自分と、皆。どちらがおかしいのだろうか。
その感覚を何と表現したらよいのか、ナズーリンには分からなかった。
それというのは何を隠そう、聖白蓮のことである。春先の異変騒ぎの結果、千年の封印から彼女は解き放たれ、晴れて仲間たちと命蓮寺で暮らすようになった。ともに尽力した星や村紗、一輪や雲山は、そのことを手放しで喜んだ。しかしナズーリンはひとり、どこか落ち着かないものを感じていた。
「あら、おはようナズーリン」
「……あぁ、おはよう」
朝、台所を覗いたナズーリンに、包丁を握る白蓮が声をかけた。言葉が一瞬だけ詰まってしまう。
季節はあの騒ぎからひとつだけ流れ、梅雨を通り越して夏になろうとしていた。雨こそ収まったものの、空は分厚い雲に覆われたままだった。
「おや、ナズーリン。おはようございます」
「おはよう。寝癖が立っているぞ、ご主人様」
「おっと」
白蓮の隣で芋を洗っていた星が、その指摘に濡れ手で髪を直した。
ナズーリンの朝は、決して遅くはない。しかし、白蓮や星がそれ以上に早く起床してしまうため、必定彼女たちが朝食の準備をすることが多かった。心苦しくないわけではないが、ふたりが率先してやってくれていることには、ナズーリンも口出しはできなかった。
包丁を置いて、白蓮が振り返る。瞳の底から真っ直ぐ見据えられて、ナズーリンはたじろいだ。
「どうしたの? 先に席に着いてていいわよ」
胸の中で何かがもぞりと動いた。その声が耳に染みる度、髪が揺れる度、唇が動く度、ナズーリンの心の中に得も知れぬ何かが広がった。
記憶と違うのである。目の前の聖白蓮と、千年前に会っていたはずの彼女が、まるで別人のように思えるのだ。
ナズーリンは、命蓮寺の他の面子とは違い、白蓮に直接の恩義があるわけではない。名目上は主である星に付き従っているだけだ。聖の復活を盲目的に喜ぶ星達を後目に、ナズーリンはひとり猜疑心に取り憑かれていた。
目の前の彼女が聖白蓮ではないと、どうして言い切れる?
「……ナズーリン?」
「あ、あぁ。すまない。もう行くよ」
怪訝そうにこちらを見つめる星に、ナズーリンは我に返った。頭を振って、雑念を振り払う。
自らに何度も言い聞かせていたことを思い返す。彼女が聖白蓮ではなかったら、一体誰だというのだ。千年もの間封じられていれば、癖や雰囲気だって変わっていて当たり前ではないか。
「待っててね。今朝はナズーリンの好きなじゃがいものお味噌汁だから」
腰の前で指を組み、白蓮は笑う。その仕草が、ナズーリンの胸を思ったより強く突いた。どうしようもない程の違和感。たまらなくなって、ナズーリンは思わず早足でその場を去った。
分からない。狂っているのは、私か? 皆か?
◆ ◆ ◆
「それは重傷ね。同情させてもらうわ」
なぜ相談相手に封獣ぬえを選んだのかは、ナズーリンにも分からなかった。彼女と聖との距離に自分と通じるものを感じたからかもしれないし、ただ偶然同じ時間に縁側に座り込んだためかもしれなかった。
「いやもちろん、私の思い過ごし、考え過ぎかもしれない。そうであってほしいと思っているんだが、なかなかどうにもならなくってね」
春先の温い風のように、ナズーリンは曖昧に笑った。
聖への違和感は収まるどころか、日毎に彼女の中をのさばっていった。外見や声色は確かに記憶通りなのに、言動の端々に何かと引っかかりを覚えるのだ。後ろ姿の背中の揺れ方、米を口に運ぶ箸遣い、立ち上がったときに着物を払う様。それら細々とした、しかし確かに聖白連を構成する要素たちが、喉の小骨のごとくナズーリンに刺さり続けていた。
「じゃあ、それさ」
ぬえが飄々と言った。
「取ってあげようか、私が」
「取るって、何を?」
聞き返すナズーリンに、ぬえはにんまりと笑ってみせる。
「その正体不明だよ。私の手にかかれば、貴女の感じてる違和感だって、綺麗さっぱり消し去れる」
封獣ぬえ、正体を不明にする程度の能力。なるほど、確かに専門かもしれない。ナズーリンは座り直して姿勢を改め、話の続きを待った。
「ナズーリンは別にどこもおかしくないし、狂ってしまったわけでもない。身近な相手の正体を疑う心なんて、誰にだってあるものよ。今回はそれがただ少し暴走しちゃってるだけのこと。それが辛いっていうんなら、私がぺろりと喰らってあげる」
そう言いながらぬえは、本当にぺろりと唇を舐めてみせた。
喰らう、という表現がナズーリンにはよく分からなかったが、しかしあり得ない話ではなさそうだった。驚きを糧とする唐傘お化けがいるくらいだ。目の前のこいつは、正体を疑う心を食うことができるのかもしれない。
しかしこの封獣ぬえ、信用に足る妖怪かと言われたら疑問符が付く。ナズーリン達が聖復活のために走り回っていたのを、面白そうだからというだけの理由で妨害した奴である。ナズーリンをからかうために、でたらめを吹いているのかもしれなかった。
「ほら、どうする?」
「ふむ……」
ナズーリンは思案する。この違和感を消し去ってもらえるのならば少々の対価なら差し出しても構わないというのが、今の自分の本心だ。それにぬえが何らかの悪戯を企んでいるにしたって、それを易々と見過ごしてしまうほど愚かではないつもりだった。妖力や格では命蓮寺の誰にも劣るが、知恵や謀略に関しては負けていないという自負がナズーリンにはある。
ゆえに、この話に乗って損はないと彼女は結論付けた。
「じゃあ、お願いしようか」
「よしきた。じゃあ、目を瞑って」
ぬえが縁側からぴょんと跳び下りた。ナズーリンは言われるがままに目を閉じた。
「動かないでね、痛くしないからさ」
子供の熱を測る親のように、ぬえは右手をナズーリンの額に当てる。ぬえの妖気が自分の頭の中に流し込まれているのが、ナズーリンにも分かった。
やがてしばらくして、鼻の奥につんと何かが動く感触が生まれた。頭蓋の中心をむずむずと蠢いている。得体の知れない現象に、ナズーリンの全身に鳥肌が立つ。
頬に鼻息がかかるのを感じた。ぬえの顔が、髪が触れてしまうほどの位置にあるようだ。
「なぁ、これは ――」
「しっ。静かに」
そう囁かれると、ナズーリンにはもうどうしようもない。なるようになれと身を任せるしかなかった。
ふと、鼻の奥の感触が溶けるように消える。すると今度は、右の下瞼にぷくりと何かが入り込んだ。外からではなく、内からだ。それはそのまま瞼の中をせり上がり、一粒の涙となって頬を伝った。
「ふふっ」
それを確認したぬえは含み笑いを漏らすと、大きな舌でその涙を舐めとった。湿った熱がナズーリンの頬に触れる。ぬえの舌はべっとりと涙をすくい上げ、そのくすぐったさにナズーリンは身を強張らせた。跳ねあがった舌先が離れる寸前、ナズーリンの睫毛に少しだけ触れた。
「これでよし、っと」
その言葉に、ナズーリンは目を開ける。ぬえは得意げに笑っていた。一分にも満たない時間だったはずだが、やたらと長く感じられた。
「これでもう、貴女が聖の正体に悩むことはない。違和感も何もなく、彼女の全てを受け入れることができるわ」
「……あぁ、ありがとう」
いきなり顔を舐められたことに少々面食らいはしたが、それでも何だか、心の中の澱がすっとなくなったような気はした。大きく息を吸い込むと、肺がいつもより大きく膨らんで、久しぶりに胸一杯に呼吸ができた。どうやら自分の中に巣食っていた何某かは、確かにぬえによって取り除かれたようだった。
「何か、礼をさせてくれ」
「別にいいよ、水臭い。私もここに住む家族みたいなもんなんだしさ。気にしないで」
大げさに両手を振って見せるぬえが何だか微笑ましくて、ナズーリンはくすくすと笑った。今夜はとてもよく眠れそうな気がした。
◆ ◆ ◆
「やぁ、おはよう。聖」
「あら、ナズーリン。おはよう」
「おはようございます、ナズーリン」
「おや、ご主人様もいたのかい。朝早くから精が出るねぇ」
明くる朝、軽やかな目覚めとともにナズーリンの一日は始まった。こんなに晴れ晴れとした朝は、記憶にないくらい久々だった。
今朝も白蓮と星は並んで台所に立っている。包丁のまな板に当たる音と鍋の煮立つ音が、朝陽の中で素朴に奏でられていた。
「手伝おう」
「いえ、大丈夫。もう済むから。ナズーリンは座ってなさい」
刻んだ菜を鍋に放り込みながら、白蓮が微笑みかけた。その笑顔にも、もう何も引っかかることはない。こんな表情ができるのは、世界中どこを探したって彼女だけだろう、とナズーリンは思った。
「そうか。それではお言葉に甘えるとしよう」
「あぁ、皆の箸だけ持っていってくれますか」
「分かった」
戸棚から人数分の箸を掴み取り、ナズーリンは足も軽やかに朝餉の間へと向けた。
その背中を見送って、白蓮がぽつりとこぼした。
「何だか、あの娘も変わったわね」
「そういえば今日は、やたら機嫌が良さそうでしたね」
「いえ、そうではなくて」
白蓮は丁寧に洗った手を拭う。皆の皿をひとつひとつ盆に乗せながら、星は目線だけでその先を問うた。
「私の記憶にある千年前の彼女と比べて、よ」
「はぁ、何か違いますか。私はずっと一緒にいたので、何とも」
「何が違うと言われれば、上手く言葉にできないのだけど、何と言うか」
一点の曇りもない瞳で、尼僧は振り返った。
「きもちわるい」
ナズーリン報われないなあw
感情を弄るのは宜しくないね
面白かったです。