さようならぁ、と小さな女の子が声を上げた。
父親に手を引かれながら力いっぱい手を振る彼女に、私もまたね、と笑顔で手を振り返す。
時刻は、西日が降り注ぐ夕暮れ時、といったところ。
太陽が日に日に高くなってきて、春の陽気は、もうすぐそこまで来ているような、そんな時節。
紅霧異変、と呼ばれる事になった、お嬢様の起こした異変の後から、紅魔館にはたくさんの人が訪れるようになった。ここまで来るのは危険だと思うのに、人間というのは、危険よりも興味を優先する生き物らしい。それに最近、お嬢様が人里の人間を招いてお茶会をするようになってから、ますます来客数が増えた。本当に、人間はすごい。お嬢様に仕える私ですら、お嬢様の前では恐縮してしまうのに、力を持たない人間がお嬢様と他愛もない世間話をするのだから――特にすごいのはおばちゃんで、お嬢様をお嬢ちゃん、なんて気安く呼んで可愛がっている――。でもまぁ、人里の話を聞けてお嬢様は満足そうだから、喜ばしい事だとは思う。
それに、門番をしている私にも、恩恵がある。前よりも人間と接する機会が増えて、女の人の知り合いがたくさん出来た。今までは、知り合いと言えば、私と力比べをするためにやってくる男の人ばかりだったから、これはとても嬉しい。女の人と話をするのは、やっぱり男の人と話すよりも楽しい。とりとめもない話や、好きな人の話なんかを、時間も忘れておしゃべりする。
今、帰っていった女の子も、その中の一人。私とおしゃべりするために、遊ぶために、わざわざ人里から来てくれる。付き添いの父親が武道家とは言え、ここまでやって来るには、やはり危険が付きまとう。そんな危険を冒してまでやって来てくれる彼女が、私は愛しい。私を友達だと思ってくれている彼女が愛おしい。だから、小さな子供とは言えど、出来るかぎり心を込めてもてなすようにしている。
今日は、手毬とお手玉と、後、彼女の父親にも手伝ってもらって、ゴムとびをした。彼女は、前よりも高い段を跳べるようになっていた。軽やかに脚を曲げて跳躍して、ゴムの輪の中に入り、上手い具合にゴムを踏む。寺子屋のお友達と、いっぱい練習したの、と得意げに笑う。こういう時、人の子の成長は早いなぁ、と感心してしまう。昨日出来なかった事が、今日、出来てしまったりするのだから。
でも、そんな彼女も、帰り際になると、決まってちょっと寂しそうな顔をする。
この時ばかりは、得意げな表情も消えて、年相応の、子供っぽくぐずるような目になる。それでも最後は、元気良く、さようならぁ、と気丈に挨拶をして、手を振って帰っていく。だから私も、またね、と明るく返す。
彼女も寂しそうにするけれど、寂しいのは、私だって同じ。夕暮れ時に門の前に一人ぽつんと残されるのは、何とも言えず物悲しい気持ちになる。西日に柔らかく照らされた木々、ざあっと風に吹かれて音を立てる草木。そんなただなかに一人でいると、ちく、と胸を締めつけられるような思いにとらわれる。
さよなら、という言葉には、寂しさが、ぎゅっ、とつまっているような気がする。
なんて事はない、たった四文字の言葉なのに、呪文のように、私の胸にじわりと沁み入る。
夜、入浴後に咲夜さんの部屋を訪れた。
今日は久々に二人とも夜に休みを取れた。そんな日は、仕事終わりに咲夜さんの部屋を訪れる。それは、二人の暗黙のルールとなっている。夜に会うのは、何だか秘密めいた感じがして、昼に会うよりも好きだったりする。何となく気恥かしくて、咲夜さんには言えないけれど……。
咲夜さんは、私の長い髪を気に入っているらしく、入浴後に部屋を訪れると、決まって髪の手入れをしてくれる。鏡台の前の椅子に座って、咲夜さんに髪を梳かしてもらい、他愛もない話をする。この時間が私は大好きで、だからついつい色んな事を話してしまう。甘えた声になってしまうのは、自覚している。
ほんの少しだけ媚びるように、鏡に映った咲夜さんを上目遣いで見つめながら、今日遊んだ女の子の話をした。髪を梳かし、時折さらさらと指先で梳いて弄びながら、咲夜さんは私の話を聞いてくれた。門の番のほうも、しっかりこなしたのかしら? と意地悪く言われた時は、一瞬うっ、とどもってしまったけれど……。でも、それでも私は懲りずに話を進めた。咲夜さんに、どうしても伝えたい事があったから。
「――でですね、さようならぁって言われて、私もまたね、って手を振ったんですけど」
「うん……」相槌を打つ咲夜さんは、今はあみあみと熱心に三つ編みを編んでいる。
「その時に、ああ何だかすごく寂しいなって思ったんです」
「そう……私はあんまりそういう気分になった事がないから、よく分からないけど」
「そうなんですか? 私は、また会えるっていうのは頭では分かってるんですけど、何となく寂しくなってしまうんですよ。で、気付いた事があるんです」
じっと鏡の中の咲夜さんを見つめると、私の視線に気付いたのか、咲夜さんは顔を上げた。鏡を通して目が合う。視線で話の続きを促されて、咲夜さんの関心を買えた事が嬉しくて、私は意気込んで口を開いた。
「あのですね、私、咲夜さんにさよならって言った事がないなって気付いて、それって、すっごく幸せな事だなって思ったんです」
「え……それは、だって、同じ所に住んでいるものね」
ぴたりと咲夜さんの手が止まり、何故か視線が泳いだ。あらぬ方向を向いている。
「そうなんです。だからさよならって言わなくても良いんです。それって、恵まれているなって、今日ふいに気付いたんです、私」
それを気にせず、一息で言い切ると、ほうっと胸に満足感が生まれた。夕方から、ずっとずっと咲夜さんに伝えたかった事。それがやっと言えた。
あぁ、すっきりした……。すっきりしたら、身体から力が抜けてしまった。
「……そう」
しばし視線を彷徨わせていた咲夜さんは、私の言葉を聞いて何やら思案顔になると、ああやって身体を傾けた。
ぴったりと、私の耳元に唇が寄せられる。脱力して椅子の背もたれに寄りかかっていた私は、びっくりして身を固くした。完全に油断していた。
「……さよなら」
「え?」
そっと囁かれる言葉に、どきりとする。
「さよなら、さようなら、さようなら、美鈴」
「え、あ、何……」
吹き込まれる言葉に、鼓動が跳ね上がる。さようなら、めぇりん、と駄目押しとばかりに甘く囁かれて、ぞくっとしたものが背筋を這い上がった。我慢出来なくなって、勢い良く身体を折り曲げて、耳を押さえる。
「な、な、な、何を」
「どう? 寂しくなった?」
「え? あ、え、え……っと」
鏡の中の咲夜さんが、目を細めていやらしく微笑んでいる。満足げな表情。
!! ――からかわれた!! そう気付いた瞬間、一気に頬に熱が集まった。
心臓がどきどきどきどきうるさい。こんなにどきどきしてしまって、私、もう、何なの。さよならって言われたのに、何なんだろう。もう、意味が分からない。
「ふふ、寂しくは、なかったみたいね。おかしな子ねぇ」
ああ、せっかく梳かしたのに……と鬢の毛をいじる咲夜さんは、確実に確信犯だと思う。
触らないで下さい……と、鏡を睨んで抗議すると、ぷっと吹き出された。
「あはは、そんなに拗ねないでよ」
そんなに酷い事、言ったかしら? とわざとらしく小首を傾げられる。
「酷いです。咲夜さん、本当に酷いです」
「うん、知ってる」
「な! もう、本当に酷い」
ますます身体を折り曲げて、熱が集まる頬を両手で挟み込んだ。
ああもう、本当に恥ずかしい手も汗ばんで頬を冷やせないし酷い、熱い、もう酷い、私は一生懸命咲夜さんに想いを伝えようとしたのに……!
「……でも、あれよね」
うう、と唸る私を宥めるように、優しい手つきで頭を撫でながら、咲夜さんは呟いた。
「私も、貴女にね、こうして、おやすみ、と、おはよう、を言える今の状況には満足してるのよ」
「……え?」
「眠気まなこで、おはようって返す貴女は、すごく可愛いしね」
「…………」
違う意味で、胸がどくん、と高鳴った。咲夜さんは本当に酷い。素直に喜びたいのに、この状況で素直に喜ぶのは何だか悔しい。本当にずるい、ずるい人だ。
「ヘンな顔」くすくす笑う笑い声でさえ、私を煽る。ああもう本当にこの人は……。
「……も、いいです。今日は咲夜さんにはおやすみ、って言わない事にします」
「ふふ、おやすみなんて言える余裕、貴女にあげるつもりはないけど、今日」
「な、な、な……」
墓穴を掘ったとは、まさにこの事だ。でも、悔しい事に、ぞくぞくぞくぞく背筋が痺れて、私の身体は素直に反応を示している。反応するように、いや、反応するまで、この人にしっかりと教え込まれたのだ。
ふふ、と笑うと、咲夜さんは再び私の髪を梳かし始めた。でも、先程までの心地好さは感じない。
ああ、オオカミに食べられる前のヒツジって、こんな気持ちなのかなぁ……と思いながら、恥ずかしさに耐える。せめて、おはようは言わないようにしよう、と固く心に誓ったけれど、でも、朝起きたらきっと笑顔でおはようございます、って言ってしまうんだろうなぁ、と確信した。咲夜さんに頑なな思考ごとぐずぐずに溶かされて、意地悪された事なんかどうでも良くされてしまうんだ、きっと。そしてそれを望んでいる自分がいる。私も本当に駄目になってしまったなぁ……。どうしようもない心と身体を持て余す。
髪に隠れたうなじを指先で探り当てられて、開かれたそこにそっと唇が押し当てられた。
びくり、と敏感に反応してしまう。ああ、さようなら……私の理性。
涙目になりながらも、唇に両手を押し当てて、声を殺した。これから私の最後の抵抗が始まる。
ふふ、と首元で愉しげに笑われて、ぐず、と思考が溶け始める音が聞こえた。
相変わらず良い!
例大祭楽しみです。