貴方は絵が上手ね。仏画や図面の勉強をしていたの?
私の下書きをたまたま見つけて、聖は目を柔らかく円くした。何も知らない。こちらの仕事も、毘沙門天様への報告で人物を描き慣れていることも。寺の皆を絵巻物にしてくれないかと、嬉しそうに頼んできた。
「いいよ。仕上がりに期待しないのならば」
適当に手を抜いて、適度に力を入れた。細筆と削った枝で、大雑把に全員を線描。山の草木と鉱石片で、色を載せていった。
聖の墨衣に、むらさきの根の気品を。
一輪には、灰桜の雲を漂わせて。
ムラサ船長には、群青をならした潮風。
ご主人様は、お決まりのたんぽぽだった。川辺で摘んで、古い金属と煮込む。使う部位と時間で、黄の濃度を整えられる。入手も保存も楽でいい。上への報せで、毎回塗っていた。もう、彼女は見ずとも絵姿にできた。
妖怪画の完成を待たずに、聖は消えた。絵筆で紡いだ、数多の妖と共に。
後には私と、仏神の偶像。ご主人様が残された。
辞めるのかと考えた。彼女はただの獣、毘沙門天様との特別な縁はない。敬愛する尼公の封印された今、どんな理由で繋がっていられよう。己の役割に、恨みを感じているかもしれない。寺院のお飾りでさえなかったら、仲間と逝けたと。
続けますと宣言された。聖の願いではない。あの方の罰に怯えてでもない。自棄など起こしていないと。
「でも、貴方のやりかけの作品は見せないでください。甘えて、失くしてしまいそうなので」
切り捨てるかのような、重みのない言い方だった。私が絵にしてこなかった、主がいた。
それから千年、二人で生きてきた。たった一人を、真剣に描いてきた。
寅丸星。私の二番目のご主人様。たんぽぽ色の妖虎。歩く親切。稀代の紛失屋。有能ときどき非常に無能。優しさで損をする。柔軟頑固。仏の立場は曲げない。神様よりも神様らしい。
隅で観察していた頃と比べたら、彼女に詳しくなった。
けれども、まだ。集合画に背を向けた日の、ご主人様の心は解らない。大して執着していなかったはずの、務めに対する感情は。
失せ物は、幾らでも捜せる。形のない気持ちは、私には発見できない。
「ない」
狭い私室をダウジングで一周し、衣装箪笥と床下を探り、葛籠を確かめて結論付けた。
情けない。ご主人様や参拝客ならともかく、私がうっかりをやらかすとは。探索杖に寄りかかり、子鼠に慰められた。手下の彼らの餌にはなっていないだろう。見当たらないのは紙、あの山寺絵巻だ。
ご主人様の冷たさが怖くて、半端なままにしていた。命蓮寺建立後に、聖に一応披露した。是非出来上がりを見たいと乞われた。過去は写真に撮れない、大事なひととまた会いたいと。余裕のあるときに、ひっそり筆を進めるようになった。色の原料を集めて。かつてのご主人様の態度については、黙っておいた。
あと数体、端の私や動物を彩色すれば渡せた。押入れの竹籠に、きちんとしまっておいたのに。一体何処へ。隙間か天狗か、疑いたくはないが寺の誰かに盗られたか。最近、部屋に他人の入った日は。棒で額を突いて、記憶を辿った。
二月三日、節分。鬼も平気な生豆撒きをした。全室に満遍なく、弾幕のように。鼠が美味しく食べてくれた。
六日、快晴。布団干し。一輪と雲山が、問答無用で寝床を剥がしていった。朝から疲れた。
七日、大安。ぬえが守矢神社から製菓用チョコレートを貰ってきた。バレンタインデーやろうよと勧誘。翌十五日は涅槃会よと叱りつつ、船長も賛成。聖達も加わって賑やかに。
(そのときかな)
私とご主人様は、外のチョコ文化を教えてとせがまれた。口で説明しても伝わり辛いので、二人の自室で資料を探した。勝手にあちこち漁るぬえを、姉役の一輪とムラサ船長が止めていた。ご主人様は困り顔だった。超人聖が片付けていった。毛屑ひとつなく。
騒ぎのどこかで、何かの拍子に廊下に逃げたのかもしれない。だとしたら、巡るべきは建物全域だ。
ロッドよし、ペンデュラムよし、バスケットよし。鼠小隊集合。現在厨房で菓子の特訓中、カカオの匂いに釣られるな。ダウザーの装備を万全にし、晩の通路に出た。植物と岩絵の具の空気が、甘く塗り潰された。
かと思ったら、弱く戻った。三歩と行かぬうちに、ご主人様と出会った。私達は付き合いが長いから、気が似てきたのだろう。あちらの仏香も、私に少し移っている。
私と目が合って、ご主人様は沈んだように笑った。丸めた羽衣を、前で抱いていた。
「調理実習はどうしたんだい。失敗して追い出された?」
「そこではうっかりしてません。人数が一杯なのでお暇しました」
「あぁ」
聖、一輪、縮んだ雲山、船長、翼あるぬえで台所の限界か。
「食堂にいればよかったのに、遠慮してふらふらして」
「あ、貴方こそ、来ればよかったでしょうに。無視して探し物ですか」
「時間は有意義に。甘いものは直に出てくるんだ、私がやらずとも」
それに、次々試食させられてはたまらない。私も鼠も潰れる。
ペンダントの青水晶が、早速いい反応を示した。ご主人様の歩んだ方角に、石の光が振れる。客間に紛れているかもしれない。さっさと別れて終わらせよう。
すれ違おうとしたら、ご主人様が私の前方に回った。
「ナズーリン、あの」
溜め息を零したくなった。続きは聞かなくても読める、
「手伝わせてください。私の能力も役に立つかもしれませんよ。駄目って言ってもやりますからね、力になりたいんです。邪魔なら床だと思って踏んで抉ってください。そんなところ?」
ネコ科の円らな瞳が、微かに潤んでいた。
「最後の床以外はそんなところです。よくわかりますね」
「世話焼き癖は見てきたからね」
思いやりの様を、何百枚と記録してきた。
善意に燃えると、彼女は梃子でも動かない。目線を私の高さに揃えて、求める物の特徴を尋ねてきた。
正直に巻物と答えたら、温かさを損ねるかもしれない。目的のない定期業務だと、誤魔化しておいた。実物か手掛かりを捉えて、後で回収すればいい。
ご主人様は綺麗に騙されて、仏閣巡回を始めた。一筆書きのように、効率よく。
ダウジングロッドの両端が、幾度も一点に集中した。ご主人様に吸い寄せられるように、はぐれた品が現れた。河童の開発した、水に溶ける色鉛筆。障子の補強に用いていた、一昨年の『文々。新聞』。外界の牛乳瓶。いずれも私の目標ではなかった。至近距離にありそうなのに、望みが外れる。
柄にもなく焦っているのだろうか。道具を扱う指先が、乱暴になっていたらしい。小さな入門者にするように、ご主人様に手を撫でられた。察しが悪くて助かる。
甘味に染まる調理場からは、不穏な会話が聞こえた。
「ムラサ、チョコレート切れそう」
「あんたが際限なく湯煎するから! かじるから!」
「残りの材料、宝物庫に入れておきましょうか。見張ります」
「大丈夫よ一輪、魔理沙さんに不思議な茸をいただいたの。粉末にしてかけると、分裂増殖するのですって」
どの辺りが大丈夫なのだろう。焦げ茶の新生物だ。
「もう一回山登りしてくる。神様は信じてやれば良い奴」
今回ばかりはぬえの味方につきたくなった。
小声で励ます私の先で、ご主人様は僅かに肩を落としていた。板チョコの数枚、私にも呼べればいいのにと。
「甘やかさなくていいよ。守矢に任せよう」
「いえ、はい」
もどかしそうに、彼女は口中で言葉を噛んでいた。毘沙門堂への道中、軽くつついたら明かしてくれた。
「圧倒されてばっかりだなぁ、と」
幻想郷に移住して、本物の神々に触れて。力量の差を痛感したこと。
毘沙門天様らしくしたいのに、妖獣の成り上がりだと意識すること。
自信喪失気味であること。
雪原の足跡のように、ひとつずつ刻まれた。
「あの方の真似も、虎の本性も私です。頭で認めてはいます。ただ、身体が頷かない。難しいです。湿った愚痴、終わり」
「もしかして、それでカカオ地獄から抜けてきた?」
「愚痴終了です」
足取りが図星だと告げていた。締まった雪道に、藁長靴がめり込んだ。早歩きで、お堂の門を通る。
歩幅は私に合っていた。彼女の踏みしめたところは、固まって転ばない。飛んだり、自らの間隔で進んだりもできるだろうに。消沈していても、温情を忘れない。
私には、それでよかった。
「何でもできるって、過信する方が嫌だよ。あのお方にも、果たせないことはあった。聖を救出するとかね」
空の本尊壇を見上げる、ご主人様の背中に語りかけた。お忙しいから、信仰不足だったから、あの方と比較してはいけない。か細い反論に、
「正体がどうであれ。努力してきた姿に、優劣はあるのかな」
くすぐるように言い返した。ご主人様に従ってきた私は、無駄だったのかと訊いてもいい。彼女は絶対に、激しく否定するだろう。
嫌がられるのを承知で、行方不明の絵を今は広げてやりたかった。山深い寺の昔よりも、彼女は成長している。お仕着せの抜け殻ではない。
浅く、動作を確認するように。重く、意志を籠めて。ご主人様は、首を下ろしていた。野鼠が彼女を囲んで、一斉に歌って称えた。妙に安心した。自分の一大事が、解決されたかのようだった。
「お礼、は、笑われそうですね」
「よくわかってるね」
「大切な経験上。そうでした、そう決めていたはずでした」
「何を独りで納得しているのやら」
横を追い抜いて、壇の下に座った。彼女と向き合った、爪先が冷えていた。寒色の振り子は、
「ん?」
ご主人様に揺れ続けていた。私の行動や、反動の域を超えて。おかしい。ついさっきまで何もなかった、私のいた側なのに。見落としがあったのだろうか。いや違う、鼠隊が彼女を包んだままだ。宝物を感知している。
あ、あう、と、ご主人様が慌てて本尊台に飛び乗った。
しもべが揃って、怪しいと喚いた。私も同感だ。
彼女は、私の目指すものを悟っていて。その上で、私に助力した。では何故、何処に? ご主人様が接近した際、私調合の色彩が香った。着衣の中? 雲山や、飴を隠す子供じゃあるまいし。妖術の仕業? 場にひずみはない。
「と、すると」
氷の温度の、金属ロッドを構えた。ご主人様が腕で包む、絹羽衣で切っ先が止まった。
「あのですね、ナズーリン」
逃がすまじ。先端の曲線で布地を引っ掛け、一気に奪った。
大将大当たり。小鼠一鳴き、絵画が一巻き。更に驚くべきことに、破れて二分されかけていた。
当初の恐れは爽やかに消滅した。棒で泥棒を捕獲し、
「ナズーリン、これつめたっ、首筋はちょっと」
「ゆっくり話そうか。ご主人様の大部屋にしよう、法力暖房は強力にね。お茶があると猶いい。色々知りたかったんだ」
取調べの準備にかかった。
二月七日です。ええ、バレンタインの情報収集の最中。ナズーリンの私室が荒れ乱れて、葛籠の蓋がずれて。見覚えのある、貴方の妖絵がちらりと。無性に懐かしくて、気付いたら手に取っていました。ちゃんと、直視できるかもしれないなって。「盗むな」の戒律違反ですね。
けれどうっかり、写経の墨で汚してしまって。清めようとしたら、濡れて裂けて。今度と言い宝塔のときと言い、なんで私は肝心なところでぽかを。
今夜上手く打ち明けて、謝ろうとしたんです。でもいざ貴方と対面したら、臆病の虫が。貴方が巻物捜索をする気だったことは、一目で見抜けました。単なるダウジングにしては、武装が重厚でしたから。魔界に赴くときのようでした。
強引に同行して、返す機を窺っていました。わかっていない振りをしました。「嘘を吐くな」の戒も台無しですね。
座布団なしの正座で硬直して、ご主人様は素直に供述した。湯気の去った蓮茶を飲み干し、以上ですと区切った。
あっけなかった。私が仮定してきた、古絵巻への嫌悪感は見出せなかった。
拾得物のバスケットを退かして、脚を伸ばした。
「ご主人様も戻して。探し物を偽った、私も嘘吐きだ。五分五分。君は、この絵が嫌いなのかと思い込んでたから」
「苦手だったかもしれません。聖と旧友の思い出に、溺れてしまう。欠けた存在と、無力を再認識する。個人的な不満少々。しかし、私を奮い立たせたのもこれでした」
山寺での貴方の着彩を、一度覗き見たことがあります。妖怪が排除される、数日前に。絵図の仲間の中心に、私が立っていました。神秘的な、天上の毘沙門天様のようでした。
円座を引き寄せ、ご主人様は微笑んだ。
いつもの報告書の、手癖で成したのだけれど。本尊ごっこでお馴染みだった、ぼんやり顔を線にした。彼女の虎眼には、神々しく映ったのか。他者の主観は操れない。
「私の黄色は、たんぽぽでしたね。数段階に彩りを分けていた」
「安っぽくてごめんね。船長には、秘蔵の青鉱を振る舞ったのに」
「いいえ。私は山地の出身です。草木染めの手間は、肌と時で学んでいますよ。慣れれば容易いかもしれませんが、やはり自然の生き物です。御し切れません。一瞬の違いで、技をやり直しにさせる」
歳月で褪せた色を、ご主人様はいとおしそうに眺めていた。
「貴方の作品は、眩しかった。私の似姿なのに、そうなりたい、なれたらと願いました。便利な張り子の神様を脱して。たとえ皆がいなくても。絵に恥じない私になれたときに、再び見合おうと」
「感動的なこそ泥だね」
「事実ですけど冷笑で刺さないでください!」
偶像が肖像に憧れるとか、本物を夢見るとか、変だなぁと悩んでいたんですからうわああぁ。猫風に丸まったご主人様は、畳の上を回転往復した。自作の詩集を音読された乙女か。こんな照れ虎の決意に、千年振り回されたのか私は。稀な表情と、言動に化かされた。
紙が余計に千切れるよと、ご主人様を止めて起こした。
「修復できますか、これ」
「裏を薄漉きの和紙で留めるよ。色粉の繋ぎ液も増やせば、傷は目立たない」
元々、経年で劣化していたし。
過去と再会した感想を問えば、
「理想の道は遠いです」
砂糖抜きの苦笑。編み座のほつれをまとめてねじった。弱気な、鈍いひとだ。既に追い越せているのに。
ややあって、提案がありますと立ち上がった。書棚の末から、真っ白の大判紙を取り出した。書道紙ではない。寺子屋で使われるような、頑丈な画用紙だ。道具店で購入したのだという。最悪、自力で模写するために。
「簡単に壊れない、厚めの紙が安全かなぁと。こちらに、今日の命蓮寺組を描きませんか。ぬえを入れて」
「いいね。ご主人様の個人的な不満が晴れる」
仲間外れは、好かない性格だから。
「晴らします」
希望を織り込むと、意気込んでいた。聖の髪型や一輪の頭巾など、細部にこだわりがあるのだろう。天狗の新聞紙を敷いて、白紙を設置した。
強い紙相手ならば、絵の具は今宵の拾い物がいい。河童製の、水彩色鉛筆の缶を開いた。白黒含めた十色と小筆、削り器が集っている。牛乳瓶に、お茶の余り水を注いだ。
委ねられて、私が空間を大まかに人数割りした。縦に六人、上空にぬえ。中央は聖とご主人様になる。構図線は、淡い水色で。ぬえの両翼と聖の経典に混ざって、背景を濁らせない。
「私の部分は、ナズーリンにお任せします。聖をやりますね」
「わかった。惚けた笑顔にしよう、全力で」
「さらりと予告しないでください。貴方らしく、私のなりたい輝かしい」
「お任せされたんだ。私らしく、ありのままを表現するよ。昨今のご主人様は、描いていて愉快だ」
素肌は純白と橙、赤の混色で。細い交互線に水滴を足すだけでも、大分様になる。しくじっても重ね塗りがある。指は六本じゃない。短い指導をして、和む眼差しに着手した。
前かがみで、頬杖をついて、腹這いで。隣同士、段々画面にのめり込んでいった。筆や黄、モノトーンが行ったり来たりした。
ご主人様は至極丁寧だった。人体構造は正確に、ドレスの陰影は滑らかに。巻物の紋様が細やかで、魔力を感じさせた。ポーズが仏像調、顔が漫画式で驚愕したけれど。何だその瞳の星は。しっくり来るのがまた奇妙だった。文字通りの、神の御業か。平面世界の宝塔に、法の光を満たした。
「ご主人様完了。聖の魔術紋を受け持つよ。縁ぼかしでいいんだね」
「速いですね」
「雑にはしていないよ。ご主人様が遅いんだ。このペースだと、ぬえと船長も私が支配してしまうよ」
位置を移して、色描線を滲ませた。ぬえの素体を作って、ワンピースも着せる。せめてあと一人と、ご主人様がフリルの速度を上げた。可哀想だから、碇の光沢に凝って待つか。
落書きをする幼児のような、悪戯っぽい目付き。爪。奔放な手足と羽、蛇。片隅に、二人の姉貴分への情。わがままをすることで、仏門の真面目欲を満足させている。わざと妹をしている、成熟した姉なのかもしれない。
鮮やかな怪翼に、海の武器で対抗。意外と両眼の占める範囲が大きい。脚と腕は健康的、手のひらは華奢。おしとやかであどけない。たまに三女格。日焼けと透明感の両立を。キャプテン帽は斜めに傾け、聖に甘えさせる。
個々人らしさが、色と形にすっと浮かんだ。彼女達が寄ってきて、私も近付いたのだろう。淡泊ながらも、自発的に。娯楽行事の知恵を、探して授けるくらいには。
面白かった。古の妖怪夜行は、容姿を思い出しながらの作業。現代のお絵描きは、いい意味での遊びだった。
「二人目行きます」
「どうぞごゆっくり。しばらく緑借りるよ、碇の重厚さがまだまだ」
肌色セットと、一輪に不可欠の青系色を手渡した。
鋭い水青が、小さく活躍してお終いだった。細長めの八面体に。
入道使いには、身長が届いていなかった。
主体になる色は、白と黒。要所で赤。お花畑のような、少女満開のお目目。
「ご主人様。あんまり訊きたくないんだけど、それ誰」
「え、ナズーリンですよ。ほら紅い瞳、ペンデュラムの青結晶」
示す指に掴みかかろうとした。反対方向にへし折ろうとした。ご主人様は、片手で悠々と私を阻んだ。
「何するんですか。線が曲がりますよナズーリン」
「描くな放せ。順番から言ってそこは一輪と雲山だ。私はおまけ程度に済ませろ、元はそうだった」
「今は違います」
貴方が端っこにいるのも、個人的にとても不満でした。貴方は私の右腕でしょう。穏やかな膨れ面で、ご主人様は赤鉛筆を細かく動かした。
「だ、だとしても。聖はともかく私の目をきらきらさせるな、無防備に笑わせるな。私はそんな顔はしない」
「割としていますよ。私が見ています。文句は無しです、私も貴方を妨害しませんでした」
不公平、だそうだ。彼女も私のように、ありのままの私を写しているという。
どの命蓮寺のナズーリンが、軟弱に緩んだのだか。手近に鏡がなくて、表情を調べられなかった。ただ、絵描きの彼女は幸せそうだった。私が、肖像に表したように。
笑っていて欲しい。逃げない努力にも、与えられる祝福にも、嘘はないから。
尼と入道を二人で仕上げていると、実物が襖を引いた。それぞれ、鼠と虎のマグカップを持っていた。
「ホットチョコレート。失敗作のごた混ぜじゃないわよ、胡桃入りの本格派」
「ありがとうございます。盛り上がったみたいですね」
聖とお揃いのハートエプロンに、甘い色が飛んでいた。
「そっちもね。芸術の冬」
味覚の冬の成果を貰った。器部はもちろん、柄も熱かった。チョコのはずなのに、表面はミルク地にココアの模様。
「牛乳の泡に工夫してみたの。貴方達提供の雑誌参考。給仕で崩れたのはご愛嬌ね。完全版は食堂で、雲山の腕が鳴るわ」
職人雲山は、空っぽの茶器を運んでいった。
何の絵細工だったのかと、ご主人様とカップを見比べた。放射状に、白茶の波線が広がっている。時計、花火、鉄拳、ユーフォー、
「たんぽぽ?」
ご主人様の澄んだ声と、私のきつい声が重なった。追って、視線が調和した。
一秒、二秒。生じた間は、平穏で居心地がよかった。仮の花弁が、溶けて瞬いた。
(いいかな、うん)
彼女を色付け、導いた花。そういうことにした。
絵の顔になったと、ご主人様が目元を綻ばせた。
「見間違いだろう。作品と一致しているのはご主人様だ、にこやかにも程がある。私の筆に狂いはなかった」
「ナズーリンだって、笑みがそっくりですよ。私にしては上出来です」
「君の目はとろけたのか、笑顔酔いか。チョコレートを飲むといい、鎮静剤だよ」
「姿見貸しましょうか、ナズーリン」
意地っ張りめ。
「笑っていてください、できれば私の隣で。幸福は嘘を吐きません」
聞き手次第では誤解されそうな、恥ずかしい命令をされた。赤面しないのが凄いところだ。寺院特製チョコレートに口をつけて、
「あづっ」
ご主人様は猫舌に苦しんだ。一撃だった。上はぬるかったのに、なんでどうしてと悶えている。
「ミルクの層が保温しているんだ、下は火傷ものだよ」
「ひた、したが、痛」
格好いい雰囲気を、数秒で粉砕できるのが凄まじいところだ。
「全く、ご主人様は」
木の実の素朴な甘さが、のんびり膨らんだ。耳や尻尾や、唇がむずついた。
悔しいけれど、指示に応えずにはいられない。こうも優しくて、馬鹿馬鹿しくて、幸せでは。
二枚の軌跡を見遣って、深く頷いた。
描き続ける。私は、彼女の傍にいたい。
私の下書きをたまたま見つけて、聖は目を柔らかく円くした。何も知らない。こちらの仕事も、毘沙門天様への報告で人物を描き慣れていることも。寺の皆を絵巻物にしてくれないかと、嬉しそうに頼んできた。
「いいよ。仕上がりに期待しないのならば」
適当に手を抜いて、適度に力を入れた。細筆と削った枝で、大雑把に全員を線描。山の草木と鉱石片で、色を載せていった。
聖の墨衣に、むらさきの根の気品を。
一輪には、灰桜の雲を漂わせて。
ムラサ船長には、群青をならした潮風。
ご主人様は、お決まりのたんぽぽだった。川辺で摘んで、古い金属と煮込む。使う部位と時間で、黄の濃度を整えられる。入手も保存も楽でいい。上への報せで、毎回塗っていた。もう、彼女は見ずとも絵姿にできた。
妖怪画の完成を待たずに、聖は消えた。絵筆で紡いだ、数多の妖と共に。
後には私と、仏神の偶像。ご主人様が残された。
辞めるのかと考えた。彼女はただの獣、毘沙門天様との特別な縁はない。敬愛する尼公の封印された今、どんな理由で繋がっていられよう。己の役割に、恨みを感じているかもしれない。寺院のお飾りでさえなかったら、仲間と逝けたと。
続けますと宣言された。聖の願いではない。あの方の罰に怯えてでもない。自棄など起こしていないと。
「でも、貴方のやりかけの作品は見せないでください。甘えて、失くしてしまいそうなので」
切り捨てるかのような、重みのない言い方だった。私が絵にしてこなかった、主がいた。
それから千年、二人で生きてきた。たった一人を、真剣に描いてきた。
寅丸星。私の二番目のご主人様。たんぽぽ色の妖虎。歩く親切。稀代の紛失屋。有能ときどき非常に無能。優しさで損をする。柔軟頑固。仏の立場は曲げない。神様よりも神様らしい。
隅で観察していた頃と比べたら、彼女に詳しくなった。
けれども、まだ。集合画に背を向けた日の、ご主人様の心は解らない。大して執着していなかったはずの、務めに対する感情は。
失せ物は、幾らでも捜せる。形のない気持ちは、私には発見できない。
「ない」
狭い私室をダウジングで一周し、衣装箪笥と床下を探り、葛籠を確かめて結論付けた。
情けない。ご主人様や参拝客ならともかく、私がうっかりをやらかすとは。探索杖に寄りかかり、子鼠に慰められた。手下の彼らの餌にはなっていないだろう。見当たらないのは紙、あの山寺絵巻だ。
ご主人様の冷たさが怖くて、半端なままにしていた。命蓮寺建立後に、聖に一応披露した。是非出来上がりを見たいと乞われた。過去は写真に撮れない、大事なひととまた会いたいと。余裕のあるときに、ひっそり筆を進めるようになった。色の原料を集めて。かつてのご主人様の態度については、黙っておいた。
あと数体、端の私や動物を彩色すれば渡せた。押入れの竹籠に、きちんとしまっておいたのに。一体何処へ。隙間か天狗か、疑いたくはないが寺の誰かに盗られたか。最近、部屋に他人の入った日は。棒で額を突いて、記憶を辿った。
二月三日、節分。鬼も平気な生豆撒きをした。全室に満遍なく、弾幕のように。鼠が美味しく食べてくれた。
六日、快晴。布団干し。一輪と雲山が、問答無用で寝床を剥がしていった。朝から疲れた。
七日、大安。ぬえが守矢神社から製菓用チョコレートを貰ってきた。バレンタインデーやろうよと勧誘。翌十五日は涅槃会よと叱りつつ、船長も賛成。聖達も加わって賑やかに。
(そのときかな)
私とご主人様は、外のチョコ文化を教えてとせがまれた。口で説明しても伝わり辛いので、二人の自室で資料を探した。勝手にあちこち漁るぬえを、姉役の一輪とムラサ船長が止めていた。ご主人様は困り顔だった。超人聖が片付けていった。毛屑ひとつなく。
騒ぎのどこかで、何かの拍子に廊下に逃げたのかもしれない。だとしたら、巡るべきは建物全域だ。
ロッドよし、ペンデュラムよし、バスケットよし。鼠小隊集合。現在厨房で菓子の特訓中、カカオの匂いに釣られるな。ダウザーの装備を万全にし、晩の通路に出た。植物と岩絵の具の空気が、甘く塗り潰された。
かと思ったら、弱く戻った。三歩と行かぬうちに、ご主人様と出会った。私達は付き合いが長いから、気が似てきたのだろう。あちらの仏香も、私に少し移っている。
私と目が合って、ご主人様は沈んだように笑った。丸めた羽衣を、前で抱いていた。
「調理実習はどうしたんだい。失敗して追い出された?」
「そこではうっかりしてません。人数が一杯なのでお暇しました」
「あぁ」
聖、一輪、縮んだ雲山、船長、翼あるぬえで台所の限界か。
「食堂にいればよかったのに、遠慮してふらふらして」
「あ、貴方こそ、来ればよかったでしょうに。無視して探し物ですか」
「時間は有意義に。甘いものは直に出てくるんだ、私がやらずとも」
それに、次々試食させられてはたまらない。私も鼠も潰れる。
ペンダントの青水晶が、早速いい反応を示した。ご主人様の歩んだ方角に、石の光が振れる。客間に紛れているかもしれない。さっさと別れて終わらせよう。
すれ違おうとしたら、ご主人様が私の前方に回った。
「ナズーリン、あの」
溜め息を零したくなった。続きは聞かなくても読める、
「手伝わせてください。私の能力も役に立つかもしれませんよ。駄目って言ってもやりますからね、力になりたいんです。邪魔なら床だと思って踏んで抉ってください。そんなところ?」
ネコ科の円らな瞳が、微かに潤んでいた。
「最後の床以外はそんなところです。よくわかりますね」
「世話焼き癖は見てきたからね」
思いやりの様を、何百枚と記録してきた。
善意に燃えると、彼女は梃子でも動かない。目線を私の高さに揃えて、求める物の特徴を尋ねてきた。
正直に巻物と答えたら、温かさを損ねるかもしれない。目的のない定期業務だと、誤魔化しておいた。実物か手掛かりを捉えて、後で回収すればいい。
ご主人様は綺麗に騙されて、仏閣巡回を始めた。一筆書きのように、効率よく。
ダウジングロッドの両端が、幾度も一点に集中した。ご主人様に吸い寄せられるように、はぐれた品が現れた。河童の開発した、水に溶ける色鉛筆。障子の補強に用いていた、一昨年の『文々。新聞』。外界の牛乳瓶。いずれも私の目標ではなかった。至近距離にありそうなのに、望みが外れる。
柄にもなく焦っているのだろうか。道具を扱う指先が、乱暴になっていたらしい。小さな入門者にするように、ご主人様に手を撫でられた。察しが悪くて助かる。
甘味に染まる調理場からは、不穏な会話が聞こえた。
「ムラサ、チョコレート切れそう」
「あんたが際限なく湯煎するから! かじるから!」
「残りの材料、宝物庫に入れておきましょうか。見張ります」
「大丈夫よ一輪、魔理沙さんに不思議な茸をいただいたの。粉末にしてかけると、分裂増殖するのですって」
どの辺りが大丈夫なのだろう。焦げ茶の新生物だ。
「もう一回山登りしてくる。神様は信じてやれば良い奴」
今回ばかりはぬえの味方につきたくなった。
小声で励ます私の先で、ご主人様は僅かに肩を落としていた。板チョコの数枚、私にも呼べればいいのにと。
「甘やかさなくていいよ。守矢に任せよう」
「いえ、はい」
もどかしそうに、彼女は口中で言葉を噛んでいた。毘沙門堂への道中、軽くつついたら明かしてくれた。
「圧倒されてばっかりだなぁ、と」
幻想郷に移住して、本物の神々に触れて。力量の差を痛感したこと。
毘沙門天様らしくしたいのに、妖獣の成り上がりだと意識すること。
自信喪失気味であること。
雪原の足跡のように、ひとつずつ刻まれた。
「あの方の真似も、虎の本性も私です。頭で認めてはいます。ただ、身体が頷かない。難しいです。湿った愚痴、終わり」
「もしかして、それでカカオ地獄から抜けてきた?」
「愚痴終了です」
足取りが図星だと告げていた。締まった雪道に、藁長靴がめり込んだ。早歩きで、お堂の門を通る。
歩幅は私に合っていた。彼女の踏みしめたところは、固まって転ばない。飛んだり、自らの間隔で進んだりもできるだろうに。消沈していても、温情を忘れない。
私には、それでよかった。
「何でもできるって、過信する方が嫌だよ。あのお方にも、果たせないことはあった。聖を救出するとかね」
空の本尊壇を見上げる、ご主人様の背中に語りかけた。お忙しいから、信仰不足だったから、あの方と比較してはいけない。か細い反論に、
「正体がどうであれ。努力してきた姿に、優劣はあるのかな」
くすぐるように言い返した。ご主人様に従ってきた私は、無駄だったのかと訊いてもいい。彼女は絶対に、激しく否定するだろう。
嫌がられるのを承知で、行方不明の絵を今は広げてやりたかった。山深い寺の昔よりも、彼女は成長している。お仕着せの抜け殻ではない。
浅く、動作を確認するように。重く、意志を籠めて。ご主人様は、首を下ろしていた。野鼠が彼女を囲んで、一斉に歌って称えた。妙に安心した。自分の一大事が、解決されたかのようだった。
「お礼、は、笑われそうですね」
「よくわかってるね」
「大切な経験上。そうでした、そう決めていたはずでした」
「何を独りで納得しているのやら」
横を追い抜いて、壇の下に座った。彼女と向き合った、爪先が冷えていた。寒色の振り子は、
「ん?」
ご主人様に揺れ続けていた。私の行動や、反動の域を超えて。おかしい。ついさっきまで何もなかった、私のいた側なのに。見落としがあったのだろうか。いや違う、鼠隊が彼女を包んだままだ。宝物を感知している。
あ、あう、と、ご主人様が慌てて本尊台に飛び乗った。
しもべが揃って、怪しいと喚いた。私も同感だ。
彼女は、私の目指すものを悟っていて。その上で、私に助力した。では何故、何処に? ご主人様が接近した際、私調合の色彩が香った。着衣の中? 雲山や、飴を隠す子供じゃあるまいし。妖術の仕業? 場にひずみはない。
「と、すると」
氷の温度の、金属ロッドを構えた。ご主人様が腕で包む、絹羽衣で切っ先が止まった。
「あのですね、ナズーリン」
逃がすまじ。先端の曲線で布地を引っ掛け、一気に奪った。
大将大当たり。小鼠一鳴き、絵画が一巻き。更に驚くべきことに、破れて二分されかけていた。
当初の恐れは爽やかに消滅した。棒で泥棒を捕獲し、
「ナズーリン、これつめたっ、首筋はちょっと」
「ゆっくり話そうか。ご主人様の大部屋にしよう、法力暖房は強力にね。お茶があると猶いい。色々知りたかったんだ」
取調べの準備にかかった。
二月七日です。ええ、バレンタインの情報収集の最中。ナズーリンの私室が荒れ乱れて、葛籠の蓋がずれて。見覚えのある、貴方の妖絵がちらりと。無性に懐かしくて、気付いたら手に取っていました。ちゃんと、直視できるかもしれないなって。「盗むな」の戒律違反ですね。
けれどうっかり、写経の墨で汚してしまって。清めようとしたら、濡れて裂けて。今度と言い宝塔のときと言い、なんで私は肝心なところでぽかを。
今夜上手く打ち明けて、謝ろうとしたんです。でもいざ貴方と対面したら、臆病の虫が。貴方が巻物捜索をする気だったことは、一目で見抜けました。単なるダウジングにしては、武装が重厚でしたから。魔界に赴くときのようでした。
強引に同行して、返す機を窺っていました。わかっていない振りをしました。「嘘を吐くな」の戒も台無しですね。
座布団なしの正座で硬直して、ご主人様は素直に供述した。湯気の去った蓮茶を飲み干し、以上ですと区切った。
あっけなかった。私が仮定してきた、古絵巻への嫌悪感は見出せなかった。
拾得物のバスケットを退かして、脚を伸ばした。
「ご主人様も戻して。探し物を偽った、私も嘘吐きだ。五分五分。君は、この絵が嫌いなのかと思い込んでたから」
「苦手だったかもしれません。聖と旧友の思い出に、溺れてしまう。欠けた存在と、無力を再認識する。個人的な不満少々。しかし、私を奮い立たせたのもこれでした」
山寺での貴方の着彩を、一度覗き見たことがあります。妖怪が排除される、数日前に。絵図の仲間の中心に、私が立っていました。神秘的な、天上の毘沙門天様のようでした。
円座を引き寄せ、ご主人様は微笑んだ。
いつもの報告書の、手癖で成したのだけれど。本尊ごっこでお馴染みだった、ぼんやり顔を線にした。彼女の虎眼には、神々しく映ったのか。他者の主観は操れない。
「私の黄色は、たんぽぽでしたね。数段階に彩りを分けていた」
「安っぽくてごめんね。船長には、秘蔵の青鉱を振る舞ったのに」
「いいえ。私は山地の出身です。草木染めの手間は、肌と時で学んでいますよ。慣れれば容易いかもしれませんが、やはり自然の生き物です。御し切れません。一瞬の違いで、技をやり直しにさせる」
歳月で褪せた色を、ご主人様はいとおしそうに眺めていた。
「貴方の作品は、眩しかった。私の似姿なのに、そうなりたい、なれたらと願いました。便利な張り子の神様を脱して。たとえ皆がいなくても。絵に恥じない私になれたときに、再び見合おうと」
「感動的なこそ泥だね」
「事実ですけど冷笑で刺さないでください!」
偶像が肖像に憧れるとか、本物を夢見るとか、変だなぁと悩んでいたんですからうわああぁ。猫風に丸まったご主人様は、畳の上を回転往復した。自作の詩集を音読された乙女か。こんな照れ虎の決意に、千年振り回されたのか私は。稀な表情と、言動に化かされた。
紙が余計に千切れるよと、ご主人様を止めて起こした。
「修復できますか、これ」
「裏を薄漉きの和紙で留めるよ。色粉の繋ぎ液も増やせば、傷は目立たない」
元々、経年で劣化していたし。
過去と再会した感想を問えば、
「理想の道は遠いです」
砂糖抜きの苦笑。編み座のほつれをまとめてねじった。弱気な、鈍いひとだ。既に追い越せているのに。
ややあって、提案がありますと立ち上がった。書棚の末から、真っ白の大判紙を取り出した。書道紙ではない。寺子屋で使われるような、頑丈な画用紙だ。道具店で購入したのだという。最悪、自力で模写するために。
「簡単に壊れない、厚めの紙が安全かなぁと。こちらに、今日の命蓮寺組を描きませんか。ぬえを入れて」
「いいね。ご主人様の個人的な不満が晴れる」
仲間外れは、好かない性格だから。
「晴らします」
希望を織り込むと、意気込んでいた。聖の髪型や一輪の頭巾など、細部にこだわりがあるのだろう。天狗の新聞紙を敷いて、白紙を設置した。
強い紙相手ならば、絵の具は今宵の拾い物がいい。河童製の、水彩色鉛筆の缶を開いた。白黒含めた十色と小筆、削り器が集っている。牛乳瓶に、お茶の余り水を注いだ。
委ねられて、私が空間を大まかに人数割りした。縦に六人、上空にぬえ。中央は聖とご主人様になる。構図線は、淡い水色で。ぬえの両翼と聖の経典に混ざって、背景を濁らせない。
「私の部分は、ナズーリンにお任せします。聖をやりますね」
「わかった。惚けた笑顔にしよう、全力で」
「さらりと予告しないでください。貴方らしく、私のなりたい輝かしい」
「お任せされたんだ。私らしく、ありのままを表現するよ。昨今のご主人様は、描いていて愉快だ」
素肌は純白と橙、赤の混色で。細い交互線に水滴を足すだけでも、大分様になる。しくじっても重ね塗りがある。指は六本じゃない。短い指導をして、和む眼差しに着手した。
前かがみで、頬杖をついて、腹這いで。隣同士、段々画面にのめり込んでいった。筆や黄、モノトーンが行ったり来たりした。
ご主人様は至極丁寧だった。人体構造は正確に、ドレスの陰影は滑らかに。巻物の紋様が細やかで、魔力を感じさせた。ポーズが仏像調、顔が漫画式で驚愕したけれど。何だその瞳の星は。しっくり来るのがまた奇妙だった。文字通りの、神の御業か。平面世界の宝塔に、法の光を満たした。
「ご主人様完了。聖の魔術紋を受け持つよ。縁ぼかしでいいんだね」
「速いですね」
「雑にはしていないよ。ご主人様が遅いんだ。このペースだと、ぬえと船長も私が支配してしまうよ」
位置を移して、色描線を滲ませた。ぬえの素体を作って、ワンピースも着せる。せめてあと一人と、ご主人様がフリルの速度を上げた。可哀想だから、碇の光沢に凝って待つか。
落書きをする幼児のような、悪戯っぽい目付き。爪。奔放な手足と羽、蛇。片隅に、二人の姉貴分への情。わがままをすることで、仏門の真面目欲を満足させている。わざと妹をしている、成熟した姉なのかもしれない。
鮮やかな怪翼に、海の武器で対抗。意外と両眼の占める範囲が大きい。脚と腕は健康的、手のひらは華奢。おしとやかであどけない。たまに三女格。日焼けと透明感の両立を。キャプテン帽は斜めに傾け、聖に甘えさせる。
個々人らしさが、色と形にすっと浮かんだ。彼女達が寄ってきて、私も近付いたのだろう。淡泊ながらも、自発的に。娯楽行事の知恵を、探して授けるくらいには。
面白かった。古の妖怪夜行は、容姿を思い出しながらの作業。現代のお絵描きは、いい意味での遊びだった。
「二人目行きます」
「どうぞごゆっくり。しばらく緑借りるよ、碇の重厚さがまだまだ」
肌色セットと、一輪に不可欠の青系色を手渡した。
鋭い水青が、小さく活躍してお終いだった。細長めの八面体に。
入道使いには、身長が届いていなかった。
主体になる色は、白と黒。要所で赤。お花畑のような、少女満開のお目目。
「ご主人様。あんまり訊きたくないんだけど、それ誰」
「え、ナズーリンですよ。ほら紅い瞳、ペンデュラムの青結晶」
示す指に掴みかかろうとした。反対方向にへし折ろうとした。ご主人様は、片手で悠々と私を阻んだ。
「何するんですか。線が曲がりますよナズーリン」
「描くな放せ。順番から言ってそこは一輪と雲山だ。私はおまけ程度に済ませろ、元はそうだった」
「今は違います」
貴方が端っこにいるのも、個人的にとても不満でした。貴方は私の右腕でしょう。穏やかな膨れ面で、ご主人様は赤鉛筆を細かく動かした。
「だ、だとしても。聖はともかく私の目をきらきらさせるな、無防備に笑わせるな。私はそんな顔はしない」
「割としていますよ。私が見ています。文句は無しです、私も貴方を妨害しませんでした」
不公平、だそうだ。彼女も私のように、ありのままの私を写しているという。
どの命蓮寺のナズーリンが、軟弱に緩んだのだか。手近に鏡がなくて、表情を調べられなかった。ただ、絵描きの彼女は幸せそうだった。私が、肖像に表したように。
笑っていて欲しい。逃げない努力にも、与えられる祝福にも、嘘はないから。
尼と入道を二人で仕上げていると、実物が襖を引いた。それぞれ、鼠と虎のマグカップを持っていた。
「ホットチョコレート。失敗作のごた混ぜじゃないわよ、胡桃入りの本格派」
「ありがとうございます。盛り上がったみたいですね」
聖とお揃いのハートエプロンに、甘い色が飛んでいた。
「そっちもね。芸術の冬」
味覚の冬の成果を貰った。器部はもちろん、柄も熱かった。チョコのはずなのに、表面はミルク地にココアの模様。
「牛乳の泡に工夫してみたの。貴方達提供の雑誌参考。給仕で崩れたのはご愛嬌ね。完全版は食堂で、雲山の腕が鳴るわ」
職人雲山は、空っぽの茶器を運んでいった。
何の絵細工だったのかと、ご主人様とカップを見比べた。放射状に、白茶の波線が広がっている。時計、花火、鉄拳、ユーフォー、
「たんぽぽ?」
ご主人様の澄んだ声と、私のきつい声が重なった。追って、視線が調和した。
一秒、二秒。生じた間は、平穏で居心地がよかった。仮の花弁が、溶けて瞬いた。
(いいかな、うん)
彼女を色付け、導いた花。そういうことにした。
絵の顔になったと、ご主人様が目元を綻ばせた。
「見間違いだろう。作品と一致しているのはご主人様だ、にこやかにも程がある。私の筆に狂いはなかった」
「ナズーリンだって、笑みがそっくりですよ。私にしては上出来です」
「君の目はとろけたのか、笑顔酔いか。チョコレートを飲むといい、鎮静剤だよ」
「姿見貸しましょうか、ナズーリン」
意地っ張りめ。
「笑っていてください、できれば私の隣で。幸福は嘘を吐きません」
聞き手次第では誤解されそうな、恥ずかしい命令をされた。赤面しないのが凄いところだ。寺院特製チョコレートに口をつけて、
「あづっ」
ご主人様は猫舌に苦しんだ。一撃だった。上はぬるかったのに、なんでどうしてと悶えている。
「ミルクの層が保温しているんだ、下は火傷ものだよ」
「ひた、したが、痛」
格好いい雰囲気を、数秒で粉砕できるのが凄まじいところだ。
「全く、ご主人様は」
木の実の素朴な甘さが、のんびり膨らんだ。耳や尻尾や、唇がむずついた。
悔しいけれど、指示に応えずにはいられない。こうも優しくて、馬鹿馬鹿しくて、幸せでは。
二枚の軌跡を見遣って、深く頷いた。
描き続ける。私は、彼女の傍にいたい。
読んでて心地よかったです。
これは少しばかり甘過ぎるなあ。
相変わらずのこの雰囲気に乾杯です
取り敢えず、粉末のココアでも飲もうかな…。
出来ることなら、パソコン画面を隔てたどなたか、ご一緒してくれませんか?
私でよければ
とても素晴らしかったです
互いを大切に想う二人の姿がひたすらに可愛いです。
ほどよく甘かったです、ごちそうさまでした。
こんな文章書きてえです。
情景が脳内でもわもわ広がる、いいお話でした。
深山さんの作品はいつも文章から色が溢れて、彼女たちを鮮やかに、そして艶やかに彩っているように感じます。
そんな貴方の描く幻想郷が本当に大好きです。
ありがとうございました。
聖のグラデーションヘアーは描くのが難しそうだw
そういえば時系列とかどうなってるんでしょう?段々緩くなっていくナズーの笑顔が素敵です
深山さんの丁寧な情景描写いつも堪能させていただいています。
直接的な表現に頼るわけでもなく、文章の空気やちょっとした言い回しなどから
二人のほんのり甘い関係が伝わってきて本当にお上手だな、と頬をゆるませつつも感心しました。
まだまだ寒さの続く季節ですので、お体にはどうぞお気をつけくださいませ。
毎回この主従には悶えさせられてばかりです。毎度の事ながら美しい文章をご馳走になりました。
作者様の作品に憧れて投稿を始めた駆け出しモノです。
当初、地の文、会話、構成等の見事さに感心し、なんとか読み解こうと足掻いておりました。
そして亀鑑と思いつつも、次元の違いをようやく理解し、呪縛(?)から脱するにいたりました。
それでも、作者様の「雰囲気の醸成」と「継続すること」は常に念頭に置くようにしております。
失礼な物言いばかりで申し訳ございませんが、感謝の気持ちに偽りはありません。
心よりお礼を申し上げます。 本当にありがとうございました。
素晴らしきかな命蓮寺!
命蓮寺の皆が、特にナズーリンが生き生きと笑っているのが印象的でした。
完成した絵を実際に見てみたいです。
素敵な作品をありがとうございました。ホットチョコ飲んできます。
>マスクは気がつくと夏までつけている場合があるので
用心します。健康な一年でありますように。
>心地よく読ませていただきました
>読んでて心地よかったです
>読後感
いがらっぽくなかったようで、ほっとしました。ありがとうございます。
>命蓮寺
>一足早いバレンタインプレゼントを貰った気持ちになりました
七者七様の個性が好きです。この状況で誰がどこにいるのかな、何をしているのかなと、想像したくなります。
バレンタイン前の小騒ぎ、心に響くと有難いです。
>少しばかり甘過ぎる
>ほどよく甘かったです
>二人のほんのり甘い関係
物語の味覚が様々で、言い方が変かもしれませんが、ひとって素敵だなぁと思いました。
全員にぴったりの甘さは、きっと出せません。けれど、どこかしら合うと嬉しいです。
>二人の描いた命蓮寺をしっかりと“見る”ことができました
>あなたの作品を読むと何故か五感が反応します
主従の共同お絵描きは、書いていて楽しかったです。自分だけではなく、お読みになる方にも伝わってよかったです。
お話も文章も、好きなようにやっています。浮かんだ感覚や、気持ちのまま。こちらの好きが誰かの好きになるのは、とても幸せなことです。
>そういえば時系列とかどうなってるんでしょう?
(聖封印前)ナズーリン、聖に絵巻物作成を頼まれる
↓
(封印後)星の偶像続行宣言、ナズーリンは絵巻物を未完成のまま保管
↓
(星蓮船本編・命蓮寺建立後)聖の依頼で、ナズーリン絵巻物彩色再開
↓
(2011年2月7日)バレンタインデー情報収集。星、絵巻物を盗む
↓
(バレンタインまでのとある晩)作中のナズーリンにとっての現在。絵巻物捜索開始
上のような感じです。ナズーリンの二月の回想部分が、わかりにくかったかもしれませんね。すみません。
>心よりお礼を申し上げます
こちらこそ、恐縮です。ありがとうございます。同じ、東方が好きな者です。
これからも、ここが賑わうといいなぁと願います。
読みやすい表現、ほのぼのとした語り口、作者様のお名前を見て納得です。
こんな星ナズを待ってました。
バレンタインにチョコを脇役に、素敵な絵が主役なのが素晴らしいです。
ご馳走様でした。