【八雲の道】
和歌の道。歌道。
【ケット・シー】
ケット・シー (Cait Sith)は、アイルランドの伝説に登場する妖精猫のこと。(ケット=猫、シー=妖精)。猫の王。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
山の奥。八雲紫は齢が数百年になるであろう大樹の枝に腰掛けていた。梟の声を聞き、満月には少し若い月を眺めながら彼女は酒を飲む。
何でも新しい酒虫を仕入れたとかで、伊吹萃香から分けて貰った酒だが、素朴さと複雑さが入り交じったような味わいで美味であった。今度会ったらまた分けて貰おうと紫は思った。
「藍。最近は橙はどうしているのかしら? 前に読んだ天狗の新聞では、猫を従僕にしようと躍起になっていたそうだけど」
紫は傍らに座り、彼女と同じく酒を飲む藍に訊ねた。今夜の月は橙色だったことから、ふと訊いてみようと思った。
「まだ頑張っているようです」
「そう。それで、上手くいきそうなの?」
藍は首を横に振った。
「いいえ、あれから全く進展無しですね。今のままでは、まず無理でしょう」
「……そう」
紫は藍の返答に頷いた。半ば以上、予想通りであった。
「藍? 前にも言ったと思うけれど、手出しはいけませんよ?」
「御意に」
もっとも、そう藍に告げてはおきながら、式神である彼女がその命令を破るとは紫も思ってはいないが。ある意味、橙に進展が無いのは藍がその命令をきちんと守っているからでもある。
ただ、それでも忘れる事はあるので、紫は敢えて再度ここで命を下した。
「分かっております。紫様も、当時は私に自分からは何も言ってはくれませんでしたし」
紫は苦笑した。
「あら、随分と古い事を覚えているのね。ひょっとして恨んでいるのかしら?」
「いいえ、今ならそれがどういう意味があったのか分かりますから。むしろ、恨むならこの前、勝手に私の油揚げを酒のつまみにして食べてしまった方を恨みます」
「……あ、あれは後でちゃんと代わりを買ってあげたじゃないの。まだ拗ねていたの?」
呆れたように紫は呻き、誤魔化すようにお猪口に注がれた酒を飲んだ。
「何かある度、油揚げで機嫌を釣るのも、紫様が当時『藍』だったころから、変わりないですよねえ? いえ、『橙』だった頃からでしたか」
「しっかりと今も釣られているくせに。それを言うなら、あなただって橙をマタタビで釣っているでしょう?」
そう言ってくる紫に、藍は視線を背けた。
紫は肩をすくめた。藍のこの態度はふて腐れているのではない。反論出来なくて己を恥じているのだが、それを誤魔化しているのだ。
「藍。まだまだ遠い先の事だけれど、いつかあなたが『紫』の名と記憶、そして境界を操る能力を受け継いだ後、今の橙とあなたは、今の私とあなたのような話をするのかしらね?」
「……するのかも、知れませんね。それがどれくらい先になるのかは、分かりませんが」
藍がこちらを見ていない事を承知で、紫は笑みを浮かべた。
そして、先代の八雲紫も、あのときこうして月の下で笑っていたのだろうと思った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
紅く、そして細い線が腕に浮かぶ。
橙は顔をしかめた。
その鋭いひっかき傷は、最初は痒みにも似て痛みが小さいが、時間が経つにつれてじわりと深く熱いものへと変わってくる。
橙を引っ掻いた猫はふてぶてしい(猫的にはそう見える)表情を浮かべ、橙の元から去っていった。
猫達を集め、その中でも強く従順なものを自分の従僕にしようと思ってから、気がつけば随分と長い時間が過ぎている。それにも関わらず、自分が集めた猫達はまるで言う事を聞こうとしない。どれだけ餌を与えようと、マタタビを与えようと、そんなものをまるで何とも思っていないと言わんばかりの態度だった。
橙は深い溜息を吐いた
猫を自分の従僕にすることを諦めるつもりはない。しかし、ずっと徒労の時間が続いている。正直言って、くたびれていた。
以前、射命丸文から新聞の取材を受けたときの事を橙は思い出した。文は鴉を自分の従僕にしていた。
恥を忍んで、文に従僕の作り方を聞いてみた方がいいのかも知れない。そう、橙は思った。藍や紫に聞いてみるのもありかも知れないが、それはいくらなんでも畏れ多く、そして恥ずかしすぎる。
朝ご飯の時間が終わる。
橙は天狗や河童といった妖怪達が棲む山を見上げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
暗く鬱蒼とした広い森の中を抜けて、橙は妖怪の山の麓へとたどり着いた。朝からずっと飛んでいたが、気が付けばもう昼を過ぎていた。
白い岩が並ぶ渓流へと橙は出た。涼やかな風が橙の汗を拭う。
ここからは後は上流へと向かっていけば、天狗達の住処のはずだ。
橙のお腹が鳴った。
ここで一旦、休憩にしようと橙は近くの岩に腰を下ろした。水筒からお茶を飲み、喉の渇きを潤し、背中に背負っていた袋の中からおにぎりを取り出す。
「頂きます」
手を合わせて、橙はおにぎりを頬張った。
渓流のせせらぎの音が橙の食欲を促す。
“ちょっと君、いいですか?”
不意に背後から声を掛けられ、橙は驚く。二股のしっぽが、ぼわっと大きく膨らんだ。
「あ、あの? 私が何か?」
慌てて橙が振り向くと、そこには白い半袖の上着と黒地に赤い縁のスカートを穿いた白髪の妖怪が立っていた。頭から伸びた三角の耳は犬? いや狼か? 彼女も動物から妖獣へと姿を変えた事を示している。
彼女はその小柄な体格とは不似合いなほどに大きな剣と、紅く円い盾をその手に構えていた。
「私は犬走椛。この山の警備をしている白狼天狗です。君はこの山の妖怪ではないと思うけれど、違いますか?」
「え……は、はい。そうです。私はここの妖怪ではありません」
椛は小さく嘆息した。
「じゃあ、何でここにいるのですか? 迷子ですか? それなら森の外まで送ってあげますよ? ここは山の妖怪の住処です。人間は勿論ですが、山の妖怪でない者も、あまり立ち入らないで欲しいのですが」
椛の言葉に、橙は慌てて首を横に振った。
「待って下さい。私、ここに用事があってきたんです。その……私は麓の人間が捨てた里に住んでいる化け猫で、橙といいます。ここには新聞記者をやっている鴉天狗の射命丸文さんに会いに来たんです」
「射命丸文?」
橙の答えに、椛は顔をしかめた。
「よりによって、あの人に用事ですか。物好きっすねえ」
「あの? あなたは文さんとお知り合いなんですか?」
「ええ、まあそうです」
取り敢えず、侵入者の素性と敵意が無い事、そして目的を確認出来たので、椛は剣を鞘に収めた。
「……文さんに用事だって言いましたね。じゃあ、そこまで案内しましょう」
「いいんですか?」
「ええ、ここからの道も険しいですし、そこで迷子になられても困ります。それに、放っておくと他の警備隊にもまた面倒を掛けてしまいますからね」
付いてきて下さいと言う椛の言葉に、橙は素直に従う事にした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
警備隊の詰め所の中。
橙の姿を見て、射命丸文は小さく安堵の表情を浮かべた。
「いやはや、警備隊から急に呼び出しが来るものですから、何事かと思っちゃいましたよ。来客なら来客って、そう伝えて欲しいものです。ねえ椛?」
「そんなことで慌てるなんて、文さんが日頃から後ろ暗い事ばかりしているからじゃないですか? まあ、上の連中にそんな気遣いが無いのも確かですけど」
若干、非難するような視線を向ける文に、椛はあくまでも自分は関係ありませんという態度を取った。
「それで、橙さん? こんなところまでわざわざ何のようですか? 大事件のネタのたれ込みとかだったら大歓迎なのですが」
「文さん。話が長くなるようなら、適当に取調室でも使って下さい。案内します」
「おや? いいんですか? というか、あなたも来るのですか?」
「ええ、まあ問題はないと思うのですが、橙さんを監視する必要があるので」
「ほほぅ。上手いサボり方です。『実録・警備隊の深刻な怠慢』と今度のネタにさせて貰いましょう」
「規則上、私はそれに従っているだけですっ!」
茶化す文に、椛は歯を向いて抗議した。
苦笑しながら、文と橙は椛の後ろについて行く。取調室はすぐそこだった。
扉を開いて彼女らは中に入った。
文は手で橙に着席するように促す。橙は頷いてそれに従った。
橙の真向かいになるように、文も着席する。
文は机に肘を起き、橙に鋭い視線を送った。
「……まったく、強盗、殺人、放火に禁止薬物の密売。世紀の大悪党が、捕まえてみればこんな小さな子供だったとは、世も末ですねえ。故郷の藍様も泣いていますよ」
「え? えええええ? 私、そんなことしてないですよっ!?」
ドスの利いた文の台詞に、橙は汗を流した。
「文さん?」
椛の冷たい視線に、文は苦笑を浮かべた。
「いや、だってこういうところって滅多に入れないじゃないですか? こう……一度は言ってみたくありません? 『カツ丼どうだ?』とか」
「気持ちは分からなくもないですけど、真面目にやって下さい」
大きく溜息を吐いて、椛は文の隣の席に座った。
文は肩をすくめた。生真面目なこの白狼天狗を茶化すのは面白いのだが、あまりやりすぎるのもよくないだろう。
「驚かせてすみませんね、橙さん。さっきのは冗談です。それで、私に何の用ですか?」
「あ、はい。その……従僕の作り方について……話を聞きたいって思ったんです」
「従僕? ……って、あの猫達のことですか?」
橙が猫達を従僕にしようとしているのを以前に記事にした事を文は思い出した。
こくりと橙は頷いた。
文は軽く自分の頬を掻いた。
「それはあの後、あなたに言ったと思います。従僕が欲しければ、もっと圧倒的な力を持つか、それとももっと従僕にしやすい動物を選ぶかしかないって。マタタビや餌でご機嫌を取ろうとしている限りは、あなたには猫を従僕にするのは無理ですよ」
以前にも聞いた文の答えに、橙は押し黙る。
そんな橙を見て、文は苦笑を浮かべた。
「ひょっとして橙さん。あなた、私が鴉に命令するのに何か特別なことをしているのではないかって思っていませんか?」
橙は文から視線をそらした。しかし、小さく頷く。
それは文の言葉と力を疑っているという意味で、彼女に対して失礼ではあるのかも知れない。しかし、文は正直に白状したので水に流すことにした。
「残念ですけどね。本当に私が鴉に命令するのに何もタネも仕掛けも無いんです。あるのは圧倒的な力の差だけです」
「で……でも、それなら……私だって……」
「それも、あのとき言いましたよ。圧倒的に強い者は引っ掻かれたりするはずが無いって。その腕の傷はどうなんですか? 今朝、また引っ掻かれたんじゃないですか?」
橙は小さく呻いた。
反論出来ない。
「確かに、普通に考えればただの猫から妖獣になったあなたがそこらの猫よりは強いのは間違いありません」
その通りだと、橙はもう一度頷く。
なのに、どうして自分は猫を従僕に出来ないのかが納得いかない。
「ですけれど、それがあなたが従僕にしようとしている猫達に伝わっているかというと、それもまた別の話です。相手はただの猫ですからね。従僕に出来るくらいの圧倒的な力の差というのはですね? そんな猫にすら力の差を悟らせるくらいの差なのです。それは、今の橙さんが想像しているよりも遙かに大きな差なのですよ」
丁寧な文の説明に、橙は押し黙る事しか出来ない。
文の言葉を頭の中では正しいと認めざるを得ないと橙も感じているのだろう。しかし、それでも感情が納得出来ない。これはそういうことだと、文は思う。
素直に聞き入れられない橙に、文は腹を立てる気は無い。その気持ちは彼女も過去に幾度も経験した。だから、怒らないし笑わない。
「橙さん。あなた、藍さんには圧倒的な力の差は感じているんですよね?」
橙は首肯した。
「では、私達はどうですか? 橙さんから見て私達は圧倒的に強いって感じますか?」
橙は顔を上げて文と椛を見た。
数秒間、悩む。
「…………ごめんなさい。思わない…………です」
小さな声で、謝りながらもそう言ってくる橙に、文はうんうんと頷いた。
「そうでしょうねえ。いや、正直でよろしい。あまりに正直過ぎてむかっ腹が立ちますが」
「文さんっ!」
「冗談。冗談ですってば」
ついついこういうことを言ってしまうのは我ながら悪い癖だと文も思うが、なかなか止められないようだ。
「まあ、でも気持ちは分かります。確かに、私達は所詮は山の天狗の中でも割と下っ端ですからね。九尾の狐なんかと比べると妖怪としての格は下でしょう」
実際のところ、彼女らの大ボスである天魔様あたりに会えば、橙もそういった力の差を悟るのかも知れないが、とは文も思うが。
「ですけれどね? 私もこの椛も、今の橙さんよりは随分と強いんですよ?」
「…………う…………それ……は」
「そうですね。強いだろうと橙さんも見積もってはいるんだと思います。けれど、どれくらい力の差があるのかは分かってないでしょう? はっきり言いましょうか? まるで相手になりません。ちょっとくらいなら何とかなるなんて、甘い事考えていちゃダメです。これはね? あなたを馬鹿にしたいわけじゃなくて、見ただけで分かる圧倒的な力の差っていうのは、それくらい伝えるのが大変だって言いたいんですよ」
迷いながらも、それでも納得いかないと、橙の瞳は言っていた。
「なら、試してみますか?」
文はにやりと笑みを浮かべた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
警備隊の詰め所すぐ傍にある広場の片隅に、文と椛、そして橙は移動した。ここは警備隊が訓練で使用している場所だ。
「じゃあ椛、橙さんのお相手、よろしくお願いします」
「はいはい、分かりました。……別に、文さんでもいいと思うんですけどね?」
「同じ従僕を作れない者同士の方がいいじゃないですか?」
「この前、雀なら従僕に出来るようになりましたっ! ほら、これ預かって下さい」
椛は文に剣と盾を渡した。
弾幕勝負ではない。殺し合いではないが、遊びではない真剣勝負だ。
「椛? 分かっていると思いますけど、もしも橙さんに一本でも負ける事があれば、記事にしますからね?」
「ご心配なく。というか、書かせませんよそんな記事」
5~6間(9~11m)程度の間合いを取って、椛と橙は離れた。
「それじゃあ、いつでもどうぞ」
椛は構えも取らずにその場に立った。何の気負いも無い。
舐められている。そう橙は感じた。いくら力の差があるからといって、いくらなんでもこれは無いだろう? 橙は小さく唇を噛んだ。
橙は最初から本気でいく事にした。こんな侮辱をされて、黙っているわけにはいかない。
次の瞬間、橙の姿がその場から掻き消えた。目にも止まらないスピードで椛の周囲を跳ね回り、徐々に間合いを詰めていく。
常に椛の死角へと移動し、一瞬たりとも橙は止まらない。残像すら見えるその動きを捉えるのは至難の業であろう。
椛は動かない。
その背中はがら空きであった。いや、背中どころかあちこちが隙だらけだと橙は思った。
(殺ったっ!)
スピードも乗ったところで、橙は椛のそのがら空きの背中へと爪を伸ばした。
「…………え?」
その次の瞬間、橙は目を丸くした。
自分の身に何が起こったのかまるで分からない。
背中に固い感触、そして目の前には……空と雲。
「おお、やりますね椛」
「そこそこスピードには自信があるようですけど、常に死角に移動しますからね。逆に言えば死角以外には移動しないんです。動きが読みやすいですよ」
動きを読まれていた?
そして、地面に転がりながら、橙はこうなる一瞬前の出来事を思い出す。そう……あの一瞬で、椛にこちらを見る事もなく腕を捕まれて、そうして投げ飛ばされたことに思い至る。
呆然としながら、橙はその場に立ち上がった。
そんな橙に、椛は散歩するかのような気軽さで近付いてくる。
椛が何を狙っているのか分からない。橙はその場から動けなかった。
「惚けている隙なんて、あげませんよ?」
「……あっ?」
いつ攻撃が来るのか? それが全く分からないほどの無拍子で、椛が橙の懐に入り込む。その動きを橙は速いとは思わなかったし、そして遅いとも思わなかった。ただ、何が起きたのかまるで分からなかった。
椛の拳が橙の鳩尾の手前で寸止めされていた。
慌てて橙は椛から離れる。それを椛は追おうとはしなかった。
「さて、これで二本取りました。まだ続けますか?」
勝ち誇るでもなく言ってくる椛の申し出に、橙は冷たい汗を流しながらも頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その夜。橙は自分の家に帰って泣いた。どれだけ涙を拭っても、次から次へと涙が零れ溢れて止まらなかった。
文の言うとおり、椛との差は圧倒的だった。あれから日が暮れるまで椛に挑んだが、まるで歯が立たなかった。完全に相手にされなかった。自分は最後にはふらふらになったのに、椛は平然と立ち続けていた。しかもそんな強さの椛が、まだ雀くらいしか従僕を使う事が出来ないのだという。
自分は……何と、そしてどこまでもちっぽけで弱いのだろうか。何て恥ずかしい事を言っていたのだろうか。橙は絶望に胸を締め付けられた。
こんな自分は、藍や紫には到底届かない。せめて、猫くらいは従僕にして……彼女らに恥じない存在になろうと思ったのに、まるで……無理。
いつまでも橙の嗚咽が部屋の中に響いた。
それを慰める猫は、どこにもいない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
文が山に戻る頃には、既に日も落ちていた。
自宅の近くに舞い降りると、そこには意外な顔がいた。
「おや、椛じゃありませんか? どうかしましたか?」
「どうかしましたか? じゃありませんよ。ちゃんと送り届けてくれたんですよね?」
「ああ、橙さんのことですか。大丈夫ですよ。あの後、ずっと泣いていましたが……ちゃんと家には送りました」
文の報告を聞いて、椛が少しだけ表情を翳らせるのを文は見逃さなかった。
「気にしていたんですか? 優しいですね椛は。とてもあんな小さな子を大泣きさせるような外道だとは思えません」
「なっ!? あ、あれは文さんがですね?」
「はいはい、分かっていますよ。椛には嫌な役をさせてしまいました。そんな役を引き受けてくれた椛には感謝しています。でも、安心して下さい。帰りがてら、ちゃんと椛の事は説明しておきました。橙さんもその点、分かっていると思います」
「ならいいですけど」
文の言葉に、椛は小さく安堵の息を吐いた。
「椛? 橙さんと戦ってどう思いました? 強くなると思いますか?」
「なると思いますよ。あれだけ諦めないのですから。あと、どれくらいの時間が必要になるのかは分かりませんが」
「そうですね。私もそう思います」
文は椛の肩を叩いた。
「さて、嫌な役を引き受けてくれて、その上こうして出迎えてくれた椛を労ってあげたいんですが。飲みに行きませんか?」
「明日も仕事なんですけどね私」
「私も仕事ですよ?」
「……まあいいです。折角のお誘いなので、有り難く受け取ります」
「そうこなくちゃいけません」
快活に笑う文を見て、椛は苦笑する。いつも自分を振り回してばかりの困った人だが、こういう笑顔を浮かべるから、何だかんだと付き合っているのだろうと思った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌朝、橙は沢山の猫の鳴き声で目を覚ました。いつの間にか、泣き疲れて眠っていたらしい。
すっかり日は高く昇っていた。朝ご飯の時間はとっくに過ぎている。
猫達はいつまで経っても餌をくれない橙に催促していた。
「全然、言う事は聞いてくれないくせに」
そのくせ、こっちの気持ちは無視して要求ばかりはしっかりと言ってくる。そんな猫達に橙は腹立たしいものを感じた。
「もう、分かった。分かったから」
橙は寝床から起きあがった。
深い溜息を吐いて、餌の場所へと向かっていく。
(っ!?)
そのとき、一匹の猫が橙に飛びかかってきた。
慌てて橙は上体を反らした。
つい一瞬まで橙の腕があった空間を猫の爪が空を斬る。
「うわっ!?」
そして、次にまた別の猫が橙に襲いかかった。今度は左手の甲にうっすらとひっかき傷が出来た。
「あいたたたた。はあ……そうよね。本当に強かったら、こんな傷なんて出来るはず無い……」
自重の笑みを橙は浮かべた。
泣くだけ泣いたので、少し気分は落ち着いた。
そう、自分は弱い。本当に猫を従えるほどには、こんな傷が出来なくなるほどに強くないといけない。
(………………あれ?)
橙はその場に立ち止まった。
そんな橙に、猫達が一斉に抗議の声をあげる。
「あーもう、五月蠅いっ! ちょっとだけ黙っててよっ!」
癇癪を起こす橙に、猫達は取り敢えずだが黙ってみせた。
橙は気付いた。
さっき、確かに自分は引っ掻かれた。しかし、最初の攻撃はどうだった? 確かにあの攻撃は速かった。しかし、それは引っ掻かれなかった。そしてなにより……昨日の椛に比べたら、何て単調で読みやすい……「見える」攻撃だったことか。
二つ目の攻撃もそうだ。引っ掻かれたけれど、いつもならもっと深い傷になっていたはず。
(そうだ……そうだよ)
今の自分は弱い。確かに弱い。では、昔の自分は? もっと弱かった。今の自分はこうして妖獣となり、妖術を扱う力だって得た。昔よりはずっとずっと、信じられないくらいに強くなれた。ならこれからは? そう、これから強くなる事だって出来るはずだ。
「ふふ…………ふふふふふふふふ……」
自分よりも遙かに強い椛と手合わせした事で、本当にほんのちょっとだけれど、自分も強くなれたことを橙は自覚した。
橙は自分の周りに集まる猫達を睨み返し、不敵に笑みを浮かべた。
(そう……まずは、この猫達の攻撃を絶対に受けないくらいに強くなるっ!)
橙の小さな胸の中で、熱い決意が燃えていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
沼の畔に立ちながら、紫はそこに咲く花々を眺めていた。
そこに、藍が舞い降りた。
「ご苦労様、藍。結界の様子はどう?」
「問題ありません。若干の乱れはあったようですが、許容範囲内です」
了解と、紫は藍の報告に頷いた。
「ところで、紫様。話は変わるのですが……」
「なあに? 藍」
「最近の橙の様子ですが、どうやら自分を鍛えようとし始めたようです」
藍の報告に、紫は小さく微笑む。
強くなる。新たな力を得る。それにはまず己の弱さを知り、認めなければならない。そしてその上でそれを克服する努力を重ねなければならない。自らを鍛えることなく、自らの弱さを認めず、小手先のもので何とかしようとしている限り、次の段階には進めない。
「そう。思ったよりも早かったわね。あの子が『橙』を卒業するのも、そう遠くない日かも知れないわね」
「だといいのですが」
藍もまたこっそり覗いて見ていた橙の頑張りを思い出しながら、笑みを浮かべた。
八雲の道は永く、そして途絶えることなく続いていく。
―END―
今後鍛錬を積む中で椛含め人妖との信頼や絆を深め、やがては憧れの藍、紫へと成長して行く。
とても感動しました。