森近霖之助は上機嫌であった。
その理由は手元に抱えられた一つの小箱によるものである。
箱の表面にはこう書かれていた。
『おくちの恋人 幻想すいーつ』
その中にあるのは、霖之助の隠れた好物である豆大福。しかもただの豆大福では無い。
一日百個しか販売されないという、『頑固おやじのこだわり豆大福』だ。
久々に恩師の元に挨拶に行った霖之助であったが、まさか土産としてこんな貴重な品を頂けるとは。
口の悪い常連からは修行した意味があったのか、などと言われることもあるが、とんでもない。今この手にある豆大福こそが、辛く苦しい修行の日々が無駄ではなかったということの証の一つ。
そんなことを考えるほどに、霖之助の思考は舞い上がっていた。彼にしては珍しく、うきうきと踊りだしたいような気分である。
もっとも端から見れば、小さく笑みを浮かべたその顔は。
「――――くくく」
ろくでも無い発明を思いついた狂科学者のそれに過ぎなかったりするのだが。
「いい日和だ。実に」
人間と妖怪のハーフという存在であり、基本的に食事を必要としない霖之助。そんな彼が豆大福如きでここまで浮かれるのはおかしく思えるかもしれない。
だがそれは食事に栄養補給という本来の役割を求めないだけであり、味という副産物については別の話だ。むしろ量という要素を排除したために、質については貪欲なほどにこだわっているとも言える。
そのおかげで香霖堂に常備されている茶や菓子は幻想郷でも高い水準にあるものばかり。巫女や魔法使いが入り浸る要因の一つである。
そんな彼だからこそ、自身の大好物、しかも幻想郷で最高の物とくれば、心躍らせるのも無理は無い。
香霖堂に着いた霖之助は、すぐさまにかぶりつきたい欲求を抑えながらも、台所へと飛び込んだ。
最高の菓子は最高の茶で味わうべきだ。売り物では無く、自分のコレクションとしてとっておいた茶葉を惜しげもなく急須に注ぐ。
甘い豆大福にあわせて緑茶は渋めに。実際に合わせたときのコントラストを思い浮かべるだけで、その頬も緩むというものである。
そして、大事に大事にここまで抱えてきた小箱を開ければ。
縦に並んだ六つの豆大福が霖之助を迎えてくれた。
一人暮らしの男には少々量が多いかもな。さて、どうやって消費すればいいものか。
大好物を前に贅沢なことで悩む自分。そんな自身の状況に酔いしれながら、霖之助は豆大福に手を伸ばした。
と、同時に。
カラーン
頻度は少なくとも聞き慣れたベルの音。
それが今の霖之助には、死刑執行の鐘の音にも聞こえた。
嫌な予感、というか確信と共に霖之助が振り返れば。
「邪魔するわよ霖之助さん」
「同じく邪魔するぜ香霖」
何の躊躇もなく店の奥まで上がり込んで来たのは、毎度おなじみの紅白と黒白――――博麗霊夢と霧雨魔理沙。
この状況では邪魔以外の何者でも無い。
「君達、勝手に奥まで入ってくるなといつも」
「あら、いい匂いさせているじゃない。どこにこんなお茶隠していたのかしら」
「おお、しかもなんだか美味そうな物まで置いてるぜ」
霖之助の文句などいつもの様子で無視し、霊夢と魔理沙がギラリとした視線をこちらの手元に注いでいる。
霖之助は悔いた。
豆大福に浮かれ、荒野のハイエナとでも言うべき少女達の存在を失念していたことを。
しかもそこには、無駄に勘の良いのと手癖の悪いのが揃っているのだから。
自身の迂闊さを責めながらも、状況を確認する。当然ながら霖之助にふたりを撃退するような実力は無い。大事な大事な宝物を抱えた状態ではなおさらである。
どうあがいても、この被害を回避することはできない。
と、なれば答えはひとつ。
被害を最小限とするように努力するしかない。
そう結論づけた霖之助は、こう呟いた。
「ふたりとも、店の方で待っていろ。お茶と一緒に持っていくから」
少数を犠牲に多数を救う。荒れ狂う川に人柱を捧げるように、古来より行われてきた方法の一つである。
「あら悪いわね」
「珍しく気が利くじゃないか」
少女らしい可愛気のある笑みを残して、霊夢と魔理沙は店頭へと戻っていった。
そのまま店の外まで行ってくれないものかと思いながら、霖之助は三人分の茶と豆大福を用意する。
思わぬ形で二個の豆大福を犠牲にすることになったが、元々六個もあって食べきれるかどうか心配ですらあったのだ。無駄に腐らせてしまうよりはいいだろう。
そう自分に言い聞かせながら、霖之助は茶と豆大福を店頭へと運んだ。
「どうぞ」
『わーい』
霊夢と魔理沙が豆大福にかぶりついた。
「おお、今日の豆大福はけっこう美味いな」
「お茶もいつもよりいいじゃない。こんなお茶どこに隠していたのかしら」
最高の茶と豆大福が少女達の口の中へ消えていく。
とっておきの品なんだからもっとじっくり味わって食べて欲しいものだ。まあ所詮、彼女らのような子供にはこの味の真価はわかるまい。少々騒々しいことになったが、自分も念願の豆大福をいただくとしよう。
と、霖之助が豆大福に手を伸ばした瞬間。
「ごめんくださーい」
邪魔をしてくれたのは、ドアの前に立つ銀髪の少女。側にふわふわとした煙のような塊を浮かべたのは、白玉楼の庭師である魂魄妖夢だ。
「おお、なんだ妖夢じゃないか。饅頭で試し斬りにでも来たのか?」
「へ? いや、単にお買い物に来たんだけど」
数少ない常連だが、どうしてこうも都合の悪いときに来てくれるのだろうか。そういえば、もう一人の銀髪の常連もこちらの都合などお構いなしだった。
と、いうかうちの常連は皆そんな連中ばかりだ。
そんなことを思いながら、霖之助は豆大福を皿に戻す。最高の品は落ち着いた環境でじっくりと味わって食べるものだ。接客の合間にかぶりつくなどと無粋な真似はしたくない。
「……いらっしゃい。なんの御用かな」
さっさとこの商談を終わらせたい、と思いつつ霖之助は妖夢に話しかける。今の自分にできる限りのにこやかな接客態度で。
そんな霖之助の態度に表情を強ばらせながら、妖夢は口を開いた。
「あ、いえ……いつものお菓子が欲しいんですけど」
「わかった。少し待っていてくれ」
「なんだか今日はやけに愛想がいいですね。なんだかお店みたい」
紛うこと無きお店だ。
そう心の中で答え、霖之助は店の奥へと引っ込んだ。
「よっと」
抱えあげた外界の紙箱―――段ボール箱―――の中に積められたものは、カラフルな袋に包まれた外の世界の菓子。脂っこく塩辛い物ばかりだが、冥界のお嬢様には好評のようだ。
味以前にいつ頃作られたのか、いつ頃まで保つのか見当もつかないものばかりだが、幽霊が食べるのなら問題ないだろう。
箱を抱えて店頭へと戻れば、少女達がなにやら楽しげに話している。
「あんたのとこのお嬢様、あんなの食べるの? なんか味きついのばっかりじゃない」
「私もそう思うけど、幽々子様に言わせれば『それがいい』らしくて」
「ふーん。よくわかんないわね」
茶屋じゃ無いのだから、用が無いのならさっさと帰って欲しいものだ。
そんな思いを込め、ドンと音を立ててカウンターに箱を置いた。
「ほら、持ってきたよ」
「あ、はい」
「それじゃ値段だが」
変にごねられても面倒なので、ここは買い手にとって文句の出ない値段でも出しておいてやろう。どうせ他には妖精のおやつくらいの使い道しかないのだから。
そう考えていた霖之助の視界に、ある物が映り込む。
カウンターの上に乗せられた段ボール箱。
それに押されて、豆大福の乗った小皿がカウンターからこぼれ落ちる光景が。
(しまった!!)
手を伸ばそうとするが、間に合わない。せっかくの貴重な品を、こんなことで失ってしまうとは。
霖之助は自らの愚かさを悔いた。
だが次の瞬間、バン、という音が鳴り響く。皿の割れる音ではなく、床に足を叩きつけたような音が。
「!?」
突然の轟音に霖之助が目を見開けば、
「おっとっと」
霖之助の眼前に、魂魄妖夢の姿があった。
その手に豆大福の小皿を載せて。
「もったいないじゃないですか。もうちょっとで落ちるところでしたよ」
当たり前のように答える妖夢だが、先ほどまで霊夢達と話していた場所からは、四、五歩ほどの距離が開いている。
距離にしてはわずかなものとはいえ、あの音が響いた一瞬で移動したというのか。瞬間的な速度ならば烏天狗に勝るとも劣らない。
これが剣術の踏み込みというものだろうか。半人前と揶揄されることもある妖夢だが、その身に宿した剣術は一人前などという言葉で済まされるものでは無いようだ。
なにより自分にとってかけがえのない存在を救ってくれた。これからはこの恩義に応えるべく、敬意をもって接していかなければならない。
霖之助は妖夢への認識を改める。世間知らずの子供から、尊敬すべき隣人へと。
「いや助かった。ありがとう」
「いえいえそんな。ちょっと拾った程度ですから」
そんな感想を抱かれているとは露も知らず、妖夢は豆大福を霖之助へと返す。
だがその直前、
「……拾った?」
豆大福を受け取ろうとした霖之助の手が空を切った。
妖夢がその手の動きを止めたからだ。何かあることに気がついたような表情で。
「そうか、拾ったんだ!! 私が拾ったんだから!!」
何事かと思う霖之助へ、妖夢が叫ぶ。
「これは私の物ということですね!!」
「は?」
何を馬鹿なことを言っているのだろうか。子供じゃあるまいし、そんな理屈が通るはず無いだろう。
と、考える霖之助の目の前で。
豆大福が妖夢の口内へと吸い込まれた。
「ん~~~おいしい~~~!!」
唖然とした表情で眺める霖之助の前で、見せつけるような恍惚の表情を浮かべる妖夢。そんな顔をされなくてもこの豆大福のすばらしさは充分すぎるほどわかっているというのに。
「これでいつかの借りは返させてもらいましたからね!!」
得意気な表情を浮かべたまま、胸を張って妖夢が言った。そんなことを言われても、何かを貸したような覚えは無いのだが。妖夢とは常に真っ当な取引をしてきた記憶しかない。
ただ、一つだけわかることがある。
目の前の少女の逆恨みのせいで、またひとつ貴重な命が失われたことを。
そんな非道を前にして平静でいられるほど、霖之助は冷酷な男ではない。
「そういえば菓子の代金を言ってなかったな。とりあえずこれで」
「え、あ、はい…」
淡泊な反応に驚きながらも、差し出された算盤を覗き込む妖夢。
次の瞬間、身を震わせて飛び上がった。
「な、なんですかこれ!? いつもと桁が全然違うじゃないですか!! ありえないですよこんなの!!」
「値段を決めるのは僕だ。僕がそう決めたんだからこうなんだよ」
そもそもこれらの菓子は、時折幻想郷に紛れ込むだけのもの。幻想郷の内部では製造もできず、安定供給のできない貴重な品である。
そういった事情を鑑みれば、この算盤のような値が与えられても不思議ではない。
決して豆大福を奪われた復讐などというものではない。
霖之助は自身にそう言い聞かせながら、算盤をつきつけた。
「で、でもこんなお金あるわけ……」
「だったらさっさと帰るといい。そして主にそのまま告げることだね」
「う、ううう……」
それでは『子供のお使い』と同じである。事実そうなのだが、誇り高き白玉楼の剣士として耐えられるものではない。
「ならお金以外の物で払ってもらおうか」
「へっ!?」
ふと、気がついたように窓の外へと目を向ける霖之助。
その向こうに広がる庭を眺めながら、こう呟いた。
「ここんとこ草むしりやっていなかったあ」
※
「この怨み、はらさでおくべきか――――!!」
そう吐き捨てて、魂魄妖夢は香霖堂を飛び出した。
労働の対価として得た、菓子の詰まった箱を抱えて。
「失礼な子だ」
妖夢の後ろ姿を見送るついでに、庭を眺める。
あれほど好き放題に伸び盛っていた雑草達がきれいに刈り取られていた。あれだけ文句を言いつつも、仕事はまじめにやってくれたのだ。庭師としては一級品と言えるだろう。
霊夢と魔理沙も豆大福を食べたらさっさと帰ってしまった。いつものことだが、いったい何しに来たのだろうか。
何はともあれ、今ここにいるのは霖之助ひとり。
「ようやくゆっくりできそうだな」
お茶を入れ直し、四個目となる豆大福を取り出す。
悲しい犠牲はあったものの、やっと味わうことができる。三度目の正直とでも言ったところか。
そう思いながら豆大福に手を伸ばす、と。
「お邪魔します」
二度あることは三度ある、という言葉の意味を知ることになった。
油の足りない機械のような様子で声のした方を振り向けば、そこにいるのはこれまた銀髪の少女。ただし剣士ではなく、メイドの方だ。
ろくでもない常連の一人、十六夜咲夜である。商売が成り立つだけマシな方ではあるが。
そしてその隣には、香霖堂で見かけるには珍しい存在が立っていた。
「店主。この私がわざわざ来てあげたと言うのに挨拶もないの?」
小さな体に見合わぬ尊大な態度で、白いドレスの少女が言う。吸血鬼、レミリア・スカーレットだ。
「……いらっしゃいませ」
豆大福に伸ばした手を引っ込めて、無理矢理の笑顔と共に霖之助が言った。
「暇だったから寄ってみたけど。何の面白味も無い店ね」
キョロキョロと辺りを見回しながら、レミリアが言う。
「だから言ったじゃありませんか。何の面白味も無い店だと」
普段なら香霖堂がどれほど貴重で素晴らしい品々を扱っているかとくと教えてやるところだが、今はわざわざ邪魔物を引き留める気にはならない。
飽きて帰るまで、言われるがまま堪え忍ぼう。
と、考えていた霖之助だったが、
「―――――あら」
ふと、背筋に冷たい物を感じた。
寒気の原因は分かる。こちらを見つめるレミリアの視線だ。
それ自体は問題ではない。強い妖怪が何気なく向けた視線であっても、大した力を持たない自分を威圧するには充分だからだ。
問題は、その視線が自分の手元―――――豆大福に向けられていることである。
「ふうん。面白そうな物食べてるじゃないの」
「まだ食べていないよ」
君達が邪魔をしてくれたおかげでね、と言ってやりたいところであったが、口をつぐむ。
今この手にあるのは、大きな犠牲を払って護り通した存在達だ。
なんとかして注意を逸らさねばなるまい。この暴虐の魔王から。
「ただの下品な菓子さ。貴族が食べるような物じゃない」
心の中で職人に詫びながら、霖之助は応えた。
「見ればわかるわ」
当たり前のように告げ、レミリアが視線を外す。それと同時に霖之助の体がフッと軽くなった。
ほぅ、と溜息をつく霖之助であったが。
「まあでも、貴族としては民草の食事という物も体験しておくべきよね」
溜息が止まった。
「と、いうわけで。ありがたく思いなさい」
その小さな体躯に見合った可愛らしい笑顔で、レミリアが告げる。一切の反論を許さないほどの尊大さと共に。
レミリアがその気になっている以上、もう霖之助に打つ手は無い。この吸血鬼を手八丁口八丁手八丁で誤魔化したとしても、背後には時と空間を操るメイドが控えているのだから。
もっとも他の常連とは違い、咲夜の場合は奪うだけではなく対価までしっかり払ってくれるのが救いである。その対価がこの貴重な豆大福に代わるものとも思えないが。
「……どうぞ」
「あら悪いわね。催促しちゃったみたい」
霖之助が小皿を差し出すやいなや、その小さな手で豆大福を鷲掴みにし、ガブリと噛みついた。
「もぐ、うん、下品な味ね、むぐむぐ。ああほんと下品だわもぐもぐ」
ぶつぶつと文句を言いながら、小さな口に豆大福を押し込んでいく。
「柔らかな餅と、時折歯に当たる豆の感触。そして口の中でさわやかに溶けていく餡。なんて下品な食べ物なのかしら」
手についた餡をペロペロとなめながら、幼い吸血鬼は言ってくれた。
「咲夜。あなたはこれ作れる?」
「豆大福、という菓子ならば作れます。ですが、お嬢様が食べた物と同じ味を再現するのは難しいかと」
「そう。まあ、別にどうでもいいのだけれど。こんな下品な物」
「まあ、ですが」
霖之助の背筋に再び寒気が走る。ただし先ほどのレミリアの押し潰すような威圧感ではなく、
「一つ食べて見れば、作ることはできるとは思いますが」
まるで背にナイフを突きつけられたような感触が。
「だ、そうよ。店主」
ズズズと茶をすすりながら、レミリアが告げる。
勿論、霖之助にあらがう術も無い。
「……今出すから待っていてくれ」
「あら、申し訳ございませんね。店主さん」
礼儀作法の見本とでも言うべき、洗練された動作でぺこりと頭を下げる咲夜。
悪魔の犬、それもまた悪魔であるという事実を霖之助は知ることとなった。
※
「……またのお越しを」
レミリアと咲夜を見送ると、霖之助はがくりとうなだれた。
豆大福で機嫌を良くしてくれたのか、随分と気前の良い買物だった。始末に困っていた巨大な壷や彫像を、こちらの言い値で買ってくれたのだから。
金銭的な価値で言えば海老で鯛を釣ったとも言えるのかもしれない。だが今の霖之助は、鯛よりもエビフライを食べたい状態だ。
気がつけば、六個の豆大福うち五個をも犠牲にしてしまった。多すぎてどう食べようか困っていた時分が懐かしく感じられる。
いや、多大な犠牲を払ったとは言え、自分は最後の一個だけは護り通したのだ。彼らは決して無駄死になどしていない。
幾多の苦難を乗り越え、ようやく豆大福を食べることができる。もう自分を邪魔する物など何もないのだから。
そう自身をそう奮い立たせ、霖之助は豆大福の箱を手に取った。
「こんにちは」
ドアの存在など無視し、空間から直接現れる少女が一人。薄気味の悪い笑顔を浮かべているのは勿論、幻想郷の頂点がひとり、八雲紫である。
「……いらっしゃいませ」
奮い立たせた気迫が見る見るうちに萎れていくのを感じながら、霖之助はなんとかそれだけ絞り出した。
「あらあら。客商売の基本は笑顔ですよ。ほら、私みたいに」
その笑顔を見せられただけで、嫌な予感がしてくる。彼女を前にしているといつも似たような気分に陥るが、今日はまた格別だ。
そう、なにか予感がとてつもなく具体的な形をとっている気がする。
「……何かご用ですか」
「ええ、今月の灯油代のことですけど」
早く話を終わらせて帰ってもらおう。そう考えていた霖之助であったが、その願いだけは叶うことになる。
彼女、八雲紫は一言だけ残して隙間の奥に消えたからだ。
「おいしゅうございました」
と。
察しの良い頭脳は、その一言だけですべてを理解する。
同時、絶句した霖之助の腕の中からそれはこぼれ落ちた。
カラン、と軽い音を鳴らして落ちたのは、ただの紙箱。その音からは、もう『中身』の存在など何一つ感じ取れない。
まるで今の霖之助の心を表しているかのような空虚さであった。
※
「どもー。文々。新聞でーす」
ノックも無しに飛び込んできたのは、烏天狗の少女、射命丸文。
そんな彼女が最初に見たものは、カウンターに突っ伏した霖之助の姿だった。その周囲に重苦しい空気を漂わせたままで。
「っと。なんですか、いつも以上に暗いですね」
その言葉でようやく来客に気づいたのか、霖之助がゆるゆると顔をあげる。未知の道具を前にすればキラキラと輝き出すはずの瞳も、今では死んだ魚のように濁っていた。
「なにしにきた? 悪いがもう奪われる物など何も無いよ」
「またわけのわからないことを。ほら」
肩掛け鞄から自慢の新聞を取り出すと、ぽん、と霖之助の頭を叩いた。
「楽しい記事がいっぱいの新聞ですよ。少しは気も晴れるでしょう」
とても新聞を読むような気分ではないのだが、反論する気力も起きない。
言われるがままに紙面を眺め始めるが、内容などろくに頭に入って来なかった。ただでさえ興味を引くような記事など載せられていないというのに。
「あ、お茶飲まないならくださいな」
「勝手にしてくれ」
さっさと帰って欲しいんだがな。そう言い放つ気力も無しにチラリと文の方に視線を移す。
その時、霖之助は見た。
「!?」
手近な椅子に腰掛けてくつろいでいる文。それ自体は見慣れたものなので、別にどうでもいい。
問題は、彼女が肩掛け鞄から取り出した物。今、文の掌に載せられた物体だ。
所々に黒い粒が混じった、白色の潰れた球体。柔らかそうな皮の奥には、舌の上でとろける甘味が隠されているのだろう。
道具の名前と用途を知るという、霖之助の能力が教えてくれたその名は勿論―――――
『頑固おやじのこだわり豆大福』
野獣共との激戦の最中、霖之助が失った六つの金貨。
今、七番目の金貨が霖之助の前に存在していた。
「じろじろ見ないでくださいよ。いやらしい」
急に目の色を変えた霖之助へと、不審気な表情を向け得る文。
「あ、いや……今君が持っている物なんだが」
「これですか? なんか取材したらいっぱいもらっちゃって」
掌で豆大福をくるくると回しながら、文が答える。今にもその手からこぼれ落ちそうな様子だ。目の前でそんな光景を見せつけられている霖之助は気が気では無い。
「正直、私この手の甘味好きじゃないんですよね。その辺の妖精の子達に配ってたけど、一個余っちゃったんで。ま、お茶受けくらいにはなるでしょ」
今すぐ彼女の目の前で新聞を引き裂いてやろうと思った。だが、すんでのところで理性を総動員して押し留まる。
彼女の言葉を信じるなら、この豆大福が最後の一個。最終最後のラストチャンスである。
どうやって目の前の烏天狗から宝を奪い取ってやろうか。
霖之助が自慢の頭脳をグルグルと回転させていると、
「あ、なんなら食べます?」
文の方からそんなことを言ってくれた。
渡りに船とでも言うべき提案に、反射的に食いついてしまいたくなる。
だが、それは凡人の所業。簡単にこちらの弱みを見せるようでは商人として失格である。特に相手は狡猾な烏天狗なのだから、迂闊に喉笛を晒すような真似はできない。
恩師から叩き込まれた言葉を思い出しながら、口を開いた。
「そうだな。君がそういうなら頂いておこうか」
心の中の渇望など全く感じさせず、社交辞令でもらっておいてやろう、といった様子で霖之助は答えた。
こんな言い方では余計な反発を招くだけ。ここで彼女の機嫌を損ねるようでは、全てが水の泡だ。
勿論、霖之助がそんなヘマをするはずもない。
「代わりに煎餅でも持ってくるよ。お茶も入れ直すから待っていてくれ」
「あれ、サービスいいですね。なるべく塩っぽいのお願いします」
理想的な商取引とは、売り手と買い手が共に得をすることである。
文にとって好きではない豆大福が、自分好みの塩煎餅に変わったのだ。これならあちらからも文句は出ないだろう。
そして霖之助は弱みを見せることもなく、ごく自然に豆大福を手に入れることができた。
その完璧な商売手腕に、自分のことながら心の中で喝采を送る。やはり、優れた商人には優れた品が自然と集まるようにできているものなのだ。
そう、あの草薙の剣のように。あれもいつかは自分の手の中でその力を発揮してくれることだろう。
うきうきと心を躍らせながら、とっておきの茶を置いた。
文の前には塩煎餅。そして霖之助の前には待ち望んだ豆大福。
お茶と豆大福が並ぶ、ありふれたはずの光景。それが今では、ただひたすらに懐かしく感じられた。
すぐ側で、バリバリと音を立てて煎餅を齧っている天狗が少々邪魔ではあるが、贅沢は言っていられない。
用意は整った。もはや自分を邪魔する物は何も無い。
いざ、出陣!!
と、霖之助が心の中で叫んだ瞬間。
コンコン、と扉が叩かれた。
この店には珍しい、随分と控えめなノックの音。
思わず憤怒と共に扉の向こうを睨みつけてしまう。
またしても邪魔が入るのか。天はどこまで自分に苦難の未知を進ませようというのか。
非情なる天の導きに呪いの言葉を吐きたくなった霖之助であるが、ふとあることに気がついた。
相手はノックをしている。そしてノックとは、住人に対して入室の許可を問う行為だ。
ならば答えは否。念願の豆大福との蜜月をこれ以上邪魔されてなるものか。
無言という行為を以て、拒否の意を示してやる。
と、いった風に居留守を決め込んだ霖之助であったが、
「あ、どーぞ。開いてますよ」
目の前の烏天狗が気安い様子で言ってくれた。
反射的にその顔を睨みつけるが、きょとんとした表情を返すだけだ。
あきらめて、扉の向こうから現れる悪魔の対処を考える。
今度こそは絶対に豆大福を護り通してやる。たとえこの命に代えてもだ。
そう心に誓った霖之助の前で、ゆっくりと扉が開かれた。
「あ、あの…ごめんなさい…」
おずおずと現れたのは、一人の少女。歳の頃は十にも満たない程度か。
そのくらいの見た目の知り合いならいるが、いずれも幻想郷では珍しい衣服に身を包んだ物ばかり。こんな地味な着物姿を纏う知り合いはいない。
と、なるとただの人里の子供。この店では滅多にお目にかかれない類の生物である。
「お、鬼ごっこしてたら、みんなとはぐれちゃって……」
怯えた様子でぼそぼそと話す少女。
よく見れば服も泥だらけだ。おおかた、妖精のいたずらにでもひっかかったのだろう。
「君。ちょっと待て」
「ひっ!?」
少女の体がびくりと硬直した。
「あ、あう、ごめんなさ……」
硬直した体が今度はぶるぶると震え出す。おまけにその眼には今にもこぼれ落ちそうな程の涙が溜まりだしていた。
「あーもう。そんな怖い顔で脅かすから」
「いや、別にそんなつもりじゃ」
さっさと出ていって欲しいと思ってはいるが、顔に出してしまっただろうか。商品を汚される前にタオルでも渡そうと思っただけなのだが。
「ほらほら大丈夫。人相ほど悪い人じゃないですからね」
文がいつものにやにやとした笑顔であやそうとするが、あまり期待はできそうにない。
友人達とはぐれた孤独と、妖精のいたずらによる恐怖。 積み重ねられてきたそれらが緊張の糸を解かれ、霖之助の言葉一つで爆発しようとしているのだ。
子供に泣かれることを好む物は、人間にも妖怪にもそうは居ない。
生理的な嫌悪感を感じさせるその音は、弱者である子供にとって数少ない武器である。泣く子と地頭には勝てぬとはよく言ったものだ。
もちろん霖之助も好きではない。幼い頃の魔理沙によって、嫌と言うほど思い知らされている。
なんとかこの子を黙らせなければ。
なにか玩具でもあげて気をそらせるというのが常套手段ではあるが、あいにく使い道のすぐわかるような玩具は置いていない。
玩具の他に適当な物は無かっただろうか。子供を黙らせるのに適当な物が。
子供の好むものと言えばやはり―――――
「――――馬鹿な」
行き着いた一つの答えについて、霖之助は反射的にそう吐き捨てた。その声を聞いた少女が決壊を加速させるが、知ったことでは無い。
冷静になれ、と自身に言い聞かせる。
別に恩師の娘とでも言うわけでもない、見ず知らずの子供。別にどうなろうがどうでもいいじゃないか。
自身にできる最良の選択とは、今すぐこの子供を店から叩き出すことだ。自分に何か義務があるとすれば、その際に人里の方向を教えてやる程度のことである。
そうやってこの問題を解決しさえすれば、あとは念願の豆大福を頂くだけなのだ。今まで何度も踏みにじられてきた願いが、ようやく叶えられるのだ。
結論は出た。後は実行に移すのみ。
それだけで、自身の栄光は約束される。
「君」
冷めた視線で少女を睨みつけ、霖之助は告げる。
今にも爆発しそうな少女へと、冷たい口調でこう続けた。
「甘い物は好きか?」
と。
※
夕暮れの香霖堂。
射し込む西日の感触に顔をしかめながら、霖之助はただ座っていた。
目の前に豆大福の乗っていた小皿を置いて。今となっては、眺めているだけで空しくなってくる。
動く気力も起きないが、さすがにカーテンでも閉めようか。
そう思って窓の側に近づけば、ちょうど天狗の少女が庭先に降り立つところだった。
「ども。あの子送ってきましたよ」
「別に報告しに来なくてもいいよ」
「いえいえ、結局お茶とおせんベ頂いてませんでしたしね」
当たり前といった様子で店内に上がり込み、霖之助の前に腰掛ける文。
「眼鏡のお兄ちゃんありがとうって言ってましたよ。とっても美味しかったですって」
言われなくてもそんなことは知っている。そう思う霖之助の前で、文がバリバリと煎餅を噛み砕いていた。
結局、この天狗の一人勝ちか。癪ではあるが、やはり商売とは常に崩壊のリスクをはらんでいるものだ。いかに優れた商人でも、たまにはこんなこともあるだろう。
「に、しても」
商売の無情さを噛みしめている霖之助へと、文が告げた。
「なんだかんだで子供に甘いんですね。おたく」
強い妖怪にありがちな見透かしたような笑みで。
心の中の葛藤を見抜かれていたのだろうかと不安になるが、平静を装って霖之助は答えた。
「別に。天狗程じゃないだろう」
「そりゃまあ。だって人間の子供って可愛いじゃないですか」
天狗と人間の子供といえば、伝説の中でも関係が深い。
時には攫い、時には助け、時には遊ぶ。中には子供にやりこめられて、道具を奪われる天狗の話もあるくらいだ。人間の子供の前ではそのくらい気がゆるむのか、もしくはそんな狂言に付き合うほど子供に甘いのか。
そう言えば目の前の烏天狗も、知り合いの少女達には何かと甘かったはずだ。
「霊夢や魔理沙は、君達にとっては少々大きいんじゃないか?」
「私にとってはあの程度、まだまだ可愛いお子様ですよ」
見た目と普段の言動からは想像もできないが、目の前の少女も千を超える齢の大妖怪。
彼女にかかれば数年の差など大したものではないということか。
「ああ、そうそう」
思い出したような口調で、文が付け加える。
「半分混ざった子もなかなか可愛らしいと思いますけどね」
と、さぞ楽しそうな笑顔で。
「……用がなければ帰ってくれ」
その魅惑的な笑みを直視することもできず、霖之助は何とかそれだけ呟く。
文はと言えば、わざとらしく小首を傾げて答えてくれた。
「だからお茶とおせんべ頂いたら帰りますってば」
目の前の盆を眺めれば、未だ数枚の煎餅が残っている。
霖之助は何枚かをまとめて手に取ると、口の中に押し込んだ。
「あらワイルド」
文のにやにやとした笑みを受けながら、ガリガリと噛み砕く。まだ飲み込むには大きいかけらを、茶で無理矢理に流し込んだ。
甘味を待ち望んでいた舌にはただ塩辛く、そして渋いだけの物だった。
それに読み進めていくごとにどきどきしました。
やはり霖之助はこうでなくては
結局食べられなかった霖之助がツボでした
つ大福
原作ぽいキャラ付けが感じられない。次に期待します
高い点数は逆に香霖堂に申し訳ない(´ω`)
それにしても妖夢かわいいなぁw
それでもやっぱりなんとなく読後感がすっきりしないなぁ……と、個人的な感想です。
あと妖夢が可愛らしかったです、不憫可愛い。
さすがにこれは哀れすぎる
承で始まり承のまま終わったような印象。内容は有りがちでこれといって中身が有るわけでもない。だがそれ故に読みやすく、承の部分としては最適な流れだが、転も決も無かったのが至極残念。
結の締まりさえよければ1,5倍近くは伸びたのでは、と思いました。
面白かったです。最後の霖之助と文の会話がツボでした。
妖夢が特にかわいい
少しかわいそうですけど、なんだかんだで得をするのがが香霖堂っぽくて良いと思います。
でも最後の一つは食わせてやりたかったので-10点
いや~でも良いお話でした。登場人物がなんかみんな可愛いなあ。