それは、風が吹く日の夜のことでした。
龍宮の使い・永江衣玖が降りたったそこは、かつて龍神さまと呼ばれた龍族の長の御前でした。
「龍神さま。ご無沙汰いたしております」
「――永江衣玖か。久しいな。最後に遭ったのはいつ以来だったか」
雷龍の眷属をその出自の起源に戴く永江衣玖と、現在でこそ隠居の身と成られたものの、かつてはあらゆる龍属を自らの権勢の下に従えていた龍神さまです。
いまはもう過ぎ去りしあの頃の情景を懐かしむように、思い返すように、ふたりはしばし互いの顔を見やります。
「……して、何用で参った?」
先に口を開いたのは龍神さまでした。
「は、畏れながら龍神さま。我らのもとに。天界に、お戻りいただけないでしょうか」
「やはりそのような用件か」
久々に同属の者と話せる機会を得られたというのに。
雷龍の娘が切り出す用件とは想像の域を出ないばかりか、これまで幾度となく聞かされてきた内容と寸分違わぬことなのかと、龍神さまは溜め息をついてしまいます。
「龍神さま……?」
ある程度の予想はできていたものの、龍神さまからのあからさまな反応を見て、永江衣玖の身が強張らずにはいられません。
「結論から言えば、却下だ」
「なぜです? 仲間たちも皆、龍神さまのお帰りを待ち望んでいるのです」
「天界での権勢になど、もはや興味がない」
龍神さまは、僅か一言で言い捨ててしまいます。
そのような言い方をされては、さしもの永江衣玖とて返す言葉がありません。
「それにな。思わんか? 『足るを知る』ことこそが、肝要なのだと」
「な……っ!」
龍神さまからの心外な答えに、冷静な気質の永江衣玖が一瞬言葉を失い――激昂してしまいます。
「お、お言葉ですが、龍神さまは決してそのような器ではございません! 隠居の身とは言えそのご威光は健在。未熟者の私どもを、どうかお導きくださいませ!」
「衣玖よ、まずは昂ぶる心を落ち着かせるがいい」
「……は。龍神さまの御前にて取り乱してしまい、申し訳ございません」
「気にせずともよい。私が言いたいことはつまり、『上善は水の若し』ということだ」
それは故事における名言のひとつ。
淡々としてこだわらず、争わず、低い方へ流れていく。そして、何かにぶつかっても自由自在に形を変えていくという生き方を意味する言葉。
意味を飲みこんで、龍神さまを前にしてこれ以上の粗相がないよう、永江衣玖は謹んで言葉を返します。
「畏れながら龍神さま」
「それだ」
永江衣玖の言葉を、龍神さまは遮って大きく息をついた後、このように仰います。
「『彼は人なり、我らも人なり、我何ぞ彼を畏れんや』」
いざ地位の高い存在に接するとき、みな誰しもかしこまり萎縮してしまうものです。
ただ、あまりに萎縮してしまうと、せっかくそういった方々と親しくなる機会があっても、自ら機会を台無しにしてしまうことがあります。
また、その相手に対して正当な意見も言えなくなってしまいます。
そうなってしまえば本末転倒。
もちろん相手と接する際の必要最小限のわきまえ・礼儀作法は必要ではありますが、必要以上にかしこまり、萎縮してしまう必要はない。なにを恐れる必要があるのか。という意味の言葉です。
「私もそなたも、起源は同じく龍の眷属たる者に過ぎない。にもかかわらず、なにゆえ畏れることがあるのか」
「そ、それは……」
「うむ。人間もなかなか面白い言葉を作るものだろう?」
「……本当に、龍神さまには頭があがりません」
「だから、そのような遠慮の心こそ慎めと言っておるのに」
頭を垂れる、永江衣玖が返す言葉に、龍神さまは重ね重ね呆れ笑いしてしまいます。
(まさに『君子の心は、汪汪(おうおう)として淡きこと水の如し』ということですか…)
君子すなわち人格が練れた人物とは、心がまるで水のようです。とても淡くて、あっさりとしています。シンプルで、それでいて味わい深いということ。
永江衣玖は月明かりの逆光に映える龍神さまのご尊顔を、上目遣いで見あげてそう思います。
ж
「ときに、そなたが現在仕えておるのは確か、比那名居の娘であったか」
「はい。非想非非想天の総領娘さまでございます」
比那名居天子。彼女こそ永江衣玖が現在仕える天人の娘の名です。
人の子の身を起源としたその娘は、元より天上にあった者達からは成り上がり者の烙印を押され、また普段の素行立振る舞いから、あまりよく思われてはいません。
いまだ少女の域を出ない娘に、龍神さまも一度だけ対面なさったことがございます。
部屋に書き置きを残してきたとはいえ、あのやんちゃな総領娘様のこと。
今頃どのように過ごしているのだろうと気が気でないようです。
そんな――まるで手のかかる妹を誇るかのような微笑と、それに伴う翳りとを内包した永江衣玖の表情の変化を――そのおおよその事情をお察しになられた龍神さまでした。
「衣玖よ。天界での今の生活は、窮屈ではないか?」
「……滅相もございません」
「そうか、そなたも苦労しておるのだな。私は天界の『出る杭を打つ』あの空気が好きではなかった。『出ぬ杭は腐る』とも申すのにな」
「……」
現在の主たる比那名居天子を想い、いささか逡巡します。
彼女の日頃の粗暴な振る舞いの意味を、永江衣玖は正しく理解していました。ゆえに現在の主・比那名居天子に本当の意味での笑顔を取り戻して差しあげる事こそ、自らに課せられた使命なのだと考えていました。
「『千里の馬は常にあれども、伯楽(はくらく)は常にはあらず』だ」
千里を走る名馬は、いつもいます。
でも、その名馬を見抜くことができる人物というものは、滅多に現れるものではありません。
龍神さまのお言葉は、その事実を暗に示されているのでしょうか。
永江衣玖が天界での暮らしぶりに不満を抱いていたことには間違いありません。
ですが誰にもそのことを口にしたことはありません。従者としての弁えを誰よりも知る彼女ゆえのことでした。
「ふむ……『水は方円の器に従う』ものではあるが、龍とは本来巡るもの。廻るものだ」
龍脈、地脈、気脈、それらの総称もまた龍と呼ばれ、世を形づくる大切な要素となります。
その事実は、弥栄の地・幻想郷といえどなんら変わるところがありません。
「事実を知ることを得手とするそなたのことだ。存分に思いを廻らせ、そして思うままにせよ」
「……は。勿体なきお言葉でございます」
龍神さまのご慧眼は、すべてをお見通しでいらっしゃいました。
ж
「龍神さま。ご無礼が赦されるのであれば。いつまでこのようなお戯れをなさるおつもりですか」
戯れ、とは龍神さまの現在の姿と在り方を窘めたものでありましょう。
「戯れではないぞ。これが私の意思で選択した在り方であり、生き方だ」
「ですが『適材適所』と申します。龍神さまにはせめて、せめて龍神さまに相応しい場所とお姿をなさいませ」
「『適材適所』と申すか。だが『褐を被(き)て玉を懐(いだ)く』とも申すぞ」
真理を体得し、徳を内に秘めれば、外見を飾ることは無意味に見えてきます。そして成長とともに、外見はどうでもよくなってくるもの。
つまり、やんごとなき龍神さまをして充分に得るものを得た、ということなのでしょう。
「……」
彼女は当初、詰問の返答しだいでは実力行使に訴えようと、翻意と受け取られようと、龍神さまを天界に連れ戻す覚悟を決めていました。
天界の窮状を憂いた彼女は、龍神さまが天界に戻ることで、天界の者たちも心を改めるであろうという思惑。同じ龍属としての長たる龍神さまに対する根源的な敬意、畏敬、憧憬。
ですが。
龍神さまの表情と気配から漂う空気を感じ取った彼女は、そこから先を口にしてはならないと感じたのでしょう。
龍神さまの腹積もりは、とうに決まっておられたのだと。
永江衣玖にも今現在の主が存在することと同様、龍神さまにも現在の生活があり、現在の仲間たちが存在するのです。
彼女の持つ“空気を読む程度の能力”。何ゆえこの身にそのような能力が備わっているのかを、この時ばかりは口惜しいと感じずにはいられませんでした。
「まったく後悔などしておらぬ。私はむしろ充実した日々を送っておるぞ」
「っ……」
かつては龍神さまの統治のもと、ひとりの行儀見習いとして、幼い頃から彼女の雄雄しい背中を見て育った永江衣玖にとって、龍神さまのそのお言葉には、いたたまれぬ思いを感じずにはいられません。
「よい。私は現在の生活が気に入っておるのだ」
「そう……ですか……」
衣玖は、心から俯いてしまいました。
「衣玖よ」
「……は」
「『心誠に之を求むれば、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず』」
心の中に誠実と真理を宿し進んでいけば、まず間違うことはありません。
善人とは、最終的に報われるようになっているのです。
ましてやここはあらゆる幻想を受け入れる場所、幻想郷なのですから。その効力たるや、推して知るべしでしょう。
「そなたも、そなたの現在の主も。心に誠実と真理を宿し進んでいるのであれば、最後にはきっと報われる日がこよう。我が龍神の名に懸けて誓ってもよい」
それが龍神さまが永江衣玖と再び対面したときに感じた違和感の正体なのでした。
龍神さまはまるで母親のような暖かさで、震える永江衣玖の身体を抱き寄せます。
「龍神さま!? このようなお戯れ。なんと畏れ多いことを」
「いいのです。私の胸の中で、これまでの疲れを癒していきなさい」
……ああ。この御方はどこまで深遠を見通しておられるのでしょう。
「私にとっては、貴女はまだまだ子供です」
過ぎ去りし幾星霜。永き時を生きてきた身空で如何様に思い返せど、龍神さまを前にしては自分などやはり赤子に等しい……。
龍神さまは不安の気持ちを払うようにそんな永江衣玖の頭をそっと撫であげると、かき抱く彼女の腕にぎゅっと力が籠もります。
「安心なさい。我が目の届く場所で再び異変が起こった際には、私もまた貴女たちに助力しましょう」
「龍神さま……」
まるで母の温もりに抱かれるように、ふっと永江衣玖から身体の力が抜けていきます。永江衣玖は龍神さまへと身を預けると、声を殺して泣いていました。
こうしてしばらくの間。
彼女たちは母と娘、あるいは姉と妹がそうするように、互いの温もりを確かめあっていたのです。
ж
結局、龍神さまを説得する事こそ叶わないままでしたが、永江衣玖の見せる表情は、それはもう晴れやかなものでした。
「しかし、龍神の名を捨てて久しい私にわざわざ遭いに来ようとは酔狂だな」
「ええ。『情けは人のためならず』……ですわ」
「……やれやれ。この私から一本取りあげようとは、言うようになったものだ」
「ふふ。本気になられた龍神さまには、誰もかないません」
情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い、というのが原義の言葉。
近年、この言葉の意味を「情けをかけることは、結局はその人のためにならない(ので、すべきではない)」など誤った意味で解釈されることも多いのですが、衣玖は遭えてその点をも踏まえた上で、龍神さまに申しあげたのです。
「……それでは、本日のところはこれにて失礼いたします」
永江衣玖は身にまとった羽衣をひらひらと舞わせ、ふわりと宙に浮かびます。
うやうやしく一礼すると、龍神さまのもとを去っていきました。
龍神さまご自身は、こうしてのんびりとした隠居生活を営むことを好まれるのです。
言い残した言葉の意味とはやはり龍属の血というべきでしょうか、永江衣玖にもまた譲れないものがあるようで。
互いに交わされた視線は、これ以上の説得は平行線を辿るのであろうと悟るには充分なもので。
永江衣玖はどこか険が取れたように表情を綻ばせながら。「それではまた。いつか必ず、お迎えにあがります」と言い残して。現在の主が待つ天界へと帰っていきました。
「『空にしろしめす。なべて世はこともなし』――あんたにも、いつかその境地が理解できる日がくるといいわね」
幻想郷は今日も大きな事件や天災もなく平穏無事に過ぎています。
日常の顔に戻った龍神さまが残された草原には、包みこむような優しい微風がそっと吹いていました。
ж
ж
ж
ж
ж
そうして龍神さまのもとには、いつもどおりの風景が訪れます。
「こらっ美鈴。あんたいつまでそうやって昼寝しているの。ちゃんと仕事しなさい仕事!」
「ごめんなさい咲夜さん。明日から真面目にやりますからっ!」
しかし、それ故に逆に気になってしまった感もあります。
ちょっと格言を出しすぎかと思いましたが、これはこれで味が出てて良いかも。
むしろ、それで話を作れる作者様が素晴らしい。
個人的に美鈴大物説は大好きなので楽しかったです
でも今回は普通に楽しめました。色んな格言が知れて面白かったし。お話としてよりも、格言集として見た方が楽しめるかもしれません。
面白かったです。
オチが秀逸
しかし龍神様、これ体の良い居候、穀潰しでは・・・
知っているとすれば『彼は人なり、我らも人なり、我何ぞ彼を畏れんや』を地で行くお方だ。