「てゐ様?」
「ん? さぼってないよ? 私は命令に忙しい」
「いつもそんなのだから別にソレは良いです。だっててゐ様おばあちゃんですし」
てゐが縁側で茶を啜り、面倒な雪かきを部下に任せていた頃。
くりくりっとした瞳で、妖怪兎の一人がてゐを見上げていた。仕事もほとんど片付き、雪遊びを始めた仲間から離れてわざわざやって来るのだから、他の兎と一緒では尋ねにくい悩みでもあるのかもしれない。
雪の上に残る足跡を少し眺めていたてゐは、視線を目の前のしゃべるように促す。
すると、にんじんの質の悪化でも、一日労働3時間という過酷な条件に不満を漏らす出もなく。
「鈴仙様は、本当に帰ってしまわれるのでしょうか」
「あー、そういえばいたね。そんなやつ」
「もう、てぇ~ゐぃ~さぁ~まっ!」
「はは、冗談冗談」
最初にやってきた頃は雰囲気の違う鈴仙を毛嫌いする者が多かったが、長年一緒に暮らしたせいかこの妖怪兎のような者も増え始めた。
まるで鈴仙を地上の仲間と思い、別れを惜しむ妖怪兎たちが。
てゐはいつのまにか空になっていた湯飲みを掴み、反対側の手で妖怪兎の頭をぽんっと叩いた。妖怪兎の意識がその叩かれた部分に集中しているうちに素早くその身を翻して、逃げるように廊下を走った。
からかわないで欲しい、と、妖怪兎が不機嫌さを露わにして口を開こうとし、
「鈴仙だって、私達と一緒だよ」
背中を見せてつぶやくてゐの言葉で唇を止める。
「地上に生まれた者は、地上。月に生まれた者は、月。常識的な問題じゃなくて……そのほうが『幸せ』かもしれないでしょ?」
それ以上言葉を発しなくなった妖怪兎をその場に残し、てゐは作業終了を知らせに軽く跳ねた。
寒さの厳しくなり始めた日のことだった。
診療時間を終えて輝夜を含めた永遠亭の全員が掘り炬燵で暖をとっていたところ、控えめな呼び鈴が屋敷の中に響いた。
視線による、『あなたが行きなさいよ』的な攻防を鈴仙とてゐで繰り広げていたところ、永琳の教育的指導により鈴仙が出迎えをすることなった。
それが、まさかこのような結果を生むと誰が予想しただろう。
地上の鈴仙が、おどおどしながらフスマを開き。
月のレイセンが、体を硬くして震えながら入ってくる。
「え、何? 駄洒落?」
輝夜の第一声がその異常さを示していた。
つまり、冗談でしかあり得ないと言うこと。
満月が幾晩か前に過ぎ、月の道が細いこの夜に危険を冒して月の使者がやってくる。その事実が何を指し示すか。
「皆様にご連絡がある、とのことで、急ぎ書面にて……」
過去の大罪人の二人。
けれど、大物過ぎる二人。
それを目の前にして、レイセンは頭が畳にめり込んでしまうのではないかと心配になるほど身を低くして、ぷるぷる震えながら封筒を差し出す。まだ永琳と輝夜はこたつから出ても居ないというのに。
「ラブレターだったりして♪」
「……」
「あー、駄目だこりゃ」
そして、もう一人の罪人はレイセンの横で控え、真剣な顔で客人を見下ろしている。てゐが冗談交じりに声を掛けても、余裕がまったく感じられない。形だけは正座をしているものの、中身を見れば明らかに客に対する態度ではなかった。しかし月から逃げてきた鈴仙にとって、書状と客人のセットは気を許せるものではないのだから仕方ない。
八雲が画策した計画により、地上との意識的交流は進んだという話ではあるものの。永遠亭と月の立場が飛躍的に進展したわけでもないのだから。
「えーっと、師匠と姫様、早くソレを開けてあげないと若干一名の緊張がピークなんですけど」
「だ、誰が緊張シテるって証拠よ!」
「声、裏返ってる」
「うぐっ……」
ジト目で見つめられた鈴仙は、膝の上で両手を握ったまま口を開かなくなる。ただ、緊張は多少解けたようで、背筋を正しいつもと同じような対外用のすまし顔を作り出した。
そんな弟子の小さな努力を微笑みながら見ていた永琳は、やっと封を切り始め、
「……季節の挨拶が長すぎる。用件は明確に、依姫にそう伝えておきなさい」
「あの子、永琳にべっとりだから。意識しすぎたんでしょうね。実にらしいけれど」
一緒になって眺める永遠亭の代表者二人。
その矢面に立たされるレイセンの緊張も実は限界を振り切っていたりするのだが、それはまた別の話。
手紙に集中するにしたがって、永琳と輝夜の言葉数も少なくなり。
「ぷっ」
まったく同じタイミングで眉間に皺を寄せられ、てゐは思わず噴いてしまう。
けれど、その表情は険しいまま。
「鈴仙、あなたも読んでご覧なさい」
「は、はい! 失礼します!」
その内容を今か今かと待ち望んでいた鈴仙は、差し出された手紙を音速が超える勢いでつかみ取る。てゐもその後ろから内容を盗み見ようとするが、胸元で隠すように読んでいるものだから肝心な下の内容が隠れて見えない。邪魔な二つの脂肪の塊の影で、
しかし鈴仙に対するてゐの辞書には遠慮などという二文字はない。
強引に体を脇の下からねじ込んで内容を見てやろうとした、
まさに、そのときだった。
「えええええええええええええええええっ!」
「ぎゃあああああああああああああああっ!」
脇を潜ったせいで、ちょうど鈴仙の口元に配置されることとなった耳に大音量の叫び声がダイレクトアタック。
てゐは慌ててその場を離れて、耳を押さえてごろごろ畳の上を回る。
「うそ、そんな……、本当に私が……っ!」
驚きで震え、紙を取り落とす鈴仙。
その膝元に落ちた紙を横目でちらりと、てゐが見つめたとき。
『――今回の異変により、地上との関係を再考する必要があると判断された。その情報を多く保有する者として、過去に月を逃げ出した鈴仙を呼び戻すこととし、彼女が全面的に協力するのであれば過去に犯した罪を消す準備がこちらには――』
「師匠……私……」
『――なお、地上で汚れを受けていた場合。特例的に祓い清め、再び月で安寧を過ごせるようになることを約束する。以上の条件で――』
「私……月に……帰れるんですか……、帰っても、いいんですか……」
ぽろぽろ、と。
滝の滴のように零れ落ちる涙は、何を想ってのことか。
「あなたの、好きになさい。鈴仙」
「ありがとうございます、師匠……」
故郷か、残してきた仲間か、それとも……
大切な誰かと再会できる歓喜か、
寿命に恐れなくて済む安堵か。
畳に染みこむ涙の意味など、てゐに理解できるはずがなかった。
けれど……
てゐは顔を畳につけたまま、想う。
鈴仙が人目を憚らずに涙を流す姿と、
頭を下げたレイセンのどこか暗い表情。
対照的な二つの顔を静かに視界に入れながら――
ざわつく心を押さえ込んでいた。
迎えは、次の満月に送る。
少しでも戻る気があるのなら、レイセンにその旨を伝えて欲しい。
そんな意味合いの文章で最後は締めくくられていた。
「えっとー、そこの田中さんはこの黄色い飲み薬を二つ。田中さんの家が終わったら隣の表札がかかってる方の家に入るの」
「あーい」
人里の中、二人の妖怪兎が薬箱を背負い、ざくざくと雪を踏みしめる。日が高くなっても降り積もった雪のせいで人影はまばら、見かけるとしても屋根から落ちた背丈ほどの雪を書き出す男たちと、雪遊びにいそしむ子供たちばかり。
その風景に溶け込み、生活の一部になった兎の薬売りの片割れ。周囲に愛想を振り撒き手を振る小さな影は、隣の大きな仲間の説明に対し相槌を打ち続ける。
「ほらあそこの上杉さんって所ね。具合はどうですかって、聞いて簡単に診察してからどんな薬が欲しいかを尋ねる。咳止めがほしいって言ったらこの赤い包みを渡して、熱さましが欲しいっていったらさっきと同じ黄色い薬ね」
「ほいほーい」
ただ、その声の低いこと低いこと。
笑顔と一緒にドスのきいた音程を返すてゐの内心を知ってか知らずか、鈴仙のレクチャーはどんどんと勢いを増していく。
「あ、そうそう、風邪気味だって話を聞いたら、この白い包みの薬をすすめるのを忘れないで、道端で声をかけられても笑顔で対応。ほら、こんな風に、やってみて」
「うっさい、黙れ♪」
「わぁぉ……素敵な笑顔……」
こめかみあたりに青筋を立てて満面の笑みで鈴仙を見上げる。
この言葉が示すとおり、てゐは我慢の限界だった。
周囲の目も気にせずにどんどんっと地団駄を踏む。
「あのね、永遠亭からずっと同じ話聞かされてるこっちの身にもなってよ。どうせメモどおりに薬配って、声かけられたらお金を受け取って薬を渡す。それだけでしょ? それをくどくどくどくどと、耳にたこができる!」
「でも私がいなくなったら誰か変わりにやらないといけないじゃない」
「私が能力を抑え忘れて人里に下りたら、間違いなく大問題になるけどね。幸運どころか奇跡の大安売りってとこかな」
万分の一、十万分の一の幸運により狂乱する人里のイメージが鈴仙の頭の中に沸いてきて、ぶんぶんっとかぶりを振る。思い浮かべた異次元を消し去り、ならばと別案を示してみる。てゐが駄目なら妖怪兎たちはどうか、と。
「あの子達が人間とうまく接するには時間がかかるだろうね」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
まったくそのとおり。
てゐも駄目、妖怪兎も駄目となると、どうすればいいのやら。まさか師匠である永琳に、
『自分で行って来い♪』
なんて言えるはずもなく。
鈴仙は営業スマイルも忘れて、ジト目をてゐに向けた。
そしたら、思いもよらない言葉が飛んでくる。
「帰んなきゃいいじゃん。私の生活環境維持のために」
「お、お断りよ! なんでてゐのために私の生活棒に振らないといけないのよ。決めた、うん、やっぱり決めた。配達役はてゐね。妖怪兎のリーダーとして決めたから。師匠にも言ってあるし」
「形式上だけのリーダーなのに職権乱用だなぁ、何様って話よね」
単なる冗談か、それとも……
帰らなければいい、というてゐの言葉で鈴仙はわずかに揺れる。過去の過ちを清算して、もう一度月での生活をやり直したいと考えていたというのに、多少なりとも一緒に過ごしていただけ。それだけの地上の妖怪兎の言葉で、玉兎である鈴仙の心が反応する。
下賎な地上の妖怪と接していたのは、月で暮らした時間から比べればほんのわずかだというのに。
「じゃあ、一件目いくよ。ついてきて」
玉兎に戻るのだから、地上の価値観から再度頭の中を切り替えなければいけない。鈴仙は決意を新たに、新米の配達員を加えて笑顔を顔に貼り付けた。
立ち寄る家ごとに『今日は何故二人なのか』と尋ねられるが、
「少し、暇を頂く事になりまして」
と、はぐらかす。
その間はこのてゐが担当しますと告げて、完全に逃げ道を無くすようにして。
「さみしくなるねぇ、鈴仙ちゃんは美人だから」
「お世辞を言っても薬は安くなりませんよ?」
「はっはっは、鈴仙ちゃんには敵わないなぁ」
別れを惜しむ老人に対してもあっさり対応する。
そんな手馴れた鈴仙をてゐは不思議そうに見上げて、
「本当に、いいの?」
「何が?」
「ん、なんでもない」
その後もずっと、てゐは横目で鈴仙見上げて……
何度も首を傾げていた。
満月の夜まで後、7日。
鈴仙が生活の中で身支度を整え始めた。
自室で大袈裟にアレがない、コレがない。制服に虫の穴が、と大騒ぎする声が風物詩となり始めている。
「悪いわね、鈴仙の代役を頼んでしまって」
「一人でやれるんなら無理に弟子を置かなくてもいいんじゃない?」
「……癖、かしらね」
「癖で私を医者にしようなんて言わないでよ?」
「忠告お受けいたしました。この環境も慣れてしまえば呆気ないものでしょうけれど……」
しかし、配達以外は永琳の助手役になり始めたてゐは、鈴仙の奇声を聞く機会がほとんどない。
聞く音と言えば、永琳の診察で一喜一憂する患者の声と、手元でごろごろと前後に移動する薬引きの音だけ。やったー白い粉がこんなにできたー、なんて達成感もあるはずもなく、淡々とした作業を繰り返したてゐの全身からは退廃的なオーラが立ち上っている。
「こんな地味な製薬作業、夜中に姫様とかにもやらせればいいんじゃないの? 肩書きだけなんだからさ」
「……苛々のせいで刺々しくなるのはわかるけれど、姫様はそういうことをなさるべきお方ではないから。できればてゐの部下を少しこっちに振り分けてもらえないかしら?」
「仕方ないなぁ、単純作業が好きそうなのを二人ほど連れてくるよ。でも、鈴仙が居なくて寂しいからって、変なこと教えないでよ? はい、こっちはでーきたっと♪」
乾いた木の実を磨り潰した粉を丁寧に大皿へ移し、大きく一伸び。次の作業を与えられてはかなわないと素早く入り口へ走るてゐだったが。
「ねえ、てゐ?」
それよりも早く背中に声をぶつけられて、嫌そうに振り返る。
無視することもできたが、永琳の声がなんだか優しい声音だったので思わず反応してしまったのだ。
「てゐは鈴仙に帰って欲しくない、そう仮定したとして。あくまでも仮定の話なのだけれど。もし少しでもそういう気があった場合、鈴仙を迷わせることだけはしないで欲しいの。これは私と姫様の結論よ」
「うっわー、ありえないし。だって最近あいつ調子乗ってるもんね。月の兎は地上と違うんだって、そう主張してるみたい。そんな奴なんてこっちから願い下げだよ」
「それは許してあげて、あの子なりに月の生活を取り戻そうと必死なのよ」
「……ま、いいけど」
余所余所しい態度を取り始めた鈴仙を煙たがる妖怪兎たちは確かにいる。挨拶をしたのに、返してくれなかった。なんてくだらない報告もてゐには上がってくる。
その声を聞く度に『またか』とため息が零れたが、苛立ちよりも先にいじらしく思えてしまう。
「やっと立つことを始めようとしている子供に、簡単に手を貸すなってこと?」
「ええ、あの子はその手を簡単に取ってしまう。だから、あの子にしっかりと選ばせてあげたいのよ」
人間と比べればはるかに長く生きてきた鈴仙であるが、この二人からして見ればどうしても未熟な妖怪兎。自分の意志で月から出た理由も決して誉められたものではなく、目の前の危機から逃げようとしただけ。
だからこそ永琳は、鈴仙が大人になるきっかけを与えたいのかもしれない。
判断と責任、その二つを。
「その結果、地上を選んだら?」
「今までの生活が続く」
「月を選んだら?」
「弟子兼助手が一人いなくなる。それだけのことよ」
『表面上はね』
声には出さないが、唇の動きのみをてゐに見せる。
長い時間を生き賢者と謳われた永琳でも、一緒に暮らしていた者が居なくなるなったとき、多少なりとも空虚な想いにかられるのは仕方のないこと。
てゐだってそうだ。
気にならない相手にいたずらなんてするはずがない。
「私もそろそろ弟子離れのときかしら」
「姫離れは?」
「それは……難しいでしょうね」
「生活能力皆無だもんね。不老不死だから置いといてもしなないけど、ほっといたらお腹が空いたとかうるさいし」
「あなたはたくまし過ぎるような気もするのだけれど、生き残るという点だけでなら」
「健康第一がモットーだもの。それにさ、伊達に妖怪兎のまとめ役やってないってね。どこぞの吸血鬼や胡散臭い妖怪よりもカリスマ性あるんじゃない? さああなたも今から『てゐ式健康法』を試してみようっ、て商売も考えてたり」
「その資金源は?」
「永遠亭の提供でお送りしています」
「却下」
「えぇぇ~っ」
普段と同じやり取りだった。
真剣な話し合いをしていたと思うと、すぐにてゐがはぐらかし、おかしな方向に話を持っていく。
けれど、その明るさが今の永遠亭必要なものだとわかっているから、そこそこ行き過ぎた発言があっても永琳は咎めない。
「明日は姫様のところに行くから、こっちに来ないけどいいよね?」
「変わりに、代役の件頼んだわ」
「忘れてなかったら、考えとく。考えとくだけかもしれないけど♪」
「こらっ!」
「じゃ、おっつかれさまぁ~♪」
そして、永遠亭にムードメーカーが必要なことを一番理解している者は、たぶん、一族を纏め上げてきた経験を持ったてゐ自身。
見た目、仕草、どこを取っても幼い妖怪兎と大差ないというのに……
知らないうちに先頭にたって、その場を動かそうとしている。
「ふふ、お年寄りは頑固で我侭ともいうしね。まだまだ若い者にはまけてられないってところかしらね」
そして、自嘲気味に微笑んだ永琳は、小さく拳に気合を込めてから、配達用の薬品製造を始めようとするが、
「あら、いけないいけない」
『準備中』の看板を出し忘れたことを思い出して外へ出る。
足早に外へ出れば、いきなり真っ白な吐息が口から毀れて、薄暗い闇が覆い始めていることに気が付いた。
客足も消え、すっかり静けさに包まれつつある迷いの竹林の外では、夕日が赤く燃えているのだろう。
その世界の切り替わりを想像の中で生み出し、一日終わりを玄関前に立て掛けた。
後は戻って仕事の続きをするだけ、戸に手をかけ開けようとしたそのとき。
ちらちらと舞い降りた雪の一欠けらが、手の甲に触れ――
溶けて消えた。
「いたずらするべきか、しぬべきか」
昨日、永琳から影響を与えるなと釘を刺されたから、身の安全を確保するためにまったく手を出さないようにするべきか。それとも許されるぎりぎりの範囲を狙って、回数を一日15回から3回にするべきかと。己の存在意義を掛けて慎重に思考を巡らせ廊下を歩く。
目の前には鈴仙の部屋があり、あれがないこれがない、と加虐心をくすぐる声を漏らしていた。けれど、安易に仕掛けるわけにはいかないと、てゐはその欲望をじっと耐え、部屋のふすまから視線を外したところで、
鈴仙の部屋が爆発した。
てゐの目にも一瞬しか見えなかったが、あれはたぶん隕石似た天災だ。
屋根を避け、絶妙の入射角で飛来した白黒的飛来物により、気持ちいいくらいの轟音が周囲に響く。埃が舞い、鈴仙の服が舞い、ついでに鈴仙も舞い上がり。
「あぅっ!!」
「おーい、おはよ。元気?」
綺麗に放物線を描き、ずぽっと雪の上に人型の窪みを作り出す。
盛大に尻餅を尽き、腰だけを深く雪の中に埋めるという情けない格好で目を回す鈴仙はてゐの挨拶にも返事がない。仕方なくてゐは雪の上を軽い足取りで飛び跳ね、倒れている鈴仙の耳をくぃっくぃっと引っ張った。
「いったぁ……てゐ、また何かした?」
「私が永遠亭を壊すような真似するわけないじゃん。後が怖いし」
「……てゐが言うとそれ以外ならなんでもするように聞こえるから怖いのよね。でも、てゐじゃないっていうなら今の爆発は……」
埃が段々と薄れていく中、奇妙な物体が突撃した部屋と廊下との区切りの位置にシルエットが現れ始める。その頭部が尖っていたからどんな奇天烈な生物かと疑ってしまったが、何の事はない。
「よう! 邪魔してるぜ!」
はっきりと顔を見せた犯人は、腰に手を当て、胸を張ると大きく息を吸い込んだ。
そして中庭にいるてゐと、倒れこんだままの鈴仙を指差そうとして、
「げほっごほっっ……ちょ、まっ……」
「あ~、吸い込むよね、埃」
「うん、そうだね、てゐ。普通はわかるよね」
「普通の魔法使いなのに、普通のことがわからないなんて。まるで鈴仙みたいに抜けてるよね。今は雪で無駄におっきなおしりが抜けないって感じ~♪ きゃっ、恥ずかしい♪」
「こっち向きなさぁぁい、てぇゐ♪ ちょぉぉっとだけ狂わせてあげるから♪」
「けほけほっ! お、おーい! 無視するな!」
派手な登場の割に放置されつつあった霧雨魔理沙は、箒を大きく振り自分の存在をアピールする。その頑張りが功をそうしたのか、ぎすぎすし始めた妖怪兎の注意を引くことに成功した。
ここを逃すまいと、魔理沙は箒を横に持ちあらためて小さく胸を張る。
「こほん、あー、あー、本日は晴天なり。本日は晴天なり。ってことで、今夜博麗神社で鍋やるから。食材とか酒とか兎とか持ってきてくれよ」
「……前後の話がまったく理解できない上に、さりげなく兎とか意味不過ぎて怖い」
そもそも、それを伝えるのに部屋を爆発させるほどの突撃を繰り出した意味がわからない。鈴仙が雪の中から這い出ようとする中、てゐはその横でうんうんっと頷く。
「美味しいご飯を食べにいったら、美味しくいただかれましたって感じだね。うん、がんばれ鈴仙っ!」
「何で私っ! こら、気軽に肩叩くな。それでそこの魔法使い、いきなり兎鍋とかケンカうってるわけ?」
「怒るなって、そっちが参加するなら兎はなしにしてもいいぜ」
「参加しなかったら?」
「竹林の兎の数が減るかもしれないけどな」
「つまり、天気がいいから鍋をやる、その具材を兎にされたくなかったら出て来いと?」
「うんうん、そういうことだ」
何を馬鹿馬鹿しいことを言っているのか。
最初の一撃で部屋とせっかく整理した荷物に多大な被害を被った鈴仙は、最初から頷くつもりなどなかった。それでも駄目だと言うのなら狂気の瞳を使うまでだ、と。魔理沙が正面にくるように自然に距離と位置を取る。
けれど、次に出てくる魔理沙の言葉が真紅に染まり始めた瞳の変化を止めた。
「ま、主催と出資者は人里のお偉いさんだそうだぜ。会場の取り押さえもそっちからの根回しだな。私は霊夢に言われて伝言係をしてるだけだし」
「……人里?」
「えーっと、なんだっけ。鈴仙、お前どっかいくんだろ? そういう噂が人里で広がってるらしくてさ。世話になったからわいわい騒いでくれって、霊夢のところに慧音が伝えに来たらしい。だから主役がこないと始まんないんだよ」
お礼の宴席。
あの手紙を見る前の鈴仙であれば、どのような反応をしたか。
てゐは想像を巡らせて見るが、その途中で止める。今ここにいる鈴仙は少しでも月にいるときの考え方を取り戻そうとする玉兎もどきなのだから。
「ふーん、地上の人間もなかなか立場がわかってるじゃない」
地上のことを悪く言う月の民、その言葉を信じる玉兎らしい言葉使いだった。
それが理解しているから、てゐは鈴仙の口から感謝の言葉が出なくても不自然さを感じない。けれど、魔理沙からしてみれば唐突な変化に見えるだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてから、何度も瞬きを繰り返した。
「なんだよ、祝い甲斐のないやつだなぁお前は。ま、私はお前がくれば飲んで騒げるからそれでいいんだけどな、じゃ、日が沈んだらよろしく頼むぜ」
もう少し騒々しい反応を期待したのだろうか。
魔理沙は肩を竦めてため息をつくと、箒にまたがって飛んでいってしまう。今の鈴仙をからかっても面白くないと判断したのかもしれない。
あの爆発も、彼女なりの景気付けだったのだろう。
「てゐは?」
「ん?」
「もちろん、行くんでしょ?」
「ん~……そうだなぁ」
永琳の禁止事項。
それがどこまで該当するかわからないが、これはてゐが企画したことではない。あくまでも他の要因で引き起こされた事実であって、鈴仙を見張るためにも側にいることが好ましい。
そう、仕方ないのいことだ。
妖怪兎に留守を任せるのは忍びないが、これも任務。
「じゃ、私もタダ酒飲みにいってくるかなぁ」
……多少、酒の味を期待してしまうのが悲しい性であるが。
そんなことをためしに口走ってみると。
いつもはからかわれる側の鈴仙が、静かにてゐを見つめていて。
「私も、最後くらい楽しもうかな」
月の兎の演技を忘れた、いつもの隣人がそこにいた。
「うわー、見事に妖怪だらけだし……」
「人里主催って言っても、お金とお酒援助してくれたくらいなんじゃない?」
わざわざ階段のほうへ回って階段を上っていた二人の妖怪兎の視界に現れたのは、雪を綺麗にどかした境内に居座る妖怪たちの群れ。人間が主役の宴席ではなく、いつもと大して変わらない面子が顔を揃えていた。違いといえばこの季節にしかいない雪女が混ざっているくらいで、吸血鬼等の妖怪に始まり、亡霊、死神、妖精等といったイロモノオンパレードである。
しかも、主役が来る前だというのにその半数以上が出来上がっている始末。
「おぅ、始めてるけどいいよな?」
「いいわよ、どうせそんなことだろうと思ってたし」
「よーし、みんなー、主役の鈴仙のご登場だ。いまから駆けつけ三杯一気飲みするってさ~!」
「ちょ、ま、魔理沙! 私はまだそんな気分じゃっ! こら、引っ張るな! なんか鬼が見てる、すっごい笑顔で近寄って来てる!」
宴席でちっちゃな鬼に捕まったら最後、地獄確定一直線。
ほろ酔いの魔理沙の手を振り解こうとした鈴仙であったが、もうそのときには小さな影が地面をしっかり踏みしめていた。
もちろん、側にいたてゐは素早くサイドステップで安全圏まで逃げ去っており。
「まあ、のめのめ~」
「ん~~~~っ!
肩の上に乗った萃香が無理やり鈴仙の口に瓢箪を押し込む。
観客たちはそれをやんややんやと囃し立て、
「おーい、れぇ~いむ、日本酒ちょ~だい♪」
「仲間なんだから、ちょっとは助けてあげなさいよね」
「か弱いウサギさんに何を期待しているのやら、よく言うじゃない触らぬ神に祟りなしって」
もう一匹はというと、ちゃっかり神社よりの位置まで回り込み、ゴザの上で一休みしていた霊夢に酒をねだっていた。テーブルの上の鍋にも興味深々といったところで
「はい、お神酒の残りだけどどうぞ」
「ありがたき幸せ。ぷはぁ~、生き返るなぁ。それにしてもなんで外なの?」
「これだけの人数が入ったらさすがに狭いし、片付けも大変でしょう? だからね、神奈子の御柱を境内四隅に配置して結界を作ったってわけ。あとはその中の空気を炎が得意な妖怪に暖めてもらってね。ついでに月や星の光も増幅してるから、比較的周囲も明るいでしょう?」
「……そんなことで神通力使うって緩いな~、あそこの神様」
「皮を剥ぐような怖い神様のほうがいい?」
「え~、人類愛と妖怪愛を兼ね備えた私はやっぱり平和的な神様のほうが良いかなぁ」
「じゃ、アレでいいじゃない」
「うん、アレでいいね」
ちょうど神様の話題を出したころ、スイカがやっと鈴仙を開放し、続いて神様がその身柄を笑顔で拘束。早苗や諏訪子、他の妖怪の山勢が座る場所へと引き込んで世間話を始めていた。
ただ、簡単な挨拶の中には必ず『鈴仙がいなくなると寂しくなる』という言葉が含まれていて、それを聞くたびに鈴仙は鼻の頭を掻いていた。
お酒かそれとも別の勘定のせいか、頬もほんのり赤くなっているように見える。
「社交辞令とわかっていても、うれしいものなんでしょうね、たぶん」
「そんなもんでしょ。感謝の言葉だって予想できても悪い気がしないことの方が多いし」
お酒を軽く啜って、準備されていた鍋に箸を伸ばすが、伸ばしかけた手を霊夢が制す。てゐが不思議そうに首を傾げると、疑問の声を聞く間もなく霊夢が鍋の具をお玉ですくって、てゐの前に差し出した。
「一応主役の付き人なんだから、一緒にもてなすのが礼儀ってもんでしょ?」
てゐは信じられないものを見るかのように、差し出されたお椀をじーっと見つめ、ちょいちょいっと中身を指差す。
「毒入り?」
「あのね、私が仕事以外で妖怪退治するわけないじゃない。ほら、さっさと持っていく」
「邪魔だからって理由で、弾幕ばら撒く巫女の台詞じゃ……」
「新鮮な兎肉になりたい?」
「いっただっきま~すっ」
冷静だと思っていた霊夢にも、どうやら酒が回っているらしい。
いきなり目が据わったのを確認したてゐは、慌てて具の入った鍋を受け取って素早く箸を動かし始めた。それを見て、満足そうに頷く霊夢の顔を見てほっとするてゐであったが、ちょっとした疑問が胸の中に浮かんでくる。主役の次に尊重されるべき霊夢が、どうして輪から少し離れたこの場に座っているのか。
そういう気分なのだろうか、とてゐが酒の勢いで聞いてしまおうと思ったとき。
置いてあったはずのお猪口からお酒が消え失せていた。
それで、てゐは気づく。
「な~るほどね、タチの悪い妖怪の相手をするためにここにいるわけか」
「あ、わかってくれた? そうなのよ、あいつ最初に私と顔を合わせないと妙に機嫌悪くなるから。遅刻常習犯の癖に、困った奴。ねぇ、胡散臭いスキマ妖怪さん?」
「……あら、失礼ですわね。冬眠しているこの時期に死力を尽くして参加しようとする私の心意気を理解しようとしないなんて」
「……死力尽くしたの絶対あんたの後ろの藍でしょ、すっごいフラフラしてるけど?」
「あは、はははははははっ、心配には及ばないよ……、寝起きで機嫌の悪い紫様のお世話くらい……慣れたもの……うっ」
いきなりてゐの後ろで境界が開いたかと思ったら、そこから出てきた藍がゴザの上にばたり、と転がって動かなくなる。それと同時に出てきた紫は、咳払いを一つだけしてからてゐと霊夢の間に無理やり割って入った。
「橙は?」
「遊び疲れて眠っていましたから、無理に連れてはきませんでした。さあ霊夢、私にも一杯何かいただけないかしら?」
「鍋のだし汁でいい?」
「お断りいたします」
なんだかんだ言いながら、火にかけておいた熱燗を持ってきた霊夢は、お猪口と一緒に紫に差し出す。最初の一杯だけは手酌をして、あとはご自由にと銚子を預けた。ぞんざいに扱われていると、知らぬ者ならそう受け取るかもしれないが、紫は満足気に片目をつぶると暖かい手をこすり合わせ鍋の熱気で暖を取る。
「しかし人間も妙なことをするものですわね。故郷に帰る兎を祝うなどとは」
「……あんたの言いたいことは大体わかるけどね。私だって月でのいざこざに参加させられたわけだし」
「そういう物騒な話はやめてよね、せっかく楽しもうって言うのにさ」
扇子を取り出して口元を隠し、遠くに座り雑談する鈴仙を見つめる。その瞳は宴席とは思えないほど冷ややかで、まるで怨敵を睨み付けているという錯覚すら感じるほど。
「あら、玉兎の帰る場所はもちろん、月。それならば、地上と敵対する可能性は十分ありえると思いますけれど? それならばいっそのこと、この場で鍋の具にしてしまったほうがよろしいかと……」
「で? 本音は?」
「一人くらい月に戻っても戦力差が覆るわけでもありませんし、霊夢と一緒にお酒を楽しめる機会を逃す手はありませんわ♪」
「はいはい、面倒な性格ですこと」
霊夢はため息をついて首を左右に振る。
てゐは鍋の具を口に運ぶ演技を続けて、二人のやりとりを眺めていた。もちろん、月に帰れば地上に敵対する行動を取らなければいけない日がやってくるかもしれない。それに鈴仙が参加できるかと考えてみれば、てゐはどうしてもその姿を想像できない。
けれど、それを決断し、実行するのは鈴仙なのだから。てゐはそれを無理に思案させるべきではないと思っていた。兵士であった者が、その程度のことを考えないはずがないのだから。
「兎にとっては餅つきをする日を決める大きな時計、少なくとも私はそれで十分♪」
「風情も何もない話ですわね、せめて月見を楽しむとか」
「月より団子でしょ?」
「でも、団子よりお酒なわけでしょ? 人外のお二人さんは」
「ん、もちろん♪」
「当然ですわね」
この八雲紫でさえ、圧倒する月の実力者と、その科学力。
輝夜や永琳の話である程度はてゐも把握しているが、その話に出てくるのが絶対に切れない紐や、扇ぐだけで風を受けた物質を塵と化す武器など、眉唾物の話が実在するのだから正面きって戦うこと自体が馬鹿げている。
それならば、酒を飲む場に招いて、共に違う世界を統治し続ける方がお互いのため。他の世界の干渉を最小限に留めて、緩やかな歴史を刻んできたのが幻想郷なのだから。
眺めて楽しむものに留めておくのが、月の一般的な利用方だろう。
それ以上は、てゐもお勧めできない。
「で、紫は鈴仙に挨拶とかしにいかなくてもいいの? レミリアとかも今終わったみたいだけど?」
「そうねぇ、霊夢に任せるわ。別段、別れを惜しむほど親しくもありませんし」
「あんたらしい反応だわ」
霊夢の言葉どおり、三人とぐったりした九尾の少し先でレミリアや咲夜が鈴仙に酌をしてその場から離れていくところだった。その後は、白玉楼の庭師である妖夢と親しげに言葉を交わしていたが。
「……あっ! てゐ! よくも私を見捨てたわね!」
「それにあちらから来てくれるようですし」
とうとうてゐを見つけて、三人の側にやってくる。
若干足元がおぼつかないのは酔いのせいに違いない。
「見捨てたわけじゃないよ? 私の手には負えないから、早々に諦めて非難した」
「その行動を見捨てたって言うのよ!」
「やーん♪ だってか弱い兎さんが、こわぁ~い鬼さんに捕まったら大変じゃない?」
「くねくねするな、年考えろ!」
「む~」
一通り霊夢たち以外との挨拶を終えたようで、積極的に近づこうとする人影はなかった。各々宴席を満喫しているようである。
「食べ物を胃に入れずにお酒を飲んだら悪酔いするわよ? はい、どうぞ」
「もう手遅れな気もするけどね」
ようやくまともに箸を持つことができた鈴仙は、鍋を挟んでてゐの反対側へ座る。朱に染まった頬と額に手を触れさせて、はぁっとため息をつくのは熱を帯びた顔で酔いの度合いを確かめたのだろうか。
「ひとまず、いなくなると寂しくなるとでも伝えておきましょうか?」
「いいわよ。いわれ飽きたし、そこのスキマ妖怪の笑いのネタにされそうだし」
「そう? 私もこの世界からまた妖怪が消えてしまうと思うと、涙が溢れそうで」
「その笑顔を消してから言ってくれる?」
「あら、これは失礼をば」
テーブルについて落ち着いた様子で料理を楽しみ始める鈴仙からは別段変わった雰囲気は認められない。どうやらお酒の回り具合が激しいようで、月の兎らしい態度を取ることが不可能になっているようだ。
それだけ地上の生活に慣れてしまったのだろうと、てゐは雑談に相槌を交えながら思案する。永琳が心配していた影響を与えすぎる出来事も何も起きていないし、今宵は素直に楽しむべきかと。
「そういえば、月っていろいろとすごい場所だったけど、妖怪兎の方はのんびりしてたっていうか、何かやることあるわけ?」
「月を守るために訓練をしてたでしょう? 依姫様がいないときは、ま、ちょっとだけ休憩したりするけど」
雑談の中でも、特に月に行ったことのある霊夢との会話は楽しいようで、時折斜め上に視線を向けつつ故郷のことを語る。
「いやいやそういうのじゃなくて、なんていうのかなぁ。あんたがなにをするのかってこと」
「……んー、逃げ出したことの謝罪と、やっぱり訓練かなぁ。また姫様たちと一緒に暮らせればいいなと思うけど」
それでも時折表情を曇らせるのは、やはり負い目があるから。
罪を許すから戻ってきてもいいという書状を受けたからといって、自分の行為がどれだけ月の規律を乱したかを自覚していたし、拭い切れないと知っている。
今の霊夢の問いかけに対しても、酒が入っていなかったら答えられなかったかもしれない。
「んー、ちょっと違うのよね」
鈴仙はその言葉にきっちり答えたつもりだった。
だから、難しい顔をする霊夢に対し眉をひそめて『何が?』と問い返した。
すると霊夢はぽんっと胸の前で両手を合わせ、笑顔を見せる。
「うん、夢、ってないの?」
「夢?」
「そうそう、将来こんな風になりたいとかそういうやつ。私は、どうせこの胡散臭い妖怪様に付き合って結界維持しないとって思うけど、子供とか結婚とか、人並みに夢はあるわけよ。叶えられるかわからないけど、見るだけ自由だし」
「そういう願望があるのかってこと?」
「ま、そんなところかしら? さっきの姫様と暮らしたいって言うのがそれに近いと思うんだけどね。人間の寿命は短いんだから、置き土産にそういう与太話くらいしていってもばちはあたらないと思うわよ?」
「そうねぇ、私の、希望、願望、夢か……」
腕を組み、小さく呻いて悩む。
やりたいことが多すぎて形にならないんじゃないかと、てゐは苦笑いしてその様子を眺めていた。
「さっき言ったけど、姫様たちと一緒に暮らしたいっていうのもあるわね。訓練のない日は気休めに遊戯もしてみたい」
ふむふむ、とてゐは自分で手酌をしながら聞き入る。
九尾の藍が中々目を覚まさないことを気にしつつ、尻尾を背もたれにして大きく一伸び。少し酔いが回ってきたらしいく、静かに流れる風の流れが心地よかった。
そんな中で、鈴仙は少し興奮した様子で言葉を続けている。
「それに、師匠の下で勉強を続けて、立派な薬師になることもあるし」
それもそうだ、未来の希望を語るのに重い顔をして語る者などいるはずがない。
「姫様の盆栽に付き合えるくらい、植物の種類も覚えたいし」
てゐはその言葉を聴き、体を起こした。
「てゐにだってまだリーダーって認めてもらってないし、いつか絶対みんなをまとめられるようなっ」
霊夢もその言葉の不自然さに気付き、口を開く。
「……鈴仙、気付いてる?」
「何よ、無理だって笑うつもり?」
ぼうっとする頭で導き出した、真実に限りなく近い心の音。
それが一体何を形にしたか、鈴仙は自覚していない。
霊夢が馬鹿にすると思い、半ば口元を手で隠し頬を朱に染めながら反対側の手で耳を弄る。そのいじらしい態度だけでは、その場に漂い始めた不自然な空気を取り払うことはできなかった。
「あなたの、今言った夢って……ほとんど……」
「霊夢っ!」
初めてかもしれない。
そんなことが今までなかったから、霊夢は驚きを隠さずに声の主を確認する。
あの、いつもどこかふざけているてゐが、まっすぐな瞳で霊夢を見つめていた。その必死な顔には余裕の欠片もなく、ただ首を小さく左右に振るだけ。
「何よ、てゐ、いきなり大声出して。あんたちゃぁ~んと私の夢のこと聞いてた? 私は、いつか絶対あんたが認めるくらい大物に……あ」
それでも、動き出した彼女の思考はそこに辿り着く。
本来は自分で辿り着かなければいけない夢の世界の色彩に、無理やり気付かされる。
「いつ、か……?」
その『いつか』がやってくる条件を考える。
まず、てゐがいること。
てゐの部下である妖怪兎たちがいること。
よくやったと褒めてくれる永琳と姫様がいること。
そして……最も大きな条件。
「でも、私は月に……でも、地上で薬師に、でも……」
『地上』にいること。
鈴仙は頭を押さえ、現実と夢の葛藤を繰り返す。
答えが出ない。
つぶやきは思考状況を明確に伝えてくるのに、その結論が導き出されるより早く最初に戻る。
理性を振り払う、酒の力で気付かされた本心が。
月という故郷へ帰ることに疑問をぶつけ続けていた。
「……八雲 紫」
「はいはい、わかったわよ」
このままにしておけない。
そう判断したてゐは紫を呼び、鈴仙の足元に隙間を開かせる。もちろん冷静さを欠いた彼女が回避行動を取るはずもなく、悲鳴すらなくその空間に飲み込まれていく。
接続先はもちろん、永遠亭の中の自室。
「ははは、ごめんね。楽しい席を変な雰囲気にしてさ。悪気はないから許してよ」
「ん、こっちも不用意な発言だったかしらね。まさかあんなに取り乱すなんて……」
「いや、たぶん、あれはこっちが悪いんだ。月に戻りたいって言ってから考える時間ばかり鈴仙にあげたけど、誰かが指摘しないといけないことだったのかもしれない」
なぜ、帰るのか。
鈴仙の中で結論が出ていたはずなのに、その理由が宙に浮いたままになっていた。
一度逃げだしたという罪悪感、そしてわずかな許されるという希望。
その二つに捕らわれて、『夢』を忘れていた結果が、これだ。
いや、こうなることをわかっていたから永琳は……
「ところで、あなたは戻らなくていいのかしら? 一応それ、まだ繋がってるわよ?」
「ん~、使わないよ。帰るには帰るけど、ちょっと考え事したいんだ。それとも、かわいいウサギさんに酌してほしい?」
「あまり他の妖獣に色目を使うと嫉妬深い式に睨まれてしまいますもの」
「ん、じゃあそういうことで。霊夢も後片付けよろしく~♪」
とん、と軽く地面を蹴る。
その一歩でてゐは神社の近くから鳥居の上まで飛び跳ねて、大きく手を振りながら再び夜空に身を任せる。
「はあ、憎たらしいくらい綺麗な星空だね~。まったく」
曇りきった心の内とは対照的な、騒々しい夜空を眺めながて。
まだ欠けた月に、そっと手を伸ばした。
それから三日三晩。
鈴仙は部屋から出てこなかった。
後二日もすると予定の日が、月からの迎えが来る日だというのに、鈴仙はなんの行動も起こさず。出された食事にもほとんど手をつけない状況だった。
「……イナバ、あなたも部屋に戻りなさい」
「健康には人一倍気を使ってるから平気、平気」
輝夜が言うように、三日三晩、てゐも鈴仙がいる廊下に腰を下ろし、中庭の方を向いていた。
時折、物音がして後ろを振り返ったとき、半分だけフスマを開けた鈴仙と目があったりもするが、何も言わない。ただ静寂を守り、庭の風景に溶け込み続けるだけ。
厠にいくために鈴仙がこそこそと部屋から出ても、気にしない。
時間が来るのを待ち続ける。
妖怪兎の先輩として、その日がくるまでじっと耐え、
月がずいぶんと丸みを帯びた四日目の夜のことだった。
「ねえ、てゐ?」
うす雲が作り出した雪がしんしんと降る中で、てゐの耳に弱々しい声が届いたのは。
それでもてゐは振り返らず、足を前後に揺らした。
「ねえ、てゐ?」
「聞こえてる、それと……」
声が小さすぎて聞こえなかったかもしれないと、鈴仙がもう一度てゐに呼びかける。するとてゐは同じくらいの大きさの声を返した。
「なんでも聞いてあげる。だからそのままでいいし、目を見て話せとかそういうこともいわない。置物に話してる感じで何か言ってみれば?」
怒りも、悲しみも、喜びも、感情のない平坦な声。
てゐらしくない態度に驚く鈴仙であったが、言われたとおり、顔の半分だけ開けた隙間から、ゆっくりと声を出し始める。
「私、月に帰れるって思ってからずっと、夢の中で昔の風景を見てた」
「うん」
「私はそこで武器を持ってるの。地上なんか比べ物にならない大きな都市と、そこに住むみんなの顔を毎日見て、私はこれを守るためにがんばってるんだっていう使命感に溢れてる夢」
「うん」
「がんばってたら、月の姫様たちに認められて、可愛がっていただいた。そんな幸せが一杯だったときの夢」
「うん」
「それでも……戦いが始まるって聞いて、使命感も幸せも捨てて、逃げ出した馬鹿で救いようのない臆病な兎の夢……」
「うん」
「だからかなぁ、絶対月に帰らないと駄目だって思った。師匠も姫様も『あなたの好きにしなさい』って言ってくれたから、あっちで頑張らないとって思ってたよ。準備だってしたし、服だって揃えた。でもね、あのとき、霊夢に言われて気付いたの。ううん、本当は自分でもわかってた癖に考えるのが嫌だったから、ずっと隠してたこと……」
段々と声の大きさが上がる度、鈴仙の声が詰まり始める。
てゐは揺れる感情を刺激しないよう、相槌だけを返して、声が止まっても促しはしなかった。
「馬鹿みたいだよね、私。昔あれだけ地上は穢れてるって言いながら、好きになっちゃうんだもん。……あはは、てゐのことだって生意気な地上の兎程度にしか思ってなかったんだけどな、いつからこうなったんだろう。薬を渡すときの笑顔が作り笑いじゃなくなったのも、ありがとうって喜んで手を振ってくれる人間に手を振り返すようになったのも、地上の兎使って兎鍋なんてもってのほかだって言い出すようになったのも、いつからだったか思い出せないよ……」
てゐも知っている。
一緒に配りに言ったときの、あの鈴仙の表情のほとんどは営業用の笑顔だったけれど、ほんの一瞬だけ、妙に魅力的に映るときがある。
ふとした瞬間ではあるが、そのときだけは作り物の感じが消え温かみすら与えてくれる。そうでなければ、人間たちがあんな宴席を準備してくれるはずがない。
「師匠のことだって、嫌な人だって思う時だってあった。慣れない地上で無理やり薬の配達押し付けられてさ……帰ったら薬を調合したりさ、種類を覚えさせられるの。少しでも反発したらここから出て行けとか言うし、でも、姫様がもう少しがんばってみなさいって言ってくれて……ちょっとだけ続けるけど絶対いつかやめてやるって思いながら働いてたらさ。『鈴仙、これがあなたの作った薬で助かった命の数よ』とか言いながら、手の平一杯の変な手紙とか渡してくるんだよね。そこにはさ、変な字でお姉さんありがとうっとか、そういうことが書いてあるんだよ。穢れのある地上だったら死ぬのが少し遅くなっただけなのにさ、私に感謝してくれる人がいるってこと、薬師のやりがいってやつを師匠が教えてくれた。姫様はそれでもくじけそうになる私の後ろにいつのまにかやってきて、盆栽の整理をするから手伝えって言いながら慰めてくれた。みんなが、見知らぬ地上で生きる支えになってくれてた」
「うん」
永琳は悩ませたくなかったのかもしれない。
望郷の想いが勝っている間に、鈴仙を月へと返すべきだと考えていたのかもしれない。地上ではいずれ穢れを帯びて、寿命を得ることなり、いつか悲しい別れの日を迎える。
その日が来ないよう、弟子馬鹿の師匠が考え抜いた結論。
永遠の命を持つ、輝夜もその案に賛同したに違いない。
故に、てゐに余計な影響を与えないよう、釘を刺し必要以上の接触を避けるようになったのかもしれない。
「私は……私はそんなことを忘れて浮かれてたんだよ! 月に帰れるって、ただそれだけ思って。許されるって思って、死ななくてすむと思って! また自分のことだけ考えてた…… なんなのよ、なんて嫌なやつなのよ…… 月で一度やったこと、もう一回やろうとしてる!」
「うん」
畳を打つ音が聞こえる。
嗚咽と一緒に、何度も、何度も、叩き付ける音が聞こえた。
けれどてゐは止めない。
気が済むまでやらせると、すべてを吐き出させると決めたから。
「てゐ、私……今は、帰りたくない……」
「うん」
「帰りたいよ。いつか月にいるみんなとまた、笑い合いたいよ。でも、今は駄目なの……」
「うん」
「でもね、私、馬鹿だから。依姫様や豊姫様の姿を見たら、なんて言うかわからない。あのお二人には返しても返しきれないほど素敵な想いをさせてもらった……その期待をまた裏切るかもしれないって思ったら……私、流される気がして怖い……」
「うん」
「怖い……怖いよ、てゐ……」
「大丈夫」
「え?」
初めて、てゐが相槌以外の言葉を口にする。
はっと顔を上げれば、いたずらっ子の顔をした小さな妖怪兎がいて。
「大丈夫、私がなんとかしてみせるから」
「あっ……」
鈴仙を落ち着かせる魔法の言葉をつぶやきながら、ぎゅっと抱きしめる。
それでも恐怖とは別の涙が鈴仙から溢れてきて――
その泣き声は、白く染まる景色の中で深く響いた。
そして、とうとう、その夜がやってきたのだった。
妖怪兎は緊張した面持ちで庭に集まり、息を呑んでいた。
てゐの戦いを必死に見守り、鈴仙とに応援する。
「……あ゛~、鈴仙~、水ぅ~」
「……ねえ? 聞いていい? あの宣言のあとこれってどういうこと?」
主に、風邪菌という相手との戦いを。
今は帰りたくない、でも、月の姫をみたらどうなるかわからない。
その不安を拭い切れていないのに、大口を叩いていたてゐはというと、ふかふかの布団の中でくぐもった声を上げるだけ。喉をやられているせいか、声もがらがらで張りのあるいつもの声の面影などゼロであった。
あたまもぼさぼさ、毛並み最悪、体調論外。
この状況のてゐに一体何を頼れというのか。
「鈴仙、てゐの様子はどう?」
「見てのとおりです、師匠」
「……酷いみたいね」
様子を覗きに来た永琳は、咳をするてゐの口を無理やり空けさせて、じっとその咽の様子を観察する。
「ん~、なるほどね……」
「悪そうですか?」
「一日安静にすれば治るでしょう」
一日、それではまったくもって当てにならない。
鈴仙は不安に駆られながら、レイセンが使いとしてやってくることを願い、満月に思いを馳せた。
だが――すでに世界は動いている。
そのとき、妖怪兎の一人が、竹林の中に異変を感じた。
妙な力の流れが一点に集まったかと思うと、そこから急に生き物の気配が消えたのである。
何がおきたのかと慌ててその場に駆けつければ、
「っ!」
信じられるだろうか。
昨日まで、いや、今朝まで確かに竹が多い茂っていた場所が何もない平坦な空間に塗り替えられていた。地面に残る落ち葉だけがそこに竹が生えていたことを告げている。地面を探れば、地面とほとんど変わらない高さに竹の切り株がいくつも、いくつも。
永遠亭がすっぽりと収まるくらいの範囲で、その光景が続いているのだ。
まるで、地面から上を大きな柄杓で掬い取られたような……
白い衣服をまとった、妖怪兎は他に何か手がかりはないかと鼻をすんすんっと鳴らし、
「地上の兎か、なかなか反応が早い」
声に驚いて空を見上げた。
普段は見えるはずのない、満月が天蓋を彩る中、それを背にする女性が一人。長い髪を頭の上でまとめた凛々しい女性は、右手には日本刀を持ち妖怪兎を見下ろしている。背を低くし威嚇の声を発しても、冷たい表情を向けたまま、妖怪兎の反応を試しているかのようにも見えた。
「しかし、未知なる敵との遭遇で伝令ができない状況とは愚策。月の玉兎は必ず二人一組で行動するよう命じていいるけれど、ここの主はそれができない。月から逃げて腑抜けになったということでしょうね」
「よくわからないけど! て、てゐ様の悪口を言うな!」
落胆した様子で高度を下げる女性であったが、妖怪兎の言葉を聴いて顎に手を当てる。
「報告にあった妖怪兎が出てくるということは……鈴仙がリーダーだという話はどうやら誤った情報のよう。ならばこの状況も頷けるけれど、しかし地上の妖怪を統率できないというのもまた問題かもしれない……」
とうとう地面に足をついた女性は、なんの構えも見せずに妖怪兎に歩み寄る。対する妖怪兎はというと、腰を引かせて周囲を見渡し、逃げ道と仲間の存在を確かめようと必死になっていた。
その間に、あと数歩前に出たら正体不明の女性とぶつかるところまで間合いを詰められてしまい。
「鈴仙という兎を連れて来て欲しいのだけれど、お願いできるかしら?」
「て、てゐ様からそういう女性が着たら通すなという命令を受けてるから! 絶対連れてこない。レイセンっていう月の兎だけを通せって言われてる!」
「連れてこられない?」
「そ、そうだ!」
「ということは、今、永遠亭というところにいるということね?」
「あっ!」
慌てて妖怪兎が口を塞ぐが、女性は笑顔を見せて飛び立とうとする。
けれど、妖怪兎はその体にしがみついて、
「てぇりゃぁ!」
ぶんっと、大きく投げ飛ばす。
小さくても妖獣、その筋力は人間の大人など比べ物にならない。
放物線を描いて中を舞う女性であったが、足から綺麗に着地し妖怪兎をじっと見つめる。
「あれだけ怯えていたのに、行動力はある、と。なかなか面白い性質をもっているわね」
「ど、どうだ! 参ったか!」
「そうね、驚いたのは確かだけれど……」
目標を視界に納めながら、刀ではなく。
左手に扇子を握り締めて……
「足止めには、なるはずもなし」
その兎に向けて、やさしく宙を撫でる。
二人の距離は二十歩以上開いており、風など届くはずがない。
そう思っていた兎の体を、優しい風が包み込んできて、
直後――
「――――――っ!!」
体がばらばらに引き裂かれた。
そんな奇妙な錯覚を妖怪兎は感じた。
肉体のつながりを根底から破壊されるような、暴力的な感覚。
痛みで立っていられなくなったのか、それとも足がなくなったのか。
それすらも判断できないうちに、地面の香りが鼻の中に溢れてくる。
「あ……かふっ……」
何をしたのかと、問いかけたくても、舌が痺れて声にならない。
妖怪兎の小さな体は四肢の形状を保ってはいても、機能をすべて放棄して、地面の上で震えるばかり。
「……苦しいでしょう? この扇子には物質を素粒子まで分解する力があります。手加減して使ったため外見に変化はないようですが、物質に重きを置く妖獣には十分効果があると推測できるかと」
「その……程度……」
「そちらでいう賢者の八雲紫でさえ、この武器の前に平伏せざるを得なかったのです。あなたが鈴仙を連れて来る気になっても誰も責めないとは思いますが……」
「紫が、負けた……?」
「そうです。月の技術とはそれほどのもの、そして、私は『綿月依姫』、博麗の巫女を打ち負かした存在でもあります」
能力を含めた力で言えば上位に君臨する紫と、対妖怪では無類の強さを発揮する霊夢。
それを破った技術と、能力。
圧倒的過ぎる力を前にしているのだ、逃げても誰も責めることはない。
「……何、言ってるの?」
それでも妖怪兎は、土を掴む。
風を受けてぼろぼろになった衣服になど目もくれない。
額を地面に押し付け、無理やり胸を浮かせると、そこに腕を入れて少しでも高く顔を上げた。
「あんたが、どんだけ強かろうと……」
膝を立て、腰を浮かせて四つん這いに、けれどそこから自力で体を起こすことができない。
「紫と、霊夢が、負けたとしても……」
膝と手の平を地面にこすり、後ろに下がる。
そして攻撃の範囲外で残った竹を掴むと、体重を預けて立ち上がって見せた。
「地上の兎よりも強いって証明には、ならないでしょうがっ!!」
脂汗がにじむ顔に、笑みを作り出して。
「意思の力か。仲間なら賛美を送りたいと純粋に思えるわね」
「……じゃあ、さ。ご褒美頂戴よ」
「褒美?」
「そう、私が……あなたの背中を一度でも地面につけたら……月に帰って……」
「……」
まだ膝を震わせている妖怪兎に何ができるか。
そんな勝負になど意味はない。
けれど、依姫は自らの足元を見て愕然とした。
つま先よりも前に、自分の足跡が残っていたのだ。
「それとも……この私に……」
あの風を受け、立ち上がってくる妖怪兎に気圧された。
「負けるのが怖い?」
間違いなく、依姫が身を引いた証拠だった。
刀を握る手はじっとりと汗が滲んでいて、その事実を動かないものとする。
「……受けましょう。では、そちらも背中を付いたら負け、それでよろしいか? 負けた際は鈴仙を連れて来る」
「上等、よ」
妖怪兎はふらつきながら、また低姿勢の戦闘体勢を取る。
今度は身を屈めるだけではなく、両手の力も使って初速を生み出そうと四肢を地面に接触させていた。
それでも、万全でない肉体に何ができるか。
依姫は扇子を服の中に収めると、両手で刀を握る。
油断なく正眼に構える姿からは、手加減の気配すら感じられない。下手な踏み込みでは簡単に刀に払われて、それで終わり。
妖怪兎はなんとか隙を探ろうと、瞳を細めるがどこへ飛び掛っても切り捨てられる想像しかできない。
けれど、進まなければ何も始まらない。
意を決した妖怪兎は、肩を揺らす。
その動きを見て依姫も刀を握りなおした。
そこで、妖怪兎の視線が、不自然な動きを見せる。
戦いの最中だというのに、真横に、右にすっと流れて。
その顔には、驚愕が張り付く。
「駄目っ! 鈴仙逃げて!」
視線と、声。
その先に最終目標である鈴仙が何か行動を起こそうとしている。
この状況で、その行動は何かと瞬時に判断した依姫は、右からの不意打ちに備えて体の向きを――
変えた。
刹那に、響く土の音。
しかも音は、叫んだ妖怪兎の地面から。
「くっ!」
鈴仙の姿など最初からなかった。
あの妖怪兎が依姫の隙を作るためにとっさに叫んだ嘘。
視線と、声の罠に、依姫はまんまと掛かった。
わずかな時間のうちに、妖怪兎は地を蹴り、最短距離で目標を目指す。
この一瞬を作り出せば、並の相手なら倒すことも可能。
けれど、妖怪兎の目の前の敵は、並ではない。
加えて単純な突進など、迎撃するのは難しくなかった。
「はぁっ!」
裂帛の気合を吐き、腰を落とす。
右足を軸として攻撃姿勢を再構築する頃には、妖怪兎は三歩先の位置。
動きを見てから刀を振りぬいても、十分な間合いだった。
後は兎特有の跳躍に気を配り、打ち落とす二の太刀のイメージを作って攻撃を仕掛けるだけ。
そして、一陣の風が舞う。
横薙ぎの斬撃が、直進する妖怪兎の真横から襲い掛かった。
避けるためには跳ねるしかできないが、それに対する対処も十分可能。
手加減せず、一気に沈める。
それがこの勇気ある兎に対する礼儀。
刀は無慈悲にもその妖怪兎を捕らえ、横に弾き飛ばす、ことはなかった。
しかも、二の太刀もない。
妖怪兎は、跳躍も、防御行動も取っていなかったはずなのに。
すっと、その刀から逃げた。
まるで……
地面にその身体が吸い込まれたかのように。
「ほら、ね?」
それでも、確かにその兎はいた。
地面にいきなり空いた穴の中。
『落とし穴』の側面に足の裏を付けて、にっこりと微笑んでいた。
依姫がまったく予想すらしない場所、地面の下から満面の笑みを向けていた。
「地上の兎も、捨てたもんじゃないでしょっ!」
飛び上がり、依姫の喉に手を掛けた妖怪兎はその勢いを殺さずに横回転。
抵抗する間も与えずにくるりと、その身を捻ると。
言葉どおり、背中を地面に叩きつる。
「かふっ!」
「ん、さすが私」
息を吐く依姫に馬乗りになった妖怪兎は、怪しい笑みを浮かべて首と刀を持った方の手を押さえつけた。
「……騙してくれたわね」
「しょうがないじゃない。自力で劣る場合は、頭をめぐらせるもんだよ。月のお姫様♪」
「人を騙す、兎。報告があるわ、その名前も確か……」
「そうだよ。私は、因幡てゐ♪ 地上の妖怪兎を束ねる代表者」
「出会ったときからすべて、演技だったということね」
うす桃色の服を着ているのが、兎の代表者。
外見ではそんな情報しかレイセンから聞いていなかった。
当然だろう、鈴仙や永琳、ましてや姫でも妖怪兎の外見だけでてゐと他の個体を見分けるのは困難なのだ。
それを利用し、てゐは初めから服を入れ替え、来訪に備えていた。
「いやぁ、月の姫様がお優しくて助かったよ。扇子を使って竹とかを吹き飛ばしたのは、いざという時に手加減して使うためなんでしょ? おかげ様で私も目的を果たすことができたし」
「……それが鈴仙の答えか。月に帰りたくないという」
「ん、帰りたいって言ってたよ」
「はっ?」
「今は、地上でやりたいことあるから帰れないけど、いつか絶対帰りたいって。帰れるって聞いたときも涙流して喜んでたんだもん、当然だよね」
「いずれ帰るなら、今、真意を問いただしても良いはずですが?」
「いやぁ、困ったことにね。あの馬鹿、あんたたちに恩義を感じてるそうじゃない? だからさ、面と向かって話をすると帰るって言葉が出そうで怖いってさ。レイセンってやつが来たら素直に一対一で話をさせてやろうって思ったんだけど、やっぱり姫様が来ちゃったからね。レイセンって奴でもいいはずなのに、姫様の方がやってきた場合、月側にも別な思惑があるんじゃないかってね」
依姫の手首が小さく動いた。
その行動を見て、てゐはまた笑みを深くする。
推測のどこかが、彼女を動揺させる何かに引っかかったのではないかと。
てゐの脳裏に残り続けるあの顔。
レイセンが訪ねてきたときの、あの不自然なほどの暗い表情に裏があったのではないかと。
「地上と月じゃだいぶ技術が違うんだよね、でも、その技術がなかったら、どうなっちゃうんだろう。地上の妖怪が身に付けた特殊能力とか、そういうのに対抗できる奴ってあなたの他に何人いる? もしその数が少なかったりしたら、結構危険だよね? 今回の異変でそれを再認識する機会になったりとかしてたら、地上に置きっぱなしの鈴仙、ほっとけないよね?」
「……それで?」
「だからさ、姫様や師匠みたいな前例はともかく、地上へ技術を持ち出しかねない人員が月からいなくなるのは、そちらとして脅威となる。だから、今のうちにその辺を整理するために、鈴仙を一旦連れ戻したかったんじゃないかってこと」
「おもしろい、話ですね。実におもしろい……」
依姫が、体を揺らし始める。
てゐに反撃する機会を伺っているとすら取れるその行動に、すかさず疑問の声を投げかけた。
「あれ? 約束は?」
「鈴仙に多少帰る意思があるのなら、一度は会わせていただこうかと」
「あっはっは、だから駄目だって――」
「さて、あなたが妖怪兎の長だとするならあなたを人質にして部下に連れてこさせるという選択肢もつかえることとなります。左手が自由に使える今、風を受けて万全でないあなたをどうこうするのは簡単だと思いますし」
「……」
条件付の勝負にこぎつけて、なんとか勝利をものにできたが相手にそれを破棄されれば、どうなるか。
てゐだってそれくらいわかっている。
だから最後にひとつだけ、尋ねてみる。
「ねえ、じゃあさ。あなたが求めるとおり、鈴仙を月に返したらさ」
聞いておかなければ、決断ができないから。
「今よりも、鈴仙は幸せになる?」
「……保障は、できません」
視線を背けた、途切れ途切れの言葉。
それが全てだとてゐは悟った。
だからてゐは語り出す。
「ねえ、世間話しようか」
「……騙すつもりですか?」
「地上の動物はね。長生きすると妖獣になる。でもね、なんで私の周りの兎だけ極端に多いと思う?」
首に掛けた手だけを残し、右手を開放する。
刀を持った右手を自由にさせる真意が掴み取れず依姫は怪訝な顔をするが、てゐの話は続いていく。
「あなたたちのいう、穢れってやつが少ないんだよ。それが少ないから長く生きて、妖怪兎になれるんだ」
「穢れを祓う力を持った道具が地上にあるとでも?」
「お~、そういうものかなぁ。みんなの兎のときに無くした穢れっていうのはどこにあると思う?」
わからないと、答えようとした依姫の視界に闇が映る。
てゐの身体から滲み出る、影。
輪郭をなぞる様に全身を覆うその影は、依姫の最も嫌う不浄なるモノ。
「私は、神様が地上にいた頃からいた生きてる妖怪兎でね。本当なら九尾とか、すっごい力持っててもおかしくないの。でもね、そうやって強い個体になるよりも、みんなで長生きする方法が選べるとしたら、選んでも間違いはないかなって思うのよ」
「っ! まさか、その穢れは……」
「だからね、これはその代償。神代から蓄積された、おかしな量の穢れ。仲間からもかき集めて妖力で押さえ込んでた命を持つものの天敵だよ。たぶん、私の小指一つに蓄積された穢れで、あなたは神様を呼べなくなるほど穢れちゃうと思うから、今の状態の私を傷つけないほうがいいと思うよ? ほら、ほっといても少しずつあなたも汚れちゃう」
切れるものなら、刀で切ってみろ。
てゐの笑顔は、依姫の右腕を止めるのに十分だった。
その間も、妖力という栓を開けたてゐの膨大な穢れはじりじりと地面や依姫を汚していく。
「正気、なの? そんな量の穢れを好んで受けるなんて! うちに留めているならまだしも、外へ溢れ出ればあなただってただではすまないでしょう!」
「……正気だよ、私が頑張れば、妖怪兎の仲間が増えるんだもの。それに妖力を回すだけで、みんな笑っていられるんだよ? 昨日より少しだけ明日の幸せが増えるかもしれないじゃない♪」
「……あなた」
「馬鹿な奴だけど鈴仙も仲間なんだよね。その仲間が、まだ地上にいたいって言ったんだ。その方があいつの幸せになるなら、私はそれを実現させてやりたい。悲しいけど、そういうのがリーダーの務めだと思うわけよ。あいつが月に戻りたいって言ったら、素直に戻してあげるから。お願いだから、今日は戻ってくれないかな」
「……」
「あなたが、私と交渉して戻ったなんてことは誰にも言わない。そっちは、鈴仙が断ったから帰ったことにしといていいし、それ以外の好きな理由を付けてもらっても構わない。あいつの穢れも私が引き受けるから、絶対私より先に死なせない。だから、さ」
そこまで口にしてから、てゐは身体を起こした。
依姫の身体の上からも飛び退いて、身体を覆っていた穢れも収める。
ぱんぱんっと服の汚れを落とした後、上半身だけ起こした依姫に小指を向けた。
「ゆびきりげんまん」
無防備に、手を差し出す。
その真意がわからず、依姫が困惑していると無理やり彼女の手を掴んで小指を立てさせる。
「どうしてもつれて帰りたかったら、私が死んだ頃に、こっそり迎えに来てあげて。もう少しくらい頑張るからさ。はい、指切った♪」
軽い口調にこめられた、真実。
それを真正面からぶつけられた。
政略も、利害も、何も考えず、ただ鈴仙のためにと。
自己犠牲という単語では片付けられない群れのつながりを見せ付けられた依姫は、ため息をついててゐに背を向けた。
「……そのときは罪人として連れ帰るかもしれませんが?」
「そうでもないんじゃない?」
「何故?」
「だって、依姫って永琳のこと好きでしょ? そんな人が永琳の弟子を罪人として連れ帰るかなぁって思って」
「私事と仕事は分ける性質でして」
「そっか、ざぁ~んねん」
さっきまで真剣に争っていたとは思えないほど軽い態度でバイバイと手を振る。
そんなてゐの姿を脳裏に残して、依姫は穢れを落とすために月へと急いだ。
その頃永遠亭では、
「……てゐ、風邪は平気?」
「うん」
満月を気にしながら、鈴仙は『てゐ』の看病を続けていた。
二度ほど額のおしぼりを変えた頃に、ぼろぼろの服を着た妖怪兎が帰ってくるのを横目で見て、慌てて他の妖怪兎に永琳のところへ連れて行くよう指示しただけで、永遠亭には来客すらなかった。
そして、少々騒がしかっただけの、満月の夜は終わりを告げる。
「全治、二週間」
「え? なにそれ? 身体すっごい動くんだけど」
「あのね、扇子をまともに受けて無茶したんだから隅々にまでガタが来てるのくらいわかるでしょう? 強がらないで素直に寝てなさい」
「はぁ~~~いっ」
昨晩、永琳は運ばれてきた妖怪兎を見て、ことのあらましを理解した。
疑惑を持ったのは、風邪だという『てゐ』を診てから。喉には炎症などなく、熱も控えめ、それだというのに咳を繰り返し辛いと言い続ける姿を見て、鈴仙を帰らせない作戦か何かと疑ったものだが、まさか当の本人が実力行使に出ていたとは誰も思わない。
「でも、あの子もあの子ね。帰りたくないなら私や姫様に相談すればいいものを」
「そういうとこ妙に意地っ張りだからね。一度帰りたいって言ったのを覆すのが恥ずかしかったんじゃないかなぁ、ほら、そっちだって鈴仙のこと気にしすぎて距離置いてたでしょ?」
「それは悪かったと思うけれど……はいっできあがり!」
「いったぁっ! い、今、わざと叩いたでしょ!」
「癖よ、く~せ」
「ぶーぶー」
治療用ベッドで仰向けになっていたてゐの背中を叩き、包帯を巻き終えたことを告げる。唇を尖らせ不満げに訴えるてゐであったが、
「師匠、今、てゐがどうとか?」
「あら鈴仙、おはよう。今日は早いのね」
鈴仙の声を聞いて慌てて顔を反対側へ向け、毛布を身体にかける。
ついでに嘘の寝息付きで。
「やっぱり風邪じゃなくてどこか悪いんじゃ」
「性格が悪いとか?」
「もう、師匠ったら」
「……」
さっきの仕返しだろうか。
てゐが意見できないと知って、永琳がおほほっとわざとらしく笑う。
「ま、冗談は置いておくとして、一応全治二週間ってところかしら。安静にしておけば問題ないわ」
「そうですか……、こっちの妖怪兎は?」
「その子も二週間かしらね」
「どこか妖怪とケンカでもしてきたんでしょうか」
「まあ、似たようなものだとは思うけれど」
何事もない、平凡な診療所の風景。
それでも鈴仙には、その世界が真新しく見えていた。
師匠がこの場所にいることが嬉しいし、何よりも自分が地上にいられることが嬉しいのだから。
「あ、そういえば師匠。月の使いの方からの連絡というのは?」
「昨日の夜から新しい連絡はないはね、鈴仙には残念な話なのかもしれないけど今回は諦めてもらうしかないかしら」
「あ、そうですか。それならばこちらも助かるというか」
「助かる?」
「い、いえ! な、なんでもありませんよっ! なんでもっ!」
永琳は運ばれてきたてゐに言われるまま嘘を吐いた。
月での状況が変わったので今回の出迎えはなし、次回は未定。
そういった連絡が永琳の元に届いたと。
それを知った鈴仙は少し複雑な表情をしていたものの、嬉しそうには見えた。そこで初めて、永琳は弟子の真意を知ることとなったのだ。
本当は、帰りたくなかった、と。
「それにしても、てゐったら本当に情けないんだから」
「あら、どういうこと?」
ぴくり、とてゐの耳が動く。
「恥ずかしいんですけど、私、てゐにだけ帰りたくないって相談したんですよ。そしたら大丈夫、私に任せとけ、みたいなことを言ってたんです」
「うんうん」
「それで蓋を開けてみたら風邪引いた~、ですよ? ほんと、なっさけない」
ぴくりっ、とまたしても動く。
「大口叩くのは勝手ですけど、できないならできないって素直に言うべきですよね。本当に役立たずなんですから!」
ぴくりっ、とまたまた動いて。
「あ~あ、あんなんで妖怪兎のリーダーなんて信じられなっ、痛っ! なんであんたが怒るのよ!」
我慢の限界に達した妖怪兎(てゐ)の手が伸び、鈴仙の太ももに爪を立てたのだった。
その悲鳴を合図にしたかのように、
「あの~、具合を診ていただきたいのですが~」
「あ、はいは~い!」
患者の第一号が診療所に入ってきて、あわただしい一日が幕を開けたのだった。
満月の夜の出来事をただの偽りとして、てゐの日常は続いていく。
永琳
>肩の上に乗ったスイカが無理やり
萃香
あんたおもしろいな
何はともあれ、楽しく読ませていただきました。
凄く面白かったです。
面白かったです。
てゐさんまじかっけー
読んでいて気持ちのいいストーリーでした