『苦い無意識、甘い意識』
*
「おねぇちゃん!一緒にこれ食べよう!」
買い物を終え、玄関で外履きからいつものスリッパに履き替えていると、こいしが元気よく私の胸に飛び込んできた。
「と、と…。こいし、危ないから走っちゃダメよ」
買い物袋に両手を塞がれていた為、数歩たたらを踏んだものの、なんとかこいしの身体を受け止めた。私も痩身な方であるが、こいしはもっと軽い。
地霊殿に居ない間ちゃんと食べているのか心配なのだが、私にはどうしようもない。せめて帰ってきている時はちゃんとしたものを食べさせようとしているのだけれど。
「いいから!これ、食べよう!ね、おねぇちゃん!」
なんだか今日のこいしは何時になくハイである。私は両の手に下げた袋を降ろして、抱きついたままのこいしを少し引き離した。
頭を撫で、こいしが差し出した物を受け取る。
ん?んー…。
赤いハート型の小ぶりの紙箱。十字に掛けられ中心で可愛らしい蝶々結びにされたピンク色のリボン。
そして、極めつけにほのかに香る、甘い匂い。
まぁ、どうみても…これは…。
「こいし、これ、チョコ…よね?」
「そうだよ!ばれんたいん!」
そう、今日はバレンタインデーだ。
地底にもそんなイベントがあるのかと言われてしまいそうだが、旧都にだって想い人に親愛の証を送りたいと願う少女はたくさんいる。
…まぁ、基本的に送られるのがウイスキーボンボンであったりとか、普通のチョコでも肴にされるのが前提だったりとか、本来の様相とは違う気がしなくもないが。
かく言う私だって毎年、ちゃんとこいしとお燐、空の分のチョコレートを作って渡している。
ちなみに去年はちょっとビターなフォンダンショコラを作ってあげたら、こいしと空からは不満の声が上がった。甘いのが良かったらしい。
私はビターなのが好きなんだけどなぁ…。
お燐は文句こそ言わなかったが、猫舌なので冷めるまでしばらく食べられなかったのが可哀想だったし。
そんなわけで、今年は特に凝る予定もなく、トリュフをミルクとビターで2種類作る事にした。
3日程前湯煎に使うミルクチョコとビターチョコを買い出しに行ったのだが、昨日確認したらどうやら量を間違えたらしい。どちらも少し足りなかった為、今買い足しに行ってきたところなのである。
ついでにトリュフのレシピのメモも見当たらなかったので、そのレシピ本も買ってきた。レシピがなくても作れるのだが、色々とチョコレートが載っている本というのは捲っているだけでも楽しいものだ。私もまた女の子なのである。
そして買い出しから帰ってきて、冒頭のこいしの台詞に戻る。
差し出されたチョコと思わしき箱は、包装のおぼつかない部分があり、明らかに手づくりなのが窺える。
ふむ、と私はしげしげと包みを眺めた。
確かに器用に作られた感じはしない。だが、その何処にも手を抜いている感じがなかった。
同じ女の子だから直ぐに分かる。
これは、『本命』だ、と。
「ねぇ、こいし」
「なぁに、おねえちゃん?」
こいしはいつもの様に可愛く小首を傾げる。私は少し撥ねた癖毛を撫でてやりながら聞いた。
「これ、どうしたの?」
「わかんない!」
「わかんないって…」
こいしはなんでもない事の様に言う。きっと本当に分からないのだろう。
「気が付いたら持ってた!ね、だから一緒に食べよう!」
実は、こいしが物を拾ってくる事は多々ある。
食べ物から本、果ては飲食店の店頭に飾ってありそうな白い髭を蓄えたお爺さんの人形まで、それはもうバリエーションに富んでいるのだが。
基本的に本人が何処から持って来たのか分からない以上返しようがない為、一定期間地霊殿にあずかった後お燐と一緒に捨てに行く事にしている。
食べ物はまぁ、ギリギリまで待って食べてしまう事もある。捨てるのも忍びないし。
しかし…これは…うーん。
さすがに、まずいだろうなぁ…。
「うん、こいし、これはダメよ」
「どうしてー!食べようよう」
「これは作った人の想いがたくさん込められているもの。私達が食べちゃダメだと思うの」
同じ女の子として、流石にこれを食する訳にはいかない。
しかし、こいしはいやいやをした。
「えー!チョコ食べたい!」
「こいしのは後で私が作ってあげるから…ね?」
「わたしは、今!おねぇちゃんと!食べたいの!」
袋に入ったチョコを指し、頭を撫でてもこいしは駄々をこねる。
この子、そんなにチョコ好きだったかしら…?
「じゃあ、今から直ぐ作ってあげるから。ちょっと待ってて?」
むー、とこいしは唸っている。これでもダメらしい。どうしたものか。
「今年はちゃんと、こいしの好きな甘い…」
「―…!もういい!」
撫でていた手を払い、どん、と胸を押してこいしは私に背を向けて走り去ってしまった。
私の手にはこいしが拾ってきたチョコが残る。
一人残され、はぁ、と一つ溜息を吐いた。
全部、私が悪いのだ、と思う。
あの子の「意識」を奪ってしまったのも、私。
善悪の観念をきちんと教えずに放り出してしまったのも、私。
「好き」という「意識」を、あの子から奪ってしまったのは私なのだから。
その事への後悔は、もうした。そして、これからもし続ける。
あの子が悪い事をしたのなら、謝るのは私の役目だ。
小さくチョコの入った箱を振った。からからと軽い音が鳴る。
さて、このチョコの作り主を、想い主を探してあげないといけないと。
今日中に、という時間的制約はあるが、私の能力は使わないし、使えない。今日という日に「心を読む」のが禁忌である事位、私だって分かる。
しかし、旧都で信頼の厚い「力」を持つ彼女を頼れば見つかるかもしれない。鬼に限らず、彼女には自然に誰かが集い、頼って来るのだから。
その前に、想い主の名前くらい把握しておかないといけないだろう。私は一度箱を開ける事にした。
これだって倫理的にどうかとは思うが、どうせ憎まれるなら彼女より私の方がいいに決まっている。何より、彼女の手を煩わせたくはなかった。
それでもなるべく丁寧にリボンを解き、少しだけ皺の寄ったラッピングがされた包装紙をぺりぺりとはがす。
出てきたハート型の箱。そう、私達はハートの中に「好き」だという気持ちを込めるのだ。
ごめんなさい、と小さく呟く。誰に聞こえなくても、必要な事だった。
これもやっぱり、心を覗く行為なんでしょうね、と苦笑いして、箱を開けた。
「―え?」
出てきたのは、小さなチョコが2つだけ。正確には、2つのトリュフチョコ。
1つが茶色のミルクチョコ。そしてもう1つは焦茶色のビターチョコだった。
それだけだったら、単なる出来すぎの偶然だと言えたかもしれない。
たまたま、トリュフのレシピが手元から無くなっていて、たまたま買ってあった筈のチョコの材料が足りなくなったところに、こいしがトリュフチョコを拾ってきただけだったかもしれない。
だけど。
その箱の蓋。ハート型の蓋の裏に書かれた文字は。
黒のマジックで、ちょっと拙く、大きめに書かれたその文字は。
『おねぇちゃん、大好き』
紛れもなく、私の、可愛い妹のものだったから。
こいしは、どこまで無意識だったのだろう。
チョコを作るところから?私に渡したところから?今は?
だけど、そんなことは些末な事だった。
意識でも、無意識でも、あの子がこのハート型の箱に込めた気持ちは、同じだったから。
私は少しだけ震える手を、その焦茶色のチョコに伸ばした。口の中で転がしたその味は。
「…苦い」
私が「好き」だと言った、ビターチョコレート。
じゃあ、もう一つのミルクチョコレートは?
『わたしは、今!おねぇちゃんと!食べたいの!』
言うまでもないだろう。
私はスリッパをつっかけ、駆けだした。きっと口元は、綻んでいるのだろう。
小さく呟く。
「私も、大好きよ」
早く追いかけて、一緒に食べてあげないと。
この口の中に広がる、苦くて甘いチョコの味が、消えてしまう前に。
*
「おねぇちゃん!一緒にこれ食べよう!」
買い物を終え、玄関で外履きからいつものスリッパに履き替えていると、こいしが元気よく私の胸に飛び込んできた。
「と、と…。こいし、危ないから走っちゃダメよ」
買い物袋に両手を塞がれていた為、数歩たたらを踏んだものの、なんとかこいしの身体を受け止めた。私も痩身な方であるが、こいしはもっと軽い。
地霊殿に居ない間ちゃんと食べているのか心配なのだが、私にはどうしようもない。せめて帰ってきている時はちゃんとしたものを食べさせようとしているのだけれど。
「いいから!これ、食べよう!ね、おねぇちゃん!」
なんだか今日のこいしは何時になくハイである。私は両の手に下げた袋を降ろして、抱きついたままのこいしを少し引き離した。
頭を撫で、こいしが差し出した物を受け取る。
ん?んー…。
赤いハート型の小ぶりの紙箱。十字に掛けられ中心で可愛らしい蝶々結びにされたピンク色のリボン。
そして、極めつけにほのかに香る、甘い匂い。
まぁ、どうみても…これは…。
「こいし、これ、チョコ…よね?」
「そうだよ!ばれんたいん!」
そう、今日はバレンタインデーだ。
地底にもそんなイベントがあるのかと言われてしまいそうだが、旧都にだって想い人に親愛の証を送りたいと願う少女はたくさんいる。
…まぁ、基本的に送られるのがウイスキーボンボンであったりとか、普通のチョコでも肴にされるのが前提だったりとか、本来の様相とは違う気がしなくもないが。
かく言う私だって毎年、ちゃんとこいしとお燐、空の分のチョコレートを作って渡している。
ちなみに去年はちょっとビターなフォンダンショコラを作ってあげたら、こいしと空からは不満の声が上がった。甘いのが良かったらしい。
私はビターなのが好きなんだけどなぁ…。
お燐は文句こそ言わなかったが、猫舌なので冷めるまでしばらく食べられなかったのが可哀想だったし。
そんなわけで、今年は特に凝る予定もなく、トリュフをミルクとビターで2種類作る事にした。
3日程前湯煎に使うミルクチョコとビターチョコを買い出しに行ったのだが、昨日確認したらどうやら量を間違えたらしい。どちらも少し足りなかった為、今買い足しに行ってきたところなのである。
ついでにトリュフのレシピのメモも見当たらなかったので、そのレシピ本も買ってきた。レシピがなくても作れるのだが、色々とチョコレートが載っている本というのは捲っているだけでも楽しいものだ。私もまた女の子なのである。
そして買い出しから帰ってきて、冒頭のこいしの台詞に戻る。
差し出されたチョコと思わしき箱は、包装のおぼつかない部分があり、明らかに手づくりなのが窺える。
ふむ、と私はしげしげと包みを眺めた。
確かに器用に作られた感じはしない。だが、その何処にも手を抜いている感じがなかった。
同じ女の子だから直ぐに分かる。
これは、『本命』だ、と。
「ねぇ、こいし」
「なぁに、おねえちゃん?」
こいしはいつもの様に可愛く小首を傾げる。私は少し撥ねた癖毛を撫でてやりながら聞いた。
「これ、どうしたの?」
「わかんない!」
「わかんないって…」
こいしはなんでもない事の様に言う。きっと本当に分からないのだろう。
「気が付いたら持ってた!ね、だから一緒に食べよう!」
実は、こいしが物を拾ってくる事は多々ある。
食べ物から本、果ては飲食店の店頭に飾ってありそうな白い髭を蓄えたお爺さんの人形まで、それはもうバリエーションに富んでいるのだが。
基本的に本人が何処から持って来たのか分からない以上返しようがない為、一定期間地霊殿にあずかった後お燐と一緒に捨てに行く事にしている。
食べ物はまぁ、ギリギリまで待って食べてしまう事もある。捨てるのも忍びないし。
しかし…これは…うーん。
さすがに、まずいだろうなぁ…。
「うん、こいし、これはダメよ」
「どうしてー!食べようよう」
「これは作った人の想いがたくさん込められているもの。私達が食べちゃダメだと思うの」
同じ女の子として、流石にこれを食する訳にはいかない。
しかし、こいしはいやいやをした。
「えー!チョコ食べたい!」
「こいしのは後で私が作ってあげるから…ね?」
「わたしは、今!おねぇちゃんと!食べたいの!」
袋に入ったチョコを指し、頭を撫でてもこいしは駄々をこねる。
この子、そんなにチョコ好きだったかしら…?
「じゃあ、今から直ぐ作ってあげるから。ちょっと待ってて?」
むー、とこいしは唸っている。これでもダメらしい。どうしたものか。
「今年はちゃんと、こいしの好きな甘い…」
「―…!もういい!」
撫でていた手を払い、どん、と胸を押してこいしは私に背を向けて走り去ってしまった。
私の手にはこいしが拾ってきたチョコが残る。
一人残され、はぁ、と一つ溜息を吐いた。
全部、私が悪いのだ、と思う。
あの子の「意識」を奪ってしまったのも、私。
善悪の観念をきちんと教えずに放り出してしまったのも、私。
「好き」という「意識」を、あの子から奪ってしまったのは私なのだから。
その事への後悔は、もうした。そして、これからもし続ける。
あの子が悪い事をしたのなら、謝るのは私の役目だ。
小さくチョコの入った箱を振った。からからと軽い音が鳴る。
さて、このチョコの作り主を、想い主を探してあげないといけないと。
今日中に、という時間的制約はあるが、私の能力は使わないし、使えない。今日という日に「心を読む」のが禁忌である事位、私だって分かる。
しかし、旧都で信頼の厚い「力」を持つ彼女を頼れば見つかるかもしれない。鬼に限らず、彼女には自然に誰かが集い、頼って来るのだから。
その前に、想い主の名前くらい把握しておかないといけないだろう。私は一度箱を開ける事にした。
これだって倫理的にどうかとは思うが、どうせ憎まれるなら彼女より私の方がいいに決まっている。何より、彼女の手を煩わせたくはなかった。
それでもなるべく丁寧にリボンを解き、少しだけ皺の寄ったラッピングがされた包装紙をぺりぺりとはがす。
出てきたハート型の箱。そう、私達はハートの中に「好き」だという気持ちを込めるのだ。
ごめんなさい、と小さく呟く。誰に聞こえなくても、必要な事だった。
これもやっぱり、心を覗く行為なんでしょうね、と苦笑いして、箱を開けた。
「―え?」
出てきたのは、小さなチョコが2つだけ。正確には、2つのトリュフチョコ。
1つが茶色のミルクチョコ。そしてもう1つは焦茶色のビターチョコだった。
それだけだったら、単なる出来すぎの偶然だと言えたかもしれない。
たまたま、トリュフのレシピが手元から無くなっていて、たまたま買ってあった筈のチョコの材料が足りなくなったところに、こいしがトリュフチョコを拾ってきただけだったかもしれない。
だけど。
その箱の蓋。ハート型の蓋の裏に書かれた文字は。
黒のマジックで、ちょっと拙く、大きめに書かれたその文字は。
『おねぇちゃん、大好き』
紛れもなく、私の、可愛い妹のものだったから。
こいしは、どこまで無意識だったのだろう。
チョコを作るところから?私に渡したところから?今は?
だけど、そんなことは些末な事だった。
意識でも、無意識でも、あの子がこのハート型の箱に込めた気持ちは、同じだったから。
私は少しだけ震える手を、その焦茶色のチョコに伸ばした。口の中で転がしたその味は。
「…苦い」
私が「好き」だと言った、ビターチョコレート。
じゃあ、もう一つのミルクチョコレートは?
『わたしは、今!おねぇちゃんと!食べたいの!』
言うまでもないだろう。
私はスリッパをつっかけ、駆けだした。きっと口元は、綻んでいるのだろう。
小さく呟く。
「私も、大好きよ」
早く追いかけて、一緒に食べてあげないと。
この口の中に広がる、苦くて甘いチョコの味が、消えてしまう前に。
分かります。
そっちサイドのお話も読んでみたいです!