テレビの中では黒煙の中に超巨大なネコが映っていた。
映像はどこかの山の上から撮っているものらしく、やけに黒茶けた画面はどこかの砂漠のような刺激の少ない風景だった。
画面の下の方には砂粒のように町が広がっていて、ネコに踏みつけられた部分からはもうもうと黒煙が上がっている。
緑がかっていて不鮮明な映像は手ブレが酷くてずっと見ていたら酔ってしまいそうだけれど、その中心に映っている巨大な猫だけはいくら映像がブレても 画面のどこかにその姿が映るほど巨大だった。
何の変哲もない、何十万分の一ぐらいのサイズになればごく普通のネコに見えたに違いないけれど、今映像に映っているのは馬鹿でかすぎて却ってネコという生物が本来の大きさを忘れさせてしまうほど圧倒的だった。
ネコは尻尾をふりふりとさせながらまるでキッチンのテーブルの上を歩くような足取りで歩き出す。
ネコが一歩を踏み出す度に町は破壊され、何人、あるいは何十人、何百人もの人間がその肉球の下敷きになっているらしかった。
ネコの周囲を飛び交っているのは戦闘ヘリだ。
ネコはヒゲに引っかかってきた戦闘ヘリコプターにじゃれついた。
ソ連時代に作られたという骨董品のような戦闘ヘリが右足で殴られる。
すると画面の画素の何粒かがオレンジ色に染まった。
それは映像が不鮮明すぎてとても爆発とも思えないものだった。
そしてそのオレンジ色に染まった画素の何粒かと、ヘリが巨大ネコに打ち落とされてまた何人か死亡したという歴史を結び付けて考えれるものなどいないだろう。
映像を撮っている男が何事か叫んでいる。
破裂音が混じる発音はテュルク語族に特有のものだ。
悲鳴のように、怒号のようでも、何かに懇願しているようでもあった。
超巨大ネコを撮影し続けている男は、ネコが身じろぎするたびに悲鳴を上げた。
男が何か意味のあることを叫ぶと、テレビの下の方にテロップが出た。
「あそこに俺のおじさんがいるんだ!」。
「ちくしょう!」。
「あれはネコだ!」。
「油田が!」。
「あそこには行きつけの店がある!」。
「なんてことだ!」。
「神様!」。
男はその後、「神様!」と八回も口に出した。
その後、ネコは肛門をこちらに見せつけるように向こうを向いた。
ふさふさとしたしっぽが空に向かってぴんと立つ。
ネコが水溜りでも避けるかのように軽々とジャンプした。
カメラがネコを追う。
臓腑を揺るがすような不気味な音が響く。
黒煙が上がる。
町が破壊される。
また下敷きになって人が死ぬ。
カメラを撮っている男が悲鳴を上げる。
「神様!」。
悲鳴が九回目を数えた。
店内に入ると、カウンターに頬杖付いていたおばちゃんがいらっしゃいとぶっきらぼうに言った。私は頷きながら店内に入り、見た目は一番綺麗に見える店の奥のテーブルに座った。
深夜のためか本当にお客さんは少なくて、カウンターの隅のほうで作業服を着た男がズルズルとラーメンを啜っている他は誰もいなかった。油染みた厨房の奥では、還暦はまず間違いなく超えているだろうおじいさんが流れるような手さばきで中華鍋を振っていた。中華鍋の中で炒飯の米粒が踊る度、おじいさんの腕に浮き上がる筋肉がなんとなく私の目を惹いた。
店内に時計を探して時刻を確認した。深夜一時が約束の時間で、時計は「1」の数字からほんの少しだけ先を指していた。舌打ちしようとすると、おばちゃんがお冷のコップを持ってやってきた。慌てて舌打ちを引っ込めて、私はおばちゃんに言った。
「あ、後からもう一人来る予定なんで」
おばちゃんはニコリともしないで頷き、店の奥に引っ込んでいった。私は携帯を取り出そうかと思ってやめた。スマートフォンのアプリはなかなかに電力を食うし、今の時間メールで暇つぶしに付き合ってくれる奇特な友人も思いつかない。仕方なく、お冷のコップから滴った水滴を指先で伸ばしてみた。
私の指先がぷっくりとした水滴を押し潰し、指を動かした方向に向かって水玉が伸びた。ニスが塗られたテーブルは水滴を弾き、小さな小さな水滴ができる。指紋の痕がテーブルに塗りつけられてゆくことに満足した。とりあえずネコの顔を描いてみることにする。耳があって、意地悪そうな目があって、髭が生えてて。耳を描いているあたりで早くも水分が足りなくなったので、汗をかいているコップを指先でなでた。何とか輪郭だけ描けたあたりで、店のドアが開く気配がした。
トレードマークの黒い帽子を被った姿が店内を見渡し、私を見つけるとぺろりと舌を出して見せた。その様が気に入らない私はぶうっと頬を膨らませる。流石に彼女も舌を引っ込め、代わりに胸の前で手を合わせながらテーブルに座り込んだ。
「呼び出した方が遅刻するってどういうことよ」
「そんなに怒らないでよメリー」
「何回言うつもりよ、その言い訳」
「間違いは誰でもあるわ」
「理系ジョークは文系には通用しないのよ」
「一般教養よ」
「ごまかすな」
私は丸めた紙ナプキンを蓮子に向けて放った。紙ナプキンは蓮子の頭を直撃して脱いだ私の靴の中に入った。
「で、何なのよ。呼び出したからには何か言いたいことがあるんでしょ?」
「んーん、特にないわよ。ただ夜中に脂ギットギトのラーメン食べたいと思っただけ」
「ウソ」
「ウソじゃない」
「知ってる?」
「ん?」
「あなたがウソをついてる時は」
「ん」
「必ずカッターシャツのポケットの入り口にね」
「うん」
「糸クズがはみ出るの」
「ああ」
蓮子は糸くずを人差し指に巻いて引きちぎろうとしたようだけれど、国産の合成繊維はなかなかに強靭だった。糸くずを巻きつけた蓮子の指が赤く腫れたようになってそれはまるで奇妙なボンレスハムのようだった。蓮子は仕方なくポケットに唇を寄せ、その糸くずを歯で噛み千切った。一瞬だけ覗いた歯と唇のコントラストはひどくいやらしく見えて、私は思わず唾を飲み込んだ。ひどく粘性が高くて喉の奥に絡みついたようだった。私は水を一口口に含むとゆっくりと嚥下した。
蓮子が、言った。
「ラーメン」
「ん」
「それじゃ動機にならない?」
「呼びつけられた方の身になってよ」
「相棒」
「こんなときばっかり」
「恋人」
「否定しない」
「なら」
「まだダメ」
「ひどい」
「うるさい」
言いつつ、蓮子はちょいと手を上げてカウンターに座っているおばちゃんを呼んだ。おばちゃんは痛めているらしい右ひざをかばうようにして立ち上がり、無言で蓮子の前に立った。げんこつチャーシュー支那そばひとつ、蓮子がそう言うと、おばちゃんはその場で厨房に向かってげんこつ支那ひとつ、と大声で言った。はーい、という間延びしたようなおじいさんの返事がテーブルまで届いた。
ここのラーメン屋は旨いと評判だった。その味の秘訣はおじいさんが鍋の底に隠し味として入れる味の素2gのおかげだというのがウチの大学での一般的な学説だったけれど、蓮子はどうしても納得していなかった。あんな複雑な味が化学調味料で作られるわけがない、というのが蓮子の反証だった。
「今日こそはあのラーメンの味を解明してやるわ」
そう一人ごちて、蓮子は私に向き直った。その目は何かを見ていたけれど反対に何も見ていなかった。私の顔の奥にある、例えば細胞壁とかせわしなく分裂するミトコンドリアDNAを観察しているかのようだった。私はしっかりと蓮子の目を見て言った。
「当ててやろうか」
「何を?」
「ズバリ、蓮子が何を話しに来たのかをよ」
「おうおう」
「あのネコのことでしょ?」
私は店の隅の天井近くにおいてあるブラウン管テレビを指差した。ここ二週間ほどですっかりおなじみになった巨大三毛猫、通称「マズダ号」が我が物顔で暴れている光景があった。蓮子は苦笑しながら頷いた。
巨大な猫。
歌う猫。
吼える猫。
猛る猫。
暴れる猫。
殺す猫。
壊す猫。
そう、それは猫だった。どこからどう見てもネコにしか見えない生物が、この科学世紀に堂々と殴り込みをかけてきたのはつい二週間前のことだった。
前触れはなかった。つい二週間前、ロシアに程近いコーカサスの国、アゼルバイジャンのバクーという街に、突如として体長2300メートルもある三毛猫が出現し、戦略核兵器で首都ごと焼き払われるまで実に121時間36分に渡って暴れ続けたのだった。今、テレビで繰り返しテロップつきで流されている映像はたった一人のコサック民族の男によって撮られたもので、死者122万人、行方不明者6万人を出した未曾有の凶行の、そのほんの一部を切り取った映像だった。
最初その凶行が世界に生中継されたとき、ハリウッドのSFXみたいだ、とは誰も思わなかった。SFXは再現不可能な現実を再現するための手段であって、決して非現実をリアルに描いたりはしない。爆発シーンの爆薬に航空燃料を混ぜ込んで、本来なら黒煙と衝撃波が一瞬で広がるだけの爆発を派手に見せたりするのはそのためだ。今のネコの動きはあまりにも自然すぎるし、何より非現実的すぎる。町を踏み潰す巨大ネコの実在なんて誰も空想したりしないから、そんな現実離れした光景をSFXで作ろうなどとは誰も思わないのだ。
だから世界の人々はこの光景を現実として受け入れた。理解するのに余るような現実は非現実として処理されず、それは自己防衛本能の一環として素早く脳で処理され、現実だと認定されて理解の対象になる。世界の大半の人間はそんな自己防衛機能に忠実だったから、世界は事件発生後、驚くべき速さでこの全長2300mもある巨大災害ネコの存在を受け入れた。そしてその危険性を十分に理解し切った合衆国とロシア連邦はなすべきことを為した。あれがアゼルバイジャンにある戦略核兵器基地に到達する前に、バクーの町ごと戦略核兵器で「マズダ号」を焼き払ったのだ。
生存者など望むべくもなかった。「最悪の事態」が「これ以上最悪の事態」に変化する前に、世界は禁断のスイッチを押したというだけだった。それは三毛猫の足元にいたかもしれない何人かの生存者の命など指し挟まる余地のない世界で決定された決定され、実行に移された。米露が放った二発の核兵器――愛称『スキニーガイ』と『クロポトキンスカヤ』――が発した膨大な核反応はバクーの町を直径数十キロメートルに渡って抉り取り、悪魔の三毛猫を熱戦と爆風で粉みじんにした。そして世界には平和が戻った。事態は「最悪の事態」より先を見なかった。
猿みたいな顔をした日系三世の米国大統領は「核兵器の投下は避けられない事態だった」として早くも保身の体勢に入っていた。ウクライナ系のロシア大統領は国内にいくつかある秘密の別荘から別荘へ逃げ回っていた。アメリカの大学に留学したことがウリの日本の首相は哀悼の意を表した。改革派の中国の国家主席は核の使用は時期尚早だったのではないかと不快感を表明した。被害にあったアゼルバイジャンの首相は「マズダ号」によって死んだから何も言わなかった。無論、誰もが誰一人として信じていない言葉の放埓だった。あんなバカでかいネコは核で焼き払った方がいいに決まっているし、それ以外の手段なんか取りようがなかった。バクーはおろかアゼルバイジャンはもはや立ち直ることは出来ないだろうし、その決定は哀悼の意なんかで消費し切れないほどの犠牲を生んだ。けれど世界は「マズダ号」の破滅を喜んだ。いつでも世界は当事者とは関係のない世界で命運が決定されるという世の摂理をなんとなく理解した気になって、人類は「マズダ号」の存在を忘却しにかかっていた。
ブラウン管を眺めて、蓮子はほう、とため息をついた。
「不謹慎だけど、いつ見ても心躍るわよねぇ」
「本当に不謹慎ね」
「ソソられる」
「射殺されるわよ」
「言うだけならタダよ」
本当に不謹慎な発言だけれど、蓮子にはこういった台詞を嫌味なく口に出せるある種の才能がある。だから私もぜんぜんその言葉を糾弾しようなどとは思わなかった。蓮子が二度目のため息を吐くあたりでおばちゃんが餃子の皿を持ってやってきた。この餃子は私の大学の学生だと無条件で振舞われることが決まっている、サービスというよりは不文律の一種だった。なので余計な銭を払う心配はないのだけれど、老斑を顔に染み付けたおばちゃんの横顔はあまりにも凄まじくて、何か中国の兵馬俑かなにかのように見える。私はその横顔にだったら拝観料を払ってもいいといつも思っている。
蓮子が口をつぐむと、おばちゃんはジロリと蓮子を見た。
「あんまりそういうことは、言わないほうがいいね」
おばちゃんはそう言って餃子の皿を二つテーブルに置き、カウンターに戻っていった。
蓮子が舌を出す。蓮子の才能もおばちゃんには通用しなかったのか、それともおばちゃんの倫理観がズバ抜けて高くて蓮子の才能を凌駕してしまったのか。 私は力なく苦笑して頷いた。
蓮子は餃子の取り皿に醤油とラー油と酢を垂らして、それから割り箸を取り出した。
蓮子が割り箸を割る。パキリと小気味良い音がすると、蓮子は早速餃 子のひとつにかぶりついた。
「アゼルバイジャンについて」
「うん?」
「調べたの」
「うん」
「知ってた?」
「知らない」
「だよね」
「不公平よね」
「何万人も死んだのに」
「誰もアゼルバイジャンについて知らない」
「そ、そ、そ」
蓮子が餃子を咀嚼する音がやけに大きく響いた気がした。私はちら、とカウンターのおばちゃんを盗み見たけれど、おばちゃんはもう何も言わずにカウンターに頬杖をついてテレビを見ていた。もう蓮子のことを諦めてしまったのかもしれない。テレビは相変わらず私たちを俯瞰しながらネコの映像を映し続けている。その上で揺れている観葉植物にはクモの巣が貼りついていた。クモの巣は脂と埃を吸って重く垂れ下がり、コンロから発せられる上昇気流に揺られてふわふわと気味悪い感じに浮いていた。こんな科学世紀の片隅にもああいう脂と埃を吸って観葉植物の葉に貼りつき、重く垂れ下がるクモの巣があるのだと、そう思うと私は少し報われたような気になった。
視線を蓮子の顔に戻したのと同時に思考そのものを切り替えて私は頷いた。確かに、アゼルバイジャンどころかトランス・コーカサスなんて地方がこの世に存在するなどとは今まで考えたことがなかった。たとえジークムント・フロイトの娘であるアンナ・フロイトが濃厚なレズビアンだったというような、どうでもいいようなことについて知ってはいても、そこに数百万人の人が暮らしていた町の名前なんかについては私は何にも知らないのだ。確かにエネルギー転換後、ユーラシア有数の産油国であったアゼルバイジャンは誰からも注目されないような土地になっていたし、エネルギー政策転換後のバクーは荒廃しスラムが出来て住民同士の小競り合いや殺し合いなんかしょっちゅう起こっていて、隣国であるアルメニアに戦争を仕掛けてナゴルノ・カラバフ自治州を奪い返そうなどと声高に主張する民族主義者が街頭で拍手を貰うような、そういう国になっていたと聞く。往時の繁栄ぶりを現すのはもはやカスピ海上で打ち捨てられた石油パイプラインだけだ。そこがゾロアスター教発祥の地であったとはいえ、もはやゾロアスター教の信徒なんて数えるほどしかいないのだから、何となく「アフラ・マズダー」なんて名称はおかしいと思う。
「それに何よ、『マズダ号』って」
「そうね」
「アゼルバイジャンがいかにゾロアスター教発祥の地だって言ってもね」
「神様の名前をあの化け猫につけるなんておかしな話」
「そ、そ、そ」
「抗議は来るかしら」
「来るわよ」
「断言かっこいい」
「『アンラ・マンユ号』なら大丈夫」
「悪い方の神様ね」
「そう」
「物理屋のくせに宗教?」
「それはそれ」
蓮子は残りの餃子にかぶりつき、口の中で咀嚼した。肉汁がこぼれて蓮子の唇をテラテラとなまめかしく輝かせた。私はその光景に目を奪われないように注意しながら、自分も餃子にかぶりついた。にんにくの匂いが濃く口の中に広がってゆく。食欲や性欲、知識欲、物欲、権力欲、すべてのあらゆる欲を刺激するような刺激的な香りだった。
半分ほどを口の中に入れたときに、蓮子の何かを期待するような目とかちあった。私は唇を紙ナプキンでぬぐいながら言った。
「境界ね? 」
「うん」
「ちゃんと見えるわ」
「見えると思ったわ」
「『マズダ号』の周りにビシビシ走ってる」
「そう、やっぱりね」
蓮子は二個目の餃子を咀嚼しながら、「なら私もひとつ発見」と口にした。
「『マズダ号』の周囲は時空が歪んでるわね」
「やっぱりね」
「36時間と42分19秒」
「ん?」
「36時間と42分19秒の時間の遅れ」
「半日以上前の世界ね」
「ネコの周りだけ時間が遅い」
「うん」
「不思議ね」
「うん」
私はあいつの夢を見たことはないけどなぁ。私はそう言おうとしてやめた。唇の端についた餃子の肉汁を舐め取っている蓮子は興味がなさそうな顔をしているし、後で聞き返されると面倒なのだ。蓮子は自分の夢になどきっと興味はない。私が例えば、あの化け猫の毛とかそういうものを夢の中から持ち出してきても決して目を輝かせはしないだろうという確信があった。その確信は頭の中に佇立しているような感じだった。後から作られたものではなく、私の中に発見されたような感じ。とどめに蓮子はおそらくこんなつまらない答え合わせをしたいとは考えていない。
蓮子は頭は悪くないけれどずば抜けた天才ではない。本人はプランク並に頭がいいと吹聴しているが、私に言わせれば蓮子の知性は結構凄いという程度で、しかもそれは能力でなくて技術の類だ。かなり後天的なものなのだ。だから蓮子は全長2300メートルのネコについて語る言葉なんか持っていない。想像を絶するものが現れると瞬間的に理解できなくなる。それがましてや、こんな古ぼけたラーメン屋の片隅で、など。そんな素敵な事件についての答え合わせをするのがこんな油染みたラーメン屋のお座敷なんて悲惨極まりない。女子大生は本能的に「お洒落じゃないもの」を避ける傾向にあることは周知の事実だから、私たちはこのラーメン屋であのネコについては話さない。
おばちゃんがラーメンのどんぶりを二つ、炒飯が入った皿をひとつ持ってお座敷に近寄ってきた。ラーメンが入ったどんぶりは湯気を立てていた。おばちゃんは節くれだった手でそのどんぶりをふたつ、私の目の前に置いた。私はチャーシューが大きいほうのどんぶりを蓮子の方に渡した。蓮子は割り箸の先のほうを少しだけ舌でねぶると麺がうねるラーメンの中に突き刺して、太い縮れ麺を箸で大量に持ち上げた。
「あれはこの世のものじゃない」
「そのとおり」
「意見が一致したわね」
「それだけね」
「神様かな?」
「何?」
「あのネコは神様なのかしら」
世界中のムスリムたちは、あのネコがアッラーの使徒だという憶測を事件発生の数時間後には否定する声明を発表した。彼らの感覚では最後の使徒はムハンマドだからあのネコを使徒だと認めることは絶対に出来ないらしい。確かにイスラム教最大の使徒でありイスラム教の開祖であるムハンマドは極度のネコ好きだったそうだが、いくらなんでも単なる人間の預言者に使徒を差し向けるほどの力はないだろうから、その声明はおそらく間違いではないだろうし、陰謀論者以外には人気が出そうにないネタだろう。しかし蓮子はそんなことはお構いなしに、そして大胆に、あのネコが使徒でないかと疑っているらしい。私は首を振った。
「蓮子らしくないわね」
「何を」
「そんな安易な飛躍は議論をダメにするわ」
「議論なんて」
「今回はやたらと投げやりなのね?」
「議論や分析なんか無駄よ」
「というと?」
「『マズダ号』は『マズダ号』で受け入れるしかないんだわ」
「それは同感ね」
いつもなら絶対に言わないような一言を吐き捨てるように言って、蓮子はズルズルとラーメンを啜った。確かに、あんな化け猫を完璧に表象できる言葉なんてこの世には存在しないだろう。それなら不可知のもの……例えば神とか使徒とか悪魔とか、そういうものを借りたほうが認識がしやすくなる。神学でいうところのアナロジー、つまり類比だ。「父なる神」とはそれ自体が類比の産物なのだ。神は父ではないが、父親のようなであると類比されて説明されると、厳しい、力強い、暴力的、粗暴などという父親の特徴のおかげで何となく理解しやすくなる。そういう思考実験がないと超越的な存在である神は人間には理解できない。
しかし、蓮子は「マズダ号」に対して類比を使わないと言った。そりゃそうだ。「マズダ号」はゴジラではないのだから。
私はラーメンを目の前にしてもあまり食欲が沸かなかった。食欲、という部分が別の何かで完全に満たされているというような、表現しがたい満足だけがある。それはネコのせいなのかもしれないと思ったけどそれは違うと私は思った。あの巨大ネコがアゼルバイジャンを滅茶苦茶にしたことで私の中で何かが満たされたとか、そんな感覚はない。私に苛虐趣味はないし、数百万の人間が死亡した事件を慶事として喜ぶほど悪趣味でもない。
「メリー」
「はい」
「あなたにタンザニアのプロテスタント牧師の話はしたかしら」
突然蓮子が話を切り替えた。私は首を振った。蓮子はラーメンを啜りながら言った。
「タンザニアの牧師についての話はしたことがなかったわよね? そう、それならいいの。タンザニアの牧師の話は私も映画で見たことがあるの。『ダーヴィンの悪夢』って映画ね。この映画は凄かったわ。普通の牧師だったら、まぁこの場合の普通っていうのはアメリカとかイギリスとかドイツとかあるいはラトヴィアでもいいわ、普通の牧師って言うのは聖書を片手にミサを行ったり、こう黒い服とか着てて、お葬式のときにやってきて父の御許へうんたらかんたらとか唱えるイメージがあるじゃない? こう、ひげもじゃで恰幅が良くて、丸い眼鏡をかけてて髭のせいでどこが唇でどこが鼻の下の溝なのかわからないような。でもタンザニアの牧師は黒い服なんか着てないのよ。普通にそこらのタンザニア人と同じでワイシャツとか着てるの。まぁこれはちょっと差別的な発言だけど、宗教ってもともと聖と俗って別れるもんじゃない。そこからまさしく神だとか真理だとかの道が生まれるわけだしワイシャツを来ててカソックを着てない聖職者なんて欧米じゃ絶対にありえないじゃない。でもタンザニアでは普通なのよ。それでお葬式のときにその牧師はマイク持ってきてね、こう棺の前で、聖書の文句をこうガーッとがなり立てるわけ。それにぞろぞろとプロテスタントが集まってきてその説教を聴くのよ。みんなそれが普通だと思ってるの。まるでバナナの叩き売りよね。でもタンザニアではそれが普通なのよ。要するに宗教ですらもう商売なのよ。バナナの叩き売りみたいなことをしてキリスト教を広めておかないと誰もキリスト教なんか信仰しなくなって生活していけなくなるから必死になって牧師はキリスト教の重要性を説くわけよ。そうやって葬儀の場におけるキリスト教の存在感を示してるわけね。もうイエスがこの世になんのために降りてきたのかなんてタンザニアではあんまり理解されてないと思う。あるいは忘れ去られたのかも。そう言えばタンザニアにはビクトリア湖っていう大きな湖があって、そこではナイルパーチっていう巨大魚が繁殖しててね。ナイルパーチは白身の魚で凄く美味しいからフライにしたりすると絶品なんだって。でも欧米諸国や日本がそのナイルパーチを不当に安い値段で買ってるとかでそれを加工したりしてるタンザニア人の暮らしは本当に最低以下なのよ。加工されたナイルパーチの骨は現地人に売り払われるんだけど、もうそれなんか完全に腐ってるの。腐った骨からは有害なメタンガスが発生しててそれを運んでるおばさんなんかメタンにやられて目が片方腐ってるのよ。それでもみんなナイルパーチの骨とか皮とかそういうのについた身を油で揚げて食べるの。そもそももうナイルパーチがいるから貧乏なのか、それともナイルパーチがなくなればもっと貧乏になるのかなんて誰にもわからないのよ。それと同じで神様がいたから聖書があるのか聖書があるから神様が創作されたのかなんて誰にもわかってないと思う。タンザニア人は正直よ、こんな時代だしね、もうそんなことをいちいち思い悩むのもばかばかしいことなのかも。ねぇわかるメリー? 聞いてる? わかる? 私の話。私はわかってほしい、こんなことが理解できるのはあなただけだと思う。ねぇメリー、聞いてる? おい、親友、相棒、恋人、仇、伴侶、女子大生、隙間妖怪、私の話聞いてる?」
唾を飛ばす勢いで息継ぎもそこそこに蓮子はしゃべり続ける。蓮子のこんな目は見たことがなかった。蓮子は自分の唇がラードの脂でテラテラと光っていることすら意識の外にしているらしく、目を剥いて喋っている。その大声におばちゃんがちょっと驚いたように私たちのテーブルを見た。私は無言でそれに耳を傾けながら、蓮子の顔をよく見た。よく見ると、目の下に隈ができていた。寝る間も惜しんでずっとこんなことを考えていたのかと思うと私の心は少し悲しくなった。
「ねぇ蓮子、ひとついいかしら」
「何?」
「それが『マズダ号』と何の関係があるの?」
「それを聞いてるのよ」
「ないと思う」
「やっぱり?」
「離れすぎてるわ」
「あぁは」
「あまり関連はないと思う」
ラーメンはすっかり伸びてしまっているだろう。餡でとろみがつけてある醤油ベースのスープを私はまだ味わっていない気がした。私は蓮華で一口スープを啜ってみた。旨い。ダシが織り成す上品な旨みが舌一杯に広がって脳髄を鮮烈に痺れさせた。なるほど、蓮子が頭を悩ませるのもわかる。これが化学調味料によって作り出すものなのだとしたら、世界中の有神論者は神仏の実在を否定しなければいけなくなるだろう。
「ねぇメリー」
「何?」
「ビール飲みたくならない?」
「はい?」
「ビールよ、ビール」
ビール、と言われて、そんな名前の調味料があっただろうかと私は一瞬、まじめに考えてしまった。蓮子は少しいらだったように周りを見渡して、あれあれと私の背後を指差した。そこにはタバコの煙と油と日光にすっかり脱色されたポスターがあって、砂浜で水着姿になってビールの大ジョッキを掲げている女の笑顔があった。露出した女の肌に欲情するところをみると男のレベルだけは何百年経っても進化していないらしいのだけれど、それにしたって水着の美女が砂浜でビールを飲む光景というのに欲情するとは、よく考えたらおかしな話だった。
「ビール? お酒の?」
「他に何があるのよ」
「ここで?」
「いいでしょ?」
「ここラーメン屋よ?」
「ビールぐらいあるわ」
「あなた徒歩で来たんでしょう?」
「悪い?」
「悪くないけど」
「けどって何?」
「悪くない」
「じゃあ頼みましょう」
蓮子はそう言うなり、カウンターに向かって、すみません、生二つ、と大声で言った。おばちゃんが舌打ちしたようだった。頬の筋肉がひきつったようになってヤニが染み付いて黄色くなった前歯が露出してこちらを苦々しげに見たので舌打ちしたのに絶対に間違いはないけれど、その音はここまで聞こえなかった。やがてジョッキになみなみと注がれたビールが二つ出てきた。蓮子はおばちゃんの手からジョッキを受け取るなり、テーブルに置くことなくグビグビと飲み干し始めた。
すさまじい飲み方だった。まるで蓮子の体の中に穴か何か開いて、その中にビールが吸い込まれていっているようだった。蓮子は息継ぎすることなくビールを半分ほど開けると、再び私のほうを見た。
蓮子は少しがっかりしているようだった。どことなく元気が無いし、何か悔しがっているようにもみえた。一体誰が何が蓮子を失望させたのかはわからなかったけれど、きっと蓮子自身、それが何に対しての苛立ちとか失望なのかよくわかっていないらしかった。それが証拠に俯き気味になった蓮子の唇に左手の拳が押し当てられている。それは蓮子が悩んでいるときの癖だった。
私は一口ラーメンを啜ってみた。麺は延びかけているがとろみがついているおかげか、予想より麺のコシが保たれている。私は無言でラーメンを啜り、半分ほどにまで減らしたところでやっとビールに口をつけた。その間、蓮子は私がラーメンを啜るのをずっと凝視していた。いや監視と言っていいかもしれない。とにかく蓮子は必死になって私がラーメンを啜るのを見ていた。
「メリー、何か言いたいことがある?」
「いや、特に」
「じゃあ、私からまた質問していい?」
「いいわよ」
私が頷いたので蓮子はラーメンを啜っていた手を止めた。
「ねぇ、あのネコはどうして日本に現れなかったと思う?」
意外な質問、ではないだろう。私は当然そういった質問が蓮子の口から飛び出してくることを予想していたし期待してもいた。事実、蓮子の帽子の下の目は質問じゃなくて答えあわせをする目つきになっていた。けれど私は少し考え、「偶然」と一言だけの返事を返した。
蓮子は少しがっかりしたように目を伏せ、左手に持っていたレンゲをラーメンの器の端に引っ掛けてため息をついた。
てっきり、蓮子は再び何かを問いかけてくるのかと思ったけれど、蓮子はもう何も言わず、代わりにラーメンをズルズルと啜り始めた。私は何となく釈然としないものを感じつつ、ラーメンを啜り、ギョーザを食べ、あらかたすべての料理を平らげた。
食べ終わってぽっこりと膨らんだおなかをさすっていると、蓮子が言った。
「出ましょうか」
私は素直に頷いた。会計は蓮子が全額払った。だいたい蓮子が牛丼屋で一日働いた分ぐらいのお金が私たちの胃袋に収まった。おばちゃんは言葉少なにレジを叩き、対して感謝してもいなさそうな声で、ありがとうございました、とぶっきらぼうに言った。私が頷いて赤い暖簾をくぐって外に出たところで、蓮子が悔しそうに言った。
「今回もまたわからなかったわ」
一瞬、何のことを言われているか思い当たらなかった私は、視線で蓮子に問うた。蓮子は私をジロリと見てから、完全に据わった目で私を見た。
「味の素じゃないと思う、隠し味」
私は苦笑した。苦笑すると、冬が近づきかけてきた空に吐息が白く濁った。
もう二時を回っている。ラーメンをしこたま詰め込んだおかげでアルコールの回りは遅かったけれど、蓮子は私とガッチリ腕を組みながら、目をぐるんぐるんとせわしなく回転させながら、ずっと「マズダ号」について語っていた。ときどき、蓮子はシャキーンとかズドドンとかいう効果音を口で奏でながらマズダ号がバクーの街を壊滅させる様を再現していた。死のネコパンチが空を切る、にゃあぁぁと恐ろしげな咆哮が大気を震わせる、肉球が街を押し潰す、そんな様まで事細かに蓮子は再現していた。目が血走っていて少し怖かった。きっと何度も何度もニュースや特集番組の動画を見て学んだのだろう。「マズダ号」について語りまくる蓮子の挙動にはいちいち迷いがなかった。まるで精密機械のように蓮子は「マズダ」号の挙動を再現していた。
道行くサラリーマンたちは蓮子を見るけど、すぐ自分たちの同類だと気づいて、恥じているような照れているような表情で鼻の頭なんかを掻く。私はこんなあられもない様の蓮子をサラリーマン達に見せるのがイヤで、自然に人通りの少ない路地裏の方へと蓮子を引っ張っていった。
その間も蓮子はずっと喋り続けていた。私に腕を引っ張られながら、千鳥足で、据わった目で、ときどき路地の植え込みに嘔吐している若いサラリーマンの腰の辺りを執拗ににらみつけながら、それでも呂律だけは奇妙にしっかり回っていた。
「ねぇメリー知ってるかしら? メリーは『ターミネーター』って映画見たことがあるかしら。最近リメイクされたそうね。これで3度目のリメイクらしいけれどきちんと映ってるのかしら、きっとVFXのおかげで映像はきれいになってるけれど、私が言いたいのは初代の『ターミネーター』の話なの。その映画を取った監督はまぁ言わずと知れた大監督なんだけど、最初その監督が撮った映画って言うのが傑作なのよ。もう冗談みたいな邦題でね、ええとなんていう名前だっけな。そうそう思い出した。いい? 笑わないでいられるかしら? 喋ってみてもいい? 心構えは出来た? 『殺人魚キラーフィッシュ』っていうのよ。あ違う『殺人魚フライングキラー』ねもうこの邦題をつけた人は炎熱地獄でこの世の終わりまで罰を受けかねないような酷い邦題よね。でも実際にそのものズバリの邦題なのよ。殺人魚が沢山やってきて砂浜にいる人々を食い散らかす映画なの。見たことないけど。もうこれが周囲の無理解でね、本当に駄作なのよ。その監督って言うのは自分の思っていたものが出来なくて凄く悩んだらしいわ。でもちょっと聞いてみたい気もするのよ。殺人魚が沢山やってきて砂浜にいる人々を食い散らかすような映画をどうやってこれ以上展開するつもりだったのかって。でも天才なんでしょうね、納得できないものを世に出してしまったことが凄く悔しくて、熱を出して倒れちゃったらしいの。そうしたら夢の中でね、炎の中から機械人形が出てきて自分を殺そうと追い掛けてくる夢を見たんだって。その自分を追いかけてくる機械人形って言うのが怖くてゴツくて強そうで物凄く気持ち悪かったから印象に残ったんでしょう、目覚めてみてもその機械人形の姿が目に焼きついて離れなかったらしいのよ。それが『ターミネーター』の元ネタになってるのよ。ところで『ターミネーター』って映画の内容は知ってるかしら? 未来から来たサイボーグのターミネーターが、将来機械と人類の生存を賭けた最終戦争で人類側のリーダーになる予定のジョン・コナーの母親を殺しに来るのよ。母親はサラって言うんだけど、もう本当に学もないしモラルもないし日本人からしてみれば主演のリンダ・ハミルトンはバタ臭すぎてあんまり美人にも見えないの。でもこれが大ヒットしちゃって、その続編の『ターミネーター2』だと今度はターミネーターが人類解放軍のリーダーになる予定のジョン・コナーを守るように送られてくるの。1はともかくこの2の出来はもう絶品よね。なんでこんな面白い映画作れるのかって言うぐらい。印象的なのはね、ほとんど冒頭に近いシーンでサラ・コナーが近々起こる核戦争の被害について泣きながら語るシーンなのよ。ヘリコプターが墜落したり液体窒素でT-1000が凍ったりしていろいろ見所はあるけどほとんどオマケなのよ。サラ・コナーはあんまりそういうことを言い過ぎるせいで精神病院に入院させられてるんだけど実は皆本当でただ未来を知ってるだけなのよ。核で人間の体がどういう風になるかとか物凄く詳細に語るのよ。でも誰も信じないわけ、こいつ頭がおかしいってしか言わないわけ、理不尽よね、凄く理不尽。ところでメリーは『ターミネーター2』を見たことがあるかしら?」
私は首を振った。だいたい何年前のリメイクなんだろう。もう半世紀近く前の話じゃないか。骨董品のようなDVDで50年も前に撮影された映画を見るというのもなかなか心引かれる話だったけれど、私には懐古趣味はない。
蓮子が私を見た。
「ねぇメリー」
「はい」
「あのネコはサラ・コナーなのかしら」
「というと?」
「破滅を教えるためにやってきた?」
「それは違うわ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「あのネコが破滅そのものだったから」
「うん」
「あのネコが破滅を教えに来るとは考えにくい」
蓮子はあまりがっかりしなかった。その代わり、今度はアイムティーバックとか呟きながら私の尻に手を伸ばしてパンツを思い切り上に引き上げた。久しぶりに人の頭を本気で叩いた。パーンと存外いい音がした。あまりにもいい音だったので私はそのまま蓮子の頭を両手でパカパカ叩きながら『Killer Queen』を口ずさんだ。ハードゲイだったフレディ・マーキュリーが彼女はキラークイーンだと四回目に歌ったところで蓮子がうううと唸って涙目になった。どうも本気で痛かったらしい。おお泣くな泣くな蓮子ちゃんよぉーしよしよしよしと私が頭をなでてやると蓮子の機嫌は直って私と肩を組んでキラークイーンを大声で歌いだした。幸せだった。一杯数百円のビールジョッキでこれほど幸せになれるのはきっと悪いことではない。
暗い路地をそのまま歩いていると、遠くにぼんやりとローソンの青い光が見えて私たちのテンションが有頂天に達した。お互いにお互いをどつき合い、アヒャヒャヒャと笑ってローソンの看板を指差した。こんな小便と吐しゃ物の匂いが染み付いたような路地裏にも人々の営みの光がある、資本主義の光がある、ソ連崩壊後から片時も休むことなく続けられた剰余価値搾取の現場がある、なおかつちょっとナショナリズムの気配もある。私たちはそういう偶然に感謝した。こんなつまらないところにまで人間の力が及んでいるというのは気持ちがいいものだ。
キャプテンムラサ代行改めキャプテンメリー、ようそろコンビニに上陸せよと蓮子が言ったので私はアイアイサーと敬礼を返してコンビニにわたわたと走っていった。コンビニに入ると店の置くからいらっしゃいませぇと声がして、ニキビと疲労と眠気で3世紀分は老け込んでしまったような若い店員が出てきて私たちを見た。広い店内には私たち以外お客はいなくて立ち読みのし放題だった。私はとりあえず雑誌コーナーの前に立ってみたけれど、目がチカチカするだけで興味を引くような雑誌は特になかった。仕方なく三ヶ月置きぐらいに読んでいるファッション雑誌に手を伸ばそうとすると蓮子が私の袖を引いた。私が蓮子を見ると、蓮子はエッチエッチエッチエッチと四回も呟いて青年向け雑誌コーナーを指差した。奇乳とつゆだくの女が乱舞がそこにあった。もし東方シリーズが商業誌OKだったら私たちも間違いなくそのつゆだくの中にいたに違いない。そう思った私が断固として首を振ると、蓮子は一瞬がっかりしたような表情になったけれど、すぐに私の耳に口を寄せてねぇメリーあなたはおととしの12月22日を忘れちゃったのかしら、と囁くように言った。顔から火が出るかと思った。おととしの12月22日。その日が私たちにとって何の日だったのかは私たちだけの秘密だ。
蓮子は雑誌コーナーをスルーしてレジの前に並び、あぁおでんが食いてぇと一人ごちておでんを掬い始めた。容器にがんもどきとハンペンと昆布と牛筋と卵とダイコンと白滝とコンニャクとさつま揚げを掬い取ったところで蓮子はたっぷりと汁を注ぎ、店員に差し出した。3世紀分老けた店員は菜ばしでのろのろと中身を確認して金額を告げた。二千円しなかった。蓮子は自分の財布の中から牛丼屋でバイトして稼いだお金を出した。蓮子がバイトしているのは駅前の吉楽屋というあぁなんともなぁというような名前の牛問屋だ。バイトを始めてもう二年になる。そう言えば蓮子はその牛丼屋で大学生ながら持ち前のガッツと魅力と美しさと声のデカさと理系的知識によって数ヶ月でその店の従業員のボスに登りつめていたので、私がその店に行くと必ず牛丼を半額にしてくれる。店を経営するジャスターホールディングスという親会社にはバレているのかもしれないけれど、あるいはバレていいないのかもしれない。
私たちはおでんのカップ片手に店を出た。おでんを食べるのに適当な場所を探していると、近くに公園があった。私たちはベンチの周りに乳繰り合っているゲイカップルがいないことを確認して小走りにベンチに駆け寄った。
並んで座り、おでんのカップの蓋を開けると猛烈においしそうな匂いが鼻を容赦なく刺激した。どこをとっても完膚なきまでに旨そうなおでんに、腹がブォンブォンギュルルルルとF1のような音を立てた。さっきラーメンを食べたばかりだというのに節操なしの腹だ。女子大生にとってカロリーばかりを常に欲している胃袋は全内臓の中で最大の敵だ。でも生物的な欲求を盾に繰り出される攻撃は抗いがたい。
私がおでんをガン見すると、蓮子はその視線を察してか、憐れむような視線と共に快く白滝を私にくれた。ほどよく煮しめられて白滝は例えようもなく旨かった。そして鼻水が出た。だはは、と私が笑って洟をすすると蓮子も洟をすすった。汚い話だけど、鼻水の塩味が白滝と一緒になっておいしかった。
玉子を食べながら蓮子が言った。
「ねぇメリー、メリーは『ファイト・クラブ』って映画見たことあるかしら? 見たことないでしょう? そうよね、私たちが生まれたときにはもうブラッド・ピッドはおじいちゃんだったものね、でもこの映画だけは強力にオススメするわ、だって面白いもの、ブルーレイディスクの汚い画像でしか出てないけどインターネットで探してくればきっと見つかるからいつか必ず見て、この話はね、この話こそ今の私たちに必要なのよ、この話は不眠症に悩む主人公がブラッド・ピッド演じるタイラー・ダーデンという男と出会って、近代社会の中でいつの間にか失われた男としてのマッチョイズムを取り戻そうとする話なの、当時世界一の都市だったニューヨークは病んだ大都会って呼ばれてて男はみんなフニャチンになってて眠ることすら満足に出来なくなってたんだけど主人公はタイラー・ダーデンに出会ってファイト・クラブというのを作るのよ、このファイト・クラブっていうのは主人公と同じような悩みを抱える男たちが集まってただただ殴りあうってだけのサークルなのね、ねぇメリーおねがいだからタイラーのことを野蛮人だとか言わないでちょうだい、彼は本当に素敵な人なのよ、もちろんあなたの方が何倍も素敵だけど彼は私の中のひとつの憧れなのよ、彼は事実多くの悩める男たちを救ったわ、病んだ都会ニューヨークでは男はみんなドラッグと仕事上のノルマと末期ガンとエイズとで虚勢牛みたいになったヤツばっかりだったのよ、でもそれで大半の男たちはタイラーと出会って自分が抱えてる悩みなんて取るに足らないって思うようになるの、不思議よね、タイラー・ダーデンは世界中に石鹸を売り歩いているんだけれどこの男がもうカリスマ溢れまクリスティーなのよ、だってそうでしょ? 彼は石鹸とオレンジジュースだけでナパーム弾が出来るって豪語しちゃうような男なのよ、カッコイイでしょ、普通私たちは石鹸とオレンジジュースを結びつけて考えることすらない、ましてやそれが武器になるだなんて私たちは試みすらしない、でも彼はそういうことが出来る人だったのよ、私が女だったら間違いなく一目ぼれしてるわね、だってそうじゃない、あなたがもしねぇ蓮子今まで言ってなかったんだけど私モノの境界が見えるの、なんて言ってくれなかったら絶対に秘封倶楽部なんか結成しなかったわ、私はそういう人に憧れちゃうのかも。話を戻すわね、主人公がタイラー・ダーデンを表現した台詞の中で中で一番好きなのは『君は一回分の友達の中では最高の男だ』っていう台詞なのよ、主人公はものすごく忙しく働いてるから何でも一回分に小分けされたものしか使ったことがなかったのよ、一回分の歯磨き粉、一回分の食事、一回分の薬、一回分の希望、一回分の友達、でも彼とタイラー・ダーデンは違ったのよ、彼は一回分の友達ではなかった、彼は一生の友達になろうとした、そういう風に自分の世界の外にあるものを求めようとする意識ってなんていうか知ってる? マッチョイズムよ、マッチョな男は自分の世界に飛び込んでこないものも掴み取ることが出来るのよ、それこそが男っていう生物のズルいところよね、女は突っ込まれるだけだもんね、ねぇメリー、私が言っていることがわかるかしら? あのネコの話よ、さぁ答え合わせだわ」
蓮子の目は真剣だった。オレンジジュースと石鹸でナパーム弾を製作できると豪語するマッチョイズムの権化。それはどう考えても私の頭脳には収まりきらない話に思えた。端的に言うと、私は理解を諦めてしまった。後で『ファイト・クラブ』を見ても、私にはきっとタイラー・ダーデンの魅力はわからないだろう。
そんなことを考えていると、蓮子の唇の端に玉子の黄身がついているのが見えた。私は思わず蓮子の唇に手を近づけてそれを拭い取った。クッ、と蓮子が抗議するような声を出した。その瞳はお預けを喰らった子犬のように私を見ていた。その目は酒に酔っているせいなのか少し潤んでいる。私はそれがちょっと可愛く思えてきて、蓮子のほっぺをぐにっと摘んだ。蓮子はううう、と唸った。痛いわけではないだろう。私は調子に乗って蓮子のほっぺを引っ張った。よく伸びた。蓮子はうううー、と涙目で私を睨み付けて唸っている。特に怒っているようにも見えなかったので、私は蓮子のほっぺを両手で引っ張った。
「ううううう」
蓮子は相変わらず唸っている。私がもう少しだけ力を込めようとすると、蓮子は信じられないぐらい強い力でそれを振り払い、きっと音がするぐらいに私を見た。驚いた私は蓮子蓮子と名前を呼んだのだけれど、蓮子が私を見る目に失望したような色が浮かんだ。私はどきりとして、今度は私がうううと唸った。それが反省のつもりだったけれど、蓮子は私を睨みつけたままニコリともしなかった。いかん、こりゃ少しおちょくりすぎたか。私が少しフランクな感じでゴメンゴメンと謝っても蓮子は無表情で私をキッと見詰めたままだった。私はゴメンゴメンゴメンゴメンと四回も言って頭を下げてみた。その途端、ザッと音がして、隣から蓮子の気配が消えた。
蓮子は立ち上がっていた。それどころか、私を振り返ることすらなく、公園の砂をゴム底のスニーカーでザッザッと蹴立てて、公園の水銀灯の明かりが届かない方へと歩いてゆく。あらら、拗ねられた。私は本気で少し焦った。蓮子は滅多に拗ねないし巷の他の女と違って拗ねたフリで他人の気を引こうなどという愚かな試みもしない。となると、蓮子がこういう態度を取るということは本当に拗ねたときだけなのだ。
私は慌てて蓮子を追いかけた。私が走ると蓮子もその分だけ走った。私が歩くと蓮子も走るのをやめて歩いた。
まるで追いかけっこだった。本気で逃げる気もないし、本気で捕まえる気もない。それは遊びの一種だ。
蓮子はふらつき始める足をどうにか叱咤しながら裏道のほうへ裏道のほうへと歩いてゆく。私は私でそれをじりじりと追い詰め、どこかへとついて行く。
十分も歩いた時だっただろうか。
蓮子の足が止まった。
「蓮子?」
蓮子を見ると、蓮子はもうフラフラせず、奇妙なほどにすっくと立ち上がっていた。まるで戦友の墓の前に立つ退役軍人のように、蓮子は目の前に打ち捨てられた自転車を凝視していた。
サビが浮く程度の期間は放置されていたらしい自転車は、橋げたに立てかけるようにしてあった。タイヤはパンクしている。サドルは何か鋭利なもので切りつけられてスポンジが飛び出てスプリングが飛び出してそれもまた錆びている。
蓮子は自転車に近寄ってしゃがみこみ、そしてブレーキのあたりを素手で検め始めた。
「ちょっと、蓮子? 」
「おぅ」
「何してるのよ?」
私がその肩に手を置こうとすると、蓮子が「メリー」と重く、低く言った。
「ねぇメリー」
「何?」
「なんであの化け猫は日本に現れなかったのかしら?」
「ただの偶然だってさっき」
「だから、その偶然が」
「あ」
「どうして日本で起こらなかったって話よ」
まるで怒っているような口調で蓮子が言って、思わず私は肩に伸ばしかけた手を硬直させた。蓮子は泥だらけになった自転車のチェーンを素手で掴み、ギアに付け直そうとしているらしかった。ギッ、ギッ……と奇妙な音を立てて自転車のチェーンが軋む。蓮子の白い指が泥と変色したグリースによって真っ黒になってゆく。
「ね、ねぇ、蓮子?」
「あによ?」
「何をしてるの?」
「アゼルバイジャンに行く」
蓮子は決然と、そう言い放った。アゼルバイジャン? それは自転車でいけるような場所だったっけ? この辺りにコーカサス地方のエスニック料理を出してくれる「アゼルバイジャン」なる店はないと思ったし、大使館が軒を連ねているのはここから反対方向の街中だった。ならばアゼルバイジャンとは国の名前か。
「あの、蓮子?」
「おう」
「それってコーカサスにあるアゼルバイジャンのこと?」
「それ以外どこがあるの?」
「今から自転車で行くの?」
「行く」
「大学はどうするのよ」
「一週間で戻ってくる。その間は代返お願い」
八十日間世界一周、そんなフレーズを思い出した。八十日で世界が一週できるなら、なるほどアゼルバイジャンまで自転車で往復したとしても一週間ぐらいで帰ってこれる……はずが、ない。第一全然陸が繋がってない。
きっと酔っているんだ。私はそう思った。蓮子はさっき飲んだビールの大ジョッキのせいで冷静な判断力を失っているのだ。おととしの夏に私が蓮子に襲われていろいろな初めて奪われたときも蓮子は理性と判断力を失って野獣と化していた。蓮子は思い込んだらとことん突っ走る。突っ走った先に何があるかなんて一顧だにしない。となれば、必死に止めてあげるのが親友でもあり恋人でもあり家族でもある私の務めだろう。
「あのね、蓮子。あなた酔ってるのよ」
マヌケな台詞だった。まるでアメリカの海外ドラマのような文句だと思った。マヌケさに拍車をかけるように、橋の上から雫が垂れて私の足元に落ちてアスファルトを汚した。ピチョ、マヌケな音だった。
「ねぇ蓮子、あなた酔っててきっと判断力とか理性とかそういうものが狂ってしまっているのよ。そうなんだわ、ね、蓮子? この先にファミレスがあるからそこで休みましょう? 全国にチェーン展開しててやたら量の多いハンバーグしかウリがないような店だけどソファーは柔らかいと思うの。きっと中国人とかがひどく安い賃金で仕立て上げたんだろうソファーだけどいいでしょう? ペルシャ絨毯を作ってる子供たちはペルシャ絨毯を作ってるときに飛ぶこまかな布埃のせいで珪肺になるっていうし、中国人のソファの方がそれよりは幾分か人道的よ。それにソファーの柔らかさは賃金に比例しないわ。ね? そうしましょう、蓮子?」
蓮子は無言だった。いやたぶんこれは無視されている。それどころか、なかなかかみ合わないチェーンとギアに業を煮やしだしたらしい蓮子は、自転車のタイヤのスポークに爪先をつっこんで踏ん張り、全身の力を込めてチェーンを引っ張り出した。蓮子の手はもう真っ黒だった。私はそれ以上、蓮子の白い手が汚れるのがイヤで、思わず大声を出した。
「蓮子、蓮子ってば。何怒ってるのよ」
蓮子は無言だった。チェーンはやめてくださいやめてくださいと懇願するようにギシギシと音を立てる。ギアは錆び付いている。蓮子はチェーンをギアにかけなおそうと躍起になっている。その表情はうかがい知れない。まるで闇が貼り付いているかのように、真っ黒で、近くにあるコンビニの明かりすらその横顔を照らし出せていない。一切の干渉を拒絶しているような蓮子が、急に恐ろしくなった。
「……蓮子! いい加減にして!!」
私はついに我慢できなくなって、蓮子の肩に手を置いて引っ張った。蓮子は一度だけ私の手を振り払おうとしたけど、私はその手に構わず蓮子を振り向かせて両肩を掴んだ。
そして、驚愕した。
蓮子は泣いていた。
まるで涙腺だけぶっ壊れたみたいに、無表情なのに、その白い皮膚の上を涙の珠が伝っていた。
「れん、こ……?」
私がびっくりして、その次に呆然として、最後に狼狽した、そのときだった。
「こんばんわ」という声が聞こえて、私だけが声をしたほうを振り向いた。
「あの、君たち、警察のものなんだけど」
警官というのはどうしてこうもタイミング悪く出現するものなのだろう。まだ若い、小太りで眼鏡でいかにも人のよさそうなところ以外にこれと言って取り柄のなさそうな警官は何だか奇妙に引きつったような笑顔でこちらに近づいてきた。私が「あ、はい……」とよくわからない返事を返すと、警官がさらに頬を引きつらせた。
「あのさ、僕さっきから見てたんだけど、君たちこんな時間に何やってるの?」
見られてた。私はうろたえて、とりあえず上手く誤魔化す言葉を捜した。けれど上手い言葉が思いつかなかった。その間にも警官はこちらにゆっくりにじり寄ってくる。蓮子は相変わらず人形のような目で泣き続けている。
「あのさ、占有離脱物横領って知ってるかな? たとえゴミでもそれは勝手に持っていっちゃいけないの。わかる? あ、その自転車はダメだなきっと。チェーンが錆びて固まってるからギアには噛まないよ。第一そんなもの持っていっても乗れないと思うな。タイヤがパンクしてるしきっとブレーキだって利かないよ。そんなもので歩道を走っても止まれないしライトもつかないしで危ないよ」
警官は流暢に、蓮子が躍起になって直そうとした自転車がいかにポンコツであるかを並べ立てた。警官に対して例えば社会主義的アナーキズム的同義的反感なんて何にも持ってはいないけれど、その言葉のマシンガンにだけは腹が立った。蓮子が何を考えていようが、それは蓮子だけのものだ。この世には他人がしている努力を平然と否定してしまうようことを口に出来る才能を持った人間がいる。しかも大部分はそれに気がついていないし、とどめにこの世の50パーセントぐらいはそんな奴ばかりで構成されている。
私は近づいてきた警官に愛想笑いをした。
「す、すみません」
「こっちこそゴメンね、突然声をかけて。ビックリしちゃったでしょ?」
「ちょっと酔ってるみたいで」
「大学生でしょ? そういうこともあるよ」
「すぐに帰りますから」
「そうなの? ま、そうだろうね、見たところ高校生じゃないようだし――それで君たち、どこの学生?」
「警官にさよならを言う方法はまだ発見されていない」というセリフを思い出した。私はとっととこの場を離れたかったけど、警官は微妙に私たちの退路を断つように動いている。私が目線で警官の傍を通り過ぎる経路を探すたび、警官が視界の中に入り込んでくる。こういうところに自然に長けるようになるのが警官の悲しいところなのだろう。
「君たちさぁ、こんな時間にこんなところ歩いてて危ないよ? まだ夏休みなんでしょ? それだとほら、なんだっけな、不順異性交遊、それだ。そういうことをする子どもって増えるもんなの。だから今の季節はそういうのに厳しい警察官もいるわけね」
そういうお前はどっちなんだ? 不順異性交遊に厳しいのか寛容なのか、それと私たちと一体何の関係があるのか。私がムッとすると、逆に警官は喜んだらしかった。警官はきょろきょろと辺りを見回し、何かを見計らったように今度は蓮子の前に割り込んできた。
「君、大丈夫? さっきからずっと自転車を弄ってたみたいだったけど。大学にも競輪サークルとかってあるの?」
おそらく冗談のつもりだったのだろうけど、蓮子は無言だった。無言で、警官の顔をじっと見つめている。涙はもう乾いている。無反応の蓮子に、警官はちょっと困ったように聞いた。
「あのさ、一応こういうことはやりたくないんだけど、連絡先を教えてくれるかな。この自転車は見たところ相当長い間放置されてたみたいだし、まさか持っていこうとしたわけでもないでしょ? それはわかるんだけど、ほら、一応ね、これもお仕事だから」
蓮子は無言で、男の顔を見ている。その目線はやっぱり警官の顔ではなく、そこにある細胞壁とか絶えず分裂を繰り返しているミトコンドリアか何かをじっと観察しているようだった。コイツは一体何者なんだろう? そういう不可思議さだけを感じ続けている瞳がコンビニの光をぬめぬめと反射していた。
警官はまいったな、という表情になって、尻ポケットに手を伸ばして手帳を取り出し、ペン先をノートに押し付けた。
「ね? 親にも学校にも連絡しないし、一応だって。俺だってお仕事だから本当はやりたくないんだよ。点数稼ぎでもないし君たちを補導するつもりもない。頼むよ、早く帰りたいでしょ?」
突然、蓮子が動いた。
蓮子は警官に向けてバッと右手をかざし、一瞬たじろいだ警官と私に向かって、物凄い声で言った。
「マスタァァァァァァァァァァァァァァァスパァァァァァァァァァァァァァァァァァク!!!!!!!!!」
その大声は橋げたに乱反射し、夜のしじまを引き裂いて、ここら一体にある空間中に響き渡った。
警官が思わず手帳を取り落とした。私は呆然と蓮子の顔を見た。
結論から言うと、マスタースパークは出なかった。
一瞬、間があって、蓮子は再び泣き出した。
涙腺だけぶっ壊れたように、さらさらと涙が流れた。
「……出ないや」
警官がぎょっとした瞬間だった。蓮子は一歩、ツカッと右足を蹴りだして警官との間合いをつめると、右掌を思い切り警官の喉首の下に叩き込んだ。
まるで精密機械だった。蓮子の右掌はそうすることが決まっていたかのように、正確に警官の喉仏を押し潰した。グエッ、という声とともに警官がたたらを踏んだ。思わず左足を後ろに出して倒れるのを防ごうとした警官は、次の瞬間その真後ろにあった自転車に足をとられていた。
そのままバランスが崩れ、警官が自転車ごともんどりうって倒れる。ガシャン、という自転車が倒れる音に、ゴツッ、という鈍い音が混じった。警官の眼鏡が吹き飛んだ。私がびくっと身をすくませると、警官は驚いた表情のままに固まり、蓮子を呆然と見上げた。私が慌てて引き起こそうとすると、蓮子が地面を蹴って私の手をとった。
「ほら、行くわよ」
ええ? と当惑した私に構わず、蓮子は凄い勢いで私の手を引っ張って駆け出した。二、三歩つんのめるようにして、わけがわからないままに私も駆け出した。蓮子は迷いなく夜の裏通りを駆け抜ける。
速い、あらかじめ逃走経路を練っていたのかもしれない。
速い、心拍数が上がって胸の内側を心臓が叩く。
速い、息が上がる。このまま風になれそうだ。
速い、このまま、アゼルバイジャンまでかけていけるかもしれない。
速い、それはまるで、ネコが獲物を追うときのような速さで――。
ううう、という唸り声が風に混じって聞こえた。それと同時に、ぴちゃ、という感じで頬に雫が降ってきた。
蓮子は泣いていた。泣きながら走っていた。
あの後、延々と十分以上走り続けて、駅近くの廃ビルまで来た。建設途中に打ち捨てられたらしく、内装は打ちっぱなしのコンクリートだけで、そこに汚いビニールシートが束になって捨てられていた。ところどころのコンクリートに水滴が落ちて染みになって、水溜りには何か名前のわからない羽虫の死骸がごっそりとたまっていた。
蓮子は私を汚いビニールシートの上に押し倒し、何とか呼吸を整えようとしている私の首っ玉にすがり付いて、ううう、とまた唸った。
悔しい。そんな声が聞こえた。悔しいわ、また聞こえた。どこかに喰らいつかれた。ぬるりとした感触がそこら中を這い回り、そのたびにそこが熱くなった。
「ねぇメリー、メリーは『ショーシャンクの空に』っていう映画、見たことがある?」
ぬめぬめぬめぬめ。言葉の合間にどこかしらを啄ばまれ、その度に力が抜ける。無言の私に否の意を汲み取ったのか、蓮子は勝手に話し始めた。
「メリー、メリーお願いだから嘘だけはつかないでちょうだい。あなたに嘘をつかれるのだけはイヤなのよ。嘘をつくぐらいなら私をちゃんと拒絶して。いい? あなたは『ショーシャンクの空に』っていう映画を見たことがあるかしら? ないわよね、あるわけない。ないから答えなかったんでしょう? いいわ。このお話はね、無実の罪でアンディっていう銀行員が無実の罪で投獄されるところから始まるの。アンディは転落してもう絶望の最中にあるはずなのに全然希望を失わないばかりかどんどん自分の手で道を切り開いていって結局脱獄しちゃうの。採鉱ハンマーで壁を彫り続けて嵐の夜に脱獄するのよ。頭がいいって救いよね。でも私は脱獄しちゃったアンディにも最終的に脱獄することになるレッドにも全然興味はなくてただひとりブルックス・ヘイトレンって囚人に興味があるの。彼は大昔に投獄されてやっと出所できたんだけど現実社会にちっとも馴染めなくて最後に自殺しちゃうの。出所後に宛がわれたアパートの一室の梁にロープを結びつけてそこで首を吊るのよ、そのときに彼が梁に彫った文字がね、『BROOKS WAS HERE』って彫るのよ。ブルックスここにあり、塀の外の世界で彼はそれぐらいしか自分の存在証明を残せなかったのよ。
私は悔しいわ。なんで彼が死ぬのよ、理不尽じゃない、罪なんか許されない、許されたこともない、でも私は罪なんて一度も考えたことがない、私は神様を信じてないし第一この世界で自分の罪について考えるなんて格好悪くて絶対にやりたくない、私が悔しかったのはそういう俗っぽいことじゃないのよ、なんで世の中ってこんなに理不尽かってことなのよ。ブルックスは塀の中ですでに老いていた、昔悪いことをした人には見えなかった、だから自分の罪を償おうとして必死にお勤めを果たしたのにいざ外の世界に出れば彼は車すら見たことがなかったのよ、理不尽だわ。世の中に彼より悪い罪を犯した人なんて沢山いる、けれどなんで彼は受け入れられなかったのかしら、それとも受け入れられない自分を受け入れるってことが重要なのかしら、私はそうじゃないと思うの、それは彼の運命だったのよ、彼は罪を犯したから現実に受け入れられなかったんじゃない、彼は罪を犯さなくても絶対に世界に受け入れてもらえなかった、でも違う、私が言いたいのは受け入れられない自分をどう理解するかっていう村上春樹みたいな哲学じゃないのよ、違うのよ、そういう運命がブルックスに宛がわれたこと自体が理不尽だって言いたいのよ。
彼はどんなに努力しようと絶対に受け入れられない運命から逃れられなかったように、私にだってそういう運命があるのよ、私は悔しいのよ、あなたも見たでしょう? あのアゼルバイジャンに出たネコ。2300メートルもあるネコよ、あなたはあれをどう理解した? 私は単純に悔しかったわ。ねぇメリー、私たちは秘封倶楽部よね? 不思議を求めるサークルよね? あなたと一緒にいろんなところに行ったわ、蓮台野にも行った、博麗神社にも行った、あなたなんか夢の世界にまで行った、不思議と出会えそうな場所には世界中どこだって行くつもりだった。でも私たちは結局今まで完全な不思議に出会えたことがない、物理法則やら質量保存の法則やらを意図も簡単に捻じ曲げる怪奇に出会ったことがない、やっと世界に出現したあのネコにも遭えなかった。あのネコは日本の京都じゃなくてアゼルバイジャンのバクーなんていう忘れ去られた土地に出現したのよ。
私がオカルトを求めるのはね、こんな物理法則に縛られまくってる世界が大っ嫌いだからなのよ、光より速い物質がなぜ存在しないのか? なぜ質量は保存ざれねばならないか? 私は物理を学ぶたびにいちいちそんな決まりごとに文句をつけまくってたのよ。おかしいでしょう? でも本当なのよ。なんで? どうして? どうしてそう決まっていなければならないの? 絶対に答えなんか出っこないわよね、カラスはどうして白じゃないの? って言うようなもんだもん、でもちょうどそんな感覚なのよ、私は星や月を見れば時間や現在座標がわかるから私は物理法則に納得したことなんてなかったのよ、物理法則で私の力に説明がつく? つかないわよね? だから私は物理を疑い続けた、私の力が説明できる隠された世界がきっとあるんだとずっと思ってた、その世界と出会える日を楽しみにしてた、いつまで経ってもその世界にいけなかったから近づこうとしたのよ、私はね、あのネコに遭えなかったのが悔しい、あの理解不能な世界に接触できなかったことが悔しい、あの化け猫が私たちの絵の前に出現しなかったのは偶然だってわかってるのよ、でも私は悔しいのよ、偶然に必然を感じるのよ、私が出来るのはただただブラウン管越しに不思議の世界を覗くことだけなのよ、私は幻想の世界を直接観れないし触れられないし香れないし味わえない、私はずっとこの先ずーっと、合成の肉とか食べて、ヒロシゲに乗ったりして、なおかつちょっとだけあなたとチューしたりしながら、この科学塗れの世界でまやかしの満足を得続けるんだわ。だからアゼルバイジャンに行こうとしたのよ、あそこにはまだ不思議の世界の残りカスぐらいはあるんじゃないかって、まだあそこにはあのネコが通ってきた異世界への扉が閉じられずにあるんじゃないかって、バカよね、放射能が凄くて絶対に行けっこないのに。
でもさっきね、あの警官に会ったときに、もしかしたら私の見ている世界が変化したんじゃないかって思ってたのよ、私って警官に職務質問されるのって初めてだったのよ、だから私はあのネコが出現したことでこの世に超変化が起こって、決まりきった私の世界が変化したんじゃないかってずっと思ってたのよ、だからマスタースパークだって手から出せると思ったのよ、でも出なかった、この世界では相変わらず魔法が使えない、空も飛べない、妖怪もいない、あのネコが出現しようとしまいと私の世界には何の影響もなかった、あいつは一回分の驚きでしかなかった、そしたら急に警官が憎くなったのよ、よくも期待させやがったなって、横暴だってわかってる、わけわからないってわかってる、でも悔しかったのよ、私は永遠にこの科学世紀の迷路から抜け出せない、私は、私は、境界の向こう側には絶対にいけない運命の下に生まれついちゃったのよ。タンザニアの国民だってサラ・コナーだってタイラー・ダーデンだって、そういう運命から一人も逃げ出せた奴はいない、それはそういう偶然の下にいるからなのよ、審判の日から逃れることは出来ない、ビクトリア湖からナイルパーチを一匹残らず絶滅させてもタンザニア人の暮らしはよくならない、そういう感じで、私は絶対に幻想の世界と接触できないのよ。
メリー、愛してる。愛してるわ。ねぇ知ってた? 愛してるのよ。愛してる、愛してる、愛してる、でも嫌い、大嫌い、あんたなんて消えてしまえばいい。アゼルバイジャンのバクーで核の炎に焼けるあなたが見たい。それぐらいなの、愛してるけど嫌いなの、それは決して矛盾したりしないの、ねぇわかってる? 私の話聞いてる? おい親友、恋人、相棒、学友、戦友、天敵、学生、女、ギリシャ人、外人、妖怪、隙間妖怪、妖怪の賢者、あんたなんか隙間妖怪よ、境界を操れる、赤い目をしてる、当然冬眠もする、式神も作れる、だから私はあなたが好きだし、でもあなたは私を境界の向こう側に連れて行くことは出来ない、私を非日常の世界に連れて行くことができない、あなたはこの世でたった一人だけ、この科学世紀を脱出して幻想の世界に旅立てる人なのよ、だから大嫌い、大嫌いだしでもやっぱり愛してる、それは理由になる、あなた嫌い、でも大好き、でもそれはレズビアン的なものじゃない。私たちもあなたも完結してない。レズになったら何かが完結してしまう、けれど完結してないから私たちはレズじゃない、これはやっぱり友情であってレズじゃない、あなたは自分の心臓や手足がレズだと思うのかしら。そんなわけないけどやっぱりでもあなたはズルい。私を愛してない? それとも単に私はあなたに話を聞いてもらえてないだけ? ねぇ聞いてる? それともこんな埃臭い場所で愛の確認なんかしたくない? ねぇそうならそうと言ってよ。お願いだから、ねぇ、ねぇってば」
蓮子はときどき私の首筋の皮膚をがりりと齧りながらまくし立てた。蓮子はうおーんうおーんと吼えるように泣きながら私の胸を叩いた。どんどんどんどん、私の胸を内側から叩く心臓の鼓動にも負けないぐらい、強く、何度も何度も。
私は蓮子が行っていることが全然理解できなかった。きっとテープレコーダーで今の蓮子の言葉を全部録音して、百遍繰り返して聞いても絶対に理解できないだろう。それは世界中で蓮子だけが抱えられる葛藤だった。
でも、わかったこともある。蓮子は悔しいのだ、本当に悔しいのだ。あのネコが自分のいる世界にやってきたのに、近づいていけない自分に嫌気が差したのだ。それは映画のスクリーンと同じだった。どんなに引き込まれても、どんなに自己投影しても、決してスクリーンの中の世界にはいけない。映画はマズダ号の延長線上の話だったのだ、蓮子は広い世界を見る窓の話をしていたのだ、私たちが生きる世界とは別の世界がスクリーンの中に広がっていることを私に教えたかったのだ。映画とアゼルバイジャンのマズダ号は実は同じ問題でしかないと知ってほしかったのだ。これらは世界のどこかで現実に起きた出来事であっても、それに実際に触れられないなら映画と同じフィクションとなんら変わりないという当たり前の事実を私は失念していたのだ。蓮子はそういうことを私に理解して、なおかつ共有してほしかったのだ。でも私は真剣にそれを考えなかった。ねぇ蓮子そんなつまらないことばかり言ってないで早くアパートに帰ってちゅっちゅしましょう、そんなことばかり考えていた。それがこの国で大人になることなのだと思っていた。すべてを小馬鹿にして、そんなこと起こるわけないのだと、そんなことを考える必要がないのだと、そう頭から信じきっていることが日本の大人なのだと思っていた。大人になれば、そういうことを考えなくても生きていられるのだと思っていた。この世には「BROOKS WAS HERE」でしか存在証明を残せないような、そういう残酷な人間がいるということもぜんぜん忘れていた。私は無意識に映画的なものを拒絶していたのだ。
「蓮子」
私は蓮子の背中に手を回した。ひどく頼りなくて、細くて、柔らかくなんか全然ない、骨ばった華奢さが手に伝わった。
「ごめんね、蓮子」
罪を告白する幼子のように、その声は震えていた。私は心の底から蓮子に謝った。
「ごめん、蓮子」
蓮子は私の胸の中で泣き続けた。私たちは初めて問題を共有し合った。どれだけ願っても行くことが叶わないところがあるのだと、そういう残酷な問題を共有するのは初めてだった。私たちは今晩、初めて溶け合って一つの生物になることができた。それは有機的に結合した私たちの中で問題として処理された。この世界に忘れ去られたような廃ビルの片隅で、湿気と羽虫の死骸に囲まれながらついに私たちは人として超えてはいけない一線に言及した。それはとても背徳的だった。私たちはその背徳感と失望と絶望を抱いて、永遠と溶け合った。
「蓮子――」
結局、蓮子はそのまま泣きつかれて私の上で寝てしまった。酒に酔っていたから、アルコールが体内で分解されるのと同時に強烈な眠気が来たのかもしれない。私はといえば、裏道近くをパトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎるたびにビクつき、蓮子がんむぅなどと寝言を言うたびに蓮子を可愛いと思い、蓮子の頬についた涙の跡を見るたびに蓮子のことを可哀想だと思った。でも、蓮子は目を覚まさなかった。きっと何日も寝ていなかったのだろう。私の近くでなら落ち着いて、一度も目を開けずに眠れてくれているのは、なんだか嬉しかった。
私が浅い眠りに包まれたのは、一時間ほど経ってからだった。その間に何時間たったのか知らないが、私が再び覚醒したときにはすでに鳥の声が聞こえていた。まだ野生の鳥がいるんだ。それは私の心の中に言いようのない感動を喚起した。
コンクリートがただ四角に切り取られただけの窓から朝日が差し込んで、ビルの中を侵食していた闇が少しずつではあるが去ってゆく。それとほぼ時を同じくして車の交通量が多くなり、新聞屋がポストに新聞を突っ込む音がして、だんだん頭にモヤがかかったようにはっきりとしなくなってきた。朝が始まろうとしているのだ。雑多な物音たちはやがて重なり合ってひとつの音を奏で始めた。それはひどく不出来な音だった。雑音にしか聞こえないはずの音が音楽として知覚される。ごうごうと音を立てて心臓が動く。血液が巡る。世界最大の都市である京都という魔都が動き始める音が聞こえた。
不意に、むにゃ、という声が聞こえて、私は身じろぎした。汚い毛布を敷いただけでコンクリートに寝転がっていたせいで肩や首がひどく凝っていたけれど、蓮子に向けられたのはきっと百万ルクスの笑顔だった。
「おはよう、蓮子」
「あ――?」
「よく眠れた?」
「……」
「ねぇってば」
「……ずっと、私の下にいたの?」
蓮子は開口一番、冴えないことを言った。私は苦笑した。ずいぶんと今更な言葉だ。よく見ると、蓮子の頬には私の服の皺と同じ形の跡が付いていた。
「いい夢見た?」
「……わかんない」
「そう」
「あのね、メリー」
「ん?」
「まだ、言ってないことがあるの」
「何?」
「あのね、昔見た映画で……」
私は蓮子の頭を撫でた。ひどく艶やかに見えて、癖の強い蓮子の髪の感触がはっきりと手に伝わった。蓮子は「メリー……?」と不思議そうに私を見たけれど、私は笑顔を浮かべてそれを許さなかった。
「蓮子、またそれは後で聞いてあげる。今は寝てちょうだい。まだ眠いんでしょ?」
蓮子は私をちょっと不満そうに見たけれど、私はもう一度蓮子の後頭部を撫でて止めを差した。映画の話はまだできるし、今度は真剣に聞いてやることができる。ただ、それは急がなくてもいいでしょう……? 私がそう目で言うと、蓮子は忘れがたく体に詰まっている眠気を思い出したのか、すぐに目を閉じた。私は目を閉じた蓮子の体を少しずつずらして、蓮子をコンクリートの上に直接寝かせた。起きたかな? と思って耳を鼻先に近づけると、規則的で深い呼吸音が聞こえた。蓮子は寝ている。そう確信した私は、蓮子の体の上にそっと毛布をかけて、立ち上がった。
ふわぁあぁ、とあくびが出た。全身が凝っていて、思うように体が動かない。まるで全身がカタメルテンプルかなにかで固形化したかのようだった。私はチキソトロピー効果を期待して肩や首をしつこく回し、全身に溜まった疲労物質を再び血中に溶かし込んでいった。廃ビルの中は時間が止まったかのように静かだった。警官から逃げてきてしまったことや不法侵入のことも考えなければならなかったけれど、私は奇妙に落ち着いていた。私は後先考えない子供に戻ってしまったかのように、すべてのことが今はどうでもよかった。そうだ、このまま朝の空気でも吸って落ち着こう。蓮子はまだまだ起きないだろうし、私も今日は大学に行く気がない。ならば後は蓮子が起きだしたら、自分のアパートで映画を見よう。ツタヤで蓮子のお気に入りの映画を借りて、眠気に気絶するまで鑑賞しまくるのだ。そうだ、それがいい。女子大生っぽい。
ドアの前に立って錆びついたドアノブに手をかけた瞬間、違和感を感じた。さっきまで聞こえていた音が聞こえなくなっていた。私は一瞬、ドアノブを握った手を硬直させて、それから勢いよくドアを開けた。
圧倒的な影が、目の前に乱舞していた。
それは猫だった。アゼルバイジャンで見たのと全く同じ三毛猫が、私たちの町を踏みつぶしていた。
相変わらず巨大な影だった。
平時は空がどこにあるのかわからないほど立ち並んでいた高層ビルが姿を消していた。
そのかわり、奇妙に平坦に見える京都の街並みが私の目の前に広がり、その変わり果てた姿を晒していた。
十階建ての廃ビルからは、世界が破滅していく様が良く見えた。
猫はこちらに背を向けるようにして、まず右足の猫パンチで京都タワーを殴りつけた。
天を衝く高さの京都タワーが不気味な音を立てて真ん中から折れ、ひどく現実感がない感じにゆっくりと倒れてゆく。
猫は京都タワーが拭き上げた粉塵がヒゲについたのか、晴明神社の当たりにどっかりと腰掛け、顔を前足でしごき始めた。
その間にもあちこちで発した炎のオレンジが踊り、もうもうと立ち上る黒煙が空を黒く汚していた。
街にぽっかりと口を開けたクレーターからは黒土がむき出しになり、街中には傷口から噴き出した鮮血のように土が散乱しているのが見えた。
猫がにゃああああごおおおおおおともの凄い咆哮を上げた。
聴覚神経を直接引っ掻き回されているようだった。
いやそれはきっと普通の猫がするようにただ鳴いただけなのかも知れない。
だけどもその鳴き声によって大気は震え、三半規管まで麻痺させてしまうような空震は私の意識を容赦なく覚醒させてゆく。
そこらじゅうに打ち捨てられた車には人はひとりもおらず、近隣のビルから散乱したと思われる書類の山が道路を白く彩っていた。
視界を元に戻すと、三毛猫はこっちを向いた。
その顔はまさに猫だった。だけどもなまじサイズがサイズであるためか、その目の神秘的な緑色は見ていると吸い込まれそうなほど透き通って見えた。
猫は私を見た。
さぁどうする?
猫がそう言っているような気がして、私は思わず笑ってしまった。
猫は少しの間だけだったけど、確かに私だけを見つめ、目を細めた。
そうね、と私は少し考えてから、猫の目を見返した。
頭上にヘリの音が聞こえた、
けれど私は上を仰ぎ見なかった、
舞鶴から自衛隊のヘリが飛んできたのかも知れない、
どうせそんなもの意味が無い、
私は知っていた、
あの猫の前ではすべてが無意味になるのだ、
私たちが日々あくせく意味を見出そうとしている大半のものはあの猫の前では無意味だ、
そのことを私は知っていた、
知っていたけれど考えなかった、
あの猫がアゼルバイジャンに出てきた時、私たちはそれを学び忘れていた、
あの猫はこの世のものではないと思っていた、
猫が私から目を離す、
あの猫はまごう事無き現実だった、
猫がジャンプする、
だけど私たちはあの猫から目を逸らし続けた、
猫がまた咆哮した、
私たちはあの猫を私たちの理屈で解釈して納得しようとした、
猫パンチを喰らったヘリが落ちた、
私だってあのアゼルバイジャンに出現したマズダ号を見ていたのに、
ヘリがミサイルを発射する、
私たちはあれをフィクションだと思いたがった、
猫は身じろぎすることなくそのミサイルをすべて受け止めた、
あの猫は現実に存在していたのに私たちは無視した、
あんな大きな猫がいるわけないのだと事実から目を逸らし続けた、
猫が私のためにヘリを叩き落す、
あの猫は映画と同じようにフィクションだった、
猫は咆哮した、
映画はフィクションじゃない、
猫は咆哮した、
なぜ猫はこの世界に出現した?
猫は咆哮した、
なぜ私たちは無視した?
猫は咆哮した、
その方が楽に生きられるから?
猫は咆哮した、
見たくないものから目を逸らしたかったから?
猫は咆哮した、
それを考えれば自分の世界が壊れてしまうと知っていたから?
猫は咆哮した、
そんなものあるわけがないと思うことが賢さの証だから?
猫は咆哮した、
猫は咆哮した、
猫は咆哮した、
猫はたしかに咆哮していた、
決して自分はフィクションじゃないと主張したくて咆哮していた――。
「……メリー?」
不意に、背中に声をかけられて私は振り返った。蓮子が立っていた。蓮子は私の向こうに広がっている光景を呆然と見ていた。
「メリー、どういう事?」
蓮子は私を見た。まるで診察室に入る前の子供のように、その表情は不安げだった。
とりあえず、たくさん言い足りないことがある。けれど、それを語り終えるのはいったい何年先のことになるだろう。
「ねぇどうして? なんであいつが京都にいるの?」
蓮子がそう言ったので、私は思わず苦笑した。蓮子、あれはどこにでも、誰にでもあるものなのよ。あいつは私たちが生きてゆく限り必ず生まれてくる。あいつは普遍的な存在なのよ。そういう意味であいつは父なる神と同じ、アナロジーみたいなものでしか存在を表現できないけれど、あいつのことは皆知ってるのよ。あなただって、私だってね、きっと。
もしかしたら、と私は思った。もしかしたらあの猫は今度こそ私たちの世界すべてを破壊し尽くしてしまうかも知れない。アゼルバイジャンと違ってこの街は押しも押されぬ世界最大の都市だ。文字通り人類の歴史は大きく変わるだろう。世界は新生するのだ。その時、私たちはどうやってこの感動を共有するのだろう。
もどかしくてもどかしくて、どうやって伝えればいいかもわからない、言葉の爆弾が胸につっかえて発熱していた。今すぐ吐き出さないと破裂してしまいそうなのに、ずっと胸に抱えていたくなる暖かさを持っている。子供の頃、家に帰ってきたとき両親に話したいことがたくさんありすぎて、結局何も伝えられなくなった時みたいに、私はただ微笑を返すしかなかった。
「蓮子、家に帰ったら映画を観ましょう?」
やっとそれだけ私が言うと、蓮子ははっと口を開きかけた。けれど、蓮子のことだから、すぐに私が何を言いたかったのかわかったようだった。
ズシン、と廃ビル全体が振動して、パラパラと細かな埃が降ってきた。もうこの廃ビルも持たないのかも知れない。全長数千メートルの猫がやってきてもし爪を研いだりしたらこのビルなど一撃で粉微塵になってしまうのだろう。けれど、私たちはこれから部屋に帰って映画を観るのだろう。それは確信だった。私たちはこれからツタヤに行き、ヴィクトリア湖周辺の惨状に心を痛め、リンダ・ハミルトンのバタくさい顔に辟易し、タイラー・ダーデンの美しい肉体にソソられ、ブルックスが首をくくるシーンで声を上げて泣くのだろう。私たちはヴィクトリア湖州編の貧困を憐れむ心を取り戻したのだ。サラ・コナーのように世界のために戦う勇気を取り戻したのだ。私たちはタイラー・ダーデンのようにマッチョイズムを取り戻したのだ。ブルックスの境遇を理不尽だと憤る心も取り戻したのだ。私たちは新生したのだ。それさえわかったらこの世でずっと生きて行ける。私たちはもうフィクションの世界には足を踏み入れない、それは幻想ではない、私たちだけの世界で――。
蓮子が少し迷ったような素振りを見せた。
私は手を差し出した。蓮子ももう迷わなかった。
やがて蓮子も手を差し出して、私たちは手を繋いだ。仄かな暖かさが感じられた。
了
キャメロンのデビュー作は『殺人魚フライングキラー』であり、
キャメロンの悪夢に出てきたのはおそらくロジャー・コーマンであり、
リンダ・ハミルトンとランス・ヘンリクセンは同系統の顔であり、
タイラーは最高だけどジャックは至高であり、
蓮子とメリーの脂肪で作った石鹸はなんかネバネバしてそうであり、
作者様のメイヘム計画は俺にとってちょっと不完全だったということ。
ラストは好き。
高層ビル倒壊シーンと一緒で心が穏やかになるから。
けど十二分に面白かったです。
それは秘封倶楽部という名の
二人の少女です
‥‥‥ぇーと、あの、その
マスタァァァァスパァァァァァァァァク!!!!
メリーの目に映るものは蓮子には決して見えない。それを信じて秘封倶楽部を作った彼女は子供なようで一番の大人に感じます。格好良い!お互いがお互いに合った最高のパートナーですね。所々にある百合表現も良いスパイスになっていると思います。
そこなのかな?と思いまたそこのラーメン食べたくなった。
きっと違う場所なんだろうけど。
学生の酒入ったらなんか自分の専門を語り出したい発作が
上手く表現されてて面白かったです。
意味云々言っちゃうのはきっと不粋なんだろうな。
みなみ会館あたりでやってるB級カルト映画みたいで面白かった。
これも青春といっていいのだろうか。
作者さんには申し訳ないですが、これは名作だと思います。
ラクリマクリスティーのあれは全国共通だったのか…?
目の前にあるものこそが現実だと言うのなら目の前にかつて無かったものはフィクションと同等で、しかしそれが目の前に現れたときそれを夢/悪夢が叶ったと言うのだろーか
此処からは自身の侏儒振りを殊更露呈させた的外れな指摘になるやも知れませんが、作品中のルイス・フロイトがジークムント・フロイトとの前提で漫言しますと、遊戯療法で著明なアンナ・フロイトは決してレズビアンなどではなく、寧ろ重度の腐女子と習ったことを想起しました。うう、傑作に対して、こう言った無粋なことしか言えぬ自身が本当に情け無い。
無粋序でにファイトクラブは私にとってとても良いBL映画でした。当時パンツを腰で穿くブラピの外腹斜筋や下腹部がエロスで視聴したとはとても言えませんしかもブルーレイ版ではあわわエクストリーム土下座! イーハトーブ謝罪! 本当に申し訳ありませんでした!
大好き
だけど好きなことを好きなだけ無我夢中で語ってきかせる女の子は輝いてみえる、すてき。
好きなひとに好きだってことを一生懸命に伝えようとする女の子は眩しくみえる、すてき。
画面のこちらで惨劇を見ているメリー(=私)には、現実を見ることが出来ないのか
蓮子はそれが現実だと知っていたのだろうか、これが私たちの生活する現実でも起こりうるものだと
猫が現れて、現れた町で何が起こるのか、それを知った上でメリーは未来の約束をした
それももしかしたら、現実逃避なのか
私たちはもうフィクションの世界には足を踏み入れない、踏み入れられない? いや、現実に、「フィクション」なんてない
そのニュースも、その映画も、その想像も、全て現実だということか
”向こう”と”こっち”は隔てられていないということか
二人が昨日食べたあの、奇跡のような複雑な味を作り出す小さなラーメン屋の、膝を少し痛めたぶっきらぼうなおばちゃんとおじいさんが、
私の頭から離れません
蓮子の葛藤。良いですね。こんな悩みに真正面から立ち向かうのは、人間の中でも特に美しい部分だと思います。
猫。良いですね。この世界はなんなんだ、と言う視点とか不条理さとかを与えてくれますね。
二人とも、大切なものを見てるんだけど、やっぱり欠けてるものも有る。と言うのも、素晴らしいと思います。
ほんわかしました。
こんばんは
確かに私が日々あくせく意味を見出そうとしていたものは無力だったし無価値だった。
自衛隊のヘリもさっきから私の頭上を飛び回っている。
しかし最近読んだ秘宝倶楽部のSSはどれも良い! もっと流行れ!
点数まだだったので。ルイスフロイスがなおってたのも高評価。
ありがとう!!!11
猫もいる、だからこれはきっと…
生の機能とはつまりそういうことだ。非日常を日常に変換するには、それを『悲劇』と読み替えて物語ることが必要になるのだし、けれども、語るに値する“お話”に成ってしまったた以上は、いずれ消費され忘れられる宿命にある。
ありふれた日々における突拍子もない現実は、
よくできた“お話”とあまり意味を違えない。
そうでなければ、我々は生きていられない。
ああ――遠い紛争の地でカラシニコフから放たれた弾丸が少女の頭部を打ち砕く事と、
秘封倶楽部の目前で巨大な猫が暴れ狂っている事の違いとは、
いったい何だというのだろう。
しかしそれは決して不快ではなく、むしろ気持ちが良いです。
素晴らしい作品をありがとうございました。
面白かったのかつまらなかったのかすらよくわからないけど、
100点入れるべきだと思ったので入れてみるなど。
猫がにゃあと鳴きながら猫パンチでぶち壊していきましたとさ。
なんというか、やり切っちゃってるなーって感じがします。すごいぜ。
こういうものが読めるから創想話は止められないんだ。
登場した映画を実際に見てみたくなりました。
本当にうてる可能性があるとわかったうえで至近距離から警官にマスタースパークをぶっ放す事をためらわない蓮子が好きです
描き方は。
考えるのをやめるな、常識を疑え、と
明日に希望を持つには、愚かでいることが一番です
何も知らなければ、明日に何かあると期待することもできます
というこんな考えに苛立ちさえ覚えなくなった自分を蓮子ちゃんに気づかされました
口先だけだと暗黒面に落ちやすいですよね! いい作品でした(感謝)!
ラストシーンが最高に良いです
その感想をメリーを介した幻想に浮かべた私はなんなんだって感じですけど
なにはともあれ一生懸命ガール好きです
描写も丁寧で、会話もテンポが良くて良い
また書いておくれよ
蓮子がメリーに向けている好意や嫉妬含む巨大な感情、深夜に行くラーメン屋の食事描写、現実の理不尽とそのどうしようもない閉塞感…読みやすいのは作者様の実力もあるんですけど、文に尋常じゃない熱量を感じました。