み漁ってもいなければ、幻想郷縁起の編纂もロクに行ってはいない。
 だから外に出ずとも未知とは触れられ、そしてそれを形にする事が出来る。後者に至っては、それが私の義務である。
 自らの幼さを盾にするようでみっともないが、しかし私は、阿求の意思で求める事を望んでいた。
 
 頭の中はいやに元気だ。息も落ち付き、もう良いかと思って木陰より這い出る。
 昨日の森の中の、なんと静かで涼しげだった事か。
 日差しは容赦なく私を痛めつける。過ぎた夏ほど、その日差しは脅威ではない。にも関わらず、湖面に跳ね返る陽は痛かった。
 差し詰め書庫の奥に長い事眠らされていた古書の気分だ。
 陽によってすぐ痛む。
 痛むとて使いものにならぬまではそうそう無い。
 まさにその通りであると思った。
 生きることは病であり、眠りはその緩和剤、死は根本治療である。
 ――と言葉があるが、めぐりめく御阿礼の子である私に根本治療はさして意味を持たず、その上今の私は緩和剤すら満足に摂取できないのだ。 
 そんな事を思い始めれば、総て損に思えて仕様がない。
 埒が明かなくなるのは目に見えていたから、私は再び足を動かす事にした。
 
 妖精は何故アレほど楽しそうにいられるのだろう。
 遠目に飛び回る姿を眺めながら思う。
 私は何故コレほど詰まらなさそうにしているのであろう。
 誰かにそう問われた気がした。

 しばらく歩くと紅い館が見えてくる。窓は無い。時計台が高く聳えるのを遠くに眺め、門前に目をやる。
 門は閉ざされていたが傍に門番も見当たらない。
 少し離れた木陰で、紅美鈴が太極拳の型を練習していた。
 声をかけるのを躊躇われたが、あちらから私の姿に気が付き、何事かと言った表情で歩み寄ってきた。 

「これは珍しい。如何なさいましたか?」
「紅魔館のメイド長とお話したい事がありまして」
「ほぉ、咲夜さんと」
 
 美鈴は人当たりの良い柔和な調子で、私の進言に頭を悩ませているようだった。

「うーん、確か二時から休憩だったかな、咲夜さん。その時に一緒に伺ってみましょう」

 美鈴の言葉を耳にし、時計台を見上げる。あと三十分ほどで二時であった。
 夜も安易に眠れぬ私が昼を選んだのは、咲夜が時間の融通を利かせやすいだろうという理由からである。
 早い話が――主が寝静まっている間が好ましかったからである。『運命』ほど私の耳に痛いものは無い。
 咲夜も主の起きている間よりは、幾らか余裕があるに違い無い。無論、それでも彼女が多忙であろう事は承知していた。
 だからこうもあっさりと進言を受け入れられた事には驚きを隠せない。
 話の内容というのを伝えもせずにだ。これは幸いだった。美鈴も私の話というのを知れば間抜けに思うかもしれない。
 それも瑣末な事である。
 人間であり悪魔の従者である咲夜が『泣いた事があるか』という問いにどのように答えるのかが知りたい。
 欲求とは様々であるが、これは純粋な知識欲に似ていた。自分なりに様々理屈立ててはきたが理屈より先にあるのは欲なのだ。
 ――と、その欲に至るまでを理屈立てる。
 きっかけはと言えば、昨日魔理沙の手にした本が紅魔館の大図書館所蔵だった事から咲夜を思い出した、というだけだけど。

「一緒に来て下さるのですか」
「えぇ。だって、案内が必要でしょう?」
「それも、そうですね」
「そうですそうです。さぁ、まだ時間があります。木陰で待ちましょう」
 
 美鈴は言いながら私の背中を押しながら歩きだす。
 陽を遮る大木は洋館の付属物ながら意外にも桜であった。
 上へ横へと枝葉を伸ばす。少しずつ葉を散らしていた。しかし十分な日陰である。それほど大きな木であった。
 荒々しさがそのまま立ち聳えているようだった。
 しかしこの木も春になれば桜色に華やぐのである。
 なんとも不思議な気がした。
 美鈴はポケットよりハンカチを取り出すと、それをベンチ代りと見える横にした丸太の上にそっと敷いた。

「どうぞ」
「…………ありがとうございます」
 
 笑顔で座るよう促される。きょとんとしてしまうが、無碍にしてはならない気がして腰掛けた。
 座り心地は決して良くは無い。丸太である。
 私は恐らく不思議なものを見るような目つきで美鈴の事を眺めていたのだろう。
 その心情が伝わってか、美鈴もまた丸太に腰掛け、私に微笑みかけた。 
 
「少しずつ秋になりますね」
「えぇ。夜ともなれば、虫の声が五月蠅いほどです」
「虫の声……えぇ、さぞ賑やかな事でしょう。ふふ、夜の紅魔館は年中賑やかですが」

 足を組みかえながら美鈴が枝を仰ぎ見る。
 些細だが絵になる仕草であった。紅い長髪が一足早い紅葉を想起させる。
 それを見ると彼女が旧知の友人であったような錯覚がした。
 紅魔館が幻想郷入りして久しいが、それも阿求の代の事であるし、なんにせよ思い過ごしである。
 思い過ごしであるとはいえ、それは久々に味わうぬくぬくしい心地であった。

 ――が、すぐに門番たる美鈴の社交辞令であろうと思い至り、気持ちは萎れ舞い落ちる葉の如き無力感に包まれる。

 視界の隅でひらり風に吹かれた葉が地面に落ちた。
 木の隙間から地上に、まばらな落ち葉の上に降り注ぐ陽はモザイク画を成していた。

「地面が落ち葉で賑やかになると、掃除が大変なんですよね」

 私の視線を追ってか、美鈴がそんな事を言う。
 生返事で対応しながら、その横顔を眺める。
 何気ない世間話であったが、私は眼球の動きまで監視されているかのような気になって落ち付かない。
 なんとも妖怪とは不思議なもので、確かに人間とは風合いが違った。雰囲気、オーラとでも言えようか。
 私は先日少しずつ実感を伴いつつあった『人間らしからぬ自分への陶酔』がすぐさま揺らいでいくのを感じた。
 酩酊の覚める心地。
 それが口惜しい気がした。口惜しいのだが、その感情すら俯瞰し、客観的に見つめている。 

 ――すると私は妖怪に憧れているのだろうか。
 
 予想だにしなかった考えが脳裏に浮かぶ。それはそれで面白いと、そう思う。
 それでは吸血鬼に血でも吸ってもらうか。冗談ではあるが、そんな選択肢も許されるのであれば、いつか試してみたいものである。
 御阿礼の子であるうちは、どうにも叶わぬとは承知しているが。
 かくの如き自由は存在し得ないのである。
 仮に私が里に生まれたただの子供であれば――だとしても件の思いつきは容易では無いが、しかし無理でも無さそうだ。

「お、早い事で、もう二時ですね」

 時計台を見上げる。鐘は鳴らないが、針は二時丁度を差していた。
 美鈴が立ち上がって伸びをする。影はしなやかに揺らいだ。美鈴自身とはまた別の生き物であるかのように。
 私も立ち上がる。立ちくらみを抑え込みながら、ハンカチを拾い上げる。

「ハンカチは洗ってお返しします」
「そんな、別に気を使わなくっても」

 なんと言ったものか、ハンカチを畳みながらも口は開けない。
 訝しむ家人たちに対して、単純に外出の為の理由を設けたかったというのもある。
 これが美鈴の門番としての務めであったとしても、そのままに甘受するのが不義理に思えたというのもある。
 もしくは――単純に話し相手が欲しかった、のだろうか。私から口を開きはしなかったが、そういう感情もあり得なくは無い。

「……ふふっ、それではお願いします。昼間であれば、また今日のようにお会いできるでしょうから」
「分かりました」

 子供をあやすような口ぶりに納得がいかなかったが、ここで意地を張っていても何にもならない。
 私の用事はまだこれからなのだ。
 
「それでは、行きましょう」  
「はい」

 美鈴が錠の開けられた門を潜り、私もそれに続いて行く。
 石畳は規則正しさの裏に不規則を秘め、強く踏みしめれば底が抜けてしまうような錯覚がした。
 そんな事はあり得ないのだが、この地続きに館があると思うと、館の纏う空気がいやにアンニュイに感ぜられてならない。
 辺りの風景との不釣り合いさからか、とにかく昼間の紅魔館には覚束ない印象を受けた。
 夜ともなればそのようなわけもなく厳かに聳えるのだろうが。



 * * *



 美鈴に付き従い紅魔観の廊下を歩くが、いやに埃っぽい。思わず咳込むと、美鈴が私を心配する。
 どうやら直前まで掃除をしていたようだ。通気候はあるが窓などは無い。
 空気の淀みはいたしかたないとは言え、度が過ぎれば耐えがたい。幸い、奥に進むにつれ幾らかマシになった。奥から掃除を始めていたのだろうか。
 先程木陰で待たされた事を思い出す。それなりの館である。ラウンジの一つでもあるだろうと思ったが、この為か。
 私が虚弱体質であるのは事実なので、この処置は有り難かった。

「この廊下の一番奥に、詰所があります。恐らく咲夜さんもそこにいらっしゃるでしょう」
「なるほど」

 頷きはしたが、この館のメイド詰所である。如何な部屋か全く想像がつかない。
 詰所という字の如く、小部屋に大勢のメイド達が詰め込まれている様を思い浮かべた。
 長く伸びた廊下を進んで行く。端には姿見がかけられており、鏡に映った私と美鈴の歩く姿が正面に見えた。
 姿見の傍まで辿りつく。隠し通路でも無ければ、廊下の端である。
 左手に扉では無く階段があった。地下へと続いている。

「少し暗いですから、気をつけて」

 美鈴は言うと、そっと手を差し伸べた。
 嫌味の無い所作には、まさしく他意が無かったのであろうが、どうしてかその手を取ってはならぬ気がした。
 こそばゆいというか、恥ずかしいというか……しかしその手を払いのけたり出来るほど私は強くも無い。
 指先を軽く握った。美鈴の手を確かめようとして、必然的に自分の手を見る事となる。美鈴の指を白磁例えるのなら私は蝋燭であるなと、ぼんやり思う。
 美鈴が私の手を引き階段を下って行く。
 螺旋状に地下へ向かっているようだ。大図書館も地下にあるが――そちらとはまた別の棟。
 踊り場に一つ燭台があるのみで、他に灯りとなるものはない。
 螺旋を一周分ほど下ると大きな扉が目の前に佇んでいた。装飾は控えめながら優美であった。
 ほんの僅かの灯りに映えるよう、考え抜かれているかの趣がある。
 美鈴は軽くノックをしながら、幽かな灯りに鈍く光る真鍮のドアノブを押した。
 幾つも仕切りの置かれた、広間のような部屋である。歓談の音はあちらこちらから聞こえるが、潜めた声は不快になるほどではない。
 どんよりと仄暗いのは、仮眠中の者を思ってであろうか。
 
 美鈴がほんの少し、私の手を引く。顔を上げる。
 目配せした美鈴の視線を追うと、その先に、ソファーに腰掛けた十六夜咲夜が居た。
 目を瞑っているが、組んだ腕をトントンと規則正しく叩く指先を見るに、寝ているわけでは無いようである。
 美鈴は躊躇無く咲夜の元へ足を進める。私も着き従うが、周りの視線が気になって仕様が無い。
 自然と俯き、胸が早鐘を打つ。視線を浴びると美鈴と手を繋いでいる事が思い出されて、咄嗟に手を離した。
 咲夜は依然、目を瞑ったままである。私たちに気がついた様子も無い。美鈴が咲夜の肩に手を掛ける。

「ひゃっ………って美鈴、と――」

 瀟洒なメイド長は、か細い驚きの声と共にビクリと身体を跳ねさせてから私たちに気がついた。
 耳栓をしていたようで、それを外しながら場違いな私に疑問の視線を投げかける。
 彼女の耳に、逆さ十字を象ったイヤリングが慎ましやかにぶら下がっていた。

「お忙しい中すみません。彼女が咲夜さんに用事があるという事で」
「里の……阿求さん、だったかしら。メイドに志願しに来たの?」
「は、はい……あ、はいというのは、私が阿求だという事で」
「ふふ、分かっているわ。ここでは周りの目が気になるでしょう。部屋を移さない?」
「……はい。ありがとうございます」

 彼女とは先に一度会った事がある。幻想郷縁起の編纂の為にと、慧音と共に紅魔館を訪れた際に。
 とはいえ私の名前を覚えているとは思わなかった。特によく話したわけでも無い。
 銀色の髪の毛、涼しい目元。冷たげな姿の内に朗らかさを垣間見た。
 同時に少し気持ちが萎んだ。特に意味も持たぬ質問で――彼女を困惑させるのが忍びないように思えた。
 まして仕事の合間を縫ってである。思わず笑ってしまいそうになる。
 ここに於いて私の存在が如何に迷惑であるかと、実感を帯び始める。
 
 ――しかしそれもまた、決して悪くないように思えるのである。

 疎まれたいとすら思った。自分への否定の意を、外より見出そうとしていた。
 それが楽だからである。
 疎まれる愛で方、愛でられ方――
 
「それじゃ、行きましょうか」

 立ち上がり歩いて行く咲夜を、美鈴と並んで追う。
 何か異様なものを感じて、辺りを見回す。
 妖精のメイド達が、ジッとこちらを見ていた。こちらをというよりかは、咲夜を私の姿を見比べていたようだ。
 何か只ならぬ雰囲気を感じて、その奇妙さから目を逸らす。
 少し美鈴に擦り寄り、やり過ごす。
 また螺旋の階段を上り廊下に出る。
 仄暗い階段を抜けて視界が明るくなった。咲夜のメイド姿を見て、他のメイド達の異様な視線の薄気味悪さを思い出す。
 咲夜が慕われているのは知っていたが、しかしあそこまで奇異になり得るだろうか。
 私と言う場違いな他所者が咲夜と話している事に、それほど奇異の目を向けるのだろうか。
 館の中と言う限られた村のような世界だからこそ、余所者に敏感になる。
 言ってしまえば、幻想郷自体がそうなのかもしれない。
 人間の里は、まさしくそうだったのだから。
 村八分。
 私の生きる世界は、かくも優しい村八分の中枢なのだから。

「それでは、私は仕事に戻る事にしますか」
「あら珍しい」
「はは、酷いですよ咲夜さん。それじゃ阿求さんも、またお会いしましょう」

 彼女は言い残して颯爽と廊下を歩いて行った。
 また、というのが耳に残る。ハンカチの事を覚えていたのだろう。
 ほんの些細な事ではあるが、少しだけくすぐったい。
 そして心細いようにも思った。無論、美鈴に話を聞かれたくは無かったが。

「ちゃんと門番、やっているのかしらね……と、この部屋で良いかしら。広くは無いけれど、二人なのだし」

 幾つかの扉を通り過ぎてから、咲夜がとある部屋に入って行く。
 扉を潜るとそこは給湯室といった様子の、こじんまりとした一室であった。
 電灯によって照らされた壁には小さな絵画がかけられている。湖を描いた物だ。その湖が何処かは知れない。
 ただ素朴な、安らいのある風景だった。
 
「さ、掛けて」
「はい。すみません」

 咲夜はさっと奥に行き、湯を沸かす。
 何処もまずはお茶を用意してくれるのだなと、他人事のように思った。
 湯が沸くのを待たずに、咲夜はベールをかけた皿を手にして戻って来た。
 皿をテーブルに置くと、私と対面の位置に腰掛けた。 

「クッキー、良かったらどうぞ」
「すみません、気を遣わせてしまって……」
「良いのよ。ずっと地下に居ても疲れるだけだわ。私にとっても、丁度いい休憩よ」

 机に肘を着いた咲夜は、ウインクしてからクッキーを一つ口へと運んだ。
 私が思うのも変だけど、若いな――
 実年齢は知れないが、身体の若さだけで言ったら私の方が若いのだろう。
 しかし目の前の彼女には、堅苦しい姿とこの屈託なさと、その両面が有ってこそ成り得る若さを感じた。
 自分が年寄り染みているような気がして嫌になる。
 尤もこんな事を達観したフリで考えている私など、若いを通り越して幼いのかもしれないが。
 
「時間は、大丈夫ですか?」
「それは気にしなくても良いわ。貴女に合わせるから」
「は、はい」
「それにしても、久しぶりに人間と話している気がする……少し待ってね」
 
 咲夜は笑いながら言って、立ち上がると部屋の奥にあるコンロへ向かった。
 その道すがら棚からティーポットを用意して、すぐさまティーセットを準備してしまう。
 人間と――言葉が胸に刺さった。痛みはしない。
 ただなんとなく、それこそ昨日の魔理沙とのやり取りを思い出す。
 少なくとも、私は十六夜咲夜について無知である。それは魔理沙についても同じであった。

「何か、紅茶に拘りは有るかしら」

 背を向けたまま咲夜が問う。
 実のところ拘りなどは無かったが、しかしそのまま言うのも恥ずかしいような気がして、

「香りの良い紅茶を、選んで下されば……」

 変に気取った答えを寄越してしまう。それでも咲夜は楽しそうな声で返事をして、茶葉の用意に取り掛かる。

「厳選されたベルガモットで着香されたアールグレイ、とっておきの一品ですわ」

 咲夜が盆にポットと二つのティカップを乗せて戻ってきた。ティポットから滲み出るように柑橘系の香りが揺らいでいた。
 彼女は慣れた手つきで紅茶をカップに注ぐと、一つを私に差し出した。
 ティカップ、ソーサー、共に真白な質素なものであった。
 
「ミルクやお砂糖は必要かしら?」
「いえ、大丈夫です」
「ふふ、凄いわね」
「……凄い?」
「いえ、私、ミルクティが好きだから。さすがにアールグレイにはミルクは入れないけれど、お砂糖は入れないと」
 
 そう言いながら咲夜は角砂糖を五つ、琥珀色の水面に落とした。
 小さなティカップの中、澄んだ液体がざわめき波打つ。スプーンでかき混ぜられて、渦を巻いた。

「どうしたの? 味は保証するわよ。クッキーも、紅茶も」
「それじゃ……」

 そっとティカップに口をつける。魔理沙の淹れてくれたそれとは違う味がした。香りも違う。
 当然なのに、何故かそれが驚くべき事のように感ぜられた。
 人となりを思う気がした。味に香りに、淹れた人を感じるのではないか。
 すると咲夜が、随分と可憐で柔和な人物に思えてしまう。そしてあながち外れでもなさそうで。
 私がなんと言うのか、待っているのだろう。咲夜が微笑みながら私の顔を見つめていた。両肘を机に突き、指を組み、その上に顎を乗せ。

「――美味しい。それに、良い香り」
 
 見つめられたままでは気恥かしく、気を紛らわせるように触れた紅茶の味と香りが、私の口を動かした。

「ふふ、それは良かった」
「クッキーも、美味しいです。ほんのりとした甘さが、これくらいの甘さが好きなのです」
「そこまで言ってもらえると、嬉しいわ。これはね、とっておきなの。お嬢様達は、もっと甘いのでないと、駄目だから」

 主の事を思いながらだろうか、心底楽しそうな声で、咲夜が言った。
 主従関係とは、かくも朗らかなものであろうか?
 分からないが、目の前の少女を見るに、そのようであった。

「時々不思議に思う事があるの」
「何でしょう」
「私たちは当然のようにお茶を淹れ、クッキーを焼くけれど、どうしてそんな事、出来るのかしら」

 咲夜はゆっくりと、区切りながらそう言った。
 自身でも朧な輪郭の話題をどう口にして良いか分からず、手探りで言葉を紡ぎ出すように。
 それは純潔な疑いだった。
 そして一等尊い疑いに思えた。

「こうすれば、こうなる。それがふと、途方も無い事に思えてしまうの。なんて言うのかしらね、当たり前の事が、とても素敵なんだって」
「当たり前の事――そうですね。その当たり前が無ければ、この一時もないのですから」
「そうね。貴女がここにくるもの、当たり前、にしてしまっても良いのよ?」

 笑いながら、彼女は言った。
 どこまで本気なのかは知れないけれど、心にも無い事を言っている様子は無い。
 だからというか、なんとなく、寂しくなった。
 彼女には既に主と言う素敵な当たり前の存在があるのだと、それを思ってしまった。
 足りているからこそ生まれる余裕。そんな物の影を見た気がしたからだ。
 私には無い物の影を見てしまった気がしたからだ。

「ふふ、悪くありませんね」

 だからか、口をついた笑いも言葉も、なんだかぎこちなくなってしまう。
 表向き、決して不自然ではないという自覚があるからこそ、そのぎこちなさが内面で際立った。

「きっと貴女は、ここで飲んだお茶とクッキーの味が忘れられず、またここに来る事になるのだわ」
「それほどに、美味しい事は否定できないですね」
「気が付いていないかもしれないけれど、そういう魔法がかけてあるのよ?」
「え?」

 私の反応を見て、咲夜が愉快そうに笑った。

「あら、疑っているのね。本当よ?
 ――そういう風に、心を込めてお茶を淹れては、クッキーを焼くの」

 言った彼女と、見つめ合ってしまう。
 何か耐えきれなくなって、思わず吹き出した。二人して、顔を見合わせて。

「そういう魔法があっても良いと思うのよ。料理なんて、全て魔法みたいなものだもの」 
「すごく、可愛らしいのですね」

 私が言うと、咲夜は笑みを潜ませたまま、目を丸くした。
 そして俄かに、頬を赤くする。絨毯の色と同じ、赤色に。

「そ、そんな事はないわ。それで、そうだわ。何か用事があったのでは?」

 そうだった。私がそれを忘れてしまうところだった。
 尤も――忘れていた方が良かったかもしれない。
 思い出すと、いくらか暖かかった心が、またどんよりとした気持ちになってしまう。
 しかしぬるま湯に絆されたままでは、ならない。
 私は何も、求められた客人ではないのだ。いつまで居座っていてもならない。
 それに合わせて――何か恐怖を感じていた。 
 分からないが、ただ、こうして暖かい時間を過ごすのと同時に、夢のあの感覚が、遠ざかってしまう気がしたのだ。
 それを恐れる一方で、咲夜に意味もほどほどの質問を投げかける事に、躊躇もあった。
 けれど私は、それを尋ねずにはいられないのだと知った。なるほど、欲には逆らえないようだ。

「はい。取り留めもない質問なのです。笑われてしまうかもしれません。でも尋ねさせてください
 …………、
 泣いた事は、ありますか?」



 * * *



 なんとはなしに、紅魔館での出来事を思い出した。
 とりわけ私の目に、異質に映った一つの場面を思い出した。
 咲夜と私を見比べる、多くのメイド達の瞳。
 それはとても、卑しいものに思えた。
 まるで恋焦がれているかのような、そんな瞳。
 だって、おかしい話だろう。なぜ、同性に向けてそのような眼を?
 あの時の恥ずかしさを思い出して、その鬱憤を晴らすかのように、そんな事を考えていた。
 思えば、確か口伝があったはずだ。
 少女二人が恋に落ちて、途方も無い末路を辿ったという言い伝えが。
 微細に覚えてはいないけれど、確か、川べりの白い百合畑で、二人心中したと言う。
 その結果の惨憺たるや、真っ白な百合は真っ赤に染まり上がった、と。
 以来、そこには真っ赤な曼珠沙華が咲くと言う、ただそれだけの伝説である。

 いや、それだけでなくて――

 他に何か逸話があったように思う。しかしそればかりは、いくら頭の中を探しても、見つからなかった。
 私は実際にそこに訪れた事は無い。けれど百合畑が無い事だけは知っていた。
 かくの如き言い伝えから、私たちは自分も知らないうちに、何やら気味悪いと思うのかもしれない。
 ――同性の恋というものに。
 思えばこのかた、私は恋と言うものに縁が無い。
 短命故の宿命か。しかし焦がれもしない。他人事だけに、いかようにも思えるのだった。
 狂気は個人対個人でやりとりするものであって、集団で共有すべきでない。
 それは胸の内に仕舞われていなくてはならない。行動として発露される時に、すでにその狂気は凶器としての役割を果たさない。
 触れる事すら叶わないのだ。
 個人で扱われる狂気――例えば愛も、その類に思えてならない。
 つまり村社会、ひいては全世界を結ぶ人類愛など、狂気の沙汰でしかない。
 まるで正気で無い。けれど誰かしらそのような夢想をするのだ。嘘寒い徒党を組んで、フリをするのだ。
 その点でいえば、なんと妖怪の気楽な事――

「お嬢様」
 
 ふと、聞こえた。
 私はその呼び方が、どうにも嫌だった。
 無論、咲夜が主を差して呼ぶ事ではない。

「お嬢様」

 と、私を呼ぶ、家人達の声が嫌なのだ。

「ただいま帰りました」
「ああ、こんなに遅くまで。何かあったのではないかと、心配致しました」

 空々しい言葉に思えてならず、そう思うと、お嬢様なんていう呼び方が、更に空虚しいものに思える。
 壁を作っているのだ。
 そうやって私を遮る、壁を作っているのだ。

「それはそれは。けれども私も、決して幼子ではないのです。まして陽の暮れる前に帰ったのですから、良いでしょう」
 
 それを言うと、家人は何も言い返そうともせずに、視線を泳がせた。
 これが証拠である。心配など、あくまで口にしただけであるという証拠である。
 ただ腫れ物を労わるが為の、形だけの過保護なのだ。
 傷口はいたわり過ぎても膿みかねない。風にさらされた方が、良い事もある。
 膿みなのかもしれない。
 私はこの家の中で、あるいは人間の里と言う村の中で、膿みなのかもしれない。
 家人が何も言い返す気配が無いので、老爺にただ無機質な視線を送り、私は足早に部屋へと帰った。
 空虚に憎しみを宛がっても、空かしてしまうだけだから。
 咲夜への訪問が、当初の意味からすると徒労に終わってしまった事。それを思いながら、自分の部屋に踏み入った。
 何か、いつもと違った。
 部屋の隅、何か言い知れぬ空気を感じた。
 眼をやる。すると、奇怪なものがそこには置かれていた。
 置かれていた、というか、はらりと、舞い落ちた。 

「曼珠沙華の、花弁のような」
 
 時候としては、些か尚早ではあるけれど、曼珠沙華の咲く季節である。
 しかし私が、このような花弁を持ち帰ったとは思えない。それでは家人の誰かか?
 誰かが私の部屋に、無断で立ち入ったと言うのだろうか。
 無性に腹立たしくなった。
 念の為にと、隅に面した押し入れを開ける。
 何も無い。ただ暗闇が広がるばかりである。
 盗られて困る物など一つも無いが、しかし気味が悪かった。
 つい先に、百合畑の口伝を思い出したからだろうか。故に気味が悪い。
 拾い上げた華奢な花弁を握り潰す。その花弁に一切の罪も無いのが、逆に良い気分だった。
 それを屑篭に放り入れると、私は机の前に座り、髪飾りをその隅に置く。
 白い椿の髪飾りを眺めると、何故だか心が落ち着くのだった。
 懐かしい、と言うのだろうか。得も言われぬ心地になる。
 けして新しい物ではないけれど、髪飾りのその白は、私の知る限りいつまで経っても混じり気のない色をしている。
 私が生まれた時から、傍にある品である。

 ――どうして貴女は泣くのです。

「……………………………………えっ?」

 声が聞こえた気がした。
 振り向けば、何も無く、しかし幽かに、笑う声が聞こえた気がした。
 ここまでともなれば、とうとう私も気分が悪くなってくる。
 連日の外出から、気が参っているのだろうか。
 その上、ロクに眠れないのである。睡眠時間が欠如しているわけではないのだが、眠り、安らぐ心地がしない。
 霊障だろうか。まったく、敵わない。
 幽霊は騒音を嫌うと言う――などと考えた途端、例外を思い浮かべてしまったが。
 いてもたってもいられず、蓄音器を回す事にした。
 幺樂団のハイカラな演奏と共に、昼間の紅茶の味が思い出された。
 
 ――泣いた事。それはもちろん、あるわよ。けれど何があったら泣いてしまうかなんて、そこまで自分では分からないわ。ただきっと、哀しいんでしょう。

 さらりと、メイド長はそう言った。
 拍子抜けするほど、あっさりと答えてくれた。
 哀しい、のだとして。
 それなら夢の中のあの姿は、哀しんでいると言うのだろうか。
 それでは私は、哀しんだ事が無いと言うのだろうか。
 




 四
  
 夜半、私は家を抜け出した。
 夜ともなれば、誰かの視線を気にする事も無い。誰が私をどう思っているかを、気にしないで良い。
 唯一私を見るあの月は、無情だから何も気に留める事も無い。

 ――月は無情と云ふけれど。
 
 そして人を無常と呼ぶのだろう。
 二つは全く似てはいなかった。情念が故に、無常なのだ。
 対し、花は確かに無常である。しかしその色は、時としてどうしようもなく無情でもある。
 私は月光の下、再び不可思議な思いをしていた。
 口伝の川べり。嘗ての百合畑。そこは今や、曼珠沙華の咲き乱れる場所で無ければならないはずなのに。
 そこには、白い花が、咲き溢れていた。 
 
「――月は無情と云ふけれど、コリャ」

 歌声を耳にした。
 女の声を耳にした。
 聞き慣れぬ声でありながら、聞き覚えのある声だった。
 扇子を口元に宛て佇む彼女を、私は眼を丸くして見つめた。とりわけその指先が、驚くほど綺麗だと思った。
 僅かに流し眼をくれるその横顔は、闇に紛れて良く見えぬ。月の光が眩しくて良く見えぬ。
 しかし確かに、頬を伝った――涙が頬を伝っていた。
 雫は月光に月光に光り、無情の常を思わせた。
 その雫の行く末を、私は辿ろうとした。
 すぐに落ちて、地面に消える――それだけの事で、それだけの事の終わりには、既に女の姿は無くなっていた。
 ただその瞳を思い出すと、私は何を考えればいいものか分からなくなった。
 再び涙の雫が消えた地面を見つめる。
 白百合の花などは、見当たらない。
 ただそこに咲くのは、無情の光を浴びて、僅かに白んで浮き上がる、曼珠沙華の群れだった。
 私は何も考えずただ無心で、出かけに屑篭から拾い上げた曼珠沙華の花弁を、ひらりと捨てた。
 




 五

 起きぬけ、昨晩の奇怪な出来事を思い出した。
 幽霊だったのだろうか。幽霊だとしても、彼女が哀しんでいる事には相違無いだろう。
 もう一つ、不思議があった。
 夢を見なかった。
 かと言って清々しい目覚めで無いのは、その分の不思議を、眠る前に体験してしまったからだろうか。
 それとも私自身が心の奥で、あの夢を見る事を望んでいるからなのだろうか。
 思えば、あの川べりで見かけた姿が、夢の中のその人だったのではないだろうか?
 しかし、もしそうだとすると、彼女が口ずさんでいた歌が、私の時折口ずさむそれと同じだった事は、とても大きな意味がある気がした。
 そしてそうすると、私と彼女に、何らかの関係性があるものだと、そう思えてしまうのだ。
 それはどうにもおかしい。彼女の泣く姿が、私と重なる事があるものか。
 私が羨望に近い思いで仰望する姿が、実のところ私に近しいものだっただなんて、有り得てはいけない。
 扇子を持つ白い指先が、宵闇の中で繊巧なガラス細工のように儚く冷艶に動いた風景を、私は忘れられない。
 それは決して、私の身体に着く、蝋仕立ての四肢とは違うのだから――
 昨晩、掌から落とした、皺くちゃの曼珠沙華の花弁を思い出した。
 もはやそこに何の意志も無く、夜風に身を委ね、何処かへと飛ばされてゆく華奢な花弁の事を思った。
 取るに足らない一時の出来事は、無価値でありながら、無情の月の下、神聖な儀式であるかのようだった。
 みすぼらしく縮れた一筋の赤。
 曼珠沙華の花弁は決して美しくは無かったが、私の手を離れて、私の視界から、意識から消えた瞬間に、別の何かとして美という観念を与えられたかのように思われた。
 まるで盆暮れに幽魂が戻ってくるかのように、まるで異質なものとして――
 私は今、間違いなく理解した。
 私があの夢に執着する理由。あの夢の中の朧な姿を確かにしたい欲求の源泉。
 それは単純だった。そしてそれは、始めから変わる事は無かったのである。
 私の目に――正確には意識に、あの光景が、いたく綺麗に、美しく見えたから、それだけだった。 



 * * *



 すると私にかくの如き神秘を解明する必要があるのか、との疑問が浮かぶ。
 先に失望しかないように思えた。しかし同時に、何もせずにいる今に失望が無いとも言えない。
 今この瞬間、私は確かに書庫に篭って、膨大な書物書簡の疲れた色をした頁を一つ一つ、もどかしさを押さえながら捲っている。 
 同じくらいの歳の子が外で走り回り仲間とおままごとをしているであろうこの瞬間、私は仄暗く埃臭い部屋の中に一人いる。 
 寂然とした空間が私の心安らぐ場所である事に疑いは無かった。
 外に私の居場所を確保する為に、私はどれ程の努力を強いられるだろう?
 居場所自体は恐らく、容易に手に出来るかもしれない。けれどもそれは、決して安らぎの無い、窮屈な代物だろう。
 もしかすれば、その居場所は見世物台なのかもしれない。
 そんな場所にわざわざ身を窶すくらいであったら、私はこのまま埃になって散り散りになるべきなのだ。
 こうして私は、私が一人でいる事を正当化する。
 私が数えの上での同年代から疎まれ訝しがられ気味悪がられる事を正当化する。

 ――果たして何処に、短命の桜を見世物にしない者がいるだろう。

 御阿礼の子の存在は、里の人間村の中で、見世物に似ている。
 私の傍らに慧音が付き添ってくれるのも実のところ、その風合いを強める要因だろう。
 悪くは思わないが、それを否定する事も出来まい。
 私は人との交わりを嫌っているのでは無い。
 私を疎む者との関わりを嫌い、即ち、例外を除いた全人間を嫌っていると言うだけの事だ。 
 私を良く思わぬ者の事を、どうして良く思えよう。
 もし良く思おうと私が奮い立てば、それは愛のようなものなのだ。
 つまり、正気でなくなっている。
 母性は欲求に非ず。母性など幻想に過ぎない。
 愛着的な関係は社会的構築物に過ぎない。
 それはこの私を見れば良く分かる事であり、それを知らない者の多くは、今頃外で元気に遊んでいるのだろう。
 対する私は、決して元気などでは無い。
 蓋し、正気とは不健康なものなのだから。

「これは」 

 一しきり考え耽ってから、私は一纏まりの、妙な書簡の束を見つけた。
 相違無く、この屋敷へと送られた物である。

「――この事件の惨憺たるや、恐ろしや?」

 一世紀以上も前の事である。御阿礼の代としては……一つ、もしくは二つ前。
 私の預かり知れる所ではないが、薄ぼんやりとした記憶が俄かに蠢動する心地を覚えた。
 この頃は結界も何も無く、つまり妖怪が人間の生活を脅かす、いわば摂理に適った形で時が流れていた。
 一つの小さな村が、妖怪に滅ぼされるなど、決して珍しい事でも無かった。
 惨憺たる事件が、随所で起きていたのである。
 しかし、その恐ろしい出来事と言うのは、幾らかその調子からは外れていた。

「人間による凶行とある。果たして人間の娘に、三十人もの村人を殺せるのだろうか――」

 それは素朴な疑問であった。
 しかし確かに、人間の、しかも娘による事件であったと、そう記されていた。
 首を捻らせ、その情景を思い浮かべるも、やはり私に分かる事など何も無かった。
 気の抜けた拍子に、手から書簡の束の、中頃が抜け落ちた。
 それなりの分厚さであったから、握力が弱まっていたのだ。緩慢にそれを拾い上げようとした時、私は興味深い一つの記事に出会った。
 先の惨憺たる事件の行く末に対しての興味など、微塵も無くしてしまう、そんな文が綴られている。

「――ト川の畔、見物人の久しくなった白百合畑の事」

 ト川という名称に全くの覚えが無かったが、恐らく、嘗ての白百合畑とは、ここを差すのだろう。
 私が昨晩訪れた川べりとはつまり、ここを差すのだろう。
 胸が昂然と高鳴るのを感じた。
 久しくなった、とある。その時、既にそこは、曰くのある場所となり果てていたのだ。
 逸る気持ちを抑えて、私は一文一文を念入りに読み耽った。
 
 恋に落ちた村娘二人、精神的に追いつめられたとあって、白百合の上で心中を遂げた。
 これは私も聞いた事のある話である。しかし、そこに記されていた出来事は、口伝と異なった。
 元より、白百合畑は見物人の多く訪れる名所である。見せしめのような心中の仕方であったが、それはつまり、早々に遺体が引き取られる事となる。
 時間もないのであるから、身体が腐り地面に返る事も無い。しかし不可思議があった。
 死体は一つであったのだ。
 少なくとも、見つかったものに於いて。
 その死体は衣服が肌蹴ており、その致命傷はと言えば、恐らく刃物によるところであったが、他に噛み傷が散見されたという。
 しかし目立った欠損などは無く、むしろ安らかな様子で――
 果たして、口伝と異なり、片割れはもう一人を裏切り、一人目の死に様を確かめた後、逃げ帰ったのだろうか。
 思うだけで、身震いする心地だった。それはとても、道理に適った事に思えたから――
 しかし不思議に、死体の見つからなかった少女も、ついぞ、姿を見られる事も無かった、とある。
 終いには神隠しと囁かれた。
 さて、その死体の代わりに、辺りの白百合は、おおよそ人間の血の迸る範囲を越えて、血飛沫を浴びていたとある。
 霊が出ると噂になり、次第に人はそこに訪れなくなった。
 そして――久しくなった白百合畑の事、に繋がる。
 そこにはもう、何も咲かなくなっていたのだと言う。幽霊の仕業だと騒ぎ立てるものも多くいた。
 終わりの方に、こうあった。

「――華々しき白百合の花の消えた後。古くよりそこにいたのに、それまで一切気掛かりにされる事の無かった椿の花の、なんと活き活きとしている事か」

 白百合が死に絶えた事で、赤い椿の花が、血を吸ったかのような椿の花が胸を張って咲いていたのだそうだ。
 曼珠沙華があの場所に根付くようになったのは、どうやら、河川の地盤を落ちつける為に、後に農夫が植えたものらしい。
 かの花があぜ道や土手に植えられるのは、鼠らに穴をあけられないようにする為である。根の持つ毒を、鼠たちも知っているのだ。
 こうして一つ納得していると、その次の文に、私の心は、完全に奪われた。

「――しかし何より私の心を打ったのは、赤い椿に紛れ、身を縮こまらせる、一つの白椿であった」

 私は、机に置かれた、白椿の髪飾りを思い起こした。


 


 六

 今を以て、なぜこの行事に執着するのか、私もよく分からない。
 しかし、あと一人、尋ねたい人があった。
 博麗霊夢に、さきに霧雨魔理沙と十六夜咲夜に尋ねたあの質問を、問わずにはいられなかった。
 彼女はあまりに無関心の塊である。
 確かに関心事はあるのだろうけれど、しかし多くに於いて、彼女は無関心なのである。
 それは逆説的に、分け隔てなく、好かれる事なのである。

 ――泣いた事があるか。

 我ながら、どう仕様もない問いである。
 しかし私は、私の知り得る限り、泣いた事が無いのである。
 泣くという事を、どうしてだか想像できない。
 どうにも想像できないのだから、私は問う。尋ねずには、いられなかったのだ。
 私は洗濯したハンカチ――美鈴から借りた物である――を巾着の中に忍ばせて、まだ陽の登り切らない空の下、ゆっくりと博麗神社の参道を歩いている。
 事が終わったら、紅魔館へ行って、ハンカチを返そうかと思う。
 恐らく、博麗霊夢に尋ねる事によって、私はこの執着から解放されなくてはならないのだ。
 その返事が、いかな物であったとしても。 
 私を泣かす何かの訪れに期待して、家に帰れば良い。――それが訪れるのは、私の次の御阿礼の子かもしれない。
 境内に、紅白の姿を見つけた。
 箒を持った彼女は、私の足音に気が付いたのか、振り向いた。
 何を思っているのか分からない。あまり色の無い、白い顔をしていた。
 滲むように照らす太陽の陽を浴びて、あどけない様子でその顔が傾いた。

「霊夢さん」
「ん、珍しい。どうしたの」
「単刀直入にお尋ねします」

 夏の終わりと秋の始まりの混ざった気だるげな風と一緒に、紅白巫女がスカートを翻す。
 疑問の色を浮かべるその瞳から、涙が流れる様。それを思い浮かべる。

「で、何?」
「え、えぇ。単刀直入にお尋ねします。泣いた事、ありますか?」
「はぁ?」
「もう一度言いますか?」
「いや、別に良いわよ。それにしても、何? いきなり」
「ただなんとなく、です。知識欲とはかくの如き、ひらめきから発するのです」
「良く分からないわ。それともう掃除は終わったから、部屋に戻って良いかしら?」
「え、ええ。構いません」
「着いてきて」

 言うが早いか、霊夢は箒をくるくると回しながら、足早に歩き出す。
 考える間も無く、それを追った。私を置いて行くつもりはないようで、少し歩調が緩まった。
 秋の境内、桜は裸である。
 花は散っても、木はそこに残り続ける。
 それはなんだか、御阿礼の子のようだった。
 咲く花は違うけれど、木は同じなのである。
 だから、来年に咲く桜に今年の桜の事など分からぬ。
 今年咲いた桜に、昨年の桜の事など分からぬ。
 だから桜は、どの花見の見物客とも初対面であり、そうでないと思い込んでいるのは、客の方だけなのである。
 ただ――いつかの桜が、気にならないでもなかった。
 


 * * *


 
「泣いた事ね。泣いた事は、無いわ」

 博麗霊夢が、湯呑を握りしめて、そう言った。
 緑茶だった。その味も香りも、魔理沙や咲夜の淹れた紅茶とは異なった。
 
「――泣いた事が、無い?」
 
 自分のその声が、ひどく間抜けて聞こえた。
 私は自身を棚に上げて、そう言ったのだ。

「涙を流した事は、あるわよ」
「それって結局、泣いているのではないですか」
「けれども涙を流す事自体は無意識の事でしょう。心臓が脈打つのと、同じ事。
 ――だと思うから、屁理屈だけど、私は泣いた事が無い、と言うわ。
 何か理由があって泣くのは当たり前だけど、けれどそれは振り返って気が付く事であって、その瞬間、泣こうとしているわけではないのだし。
 泣いていた、事はあったかもしれないわね」

 まあ、屁理屈で冗談よ。泣いた事、無いわけが無い――と付け足して、博麗霊夢が諧謔な笑みを浮かべた。

「貴女が尋ねているのは、心臓が動いているか、っていうのに似ているわ」

 彼女は、先に挙げた例えから、その言葉を口にしたのだろう。
 けれどそれは、私には辛い言葉だった。
 彼女はやはり私とは違っていた。
 私の心臓は、本当に動いているのか?
 そんな疑問――そんな疑問だと言うのだから。
 こうして湯呑を手にして、死んでいるのかもしれない。
 消え去る事も出来ないというのに。息もしていると言うのに、つまり生きてはいないのかもしれないと言う。
 ああ、もし本当にそうなら、どれほど良い事か!
 そうしたところで、何も変わらないだろう。――それこそ、私の運命に至っても。
 私は来世でも、阿求以外の私として生きるのだ。
 それとも、閻魔様に見放されるほどの事をすればいいのか?
 自決? 犯罪? 
 どちらにせよ、私の手に負える事じゃないのは、理解していた。
 ――三十人殺しの娘の話を、ふと思い出した。
 羨む気持ちがあった。

「ま、心臓が止まっても困る事もないかもね。ここは幻想郷なんだから」
「……ええ。そうかもしれません」

 口にした緑茶は、苦く、私を突っぱねているように思えた。
 
「――そういえば今日、貴女、暇?」
「少しばかり立ち寄りたい場所があるのです」
「そう。今日、早苗がうちでお昼ご飯を作ってくれるの。良かったら、貴女もどうかしら、って、思ったんだけど……」 

 揺曳した呟きは、いやに儚く、決まりが悪い様子だった。
 頬が俄かに、朱色を帯びた。
 そして、彼女は下唇を僅かに噛んだ。
 知り得もしない機微を、感じとってしまった気がした。ただ私はその顔を、見つめ続ける事が出来ない。

「そうでしたか。いえ、でも、お邪魔しては、いけないでしょう」
「そ、そう。そういうものかしら。そうね、なんでもないわ。ごめんなさい」

 なのに言葉は、すらすらと出て来た。
 お邪魔してはいけない、などと、そう考えたのだ。
 二人に何か格別の関係でもあるかのような、そんな事を思ったのだ。
 霊夢が慌ててその言葉を否定でもしてくれれば、それでも良かったのだ。
 事実がどうであれ、彼女自身が、それを否定してくれたのなら。
 それなのに――物分かりのよすぎる返答が、余計に私を沈ませた。
 多くに無関心である博麗霊夢が、一身に関心を寄せる相手というのが、即ち東風谷早苗だというのなら、その関係は、推して知るべしだった。
 それを見せつけるかのような言葉に、なんだか私は――

 こうなるともう、私の手に負えない事物が目の前に横たわっているようである。
 この感情と、推察と、その間の折衝などは、出来そうにない。
 緑茶の苦い味が、口の中で蠢いた。



 * * *



 苦い思い。
 博麗霊夢が突き付けた全てから、私の感覚は苦みを感じとっていた。
 彼女の家を早々に後にせずにはいられなかった。
 とても不思議な感覚だった。
 彼女の何物にも囚われない性質は、無関心であるはずなのに。
 定めし、私に対しては、無関心であっただろう。
 それでも彼女は――
 ああ。私はやはり、彼女とは大きく違ったのだ。この事に、随分な落胆を覚えた。

 ――あの二人揃って、心中などしなければいいけれど。

 腑に落ちないと言うのが、今の私を、一番に表している言葉である。
 私は何処に落ちれば良いのだろう。 
 あらゆる事柄について、腑に落ちない。
 自分の心に、人の言葉に。息をするのも嫌になる。――心臓が動いていないとしても。
 博麗神社への訪問が、かくも早々と終わるとは、思いもしなかった。
 なぜなら博麗霊夢は、先の二人と同じように、私の問いに対して、明確に肯定しなくてはいけなかったのだ。
 それなのに彼女は、屁理屈を述べるようにしてはぐらかした。
 あの口振りは、泣いた事が無いと言いながらにして、泣いた事が無いという可能性を否定していた。
 結果、私は私の類似を見つけるに至らなかった。それは妥協の余地も無いほどに、事実になってしまった。
 博麗霊夢が、私の前で、あらゆる無関心の様子を貫いてくれたのなら――私は妥協のきっかけを掴めたかもしれないのに。

 私は霧雨魔理沙のように風邪をひく。
 私は十六夜咲夜のように当たり前を疑問に思う。
 私は博麗霊夢のように、無意識に心臓を動かすのに。
 しかし私は『泣いていた』事も無い。
 私は、どうして彼女たちと異なるのだろうか。





 七

 違う事に気が付く。そのきっかけは様々である。
 指摘される。笑われる。眼を丸くする。違いが生まれる。
 歩き方、喋り方、視線、生き方。
 笑われて、貶されて。
 恥ずかしくて堪らないとなれば、その違いを治そうと、努力をする。
 しかしそれが治せるものでないと理解し、また治そうが治せまいが、周囲からの扱いが変わらないと知った時、二つの選択を迫られる。

 一つは――自分が劣った存在であると思い込む。
 何気ない事を、逐一羨むようになる。外で走り回り、遊ぶ姿を羨むようになる。仮初で母親の役や、姉の役、家族の姿をして遊ぶ様子を羨むようになる。
 彼らのする意味のまるで無い会話が、素晴らしいものに聞こえる。腹の底ではそれを馬鹿にしているのに、それが羨ましくなる。羨ましい振りをしている。
 そして次第にそれらは、本当に羨望に足る事物になる。
 劣った人間から見た景色は、全て羨望の色に染まりかねない。
 そうして世界は更に拒むのだ。明日が見えなくなるまで――あるいは見えなくなっても――笑われ続けるのだ。

 一つは――自分が優れた存在であると思い込む。
 周囲が全て取るに足らない物であると蔑むようになる。周囲が全て馬鹿であるから自分の事が理解されないと嘆く。
 彼らの所作の一つ一つを煩わしく思う。洗練されていないそれが酷く滑稽に思われる。頭ごなしに否定するのは、腹の底で羨望の想いがあるからである。
 果ては彼ら全てに価値が無い物と思い込む。
 優れた存在であるから、孤高の存在であるからと、全てに妥協を見出し始める。
 そうして世界は腐ってゆく。少なくとも、その個人の中で、世界は厳粛な音を立てて崩れゆく。

 二つは全く違う装いをして、全く同じなのである。
 朝起きるのがどうしようもなく苦痛になる。
 夜眠るのがどうしようも苦痛になる。
 ただ無性に消え去りたくなる。
 同じ事なのだ。

 ひどく沈んだ気持ちで、私は紅魔館へ向かうのが嫌だった。
 彼女たちと接するのが、とても難しい事に思えてしまう。
 巾着にしまったハンカチの事を思い、私は悩んだ。
 ――何も今日でなくても。
 しかし、日を改めてまで外を出歩くのが、嫌でもあった。
 紅の館のすぐ近く、湖の畔に来たところで、私はしゃがみ込んだ。
 空気が僅かに湿り気を帯びていて、草木の臭いが鼻に着く。
 ここは相違なく幻想郷の一部であるはずなのに、どうしてだかそんな気がしなかった。
 立ち並ぶ巨木が歴史を感じさせ、澄んだ水面はずっと前からそうだったと見える。
 昔のここを鮮明に覚えているわけもなく、しかし私は、タイムスリップしたような心地を味わっていた。
 ――いつかの桜の事。
 私よりも先の御阿礼の子の事を、私は意外にも知らないでいた。
 先代の残した筆跡から、それぞれの人相や生き様まで、私には見透かせない。
 そしてそれが全てであるとは思えなかった。私がそうである。私の考え全てを、残せるわけがない。
 御阿礼の子と言う桜の巨木に花咲く私たちが、皆一様でないというのは、考えるまでも無い。
 それでは私の桜の花は、ひどく不器用であるけれど。
 先の御阿礼の子について――誰かに尋ねる事も、出来るだろうか
 例えば、と考えて、止めにした。
 散った桜の事など、誰も気に留めないのだ。誰も覚えてはいないだろう。覚えている者もいないだろう。
 立ちくらみだろうか、蹌踉としながら立ち上がった。



 * * *



「あら、こんにちは。どうしましたか?」

 美鈴は快活に、白い歯を見せながら言った。
 彼女は、先日と同じように、桜の木の下にいた。

「以前お借りしたハンカチを、返しに来ました」
「…………あ、ああ! そういえば。わざわざありがとうございます。忘れていました」

 ――その言葉を聞いた瞬間、頭が真白になった。
 なぜだか、幻滅した。自分自身に、である。

「丁寧にありがとうございます」

 手渡したハンカチを、美鈴は注意深くポケットに仕舞った。
 当然の事だったのだ。彼女にとっては、忘れても何ともない事だったのだ。
 私があの時感じたぬくぬくしい気持ちに反して、実際は外気と変わらぬ肌寒さを帯びていたのだ。
 
「よければまたお話でもしていきませんか?」
「いいえ。今日の所は少し疲れていますので、早くに帰ろうかと思っています」

 図々しくも、それは望んでいた事のはずなのに。私はそれを、拒否した。
 思い起こせば、美鈴はあの時、何も持ち帰らないで良いと言ったのだ。
 それを無理言って、私が持ち帰ったのだから。ハンカチを借り受けた礼として、洗濯して、折り畳み、返しに来たのだ。
 それだけの事なのに。理に適った滞りない出来事であるはずなのに。
 美鈴の忘れていた、という言葉一つで、全てが淀んでしまった。

「そう、ですか。分かりました。気を付けて」 

 思えば思うほど、それは身勝手だった。単なる思い込みなのに。
 けれども、どうしても、身勝手な落胆をせずにはいられなかった。
 ほんの少しでも、そこに居場所があるように思えてしまったから。
 即ち、心の緩みだったかもしれない。
 去り際、私は以前よりも感慨をもってその巨木を見上げた。
 美鈴に力なく手を振り、足早にそこを後にした。
 それほど必死に歩いたというつもりはない。
 けれど、身体は変に軽く、思わぬ程の速度が出ていたように思う。
 暫くして、我に返った頃には、私は随分と紅魔館から離れた場所にいた。
 あぜ道が伸びている。水が流れている。辿ると、小川に続いている。
 引き寄せられるように、そちらに歩いた。木が立ち並んでいる。椿である。
 まばらに曼珠沙華が見える。朽ちた看板には『外川』とあった。
 里の外周を縫うように流れている為に付いた名称であるらしい。
 
「ト川――」

 私はその名前を口にして、はっとした。
 白百合の花は無い。
 椿も季節では無い。
 曼珠沙華のみがあった。
 私が顔を上げると――
 少女が立っていた。

 



 八

「私、皆に嫌われているの」

 始めに聞いた言葉は、それだったと思う。
 少女はそう言った。その名前を菫と言った。他の事は、何も知らない。けれども彼女が仲間外れにされているのは知っていた。
 気味の悪いほど透き通った色をした髪の毛は、確かに子供たちの誰とも違った。
 緩やかにうねるブロンドの髪の毛は綺麗と言えば綺麗だったのかもしれないが、なんにせよ、彼女は皆と違った髪の色をしていた。
 そして透き通るような白い肌をしていたが、これもまた、消え入りそうなほどだったから、幽霊のようだとからかわれる理由に足りた。
 彼女の家は、誰も知りはしなかった。
 興味がなかったのかもしれない。彼女をからかい、仲間外れにすれば、そして興味は尽きたのだろう。
 私は心のどこかで、彼女は仲間だ、と思っていた。
 こうして川べりに二人並んで座ると、それを強く感じる。
 それは彼女も同じであるようで、その瞳の安堵を見ると、私もまた落ち付くのだった。 
 求聞持の力――また、生まれついての虚弱。多くの子たちと一緒に、遊ぶ事は禁ぜられていた。
 内向的にならざるを得ない環境があったと言えばそれまでだが、それ以上に私は、多くの子供たちを関わる事を、自ら嫌っていた。内心とは裏腹に。
 私にはもっと、高尚なやり取りが正しいと思ったのだ。
 果たして、私と少女との出会いがそれを可能にさせた……と、少なくとも私は思う。
 
「いつか私が何かをしても、奴らは分かったように、あいつは昔から変わった奴だった、とか言うんでしょうね」

 少女は言う。私が無言で、けれど首肯すると、彼女は更に続けた。
 
「例えば私のお唄が皆に届くようになっても、きっと奴らは、何食わぬ顔で、あいつの唄は凄い、とか言うんでしょうね」
「褒めながら、その意味も、分かってはいないのでしょうね」
「そう。なんとなく、良い事を歌ってるな、とか、その程度で」
「私も、分かっているか不安だわ」

 私が言うと、菫はにっこりと笑って、私の手を取った。暖かく、同時に冷ややかでもあった。

「大丈夫。貴女なら、きっと分かっているわ」

 青い瞳に吸い込まれそうになって、咄嗟に顔を背けた。
 菫も何も言わずに、再び川の流れを眼で追っている。私たちは、あまり会話をしなかった。
 しかし、今なおそうであるように、手を繋ぐ事は、しばしばあったのだ。
 言葉を交わさなかった変わりに、菫は唄をよく歌った。色々な唄を歌った。
 流行り唄もあれば、民謡もあった。
 見た目はこの辺りの人ではないようだけれど、訛りも一切なく、優しい歌声が聞けた。
 その歌声が耳を離れない事もしばしばで、私はその中のいくつかを歌えるようになっていた。
 彼女と会うのは専ら薄暮の時、それ以外の時間はお互いあまり意識しないようにしている。
 お互いを見るのが、辛かったというのもある。ただなんというか――場所を異にしてしまうと、私たちは私たちでなくなってしまう気がしたのだ。
 眠れない夜には、よく彼女の事を思い出した。正確には、彼女の唄を。
 今日のように月の見える日は、特別だった。
 
「月は無情と云ふけれど……か」

 満月を眺める。何か妖艶な力を持っているようだった。妖しげな光――
 私はふと、自分が人間でないような気がする時がある。それと同様に、菫が人間でないような気もしていた。
 満月に活き活きとした心地を覚えたので、思わず笑ってしまう。
 笑いながら、血の流れるのを見るのである。
 手首を静かに流れる血を見ても、何も思わない。思わないし、なんの快楽も得られない。それをする事によって、一歩近づける気がしたのだ。
 楽になれる瞬間に、一歩だけでも近付ける気がしたのだ。
 笑いながらの厳粛。そんな事を思った。
 マゾヒストじゃない。
 けれど最後の抵抗がそれになる事は、薄々予見していた。
 そうでもなければ、私は腕ではなく、首筋に切っ先を向けるべきなのだ。

「けれども私は、仕事があっての命なのだから」

 幻想郷縁起の編纂。私はその為だけに、生きている。
 他の役目など、果たしてあるのだろうか。
 私の不幸と言えば、まず御阿礼の子として生まれてしまって事、それ自体ではないだろうか。
 先代も先々代も、この繰り返しの為に生まれ、死んだのだろう。そして次代も、可哀そうな事に――
 書き記す内容に違いがあると言うだけの事で、他に違いは無い。
 多様性などはここにない。御阿礼の子に求められるものではない。
 それは凄く、虚しいように思えた。
 いつか幻想郷縁起の編纂が必要なくなる時、その時が、私の消えていける時である。
 恐らくそれは、私の代では無い。
 私は今にでも消えてしまいたいと思う事がしばしばあるけれど、果たして、その『消えていける』御阿礼の子、またその次代の御阿礼の子は、同じ事を思うだろうか。
 私たちの苦悩も知らずに、生きたいと思うだろうか。
 それを考え始めると、どう仕様もなく皮肉に思えた。
 人生が幾度あろうとも、私が幻想郷縁起を編纂しないで済む道理は無い。
 人生が幾度あろうとも、少なくとも私の考えられる限り、繰り返されるのは憂愁ばかりだろう。
 睡眠薬でもって眠気を誘い、私は布団で丸くなった。
 夢も見る事なく、ただ闇に吸い込まれるように――
 ふと、昔、村の幼子たちに、子供用に作り直した小説を、読んで聞かせた事があったのを思い出した。
 あの時は少なくとも、今のような思いはしていなかったのに――


 
 * * *



 誰もいない川べりに、一人座り込む。
 大体の時、私がここに訪れると、そこには既に菫がいた。
 こうして私が先に来るというのは、少し珍しい事だった。
 思えば、私は事ある毎に菫の事を考えていた。
 唯一の心の拠り所とでもいうのか、ただ一つの安らいの存在だった。 
 家の者は皆余所余所しく、同い年の子たちも露骨では無いものの私を避ける。
 私はごく普通の子供たちの輪が、あの群れが時折とても羨ましくなる。
 あの輪に入る事を禁じられているから、なのかもしれない。
 私がそれを話した時、菫は心底不思議そうな顔をした。
 
 ――だって貴女は、あんな足りない子たちと一緒じゃないでしょう。

 彼女はそう言った。私も徐々に、その言葉が分かるようになってきた。『違う』のだから。
 けれどもほんの僅か、心の奥底ではやはり、羨望があるのだった。そしてこういう風に一人でいる時、その気持ちは素直に私の頭を駆け巡る。
 どうして良いか分からなかった。
 恐らく、私が抱くその羨望は、怖いもの見たさとか、不味い物を口にしてみたいとか、そういう感覚に近いのだろう。
 私は菫の事を好きだったし、彼女一人で愚にも付かない子供の何十人分にもなると思った。
 彼女一人がいれば、交友関係はもう充分だ。
 ――そう考えた瞬間。急に視界が塞がれた。

「きゃっ」

 思わずビクリと身を跳ねさせて、視界を遮った腕を、振りほどいた。
 振り向き、見上げると、菫が立っていた。

「驚いた?」
「な、何をするの」
「頬が赤いわよ」

 両手を頬に当てる。火照っているのが、嫌でも分かった。
 そして同時に、それまで考えていた事を思い出した。
 余計に気恥かしくなり、両手でそのまま顔を塞いだ――

「どうしたの、そんなにもじもじして」
「菫がいきなり、そんな事をするからです」
「まあ」

 鈴を鳴らしたような笑い声が、気持ちよかった。
 軽やかな笑い声の後、急に真面目な雰囲気を醸して、彼女は続けた。

「私、じつは妖怪なの」

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。
 
「何を急に」
「怖い?」
「怖くはないけれど」

 微笑む彼女から、その真偽は、どうにも分からなかった。
 けれどその真偽の程はさておき、私の答えは間違いなかった。
 彼女が妖怪であろう、そうで無かろうと、菫が菫である事が否定されない限り、私は彼女を恐れる事はないだろう。
 手首を握りしめながら、もう一度口にした。

「怖くはない」

 菫は満足そうに頷いて、私の頬に手を伸ばしてきた。

「良かった」
「菫が妖怪なら、私も妖怪だわ」
「そんな事は、無いんじゃない?」
「いいえ、私も妖怪だわ」
 
 思わず口をついた言葉に、菫が目を丸くした。
 菫が私の頬に手を宛がったそのままで、その手を少し下にずらす。
 首に触れるその手は、外気のせいか、随分と冷たく、思わず背筋が伸びた。
 彼女の手が私の首を、優しく摘まんだ。
 ――このまま、首を絞めてくれれば良いのに。
 そんな思いが伝わるはずもなく、その掌はそのまま、私の首を冷やすだけだった。
 菫が笑う。
 眼を見つめたまま――だから私も、その目に微笑みかけた。
 瞬間、何か決定的なものが、歯止めのようなものが音を立てて外れたように思える。
 菫の手が、そのまま下に動く。
 思わず、私は手を掴んでそれを制した。
 それと同時に、菫が手を引いた。引き寄せられるように、私は倒れ込んだ菫に覆い被さった。
 何かを口にしようと思ったが、何を言って良いのかも分からない。
 謝罪? それとも他に何か?
 考えている間に、目の前の菫がすっと、顎を上げた。何かを待ちわびるような瞳は、澄んだ青。
 改めて考えてみると――ここまで私が、菫の熱を感じた事が、今まで一度でもあっただろうか。
 これほどに彼女を近くに感じた事が、果てして今まであっただろうか。
 もう先に、二度とこのような事もないと思えた。
 だから。
 だから私は、無意識のうちに、その唇を求めた。
 籔の影、確かに重なった唇は、その熱でもって私の頭の中をのぼせさせた。
 感慨も何も無かった。
 ただ、絹伝いに、肉伝いに彼女の心臓の鼓動を感じると、こんな醜態も、心臓が脈打つくらいに当然の事に思える。
 これが正しい事なのだと、私は私に言い聞かせた。
 自分以外の唾液の味が、自分のそれと違わないのが、私を恍然とさせた。
 あるいは――菫のそれだったからだろうか。
 何の違和感も無く、受け入れた。受け入れられた。それは生まれて初めての体験で――今この瞬間、私は間違いなく幸せだった。
 幸せの定義はさておき、私はそう思ったのだ。
 衣擦れの音は、わざとらしいほど鼓膜を叩いた。
 私が彼女であれば良いと思った。彼女が私であれば良いと思った。私と彼女が一つなら良いと思った。


 
 * * *



 とある日、私は噂を耳にした。
 いや、正確には、それより先に、その予感はしていた。 
 人は私たちを妖怪と呼ぶようになった。
 それは願ったり叶ったりだった。それが事実なら、どれほど良い事か。
 妖怪だとしたら、私たちは畏怖され、そっとしておいてもらえるのに。
 けれど――噂は、もっと人間的で、卑陋で――

『あの二人――そういう関係なんですって』
 
 私と菫は、普段は殆ど一緒にいる事が無かった。だから、その言葉だけをパッと聞いても、すぐには分からなかった。
 しかし聞えよがしに繰り返されるそれは、疑いようも無く私たちに投げかけられたものだった。
 どうして噂されるようになったのか、私は知らない。けれど、赤裸々な様子が思い出されるにつれて、この流言は看過出来ない事物になった。
 尤も『そういう』という点に於いて、それは流言などではなかったが――
 始めは、なんでもない風を装った。後ろ指差されようと、それを気にしないように努めた。
 その為に、私は前よりも外出を嫌うようになった。お気に入りの川べりに行く事も、今までより少なくなった。
 菫はどうしているだろうと気が気で無かったけれど、事を荒立てても仕様がなかった。
 私には不思議な確信があった。
 また何事も無かったように、私たちはまた邂逅を果たせると。
 その為に、耐える事を選んだ。
 逃げず、消えぬ。まして消えられぬ。
 おかしな話だった。村人は皆、自分の助平を棚に上げ、娯楽のように輪を組み村八分する。
 これは蔑まれる恋だった。
 私と菫の存在が疎まれる物であったから、私たちと他人は、蔑み合うそれだけなのだ。
 またひそひそと聞こえる。

「……腑に落ちない」

 小さく呟いたところで、誰もそれを聞いてはいない。
 何故私たちは許されないのだろう。
 何故私と言う存在が許されているのだろう。
 そう考えて行くうちに、私は幸せの事を思い出した。
 始めて菫の味を知ったあの時の事を思い出した。
 あの瞬間、私は間違いなく幸せだったのである。けれども今はどうか。それまではどうか。
 一瞬の口付けのように擦過した幸せを、私は今も忘れずにいる。
 正確には、思い出す事によって幸せに触れている。触れ続ければ、それは摩耗していって――
 私は目の前で幸せを噛みしめる事も出来ずに、やっと噛みしめたのは幸せの後味なのだから。
 後味は次第に薄れゆく。後味に縋って、私は生きられない。
 願わくば、幸せが擦過したその瞬間に死んでしまいたい。そう思った。その幸せの擦過によって死ぬべきであると思った。
 似たような事を――菫もまた思っていたと知ったのは、その翌日の事だった。
 人の目を避け、私たちは夜半に落ち合う事としていた。
 私たちは無言で抱き合った。
 菫の首越しに見えるのは、椿の花々だった。
 時候は春の手前。寒々しさが次第に霧散し、緩やかな熱に包まれる頃。
 椿の一等綺麗な時節である。
 赤の椿は、宵闇にもはっきりとその姿を浮かび上がらせていた。

「この髪飾り、作ってきたの」

 菫はそう言って菫の髪飾りを――それも真白なそれを、私に差し出した。
 先に見た赤の花以上に、白の花は暗闇を切り裂く光を放っていた。
 月光の仕業だけとは思えない、とても神秘的な光を。

「ありがとう、菫。私も何か、お返しがしたい」
「それなら、一寸、目を瞑って」
 
 菫だから、季節になったら菫の花を探してこようか。それもとびきり綺麗な紫色の――
 そんな事を考える。考えていると、ほんの一瞬、唇が何かに触れた。
 吃驚して、目を見開く。
 その瞬間には、もう幸せは擦過した後であった。

「これでいいわ」
「もう、からかわないで」
「そんな事より、髪飾り、して欲しいの」

 促されて、それを髪に付けた。
 月光を跳ね返す水面を鏡の代わりにした。

「似合ってる」
「ありがとう」
 
 照れくさくなって夜空を仰ぎ見る。
 見上げた月に、ふと手が届きそうな気がした。

「兎のいそうな月ね」

 菫が笑った。
 儚げに笑ってから、彼女は歌い始めた――

「月は無情と云ふけれど、コリャ
 主さん月よりなお無情――」

 その声に、鼓膜が揺れる。
 続けて心が揺れる。確かにその歌声は、胸に響いている。
 聞き慣れた歌声。私も歌詞を覚えてしまっている。
 歌詞をなぞる。なぞって行くと、私の思考が、突っ掛かりを覚えた。
 
「花を咲かすは雨と風、コリャ
 花を散らすも雨と風――」

 そこで菫の言葉が、唄が止まった。
 横顔は、空を見つめていた。どうやっても手の届かない月を見上げていた。
 無情の月を見上げていた。 
 ――ああ、そして。
 そして私は、次の詞を、思い浮かべたのだ。
 するとどうだろう。
 私も彼女と同じように、上を向かずにはいられなかった。
 目頭が熱くなる。
 しかし涙の流れる事は無かった。泣いても仕様の無い事であると、分かり切っている。
 菫の口が、僅かにわななく。
 彼女は目を瞑って、絞り出すように続けた――

「妾を生かすは主一人、コリャ
 妾を殺すも主一人――」

 私を生かすのは、菫ただ一人であった。
 私を殺し得るのも、彼女一人であった。

「雨と風とがないならば、コリャ
 花も咲くまい散りもせぬ――」
 
 こうして歌い終えた彼女は、私の目を見つめた。何も意味を必要としない見つめ合う一時。
 何よりも私が望んだのは、雨も風も無かった世かもしれない。
 だから私は、無意識に、とんでもない事を口にした。
 ――一緒に死にましょう。
 何も生まなかった。私の言葉は、なんら新しい感情を生まなかった。
 けれど菫は、僅かに表情を変えて、目を瞑り、そして口を開いた。

「私には、数えきれない怨恨がある」
 
 だからせめて、その怨恨を晴らして死にましょう――

「けれど私たちみたいなので、人を殺せるのかしら」
「言ったでしょう。私は妖怪だから」

 今改めてその言葉を聞くと、どうしてもそれが冗談には聞こえなかった。
 けれども、まだ現実味だけが足りていなくて、私には困惑する他なかった

「世迷いではないの?」
「もう、こんな時に、冗談はよしてよ」

 ――とにかく、私に任せていいから、と。
 自決用のナイフだけを持って来い、と。
 そう彼女は言ったのだ。

「ねえ、菫」
「あら。なあに」
「………………好きよ」
「……私もよ、阿弥」
 




 九

「――八雲紫」
 
 白百合の花は無い。
 椿も季節では無い。
 曼珠沙華のみがあった。
 私が顔を上げると――少女が立っていた。
 彼女は、菫の描かれた扇子を口元に宛て、妖艶に微笑んでいた。
 そして事もあろうに、歌ったのだ。

 ――月は無情というけれど、コリャ。

 そして悪戯な笑みで、私を見つめる。

「貴女、どうしてそれを」
「こんにちは、阿求。この前の夜、ここで会って以来ね」

 あの夜――私が見たのは、八雲紫だったのだ。
 するとあの涙を流していたのは――

「あの夜、どうして貴女は泣いていたのです」
「あら、何の事かしら」
「惚けても、私は見ていましたから」
「……これが泣かずに、いられるものですか」
 
 扇子をさっと畳むと、彼女は川沿いに歩き始めた。
 私もつられて、それを追いかけてしまう。

「どうしてついてくるの?」
「分かりません。ただなんとなくです」
「まったく、それは迷惑だわ」

 左程気に留めもしていない様子の八雲紫の顔を、じっと覗き込んだ。

「何か付いている? ……それとも私に惚れてしまった?」
「冗談じゃない」

 私が言うと、

「そうね、冗談じゃないわ」

 彼女も心底同意したかのような調子で頷いた。

「貴女、境界を操れるんでしょう? 人の夢の中に入ったり出来るの?」
「人の夢? 私はバクじゃないわよ。夢なんて食べないわ」
「違う。夢の中に、入るの」
「そんな事したって、なんにもならないじゃない。夢の世界の探検――確かに面白そうではあるけれど」
「それでは、出来るの?」
「やった事が無いから、知らないわよ」

 八雲紫は、先と打って変わって面倒くさいような顔をして私を見下ろした。
 その瞳が思いの他鋭く、私は身を竦ませた。妖怪の、妖怪らしい目をしていた。
 しかし、それだけだった。
 彼女は歩く。歩くのだが、どうしてか私を置いて行きはしなかった。
 それは私の思い込みかもしれない。彼女の歩調が、単純に私のそれと似ていただけかもしれない。
 けれど八雲紫は、いつもするように、『隙間』を使いはしなかった。
 目的の場所が無かったからかもしれない。何の目的も無かったからかもしれない。
 あるいは、目的がここだったからかも――

「貴女、そう言えば、しっかりと仕事はしているかしら」

 沈黙に耐えかねてなのか、大きく溜息をした後に、八雲紫が言った。

「可も無く、不可も無く、でしょう」
「そう。そうなの。先代の分まで、やらなくてはいけないのだからね。少しずつでもやってもらわなくては、困るのだわ」

 私には、口早にそう言った八雲紫の表情を、なんと形容していいのか分からなかった。
 ただその表情は、涙の伝うに相応しい横顔に思えた――もう既に、私の幻想は、八雲紫に執着していた。 

「――――ええ。ですから。多少の事なら、手伝わないでもないけれど」

 だから彼女の、その言葉が、とても嬉しい物に思えたのだ。
 遠く手の届かなかった何かに触れたような、そんな心地を覚えた。

「手伝うって、何をですか」
「それは貴女の生を、よ」

 御阿礼の子の命を、即ち幻想郷縁起の編纂として――私の手助けをすると言った。
 分かり切った事であった。けれども、何故だかムッとせずにはいられなかった。
 何かを言い付けられると、途端に意欲が欠ける。それを思う。

「どうしてですか。私は何も、一人で生きられるとは思ってはいません。けれども私は、生き続けたいとも思っていません」
「それでは貴女。何か消える方法を知っているとでも言うの」

 その問いかけは、ついぞ私の中で返答が出ずにいた。
 私はただ、消えたいとは思っていても、それを実行に移すという思いが、決定的に欠けていたのである。
 私はあらゆる意味で行動家では無い。
 私は確かに、精神的な消失をふと求めた事がある。確かにそう、思いを巡らせた事もある。
 しかし私は、私の肉体的な消失を求めてはいない。
 それが終には、私に行動を避けさせるに至った。
 精神的な消滅とは即ち、私にとっての世界の消滅である。
 私の消滅に於いては、私の世界も消滅しなくてはならないから。
 けれどそれは、世界が消滅しなければ、私も消滅し得ないという事である。
 私は行動家でないにも関わらず、私が望むのはつまり、能動的な消滅なのだ。

 私が言葉を紡げずにいると、八雲紫が立ち止まった。
 そして振り向き、その表情を、ほんの俄かに綻ばせた。
 
「もう二度目は、無いんだから」

 ただ力なく言うと、彼女はスッと、隙間に消えてしまった。
 

  
 * * *



 空を見上げると、雲が濃い。そして雲から吐き出される雨は大粒だった。
 空に遮光カーテンをかけたような、そんな夜だった。
 地面に跳ねる雨は、臭いでその存在感を強める。
 土、草、木。全てが湿り、それが溶けあうように雨の臭いを醸す。
 閉め切った窓からは、外がよく見えない。けれども、窓を開けてまで見なくてはいけない景色は、そこには無かった。
 昼間の八雲紫を思い出す。彼女の言葉を思い出してふと、惜しい事をしたと思った。
 彼女ならあるいは、『いつかの桜』を知っているのではないだろうか
 
「――けれど、それより」

 夢の中の姿は――
 その事を、何より彼女に尋ねたかった。
 どうして泣くのか知りたかった。
 しくしくと――
 あの涙の落ちる先は何処なのか、尋ねたかった。
 落ちる涙が、地面に触れるほんの一寸前に、何を思うのか。
 その涙が雫の形を保っている間、そこには何が閉じ込められているのか。
 それを知るのは、怖い事であると思えた。
 未知への恐怖を、多分に感じるのだ。
 死とは即ち、未知である。
 だからそれは、死に対しての恐怖に似ていた。
 掴みどころの無い恐怖は漠然と、けれどしっかりと私を捕える。
 だから私は、眠り、その夢を見る事に違和感を覚えるのかもしれない。
 その夢を鮮明に見るとは、未知を知ろうとする事であり――それならば、どうして私は、あれ程に美しいものを思うのか。
 死とは即ち、美であるか?
 そして思考は撞着する。
 少なくとも今の私には、知れないのである。
 
 ふと私は、羨む思いをした。
 霧雨魔理沙の楽しそうな笑顔を見て、
 十六夜咲夜の繊細な疑いを見て、
 博麗霊夢の朱に染まった頬を見て。
 そしてそれぞれで口にしたお茶の味を思い出して。
 一つ一つを取ってみても、羨む心地はしなかった。 
 しかしそれが揃うと、どうだろうか。
 鮮明に浮かび上がってくる羨望は、何故だか分からない。
 目頭が熱くなる。熱くなるけれど、涙の予感は、一切無かった。
 私の尋ねた三人は、それぞれ人間であり、一見人間で無い。
 その力に於いては間違いなく、一般の人間では無い。
 人間でありながら人間で無い。
 それなのにそのいかに人間らしい事。
 私は何でもなく、だから何もかも、羨むのかもしれない。

 思い始めては眠れずにいた。
 私は何気なく、過去の幻想郷縁起を見返した。
 阿一の事から遡れば、その年は千を数える。だからこれは原本とは別の、写しである。
 不思議な程だった。どうして妖怪が数多にいながら、今もなお人間がこれほどに生きているのだろう。
 食糧が絶えては、妖怪も生きられない。だとしたら、それは自然な事である。
 理屈では分かっていながら、なお不思議でならない。
 今ほど人間の生活が栄えていたはずは無いのに、今ほど妖怪が大人しくなかったはずなのに。
 果たしてその頃、今の時代を想像し得ただろうか。否であろう。
 先の三人を思い出す。
 彼女たちは確かに妖怪退治をする。
 妖怪退治と言うごっこ遊びをする。
 彼女たちと妖怪は殆ど近しいものであり、そこに共生している。
 今や幻想郷縁起は、その本来の意味を持たずにいる。
 妖怪はつまり、危険で無くなっている。
 そこに私が少なからず、希望を抱いているのは――否定できない。

 さて、月の見えぬ夜に歌う唄も無く、私は様々な思いを持て余していた。
 八冊目――
 先代の幻想郷縁起。
 それは他と比べて非常に薄く、また読み込まねば分からぬ事であるが、末尾はえらく早急にしめられている。
 先にも読んだ事があったはずだけど、その違和感には気が付かずにいた。
 改めて眺めれば、かくも奇妙な一冊であった。
 何か、巧妙な辻褄合わせを感じる。
 その一冊自体が、あるいは、先代自体に。
 そして私は――その繊巧に気が付く。
 痛んだ紙から、それが原本である事が伺える。
 痛んで弱った頁は、確かに、時に固く、時に脆かった。
 それは末尾であった。
 裏表紙に張り合わされた頁の、一つ前の紙は、丹念に糊付けされていた。
 それを剥がすか剥がさぬか、私は迷った。
 蓋し、知るとは恐怖に似ていたから――





 十

 前数日の事――全てが擦過する、その以前の事。
 私は元より完全な人間では無かったから、ただ、一切は過ぎて行くという感覚すら実感せずにいる。
 けれどもそれは事実だろう。真理だろう。現に、そうなのだから。
 私は筆を取った。遺書を残す為では無くて、最後の幻想郷縁起の編纂の為である。
 八代目の縁起に書き記されるべき事を、今この瞬間に全て付け加えておくのだ。
 そしてそれは、転生の放棄である。
 私は間違いなく閻魔様に逆らい、地獄で生き続ける事になる。
 許しを乞うつもりがそもそもないのである。
 御阿礼の子は、ここで途絶える事になる。
 途絶える事になる。
 そして私には、稗田阿弥には一つの予見がある。
 幻想郷縁起はそう遠くない未来、必要なくなるであろう。
 妖怪は人間を食いつくすだろう。妖怪が人間になり代わる。
 それが幻想郷に望まれる姿なのだから。
 私は最後の瞬間、確かな人間として死ぬ。
 これまで私をよくよく普通の人間と思わなかった人々に、それを見せつける。
 ただ幸せの中に死ぬ。
 その性を恨みと言う。
 この逆恨みを誰が受け止めてくれようか。
 受け止めてくれる者があるとすれば、それは菫ただ一人である――もしくは。
 ――もしくは、あるはずの無い次代でしかない。
 私は私自身に、存在しない私自身へ、遺言を残す事と決めた。
 幻想郷縁起は、稗田家の者であっても、御阿礼の子以外には容易に扱えないようになっている。
(もっとも、御阿礼の子が途絶えた後、その書物らがどうなるかは、知れた事では無いけれど)
 気取らなくてはと思った。気取った事を、皮肉たっぷりに残して、そして終わりにしよう――
 そう思って、私は墨を磨る。墨の金箔がいやに冷たい。その感触が、指から伝わる。
 椿は首を落とす。静かに首を落とす。それを望む。桜のように決して華々しく散りたいとは思わない。
 窓から私の手元に月の光が落ち込んだ。私は最後の頁に、筆を落とした。 
 躊躇してから、腕が動いた。



 * * *



 数えれば十一軒であった。
 うち幾つかは、確かに皆殺したように思う。
 なぜこう思い返してまで平生なのか、私には分からぬ。
 けれどただこうして人間らしい感情が欠如していながら、その動機が何より人間らしいのである。
 猟銃と日本刀で事足りた。
 首からはランプを下げ、念の為を思い、懐中電灯を頭に結いつけた。
 傍から見れば恐らく、三つ目のようである。  
 私が雨降る夜道を照らし、その殆どは菫の手によって行われた。
 確かに菫は、人間でなかったかもしれない。そうでなければ、いかな術にしろ、あそこまで容易に人を殺せるものと思えなかったから。
 ――裏に向かひ外に向かつて逢着せば便ち殺せ。
 仏に逢わずとも、ただひたすらに殺さなければならなかった。
 それはあるいは、透脱の為の手段であるに違いない。
 幾度かナイフを付き刺したその感触は、全て過ぎたものだった。
 感触すら、その瞬間に置いてきたようである。
 見る事もままならぬほど、ただ素早く時間が過ぎて、新たな瞬間に接するのだ。  
 ただ私は、ナイフを介して、今まで一切触れ合おうとしなかった人々に、一瞬の擦過で以て触れる。
 あの刃先が骨に当たった時のあの感覚だけは、恐らく死んでも忘れられないだろう。
 その引っかかりだけが私をこの世に引きとめているように思えた。
 血の色は皆赤で、しかし骨の色は白なのだ。
 剃刀越しに見慣れたはずの血の色は、ある蛍光灯の下では濁って見え、ある蝋燭の下では腐って見えた。
 返り血を浴び、弱って行く自分を知った。一つ一つの擦過の瞬間が、血として混ざり合う。
 けれども決して、私の肉の中に流れ、今にも溢れ出そうな血液とは混じり得なかった。
 耐え難い臭いに喉が詰まり、ふと私は、腐った肉の臭いを嗅いだ事が無いのを思い出した。
 いつか腐った糸瓜の臭いを嗅いだ事がある。それに酷くえずいた記憶がある。
 ――あれで相当なのだから、人の腐った臭いなど、耐えられる筈が無い。
 しかし私も、死んでそのままにされようものなら、腐り、腐臭を発するのだ。
 私がこの凶行を半ばで放棄したのは、ただその得物が必要以上に血に濡れて、肝心の私を切らぬ事を恐れたからだった。
 全ては驚くほどなだらかで、滞りが無かった。雨の中、静けさと共に全てが潤っている。
 興奮の中で、驚くほど潤滑かつ正確に行われた。
 無差別にではなく――理性を以て人を選んだ。
 特に私たちを蔑んだ者たちから、選んで殺した。
 時に見過ごしもした。その者が後にどうするかなど、別段気に留めるべきでないと思った。
 それは些事である。
 私に於いて、私たちに於いて重要なのは、この事では無い。
 三十幾人の事はもう、記憶にすらなかった。
 私たちにしてみたら、この一連の凶行は、即ち余興でしかない。
 私たちは駆けた。
 気が付けば胸に掛けたライトの他、帯に差したナイフを除いて、私は何も持っていなかった。
 懐中電灯は何処かに落としたのだろう。
 不思議な事に――私が菫の手を引いていた。
 いつもだったら、逆だろうに、この瞬間は私が彼女の手を引いた。
 言い出したのが私であったから、無意識のうちに勇んでいたのだろうか。
 ただ何につけてもおかしな心地だった。
 私は庇護を求めてはいなかった。

 行く宛てなどあるはずもなく、ただ闇雲に走れば、疲れるだけであった。
 そんな時にふと、求める場所は自ずから現れるように思う。
 少なくとも、私たちの川べりは――
 その日は、五月の終わりも近い頃。
 つい先ほどまで降っていた雨は、知らずの内に止んでいた。
 私と菫の血を洗い流す為がだけに、その為に降っていたかのようだった。
 私は椿の花に目を奪われて以来、そこに咲く花に気を留めずにいた。
 即ち、白百合の花に。
 しかし雨の雫をまとった白百合が、月の光に身をわななかせる様子は――数多の花弁が、それぞれ涙を流しているように見える。
 その中の二つになりたい。
 あるいは一つに。
 椿の赤は、その百合の白に霞んだ。
 私の存在も、菫と言う紫色濃い存在に、飲まれる気がした。
 一面の白は百合の花。
 それを見る私たちの背中に、椿が咲いていた。
 私は懐から、かの髪飾りを取り出した。
 そしていつかしたのと同じように、水面を鏡にそれを纏った。
 湿りへばりつく髪の毛をよそに、その白い椿はしゃんと咲いていた。
 弱った白百合達の上で、私は菫の瞳を見た。
 青いその瞳が、宵闇に翳って、紫色をした。
 恐るるべき事が何もないと言い聞かせるように、一歩を踏み出す。私から菫への、一歩を。
 途端、菫が一歩引いた。
 その表情は穏やかだった。

「どうしたの?」
「一つだけ、聞かせて」
「何?」

 穏やかだったけれど、私はそこに、どうしようもない不安を覚えた。
 それこそ――未知の恐怖。
 知らぬ事など何一つないと思った彼女に抱く、不安。

「貴女は相違なく、私の事を愛しているの?」
「そうよ、そうです。間違いなく私は、菫の事が――」

 奇妙な問いに、奇妙な表情を浮かべたのは、私だけでは無かった。
 それを見て、私はさらに不安になった。何か重大な間違いを犯していはしないかと――
 しかしその不安な間を一瞬置いてから、その間を帳消しにするように菫が私に抱きついた。
 恐らく最後になるであろう触れ合い。
 最後になるであろう一瞬。
 幸せの擦過。
 今宵は満月であった。
 ただ知らずのうちに、あの唄が脳裏を過ぎった。
 月は無情。
 
 ――月は無情というけれどコリャ
 主さん月よりなお無情
 月は夜出て朝帰るコリャ
 主さん今来て今帰る
 花も様々散るも花コリャ
 咲くも花なら散るも花
 もしも当座の花ならばコリャ
 もとの蕾にして返せ
 
 花を咲かすは雨と風コリャ
 花を散らすも雨と風
 妾を生かすは主一人コリャ
 妾を殺すも主一人
 雨と風とがないならばコリャ
 花も咲くまい散りもせぬ

 主にあの時口説かれてコリャ
 迷い込んだが身のつまり――

 今、確かに肉体として愛し合った私たちは、故に気が付いた。
 いや、正確には、私のみが知らずにいた。気が付かずにいた。
 私を貪る嗜虐的な紫色の瞳は、あるいは――
 けれどそこに、一方的だとしても構わない幸せがあるのだから。
 つまりこれは、擦過する幸せが、そのまま死になり得たのだから――!
 ああ、そうして、幸せの中に、一つの撞着を覚えて、目頭が熱くなったのに気が付く。

 私は、菫の唄の意味を、正しく理解できていなかったと気が付く。

 頬を熱いものが伝う。
 それはひょっとしたら、警鐘だったのだろうか。
 もう手に負えない。私自身を、私は手に負えない。

 ――主さん月よりなお無情。

 私は瞬間、気が付いた。
 しかし後悔は無かった。
 あの月よりも、菫は無情であった。
 無常などではなく、無情であった。
 菫は自身を妖怪だと言った。
 彼女は元より、私を『そういう目』でしか見ていなかったのである。
 果たして、私を殺すのは彼女一人であった。
 
 しくしくと、

 すすり泣きが反響する。

 しくしくと、

 痛む心が手に取るように分かる。

 しくしくと、

 それほどに痛切な響きであるから。

 しかし私には分からない。

 ――どうして貴方は泣くのです。

 その理由が分からない。

 何故私が泣くのかが分からない。

 彼女が何故泣くのかが分からない。

 何を思い何故泣くのかが分からない。

 ロクに前も見えない暗闇で、しかし頬を伝う雫は鮮烈な光を放ちながら落下していく。

 それは私の涙であり、私の涙では無かった。少なくともこの瞬間、私は私であり、菫であったから。

 雫は私の内面がそのまま感化されたように美しく、言ってみれば隙がなかった。

 しかし同時にその美しさに如何ともしがたい恐怖を覚えた。

 私はその雫の落下する先を見た事がない。

 投身の行く末を私は知らないのだが、身を投げたのであれば、その行く末を考える必要もないと思った。

 そうして、落ちて行く。
 意識が落ちていくけれど、最後に薄らと、菫の頬を伝う大粒の涙を見とめた。
 そんな痛みの中で、見えるものが見え、在るものが在るというのが、不思議ですらある。
 菫の涙が、一等美しく見えたのは、しかし不思議では無かった。
 彼女に文字通りの意味として食べられたとて、そこになんの不満があるだろうか――


 


 十一

 ――どうか、この世で強く生きて下さい。

 その一文に、私は拍子抜けした。 
 何かとんでもない、そんな事が書かれているような気がしていたのだ。

「貴女に言われなくったって」

 そんな事を、呟いてしまった。
 貴女に言われなくったって、私は強く生きると言いたかったのだろうか。
 とにかく私は、気の抜けた勢いで、様々な衝動を忘れ去った。
 自分自身に、そう言われたかのようなものなのだから。
 なんだか嫌になって、私は乱暴に書を閉じた。
 先代。
 どうやら、神隠しにあったという御阿礼の子。
 稗田阿弥の事を、私――稗田阿求はよく知らない。
 月の見えない夜に、歌う唄は無い。
 私は詮無い想像を切り上げて、寝床に戻った。





 十二

「紫」
「なんでしょう、閻魔さま」
「貴女はどうしてこんな事を」
「御阿礼の子は、大層美味しいのではないかと思って」
「紫!」
「なんでしょう、閻魔さま。結局私は、食べそこなったの。お腹が空いて、仕様が無いの」
「あまりにも、だとは思いませんか?」
「何がかしら?」
「妖怪が人間を食べるのは道理です。しかし殺すのはそれに漏れます」
「あら、人間が人間を殺す事は、道理なの?」
「話を逸らさないで!」
「まあ」
「これでは次代に、転生させるにさせられないのです」
「ここはひとつ、不憫にも妖怪に襲われて亡くなったという事に」
「死骸が残っているでしょう? それも人は、自決と言って触れているのです」
「おおよそ間違いではないのだわ。それならばこうしましょう。残った一つの死骸が私……いえ、菫と名乗った少女という事に」
「だ、か、ら!」
「はいはい。それで、それならば。いずれ幻想郷縁起の必要ない平和な幻想郷を作りましょう。そうすれば、御阿礼の子も必要なくなります」
「そんな都合のいいように、いくものですか」
「そうね。手始めに、結界を張り、そして一つの楽園としてこの世界を隔離するのです」
「いくら妖怪の力が弱まったとはいえ――」
「そしてその中で、妖怪と人間が仲良く暮らせば、良いのでしょう」
「貴女が言っても、信用に足らないわ」
「分かりました、分かったわ。それならばもう一時代、辛抱致しましょう」
「何を辛抱するのです」
「御阿礼の子を食べる事を、ですわ」
「それはやめなさい」
「なんにせよ、もう一時代もあれば、私が先に言った素敵な楽園――幻想郷を作れます」
「つまりもう一時代。九代目の御阿礼の子を、転生させろと? 紫、貴女のお巫山戯で私たちがどれほど苦労すると思っているの?」
「それは多分にご苦労なさっているしょう」
「こんな賢者が、いては堪らないわ」
「ええ、ええ。それでは白状します。白状しましょう。何故、八代目の御阿礼の子を食べられなかったのか」
「聞いていません!」
「それは単純明快です。食べる事を、躊躇ったからですわ」
「――なに故に?」
「――愛故に」





 十三

「稗田阿弥の事を、私に教えてください」

 慧音に尋ねると、彼女はただただ、目を丸くした。
 私の顔を見、目を丸くした。

「うーむ。結論から言えば、私たちも、覚えてはいない」

 六十年経つと記録を除き、その他の記憶が消えていく――無縁塚の、紫色の桜が故に。
 つまりそれだけが、未だ残る、阿弥自身の記録である。
 そして彼女は続けた。
 
「ただ一つ。菫が好きだったと、その一点のみ。ただなんとなく聞いた覚えが……」
「菫? 花の?」
「恐らく」
「そう、ですか。ありがとうございました」

 駄目元であると思いながらも、やはり残念であった。
 私は菫よりも、椿が好きだ。白い椿の、髪飾り。

「しかし、阿求。何かとても、清々しい顔をしているな」
「そうでしょうか」
「ああ。まるで憑き物が落ちたとでも言うような――」

 私は朝の事を思い出した。
 そして知らずの内に、頬を綻ばせた。



 * * *



 一つ実感が浮かんだ。
 私は久遠には生きない。
 だから、この世で強くか弱くかは定かではないけれど、生きなくてはならない。
 厭世的な気持ちの全てが消えたとは言わない。
 私はこの瞬間でも、ふと消えたいと思う。
 けれど私は、あくまで行動者ではない。
 与えられるのを待つのみである。
 冬が来れば、私は冬を甘受しなくてはならない。
 それほどに当たり前の事である。
 暫く歩くと、遠くに日傘を差した姿を見つけた。
 それが八雲紫であるのは、流れるブロンドの髪の毛ですぐに分かった。
 彼女は私に気が付いているのか、いないのか、歩き始めた。
 距離を保ったまま、私はそれを追った。
 曼珠沙華をよく見る。この季節であれば珍しくは無いが、しかし意識すると、それが異様に多く感ぜられた。
 触れればいともたやすく散ってしまうその赤い花は、毒々しくも儚いが、私はどうにもそれを愛せない。
 八雲紫は依然、のんびりとした歩調で歩いている。
 わたしも同様に、ゆったりと歩を進める。
 暫く進んだ。日が傾ぐ。
 空には仄かに月が見える。
 秋はいよいよ深まって、冬を予見させる肌寒さを伴う。

「……くしゅん」

 思わず、くしゃみをした。
 すると八雲紫が、こちらを振り返った。
 何か妙な心地がした。それは恥ずかしさとも何ともつかない。
 気が付けば、博麗神社の鳥居の下であった。
 
「あら、貴女も宴会に来たのかしら」

 決して友好的でも、その逆でも無い声で、彼女は言った。

「えっと、宴会?」
「月末には、自然とそうなるのだわ」
「はあ。この昼間から、宴会……」
「そういえばこの階段、何段あるか知っていて?」

 長さで言えば、それなりの階段である。毎度私が苦労して上っている、その階段。

「いえ、知っているはずがありません」
「そう。百二十一段」
「随分と長い階段です」
「そうね。百二十一段。百八段と十三段」

 ――百八段と十三段。
 その先は、本当は神社ではないのかもしれない。
 
「数えながら階段を上ったら――とか、そういう怪談話でもつくりましょうか」
「階段にまつわる怪談話は、語呂のせいで既にいくらでもあるでしょうに」
「さて、一段」

 私の言葉を気にせず、八雲紫が一段目に足をかけた。

「そして二段」

 そうして一つ一つ上ってゆく彼女を始めは見過ごしていたけれど、その声を聞くのが私以外にいない事を思いだして、その背中を追い掛けた。
 ずるをしないように。あるいは、その声が遠ざかるのが嫌だったのかもしれない。
 五十も数えると、私はもう相当疲れてきていた。
 八雲紫は私を気遣ってなのかは分からないけれど、若干数える速度を落としてくれた。
 その数を意識すれば、階段を上るのがいつも以上に苦痛になる。
 百を越えて、

「これが百八段」

 素っ気なく言った。
 そして八雲紫が振り向いた。
 
「引き返す?」
「何故ですか?」
「だって宴会、よ?」

 ――それも妖怪たちの。
 無論、妖怪たちだけの、ではない。
 しかし私には、霊夢にも他の誰にも、どんな顔をすればいいのか分からない。
 言ってしまえば、その宴会自体に、興味があるというわけではない。
 けれど、既に百八段を上ってしまったのである。後に残るは十三段。
 引き返したって、しょうがない。
 私が曖昧に頷くのを見て、八雲紫は再び足を動かし始めた。

「一段――」

 と、数えを新たにして。
 十三段上り終えて、彼女は言った。

「それではこんなのはどうかしら。博麗神社の階段は、百八段と十三段に分けて数えて上ると、妖怪に食べられてしまう、と。こんな怪談」
「私、食べられていません」
「これから食べるのよ」
「御冗談を」

 もう――この幻想郷で妖怪が人間を襲うだなんて、あり得ないのだ。
 そうしたら、何の為の弾幕ごっこなのだ。
 なんの為の結界なのだ。

「…………ま、良いわ。しっかり幻想郷縁起百物語に付け加えておいてね」
「そんなものありませんし、付け加えたら百じゃなくなってしまうような」
「あら、もう随分と賑やかね。きっと鬼の一人や二人、泥酔しているのでしょう」

 彼女の言葉の通り、縁側向かいの庭は、既に酷い有様だった。
 杯が宙を飛び交っていても、なんの不思議は無い。そんな調子だった。
 八雲紫は私を気にした様子だったけれど、たまたま居合わせた閻魔様に呼ばれて、屋内へと消えて行った。
 あの閻魔さまが――とは思ったけれど、彼女も皆同様に酔っ払った様子なので、いつもの事なのかもしれない。
 こうして私は一人になった。
 取り残されたというのが正しいけれど、兎に角疎外感を感じずにはいられなかった。
 いつもの事。これもいつもの事で……

「――阿求じゃないか。ここにいるとは、珍しいな」

 その声に振り向く。霧雨魔理沙だった。 

「え、ええ。成り行きでこう、お邪魔してしまって」
「そんなに縮こまるこたぁ無いさ。皆阿保みたいに酔っ払ってるからって、その真似までしないでいいんだから」
「そう、ですよね」
「ちょろっと高級な酒を掠めて行くってくらいのつもりで、良いと思うぜ」

 そう言うと魔理沙は、傍の丸太に置かれていたワインボトルを掴んで、自分の手にしていたグラスに注いだ。

「ほれ」
「で、でも、これって」
「にしし。言っただろ。気にすんなって――」

 手渡された血を思わせる真っ赤な液体と、魔理沙の顔をと見比べる。
 ワインは一度だけ、口にした事がある。どうにも合わない飲み物だと思った。

「ちょっと魔理沙――!」
「良いじゃねーかよ。別に飲み干したりしないんだから」
「だからって他人のものを勝手に……って貴女は。久しぶりね、阿求さん」
「咲夜、さん」

 どうやらこのワインは、紅魔館貯蔵のものであったらしい。
 咲夜が魔理沙に耳を引っ張りながら、そのボトルを取り返した。

「そういえば美鈴が貴女の事、心配してたわよ?」
「えっ? ど、どうしてですか」
「何が、とは言っていなかったけれど。何かが、って言ってたわ。彼女、ああ見えて察しは良いから。気を操れる、っていうくらいだしね」
 
 けれど――けれど私は、何も。
 ただ一人で、落胆していただけで。
 もしあの時の心が、そのまま見透かされていたなら。
 それはとても恥ずかしく、そして美鈴に対して失礼だったのかもしれない。
 こうして気遣われるだなんて、夢にも思っていなかったから――
 私にとっての夢は即ち、
 あの、

 稗田阿弥が涙を流す、その夢でしかなかったから――

 今朝見た、その夢。
 それがつまり、この夢。
 夢の中で涙を流すその姿が、どうして先代のものであったと分かったのか、私自身分からない。
 そしてあの涙がどうして美しいのかも、分からない。
 しかしあの涙は、一つ桜の巨木に咲く花の涙。散る花弁に似た様子である。
 私は同じ木に花咲く、歪な桜の花。
 だから恐らく、私の判断は間違いない。
 一目も見た事の無い阿弥。
 一目も見た事も無いその散り様。
 知り得る術はないけれど、しかし同じ木に咲く花であるのだから――

「それとこのワイン。主な成分は血液だからね」
「ちょ、咲夜、お前なんてモンを」
「持ってきたのは私だけれど、別に勧めていないわ」

 咲夜はそう言って、私の手からグラスを奪うと、すぐにそれを飲み干してしまった。

「おいおい、いつの間に吸血鬼の階段上っちまったんだよ……」

 魔理沙の反応を面白がって、咲夜は口元をそっと拭う。

「ふふ。はい、それでこちらが正真正銘、本物のブルゴーニュワイン。九十九年物よ」
「凄いのかよく分からんけど、とりあえず貰っておこう。阿求も飲もうぜ」
「……は、はい」
「九十九年物とは言ったけれど、実際はこの前買ってきたものよ。時間を進めただけだから――」

 どれだけ便利な能力だと思いながら、咲夜に手渡されたグラスを眺める。
 この赤い液体の、正しい飲み方も何も知らない。
 けれど私は、それを飲む事が出来る。
 ……。
 私は私の正しい生き方も何も知らない、けれど。
 私はこれを生きる事が出来る。

「……なんて言うんでしょう。コメントしにくいですね」
「んー、ちょっと貸してみろ――そうだなあ。確かに、良く分からん」

 魔理沙は私の手から奪ったグラスを空にして、そんな事を呟いた。

「っつーわけで、よく分からないから、もう一杯!」
「まったく……そんな飲み方するものじゃないわよ……」

 咲夜がグラスにワインを注ぐのを、ぼんやり眺める。
 そのグラスに歪んだ向こうに、霊夢と早苗がいるのを見つけた。
 歪んだ世界は、しかし二人にとってのみ僅かな歪みすら無い、満ち足りた世界であるようだった。
 私はなんとなく――それこそ無意識のうちに、それに引き寄せられていた。
 喧騒からは少し離れた社叢の方に、鎮座した大岩の上に二人並んで腰かけている。
 私はと言えば、ほんの少し酔いが回ってきたのだろうか。
 雲にすこし翳った空。けれどまだ真昼間だと言うのに、夜のような覚束なさを感じてしまう。
 そこは木々が近いせいか周りよりもちょっとだけ薄暗い。
 二人はただ、並んで座っていただけだった。
 二人とも見たところ素面であった。

「あら、どうしたの」
「ただなんとなく、木陰が恋しくなったもので」

 二人が見えるように位置取りして、木に寄りかかる。
 桜だった。ヤマザクラだ。
 花咲くまではまだ遠い。
 薄桃色の花弁を、共にまとう若葉を思い浮かべる。
 その花は、散る為に咲くのである。
 その若葉は、その為の衣装なのである。

「お二人は、お酒は飲まないんですか」
「お酒なんて無くっても、充分に酔えるから」
「ちょっと、霊夢さん。それって、どういう意味ですか」
「そのままよ。隣に貴女がいるのだから――悪い?」
「いや、それは、別に……」

 どこか遠くの出来事のような、そんな気がする。
 元より、私はお酒に強くない。
 無くても、とまでは言わないけれど、ほんの少しで、充分に酔っていた。

「ふふ、そうですか」
「なんだかあんた、前よりも少し晴れた顔をしているわ。気分が良さそうね」
「それは恐らく、酔っ払っているからでしょう」
 
 あるいは、私がここにいる事自体が一炊であり『一酔』の夢。
 桜は散る為に咲くのである。

「そう。それなら、良かったわ。誰だって、笑っていられた方が良いのだわ」

 霊夢がポツリと、呟いた。
 なぜだろうか――彼女が、異変解決の巫女だからだろうか。
 その言葉に、とても大きな意味を感じた。
 彼女が異変解決をするのは何故だろう。
 特に意味も、無いかもしれない。
 けれど恐らく、誰かの、あるいは自分の、笑顔の為であるかもしれない。
 それは魔理沙も、咲夜も、そして早苗も、一緒かもしれない。
 彼女たちは場面は違えど、一面で異変解決を担った事があった。
 御阿礼の子が幻想郷縁起を残す事になったのも、同じ事だったのだろうか。
 妖怪たちに備える為の――その為の書。
 幻想郷縁起。
 しかしその仕事は、今や彼女たちがこなしてくれていると言っても、間違いではない。

「阿求」

 ふと、私を呼ぶ声がした。
 八雲紫だった。

「少し話が、あるんだけれど」

 後ろに閻魔さまの姿があった。
 先程の酔っ払った様子は、微塵も無かった。





 十四
 
 気が付けば、もう日が暮れ始めている。
 私は、八雲紫の後ろを歩いている。彼女の背中を追い掛けている。
 ふと、八雲紫が足を止める。
 気が付けば、嘗ての百合畑だった。
 ひょっとしたら――彼女が私をここに連れて来たのかのような、そんな都合の良さがあった。

「どうして、そんな事になったのですか」
「さて、何の事でしょう」
「なぜ貴女は、阿弥の事をそそのかし、そして多くの人を殺した後に、阿弥本人にまで手をかけたのですか」
「昔の事だから、私もよくは覚えてはいないわ。ただ記録としてそうだと言うのなら、そうなのでしょう。そのような時代だったのだから」
「時代。時代ですか。それが時代だと言うのですか」
「ええ。今とは大層違った、そんな時代のお話」
「惚けたって……差し詰め、共犯に仕立て上げたかったというところでしょう? 良いんです。私には関係の無い事だから、本当の事を言ってしまっても」
「関係無い、ねえ」

 妖しい笑みをそのままに、八雲紫が私にずいと歩み寄る。

「貴女、菫は好き?」

 そして出し抜けに問うた。
 その問いに首を傾げたい気持ちが合ったにも関わらず、私の口は、ひとりでに動いた。

「私は、菫よりも椿が好きです」
「そう。椿って、どんな風に散るか知ってる?」
「ボトリと、首を落とすように散るのです」
「ええ、正解。白い、清く潔い椿が好きかしら?」
「はい」
「それはそれは。良い趣味をしているわ」
 
 八雲紫が、私の髪飾りを見つめていた。
 なぜであろうか、頬が熱くなった。

「阿弥の事、だったかしら」
「……はい」
「そうねえ。私は彼女の事、好きだったわ」
「……はい?」

 その言葉に、耳を疑う。
 
「とはいえ、記憶が無いのは残念ね。それも、まあ最近の事では無いのだし。ええ。それが時代なのです」

 私は彼女に、一瞬言葉を飲みこんだ素振りを見とめた。
 沈黙は厳かに、粛々と染み渡る。
 幾度か八雲紫の唇が動く素振りを見せては、次に言葉が出るまで、そう長くは無かった。

「そう。時代の徒花なのだから」

 妖しげな笑みを以て彼女は言った。
 透き通る白い肌、瞳は翳り、紫色をしていた。
 彼女がゆっくりと腕を上げた。 
 緩やかな軌跡を描き、掌が私の頬を撫でた。
 頬が一層熱くなる。意志に反し、身体が言う事を利かない。

 けれど私は――ここで心中する気など全く無い。

 その掌のどうしようもなく冷艶に白いのを見るに、私はこの女を、あらゆる意味で好きになれそうになかった。
 私がその掌を振り払わないのを見て、八雲紫は柔らかく微笑んだ。

「私は、阿求。アナタの事も、好きなんだけれど。ねえ? それも、食べてしまいたいくらいに」

 ――生憎と私は、貴女の事が大嫌いなのです。
 その言葉をぐっと飲みこんだ。
 どの口がそれを言うのだろうか。何にもつかない、そんな調子で。

「阿弥は貴女の事を、どうしようもなく愛していたのでしょうね」

 はぐらかすように、口にした。
 そのような事を口にするだけ、既に幾らか狂っていたかもしれない。
 けれど私は、もうほんの少しだけ、正気でいたいと思った。
 
「……御名答」

 小さく呟き、彼女の白い手が、私の頭を撫でる。
 そして、白椿を髪から外した。
 八雲紫が私の耳元に口を近づけた。
 ゾクリと、身を竦める。
 彼女がそっと、口を開いた。

「もう分かっているかもしれないけれど――」

 囁き声の意味を理解すよりも早く、ただその言葉は私にとって毒であると、本能が察知していた。
 しかし私は、それを甘受する以外の術を持たない。



 * * *



 今朝、私は夢を見た。
 夢は件の、綺麗で美しき夢だった。
 その姿を見た。
 彼女は恐らく私――阿弥であった頃の私――であった。
 愕然とした。
 目が覚めると、俄かに枕は湿っており、頬と目の周りが、いやにかさついていた。
 鏡を見れば、涙の伝った跡があった。
 涙を流した事の無い私は、しかしそれを一目見、涙の跡と認めたのだ――!
 それは何かの予兆だったかもしれない。
 私の消えて行く、そのような……
 けれど何故だかすっきりとした心地を胸に、深く息を吐いた。

 
 そして私は、百八段と十三段の階段を、八雲紫と一緒に、上ったのだ。 

 
 今朝の事。宴会の事。
 思い出しながら、四角い窓に切り抜かれた空を見上げる。
 月が浮いていた。
 

 ――月は無情と云ふけれど。


 深呼吸をする。
 秋の深い、澄んだ空気が肺を満たした。 
 私は眠りに着く前に、今日一日の事を思い出した。
 私はもう、夢を見ないだろう。
 閻魔さまの言葉、八雲紫の言葉を思い起こす。
 二人が語ったそれは、先代に起こった出来事。
 それも、彼女らが残した記録による、その真実。
 つまり私の、真実。
 いや、それが本当に事実起こった事なのかは分からない。
 なぜなら、阿弥自身の心は、ついぞどこにも残されなかったから。
 私への遺言。
『どうか、この世で強く生きて下さい』
 その一文を除き。
 しかし知るのだ。
 私は飽くまで、間に合わせの『もう一代』であった事を。


『――安心なさい。もうしばらくしたら、貴女が転生せずに済む世界が生まれるのだから』


 八雲紫の囁きが、もう頭を離れなかった。
 どう仕様も無い無情を思った。
 求めていた事のはずなのに。
 私の命は、あと十数年である。


 ――月は無情と云ふけれど。


 呟くと、涙が頬を伝った。
 夢の中のそれに、とてもよく似ているのだろう。
 事実そうであり、だからもうそれを止める術を探す事も無い。
 それを拭う術もまた、私には無いような気がしたけれど。
 
 ここまでお付き合いありがとうございました。

 11/02/26追記
 誤字修正しました。ご指摘ありがとうございました(_ _)
三下みのの
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.180簡易評価
4.90名前が無い程度の能力削除
>「阿弥の事、だったかした」
だったかしら なのかもしれないです

空気が大好きです
やっぱり阿求は儚くて悲しい
5.100名前が無い程度の能力削除
うーん、なんだろうか。
うまく言葉にできないけれど、あえて言うならやはり空気感でしょうか。
じんわりきました。
7.100名前が無い程度の能力削除
上手く言葉に出来ないですが、この空気感は素晴らしい。
そして、それだけでなく、話の本筋も綺麗にまとまっていて、個人的にはマジでこれ大好きです。
8.100名前が無い程度の能力削除
どう言えばいいんだろう。でもとにかく、深く、胸を打たれた。
そんなお話だったと、思うのです。