夜になったら、子供は寝なければならないんだよ。
これはお父さんの言葉だ。私はまだ子供だから、夜になったらすぐに寝なければならない。遅くまで起きていようと頑張ってみたとしても、しだいにうつらうつら、まぶたは重くなるし頭はゆれるし、気がついたら体は横になって、毛布がかけられていたりして、いつのまにか寝てしまっている。
私は早く大人になりたいから、定期的に遅くまで起きていられるか試してみるのだけど、やっぱりいつも寝てしまう。そして翌朝に、そのことをお父さんに報告する。そうすると、お父さんは私の頭を撫でながら、そうか、まだ子供なんだな、と言う。私は子供扱いされるのは好きではないけれど、頭を撫でられるのは好きなので、悪い気分はしない。そ、そのために遅くまで起きていられるか実験をするわけでは断じてないぞ。
うん。私が夜更かしして少し遅くに眠るには、ちょっとしたわけがある。夢のなかで、お姉さんに会えるのだ。何回も実験をくり返してみて、いつもどおりの時間に寝ると、お姉さんの世界と私の夢がうまくつながらなくて会えないことがわかった。だからといって毎日遅くまで起きているとお父さんが悲しい顔をする。そんな顔を見るのは嫌だから、たまにしか遅くまで起きない。
お姉さんとは、夢のなかにある原っぱで出会った。“遅くまで起きていられるか実験”の途中でいつのまにか寝てしまったらしい私は、自分が寝ていることに気づかないままだったから、どうして外にいるのだろうと不思議に思ったものであった。しばらく歩いてゆくと、大きな樹の下におしゃれな丸机が一つと椅子が二つ置かれていて、そこにきれいな人が座っていたのだ。私が近づくと、お姉さんはゆっくりと顔をこちらに向けて、首をかしげた。
「あなたはだあれ?」
「私は龍宮の使いですよ」
「りゅうぐうのつかい?」
「貴方は人間ですね。どうして迷い込んでしまったのかは判りませんが、せっかくだから座っていきませんか」
お姉さんは空いている椅子を指し示した。私はずっと立っているとしんどいだろうと思って、言われたとおりに座ることにした。
「お姉さんは、ここで何をしているの?」
「この近くに来たついでに、ちょっとした休憩とでもいいましょうか」
「ふーん」
「貴方はどうしてここに来たのですか?」
「実験の途中だったのだけど、気がついたらここに」
お姉さんは口元に人差し指を立てて、考えこむような仕草を見せた。白くて長い指はかっこいいのだということを、そのときに初めて知った。
「その実験が関係していそうですが、何をしていたのでしょう」
「“遅くまで起きていられるか実験”をしていたのよ」
「ふむ。では何かの弾みに繋がってしまったのかもしれませんね」
「どういうこと?」
「貴方の夢が、私の現実と重なっているのです」
「えっ? いま夢を見ているの!?」
思わぬ展開に身を乗り出してしまった。とりあえずほっぺたをいーって引っぱってみると、痛い。
「でも痛いってことは夢じゃない可能性もあるのよね」
「そうですね。可能性は否定しませんよ」
そう言って、お姉さんは笑った。さあっと風が吹いて、お姉さんの藤色の髪がゆれる。
それから、せっかくだからと今いるところについて教えてもらった。色々なことがわかったけど、とりあえずここは天界といって、私がふだん住んでいるところからずうっとずうっと上にあるのだという。お姉さんはそこで雲のなかを泳いだり、何かあったらみんなに伝えてまわったりしているらしい。
私はもっと教えてもらいたかったけど、だんだん頭が重くなってきてしまった。
「眠くなってきちゃった」
「もっと深い眠りが待っているのでしょう」
「また会えるかな」
「また会えますよ」
「じゃあ、また今度。約束よ」
そこで意識はぷっつりととぎれて、次に気がついたときは、私のいつもの部屋で、やはり眠っていたようだった。
私は一番にお父さんに実験に失敗したことと、でも夢でお姉さんに会ったことを報告した。お父さんは私の頭を撫でながら、そういう不思議なことは大切にしなければいけない、と言った。その意見はもっともだと思ったので、お姉さんは私の大切なひとになった。
幸いなことに、お姉さんとはまた会うことができた。つぎも、そのつぎも“遅くまで起きていられるか実験”のときだった。同じように原っぱに出て、同じようにお姉さんは椅子に座っていた。会うたびにたくさんのお話をして、眠くなったらお休みなさいをした。
ちなみに、何回会ってもお姉さんは昼間から何もしないで空ばかり見ているから、私はひそかに心配していた。お姉さんは仕事もお金も何にもなくて、ほんとうは食べものにも困っていて、こうやって近づいてきた子供を油断させて食べてしまうのではないかという考えは、かなり説得力があるように思われたのだ。考えていても不安になるだけだったので、私は悩みをお姉さんに正直に打ちあけた。お姉さんが、なるほどそういう手もありますか、などと言ってじっとこちらを見つめてくるので私は思わず半身になって、いつでも逃げだせるよう準備した。でも私は子供だし、お姉さんに追いかけられたら逃げられないだろうと考えたから、あきらめて大人しく食べられることにした。
じっさいのところ、お姉さんはお腹をすかせていたわけではなかったために、私は食べられずにすんだ。お姉さんは私にそんなふうに思われていたのが心外だったようで、少し悲しそうな顔をしていた。私はごめんなさいして、おわびにお姉さんの帽子を撫でてあげた。ほんとうは頭を撫でてあげたかったのだけど、お姉さんは帽子をかぶっていて、それを取るのは失礼なように思われたのだ。お姉さんはまたいつもの優しそうな顔になって、私を許してくれた。
私とお姉さんの間では、私が昼間に教わったことが話題になることが多かった。私は朝起きるとごはんを食べて、歯をみがいて、服を着がえて、そう遠くないところにある教場に行く。だいたい同じくらいの年の子供たちといっしょに勉強をしていたのだけど、私は勉強がそこまで好きではなかったから、むしろ教場が閉じた後に遊ぶために行っていたのだ。先生の話はいつもむずかしくて、何のことを言っているのかよくわからなかった。けれど、お姉さんにそのことを話すと、いつもわかりやすく教えてくれる。お姉さんが先生だったらいいのにな、とそのたびに思っていた。
たとえば、杞憂、という言葉が出てきたときに、先生は、きの国のひとが天地がくずれ落ちはしないかと心配したというこじから必要ないことをあれこれ心配することを杞憂というようになった、と言った。とりあえず帳面には杞憂と書き写して、あれこれ心配すること、とつけ加えておいたけれども、何のことやらさっぱりわからない。先生に聞きに行っても自分で調べなさいととりあってくれないから、わからないことがどんどん増えていく。
「杞憂って、何できゆうって言うんだろう」
だから、お姉さん相手についぐちってしまうのだ。でもお姉さんは優しい。そんな私にもきちんとつきあってくれる。
「貴方も難しいことを考えるのですねえ。杞というのは地名ですから、そのまま覚えるしかありません。憂という字は知っていますか?」
「見たことはあるかもしれない」
「憂うというのは、心を痛めるとか、想い悩むとか、そういう言葉です」
「なるほど、杞が憂うのね! さっぱりわからないけど」
ちょっと調子に乗ってしまったようだ。お姉さんの視線がいたい。こういうときは素直にごめんなさいするのが一番である。ごめんなさい。
「確かにこれだけでは足りませんね。杞の人が天を憂う、というのを略して杞憂といったのです」
「あ、そういえば天地がくずれ落ちるどうたらこうたら、って先生言ってた」
「貴方は天地が崩れ落ちると思います?」
これはむずかしい問題である。天地がくずれるだなんて考えたこともない。空を見上げてみてもせいぜい雲がうかんでいるぐらいで、そもそもくずれるほどの何かがあるようにも思えない。じゃあくずれたりはしないのかも。でも星が落ちてくるという話を聞いたことがあるぞ。当たったらいたそうだ。だめだ、いくら考えても答えが出ない。
「ぜんぜんわからないわ」
「そうでしょうね。普通は判らないでしょう。では判らないことを考え続けて、答えは出ますか?」
「出ないー」
「そういうことを心配しても意味がないのです」
「だからわざわざ、杞憂なんて言葉をつかって区別しているわけね。なるほど」
私は今日もお姉さんに感心していた。ただし、いつもだったらここで話は終わるのだけど、今日は違った。お姉さんの顔が曇っている。何かを考えているふうで、じりじりと時間が過ぎたあとに、ゆっくりと口を開いた。
「実のところ、天が崩れるところは見たことがありませんが、地が崩れることはあります」
「ほんと?」
「貴方も地震を経験したことがあるでしょう」
「あのゆらゆらするやつね」
「地震にはそれぞれ強さがあって、大地震にもなると、まさに地が崩れるという表現がぴったりくるのです」
「それは心配ね。いつくるかわからないから、余計に心配になっちゃうわ」
「ここにいると判りますよ」
ただし、ここにいないと判らないのです、とお姉さんは小さな声でつけ加えた。どうやらお姉さんは何もしないでただ空をながめていたわけではなかったらしい。
お姉さんの言っていることを私なりにまとめると、まず、地震がおきるときには、かならずその前に雲があらわれる。そして、お姉さんはその雲の色だったり形だったりを見ることで、どこで、どれくらいの地震がおきるのかがわかる。それから、お姉さんは地震がおきることをみんなに伝えてまわる。それから、雲はふくざつな形をしているから、なかなかきちんと見ることができない。この場所は、そんな雲を見るのにちょうどいいところだから、お姉さんは必ずここに立ちよる。
「止められないの?」
「私にも出来ることと出来ないことがありますし、起きるべきものは起こさなければいけません」
「そういうものなのかあ」
いつも、終いには納得して眠るのだ。お姉さんといっしょにいると、勉強になる。ほんとうは帳面を持ってきて色々と書いておきたいのだけど、しかたないからできるだけ覚えておいて、つぎの日に頑張って思いだす。杞憂だって、意味も使いかたもお姉さんのおかげでばっちりわかった。友達がぐだぐだとなやんでいたから、そんなこと杞憂に終わるからだいじょうぶだよ、と言ってあげたりした。さらっとそんな言葉が出たから、ちょっとかしこくなった気がしてうれしかった。
私はお姉さんから多くのことを学んだ。けれども、時間としては、そんなに多くいっしょにいたわけでもない。“遅くまで起きていられるか実験”はたまにしかしなかったし、一回でお姉さんと話すのも、せいぜい一時間ぐらいじゃないかと思う。それも最初のうちだけで、だんだんといっしょにいられる時間は短くなっていった。半分くらいになったところで、私は一つの仮説を立てた。お姉さんの世界と私の夢がつながる時間は決まっていて、そこにちょうどよく寝ることができれば、夢のなかでお姉さんに会えるのだというものである。そして私がだんだんと大人になっていくと、寝る時間が遅くなって、会う時間は短くなる。
お姉さんにその仮説を説明すると、貴方はかしこい、とほめられた。私といる時間が短くなっていることは、お姉さんも感じていたらしい。ほめられたのはうれしいけれど、私の仮説が正しいとすると、そのうちお姉さんに会えなくなってしまう。そのほうがずっと悲しいので、私は泣きたくなって、泣きそうな顔になった。お姉さんはいつも以上に優しい顔になって、ゆっくりと私の頭を撫でてくれた。
「大人になるのは良いことですよ」
「でもお姉さんに会えなくなるのはいやだな」
「偶然出会ったのですから、そのうち再会できるかもしれませんね」
「だといいなあ。私、お姉さんのことが好きだから」
「では、私も貴方のことを好きになりましょう」
約束です、と言って、お姉さんは自分の小指と私の小指を絡ませた。ほんとうは嘘をついたら針を千本も飲まされるらしいのだけど、考えるだけでもおそろしいので、嘘をついたら嘘をつかれたほうが満足するまで頭を撫でることに決めた。だんだんと落ちついてきたけれど、お姉さんはずっと頭を撫でてくれたし、私はそれに甘えていた。
それから、少なくなった時間をたいせつにして、お姉さんとたくさんの話をした。いつでも思いだせるように、起きてから話の内容をぜんぶ帳面に書き写しもした。私はあい変らず教場での話をしたし、お姉さんは雲の見かたを教えてくれた。
もうそろそろ会えなくなるんだろうな、と思っていたある日、お姉さんが雲を見ながら言った。
「数日後に、大きめの地震が起きます」
「地面がくずれるぐらい?」
「そんなに大きくはないですね。部屋を片付けていないと、物が崩れるかもしれません」
「わかった。かたづけしとくわ」
「出来ればでいいのですが、地震が起きたら、雲を見てくださいね」
お姉さんの表情が、これまでになくかたかった。私はそれが意味するところに思いあたり、同じように表情をかたくしてうなずいた。それから、私は自分の椅子からおりて、お姉さんのひざの上に座った。お姉さんの髪はさらさらで、ときどき私の首もとをくすぐったため、そのたびに私はお姉さんにだきついた。お姉さんはやわらかかった。
「眠くなってきちゃった」
「そう、残念ですね」
「また会いたいな」
「また会えますよ」
「ありがとう、お姉さん」
さようならは、もうちょっと後に取っておいた。
地震がおきたのは、お姉さんの言ったとおりに数日後だった。教場が閉じて、その日は友達とお絵かきをしていたのだ。いきなり地面がぐらぐらとゆれて、思わず立っていられなくなったため地面に手をついてゆれが収まるのを待った。それなりに長くゆれたからこわかったのだけど、お姉さんが前もって教えていてくれたこともあってちょっとどきどきするぐらいですんだ。
お姉さんは、雲を見て、と言っていた。そのことを思い出した私が空を見あげると、雲が竜巻のような形をしていた。何かの本で見た竜のようにくねくねとしていて、きっとお姉さんがあいさつに来たんだと思った。
私は急いで雲のすがたを書き写した。終わったら、お姉さんにさようならと言って、目を閉じてお祈りした。つぎに目をあけたときには、竜はいなくなってしまっていた。
帰ったら、お父さんに、夢のなかのお姉さんにさよならしてきたことを報告した。お父さんは私の頭を撫でながら、もうすぐ大人かな、と言った。
それから、夢でお姉さんと会うことはなくなった。
一つには、私がさらに大きくなって、これまで起きていられなかった時間まで起きていられるようになったというのがある。
もう一つ、私自身が夢の世界に行くことになってしまったということもある。
私は「おまけ」として天人の仲間入りを果たしてしまい、天界が新しい住処となったのだ。
月日が流れ、紆余曲折もあったりして、捻くれ者の不良天人という評判が立ってしまったりもしたが、何とかやっている。
昔のように夢見る少女ではなくなったけれど、私は新しい居場所も手に入れ、何より、彼女と現実世界で出会ったりもしたのだ。
──────────────────────────────────────────────────
昼下がり。博麗神社。目の前にお茶。その向こうには霊夢のお茶。そして霊夢。
いつも通りの日常である。
ここにいると、色々な人間や妖怪がやって来て、代わりに飽きが来ない。だから、自然とここに居てしまう。
「よう霊夢。遊びに来たぜ」
「お邪魔します」
今日は黒白の魔法使いと、お、珍しい。
「魔理沙と一緒だなんて、珍しいわね」
「おや総領娘さま。最近下界に通い婚だと聞いていましたが、相手は霊夢ですか」
「待てこら。何で私が天子と結婚なんかせにゃならんのよ」
「ひでーな霊夢。私とは遊びだったのか」
「決まってるでしょ。弾幕ごっこは私が考えたのよ」
「む、違いない」
湯呑み借りるぜ、と言い残して魔理沙は勝手知ったる台所へと消えていった。
衣玖は澄ました顔でふわりと座っている。
彼女を見ていると、時々、とある衝動に駆られることがあるのだ。
──ねえ衣玖、あんた、自分が私の「お姉さん」だってこと、知ってるの?
そう聞いてみたいと、ずっと思っているのだけど、未だに聞けていない。
昼下がり。博麗神社。目の前にお茶。その向こうには霊夢のお茶。そして霊夢と衣玖。
いつもと少し違う、けれど日常であった。
残り少なくなったお茶を、ほんの少しの感傷とともに、空にする。
さあっと風が吹いて、藤色の髪が揺れた。
大人と違い、子供にとって眠りの時間とは摩訶不思議な時間なんでしょうね。