――烏天狗である射命丸文と、白狼天狗である犬走椛。今日も二人のケンカは絶えなかった。
ケンカの発端はいつも、些細なきっかけから始まっていく。
「文さん。貴女という方はどうしてこう、また約束を破りましたね?」
「は、約束? 約束ってなんのことですか?」
「……またそうやってとぼけるつもりなんですね?」
「とぼけるもなにも。私にハッキリわかるよう詳しく事情を説明してください」
妖怪の山の一角。天狗たちの棲まう集落に佇む一軒家。
射命丸文が所有するその場所で、文と椛が朝っぱらから険悪ムードで口論しあっていた。
「先日ご一緒しましょうと約束した件です。まさかとは思いますが、約束したことすら忘れていたわけじゃないですよね?」
「あぁ、あの件ですか。緊急の用事が入ったのでそちらを優先していました」
椛の問い詰めにも、なんでもないことのように平然と返される。文のそんな言い草に椛はイライラを募らせていく。
彼女たちは犬猿の仲のごとく反りが合わないことがある。
天狗とは土着神にして太陽神・猿田彦大神を祖とすることに端を発しているのかはさておいて。
ふたりとも生来プライドが高いことで知られる天狗。その霏々たる血脈を受け継ぐ末裔である。
プライドとは決して譲れないものを持ち合わせている証左、ではあるものの。
互いが互いに譲れないもの“それ自体”はともかく、その原因によってできた、二人の間を隔てる溝の深さは推して知るべしであった。
「……なるほどそうですか。百歩譲ってそれはよしとしましょう」
文が主張する仕方のない事情のために約束を破ってしまった事情について、椛は椛なりに納得してくれたようだ。
ようやく原稿の編集作業に集中できる。と、文は胸をなでおろす。
「では次。大切に取っておいたデザートの紅葉まんじゅうをこっそり食べた件について、なにか申し開きはありますか?」
ひとつの件が済むや、今度は別の件で問い詰める椛の姿はまるで小姑のようであった。
約束を破りました。他の女性と一緒にいました。次の日はあれやこれや。
千里眼の能力を持つ椛だけに、どんなに離れた場所で起きた出来事だろうと視界に入ってしまうのだ。まさに地獄耳ならぬ地獄眼といったところか。
文々。新聞の次の入稿日まで間がないというのに、作業に支障が出るほど矢継ぎ早にまくし立てる椛の物言いに、さすがの文でもカチンとくるものがある。
「そこまで言うのなら、当然証拠はあるんですよね?」
文のとげのあるモノの言い方を聞いた椛はむっとして、
「動かぬ証拠ならここにありますよ……それでは失礼します。文さん」
言って椛は文の襟首をひっつかんで手元まで引き寄せるや、くんかくんかと匂いを嗅いでいる。
「な、なにをするんですか椛。そんな破廉恥なっ」
「黙ってください。集中して匂いを嗅ぎ取れませんから」
とっさの事に対応できず抗議を試みるのだけれど、間近で思いっきり睨みつけられては何も言えなくなる。
くんくんくんくん。
鼻先をぐりぐり押し付けられる感触に擽ったさを覚えながら、されるがままに匂いを嗅がれている。
「……やっぱり、そういうことでしたか」
「な、なにがやっぱりなんでしょう……?」
うんうんと1人でうなづく椛に向かって、おそるおそる訊ねる文。
「口元に紅葉まんじゅうの匂いがべっとりついています。それともうひとつ」
椛の相貌は完全に据わっていた。これが外の世界で一世を風靡したとかいう“やんでれ”なのか。
天狗としての立場すら忘れ、只々戦々恐々とするばかりだった。
「さっきまで、霊夢さんと一緒にいましたね?」
「な、なんのことだかさっぱりですねえ」
「目が泳いでますよ文さん。それに白狼の嗅覚をナメないでください。文さんが誰と一緒にいたかなんて、匂いですぐに分かっちゃうんですから」
椛はその研ぎ澄まされた嗅覚によって、付着した僅かな匂いからでも物事を敏感に嗅ぎ取ることができる。
これこそ白狼天狗の面目約如というべきか。
ペースに呑まれて防戦一方になった文。そんな彼女を怒りの視線で睨みつける椛。
「霊夢さんとは何をなさっていたんですか? まさかデートをなさってたんですか?」
「あ、あれは、そう。異変が起きていたからです。霊夢さんから直々に協力の要請があって、それで致し方なく……」
「へぇ。そうだったんですか。なるほどなるほど……」
途端、椛の身体から立ちのぼっていた殺気が消える。
「まぁそれはいいんです。文さんほどの方にもなれば交友関係もお広くなるでしょう。私の知らない女の方とご一緒したりお食事したりする機会も多くなるでしょう」
ほっ。ようやく納得して怒りを静めてくれたのか。
ようやく編集作業に集中できるのかと、文は胸を撫でおろしかける。
「……じゃあ、こっちはなんですか?」
案の定この程度では済むわけがなかった。
今度は数冊のスクラップ帳を取り出して、文の視界に否でも映るように開いてみせる。
スクラップ帳には、初心な少年少女ならば恥ずかしさに卒倒しかねない破廉恥な写真ばかりが収められていた。
記事にできずとも捨ててしまうまでには忍びないと思い、しこたま溜めこんだ、決定的瞬間を収めたコレクションの数々。
「こんな写真ばっかり撮って集めて……しかもご丁寧にベッドの下に隠してるなんて、貴女は思春期の男の子ですか」
「ど、どうして秘蔵のアルバムの存在が……」
「私は鼻が利くって言いました。どこに隠したって匂いでバレバレです。人間や妖怪の女の子のこんな、は、は、破廉恥な写真ばかり! いったい何に使うつもりなんですかっ!」
いくら隠したところで隠しとおせるはずもない。
白狼天狗の嗅覚でいとも簡単に探り当ててしまえるのだから。
しかし現状、新聞の編集を間に合わせたい。なんとかして椛を宥めないと落ち着いて作業もできやしない。
激情に駆られた椛を前にして、文は説得の言葉を探そうとする。
「それはすべて武勇伝いや芸のこやし、いえいえ新聞つくりのための貴重な調査資料なんですよ」
「どう見ても新聞を作るための写真撮影とは思えません。文さんは女の子なのに、女の子を見てヘンな気持ちになる方だったんですかっ」
「……なんだ。ふむふむ、ああ、なるほどそういうことでしたか」
「? いったいなにが、そういうことなんですか文さん」
スクラップ帳の写真を一枚一枚律儀に確認するたび、顔を真っ赤にしながら叫ぶ椛。
そこで何故かほっと安心したようにする文の真意が測りとれず、椛は首をかしげている。
「よかったです。ここにきてようやく、椛の誤解を解く機会を得られたのですね」
「? ですからどう誤解だというんですか」
至極当然の問いかけだった。どういうことなのか、わかりやすく説明してください――と。
ドヤ顔になった文はコホンとせき払いをして。
「椛、それは誤解なんです。私は女の子だけが対象ではありません。そもそも私は両――」
これで通算幾度目となるのか。
なにかがプツンと切れた音と同時。椛は懐からカードを取り出すや、くしゃりと握り締め――それは暴力的なまでの眩光を放ち、半人前の天狗とは思えない勢いで――カードに封じられた魔力が、瞬く間に爆ぜた。
衝撃波が家屋全体を激しく揺らすが、不幸中の幸いか損害は軽微だった。
これまでに何度もやられた教訓を生かし、家屋の内装に護符を貼り付け、結界を張り巡らせておいたことが功を奏したようだ。
ただ室内に立ちこめる煙だけはどうすることもできず、文はケホケホとむせていた。
「けほっ、けほっ、けほっ……」
「……もう許しません。ゼッタイ許さないんですから」
つり目どころではない形相の椛。生がつくほど真面目な性質の彼女は、冗談や冗句の類がまったく通用しない。
狼一倍プライドが高くて融通が利かない性格の上、マジギレ状態になってしまっている。
「私たちは由緒正しき天狗なのですから、もっと理性的に話し合いを……」
「その理性を毎度毎度木っ端微塵に吹き飛ばしてくれるのは何処のどなたですか」
「……ふふん。こう見えても風を扱う能力を持つ射命丸ですから。吹き飛ばすことにかけてはお茶の子歳々……」
「誰がうまいことを言えと言いましたかっ!!」
文のジョーク交じりの返事にすっかり機嫌を損ねてしまったようで、頬を膨らませながら椛はそっぽを向いてしまった。
――私みたいな半人前が、ぶつぶつ……敵うわけないじゃないですか。
ぶつぶつと何かを呟いている。
はい? と聞き返すと、案の定すぐに激昂してしまう椛なので取りつく島もない。
そもそもこの問題。烏天狗である文であれば、白狼天狗である椛に対し「あんた。部下のくせに生意気なのよ」と一言命令して捻じ伏せてしまえば簡単に済む話だ。
厳格な縦社会である天狗のコミュニティにおいて上下関係とは絶対の掟。上の階級の者がひとこと白だといえば、たとえそれが黒だろうとすべて白になる。
だが彼女は、敢えて其をしない。しようとしないのだ。
「表に出てください。こうなったら弾幕ごっこで決着をつけましょう」
そうして口論(?)の河岸を庭先に変えることにしたのだった。
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「さぁ文さん、覚悟はいいですか? 私はいつでも準備OKですよ」
下っ端の階級といえど天狗の端くれ。
公儀においては哨戒の任を背負う身としてそれなりの訓練を受けている椛だ。
「ですから落ち着いてください椛! 話せば分かります! 誤解なんです!」
「誤解も6回もありません。こうなってしまったら勝負です! 決着です!」
表に出るや否や、問答無用でスペルカードを取り出して弾幕を展開する椛だった。
展開される弾幕は、彼女自身の小柄な体躯に拠らず、パワーで押せ押せタイプの物。
『の』の字を描くように広範囲に放たれる“それ”は瞬く間に幾重もの層を形成し、文の身体めがけて殺到する。
その射線の激しさは、激昂する椛の心象そのものを体現しているかのよう。
「……やれやれ。椛には困ったものです」
面倒くさそうに頭をポリポリかきながら、弾層の切れ目を縫うように回避していく。
一見苛烈に見える椛の弾幕も、何度も見せられれば癖もパターンもいい加減に覚えてしまう。
仮にあれから新たなカードを開発していたとしても、弾幕の設計思想自体は大して変わらないだろう。
ましてやすっかり感情的になった椛の弾幕。かわすことなど朝飯前だ。
結局――幻想郷最速と謳われる射命丸文に対して、ただの一発も命中させられなかった。
ひどく息切れしている椛に対して、汗ひとつかいていない文だった。
「なにがそんなに不満なんですか。ハッキリ言ってくれないと分かりません」
「……」
文には、どうして椛がこんなに怒り出すのか分からなかった。
訊ねても碌に返事をもらえそうにないようなので、しばし考えたのち、ふと原因について仮説が閃いたとばかりに柏手を打つ。
「なるほど……つまり先輩としてレクチャーして欲しいということですね。そういうことなら……ふむふむ。相変わらず椛の弾幕は練りこみが甘いです。弾数自体は悪くないのですが、パワーをぶつけることだけで精一杯で、弾速の緩急、弾道構築や相手の回避運動の予測にまで気が回っていないのでしょう。ですから一度パターンを見破られてしまえば、妖精一匹命中させることすら……」
などと、違う意味で的外れな弾幕の分析をはじめていた。
「……」
ぶるぶるぶると、椛の拳が大きくふるえている。
椛には、どうして文がこんなに分らず屋なのか分からなかった。
茶化されたと思った椛は、すっかり頭に血が昇ってしまう。
幻想郷において揉め事や紛争の解決手段の一つとして考案された命名決闘法案(スペルカードルール)。
だが全力を持ってしても、ルールを最大限に活用しても、解決しない事があった場合はどうすればいいのだろうか。
そこで彼女が選んだ答えは、いたってシンプルだった。
ひゅんっ。文の眼前を突如、白刃が掠めた。
文の前髪の先端部分が何本か舞っていた。一寸の迷いもない切り払いだった。
「……マジでやる気ですか。椛」
「ええ、すこぶるマジです」
椛の手には、よく手入れの行き届いた柳葉刀が握られていた。
弾幕こそ半人前。だが幼少より剣を磨いてきた彼女にとって寧ろこちらが本領。冥界の庭師と本気で手合わせすれば、どちらが腕が立つのだろうか。
剣は弾より強し。
彼女はその理論を身をもって実践する者。
「文さん。お覚悟を!」
椛は柳葉刀を逆刃に持ち替えてふりまわしていた。本気で殺るつもりはないようだが、当たればもちろんタダでは済まない。
だが鍛え抜かれた剣捌きとて文にとってはまだまだあしらう程度。予備動作も大きく、太刀筋のすべてを回避するなど造作もないこと。
だが、手数の多さが弾幕の比ではない。そのうち弾幕と剣を両立させることができた時にはどうなるか、きっと苦戦するに違いないと息を呑んでしまう。
夫婦喧嘩は犬も食わない……ではないが、彼女たちのケンカはいつもこんな感じなのである。
ただ、人間や他の妖怪たちに何かしら危害が及ぶものでもなし。
博麗の調停者も境界の大妖怪も里の半人半獣もやってこようはずがない。
日頃溜まった鬱憤を、妖力を発散してスッキリさせる。幻想郷の理に適っているし、特に妖怪の世界ではよくあること、よくあること。
それに戦いぶりの様子を見ている他の天狗達の士気を高めることにも貢献している。
仔犬が飼い主にじゃれているようなものだと、天狗の上層部も黙認している有様だ。
近所にお住まいの山の神社の軍神と土着神をして「おっ、今日もやってるな」「またやってるねぇ」と笑って済まされる程度なのである。
だからこそ、今回のケンカは少々厄介なのだ。
「しばらく、口も聞いてあげないんですからっ!」
すべての弾幕と剣捌きを回避しきった文に言い残すと、椛は何処かへと飛び去ってしまった。
椛を引き止めるための言葉も見つからず、茫然としたままその場にたたずむ文だった。
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「あっはっは! ほんっと相変わらずだねぇ」
「もうっ、にとりさんってば。笑い事じゃないんだよう」
「どう考えてもヤキモチ焼きなお嫁さん夫婦の痴話喧嘩にしか聞こえないよ」
家を飛び出してきた椛は、将棋友達のにとりの工房に足を運んでいた。
やってくるや、ずっとこうして愚痴を零している調子である。
真面目で気のいい職人気質のにとりは、請け負った依頼の仕事を忙しなくこなしながら椛の話に耳を傾けている。
「……あっ。ちょっと待ってて」
にとりは言って、とてとてと工房の作業部屋をあとにする。
けっこう長い間待たされていた。玄関先で誰かと話しこんでいるのだろうか。お客さんって誰だろう?
ふとそのことが気になって椛は立ち上がり、玄関を覗きこもうと思い立った頃。
にとりが手作りの水羊羹を持って戻ってきた。
「それって要するにさ。好きってことなんじゃないの?」
「えっ、そう……なのかなぁ?」
職人気質に起因するためか、説明する過程の回りくどい部分をすっ飛ばして、要点のみを掻い摘んで椛に告げる。
「本当に嫌いなら、そもそも興味がないってことなんだから、そんなにムキにならないんじゃないかな」
千里眼の能力を持ちながら目の前のことしか見えていない彼女のことだ。
文の言動の一字一句を碌に噛み砕きもせず、鋳型に流しこむような聞き方をしていたに違いない。
そんな二人だから、いちいちコミュニケーションに齟齬が出る。
本当は噛み合っているはずなのに、いちいち空回りしてしまう。
行き場を失った思いが不満の種を実らせてしまい、結果うまくいかなくなってしまう。
「わかってる、はずなのに……でもでも文さんだって、わざわざあんな言い方しなくたっていいと思う」
「そこをうっかり言っちゃうのがあいつなんでしょ。地が出ちゃうって言うか」
「地が出ちゃう……」
「じゃなくて。ミスリードさせるつもりはなかったんだ。地が出るって言うのはね――」
「ちーっす。にとりーいるー?」
にとりが言葉を続けようとした時――いつの間にやってきていたのか。
姫海棠はたてが部屋の入口の前に立っていた。
「えー。玄関の呼び鈴何度も押したけど全然でなかったから、勝手にあがらせてもらったわよ」
「そうだっけ。で、うちに何か依頼かな? はたてさん」
「なんかあたしが使ってるカメラの画面がすぐに消えるようになっちゃって」
「ああ。きっとそれはバッテリーが消耗しているからだね。ちょっと貸してみて。すぐに直してあげる」
なんでも愛用のカメラが壊れたので、修理を依頼するために工房に立ち寄ったらしい。
突然の来訪者に帰るきっかけを失くした椛は、職人モードに入ったにとりに指示されるまま忙しなく動いている。まるでにとりの助手として働いているかのような椛。
生まれつきそういう属性つきなのか、椛は時々あぶなっかしい動きをするので目が離せないのだが。
「誰かと思えば椛じゃない。やっほー。元気してる?」
はたてと目が合うと、椛は「あ、こんにちは」と言いながらおずおずとお辞儀している。
「あれ、今日はアイツと一緒じゃないんだ?」
「あ、文さんとは、その……」
「ああ。噂は聞いてるわよ。あんたたちのことは天狗の身内どころか、そこいらじゅうで有名になってるもの」
あぅあぅ。椛は縮こまってしまう。角が立たないように隠していたつもりだったのに、どうして噂ってこう広まるのが早いんだろう。
知らぬは本人ばかりなり、とはこういうことを言うのだろうか。
椛と文が顔をつきあわせる度にケンカばかりしていることは、周囲ではすっかり風物詩になっていたらしい。
「……私が思うに、狼さんのプライドが邪魔をして、本当の気持ちが見えなくなっているのかしら?」
「違いますっ。あんなひとのことなんて、初めから大嫌いですっ!」
「ふぅん……となると、これってあたしにとってはチャンスってことよね」
だから彼女は、ここぞとばかりに笑みを浮かべた。
はたては妖しく微笑むと、椛の小さな顎を指先で摘むように持ち上げ、行灯袴の下から膝を割りこませて顔を寄せてくる。
「じゃあいっそ、あたしとくっついちゃう?」
「な、な、ななななっ!?」
椛は一瞬何が起こったのかわからずあたふたしていた。そうこうしている間、はたてに間合いを取られることをすんなりと許してしまった。
はたての太腿が布地に触れる摩擦音が耳に聞こえる。小さな吐息の音さえも簡単に伝わってしまう距離で、互いの吐息がだんだん荒くなっていくのがわかる。
「こらこら。そういうことは工房の外でやりなって」
はたては最早にとりの言葉にも耳を貸さない。にとりも諦めたのか、それ以上なにも言ってこない。
椛はにとりの助けを期待して彼女の姿を横目でチラと見やるも、助け舟が差し伸べられる一抹の期待すら届かないことを知るや、数泊おいて自ら置かれた状況に徐々に震えがはしる。
烏天狗の名に違わぬはたての面差し。
逃れることを許さない肉食系の視線が、彼女が本気なのだろうという事実を仄めかせる。
「文と組むよりずっといい思いをさせてあげるわ。朝から晩まで四六時中、のべつ幕なく可愛がってあげる」
「あわわ……はたてさん、私……」
「アイツからいますぐ離れて、あたしの所に来なさい。椛」
白狼天狗より上位の烏天狗を相手に、無暗に身体を突き飛ばすこともできなくて。
恐怖に駆られて思うように身体に力が入らなくなる。
どうして? 相手が文さんなら、幾らでもできたことなのに。理由もわからぬまま、椛から涙が零れだす。
「……なーんて、ね。さすがにわざとらしかったかな? ごめんね椛」
「ええっ、今のは冗談だったんですか。ひどいです。はたてさん」
言って椛から手を離すはたて。ツーサイドアップの髪がふわりと揺れて、はたては悪戯っぽく微笑んだ。
生真面目な性質をしている椛は、すべて直線的で真っ直ぐに捉えてしまうために、冗談を冗談だと受け取れないところがある。
そんな二人を傍目で見ていたにとりは、手振りでやれやれとしていた。
「椛の反応が面白そうだったからついやってみたかったの。その様子だと、どうやら“そういうこと”みたいだし、ね?」
はたてさんは、椛の顔色を見てチロリと舌を出していた。加えてにとりにもちらっと視線を向ける。視線を向けられると、にとりは一瞬だけ視線をそらした。
「よくあれを止めなかったわね。にとり?」
「あれを本気でやってたら、スパナでぶん殴ってでもここから追い出してたよ」
「あんた見た目によらず結構おっかないわよね……」
ころころと笑いあう、にとりとはたて。いまのやり取りでなにかが通じ合ったのだろうか。
やり取りの意味が分からず、椛はきょとんとするばかりだった。
「そういえばはたてさん。バッテリーを改良したから、これまでの倍くらい駆動時間が保つようになったよ」
「おっ、助かるわー。おかげでカメラも直った事だし特別サービス。椛、そんなにアイツのことが気になるなら見せたげる」
にとりは先程までのやり取りの合間に修理を済ませていたカメラをはたてに返し、代金を受け取る。
はたてはカメラを受け取ると、カメラの入力キーに『吠え面かいてる射命丸文』という文字列を打ちこんでいた。
しばらくすると、念写能力による検索結果が画面に表示される。
画面には他の烏天狗たちがフォーカスした写真たちがずらりと並んだ。
何枚も、何枚も。画面に収まりきれないほど、何枚も。
はたては最初はその画面を椛にだけ見せないように、にとりと一緒に見ることにした。にとりは画面に表示された写真を見てニヤニヤしていた。
そこには文の姿が、家を飛び出した椛を探して方々を飛び回っている姿が写っていた。
いたる場所、いたる角度からシャッターを切られていた。
たくさんの写真達の中で――射命丸文は泣いていた。何度も、何度も、泣いていた。
いっぱい、いっぱい、泣いていた。
天狗仲間に消息を訊ねたり、人里に足を運んだり、息をつく暇もなく。
向かい風に髪型や袖襟が乱れようと、それを整えることもしない。
たったひとりの天狗を求めて、考えつく限りの場所を足繁く探し回る文の姿。
これほどたくさんの写真を一度に念写できるなんて。
能力を使った張本人であるはたて自身、驚きの色を隠せずにいた。
そこには確かに彼女がいて、ファインダーに収まりきらないくらい彼女が映し出されていて、喧嘩の果てに家を出て行った椛を探し回って、行方の足取りやその手がかりさえ掴めなくて、やがて途方にくれて。
暮れなずむ写真の空の景色が日暮れに向かってようやく傾きはじめるその頃になって、人通りの少ない森林の木枝の上で、文はひとり膝を抱えて泣いていて。
「ごめんなさい、椛。お願い、帰ってきて……」 訴えかける文の言葉が、写真の様子から直に伝わってくるかのよう。
ことの一部始終は、はたての持つカメラの画面に描かれていたのだ。
検索で山ほどヒットした写真の枚数を見る限り、写真を収めたのは一人や二人ではないだろう。
些細なことで仲違いをしてはケンカばかりしてきた文と椛。
好奇心旺盛な天狗たちのことだ。彼女達はいわば夫婦善哉の風物詩として評判の渦中に挙げられていたこともあり、噂が噂を呼んだ挙句、悪戯心から写真に撮られたものもあろう。
「……ふぅん。アイツってこんな顔もするんだぁ」
はたてが自らの念写能力に打ち込んだ文字通り、『射命丸文の吠え面』そのものだった。にとりもカメラに映し出された写真を見て、何やら思うところがあるようだった。
?? 椛には、二人の間で何が起きているのか皆目見当もつかなかった。
はたてさん。どうしてそんな意地悪をするんだろう? 見たいのに。見せてほしいのに。
文とケンカ中ということも忘れ、文のことを知りたいと、ただそのことを気に懸けている。椛は尻尾をふるふる振りながら、私にも見せて見せてとせがんでいた。
「私も見たいです。見せてくださいー!」
「そんなにアイツの写真を見たいの? 椛」
「見たいです見たいです! 見たいんです!」
「椛ってさ、文のことなんか興味ないんじゃなかったの?」
「うーっ……」
「はたてさん。意地悪しないで椛にも見せてあげなよ」
「しょうがないわね。そこまで見たいと言うなら、お望み通り見せてあげるわよ」
にとりからの説得もあって、はたては椛にもカメラの画面を見せてあげることにした。
一言も言葉を発さず、椛は画面の中に映る写真をただただ食い入るように凝視していた。
「文さん……貴女ってひとは、本当にバカなんですから」
二人に聞こえないくらい小さな、小さな声で。たった一言、そうつぶやいた。
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「またなにかあったら、いつでもうちに来なよ」
「あはは、今日はありがとう。また遊びに来るよ」
陽も沈みかけて、椛はにとり達と別れようとしていた。
「っとゴメン椛。ちょっと待ってて……これ、あいつが昔使ってたカメラらしいんだけど、型が古くなったから使えるように修理しといてって頼まれてたんだ」
言ってにとりは工房の作業台の上からカメラを持ってきて、それを椛の手にポンと手渡す。随分と年季のある古びたカメラのようだった。
あいつ、とはもちろん射命丸文のことなのだろう。どうしてこれを? そう訊ねるよりも早く。
「私は作業で忙しいから代わりにあいつに返しといて。うっかり落として壊したらダメだよ」
こう言って念を押しておくことも忘れない。またケンカを始めてカメラを壊されでもしたら、にとりに要らぬ仕事が増えることになるのだし、新たなケンカの種を作られても困る。
「う、うん。ありがと……」
半ば強引に押しつけられるような形でカメラを手渡された椛は、神妙な顔をしながら、しぶしぶ受け取ることにしたのだった。
椛はにとり達から見えなくなるまで手を振りながら射命丸文の所に帰っていった。
その姿がすっかり見えなくなってから、にとりは「まいどあり」と、そっと呟くのだった。
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「……ただいま戻りました」
「椛っ! いったいどこに行ってたんですかっ!!」
帰途についた椛が家の玄関を跨ぐと、玄関先に立っていた文が大声で怒鳴りながらやってきた。
彼女がここまで怒るのも当然だった。
椛は朝から家を飛び出したまま夕暮れまで、何の連絡もないまま家に戻ってきたのだから。
逃げられないようにと肩口を両手で引っ掴まれ、迫る口調で問い詰められている。
「どうしたんです? それは質問に答えられないような場所にいたということですか!?」
「文さん……」
椛は、文の顔を正視できなくなっていた。
あんな写真を見てしまったから。顔を突き合わせるたび喧嘩ばかりしてきたから。あんな風に自分のことを想ってくれていたと分かってしまったから。気まずい思いで頭がいっぱいになる。
『文さんは頭がよくて話し上手のくせに、私に何か言う時はいい加減な言い方しかしない、してくれない。それってつまり、私のことなんてどうだっていいんですっ!!』
どうしてあんなことを言ってしまったのか。思い出すだけで自己嫌悪に陥ってしまう。ひどい言葉をぶつけていたのは自分のほうだったのだと、椛は改めて自覚する。
それはいわゆる反抗期特有の一方的な思いこみだったのかもしれない。そんな甘い言葉で自分を騙すことは簡単だ。心とは、目の前の痛みから逃れようとするものだから。だけど、そんなものを免罪符になんてできるわけもない。
逃げたい。逃げ出したいとさえ思う――だけど。
思えば文に関することはなにもかも、近視眼的に捉えすぎていために逆に捕らわれてしまっていて。
つっけんどんな物言い。乱暴に思える態度。避けられているのではないかという危惧。実際はその真逆だったのだと。にとりが言っていた「地が出ている」というのは、こういう意味だったのだと。
だから決してもう――彼女は逃げない。逃げ出したりしない。
椛は心の中にわだかまっていた気持ちを吐き出そうと、射命丸文の目をしっかりと見据えて。
「…………ばかっ!」
気がつけば、口より先に手が出ていた。新スペルカード。拳符――『いぬパンチ』と言わんばかりの勢いで。
椛の軽やかな足運びと精いっぱいの膂力を乗せて繰り出される渾身の一撃。
あまりの不意をついた一撃を、文は間一髪で回避することができた。
「ばかっ! ばかっ! ばかっ!!」
「あややっ、いきなりどうしたんですか椛っ!? ちょっこらっ、やめなさいってばっ」
一度かわされた程度で椛からの次の一撃がやむことはない。
うまく言葉にできないからと一撃、また一撃と。椛は思いの丈を拳の力に変えて放つ、放つ、放つ。
だが相手は仮にも幻想郷一の速さを誇る烏天狗。ただの一度も当てられるはずがなかった。
普段ならこのままスペルカードを抜いて柳葉刀を構えて、室内外問わず、組んずほぐれつの大乱闘が繰り広げられる流れなのだが。
そこでなぜか、椛は拳を振るうことを止めた。
身体を動かすことである程度モヤモヤが消え去ったのか、椛は文に問いかけた。
「……あのですね文さん。私の話を聞いていただけますか?」
「ん、なんですか? ようやく話を聞いてくれる気になりましたか?」
いきなり実力行使を仕掛けておきながら話を聞けと訊ねる椛。
問いかけられた質問をぶっきらぼうな質問で返す不調法な文。
お互い自分のことを棚にあげて、頓珍漢なことを言っている。だけど今となっては、そのようなことは瑣末といえる。
「私の前でだけ不器用でいてくれる、そんな文さんが大好きです」
「え。いきなりなにを言い出すんですか」
「文さんのこと、ちょっぴり分かったような気がするんです」
朝とは明らかに態度の違う椛の様子に文は唖然とする。
人知れず泣いていた場面を椛に見られでもしたのだろうか……いやいやそんなはずはない。
博麗の巫女すら知らない秘密の場所で、ひとり静かに泣いていたのだ。
椛を相手に、そんな醜態を晒せるものか。
そうこう考えているうち。不意をつくように、椛はまるで仔犬がじゃれるようにハグしてきた。
椛にとっては憧れのセンパイ。人前ではヤリ手のように飄々と振舞っているけれど、家に帰れば地が出ると言うか、だらしない。
それは新聞記者として、それなりに立場のある妖怪として。
常に気を張っている反動で、心を許している相手を前にすると、素直な自分が出てしまう。
なにひとつ包み隠す必要がないものだから、つい気が緩んで、自覚していなくてもだらしない姿を晒してしまう。
取材対象や交渉相手に対してなら抜群の社交性を発揮できるのだけれど、椛を相手にすると、どうしてもペースがおかしくなってしまう。
仕事で忙しそうにしてるし、やっとお仕事が終わったと思ったら、いつも他の女性の匂いをくっつけて帰ってくる。かと思えば、またすぐに出かけてしまうか寝てしまうし。
そういうことを全部ひっくるめて、射命丸文は射命丸文なのだと。椛は知ることができた。
椛にしてみれば寂しさも募り、欲求不満も溜まるというものだ。相手のことを信じられず、不仲にだってなるだろう。
でもそれは、相手を理解することによって補えることでもある。
「というか、私が文さんにひどいことを言っちゃった時。上司の立場を振りかざして、黙りなさいって一言命令してくれれば良かったのに」
「あのですね椛。私たちは上司と部下の関係だから仕方なくつきあってやってるなんて思ってたんですか?」
「わふ?」
「……やれやれ。本当にバカなんですから」
射命丸文から言われたバカの一言に、椛は少しむっとなって。
「あれ? 文さん、知らないんですか? バカって、最初に言ったほうがバカなんですよ?」
「おや? それはお互い様じゃないですか? さっきのパンチはなかなかでしたよ。でもまぁあれを私に当てるにはまだまだ数十年早いですが」
「むーっ……」 「ふふっ…」 しばらく互いに見つめあって。
「「あははははっ!」」
二人で顔をそろえて笑いあうのは、随分と久しぶりだったような気がする。
もう笑いすぎて、目尻から涙が出るくらいに。たくさんたくさん笑って笑いあった。
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「あ、そうだ文さん。にとりさんから預かっていたカメラ、文さんにお返しします」
「いりません。私はもう、それを使うつもりもありませんし」
……えっ? 椛は自分の耳を疑った。
聞き間違いじゃければ、私からカメラを受け取りたくなかった。カメラを受け取らないということは、拒絶されたということだろうか。
「じゃなくて。あぁもう、私ってヤツは椛の前だとどうしてこう、言葉を選んで喋らないんでしょうかねえっ!」
軽い自己嫌悪に陥りながら、ポリポリと頭をかいて自身を叱りつけるように文は言い放つ。
「オホン。そのカメラは私がまだ駆け出しだった頃に使っていた物ですが、私はこうして新しいカメラを手に入れたので椛にあげようと思い、にとりに修理をお願いしていたんです」
「……え?」
「そのカメラ、椛にプレゼントするために修理をお願いしてたってことです」
「え? え?」
「えぇいもう! どうして常日頃から私の言いたい事を分かれ分かれって言う割に、私の言ってる意味を微塵も分かろうとしないんですかねえ!」
ええぃじれったいと、カメラを持つ椛の手に自分の手を重ねる。重なった文の掌のぬくもりを感じて、椛の胸がきゅんと高鳴った。
「理解しましたか? ここまで言っても解らないなら、ボディトークで教えてあげます」
今度は文の方から椛にハグする。
密着する衣服越しに伝わる体温のあたたかさを感じて。
わふわふわふわふ。
椛は心臓の高鳴りが止まらなかった。
身体は小刻みに震え、尻尾はふるふると揺れている。
にとりに心の中で感謝する。
当のにとりは、はたてに絡まれてそれどころではない状態なのだが。
「文さんっ。わ、わた、私っ」
「黙って。そのまま目を閉じていてください……」
椛がぎゅっと閉じたことを確認すると。そうして文は唇を寄せる。
目をつぶっていても、文の顔が接近していることは匂いで分かる。射命丸文の匂いがだんだん強くなってきているから。
そんな私まだ心の準備ができてませんから。
頭がぼーっとしてきて、
いいや。文さんに全部お任せしちゃっても……。
「……なんて、してあげると思いましたか?」
「ひんっ!?」
額の辺りに痛みが走る。それがデコピンだったのだと気づくまでには、しばらくの時間がかかった。
「もうっ。文さん。あんまりですようっ」
「まったく。いったい誰が、どうして、ここで、いままで、こうやって、椛の面倒を見てきてやったと思ってるんですか?」
「えっと……それは、上司と部下、だから?」
「そんなつまらない理由で椛を拾っていたとしたら、とっくに捨て犬にしています」
「うわっ、ひどっ!」
「えっと、あのその、ごめ……えぇい、そうじゃなくって! なんで椛を前にすると、こんなに舌っ足らずになってしまうんでしょうね。たはは」
そんなこと、本人に面と向かって訊ねられても返答に困るのだけれど。
幻想郷最速の名に恥じないくらい頭の回転が速すぎて、だから思考が飛び飛びになっている。
だから言葉をろくに整理しないまま口に出してしまう。だから傍目には不穏と受け取れる発言になってしまう。そんなアンバランスな不器用さ。
話術のセンスは取材活動などを通してそれなりに磨いてきたつもりなのに、うーんうーんと唸っている文。知らぬは本人ばかりなり。
それが二人の間にできていた、二人の間で見えなかった、二人にとって深かった溝の正体でもある。
「……じゃなかった。そもそも私は貴女の母親代わりみたいなもので、ずっと面倒を見てきた私に対する何たるかをですね。それくらい分かりなさい……本当にバカなんですから」
「こういうのを親の心子知らずっていうんでしたっけ?」
「こらこら。私はそんなに歳を食ってません。親と言うよりは、やっぱり姉で。お姉さんで!」
「……お姉ちゃん」
お姉ちゃんと呼ばれた瞬間、文の身体がびくっとふるえた。
「い、い、言うようになったじゃないですか椛。いまのは中々ですよ」
誰の目に見ても、いまの文は明らかに狼狽している。
「どうかしましたか、『お姉ちゃん』?」
びくぅ! お姉ちゃんの言葉を聞いて、文は再び身体をびくびくとふるわせている。
おやおや? なんだか反応が面白くて、椛は悪戯っぽく笑みを浮かべて何度もそう呼ぶのだ。
お姉ちゃん。お姉ちゃんと。呼ばれるたびに身体が反応する文。
恥ずかしさに目を合わせられなくなったのか、文は「もう知りませんっ」と口にしたあと、そのまま背中を向けてしまう。
こんなに可愛い顔を見せる文だって知ってたら、もっと早くこうしてしておけばよかった、椛は思う。
わふわふ。袴から伸びた白狼のしっぽが幸せそうに揺れていた。
完全に隙だらけの文の背中から、椛は覆いかぶさるようにハグをする。
「ちょっと椛、いきなりなんですかさっきから。べったりくっつきすぎですよっ」
「妹がお姉ちゃんに甘えちゃダメなんですか?」
「い、いえ。そんなことは。ていうか、むしろ本望ですよ。至極本望なんですが」
新聞記者のスイッチをOFFにしている文のことを、どこかもどかしいと思っていた。
わかっていたはずなのに。
誰よりも近くにいながら、わかっていたはずなのに。
以心伝心、なんて言うけれど。それでも。
多感な年のころの椛は、かけがえのない、たった一人の大切な相手の口から、ハッキリと言葉として口に出して欲しかった。
なんだ……私、文さんの近くにいることが当たり前になってしまってて、一番大事なことが見えなくなってしまってたんだ。
求めていたのは、そう、とてもシンプルな答え。分かっていたはずなのに、分からないフリをしていた。
言葉で伝えきれない想いは、こうして伝えてしまえばいいんだってこと。
文の身体をしっかりつかまえた椛はくんくんと鼻を鳴らし、その匂いを嗅いでいる。
「くんくん。文さんの匂い、だ……」
「こらっ離れなさい椛。なに恍惚な表情浮かべて幸せ街道まっしぐらしてるんですか。私はさっきまで貴女を探して飛び回って疲労困憊で、ろくにシャワーだって浴びてないんですよ」
「だからです。せっけんの優しい匂いよりも、汗に蒸れたこっちの匂いを嗅ぎたいんです」
ハグされるまでならともかく、匂いまで嗅がれてしまうのはさすがの文でも羞恥心を隠し切れなかった。
自分のことを必死に探し回ってくれたためについた汗の匂い。
白狼天狗の椛にとってそれは、なにより確かな感覚であり、なにより確かな証でもあって。
「ちょ、なに言いだすんですかコラ。汗フェチですか貴女はっ。私は椛をそんないけない子に育てた覚えは……」
「だって。こっちの方が、がんばってる文さんを感じ取れるから」
「!!」
な、ななななな……!! 文の顔がたちまち上気して返す言葉を失う。
わふわふ。慌てふためく文を見て、椛はしてやったりとニヤけ顔。
これまでの欲求不満を、ここぞとばかりにぶつけるように。
「以前から何度も何度も言いましたよね? 白狼の嗅覚を甘く見ないでくださいね? って」
「言いたいことは大体分かりましたが椛、ちょっ、顔を深く埋めすぎ……」
今度は椛を探し回っていたときについたであろう細かな切り傷を、舌でぺろぺろと舐めとっている。
「ひゃうっ! くすぐったいですってばっ! やめて、やめてくださいってばっ」
「ダメです。文さんが他の女性にくっついたりしないように、こうやってマーキングしてるんです」
実際問題。白狼天狗以外の妖怪や人間程度の嗅覚では椛ほど敏感に匂いを感じ取ることなど不可能なわけなのだが。そんなことを気にする椛ではないわけで。
わふわふわふ。
力押し一辺倒な弾幕の特徴からもわかるように、いったん攻勢に回った椛からの攻めは留まるところを知らない。
これまでの鬱憤も含めて、自分の中にわだかまっていた想いの丈を文を想う気持ちへと変えて、こうして触れ合おうとしているのだから当然だ。
しばらくの間そうしてじゃれあった後。
文がなにかしらの覚悟を決めたように決然とした顔になり、肩口を手でつかんで押しこむようにして、椛からほんの少し距離をとった。
「それはそうと椛。実は折りいって頼みたいことがあるんです」
「むー……なんですか? 頼みたいこと……ですか?」
予告なしにいきなり身体を引き剥がされてお預けをくった椛は、指をくわえながらあからさまに不満そうな目を向けている。
そんな椛の目をしっかり見据えて、射命丸文は一世一代の大勝負に挑むかのような真顔で問うた。
「さっきプレゼントしたそのカメラで、私と一緒に幻想郷の風景を収めてほしいんです」
それは、椛がこれまでずっと射命丸文の口から直接聞きたかった言葉だ。
いまになって、その言葉を聞かされることになるなんて。
「この射命丸文の相棒として、これからも一緒にいてくださいませんか? お願いします」
それは射命丸文の偽らざる本音だった。あの文が頭をさげて頼みごとをしている。
如何なる打算もそこには存在しない。最もピュアな気持ちを剥き出しにして。
天狗としてではなく。上司としてでもなく。
ひとりの射命丸文として、犬走椛と対等な関係を結びたいと、そう、頭を下げて頼んでいるのだ。
だがしかし。
「ひどいです、お姉ちゃん……文さんは、いつだってずるいです」
「も、椛……?」
椛の身体が小刻みにふるえている。両の拳を力強く握り締めながら文の顔を睨んでいる。
文はたじろいだ。誤解は解けて、二人は理解しあうことができたと思っていた。
それでも椛の根底には、まだまだ燻っているものがあった、ということだろうか。
これまでの言葉足らずが祟って椛に寂しい思いをさせ続けてきた原因は文にあるのだから、椛にこのような反応をされようと、文句を言える筋合いではない。
それをいきなり相棒になってくれなどと、なんとも烏滸がましい話だったのだ。
椛には自分を罰する資格がある。文には椛から罰を受ける義務がある。
図々しく振舞ってきた自分は、椛に何をされても文句を言うつもりはないし、たとえ殴りかかってこられても避けるつもりはない。平手打ちを食らう程度は覚悟しなくては。
文はひとりそのように結論づけた。
「迂闊でしたね。隙ありですよ文さん」
椛の手には一枚のスペルカードが握られていた。そして獰猛な獣のような鋭い目線で文を射抜いてくる。
やっぱり、そうか……文は今度こそその覚悟を決めた。
幻想郷におけるあらゆる諍いや問題、いざこざを可及的速やかに決着させる方法として考案された命名決闘法案。
これだけ両者は接近しているのだ。絶対に外すことなどありえない必中の間合い。
如何に未熟者のスペルカードといえど、如何に幻想郷最速のスピードを持ってしても、これだけは躱せまい。このタイミングと距離ならば食らいボムでカウンターをかけることだって不可能だ。
そもそも文には、これを避けるつもりもなかった。
「わ、わかりました……好きになさい。この期に及んで抵抗するつもりはありません」
射命丸文の胸中を占めていたのは、後悔の思い。
これほどまでに彼女を怒らせてしまっていたというのか……という。
だがそれで、椛のことを蔑ろにしていたツケが返せるというのなら、過ちが赦されるというのなら――椛のスペルカードを甘んじて、真正面から受け入れよう。
白狼天狗・犬走椛は烏天狗・射命丸文に向かって、はっきりとカードをつきつけて宣言する。「これは私のわがままです、覚悟はいいですか?」と言葉に添えて。
文は覚悟を決めて、静かに目を閉じて、一度だけ、大きく首を縦に振った。
「これからもよろしくお願いします」
カードに描かれていた絵柄は、狗符「レイビーズバイト」――――ツンとのびた文の耳の先っぽを、椛はそのまま、優しく食んだ。
わふわふわふ!
ごちそうさまでした。
外出先で読むもんじゃないな。
不審者に間違えられる。