早朝に起きると雨と共に雷が降っていた。
こんな日には本を読むに限る。
僕はまだ読んでいないぶ厚い本を引っ張り出して読むことにした。
と言っても店を全く開けないというのも何だ。一応表の看板を営業中にしておく。
さあ読書の時間だ。そう思い店の中へ戻ろうとすると。
「あら、もう営業中なのですか?」
確かに今の時間から営業中となると、晴れの日よりも早く営業していることになる。
誰も来ないだろうとたかをくくっていたらこれだ。
「勿論、客ならばいつでも歓迎しているよ」
しかし僕はよりにもよって彼女がこんな時間に来たことが、不思議でしょうがなかった。
「まあ、中に入ってくれ。衣玖」
「ええ。お言葉に甘えさせて頂きます」
彼女の名は永江衣玖。空気を読む程度の能力を持つ女性である。
「濡れているようだから、これで拭くといい」
「はい。ありがとうございます」
入り口に立ったままの彼女のスカートの裾からは、ぽたぽたと水滴がこぼれ落ちていた。
「雷雲の中でも泳いできたのかい?」
「まあ、そんな所です。いつもの事ですが」
「君なら危なくないだろうが、真似はしたくはないな」
龍宮の使いである彼女は、龍神の言葉や地震の警戒を伝える重要な仕事を担っている。
その為彼女は普段雲の中を泳いで暮らしているそうだ。雷雲の扱いなどお手の物なのだ。
特に雷の扱いは専門家というくらいに得意らしい。
「意外と楽しいですよ?」
体を拭き終わった衣玖が、僕の向かい側に座る。
楽しいという言葉を発している割には、どこかその表情は曇ってみえた。
「雷が平気ならばね」
「ご一緒しましょうか?」
「遠慮しておくよ」
魔理沙と空を飛ぶよりも、素敵な航空旅行を体験させてくれそうだ。
しかも空気を読んで、危険の及ばないぎりぎりの範囲で。
「そうですか。残念です」
「今度魔理沙でも誘ってやってくれ。それで、今日はどんな用だい?」
「ええ。急ぎの用という訳では全く無いのですが……そうですね。何か面白いものは入荷しましたか?」
「ふむ」
どうやら彼女は買い物をしに来た訳では無いようである。
もしそうであるならば、簡潔にそれを伝えてくれたはずだ。
「最近は特には無いな……つまらない物や話ならば多いんだがね」
「そうなんですか。不景気なんですね」
「まあ、うちの店の場合年中そんな感じだから気にはしていないが。君はどうだい」
「私ですか?」
「何か面白いことはあったかな?」
「……特には」
「ふむ」
何か歯に詰まっているような感じだ。
「何か、悩み事でもありそうな感じだな」
「そうですか?」
「勘だけどね」
周囲にいる誰かが相手ならば彼女は空気を読める。話を合わせることも出来る。
だが自分の事となると、どうもそれがうまくいっていない気がするのだ。
衣玖には恐らくその自覚が全く無い。これは彼女が伝える事に特化してしまった結果だと思う。
感情を込めた場合のそれは龍の言葉ではなく、私情になってしまう。
龍の意思や天変地異を伝える事において、それはあってはならないことなのだと思っているのではないだろうか。
「少なくとも今はプライベートだろう? もっと気楽にしてもいいんじゃないかな」
「ああ、いえ」
衣玖はふるふると首を振った。
「私、サボってきたんです」
「サボり? 仕事を?」
「はい。本来はこの時間は雷雲の巡回に当たらなくてはいけませんから」
「……それは大丈夫なのかい?」
「んー。駄目だと思いますよ?」
首を傾けながらそんな事を言う。
「駄目じゃないか」
「ええ。駄目だと言ったじゃないですか」
「……いや、そうじゃなくて」
僕は思わず頭を抱えてしまった。
もしかしてとんでもない面倒ごとを背負い込んでしまったのではないだろうか。
「まず、何でそんな事をしたのか、理由を聞こうか」
「それが、理由も特に無くて」
「……実は君が古明地こいしの変装ということは無いかな?」
地底に住む少女、古明地さとりの妹、こいし。
彼女は無意識に行動をしているので、その行動は全く読むことが出来ないらしい。
「いえ、残念ですが正真正銘の衣玖です、永江の」
そう言いながら片手の指を腕を天に向け、もう片方を腰に当てたポーズを取る衣玖。
「ああ確かにそのポーズは衣玖そのものだね」
「そこで納得してしまいます?」
「ああ。自分で言い出してなんだが、誰かの変装や変身というのは話がややこしくなるから止めよう」
それを気にしだすと該当する相手が多すぎて訳がわからなくなってしまう。
「左様ですか」
「で、改めて聞くが、理由は何もないと?」
「ええ。全く」
「……ひょっとして思春期でよくある勝手な事をやってみたいという感情……あるいは反抗期というやつだろうか」
「思春期、反抗期。そう語るには少し長く生き過ぎましたね」
「じゃあ単に年のせいか」
「怒りますよ?」
「冗談だよ」
今の衣玖は本当に怖かった。やはり女性に年の話は厳禁らしい。
「しかし勝手な事をしたくなったというのは間違いではないかもしれません」
「そうなのかい」
「何せ、私の周りの方は勝手ですから」
「……ああ」
そういえば天界の比那名居天子という少女が博麗神社などの場所限定で、地震を起こすという異変があった。
放っておけば、幻想郷全体をも巻き込む大地震を起こしかけたそうだ。
龍宮の使いである彼女は、被害はともかくとしてその前後で何かしら関係したに違いない。
「仕事が嫌になったのかい」
「そういう訳ではありませんが。皆私の警告をまるで聞いてくれませんでしたし、一体何の為に私は警告をしているのかなと疑問に思ってしまって」
「……」
十割とは言わないが、ほぼ間違いなくそれが理由ではないだろうか。
「しかし君がいない間に異変が起きたら大変じゃないか。今日はこんな雷雨だ。何が起こっても不思議じゃあない」
「雷雨が起きているという事は、どういう状態だかご存知ですか?」
「それは当然、天の主である龍の機嫌が悪いから……」
永江衣玖。彼女は龍宮の使いである。
「私のせいではありませんよ?」
僕が言いたいことを読んだのか、先にそう答えられてしまった。
「……まあ、機嫌が悪い相手の傍にいたくないというのは、なんとなくわかる」
霊夢や魔理沙も機嫌が悪い時は本当に酷い。
わざわざ自分から文句を言いに来るのだからなお酷い。
ちなみに僕はその機嫌が悪い原因にはほとんど関係がない。
龍神ともなれば、その怒りは大変なものだろう。
「そういう時は話をする事も出来ませんので、私がここにいてもさほど問題はありません。龍宮の使いも一人ではありませんしね」
「つまり、君がいなくても問題はないのか」
「はい。いなくても全く問題無いんです。困りました。私、何のために仕事をしているんでしょうか」
衣玖はあまり見ないような、しょぼんとした顔をしていた。
「……ちょっとくらいの間なら、いなくてもそれは他の誰かがフォローしてくれるから何とかなるさ。しかしずっといないとなると破綻してしまうよ」
「経験が無いので分からないんですよね。実際。どうなるのかと思いまして」
「被害が起きてからでは遅いだろう」
「それは重々承知していますが、どうにも」
「ふむ」
どうやら今の彼女は感情と理性のコントロールがうまくいっていないようだ。
肉体よりも精神に重みを置く妖怪としては、非常によくない状態である。
「マイナスの感情を払うにはプラスの感情が必要だね。僕としてはそういう道具をお勧めしたい」
「何かありますか?」
「いくつかあるが、即効性のものは無いな」
あるのはせいぜい身につけていれば自然と気持ちが明るくなる……まあ、おまじないレベルのものだ。
「感情というものは難しいものですからね」
「空気を読める君でもそう思うのかい」
「空気を読むというのは、万能ではありませんよ。そして中正を保つのが空気を読むということではありません」
「違うのかい?」
「例えば、皆が一様に喜んでいるところで一人だけ怒っていたらどうですか?」
「それは空気を読んでいないね」
魔理沙だったら空気読めよと文句を言うだろう。
「しかし中正となるとそうではありません。陽とはいえ、傾いているわけですから。それを中正に戻すとなると、負の感情が必要となるのです」
「うーん。そう考えると中正というのも難しいな」
「負の感情は特に陽を食いやすいですから、尚更ですね。この場合の空気を読んだ行動は、やはり共に笑い、喜ぶことでしょう」
「確かにそうだね」
場が陽の空気であれば、陽の行動を取るのが空気を読んでいるといえよう。
「……とすると、逆に皆が怒っていたら、一緒に怒ることが空気を読む行動なのかい?」
「一概にはそうとは言えませんが、それが正しい場合もあります。中正に戻すのであれば、諌めたりする行動が必要でしょう」
「怒りと怒りが重なると、大変な事になってしまいそうだ」
「ええ。お互いの怒り同士がぶつかればそれは喧嘩になってしまいますし、その場にいない誰か……あるいは何かに対しての怒りへ同調すれば、その怒りは倍増してしまうだけです」
「そうすると負の感情が多いときは、空気を読まないほうがいいのかな」
「いいえ?」
衣玖はふるふると首を振った。
「それはむしろ状況を悪化させるだけです。その場の空気を読み、なおかつ短期的な見方をするか、長期的な見方をするかで対応は異なります。あるいはその場にいる者の立場や人により変わりますね」
「ああ、なるほど。確かに」
僕にしたってそうだ。
普段の対応だって霊夢や魔理沙への対応と、客や常連への対応はまるで違う。
誰に対しても、常に同じ対応をすればいいなんていう事は、中々無いものである。
「これは陽の気にも同様の事です。ただ、負の気への対応は陽よりも難しいですね。複数人いればさらにです」
「まあ、普通なら中々出来ない事だね。君は凄いと思うよ」
「そうでしょうか? 私が空気を読んだとて、変わらないものは変わりませんし」
「衣玖。君は自分で言ったじゃないか。短期的な見方をするか、長期的な見方をするか。君は既に長期的な見方をしていて、かつ空気を読んでいる」
それはあるいは無意識の行動だったのかもしれない。
しかし、それは意識せずとも発揮出来るからこその能力なのだろう。
僕は今までの彼女の話を聞いたことから得た推測を話すことにした。
「と、言いますと?」
「今日は雷雨だ。龍の機嫌が悪くて、雷と雨を地上に降らしている。そんな状況で、君は普段の仕事を放棄し、ここにいるわけだ」
「ええ。その通りです。よくないことをしていますね」
「いや。君が龍の傍にいたとしても、龍の怒りを納めるのは難しいだろう。下手に刺激をして怒りを増してしまったら、それこそ人里なんかは大変な事になってしまう。だから君は仕事場を離れたんだ」
龍の怒りとていつまでも続くものではないだろう。
いずれは晴れるに違いない。
それに雨は地上にとって必要なものでもある。与えられるのは負だけではないのだ。
「長期的な……というか地上の視点で見るとそれは大いに空気を読んだと言えるんじゃないか?」
「いえ、特にそういった意図はありませんでしたが」
衣玖は少し戸惑った顔をしていた。
「まあ結果論だがね。君が地上にいることで、いいことがもうひとつある。それは君が雷を扱えることだ。つまり君が避雷針に成り得るんだよ」
「この店に雷を落としても構いませんので?」
「それは困るが。空気……大気を読めば人里から雷を逸らす程度はできるだろう?」
「ええ、可能です。といいますか少なくとも幻想郷では滅多なことで雷災は起こりえません」
「そうなのかい?」
「はい。言ったではありませんか。龍宮の使いは私一人ではありませんと」
「……ああ、そういえばそうだった」
すると既に衣玖では無い龍宮の使いが、そういう役目を持っているということだろうか。
「それに、私がいなくても別の龍宮の使いが龍神様のお側にいる可能性もありますからね」
「むぅ、そうか」
どうも僕の推測は外れてしまったようだ。
「まあ、他の誰かはどうだか知らないが、僕は衣玖に感謝しているよ。竜宮の使いをしている君をね」
「私を元気付けようとしてくださったのですね。有難うございます」
衣玖は僕に深々と頭を下げた。
「思ったことを言っただけさ」
「いいえ。十分嬉しかったですよ、私は」
「それはよかった」
これで元気が出てくれればよいのだが。
僕はついでなので先程の疑問も聞いてしまうことにした。
「ああ、それともう一つ気になったことがあるんだ」
「何でしょうか?」
「君は地震の警告の時に、空気を読んでいないんじゃないか?」
「いえ、読んでいますよ? そうでなくては、いきなり現れた妖怪に、人々が驚かないはずが無いじゃありませんか」
「……ああ、いや、それは間違いないんだが」
彼女はいついかなるどんな環境でも、空気を読んで自然に溶け込むことが出来る。
「そうではなく、警告を感情を込めず、ただ伝えるだけになっているんじゃないかと思ってね」
「ええ。警告に私の私情は必要がありませんから」
こちらは僕が予想した通りか。
「衣玖。君は今すぐこの道具を買うべきだ」
僕はその辺にあった適当に高額そうな商品を彼女へ差し出した。
「これは?」
「君に必要なものだ。いいから買ってくれ」
「……と言われましても。どのような理由で?」
「僕の話は以上だ。買ってくれ」
「いえ、買う気にはなりませんが」
衣玖はやや不満を持ったような顔をしていた。
「要はそれと同じ事だよ。看板に書いてある文字じゃないんだ。言葉が通じる相手同士ならば、やはりそこに感情や何かしらの理由が必要なんだ」
肉体よりも感情を主として生きる妖怪であれば、尚更の事である。
「僕はただの異変を告げる存在では無く、君と良き友人として接したいものだね」
「なるほど。友人としてですか。貴方らしい」
衣玖は酷く納得したように頷いていた。
「僕らしい?」
「いえいえ。嬉しい事です。有難うございます」
そう言って笑う。その顔からは先ほどよりは大分陰りが消えて見えた。
「……さて、改めて。最初に面白いものは無いと言ったが、ひとついいものがあったよ。こっちは本当にお勧めだ。せっかくだから買って行くかい」
話している間に思い出した道具があった。
陽の気を持つ道具とはちょっと違うが、彼女には相応しい品だ。
「これは?」
「グロッシュラーの指輪だ。和名は、かいばんざくろ石……と言っても日本じゃほぼ手に入らないらしいがね」
ここが幻想郷で無ければ、手に入らなかったかもしれない。
「ああ。灰礬柘榴石ですか。なるほど、確かに」
「お。知っているのか」
「はい。何でも1月9日の誕生日石だとか」
「そういうことさ。稀少価値の高い宝石と、滅多に会えない龍宮の使い。衣玖と19。洒落ていて君に相応しいと思わないかい」
衣玖はふわりと柔らかく微笑んだ。
「ええ、面白いですね。それならば購入したいと思います」
「こちらこそ気に入ってくれて嬉しいよ」
僕は代金を受け取り、代わりに箱に入った指輪ごと彼女に差し出した。
「折角ですので指にはめて貰えますでしょうか?」
「構わないよ。どこに?」
「ん……そうですね。左手の薬指、と言いたいところですが。空気を読んで人差し指にでもしておきましょうか」
「婚約指輪としてはどうかと思うよ」
僕は苦笑いしながら彼女の指に指輪をはめた。
「ありがとうございます」
衣玖は再び腰に手を当て、天に指を向けたポーズを取る。
指の先には僕がはめた指輪がきらりと光り輝いていた。
「よく似合っているじゃないか」
「……あの、誕生石というのは知っておられたようですが、もしかして石言葉には疎いのでしょうか?」
衣玖がポーズを取ったままで訪ねてくる。
「花言葉みたいなものかい?」
ちなみに誕生石云々を教えてくれたのは魔理沙だ。
「ええ。知っていて勧めてくれたのでしたら、なお良かったのですけれどね」
衣玖は悪戯っぽく笑い、戻した指に付いた指輪に軽く口付けをした後こう言うのであった。
「この宝石の石言葉は『愛の達成』ですよ」
「……いや、僕はそういうつもりじゃ」
「ええ、存じております」
笑顔のまま、言葉を続ける。
「それを受けるのは、私ではなく別の人であるべきですから」
「今のところ相手もいないんだがね」
「……霖之助さん」
少しの間の後、彼女が僕の名を読んだ。
「いけません、それは。空気を読んでいますが、空気を読んでいません」
「一体どっちなんだい」
「空気……といいますか。先ほど私に言った事と同じようなものです。女心というのは難しいんですよ」
「ああ。うん。僕には理解出来ないものだね」
僕は男であるから、それはどう努力しようが無理な事である。
「そうでもありませんよ。水心あれば魚心です」
「ふむ」
自分が相手に好意を持てば、相手もまた自分に好意を持つか。
「僕には中々難しそうだ。やはり専門家に任せるとするよ」
「はい。任されましょう」
ぽん、と自分の胸を叩いてみせる。
「天に戻り、ちょっと本気を出して舞ってみようと思います。龍神様の怒りを鎮めるための、舞を」
「それは仕事なのかい」
「いえ。仕事は全く関係ありませんが」
衣玖は再びにこりと笑った。
「空気を読んだ場合、ここは龍神様を諌めるのが良いと思いますので」
「そうかい。雨の日も趣があって嫌いではないが、雷はちょっとね」
「あら、私嫌われてしまいました」
「雷使いは別だよ」
「冗談です」
これならば、もう大丈夫だろう。
「何かくすぶる事があったらサボらずに、ちゃんと休みを取るといい。暇だったら、また店に遊びに来てくれ」
「はい。そうさせて頂きますね。それではどうもありがとうございました」
衣玖は雨の中を舞うように飛んでいった。
「正に水を得た魚か」
上手く行けば、早いうちに晴れるだろう。
さて、今度こそ読書の時間といこうか。
そう思い、店の中に戻る。
「いやー凄い雨だったな。びしょびしょだぜ」
ものの十分もたたずに僕の読書は止められてしまった。
「魔理沙。こんな雷雨の中を飛んできたのかい?」
入り口には帽子から髪からスカートまでずぶ濡れの魔理沙が玄関に立っていた。
「雷雨の中をどれだけ早く飛べるか試してたんだ。途中までな」
「途中までってことはどこかで止めたのか」
衣玖にしたように、タオルを渡す。
「ああ。永江の衣玖に会ったんだよ。んで聞いたんだ。なんだ、天変地異の前触れかって」
魔理沙はわしわしと頭を吹きながら言葉を続けた。
「何て答えたんだい」
「ただの私用だってさ。何しに来たんだかは知らないが。上機嫌だったぜ」
そういう魔理沙も雨の中を飛んできたというのに、とても機嫌がいいように見えた。
「そうか。それはよかった」
「香霖には別に良くも無いだろう。私に取ってはそうでもないが。珍しい物を見れたからな」
「ふむ。見れたのは天女の舞ってところかい」
「半分正解だな。思わずその場で急停止したくらいだ。ありゃ凄いな。難易度ルナティックの弾幕にも匹敵する美しさだったぜ」
龍宮の使いはすなわち天の使いであり、天女である。
羽衣を身に纏い踊る天女の舞は昔話にもあるように、優雅で、美しく、見るものの全てを魅了する。
しかし魔理沙は半分と言った。他にも何かあるのだろうか。
「で、私に気づいた衣玖が言うんだよ。速さを求めるのは素晴らしいですが、こんな雨の中を飛んでいたら風邪を引いてしまいますよってさ」
「へえ」
「あの頭の固そうな龍宮の使いがだぜ? いや、頭が固いからかもしれんが」
異変をただ伝えるだけでしかなかった衣玖は、確かにそんな印象を受けてしまうかもしれない。
しかし本当の彼女は、傍にいるだけで安堵出来るような空気を作れるのである。
「それで普通に地面に降りて走ってきたわけだ。森なら雨も葉っぱで少なくなるからな。どうだ。珍しいだろう」
魔理沙は恐らく、自分が大人しくいうことを聞いたという事まで含めて珍しいと言っているのであろう。
「なるほど。そいつは驚天動地だ」
僕は嬉しくなった。衣玖は早速実践をしてくれているようである。
「なんだよ。にやにやして気持ち悪いな。だから今日はこんな天気なのか?」
「それは関係がないよ。今日は龍神の機嫌が悪かっただけさ。だが衣玖が舞っていたのなら、いずれ雨は止むだろう」
「そうしてくれると有り難いな」
頷きかけた魔理沙がくちゅん、とくしゃみをした。
「お茶でも淹れようか」
「頼むぜ」
魔理沙が取り出したミニ八卦炉の上に、水を淹れたやかんを乗せる。
「魔理沙の見た衣玖こそが、きっと本来の衣玖なんだよ」
永江衣玖。彼女は空気を読む程度の能力を持つ女性である。
彼女を友人として得られたものは、彼女の作る非常に心地良い空気を体感出来ることであろう。
「ふーん。まあ、嫌いじゃあないな。程々で、香霖みたいに口うるさくないし」
「空気を読めるってのはそういうものさ」
「香霖にはてんで関係ない話だな」
「全くだ」
魔理沙相手に空気を読まなくたって、彼女の行動なんて僕にはお見通しだし、今更彼女との関係はそうは変わらない。
「香霖は空気を読めないからな。私が読んでやらなきゃ大変だぜ」
「そういう意味で頷いたんじゃないよ」
「まあ気にするな。私が傍にいれば問題ないんだから。全く、さっさと自立して欲しいもんだ」
魔理沙はそう言って、湧いた湯で淹れたお茶を僕に差し出した。
「……そうだね」
ここは大人しく肯定しておいた。
年上のほうが折れてやるというのもまた、空気を読むということである。
「へへへっ」
魔理沙は相変わらず上機嫌な様子で近づいてきて、ひょいと僕の膝の上に乗った。
「やっぱり香霖は座り心地がいいな」
「そんなもの褒められても嬉しくはないよ」
「照れるなって」
「……まったく」
面倒なのでもう文句を言うのは止めることにする。
魔理沙相手じゃお互いに空気を読むもへったくれもない。
「お」
ふと、窓の外を見て僕は思わず立ち上がった。
「ちょ、こらっ」
魔理沙がずるずると滑り落ち、僕の上半身に魔理沙の後頭部がぶつかってしまう。
「何だよ、いきなり」
「どうやら衣玖がやってくれたみたいだ」
「どれ……おっ」
魔理沙が窓に近づいて、ばっと大きく開く。
外はすっかり雨が止み、雲の隙間から明るい日差しが差し込み始めていた。
「綺麗だな」
「ああ」
二人並んで空を眺める。
空には龍の通り道である七色の虹がきらきらと輝いていた。
こんな日には本を読むに限る。
僕はまだ読んでいないぶ厚い本を引っ張り出して読むことにした。
と言っても店を全く開けないというのも何だ。一応表の看板を営業中にしておく。
さあ読書の時間だ。そう思い店の中へ戻ろうとすると。
「あら、もう営業中なのですか?」
確かに今の時間から営業中となると、晴れの日よりも早く営業していることになる。
誰も来ないだろうとたかをくくっていたらこれだ。
「勿論、客ならばいつでも歓迎しているよ」
しかし僕はよりにもよって彼女がこんな時間に来たことが、不思議でしょうがなかった。
「まあ、中に入ってくれ。衣玖」
「ええ。お言葉に甘えさせて頂きます」
彼女の名は永江衣玖。空気を読む程度の能力を持つ女性である。
「濡れているようだから、これで拭くといい」
「はい。ありがとうございます」
入り口に立ったままの彼女のスカートの裾からは、ぽたぽたと水滴がこぼれ落ちていた。
「雷雲の中でも泳いできたのかい?」
「まあ、そんな所です。いつもの事ですが」
「君なら危なくないだろうが、真似はしたくはないな」
龍宮の使いである彼女は、龍神の言葉や地震の警戒を伝える重要な仕事を担っている。
その為彼女は普段雲の中を泳いで暮らしているそうだ。雷雲の扱いなどお手の物なのだ。
特に雷の扱いは専門家というくらいに得意らしい。
「意外と楽しいですよ?」
体を拭き終わった衣玖が、僕の向かい側に座る。
楽しいという言葉を発している割には、どこかその表情は曇ってみえた。
「雷が平気ならばね」
「ご一緒しましょうか?」
「遠慮しておくよ」
魔理沙と空を飛ぶよりも、素敵な航空旅行を体験させてくれそうだ。
しかも空気を読んで、危険の及ばないぎりぎりの範囲で。
「そうですか。残念です」
「今度魔理沙でも誘ってやってくれ。それで、今日はどんな用だい?」
「ええ。急ぎの用という訳では全く無いのですが……そうですね。何か面白いものは入荷しましたか?」
「ふむ」
どうやら彼女は買い物をしに来た訳では無いようである。
もしそうであるならば、簡潔にそれを伝えてくれたはずだ。
「最近は特には無いな……つまらない物や話ならば多いんだがね」
「そうなんですか。不景気なんですね」
「まあ、うちの店の場合年中そんな感じだから気にはしていないが。君はどうだい」
「私ですか?」
「何か面白いことはあったかな?」
「……特には」
「ふむ」
何か歯に詰まっているような感じだ。
「何か、悩み事でもありそうな感じだな」
「そうですか?」
「勘だけどね」
周囲にいる誰かが相手ならば彼女は空気を読める。話を合わせることも出来る。
だが自分の事となると、どうもそれがうまくいっていない気がするのだ。
衣玖には恐らくその自覚が全く無い。これは彼女が伝える事に特化してしまった結果だと思う。
感情を込めた場合のそれは龍の言葉ではなく、私情になってしまう。
龍の意思や天変地異を伝える事において、それはあってはならないことなのだと思っているのではないだろうか。
「少なくとも今はプライベートだろう? もっと気楽にしてもいいんじゃないかな」
「ああ、いえ」
衣玖はふるふると首を振った。
「私、サボってきたんです」
「サボり? 仕事を?」
「はい。本来はこの時間は雷雲の巡回に当たらなくてはいけませんから」
「……それは大丈夫なのかい?」
「んー。駄目だと思いますよ?」
首を傾けながらそんな事を言う。
「駄目じゃないか」
「ええ。駄目だと言ったじゃないですか」
「……いや、そうじゃなくて」
僕は思わず頭を抱えてしまった。
もしかしてとんでもない面倒ごとを背負い込んでしまったのではないだろうか。
「まず、何でそんな事をしたのか、理由を聞こうか」
「それが、理由も特に無くて」
「……実は君が古明地こいしの変装ということは無いかな?」
地底に住む少女、古明地さとりの妹、こいし。
彼女は無意識に行動をしているので、その行動は全く読むことが出来ないらしい。
「いえ、残念ですが正真正銘の衣玖です、永江の」
そう言いながら片手の指を腕を天に向け、もう片方を腰に当てたポーズを取る衣玖。
「ああ確かにそのポーズは衣玖そのものだね」
「そこで納得してしまいます?」
「ああ。自分で言い出してなんだが、誰かの変装や変身というのは話がややこしくなるから止めよう」
それを気にしだすと該当する相手が多すぎて訳がわからなくなってしまう。
「左様ですか」
「で、改めて聞くが、理由は何もないと?」
「ええ。全く」
「……ひょっとして思春期でよくある勝手な事をやってみたいという感情……あるいは反抗期というやつだろうか」
「思春期、反抗期。そう語るには少し長く生き過ぎましたね」
「じゃあ単に年のせいか」
「怒りますよ?」
「冗談だよ」
今の衣玖は本当に怖かった。やはり女性に年の話は厳禁らしい。
「しかし勝手な事をしたくなったというのは間違いではないかもしれません」
「そうなのかい」
「何せ、私の周りの方は勝手ですから」
「……ああ」
そういえば天界の比那名居天子という少女が博麗神社などの場所限定で、地震を起こすという異変があった。
放っておけば、幻想郷全体をも巻き込む大地震を起こしかけたそうだ。
龍宮の使いである彼女は、被害はともかくとしてその前後で何かしら関係したに違いない。
「仕事が嫌になったのかい」
「そういう訳ではありませんが。皆私の警告をまるで聞いてくれませんでしたし、一体何の為に私は警告をしているのかなと疑問に思ってしまって」
「……」
十割とは言わないが、ほぼ間違いなくそれが理由ではないだろうか。
「しかし君がいない間に異変が起きたら大変じゃないか。今日はこんな雷雨だ。何が起こっても不思議じゃあない」
「雷雨が起きているという事は、どういう状態だかご存知ですか?」
「それは当然、天の主である龍の機嫌が悪いから……」
永江衣玖。彼女は龍宮の使いである。
「私のせいではありませんよ?」
僕が言いたいことを読んだのか、先にそう答えられてしまった。
「……まあ、機嫌が悪い相手の傍にいたくないというのは、なんとなくわかる」
霊夢や魔理沙も機嫌が悪い時は本当に酷い。
わざわざ自分から文句を言いに来るのだからなお酷い。
ちなみに僕はその機嫌が悪い原因にはほとんど関係がない。
龍神ともなれば、その怒りは大変なものだろう。
「そういう時は話をする事も出来ませんので、私がここにいてもさほど問題はありません。龍宮の使いも一人ではありませんしね」
「つまり、君がいなくても問題はないのか」
「はい。いなくても全く問題無いんです。困りました。私、何のために仕事をしているんでしょうか」
衣玖はあまり見ないような、しょぼんとした顔をしていた。
「……ちょっとくらいの間なら、いなくてもそれは他の誰かがフォローしてくれるから何とかなるさ。しかしずっといないとなると破綻してしまうよ」
「経験が無いので分からないんですよね。実際。どうなるのかと思いまして」
「被害が起きてからでは遅いだろう」
「それは重々承知していますが、どうにも」
「ふむ」
どうやら今の彼女は感情と理性のコントロールがうまくいっていないようだ。
肉体よりも精神に重みを置く妖怪としては、非常によくない状態である。
「マイナスの感情を払うにはプラスの感情が必要だね。僕としてはそういう道具をお勧めしたい」
「何かありますか?」
「いくつかあるが、即効性のものは無いな」
あるのはせいぜい身につけていれば自然と気持ちが明るくなる……まあ、おまじないレベルのものだ。
「感情というものは難しいものですからね」
「空気を読める君でもそう思うのかい」
「空気を読むというのは、万能ではありませんよ。そして中正を保つのが空気を読むということではありません」
「違うのかい?」
「例えば、皆が一様に喜んでいるところで一人だけ怒っていたらどうですか?」
「それは空気を読んでいないね」
魔理沙だったら空気読めよと文句を言うだろう。
「しかし中正となるとそうではありません。陽とはいえ、傾いているわけですから。それを中正に戻すとなると、負の感情が必要となるのです」
「うーん。そう考えると中正というのも難しいな」
「負の感情は特に陽を食いやすいですから、尚更ですね。この場合の空気を読んだ行動は、やはり共に笑い、喜ぶことでしょう」
「確かにそうだね」
場が陽の空気であれば、陽の行動を取るのが空気を読んでいるといえよう。
「……とすると、逆に皆が怒っていたら、一緒に怒ることが空気を読む行動なのかい?」
「一概にはそうとは言えませんが、それが正しい場合もあります。中正に戻すのであれば、諌めたりする行動が必要でしょう」
「怒りと怒りが重なると、大変な事になってしまいそうだ」
「ええ。お互いの怒り同士がぶつかればそれは喧嘩になってしまいますし、その場にいない誰か……あるいは何かに対しての怒りへ同調すれば、その怒りは倍増してしまうだけです」
「そうすると負の感情が多いときは、空気を読まないほうがいいのかな」
「いいえ?」
衣玖はふるふると首を振った。
「それはむしろ状況を悪化させるだけです。その場の空気を読み、なおかつ短期的な見方をするか、長期的な見方をするかで対応は異なります。あるいはその場にいる者の立場や人により変わりますね」
「ああ、なるほど。確かに」
僕にしたってそうだ。
普段の対応だって霊夢や魔理沙への対応と、客や常連への対応はまるで違う。
誰に対しても、常に同じ対応をすればいいなんていう事は、中々無いものである。
「これは陽の気にも同様の事です。ただ、負の気への対応は陽よりも難しいですね。複数人いればさらにです」
「まあ、普通なら中々出来ない事だね。君は凄いと思うよ」
「そうでしょうか? 私が空気を読んだとて、変わらないものは変わりませんし」
「衣玖。君は自分で言ったじゃないか。短期的な見方をするか、長期的な見方をするか。君は既に長期的な見方をしていて、かつ空気を読んでいる」
それはあるいは無意識の行動だったのかもしれない。
しかし、それは意識せずとも発揮出来るからこその能力なのだろう。
僕は今までの彼女の話を聞いたことから得た推測を話すことにした。
「と、言いますと?」
「今日は雷雨だ。龍の機嫌が悪くて、雷と雨を地上に降らしている。そんな状況で、君は普段の仕事を放棄し、ここにいるわけだ」
「ええ。その通りです。よくないことをしていますね」
「いや。君が龍の傍にいたとしても、龍の怒りを納めるのは難しいだろう。下手に刺激をして怒りを増してしまったら、それこそ人里なんかは大変な事になってしまう。だから君は仕事場を離れたんだ」
龍の怒りとていつまでも続くものではないだろう。
いずれは晴れるに違いない。
それに雨は地上にとって必要なものでもある。与えられるのは負だけではないのだ。
「長期的な……というか地上の視点で見るとそれは大いに空気を読んだと言えるんじゃないか?」
「いえ、特にそういった意図はありませんでしたが」
衣玖は少し戸惑った顔をしていた。
「まあ結果論だがね。君が地上にいることで、いいことがもうひとつある。それは君が雷を扱えることだ。つまり君が避雷針に成り得るんだよ」
「この店に雷を落としても構いませんので?」
「それは困るが。空気……大気を読めば人里から雷を逸らす程度はできるだろう?」
「ええ、可能です。といいますか少なくとも幻想郷では滅多なことで雷災は起こりえません」
「そうなのかい?」
「はい。言ったではありませんか。龍宮の使いは私一人ではありませんと」
「……ああ、そういえばそうだった」
すると既に衣玖では無い龍宮の使いが、そういう役目を持っているということだろうか。
「それに、私がいなくても別の龍宮の使いが龍神様のお側にいる可能性もありますからね」
「むぅ、そうか」
どうも僕の推測は外れてしまったようだ。
「まあ、他の誰かはどうだか知らないが、僕は衣玖に感謝しているよ。竜宮の使いをしている君をね」
「私を元気付けようとしてくださったのですね。有難うございます」
衣玖は僕に深々と頭を下げた。
「思ったことを言っただけさ」
「いいえ。十分嬉しかったですよ、私は」
「それはよかった」
これで元気が出てくれればよいのだが。
僕はついでなので先程の疑問も聞いてしまうことにした。
「ああ、それともう一つ気になったことがあるんだ」
「何でしょうか?」
「君は地震の警告の時に、空気を読んでいないんじゃないか?」
「いえ、読んでいますよ? そうでなくては、いきなり現れた妖怪に、人々が驚かないはずが無いじゃありませんか」
「……ああ、いや、それは間違いないんだが」
彼女はいついかなるどんな環境でも、空気を読んで自然に溶け込むことが出来る。
「そうではなく、警告を感情を込めず、ただ伝えるだけになっているんじゃないかと思ってね」
「ええ。警告に私の私情は必要がありませんから」
こちらは僕が予想した通りか。
「衣玖。君は今すぐこの道具を買うべきだ」
僕はその辺にあった適当に高額そうな商品を彼女へ差し出した。
「これは?」
「君に必要なものだ。いいから買ってくれ」
「……と言われましても。どのような理由で?」
「僕の話は以上だ。買ってくれ」
「いえ、買う気にはなりませんが」
衣玖はやや不満を持ったような顔をしていた。
「要はそれと同じ事だよ。看板に書いてある文字じゃないんだ。言葉が通じる相手同士ならば、やはりそこに感情や何かしらの理由が必要なんだ」
肉体よりも感情を主として生きる妖怪であれば、尚更の事である。
「僕はただの異変を告げる存在では無く、君と良き友人として接したいものだね」
「なるほど。友人としてですか。貴方らしい」
衣玖は酷く納得したように頷いていた。
「僕らしい?」
「いえいえ。嬉しい事です。有難うございます」
そう言って笑う。その顔からは先ほどよりは大分陰りが消えて見えた。
「……さて、改めて。最初に面白いものは無いと言ったが、ひとついいものがあったよ。こっちは本当にお勧めだ。せっかくだから買って行くかい」
話している間に思い出した道具があった。
陽の気を持つ道具とはちょっと違うが、彼女には相応しい品だ。
「これは?」
「グロッシュラーの指輪だ。和名は、かいばんざくろ石……と言っても日本じゃほぼ手に入らないらしいがね」
ここが幻想郷で無ければ、手に入らなかったかもしれない。
「ああ。灰礬柘榴石ですか。なるほど、確かに」
「お。知っているのか」
「はい。何でも1月9日の誕生日石だとか」
「そういうことさ。稀少価値の高い宝石と、滅多に会えない龍宮の使い。衣玖と19。洒落ていて君に相応しいと思わないかい」
衣玖はふわりと柔らかく微笑んだ。
「ええ、面白いですね。それならば購入したいと思います」
「こちらこそ気に入ってくれて嬉しいよ」
僕は代金を受け取り、代わりに箱に入った指輪ごと彼女に差し出した。
「折角ですので指にはめて貰えますでしょうか?」
「構わないよ。どこに?」
「ん……そうですね。左手の薬指、と言いたいところですが。空気を読んで人差し指にでもしておきましょうか」
「婚約指輪としてはどうかと思うよ」
僕は苦笑いしながら彼女の指に指輪をはめた。
「ありがとうございます」
衣玖は再び腰に手を当て、天に指を向けたポーズを取る。
指の先には僕がはめた指輪がきらりと光り輝いていた。
「よく似合っているじゃないか」
「……あの、誕生石というのは知っておられたようですが、もしかして石言葉には疎いのでしょうか?」
衣玖がポーズを取ったままで訪ねてくる。
「花言葉みたいなものかい?」
ちなみに誕生石云々を教えてくれたのは魔理沙だ。
「ええ。知っていて勧めてくれたのでしたら、なお良かったのですけれどね」
衣玖は悪戯っぽく笑い、戻した指に付いた指輪に軽く口付けをした後こう言うのであった。
「この宝石の石言葉は『愛の達成』ですよ」
「……いや、僕はそういうつもりじゃ」
「ええ、存じております」
笑顔のまま、言葉を続ける。
「それを受けるのは、私ではなく別の人であるべきですから」
「今のところ相手もいないんだがね」
「……霖之助さん」
少しの間の後、彼女が僕の名を読んだ。
「いけません、それは。空気を読んでいますが、空気を読んでいません」
「一体どっちなんだい」
「空気……といいますか。先ほど私に言った事と同じようなものです。女心というのは難しいんですよ」
「ああ。うん。僕には理解出来ないものだね」
僕は男であるから、それはどう努力しようが無理な事である。
「そうでもありませんよ。水心あれば魚心です」
「ふむ」
自分が相手に好意を持てば、相手もまた自分に好意を持つか。
「僕には中々難しそうだ。やはり専門家に任せるとするよ」
「はい。任されましょう」
ぽん、と自分の胸を叩いてみせる。
「天に戻り、ちょっと本気を出して舞ってみようと思います。龍神様の怒りを鎮めるための、舞を」
「それは仕事なのかい」
「いえ。仕事は全く関係ありませんが」
衣玖は再びにこりと笑った。
「空気を読んだ場合、ここは龍神様を諌めるのが良いと思いますので」
「そうかい。雨の日も趣があって嫌いではないが、雷はちょっとね」
「あら、私嫌われてしまいました」
「雷使いは別だよ」
「冗談です」
これならば、もう大丈夫だろう。
「何かくすぶる事があったらサボらずに、ちゃんと休みを取るといい。暇だったら、また店に遊びに来てくれ」
「はい。そうさせて頂きますね。それではどうもありがとうございました」
衣玖は雨の中を舞うように飛んでいった。
「正に水を得た魚か」
上手く行けば、早いうちに晴れるだろう。
さて、今度こそ読書の時間といこうか。
そう思い、店の中に戻る。
「いやー凄い雨だったな。びしょびしょだぜ」
ものの十分もたたずに僕の読書は止められてしまった。
「魔理沙。こんな雷雨の中を飛んできたのかい?」
入り口には帽子から髪からスカートまでずぶ濡れの魔理沙が玄関に立っていた。
「雷雨の中をどれだけ早く飛べるか試してたんだ。途中までな」
「途中までってことはどこかで止めたのか」
衣玖にしたように、タオルを渡す。
「ああ。永江の衣玖に会ったんだよ。んで聞いたんだ。なんだ、天変地異の前触れかって」
魔理沙はわしわしと頭を吹きながら言葉を続けた。
「何て答えたんだい」
「ただの私用だってさ。何しに来たんだかは知らないが。上機嫌だったぜ」
そういう魔理沙も雨の中を飛んできたというのに、とても機嫌がいいように見えた。
「そうか。それはよかった」
「香霖には別に良くも無いだろう。私に取ってはそうでもないが。珍しい物を見れたからな」
「ふむ。見れたのは天女の舞ってところかい」
「半分正解だな。思わずその場で急停止したくらいだ。ありゃ凄いな。難易度ルナティックの弾幕にも匹敵する美しさだったぜ」
龍宮の使いはすなわち天の使いであり、天女である。
羽衣を身に纏い踊る天女の舞は昔話にもあるように、優雅で、美しく、見るものの全てを魅了する。
しかし魔理沙は半分と言った。他にも何かあるのだろうか。
「で、私に気づいた衣玖が言うんだよ。速さを求めるのは素晴らしいですが、こんな雨の中を飛んでいたら風邪を引いてしまいますよってさ」
「へえ」
「あの頭の固そうな龍宮の使いがだぜ? いや、頭が固いからかもしれんが」
異変をただ伝えるだけでしかなかった衣玖は、確かにそんな印象を受けてしまうかもしれない。
しかし本当の彼女は、傍にいるだけで安堵出来るような空気を作れるのである。
「それで普通に地面に降りて走ってきたわけだ。森なら雨も葉っぱで少なくなるからな。どうだ。珍しいだろう」
魔理沙は恐らく、自分が大人しくいうことを聞いたという事まで含めて珍しいと言っているのであろう。
「なるほど。そいつは驚天動地だ」
僕は嬉しくなった。衣玖は早速実践をしてくれているようである。
「なんだよ。にやにやして気持ち悪いな。だから今日はこんな天気なのか?」
「それは関係がないよ。今日は龍神の機嫌が悪かっただけさ。だが衣玖が舞っていたのなら、いずれ雨は止むだろう」
「そうしてくれると有り難いな」
頷きかけた魔理沙がくちゅん、とくしゃみをした。
「お茶でも淹れようか」
「頼むぜ」
魔理沙が取り出したミニ八卦炉の上に、水を淹れたやかんを乗せる。
「魔理沙の見た衣玖こそが、きっと本来の衣玖なんだよ」
永江衣玖。彼女は空気を読む程度の能力を持つ女性である。
彼女を友人として得られたものは、彼女の作る非常に心地良い空気を体感出来ることであろう。
「ふーん。まあ、嫌いじゃあないな。程々で、香霖みたいに口うるさくないし」
「空気を読めるってのはそういうものさ」
「香霖にはてんで関係ない話だな」
「全くだ」
魔理沙相手に空気を読まなくたって、彼女の行動なんて僕にはお見通しだし、今更彼女との関係はそうは変わらない。
「香霖は空気を読めないからな。私が読んでやらなきゃ大変だぜ」
「そういう意味で頷いたんじゃないよ」
「まあ気にするな。私が傍にいれば問題ないんだから。全く、さっさと自立して欲しいもんだ」
魔理沙はそう言って、湧いた湯で淹れたお茶を僕に差し出した。
「……そうだね」
ここは大人しく肯定しておいた。
年上のほうが折れてやるというのもまた、空気を読むということである。
「へへへっ」
魔理沙は相変わらず上機嫌な様子で近づいてきて、ひょいと僕の膝の上に乗った。
「やっぱり香霖は座り心地がいいな」
「そんなもの褒められても嬉しくはないよ」
「照れるなって」
「……まったく」
面倒なのでもう文句を言うのは止めることにする。
魔理沙相手じゃお互いに空気を読むもへったくれもない。
「お」
ふと、窓の外を見て僕は思わず立ち上がった。
「ちょ、こらっ」
魔理沙がずるずると滑り落ち、僕の上半身に魔理沙の後頭部がぶつかってしまう。
「何だよ、いきなり」
「どうやら衣玖がやってくれたみたいだ」
「どれ……おっ」
魔理沙が窓に近づいて、ばっと大きく開く。
外はすっかり雨が止み、雲の隙間から明るい日差しが差し込み始めていた。
「綺麗だな」
「ああ」
二人並んで空を眺める。
空には龍の通り道である七色の虹がきらきらと輝いていた。
またこの二人の会話が見たいです。
ごちになりました。
大人っぽい衣玖さんはいいですねえ。
衣玖さんが素敵でした。
キャーイクサーン
ファンには馴染みの掛け合いだよね~。 お嬢様
このお二人はお似合いです。ベストカップルです。 冥途蝶
でもSPさんの中では魔理沙で一貫してますよね。指輪はめてあげる所、と
てもよかったです。 超門番
面白かったです。またお願いします
作者様のこーりんが大好きです。
甘すぎず辛すぎず冷たすぎず熱過ぎずほっこり温かい、そんな感じ。