ざ。ざ。ざ。
雨音で目が覚めた。起き抜けに陰鬱な気分になり、私はため息を吐く。
布団を出て、障子の隙間から外を覗いた。無視するには少しばかり強すぎる、篠突くような雨。
境内の掃除はできそうにない。縁側で茶を飲むことも。
私は雨の日が、あまり好きではなかった。
何をするにも億劫になるし、この雨を突っ切って誰かが来るなんてことも少ない。ぱっと思いつくだけでもレミリアは流水を渡れないし、萃香は雨のない天界で下界の様子を肴に酒盛りの最中だろう。
……こんな日の昼日中に、紫が来るとも思えないし。
例外と言えば魔理沙くらいのものだが、彼女は先週から研究で自宅に篭りきりだとアリスに聞いていた。それがつい昨日のことだから、きっと今日も同じだと当たりをつけて。
――暇な一日になりそうね。
独り身に陰気な雨は堪える。私は早くも、本日二度目のため息を吐いた。
ざ。ざ。ざ。
温泉前の脱衣場で寝巻き代わりの襦袢を脱ぎ、洗濯籠に突っ込んだ。洗濯は晴れてからにしよう、と割り切った。雨が降っていなければ朝風呂を浴びることもあるのだけれど、生憎の空模様だし。どうせ覗く者がいるわけでなし、上半身を外気に晒したまま、私は脱衣場を出た。
部屋を横切って鏡台の前に正座する。引き出しからさらしとリボン、巫女装束を取り出した。
髪を挟み込まないように注意しながら、さらしを巻いて。袖なしの上着を頭から被り、緋色の女袴を履いたら再び正座。頭と胸元のリボンを調節し、最後に袖を着けて"博麗の巫女"の出来上がり。
着替えながら今日の予定を考えていた。社務所の中を掃除しよう。一昨日の宴会で使った皿を、洗って乾かしたまま放置してあった。
朝餉を作ることすら面倒で、台所で立ったまま白米に沢庵を数枚乗せて掻き込んだ。昨晩炊いたご飯は冷え切っていた。喉を通りづらい。汲み置きの水を茶碗に注ぎ、無理矢理流し込む。
「ごちそうさま」
誰に言うともなく呟いて、さてと腕まくりをした。
台所に重なった皿の数は、数えるのも馬鹿馬鹿しいほど。
気合でも入れなければやっていられない。
ざ。ざ。ざ。
唐様の大皿。古い"文々。新聞"で包んだ。こういう所で役に立つからなかなか捨てられない。
洋風の小皿。揃いの数枚を重ねて、食器棚の上段に仕舞った。咲夜が紅魔館から持ち込んで置いて帰ったもの。
"れみりあ"と名の入ったティーカップ。投げ捨てたい衝動をこらえて、下段の隅の方へ押し込んだ。趣味が悪いにもほどがある。瀟洒なメイド長はうちに食器を持ってくるより先にそっちを選んでやれ。選んだ結果、か?
桜模様の小杯。誰のものかと一瞬考えて、幽々子の手許にあったなと思いだす。これも私物か。持ち帰らなかった妖夢は怒られていないだろうか。目立ちやすい場所に仕舞っておく。
半分は神社のもの、半分は訪れた人妖の私物、という有様だった。片付けるスペースは足りるだろうか。
「……ふう」
一段落したところで、湯沸かし器に水を入れた。香霖堂へ早苗と寄ったときに勧められたものだ。元は電気、とやらで湯を沸かすものだったらしい。
うちにそんなモノ来てないわよ。言うと、そうでしたと頭をかいて、彼女は谷河童のもとへ私を連れていった。河童に預けて二日後、神社まで届けられた。外見は変わっていなかったけれど、霊力で動作するように改造されていた。
少ない量を沸かすならこれが早くていいんです。たしかに、鍋を火にかけるよりも格段に早かった。一人の時には重宝している。
――ありゃ。
買い置きの煎餅が湿気っていた。気を削がれて、茶はやめにしようと思い直した。なのに、ぴいい、と甲高い音を立てて湯が沸いた。融通の効かない奴め。舌打ちをして、白湯をそのまま湯のみに注ぐ。当たり前だけれど、水の味がした。
――これだから、雨は。
本当は袋詰めを数日前に開けて、放っておいた私の所為だ。分かっていても、八つ当たりをしたい気分だった。
ざ。ざ。ざ。
ため息を吐きながら、雨が降り続く音を聞くともなしに聞いていると、
ぴしり。
「あら」
ぱき。
何かに亀裂の入るような、耳障りな音がした。今日は聞くはずがないと思っていた音――声。
「私は好きよ。貴方と二人きりになれるから」
湿った空気に紛れて、嗅ぎ慣れた花の香がした。幽かに。
耳元で心を読んだような、囁き。覚りじゃあるまいに。地霊殿の主の顔が脳裏を過ぎった。あいつはこんな、手の込んだ訪問はしないだろう。
振り返れば思う壺。思って、けれど振り向いた。口許をかくした、妖しい笑みが真近で揺れていた。
「珍しいわね。あんたがこんな時間から出てくるなんて」
「雨音に起こされたの。同じ事を言って、藍も驚いていたわ」
「そりゃあね。いつもは叩いても起きないぐうたらがいきなり起きたんだもの。あいつにとっちゃ天変地異が起きたようなものだわ」
「そこまで言うの? 貴方の顔を見たくて、頑張って起きたのに」
からかうように、歌うように。年齢不詳の声が耳朶をくすぐった。スキマに腰掛けて、紫は宙に浮いていた。
「別に頼んでないわ。どうせ来たんなら片付け、手伝ってよ」
「ご遠慮します。眺めるくらいならしてあげてもいいわよ?」
強い視線を向けても、笑みは崩れなかった。どうせ元より期待はしていない。
「……手伝わないなら、出て行って。ただでさえ狭いんだから、ここ」
渋面のまま、茶の間を指さした。煎餅の袋を押し付ける。せめてこの不味いのを処理してくれる? 言うと、彼女はそれを苦笑しながらスキマに押し込んだ。
ざ。ざ。ざ。
私に分からないもの。
八雲紫の心の中。
数年来の付き合いでも、未だにそのやり方があっているのか分からない。表面上は何事もなく話していられるけれど。心の何処かが、いつもざわついている。
博麗の巫女と、妖怪の賢者。
これだけ立ち位置は明確なのに。
巫女は妖怪を退治し、異変が起きればそれを解決する。賢者――紫は時折、それに手を貸す。
けれど、紫だって妖怪だ。退治するべき私は、彼女と仲良くしていても構わないのだろうか。
「そこんとこ、どうなのよ」
「いいじゃない、別に。貴方が誰とどう触れ合おうと、誰にも文句をいう権利はないわ」
「適当ね」
「適当でいいの。ここは幻想郷ですもの」
紫は少しだけ目を細めて言った。
台所と茶の間を隔てた襖を開け放って、彼女は作業を再開した私を本当に眺めていた。鬱陶しい。式は早く主人を迎えに来い。
大皿を包む、新聞紙が破れた。重ねた小皿が音を立て、湯呑み同士がぶつかった。
手許が乱雑になっているのは自覚していた。割れ物を扱うような手つきではない。
「危ないわよ?」
「誰のせいだか。……っ」
あ、と声を漏らしたときには遅かった。重ねた揃いの小皿から、一番上の一枚が滑り落ちた。
がしゃん、と耳障りな音を立てて、皿はただの欠片になった。
余計なことを考えすぎたか。ああもう。悪態を吐いて、破片を拾おうと屈みこんだ。細かい破片は拭きとらなくちゃ。面倒な。これも全部あいつの所為だ。責任を紫に転嫁し、一番大きなものに手を伸ばした。
瞬間、
「痛っ」
人差し指に、小さく痛みが走った。慌てて引っ込めると、指先に赤い玉が膨れていた。厄日か、今日は。置き薬、どこに仕舞ってあったっけ。鈴仙が持ってきたきり殆ど使っていないから、とっさに場所が分からない。私がその場所に思い至る前に、
「あら大変」
「な」
隣に気配を感じた。首を振り向けたときには既に、私の指は紫の口に収まっていた。白い手袋に包まれた手の、掴む力は然程でもないように感じられる。そのくせ、まるで抜けそうもない。
ざ。ざ。ざ。
「はっ、離しなさいよ!」
「んぅ、らぁめ」
傷口を熱いものが舐めまわした。くすぐったい。思う間に、頬に血が上って行く。
言葉で言っても聞かないんだから仕方がないよし殴ろうそうしよう。拳を固めたところでようやく解放された。唇に私の血で薄く紅を引いて、
「霊夢の味ね」
「言ってなさい馬鹿!!」
振り払って、裾で拭った。……? 痛く、ない? 何事もなかったように、傷口は消え失せていた。思わずまじまじと見つめてしまう。
「治ったでしょう?」
「ん、うん」
問われ、曖昧に頷いた。たしかに唾つけとけば治るような傷、ではあったかもしれないけど。
「そんな小さな境界、閉じるくらい訳ないわよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて紫は茶の間を通り、縁側に続く障子を開け放った。
ざあ。ざあ。ざあ。
耳に届く雨音が大きくなった。何考えてるんだ、こいつ。早くに起きすぎてまだ目が覚めきってないんじゃないのか。
「ちょっと!」
怒声をあげて、歩み寄る。破片を踏まないよう、慎重に。紫はスキマから愛用の日傘を取り出して、こちらを振り向いていた。
「今日の雨に感謝しなくちゃね。貴方の怪我を治すなんて役、滅多に味わえないもの」
「戯言と思っていたの?」
「言ったでしょう。貴方と二人きりになれるから、私は雨が好きなのよ」
真っ直ぐ言われてたじろいだ。紫色の目が、私を捉えて離さない。
「……そんなの。絶対誰も来ないなんて、決まったわけじゃないのに」
「ならその分だけ、私の幸運にも感謝しないといけないかしら」
ばっ、と傘を広げて、彼女は縁側から境内に下りた。小さな日傘では強い雨を遮ることなんてできるはずもなく、道士服は裾の方から見る間に濡れそぼっていく。
なのに、紫の笑みは崩れなかった。
「散歩しない? 雨に敬意を表して」
「嫌よ。まだ片付けが終わってない」
「あら残念。お皿に負けちゃったら、帰るしかないわねえ」
口の端だけで笑って、彼女は本当に背を向けた。その肩で、くるりくるりと傘が回る。玉砂利が音を立てて、雨に負けじと自己主張した。
「またね、霊夢」
ざあ。じゃり。ざあ。じゃり。ざあ。ざ。
珍しく――心の底から珍しく、紫は境内を歩いて立ち去った。後ろ姿が霞んで見えなくなったところで、私は障子を力なく閉めた。
――何がしたかったのよ、あいつ。
相変わらず、どこまで本気なのかまるで分からない。嘆息して、ようやく鏡台の一番下に薬箱をいれてあることを思い出した。
――遅いっつの。
どうしてだか、取り残された気分になった。
「……紫?」
呟いた声に、当たり前だけれど返事はなくて。
複雑な気分を抱いたまま、私は人差し指に口付けた。
雨は未だ、上がらない。苦手、くらいに評価を改めてもいいか、と思った。
雨音で目が覚めた。起き抜けに陰鬱な気分になり、私はため息を吐く。
布団を出て、障子の隙間から外を覗いた。無視するには少しばかり強すぎる、篠突くような雨。
境内の掃除はできそうにない。縁側で茶を飲むことも。
私は雨の日が、あまり好きではなかった。
何をするにも億劫になるし、この雨を突っ切って誰かが来るなんてことも少ない。ぱっと思いつくだけでもレミリアは流水を渡れないし、萃香は雨のない天界で下界の様子を肴に酒盛りの最中だろう。
……こんな日の昼日中に、紫が来るとも思えないし。
例外と言えば魔理沙くらいのものだが、彼女は先週から研究で自宅に篭りきりだとアリスに聞いていた。それがつい昨日のことだから、きっと今日も同じだと当たりをつけて。
――暇な一日になりそうね。
独り身に陰気な雨は堪える。私は早くも、本日二度目のため息を吐いた。
ざ。ざ。ざ。
温泉前の脱衣場で寝巻き代わりの襦袢を脱ぎ、洗濯籠に突っ込んだ。洗濯は晴れてからにしよう、と割り切った。雨が降っていなければ朝風呂を浴びることもあるのだけれど、生憎の空模様だし。どうせ覗く者がいるわけでなし、上半身を外気に晒したまま、私は脱衣場を出た。
部屋を横切って鏡台の前に正座する。引き出しからさらしとリボン、巫女装束を取り出した。
髪を挟み込まないように注意しながら、さらしを巻いて。袖なしの上着を頭から被り、緋色の女袴を履いたら再び正座。頭と胸元のリボンを調節し、最後に袖を着けて"博麗の巫女"の出来上がり。
着替えながら今日の予定を考えていた。社務所の中を掃除しよう。一昨日の宴会で使った皿を、洗って乾かしたまま放置してあった。
朝餉を作ることすら面倒で、台所で立ったまま白米に沢庵を数枚乗せて掻き込んだ。昨晩炊いたご飯は冷え切っていた。喉を通りづらい。汲み置きの水を茶碗に注ぎ、無理矢理流し込む。
「ごちそうさま」
誰に言うともなく呟いて、さてと腕まくりをした。
台所に重なった皿の数は、数えるのも馬鹿馬鹿しいほど。
気合でも入れなければやっていられない。
ざ。ざ。ざ。
唐様の大皿。古い"文々。新聞"で包んだ。こういう所で役に立つからなかなか捨てられない。
洋風の小皿。揃いの数枚を重ねて、食器棚の上段に仕舞った。咲夜が紅魔館から持ち込んで置いて帰ったもの。
"れみりあ"と名の入ったティーカップ。投げ捨てたい衝動をこらえて、下段の隅の方へ押し込んだ。趣味が悪いにもほどがある。瀟洒なメイド長はうちに食器を持ってくるより先にそっちを選んでやれ。選んだ結果、か?
桜模様の小杯。誰のものかと一瞬考えて、幽々子の手許にあったなと思いだす。これも私物か。持ち帰らなかった妖夢は怒られていないだろうか。目立ちやすい場所に仕舞っておく。
半分は神社のもの、半分は訪れた人妖の私物、という有様だった。片付けるスペースは足りるだろうか。
「……ふう」
一段落したところで、湯沸かし器に水を入れた。香霖堂へ早苗と寄ったときに勧められたものだ。元は電気、とやらで湯を沸かすものだったらしい。
うちにそんなモノ来てないわよ。言うと、そうでしたと頭をかいて、彼女は谷河童のもとへ私を連れていった。河童に預けて二日後、神社まで届けられた。外見は変わっていなかったけれど、霊力で動作するように改造されていた。
少ない量を沸かすならこれが早くていいんです。たしかに、鍋を火にかけるよりも格段に早かった。一人の時には重宝している。
――ありゃ。
買い置きの煎餅が湿気っていた。気を削がれて、茶はやめにしようと思い直した。なのに、ぴいい、と甲高い音を立てて湯が沸いた。融通の効かない奴め。舌打ちをして、白湯をそのまま湯のみに注ぐ。当たり前だけれど、水の味がした。
――これだから、雨は。
本当は袋詰めを数日前に開けて、放っておいた私の所為だ。分かっていても、八つ当たりをしたい気分だった。
ざ。ざ。ざ。
ため息を吐きながら、雨が降り続く音を聞くともなしに聞いていると、
ぴしり。
「あら」
ぱき。
何かに亀裂の入るような、耳障りな音がした。今日は聞くはずがないと思っていた音――声。
「私は好きよ。貴方と二人きりになれるから」
湿った空気に紛れて、嗅ぎ慣れた花の香がした。幽かに。
耳元で心を読んだような、囁き。覚りじゃあるまいに。地霊殿の主の顔が脳裏を過ぎった。あいつはこんな、手の込んだ訪問はしないだろう。
振り返れば思う壺。思って、けれど振り向いた。口許をかくした、妖しい笑みが真近で揺れていた。
「珍しいわね。あんたがこんな時間から出てくるなんて」
「雨音に起こされたの。同じ事を言って、藍も驚いていたわ」
「そりゃあね。いつもは叩いても起きないぐうたらがいきなり起きたんだもの。あいつにとっちゃ天変地異が起きたようなものだわ」
「そこまで言うの? 貴方の顔を見たくて、頑張って起きたのに」
からかうように、歌うように。年齢不詳の声が耳朶をくすぐった。スキマに腰掛けて、紫は宙に浮いていた。
「別に頼んでないわ。どうせ来たんなら片付け、手伝ってよ」
「ご遠慮します。眺めるくらいならしてあげてもいいわよ?」
強い視線を向けても、笑みは崩れなかった。どうせ元より期待はしていない。
「……手伝わないなら、出て行って。ただでさえ狭いんだから、ここ」
渋面のまま、茶の間を指さした。煎餅の袋を押し付ける。せめてこの不味いのを処理してくれる? 言うと、彼女はそれを苦笑しながらスキマに押し込んだ。
ざ。ざ。ざ。
私に分からないもの。
八雲紫の心の中。
数年来の付き合いでも、未だにそのやり方があっているのか分からない。表面上は何事もなく話していられるけれど。心の何処かが、いつもざわついている。
博麗の巫女と、妖怪の賢者。
これだけ立ち位置は明確なのに。
巫女は妖怪を退治し、異変が起きればそれを解決する。賢者――紫は時折、それに手を貸す。
けれど、紫だって妖怪だ。退治するべき私は、彼女と仲良くしていても構わないのだろうか。
「そこんとこ、どうなのよ」
「いいじゃない、別に。貴方が誰とどう触れ合おうと、誰にも文句をいう権利はないわ」
「適当ね」
「適当でいいの。ここは幻想郷ですもの」
紫は少しだけ目を細めて言った。
台所と茶の間を隔てた襖を開け放って、彼女は作業を再開した私を本当に眺めていた。鬱陶しい。式は早く主人を迎えに来い。
大皿を包む、新聞紙が破れた。重ねた小皿が音を立て、湯呑み同士がぶつかった。
手許が乱雑になっているのは自覚していた。割れ物を扱うような手つきではない。
「危ないわよ?」
「誰のせいだか。……っ」
あ、と声を漏らしたときには遅かった。重ねた揃いの小皿から、一番上の一枚が滑り落ちた。
がしゃん、と耳障りな音を立てて、皿はただの欠片になった。
余計なことを考えすぎたか。ああもう。悪態を吐いて、破片を拾おうと屈みこんだ。細かい破片は拭きとらなくちゃ。面倒な。これも全部あいつの所為だ。責任を紫に転嫁し、一番大きなものに手を伸ばした。
瞬間、
「痛っ」
人差し指に、小さく痛みが走った。慌てて引っ込めると、指先に赤い玉が膨れていた。厄日か、今日は。置き薬、どこに仕舞ってあったっけ。鈴仙が持ってきたきり殆ど使っていないから、とっさに場所が分からない。私がその場所に思い至る前に、
「あら大変」
「な」
隣に気配を感じた。首を振り向けたときには既に、私の指は紫の口に収まっていた。白い手袋に包まれた手の、掴む力は然程でもないように感じられる。そのくせ、まるで抜けそうもない。
ざ。ざ。ざ。
「はっ、離しなさいよ!」
「んぅ、らぁめ」
傷口を熱いものが舐めまわした。くすぐったい。思う間に、頬に血が上って行く。
言葉で言っても聞かないんだから仕方がないよし殴ろうそうしよう。拳を固めたところでようやく解放された。唇に私の血で薄く紅を引いて、
「霊夢の味ね」
「言ってなさい馬鹿!!」
振り払って、裾で拭った。……? 痛く、ない? 何事もなかったように、傷口は消え失せていた。思わずまじまじと見つめてしまう。
「治ったでしょう?」
「ん、うん」
問われ、曖昧に頷いた。たしかに唾つけとけば治るような傷、ではあったかもしれないけど。
「そんな小さな境界、閉じるくらい訳ないわよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて紫は茶の間を通り、縁側に続く障子を開け放った。
ざあ。ざあ。ざあ。
耳に届く雨音が大きくなった。何考えてるんだ、こいつ。早くに起きすぎてまだ目が覚めきってないんじゃないのか。
「ちょっと!」
怒声をあげて、歩み寄る。破片を踏まないよう、慎重に。紫はスキマから愛用の日傘を取り出して、こちらを振り向いていた。
「今日の雨に感謝しなくちゃね。貴方の怪我を治すなんて役、滅多に味わえないもの」
「戯言と思っていたの?」
「言ったでしょう。貴方と二人きりになれるから、私は雨が好きなのよ」
真っ直ぐ言われてたじろいだ。紫色の目が、私を捉えて離さない。
「……そんなの。絶対誰も来ないなんて、決まったわけじゃないのに」
「ならその分だけ、私の幸運にも感謝しないといけないかしら」
ばっ、と傘を広げて、彼女は縁側から境内に下りた。小さな日傘では強い雨を遮ることなんてできるはずもなく、道士服は裾の方から見る間に濡れそぼっていく。
なのに、紫の笑みは崩れなかった。
「散歩しない? 雨に敬意を表して」
「嫌よ。まだ片付けが終わってない」
「あら残念。お皿に負けちゃったら、帰るしかないわねえ」
口の端だけで笑って、彼女は本当に背を向けた。その肩で、くるりくるりと傘が回る。玉砂利が音を立てて、雨に負けじと自己主張した。
「またね、霊夢」
ざあ。じゃり。ざあ。じゃり。ざあ。ざ。
珍しく――心の底から珍しく、紫は境内を歩いて立ち去った。後ろ姿が霞んで見えなくなったところで、私は障子を力なく閉めた。
――何がしたかったのよ、あいつ。
相変わらず、どこまで本気なのかまるで分からない。嘆息して、ようやく鏡台の一番下に薬箱をいれてあることを思い出した。
――遅いっつの。
どうしてだか、取り残された気分になった。
「……紫?」
呟いた声に、当たり前だけれど返事はなくて。
複雑な気分を抱いたまま、私は人差し指に口付けた。
雨は未だ、上がらない。苦手、くらいに評価を改めてもいいか、と思った。
またいずれ、もうすこし温かくなったら読もうと思います。
上品な甘さ加減で、ゆかれいむはいいですねえ。
6月ぐらいに読み返したくなる話ですね
少しでも"雨"を感じていただけたのなら幸いです。
私の中のゆかれいむは、何となく雨のイメージがあるもので。
情景と心情、両立させられるように精進したいと思います。
それでは、また。