「あら、おかえりなさいナズーリン」
「ん?ああ……一輪か」
時計の針も十二の字を過ぎた、夜更けの命蓮寺。規則正しい生活を送る住職に合わせ、住人は一部を除いて既に眠りについている。
そんな事情を把握していたからこそ、ナズーリンも静かに戸を開いたのだが、早々にその一部に出会ってしまったようだ。
「こんな遅くまでご苦労さま。また失せ物探し?」
「そんなところだ。君こそ、随分と夜が長いじゃないか。聖が五月蝿いんじゃないのかい?」
「それもそうなんだけどね。朝餉の準備とかいろいろやってると、時間が足りないのよ。手際が悪いからかもしれないけど」
命蓮寺の家事全般は、一輪が担当している。
暇にしているという点では他の者も当てはまるのだが、中でも要領のいい彼女に任されているのが現状だ。
そんな一輪はナズーリンの皮肉を気にする素振りも見せず、けらけらと笑っている。
「ちょうど全部終わったとこなんだけど、どう?一杯やってから寝ない?」
「不良尼さんだな君は。いいだろう、こんなネズミでよければ付き合おうじゃないか」
ナズーリンとて、仕事終わりの一杯は歓迎するところだ。
二人で縁側に座り、杯を交わす。
「ごめんね、残り物しかないけれど」
「構わないよ。君の料理の味は、作り置いた程度で損なわれたりはしないからね」
本人は決して認めようとはしないが、命蓮寺の中で最も美味しい料理を作るのは彼女だ。
そう思うが故のナズーリンの言葉なのだが、一輪の顔は赤くなる一方だ。
「そ、そんなに褒めても何も出ないわよ」
「何か出るっていうなら、さらに褒めちぎらせてもらうけどね。お美しい一輪嬢」
「もう……それより、今日は何を探してきたの?」
「ああ、これだよ。どうやったらこんなもの失くすのか、一度全力で問いただしたいものだけどね。全くうちのご主人ときたら……」
燦然と輝く月もまた、良い肴となる。
いつの間にか、ナズーリンの愚痴を一輪が聞くような形になっていた。
言葉をひとつひとつ噛み締めながら、頃合を見て頷き、相槌を入れていく。
「そっか……貴方も苦労してるのね」
「君もだぞ一輪。君があれを失くしたときに、私が見つけ出してやったことを忘れちゃいまいな……」
酒の力とは偉大なもので、賢将と呼ばれるほどの思慮深さを持つ彼女ですら、ここまで饒舌にさせる。
杯が空になっては注がれ、注がれては空になる。そんなことを繰り返しながら、二人の夜は更けていく。
「だから私は……君は……」
「そうね。それから?」
「………………」
「……あら?」
応答のなくなった隣を見ると、船を漕ぎ始めるナズーリンの姿があった。
半ば一輪の肩にもたれかかるようにして、目を閉じている。
「もう潰れちゃったのね。疲れていたのかしら」
こっくりこっくり揺れる頭を、軽く撫でてみる。髪に触れた指先から、さらっとした心地よい感触が返ってきた。
飾りっ気がないように見えて、気を使っているところもあるらしい。
「起こすのもかわいそうだし、雲山に部屋まで運んで……いや」
鳴らしかけた指を、ふと止める。
それから少し考え、迷った末に行動に出る。
「……これでいいか」
左手を膝の下あたりに差しこみ、右手で肩を支えて持ち上げる。所謂お姫様抱っこの状態だ。
そのまま、彼女の部屋まで歩いていく。
「まったく……こうしてる分にはかわいいんだけどね」
すぐ近くにある顔から、寝息がかかってくる。その体温と重さが、直に伝わってくる。
普段のどこか斜めに構えた感じからは想像もつかない、穏やかな寝顔。それを見ているだけで、心が安らぐような気がしてくる。
このまま眺め続けたい衝動にも駆られたが、風邪をひかせるのも良くない。足を急がせる。
「あれ、一輪……?」
廊下の向こうから、誰かの声がした。暗くて顔は確認できないが、よく聞き慣れた声である。
今の状況は、あまり人に見られて良いものではない。
思わず身を強張らせる一輪に、その人物は遠慮なく近づいてくる。
「どうしたのさ、こんな時間に」
「あら、お、おはようムラサ……いい夜ねうふふふ」
「何寝ぼけてるのよ。それより何を抱えて……あっ」
ムラサの動きもまた、そこで停止する。
やけに色っぽく顔を赤らめているナズーリン。それを抱きかかえる一輪。事を理解(誤解)するのに、そう時間はかからない。
「へぇー……そうなんだ。二人ともいつの間に……」
「あ、いやその……これは」
「そうやってお持ち帰りして、部屋でお楽しみなのね。○○を××して(ピー)なことに……」
「……雲山!」
お子様が聞いてはならない単語を連発するダメな船長には、丁重にお帰りいただいた。
おそらく今頃は、頑固親父によるゲンコツお説教タイムだろう。
そうこうしているうちに、ナズーリンの部屋の前に辿り着く。
「困ったわね。これじゃ開けられないか……」
「んっ……」
手元から、微かに声が聞こえた。
見ると、ナズーリンがいつの間にか薄目を開け、こちらを見ている。
「一輪……?」
「あら、起こしちゃったみたいね」
「ここは……あああっ!」
二、三度あたりを見回し、急に真っ赤になった。
一輪を振り払うように、腕の中で暴れ始める。
「ど、どうして、こんなっ!」
「ちょっと、落ちちゃうから!落ち着きなさい!」
しばらく揉み合った後、なんとか無事に降ろすことはできた。
しかしまだ、一輪に向けられる目には敵意すら篭っている。
「はぁはぁ、まったく君は……私をどうしようと……!」
「どうもしないわよ。寝ちゃったから運んできただけで。それとも、何かして欲しかった?」
「馬鹿!……とにかく、私はもう寝る!」
そう言って、ナズーリンはさっさと部屋に入ってしまった。
そして一人、暗い廊下に取り残される一輪。
こうなってしまっては、どうしようもない。彼女がそういう冗談が嫌いだということは知っていたはずなのに。
珍しく子どもっぽい姿を見て、つい悪戯心が働いてしまったのだ。
「調子、乗りすぎちゃったかな……」
後悔は先に立ちはしない。
その場で俯き、頭を抱えるしか一輪にはできなかった。
一方で、自室に戻ったナズーリンも思い悩んでいた。
布団には入ったものの、眠れそうにない。
「私はなんて愚かなことを……」
酒に飲まれ、身内に醜態を晒してしまった。賢将の名折れである。
枕に顔を埋め、足をばたつかせる。
「うー……」
そしてどうしても思い出される、あの感触。大事に胸に抱え込まれ、傍で感じた柔らかな温もり。
思えばあそこまで人に触れるのも、初めてのことだった。
「温かかった……な」
なぜか、彼女の顔ばかりが頭に浮かんでくる。最後に自分が突き放したときに見せた、悲しそうな表情が特に胸に引っかかっている。
考えてみれば、彼女の行動は親切心からのものでしかなかったはずだ。ひどいことをしてしまった。
口から自然と息が漏れる。
「……うん、謝ろう」
しばらく考え、ようやく決心がついた。自分に非がある以上、けじめはつけなければならない。
そして何より、またあの笑顔に戻って欲しいという想いがあった。
口を真一文字に結び、襖に手をかける。
「あ」
「え?」
すぐ目の前に、一輪はいた。先ほど見たときとほとんど変わらない姿勢で、廊下に立っている。
あれから少なからず時間は経っているというのに、どういうことなのか。
「い、一輪……その……」
「……ごめんなさい!勝手なことして、変なことも言っちゃって……」
言いよどむ間に、一輪が頭を下げていた。呆気にとられるナズーリン。
先に言われてしまった。つい先ほど決意を固めたはずなのに、自分はなんて弱いのだろう。
「私、馬鹿だから……」
「一輪……」
言葉はもう取られた。ならば、後は行動で示すしかない。
泣きそうな顔で下げ続ける頭を両手で包み込み、その胸に抱きとめる。
「私こそ申し訳なかった。あんなに話を聞いてもらって、勝手に潰れて……介抱までしてくれたというのに。私の方が、大馬鹿者だよ」
彼女の髪の香りが、いっぱいに広がる。自分の鼓動が早くなっていることも、おそらく伝わっている。
慰めるために抱きしめたのではない。おそらく、自分がこうしたいと思ったのだ。
これまで感じたことのない不思議な想いに、戸惑いすら覚える。
「ナズ……」
一輪もまたナズーリンの背中に手をやり、両手でしがみつく。
怒らせてしまい、心を痛めていた相手。それが今は、こうして自分に触れてくれている。
そんな安心感もあったが、胸の奥でもっと別の感情があるのもまた、事実であった。
ずっとこうしていたい。それが二人の、共通の想い。
「ごめん、ごめんね……」
「私も……ごめん……ありがとう」
しばらく二人はそのままだった。
永遠とも思える、恥ずかしくも幸せな時間が過ぎていった。
翌日もナズーリンは出かけていく。
振り向くと、笑顔の彼女が見送ってくれている。それだけで安心することができる。
目と目が合う。言葉にせずともわかる。
また今夜も、二人で。
「ん?ああ……一輪か」
時計の針も十二の字を過ぎた、夜更けの命蓮寺。規則正しい生活を送る住職に合わせ、住人は一部を除いて既に眠りについている。
そんな事情を把握していたからこそ、ナズーリンも静かに戸を開いたのだが、早々にその一部に出会ってしまったようだ。
「こんな遅くまでご苦労さま。また失せ物探し?」
「そんなところだ。君こそ、随分と夜が長いじゃないか。聖が五月蝿いんじゃないのかい?」
「それもそうなんだけどね。朝餉の準備とかいろいろやってると、時間が足りないのよ。手際が悪いからかもしれないけど」
命蓮寺の家事全般は、一輪が担当している。
暇にしているという点では他の者も当てはまるのだが、中でも要領のいい彼女に任されているのが現状だ。
そんな一輪はナズーリンの皮肉を気にする素振りも見せず、けらけらと笑っている。
「ちょうど全部終わったとこなんだけど、どう?一杯やってから寝ない?」
「不良尼さんだな君は。いいだろう、こんなネズミでよければ付き合おうじゃないか」
ナズーリンとて、仕事終わりの一杯は歓迎するところだ。
二人で縁側に座り、杯を交わす。
「ごめんね、残り物しかないけれど」
「構わないよ。君の料理の味は、作り置いた程度で損なわれたりはしないからね」
本人は決して認めようとはしないが、命蓮寺の中で最も美味しい料理を作るのは彼女だ。
そう思うが故のナズーリンの言葉なのだが、一輪の顔は赤くなる一方だ。
「そ、そんなに褒めても何も出ないわよ」
「何か出るっていうなら、さらに褒めちぎらせてもらうけどね。お美しい一輪嬢」
「もう……それより、今日は何を探してきたの?」
「ああ、これだよ。どうやったらこんなもの失くすのか、一度全力で問いただしたいものだけどね。全くうちのご主人ときたら……」
燦然と輝く月もまた、良い肴となる。
いつの間にか、ナズーリンの愚痴を一輪が聞くような形になっていた。
言葉をひとつひとつ噛み締めながら、頃合を見て頷き、相槌を入れていく。
「そっか……貴方も苦労してるのね」
「君もだぞ一輪。君があれを失くしたときに、私が見つけ出してやったことを忘れちゃいまいな……」
酒の力とは偉大なもので、賢将と呼ばれるほどの思慮深さを持つ彼女ですら、ここまで饒舌にさせる。
杯が空になっては注がれ、注がれては空になる。そんなことを繰り返しながら、二人の夜は更けていく。
「だから私は……君は……」
「そうね。それから?」
「………………」
「……あら?」
応答のなくなった隣を見ると、船を漕ぎ始めるナズーリンの姿があった。
半ば一輪の肩にもたれかかるようにして、目を閉じている。
「もう潰れちゃったのね。疲れていたのかしら」
こっくりこっくり揺れる頭を、軽く撫でてみる。髪に触れた指先から、さらっとした心地よい感触が返ってきた。
飾りっ気がないように見えて、気を使っているところもあるらしい。
「起こすのもかわいそうだし、雲山に部屋まで運んで……いや」
鳴らしかけた指を、ふと止める。
それから少し考え、迷った末に行動に出る。
「……これでいいか」
左手を膝の下あたりに差しこみ、右手で肩を支えて持ち上げる。所謂お姫様抱っこの状態だ。
そのまま、彼女の部屋まで歩いていく。
「まったく……こうしてる分にはかわいいんだけどね」
すぐ近くにある顔から、寝息がかかってくる。その体温と重さが、直に伝わってくる。
普段のどこか斜めに構えた感じからは想像もつかない、穏やかな寝顔。それを見ているだけで、心が安らぐような気がしてくる。
このまま眺め続けたい衝動にも駆られたが、風邪をひかせるのも良くない。足を急がせる。
「あれ、一輪……?」
廊下の向こうから、誰かの声がした。暗くて顔は確認できないが、よく聞き慣れた声である。
今の状況は、あまり人に見られて良いものではない。
思わず身を強張らせる一輪に、その人物は遠慮なく近づいてくる。
「どうしたのさ、こんな時間に」
「あら、お、おはようムラサ……いい夜ねうふふふ」
「何寝ぼけてるのよ。それより何を抱えて……あっ」
ムラサの動きもまた、そこで停止する。
やけに色っぽく顔を赤らめているナズーリン。それを抱きかかえる一輪。事を理解(誤解)するのに、そう時間はかからない。
「へぇー……そうなんだ。二人ともいつの間に……」
「あ、いやその……これは」
「そうやってお持ち帰りして、部屋でお楽しみなのね。○○を××して(ピー)なことに……」
「……雲山!」
お子様が聞いてはならない単語を連発するダメな船長には、丁重にお帰りいただいた。
おそらく今頃は、頑固親父によるゲンコツお説教タイムだろう。
そうこうしているうちに、ナズーリンの部屋の前に辿り着く。
「困ったわね。これじゃ開けられないか……」
「んっ……」
手元から、微かに声が聞こえた。
見ると、ナズーリンがいつの間にか薄目を開け、こちらを見ている。
「一輪……?」
「あら、起こしちゃったみたいね」
「ここは……あああっ!」
二、三度あたりを見回し、急に真っ赤になった。
一輪を振り払うように、腕の中で暴れ始める。
「ど、どうして、こんなっ!」
「ちょっと、落ちちゃうから!落ち着きなさい!」
しばらく揉み合った後、なんとか無事に降ろすことはできた。
しかしまだ、一輪に向けられる目には敵意すら篭っている。
「はぁはぁ、まったく君は……私をどうしようと……!」
「どうもしないわよ。寝ちゃったから運んできただけで。それとも、何かして欲しかった?」
「馬鹿!……とにかく、私はもう寝る!」
そう言って、ナズーリンはさっさと部屋に入ってしまった。
そして一人、暗い廊下に取り残される一輪。
こうなってしまっては、どうしようもない。彼女がそういう冗談が嫌いだということは知っていたはずなのに。
珍しく子どもっぽい姿を見て、つい悪戯心が働いてしまったのだ。
「調子、乗りすぎちゃったかな……」
後悔は先に立ちはしない。
その場で俯き、頭を抱えるしか一輪にはできなかった。
一方で、自室に戻ったナズーリンも思い悩んでいた。
布団には入ったものの、眠れそうにない。
「私はなんて愚かなことを……」
酒に飲まれ、身内に醜態を晒してしまった。賢将の名折れである。
枕に顔を埋め、足をばたつかせる。
「うー……」
そしてどうしても思い出される、あの感触。大事に胸に抱え込まれ、傍で感じた柔らかな温もり。
思えばあそこまで人に触れるのも、初めてのことだった。
「温かかった……な」
なぜか、彼女の顔ばかりが頭に浮かんでくる。最後に自分が突き放したときに見せた、悲しそうな表情が特に胸に引っかかっている。
考えてみれば、彼女の行動は親切心からのものでしかなかったはずだ。ひどいことをしてしまった。
口から自然と息が漏れる。
「……うん、謝ろう」
しばらく考え、ようやく決心がついた。自分に非がある以上、けじめはつけなければならない。
そして何より、またあの笑顔に戻って欲しいという想いがあった。
口を真一文字に結び、襖に手をかける。
「あ」
「え?」
すぐ目の前に、一輪はいた。先ほど見たときとほとんど変わらない姿勢で、廊下に立っている。
あれから少なからず時間は経っているというのに、どういうことなのか。
「い、一輪……その……」
「……ごめんなさい!勝手なことして、変なことも言っちゃって……」
言いよどむ間に、一輪が頭を下げていた。呆気にとられるナズーリン。
先に言われてしまった。つい先ほど決意を固めたはずなのに、自分はなんて弱いのだろう。
「私、馬鹿だから……」
「一輪……」
言葉はもう取られた。ならば、後は行動で示すしかない。
泣きそうな顔で下げ続ける頭を両手で包み込み、その胸に抱きとめる。
「私こそ申し訳なかった。あんなに話を聞いてもらって、勝手に潰れて……介抱までしてくれたというのに。私の方が、大馬鹿者だよ」
彼女の髪の香りが、いっぱいに広がる。自分の鼓動が早くなっていることも、おそらく伝わっている。
慰めるために抱きしめたのではない。おそらく、自分がこうしたいと思ったのだ。
これまで感じたことのない不思議な想いに、戸惑いすら覚える。
「ナズ……」
一輪もまたナズーリンの背中に手をやり、両手でしがみつく。
怒らせてしまい、心を痛めていた相手。それが今は、こうして自分に触れてくれている。
そんな安心感もあったが、胸の奥でもっと別の感情があるのもまた、事実であった。
ずっとこうしていたい。それが二人の、共通の想い。
「ごめん、ごめんね……」
「私も……ごめん……ありがとう」
しばらく二人はそのままだった。
永遠とも思える、恥ずかしくも幸せな時間が過ぎていった。
翌日もナズーリンは出かけていく。
振り向くと、笑顔の彼女が見送ってくれている。それだけで安心することができる。
目と目が合う。言葉にせずともわかる。
また今夜も、二人で。
1ヶ月は口の中が甘くなりそう。
……あ、この上品な甘さは蔗糖じゃなくてぶどう糖だな……
ナズいち可愛いじゃないか!
小生意気な感じのナズがしおらしくなるというギャップにときめいた。
もちろん、一輪にも。