姫海棠はたては作業の合間の息抜きに外に出た。
散歩がてら、という趣ではあるが、外の景色を眺めて自分に新しいものを取り入れようという考えもあった。以前は新聞記者として外の世界を見る必要性を感じなかった彼女だ。それが、外に取材に出かけるようになってからは、こうして散歩の合間にも何かスクープになりそうなものはないか探すようになっていた。
以前は随分と風化したカメラが林に落ちているのを見つけた。地面の湿気に当てられ一部が錆びていたそれは誰のものでもないことは明らかだった。構造が簡単でトイカメラのようなものだった。
それ自体は何ら面白みのない出来事だ。けれど以前の自分では、詰まらないものを拾った、そんな出来事に巡り合うことですら稀だったのだと思うと新鮮な感じがした。新聞記者として新しい感覚を得られていることに小さな喜びを感じていたりもした。
自分の新聞の売り上げは、まだぱっとしない。けれど、今はじっくりやっていけばいいと晴れやかな気持ちだった。
それもこれも射命丸文とのあの出来事があってから――。
はたては時折、文のことを考えることがあった。自分にとってのライバル、ダブルスポイラー……。
彼女は一体何を見、何を考えて記事を書いているのか。
それがはたての変わる切欠、大きな関心事の一つだった。だから、彼女に近い場所にいて、彼女と同じものを確かめたいと思う。
いつからか、はたては散歩に出る度に――いや、外に出る度に文の姿を追っていた。
だから、はたてが今、彼女がよく顔を出す場所に――そこに今いるかもしれないから――足を向けるのは当然のことだった。
今日の姫海棠はたては、哨戒天狗がいるであろう、滝の方へと向かっていた。
□
そして、はたては彼女のたちの姿を見つけた。
犬走椛、河城にとり、……そして射命丸文。
けれど射命丸文、彼女だけはこちらに背を向けている――というよりは、向こうにある岩に対面している。
何をしているのか。問うと、椛は快く答えてくれた。
「――ほら、今度、力自慢大会があるじゃないですか」
ああそういえば、とはたては思う。自分にも連絡が来ていたには来ていたが、腕っ節に自信のある者だけが出ればいい、と意識の外に追いやってしまっていたことだ。
確か、内容は――大岩をどれだけ遠くまで投げられるかを競う天狗礫大会。人間にやったらしぬ。そんな風だったはず。
「で、それが今どういう関係があるのよ」
「見ていればわかりますって」
はたては黙っているように言われたような気がして、どこかばつが悪かった。けれども、何も言わず、場の成り行きを見守っていることにした。
……文は、一体何をするつもりなのだろうか?
彼女は、目を閉じて集中しているようだった。息をゆっくりと吐き、身体を引き締める。
そして、
「よっ――」
掛け声一つ、その場へ屈み岩の下へ指を挟み込むようにした。
「とっ……」
続く声で、両脚、腰、腹、両肩、両腕と順に脈打つように力を入れ、
「や――」
岩を地面から引き剥がし、立ち上がる勢いで一息に頭の上に持ち上げた。
動かされて初めて意識する岩の大きさ。高さや幅は、文の身体のゆうに5倍以上はある。重さと言えば、どれほどになるだろうか、検討が付かない。
身体をふらつかせる文の動きが、それがトリックなどではないということを語っていた。
同時に、はたては理解する。
成程、文は力自慢に出場するってことね――。
今は、その練習、内輪のデモンストレーションといったところだろう。
「す、すごいよ! 天狗っていうのは、一人でこれだけの膂力を持っているものなのかい!?」
にとりが興奮気味で問うのを、文はこちらをちらと見て、余裕の笑みで返した。
「これくらいどうってことはないわ。まだまだ上には上がいる――」
言って、文は岩をその場に落とした。
聞き慣れない鈍い反響音。重いのはわかるが騒音と景観破壊のことを考えるとなんとも荒々しい所作だ。
文はそういうことを気にしていない風だった。
「普段からトレーニングを積んではいますが、大会に向けて調整していかないといけませんねぇ……」
彼女はとにかく充実した様子だ。それだけ自信のあることなのだろう。対抗新聞という面でしか文を見ていなかったはたては、彼女の意外な一面を見た気がした。
筋肉バカというのも考えものだが。
それに関しては、どこかおかしい気がした。文にしてはわかりやすい単純な趣味だ。
はたては思わず苦笑してしまう。
それに気付いているのかいないのか、文は言葉を続けた。
「両腕に重りをつけてトレーニングするんですよ。重さというと、片腕で皆さんの体重くらいですかね」
「そんなに重くちゃ生活できないんじゃないのか?」
「いやいや、それくらい簡単――」
自慢げに言うと、文は自然な動きでにとりの肩と脚に手を掛けた。
リズム良くにとりの身体を回転させ、身体の正面で両腕に抱えるようにする。
良く言う、お姫様抱っこ、というやつだ。
「わー、わー!」
「こんなの、軽い軽い」
どこか恥ずかしそうにしているにとりを腕に中に収め余裕の表情。こうやって他人を弄ぶのも彼女の楽しみらしかった。
にとりを降ろすと次に文は、椛に歩み寄り、
「よっ」
「うわあ――!」
今度は椛をお姫様抱っこした。
やはり恥ずかしそうにする椛。じたばたと暴れて降ろせという。傍からだと、何やらいちゃついているようにも見える。
……ちょっと羨ましいなあ。
なんて思ってしまうはたて。
けれど、にとり、椛の順に来たのだから……。
「あら、はたてもいたの?」
「さっきから居たわよ」
文はこちらを確認後、やはり歩み寄ってきた。
「別にいいって……!」
自分もお姫様抱っこされる――そう思うと、途端に恥ずかしさに見舞われる。羞恥心というものは案外簡単に姿を現すものだ。
けれどはたては本気で逃げない。流れに乗っておいて損はないと思う。
家に閉じ篭りっきりだった自分は少し重いかもしれない。そのことを知られるのはどうしようもなく恥ずかしいが――けれどもそれでもいいと思う。
それほどまでに文のお姫様抱っこというのははたてにとってどこか魅力的な響きがあった。
「まあまあ構わない構わない」
結局、はたては捕まってしまった。
そしてそれから、文はさっきの二人と同様にはたての身体に手を掛け、倒し――。
持ち上げられようとしている。
けれど。
「あれ……?」
はたてが身体を預けようとしたところで、文の動きが止まった。
背中に触れる彼女の腕が、強く震えているように感じる。
何かおかしい。文はそう言わんばかりに、一度離れて腕を振り、力を入れ直す。
「はー、ふぅー……。よしっ」
もう一度、文ははたてに手を掛けた。
しかし、またしてもその動きは途中で止まってしまう。はたてが体重を文の両腕に預けようとした途端、反対に文ははたてを元の体制に戻してしまう。
「ははは、おかしいなあ……」
「……」
笑顔に焦りの色が混じり始める文。けれどはたての方はそれどころじゃなかったかもしれない。
文は一度離れ、
「ちょっと気合入れ直すから待ってて……。やっ、はあっ! ふうううううぅ!! ライウェイベイベー!! ヤっ! イエッイェエッ……!」
黒塗りの欧米マッチョを彷彿とさせる声を上げる。
彼女の声が滝の叩きつけるような音の中ですら良く響く。
「ライウェイッ! ウェーイッ! ふううううううううぅう!! ……ほい来た! ――ってあれ、はたては何処に?」
「はたてなら――泣きながらどこかへ行ったよ……」
姫海棠はたてのその姿は、文が奇声を上げているうちに消え失せてしまっていた。
□
「何よ、文ったらデリカシーのない! 大岩を持ち上げていたくせに、私一人持ち上げられないなんて、酷い冗談だわ!」
気分が悪くなったはたては自分の住処に戻ってきていた。
いくら新聞で対抗しているからって――私が持ち上げられないくらい途轍もなく重いみたいに――振舞わなくたっていいじゃないか。
彼女にしてみれば、軽い冗談だったのかもしれない。けれどお姫様抱っこされるかもしれないと、僅かに期待していたっていうのに。そして、そんな期待をしていた自分に苛立ちを覚える。
「文なんか、文なんか……!」
その時。
――憎い奴がいるのか――?
声が聞こえた。
それは空間を響かせるようなものではない。まるで思考のように、頭の中に直接響くような言葉だった。
「……誰?」
問う。
けれど部屋には誰もない。
「誰よ」
「わかっているはずだ。オレはここにいる」
今度は、問いに、はっきり答えるように声が聞こえた。
今度は空気を伝達して聞こえる声だ。つまり声の主がいる方向と距離がおおよそ掴める。
はたては、見る。
声の主は、はたてが愛用しているデスクの上にいた。
「――よう」
以前拾った黒いフォルムのトイカメラが、レンズでこちらを覗いているようにして、そこにあった。
「オレのことがわかるか?」
声はそのカメラから聞こえていた。
しかも、そのレンズから禍々しい瞳がこちらを見ていたのだ。
はたてはぎょっとした。
「誰の悪戯よこれ……」
「悪戯じゃないぞ。オレは、悪魔のカメラだ」
どこの悪魔が関わっているか知らん。
誰にしても性質の悪い悪戯だ。とりあえずはたてはそのカメラを窓から外に投げ捨てることにした。
複雑な形状に手を滑らせることのないようにがっちりホールド。投球フォームは美しく……。
「ま、待てって! いいか、よく聞け。……オレがお前の願いを叶えてやるぞ!」
「はいはい三つまで三つまで」
「そんなんじゃねえよ! 聞いておかないと後で後悔するぞ!」
カメラがやたら喚くので、はたては気が散って投球を一時中断してしまう。
「何か用?」
「まあ落ち着けよ。まずは自己紹介からだな。オレの名前はビホルドって言うんだ」
言われ、カメラを見ると黒の筐体にBEHOLDと、声が言った通りの名が刻まれている。
「オレはお前の願望を叶えてやるぞ」
「そればっかりねえ」
「まずはこれを見な」
シャッター音一つ。
その後すぐ、そのカメラは前面下部から一枚の写真を吐き出した。インスタントカメラのようだ。
はたてはその写真を取ってみる。
そこには、如何にも重そうなダンベルを両腕に持って鍛えている射命丸文の姿が写っていた。
しかし、シャッター音がしたときにはカメラのレンズはこちらを向いていたはずだ。普通ならはたての姿が写っているはずだが、この場にいないはずの文の姿がそこにある。
これは。
「念写ならもう間に合ってるわ」
「そうだが、それだけじゃない。今度はこいつのことを考えながら、お前が撮ってみな」
「何、ファインダー覗くの?」
「そうだ。強く念じてシャッターを切るんだ」
はたては言われた通りにする。
シャッター音後、さっきと同じように写真が出てくる。そこには、にこやかに歯を剥き出してダンベルを持ち上げている文の姿が写っていた。
「ほら……さっきよりズームな写真になっただろ。お前の思念によってオレの力が増大した結果、こんなことが出来る。だがこれだけじゃない。この写真を使えば様々な事が望みのままになる」
「流石に今すぐにでも捨てたい気分よ……」
まあまあ、とそのカメラ、ビホルドは言う。
それから、彼はデスクの上に載っている赤いペンを示した。
「この写真の裏に、アレでこいつにして欲しいことを書くんだ。いや、して欲しいじゃない。させてやりたい、命令したいことを書くんだ」
「それでどうなるっていうのよ」
「そいつに言うことを聞かせることが出来る。一種の催眠術みたいなものだ。けれど、絶対にそいつは命令に逆らうことは出来ない」
なんとも眉唾な話だ。
けれど、言われたからには試してみるのも悪くない。はたては次第に興味を持ち始めていた。
はたてはそのペンを手に取り、写真の裏に書く。
「『飲み物を飲み零す』、と……」
「おい。そんなことでいいのか」
「最初だからこんなもんでしょ」
答えて、はたてはもう一度カメラのシャッターを切った。
出てきた写真には、何やら白く濁った液体をぶちまけている文が写っていた。顔に、服に、床に、白い液体が付いていて、さらに顔は上気しているのだ。その写真にはどこか艶めかしい雰囲気があった。まあその液体はプロテイン飲料なのだと思うと盛り上がるものも盛り上がらないが。
けれど。
「本当に現実になったわね……」
「どうだ。少しは信用したか」
威張ったように言われると腹が立つが、ビホルドの言うことは本当らしい。
……成程。テンプテーションなんとかってわけか……。
はたては納得する。そして次に考えるのは、
「お前の命令は何でも聞く。どうだ、次はそいつに何をさせてやりたい……!?」
文にさせてやりたいこと。
はたては思う。
それは――。
「――『文が私をお姫様抱っこする』――」
そうだ。
さっきのはきっと文の悪い冗談だ。けれど今度は違う。このカメラの魔力とやらで、文は命令に従うしかないのだ。
……だから、文は私をお姫様抱っこするしかない!
そしてさっきかかされた恥を、訂正させるのだ!
「お前、そんなのでいいのか……?」
「何が?」
「いや、後でいい……」
無視してはたては早速、文を呼び出すことにした――。
□
撮った写真を握って念じると、具体的に相手を操ることが出来るらしい。
はたてはそうして、文をさっきの滝の傍まで呼び出すことにした。
はたてが茂みに隠れて見ていると、射命丸文は律儀にその場へ現れた。
「あれ、何で私こんなところに……?」
どうやら彼女には自覚がないらしい。本当に操っているみたいだ。はたては文を手中に収めたようで、俄かに満足感が湧いて来た。
文が所在なさげに突っ立っているのをずっと眺めていたかったはたてだが、やはりそれでは埒が明かない。
はたては文の元へと自然な様子で駆け寄り、声をかけた。
「あら、文ったらどうしたのこんなところで。奇遇ね」
「え、あー、うん。やあ、はたてこそ奇遇ね。こんなところに居たって面白いネタはやって来ないわよ」
……ここまで来て憎まれ口を叩く奴め。けれど滑稽ね。だって貴方は私の言うことに逆らうことが出来ないんだから!
「ねえ、さっきみたいに岩を持ち上げてみせてよ」
「何でよ」
さっきと打って変わっていやにノリが悪かった。
けれどそれもこれまでだ。はたては写真を握り、命じる。
――岩を持ち上げなさい。
すると、文は急に向きを変え、岩に向かった。
「あー?」
何か納得いかない様子の文だったが、身体はすぐに岩に手を掛ける。
そして、その岩を――軽々と持ち上げてしまった。
彼女の腕が、脚が震えているが、けれど倒れはしない。岩の破片が落ちる音が妙に生々しく感じる。
……結構余裕そうね。力は本物だ。動きも芝居がかってなどいない。
はたては同時に確信する。手に入れたカメラの力が本物だと。そして、次の命令も必ず達成されるものだと。
「んー、ちょっと辛くなって来たんだけど」
「せっかくだからもう少し持っててよ。トレーニングになるでしょ」
「それもそうかもしれないわねぇ……」
その肯定の言葉は自らの意思で言っているのか、それとも言わされているのか。その両方のように思えた。
気が付けば、周りにギャラリーが集まってきていた。見ると、にとりや椛も何事かと、野次馬の中に加わっている。はたてにしてみれば絶好のチャンスだった。
「うん、もういいわ」
念じた通り、文は岩を降ろした。落とす、とも言える。岩が地面と衝突し、本物の重量感ある音が弾けるように響いた。
これは、前座。ウォーミングアップ。
そして、本題は次だ。
「それじゃあ、文。岩も持ち上げられるんだから、私くらい簡単に持ち上げられるわよね?」
「ええ? そうね?」
「だったら――ほら、今やってみせてよ。冗談抜きでね」
……私をお姫様抱っこしなさい!
そして彼女はその通りにする。
文ははたての隣に立ち、肩と脚に腕を回した。はたてはそれに合わせて倒れるように身体を預ける。
そして自信の腕は文の首に回す。自然と抱きつき、頭が密着なるようになる体制では、文の息遣いがずっと近く感じられた。
徐々に、はたての身体が、自分でバランスを保てなくなる。比べて文の腕に体重がかかる。
その動きを、はたては遅く、じれったく感じた。だから自ら飛び乗るようにして、文に身体を預けた。
制するように文ははたてを抱えようとして――、
「無理ムリむり――!」
文は叫んだ。
彼女ははたてを両腕で持ち上げている……ように見えるが、実際には中腰になって、開いた両足で補助を入れていた。
そしてその両脚は小刻みに震えていた。
「何やってるの、ちゃんとしなさいよ!」
「無理! リリースリリース!」
「えっ――きゃあっ!!」
堪え切れず、文ははたてを離した。
重力に従って落ちるはたて。不意のことに受身を取る間もなく地面に衝突する――。
した。
瞬間、辺り一帯が大きく揺れた。
その原因は他でもないはたてだということは、その場にいる誰もがわかった。はたては尻餅を付いていたその場所こそが震源だった。
「な……」
訝しむ様子のはたて。
けれど、立ち上がり、足元の岩を見て気付く。
そこは、彼女の尻の分だけへこんでいた。よく見るとヒビさえ入っている。
「何よ、これ……」
「何よ、じゃないわよ! あんたどんだけ重いのよ!」
「ち、違うわ。悪い冗談はやめてよ」
「ずっと取材に出ず引き篭もっていたから、そんなわけわかんないくらいに重いのよ。少しはダイエットしたらどう?」
「嘘吐きだわ! 貴方も、皆も……!」
文が、真剣な眼ではたてを見た。
「嘘じゃないわよ」
それは、はたての異常を追求するような、そして深く心配するような眼差しだった。
……やめてよ、とはたては思う。
憐れまれているとも思う。
彼女の目線の先に、見っとも無い自分がいる。
はたては、身が切り刻まれるような思いを抱いた。
「嘘じゃないって……嘘でも、嘘だって言いなさいよ」
「私は、嘘は吐かないわ」
そこにいることが窮屈だった。
気が付けば、聴衆の皆が密めき合っているのが聞こえた。
……何だあれは。どうして持ち上げられない。何かの冗談か、でもそんな風には見えない。はたては重い。重い。重い……。
いくつもの目線が自身に突き刺さっていることを、彼女はようやく自覚した。
「やめてよ……。あんたがふざけたせいで! この筋肉バカ!」
「筋肉バカって何よ」
「ふん。脳筋って貴方のことを言うのよ。このゴリラ!」
「ゴリラっていうならあんたはブタよブタ」
「ブタって何よ!」
「何か?」
「ふん、ゴリラゴリラゴリラ! 大体、何で私一人持ち上げられないのよ!?」
「それは――貴方が重すぎるからよ」
はたては重い。
それは紛れもない事実だった。けれどはたてにはどうしてもそれを認めるわけにはいかなかった。
「うるさい!」
叫び、はたては飛んだ。もうこの場に用は無かった。すぐにでもこの場を立ち去りたかった。
だからはたては飛んだ。自分の住処に。自分が落ち着ける場所に。
誰かの噂する声が聞こえない場所へと、飛んでいった。
□
「よう……何かわけのわからんことをやってるな、お前」
相手に何でも言うことを聞かせられるという、不思議な魔力を持ったカメラが姫海棠はたての帰宅を出迎えた。
そんなはたての気分は最悪だった。こいつがいることをうっかり忘れていた。どうして帰ってきてこんな出所不明な奴の相手をしなければならないのか。うんざりだった。
はたての思いに気付いていない様子でカメラは喋り続ける。
「まあ、気分を晴らしたかったら別の命令を書くことだな。何だったらオレが提案してやるぜ」
「そうねえー。とりあえず誰かにプレス機を持ってきて貰おうかしら」
「まさか新聞でも刷るわけじゃあるまい……」
「そのプレスじゃなくて、潰す方のプレスよ――あんたを」
ぎょっとしてカメラが見る。
「おいおい、どうしてオレを手放そうとするんだ? 効果はわかっただろうに」
「うるさい。あんたのせいで私は酷い目にあったのよ! 文には馬鹿にされて皆には笑われて!」
「安心しろよ。写真の術は、命令されている本人やそれを見た者に暗示を掛けて、それを意識出来ないようにしているからな。さっきのことは誰も喋らない、いつか忘れてしまうだけだ」
「ここに来ていきなり便利設定持ち出して来たわね……。まあ、それだったら気兼ねなくあんたを破壊出来るわ」
すると、カメラは――無機質な形状の中で――表情を変えた。
とても冷ややかな、嘲笑うかのような表情に。
「そんなことしてみろ。お前が酷い目に遭うぞ」
「へえ。具体的に何が起きるのか、言って御覧なさいよ」
「オレが壊れたら、その壊れた部品にお前を代替する。お前を吸収して修復するってことさ。そして新しい所有者を求めてまた彷徨うだけさ」
「だったら、自動再生機能が働く前に潰す」
「やれるのか?」
「やるわよ」
はたては言い、そのカメラのボディを引っ掴んで放り投げた。
はたての足元へ落ちるような軌道だ。その中で、レンズの中にあった瞳と目が合う。
……少ない時間だっただけに、心残りとか全くないわね……。
思いながら、カメラには手も触れずたっぷり見送るはたて。
そして、カメラが地面にぶつかるというその瞬間。
「うおら――っ!」
はたてはそのカメラにボディプレスを掛けた。
はたての、大岩をも凌ぐ超重量級の衝撃に潰されたカメラは、その部品の一つ一つを平らげられた。そしてカメラの言う通りなら、次にはたてが吸収されるはず。
……この重みの一部分でも吸収してみろってんだ!
けれど、はたてを吸収するような気配は無い。はたての超大な質量を、その再生能力は受け止めることが出来なかったようだった。
はたての重さの方が勝っていたのだ。
「悲しい事実ではあるけどね……」
こうしてみょうちきりんな妖怪カメラとの戦いはここで幕を閉じたのだが、はたての重量問題は何も解決されていなかった。
□
姫海棠はたてはその足を守矢神社に向けていた。実際には翼かもしれないが些細なことだ。
いつもの散歩の延長だ。
その目的は二つ。一つは気晴らしの意味で。もう一つははたての重みについて具体的な解決案を請うためでもあった。
守矢神社の境内にはいつも通りに、青い巫女の姿があった。
けれどその他に二つの影があった。
一つは紅白。もう一つは黒白。
追加で、博麗の巫女と人間の魔法使いの姿があったのだ。
「よお、いつぞやの天狗じゃないか」
縁石に座っている三人のうち、最初にはたてに気付いたのは霧雨魔理沙だった。彼女は胸の前に何かを手にしていて、空いている手を挙げて応えた。
それに続いて、東風谷早苗は軽く会釈を、博麗霊夢はこちらを一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。
残りの二人も短い筒状の何かを垂直に保って持っている。
「何しているの?」
「ああ、はたてさん。今日は魔理沙さんが珍しい物を持ってきてくれたので――」
「食事中ってわけよ」
霊夢は詰まらなそうに言って、その筒の空いた上部に箸を突っ込んだ。
よく見れば、それは筒ではなく器だ。
白い妙な素材で出来たその器からは、白い湯気が上がっている。霊夢が箸を持ち上げると、細い縮れた麺が巻きついているのが見えた。
はたてはそれを知っている。カップヌードルという奴だ。
外から入り込んできたそれは保存状態が良ければ食べることも出来る。妙に潔癖のきらいがあった早苗が、そういうものに関してはあまり抵抗せずに口に入れるという話をはたては思い出した。
「変な味しか手に入らないのが難ですよ。アァ、オーソドックスな味が恋しい……食べたところで、まあこんなものか、となるのが目に見えてますけど」
「懐かしさが薄っぺらいわね……」
傍目には同じように見える。が、外容器の形状や印は少しずつ異なる。それは中に入っている食物の味を表しているらしい。
はたてが見ると、三人が持っている容器にはでかでかとカタカナでその味らしいものが書かれているが。
「ブタホタテドリ……」
何故か引っ掛かる名称だった。ついでに表面に描かれている鳥っぽい謎クリーチャーも気にせずにはいられなかった。
「それにしても、申し訳ありません。はたてさんの分は残ってないんですよ」
「いや、別にいいわ。そんな気分にならないし……」
「おいおい、心配しなくたって共食いにはならないぞ。……あ、こういうのは気持ちの問題か」
魔理沙の物言いが気に食わないが、反射的に思い浮かんだ言葉口にしているものだ。あまり深く気にすればこちらが不利になる。
気にしないでおくのが吉というものだ。
「ねえ魔理沙。ブタホタテドリのどこがこいつと類似要素があるの? ブタ?」
「はたてはブタじゃねえよ!」
「そんなこと言って失礼ですよ。――あ、それで、はたてさん。今日はどういった御用で?」
さてどうしたものか。はたては困窮した。
この流れで体重の話をするわけにはいかなかった。
「べ……別にこれといった用事はないわ。ちょっと散歩」
「今、言葉に詰まったわね。何かあるわ絶対」
「詰まってるとか言ってやるなよ、可哀想だろ。詰まってるとか、中身が詰まってパンパンだとか! 絶対言ってやるなよ!」
「あのさ、あんたらわかって話してるよね? 絶対わかってるわよね?」
「――あー、皆さん」
早苗が咳払いを一つ。
「とりあえずはたてさんの事情は承知しました」
「何で承知してるのよ。どこから聞いたのよ」
「にとりからブタホタテドリ一つで聞かせてもらった。何、心配することはないさ。私たちは味方だぜ」
あの河童め。食べ物なんかに釣られやがって。
まあ、文が新聞に書いたとかじゃなくて良かったんだけど……。
と、はたては思い、ふと疑問が浮かぶ。
「あー、味方ぁ?」
味方だって?
確かにそのことを相談しにここへやってきた。けれどまさか巫女や魔法使いの手を借りようなどとは思っていなかった。
「あんたらの手を借りたところで余計なことにならないわ」
「あら、不満そうねこの天狗。不満、フマン……太っているだけに?」
「はたては肥満じゃねえよ!」
「不満だっつーの! あんたらの助けなんか要らないわ!」
「まあまあ、落ち着いてください。なにぶん重い話ですから、私たちも皆心配しているのです」
「重いとか言ってやるなよ、早苗! 気にしてるんだぞこいつはこんなになっても!」
「あんたら、誠意見せるにも見せようがあるじゃないの!」
「えーまー、とりあえずー」
早苗は再び流れを制して。
「とりあえず、真面目に対処してみませんか?」
□
はたてと、霊夢、魔理沙は並び、早苗が前に出た。
「私も今はこうして神社の風祝なんてやっておりますが、かつてはダイエットに苦労したうら若き乙女の一人。そんな私を一度信用して頂きたい。どうぞよろしく――!」
呼応してまばらな拍手が響く。
「――音頭を取ってみましたが、私が提案するのは至って普通の方法です」
「早苗ってばネタに走らなくてもいいのかい? 常識を投げ捨てなくてもいいのかい?」
「煽ってキレられても知らないわよー」
堅実に進行する早苗に対し、他二人は頼りにならないことは火を見るよりも明らかなようだ。
基本的に、一番手というものは失敗に向かってひた走るものだ。そうはたては思う。
何故なら後の二人に繋がらないからだ。けれど他の二人に成功する要素はない。だから、ここで是が非でも成功させたいはたてだった。
期待を寄せられる早苗は言葉を続ける。
「とりあえず、体重がどれくらいか測ってみましょうか。かの孫子も言いました。彼を知り己を知れば、百戦して殆からず、彼を知らずして己を知れば、一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。 ですので、味方戦力の把握といくのが定石かと」
「御免、今回の問題について敵と味方が何にどう対応するのか見当が付かないんだけど……」
「とにかく右手をご覧下さい」
彼女の右手にはブタホタテドリのカップが握られていた。
ではなく、彼女の右方――そこには、いつの間にやら金属製の台が置いてあった。それがどうやら体重計らしい。
けれどその面積は四畳ほどある。
「人が乗るってサイズじゃないわね……」
「秤は最初に大きいものを準備するのが基本です。この体重計、無骨ですが造りは堅牢ですよ。ではどうぞ、はたてさん」
呼ばれたがはたてはあまり気乗りしなかった。
その台は体重計と言うよりは測定器だ。そんなものに乗せられては尊厳を踏みにじられているようなものだ。屈辱的だ。
「……ねえ、もっと別のないの?」
「はたては我儘だなあ! でもこれより小さいサイズなんて持ってきても針が振り切れるだけだろ」
「そうよ。大岩比でも大勝利のあんたならこれくらいが丁度いいわ。――まさか人間と同じものを使えると思っているんじゃないでしょうね?」
図星で言葉が出ない。
それを見た霊夢は溜息を吐く。
「まったく自覚が無いなんて、あんたには現実の直面というショック療法が必要ね。いいからさっさと乗りなさい」
強く言われてしまうと、はたてはますます気が進まなかった。
「何かヤダ」
「じゃあほら、皆で一緒に乗りましょう! そうすれば誰がどれくらい重いのかわかりません」
「そして三人の体重を引いたらはたての体重が割り出せるって寸法よ!」
「動物の体重の測り方でしょそれ! 舐めんな!」
「ちげえよ! ブタははたてじゃねえよ!」
「言ったわね!? 絶対言ってはいけないことを言ったわね!?」
こうなってはとにかく乗ってやるもんか。意地になり始めるはたて。
そうなると長期戦だ。まさかこんな前段階で正念場が訪れようとは誰も予想しなかっただろう。霊夢、魔理沙、早苗の三人の顔に面倒臭そうで苛立った表情が出るというものだ。
とにかくはたてを体重計に乗せてしまおう、と策を練る。
まず魔理沙は体重計に一足先に乗り、
「来いよはたて! 脂肪なんか捨ててかかって来い!」
捨てられるのなら最初から捨てている。
一人ごちるはたては、そっぽを向いてしまう。
「ちっ、駄目か……」
「はたても強情ね。私たちがこれだけ心配しているっていうのに折れないなんて。神経太いわね」
「ええ、まったくです。しかし、このまま何もせず突っ立っていたら日が暮れてしまいます。そうなったら私たちがどんなことをするのか、はたてさんにはわかりますか――!?」
わからん。
「家に帰るだけだな」
「ねー」
帰れよお前ら。すぐに帰れよ。そして無駄に連携が取れているなこの三人。
呆れている間に、今度は霊夢が出てくる。手に持っていたブタホタテドリの空カップを投げ捨て、はたての前に立った。
彼女は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「いい、はたて。よく考えなさい。――木々が花を咲かせるのは蕾が軽いからなの? 鳥が空を飛べるのは、体重が軽いからなの? 多少重みがあっても、あんたは天狗なの。天狗なのよ、姫海棠はたて!」
「多少の重みって、多少どころじゃないだろ」
「というか天狗って言われるとあんまりいい台詞じゃないですよねえ……」
こいつらは本当に体重計に乗せるつもりがあるのか?
疑問にさえ思う。面白がっているだけで、何も深くは考えていないのだろう。
「私もう帰っていい?」
「何だよ、つれないな。気分でも悪くしたか。まあそう言わず、私の案くらいは聞いていけよ。……まあ今更体重計に乗らなくたっていいんだよ。要は軽くなればいいんだ。体重なんて関係ない。早苗の冗談は真面目すぎて笑えないぜ」
「私一応本気です」
「ほら、早苗は本当に詰まらない奴だ。けれど私は違う」
霧雨魔理沙は身を乗り出してきた。
いいか、よく聞けよ、なんて前置きをされる。すると後が気になってしまうというものだ。
はたてはとりあえず家に帰ろうとした足を戻して、魔理沙と対面した。
□
「はたて、お前、痩せるってことがどういうことかわかるか?」
いきなり何を言い出すのかと思えば。
「要するに、軽くなるってことでしょ?」
はたての返答に、魔理沙は否定する形に手を振る。
甘い、甘いなと、教え諭すような声で魔理沙は言う。
「そんな単純なもんじゃない。痩せるってことは、お前のこれまでのだらしない弛緩し切った生活を唾棄し、体型を変化、そして維持することだ。それは――己を律するような厳しい精神がなければ達成することは出来ない遠大なる試練。だからこそ言える! 今のお前にはそれが欠けていると。それも、絶望的にな」
魔理沙の言うことももっともだった。
これまでの、外に取材しに行く必要を感じず家に引き篭もるような生活は、己の怠慢怠惰が生み出したものだ。だから今の結果がある。
痩せるということはそれを意識して変えなければならない。それも、最近外に出るようになっただけでは足りないという。
「意識改革が必要だ」
「それはどういう……」
「ああ、それはつまり――まあ説明するより実践してみた方が早いだろうな」
そう言って魔理沙は自前のエプロンのポケットからトマトを取り出した。
「まずはこれを食うんだ」
……え?
突然のことにはたては戸惑う。
「何で痩せようとしてるのに食べなくちゃいけないのよ」
「いいから早くトマトを食べるんだ」
差し出されるまま、断ることも出来ずトマトを受け取るはたて。
これに一体どんな理屈があるのだろうか、わからない。そこには怪しさしかない。
けれど一方で、如何にも目的と逆行しているようなこの行為にこそ、何か秘密が隠されているのかもしれないと思ってしまう。
それにこのままじっとしていても事態は進展しないのはさっきと同じだ。
「じゃあ、食べるわよ……」
はたては半信半疑でトマトを口に運んだ。
一口齧る。
咀嚼し、飲み込む。
それだけだ。
「……食べたわよ?」
「ああ、食べたのか。はたて」
魔理沙は真剣そうな表情をする。
「本当に食べたのか?」
「た、食べたわよ。だから何?」
「――何てこった。本当に食べてしまったのかはたてよ!」
直後、魔理沙は突然激昂してはたてに飛び掛った。
「何て奴なんだお前は! 本当に痩せるつもりがあるのか!? いや無いんだろうなお前の場合! 何故なら! 人に出されたものを簡単に口に入れてしまうんだから!!」
「なっ……」
「そんなんだからお前はぷくぷくぷくぷく太ってしまうんだ。本当に目の当てられない奴だ! 意志薄弱! 役立たず、穀潰しの碌でなし!」
はたての背に回り込み、チョークスリーパーを決める魔理沙。このまま首でも折ろうかという勢いで、はたての身体を左右に揺さぶる。
「吐け、いいから吐け!! 吐かないと苦しむことになるぞ!! アア、お前はそんな奴じゃなかった! 今のお前は昔のお前とは違う。――悪魔だ! 悪魔に取り憑かれているんだお前は!!! 可哀想なはたて!!!!!!! 今救ってやるからな!!!!!!!!!!!!!!!!」
はたてがタップしたところで残りの二人が止めに入った。
早苗が魔理沙からはたてを無理矢理引き剥がし、霊夢は魔理沙を羽交い絞めにして捕らえた。
それからお互い息を整えるのに数分かかった。
その後。
「いきなりエクソシストしてどうしたのよ魔理沙。弁明できる?」
「いや、アレだな。――食べることがトラウマになれば否が応にも痩せるんじゃないかと思って」
「拒食症になって弱るわよ……」
「むしろ、肯定後に否定って、人格破壊の方法と同じですよね……」
そういうわけで魔理沙の方法も没になった。
□
そして、順番通りとでも言うように、今度は霊夢が前に出た。
「さて、最後に私の番だけど」
「もう期待できないから帰ってもいい?」
「ちょっとくらい聞いていったって損じゃないわよ」
そうやって酷い目に遭わされてきたのだが、もう忘れてしまったのか。なんていう奴らだ。
けれどはたての中には、毒を食らわば皿まで、という諦めの気持ちが出てきていた。
「んで、何をするって言うのよ」
「いや、特に解決法っていうのは提示しないんだけど――」
霊夢は考えるように視線を動かす。
「身体が途轍もなく重くなる――そんな被害を出す妖怪を聞いたこと無い?」
妖怪と言われれば巫女の領分だが、そも妖怪である天狗のはたてにとっては日常的な知識だ。
だから、はたては霊夢よりも知っていた。
「"赤頭"ね」
「おい何だよ、それ」
「妖怪というより怪談の類なんだけど……"赤頭"って力持ちの男に肖ろうとしたら、身体が物凄く重く感じるっていう話」
「他にもウブメとかあるけど、原因が妖怪にあると見てもいいんじゃないかしら」
霊夢の言うことは――今まではとにかく今度こそ――的を射ているように思えた。
道理のわからない異変は妖怪が起こしているのが常であるというもの。だったら今回の件だって、何かしらの妖怪が関わっているのかもしれない。
「だったらそいつを見つけて、とっちめればいいのね!」
「とっちめられればいいんだけどねえ……」
霊夢は歯切れが悪かった。
「こういう現象だけが出てくる奴って対処が難しいわね。一応原因を探ってはみるけど……」
「みるけど?」
「多分だけど、今回の件はしばらく解決しないわ。勘がそう言ってるの」
……しばらくって、どのくらい?
体重があると言っても、日常生活に支障を来しているわけではない。それまで待っていればいいだけだ。
すると霊夢は、濁しながらも答えてくれた。
「まあ、最後まで解決しないんじゃないかしら……?」
「最後ってどの最後だよ……」
霊夢の予言や呪いめいた言葉も、なまじ巫女である彼女の言葉であるので、その場の全員が閉口せざるを得なかった。
□
結局、それだけで場は解散となった。特に解決法というものは出てこなかったが、はたては気にかけないことにした。
はたてが家に帰る道中、文の姿を見つけた。
文は麻縄で自分の胴と結んだ古タイヤを後に引きながら、ジョギングしていた。またトレーニング中というところだろう。
走っているその速度はかなり速いが、飛ぶよりは遅い。だからはたては追いつくことができた。
かける言葉が見つからない。だから何も言わず、引っ張っているタイヤの上に飛び降りた。
縄がぴんと張り、
「ぬあ」
文が反動で返ってこけた。
地面に仰向きに倒れる。そのまま立ち上がらず、荒い呼吸をしている。
「……ださ」
「無理言うな」
はたてはタイヤの上に座り込み、文を見た。
彼女は随分と汗をかいているのが見て取れた。いつもの服よりもラフな半袖半パン、タオルを首にかけた格好だ。それが、彼女の汗のせいで処々が色が変わっている。
はたては何か面白くない気持ちだった。
「熱心ね。何か裏でもあるんじゃないの」
「別にないわよ」
「本当に?」
「ないない。ただの自己満足とかそういうものよ」
「だったら、どうして頑張るのよ?」
文は身体を起こし、腰につけていた竹筒を取って口元へ持っていった。何か飲み物が入っているらしい。筒の端に口を付け呷った。
それで中身を全部飲みきったらしい。地面に向かって振って、水滴を捨てていた。
それからこちらを見て、そして言う。
「楽しいからよ」
文は悪気のない笑みを浮かべた。
……文って、こんな風に笑ったっけ?
はたてはそれを見て……何も言えなかった。言葉は見つからず、口も動かす手立てがない。
はたては、自分が抑えているにも関わらず、文がこのまま走り去っていってしまうのではないかと思った。縄なんてすぐに切れてしまって、文は自慢の速さでどこかに行ってしまい、すぐに見えなくなってしまうような、そんな気がした。
沈黙の時間はしばらく続いた。はたてにとっては気まずいものだったが、文にはそうではなかったらしい。突然勢い良く立ち上がると、
「じゃあ、行くわよ」
言われ、はたては咄嗟に立ち上がろうとした。が、文はそれを手の動きで制止した。
座ったままでいいと、彼女はそう言うのだ。
文はそのまま歩き出す。
弛んでいた縄が張り、当然文の動きは停止する。
だが、それだけで終わらなかった。
文は全身に力を込めて引っ張る。
すると僅かに動き始める。山の上で、少し傾斜しているのが効いているのかもしれない。
前進。
はたての座っているタイヤを、しっかりと引いている。
「……やるじゃない」
「まあね」
はたては素直に感心した。自分が重りとして使われているのだが、それでも構わなかった。
文に牽引されながら、はたては家に帰った。
□
翌日。
何か物を潰して確かめたが、はたての体重は重いままだった。
気が重かったが、それ以上に身体が重く感じた。気だるさ、倦怠感というものが身体を包んでしまっているようだった。
身体を動かそうにも気分が乗らなかった。
だから少し散歩しただけで、家にいることにした。
次の日もそうだった。その次の日もそうだった。
「私って、こんなだったっけ」
疑問に思ったが、深く考えないことにした。そうすることで、日に日に強くなっている身体の重量感を認めないようにしていた。
それが数日間続いた。
けれどもそればっかりではいられないので、ある日、無理矢理にでも取材に出かけることにした。
だが、
「あれ」
身体が浮かなかった。身の受ける重量感が強く、何かで身体を押さえつけられているみたいだった。
はたては飛べなくなっていた。
□
これだけは誰にも知られるわけにはいかないはたては、外に出るのをやめた。外に出れば、土地に起伏がある山の中では、空を飛ぶことを必要とされるからだ。
だからはたては家の中に閉じ篭る他なかった。
来客も断った。己の無様な姿を晒すことになるのは御免だった。
幸いにも、新聞の記事は自分の家の中だけで書くことが出来た。はたての念写の能力はそれを可能にしていた。
だから以前のような生活を送ることは出来る。
「でも、本当にそれだけでいいの?」
自問する。けれど答えはない。
以前の通りだ、と思う心はある。つい最近、心変わりした自分はただの勘違いだったのだと、そう思い込めば、これから部屋に引き篭もる生活を送ることにもあまり悲観しない。
だけど疑問が口から出る。
本当は外に出たいのだと思っている。
けれどその心を認めれば、今の苦境を認めてしまうことになる。認めなければ、自分はこれでいいのだと思うことが出来る。
だから認めるわけにはいかなかった。
はたては時たま出る疑問を噛み殺しながら過ごした。一日、一日、ずっと。
一日中誰とも会わず、言葉を発することもない。
本当は違うのだ。誰かと会い、楽しくおしゃべりをしたい。けれどそれには身体が重すぎた。翼が小さすぎた。飛べないことは、天狗の社会では生きてはいけないことと同じだった。
霊夢が言っていたことを不意に思い出す。
『木々が花を咲かせるのは蕾が軽いからなの? 鳥が空を飛べるのは、体重が軽いからなの? 多少重みがあっても、あんたは天狗なの。天狗なのよ、姫海棠はたて!』
違う。
違うのだ。
飛べない天狗などいない。
飛べないということは、天狗ではないということなのだ――はたては思う。
自分は一人だ。
――このまま一生を過ごしていくのだろうか?
「嫌だ」
ずっと?
独りで?
「嫌だよお……」
誰かにすがりたくなる――。
□
閉じ篭ってからどれくらい経っただろうか。
はたての家を訪ねる者がいた。
はたてはいつものように追い返そうとしたが訪問客――犬走椛は、用件だけは聞いて欲しいと言った。
「今日は、力自慢大会がある日ですよ」
だから、どうしたって言うのよ。
思い、だがすぐに考え直す。
……確か、文が出るんだっけか。
「……行かないんですか?」
行くわけ、ないじゃない。
こんな姿を衆目に晒すわけにはいかない。
「行かないわよ」
そう、と椛は一言。それから、去っていく足音が聞こえた。
そうだ、それでいい。少しは見てみたいと思ったが、その気分も時が過ぎれば薄れてしまうだろう。
そうするために、はたては床に就いた。
けれどもしばらくすると、遠くから――それほど遠くはないところから、囃子の音が聞こえてきた。
力自慢大会が始まったのだろう。
まるでお祭りのようだ、と思う。
そこに自分の居場所はないのだとも。
祭りの中心にいる文を思い浮かべる。自分の身体よりもずっと大きな、そして重たそうな大岩を持ち上げる射命丸文。
彼女はどれだけ活躍し、注目を浴びているのだろうか。彼女は努力していた。その努力が報われるに違いない。
「文、貴方は報われるわよ、きっと……」
誰にも聞こえない場所で、呟いた。
それから掛け布団を頭まで被った。それだけでは遮れないほどに、祭囃子の音と歓声が響いているのが鬱陶しかった。
□
気が付けば、はたての身体は布団から這い出していた。
鏡を見て最低限の身嗜みを整え、家を出た。
身体は重い。歩行のために足を上げることすらつらく、億劫になる。
けれど、何故だろうか。はたては行かなければならない気がするのだ。文の勇姿を見なければ、引き篭もるに引き篭もれないと、はたての精神が奮起しているのだ。
行こう。
何かが変わるわけではない。けれど、見なければ後悔するはずだ。
あのまま部屋に閉じ篭もり、外に興味があるのにない素振りをして過ごす。それがかつての自分の姿に酷く被る。
文と相対する前の自分がいる。
もしもこのまま行かなければ、この先もずっと以前の自分のままなのだろう。それはまるで文との縁を全て断ち切ってしまったのかのようで、嫌だ。
だから、行こう。
□
大会の催されている場所は、それほど遠くない場所のはずだった。音で聞いたはたての感覚的には、数分で飛んでいけるような場所だ。
けれど覚束無い足取りは、辿り着くまでにその何倍もの時間をかけさせた。
「……祭りの場所は、ここね」
見物客は多かった。群集の先に、何か舞台が拵えられているのが見えたがそれだけだ。誰がそこにいて何をしているのかは、客に隠れて見えない。
何が起こっているのかわからない。ただ観客が感情のはたらきとして動き、時に声を上げていることが把握できる。何か司会の声が聞こえることから、まだ催しが続いていることも察することができる。
はたてからは何も見えない。
空を飛んでいる者もいるが、はたてにはそれが真似できない。
……このまま何も見ないまま終わってしまうのだろうか。
何のためにここへ出てきたのか、はたてにはわからなくなった。結局、自分の惨めさを確認しただけじゃないか。文の姿なんかこれっぽっちも見当たらない。
くさくさしている自分が嫌になる。
その時、地響きが聞こえた。
次いで、歓声と拍手が沸き起こった。
何が起こったのか、はたてにはわからない。けれど声が聞こえた。
司会の声だ。
「……優勝は――射命丸文――!」
大会の勝者を告げる声に、どっと歓声が沸いた。
……そう、勝ったんだ。
はたては思う。良かったじゃない、と。
それからすぐに、舞台の方、群集の影で隠されないような高い位置に、一つの人影が出てきた。
大会の勝利者、射命丸文だ。
差し詰め表彰台に上がったというところだろう。他の参加者の頭もかろうじて見える。文の顔ははっきりと見える。
文は、笑っていた。
会場の熱気の向こうで、文は満たされたように笑っていた。
……良かった。
はたては、それだけで良かった。安心した、と言ってもいい。自身は満足してしまったらしい。気が付けば、もう、足は踵を返している。
もう十分だった。
文は幸いの場所にいた。そこが彼女の居場所なのだ。
自分も自分の居場所に戻ろう……。
「じゃあね」
別れを告げる言葉で歩みは進む。
一歩、二歩、三歩……それが連続する。もう未練はないのだと。
無理にでも走り出そうとして、
「あぁ――!!」
途端、声が聞こえた。
はたては振り返る。
その声は会場の方からだ。群集よりもずっと向こうからだ。舞台の上から響かされた声だ。
はたてが聞き間違えるはずのない、文の声だった。
「どこに隠れていたのよ、はたて。ずっと探してたのよ!」
文は舞台の上から、去ろうとするはたてに向かって声をかけていた。
自然と観衆の視線もはたてに向かう。
……何をするのよ。どうしてこのまま立ち去らせてくれないの?
はたてが思っていることも知らず、文ははたての元へと飛んだ。注目を集めるようにゆっくりとした動きで、彼女は隣に降りる。
「……何しに来たの?」
「そんな邪険にすることもないでしょ」
言いながら、文ははたての腕を取った。それだけではたては、文が何をしようとしているのかわかった。
はたては睨む。
「離して」
「まあまあ」
「まあまあって……勝手なこと言って! 私のことなんか放っておいてよ!」
はたては以前から重くなっているのだ――空も飛べないほどに。
それを文は知らないのだ。知るわけがない、知られないようにはたては外に出ずにいたのだから。
けれどはたては、文が何も知らないことに、それで笑っていることに、急に腹が立ってきた。
「私がどれだけつらいのか知らないくせに! どれだけ悲しんでるのか知らないくせに! どれだけ惨めな思いをしてるのか、知らないくせに……! 大体、文は自分勝手なのよ。自分でも知らないうちに他人を傷つけることだってあるのよ。そういうのを気にした方がいいんじゃないの。――わかったら、もうどこか行ってよ!」
「……何一人で良い空気吸ってるのよ?」
「何よ!」
「あのさ――」
不意に文の腕が動く。はたてを背中から抱え込むような動き。
文ははたてを引き寄せる。互いの顔が近づき、すれ違い、肩の上にくる。
抱き締められる。
「――」
はたては息を呑むのを感じた。それがはたてのものだったのか、文のものだったのか。そのどちらのものでもあったように感じる……それほどまでにお互いは密着していた。
文の身体は熱を持っていた。冷えた自分の身体が、その熱を受け止めているのがわかった。
汗もかいていた。文の匂いを強く感じて、鼓動が止まりそうになった。
耳の傍で呼吸する音が聞こえる。それは瞬間、文の囁く声に変わる。
「はたて……今度は出来るから」
「な――」
「私を信じて」
直後、文ははたてを抱きしめたまま、駆け出した。
飛び出した、とも言える。
背中の烏翼を力強く展開させた反動で、はたての身体を押し出す形になる文。彼女の、前へ進もうとする勢いがはたての身体を宙に浮かせた。
瞬間的な動きに文の背中の空気が爆ぜる。
背中へ倒れるようにもなるはたての浮いた両脚は、文が片腕できっちりと揃えて抱える。立ったままお互いに抱き合っていた二人の体位は、今、走る文と抱き抱えられるはたてに変わっていた。
文は駆けた。人の目には残像が見えるほどの速度でだ。
もちろん、二人の前には多くの群集の姿があった。が、彼らは衝突する寸でのところで避けた。
群集は真っ二つに分かれる。
だから文は邪魔されずに走ることが出来た。そして速度を上げることも出来た。はたてを抱えたまま、文は構わずスピードを上げた。
視界が歪む勢いの中、はたては問う。
「……何をしてるの!?」
「なにをって、クソ重ったい貴方を抱えて走ってるの! ――そして、飛ぶよ!」
文は言葉の通りにした。
まず、文は地面を蹴った。震脚という名のまさにその通りに、大地が振動する。
それは走り幅跳びの踏み切りの動きでもある。
跳んだ。
文とはたては、勢いのままに飛行する。けれどそれは放物線を描く飛行だ。
はたての身体は重かった。上昇の勢いもすぐに削がれ、水平飛行に変わる。その次には、落下しかない。
しかも、
「このままだと森に突っ込むわよ!」
二人の放物線の先では広場が終わり、木々が立ち並んでいる。
だから、次に文は両の翼を大きく広げた。彼女の身体の何倍も、何十倍もあるそれは、はたてから見れば空を覆いつくさんとする程に長大なものに見えた。
翼が構えられる。前へと進む勢いが、上昇へと変わる。
空を滑るように旋回して、二人の進行方向は会場へと戻った。
それから文の翼は空を打った。真下へ羽ばたくと、反作用で二人は空へと向かう。
そして、それが小刻みに連続する動きに変わると、上昇は停滞に変わる。
中空に留まっている。
二人は飛んでいた。
気付けば、はたては落ちないように文の首に手を回していた。文もはたてを落とさないように必死に抱え込んでいる。その締め付けがはたてには少し痛く、けれど心強かった。
はたてのしがみついている格好のそれは、お姫様抱っことも言うものだった。
「……飛んでる」
「……飛んでるでしょ?」
二人は広場を見下ろす。人混みを俯瞰する。
はたてがわかる限りでは、二人の飛行はあまり高くはなかったが、けれどもはたてにしてみれば久しぶりに感じる高さだった。
「私だって、やれば出来るのよ。どう、はたて……見直した?」
文の問いも聞こえていたのだろうか。
はたては呆然としていた。
「はたて?」
「――」
「どうしたの、はたて」
「……え?」
「ぼうっとしてるけど……。もしかして、見違えるほど筋力アップした私に驚いた?」
はたてにとっては、それもあった。けれどそれ以外の部分もあった。
下を見る。
力自慢大会の聴衆が、何事か、とこちらを眺めている。それを見下ろすはたては……視界が酷く高く思えた。
「文」
「あによ、急に?」
「絶対……離さないでね」
はたての真摯な口調に、文は。
「はたて、貴方」
それだけで、後の言葉は言わなかった。
ただ、
「……わかった」
一つ力強い返事をした。
□
文とはたては力自慢大会の会場の上空にいた。
眼下には先までの大会に熱狂していた観衆たちがいる。
「私、優勝者だよ? どうよ」
自慢げに言われても、正直はたては大会の内容には興味がなく実際のところ何があったのかは知らない。そんなことはどうでも良かった。
けれど、満足そうな文を見て、なんだかいい気持ちにならないわけではなかった。
「……やるじゃない」
「まあね」
文ははたての背中を支えている方の手を一旦離し、手を振って観客に応えた。
「――ほら、見ろよ観客! 私超すごいでしょ!?」
何が起こっているのか、わからない様子だった観客も、文の言葉に背中を押されたかのように、沸いた。
「文ぁー!」「射命丸ー!」
「あやちゃーん――!!」
それを見て、また満足げな顔をする文。
何をしているんだ、とはたてが思っている間にも、再び文は煽る。
「文あ――!!」「馬鹿力!」
「ゴリラ!」
「……ん?」
「ゴリラ! ゴリラ!」
「アヤコング!」
……会場から沸くゴリラコール。
文の熱が急速に冷めていくのをはたては感じた。
「ははっ、ゴリラねえー……そんな風に言われるとは……」
文は露骨に落胆しているように見えた。
「ま……まあ、そんなもんでしょ」
「でもゴリラって、ゴリラって……」
「ちょっと、文、勝手に脱力しなぁ――っ」
言い終わる前に、はたては文の腕の中から滑り落ちた。文が気付いて戻そうとするが、遅い。その手は宙を掻く。
離れ、落ちる。
下にいた観客連中は最初は、はたてがそのまま落ちてくることはないだろうと思っていた。が、すぐに真っ直ぐ落ちてくるはたてに気付き、短い悲鳴を上げながら落下点から離れた。
落ちてくる物体は人型でそれほど大きくないので避難はうまくいった。
つまりはたては勢いを殺されることなくそのまま地面に衝突した。
「あ、あー……」
轟音。
落下地点には、まさしく人型の穴が開いていた。
「あー、大丈夫ー……?」
文はすぐに降り、穴の中を覗き込んだ。
けれど、見えるのは暗闇だけだ。底が深くてはたての姿は確認できない。覗き込むと背筋が凍る思いがする。それこそ深淵と言うものだ。
深い。
「おーい」
文が呼びかけると、微かに呻き声が響いてきた。音量が小さく、反響がありすぎて良くわからないが、恐らくはたてのものだろう。
しかし、こんな底の見えない穴を開けてしまうなんて、はたては一体どうしたものか。文は思う。そしてそれを持ち上げてしまう自分はゴリラなのか。
文は少し考え、穴の中に問うた。
「とりあえず、一緒に絶食とかからやってみるー?」
散歩がてら、という趣ではあるが、外の景色を眺めて自分に新しいものを取り入れようという考えもあった。以前は新聞記者として外の世界を見る必要性を感じなかった彼女だ。それが、外に取材に出かけるようになってからは、こうして散歩の合間にも何かスクープになりそうなものはないか探すようになっていた。
以前は随分と風化したカメラが林に落ちているのを見つけた。地面の湿気に当てられ一部が錆びていたそれは誰のものでもないことは明らかだった。構造が簡単でトイカメラのようなものだった。
それ自体は何ら面白みのない出来事だ。けれど以前の自分では、詰まらないものを拾った、そんな出来事に巡り合うことですら稀だったのだと思うと新鮮な感じがした。新聞記者として新しい感覚を得られていることに小さな喜びを感じていたりもした。
自分の新聞の売り上げは、まだぱっとしない。けれど、今はじっくりやっていけばいいと晴れやかな気持ちだった。
それもこれも射命丸文とのあの出来事があってから――。
はたては時折、文のことを考えることがあった。自分にとってのライバル、ダブルスポイラー……。
彼女は一体何を見、何を考えて記事を書いているのか。
それがはたての変わる切欠、大きな関心事の一つだった。だから、彼女に近い場所にいて、彼女と同じものを確かめたいと思う。
いつからか、はたては散歩に出る度に――いや、外に出る度に文の姿を追っていた。
だから、はたてが今、彼女がよく顔を出す場所に――そこに今いるかもしれないから――足を向けるのは当然のことだった。
今日の姫海棠はたては、哨戒天狗がいるであろう、滝の方へと向かっていた。
□
そして、はたては彼女のたちの姿を見つけた。
犬走椛、河城にとり、……そして射命丸文。
けれど射命丸文、彼女だけはこちらに背を向けている――というよりは、向こうにある岩に対面している。
何をしているのか。問うと、椛は快く答えてくれた。
「――ほら、今度、力自慢大会があるじゃないですか」
ああそういえば、とはたては思う。自分にも連絡が来ていたには来ていたが、腕っ節に自信のある者だけが出ればいい、と意識の外に追いやってしまっていたことだ。
確か、内容は――大岩をどれだけ遠くまで投げられるかを競う天狗礫大会。人間にやったらしぬ。そんな風だったはず。
「で、それが今どういう関係があるのよ」
「見ていればわかりますって」
はたては黙っているように言われたような気がして、どこかばつが悪かった。けれども、何も言わず、場の成り行きを見守っていることにした。
……文は、一体何をするつもりなのだろうか?
彼女は、目を閉じて集中しているようだった。息をゆっくりと吐き、身体を引き締める。
そして、
「よっ――」
掛け声一つ、その場へ屈み岩の下へ指を挟み込むようにした。
「とっ……」
続く声で、両脚、腰、腹、両肩、両腕と順に脈打つように力を入れ、
「や――」
岩を地面から引き剥がし、立ち上がる勢いで一息に頭の上に持ち上げた。
動かされて初めて意識する岩の大きさ。高さや幅は、文の身体のゆうに5倍以上はある。重さと言えば、どれほどになるだろうか、検討が付かない。
身体をふらつかせる文の動きが、それがトリックなどではないということを語っていた。
同時に、はたては理解する。
成程、文は力自慢に出場するってことね――。
今は、その練習、内輪のデモンストレーションといったところだろう。
「す、すごいよ! 天狗っていうのは、一人でこれだけの膂力を持っているものなのかい!?」
にとりが興奮気味で問うのを、文はこちらをちらと見て、余裕の笑みで返した。
「これくらいどうってことはないわ。まだまだ上には上がいる――」
言って、文は岩をその場に落とした。
聞き慣れない鈍い反響音。重いのはわかるが騒音と景観破壊のことを考えるとなんとも荒々しい所作だ。
文はそういうことを気にしていない風だった。
「普段からトレーニングを積んではいますが、大会に向けて調整していかないといけませんねぇ……」
彼女はとにかく充実した様子だ。それだけ自信のあることなのだろう。対抗新聞という面でしか文を見ていなかったはたては、彼女の意外な一面を見た気がした。
筋肉バカというのも考えものだが。
それに関しては、どこかおかしい気がした。文にしてはわかりやすい単純な趣味だ。
はたては思わず苦笑してしまう。
それに気付いているのかいないのか、文は言葉を続けた。
「両腕に重りをつけてトレーニングするんですよ。重さというと、片腕で皆さんの体重くらいですかね」
「そんなに重くちゃ生活できないんじゃないのか?」
「いやいや、それくらい簡単――」
自慢げに言うと、文は自然な動きでにとりの肩と脚に手を掛けた。
リズム良くにとりの身体を回転させ、身体の正面で両腕に抱えるようにする。
良く言う、お姫様抱っこ、というやつだ。
「わー、わー!」
「こんなの、軽い軽い」
どこか恥ずかしそうにしているにとりを腕に中に収め余裕の表情。こうやって他人を弄ぶのも彼女の楽しみらしかった。
にとりを降ろすと次に文は、椛に歩み寄り、
「よっ」
「うわあ――!」
今度は椛をお姫様抱っこした。
やはり恥ずかしそうにする椛。じたばたと暴れて降ろせという。傍からだと、何やらいちゃついているようにも見える。
……ちょっと羨ましいなあ。
なんて思ってしまうはたて。
けれど、にとり、椛の順に来たのだから……。
「あら、はたてもいたの?」
「さっきから居たわよ」
文はこちらを確認後、やはり歩み寄ってきた。
「別にいいって……!」
自分もお姫様抱っこされる――そう思うと、途端に恥ずかしさに見舞われる。羞恥心というものは案外簡単に姿を現すものだ。
けれどはたては本気で逃げない。流れに乗っておいて損はないと思う。
家に閉じ篭りっきりだった自分は少し重いかもしれない。そのことを知られるのはどうしようもなく恥ずかしいが――けれどもそれでもいいと思う。
それほどまでに文のお姫様抱っこというのははたてにとってどこか魅力的な響きがあった。
「まあまあ構わない構わない」
結局、はたては捕まってしまった。
そしてそれから、文はさっきの二人と同様にはたての身体に手を掛け、倒し――。
持ち上げられようとしている。
けれど。
「あれ……?」
はたてが身体を預けようとしたところで、文の動きが止まった。
背中に触れる彼女の腕が、強く震えているように感じる。
何かおかしい。文はそう言わんばかりに、一度離れて腕を振り、力を入れ直す。
「はー、ふぅー……。よしっ」
もう一度、文ははたてに手を掛けた。
しかし、またしてもその動きは途中で止まってしまう。はたてが体重を文の両腕に預けようとした途端、反対に文ははたてを元の体制に戻してしまう。
「ははは、おかしいなあ……」
「……」
笑顔に焦りの色が混じり始める文。けれどはたての方はそれどころじゃなかったかもしれない。
文は一度離れ、
「ちょっと気合入れ直すから待ってて……。やっ、はあっ! ふうううううぅ!! ライウェイベイベー!! ヤっ! イエッイェエッ……!」
黒塗りの欧米マッチョを彷彿とさせる声を上げる。
彼女の声が滝の叩きつけるような音の中ですら良く響く。
「ライウェイッ! ウェーイッ! ふううううううううぅう!! ……ほい来た! ――ってあれ、はたては何処に?」
「はたてなら――泣きながらどこかへ行ったよ……」
姫海棠はたてのその姿は、文が奇声を上げているうちに消え失せてしまっていた。
□
「何よ、文ったらデリカシーのない! 大岩を持ち上げていたくせに、私一人持ち上げられないなんて、酷い冗談だわ!」
気分が悪くなったはたては自分の住処に戻ってきていた。
いくら新聞で対抗しているからって――私が持ち上げられないくらい途轍もなく重いみたいに――振舞わなくたっていいじゃないか。
彼女にしてみれば、軽い冗談だったのかもしれない。けれどお姫様抱っこされるかもしれないと、僅かに期待していたっていうのに。そして、そんな期待をしていた自分に苛立ちを覚える。
「文なんか、文なんか……!」
その時。
――憎い奴がいるのか――?
声が聞こえた。
それは空間を響かせるようなものではない。まるで思考のように、頭の中に直接響くような言葉だった。
「……誰?」
問う。
けれど部屋には誰もない。
「誰よ」
「わかっているはずだ。オレはここにいる」
今度は、問いに、はっきり答えるように声が聞こえた。
今度は空気を伝達して聞こえる声だ。つまり声の主がいる方向と距離がおおよそ掴める。
はたては、見る。
声の主は、はたてが愛用しているデスクの上にいた。
「――よう」
以前拾った黒いフォルムのトイカメラが、レンズでこちらを覗いているようにして、そこにあった。
「オレのことがわかるか?」
声はそのカメラから聞こえていた。
しかも、そのレンズから禍々しい瞳がこちらを見ていたのだ。
はたてはぎょっとした。
「誰の悪戯よこれ……」
「悪戯じゃないぞ。オレは、悪魔のカメラだ」
どこの悪魔が関わっているか知らん。
誰にしても性質の悪い悪戯だ。とりあえずはたてはそのカメラを窓から外に投げ捨てることにした。
複雑な形状に手を滑らせることのないようにがっちりホールド。投球フォームは美しく……。
「ま、待てって! いいか、よく聞け。……オレがお前の願いを叶えてやるぞ!」
「はいはい三つまで三つまで」
「そんなんじゃねえよ! 聞いておかないと後で後悔するぞ!」
カメラがやたら喚くので、はたては気が散って投球を一時中断してしまう。
「何か用?」
「まあ落ち着けよ。まずは自己紹介からだな。オレの名前はビホルドって言うんだ」
言われ、カメラを見ると黒の筐体にBEHOLDと、声が言った通りの名が刻まれている。
「オレはお前の願望を叶えてやるぞ」
「そればっかりねえ」
「まずはこれを見な」
シャッター音一つ。
その後すぐ、そのカメラは前面下部から一枚の写真を吐き出した。インスタントカメラのようだ。
はたてはその写真を取ってみる。
そこには、如何にも重そうなダンベルを両腕に持って鍛えている射命丸文の姿が写っていた。
しかし、シャッター音がしたときにはカメラのレンズはこちらを向いていたはずだ。普通ならはたての姿が写っているはずだが、この場にいないはずの文の姿がそこにある。
これは。
「念写ならもう間に合ってるわ」
「そうだが、それだけじゃない。今度はこいつのことを考えながら、お前が撮ってみな」
「何、ファインダー覗くの?」
「そうだ。強く念じてシャッターを切るんだ」
はたては言われた通りにする。
シャッター音後、さっきと同じように写真が出てくる。そこには、にこやかに歯を剥き出してダンベルを持ち上げている文の姿が写っていた。
「ほら……さっきよりズームな写真になっただろ。お前の思念によってオレの力が増大した結果、こんなことが出来る。だがこれだけじゃない。この写真を使えば様々な事が望みのままになる」
「流石に今すぐにでも捨てたい気分よ……」
まあまあ、とそのカメラ、ビホルドは言う。
それから、彼はデスクの上に載っている赤いペンを示した。
「この写真の裏に、アレでこいつにして欲しいことを書くんだ。いや、して欲しいじゃない。させてやりたい、命令したいことを書くんだ」
「それでどうなるっていうのよ」
「そいつに言うことを聞かせることが出来る。一種の催眠術みたいなものだ。けれど、絶対にそいつは命令に逆らうことは出来ない」
なんとも眉唾な話だ。
けれど、言われたからには試してみるのも悪くない。はたては次第に興味を持ち始めていた。
はたてはそのペンを手に取り、写真の裏に書く。
「『飲み物を飲み零す』、と……」
「おい。そんなことでいいのか」
「最初だからこんなもんでしょ」
答えて、はたてはもう一度カメラのシャッターを切った。
出てきた写真には、何やら白く濁った液体をぶちまけている文が写っていた。顔に、服に、床に、白い液体が付いていて、さらに顔は上気しているのだ。その写真にはどこか艶めかしい雰囲気があった。まあその液体はプロテイン飲料なのだと思うと盛り上がるものも盛り上がらないが。
けれど。
「本当に現実になったわね……」
「どうだ。少しは信用したか」
威張ったように言われると腹が立つが、ビホルドの言うことは本当らしい。
……成程。テンプテーションなんとかってわけか……。
はたては納得する。そして次に考えるのは、
「お前の命令は何でも聞く。どうだ、次はそいつに何をさせてやりたい……!?」
文にさせてやりたいこと。
はたては思う。
それは――。
「――『文が私をお姫様抱っこする』――」
そうだ。
さっきのはきっと文の悪い冗談だ。けれど今度は違う。このカメラの魔力とやらで、文は命令に従うしかないのだ。
……だから、文は私をお姫様抱っこするしかない!
そしてさっきかかされた恥を、訂正させるのだ!
「お前、そんなのでいいのか……?」
「何が?」
「いや、後でいい……」
無視してはたては早速、文を呼び出すことにした――。
□
撮った写真を握って念じると、具体的に相手を操ることが出来るらしい。
はたてはそうして、文をさっきの滝の傍まで呼び出すことにした。
はたてが茂みに隠れて見ていると、射命丸文は律儀にその場へ現れた。
「あれ、何で私こんなところに……?」
どうやら彼女には自覚がないらしい。本当に操っているみたいだ。はたては文を手中に収めたようで、俄かに満足感が湧いて来た。
文が所在なさげに突っ立っているのをずっと眺めていたかったはたてだが、やはりそれでは埒が明かない。
はたては文の元へと自然な様子で駆け寄り、声をかけた。
「あら、文ったらどうしたのこんなところで。奇遇ね」
「え、あー、うん。やあ、はたてこそ奇遇ね。こんなところに居たって面白いネタはやって来ないわよ」
……ここまで来て憎まれ口を叩く奴め。けれど滑稽ね。だって貴方は私の言うことに逆らうことが出来ないんだから!
「ねえ、さっきみたいに岩を持ち上げてみせてよ」
「何でよ」
さっきと打って変わっていやにノリが悪かった。
けれどそれもこれまでだ。はたては写真を握り、命じる。
――岩を持ち上げなさい。
すると、文は急に向きを変え、岩に向かった。
「あー?」
何か納得いかない様子の文だったが、身体はすぐに岩に手を掛ける。
そして、その岩を――軽々と持ち上げてしまった。
彼女の腕が、脚が震えているが、けれど倒れはしない。岩の破片が落ちる音が妙に生々しく感じる。
……結構余裕そうね。力は本物だ。動きも芝居がかってなどいない。
はたては同時に確信する。手に入れたカメラの力が本物だと。そして、次の命令も必ず達成されるものだと。
「んー、ちょっと辛くなって来たんだけど」
「せっかくだからもう少し持っててよ。トレーニングになるでしょ」
「それもそうかもしれないわねぇ……」
その肯定の言葉は自らの意思で言っているのか、それとも言わされているのか。その両方のように思えた。
気が付けば、周りにギャラリーが集まってきていた。見ると、にとりや椛も何事かと、野次馬の中に加わっている。はたてにしてみれば絶好のチャンスだった。
「うん、もういいわ」
念じた通り、文は岩を降ろした。落とす、とも言える。岩が地面と衝突し、本物の重量感ある音が弾けるように響いた。
これは、前座。ウォーミングアップ。
そして、本題は次だ。
「それじゃあ、文。岩も持ち上げられるんだから、私くらい簡単に持ち上げられるわよね?」
「ええ? そうね?」
「だったら――ほら、今やってみせてよ。冗談抜きでね」
……私をお姫様抱っこしなさい!
そして彼女はその通りにする。
文ははたての隣に立ち、肩と脚に腕を回した。はたてはそれに合わせて倒れるように身体を預ける。
そして自信の腕は文の首に回す。自然と抱きつき、頭が密着なるようになる体制では、文の息遣いがずっと近く感じられた。
徐々に、はたての身体が、自分でバランスを保てなくなる。比べて文の腕に体重がかかる。
その動きを、はたては遅く、じれったく感じた。だから自ら飛び乗るようにして、文に身体を預けた。
制するように文ははたてを抱えようとして――、
「無理ムリむり――!」
文は叫んだ。
彼女ははたてを両腕で持ち上げている……ように見えるが、実際には中腰になって、開いた両足で補助を入れていた。
そしてその両脚は小刻みに震えていた。
「何やってるの、ちゃんとしなさいよ!」
「無理! リリースリリース!」
「えっ――きゃあっ!!」
堪え切れず、文ははたてを離した。
重力に従って落ちるはたて。不意のことに受身を取る間もなく地面に衝突する――。
した。
瞬間、辺り一帯が大きく揺れた。
その原因は他でもないはたてだということは、その場にいる誰もがわかった。はたては尻餅を付いていたその場所こそが震源だった。
「な……」
訝しむ様子のはたて。
けれど、立ち上がり、足元の岩を見て気付く。
そこは、彼女の尻の分だけへこんでいた。よく見るとヒビさえ入っている。
「何よ、これ……」
「何よ、じゃないわよ! あんたどんだけ重いのよ!」
「ち、違うわ。悪い冗談はやめてよ」
「ずっと取材に出ず引き篭もっていたから、そんなわけわかんないくらいに重いのよ。少しはダイエットしたらどう?」
「嘘吐きだわ! 貴方も、皆も……!」
文が、真剣な眼ではたてを見た。
「嘘じゃないわよ」
それは、はたての異常を追求するような、そして深く心配するような眼差しだった。
……やめてよ、とはたては思う。
憐れまれているとも思う。
彼女の目線の先に、見っとも無い自分がいる。
はたては、身が切り刻まれるような思いを抱いた。
「嘘じゃないって……嘘でも、嘘だって言いなさいよ」
「私は、嘘は吐かないわ」
そこにいることが窮屈だった。
気が付けば、聴衆の皆が密めき合っているのが聞こえた。
……何だあれは。どうして持ち上げられない。何かの冗談か、でもそんな風には見えない。はたては重い。重い。重い……。
いくつもの目線が自身に突き刺さっていることを、彼女はようやく自覚した。
「やめてよ……。あんたがふざけたせいで! この筋肉バカ!」
「筋肉バカって何よ」
「ふん。脳筋って貴方のことを言うのよ。このゴリラ!」
「ゴリラっていうならあんたはブタよブタ」
「ブタって何よ!」
「何か?」
「ふん、ゴリラゴリラゴリラ! 大体、何で私一人持ち上げられないのよ!?」
「それは――貴方が重すぎるからよ」
はたては重い。
それは紛れもない事実だった。けれどはたてにはどうしてもそれを認めるわけにはいかなかった。
「うるさい!」
叫び、はたては飛んだ。もうこの場に用は無かった。すぐにでもこの場を立ち去りたかった。
だからはたては飛んだ。自分の住処に。自分が落ち着ける場所に。
誰かの噂する声が聞こえない場所へと、飛んでいった。
□
「よう……何かわけのわからんことをやってるな、お前」
相手に何でも言うことを聞かせられるという、不思議な魔力を持ったカメラが姫海棠はたての帰宅を出迎えた。
そんなはたての気分は最悪だった。こいつがいることをうっかり忘れていた。どうして帰ってきてこんな出所不明な奴の相手をしなければならないのか。うんざりだった。
はたての思いに気付いていない様子でカメラは喋り続ける。
「まあ、気分を晴らしたかったら別の命令を書くことだな。何だったらオレが提案してやるぜ」
「そうねえー。とりあえず誰かにプレス機を持ってきて貰おうかしら」
「まさか新聞でも刷るわけじゃあるまい……」
「そのプレスじゃなくて、潰す方のプレスよ――あんたを」
ぎょっとしてカメラが見る。
「おいおい、どうしてオレを手放そうとするんだ? 効果はわかっただろうに」
「うるさい。あんたのせいで私は酷い目にあったのよ! 文には馬鹿にされて皆には笑われて!」
「安心しろよ。写真の術は、命令されている本人やそれを見た者に暗示を掛けて、それを意識出来ないようにしているからな。さっきのことは誰も喋らない、いつか忘れてしまうだけだ」
「ここに来ていきなり便利設定持ち出して来たわね……。まあ、それだったら気兼ねなくあんたを破壊出来るわ」
すると、カメラは――無機質な形状の中で――表情を変えた。
とても冷ややかな、嘲笑うかのような表情に。
「そんなことしてみろ。お前が酷い目に遭うぞ」
「へえ。具体的に何が起きるのか、言って御覧なさいよ」
「オレが壊れたら、その壊れた部品にお前を代替する。お前を吸収して修復するってことさ。そして新しい所有者を求めてまた彷徨うだけさ」
「だったら、自動再生機能が働く前に潰す」
「やれるのか?」
「やるわよ」
はたては言い、そのカメラのボディを引っ掴んで放り投げた。
はたての足元へ落ちるような軌道だ。その中で、レンズの中にあった瞳と目が合う。
……少ない時間だっただけに、心残りとか全くないわね……。
思いながら、カメラには手も触れずたっぷり見送るはたて。
そして、カメラが地面にぶつかるというその瞬間。
「うおら――っ!」
はたてはそのカメラにボディプレスを掛けた。
はたての、大岩をも凌ぐ超重量級の衝撃に潰されたカメラは、その部品の一つ一つを平らげられた。そしてカメラの言う通りなら、次にはたてが吸収されるはず。
……この重みの一部分でも吸収してみろってんだ!
けれど、はたてを吸収するような気配は無い。はたての超大な質量を、その再生能力は受け止めることが出来なかったようだった。
はたての重さの方が勝っていたのだ。
「悲しい事実ではあるけどね……」
こうしてみょうちきりんな妖怪カメラとの戦いはここで幕を閉じたのだが、はたての重量問題は何も解決されていなかった。
□
姫海棠はたてはその足を守矢神社に向けていた。実際には翼かもしれないが些細なことだ。
いつもの散歩の延長だ。
その目的は二つ。一つは気晴らしの意味で。もう一つははたての重みについて具体的な解決案を請うためでもあった。
守矢神社の境内にはいつも通りに、青い巫女の姿があった。
けれどその他に二つの影があった。
一つは紅白。もう一つは黒白。
追加で、博麗の巫女と人間の魔法使いの姿があったのだ。
「よお、いつぞやの天狗じゃないか」
縁石に座っている三人のうち、最初にはたてに気付いたのは霧雨魔理沙だった。彼女は胸の前に何かを手にしていて、空いている手を挙げて応えた。
それに続いて、東風谷早苗は軽く会釈を、博麗霊夢はこちらを一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。
残りの二人も短い筒状の何かを垂直に保って持っている。
「何しているの?」
「ああ、はたてさん。今日は魔理沙さんが珍しい物を持ってきてくれたので――」
「食事中ってわけよ」
霊夢は詰まらなそうに言って、その筒の空いた上部に箸を突っ込んだ。
よく見れば、それは筒ではなく器だ。
白い妙な素材で出来たその器からは、白い湯気が上がっている。霊夢が箸を持ち上げると、細い縮れた麺が巻きついているのが見えた。
はたてはそれを知っている。カップヌードルという奴だ。
外から入り込んできたそれは保存状態が良ければ食べることも出来る。妙に潔癖のきらいがあった早苗が、そういうものに関してはあまり抵抗せずに口に入れるという話をはたては思い出した。
「変な味しか手に入らないのが難ですよ。アァ、オーソドックスな味が恋しい……食べたところで、まあこんなものか、となるのが目に見えてますけど」
「懐かしさが薄っぺらいわね……」
傍目には同じように見える。が、外容器の形状や印は少しずつ異なる。それは中に入っている食物の味を表しているらしい。
はたてが見ると、三人が持っている容器にはでかでかとカタカナでその味らしいものが書かれているが。
「ブタホタテドリ……」
何故か引っ掛かる名称だった。ついでに表面に描かれている鳥っぽい謎クリーチャーも気にせずにはいられなかった。
「それにしても、申し訳ありません。はたてさんの分は残ってないんですよ」
「いや、別にいいわ。そんな気分にならないし……」
「おいおい、心配しなくたって共食いにはならないぞ。……あ、こういうのは気持ちの問題か」
魔理沙の物言いが気に食わないが、反射的に思い浮かんだ言葉口にしているものだ。あまり深く気にすればこちらが不利になる。
気にしないでおくのが吉というものだ。
「ねえ魔理沙。ブタホタテドリのどこがこいつと類似要素があるの? ブタ?」
「はたてはブタじゃねえよ!」
「そんなこと言って失礼ですよ。――あ、それで、はたてさん。今日はどういった御用で?」
さてどうしたものか。はたては困窮した。
この流れで体重の話をするわけにはいかなかった。
「べ……別にこれといった用事はないわ。ちょっと散歩」
「今、言葉に詰まったわね。何かあるわ絶対」
「詰まってるとか言ってやるなよ、可哀想だろ。詰まってるとか、中身が詰まってパンパンだとか! 絶対言ってやるなよ!」
「あのさ、あんたらわかって話してるよね? 絶対わかってるわよね?」
「――あー、皆さん」
早苗が咳払いを一つ。
「とりあえずはたてさんの事情は承知しました」
「何で承知してるのよ。どこから聞いたのよ」
「にとりからブタホタテドリ一つで聞かせてもらった。何、心配することはないさ。私たちは味方だぜ」
あの河童め。食べ物なんかに釣られやがって。
まあ、文が新聞に書いたとかじゃなくて良かったんだけど……。
と、はたては思い、ふと疑問が浮かぶ。
「あー、味方ぁ?」
味方だって?
確かにそのことを相談しにここへやってきた。けれどまさか巫女や魔法使いの手を借りようなどとは思っていなかった。
「あんたらの手を借りたところで余計なことにならないわ」
「あら、不満そうねこの天狗。不満、フマン……太っているだけに?」
「はたては肥満じゃねえよ!」
「不満だっつーの! あんたらの助けなんか要らないわ!」
「まあまあ、落ち着いてください。なにぶん重い話ですから、私たちも皆心配しているのです」
「重いとか言ってやるなよ、早苗! 気にしてるんだぞこいつはこんなになっても!」
「あんたら、誠意見せるにも見せようがあるじゃないの!」
「えーまー、とりあえずー」
早苗は再び流れを制して。
「とりあえず、真面目に対処してみませんか?」
□
はたてと、霊夢、魔理沙は並び、早苗が前に出た。
「私も今はこうして神社の風祝なんてやっておりますが、かつてはダイエットに苦労したうら若き乙女の一人。そんな私を一度信用して頂きたい。どうぞよろしく――!」
呼応してまばらな拍手が響く。
「――音頭を取ってみましたが、私が提案するのは至って普通の方法です」
「早苗ってばネタに走らなくてもいいのかい? 常識を投げ捨てなくてもいいのかい?」
「煽ってキレられても知らないわよー」
堅実に進行する早苗に対し、他二人は頼りにならないことは火を見るよりも明らかなようだ。
基本的に、一番手というものは失敗に向かってひた走るものだ。そうはたては思う。
何故なら後の二人に繋がらないからだ。けれど他の二人に成功する要素はない。だから、ここで是が非でも成功させたいはたてだった。
期待を寄せられる早苗は言葉を続ける。
「とりあえず、体重がどれくらいか測ってみましょうか。かの孫子も言いました。彼を知り己を知れば、百戦して殆からず、彼を知らずして己を知れば、一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。 ですので、味方戦力の把握といくのが定石かと」
「御免、今回の問題について敵と味方が何にどう対応するのか見当が付かないんだけど……」
「とにかく右手をご覧下さい」
彼女の右手にはブタホタテドリのカップが握られていた。
ではなく、彼女の右方――そこには、いつの間にやら金属製の台が置いてあった。それがどうやら体重計らしい。
けれどその面積は四畳ほどある。
「人が乗るってサイズじゃないわね……」
「秤は最初に大きいものを準備するのが基本です。この体重計、無骨ですが造りは堅牢ですよ。ではどうぞ、はたてさん」
呼ばれたがはたてはあまり気乗りしなかった。
その台は体重計と言うよりは測定器だ。そんなものに乗せられては尊厳を踏みにじられているようなものだ。屈辱的だ。
「……ねえ、もっと別のないの?」
「はたては我儘だなあ! でもこれより小さいサイズなんて持ってきても針が振り切れるだけだろ」
「そうよ。大岩比でも大勝利のあんたならこれくらいが丁度いいわ。――まさか人間と同じものを使えると思っているんじゃないでしょうね?」
図星で言葉が出ない。
それを見た霊夢は溜息を吐く。
「まったく自覚が無いなんて、あんたには現実の直面というショック療法が必要ね。いいからさっさと乗りなさい」
強く言われてしまうと、はたてはますます気が進まなかった。
「何かヤダ」
「じゃあほら、皆で一緒に乗りましょう! そうすれば誰がどれくらい重いのかわかりません」
「そして三人の体重を引いたらはたての体重が割り出せるって寸法よ!」
「動物の体重の測り方でしょそれ! 舐めんな!」
「ちげえよ! ブタははたてじゃねえよ!」
「言ったわね!? 絶対言ってはいけないことを言ったわね!?」
こうなってはとにかく乗ってやるもんか。意地になり始めるはたて。
そうなると長期戦だ。まさかこんな前段階で正念場が訪れようとは誰も予想しなかっただろう。霊夢、魔理沙、早苗の三人の顔に面倒臭そうで苛立った表情が出るというものだ。
とにかくはたてを体重計に乗せてしまおう、と策を練る。
まず魔理沙は体重計に一足先に乗り、
「来いよはたて! 脂肪なんか捨ててかかって来い!」
捨てられるのなら最初から捨てている。
一人ごちるはたては、そっぽを向いてしまう。
「ちっ、駄目か……」
「はたても強情ね。私たちがこれだけ心配しているっていうのに折れないなんて。神経太いわね」
「ええ、まったくです。しかし、このまま何もせず突っ立っていたら日が暮れてしまいます。そうなったら私たちがどんなことをするのか、はたてさんにはわかりますか――!?」
わからん。
「家に帰るだけだな」
「ねー」
帰れよお前ら。すぐに帰れよ。そして無駄に連携が取れているなこの三人。
呆れている間に、今度は霊夢が出てくる。手に持っていたブタホタテドリの空カップを投げ捨て、はたての前に立った。
彼女は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「いい、はたて。よく考えなさい。――木々が花を咲かせるのは蕾が軽いからなの? 鳥が空を飛べるのは、体重が軽いからなの? 多少重みがあっても、あんたは天狗なの。天狗なのよ、姫海棠はたて!」
「多少の重みって、多少どころじゃないだろ」
「というか天狗って言われるとあんまりいい台詞じゃないですよねえ……」
こいつらは本当に体重計に乗せるつもりがあるのか?
疑問にさえ思う。面白がっているだけで、何も深くは考えていないのだろう。
「私もう帰っていい?」
「何だよ、つれないな。気分でも悪くしたか。まあそう言わず、私の案くらいは聞いていけよ。……まあ今更体重計に乗らなくたっていいんだよ。要は軽くなればいいんだ。体重なんて関係ない。早苗の冗談は真面目すぎて笑えないぜ」
「私一応本気です」
「ほら、早苗は本当に詰まらない奴だ。けれど私は違う」
霧雨魔理沙は身を乗り出してきた。
いいか、よく聞けよ、なんて前置きをされる。すると後が気になってしまうというものだ。
はたてはとりあえず家に帰ろうとした足を戻して、魔理沙と対面した。
□
「はたて、お前、痩せるってことがどういうことかわかるか?」
いきなり何を言い出すのかと思えば。
「要するに、軽くなるってことでしょ?」
はたての返答に、魔理沙は否定する形に手を振る。
甘い、甘いなと、教え諭すような声で魔理沙は言う。
「そんな単純なもんじゃない。痩せるってことは、お前のこれまでのだらしない弛緩し切った生活を唾棄し、体型を変化、そして維持することだ。それは――己を律するような厳しい精神がなければ達成することは出来ない遠大なる試練。だからこそ言える! 今のお前にはそれが欠けていると。それも、絶望的にな」
魔理沙の言うことももっともだった。
これまでの、外に取材しに行く必要を感じず家に引き篭もるような生活は、己の怠慢怠惰が生み出したものだ。だから今の結果がある。
痩せるということはそれを意識して変えなければならない。それも、最近外に出るようになっただけでは足りないという。
「意識改革が必要だ」
「それはどういう……」
「ああ、それはつまり――まあ説明するより実践してみた方が早いだろうな」
そう言って魔理沙は自前のエプロンのポケットからトマトを取り出した。
「まずはこれを食うんだ」
……え?
突然のことにはたては戸惑う。
「何で痩せようとしてるのに食べなくちゃいけないのよ」
「いいから早くトマトを食べるんだ」
差し出されるまま、断ることも出来ずトマトを受け取るはたて。
これに一体どんな理屈があるのだろうか、わからない。そこには怪しさしかない。
けれど一方で、如何にも目的と逆行しているようなこの行為にこそ、何か秘密が隠されているのかもしれないと思ってしまう。
それにこのままじっとしていても事態は進展しないのはさっきと同じだ。
「じゃあ、食べるわよ……」
はたては半信半疑でトマトを口に運んだ。
一口齧る。
咀嚼し、飲み込む。
それだけだ。
「……食べたわよ?」
「ああ、食べたのか。はたて」
魔理沙は真剣そうな表情をする。
「本当に食べたのか?」
「た、食べたわよ。だから何?」
「――何てこった。本当に食べてしまったのかはたてよ!」
直後、魔理沙は突然激昂してはたてに飛び掛った。
「何て奴なんだお前は! 本当に痩せるつもりがあるのか!? いや無いんだろうなお前の場合! 何故なら! 人に出されたものを簡単に口に入れてしまうんだから!!」
「なっ……」
「そんなんだからお前はぷくぷくぷくぷく太ってしまうんだ。本当に目の当てられない奴だ! 意志薄弱! 役立たず、穀潰しの碌でなし!」
はたての背に回り込み、チョークスリーパーを決める魔理沙。このまま首でも折ろうかという勢いで、はたての身体を左右に揺さぶる。
「吐け、いいから吐け!! 吐かないと苦しむことになるぞ!! アア、お前はそんな奴じゃなかった! 今のお前は昔のお前とは違う。――悪魔だ! 悪魔に取り憑かれているんだお前は!!! 可哀想なはたて!!!!!!! 今救ってやるからな!!!!!!!!!!!!!!!!」
はたてがタップしたところで残りの二人が止めに入った。
早苗が魔理沙からはたてを無理矢理引き剥がし、霊夢は魔理沙を羽交い絞めにして捕らえた。
それからお互い息を整えるのに数分かかった。
その後。
「いきなりエクソシストしてどうしたのよ魔理沙。弁明できる?」
「いや、アレだな。――食べることがトラウマになれば否が応にも痩せるんじゃないかと思って」
「拒食症になって弱るわよ……」
「むしろ、肯定後に否定って、人格破壊の方法と同じですよね……」
そういうわけで魔理沙の方法も没になった。
□
そして、順番通りとでも言うように、今度は霊夢が前に出た。
「さて、最後に私の番だけど」
「もう期待できないから帰ってもいい?」
「ちょっとくらい聞いていったって損じゃないわよ」
そうやって酷い目に遭わされてきたのだが、もう忘れてしまったのか。なんていう奴らだ。
けれどはたての中には、毒を食らわば皿まで、という諦めの気持ちが出てきていた。
「んで、何をするって言うのよ」
「いや、特に解決法っていうのは提示しないんだけど――」
霊夢は考えるように視線を動かす。
「身体が途轍もなく重くなる――そんな被害を出す妖怪を聞いたこと無い?」
妖怪と言われれば巫女の領分だが、そも妖怪である天狗のはたてにとっては日常的な知識だ。
だから、はたては霊夢よりも知っていた。
「"赤頭"ね」
「おい何だよ、それ」
「妖怪というより怪談の類なんだけど……"赤頭"って力持ちの男に肖ろうとしたら、身体が物凄く重く感じるっていう話」
「他にもウブメとかあるけど、原因が妖怪にあると見てもいいんじゃないかしら」
霊夢の言うことは――今まではとにかく今度こそ――的を射ているように思えた。
道理のわからない異変は妖怪が起こしているのが常であるというもの。だったら今回の件だって、何かしらの妖怪が関わっているのかもしれない。
「だったらそいつを見つけて、とっちめればいいのね!」
「とっちめられればいいんだけどねえ……」
霊夢は歯切れが悪かった。
「こういう現象だけが出てくる奴って対処が難しいわね。一応原因を探ってはみるけど……」
「みるけど?」
「多分だけど、今回の件はしばらく解決しないわ。勘がそう言ってるの」
……しばらくって、どのくらい?
体重があると言っても、日常生活に支障を来しているわけではない。それまで待っていればいいだけだ。
すると霊夢は、濁しながらも答えてくれた。
「まあ、最後まで解決しないんじゃないかしら……?」
「最後ってどの最後だよ……」
霊夢の予言や呪いめいた言葉も、なまじ巫女である彼女の言葉であるので、その場の全員が閉口せざるを得なかった。
□
結局、それだけで場は解散となった。特に解決法というものは出てこなかったが、はたては気にかけないことにした。
はたてが家に帰る道中、文の姿を見つけた。
文は麻縄で自分の胴と結んだ古タイヤを後に引きながら、ジョギングしていた。またトレーニング中というところだろう。
走っているその速度はかなり速いが、飛ぶよりは遅い。だからはたては追いつくことができた。
かける言葉が見つからない。だから何も言わず、引っ張っているタイヤの上に飛び降りた。
縄がぴんと張り、
「ぬあ」
文が反動で返ってこけた。
地面に仰向きに倒れる。そのまま立ち上がらず、荒い呼吸をしている。
「……ださ」
「無理言うな」
はたてはタイヤの上に座り込み、文を見た。
彼女は随分と汗をかいているのが見て取れた。いつもの服よりもラフな半袖半パン、タオルを首にかけた格好だ。それが、彼女の汗のせいで処々が色が変わっている。
はたては何か面白くない気持ちだった。
「熱心ね。何か裏でもあるんじゃないの」
「別にないわよ」
「本当に?」
「ないない。ただの自己満足とかそういうものよ」
「だったら、どうして頑張るのよ?」
文は身体を起こし、腰につけていた竹筒を取って口元へ持っていった。何か飲み物が入っているらしい。筒の端に口を付け呷った。
それで中身を全部飲みきったらしい。地面に向かって振って、水滴を捨てていた。
それからこちらを見て、そして言う。
「楽しいからよ」
文は悪気のない笑みを浮かべた。
……文って、こんな風に笑ったっけ?
はたてはそれを見て……何も言えなかった。言葉は見つからず、口も動かす手立てがない。
はたては、自分が抑えているにも関わらず、文がこのまま走り去っていってしまうのではないかと思った。縄なんてすぐに切れてしまって、文は自慢の速さでどこかに行ってしまい、すぐに見えなくなってしまうような、そんな気がした。
沈黙の時間はしばらく続いた。はたてにとっては気まずいものだったが、文にはそうではなかったらしい。突然勢い良く立ち上がると、
「じゃあ、行くわよ」
言われ、はたては咄嗟に立ち上がろうとした。が、文はそれを手の動きで制止した。
座ったままでいいと、彼女はそう言うのだ。
文はそのまま歩き出す。
弛んでいた縄が張り、当然文の動きは停止する。
だが、それだけで終わらなかった。
文は全身に力を込めて引っ張る。
すると僅かに動き始める。山の上で、少し傾斜しているのが効いているのかもしれない。
前進。
はたての座っているタイヤを、しっかりと引いている。
「……やるじゃない」
「まあね」
はたては素直に感心した。自分が重りとして使われているのだが、それでも構わなかった。
文に牽引されながら、はたては家に帰った。
□
翌日。
何か物を潰して確かめたが、はたての体重は重いままだった。
気が重かったが、それ以上に身体が重く感じた。気だるさ、倦怠感というものが身体を包んでしまっているようだった。
身体を動かそうにも気分が乗らなかった。
だから少し散歩しただけで、家にいることにした。
次の日もそうだった。その次の日もそうだった。
「私って、こんなだったっけ」
疑問に思ったが、深く考えないことにした。そうすることで、日に日に強くなっている身体の重量感を認めないようにしていた。
それが数日間続いた。
けれどもそればっかりではいられないので、ある日、無理矢理にでも取材に出かけることにした。
だが、
「あれ」
身体が浮かなかった。身の受ける重量感が強く、何かで身体を押さえつけられているみたいだった。
はたては飛べなくなっていた。
□
これだけは誰にも知られるわけにはいかないはたては、外に出るのをやめた。外に出れば、土地に起伏がある山の中では、空を飛ぶことを必要とされるからだ。
だからはたては家の中に閉じ篭る他なかった。
来客も断った。己の無様な姿を晒すことになるのは御免だった。
幸いにも、新聞の記事は自分の家の中だけで書くことが出来た。はたての念写の能力はそれを可能にしていた。
だから以前のような生活を送ることは出来る。
「でも、本当にそれだけでいいの?」
自問する。けれど答えはない。
以前の通りだ、と思う心はある。つい最近、心変わりした自分はただの勘違いだったのだと、そう思い込めば、これから部屋に引き篭もる生活を送ることにもあまり悲観しない。
だけど疑問が口から出る。
本当は外に出たいのだと思っている。
けれどその心を認めれば、今の苦境を認めてしまうことになる。認めなければ、自分はこれでいいのだと思うことが出来る。
だから認めるわけにはいかなかった。
はたては時たま出る疑問を噛み殺しながら過ごした。一日、一日、ずっと。
一日中誰とも会わず、言葉を発することもない。
本当は違うのだ。誰かと会い、楽しくおしゃべりをしたい。けれどそれには身体が重すぎた。翼が小さすぎた。飛べないことは、天狗の社会では生きてはいけないことと同じだった。
霊夢が言っていたことを不意に思い出す。
『木々が花を咲かせるのは蕾が軽いからなの? 鳥が空を飛べるのは、体重が軽いからなの? 多少重みがあっても、あんたは天狗なの。天狗なのよ、姫海棠はたて!』
違う。
違うのだ。
飛べない天狗などいない。
飛べないということは、天狗ではないということなのだ――はたては思う。
自分は一人だ。
――このまま一生を過ごしていくのだろうか?
「嫌だ」
ずっと?
独りで?
「嫌だよお……」
誰かにすがりたくなる――。
□
閉じ篭ってからどれくらい経っただろうか。
はたての家を訪ねる者がいた。
はたてはいつものように追い返そうとしたが訪問客――犬走椛は、用件だけは聞いて欲しいと言った。
「今日は、力自慢大会がある日ですよ」
だから、どうしたって言うのよ。
思い、だがすぐに考え直す。
……確か、文が出るんだっけか。
「……行かないんですか?」
行くわけ、ないじゃない。
こんな姿を衆目に晒すわけにはいかない。
「行かないわよ」
そう、と椛は一言。それから、去っていく足音が聞こえた。
そうだ、それでいい。少しは見てみたいと思ったが、その気分も時が過ぎれば薄れてしまうだろう。
そうするために、はたては床に就いた。
けれどもしばらくすると、遠くから――それほど遠くはないところから、囃子の音が聞こえてきた。
力自慢大会が始まったのだろう。
まるでお祭りのようだ、と思う。
そこに自分の居場所はないのだとも。
祭りの中心にいる文を思い浮かべる。自分の身体よりもずっと大きな、そして重たそうな大岩を持ち上げる射命丸文。
彼女はどれだけ活躍し、注目を浴びているのだろうか。彼女は努力していた。その努力が報われるに違いない。
「文、貴方は報われるわよ、きっと……」
誰にも聞こえない場所で、呟いた。
それから掛け布団を頭まで被った。それだけでは遮れないほどに、祭囃子の音と歓声が響いているのが鬱陶しかった。
□
気が付けば、はたての身体は布団から這い出していた。
鏡を見て最低限の身嗜みを整え、家を出た。
身体は重い。歩行のために足を上げることすらつらく、億劫になる。
けれど、何故だろうか。はたては行かなければならない気がするのだ。文の勇姿を見なければ、引き篭もるに引き篭もれないと、はたての精神が奮起しているのだ。
行こう。
何かが変わるわけではない。けれど、見なければ後悔するはずだ。
あのまま部屋に閉じ篭もり、外に興味があるのにない素振りをして過ごす。それがかつての自分の姿に酷く被る。
文と相対する前の自分がいる。
もしもこのまま行かなければ、この先もずっと以前の自分のままなのだろう。それはまるで文との縁を全て断ち切ってしまったのかのようで、嫌だ。
だから、行こう。
□
大会の催されている場所は、それほど遠くない場所のはずだった。音で聞いたはたての感覚的には、数分で飛んでいけるような場所だ。
けれど覚束無い足取りは、辿り着くまでにその何倍もの時間をかけさせた。
「……祭りの場所は、ここね」
見物客は多かった。群集の先に、何か舞台が拵えられているのが見えたがそれだけだ。誰がそこにいて何をしているのかは、客に隠れて見えない。
何が起こっているのかわからない。ただ観客が感情のはたらきとして動き、時に声を上げていることが把握できる。何か司会の声が聞こえることから、まだ催しが続いていることも察することができる。
はたてからは何も見えない。
空を飛んでいる者もいるが、はたてにはそれが真似できない。
……このまま何も見ないまま終わってしまうのだろうか。
何のためにここへ出てきたのか、はたてにはわからなくなった。結局、自分の惨めさを確認しただけじゃないか。文の姿なんかこれっぽっちも見当たらない。
くさくさしている自分が嫌になる。
その時、地響きが聞こえた。
次いで、歓声と拍手が沸き起こった。
何が起こったのか、はたてにはわからない。けれど声が聞こえた。
司会の声だ。
「……優勝は――射命丸文――!」
大会の勝者を告げる声に、どっと歓声が沸いた。
……そう、勝ったんだ。
はたては思う。良かったじゃない、と。
それからすぐに、舞台の方、群集の影で隠されないような高い位置に、一つの人影が出てきた。
大会の勝利者、射命丸文だ。
差し詰め表彰台に上がったというところだろう。他の参加者の頭もかろうじて見える。文の顔ははっきりと見える。
文は、笑っていた。
会場の熱気の向こうで、文は満たされたように笑っていた。
……良かった。
はたては、それだけで良かった。安心した、と言ってもいい。自身は満足してしまったらしい。気が付けば、もう、足は踵を返している。
もう十分だった。
文は幸いの場所にいた。そこが彼女の居場所なのだ。
自分も自分の居場所に戻ろう……。
「じゃあね」
別れを告げる言葉で歩みは進む。
一歩、二歩、三歩……それが連続する。もう未練はないのだと。
無理にでも走り出そうとして、
「あぁ――!!」
途端、声が聞こえた。
はたては振り返る。
その声は会場の方からだ。群集よりもずっと向こうからだ。舞台の上から響かされた声だ。
はたてが聞き間違えるはずのない、文の声だった。
「どこに隠れていたのよ、はたて。ずっと探してたのよ!」
文は舞台の上から、去ろうとするはたてに向かって声をかけていた。
自然と観衆の視線もはたてに向かう。
……何をするのよ。どうしてこのまま立ち去らせてくれないの?
はたてが思っていることも知らず、文ははたての元へと飛んだ。注目を集めるようにゆっくりとした動きで、彼女は隣に降りる。
「……何しに来たの?」
「そんな邪険にすることもないでしょ」
言いながら、文ははたての腕を取った。それだけではたては、文が何をしようとしているのかわかった。
はたては睨む。
「離して」
「まあまあ」
「まあまあって……勝手なこと言って! 私のことなんか放っておいてよ!」
はたては以前から重くなっているのだ――空も飛べないほどに。
それを文は知らないのだ。知るわけがない、知られないようにはたては外に出ずにいたのだから。
けれどはたては、文が何も知らないことに、それで笑っていることに、急に腹が立ってきた。
「私がどれだけつらいのか知らないくせに! どれだけ悲しんでるのか知らないくせに! どれだけ惨めな思いをしてるのか、知らないくせに……! 大体、文は自分勝手なのよ。自分でも知らないうちに他人を傷つけることだってあるのよ。そういうのを気にした方がいいんじゃないの。――わかったら、もうどこか行ってよ!」
「……何一人で良い空気吸ってるのよ?」
「何よ!」
「あのさ――」
不意に文の腕が動く。はたてを背中から抱え込むような動き。
文ははたてを引き寄せる。互いの顔が近づき、すれ違い、肩の上にくる。
抱き締められる。
「――」
はたては息を呑むのを感じた。それがはたてのものだったのか、文のものだったのか。そのどちらのものでもあったように感じる……それほどまでにお互いは密着していた。
文の身体は熱を持っていた。冷えた自分の身体が、その熱を受け止めているのがわかった。
汗もかいていた。文の匂いを強く感じて、鼓動が止まりそうになった。
耳の傍で呼吸する音が聞こえる。それは瞬間、文の囁く声に変わる。
「はたて……今度は出来るから」
「な――」
「私を信じて」
直後、文ははたてを抱きしめたまま、駆け出した。
飛び出した、とも言える。
背中の烏翼を力強く展開させた反動で、はたての身体を押し出す形になる文。彼女の、前へ進もうとする勢いがはたての身体を宙に浮かせた。
瞬間的な動きに文の背中の空気が爆ぜる。
背中へ倒れるようにもなるはたての浮いた両脚は、文が片腕できっちりと揃えて抱える。立ったままお互いに抱き合っていた二人の体位は、今、走る文と抱き抱えられるはたてに変わっていた。
文は駆けた。人の目には残像が見えるほどの速度でだ。
もちろん、二人の前には多くの群集の姿があった。が、彼らは衝突する寸でのところで避けた。
群集は真っ二つに分かれる。
だから文は邪魔されずに走ることが出来た。そして速度を上げることも出来た。はたてを抱えたまま、文は構わずスピードを上げた。
視界が歪む勢いの中、はたては問う。
「……何をしてるの!?」
「なにをって、クソ重ったい貴方を抱えて走ってるの! ――そして、飛ぶよ!」
文は言葉の通りにした。
まず、文は地面を蹴った。震脚という名のまさにその通りに、大地が振動する。
それは走り幅跳びの踏み切りの動きでもある。
跳んだ。
文とはたては、勢いのままに飛行する。けれどそれは放物線を描く飛行だ。
はたての身体は重かった。上昇の勢いもすぐに削がれ、水平飛行に変わる。その次には、落下しかない。
しかも、
「このままだと森に突っ込むわよ!」
二人の放物線の先では広場が終わり、木々が立ち並んでいる。
だから、次に文は両の翼を大きく広げた。彼女の身体の何倍も、何十倍もあるそれは、はたてから見れば空を覆いつくさんとする程に長大なものに見えた。
翼が構えられる。前へと進む勢いが、上昇へと変わる。
空を滑るように旋回して、二人の進行方向は会場へと戻った。
それから文の翼は空を打った。真下へ羽ばたくと、反作用で二人は空へと向かう。
そして、それが小刻みに連続する動きに変わると、上昇は停滞に変わる。
中空に留まっている。
二人は飛んでいた。
気付けば、はたては落ちないように文の首に手を回していた。文もはたてを落とさないように必死に抱え込んでいる。その締め付けがはたてには少し痛く、けれど心強かった。
はたてのしがみついている格好のそれは、お姫様抱っことも言うものだった。
「……飛んでる」
「……飛んでるでしょ?」
二人は広場を見下ろす。人混みを俯瞰する。
はたてがわかる限りでは、二人の飛行はあまり高くはなかったが、けれどもはたてにしてみれば久しぶりに感じる高さだった。
「私だって、やれば出来るのよ。どう、はたて……見直した?」
文の問いも聞こえていたのだろうか。
はたては呆然としていた。
「はたて?」
「――」
「どうしたの、はたて」
「……え?」
「ぼうっとしてるけど……。もしかして、見違えるほど筋力アップした私に驚いた?」
はたてにとっては、それもあった。けれどそれ以外の部分もあった。
下を見る。
力自慢大会の聴衆が、何事か、とこちらを眺めている。それを見下ろすはたては……視界が酷く高く思えた。
「文」
「あによ、急に?」
「絶対……離さないでね」
はたての真摯な口調に、文は。
「はたて、貴方」
それだけで、後の言葉は言わなかった。
ただ、
「……わかった」
一つ力強い返事をした。
□
文とはたては力自慢大会の会場の上空にいた。
眼下には先までの大会に熱狂していた観衆たちがいる。
「私、優勝者だよ? どうよ」
自慢げに言われても、正直はたては大会の内容には興味がなく実際のところ何があったのかは知らない。そんなことはどうでも良かった。
けれど、満足そうな文を見て、なんだかいい気持ちにならないわけではなかった。
「……やるじゃない」
「まあね」
文ははたての背中を支えている方の手を一旦離し、手を振って観客に応えた。
「――ほら、見ろよ観客! 私超すごいでしょ!?」
何が起こっているのか、わからない様子だった観客も、文の言葉に背中を押されたかのように、沸いた。
「文ぁー!」「射命丸ー!」
「あやちゃーん――!!」
それを見て、また満足げな顔をする文。
何をしているんだ、とはたてが思っている間にも、再び文は煽る。
「文あ――!!」「馬鹿力!」
「ゴリラ!」
「……ん?」
「ゴリラ! ゴリラ!」
「アヤコング!」
……会場から沸くゴリラコール。
文の熱が急速に冷めていくのをはたては感じた。
「ははっ、ゴリラねえー……そんな風に言われるとは……」
文は露骨に落胆しているように見えた。
「ま……まあ、そんなもんでしょ」
「でもゴリラって、ゴリラって……」
「ちょっと、文、勝手に脱力しなぁ――っ」
言い終わる前に、はたては文の腕の中から滑り落ちた。文が気付いて戻そうとするが、遅い。その手は宙を掻く。
離れ、落ちる。
下にいた観客連中は最初は、はたてがそのまま落ちてくることはないだろうと思っていた。が、すぐに真っ直ぐ落ちてくるはたてに気付き、短い悲鳴を上げながら落下点から離れた。
落ちてくる物体は人型でそれほど大きくないので避難はうまくいった。
つまりはたては勢いを殺されることなくそのまま地面に衝突した。
「あ、あー……」
轟音。
落下地点には、まさしく人型の穴が開いていた。
「あー、大丈夫ー……?」
文はすぐに降り、穴の中を覗き込んだ。
けれど、見えるのは暗闇だけだ。底が深くてはたての姿は確認できない。覗き込むと背筋が凍る思いがする。それこそ深淵と言うものだ。
深い。
「おーい」
文が呼びかけると、微かに呻き声が響いてきた。音量が小さく、反響がありすぎて良くわからないが、恐らくはたてのものだろう。
しかし、こんな底の見えない穴を開けてしまうなんて、はたては一体どうしたものか。文は思う。そしてそれを持ち上げてしまう自分はゴリラなのか。
文は少し考え、穴の中に問うた。
「とりあえず、一緒に絶食とかからやってみるー?」
ピクッ
何ぞこれwww
と言うか貴様、カメラのふりをしたガウスだろ。
それはさておき。
文が『重しを腕に云々』言ってた辺りから、謎の体重増によって鍛えられたはたてが、文とゴリラ対決をする話かと予想してたら全然違ったのぜ。
あやはた可愛い。
どうでもいいですけど、ゴリラの連呼で吹きました。
ゴリラゴリラゴリラ!FoW!
次はあやはたダイエット編ですね!
タイトルでクリック余裕でした。