何かがおかしい――
魔理沙は地霊殿に入った瞬間、強烈な違和感に襲われた。
いなかった。何がというか、誰がというか。普段なら玄関を潜ると真っ先に出迎えてくれる存在がいなかったのだ。
暇そうに寝転がるペットたちである。
住人の八割以上がペットというここ地霊殿では、どこにいようと彼女たちの姿が確認できる。
人型になれるペットは大概主人である古明地さとりに仕事を与えられているのだが、逆に言えば、人型でないと地霊殿では仕事ができないのだ。
なので、言葉も人型も取れない動物は大抵廊下の隅で寝ているか、せめて訪問してきた客人の相手をしようとする。
――そのはずなのだが。
「……誰もいないな。どういうことだ?」
魔理沙は周囲を見渡しながら呟いた。
おーい、と呼びかけても返事はこない。がらんとした玄関に、空虚な呼び声が反響するばかりだ。
――ここで待っていても埒が明かない。
そう判断した魔理沙は、すぐに広々とした廊下を歩き始めた。
もとより、誰かが案内しに来てくれるまで待つような性分ではない。
訪問が突然ならば行動も思うがまま。悪い癖だと分かっていても止められないものである。
多数の動物で溢れているにしては綺麗な廊下を悠々と歩く。
目的地は、地霊殿の玄関からある程度近い台所だ。あそこならば誰かしらが十中八九いるだろうという計算と、右手に持っている袋の中身を置いていこうという目論見からである。
魔理沙が今日訪問しに来たのは、人間の里で買った果物類のお裾分けが理由だった。
ちょうど旬の果物が安売りをしていたので思わず大量購入したのだが、結構な量だったので地霊殿にお裾分けにきたのだ。
地底では新鮮な野菜や果物は少ない。そのため、ここの住人が喜ぶだろうと思って持ってきたのだが……。
「それにしても、本当にいないな。もしかして引っ越した……はないか」
首を傾げながらも真っ直ぐ台所に向かう。
慣れたものだ。この頃はよく遊びに来るので、この屋敷の大まかな間取りはすでに頭に入っている。
動物たちに囲まれて読書というのは、魔理沙が経験してきた中で最高の贅沢の一つだった。
今日もあわよくば……と考えていたが。
そのときだった。
「おっ、誰かいるっぽいな」
あと一回角を曲がるだけ、というところで話し声が聞こえてきたのだ。
咄嗟に立ち止まって耳をすませると、どうも二人の女性が喋っているようだった。
ちょうどいい。さとりかこいしか、あるいは燐に取り次いでもらおう。
そう思い、すっと体を滑り込ませるように角を曲がって彼女たちの正面に立った。
「おい、ちょっと悪いが……って、お空じゃないか」
「……え? ま、まりさ?」
さとりのペット、霊烏路空が目をまん丸に見開いて、こちらを凝視していた。
その手には、湯気が噴き出す小ぶりの鍋が置かれたお盆が持たれている。どうも料理をどこかへ運ぶ最中のようだった。
芳醇とした香りが鼻腔をくすぐり、本当に小さく魔理沙のお腹が鳴いた。
――余っていたら分けてもらおう。
そう思って彼女に近づいた、次の瞬間。予想だにしない展開が起こった。
空の両手がだらりと弛緩し、出来立てらしき鍋がお盆ごと地面に叩きつけられたのだ。
鍋の蓋がカランと音を立てて転がり、中に詰め込まれていたものが廊下にぶちまけられる。どうやらお米が煮立たせた雑炊のようだった。
「お、おい……」
驚きながらも真意を問い質そうと空に視線を投げる。
すると、空は瞬く間にふつふつとその目に涙を浮かべ、魔理沙に飛びかかった。
「ま、まりさー! うわああああああああぁぁぁん!」
「おい、どうしたんだ!?」
「さとり様が、さとり様がー!」
「落ち着けって、おい! さとりがどうしたんだ?」
抱きついてくる空を宥めるようにその背を軽く叩く。
空は気にも留めず、涙や鼻水を垂らしながら驚愕の一言を言い放った。
「さとり様が、死んじゃう!」
「って聞いたんだが、実際のところはどうなんだ? さとり」
「恥ずかしながら、単なる風邪です。お騒がせしました」
さとりの冷静な口調に、魔理沙は疲れたように手の中でナイフを弄ばせた。
地霊殿の一室、さとりの部屋。魔理沙はベッドで横になるさとりの隣で、椅子に座りながらリンゴを剥いていた。
今日買ってきた果物の一つだ。空がさとり用の雑炊を駄目にしてしまったので、その代わりである。
早々に役に立ったことを喜ぶべきかどうかは知らないが、さとりの表情は明るいように見える。風邪で頬が少し赤くなっているが、それでも笑顔を浮かべていた。
魔理沙は時折咳をするさとりに尋ねる。
「でも、なんであいつらを部屋に入れてやらないんだ? 少し可哀想だぞ」
あいつら、とは部屋の外で屯しているペットたちのことである。
前の廊下を埋め尽くすほどのペットが、心配そうに部屋のドアを眺めているのだ。
足の踏み場もないので、この部屋に入るには飛行を余儀なくされるほどだった。
「それはもちろん、あの子たちに風邪をうつさないためにですよ」
「だからってお燐たちまで締め出すのはやりすぎじゃないか? 風邪を引いた時くらい甘えればいいのに」
「……そうしたいんですけど」
若干非難めいた言葉に、さとりは俯いて視線をそらした。
「人間や妖怪と違って、あの子たちは少しの病気も危険なんです。体力的な意味合いで」
「まあ、それはそうだろうけどさ。ならお燐やお空はどうだ? 一応あいつらは妖怪だろ」
「一部のペットを優遇すると、他のペットが怒るんです。もしかしたら、収拾がつかなくなるほどの騒ぎになるかもしれません。それに……」
「それに?」
さとりが悩ましげに息を吐く。
風邪のせいとはいえ、頬が赤く染まった彼女がすると、ひどく色っぽい仕草に感じる。
「私がこんなに苦しいのに、あの子たちが同じ目に合うのは嫌ですから」
「……お前、主人っていうより母親だな」
魔理沙は素直に感嘆した。
さとりの視線は明らかに母性を宿しており、それは閉ざされたドアを向いている。
彼女の目に映っているのはおそらく、無機質な扉ではなく自分を心配してくれるペットたちなのだろう。
さとりが母親ならば父親は……こいしになるのか?
放浪癖があって家庭を顧みない夫に、夫のいない家庭をひたすら守り続ける妻。
そう想像してみると、案外合っている気がしないでもない。
「全然合ってませんから。私たち姉妹で変な妄想をしないでください」
すぐさま本人から否定の言葉が飛んできた。
頭の中でくらい好きなことをさせてくれよ、と心で呟きながらさとりを見やる。
すると彼女は口を尖らせて体を起こした。
「そんなのは当人、というか私がいない場所でやってください。私の能力は知ってるでしょう」
「まあな。まったく、心を読まれるってのはどうにも居心地が悪いぜ」
「白々しい。魔理沙さんは病人を苛めてずいぶん楽しそうですね」
じっとりと睨まれるが、魔理沙は気にした様子もなくリンゴにナイフを走らせた。
一人暮らしもしているし手先は器用な方なので、こういった作業はお手の物である。
すぐさまリンゴが切り分けられ、皿の上に並べられた。
魔理沙は立ち上がりながら皿を手に取り、毛布を被ったさとりの目の前にそっと差し出した。
「さあどうぞ、姫君。おいしいおいしいリンゴですよ」
「……ずいぶん嫌味ったらしいですが、食物に罪はありません。ありがたくいただきます」
そう言うと、さとりはリンゴを摘んで一口齧った。
やはり旬の果物は味がいいらしい。あっという間にさとりの不機嫌な表情が消え、嬉しそうに顔を綻ばせた。
魔理沙も手を伸ばして頬張る。程よい水分と甘みが自分の好みと合致していた。
続けてもう一つ、と再びリンゴを口に運ぼうとすると。
「ちょっと魔理沙さん」
「なんだい、さとりさん」
突然呼び止められた。
口を開きながら瞳だけさとりに向ける。――なかなかに、彼女は剣呑な表情を浮かべていた。
いつもの口数少ないさとりはどこへやら、怒涛の口撃が耳を打つ。
「病人の食べ物を取るとはどういう了見ですか? 風邪がうつったらどうするんですか? 魔理沙さんは地上に行けばいくらでも食べられるんですから、ここは私に全部譲るのが筋じゃないんですか? というか、全部寄越しなさい。今すぐに」
どうやら相当お気に召したらしい。
普段は食べ物に執着しないさとりがこれほどまでに言ってくれるとは。
土産を持ってきた身として喜びがこみ上げてくるが、このまま彼女に唯々諾々と従うのは気が引ける。
ならば、と頷いて摘んでいたリンゴをさとりの口元に近づけた。
さとりはこちらの意図をはかりかねたように首を傾げる。
「……? これは、どういうことですか?」
「はい、あーん」
「なっ!?」
その一言で、さとりの頭から沸騰したヤカンの如く蒸気が噴き出た。
顔の赤みはもはや真紅といっていいほどに色を深め、唇はわなわなと震えるように微動する。
予想をはるかに超えた動揺ぶりに内心驚きながらも、そんな表情はおくびにも出さずにリンゴを突き出した。
「ほら、あーん」
「いやちょっと、こういったことは、その、あの……」
「さとりが食べたいって言ったんじゃないか」
「それはぁ……そうですけどぉ……」
羞恥からか、さとりの白いうなじまで真っ赤に染まっていく。
ちょっと悪乗りしただけなのだが、何故彼女はこれほどまでに恥ずかしがるのだろう。
たぶん風邪で弱ってるところにこんなことされるのは照れるのかな、と魔理沙は勝手に結論付けた。
さとりが布団を両手で握り締め、俯いてから数分ほど経って。
ようやく決心がいったのか、きりっと鋭い眼差しで魔理沙の持つリンゴを見据えた。
「いいでしょう……いざっ」
「どーぞ」
シャクリ、と軽い音と共に純白のリンゴが三分の一ほど削られた。
さとりの小さな口から透明な雫が散り、噛み千切られたリンゴの断面から垂れた果汁が指を伝う。
一瞬舐め取りたい衝動に駆られるが、さすがにそれは我慢した。衛生的にも良くない。
「…………」
「…………」
さとりが無言で咀嚼しているため、魔理沙も口を開かないで待機する。
やがて嚥下したさとりは、ゆっくりと呼吸するように息を吐いた。それである程度余裕ができたのか、頬の赤みは徐々に薄らいでいった。
「……ぱくっ」
そして今度は、何の躊躇いもなくリンゴを口に運んだ。
二口目、三口目と続いてリンゴは跡形も無くなった。
魔理沙がさとりの次なる挙動に注目していると、さとりは妙に据わった瞳で皿とこちらの顔を交互に見た後。
切り分けられたリンゴを指差し、
「……ん」
何かをねだるように睨みつけてきた。
魔理沙は一切れのリンゴを手に取って、さとりの唇の一歩手前まで持っていった。
さとりは吹っ切れたように遠慮なく齧り、次々と腹に収めていく。
「……おいしいか?」
「…………」
彼女は無言で頷き、ついにはすべてのリンゴを平らげた。
指にべっとりついたリンゴの汁を舐めるのは憚れたので、結局傍にあったティッシュで処理することにした。
お腹の満たされたさとりは布団を肩まで被り、ゆっくりと目を閉じて深呼吸した。
眠くなったらしい。それを察した魔理沙が椅子から立ち上がると、彼女はちらりと視線を向けてから再度目を閉じた。
静かに扉を開いて外に出る。するとたちまち、廊下でひしめいていた動物たちに囲まれた。
魔理沙には自分たちの言葉が分からないのを知っているためか、誰もが無言で視線を送ってくる。
そして彼女たちの意志を代表するように、目を腫らした空と眉根をひそめた燐が近寄ってきた。
「さとり様はどう?」
「寝付いたぜ。鍋の出番はもうちょっと後かな」
「さとり様大丈夫!? ほんとうに大丈夫!?」
「落ち着け、お空。大した病状じゃない。今は寝かせてやろうぜ」
しー、と唇に人差し指を当てると、空は涙ぐみながらもこくりと頷いた。
自分は医者ではないが、見たところ人間もかかるごく普通の風邪だろう。いざとなれば地上にある永遠亭にでも連れ込めばいい話で、このまま寝ていても治ると思う。
ただまあ、彼女たちペットがさとりの部屋に入るのはよろしくない。
人によっては動物の毛で風邪が悪化するらしいし、ペットも風邪を引いてさとりが悪化したら最悪の状況だ。
というわけで魔理沙は、燐にお願いしてみんなに帰ってもらうよう頼んだ。
「まあ、しょうがないよね」
この中で一番冷静そうな燐はあっさり了承し、彼女たちに解散を命じた。
予想通りではあるが、ペットたちは口々に不満の声を上げる。あくまでもさとりを起こさないよう静かにだが、大勢いるせいで合唱のように廊下に響いた。
燐と空が根気強く諭していくと、やがて一匹一匹と悲しそうに去っていき。
三十分ほど経って、ようやく自分と燐たちのみとなった。
ご苦労様と労いの言葉をかけつつ、さとりの今後について尋ねる。
「でさ、さとりはどうするんだ? 医者に見せるのか誰が世話するのか、そこらへんは」
「そうだねー……あたいたちが見ててあげたいけど、やっぱり角が立つし。いつもならこいし様が看病するんだけど」
「こいし? そういや、あいつどこいったんだ?」
こいしは妖怪にしてさとりの妹なので、一番適任といえば適任だろう。
だが、燐は肩を落として首を横に振った。
「今日もふらふらお出かけ中。昔なら地底の中だけで済んだけど、今は広大な地上も行動範囲だからねぇ。二、三日帰ってこないのはもう珍しくないよ」
「ふ~ん。あいつもなかなか薄情なんだな」
「いや、さとり様が強情なんだよ。少し前から調子悪そうにしてたんだけど、それを指摘しても『大丈夫』の一点張り。今回だって、仕事中に突然倒れたんだから」
「……ふぐっ、さとり様……」
「あーもう、泣かないの。大丈夫だって言ってるじゃないさ」
再度瞳を潤ませ始めた親友の背中を軽く叩く燐。
実に微笑ましい光景だが、それを喜べるような状況ではなかった。
やはり病気で寝込んでいる時は誰かが傍にいてやった方がいいに決まっている。
だが、丁度よく適任者がいないときたものだ。どうしたものかと三人で首を傾げる。
すると燐がこっちを見て。
「ああ、だったら魔理沙でいいや」
と、ごく簡単に言い放った。
頼られるのは悪くないが、そんな言い方はないだろうと反論する。
だが、燐は冷たい視線で睨みながら、喉の奥から搾り出すように鋭く言葉を紡いだ。
「本当はあたいが看病したいのよ。弱ったさとり様のお世話をして、『ありがとうね、お燐』って言われたいのよ。近づくことすら禁止されてたけど、今日はこいし様がいなくてようやくお鉢が回ってきたと正直喜んでたのよ」
「あ、ああ……」
「そう思ってたらあんたが来て、計画は台無し。心を込めて作った鍋もお空が台無しにしちゃったし。しかも、さっきあんたがさとり様と顔を合わせたことで、まあ間違いなくさとり様はあんたが傍にいてくれるものだと思ってるでしょうね」
まるで呪詛でも放っているかのような雰囲気に、魔理沙は思わずたじろいだ。
横を見ると空も同じように恐怖の表情を浮かべながら一歩後退している。それほどに、今の燐には迫力があった。
かと思いきや、突如燐は表情を緩めて溜め息をついた。
「と、いうのは冗談だけどさ。あたいたちにも仕事があるわけだし、さとり様が倒れて地霊殿全体が停止したら、それこそさとり様の迷惑になるのよ。だからとっても暇そうな人間に任せるの。分かる?」
「お、おう。把握した」
「ならいい。さ、お空。私たちも行こう。そろそろ灼熱地獄跡に熱を追加しなきゃ」
「……うん、わかった」
先ほどの恐怖が残っているのか、素直に従う空。
歩き去っていく彼女たちの後姿を見送る。その途中で、燐が忘れ物でもしたように走ってきて体を寄せてきた。
耳元で燐の吐息が感じられる。くすぐったさでわずかに身じろぎすると。
「――さとり様に何かしたら、あんたを生きたまま灼熱地獄に放り込んでやる」
ひぃ、と吐息のような悲鳴が自分の口から零れる。
特大の呪いをかけていった化け猫は、まるでスキップするかのように、今度こそ姿を消した。
魔理沙は一旦台所に行き、自分の持ってきた土産を適当なところに放り込んだ。
あまり常温で保存するのに適さない食材もあったので、氷室に入れなければならなかったのだ。
それからさとりの部屋に戻ると、さとりは目を覚ましていた。
本当に浅い眠りだったらしい。特に眠たげというわけでもなく、戻ってきた魔理沙を静かに見つめていた。
さとりはずっと無言だった。
彼女は布団を腰までかけ、後ろの壁にもたれる形で体を起こしている。
魔理沙も居心地が悪そうにそわそわと体を揺らすが、それだけだった。
妙に重苦しい沈黙が小さな部屋を支配しており、進んで音を出しているのは時計だけである。
さてこれからどうしようか、と腕を組んで考える。することがないのだ。
病人の前で退屈だと言うのはまったくもって失礼な話ではある。しかしさとりはフランのように我が侭を申してくれるわけでもなく、ここには霊夢の部屋のように小説があるわけでもない。
手持ち無沙汰、というのは霧雨魔理沙にとって拷問にも等しいことだった。
するとそんな自分の心を読んだのか、さとりがぽつりと呟いた。
「退屈なら、帰ってもいいですよ」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
さとりは俯いたまま、言葉を続ける。
「たしかに私には気の利いた話術もありませんし、暇つぶしの道具もここにはないです。どうせ一人で寝てても治る病気なんですから、魔理沙さんがここにいる必要もないかと」
「いやまあ……そう言うなよ。これでも心配してるんだから」
「いいですよ言い訳しなくても。我ながら面白みのない妖怪だなって思ってますから」
ふんっと鼻を鳴らして視線を窓に向けた。
窓のガラス部分に反射して、うっすらとさとりの表情が見えた。
――彼女はいじけていた。
自らの感情を素直に表現できない子供か、あるいは自分で引いた線引きの外側まで出ないように踏ん張る少女か。
どちらにしても、さとりが自分の気持ちを偽っている。
自分の経験からしても、やはり病床に臥している者は等しく寂しさに身を焦がすのだろう。
しかもさとりは意地っ張りで、それを誰かに伝えるのが苦手なのだ。
ならばこちらが歩み寄って耳を澄ませてやらなければならない。
「さとり。腹は減ってないか?」
「へ? い、いえ、まだあんまり」
「そうか。なら、してもらいたいことはないか? 水が飲みたいとか汗が気持ち悪いとか、そういうのは」
「えー……そうですね。お風呂に入りたいです」
さとりは首を傾げながらもすんなり答えた。
だが、それはなかなか難しい相談だ。顎に手をやって思考する。
別に風邪の時に風呂に入るのが悪いわけではない。
ぱぱっと体を洗って水気をよく拭き取り、すぐさまベッドに入れば大丈夫のはずだ。
しかし今の場合、地霊殿の構造が問題だった。
ここは地霊殿の二階で、中央より少し右に寄った部屋である。対して、浴場は一階の左端に位置している。
しっかりと着込んで早めに部屋に戻ったとしても湯冷めする可能性があり、そうなれば病状が悪化しかねない。
となると……。
「よし分かった、ちょっと待ってろ」
「え? ちょ、ちょっと魔理沙さん!?」
ふと思いついた名案を実行に移すべく、さとりの部屋を飛び出した。
途中の廊下で出会った猫メイドに頼んで色々と準備をする。タライにタオル、そしてたっぷりのお湯。念のために代えのシーツと枕、余っている掛け布団などを猫メイドと連携して素早く用意した。ついでに、あとは煮込むだけの雑炊の支度も済ませる。
すべての準備は万端。意気揚々と、さとりの待つ部屋へ戻っていった。
「おいーす。待たせたな!」
「……なんですか? その湯気の立つタライは」
「なにって、お前の体を拭くためのやつだけど」
「体を拭くって……え、えええええええええぇぇぇぇぇぇ!?」
驚愕をあらわにし、さとりは逃走を図るようにベッドの上で小さく後ずさりをした。
そんなに驚くことかと疑問に思うが、それよりもお湯が冷める前にやってしまおうとタライを椅子の上に置いた。
タライの高さ三分の二ほど注がれた湯がゆったりと波打つ。そこに乾いたタオルを突っ込んだ。
「っ」
思いの外熱くて顔が歪むが、なんとか我慢して取り出す。
そしてきつく絞ると、あらためてさとりに向き直った。
「さ、脱いでくれ」
「ぬぬぬぬ脱げって!? 大胆にも程がありませんか!?」
「いや、普通だろ。ほら早く。せっかく絞ったのに冷たくなる」
「~~~~~~っ!」
魔理沙が淡々と促すと、さとりは再び顔を真っ赤にしてぷるぷると拳を震わせた。
その仕草が受諾か拒絶か魔理沙には判断がつかなかったが、ここまで用意して引き下がる気はない。
そういった意志を込めてさとりを見つめる。
さとりはしばし眉間に皺を深々と刻み……やがて、糸の切れた人形のようにかっくりと首を折った。
「あ、あまり見ないでくださいね……」
「見ないでやれってのは無理だが、まあ努力するさ」
さとりは上に着ていた服を脱ぎ、魔理沙に背を向けていた。
腕は胸の辺りで交差させており、日焼けしていない純白の肌はかすかに赤みを帯びている。
やはり友人とはいえ、こうも赤裸々に肌を晒すのは抵抗があるのだろう。
これが風呂場ならばいざ知らず、ここは普段リラックスしている自室だ。それも仕方ないと思う。
とりあえず、手早く終わらせてやることにした。
「はーい、背中拭きますよ~」
「もう、楽しんでないでさっさとやってください!」
「了解了解~」
タオルを掌ほどの大きさに広げ、さとりの白い肌にそっと触れた。
ぴくり、と背筋が震えたが、逃げるような動作はない。汗だけを拭き取るように、優しくタオルを滑らせていく。
最初は背中の中心から円を描くように、そのまま両の肩甲骨へ移動しながら軽く撫でていく。
骨の形を確認するようになぞり、そして肩を揉みこむように拭いていった。
「……ん、はぁ……ふ」
時折、窓に顔を向けているさとりが小さな吐息を洩らす。
なにやらムズ痒い感覚が背中を駆け上り、それを誤魔化すように口を開いた。
「お客さん、こってますね~。デスクワークは大変ですか~?」
「……結構。こればかりはペットに任せられませんから……はぅ!?」
「お、ここらへんか。ここがええのんか?」
「あう~~~、そこは、ちょっと、刺激が……!」
甲高い声が簡素な室内で反響する。
軽い気持ちで始めたマッサージだが、これ以上はなんだか危ない気がしてきた。
素直に汗だけを拭こうと決め、首筋にタオルを移した。顎下も包み込むように汗を拭き取る。
ここで一度、タオルを湯に浸けた。だいぶ温度が抜けていたためだ。
絞りながらちらりとさとりに視線を向けると、彼女は荒い息を吐きながらぐったりとしていた。
その憔悴しきった態度に、少し不安になって声をかける。
「……さとり? その、大丈夫か?」
「え、ええ……。大丈夫です」
「そうか……。じゃあ、続きやるぞ?」
「……お願いします」
右肩にタオルを乗せ、今度は背骨を伝わせるように下へ潜らせていく。
手が下穿きに触れたところで、まずは右のわき腹を拭う。くびれの周囲を回すようにお腹周りへと滑らせ、ぎりぎり胸部に届かない位置まで上げてから左側に移動し、左のわき腹も優しく拭いていった。
さとりは無言だった。というより、声を堪えているようだった。
「……さとり、肘を上げてくれ」
「は、はい」
素直に肘が上げられ、なるべく恥ずかしくさせないように素早く拭こうとタオルを伸ばす。
そして腋の窪みに触れた瞬間、いきなり手が挟み込まれた。
さとりが肘を下げて肩を縮こませたのだ。どうしたのかとさとりの顔を覗き込む。
「どうした? なんか悪かったか?」
「あ、いえ……くすぐったかっただけです。あの、あとは自分でやりますんで」
「……おう、わかった。じゃあこれ」
「はい。ありがとうございました」
タオルを手渡し、一歩下がった。
さとりは黙々と手際よく脇はもちろん腕や前を拭いていく。次は下半身か、と思ったところで。
責めるようなさとりの瞳と目が合った。
「……魔理沙さん。『次は下半身』なので、少し視線を外してもらえると助かるんですけど」
「あ!? いや、すまん! マナーに欠けるよな、うん」
慌てて体ごと目をそらした。
カチリ、カチリと時が刻まれる音だけが耳朶に触れる。
だが、聞こえてくるのはそれだけではない。真後ろから衣擦れのような乾いた音も耳に入ってくる。
目の前には微動だにしないドアがあるのみ。変化のない一枚絵のような光景は視覚を閉ざしているようなものだった。
なので余計に他の五感――特に聴覚が鋭敏になり、少しの物音にも反応してしまう。
これは体を拭いている音なのか、それとも終わって着替えてる最中なのか。悶々と想像が膨らむ。
やがてそれがパンクしかけたとき。
「魔理沙さん」
「はいぃ!?」
「お腹がすいたので、お鍋をもってきてくれませんか?」
「わ、わかりましたー!」
これ幸いにと、魔理沙は猛ダッシュで部屋を出て行った。
扉を閉める寸前、背中に「まったく、大胆なのか純情なのか」とぶつけられた気がした。
魔理沙は急いで台所に向かい、用意していた鍋に火をつけた。
弱火でじっくりコトコト煮ているので、何もすることがなく立ち尽くしている。
だが彼女の頭には、先ほどまでのさとりの姿がリフレインしていた。
風邪でいつになく弱々しい態度のさとり。頬を赤らめながらペットの心配をするさとり。自分が外に出る際、少しだけ寂しそうな表情を浮かべたさとり。
そのどれもが魔理沙の心に引っかかっていた。
「ふむ……どうしたものか」
腕を組んで思考に没頭する。
今考えているのは、さとりが患っている風邪の対処である。
長くても数日で治るはずなので急ぐ必要はないと思われるが、これが自分にはあるのだ。
火加減を少し調節しながら溜め息をついたとき。
にゃ~、と声と共にスカートを引っ張られる感覚がした。
ちらりと視線を下に向けると、子猫が潤んだ瞳で見上げていた。
彼女の頭を軽く撫で、そっと話しかけた。
「どうした、腹でも減ったのか?」
こちらの言葉は分かるようで、小さく首を横に振られた。
これがハズレだということは、あとは一つだけ。現在魔理沙を悩ませている事柄だろう。
「さとりか?」
すると、彼女はこちらに訴えかけるように忙しなく鳴き始めた。
……気持ちは分からんでもないが。
「あいつは元気だぜ。お前たちが心配しなくてもな。私に任せとけ」
努めて笑顔で言うと、子猫は少し逡巡した後、がっかりした様子で立ち去っていった。
彼女が人間ならばこれ以上になく肩を落としていただろう。
このやり取りも慣れたものだ。というか、さっきから繰り返している。
魔理沙の姿を認めたペットたちがたびたびやってきて、このようにさとりのことを尋ねてくるのだ。
調子を聞いているのか面会を求めているのか定かではないが、どちらにしてもこう答えるしかないのだ。
大丈夫だから任せとけ、と。
いくら彼女たちに病気をうつさないためとはいえ、あのような顔を見るのは心苦しかった。
加えてさとりの寂しそうな表情。早々に治ってもらい、以前のように仲の良い姿を見せてほしいものである。
「やっぱ、私が薬を調合するべきか……」
地上の診療所である永遠亭に行くとすると、移動だけで数時間は消えるし負担も大きいので永琳は頼れない。
魔理沙が信頼している医者は、永遠亭を除くと里の医者くらい。しかも、そこは人間が専門だ。
そもそも里も遠いから却下だろう。旧都に一人くらいはいそうだが、さとりに対する拒絶の感情が懸念される。
「ふ~む。材料はあったかな?」
魔理沙はトレードマークの三角帽子を脱ぎ、台所のテーブルの上で揺さぶった。
するとたちまち茸やら金平糖やらが大量に出てきた。収納方法は乙女の秘密である。
その中から数種類の薬草と茸を選び出し、テーブルに並べた。
「一応作れるか。ただ、なぁ……」
材料は少し足りないが許容範囲内。だが、問題が一つ存在していた。
魔理沙が作ろうとしている風邪薬。これは、人間用なのだ。というよりも人間にしか使ったことがない。
すごく効くのだが効き目が強い分、かなり強い副作用もある。その代わり、翌日はすっきり目覚めも快適なのだが。
これを妖怪が使ったのならどのような効果が生まれるか。せめて風邪だけは治ってもらいたい。
魔理沙は目を閉じて考えられる範囲の結果を予測し、そして開いた時には迷いが消えていた。
「うっし。作るか」
なかなか綱渡りだが、成功率もそう低くない。
さとりに元気になってもらいたいし、落ち込んだ動物たちを見送るのも飽きた。
そして何より――。
「貴重な機会だ。妖怪が飲んだらどうなるか、試してみよう」
魔理沙の中の好奇心が、軋むように疼いていた。
充分に煮えた鍋と調合したばかりの薬を持って、さとりの部屋に戻る。
案の定だが、さとりはすでに新しい寝間着を着てベッドに横たわっていた。
よく見るとシーツが先ほどよりも白く、毛布もふかふかだった。どうやら自分で交換したらしい。
盆を机に置いてさとりに歩み寄る。
さとりは若干清々しい表情で静かに見つめ返してきた。
「顔色は良いな。少しは楽になったか?」
「そうですね、さっぱりしました。でもやはり、治ったらお風呂に入りたいですね」
「ここの浴場は広いしな。温泉も引かれてるし、私もまたお世話になりたいぜ」
「ふふっ、いいですよ。今度は私がお背中を流してあげます」
「楽しみだ。ま、今は治すことだけを考えな」
そう言って魔理沙は椅子の上にあるタライを手に取った。
なみなみと注がれたお湯はすでに冷め切っており、もはやその役目を終えている。
邪魔にならないよう部屋の隅に移動させ、今度は鍋と薬をベッドに持っていく。
そして鍋をさとりの膝にかかっている柔らかな毛布の上に載せた。
魔理沙は椅子に座ってさとりを促す。
「さあ、どうぞ。熱いだろうから気をつけてな」
「……はい」
さとりは頷いたが、何故かスプーンに手を伸ばそうとしない。
どうしたのだろうと眺めていると、さとりは照れたようにこちらの顔とスプーンを見比べていた。
「どうした? 食べないのか?」
「あ、いえ。そういうわけでは……今回はなし、ですか?」
「? 何が?」
「その、あの……」
魔理沙が聞いても、さとりはどもるように声を濁すだけである。
しかしお腹が空いていたのか、おずおずとスプーンを手にとって雑炊を食べ始めた。
恐る恐る口を付け、一旦は熱さに耐えかねたように舌を引っ込める。
次は過剰とも思えるほどに息を吹きかけ、そんなに必死にならなくてもと思うほどに一生懸命冷ましていく。
やがて確認するように少しずつ口の中に収めていくと、安心したように笑顔で食べていった。
そんなさとりの様子に、魔理沙は自身の口角が上がるのを抑えられなかった。
(……やばい。なんだか、さとりがペットに飯をやる気持ちが分かるぜ)
なんというかこう、可愛い。
最初は警戒していた動物が徐々に信頼してくれて、差し出したごはんをおいしそうに食べてくれたみたいな。
鋭い野性の中に、ペットにはない愛らしさがあるというか。
抱きしめてわしゃわしゃ撫でて一緒に寝たいような。
言葉にするのが難しいが、ともかく可愛い。どれほどかというと、お持ち帰りしたいくらいには。
「……お持ち帰りは、ちょっと勘弁してください」
「うええ!? な、私喋ってたか!?」
「……魔理沙さん。あなたは人の能力を忘れすぎですよ」
言われて愕然とした。
ということは、先ほどまでの感想が余すことなく当人に伝わっていた――。
「さとり。首を吊るためのロープと部屋を貸してくれないか。大至急」
「いえ、ここで死なれても困りますよ。お燐が運びやすいように灼熱地獄跡でやってください」
「わかった。すまなかったな、私は所詮シーフな魔法使いだったよ……」
立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りで出て行こうとする。
それを、さとりは深々と息を吐きながら引き止めた。
「冗談ですから。お願いですから戻ってください」
「うむ、了解した。お願いされたらしょうがない」
「まったく、調子がいいんですから……」
魔理沙は素早く椅子に戻り、再度さとりの食事を観察することにした。
さとりはそれを咎めず、黙々と雑炊を口に運び続ける。
そして十数分後。さとりが静かにスプーンを空になった器に置いた。
それを見計らって、魔理沙は器を下げつつ傍にあったコップを取ってさとりに手渡した。
「これは?」
「薬だ。効果は折り紙つきだぜ」
ただし人間用だがな、と心の中で追加しておく。
さとりなら聞こえるかもしれないと思ったが、幸い彼女はこちらに注意を払っていなかったらしい。
いや、目を奪われていたというべきか。
さとりは渡した薬を、眉根に皺を寄せながら凝視していた。
「あの……本当に薬、ですか?」
「もちろん。ありとあらゆる風邪を抹殺する程度の薬だぜ」
「……なんだか私の命まで奪われそうな色ですけど」
「たしかに、紫とオレンジのまだら色じゃ不味そうに見えるな。でも大丈夫だ。一晩で治る」
「味についての保障が欲しいんですが」
「一晩で治る。どんなに不味くて苦しくても、一晩で治る」
力強く断言すると、さとりはひどく渋い顔で手元のコップに見入っていた。
コップの中には、どろりとした紫とオレンジのまだら色をした薬湯が沈殿している。
コップを斜めに傾けても中身はそれほど動かないことから、相当の粘着質であることが分かった。
まあ、自分としては百も承知の事実ではあるが。
「そうだな、ちと飲みにくいかもしれない。だが治る」
「……信じていいんでしょうね? 不味くて苦しくて飲みにくくて治らない、なんてないですよね?」
「ああ! 私を信じろって!」
嘘は言っていない。
さとりはしばらく逡巡するように視線を彷徨わせる。
そして覚悟を決めたのか、眼差しを鋭くして一気に飲み干した。
「おお……」
予想以上の思い切りの良さに、軽い感動を覚える。
ちなみに以前霊夢に出したのだが、彼女には毒だと即断された。
開発者である自分でさえ服用には多分に勇気がいるのだ。その点、さとりは素晴らしい態度だった。
もはや言うことはない。あとは、正しい効能が発揮してくれれば……。
「…………ぷはぁ」
心配する魔理沙を余所に、さとりは長い長い時間をかけて飲み干した。
その後がっくりと倒れこむように顔を伏せ、それからぴくりとも動かなくなった。
「さ、さとり?」
戦々恐々としながら彼女に声をかける。
すると、さとりが唐突に咳き込みだした。まるで肺の奥に詰まった異物を吐き出そうとするような激しさだった。
魔理沙が慌てて彼女の背中をさするが、一向に治まる気配がない。
「おい、さとり!? 大丈夫か!?」
「…………!」
体を大きく上下に揺さぶり、胸を押さえながら咳をする。
その尋常でない様子に、魔理沙は思わず座っていた椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
心配していた副作用か、それとも薬が気道に引っかかっているのか。
そのどちらにしても水分が必要だと判断し、水を持ってこようと考えた。
「ちょっと待ってろ! 今、水を……!」
扉に向かおうとしたとき、強く右腕が引っ張られた。
振り向くと、自分の右手が柔らかな温もりで包み込まれていた。――さとりの手だった。
咄嗟に振り払おうとしたが、意外としっかり握られているようでびくともしない。
さらに少し力を込められて――。
刹那、世界が反転した。
叫びを上げる暇などない。
全身を存分に襲う奇妙な浮遊感に、驚きながらも歯を食いしばって耐える。
けれどその感覚も一瞬。すぐに体がふんわりかつ弾力性のある地面に叩きつけられた。
視界は純白に染め上がり、目の奥でチカチカと淡い星が瞬く。
だがすぐさま回復し、脳が瞬時に状況の報告を行ってきた。
――ベッドの上にいるようだった。
いるようだった、というのは確信が得られなかったからだ。
仰向けになったことで背中全体に触れる、滑らかな肌触り。これはシーツだろう。そして横たわっている地面を握りこむと、厚手の毛布のようなものが手の中に入った。
そして何より――ベッドにいたはずのさとりが、自分に跨っているのだ。
スキマでも使っていない限り、ここはさとりの部屋で彼女のベッドの上ということになる。
だが、何故このような状況になっているのか。
「さ、さとりさん? どいてもらえると、私すっごく嬉しいんですけど」
「……なんだか、頭がクラクラします。体も熱い……」
さとりが見下ろしながらぼんやりと呟く。
魔理沙は必死に思考を張り巡らし、彼女の状態を推察した。
眩暈に発熱。それはあの薬の副作用と一致している。ただ、あれは本当に立っていられないほどに強烈なもので、ほとんど強制的に眠らせるほどの効果があるのだが……。さとりはちょっとしたほろ酔い程度に見える。
けれど、さとりは夢うつつながらも熱の篭った瞳で魔理沙を射抜いた。
「ねえ、魔理沙さん。どうして魔理沙さんは私の心配をしてくれるんですか?」
さとりが唐突に質問してきた。
腹部に苦しくないようのしかかられているため、体勢も変えられない。
なので、さとりを見上げる形で答える。
「何でって、友達が寝込んでたら普通心配するだろ」
「友達……ですか。なら、私以外……例えばお空が寝込んだとしたら、まったく同じことをするんですか?」
「そりゃまあ、そうだな。あいつも友達だし」
そう言うと、さとりは若干不機嫌そうに唇を尖らせた。
「お空にもリンゴを食べさせたり、体を拭いてあげたり、薬を作ったりもしたりするんですか?」
「ああ。それでお空の体調が良くなって喜ぶなら、やるぜ」
当然の話だ。
霧雨魔理沙にとって霊烏路空は、古明地さとりと同じように大切な友人である。
そこに明確な差はないし、どちらの方が大切かなんて比べるまでもない。
彼女たちは等しく得難い友達なのだから。
だからこそ、全力を尽くす。それが誇り高き友人たちへの礼儀であり、それは――
「――普通のことだろう」
ただそれだけ、告げた。
すると、さとりの瞳にどこか昏い色が帯びだし、さらに鋭利な刃物のように鋭さも増していく。
その理由はさっぱり分からないが、彼女はどこか怒っているようにも見えた。
今のどこにさとりを怒らせる要因があったのか、魔理沙は真剣に頭を抱えようとして――できなかった。
さとりが体重を乗せるように肩を押さえ、魔理沙の腕の動きを完全に封じたからだ。
身じろぎもできず、熱い吐息が降りかかるのを黙って受けるしかなかった。
魔理沙の体を完全に掌握したさとりが、静かに問いかける。
「風邪が治るなら、なんでもしてくれるんですか?」
「なんでも……には語弊がありそうだがな。治るのなら、大体のことはやってやるぜ」
「――なら、してもらいましょう」
言うやいなや、さとりはかすかに微笑むと徐々に顔を近づけてきた。
それはあっという間に魔理沙のパーソナルスペースを突き破り、焦点すら合わせづらくなるほどに接近する。
「ちょ、ちょっと待って! さとり、お前は何をしようとしてるんだ!?」
「魔理沙さん。風邪はうつすと治る、という話は知っていますね?」
「あ、ああ。まあよく言われることだけど……つまり私にうつして治そうってのか」
ええ、とさとりは頷いた。
それはたぶん迷信だろうが、それでさとりが満足するのなら構わない……とも言いづらいが。
「そうです。では、どうすれば確実にうつるのか。それは、どうなるとうつるのかを考える必要があります」
「風邪はたしか……飛沫感染じゃなかったか?」
風邪を引いた人の咳やくしゃみで飛び散った体液が喉などの粘膜に付着して感染する。
それが風邪のうつる理由だと本で読んだことがある。
「ええ。つまり、キスすればいいんです」
「そっか、キスかー。それは盲点だったなー……って、キスぅ!?」
「それも確実を期すため、深い繋がりが必要です。つまりはディープなキス、略してディープキス」
「ほとんど略されてないよ! ていうか、そもそも発想が気持ち悪いよ!」
体を揺り動かして脱出しようとするが、妖怪と人間の埋めがたい力の差を加え、さとりが上に乗っかっている。
そのため、抵抗虚しくこれ以上になくさとりの顔がドアップになった。
「ま、待て……待つんだ、さとり。こういうのは……そう、好きな人同士がすることで……」
「魔理沙さんは、私のことが嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ! 嫌いじゃないけど、こういう形はなんか違うというか!」
「――私は、魔理沙さんが好きですよ」
不意に、さとりの顔が跳ねるようにして離れた。
すでに魔理沙の体を押さえようとはせず、腹部に腰を下ろしただけの状態。
もはやいつでも逃げ出せるというのに、魔理沙は動けなかった。
さとりが浮かべる表情に――全身を硬直させるほどの寂寥と悲哀が滲んでいたからだ。
「魔理沙さんは……私が好きですか?」
どくん、と心臓が強く鼓動した。
今にも涙が零れそうな瞳。赤く染まった頬。首を伝う汗。低く弱々しい声。確かに感じられる体重。
そのどれもが、今までになく魔理沙の未熟な感情を打ちのめした。
「ねえ、答えてください……」
さとりのほっそりとした手が、魔理沙の頬を官能的に撫でる。
ぞくり、と背筋に痺れが走った。
「いや、あのな、その……」
「…………」
さとりはもう何も言わない。
近づいてくる。徐々に近づいてくる。
いつもは純白な肌を今までになく紅潮させ、止めどなく荒い息を零しながら接近してくる。
魔理沙は魅入られたように顔を背けることもできず、降りてくるさとりを待っていた。
その途中で、落下が急加速し。
思わず目を閉じて、心に思い浮かんだままに叫んだ。
「ききききキスは当人同士の了解があってやるものであって無理やりはどうかって思ったり思わなかったりするし何よりこんな病気を治すついでみたいな形は御免こうむりたいっていうかできれば地上の朝日を一緒に手を繋ぎながら見て告白した後に雰囲気が最高潮になったところで見つめられながらソフトで甘いキスをされたいというかしたいというみたいなー!」
ぽすん、と。
軽い音と共に、ベッドが小さく揺れた。
しばらくは固く目を閉じていた魔理沙だが、いつまで経っても予測していた感触がないことに疑問を感じ、恐る恐る目を開いてみる。
目に付いたのは広い天井だった。先ほどまであったさとりの姿はなかった。
首を傾げながら視線を左右に振る。すると、右側に見覚えのある髪を発見した。
「すぅ……すぅ……」
「……なんだ、寝てるのか」
さとりは自分の横にあった枕目掛けて突っ込んだようだ。
浅い息を繰り返しながら、魔理沙に体を預ける形で寝入っている。ひっくり返して毛布をかけてあげても目覚めないことから、おそらく随分深い眠りなのだろうと想像がついた。
深々と溜め息をつき、汗で額にへばりついた髪を優しく解いてやる。
ほんの少しだけさとりの表情が緩んだ気がした。
「まったく、とんだ人騒がせなやつだ。意味もなく喚いた私の身にもなってみろ」
先ほど自分が何と言ったか定かではないが、結構恥ずかしいことを叫んだ覚えがある。
思い出すと心情的に良くないと思い、ここで思考を断ち切った。
さとりはこちらの気も知らず、静かに寝息を立てながら眠っている。
ふっくらとした唇が呼吸に合わせて上下していた。
魔理沙は誘われたかのように手を伸ばし、指先でそっとさとりの唇をなぞった。
――今日彼女に触れた中で、最も良い触り心地だった。
「って、なに考えてんだか」
すぐさま唇から指を離した。
さとりはくすぐったそうに口を歪めるだけで、幸い目が覚めることはなかった。
彼女も眠ったことだし、一旦休憩しよう。
そう考え、魔理沙はベッドから降りる――その前に。
「……嬉しかったよ。好きって言われて」
感謝と返答の代わりとして、そっと唇を寄せた。
数日後。
「ごっほごほ! ……喉が、痛いぜ」
魔理沙は見事に風邪を引いていた。
咳がひどく、肺の奥が掻き毟りたくなるほどに痛む。熱のせいか頭も朦朧とし、気だるさで腕一本動かすのも苦痛だ。
自分がこのような状態になった場合、大抵は博麗神社か香霖堂で世話になっている。
しかし、今回は違った。
「はい、魔理沙さん。お水ですよ」
「あー、悪いなさとり。助かる」
コップを受け取り、ゆっくりと飲み干していく。
ふぅ、と一息つくとすぐさまコップが下げられ、濡れたタオルで額の汗が拭われた。
実にタイミングのいいお世話である。まあ、相手が心を読むのならば当然かもしれないと他人事のように思った。
――ここは地霊殿である。
さとりが完治してしばらく滞在していた時に、突然発病したのだ。
医者のところに行くから帰らせてくれと言っても聞き入れられず、ほとんど軟禁状態で看病を受けている。
ちなみに一回さとりが部屋を出た際に逃亡を試みたのだが、多数のペットたちに追いかけられてあえなく失敗した。
それ以降、さとりにつきっきりで看病されている。
「ああ、今お空とお燐が永遠亭とやらに行ってます。その医者をすぐ連れてきてくれますよ」
「……そいつは涙が出るほど嬉しいね」
あまり迷惑をかけたくないんだけどなぁ、と考えるのだが。
「迷惑なんかじゃありません。いい加減にしないと怒りますよ」
「いやだって、またさとりが風邪引いたら本末転倒じゃないか。私は別に霊夢にでも頼むから……」
「駄目です。次に逃げ出そうとしたらベッドに縛り付けますから」
「……トイレはどうすりゃいいんだ」
「大丈夫です。そういう時のために、こんなのも用意してます」
じゃじゃーん、とさとりが取り出したのは変な形をした透明な瓶だった。
用途はよく分からないが、さとりの笑顔からしてとてつもなく遠慮したい代物だというのが理解できた。
勘弁の意味も込めて、首を大袈裟に振った。
「分かった。分かったから、それを引っ込めてくれ」
「あら残念。一回くらい使ってみたかったんですけど」
「今度お前が風邪引いたら試してやる」
「それはお断りします」
そう言ってさとりが瓶を床に置くと同時に、ドアが開いた。
入ってきたのは火焔猫燐、通称お燐だった。燐は部屋に入るやいなやさとりに近づき、
「さとり様。お空が地図を無くしてしまいました。また書いてもらえませんか?」
「……分かったわ。じゃあお燐、魔理沙さんのこと見張っててちょうだい」
「あいあいさー」
と、さとりを外に連れ出してしまった。
これはチャンスだと思う暇もなく、すぐに燐が戻ってきた。
ひどく引きつった笑顔を浮かべながら。
その物々しい雰囲気と表情に圧されながら、魔理沙は言葉を静々と紡いだ。
「な、なにか用か?」
「魔理沙。以前あたいが言ったこと、覚えてる?」
「? いや、なにか言われたっけ?」
「あれだよ。『さとり様に何かしたら、生きたまま灼熱地獄跡に放り込む』ってやつさ」
「ああ、あれか。あれがどうした?」
何故今更そんなことを、と疑問に思いながら聞く。
すると燐は、犬歯を剥き出しにしながら魔理沙が寝ているベッドに座った。
「どうやらあんたは『何かした』ようだから、その報いを受けてもらおうと思ってね」
「は……はい? いや、何もしてないぜ?」
「ああそうかい。なら、思い出させてやろうかね」
燐はいつかと同じく耳元にぐいっと寄ると、そっと呟いた。
「『嬉しかったよ。好きって言われて』」
「!?」
「それだけなら許せた。けど、その後がまずかったねぇ。『あれ』が原因でさとり様の風邪をもらっちまったんだろう?」
「いや、あれは、その」
「……まさか、気まぐれで奪ったわけじゃなかろうね」
「き、気まぐれなんかじゃない! ちゃんと考えて……考えた結果があれで……痛っ」
耳朶に強烈な痛みが走った。
反射的に燐から頭を離すと、燐の口元から赤い線が垂れているではないか。
それが血だと分かったのは――痛む耳を水滴のようなものが伝う感触がきたからだった。
だがそれを非難する間もなく、燐が肩を力強く掴んできた。
ある程度加減はしているようだが、それでも病んでいる人間には辛いものがあった。
「う、ぐう……」
「本当は灼熱地獄跡に放り込みたいんだけど、さとり様がいつも傍にいるからできない。だから、代わりに土産を置いていこうと思ったのよ」
「……みやげ?」
「そう。……さとり様が帰ってきたわね」
その言は正しかった。
慌しい足音と共に、さとりが部屋に入ってきた。
その傍らには空の姿もある。いつもの制御棒は付けておらず、出かける準備がされている。
燐はベッドから腰を上げ、ととっとさとりに駆け寄った。
そして。
「さとり様。魔理沙が、さとり様に告白したいことがあるそうですよ」
とんでもないことを言い放った。
「はいぃ!?」
「あら、何かしら?」
「とても言いにくいことらしいので、心を読んだほうが早いと思いますよ。それでは行ってきます。ほらお空、行くよ」
「うにゅ? うん、わかった」
そう促し、燐は空と一緒にドアに向かった。
魔理沙はその後姿を為す術もなく見送る。ほとんど忘我状態だった。
けれど部屋を出る瞬間、さらなる追い討ちがかけられた。
「魔理沙~、一体何が嬉しかったんだっけ~?」
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
そして、バタンと大きな音を立てながら扉が閉められた。
魔理沙は深い絶望を胸に抱きながら、呆然と扉を眺めていた。
そこに、さとりは首を傾げながら尋ねてきた。
「で、何を告白したいんでしょうか?」
「あああああいやそのあの~~~~~~」
だらだらと脂汗が流れてくる。
何とか話を誤魔化したい。そう思うのだが、心は自分の思い通りにならない。
燐によって強制的に想起された『あの時のこと』が脳内で勝手に再生されてしまう。
「いや、これは、だから……」
「…………」
すると、さとりの顔が風邪を引いていた時以上に真っ赤になっていき――。
その後。
遠路はるばる地底の底までやってきた医者は、部屋に入った途端こう漏らした。
「……いくら私でも、バカップルは治せないわよ」
魔理沙は地霊殿に入った瞬間、強烈な違和感に襲われた。
いなかった。何がというか、誰がというか。普段なら玄関を潜ると真っ先に出迎えてくれる存在がいなかったのだ。
暇そうに寝転がるペットたちである。
住人の八割以上がペットというここ地霊殿では、どこにいようと彼女たちの姿が確認できる。
人型になれるペットは大概主人である古明地さとりに仕事を与えられているのだが、逆に言えば、人型でないと地霊殿では仕事ができないのだ。
なので、言葉も人型も取れない動物は大抵廊下の隅で寝ているか、せめて訪問してきた客人の相手をしようとする。
――そのはずなのだが。
「……誰もいないな。どういうことだ?」
魔理沙は周囲を見渡しながら呟いた。
おーい、と呼びかけても返事はこない。がらんとした玄関に、空虚な呼び声が反響するばかりだ。
――ここで待っていても埒が明かない。
そう判断した魔理沙は、すぐに広々とした廊下を歩き始めた。
もとより、誰かが案内しに来てくれるまで待つような性分ではない。
訪問が突然ならば行動も思うがまま。悪い癖だと分かっていても止められないものである。
多数の動物で溢れているにしては綺麗な廊下を悠々と歩く。
目的地は、地霊殿の玄関からある程度近い台所だ。あそこならば誰かしらが十中八九いるだろうという計算と、右手に持っている袋の中身を置いていこうという目論見からである。
魔理沙が今日訪問しに来たのは、人間の里で買った果物類のお裾分けが理由だった。
ちょうど旬の果物が安売りをしていたので思わず大量購入したのだが、結構な量だったので地霊殿にお裾分けにきたのだ。
地底では新鮮な野菜や果物は少ない。そのため、ここの住人が喜ぶだろうと思って持ってきたのだが……。
「それにしても、本当にいないな。もしかして引っ越した……はないか」
首を傾げながらも真っ直ぐ台所に向かう。
慣れたものだ。この頃はよく遊びに来るので、この屋敷の大まかな間取りはすでに頭に入っている。
動物たちに囲まれて読書というのは、魔理沙が経験してきた中で最高の贅沢の一つだった。
今日もあわよくば……と考えていたが。
そのときだった。
「おっ、誰かいるっぽいな」
あと一回角を曲がるだけ、というところで話し声が聞こえてきたのだ。
咄嗟に立ち止まって耳をすませると、どうも二人の女性が喋っているようだった。
ちょうどいい。さとりかこいしか、あるいは燐に取り次いでもらおう。
そう思い、すっと体を滑り込ませるように角を曲がって彼女たちの正面に立った。
「おい、ちょっと悪いが……って、お空じゃないか」
「……え? ま、まりさ?」
さとりのペット、霊烏路空が目をまん丸に見開いて、こちらを凝視していた。
その手には、湯気が噴き出す小ぶりの鍋が置かれたお盆が持たれている。どうも料理をどこかへ運ぶ最中のようだった。
芳醇とした香りが鼻腔をくすぐり、本当に小さく魔理沙のお腹が鳴いた。
――余っていたら分けてもらおう。
そう思って彼女に近づいた、次の瞬間。予想だにしない展開が起こった。
空の両手がだらりと弛緩し、出来立てらしき鍋がお盆ごと地面に叩きつけられたのだ。
鍋の蓋がカランと音を立てて転がり、中に詰め込まれていたものが廊下にぶちまけられる。どうやらお米が煮立たせた雑炊のようだった。
「お、おい……」
驚きながらも真意を問い質そうと空に視線を投げる。
すると、空は瞬く間にふつふつとその目に涙を浮かべ、魔理沙に飛びかかった。
「ま、まりさー! うわああああああああぁぁぁん!」
「おい、どうしたんだ!?」
「さとり様が、さとり様がー!」
「落ち着けって、おい! さとりがどうしたんだ?」
抱きついてくる空を宥めるようにその背を軽く叩く。
空は気にも留めず、涙や鼻水を垂らしながら驚愕の一言を言い放った。
「さとり様が、死んじゃう!」
「って聞いたんだが、実際のところはどうなんだ? さとり」
「恥ずかしながら、単なる風邪です。お騒がせしました」
さとりの冷静な口調に、魔理沙は疲れたように手の中でナイフを弄ばせた。
地霊殿の一室、さとりの部屋。魔理沙はベッドで横になるさとりの隣で、椅子に座りながらリンゴを剥いていた。
今日買ってきた果物の一つだ。空がさとり用の雑炊を駄目にしてしまったので、その代わりである。
早々に役に立ったことを喜ぶべきかどうかは知らないが、さとりの表情は明るいように見える。風邪で頬が少し赤くなっているが、それでも笑顔を浮かべていた。
魔理沙は時折咳をするさとりに尋ねる。
「でも、なんであいつらを部屋に入れてやらないんだ? 少し可哀想だぞ」
あいつら、とは部屋の外で屯しているペットたちのことである。
前の廊下を埋め尽くすほどのペットが、心配そうに部屋のドアを眺めているのだ。
足の踏み場もないので、この部屋に入るには飛行を余儀なくされるほどだった。
「それはもちろん、あの子たちに風邪をうつさないためにですよ」
「だからってお燐たちまで締め出すのはやりすぎじゃないか? 風邪を引いた時くらい甘えればいいのに」
「……そうしたいんですけど」
若干非難めいた言葉に、さとりは俯いて視線をそらした。
「人間や妖怪と違って、あの子たちは少しの病気も危険なんです。体力的な意味合いで」
「まあ、それはそうだろうけどさ。ならお燐やお空はどうだ? 一応あいつらは妖怪だろ」
「一部のペットを優遇すると、他のペットが怒るんです。もしかしたら、収拾がつかなくなるほどの騒ぎになるかもしれません。それに……」
「それに?」
さとりが悩ましげに息を吐く。
風邪のせいとはいえ、頬が赤く染まった彼女がすると、ひどく色っぽい仕草に感じる。
「私がこんなに苦しいのに、あの子たちが同じ目に合うのは嫌ですから」
「……お前、主人っていうより母親だな」
魔理沙は素直に感嘆した。
さとりの視線は明らかに母性を宿しており、それは閉ざされたドアを向いている。
彼女の目に映っているのはおそらく、無機質な扉ではなく自分を心配してくれるペットたちなのだろう。
さとりが母親ならば父親は……こいしになるのか?
放浪癖があって家庭を顧みない夫に、夫のいない家庭をひたすら守り続ける妻。
そう想像してみると、案外合っている気がしないでもない。
「全然合ってませんから。私たち姉妹で変な妄想をしないでください」
すぐさま本人から否定の言葉が飛んできた。
頭の中でくらい好きなことをさせてくれよ、と心で呟きながらさとりを見やる。
すると彼女は口を尖らせて体を起こした。
「そんなのは当人、というか私がいない場所でやってください。私の能力は知ってるでしょう」
「まあな。まったく、心を読まれるってのはどうにも居心地が悪いぜ」
「白々しい。魔理沙さんは病人を苛めてずいぶん楽しそうですね」
じっとりと睨まれるが、魔理沙は気にした様子もなくリンゴにナイフを走らせた。
一人暮らしもしているし手先は器用な方なので、こういった作業はお手の物である。
すぐさまリンゴが切り分けられ、皿の上に並べられた。
魔理沙は立ち上がりながら皿を手に取り、毛布を被ったさとりの目の前にそっと差し出した。
「さあどうぞ、姫君。おいしいおいしいリンゴですよ」
「……ずいぶん嫌味ったらしいですが、食物に罪はありません。ありがたくいただきます」
そう言うと、さとりはリンゴを摘んで一口齧った。
やはり旬の果物は味がいいらしい。あっという間にさとりの不機嫌な表情が消え、嬉しそうに顔を綻ばせた。
魔理沙も手を伸ばして頬張る。程よい水分と甘みが自分の好みと合致していた。
続けてもう一つ、と再びリンゴを口に運ぼうとすると。
「ちょっと魔理沙さん」
「なんだい、さとりさん」
突然呼び止められた。
口を開きながら瞳だけさとりに向ける。――なかなかに、彼女は剣呑な表情を浮かべていた。
いつもの口数少ないさとりはどこへやら、怒涛の口撃が耳を打つ。
「病人の食べ物を取るとはどういう了見ですか? 風邪がうつったらどうするんですか? 魔理沙さんは地上に行けばいくらでも食べられるんですから、ここは私に全部譲るのが筋じゃないんですか? というか、全部寄越しなさい。今すぐに」
どうやら相当お気に召したらしい。
普段は食べ物に執着しないさとりがこれほどまでに言ってくれるとは。
土産を持ってきた身として喜びがこみ上げてくるが、このまま彼女に唯々諾々と従うのは気が引ける。
ならば、と頷いて摘んでいたリンゴをさとりの口元に近づけた。
さとりはこちらの意図をはかりかねたように首を傾げる。
「……? これは、どういうことですか?」
「はい、あーん」
「なっ!?」
その一言で、さとりの頭から沸騰したヤカンの如く蒸気が噴き出た。
顔の赤みはもはや真紅といっていいほどに色を深め、唇はわなわなと震えるように微動する。
予想をはるかに超えた動揺ぶりに内心驚きながらも、そんな表情はおくびにも出さずにリンゴを突き出した。
「ほら、あーん」
「いやちょっと、こういったことは、その、あの……」
「さとりが食べたいって言ったんじゃないか」
「それはぁ……そうですけどぉ……」
羞恥からか、さとりの白いうなじまで真っ赤に染まっていく。
ちょっと悪乗りしただけなのだが、何故彼女はこれほどまでに恥ずかしがるのだろう。
たぶん風邪で弱ってるところにこんなことされるのは照れるのかな、と魔理沙は勝手に結論付けた。
さとりが布団を両手で握り締め、俯いてから数分ほど経って。
ようやく決心がいったのか、きりっと鋭い眼差しで魔理沙の持つリンゴを見据えた。
「いいでしょう……いざっ」
「どーぞ」
シャクリ、と軽い音と共に純白のリンゴが三分の一ほど削られた。
さとりの小さな口から透明な雫が散り、噛み千切られたリンゴの断面から垂れた果汁が指を伝う。
一瞬舐め取りたい衝動に駆られるが、さすがにそれは我慢した。衛生的にも良くない。
「…………」
「…………」
さとりが無言で咀嚼しているため、魔理沙も口を開かないで待機する。
やがて嚥下したさとりは、ゆっくりと呼吸するように息を吐いた。それである程度余裕ができたのか、頬の赤みは徐々に薄らいでいった。
「……ぱくっ」
そして今度は、何の躊躇いもなくリンゴを口に運んだ。
二口目、三口目と続いてリンゴは跡形も無くなった。
魔理沙がさとりの次なる挙動に注目していると、さとりは妙に据わった瞳で皿とこちらの顔を交互に見た後。
切り分けられたリンゴを指差し、
「……ん」
何かをねだるように睨みつけてきた。
魔理沙は一切れのリンゴを手に取って、さとりの唇の一歩手前まで持っていった。
さとりは吹っ切れたように遠慮なく齧り、次々と腹に収めていく。
「……おいしいか?」
「…………」
彼女は無言で頷き、ついにはすべてのリンゴを平らげた。
指にべっとりついたリンゴの汁を舐めるのは憚れたので、結局傍にあったティッシュで処理することにした。
お腹の満たされたさとりは布団を肩まで被り、ゆっくりと目を閉じて深呼吸した。
眠くなったらしい。それを察した魔理沙が椅子から立ち上がると、彼女はちらりと視線を向けてから再度目を閉じた。
静かに扉を開いて外に出る。するとたちまち、廊下でひしめいていた動物たちに囲まれた。
魔理沙には自分たちの言葉が分からないのを知っているためか、誰もが無言で視線を送ってくる。
そして彼女たちの意志を代表するように、目を腫らした空と眉根をひそめた燐が近寄ってきた。
「さとり様はどう?」
「寝付いたぜ。鍋の出番はもうちょっと後かな」
「さとり様大丈夫!? ほんとうに大丈夫!?」
「落ち着け、お空。大した病状じゃない。今は寝かせてやろうぜ」
しー、と唇に人差し指を当てると、空は涙ぐみながらもこくりと頷いた。
自分は医者ではないが、見たところ人間もかかるごく普通の風邪だろう。いざとなれば地上にある永遠亭にでも連れ込めばいい話で、このまま寝ていても治ると思う。
ただまあ、彼女たちペットがさとりの部屋に入るのはよろしくない。
人によっては動物の毛で風邪が悪化するらしいし、ペットも風邪を引いてさとりが悪化したら最悪の状況だ。
というわけで魔理沙は、燐にお願いしてみんなに帰ってもらうよう頼んだ。
「まあ、しょうがないよね」
この中で一番冷静そうな燐はあっさり了承し、彼女たちに解散を命じた。
予想通りではあるが、ペットたちは口々に不満の声を上げる。あくまでもさとりを起こさないよう静かにだが、大勢いるせいで合唱のように廊下に響いた。
燐と空が根気強く諭していくと、やがて一匹一匹と悲しそうに去っていき。
三十分ほど経って、ようやく自分と燐たちのみとなった。
ご苦労様と労いの言葉をかけつつ、さとりの今後について尋ねる。
「でさ、さとりはどうするんだ? 医者に見せるのか誰が世話するのか、そこらへんは」
「そうだねー……あたいたちが見ててあげたいけど、やっぱり角が立つし。いつもならこいし様が看病するんだけど」
「こいし? そういや、あいつどこいったんだ?」
こいしは妖怪にしてさとりの妹なので、一番適任といえば適任だろう。
だが、燐は肩を落として首を横に振った。
「今日もふらふらお出かけ中。昔なら地底の中だけで済んだけど、今は広大な地上も行動範囲だからねぇ。二、三日帰ってこないのはもう珍しくないよ」
「ふ~ん。あいつもなかなか薄情なんだな」
「いや、さとり様が強情なんだよ。少し前から調子悪そうにしてたんだけど、それを指摘しても『大丈夫』の一点張り。今回だって、仕事中に突然倒れたんだから」
「……ふぐっ、さとり様……」
「あーもう、泣かないの。大丈夫だって言ってるじゃないさ」
再度瞳を潤ませ始めた親友の背中を軽く叩く燐。
実に微笑ましい光景だが、それを喜べるような状況ではなかった。
やはり病気で寝込んでいる時は誰かが傍にいてやった方がいいに決まっている。
だが、丁度よく適任者がいないときたものだ。どうしたものかと三人で首を傾げる。
すると燐がこっちを見て。
「ああ、だったら魔理沙でいいや」
と、ごく簡単に言い放った。
頼られるのは悪くないが、そんな言い方はないだろうと反論する。
だが、燐は冷たい視線で睨みながら、喉の奥から搾り出すように鋭く言葉を紡いだ。
「本当はあたいが看病したいのよ。弱ったさとり様のお世話をして、『ありがとうね、お燐』って言われたいのよ。近づくことすら禁止されてたけど、今日はこいし様がいなくてようやくお鉢が回ってきたと正直喜んでたのよ」
「あ、ああ……」
「そう思ってたらあんたが来て、計画は台無し。心を込めて作った鍋もお空が台無しにしちゃったし。しかも、さっきあんたがさとり様と顔を合わせたことで、まあ間違いなくさとり様はあんたが傍にいてくれるものだと思ってるでしょうね」
まるで呪詛でも放っているかのような雰囲気に、魔理沙は思わずたじろいだ。
横を見ると空も同じように恐怖の表情を浮かべながら一歩後退している。それほどに、今の燐には迫力があった。
かと思いきや、突如燐は表情を緩めて溜め息をついた。
「と、いうのは冗談だけどさ。あたいたちにも仕事があるわけだし、さとり様が倒れて地霊殿全体が停止したら、それこそさとり様の迷惑になるのよ。だからとっても暇そうな人間に任せるの。分かる?」
「お、おう。把握した」
「ならいい。さ、お空。私たちも行こう。そろそろ灼熱地獄跡に熱を追加しなきゃ」
「……うん、わかった」
先ほどの恐怖が残っているのか、素直に従う空。
歩き去っていく彼女たちの後姿を見送る。その途中で、燐が忘れ物でもしたように走ってきて体を寄せてきた。
耳元で燐の吐息が感じられる。くすぐったさでわずかに身じろぎすると。
「――さとり様に何かしたら、あんたを生きたまま灼熱地獄に放り込んでやる」
ひぃ、と吐息のような悲鳴が自分の口から零れる。
特大の呪いをかけていった化け猫は、まるでスキップするかのように、今度こそ姿を消した。
魔理沙は一旦台所に行き、自分の持ってきた土産を適当なところに放り込んだ。
あまり常温で保存するのに適さない食材もあったので、氷室に入れなければならなかったのだ。
それからさとりの部屋に戻ると、さとりは目を覚ましていた。
本当に浅い眠りだったらしい。特に眠たげというわけでもなく、戻ってきた魔理沙を静かに見つめていた。
さとりはずっと無言だった。
彼女は布団を腰までかけ、後ろの壁にもたれる形で体を起こしている。
魔理沙も居心地が悪そうにそわそわと体を揺らすが、それだけだった。
妙に重苦しい沈黙が小さな部屋を支配しており、進んで音を出しているのは時計だけである。
さてこれからどうしようか、と腕を組んで考える。することがないのだ。
病人の前で退屈だと言うのはまったくもって失礼な話ではある。しかしさとりはフランのように我が侭を申してくれるわけでもなく、ここには霊夢の部屋のように小説があるわけでもない。
手持ち無沙汰、というのは霧雨魔理沙にとって拷問にも等しいことだった。
するとそんな自分の心を読んだのか、さとりがぽつりと呟いた。
「退屈なら、帰ってもいいですよ」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
さとりは俯いたまま、言葉を続ける。
「たしかに私には気の利いた話術もありませんし、暇つぶしの道具もここにはないです。どうせ一人で寝てても治る病気なんですから、魔理沙さんがここにいる必要もないかと」
「いやまあ……そう言うなよ。これでも心配してるんだから」
「いいですよ言い訳しなくても。我ながら面白みのない妖怪だなって思ってますから」
ふんっと鼻を鳴らして視線を窓に向けた。
窓のガラス部分に反射して、うっすらとさとりの表情が見えた。
――彼女はいじけていた。
自らの感情を素直に表現できない子供か、あるいは自分で引いた線引きの外側まで出ないように踏ん張る少女か。
どちらにしても、さとりが自分の気持ちを偽っている。
自分の経験からしても、やはり病床に臥している者は等しく寂しさに身を焦がすのだろう。
しかもさとりは意地っ張りで、それを誰かに伝えるのが苦手なのだ。
ならばこちらが歩み寄って耳を澄ませてやらなければならない。
「さとり。腹は減ってないか?」
「へ? い、いえ、まだあんまり」
「そうか。なら、してもらいたいことはないか? 水が飲みたいとか汗が気持ち悪いとか、そういうのは」
「えー……そうですね。お風呂に入りたいです」
さとりは首を傾げながらもすんなり答えた。
だが、それはなかなか難しい相談だ。顎に手をやって思考する。
別に風邪の時に風呂に入るのが悪いわけではない。
ぱぱっと体を洗って水気をよく拭き取り、すぐさまベッドに入れば大丈夫のはずだ。
しかし今の場合、地霊殿の構造が問題だった。
ここは地霊殿の二階で、中央より少し右に寄った部屋である。対して、浴場は一階の左端に位置している。
しっかりと着込んで早めに部屋に戻ったとしても湯冷めする可能性があり、そうなれば病状が悪化しかねない。
となると……。
「よし分かった、ちょっと待ってろ」
「え? ちょ、ちょっと魔理沙さん!?」
ふと思いついた名案を実行に移すべく、さとりの部屋を飛び出した。
途中の廊下で出会った猫メイドに頼んで色々と準備をする。タライにタオル、そしてたっぷりのお湯。念のために代えのシーツと枕、余っている掛け布団などを猫メイドと連携して素早く用意した。ついでに、あとは煮込むだけの雑炊の支度も済ませる。
すべての準備は万端。意気揚々と、さとりの待つ部屋へ戻っていった。
「おいーす。待たせたな!」
「……なんですか? その湯気の立つタライは」
「なにって、お前の体を拭くためのやつだけど」
「体を拭くって……え、えええええええええぇぇぇぇぇぇ!?」
驚愕をあらわにし、さとりは逃走を図るようにベッドの上で小さく後ずさりをした。
そんなに驚くことかと疑問に思うが、それよりもお湯が冷める前にやってしまおうとタライを椅子の上に置いた。
タライの高さ三分の二ほど注がれた湯がゆったりと波打つ。そこに乾いたタオルを突っ込んだ。
「っ」
思いの外熱くて顔が歪むが、なんとか我慢して取り出す。
そしてきつく絞ると、あらためてさとりに向き直った。
「さ、脱いでくれ」
「ぬぬぬぬ脱げって!? 大胆にも程がありませんか!?」
「いや、普通だろ。ほら早く。せっかく絞ったのに冷たくなる」
「~~~~~~っ!」
魔理沙が淡々と促すと、さとりは再び顔を真っ赤にしてぷるぷると拳を震わせた。
その仕草が受諾か拒絶か魔理沙には判断がつかなかったが、ここまで用意して引き下がる気はない。
そういった意志を込めてさとりを見つめる。
さとりはしばし眉間に皺を深々と刻み……やがて、糸の切れた人形のようにかっくりと首を折った。
「あ、あまり見ないでくださいね……」
「見ないでやれってのは無理だが、まあ努力するさ」
さとりは上に着ていた服を脱ぎ、魔理沙に背を向けていた。
腕は胸の辺りで交差させており、日焼けしていない純白の肌はかすかに赤みを帯びている。
やはり友人とはいえ、こうも赤裸々に肌を晒すのは抵抗があるのだろう。
これが風呂場ならばいざ知らず、ここは普段リラックスしている自室だ。それも仕方ないと思う。
とりあえず、手早く終わらせてやることにした。
「はーい、背中拭きますよ~」
「もう、楽しんでないでさっさとやってください!」
「了解了解~」
タオルを掌ほどの大きさに広げ、さとりの白い肌にそっと触れた。
ぴくり、と背筋が震えたが、逃げるような動作はない。汗だけを拭き取るように、優しくタオルを滑らせていく。
最初は背中の中心から円を描くように、そのまま両の肩甲骨へ移動しながら軽く撫でていく。
骨の形を確認するようになぞり、そして肩を揉みこむように拭いていった。
「……ん、はぁ……ふ」
時折、窓に顔を向けているさとりが小さな吐息を洩らす。
なにやらムズ痒い感覚が背中を駆け上り、それを誤魔化すように口を開いた。
「お客さん、こってますね~。デスクワークは大変ですか~?」
「……結構。こればかりはペットに任せられませんから……はぅ!?」
「お、ここらへんか。ここがええのんか?」
「あう~~~、そこは、ちょっと、刺激が……!」
甲高い声が簡素な室内で反響する。
軽い気持ちで始めたマッサージだが、これ以上はなんだか危ない気がしてきた。
素直に汗だけを拭こうと決め、首筋にタオルを移した。顎下も包み込むように汗を拭き取る。
ここで一度、タオルを湯に浸けた。だいぶ温度が抜けていたためだ。
絞りながらちらりとさとりに視線を向けると、彼女は荒い息を吐きながらぐったりとしていた。
その憔悴しきった態度に、少し不安になって声をかける。
「……さとり? その、大丈夫か?」
「え、ええ……。大丈夫です」
「そうか……。じゃあ、続きやるぞ?」
「……お願いします」
右肩にタオルを乗せ、今度は背骨を伝わせるように下へ潜らせていく。
手が下穿きに触れたところで、まずは右のわき腹を拭う。くびれの周囲を回すようにお腹周りへと滑らせ、ぎりぎり胸部に届かない位置まで上げてから左側に移動し、左のわき腹も優しく拭いていった。
さとりは無言だった。というより、声を堪えているようだった。
「……さとり、肘を上げてくれ」
「は、はい」
素直に肘が上げられ、なるべく恥ずかしくさせないように素早く拭こうとタオルを伸ばす。
そして腋の窪みに触れた瞬間、いきなり手が挟み込まれた。
さとりが肘を下げて肩を縮こませたのだ。どうしたのかとさとりの顔を覗き込む。
「どうした? なんか悪かったか?」
「あ、いえ……くすぐったかっただけです。あの、あとは自分でやりますんで」
「……おう、わかった。じゃあこれ」
「はい。ありがとうございました」
タオルを手渡し、一歩下がった。
さとりは黙々と手際よく脇はもちろん腕や前を拭いていく。次は下半身か、と思ったところで。
責めるようなさとりの瞳と目が合った。
「……魔理沙さん。『次は下半身』なので、少し視線を外してもらえると助かるんですけど」
「あ!? いや、すまん! マナーに欠けるよな、うん」
慌てて体ごと目をそらした。
カチリ、カチリと時が刻まれる音だけが耳朶に触れる。
だが、聞こえてくるのはそれだけではない。真後ろから衣擦れのような乾いた音も耳に入ってくる。
目の前には微動だにしないドアがあるのみ。変化のない一枚絵のような光景は視覚を閉ざしているようなものだった。
なので余計に他の五感――特に聴覚が鋭敏になり、少しの物音にも反応してしまう。
これは体を拭いている音なのか、それとも終わって着替えてる最中なのか。悶々と想像が膨らむ。
やがてそれがパンクしかけたとき。
「魔理沙さん」
「はいぃ!?」
「お腹がすいたので、お鍋をもってきてくれませんか?」
「わ、わかりましたー!」
これ幸いにと、魔理沙は猛ダッシュで部屋を出て行った。
扉を閉める寸前、背中に「まったく、大胆なのか純情なのか」とぶつけられた気がした。
魔理沙は急いで台所に向かい、用意していた鍋に火をつけた。
弱火でじっくりコトコト煮ているので、何もすることがなく立ち尽くしている。
だが彼女の頭には、先ほどまでのさとりの姿がリフレインしていた。
風邪でいつになく弱々しい態度のさとり。頬を赤らめながらペットの心配をするさとり。自分が外に出る際、少しだけ寂しそうな表情を浮かべたさとり。
そのどれもが魔理沙の心に引っかかっていた。
「ふむ……どうしたものか」
腕を組んで思考に没頭する。
今考えているのは、さとりが患っている風邪の対処である。
長くても数日で治るはずなので急ぐ必要はないと思われるが、これが自分にはあるのだ。
火加減を少し調節しながら溜め息をついたとき。
にゃ~、と声と共にスカートを引っ張られる感覚がした。
ちらりと視線を下に向けると、子猫が潤んだ瞳で見上げていた。
彼女の頭を軽く撫で、そっと話しかけた。
「どうした、腹でも減ったのか?」
こちらの言葉は分かるようで、小さく首を横に振られた。
これがハズレだということは、あとは一つだけ。現在魔理沙を悩ませている事柄だろう。
「さとりか?」
すると、彼女はこちらに訴えかけるように忙しなく鳴き始めた。
……気持ちは分からんでもないが。
「あいつは元気だぜ。お前たちが心配しなくてもな。私に任せとけ」
努めて笑顔で言うと、子猫は少し逡巡した後、がっかりした様子で立ち去っていった。
彼女が人間ならばこれ以上になく肩を落としていただろう。
このやり取りも慣れたものだ。というか、さっきから繰り返している。
魔理沙の姿を認めたペットたちがたびたびやってきて、このようにさとりのことを尋ねてくるのだ。
調子を聞いているのか面会を求めているのか定かではないが、どちらにしてもこう答えるしかないのだ。
大丈夫だから任せとけ、と。
いくら彼女たちに病気をうつさないためとはいえ、あのような顔を見るのは心苦しかった。
加えてさとりの寂しそうな表情。早々に治ってもらい、以前のように仲の良い姿を見せてほしいものである。
「やっぱ、私が薬を調合するべきか……」
地上の診療所である永遠亭に行くとすると、移動だけで数時間は消えるし負担も大きいので永琳は頼れない。
魔理沙が信頼している医者は、永遠亭を除くと里の医者くらい。しかも、そこは人間が専門だ。
そもそも里も遠いから却下だろう。旧都に一人くらいはいそうだが、さとりに対する拒絶の感情が懸念される。
「ふ~む。材料はあったかな?」
魔理沙はトレードマークの三角帽子を脱ぎ、台所のテーブルの上で揺さぶった。
するとたちまち茸やら金平糖やらが大量に出てきた。収納方法は乙女の秘密である。
その中から数種類の薬草と茸を選び出し、テーブルに並べた。
「一応作れるか。ただ、なぁ……」
材料は少し足りないが許容範囲内。だが、問題が一つ存在していた。
魔理沙が作ろうとしている風邪薬。これは、人間用なのだ。というよりも人間にしか使ったことがない。
すごく効くのだが効き目が強い分、かなり強い副作用もある。その代わり、翌日はすっきり目覚めも快適なのだが。
これを妖怪が使ったのならどのような効果が生まれるか。せめて風邪だけは治ってもらいたい。
魔理沙は目を閉じて考えられる範囲の結果を予測し、そして開いた時には迷いが消えていた。
「うっし。作るか」
なかなか綱渡りだが、成功率もそう低くない。
さとりに元気になってもらいたいし、落ち込んだ動物たちを見送るのも飽きた。
そして何より――。
「貴重な機会だ。妖怪が飲んだらどうなるか、試してみよう」
魔理沙の中の好奇心が、軋むように疼いていた。
充分に煮えた鍋と調合したばかりの薬を持って、さとりの部屋に戻る。
案の定だが、さとりはすでに新しい寝間着を着てベッドに横たわっていた。
よく見るとシーツが先ほどよりも白く、毛布もふかふかだった。どうやら自分で交換したらしい。
盆を机に置いてさとりに歩み寄る。
さとりは若干清々しい表情で静かに見つめ返してきた。
「顔色は良いな。少しは楽になったか?」
「そうですね、さっぱりしました。でもやはり、治ったらお風呂に入りたいですね」
「ここの浴場は広いしな。温泉も引かれてるし、私もまたお世話になりたいぜ」
「ふふっ、いいですよ。今度は私がお背中を流してあげます」
「楽しみだ。ま、今は治すことだけを考えな」
そう言って魔理沙は椅子の上にあるタライを手に取った。
なみなみと注がれたお湯はすでに冷め切っており、もはやその役目を終えている。
邪魔にならないよう部屋の隅に移動させ、今度は鍋と薬をベッドに持っていく。
そして鍋をさとりの膝にかかっている柔らかな毛布の上に載せた。
魔理沙は椅子に座ってさとりを促す。
「さあ、どうぞ。熱いだろうから気をつけてな」
「……はい」
さとりは頷いたが、何故かスプーンに手を伸ばそうとしない。
どうしたのだろうと眺めていると、さとりは照れたようにこちらの顔とスプーンを見比べていた。
「どうした? 食べないのか?」
「あ、いえ。そういうわけでは……今回はなし、ですか?」
「? 何が?」
「その、あの……」
魔理沙が聞いても、さとりはどもるように声を濁すだけである。
しかしお腹が空いていたのか、おずおずとスプーンを手にとって雑炊を食べ始めた。
恐る恐る口を付け、一旦は熱さに耐えかねたように舌を引っ込める。
次は過剰とも思えるほどに息を吹きかけ、そんなに必死にならなくてもと思うほどに一生懸命冷ましていく。
やがて確認するように少しずつ口の中に収めていくと、安心したように笑顔で食べていった。
そんなさとりの様子に、魔理沙は自身の口角が上がるのを抑えられなかった。
(……やばい。なんだか、さとりがペットに飯をやる気持ちが分かるぜ)
なんというかこう、可愛い。
最初は警戒していた動物が徐々に信頼してくれて、差し出したごはんをおいしそうに食べてくれたみたいな。
鋭い野性の中に、ペットにはない愛らしさがあるというか。
抱きしめてわしゃわしゃ撫でて一緒に寝たいような。
言葉にするのが難しいが、ともかく可愛い。どれほどかというと、お持ち帰りしたいくらいには。
「……お持ち帰りは、ちょっと勘弁してください」
「うええ!? な、私喋ってたか!?」
「……魔理沙さん。あなたは人の能力を忘れすぎですよ」
言われて愕然とした。
ということは、先ほどまでの感想が余すことなく当人に伝わっていた――。
「さとり。首を吊るためのロープと部屋を貸してくれないか。大至急」
「いえ、ここで死なれても困りますよ。お燐が運びやすいように灼熱地獄跡でやってください」
「わかった。すまなかったな、私は所詮シーフな魔法使いだったよ……」
立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りで出て行こうとする。
それを、さとりは深々と息を吐きながら引き止めた。
「冗談ですから。お願いですから戻ってください」
「うむ、了解した。お願いされたらしょうがない」
「まったく、調子がいいんですから……」
魔理沙は素早く椅子に戻り、再度さとりの食事を観察することにした。
さとりはそれを咎めず、黙々と雑炊を口に運び続ける。
そして十数分後。さとりが静かにスプーンを空になった器に置いた。
それを見計らって、魔理沙は器を下げつつ傍にあったコップを取ってさとりに手渡した。
「これは?」
「薬だ。効果は折り紙つきだぜ」
ただし人間用だがな、と心の中で追加しておく。
さとりなら聞こえるかもしれないと思ったが、幸い彼女はこちらに注意を払っていなかったらしい。
いや、目を奪われていたというべきか。
さとりは渡した薬を、眉根に皺を寄せながら凝視していた。
「あの……本当に薬、ですか?」
「もちろん。ありとあらゆる風邪を抹殺する程度の薬だぜ」
「……なんだか私の命まで奪われそうな色ですけど」
「たしかに、紫とオレンジのまだら色じゃ不味そうに見えるな。でも大丈夫だ。一晩で治る」
「味についての保障が欲しいんですが」
「一晩で治る。どんなに不味くて苦しくても、一晩で治る」
力強く断言すると、さとりはひどく渋い顔で手元のコップに見入っていた。
コップの中には、どろりとした紫とオレンジのまだら色をした薬湯が沈殿している。
コップを斜めに傾けても中身はそれほど動かないことから、相当の粘着質であることが分かった。
まあ、自分としては百も承知の事実ではあるが。
「そうだな、ちと飲みにくいかもしれない。だが治る」
「……信じていいんでしょうね? 不味くて苦しくて飲みにくくて治らない、なんてないですよね?」
「ああ! 私を信じろって!」
嘘は言っていない。
さとりはしばらく逡巡するように視線を彷徨わせる。
そして覚悟を決めたのか、眼差しを鋭くして一気に飲み干した。
「おお……」
予想以上の思い切りの良さに、軽い感動を覚える。
ちなみに以前霊夢に出したのだが、彼女には毒だと即断された。
開発者である自分でさえ服用には多分に勇気がいるのだ。その点、さとりは素晴らしい態度だった。
もはや言うことはない。あとは、正しい効能が発揮してくれれば……。
「…………ぷはぁ」
心配する魔理沙を余所に、さとりは長い長い時間をかけて飲み干した。
その後がっくりと倒れこむように顔を伏せ、それからぴくりとも動かなくなった。
「さ、さとり?」
戦々恐々としながら彼女に声をかける。
すると、さとりが唐突に咳き込みだした。まるで肺の奥に詰まった異物を吐き出そうとするような激しさだった。
魔理沙が慌てて彼女の背中をさするが、一向に治まる気配がない。
「おい、さとり!? 大丈夫か!?」
「…………!」
体を大きく上下に揺さぶり、胸を押さえながら咳をする。
その尋常でない様子に、魔理沙は思わず座っていた椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
心配していた副作用か、それとも薬が気道に引っかかっているのか。
そのどちらにしても水分が必要だと判断し、水を持ってこようと考えた。
「ちょっと待ってろ! 今、水を……!」
扉に向かおうとしたとき、強く右腕が引っ張られた。
振り向くと、自分の右手が柔らかな温もりで包み込まれていた。――さとりの手だった。
咄嗟に振り払おうとしたが、意外としっかり握られているようでびくともしない。
さらに少し力を込められて――。
刹那、世界が反転した。
叫びを上げる暇などない。
全身を存分に襲う奇妙な浮遊感に、驚きながらも歯を食いしばって耐える。
けれどその感覚も一瞬。すぐに体がふんわりかつ弾力性のある地面に叩きつけられた。
視界は純白に染め上がり、目の奥でチカチカと淡い星が瞬く。
だがすぐさま回復し、脳が瞬時に状況の報告を行ってきた。
――ベッドの上にいるようだった。
いるようだった、というのは確信が得られなかったからだ。
仰向けになったことで背中全体に触れる、滑らかな肌触り。これはシーツだろう。そして横たわっている地面を握りこむと、厚手の毛布のようなものが手の中に入った。
そして何より――ベッドにいたはずのさとりが、自分に跨っているのだ。
スキマでも使っていない限り、ここはさとりの部屋で彼女のベッドの上ということになる。
だが、何故このような状況になっているのか。
「さ、さとりさん? どいてもらえると、私すっごく嬉しいんですけど」
「……なんだか、頭がクラクラします。体も熱い……」
さとりが見下ろしながらぼんやりと呟く。
魔理沙は必死に思考を張り巡らし、彼女の状態を推察した。
眩暈に発熱。それはあの薬の副作用と一致している。ただ、あれは本当に立っていられないほどに強烈なもので、ほとんど強制的に眠らせるほどの効果があるのだが……。さとりはちょっとしたほろ酔い程度に見える。
けれど、さとりは夢うつつながらも熱の篭った瞳で魔理沙を射抜いた。
「ねえ、魔理沙さん。どうして魔理沙さんは私の心配をしてくれるんですか?」
さとりが唐突に質問してきた。
腹部に苦しくないようのしかかられているため、体勢も変えられない。
なので、さとりを見上げる形で答える。
「何でって、友達が寝込んでたら普通心配するだろ」
「友達……ですか。なら、私以外……例えばお空が寝込んだとしたら、まったく同じことをするんですか?」
「そりゃまあ、そうだな。あいつも友達だし」
そう言うと、さとりは若干不機嫌そうに唇を尖らせた。
「お空にもリンゴを食べさせたり、体を拭いてあげたり、薬を作ったりもしたりするんですか?」
「ああ。それでお空の体調が良くなって喜ぶなら、やるぜ」
当然の話だ。
霧雨魔理沙にとって霊烏路空は、古明地さとりと同じように大切な友人である。
そこに明確な差はないし、どちらの方が大切かなんて比べるまでもない。
彼女たちは等しく得難い友達なのだから。
だからこそ、全力を尽くす。それが誇り高き友人たちへの礼儀であり、それは――
「――普通のことだろう」
ただそれだけ、告げた。
すると、さとりの瞳にどこか昏い色が帯びだし、さらに鋭利な刃物のように鋭さも増していく。
その理由はさっぱり分からないが、彼女はどこか怒っているようにも見えた。
今のどこにさとりを怒らせる要因があったのか、魔理沙は真剣に頭を抱えようとして――できなかった。
さとりが体重を乗せるように肩を押さえ、魔理沙の腕の動きを完全に封じたからだ。
身じろぎもできず、熱い吐息が降りかかるのを黙って受けるしかなかった。
魔理沙の体を完全に掌握したさとりが、静かに問いかける。
「風邪が治るなら、なんでもしてくれるんですか?」
「なんでも……には語弊がありそうだがな。治るのなら、大体のことはやってやるぜ」
「――なら、してもらいましょう」
言うやいなや、さとりはかすかに微笑むと徐々に顔を近づけてきた。
それはあっという間に魔理沙のパーソナルスペースを突き破り、焦点すら合わせづらくなるほどに接近する。
「ちょ、ちょっと待って! さとり、お前は何をしようとしてるんだ!?」
「魔理沙さん。風邪はうつすと治る、という話は知っていますね?」
「あ、ああ。まあよく言われることだけど……つまり私にうつして治そうってのか」
ええ、とさとりは頷いた。
それはたぶん迷信だろうが、それでさとりが満足するのなら構わない……とも言いづらいが。
「そうです。では、どうすれば確実にうつるのか。それは、どうなるとうつるのかを考える必要があります」
「風邪はたしか……飛沫感染じゃなかったか?」
風邪を引いた人の咳やくしゃみで飛び散った体液が喉などの粘膜に付着して感染する。
それが風邪のうつる理由だと本で読んだことがある。
「ええ。つまり、キスすればいいんです」
「そっか、キスかー。それは盲点だったなー……って、キスぅ!?」
「それも確実を期すため、深い繋がりが必要です。つまりはディープなキス、略してディープキス」
「ほとんど略されてないよ! ていうか、そもそも発想が気持ち悪いよ!」
体を揺り動かして脱出しようとするが、妖怪と人間の埋めがたい力の差を加え、さとりが上に乗っかっている。
そのため、抵抗虚しくこれ以上になくさとりの顔がドアップになった。
「ま、待て……待つんだ、さとり。こういうのは……そう、好きな人同士がすることで……」
「魔理沙さんは、私のことが嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ! 嫌いじゃないけど、こういう形はなんか違うというか!」
「――私は、魔理沙さんが好きですよ」
不意に、さとりの顔が跳ねるようにして離れた。
すでに魔理沙の体を押さえようとはせず、腹部に腰を下ろしただけの状態。
もはやいつでも逃げ出せるというのに、魔理沙は動けなかった。
さとりが浮かべる表情に――全身を硬直させるほどの寂寥と悲哀が滲んでいたからだ。
「魔理沙さんは……私が好きですか?」
どくん、と心臓が強く鼓動した。
今にも涙が零れそうな瞳。赤く染まった頬。首を伝う汗。低く弱々しい声。確かに感じられる体重。
そのどれもが、今までになく魔理沙の未熟な感情を打ちのめした。
「ねえ、答えてください……」
さとりのほっそりとした手が、魔理沙の頬を官能的に撫でる。
ぞくり、と背筋に痺れが走った。
「いや、あのな、その……」
「…………」
さとりはもう何も言わない。
近づいてくる。徐々に近づいてくる。
いつもは純白な肌を今までになく紅潮させ、止めどなく荒い息を零しながら接近してくる。
魔理沙は魅入られたように顔を背けることもできず、降りてくるさとりを待っていた。
その途中で、落下が急加速し。
思わず目を閉じて、心に思い浮かんだままに叫んだ。
「ききききキスは当人同士の了解があってやるものであって無理やりはどうかって思ったり思わなかったりするし何よりこんな病気を治すついでみたいな形は御免こうむりたいっていうかできれば地上の朝日を一緒に手を繋ぎながら見て告白した後に雰囲気が最高潮になったところで見つめられながらソフトで甘いキスをされたいというかしたいというみたいなー!」
ぽすん、と。
軽い音と共に、ベッドが小さく揺れた。
しばらくは固く目を閉じていた魔理沙だが、いつまで経っても予測していた感触がないことに疑問を感じ、恐る恐る目を開いてみる。
目に付いたのは広い天井だった。先ほどまであったさとりの姿はなかった。
首を傾げながら視線を左右に振る。すると、右側に見覚えのある髪を発見した。
「すぅ……すぅ……」
「……なんだ、寝てるのか」
さとりは自分の横にあった枕目掛けて突っ込んだようだ。
浅い息を繰り返しながら、魔理沙に体を預ける形で寝入っている。ひっくり返して毛布をかけてあげても目覚めないことから、おそらく随分深い眠りなのだろうと想像がついた。
深々と溜め息をつき、汗で額にへばりついた髪を優しく解いてやる。
ほんの少しだけさとりの表情が緩んだ気がした。
「まったく、とんだ人騒がせなやつだ。意味もなく喚いた私の身にもなってみろ」
先ほど自分が何と言ったか定かではないが、結構恥ずかしいことを叫んだ覚えがある。
思い出すと心情的に良くないと思い、ここで思考を断ち切った。
さとりはこちらの気も知らず、静かに寝息を立てながら眠っている。
ふっくらとした唇が呼吸に合わせて上下していた。
魔理沙は誘われたかのように手を伸ばし、指先でそっとさとりの唇をなぞった。
――今日彼女に触れた中で、最も良い触り心地だった。
「って、なに考えてんだか」
すぐさま唇から指を離した。
さとりはくすぐったそうに口を歪めるだけで、幸い目が覚めることはなかった。
彼女も眠ったことだし、一旦休憩しよう。
そう考え、魔理沙はベッドから降りる――その前に。
「……嬉しかったよ。好きって言われて」
感謝と返答の代わりとして、そっと唇を寄せた。
数日後。
「ごっほごほ! ……喉が、痛いぜ」
魔理沙は見事に風邪を引いていた。
咳がひどく、肺の奥が掻き毟りたくなるほどに痛む。熱のせいか頭も朦朧とし、気だるさで腕一本動かすのも苦痛だ。
自分がこのような状態になった場合、大抵は博麗神社か香霖堂で世話になっている。
しかし、今回は違った。
「はい、魔理沙さん。お水ですよ」
「あー、悪いなさとり。助かる」
コップを受け取り、ゆっくりと飲み干していく。
ふぅ、と一息つくとすぐさまコップが下げられ、濡れたタオルで額の汗が拭われた。
実にタイミングのいいお世話である。まあ、相手が心を読むのならば当然かもしれないと他人事のように思った。
――ここは地霊殿である。
さとりが完治してしばらく滞在していた時に、突然発病したのだ。
医者のところに行くから帰らせてくれと言っても聞き入れられず、ほとんど軟禁状態で看病を受けている。
ちなみに一回さとりが部屋を出た際に逃亡を試みたのだが、多数のペットたちに追いかけられてあえなく失敗した。
それ以降、さとりにつきっきりで看病されている。
「ああ、今お空とお燐が永遠亭とやらに行ってます。その医者をすぐ連れてきてくれますよ」
「……そいつは涙が出るほど嬉しいね」
あまり迷惑をかけたくないんだけどなぁ、と考えるのだが。
「迷惑なんかじゃありません。いい加減にしないと怒りますよ」
「いやだって、またさとりが風邪引いたら本末転倒じゃないか。私は別に霊夢にでも頼むから……」
「駄目です。次に逃げ出そうとしたらベッドに縛り付けますから」
「……トイレはどうすりゃいいんだ」
「大丈夫です。そういう時のために、こんなのも用意してます」
じゃじゃーん、とさとりが取り出したのは変な形をした透明な瓶だった。
用途はよく分からないが、さとりの笑顔からしてとてつもなく遠慮したい代物だというのが理解できた。
勘弁の意味も込めて、首を大袈裟に振った。
「分かった。分かったから、それを引っ込めてくれ」
「あら残念。一回くらい使ってみたかったんですけど」
「今度お前が風邪引いたら試してやる」
「それはお断りします」
そう言ってさとりが瓶を床に置くと同時に、ドアが開いた。
入ってきたのは火焔猫燐、通称お燐だった。燐は部屋に入るやいなやさとりに近づき、
「さとり様。お空が地図を無くしてしまいました。また書いてもらえませんか?」
「……分かったわ。じゃあお燐、魔理沙さんのこと見張っててちょうだい」
「あいあいさー」
と、さとりを外に連れ出してしまった。
これはチャンスだと思う暇もなく、すぐに燐が戻ってきた。
ひどく引きつった笑顔を浮かべながら。
その物々しい雰囲気と表情に圧されながら、魔理沙は言葉を静々と紡いだ。
「な、なにか用か?」
「魔理沙。以前あたいが言ったこと、覚えてる?」
「? いや、なにか言われたっけ?」
「あれだよ。『さとり様に何かしたら、生きたまま灼熱地獄跡に放り込む』ってやつさ」
「ああ、あれか。あれがどうした?」
何故今更そんなことを、と疑問に思いながら聞く。
すると燐は、犬歯を剥き出しにしながら魔理沙が寝ているベッドに座った。
「どうやらあんたは『何かした』ようだから、その報いを受けてもらおうと思ってね」
「は……はい? いや、何もしてないぜ?」
「ああそうかい。なら、思い出させてやろうかね」
燐はいつかと同じく耳元にぐいっと寄ると、そっと呟いた。
「『嬉しかったよ。好きって言われて』」
「!?」
「それだけなら許せた。けど、その後がまずかったねぇ。『あれ』が原因でさとり様の風邪をもらっちまったんだろう?」
「いや、あれは、その」
「……まさか、気まぐれで奪ったわけじゃなかろうね」
「き、気まぐれなんかじゃない! ちゃんと考えて……考えた結果があれで……痛っ」
耳朶に強烈な痛みが走った。
反射的に燐から頭を離すと、燐の口元から赤い線が垂れているではないか。
それが血だと分かったのは――痛む耳を水滴のようなものが伝う感触がきたからだった。
だがそれを非難する間もなく、燐が肩を力強く掴んできた。
ある程度加減はしているようだが、それでも病んでいる人間には辛いものがあった。
「う、ぐう……」
「本当は灼熱地獄跡に放り込みたいんだけど、さとり様がいつも傍にいるからできない。だから、代わりに土産を置いていこうと思ったのよ」
「……みやげ?」
「そう。……さとり様が帰ってきたわね」
その言は正しかった。
慌しい足音と共に、さとりが部屋に入ってきた。
その傍らには空の姿もある。いつもの制御棒は付けておらず、出かける準備がされている。
燐はベッドから腰を上げ、ととっとさとりに駆け寄った。
そして。
「さとり様。魔理沙が、さとり様に告白したいことがあるそうですよ」
とんでもないことを言い放った。
「はいぃ!?」
「あら、何かしら?」
「とても言いにくいことらしいので、心を読んだほうが早いと思いますよ。それでは行ってきます。ほらお空、行くよ」
「うにゅ? うん、わかった」
そう促し、燐は空と一緒にドアに向かった。
魔理沙はその後姿を為す術もなく見送る。ほとんど忘我状態だった。
けれど部屋を出る瞬間、さらなる追い討ちがかけられた。
「魔理沙~、一体何が嬉しかったんだっけ~?」
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
そして、バタンと大きな音を立てながら扉が閉められた。
魔理沙は深い絶望を胸に抱きながら、呆然と扉を眺めていた。
そこに、さとりは首を傾げながら尋ねてきた。
「で、何を告白したいんでしょうか?」
「あああああいやそのあの~~~~~~」
だらだらと脂汗が流れてくる。
何とか話を誤魔化したい。そう思うのだが、心は自分の思い通りにならない。
燐によって強制的に想起された『あの時のこと』が脳内で勝手に再生されてしまう。
「いや、これは、だから……」
「…………」
すると、さとりの顔が風邪を引いていた時以上に真っ赤になっていき――。
その後。
遠路はるばる地底の底までやってきた医者は、部屋に入った途端こう漏らした。
「……いくら私でも、バカップルは治せないわよ」
ニヤニヤが治まらない!
もっとやるべき
霧雨さとりでも…いいのよ……
お燐はこれで良かったんでしょうかw