※注意 この作品には、筆者の独自解釈やオリ設定が含まれています。
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それでも大丈夫だぜって方は、続きをどうぞ。
窓の外に広がるのは、雲一つ無い快晴の空。
朝、窓から溢れる朝日に照らされて犬走椛は目を覚ました。
今日は久方ぶりの非番。1日休みの日なのだ。
にとりの所にいって、他愛もない話に興じながら将棋を打つのも良いだろう。
久しぶりに人里に降りてみるのも面白いかも知れない。茶屋によって甘いものでも食べようか……
そんな楽しい物思いに耽りながら椛は休日始めの一歩を――
「あやややや。おはようございます。よく眠れましたか?」
「ギャイン!!」
―――盛大に踏み外した。
「しゃ、射命丸様!?」
最近やたらと絡んでくる鴉天狗の顔がそこにあった。
「……」
文は答えず、いつもの営業スマイルとは少し違う微笑を浮かべていた。
大昔にこんな顔を見た気がするなぁと、未だ半覚醒の頭の片隅で考えつつ、聞かなければならない疑問を口にする。
「……なぜここにいらっしゃるのですか?」
「昨日は宴会だったので」
「それで?」
別に、文の事が別段嫌いというでも無い。寧ろ色々あって縁は深くて長いのだ。
しかし常日頃からの絡み方は多少疎ましく感じていた。しかも休日朝一での急襲である。声が尖ってしまうのも致し方ない。
「あや~、覚えてないですかねぇ。昨日は相当に酔ってましたから、それも仕方ないですけどね」
文の言葉にようやく昨日の記憶が戻ってくる。
「……射命丸様が無理矢理私に酒を飲ませて酔い潰したんでしたね」
「思い出しましたか」
苦虫を噛み潰したような顔をする椛とは対照的に、心底楽しそうに笑う文。しかし椛は、この笑いの意味するところを嫌と言うほどよく分かっていた。
(また私をおちょくって遊ぶ算段みたいですね……)
溜め息混じりに心の中でひとりごちる。
哨戒の任務中に絡んでくる時も、宴会の席で酒を勧めてくる時も、彼女は決まってこんな無邪気な笑みを浮かべながら寄ってきた。
いつも、人を食ったような笑みを浮かべている文とのギャップに戸惑い、始めこそ無愛想にあしらう事に若干の躊躇いを覚えたが、それも今となっては慣れたものである。
尤も、その戸惑いの本当の理由に、彼女はまだ気がついていなかったが。
「いやぁ、白狼天狗の住居って意外に遠いんですねぇ……椛を背負ってここまで飛んだら、さすがの私でも疲れてしまいまして。悪いかなとは思ったんですが、ついつい寝入ってしまいました」
決まり悪そうに頬をかきながら文が呟く。
「っ! ……」
文の独白に思わず絶句する椛。
文の話が真実なら、酔い潰れた椛を背負って宴会場から自宅まで運んでもらった事になる。
さすがに申し訳なさが先行する。
「申し訳ありませんでした。射命丸様にそのようなご無礼を働いていたとは知らず、重ね重ねの無礼をお許しください」
そういって深々と頭を下げる椛。多少慇懃無礼な感は否めないが、本人からすれば最大限の感謝と謝罪の念を表したつもりである。
「あやや、そんな堅くならなくて良いですよ。……まあこちらとしてもなかなか“おいしかった”し。別に貸しにする気もないからね」
急にフランクな口調になった文を、椛が訝しむように見やる。
その視線に答えるように、文はシャツのポケットから数枚の写真を取り出して掲げた。
「いやぁ可愛い寝顔でし――」
――ブンッ
文が言葉を紡ぎ終わらないうちに、そこを風音高く刃がなぎはらう。が、
「おぉ、怖い怖い」
当の鴉天狗は余裕の表情で剣をかわしていた。
「何も言わずにいきなり剣とはご挨拶ね。少しは話し合う姿勢も大切よ?」
うっすら笑いながら声を掛ける文の表情はとても生き生きしていた。
「射命丸様がその写真をこちらに渡して下さるなら、話し合いに応じましょう」
対照的に、苛立ちを隠しきれない表情で応じる椛。
「それは出来かねるわねぇ……これは私の“特選ファイル”に入るべき秀作だもの」
ニヤニヤと笑いながら、右へ左へと剣をかわす。
文の写真に写っていたのは、紛れもなく自分の寝顔。大方、酔い潰れた自分を送り届けた時に盗撮したんだろう。
いい加減にしてほしい。今日はせっかくの休日を楽しもうとしていたのに。
苛立ちに沸騰する頭でそんなことを考えるも、口には出さない。口は災いの元を全身で体現しているような相手に無駄口を叩くほど、椛は愚かではないし、相手がそれで引いてくれるかどうかを見誤るほど、この二人の関係も浅くなかった。
「あや~、ダメですねぇ。剣裁きがなってません。もっと思い切って振らないと私を捉える事は出来ませんよ?」
誰のせいでこんなことになってると思っているのか。そもそも自宅内で大剣を振り回すこと自体、無理に等しいというのに。
「この! いい加減に!!」
既に敬語も忘れて剣を振り回す。
「全く、当たらないって言っているのに……せいっ!!」
文が軽くあしらうように団扇を振ると、生み出された風――にしては強力だったが――は真っすぐ椛を直撃して―――
――彼女のそのスカートを巻き込んで舞い上がった。
「っちょ!! きゃああ!」
不測の事態に、思わず構えを崩して座り込む椛。
だがっ! 射命丸文の鍛えぬかれたその腕は正に神速っ!! 僅かな時間の間にカメラを構え……
「トミ○ケフラッシュ!」
――パシャッ
てれってってってってー
ねんがんの“もみじのひみつのはなぞの”をてにいれたぞ!
「いや~良い写真が撮れました。それでは、私は取材が有りますのでこの辺でお暇致します。ご協力ありがとうございました~」
勝手に喋って勝手に飛び去っていく文を、椛は茫然自失の態で見ていることしか出来なかった。
――分かっている。悪いのはあんにゃろに隙を晒した自分だ。あんにゃろの妙な言葉に同情してまんまと引っ掛かった自分だ。分かってはいる。でも、でも――
――ガチャッ
「こんにちは~毎度お馴染み天狗新聞で――」
「待ぁてやこのクソガラスがぁ~~!!!!」
「「………………」」
「ありがとうございました~」
――バタンッ
その、名も知らぬ鴉天狗は、椛に満面の笑顔で礼を言うと、目にも留まらぬ速さで部屋を後にした。
(最悪のタイミングだ…)
思わず、がっくりと膝を付く椛。
彼女の心の叫びは、物理的にも妖怪の山中に広がる結果となりそうだった。
―――――――
「……失礼しました」
――バタンッ
「……はぁ~」
肩を落としつつ部屋を後にする椛。
あのあと、天狗の宿舎は大騒ぎになった。
いくら事情が事情とはいえ、一介の天狗――それも白狼天狗が鴉天狗を罵倒するとは何たる事だと、幹部天狗からキツくお灸を据えられたのだった。
――さて、ここで疑問に思う方もいるかもしれないので、少し説明をしておく。
一般に、天狗間に上下の関係はないと言われている。それは事実。しかし、だからと言って多種族間の中が絶対に良好なんて保証はどこにもない。
現に、哨戒を担当する白狼天狗を「使いっパシリの臆病天狗」と揶揄する輩もいるし、鴉天狗に「権力を笠にしたマスゴミ」なんて陰口を叩くやつもいる。
無論、天狗は団結力の高い種族なため、ひとたび大事が起これば、天魔を頂点に統率を取り、内部分裂なんて無縁の結束を誇る。
しかし、日々の小さないざこざまで面倒を見てくれるはずもなく、その場合は 上層の幹部天狗以下権力のあるものが、逐次事態の収拾を図るというわけだ。
ここで問題となってくるのが、上層部の面子である。
上層部を務めるのは、殆どが鼻高天狗ないし山伏天狗、そして鴉天狗。
暗黙のルールとして、事態の収拾に当たるのは、その中で一番問題に関係の深い者。
―――今回の場合、詰まる所鴉天狗である。
無論、身内が罵倒されるなんてのはプライドが許さないわけで、やたらと力が入った幹部達の叱責は常時の1.5倍といったところか。
白狼天狗の長は、他の上層部に比べればいくらか同情的だったが、それでも
「やってしまった事が事なだけに、早めに謝るに越したことはない。敵に回すのに身内、ことに鴉天狗は相手が悪い」
だそうだ。
「……そんなわけで私、犬走椛は、休日の貴重な時間をあの迷惑鴉へ謝罪に行くための準備に使わざるをえなくなり、今に至るのです」
ナレーションを終えた椛は、そのまま大きく溜息をつく。
「……なんて独白をやったところで、事態は好転しないんですが」
一人愚痴をこぼしながら、黙々と身仕度をする。
「はぁ、なんでったって私がこんな目に……ん?」
普段は着ないような正装を引っ張りだしていると、足元に妙な感触があった。
「……手帳?」
飾り気の無い手帳。“文花帖”と銘打たれたその手帳には見覚えが有った。
「でも、なんでクソガラ……もとい、射命丸様の手帳がこんなところに……」
わざわざ言い直す辺りが椛らしい。
(忘れていった……いや、これは有り得ない。射命丸様はこれをネタ帖としていつでも携帯しているのだから。だとすれば落とした? これも同じくらい考えにくいが、そうでもしないとここに文花帖がある理由がない……)
「どちらにしても、向こうでは大騒ぎしてるでしょうね」
誰に聞かせるでもなく呟くと、椛は足元の手帳を拾い上げた。
懐かしい手触りに、思わず笑みが零れる。その外観からは、かなり使いこまれた――というより過酷な使い方をされた――ことが見て取れた。
表紙は色が剥げ、ページの継ぎ目も弱くなっている。ややもすると、ページがバラバラになってしまいそうだ。
おまけにあちこちに写真が挟んで有るせいか、ひどくページが厚くなっている。殆どのものはきちんと手帳の間に収まっていたが、中にはうまく挟まり切っていない物も有った。
その中でも、一際はみ出しの目立つ写真に目が行く。
随分と年月が経っているらしい色の抜けたその写真に、椛はどこか見覚えがあった。
「これは……」
呟きながら、無意識に引っ張りだそうとする椛。直後、目を覚まそうとするかのように頭をフルフルと振って、
「いけない、これは射命丸様の私物。勝手に盗み見るなど……」
誰に言うでもなくそう呟いて、文花帖を懐へと収めた。
「さて、行きますか」
決心するように言い放つと、勢い良く空へと飛び立った。
空には、いつしか暗い雲がかかっていた。
―――――――
「……あのー、すいませんが」
「あら、誰かと思えば例の白狼天狗じゃない。クソガラスなんかの仕事場に、一体全体何の御用かしら?」
想像以上にひどい歓迎に思わず苦笑する椛。
「いえ、その件については……」
「あれ? 白狼天狗? 鴉の詰所なんかに御用ですか?」
「あー! 新聞に載ってた娘じゃない? こんなところに何の用?」
弁明をしようにも、次から次へと寄ってくる鴉天狗達に翻弄されて、話をすることすらままならない。
「ですから、その件については別に皆様を愚弄するつもりで言ったわけでは……」
「じゃあどういうつもりで言ったんですか?」
ふと気付けば、周りを記者姿の鴉天狗に囲まれている。取材を受けた気はないのだが。
四方から浴びせられる遠慮ない質問――というより寧ろ詰問――にいい加減辟易したころ……
「椛じゃない。どうしたの、こんなところで?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、いつもの記者姿ではなく、私服姿の文が驚いたような表情で固まっていた。
「あれ~? 文やっと出てきたの? ずっと部屋に詰めてるんだもん、心配したよ~」
「ごめーん、ちょっと原稿とにらめっこしてたらだいぶ経っちゃって」
苦笑しながら応じる文。その後も、絡み付く同僚を押し退けながら椛の下へと歩みを進める。
「で、何しに来たの? わざわざうちの職場まで押し掛けるなんて珍しいじゃない」
「いや、その~例の件についてお詫びと陳謝に……」
「へ? お詫び??」
きょとんとした表情で応じる文に、またぞろ苛立ちが込み上げてくるが、懸命に堪えてわけを話す。
しかし、当の文は困惑した表情のまま口を挟もうともしない。
「えっと、射命丸様? 聞いてますか?」
「え、ええ。聞こえてるけど……」
と言いながら頭を抱える文。
「何でいつの間にかそんな大事になってんのよ……」
呻くように絞りだされた独り言に、しかし答える者はない。
困惑しているのは椛も同様である。
ここまで事態が大事になっていて、よもや、相手が事件を認識していないなんて誰が思うだろうか? いや、思うはずがない。反語である。
そんな有り得ない出来事に直面して、当事者二人は揃って頭を抱えた。
―――――――
「――で、何の話だったっけ?」
いささか疲れたような表情で問い掛ける文。
あの後二人は、好奇の目で群がる鴉天狗を押し退けて、仕事場を辞してきたのだった。
文の自宅に向いつつ聞いた話によると、文は椛の自宅から帰ってから一度も外に出てないという。
そのため、この事件も知る機会が無かったのだろう。自分では考えられないような引きこもり様だが、なるほどあの煩わしさを見れば頷けないこともない。
「私が射命丸様に暴言を吐いてしまった件について、お詫びをしに来たんですって」
詫びを入れに来たにしてはぞんざいな言葉遣いは、やはり先程の影響が大きいのだろう。
本当は、とりあえず“形式では”完璧に謝罪をして、とっとと帰る腹積りでいたのに、なんだか出鼻を挫かれたような気分だった。
「そういえば……」
ふと思い出し、懐から文花帖を取り出し、文に手渡す。
「あら? なんで私の文花帖を椛が?」
あやや……もとい、ややオーバーアクションで驚く文。
「ウチの床に落ちてたのを持ってきたんですよ。大事ならきちんと持って帰ってくださいよ」
渋い顔で応じる椛。
「……中身、見た?」
「見てませんよ!!」
そう、残念。と呟く文。
日頃は見たら殺すと息巻いているのに。
訳がわからない。とため息をつく。
そんな悶々とした気持ちを抱えているうちに、何時の間にやら文の自宅に着いていた。
「適当に上がって座ってて良いわ」
そう言い放つと、本人は居間を横切って台所に飛び込んでいった。
居心地の悪さを感じつつも言われた通りに座り込む。
しばらくすると、一升瓶とグラスを二つ携えた文が戻って来た。
「えっと……射命丸様? これは……?」
戸惑いながら一升瓶と文に交互に目をやる椛。
「そんな陰気臭い話、とても素面じゃ聞いてられないわ。ほら、飲んだ飲んだ!」
言うが早いかグラスを取り上げ、一方になみなみと注いで椛に突き出す。
思わず椛が受け取ると、今度は自分のグラスをいっぱいにし、それを一気にあけた。 傍から見ていても潔い程の飲みっぷりに、つい吐息を漏らす椛。
文は二三度グラスを空にすると、トンッと音を立ててグラスを置き、そのままの姿勢で固まった。
永遠にも感じられる時間――実際は5分と経っていないのだろうが――椛にとって居心地の悪い沈黙。
どうしたものかと椛が思案を始めた矢先、あのさ、と不意に文が口を開いた。
正直……と前置きをするように呟き、
「謝罪っても、私はその罵倒とらやを聞いてないし……この騒動の事も何も知らなかった。だから謝られる事なんて何にもないわけよ。だから……それで良いじゃない!」
最後に屈託のない笑顔のオマケ付きでそう言い放った。
あまりのことに唖然とする椛。
(散々考えて出た答えがそれか。この方は今がどういう状況か分かっていないのか……)
事は既に上層部まで伝わっている。平の文がいくら気にしなくても、事態はそれ以上に大きくなっている。
「あなたは――」
「だから、そういうことで上には話をつけとく。別に大したことじゃないわよ。私だって悪口の一つや二つくらい言うし。くだらないプライドの張り合いなんだから。間に挟まれたあんたが一番貧乏くじを引かされたってわけね」
屈託なく笑いながら手をひらひらと振る文の姿に、喉まで出かかった言葉を思わず飲み込む。
――そうだった。この方は御山の千年鴉。上層部にも意見できる力の持ち主――
そう再認識しても、いやむしろそう認識したからこそ、文がこの騒動を“くだらないプライドの張り合い”と言い切ったのには少なからず驚いていた。
力――つまり山の中での発言力を持つと、同時にそのものにはそれ以上に多くのしがらみが出来るものである。
しかし彼女にはそれがない。
まるで何物にも縛られる事が無い風のように。
なるほど、自分はこの方のこういう自由さに惹かれていたんだ、と今更ながらに気付く。
「そら、飲みなさいよ」
溢れんばかりに酒が注がれたコップを突き出され、慌てて両手でそれを受ける。
「乾杯!!」
一方的に打ち付けられたグラスは、チィンと澄んだ音をたてた。
―――――――
日も沈み、本格的に夜の帳が降り始めたころ。
二人はというと――――
「だからぁー、なんでわらしが、ヒック……毎回毎回こんな役回りばっかし……」
「この前の侵入者の件だって、哨戒の役割は果たしたっつーの!」
「まったく……射命丸様、聞いてます?」
「ぇ?……え、えぇ聞いてます、聞いてますとも」
―――宴会の再現よろしく、しっかり酒に呑まれていた。……無論のこと椛だけが。
あまりの椛の豹変具合に、文は呆れと驚きを混ぜ合わせた表情で固まっていた。
酒が入った途端面白いように乱れる椛を見て、はじめは笑っていた文だったが、ここまで絡み酒になるとは予想していなかったようだ。
しかし―――
「大体、こちらに持ち込まれる問題の半数は射命丸様からじゃらいですか」
その何となしに放たれた椛の一言に、それまで椛の愚痴を聞くともなく聞いていた文の動きが、ピタリと止まった。
「毎度毎度、隠し撮りに来たり無茶な酒を勧めたり、取材の手伝いとかなんとか言って哨戒の仕事をサボらせて……挙げ句に花の大妖に喧嘩売って自分だけ逃げ出すし……」
酒が入って饒舌になる椛とは対照的に、微動だにしない文。
「やっぱり……迷惑、ですか」
擦れた声で、やっとそれだけを口にする。
「あったりまえれすよ! 毎回事態の収拾はわらしにまかせられるし……」
普段の椛なら、ここまではっきりとは言わなかったかもしれない。
しかし不幸なことに、呂律が回らなくなる程に酔いが回った椛には、それを躊躇わせるだけの自制は効かなかった。
「そうですか……」
顔を俯かせて呟く文。
しかし、椛からの返答はなかった。
顔を向けると、椛は机に突っ伏して酔い潰れていた。
半分程残った横倒しのグラスから、じわじわと酒が零れている。
緩慢な動きでそれを拭き取りながら、頭の中で先程の会話を反芻する。
「迷惑」
その二文字がぐるぐると脳内で回る。
迷惑 迷惑 私が迷惑を連れてくる。
「……もう、あの頃の様に戻ることは出来ないのかしらね」
無意識に、そう呟いていた。
「ねぇ、椛」
“あの頃”と、同じ表情で。
―――――――
「ねぇ、椛」
「何、あゃ……射命丸様」
「言い直さなくていーよ。私はそんなの気にしないし」
そう言いながら、近くの木の枝に高下駄で器用に着地する文。
時はざっと千年ほど前、まだ二人が子供の頃の話。
「文が気にしなくても私が気にするの!」
頬を膨らませて、追い付いた椛も同じ枝に腰を下ろす。
子供らしさの残るあどけない仕草だ。
「でもまた文って呼んでる」
「あっ……」
的確な指摘に、返す言葉を失う椛。
「別に私は気にしないんだから、二人の時ぐらい良いじゃない」
枝を弄びながら笑う文。
「うん……でも、また父さんが……」
「いいのよそんなの!!」
心配そうな椛の声を、横からばっさりと切る。
「文……?」
文らしからぬキツい声に、怪訝そうに顔を見上げる椛。
「そんなの大人の勝手な都合なんだから」
不機嫌そうにそう続ける文。
「白狼天狗は使いっパシリの下っ端だから付き合うな?ハッ、白狼天狗には哨戒って立派な仕事があるじゃない!鴉天狗は嘘が服着て歩いてる?そう思いたけりゃ思ってなさいよ!!」
本来、一緒に居る筈のない二人の友人関係は、両親から強い反発を受けていた。
体裁というものもあったのかもしれないが、文はその裏に、相手への嘲笑や侮蔑を見て取った。
文の口調は、だんだんと激しさを増していく。
「なんで同じ天狗同士なのに仲良くできないの! なんで同じ天狗なのに、仲間なのに! どうして、どうして私と椛は友達でいちゃいけないのよ……」
激情した言葉は、だんだんとか細い泣き声へと変わっていった。
「文……」
慰めようにも、なんと声を掛けていいのかわからず、ただただ立ち尽くす椛。
「あの……文、あのさ――」
「決めた」
またも椛の言葉を断ち切り、おもむろに空を見上げる文。
「私……私、絶対こんな状況変えてみせる。天狗同士でいがみ合うなんて風潮、壊してみせる」
空を仰いだまま呟く文の瞳には、煌めく光の粒。
「文、泣いてるの?」
椛が問い掛けると、その姿勢のまま、文は静かに答えた。
「ううん、泣いてないわ。まだ泣かない。泣くのは全力を出してからにするって決めてるの。私はこの馬鹿らしい差別をなくすために全力を尽くす。だから、それまでは泣かないわ」
そう言って顔を背けると、瞳をさりげなく拭った。
椛を振り返った時、そこにはいつも通りに笑顔な文がいた。
「勿論、すぐに出来ることじゃないけど……それでも、私はやるわ」
「文……うん、わかった。私も私なりに協力する!」
「頼むわよ!」
「勿論!」
互いに満面の笑みで答え合う二人。
沈みゆく夕日が、二人を赤く照らしだしていた。
―――――――
それから数十年。妖怪の山が紅く色付く紅葉の季節。
「ねぇ椛」
「なに? 文」
「これから、私は鴉天狗の広報部に、椛は白狼天狗として哨戒の任務に就くわけよね」
「そうね。会える時間も少なくなっちゃうわ」
寂しげに椛が呟く。
「何言ってるの! 仕事場が別れたって友達でしょ! なんなら椛の哨戒の日にだって会いに行くわよ!」
「お願いだからそれはやめて」
苦笑しながら応じる椛。
文ならやりかねないという不安と、自分の仕事場に新米とはいえ、鴉天狗が来たらどうなるのだろうという淡い悪戯心を抱く。
「まったく、ついこの間決心したばっかりなのに、もう弱気を吐くなんてやめてよ」
不機嫌そうな声で嗜めつつも、文の視線は明後日の方向を向いていた。
「……でも、確かに二人で会える時間は減っちゃうわね」
仕方の無いことだとわかってはいるが、口に出さずには居られない。
「……あ、そうだ!」
はじかれたように立ち上がった文に、思わずビクリと肩を震わせる椛。
「な、何事よ」
椛の質問には答えず、荷物入れの中を漁る文。
「あった!!」
掴み出したのは、先日文が購入したカメラ。
「椛! 写真撮ろう、写真!!」
「写真?」
異様に盛り上がっている文とは対照的に、話についていけない椛。
「思い出に写真を残せば、会えなくても一緒に居られるでしょ? これから私は新聞記者になるんだし、ピッタリだと思わない?」
「記念写真か。そうしようか」
椛の承諾が終わるか終わらないかのうちに、文は椛の横に回り込み、カメラを構えていた。
「ちょっとぼけちゃうかも知れないけど……」
「相変わらず速いわね……」
強引に椛を抱き寄せ、腕をいっぱいに伸ばしてカメラを構える。
「はい、チーズ!!」
―――――――
「話を聞かなかったのは昔からでしたねぇ……」
パタンッと文花帖を閉じ、物思いから覚める文。
空は既に黒い雲で覆われ、今にも降りだしそうな気配だった。
「はぁ……」
文花帖をちゃぶ台に投げ出し、ごろりと横になる。
「あれから、もう千年」
約束をかわした“あの日”から、文は変わらずに椛に接してきたつもりだったのに。
「……そういえば、文って呼ぶ事も無くなってたわね」
返事はない。起きているのは文一人だから当然だが。
「いつからだったんでしょうか」
いつもは使い分けている仕事用の口調が混じる。
文自身も、分からなくなっているのかもしれなかった。友人の“犬走 椛”として接すれば良いのか、一匹の白狼天狗として接すれば良いのか……
「ずっと友達……そう誓ったはずなのに。」
身を起こしながら、静かに寝息をたてる椛の顔を覗き込む。
「どこで間違っちゃったんでしょうね……」
空から、一粒の雨が零れ落ちた。
それは、文の目に溜まったそれが落ちる代わりのようだった。
―――――――
「う、んんー」
尋常でない頭痛に、思わず顔をしかめて起き上がる椛。
「ここは……うちの布団?」
紛れもなく、いつも使っている布団の上だった。
「私は、射命丸様の家に居て……あぁ」
前後の記憶、現在の状況。加えて割れるような頭の痛みとくれば、何があったかは明らかな訳で、つまり――――
「馬鹿か私は。また世話になったら意味ないのに……」
猛省。うん、猛省。
うがぁぁっと頭を掻き毟りながら部屋を歩き回る椛の目に、昨日までは無かったものが引っ掛かった。
「ん?」
まだズキズキと痛む頭を押さえながら、ゆっくりと“それ”に近づく。
「これは……写真?」
山と積まれた写真だった。それも、よく見ると写っているのはほとんどが椛である。となれば、
「犯人は明らかですよねぇ」
一人ごちながら写真の山を崩し始める。と、山の中に埋もれる様にして、ぽつんと置かれている一通の封筒。
宛先は―――
「白狼天狗宿舎12号室 犬走椛様」
「何を改まって手紙なんか……」
不思議がりながらも封を開けると、計ったように滑り落ちてくる一枚の手紙。
――拝啓、犬走椛様
先日は大変なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした――
どうかしたんじゃないかこの鴉は。そんな思いすら頭を過る。
――上には既に報告済みですが、そちらの名誉を深く傷つけたのも事実。今後このようなことが無きよう、写真を全て返却させていただく次第です――
手紙から顔を上げ、写真の山を見やる。
「成る程、そう言うわけか」
一人納得して、手紙に目を戻す。残りは、いやにあっさりとしたものだった。
――扱いはそちらにお任せします。それでは、お元気で。
鴉天狗 第四広報課 射命丸文
最後まで読み終え、首をかしげる椛。
(おかしい……)
そう、おかしいのだ。
いつもなら、上司への報告位にしか使わない役職付きの署名。
大切な――恐らくは“特選ファイル”とやらに入っていたような――写真をほいとばかりに寄越す行動。
どれをとっても、普段の文なら絶対にやらない行動ばかりだ。
そして、手紙の最後の言葉。
――それでは、お元気で――
(これじゃ、まるで……)
「ん?」
違和感を覚えながら手紙を読み返していると、指先に挟んだ封筒からひらりと一枚の紙が落ちた。
「一枚かと思ったんですが……」
もはや訳が分からぬとでも言いたげな表情のまま、ひょいとその紙を拾い上げる。
果たせるかな、それは手紙だった。いや、手紙と呼ぶには些か粗雑だ。そのメモ帳を破り取ったような紙には、こう記されていた。
――迷惑を掛けていたとは思わなかったわ。ごめんなさい。私は千年前から何も変わっていなかったけど、あなたはどんどん先に進んでいたのね――
「千年前……」
忘れていた……いや、あえて忘れようとしていた幼少の記憶。任務に就き、宿舎で先輩方と話すうちに、いつしか諦めていたあの日の約束。
――私の我が儘で、貴女に迷惑を掛けるのは忍びない。だから、もう貴女を巻き込むことはしないと約束するわ。
もし、貴女が許してくれるのなら、また貴女を友達と呼べることだけを祈って。
バイバイ
射命丸文
右手には、何時も通りの口調で書かれ、何の飾りもない署名がなされた、メモ書きのような手紙。
左手には、畏まった口調で書かれ、仰々しい署名がされた手紙。
そして、双方に書かれている別れの挨拶。
それを見て文の真意がわからないほど、椛は愚かではなかった。
――それは決別。千年前のあの記憶、約束、そして友人“だった者”との別れの意思――
手紙を掴んだまま、呆然と立ち尽くす椛。
ふと、開きっぱなしの窓から一陣の風が舞い込む。
「!!」
勢いよく顔を上げるが、そこには文の姿はなく、あったのは――
「また、写真……?」
近くで見てみると、それは二つに裂けた写真の一部。
「これは……」
色褪せたそれは、“あの日”の思い出。
しかし、半分に引き裂かれたそれに、文の姿はない。
裏面には、震える文字で一言。
――追伸 今日は、泣いても良いかしら――
山は、煙るような雨に包まれていた。