※このお話は全四部構成の予定となっております
当作品はその内の第三部にあたります
ですので、第一部にあたる『朱色の想い ― 起 ―』(作品集136)、
及び、第二部にあたる『朱色の想い ― 承 ―』(作品集137)を先に読んでおかれることを強く推奨します
朱鷺子――それが私の名前。
少し前まで私に名前なんて存在しなかった。
どこにでもいる名無しの妖怪、それが以前の私。
特徴があるとすれば本を読むのが好きということぐらいで、それ以外には特に目立った点もない、極々普通の妖怪だった。
そんな私が変わったのは、ある場所を訪れてから……
正確には“ある人”に出会ってからだ。
その人は私に色々と優しくしてくれた。
読みたかった本を貸してくれたり、ご飯をご馳走してくれたり、服を仕立ててくれたり。
そして何より、“名無し”だった私に“朱鷺子”という名前を授けてくれた。
単純で、覚えやすくて、何の飾り気もない3文字の名前。
けれど私はこの名前が……あの人が付けてくれたこの名前が、大好きだった。
「朱鷺子」とあの人から名前を呼ばれるたびに、私の心はどうしようなく喜びで満たされる。
誰かに自分の名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいことだなんて知りもしなかった。
あの日、朱鷺子という名前を貰った瞬間から、私の人生は輝きを増した。
それまでの人生が色褪せたものだったというわけではないけれど、名前を貰ってからの日々がより一層輝いて見えたのは確かである。
“名無しの本読み妖怪” は “朱鷺子” として、この世に新たな生を受けたのだ。
私のことを名前で呼んでくれるのは、今はまだあの人ぐらいしかいないけど、いずれはもっと大勢の人から「朱鷺子」と呼んで貰えるようになりたい。
決して有名になりたいわけではなく、ただ単に自分の名前があるという事実を、誰かに名前で呼んで貰えるという喜びを、もっとたくさん感じたい。
だけど――
だけど今は、あの人に「朱鷺子」と呼んで貰えるだけで、私は十分に幸せだった。
◆ ◆ ◆
今日も私は香霖堂を訪れていた。
私と彼が出会ってから、もう半月が経とうとしている。
昼前に店を訪れ、たまに昼食をご馳走になって、午後からは借りた本を読んで過ごし、外が暗くなる前に住み処へと帰る。
そんな日々を、ほぼ連日……週に4日ほどの割合で送っていた。
本当は毎日でも訪れて本の続きを読み進めたかったが、香霖堂にも都合があるし、何より以前みたく赤いのや黒いのと遭遇しそうになるのは避けたかった。
幸いあの日以降、例の2人と鉢合わせそうになったことはない。
どうやら私とあの2人は入れ違いで香霖堂を訪れているらしく、私が店に行かない日にはあの2人が、あの2人が店に来ない日には私がといったように、
運良くローテーションが形成されているようだった。
今日も2日ぶりに店を訪れたわけだが、香霖堂曰くちょうど昨日、あの2人がここを訪れたばかりだと言う。
ということは、あの2人が今日この店にやってくる可能性は限りなくゼロに近い。
何故ならこの半月ほどの間に、あの2人が2日以上連続で香霖堂を訪れたことはなかったからだ。
所詮はただの統計論に過ぎないが、それでも気休め程度にはなる。
「今日はあの2人が来るかもしれない」と思ってビクビクしながら過ごすより、
「今日は恐らく来ないだろう」と思って伸び伸びとしていた方が、心を落ち着けて読書に集中できるのだ。
「今日はまた一段と読むスピードが速いね」
「今日はあの2人が来そうにないからねー、安心して読書に集中できるってわけよ」
読書に没頭していた最中、後ろからいきなり声を掛けられた私だったが、さして動じることもなく受け答える。
以前の私ならここで盛大に驚いていたのだろうが、この半月を経て私の中に“読書中にいきなり声を掛けられること”に対する耐性ができてしまったらしい。
「ていうか、それを言ったら香霖堂だって読むスピードが速いじゃない。私が貸した3冊の本、もうとっくに読み終わったんでしょ?」
「君の12冊に対し、僕はたったの3冊だからね。さすがに半月もあれば読み切ってしまうさ」
香霖堂はもう1週間ほど前に『非ノイマン型計算機の未来』の13巻から15巻までの計3冊を読み終えていた。
彼は3冊目を読み終えた後、すぐにそれらを私に返そうとしてくれたのだが、私はその申し出を断った。
私がまだ借りた本を全て読み終わっていない以上、私が貸した本だけを先に返してもらうのは何だか公平じゃない気がしたのだ。
そのことを香霖堂に伝えたら、
「別に気にしなくてもいいのに」
と言ってくれたが、彼とはできるだけ対等な立場でいたかった私は、半ば強引に本の受け取りを先延ばしにした。
どうして対等でいたいと思ったのか私自身にもよく分からなかったが、もしかしたら無意識のうちに彼に対して負い目のようなものを感じているのかもしれない。
思えば香霖堂と出会ってから今日に至るまで、彼には何度も世話になってしまった。
出会ったばかりの私を泊めてくれたり、新しい服を作ってくれたり、黒いのから私を庇ってくれたり――
そういった数多くの借りがあるせいか、これ以上彼の厚意を受け取ることに対し抵抗を感じてしまっているのだろう。
私はとりあえずそう思うことにして、本の続きに意識を集中させた。
それから約1時間後。
目と首周りに疲れを感じた私は、読みかけのページに栞を挟み少し休憩を取ることにした。
指先で眉間をつまみ軽く揉んでいると、コトリ、と私の側にお茶の入った湯呑みが置かれた。
視線を上げると、香霖堂がお盆を持ったまま私を見下ろしている。
どうやら私が休憩するタイミングに合わせてお茶を用意してくれたらしい。
「それにしても、君と出会ってからもう半月が経つのか」
私がお茶に対する礼を言おうとする前に、香霖堂は唐突にそんなことを呟いた。
「どうしたの、いきなり?」
「いやなに、こういった光景がいつの間にか当たり前になっていることに気付いてね」
「こういった光景って?」
「君がここにやってきて本を読んだり、一緒にお茶を啜ったりする光景のことさ」
確かにあれ以来、私は結構な頻度でこの店を訪れている。
香霖堂に言われて気付いたが、私の中でも彼と一緒に過ごす時間がまるで当たり前のようになっていた。
「その……迷惑だった?」
一応香霖堂の都合も考えて、できるだけ日にちに間隔を空けて来訪するようにしていたのだが、それでも迷惑だっただろうか?
もし私が営業の邪魔になっていたり、香霖堂の1人の時間を奪ってしまっているようならば、もう少しここに来る頻度を下げるべきだろう。
先も言ったように、これ以上彼には負担を掛けたくない。
「迷惑だなんてとんでもない。君は他の面子に比べてもだいぶ大人しいし……
それに読書という共通の趣味もあるから、会話していて楽しいよ」
「そう……ならいいけど」
良かった――と、心の中で安堵する。
趣味を共有できる知り合いができたことは、私にとっても非常に嬉しいことだった。
今までは自分で拾ってきた本を自分で読むだけだったが、香霖堂と知り合ってからは今のようにお互いの本を貸し借りしたり、読んだ後に本の感想を語り合ったりと、とても有意義な読書ライフを過ごせている。
どうやらそれは香霖堂も同じらしく、私という読書好きな知り合いができたことを快く思っていてくれたようだ。
そのことが何だか無性に嬉しくて、私は自分の気持ちを言葉にして伝えたくなる。
「……私、香霖堂と知り合えて良かったと思う。本を貸してくれて、服も作ってくれたし……」
ずっと1人で生きてきた私にとって、誰かに自分の素直な気持ちを伝えることが、こんなに恥ずかしいことだとは思わなかった。
羞恥のあまり、自分の意思とは関係なく語尾が勝手に小さくなってしまう。
普段日常で使っている何気ない「ありがとう」とは違って、改めて感謝の気持ちを意識してしまうとどうしても上手く言葉が出てこなかった。
今のような言い方で私の気持ちは少しでも伝わったのだろうか、少し不安になりながら香霖堂の反応を待つ。
「……そうだな、僕も君と知り合えて良かったと思うよ」
「そ、そう?」
思わず顔が綻ぶ。
それは私が期待していた言葉。
その一言だけで、私の心は心地良い温かさに包まれた。
「まあ、君がドアを蹴破って現れたときは驚いたがね」
「は、ははは……」
「けど、もしあの日あの時に“契約”をしていなかったら、君とのこの関係はなかっただろうね」
と、
喜びに浸っていたはずの私は、その一言に何か引っ掛かるものを感じた。
「……契約?」
「お互いの所持する本を貸し借りし合うという、あの契約だよ。忘れたわけじゃないだろう?」
「う、うん……」
なんだろう。
“契約”という単語を香霖堂の口から聞いたとき、得体の知れない不快感のようなものが私に降り掛かった。
そして――
「もしあのとき契約が成立していなかったら、君と過ごすこの日々は存在しなかっただろう。
あれのおかげで今の日常があると言っても過言ではないだろうね」
その言葉が致命的だった。
確かに私がここを訪れるようになったのは、香霖堂との“契約”に起因する。
お互いの本を貸し借りし合うというあの契約。
もしあの時、契約が成立していなかったとしたら――
私が力尽くで本を奪い返そうとしたり、或いは香霖堂が私に取引を持ちかけようとは思わなかったら、
私と香霖堂が過ごしてきた半月にわたる日々は存在し得ないものだっただろう。
言い換えれば、“私が香霖堂に通う”という日常は、その契約の上に成り立っているのだ。
私は借りた本を読むためにここを訪れ、
香霖堂は私と“契約”が結ばれているから私を招き入れてくれる。
ではもし――
もし、契約が切れてしまったら?
香霖堂は既に私が貸した本を読み終えてしまった。
あとは私が借りている本を全て読み終われば、その時点で契約は終了してしまう。
契約が終わりを告げ、“本を読むため”という理由を失ってしまったら――
そうなったら、私がここを訪れてもいい理由がなくなってしまう……?
そのことを考えた瞬間、私は自分の立っている足場がいきなり消失してしまったかのような、焦燥感にも似た感情に襲われた。
動悸が速まり、全身から嫌な汗が噴き出るかのような錯覚を感じる。
今まで知り得なかった衝撃の事実を知り、自分の存在の根幹を揺さぶられたかのような……
そんな未知の恐怖に私は囚われていた。
「……朱鷺子?」
「――ッ! な、何?」
暗い思考に沈んでいた私は、香霖堂の声で意識を取り戻した。
見れば、彼はどこか心配そうな表情で私の顔を覗きこんでいる。
「いきなり黙り込んでどうしたんだ? 何だか顔色が良くない気がするが……」
私は今、そんなにひどい顔をしているのだろうか。
思考の淵から戻った今も、先ほどの嫌な考えが頭にしがみ付いて離れない。
香霖堂の言うとおり、きっと今の私は生気の無い顔をしていることだろう。
「……ううん、別に何でもない」
「そうかい? ならいいが、体調が悪いんだったら無理はしない方がいい」
「うん……でもホントに何でもないから、大丈夫」
今の私には、そうやって言葉を絞り出すだけで精一杯だった。
とてもじゃないが顔色にまで気を配っていられない。
「……僕は向こうで作業の続きをしているから、何かあったら呼ぶんだよ」
香霖堂は最後まで私のことを心配してくれていたが、これ以上問いただしてもお節介になると判断したのか、そう告げると奥の部屋へと消えていった。
香霖堂がいなくなり、1人部屋に取り残される。
しばらくの間、私の体は動くことを拒否していたが、時間が経過することで私の目は自然と読みかけの本――“契約”によって借り受けた本へと向けられる。
「続き……読まなきゃ」
鉛のようになってしまった腕を動かし無造作に置かれていた本を手に取ると、栞を挟んでおいたページを開いて読書を再開する。
この本を読むことこそが、私がここにいていい唯一の理由なのだから。
そう自分に言い聞かせ、私は本を読み進めていく。
薄い紙のページを捲るたび、その1枚1枚がまるで石でできているかのように重く感じられた。
どれだけ時間が経っただろう。
私は時が流れるのも忘れて、ただひたすらに本を読み続けた。
こう書くと、私が本の内容に夢中になっているかのように見えるが、実際はそうではない。
というかそもそも、私は本を読んでなどいなかった。
文章を読まずにただ単にページを捲るだけの動作のことを、読書だといえるのなら話は別だが。
私は本の内容に目を通すことなく、ぼんやりとページ全体を眺めては次のページに進むという作業を単調に繰り返しているだけであった。
いつもの私ならページの隅から隅にまで目を通し、そこに書かれている知識や単語を貪欲に頭の中へと詰め込んでいくのだが、今に限っては書かれた文字の1つさえ頭の中に入ってこない。
代わって脳内を占めるのは先にも考えていたこと――自分が香霖堂に通い続ける理由と、その原因についてだ。
香霖堂が言ったように、私と彼の関係は契約の上に成り立っている。
それはつまり、契約が切れてしまったら私たちのこの関係もそれまでということ。
私はその事実が堪らなく辛く、そして恐ろしかった。
今手元にあるこの本は、シリーズ物の第7巻に当たる。
これと同じシリーズの本をあと5冊読み終えてしまったら、その時点で契約が終了してしまうのだ。
そう考えるとあれほど楽しみにしていた本の続きが、今では忌避すべき敵のようにさえ思えてくる。
捲られるページの1枚1枚は、まるでこの幸せな日々の終焉を告げるカウントダウンのようだった。
(もっと香霖堂と一緒にいたい。本の続きなんかどうでもいい、私は今の日常が――)
――そうだ!
確かに私と彼の関係は、契約あってのものなのかもしれない。
それ故、契約が切れれば2人の関係もそこまでである。
しかし逆を言えば、契約が切れるまではこの関係を続けていられるということだ。
契約が切れるまで……即ち、私が借りた本を読み終わるまでは。
そのことに気付いてから、私の手がページを捲る速度は目に見えて遅くなっていった。
否、もはやページを捲ろうとさえしていない。
本を開いて中を眺め、あたかも読書しているかのような体を装っているだけに過ぎなかった。
どうせ読む気が無いのなら、わざわざ本を読む真似などしなくてもいいのかもしれない。
だが、常日頃から本の虫である私が読書をしていないとなると、きっとまた香霖堂に体調でも悪いのかと余計な心配を掛けてしまう。
つい先ほどもそうやって気遣われたばかりなので尚更だ。
「おや、まだ読んでいたのかい」
声に気付いて顔を上げると、香霖堂が奥の部屋から戻ってきたところであった。
やりかけだった作業が終わったのか、はたまた一服しにきたのか。
「うん、読み終えるまでまだ結構かかるかな」
それは嘘だ。
実を言えば、もうこの巻は8割以上読み終えてしまっている。
尤も、そこから先には全く進んでいない……というか進もうとしていないのだが。
私は心に抱えた葛藤を悟られないよう、努めて明るく振舞った。
それが功を成したのか、香霖堂は私の方を見てほっとしたような表情を浮べた。
きっと作業中にも私の体調のことを心配してくれていたのだろう。
そんな香霖堂に感謝の気持ちを抱くと同時に、些細なこととはいえ彼を欺くような真似をしてしまったことに対する罪悪感が芽生え、私の心をちくりと苛んだ。
「そうか、まあゆっくり読めばいい。本は逃げないからね」
「前は逃げられた……というか、誘拐されたけどね」
「もうその心配はしなくていいさ。もしまた霊夢辺りに襲撃されたら、僕の名前を出して説明すればいい」
「聞く耳持つと思う?」
「……その時はその時だ」
香霖堂は一瞬考えるような仕草をしたが、結局言葉を濁してしまった。
やはり彼も、あの赤いのに説得や交渉の類が通じるとは思えないのだろう。
遭遇しないことを切に祈るばかりである。
「ともあれ、この店にいる限りは本を盗られることはないだろう。安心して読書に励むといい」
そう言って彼が浮べた微笑は、私を心から安堵させるのに十分すぎるものであった。
――やっぱりこの人と過ごす時間は温かい
今この瞬間が幸せであればあるほど、いつか来る終わりの時はより一層辛いものとなる。
そんなことは勿論分かっていたが、それでも今はまだ、この温もりに身も心も預けていたいと思ってしまう。
(大丈夫、本を読み終えない限り……“契約”が終わらない限りは、私の居場所はここから無くならない――)
そう自分に言い聞かせ、いつかは確実に訪れるであろう暗い未来から目を背けた。
しかし、そんな私の逃避的な思考は、香霖堂が次に放った一言によって打ち砕かれる。
「さっきも言ったが、読書好きの知り合いができて嬉しかったからね。
契約のことだってあるし、安心して本を読むためにこの場所を提供するぐらいのことはしよう」
――ああ、そうか
『――それに読書という共通の趣味もあるし、会話していて楽しいよ』
『――読書好きの知り合いができて嬉しかったからね』
香霖堂は本が好きな私、即ち“同じ趣味を持つ者”として、私のことを気遣ってくれているんだ。
読書という趣味を共有できる存在に出会えて、嬉しく思っていたのは私も同じだったじゃないか。
本を読み続ければ“契約”が終わり、私がこの場所に訪れていい理由がなくなってしまう。
本を読まなければ、同好の士として私のことを快く思ってくれている香霖堂を裏切ることになる。
この日常が終わってしまうのは勿論嫌だ。
けれど、香霖堂を落胆させるのはもっと嫌だった。
そうして私は自分の葛藤に決着を付ける。
どうせいつかは訪れる別れなのだ。だったら最後まで彼の“理想の友人”でいよう――
「ねえ、香霖堂」
「ん? 何だい?」
「私、本が好きよ」
「?」
何を今さら、と言いたげな顔で頭上に疑問符を浮かべる香霖堂。
私の言いたいことが理解できないのも無理はない。
私自身、なぜ唐突にこんなことを口走ったのかよく理解できていないのだから。
強いて言うならばそれは“確認”
以前の『本が好きな私』へと戻るための、確認作業のようなもの。
「香霖堂も本が好きよね」
「……ああ、そうだね」
私の確かめるような発言に対し、相変わらず疑問を顔に浮べながらも言葉を返してくれる。
私も彼も本が好き。だからこそあの時“契約”を交わしたのだ。
だったらやはり、私が取るべき行動は1つしかない。
いい加減思い悩むのはやめて、残り少ないこの日常をせめて心から楽しもう。
そして、鳥頭の私でも忘れないように、大切な思い出として心の奥底に刻み込もう。
「……よっ!」
陰鬱な気分を吹っ切るために、両手で勢いよく頬を叩く。
すると、パァンという威勢のいい音が部屋中に響き渡った。
「えっと、朱鷺子……?」
意味の分からない独白をしたかと思ったら、突然自分の両頬を叩きだしたのだ。
私の一連の奇行に対し、きっと理解が追い付いていないことだろう。
その証拠に、未だ彼の顔は怪訝な表情をしている。
その中には私を心配する色も見て取れた。
なので、彼に気遣いの言葉を掛けられる前に先手を打つ。
「いきなりごめん。ちょっと眠くなってきたから、目を覚まそうとしただけよ」
「……そうか。だがさっきの発言の真意は――」
「別に深い意味はないよ。私と香霖堂が本を好きだってことを、ちょっと確かめたかっただけ」
「……?」
香霖堂はまだ納得できていないようだったが、これ以上私に説明を求められても困る。
先程も言ったように、私にも自分の言動に込められた気持ちがよく分かっていないのだから。
これ以上説明するつもりはないという私の意思を読み取ったのか、香霖堂はやれやれとでも言いたげな苦笑を浮かべた後、それ以上何かを追及してくることはなかった。
きっと子供の気紛れだとでも思って、深く考えるのをやめたのだろう。
2人が押し黙ったことによって、気まずさとはまた違ったベクトルの微妙な空気が生まれる。
それを払拭するためか、香霖堂は徐に立ち上がるとお茶を注いでくる旨を私に伝え、台所へと向かってしまった。
香霖堂が去り、再び静けさを取り戻す室内。
そんな中、当ても無く部屋を彷徨う私の視線は、足元に転がっている1冊の本を視界に捉えた。
一度は読むことを拒絶したその本を再び手に取り、今度は1文字1文字に目を通しながら、そこに書かれている内容を頭の中に吸収していく。
(やっぱり……本を読むのは楽しいなぁ)
初めてこの場所に訪れた理由も、元はといえば本を求めてのことだった。
紆余曲折はあったものの、今こうして本来の目的を達成できているのだから、不満などあろうはずが無い。
そう、本を読むことが楽しくないわけがないのだ。
(あれ……?)
そのはずなのに――
頭の中では本を読むことを“楽しい”と感じているはずなのに、
私の心が満たされることはなく、以前のように無心で本の世界に入り込むことができなかった。
「おかしいな、私は……っ、あん な…に 本を読むのが好き、だったの、にぃ……っ……」
瞳に浮かんだ液体が視界を滲ませ、本に書かれた文字を読み取ろうとするのを阻害する。
それでも、私の手は何かに取り憑かれたかのように、ページを捲るのを止めようとはしなかった。
それからちょうど1週間後、私は12冊目の本を読み終えることとなる。
そうして、私と彼の日常は終わりを告げた。
当作品はその内の第三部にあたります
ですので、第一部にあたる『朱色の想い ― 起 ―』(作品集136)、
及び、第二部にあたる『朱色の想い ― 承 ―』(作品集137)を先に読んでおかれることを強く推奨します
朱鷺子――それが私の名前。
少し前まで私に名前なんて存在しなかった。
どこにでもいる名無しの妖怪、それが以前の私。
特徴があるとすれば本を読むのが好きということぐらいで、それ以外には特に目立った点もない、極々普通の妖怪だった。
そんな私が変わったのは、ある場所を訪れてから……
正確には“ある人”に出会ってからだ。
その人は私に色々と優しくしてくれた。
読みたかった本を貸してくれたり、ご飯をご馳走してくれたり、服を仕立ててくれたり。
そして何より、“名無し”だった私に“朱鷺子”という名前を授けてくれた。
単純で、覚えやすくて、何の飾り気もない3文字の名前。
けれど私はこの名前が……あの人が付けてくれたこの名前が、大好きだった。
「朱鷺子」とあの人から名前を呼ばれるたびに、私の心はどうしようなく喜びで満たされる。
誰かに自分の名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいことだなんて知りもしなかった。
あの日、朱鷺子という名前を貰った瞬間から、私の人生は輝きを増した。
それまでの人生が色褪せたものだったというわけではないけれど、名前を貰ってからの日々がより一層輝いて見えたのは確かである。
“名無しの本読み妖怪” は “朱鷺子” として、この世に新たな生を受けたのだ。
私のことを名前で呼んでくれるのは、今はまだあの人ぐらいしかいないけど、いずれはもっと大勢の人から「朱鷺子」と呼んで貰えるようになりたい。
決して有名になりたいわけではなく、ただ単に自分の名前があるという事実を、誰かに名前で呼んで貰えるという喜びを、もっとたくさん感じたい。
だけど――
だけど今は、あの人に「朱鷺子」と呼んで貰えるだけで、私は十分に幸せだった。
◆ ◆ ◆
今日も私は香霖堂を訪れていた。
私と彼が出会ってから、もう半月が経とうとしている。
昼前に店を訪れ、たまに昼食をご馳走になって、午後からは借りた本を読んで過ごし、外が暗くなる前に住み処へと帰る。
そんな日々を、ほぼ連日……週に4日ほどの割合で送っていた。
本当は毎日でも訪れて本の続きを読み進めたかったが、香霖堂にも都合があるし、何より以前みたく赤いのや黒いのと遭遇しそうになるのは避けたかった。
幸いあの日以降、例の2人と鉢合わせそうになったことはない。
どうやら私とあの2人は入れ違いで香霖堂を訪れているらしく、私が店に行かない日にはあの2人が、あの2人が店に来ない日には私がといったように、
運良くローテーションが形成されているようだった。
今日も2日ぶりに店を訪れたわけだが、香霖堂曰くちょうど昨日、あの2人がここを訪れたばかりだと言う。
ということは、あの2人が今日この店にやってくる可能性は限りなくゼロに近い。
何故ならこの半月ほどの間に、あの2人が2日以上連続で香霖堂を訪れたことはなかったからだ。
所詮はただの統計論に過ぎないが、それでも気休め程度にはなる。
「今日はあの2人が来るかもしれない」と思ってビクビクしながら過ごすより、
「今日は恐らく来ないだろう」と思って伸び伸びとしていた方が、心を落ち着けて読書に集中できるのだ。
「今日はまた一段と読むスピードが速いね」
「今日はあの2人が来そうにないからねー、安心して読書に集中できるってわけよ」
読書に没頭していた最中、後ろからいきなり声を掛けられた私だったが、さして動じることもなく受け答える。
以前の私ならここで盛大に驚いていたのだろうが、この半月を経て私の中に“読書中にいきなり声を掛けられること”に対する耐性ができてしまったらしい。
「ていうか、それを言ったら香霖堂だって読むスピードが速いじゃない。私が貸した3冊の本、もうとっくに読み終わったんでしょ?」
「君の12冊に対し、僕はたったの3冊だからね。さすがに半月もあれば読み切ってしまうさ」
香霖堂はもう1週間ほど前に『非ノイマン型計算機の未来』の13巻から15巻までの計3冊を読み終えていた。
彼は3冊目を読み終えた後、すぐにそれらを私に返そうとしてくれたのだが、私はその申し出を断った。
私がまだ借りた本を全て読み終わっていない以上、私が貸した本だけを先に返してもらうのは何だか公平じゃない気がしたのだ。
そのことを香霖堂に伝えたら、
「別に気にしなくてもいいのに」
と言ってくれたが、彼とはできるだけ対等な立場でいたかった私は、半ば強引に本の受け取りを先延ばしにした。
どうして対等でいたいと思ったのか私自身にもよく分からなかったが、もしかしたら無意識のうちに彼に対して負い目のようなものを感じているのかもしれない。
思えば香霖堂と出会ってから今日に至るまで、彼には何度も世話になってしまった。
出会ったばかりの私を泊めてくれたり、新しい服を作ってくれたり、黒いのから私を庇ってくれたり――
そういった数多くの借りがあるせいか、これ以上彼の厚意を受け取ることに対し抵抗を感じてしまっているのだろう。
私はとりあえずそう思うことにして、本の続きに意識を集中させた。
それから約1時間後。
目と首周りに疲れを感じた私は、読みかけのページに栞を挟み少し休憩を取ることにした。
指先で眉間をつまみ軽く揉んでいると、コトリ、と私の側にお茶の入った湯呑みが置かれた。
視線を上げると、香霖堂がお盆を持ったまま私を見下ろしている。
どうやら私が休憩するタイミングに合わせてお茶を用意してくれたらしい。
「それにしても、君と出会ってからもう半月が経つのか」
私がお茶に対する礼を言おうとする前に、香霖堂は唐突にそんなことを呟いた。
「どうしたの、いきなり?」
「いやなに、こういった光景がいつの間にか当たり前になっていることに気付いてね」
「こういった光景って?」
「君がここにやってきて本を読んだり、一緒にお茶を啜ったりする光景のことさ」
確かにあれ以来、私は結構な頻度でこの店を訪れている。
香霖堂に言われて気付いたが、私の中でも彼と一緒に過ごす時間がまるで当たり前のようになっていた。
「その……迷惑だった?」
一応香霖堂の都合も考えて、できるだけ日にちに間隔を空けて来訪するようにしていたのだが、それでも迷惑だっただろうか?
もし私が営業の邪魔になっていたり、香霖堂の1人の時間を奪ってしまっているようならば、もう少しここに来る頻度を下げるべきだろう。
先も言ったように、これ以上彼には負担を掛けたくない。
「迷惑だなんてとんでもない。君は他の面子に比べてもだいぶ大人しいし……
それに読書という共通の趣味もあるから、会話していて楽しいよ」
「そう……ならいいけど」
良かった――と、心の中で安堵する。
趣味を共有できる知り合いができたことは、私にとっても非常に嬉しいことだった。
今までは自分で拾ってきた本を自分で読むだけだったが、香霖堂と知り合ってからは今のようにお互いの本を貸し借りしたり、読んだ後に本の感想を語り合ったりと、とても有意義な読書ライフを過ごせている。
どうやらそれは香霖堂も同じらしく、私という読書好きな知り合いができたことを快く思っていてくれたようだ。
そのことが何だか無性に嬉しくて、私は自分の気持ちを言葉にして伝えたくなる。
「……私、香霖堂と知り合えて良かったと思う。本を貸してくれて、服も作ってくれたし……」
ずっと1人で生きてきた私にとって、誰かに自分の素直な気持ちを伝えることが、こんなに恥ずかしいことだとは思わなかった。
羞恥のあまり、自分の意思とは関係なく語尾が勝手に小さくなってしまう。
普段日常で使っている何気ない「ありがとう」とは違って、改めて感謝の気持ちを意識してしまうとどうしても上手く言葉が出てこなかった。
今のような言い方で私の気持ちは少しでも伝わったのだろうか、少し不安になりながら香霖堂の反応を待つ。
「……そうだな、僕も君と知り合えて良かったと思うよ」
「そ、そう?」
思わず顔が綻ぶ。
それは私が期待していた言葉。
その一言だけで、私の心は心地良い温かさに包まれた。
「まあ、君がドアを蹴破って現れたときは驚いたがね」
「は、ははは……」
「けど、もしあの日あの時に“契約”をしていなかったら、君とのこの関係はなかっただろうね」
と、
喜びに浸っていたはずの私は、その一言に何か引っ掛かるものを感じた。
「……契約?」
「お互いの所持する本を貸し借りし合うという、あの契約だよ。忘れたわけじゃないだろう?」
「う、うん……」
なんだろう。
“契約”という単語を香霖堂の口から聞いたとき、得体の知れない不快感のようなものが私に降り掛かった。
そして――
「もしあのとき契約が成立していなかったら、君と過ごすこの日々は存在しなかっただろう。
あれのおかげで今の日常があると言っても過言ではないだろうね」
その言葉が致命的だった。
確かに私がここを訪れるようになったのは、香霖堂との“契約”に起因する。
お互いの本を貸し借りし合うというあの契約。
もしあの時、契約が成立していなかったとしたら――
私が力尽くで本を奪い返そうとしたり、或いは香霖堂が私に取引を持ちかけようとは思わなかったら、
私と香霖堂が過ごしてきた半月にわたる日々は存在し得ないものだっただろう。
言い換えれば、“私が香霖堂に通う”という日常は、その契約の上に成り立っているのだ。
私は借りた本を読むためにここを訪れ、
香霖堂は私と“契約”が結ばれているから私を招き入れてくれる。
ではもし――
もし、契約が切れてしまったら?
香霖堂は既に私が貸した本を読み終えてしまった。
あとは私が借りている本を全て読み終われば、その時点で契約は終了してしまう。
契約が終わりを告げ、“本を読むため”という理由を失ってしまったら――
そうなったら、私がここを訪れてもいい理由がなくなってしまう……?
そのことを考えた瞬間、私は自分の立っている足場がいきなり消失してしまったかのような、焦燥感にも似た感情に襲われた。
動悸が速まり、全身から嫌な汗が噴き出るかのような錯覚を感じる。
今まで知り得なかった衝撃の事実を知り、自分の存在の根幹を揺さぶられたかのような……
そんな未知の恐怖に私は囚われていた。
「……朱鷺子?」
「――ッ! な、何?」
暗い思考に沈んでいた私は、香霖堂の声で意識を取り戻した。
見れば、彼はどこか心配そうな表情で私の顔を覗きこんでいる。
「いきなり黙り込んでどうしたんだ? 何だか顔色が良くない気がするが……」
私は今、そんなにひどい顔をしているのだろうか。
思考の淵から戻った今も、先ほどの嫌な考えが頭にしがみ付いて離れない。
香霖堂の言うとおり、きっと今の私は生気の無い顔をしていることだろう。
「……ううん、別に何でもない」
「そうかい? ならいいが、体調が悪いんだったら無理はしない方がいい」
「うん……でもホントに何でもないから、大丈夫」
今の私には、そうやって言葉を絞り出すだけで精一杯だった。
とてもじゃないが顔色にまで気を配っていられない。
「……僕は向こうで作業の続きをしているから、何かあったら呼ぶんだよ」
香霖堂は最後まで私のことを心配してくれていたが、これ以上問いただしてもお節介になると判断したのか、そう告げると奥の部屋へと消えていった。
香霖堂がいなくなり、1人部屋に取り残される。
しばらくの間、私の体は動くことを拒否していたが、時間が経過することで私の目は自然と読みかけの本――“契約”によって借り受けた本へと向けられる。
「続き……読まなきゃ」
鉛のようになってしまった腕を動かし無造作に置かれていた本を手に取ると、栞を挟んでおいたページを開いて読書を再開する。
この本を読むことこそが、私がここにいていい唯一の理由なのだから。
そう自分に言い聞かせ、私は本を読み進めていく。
薄い紙のページを捲るたび、その1枚1枚がまるで石でできているかのように重く感じられた。
どれだけ時間が経っただろう。
私は時が流れるのも忘れて、ただひたすらに本を読み続けた。
こう書くと、私が本の内容に夢中になっているかのように見えるが、実際はそうではない。
というかそもそも、私は本を読んでなどいなかった。
文章を読まずにただ単にページを捲るだけの動作のことを、読書だといえるのなら話は別だが。
私は本の内容に目を通すことなく、ぼんやりとページ全体を眺めては次のページに進むという作業を単調に繰り返しているだけであった。
いつもの私ならページの隅から隅にまで目を通し、そこに書かれている知識や単語を貪欲に頭の中へと詰め込んでいくのだが、今に限っては書かれた文字の1つさえ頭の中に入ってこない。
代わって脳内を占めるのは先にも考えていたこと――自分が香霖堂に通い続ける理由と、その原因についてだ。
香霖堂が言ったように、私と彼の関係は契約の上に成り立っている。
それはつまり、契約が切れてしまったら私たちのこの関係もそれまでということ。
私はその事実が堪らなく辛く、そして恐ろしかった。
今手元にあるこの本は、シリーズ物の第7巻に当たる。
これと同じシリーズの本をあと5冊読み終えてしまったら、その時点で契約が終了してしまうのだ。
そう考えるとあれほど楽しみにしていた本の続きが、今では忌避すべき敵のようにさえ思えてくる。
捲られるページの1枚1枚は、まるでこの幸せな日々の終焉を告げるカウントダウンのようだった。
(もっと香霖堂と一緒にいたい。本の続きなんかどうでもいい、私は今の日常が――)
――そうだ!
確かに私と彼の関係は、契約あってのものなのかもしれない。
それ故、契約が切れれば2人の関係もそこまでである。
しかし逆を言えば、契約が切れるまではこの関係を続けていられるということだ。
契約が切れるまで……即ち、私が借りた本を読み終わるまでは。
そのことに気付いてから、私の手がページを捲る速度は目に見えて遅くなっていった。
否、もはやページを捲ろうとさえしていない。
本を開いて中を眺め、あたかも読書しているかのような体を装っているだけに過ぎなかった。
どうせ読む気が無いのなら、わざわざ本を読む真似などしなくてもいいのかもしれない。
だが、常日頃から本の虫である私が読書をしていないとなると、きっとまた香霖堂に体調でも悪いのかと余計な心配を掛けてしまう。
つい先ほどもそうやって気遣われたばかりなので尚更だ。
「おや、まだ読んでいたのかい」
声に気付いて顔を上げると、香霖堂が奥の部屋から戻ってきたところであった。
やりかけだった作業が終わったのか、はたまた一服しにきたのか。
「うん、読み終えるまでまだ結構かかるかな」
それは嘘だ。
実を言えば、もうこの巻は8割以上読み終えてしまっている。
尤も、そこから先には全く進んでいない……というか進もうとしていないのだが。
私は心に抱えた葛藤を悟られないよう、努めて明るく振舞った。
それが功を成したのか、香霖堂は私の方を見てほっとしたような表情を浮べた。
きっと作業中にも私の体調のことを心配してくれていたのだろう。
そんな香霖堂に感謝の気持ちを抱くと同時に、些細なこととはいえ彼を欺くような真似をしてしまったことに対する罪悪感が芽生え、私の心をちくりと苛んだ。
「そうか、まあゆっくり読めばいい。本は逃げないからね」
「前は逃げられた……というか、誘拐されたけどね」
「もうその心配はしなくていいさ。もしまた霊夢辺りに襲撃されたら、僕の名前を出して説明すればいい」
「聞く耳持つと思う?」
「……その時はその時だ」
香霖堂は一瞬考えるような仕草をしたが、結局言葉を濁してしまった。
やはり彼も、あの赤いのに説得や交渉の類が通じるとは思えないのだろう。
遭遇しないことを切に祈るばかりである。
「ともあれ、この店にいる限りは本を盗られることはないだろう。安心して読書に励むといい」
そう言って彼が浮べた微笑は、私を心から安堵させるのに十分すぎるものであった。
――やっぱりこの人と過ごす時間は温かい
今この瞬間が幸せであればあるほど、いつか来る終わりの時はより一層辛いものとなる。
そんなことは勿論分かっていたが、それでも今はまだ、この温もりに身も心も預けていたいと思ってしまう。
(大丈夫、本を読み終えない限り……“契約”が終わらない限りは、私の居場所はここから無くならない――)
そう自分に言い聞かせ、いつかは確実に訪れるであろう暗い未来から目を背けた。
しかし、そんな私の逃避的な思考は、香霖堂が次に放った一言によって打ち砕かれる。
「さっきも言ったが、読書好きの知り合いができて嬉しかったからね。
契約のことだってあるし、安心して本を読むためにこの場所を提供するぐらいのことはしよう」
――ああ、そうか
『――それに読書という共通の趣味もあるし、会話していて楽しいよ』
『――読書好きの知り合いができて嬉しかったからね』
香霖堂は本が好きな私、即ち“同じ趣味を持つ者”として、私のことを気遣ってくれているんだ。
読書という趣味を共有できる存在に出会えて、嬉しく思っていたのは私も同じだったじゃないか。
本を読み続ければ“契約”が終わり、私がこの場所に訪れていい理由がなくなってしまう。
本を読まなければ、同好の士として私のことを快く思ってくれている香霖堂を裏切ることになる。
この日常が終わってしまうのは勿論嫌だ。
けれど、香霖堂を落胆させるのはもっと嫌だった。
そうして私は自分の葛藤に決着を付ける。
どうせいつかは訪れる別れなのだ。だったら最後まで彼の“理想の友人”でいよう――
「ねえ、香霖堂」
「ん? 何だい?」
「私、本が好きよ」
「?」
何を今さら、と言いたげな顔で頭上に疑問符を浮かべる香霖堂。
私の言いたいことが理解できないのも無理はない。
私自身、なぜ唐突にこんなことを口走ったのかよく理解できていないのだから。
強いて言うならばそれは“確認”
以前の『本が好きな私』へと戻るための、確認作業のようなもの。
「香霖堂も本が好きよね」
「……ああ、そうだね」
私の確かめるような発言に対し、相変わらず疑問を顔に浮べながらも言葉を返してくれる。
私も彼も本が好き。だからこそあの時“契約”を交わしたのだ。
だったらやはり、私が取るべき行動は1つしかない。
いい加減思い悩むのはやめて、残り少ないこの日常をせめて心から楽しもう。
そして、鳥頭の私でも忘れないように、大切な思い出として心の奥底に刻み込もう。
「……よっ!」
陰鬱な気分を吹っ切るために、両手で勢いよく頬を叩く。
すると、パァンという威勢のいい音が部屋中に響き渡った。
「えっと、朱鷺子……?」
意味の分からない独白をしたかと思ったら、突然自分の両頬を叩きだしたのだ。
私の一連の奇行に対し、きっと理解が追い付いていないことだろう。
その証拠に、未だ彼の顔は怪訝な表情をしている。
その中には私を心配する色も見て取れた。
なので、彼に気遣いの言葉を掛けられる前に先手を打つ。
「いきなりごめん。ちょっと眠くなってきたから、目を覚まそうとしただけよ」
「……そうか。だがさっきの発言の真意は――」
「別に深い意味はないよ。私と香霖堂が本を好きだってことを、ちょっと確かめたかっただけ」
「……?」
香霖堂はまだ納得できていないようだったが、これ以上私に説明を求められても困る。
先程も言ったように、私にも自分の言動に込められた気持ちがよく分かっていないのだから。
これ以上説明するつもりはないという私の意思を読み取ったのか、香霖堂はやれやれとでも言いたげな苦笑を浮かべた後、それ以上何かを追及してくることはなかった。
きっと子供の気紛れだとでも思って、深く考えるのをやめたのだろう。
2人が押し黙ったことによって、気まずさとはまた違ったベクトルの微妙な空気が生まれる。
それを払拭するためか、香霖堂は徐に立ち上がるとお茶を注いでくる旨を私に伝え、台所へと向かってしまった。
香霖堂が去り、再び静けさを取り戻す室内。
そんな中、当ても無く部屋を彷徨う私の視線は、足元に転がっている1冊の本を視界に捉えた。
一度は読むことを拒絶したその本を再び手に取り、今度は1文字1文字に目を通しながら、そこに書かれている内容を頭の中に吸収していく。
(やっぱり……本を読むのは楽しいなぁ)
初めてこの場所に訪れた理由も、元はといえば本を求めてのことだった。
紆余曲折はあったものの、今こうして本来の目的を達成できているのだから、不満などあろうはずが無い。
そう、本を読むことが楽しくないわけがないのだ。
(あれ……?)
そのはずなのに――
頭の中では本を読むことを“楽しい”と感じているはずなのに、
私の心が満たされることはなく、以前のように無心で本の世界に入り込むことができなかった。
「おかしいな、私は……っ、あん な…に 本を読むのが好き、だったの、にぃ……っ……」
瞳に浮かんだ液体が視界を滲ませ、本に書かれた文字を読み取ろうとするのを阻害する。
それでも、私の手は何かに取り憑かれたかのように、ページを捲るのを止めようとはしなかった。
それからちょうど1週間後、私は12冊目の本を読み終えることとなる。
そうして、私と彼の日常は終わりを告げた。
この先どうなっちゃうんだろう…
ラスト、心待ちにしております!
朱鷺子を幸せにしてくれなきゃ許さない!(;ω;`)
続きは、続きはぁああああ!?!?
未熟な恋心を抱く朱鷺子が可愛すぎて生きるのがつらい^q^
霖之助さんと朱鷺子の関係に進展がほしいいいいい!!