女は山の中にいた。紅い長髪は湿気を伴う空気で艶めき、一歩踏み出すごとに背中を打ち鳴らす。
鍛え抜かれた肉体は女だてらに一山超える程度わけはない。
緑の服は森林の風景に溶け込んでいるが、彼女はそれを望んではいないようだ。
染み付いた血と脂の臭いはここのモノたちを誘き寄せるのに十分な効果を持っていたから。
地面は湿った腐葉土になっており、歩くたびに少し体が沈む。
高々と生い茂る樹木は陽光を地に差し込むことを許さず、まわりは昼間だというのに薄暗い。
人の手が加えられていない真正の山林。人の蔓延るこの時代にもまだこのような場所があるとは。
――いい感じだ。誰かを襲うにはなんて好条件なんだろう。
獣道を歩く女の気は静かに昂奮していた。やっと骨のあるものと出会えることに。
女の武術は大陸を超え遥か西洋にまで広がるほどの実力だ。
その拳は山を揺るがし、その蹴りは滝をも切り裂く。彼女の前に立ち塞がった愚者はことごとく血祭りに帰された。
もはや人間相手では通用しない。女は人ならざるモノが集うという霊山に出向くようになった。
山に入った時点で何匹かと戦ったが、少し奇妙な動きをするだけで動物と変わらない。
今は霊山の奥深く。ここには地元の村人から恐れられている虎の妖怪がいるのだとか。
「あぁ……いるね、いるいる。凄いな」
先ほどからピリピリと皮膚に擦り付けるように感じる殺気。人の物じゃない。
自分を求める。肉を、臓物を、骨を、魂を。喰らいたいと欲する。
そうだ、それでいい。それこそ闘争において最も原始的な本能。
相手を倒し、喰らう。女は一度舌なめずりをし、殺気の出所を探る。
姿は見えない。そりゃそうだ、相手は獣から成り下がった妖怪。
野性の中で敵もしくは被食者に見つかる馬鹿はそういない。
女は歩みを止め、その場に荷物を置いた。
拳を握り直し、地面を踏みしめる。感覚はすでに死合の場を作り上げた。
獣はじっと見つめていた。女が山に入り、襲い来る妖怪連中を返り討ちにし、そして自分の縄張りに来るまで。
黄色の下毛に黒の縞模様。肉食獣らしい鋭い牙と爪。人の形をとっても、元の獣がなんなのか容易に想像がつく。
この山で彼女を知らぬものはいない。喰う喰われるの食物連鎖で頂点に立つのが彼女だからだ。
獣として生まれ、誰よりも生き長らえ、親の死に際を見送り、そして異界の力を持った。
人の形を取ったのは、そのほうが妖力の燃費と喰う量が少なくて済むからだ。
それでも獣は獣。たとえこの世に一人取り残され、力を得ようと何者かを喰らう生き方を変えることはない。
それにしても偶然かそれとも何らかの意図があるのか。この山に人間が入り込むとは。
――なんでもいい、食料が手に入るのならば。
動くものは全て喰らわれるもの。そうやって今まで生きてきた。
ならば今日もそうするべき。獣はそっと舌なめずりをする。
身体を空間に委ね、爪は気を切り裂く。標的は真下。
自分より巨大な体躯をした鼻長のアイツさえ地に伏せさせた一撃を彼女に。
◆
私が獣の存在に気づいたのは些細な偶然だった。
不意に自分を覆う影が濃くなった気がした。初めは風の関係で木々の葉が揺らいだためだろうと高をくくっていた。
しかし僅かに聞こえる空を切る音。鋭敏に尖れた殺気が魂を貫いていく。
違う。死の感覚。生の基盤から不意に足が離れた。
私は力を抜いた。糸が切れた操り人形のように、身体は地へと吸い込まれていく。
目が合った。互いに標的の視線を浴びる。自らの存在を奪おうとする悪しき存在。
少女だった。なるほど確かに虎に似ている。
獣の右腕は虚空を分断し、私の咽頭約三寸前を通り過ぎた。
ギリギリの判断だったがそれが功を奏した。もしあの場で動いたのならばこの首が深緑の中に消えていっただろう。
恐れを感じた。生物としての本能が明らかに、自分の命を奪いかねん相手だと判断したのだ。
喜びを感じた。生物としての理性が明らかに、自らの欲を満たす相手だと判断したのだ。
「アンタを待っていた」
獣は何も言わず着地と同時に飛び上がる。
もう隠れない。野性が動く。動体視力は役にたたない。弾く音も頼りない。
残り香も立たせず獣は動く。木々の間を。影が消える。動く。速く。
私は深く息を吐き、丹田に意識を集中させる。
地を天を廻る気を捉える。私が武道と共に得た力。
纏わりつくように気が表面を滑る。触れれば熱く、確かな質量をもって。
◆
私は飛んだ。隠れることを止めた。真っ向勝負、あの女は必ず乗ってくる。
密集した樹木は足場として最適だった。しなやかで強靭な筋肉は森林の高速移動に一役買っている。
人間は言うに及ばず、どんな妖怪も自分の姿を目撃したものはいない。
捉えたが最期、爪牙の餌食となるだけだ。
絶対だ、自分が最強としてこの山を支配する絶対の力。
その肉を裂くのに何の抵抗も無い。その骨を断つのに何の問題はない。
振るうだけだ。噛み付くだけだ。それだけで、必殺。
いつもどおり。獣は木を蹴り女の背後を取る。相手は気づいていない。当然だ。
踏み込んだ地面は勢いで吹き飛ぶ。豪腕は女の肌を捉えた。
「ッ!?」
目の前に女の姿は無く、爪は僅かに血を纏っただけだった。
――気取られた、そんな馬鹿なことが!
初めて避けられた。全力を、今までこんなことなかった。
驚愕する私の真上、振り落とされた鉄の踵。
瞬間真っ暗になった視界、その後襲う頭部の激痛。
足は自分の頭を踏んでいるのか。頭が割れるような痛みによくわからない。
「気ぃ張りすぎ。奇襲は最後の最後まで気配を消すものよ」
女の声が暗闇から聞こえてくる。余裕の在る、どこか憎たらしい。
今まで敗北を経験したことのなかった私の自尊心が揺らぐ。
湧き上がる憤り。殺したい、この女を殺したい。
喰らいたいなんてものじゃない。この女の存在をこの世から消す。
腐葉土をあらん限り握り締める。その目は先ほどよりも深く暗く澱んでいた。
◆
女は内心ホッとしていた。本気の一撃を頭に打ち込んだからしばらく動けないだろう。
ズキリと走る背中の痛み。火傷のような肌が焼ける感じ。
摩擦だけでこの威力。直撃すれば大木も饅頭のようにもぎ取られるだろう。
獣が自分の狩りに絶対の自信をもっていてよかった。
慢心が気を散らし、殺気をより大胆にさせた。
いくら高速で動いても動きを先読みしていれば、避けることもカウンターを当てることも難しくは無い。
それでもそう何度も当てられる代物ではないけど。
この一撃で沈められたことは単なる幸運。たまたま振り下ろした踵が直撃しただけ。
「……それでも、私が畏れるぐらいの妖怪はアンタが初めてだったよ」
地面に顔を埋める名も無き虎の妖怪に労いの言葉をかけ、その場を後にしようと背を向けた。
――カサッ
立った。後ろを振り返りかえると、間違いなく。妖怪は確かに立った。
ゾクリと一気に総毛立つ。底知れぬ。女は生唾を飲み込んだ。
頭頂部からの出血は見られるが、致命的とまではいかない。
下が柔らかい腐葉土だったためか。
「……石頭」
「これでも……ここらの妖怪の上に、立っているんだ。これくらいで……」
「なんだ、喋れるんだ」
「お前……人間じゃないな」
獣の問いに女はフッと微笑んだ。
「“元”人間だよ」
「……どうやって妖怪に」
「さぁ……武道を極めて、人を殺し続けて、気がついたらなっていた」
誰かを殺めた業が、その者を妖怪たらしめるのか。
因果関係なんて互いにわからない。知っているのは、これからも我が身は血で汚れていくのだという現実。
その手は何も生み出さない。奪うことでしか生を見出せない。
その点で言えば、目の前の相手は自分と似ているのだろうか。
戦いに明け暮れ、鮮血で身を穢し、気がつけば孤独の闇のなかで佇んでいる。
まるで水鏡。彼女は私なんだ。シンパシーが寄り合う。僅かに立ちくらみがする。
「……お喋りはもう止めようや」
「せっかく出逢えたってのに、残念」
「気づいてるくせに……案外いやな性格してるのね」
「ふふふ、お前と私は……」
「……アンタと私は」
――殺し合わなくちゃ、相手を、自分を認められない悲しい化け物
獣が仕掛ける。野生が先手を求めた。神速の踏み込みは地を駆ける雷光を生み出す。
直後に山を轟かす爆発音。舞い上がる木の葉と腐った木々。
音すら遅い。獣は向かった。自分とよく似た女の下へ。
風よ邪魔だ。あの女へ一刻も早く、速く。
一歩がもどかしい。あぁ、もはや光になりたい。ほしい、彼女がほしい。
獣は笑っていた。喰らう以上の価値を見出す存在に出逢えたことを。
拳を握る。獣の猛襲に女は真正面から受けて立つつもりだ。
堂々、喧嘩を売ってきた。ならば堂々それを買ってあげよう。
纏う気は紅に映え、踏み出す右足は地を震わせた。
地獄の業火も生温い。体温は炎のように高まり続けた。
女は笑っていた。自分を恐れず、ここまで敵意を向けてくる輩はいなかった。
高鳴る鼓動。昂ぶる闘気。打ち震える歓喜。
拳は音をも弾く。真っ直ぐただ真っ直ぐ差し出した。
触れ合う。互いの肌が。痛覚すら愛おしい。不思議な気持ち。今まで味わったことのない多幸感。
花園の中で互いに見つめ合う。孤独を知る目。泣き腫らし、泣く涙も枯れ果てた。
その顔が妙に優しく見える。白い衝撃が二人を包むまで、相手に微笑みを向けて。
◆
「まさかあの時の妖怪が星さんだったとは、私もうビックリしましたよ!」
「それを言うなら私だって、昔美鈴さんと会ってたなんて本当驚きですよ!」
時は数百年後。場所は幻想郷、博麗神社。
宴会の席で二人は再会した。最初に声をかけたのは美鈴のほうからだった。
最初きょとんとしていた星も、段々記憶が浮かび上がったようで。
それから互いにあの時の思い出やその後どうなったかなどを肴に飲み交わした。
あの日から気の遠くなるような月日が経ち、互いの立ち位置も変わっていた。
粗暴な自分たちが懐かしく、淡い青春のようで少し気恥ずかしい。
「それにしたって星さん毘沙門天様の部下でしょ? 出世しましたよねぇ」
「い、いえ。私の力じゃなくて聖のお陰です。美鈴さんもレミリアさんの下で働いているじゃないですか」
「しがない門番ですけどね。部下持ちのあなたには敵いませんよ」
「……そんなに偉くないですよ。ナズーリンには迷惑かけてばっかりだし」
「気にしない気にしない。私も咲夜さんに毎日怒られてばっかですよ」
「ふふふ、お互い苦労してますね」
「ですね。乾杯」
チンとグラスを響かせる。夜も更け空には大きな望月が浮かんでいた。
遠くからはプリズムリバー三姉妹の喧騒が聞こえてくる。
それをバックに二匹の鬼と白黒魔法使いが変てこな踊りを踊っている。
笑い声が耳に心地よい。皆が笑顔で、幸福な時間が流れていた。
不意に星が立てた膝に顔を埋める。その横顔に憂いを帯びているのを美鈴は見逃さなかった。
「……どうしたんですか」
「幸せです。今私は幸せです。優秀な部下を持てて、信頼できる仲間をもてて。それ以上に、あの頃のように誰かを傷つける生き方をしなくていいことに幸せを感じているんです」
「だったら、なんでそんな悲しい顔を」
「……時々、これが全部夢なんじゃないかって思ってしまうんです。全てが出来すぎた夢。目が覚めれば、屍の上に寝そべっていたあの頃に……戻ってしまうんじゃないかって」
美鈴も同じように顔を俯かせた。彼女の心配は痛いほどわかってしまう。
この現実は自分たちにとってあまりにも幸福すぎる。
過去を振り返れば血みどろで決して綺麗な生き方とはいえない。
そんな二人だからこそ、この今を失うのが何よりも恐ろしい。
あの頃に戻るのが怖い。一人で生きるのが恐い。
星は過去を思い出しているのか、カタカタと身体を震わせその目に涙を溜めていた。
聖と出会い毘沙門天の下に就くまで彼女がどのように生きてきたか想像できないわけではない。
美鈴もレミリアと出会うまで、とても人道的とはいえない生き方をしてきた。
互いに業を背負う者。辛さも孤独も解りあった者。
美鈴は黙って星の肩を抱き寄せた。密着する肌、相手の体温が鼓動が直に伝わってくる。
「な!? なななッ! 美鈴さん! ちょ、ちょっといきなり!」
「大丈夫ですよ星さん……夢なんかじゃない」
慌てふためく星をなだめるように美鈴は優しい声色で言い続けた。
身体が熱い。酒のせいでもあるだろう、でも気恥ずかしさのほうが上だろう。
鼓動が早鐘のように高鳴る。抱き合うことで今が現実なのだと確認し合えた。
淡い幸せ。呼吸を合わせると妙な一体感を感じる。
「もし、今が夢だとしても、今を楽しみましょう。覚めたとき後悔しないように。夢の中の思い出をいつまでも思い続けられるように」
「……美鈴さん」
「あなたは優しい方です。優しい故に過去の自分を見つめ、悩んでしまうのでしょう。誰もあなたを責めることなんてできません」
それは美鈴自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
抱きしめる力はいつの間にか強くなり、二人は月明かりのもと一つとなっていた。
星は声を押し殺して泣いていた。不安だったのだ。誰にも話せぬ辛い過去を何百年も持ち続けることが。
美鈴は黙って彼女を抱き続けた。その心配を取り除くように。
今の幸せが決して夢で終わらないように。
不意に眠気が襲い、美鈴は星に身を預けてそのまま瞳を閉じた。
規則正しい寝息。どうやら星も眠ってしまったようだ。
暗転に堕ちる視界。心地よい空間。身体が浮かび上がるような。
身体から力が抜ける。現(うつつ)の世から解放された。
どれほど時が経ったのか。目を開けると、東の空が白んでいた。
周りには誰もいなく、たった一人で眠っていたようだった。
――なんだ、やっぱり夢だったか
鍛え抜かれた肉体は女だてらに一山超える程度わけはない。
緑の服は森林の風景に溶け込んでいるが、彼女はそれを望んではいないようだ。
染み付いた血と脂の臭いはここのモノたちを誘き寄せるのに十分な効果を持っていたから。
地面は湿った腐葉土になっており、歩くたびに少し体が沈む。
高々と生い茂る樹木は陽光を地に差し込むことを許さず、まわりは昼間だというのに薄暗い。
人の手が加えられていない真正の山林。人の蔓延るこの時代にもまだこのような場所があるとは。
――いい感じだ。誰かを襲うにはなんて好条件なんだろう。
獣道を歩く女の気は静かに昂奮していた。やっと骨のあるものと出会えることに。
女の武術は大陸を超え遥か西洋にまで広がるほどの実力だ。
その拳は山を揺るがし、その蹴りは滝をも切り裂く。彼女の前に立ち塞がった愚者はことごとく血祭りに帰された。
もはや人間相手では通用しない。女は人ならざるモノが集うという霊山に出向くようになった。
山に入った時点で何匹かと戦ったが、少し奇妙な動きをするだけで動物と変わらない。
今は霊山の奥深く。ここには地元の村人から恐れられている虎の妖怪がいるのだとか。
「あぁ……いるね、いるいる。凄いな」
先ほどからピリピリと皮膚に擦り付けるように感じる殺気。人の物じゃない。
自分を求める。肉を、臓物を、骨を、魂を。喰らいたいと欲する。
そうだ、それでいい。それこそ闘争において最も原始的な本能。
相手を倒し、喰らう。女は一度舌なめずりをし、殺気の出所を探る。
姿は見えない。そりゃそうだ、相手は獣から成り下がった妖怪。
野性の中で敵もしくは被食者に見つかる馬鹿はそういない。
女は歩みを止め、その場に荷物を置いた。
拳を握り直し、地面を踏みしめる。感覚はすでに死合の場を作り上げた。
獣はじっと見つめていた。女が山に入り、襲い来る妖怪連中を返り討ちにし、そして自分の縄張りに来るまで。
黄色の下毛に黒の縞模様。肉食獣らしい鋭い牙と爪。人の形をとっても、元の獣がなんなのか容易に想像がつく。
この山で彼女を知らぬものはいない。喰う喰われるの食物連鎖で頂点に立つのが彼女だからだ。
獣として生まれ、誰よりも生き長らえ、親の死に際を見送り、そして異界の力を持った。
人の形を取ったのは、そのほうが妖力の燃費と喰う量が少なくて済むからだ。
それでも獣は獣。たとえこの世に一人取り残され、力を得ようと何者かを喰らう生き方を変えることはない。
それにしても偶然かそれとも何らかの意図があるのか。この山に人間が入り込むとは。
――なんでもいい、食料が手に入るのならば。
動くものは全て喰らわれるもの。そうやって今まで生きてきた。
ならば今日もそうするべき。獣はそっと舌なめずりをする。
身体を空間に委ね、爪は気を切り裂く。標的は真下。
自分より巨大な体躯をした鼻長のアイツさえ地に伏せさせた一撃を彼女に。
◆
私が獣の存在に気づいたのは些細な偶然だった。
不意に自分を覆う影が濃くなった気がした。初めは風の関係で木々の葉が揺らいだためだろうと高をくくっていた。
しかし僅かに聞こえる空を切る音。鋭敏に尖れた殺気が魂を貫いていく。
違う。死の感覚。生の基盤から不意に足が離れた。
私は力を抜いた。糸が切れた操り人形のように、身体は地へと吸い込まれていく。
目が合った。互いに標的の視線を浴びる。自らの存在を奪おうとする悪しき存在。
少女だった。なるほど確かに虎に似ている。
獣の右腕は虚空を分断し、私の咽頭約三寸前を通り過ぎた。
ギリギリの判断だったがそれが功を奏した。もしあの場で動いたのならばこの首が深緑の中に消えていっただろう。
恐れを感じた。生物としての本能が明らかに、自分の命を奪いかねん相手だと判断したのだ。
喜びを感じた。生物としての理性が明らかに、自らの欲を満たす相手だと判断したのだ。
「アンタを待っていた」
獣は何も言わず着地と同時に飛び上がる。
もう隠れない。野性が動く。動体視力は役にたたない。弾く音も頼りない。
残り香も立たせず獣は動く。木々の間を。影が消える。動く。速く。
私は深く息を吐き、丹田に意識を集中させる。
地を天を廻る気を捉える。私が武道と共に得た力。
纏わりつくように気が表面を滑る。触れれば熱く、確かな質量をもって。
◆
私は飛んだ。隠れることを止めた。真っ向勝負、あの女は必ず乗ってくる。
密集した樹木は足場として最適だった。しなやかで強靭な筋肉は森林の高速移動に一役買っている。
人間は言うに及ばず、どんな妖怪も自分の姿を目撃したものはいない。
捉えたが最期、爪牙の餌食となるだけだ。
絶対だ、自分が最強としてこの山を支配する絶対の力。
その肉を裂くのに何の抵抗も無い。その骨を断つのに何の問題はない。
振るうだけだ。噛み付くだけだ。それだけで、必殺。
いつもどおり。獣は木を蹴り女の背後を取る。相手は気づいていない。当然だ。
踏み込んだ地面は勢いで吹き飛ぶ。豪腕は女の肌を捉えた。
「ッ!?」
目の前に女の姿は無く、爪は僅かに血を纏っただけだった。
――気取られた、そんな馬鹿なことが!
初めて避けられた。全力を、今までこんなことなかった。
驚愕する私の真上、振り落とされた鉄の踵。
瞬間真っ暗になった視界、その後襲う頭部の激痛。
足は自分の頭を踏んでいるのか。頭が割れるような痛みによくわからない。
「気ぃ張りすぎ。奇襲は最後の最後まで気配を消すものよ」
女の声が暗闇から聞こえてくる。余裕の在る、どこか憎たらしい。
今まで敗北を経験したことのなかった私の自尊心が揺らぐ。
湧き上がる憤り。殺したい、この女を殺したい。
喰らいたいなんてものじゃない。この女の存在をこの世から消す。
腐葉土をあらん限り握り締める。その目は先ほどよりも深く暗く澱んでいた。
◆
女は内心ホッとしていた。本気の一撃を頭に打ち込んだからしばらく動けないだろう。
ズキリと走る背中の痛み。火傷のような肌が焼ける感じ。
摩擦だけでこの威力。直撃すれば大木も饅頭のようにもぎ取られるだろう。
獣が自分の狩りに絶対の自信をもっていてよかった。
慢心が気を散らし、殺気をより大胆にさせた。
いくら高速で動いても動きを先読みしていれば、避けることもカウンターを当てることも難しくは無い。
それでもそう何度も当てられる代物ではないけど。
この一撃で沈められたことは単なる幸運。たまたま振り下ろした踵が直撃しただけ。
「……それでも、私が畏れるぐらいの妖怪はアンタが初めてだったよ」
地面に顔を埋める名も無き虎の妖怪に労いの言葉をかけ、その場を後にしようと背を向けた。
――カサッ
立った。後ろを振り返りかえると、間違いなく。妖怪は確かに立った。
ゾクリと一気に総毛立つ。底知れぬ。女は生唾を飲み込んだ。
頭頂部からの出血は見られるが、致命的とまではいかない。
下が柔らかい腐葉土だったためか。
「……石頭」
「これでも……ここらの妖怪の上に、立っているんだ。これくらいで……」
「なんだ、喋れるんだ」
「お前……人間じゃないな」
獣の問いに女はフッと微笑んだ。
「“元”人間だよ」
「……どうやって妖怪に」
「さぁ……武道を極めて、人を殺し続けて、気がついたらなっていた」
誰かを殺めた業が、その者を妖怪たらしめるのか。
因果関係なんて互いにわからない。知っているのは、これからも我が身は血で汚れていくのだという現実。
その手は何も生み出さない。奪うことでしか生を見出せない。
その点で言えば、目の前の相手は自分と似ているのだろうか。
戦いに明け暮れ、鮮血で身を穢し、気がつけば孤独の闇のなかで佇んでいる。
まるで水鏡。彼女は私なんだ。シンパシーが寄り合う。僅かに立ちくらみがする。
「……お喋りはもう止めようや」
「せっかく出逢えたってのに、残念」
「気づいてるくせに……案外いやな性格してるのね」
「ふふふ、お前と私は……」
「……アンタと私は」
――殺し合わなくちゃ、相手を、自分を認められない悲しい化け物
獣が仕掛ける。野生が先手を求めた。神速の踏み込みは地を駆ける雷光を生み出す。
直後に山を轟かす爆発音。舞い上がる木の葉と腐った木々。
音すら遅い。獣は向かった。自分とよく似た女の下へ。
風よ邪魔だ。あの女へ一刻も早く、速く。
一歩がもどかしい。あぁ、もはや光になりたい。ほしい、彼女がほしい。
獣は笑っていた。喰らう以上の価値を見出す存在に出逢えたことを。
拳を握る。獣の猛襲に女は真正面から受けて立つつもりだ。
堂々、喧嘩を売ってきた。ならば堂々それを買ってあげよう。
纏う気は紅に映え、踏み出す右足は地を震わせた。
地獄の業火も生温い。体温は炎のように高まり続けた。
女は笑っていた。自分を恐れず、ここまで敵意を向けてくる輩はいなかった。
高鳴る鼓動。昂ぶる闘気。打ち震える歓喜。
拳は音をも弾く。真っ直ぐただ真っ直ぐ差し出した。
触れ合う。互いの肌が。痛覚すら愛おしい。不思議な気持ち。今まで味わったことのない多幸感。
花園の中で互いに見つめ合う。孤独を知る目。泣き腫らし、泣く涙も枯れ果てた。
その顔が妙に優しく見える。白い衝撃が二人を包むまで、相手に微笑みを向けて。
◆
「まさかあの時の妖怪が星さんだったとは、私もうビックリしましたよ!」
「それを言うなら私だって、昔美鈴さんと会ってたなんて本当驚きですよ!」
時は数百年後。場所は幻想郷、博麗神社。
宴会の席で二人は再会した。最初に声をかけたのは美鈴のほうからだった。
最初きょとんとしていた星も、段々記憶が浮かび上がったようで。
それから互いにあの時の思い出やその後どうなったかなどを肴に飲み交わした。
あの日から気の遠くなるような月日が経ち、互いの立ち位置も変わっていた。
粗暴な自分たちが懐かしく、淡い青春のようで少し気恥ずかしい。
「それにしたって星さん毘沙門天様の部下でしょ? 出世しましたよねぇ」
「い、いえ。私の力じゃなくて聖のお陰です。美鈴さんもレミリアさんの下で働いているじゃないですか」
「しがない門番ですけどね。部下持ちのあなたには敵いませんよ」
「……そんなに偉くないですよ。ナズーリンには迷惑かけてばっかりだし」
「気にしない気にしない。私も咲夜さんに毎日怒られてばっかですよ」
「ふふふ、お互い苦労してますね」
「ですね。乾杯」
チンとグラスを響かせる。夜も更け空には大きな望月が浮かんでいた。
遠くからはプリズムリバー三姉妹の喧騒が聞こえてくる。
それをバックに二匹の鬼と白黒魔法使いが変てこな踊りを踊っている。
笑い声が耳に心地よい。皆が笑顔で、幸福な時間が流れていた。
不意に星が立てた膝に顔を埋める。その横顔に憂いを帯びているのを美鈴は見逃さなかった。
「……どうしたんですか」
「幸せです。今私は幸せです。優秀な部下を持てて、信頼できる仲間をもてて。それ以上に、あの頃のように誰かを傷つける生き方をしなくていいことに幸せを感じているんです」
「だったら、なんでそんな悲しい顔を」
「……時々、これが全部夢なんじゃないかって思ってしまうんです。全てが出来すぎた夢。目が覚めれば、屍の上に寝そべっていたあの頃に……戻ってしまうんじゃないかって」
美鈴も同じように顔を俯かせた。彼女の心配は痛いほどわかってしまう。
この現実は自分たちにとってあまりにも幸福すぎる。
過去を振り返れば血みどろで決して綺麗な生き方とはいえない。
そんな二人だからこそ、この今を失うのが何よりも恐ろしい。
あの頃に戻るのが怖い。一人で生きるのが恐い。
星は過去を思い出しているのか、カタカタと身体を震わせその目に涙を溜めていた。
聖と出会い毘沙門天の下に就くまで彼女がどのように生きてきたか想像できないわけではない。
美鈴もレミリアと出会うまで、とても人道的とはいえない生き方をしてきた。
互いに業を背負う者。辛さも孤独も解りあった者。
美鈴は黙って星の肩を抱き寄せた。密着する肌、相手の体温が鼓動が直に伝わってくる。
「な!? なななッ! 美鈴さん! ちょ、ちょっといきなり!」
「大丈夫ですよ星さん……夢なんかじゃない」
慌てふためく星をなだめるように美鈴は優しい声色で言い続けた。
身体が熱い。酒のせいでもあるだろう、でも気恥ずかしさのほうが上だろう。
鼓動が早鐘のように高鳴る。抱き合うことで今が現実なのだと確認し合えた。
淡い幸せ。呼吸を合わせると妙な一体感を感じる。
「もし、今が夢だとしても、今を楽しみましょう。覚めたとき後悔しないように。夢の中の思い出をいつまでも思い続けられるように」
「……美鈴さん」
「あなたは優しい方です。優しい故に過去の自分を見つめ、悩んでしまうのでしょう。誰もあなたを責めることなんてできません」
それは美鈴自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
抱きしめる力はいつの間にか強くなり、二人は月明かりのもと一つとなっていた。
星は声を押し殺して泣いていた。不安だったのだ。誰にも話せぬ辛い過去を何百年も持ち続けることが。
美鈴は黙って彼女を抱き続けた。その心配を取り除くように。
今の幸せが決して夢で終わらないように。
不意に眠気が襲い、美鈴は星に身を預けてそのまま瞳を閉じた。
規則正しい寝息。どうやら星も眠ってしまったようだ。
暗転に堕ちる視界。心地よい空間。身体が浮かび上がるような。
身体から力が抜ける。現(うつつ)の世から解放された。
どれほど時が経ったのか。目を開けると、東の空が白んでいた。
周りには誰もいなく、たった一人で眠っていたようだった。
――なんだ、やっぱり夢だったか
夢と見せかけ、現実と見せかけ、実は夢だった。見事なオチでした。