「ご主人様、お小遣いをくれないだろうか」
わたしは最初、彼女が発した言葉の意味を理解できなかった。
「二千円で肩揉み、五千円なら足ツボ、一万円くれたらしゃぶってあげるよ?」
そして続いた言葉も意味不明である。
一体何をしゃぶってくれるというのか、わたしには理解に苦しむね…。
「無言は肯定とみなしてよいかな?」
「ちょっと待ちなさい」
わたしの懐に手を突っ込んで勝手に財布を捜す彼女の手を掴み、言った。
そのまま渾身の力を込めて握りしめる。
ああ、彼女の腕はこんなに細かっただろうか。
かつて毘沙門天様の使いとして派遣されてきた時、彼女は言った。
『わたしはナズーリン。…君を、監視する者だ』
男前だと思った。
猫と鼠は本来狩る者と狩られる者の関係、ましてわたしは寅である。
にも関わらず、彼女からは被食者の弱々しさなど微塵も感じられなかった。
これが神仏の加護を受けた獣の力か。
以来、毘沙門天様に教えを受け、その代理を務める身となった今でも、
わたしは心のどこかで彼女を自分より上に見てしまう。
「ご主人様」
そう、彼女がわたしをそんな風に呼ぶのにも関わらず、だ。
腕を掴まれても手首から先は自由なままであり、
あきらめの悪い指先がわたしの胸元を這い回って財布を探している。
握りしめた手により一層の力を込めた。
おそらく袖の下にある彼女の腕は鬱血し、何か嫌な色に変わっているのではないだろうか。
「誤解しないでくれ。わたしはセクハラをするつもりはないんだ」
「わかっていますよ」
むしろセクハラならこんなに必死こいて止めはしない。
こう見えて肉食系なのだ。
行き場のない肉欲を持て余している矢先に、
憎からず想っている相手が胸元に手を突っ込んできて拒否する獣がいるだろうか。
「ならどうして放してくれないんだ。自分の膂力をわかっていないのか」
「わかっていますよ」
わたしは額に脂汗を浮かべ、目に涙を浮かべ始めている彼女を見つめた。
その瞳は深紅の宝石。
砂漠に燃えるアッシュールバニパルの焔。
それは今は、別にどうでもいいことだ。
脈絡なしの金欲で乙女の獣欲を汚した罪は腕一本で購えるものではない。
「頼む。このままでは腕が折れる。放してくれないか」
「あなたがわたしの財布を探すのをやめれば考えます(放すとは言わない)」
ナズーリンの指先から力が抜けた。
仕方がないので手を放してあげた。
このまま彼女が利き腕を使えなくなったら、左手で食事を取るはめになる。
口元まで食事を運べず、ぼろぼろと米や野菜をこぼしてしまう。
聖の目の前で、そんな痴態を晒させるわけにはいかない。
…いやまて、それならばわたしが食べさせてあげればよいのではないか。
『はいナズーリン、あーん』
『あーん』
『ほら、ドーナツですよ』
『あっ!ドーナツ見っけ!いただきまーす』
少々判断が早すぎかつ甘すぎたか。
いや、今ならまだ遅くないだろう。
「ご主人様、なぜわたしの腕を見つめて手刀を構えるんだ」
焦りが顔に出ていたのか、意思を悟られた。
わたしもまだまだ修行が足りないということだろう。
※ ※ ※
「それで、どうして急にお小遣いが欲しいなどと…」
縁側に並んで腰掛け、わたしはナズーリンに話しかけた。
山の向こうに沈まんとする太陽が、オレンジ色の世界を作り出している。
空に響くのはひぐらしの鳴く声。
夏の夕暮れ時、ようやく和らぎ始めた暑さの中に、わたしたち二人はいるのだった。
「寒いんだ」
彼女を抱きしめた。
温もりができるだけ速く伝わるように、強く強く。
「違う、体が寒いんじゃない。むしろ季節的にこれは暑苦しい」
「確かにあのネタはわたしもどうかと思いましたが」
「ギャグが寒いのでもない。そもそも『あのネタ』って何だ」
あれは数日前の聖輦船遊覧ツアーでのこと。
久々のファン感謝デーということもあり、この寺の妖怪たちが一芸を披露した。
水蜜は船幽霊らしく(?)水芸を。
ぬえは卑怯にも正体不明の能力を使った物真似を。
ナズーリンは「魔法使いの弟子」という設定でファンタジアな歌と踊りを。
…なぜか乗員乗客全員が必死で止めていたのだが。
聖は肉体強化魔法を駆使し、畳を片手の握力だけで二つ折りにしていた。
かくいうわたしも、小半刻かけて素振りの一動作を終える「練り」と呼ばれる鍛錬法を披露した。
トラっ娘のわたしが木刀をかついで登場した時には「くぎゅううううう」と五月蝿かった観衆も、
三十分後にはわたしを「虎の中の虎」と呼び畏れるようになっていた。
で、問題の寒いギャグはというと、
『自分少し前まで洞窟の中で小さくなってたんですけどね、これが鍾乳洞の中の小入道』
という雲山の渾身の親父ギャグである。
ちなみに一輪が何の芸をやったかは覚えていない。
おそらく観客も覚えていない気がする。
「わたしが寒いと言っているのは懐なんだ。お金がないんだよ」
「なんだ、そういうことだったのですか」
それならそうと早く言ってくれればよかったのに。
わたしは懐に手を入れ、こんな時のためにとっておいたものを取り出す。
「さあ、この藁があれば明日にはあなたは里の長者になっているでしょう」
「…(腹パン)」
無言でみぞおちを殴られた。
痛い。そして苦しい。
お昼に食べた梅干と鰻と天麩羅と西瓜がせり上がってくるようだ。
これが俗に言うDVというものなのだろうか?
「貴方は財宝を集める能力を持っているじゃないか。なのになぜこんな…」
ナズーリンはうずくまるわたしの頭をバシバシはたく。
腹の痛みが和らいできたので、お返しとばかりに彼女の腹を殴った。
「おぶぇ」
しばらくそんな感じで、座ったまま互いの腹を殴り合う時間が続いた。
最初に殴ったのが顔ならば、夕暮れ時の風景も相まってちょっとした青春ドラマだったかもしれない。
※ ※ ※
「過去に、クッソドジなご主人様が無様にも大切な宝塔をなくしたことがあったろう」
「ああ、クッソ雑魚な1ボスでは真の力を引き出せなかった毘沙門天様の宝塔ですね」
今更言うまでもないが、わたしはナズーリンのことが大好きである。
「あの時宝塔を見つけたのは森の近くの古道具屋でね」
そう言えば、店の主に随分吹っ掛けられたという話を聞いた。
だがそれはかなり前の話。
いくらなんでも現在の彼女の金欠の原因にはなるまい。
というかあの件では、後からわたしにその金額を請求してきた。
なくしたのがわたしなので、勿論文句を言わずに払ったが…。
「それ以来、なぜかわたしの探し物はあの店で見つかることが多いんだ」
ダウジングで探し当てた宝物が、しょっちゅうその店で見つかるという。
自分の探し物ならば、代金は自分の財布から出さざるを得ない。
それで、彼女の懐が寒くなっていたのか。
「最近は向こうもこっちの顔を覚えてきたようだ」
「かわいいですもんね」
「いつもしつこく値切るからだろう。あとかわいいとか言うな」
赤くなっている。ますますかわいい。
「とにかく最近じゃお互いに『また君か』状態だ。偶然とは思えん」
「まさか…」
「そう」
ナズーリンは頷いた。
どうやらわたしと同じことを思い浮かべているらしい。
「あの店主もダウジングが使えるに違いない!」
「運命の赤い糸で結ばれていたのですね!」
わたしの口元からも赤い糸が一筋。
悔しさのあまり噛み締めた唇が、切れてしまった。
まさかこんなところで、彼女をどこの馬の骨とも知れぬ男にとられるとは。
涙が出てきた。
後から後から溢れて溢れて止まらなかった。
「何を泣いているんだ」
「なんでもないです。ナズーリン…元気な子を産んでね」
「気が早いな。あの店主とは何もないよ」
「本当ですか?」
「本当だとも」
彼女を抱き寄せ、その頬を舌で舐めた。
嘘をついている味はしない。
「ざらざらするから、やめてくれないかな」
そう言いつつ、彼女は抵抗する素振りを見せない。
確信した。彼女は変態だ。
鼠のくせに猫科肉食獣に舐められて平静でいられるなど、間違いなく正気ではない。
わたしは安心してナズーリンの頬を舐め続けた。
「まあそういうわけだ。ご主人様、お小遣いをくれ。かわいい部下の頼みだ」
「自分で言うのは照れないんですね」
「ま、多少はね?」
そんな会話をしながら、ひぐらしの声が聞こえなくなるまで二人で寄り添っていた。
※ ※ ※
「しかしねぇ、ナズーリン」
台所に立ったわたしは、隣で鍋を火にかける彼女に声をかけた。
折りしも今日はわたしとナズーリンが夕飯の準備をする係だった。
この命蓮寺では家事は皆で分担して行う。
特に料理は毎日違う者が作る当番制で、各人の個性が出て面白い。
「わたしはそういう所から始まるロマンスもあると思うんです」
「なんだ、さっきの話か」
ちなみにナズーリンは和洋中どの料理もそれなりにこなす万能型。
しかしわたしは知っている。
彼女が密かに最も得意としているのは露西亜料理であるということを。
同志ナズーリン見とけよ見とけよ、ウラルの山に手が届きそうではないか。
「ま、本当にそれであなたがとられちゃったら困りますけど」
ちなみにわたしは中華が得意である。
メンマ職人の朝は早い。
「これがロマンスなら、わたしは随分と彼に貢いだことになるな」
「ふむ。それなら恋の切欠、キューピッドはわたしということに」
彼女があの店に行ったのは、わたしがなくした宝塔を探すため。
思わぬところで敵に塩を送っていたのか…敵の顔知らないけど。
「寅に恋を応援されるというのは」
ナズーリンがオレンジ色の蓋の小瓶を手に取る。古来より敵に送るものの代表格、塩だ。
「最終的にその寅と恋に落ちるフラグらしいが」
「『嫁に来い』とでも言ってくれるのですか?」
わたしは玉葱を切っていた。
皮をむいて最初に包丁を入れるこの瞬間。
好きだけど、泣ける。
「言えば来るのかい、君は」
「嫁に鯉、婿に牡蠣、舅姑もみじまん」
「広島は関係ないだろ!いい加減にしろ!」
風評被害には訴訟も辞さない、という断固たる表情。
どうやら茶化せないタイプの質問だったようだ。
わたしは口元を引き締め、ナズーリンの目を真っ直ぐに見つめた。
そして言った。
「ナズーリン、嫁に来い」
「あんたが言うのかよ!」
ビシッ!とツッコミを入れてきた彼女の右手を、わたしは左手で掴む。
そのまま彼女の方を向き、反対側の細い左手首を右手で押さえつける。
「…ッ!?」
どんっ、と鈍い音がした。
背中の強度は体の正面の七倍とも言うし、大した衝撃ではあるまい。
そもそも、この行為は彼女の体を壁に「ぶつける」ことを目的とするものではない。
ナズーリンの両手の自由と、逃れる隙を奪うことが狙いだった。
「(どこへ行くのですか?)あなたは磔刑です」
ちょうど、わたしがナズーリンの背中を壁に押し付ける形になっていた。
「ご、ご主人様…?」
頭一つ低い位置から聞こえる、彼女の戸惑った声。
わたしが壁に押し付けた両手からは、抵抗の力は伝わってこない。
抗ったところで、わたしの拘束を逃れる腕力などありはしまいが。
「わたしは嫁に来い、と言いました」
わざと彼女の耳に口を寄せ、息がかかるように囁く。
彼女の肩をびくりと跳ねさせたのは耳元への刺激か、耳を伝った言葉か。
わたしと彼女の距離は、とても近いものになっていたけれど、
お互いの胸元が触れ合わないように注意する。
触れたら、きっとばれてしまう。
わたしの心臓の鼓動の速さは今、通常の三倍。
初めてナズーリンと出会ったとき以来の、この胸の高鳴り。
俗に言う「シャアの帰還」…否、「シャアの再来」。
折角彼女の不意をついて主導権を握ることが出来たのだ。
こんなフルでフロンタルな胸のドキドキを悟ったなら、彼女は一転、攻勢に転じるだろう。
隙を見せないよう、わたしは乙女コスモフル回転で畳み掛ける。
「答えてください。『はい』か『イエス』か『白い着物で眼鏡の落語家』か」
完璧だった。
『はい』と『イエス』、肯定を選ばなければ一生独身。
ナズーリンは将棋やチェスで言う「詰み(チェックメイト)」に嵌まった。
「……」
彼女も何かを諦めたかのような、しかし清々しい表情をしていた。
その口が次に紡ぎ出す言葉を、わたしはただただ、待つ。
ようやく、その薄いが柔らかそうな桃色の唇が動き始めた、その時。
火にかけていた鍋の蓋が、勢いよく飛び上がった。
内部からの圧力に耐えかねたように跳ね上がった蓋は天井にぶつかった後、床に落ちた。
その後を追うかのように、鍋からは中身が溢れ出てきている。
「た、大変ですナズーリン!お鍋が沸騰して…こ、こぼれちゃってます」
「はい!」
鍋つかみを探し出し、急いで火元から鍋を持ち上げた。
「よし、これで大丈夫です…ちょっと煮崩れしてますね。温度が高すぎたのかしら」
「はい!」
「High?そうですか、やはり温度が高くて…」
ナズーリンを追い詰めるのに夢中で、夕飯を作る途中だったことをすっかり忘れていた。
いくら将来を決める大事とはいえ、皆の食事を台無しにしていい理由はない。
「まあ、これくらいなら問題ないでしょう。よく味も染みてますし」
「はい!」
「ああ、でもやはり火力が強すぎたようですね。炭が大分真っ白に…」
「はい!」
「ええ本当にかなり灰になってしまって…」
わたしはただでさえドジっ虎などと陰で言われている身なのだ。
食事の仕度一つできないようでは、毘沙門天様の威光にも傷がつくというもの。
ここで状況に流され、家事をうっかりミスってしまう寅丸星ではない。
気合いを入れるのだ。目指すは嫁にしたい妖怪ナンバーワン。
※ ※ ※
それから。
気を取り直して二人で夕飯の準備を進め、なんとかいつも通りの時間に食事をとれた。
ナズーリンがわたしの指示に全て二つ返事でテキパキと動いてくれたお陰である。
その後、皆で風呂に入り、就寝しようという頃に。
わたしはふと思い出して、傍に布団を敷くナズーリンに尋ねた。
「そういえば、嫁に来るかどうか聞いてましたね。あれの答えは…」
ナズーリンの右足が勢いよく跳ね上がった――それを認識した瞬間、
わたしはこめかみに鋭い衝撃を感じていた。
鮮やかな上段回し蹴り――英語で言うと『ハイ』キック。
「このクソドジうっかり淫獣がぁぁぁっ!」
罵られた屈辱や快感より先に、わたしは驚きによって目を見開いていた。
もはやこの戦いはいつもの痴話喧嘩ではない。
既に――それも数時間前から――犬には喰えない夫婦喧嘩の領域へと突入していたのだ。
『ナズーリン、お料理を運びますよ』
『はい!』
『お風呂が沸いたみたいですね。行きましょうか』
『はい!』
『冒険がー♪』
『はい!』
『挑戦をー♪』
『はい!』
『連ーれーてー来ーたー♪』
『はい!』
『そこは「問題解決」でしょう!?』
『はい!』
彼女はわたしの問い――鍋のふきこぼれに気を取られ、わたしが束の間忘れてしまった問いに、
ただ一語をもってずっと答え続けていたのだから。
※ ※ ※
あれから一週間がたち、わたしは数十年ぶりに毘沙門天様に手紙を書いた。
『いくつになっても嫁の貰い手がつかないので、逆転の発想で自分が貰い手になりました』
それは照れ隠しで適当にでっち上げただけの理由であった。
本当の理由はもっと単純で、それゆえにこっ恥ずかしいもので、
わたしはそれを紙に書いて自分の目で見ることがあまりにも照れ臭かったのだ。
しかし、その照れが意外な所で毘沙門天様に転機を与えることとなった。
わが師毘沙門天は逆転の発想でどこかの男に嫁入りすることを決めたらしい。
そう言えば師は『いくつになっても嫁が来ない』と悩んでいたっけ。
かつて彼は「多聞天」の異名をとっていたが、
この事件を契機に「保聞天」と呼ばれるようになったそうな。
わたしは最初、彼女が発した言葉の意味を理解できなかった。
「二千円で肩揉み、五千円なら足ツボ、一万円くれたらしゃぶってあげるよ?」
そして続いた言葉も意味不明である。
一体何をしゃぶってくれるというのか、わたしには理解に苦しむね…。
「無言は肯定とみなしてよいかな?」
「ちょっと待ちなさい」
わたしの懐に手を突っ込んで勝手に財布を捜す彼女の手を掴み、言った。
そのまま渾身の力を込めて握りしめる。
ああ、彼女の腕はこんなに細かっただろうか。
かつて毘沙門天様の使いとして派遣されてきた時、彼女は言った。
『わたしはナズーリン。…君を、監視する者だ』
男前だと思った。
猫と鼠は本来狩る者と狩られる者の関係、ましてわたしは寅である。
にも関わらず、彼女からは被食者の弱々しさなど微塵も感じられなかった。
これが神仏の加護を受けた獣の力か。
以来、毘沙門天様に教えを受け、その代理を務める身となった今でも、
わたしは心のどこかで彼女を自分より上に見てしまう。
「ご主人様」
そう、彼女がわたしをそんな風に呼ぶのにも関わらず、だ。
腕を掴まれても手首から先は自由なままであり、
あきらめの悪い指先がわたしの胸元を這い回って財布を探している。
握りしめた手により一層の力を込めた。
おそらく袖の下にある彼女の腕は鬱血し、何か嫌な色に変わっているのではないだろうか。
「誤解しないでくれ。わたしはセクハラをするつもりはないんだ」
「わかっていますよ」
むしろセクハラならこんなに必死こいて止めはしない。
こう見えて肉食系なのだ。
行き場のない肉欲を持て余している矢先に、
憎からず想っている相手が胸元に手を突っ込んできて拒否する獣がいるだろうか。
「ならどうして放してくれないんだ。自分の膂力をわかっていないのか」
「わかっていますよ」
わたしは額に脂汗を浮かべ、目に涙を浮かべ始めている彼女を見つめた。
その瞳は深紅の宝石。
砂漠に燃えるアッシュールバニパルの焔。
それは今は、別にどうでもいいことだ。
脈絡なしの金欲で乙女の獣欲を汚した罪は腕一本で購えるものではない。
「頼む。このままでは腕が折れる。放してくれないか」
「あなたがわたしの財布を探すのをやめれば考えます(放すとは言わない)」
ナズーリンの指先から力が抜けた。
仕方がないので手を放してあげた。
このまま彼女が利き腕を使えなくなったら、左手で食事を取るはめになる。
口元まで食事を運べず、ぼろぼろと米や野菜をこぼしてしまう。
聖の目の前で、そんな痴態を晒させるわけにはいかない。
…いやまて、それならばわたしが食べさせてあげればよいのではないか。
『はいナズーリン、あーん』
『あーん』
『ほら、ドーナツですよ』
『あっ!ドーナツ見っけ!いただきまーす』
少々判断が早すぎかつ甘すぎたか。
いや、今ならまだ遅くないだろう。
「ご主人様、なぜわたしの腕を見つめて手刀を構えるんだ」
焦りが顔に出ていたのか、意思を悟られた。
わたしもまだまだ修行が足りないということだろう。
※ ※ ※
「それで、どうして急にお小遣いが欲しいなどと…」
縁側に並んで腰掛け、わたしはナズーリンに話しかけた。
山の向こうに沈まんとする太陽が、オレンジ色の世界を作り出している。
空に響くのはひぐらしの鳴く声。
夏の夕暮れ時、ようやく和らぎ始めた暑さの中に、わたしたち二人はいるのだった。
「寒いんだ」
彼女を抱きしめた。
温もりができるだけ速く伝わるように、強く強く。
「違う、体が寒いんじゃない。むしろ季節的にこれは暑苦しい」
「確かにあのネタはわたしもどうかと思いましたが」
「ギャグが寒いのでもない。そもそも『あのネタ』って何だ」
あれは数日前の聖輦船遊覧ツアーでのこと。
久々のファン感謝デーということもあり、この寺の妖怪たちが一芸を披露した。
水蜜は船幽霊らしく(?)水芸を。
ぬえは卑怯にも正体不明の能力を使った物真似を。
ナズーリンは「魔法使いの弟子」という設定でファンタジアな歌と踊りを。
…なぜか乗員乗客全員が必死で止めていたのだが。
聖は肉体強化魔法を駆使し、畳を片手の握力だけで二つ折りにしていた。
かくいうわたしも、小半刻かけて素振りの一動作を終える「練り」と呼ばれる鍛錬法を披露した。
トラっ娘のわたしが木刀をかついで登場した時には「くぎゅううううう」と五月蝿かった観衆も、
三十分後にはわたしを「虎の中の虎」と呼び畏れるようになっていた。
で、問題の寒いギャグはというと、
『自分少し前まで洞窟の中で小さくなってたんですけどね、これが鍾乳洞の中の小入道』
という雲山の渾身の親父ギャグである。
ちなみに一輪が何の芸をやったかは覚えていない。
おそらく観客も覚えていない気がする。
「わたしが寒いと言っているのは懐なんだ。お金がないんだよ」
「なんだ、そういうことだったのですか」
それならそうと早く言ってくれればよかったのに。
わたしは懐に手を入れ、こんな時のためにとっておいたものを取り出す。
「さあ、この藁があれば明日にはあなたは里の長者になっているでしょう」
「…(腹パン)」
無言でみぞおちを殴られた。
痛い。そして苦しい。
お昼に食べた梅干と鰻と天麩羅と西瓜がせり上がってくるようだ。
これが俗に言うDVというものなのだろうか?
「貴方は財宝を集める能力を持っているじゃないか。なのになぜこんな…」
ナズーリンはうずくまるわたしの頭をバシバシはたく。
腹の痛みが和らいできたので、お返しとばかりに彼女の腹を殴った。
「おぶぇ」
しばらくそんな感じで、座ったまま互いの腹を殴り合う時間が続いた。
最初に殴ったのが顔ならば、夕暮れ時の風景も相まってちょっとした青春ドラマだったかもしれない。
※ ※ ※
「過去に、クッソドジなご主人様が無様にも大切な宝塔をなくしたことがあったろう」
「ああ、クッソ雑魚な1ボスでは真の力を引き出せなかった毘沙門天様の宝塔ですね」
今更言うまでもないが、わたしはナズーリンのことが大好きである。
「あの時宝塔を見つけたのは森の近くの古道具屋でね」
そう言えば、店の主に随分吹っ掛けられたという話を聞いた。
だがそれはかなり前の話。
いくらなんでも現在の彼女の金欠の原因にはなるまい。
というかあの件では、後からわたしにその金額を請求してきた。
なくしたのがわたしなので、勿論文句を言わずに払ったが…。
「それ以来、なぜかわたしの探し物はあの店で見つかることが多いんだ」
ダウジングで探し当てた宝物が、しょっちゅうその店で見つかるという。
自分の探し物ならば、代金は自分の財布から出さざるを得ない。
それで、彼女の懐が寒くなっていたのか。
「最近は向こうもこっちの顔を覚えてきたようだ」
「かわいいですもんね」
「いつもしつこく値切るからだろう。あとかわいいとか言うな」
赤くなっている。ますますかわいい。
「とにかく最近じゃお互いに『また君か』状態だ。偶然とは思えん」
「まさか…」
「そう」
ナズーリンは頷いた。
どうやらわたしと同じことを思い浮かべているらしい。
「あの店主もダウジングが使えるに違いない!」
「運命の赤い糸で結ばれていたのですね!」
わたしの口元からも赤い糸が一筋。
悔しさのあまり噛み締めた唇が、切れてしまった。
まさかこんなところで、彼女をどこの馬の骨とも知れぬ男にとられるとは。
涙が出てきた。
後から後から溢れて溢れて止まらなかった。
「何を泣いているんだ」
「なんでもないです。ナズーリン…元気な子を産んでね」
「気が早いな。あの店主とは何もないよ」
「本当ですか?」
「本当だとも」
彼女を抱き寄せ、その頬を舌で舐めた。
嘘をついている味はしない。
「ざらざらするから、やめてくれないかな」
そう言いつつ、彼女は抵抗する素振りを見せない。
確信した。彼女は変態だ。
鼠のくせに猫科肉食獣に舐められて平静でいられるなど、間違いなく正気ではない。
わたしは安心してナズーリンの頬を舐め続けた。
「まあそういうわけだ。ご主人様、お小遣いをくれ。かわいい部下の頼みだ」
「自分で言うのは照れないんですね」
「ま、多少はね?」
そんな会話をしながら、ひぐらしの声が聞こえなくなるまで二人で寄り添っていた。
※ ※ ※
「しかしねぇ、ナズーリン」
台所に立ったわたしは、隣で鍋を火にかける彼女に声をかけた。
折りしも今日はわたしとナズーリンが夕飯の準備をする係だった。
この命蓮寺では家事は皆で分担して行う。
特に料理は毎日違う者が作る当番制で、各人の個性が出て面白い。
「わたしはそういう所から始まるロマンスもあると思うんです」
「なんだ、さっきの話か」
ちなみにナズーリンは和洋中どの料理もそれなりにこなす万能型。
しかしわたしは知っている。
彼女が密かに最も得意としているのは露西亜料理であるということを。
同志ナズーリン見とけよ見とけよ、ウラルの山に手が届きそうではないか。
「ま、本当にそれであなたがとられちゃったら困りますけど」
ちなみにわたしは中華が得意である。
メンマ職人の朝は早い。
「これがロマンスなら、わたしは随分と彼に貢いだことになるな」
「ふむ。それなら恋の切欠、キューピッドはわたしということに」
彼女があの店に行ったのは、わたしがなくした宝塔を探すため。
思わぬところで敵に塩を送っていたのか…敵の顔知らないけど。
「寅に恋を応援されるというのは」
ナズーリンがオレンジ色の蓋の小瓶を手に取る。古来より敵に送るものの代表格、塩だ。
「最終的にその寅と恋に落ちるフラグらしいが」
「『嫁に来い』とでも言ってくれるのですか?」
わたしは玉葱を切っていた。
皮をむいて最初に包丁を入れるこの瞬間。
好きだけど、泣ける。
「言えば来るのかい、君は」
「嫁に鯉、婿に牡蠣、舅姑もみじまん」
「広島は関係ないだろ!いい加減にしろ!」
風評被害には訴訟も辞さない、という断固たる表情。
どうやら茶化せないタイプの質問だったようだ。
わたしは口元を引き締め、ナズーリンの目を真っ直ぐに見つめた。
そして言った。
「ナズーリン、嫁に来い」
「あんたが言うのかよ!」
ビシッ!とツッコミを入れてきた彼女の右手を、わたしは左手で掴む。
そのまま彼女の方を向き、反対側の細い左手首を右手で押さえつける。
「…ッ!?」
どんっ、と鈍い音がした。
背中の強度は体の正面の七倍とも言うし、大した衝撃ではあるまい。
そもそも、この行為は彼女の体を壁に「ぶつける」ことを目的とするものではない。
ナズーリンの両手の自由と、逃れる隙を奪うことが狙いだった。
「(どこへ行くのですか?)あなたは磔刑です」
ちょうど、わたしがナズーリンの背中を壁に押し付ける形になっていた。
「ご、ご主人様…?」
頭一つ低い位置から聞こえる、彼女の戸惑った声。
わたしが壁に押し付けた両手からは、抵抗の力は伝わってこない。
抗ったところで、わたしの拘束を逃れる腕力などありはしまいが。
「わたしは嫁に来い、と言いました」
わざと彼女の耳に口を寄せ、息がかかるように囁く。
彼女の肩をびくりと跳ねさせたのは耳元への刺激か、耳を伝った言葉か。
わたしと彼女の距離は、とても近いものになっていたけれど、
お互いの胸元が触れ合わないように注意する。
触れたら、きっとばれてしまう。
わたしの心臓の鼓動の速さは今、通常の三倍。
初めてナズーリンと出会ったとき以来の、この胸の高鳴り。
俗に言う「シャアの帰還」…否、「シャアの再来」。
折角彼女の不意をついて主導権を握ることが出来たのだ。
こんなフルでフロンタルな胸のドキドキを悟ったなら、彼女は一転、攻勢に転じるだろう。
隙を見せないよう、わたしは乙女コスモフル回転で畳み掛ける。
「答えてください。『はい』か『イエス』か『白い着物で眼鏡の落語家』か」
完璧だった。
『はい』と『イエス』、肯定を選ばなければ一生独身。
ナズーリンは将棋やチェスで言う「詰み(チェックメイト)」に嵌まった。
「……」
彼女も何かを諦めたかのような、しかし清々しい表情をしていた。
その口が次に紡ぎ出す言葉を、わたしはただただ、待つ。
ようやく、その薄いが柔らかそうな桃色の唇が動き始めた、その時。
火にかけていた鍋の蓋が、勢いよく飛び上がった。
内部からの圧力に耐えかねたように跳ね上がった蓋は天井にぶつかった後、床に落ちた。
その後を追うかのように、鍋からは中身が溢れ出てきている。
「た、大変ですナズーリン!お鍋が沸騰して…こ、こぼれちゃってます」
「はい!」
鍋つかみを探し出し、急いで火元から鍋を持ち上げた。
「よし、これで大丈夫です…ちょっと煮崩れしてますね。温度が高すぎたのかしら」
「はい!」
「High?そうですか、やはり温度が高くて…」
ナズーリンを追い詰めるのに夢中で、夕飯を作る途中だったことをすっかり忘れていた。
いくら将来を決める大事とはいえ、皆の食事を台無しにしていい理由はない。
「まあ、これくらいなら問題ないでしょう。よく味も染みてますし」
「はい!」
「ああ、でもやはり火力が強すぎたようですね。炭が大分真っ白に…」
「はい!」
「ええ本当にかなり灰になってしまって…」
わたしはただでさえドジっ虎などと陰で言われている身なのだ。
食事の仕度一つできないようでは、毘沙門天様の威光にも傷がつくというもの。
ここで状況に流され、家事をうっかりミスってしまう寅丸星ではない。
気合いを入れるのだ。目指すは嫁にしたい妖怪ナンバーワン。
※ ※ ※
それから。
気を取り直して二人で夕飯の準備を進め、なんとかいつも通りの時間に食事をとれた。
ナズーリンがわたしの指示に全て二つ返事でテキパキと動いてくれたお陰である。
その後、皆で風呂に入り、就寝しようという頃に。
わたしはふと思い出して、傍に布団を敷くナズーリンに尋ねた。
「そういえば、嫁に来るかどうか聞いてましたね。あれの答えは…」
ナズーリンの右足が勢いよく跳ね上がった――それを認識した瞬間、
わたしはこめかみに鋭い衝撃を感じていた。
鮮やかな上段回し蹴り――英語で言うと『ハイ』キック。
「このクソドジうっかり淫獣がぁぁぁっ!」
罵られた屈辱や快感より先に、わたしは驚きによって目を見開いていた。
もはやこの戦いはいつもの痴話喧嘩ではない。
既に――それも数時間前から――犬には喰えない夫婦喧嘩の領域へと突入していたのだ。
『ナズーリン、お料理を運びますよ』
『はい!』
『お風呂が沸いたみたいですね。行きましょうか』
『はい!』
『冒険がー♪』
『はい!』
『挑戦をー♪』
『はい!』
『連ーれーてー来ーたー♪』
『はい!』
『そこは「問題解決」でしょう!?』
『はい!』
彼女はわたしの問い――鍋のふきこぼれに気を取られ、わたしが束の間忘れてしまった問いに、
ただ一語をもってずっと答え続けていたのだから。
※ ※ ※
あれから一週間がたち、わたしは数十年ぶりに毘沙門天様に手紙を書いた。
『いくつになっても嫁の貰い手がつかないので、逆転の発想で自分が貰い手になりました』
それは照れ隠しで適当にでっち上げただけの理由であった。
本当の理由はもっと単純で、それゆえにこっ恥ずかしいもので、
わたしはそれを紙に書いて自分の目で見ることがあまりにも照れ臭かったのだ。
しかし、その照れが意外な所で毘沙門天様に転機を与えることとなった。
わが師毘沙門天は逆転の発想でどこかの男に嫁入りすることを決めたらしい。
そう言えば師は『いくつになっても嫁が来ない』と悩んでいたっけ。
かつて彼は「多聞天」の異名をとっていたが、
この事件を契機に「保聞天」と呼ばれるようになったそうな。
個人的な感想としては笑いの部分なしでも充分面白かったです、まとめ方もとてもキレイだと思いました
読みたかった物を読ませて頂いたという感じです
自分に足りないものがわかりました
お手本にさせていただきます
ご祝儀相場を持ち出すまでもなく100点をつけるに吝かではないのですが、今回はこの点数で。
残りの10点は次の喜びのために取って置きたいのです。
つまりは作者様の新作がもっともっと読みたいのだ。
相変わらずのキレのあるギャグ、堪能いたしました
>嘘をついている味はしない。
ブチャラティwww 相変わらずの切れ味でした。
あ、それと……お帰りなさい!
何はともあれ面白かったです!オカエリナサト
食い合わせ悪すぎwwww
え?
評価するポイントそこじゃないだろって?
お久しぶりです!
帰ってきてくれてすごく嬉しいです!
いやそれにしてもこの二人の遠慮の無さ、ホントはもうとっくに結婚してたんでしょ?
でも最後はどうかと思いましたw
しかし、このオチは酷いw
星ナズ新婚生活をお幸せに!保聞天様もお幸せに!
ラストの落とし方に脱帽でしたw
良いですね。ギャグの切れもさる事ながら、文章のテンポが良い。文句無しに百点です。
流れとして空気を作るギャグは好きなのです。ナズ星も大好物ですね。
しかし一番吹いたのは「あなたは磔刑です」の所。やばかったです。この、元ネタと微妙に違う所が。