ふと思い立って、彼女に会いに行った。
殺し合いになればそれはそれでよし、会話をするならばそれもそれでよし。
大切なのは何か理由をもって彼女の元へ向かうのではなく、ただなんとなく腰を上げたと言う事。
【そんな日。】
空も見えない竹の群れを掻き分け進んだところに、ぽっかりと開いた不思議な空間。
何故その場所に竹が生えないかなんて、私には分からない。
もしかするとあの子が焼き払ったのかもしれないし、実は大きな岩が下に埋まっているとかそんな事かもしれない。
はたまたどこかの半獣が歴史を食ってしまったとか――まぁ、どんな理由だろうと私にとっては地面を這う蟻よりも興味の無い事だった。
とにかくぽっかりと開いたその場所があって、そこにこじんまりと建てられた小さな小屋がある。
重要なのはこの小屋、もっと細かく言うとこの小屋で生活している一人の少女だけなのだ。
木で出来た戸の前に少しだけ立ちすくんで、ふむと私は腕を組む。
(ノックをするべきかしら?)
それは小さな思案だった。もしこの家が彼女以外のものなら礼儀としてノックは必要不可欠だろう。
だが自分と彼女の間にのみ、そんな言葉は無意味な物になる。
だって私たちは、顔を合わせる度に殺し合いをしているのだから。
うーんと数秒間の唸り。いっそ偶然にも向こうから扉を開けてくれないだろうかと考えたけれど、もちろんそんな偶然が起こる訳も無い。
(まぁ、一応人としての礼儀というものも必要かしらね。気持ち悪がられるのもまた面白いし)
いつもは問答無用で壊している戸――と言ってもこの家に来たのは長い人生でも一度か二度程度なのだが――を、コンコンと丁寧に叩く。
その際わずかに感じた痛みに、呼び鈴ぐらいつけなさいよと軽く眉をしかめた。
返事が無いので留守かと思った矢先に、カラッと想像以上に軽い音がして扉が開く。
相手を確認もせずに開く彼女を無用心だとも思ったが、よく考えれば彼女が今更恐れる物なんて何一つ無い事を思い出した。
そもそも彼女を襲う程知能が低い妖怪ならばノックなんて丁寧な真似もしないだろう。
あえて無用心を指摘するとすれば、ノックに相手の確認もせず開くことよりこの小屋の存在自体が問われるのかもしれない。
以前自分が訪れたときは元より、幾度と無く送り込んだ刺客達に両手では足りない程破壊されているであろう脆い小屋。
彼女からすれば、どうせ壊されるならこの程度で構わない、と冷たく言い放つのだろう。なんとも無用心な話だ。
「……なっ、輝夜!?」
「こんばんは」
案の定、彼女は一瞬目を見開いた後、奇妙なものを見るようにじろじろと私を観察した。
その反応に不思議な満足感を覚え、私は知らず知らず笑みを浮かべる。きっと彼女にとっては不快でしかない、嫌な笑顔。
一通り観察し終えた紅の瞳がすっと私の瞳へ戻される。
暗に「何の用なの」と言わんばかりの表情に、先回りして答えを返してあげた。
「会いにきたのよ、貴方に」
「また殺しにきたっての?飽きないねあんたも」
「その言葉そっくりお返しするわ。そもそも殺し合いは貴方が望んでいる事じゃない」
どうやら彼女は何かしらの作業をしていたらしい。
顔を見てすぐに攻撃してこない所を見ると、機嫌だって最低では無さそうだ。最も私の前で彼女の機嫌が「良い」に変わる事は無いのだけれど。
いつもに比べると随分穏やかな会話をしていると、ふわっと美味しそうな匂いが漂ってきた。
なんとなく懐かしい匂い。思わず鼻を鳴らすと、彼女はわざとらしく眉を寄せ僅かに肩を引いた。
閉められると直感し、無理やり足を進める。だがやはり戸に手をかけた彼女は、慈悲の心も無いのか思い切り戸を閉めた。
頬骨と肩をしたこま打ち付けて、痛い。
「、何すんのよ!」
「いや、昼飯とられそうな気配がしたものだからつい…」
「とらないわよ失礼ね!貴方と違って私はそんなに卑しい人間じゃないわ」
「あっそう。じゃあ早く帰りなよ」
「嫌よ」
「か~え~れ~!」
必死に扉の外に追い出そうと、私の肩を押す細い腕。負けるものかと力をこめる私の足。
純粋に腕力の差であれば、私たちにそれ程大差は無い。
蓬莱の薬を飲んだ時点での筋肉なんて、姫だった私にも貴族だった彼女にもほとんどあってないようなものだ。体力も同じ事。
そうなると決まり手となるのが身長差。大差という程ではないが、それでも拳一つ半程優位に立つ私が負ける筈は無い。…と思う。
お互い粘りに粘って地味に体力を削りあっていると、不意に奥からぐつぐつと何かが吹き零れるような音がした。
おやっと私が顔を上げた際にようやく彼女もその音に気づいたらしい。
「あっ、やばっ火が…!」
「ひぎゃ!」
全体重をかけて押し合っていた所で突然相手が引いたもんだから、私は勢いのまま中に倒れこむ。
咄嗟に出した両手と、しかし支えきれずについてしまった膝がじんじん痛む。何やってるのかしら私。四つんばいの姿勢になって初めて、自分の行動の馬鹿馬鹿しさに気づいた。
だけど今更帰ってもそれはそれで悔しいので、服についた埃を軽く掃って立ち上がる。
顔を上げた時にはもう、妹紅は私の事なんかまるで気にしないという表情で囲炉裏に向かっていた。
なんとも失礼な話だと、軽く唇を尖らせ無意識にあたりを見渡す。そこは外からの見た目以上に狭苦しいものだった。
自分の住処が無駄に広いだけに余計その狭さを感じる。失礼だとは思うが、これ本当に人間が住む場所かと言いたくなるほどに。
最低限の生活スペースしかないその場所で唯一評価出来る部分は、掃除が行き届いており散らかった様子が全く無い所ぐらいか。
蓄えられた食糧や服、布団などはきちんと整理されている。
それをぼんやり眺めていると、何故か息が漏れた。それは感心か、それとも失望か。私自身にもよく分からない溜息だった。
手持ち無沙汰に足は彼女の元へと向かい、何やら作業をしているその手元を覗き込む。
成程、匂いの元はこれだったらしい。
彼女がうざったそうに私を見つめながら掻き混ぜるそれ。それは平凡的な、どこにでもある雑炊のようなものだった。
筍や山菜をふんだんに使ったそれは素朴ながらも美味しそうな匂いを狭い家中に所狭しと広げている。
使用している米は赤米なのだろう。懐かしい色合いに思わず目を引かれた。
「貴方、料理出来たのね」
「…あんたもしかして出来ないの?無駄に長生きの癖に?」
「作る機会なんて一度も無かったもの。あ、でも卵かけご飯は作れるわよ」
「それ料理じゃないし、作る機会を与えられないようなお姫様が食べるものでもないと思うけど…」
てきぱきと音が聞こえそうな程手際の良い手を、手品でも見る様な気分で眺める。
この感覚は遠い昔に経験したものによく似ていた。ぼんやりと思い出すのは、優しいあの人の手だ。
水仕事の為か、それとも年故か、皺だらけになった手は質素な食材から素晴らしい料理をいくつも作ってくれた。
赤子の私をおぶりながらの作業はきっと辛いものだったに違いないというのに、優しい声を何度もかけながら。
ほんの少し裕福になっても、彼女はしばらく自分で料理を作り続けた。それが家の味だからだと、やはり優しい笑顔を浮かべて。
その頃には私も少女と呼ばれるに相応しい年となっていて、必死に手伝いをしようと彼女の周りをちょろちょろと付回していたような気がする。
それを邪魔に思うどころか、やけに嬉しそうに彼女は何度も私の頭を撫でてくれた。皺だらけの手で。
私が求婚される程の年になって、ようやく彼女は水仕事から手を引いた。その頃には質素だった家も大きな屋敷に変わっており、手伝いの者が数名走り回っていたっけ。
それは人の一生から見ても短い期間の出来事だった。けれど私にとっては何よりも大切だったかもしれない。大切な両親との思い出。
ふと、我に返る。皺だらけの優しい手とは違い、目前に動く手は傷一つ無くつやつやとしている。まるで子供のような手だ。
その工程を直に見ていてもおおよそ料理をしている手には見えない。
手から腕、腕から肩、肩から顔、顔から髪。順順に彼女という存在を目で追って、行き着いた白髪に今更ぎょっとした。
普段彼女を見る場所は、夜。それも月明かりの下だ。昼間に彼女と会う機会なんてそうそうないし、あったとしてもすぐに殺し合いが始まる。
だからなんとなく、彼女の髪色は銀なのだと思いこんでいた。いっそ髪から光でも発するような、輝く銀なのだと。
「妹紅って、いつから白髪(はくはつ)なの?」
「はぁ?」
日の光の下で見る彼女の髪。多少青みをおびているが、それは間違いなく白だった。
生憎1000年以上も昔の彼女の姿を覚えてはいないが――そもそも会っているかどうかも分からないのだが――当時からこの色ならば多少は噂になっているだろう。
けれど記憶している範囲ではその様な話も聞いていない。と言うか、もし聞いていたならば私は確実に興味を抱いたはずだ。
あの頃も今も、変わった事が大好きな私なんだから。
「昔からその色って事は無いんでしょう?」
「そりゃ子供の時はね。でもいつからなんて分からないわよ。覚えてないし」
そんなものなのか、と腕を組む。同時に彼女はようやく温度も味もよい感じとなったのか、鍋の中身を茶碗へ移した。
ほのかに見える白い湯気がなんとも食欲をそそる。
まぁ、だからと言って彼女が私の分を分けてくれるとも思えないので、仕方なくその光景を眺めながら正面へ腰を下ろした。
出て行けと言われないなんて、1000年に一度あるか無いかの話だ。この際たっぷり居座ってやろう。
彼女がお玉からレンゲに持ち替えて、雑炊にふーっと息をかける。そして少量ずつ口に運ぶという様は、思っていたよりずっと綺麗な食べ方だ。
てっきりがさつなものだと思い込んでいたのに。これは地上に降りた私が未だ姫と呼ばれるように、彼女もまた貴族であるという事なのだろうか。
何も言わずに食べる様子を眺める私に対し、彼女は過去を振り返っているようだった。
無意識に食べる手を緩めながら、宙を見つめる。
やけにゆっくりした手が幾度目かの動作を繰り返す、直前。「あぁ」と、彼女が声を上げた。
「初めて死んだ時、かもしれない。髪が白くなったの」
「え?」
「死ぬのが怖かったのか、それともあの薬自体にそういう効果があったのか。それは知らないけどね」
レンゲを手放して、長い髪を一房指に絡める。
その表情はあくまで思い出せた事による開放感に満ち溢れており、憎しみもましてや悲しみも浮かべてはいない。
髪は女の命という言葉を知らないのだろうか。それとも父を侮辱された事には憎しみを覚えても、自分の変化にはなんとも思わないのか。
もし後者なのだとすれば、とんだファザコンもいい所だ。1000年恨み続けているのだから既に遅い気もするのだけれど。
妙に満足げな顔で再び食事を再開する彼女に、なんとなく調子が狂う。
もしかして私は彼女に憎まれたかったのか。それではファザコン以上にドMではないか。生憎そんな性癖は無い…はずなのだけれど。
無意識にぽりぽりと頭をかいて、私は彼女から視線を外した。
するとその不自然さに気づいたのか、視界の端で彼女が僅かに眉を寄せる。
「何よ、その態度」
「別に何にも無いわよ」
「…言っとくけど、髪色に関してはこれでいいと思ってるからね」
「どうでもいいわそんな事。……どうしてそう思うのかしら?」
「どっちなのよ」
いつの間にか最後の一口となっていた碗の中を、何故かレンゲも使わず下品な仕草で飲み込んで彼女はくすっと笑った。
不愉快な笑み。いたずらを仕掛ける前のガキみたいな。
ちなみに私は子供があまり好きではない。
可愛いとは思うが、その反面邪魔臭いとも思ってしまう。ずっと寝ていればいいのだけれど。
「黒髪だったらあんたと一緒になるでしょ。そんなの死んでもお断り、って事よ」
なんと。思わず呆れ返ってしまった私は何も言う事が出来ず、食べ終わった碗を片すその動作を見つめるばかりだった。
まだ鍋の中には雑炊が残っている。夜にでも食べるつもりなのだろうか、腐ってしまわないのだろうか。どうでもいいことが頭を掠めた。
彼女はまたてきぱきとした動きで行ったりきたりを繰り返す。その度に白髪がさらさらと流れた。
日の下では輝きを失うけれど、それでも綺麗な事は綺麗かもしれない。
かつて私を愛してくれたあの人達の老いからくる白とは少し違う、生き生きとした白。
「私と一緒だから白でいいって、普通逆じゃない?私の髪色を変えてやるぐらいに思わないの?」
「今のあんたが色を変えても、『竹取物語のかぐや姫』は黒髪じゃない」
「そりゃまぁ………そうだけど」
納得しかけて、やっぱりそれはどうなんだと思う。けれど口には出さない。
めんどくさいという気持ちもあったけど、それ以上に彼女がそれで納得しているなら意味が無いと思ったからだ。
(本当に憎まれたいのかしら、私は)
馬鹿馬鹿しいと胸中で呟きながら、釈然としない何かを抱える。胃の中がもやもやしてたまらない。
そういえば私昼食をとっていないじゃないか。もやもやの原因はこちらだろうか。こちらだったらいいのだけれど。
ふと目の前の鍋が目に入った。彼女は奥に行ったばかり。別にバレても構わない。むしろバレてしまえばいい。
木で出来たお玉に、一口分雑炊。僅かに息を吹きかけて、大口を開ける。
ぱくり。あ、意外と……
「ちょ、ちょっと何勝手に食べて…っしかもそのままってお前な!」
口に含んだ瞬間、煩いのが帰ってきた。
もしゃもしゃと素朴な味わいを楽しむ私の前に、怒りを浮かべた彼女が立つ。
ちりちりと白い髪の先に火の粉が舞った。家の中なのでどうにか抑えてると言う感じだ。
その様子に、先程までのもやもやが一気に消えた気がした。胃が少し満たされたからかもしれない。
「貴方を褒めるのは癪だけど、これ美味しいわね。なんだか懐かしい味がするわ」
「あんたに褒められても全然嬉しくない……」
二口目を頂こうとした手は、思い切り頭を殴られて未遂に終わった。
つまみ食いをしたガキの様な扱いに不満を覚えたけど、よく考えればその通りの行動を犯している事に気づいたので反撃はしない。
没収とばかりに奪われた鍋にちょっとだけ未練を感じつつも、欲しいなんて口が裂けても言えないので何も言わなかった。
口の中に残った薄めの味付けをただゆっくりと味わう。
懐かしいと言ってはみたものの、本当の所はよく分からなかった。
使われた米と彼女の手際にあの頃を思い出しているだけだと言われれば否定は出来ない。それ程に永い時が過ぎてしまった。
もはや顔もおぼろげとなってしまった大切な両親。それはきっと彼女も変わらないんだろうと思う。こちらも口には出さないけれど。
「ていうか輝夜、いつまでいる気なの?」
「そうね、区切りに殺し合いでもしてみる?」
「嫌よ、今日雨降るって慧音が言ってたし」
「嘘!?」
「あんたと違って正直者だよ私は」
慌てて外に出てみると、来る時は明るかった空に薄く灰色の雲がかかっていた。
確かにこれは一雨来るかもしれない。此処から永遠亭まで飛んですぐだと行っても、降り出せば濡れる事に変わりは無い。
今から飛んで間に合うだろうか。悩んでいる間にも雲はどんどん厚くなる。
(どうりで妹紅の機嫌がいいと思ったのよ)
まさか雨のフラグだとは。読めなかった。
「ちょっと、帰りどうすりゃいいのよ」
「知らないよそんな事。あんたが勝手に来たんでしょうが」
「嫌よ濡れて帰るなんて」
私の言葉に、彼女は呆れた顔を向ける。
今日だけで何度見たか分からない表情にムッと唇を尖らせたけれど、相手に効くはずもなく。
「今すぐ帰れば濡れないんじゃないの?知らないけど」
「もし濡れたらどう責任とるの?」
「なんで私があんたの責任とらなきゃいけないんだバカ!」
ついでに言うと傘は持ってないからね、誰かさんが送り込んできた刺客に壊されたから。と彼女が言う側からぽつぽつと嫌な音が耳に届いた。
慌てて家の中に避難する彼女に続いて私もちゃっかり屋根の下へ隠れる。呆れた瞳がプラスして軽蔑を含んだような気がしたけど、そこはどうでもいい。
改めて部屋を見渡して、わざとらしく息を吐く。仕方ない。此処は神のような広い心を見せてやろう。
そんな意味合いをこめての息だ。
怪訝そうに眉を寄せる彼女に向き合って、ぱさっと髪を靡かせる。
「狭くて汚いけど、まぁ仕方ないわね。泊まってあげるわ」
「帰れ。むしろ死ね」
予想通り過ぎてつまらない答え。もう少し面白い受け答えは出来ないのか。全く生真面目な人はこれだから困る。
けれどその答えに少なからず満足している自分がいることも事実で、私はわざと作った嫌みったらしい笑みの裏でこっそり微笑んだ。
なんとなく気に食わないことも多かったけど、まぁ概ね満足かもしれない。
眉を寄せて頭を抑える彼女の姿を見て、この家にわざわざ来た甲斐はあったなと思った。雨で濡れながら帰る事に関しては、後日八つ当たりをする予定だけど。
どさくさにまぎれて扉くらいは壊して帰ろうかと一歩足を引く。
そんな私に、彼女は溜息交じりで言った。
「夕方には止むらしいから、ちゃんと帰りなさいよ馬鹿姫」
「へ?」
「昼ごはん、さっきの雑炊しかないからね」
どうせ食べてないんでしょ、と言いながら再び鍋に手をかける彼女に、私は間抜けにも立ち尽くしたまま動けなくなった。
なんだ。どういう事だ。一体何が起こったのか。
(今日って誕生日だったかしら?)
どちらの?いやそもそも前提がおかしい。だって私も妹紅も、誕生日なんて自分自身が忘れてしまっているのだから。
ならば天変地異の前触れか。苦しい死に方は嫌だなぁなんて考える私に、妹紅はちらりと視線を送るだけでやはり何も言わない。
「…貴方、何考えてるの?毒でも仕込んだのかしら?」
「そんな危ないもの持ってるわけないでしょ。どっかの薬師じゃあるまいし」
「永琳は毒を持ってるわけじゃないわ。永琳の作る薬が毒なのよ」
「どう違うのよ一体…」
はい、と言わんばかりに差し出された、茶碗と箸。もちろん空の茶碗なんて嫌がらせをする訳も無く、中には温められた雑炊が盛られている。
受け取ってから、妹紅の正面に正座して、私は茶碗の中身を凝視した。
(まさか妹紅に限って味をおかしくするようなタイプでもないし…)
腐っても殺しあっても、100年単位で付き合ってきた仲だ。今生きている人の中では誰よりも彼女を知っていると思う。
卑怯な手を好まない事も、私を憎んでいる事も、嫌という程知っていた。
そう、今妹紅の目の前にいるのが私じゃなかったら、彼女の行動は自然のものなのだ。妹紅はお人よしでもあるのだから。
けれど、まさか。
「何かいい事でもあったの?」
「は?」
「だって、おかしいじゃない。私に優しくする貴方なんて、悪戯をしないてゐ並にありえないわよ」
「食べたくなきゃ帰れ今すぐに」
「いや、食べるけど」
慌てて口に含んだそれは、やはり美味しい。箸なので水分を多く含んだ雑炊は多少食べにくいが、明らかに食器も少なそうなので文句は言わない。
一口、二口と口にしているうちに的確なタイミングで差し出された湯のみを受け取り、また食事を再開する。
山菜を色よく使い、薄めのダシと卵を合えた優しい味。永遠亭で食べるものとは大きく違った、家庭の味と言えそうなソレ。
何度か美味しいわと口にすると、満更でもないといった表情で妹紅は軽く目を細めた。
その事に気持ち悪さを覚えつつも、気づけばあっという間の速度で雑炊は全て私の胃へと消えていた。
「ごちそうさま」
「もっと感謝しな」
「安っぽいけど美味しかったわ」
「次は月人の出汁で作るのか。まずそうね」
「永琳汁?毒々しい味よきっと」
「お前だお前」
私が食べ終えた食器を何も言わずに片し、手早く水につける動作はあくまで自然なものだ。
まるで長年付き合った友人が泊まりに来た時のような扱いに、私は更に戸惑いを覚えた。
こんな扱いを望んで来た訳ではない。
私は不機嫌そうに眉をしかめたり、痛みに唇をかみ締めたり、はたまた憎らしいと口汚く煽りの言葉を吐く彼女が見たかったのだ。
それが私と彼女の付き合いでは無かったのか。
「何真剣な顔してんの。らしくないなぁ」
「らしくないのは貴方よ。本当に何があったの?ハクタクが死んだとか?」
「勝手に殺すな!っていうか、私を心配してるあんたも相当らしくないわよ」
「心配してる訳じゃないわ。気持ち悪いって言ってるのよ」
きょとんと妹紅は目を丸くする。
私の発言の一体どこが不思議なのだろう?事実を述べただけなのに。
それとも今日の彼女の言動全てに裏があったとでもいうのだろうか。それに気づいていない私を馬鹿にしている?
いっそその方がいいとさえ思った。私に親切な彼女なんて見たくないのだ。
別にそういう性癖がある訳じゃない。ただ、彼女の中の唯一のポジションを失った様な、そんな何とも言えない寂しさを感じた。
「つまり何だ、あんたは顔を見たとたんに殴り飛ばされたかったって事?ついでに家に入ろうとした段階で消し炭にされて、
更に雨の中放り出してずぶ濡れになったあんたを見て笑え、と?とんだ変態ね」
「そんな扱いがされたい訳じゃないわ。でも、貴方ならそうするでしょう?妹紅、今日の貴方は貴方らしくないのよ」
「そう言われてもねぇ」
妹紅は困ったように苦笑した。
そんな態度もらしくない。
もちろん、彼女がお人よしで案外穏やかな性格をしている事は知っている。数百年来の付き合いなのだ、知らないはずもない。
けれどそれはあくまで彼女本来の性格というだけであって、私の前にいる彼女の性格ではない。
彼女がお人よしな事も穏やかな事も、私は知識として知っているだけ。
私以外の人と接する時の話し方、気の配り方、そして私以外の人から伝え聞いた話、それらを総合しての評価だ。
私を目の前にした時の妹紅はそんな性格を微塵も見せない、紅の瞳に憎しみの炎を宿し憎悪の感情のまま私を睨み付けるのが常だった。
彼女の中の怒りや憎しみを埋めるのは私だけで、それをあざ笑うのが私。
そんな関係だからこそ、気持ちよく殺し合いをしてきたのではなかったのだろうか。
馴れ合いなんて必要ない、そう瞳で語っていたのは誰でもなく、妹紅自身だったのに。
「あのねぇ輝夜、あんたが私をどう評価してるのか知らないけど、流石に家の真ん前で殺し合いなんてしたくないわよ」
「普段の妹紅ならそんな事考えるより先に手が出てるわ」
「……あんた今馬鹿にした?暴れるのはあんたの家だからで、私は自分の寝るところぐらい確保していたいの。分かる?」
「家に入れただけじゃないわよ。普段の貴方ならお昼をくれたりしないわ。絶対に…っ」
「鍋から直接食べるほど腹すかせたのが目の前にいちゃ禍々しいでしょうが。ねぇ輝夜、あんたさっきから…」
「そもそも、雨が止むまでなんて優しさ…!」
おかしい。私はなぜこんなに熱くなっているんだろう。
思わず強まった語尾を無理やり喉に押し付け、無意識のうちに握っていた拳を開いた。
爪の後が残った手のひらを見て、心臓が痛むのを感じる。
どんどんと激しく打つ音がやけに煩くて、私はごまかすように立ち上がった。
妹紅はきょとんと目を丸くしている。ああ、本当にらしくない。
私も、彼女も。
「帰るわ」
「…雨、止んでないけど」
「腑抜けた貴方といるより、濡れて帰るほうがずっとマシよ」
顔を見たくなくて、私は戸口へ視線を送った。
けれど悲しきかな、気配で彼女がどんな行動をしどんな表情をしているのかが分かる程度に、私は彼女を知っていた。
妹紅は怒って立ち上がるでも、馬鹿にして笑うでもなく、少し足を崩し座りなおすだけだった。
それを感じつつ、私は訳の分からない不快感に急かされるように髪を払い、足を進めた。
数歩も歩かない距離にある戸に手をかけ、ぎぎと重い音と共に開く。
からかいにきたはずなのに、ひどく気分が悪かった。
ざあざあと振り続ける雨は全くその勢いを沈めていなかったが、いっそそれが気分転換になりそうとさえ思う程に。
細く開いた戸から、一歩足を踏み出す。吹き込む雨が僅かに頬を掠めた。
その時だった。
「私、一方的にあんたを追ってるつもりだったよ」
苦笑しているような、自嘲しているような、複雑な声が聞こえた。
語りかけるようで独り言のようなそれは、少女特有の高さとハリがあるにも関わらず、遠い昔に思い出として消え去った優しい育ての両親と重なる声色だ。
どこをとってそう思ったのかは自分でも分からない。ただ、私は振り返ってしまった。
軽く崩した足と、両手に抱えた湯飲み。紅い瞳は手に持った湯のみへと向けられ、私を見ることは無い。
開けた戸から僅かに雨が進入した。けれど妹紅は気にする様子も無く話を続ける。
「自覚はあったのよ?逆恨みだって。あんたからすれば、私なんてせいぜい壊れない暇つぶし程度だろう、とか。
これでも自分と相手の力量差が図れる程度に鍛えてはあるつもりだからね」
でも、と区切りを入れて、妹紅が顔をあげた。
憎しみの炎を宿したその瞳が、まっすぐ私を見る。
月明かりの下で見る色と何の変わりもない、炎の色だった。
ただしその表情は、今までに見たこがない…それどころか私の中の知識としての彼女にすら掠りもしない、悪戯を思いついた子供のようなもの。
「大丈夫よ輝夜。そんなに心配しなくても、私は貴方を許さない。
今日家にいれたのだって、懐かしい米が手に入ったのに誰も食べさせる相手がいない寂しい老人の気まぐれ。
例え相手が大嫌いな意地悪婆さんでも、上手に出来たものは褒めてほしいのが人情ってもんなのよ」
実際あんただって美味しいって言ったじゃない。
馬鹿にしたように笑って肩をすくめる妹紅にいつもの必死さは無く、立ち尽くした私はこんなにも心臓が早い。
口で言い負かした時の妹紅は、いつもこんな気持ちを味わっているんだろうか。そして私は、いつもあんな顔をしているんだろうか。
何故か頭――正確に言うと顔あたりがカッと熱くなって、悔しさと苛立ちに唇をかみ締める。こんなの全然私らしくない。
私は今日、妹紅をからかいにきたはずなのに。逆にからかわれるなんて、そんなの。
「あんたが何考えてるのかずっと分かんなかったけど、案外単純なのかもね。月人って言ってもほとんど人間とおなひぎゃ!!!!」
単細胞な妹紅らしくなくぺらぺら喋るその口が気に入らなくて、咄嗟に持っていたものをいつもの弾幕ごっこの感覚で投げつける。
手に持っていたもの、つまりこの立て付けが悪くぼろっぼろの木の板。そう、扉だ。
普段投げている天井よりはコンパクトで投げやすい。私の想像以上のスピードで投げられたそれは、真っ直ぐ妹紅の頭に直撃した。
人間の頭には案外血が詰まっているんだなぁと、噴水みたいに噴出す血を見て改めて実感する。
「っ――何すんだ殺す気か!!」
「それは間違いよ妹紅。殺す気じゃなくて、殺したの。永遠に眠っていれば良かったのに、不便な体ね」
「お前が言うな!しかもちょ、これあんた何投げて…っああ布団に血が!」
「騒がしいわねぇ、これだから卑しい生まれは嫌なのよ」
「っ! 飯の恩も忘れてこの女…っ!!」
「キャビアとフォアグラと松茸も出さないで恩?ふん、貧乏人ってほんと卑しいのね」
「なんでそこでトリュフじゃなく松茸なのよ統一しろ!」
単純な程真っ直ぐ挑発に乗り、ぎゃあぎゃあと言葉を荒げる妹紅。
そう、これが私達のいつもの関係だ。激しかった心臓が、少しずつ収まっていく。これでいい。
妹紅は自宅だという事も忘れてか、それとも天井まで血まみれになった事への諦めか、髪の先からチリチリと広がっていく炎を抑えようともしない。
そんな妹紅を小馬鹿にして私は笑い、殺し合いに発展する。私が馬鹿にされるとか妹紅に余裕があるとか、そんなのは間違ってる。
私達の関係は常に一方的なものだ。そう、妹紅が私に執着して、私が妹紅を馬鹿にする。これが、正しい姿だ。
「こんな雨の中で殺し合いなんて嫌よ、まぁ妹紅は馬鹿だから風邪引かないのかもしれないけど」
「風邪で苦しむ前にその命終わらせてやるよ!」
「言ったわね?その言葉あの世で後悔しなさい!」
戸を無くした玄関をくぐり、私達は雨の中飛び回る。
冷たい雨に混じって血の雨が流れても、派手な殺し合いの為寒さはまるで感じなかった。
妹紅の攻撃を避け、私の攻撃が避けられたと思ったら妹紅の攻撃が私の右手に直撃し、その直後妹紅の左足に私の攻撃が直撃する。
いつもと変わらない殺し合い。
どちらとも言えぬ心臓の音がやけに大きく響き、生を実感する永遠にも似た遊戯。
終わりなんてきっと無い。力尽きて思考が無くなり、体の感覚がゼロになって、ただ心臓の音のみが聞こえるようになった時にようやく中断されるだけ。
「輝夜」
雨などもろともせず燃え広がる大きな不死鳥と風になびく生き生きとした白い髪は、思わず見惚れる程綺麗だった。
お礼に私も、彼女が最も嫌う蓬莱の玉の枝を取り出す。
妹紅はまっすぐ私を見つめていた。
その口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて。
「殺してやる」
馬鹿言わないで頂戴。
殺すのは私の方よ馬鹿妹紅!
殺し合いになればそれはそれでよし、会話をするならばそれもそれでよし。
大切なのは何か理由をもって彼女の元へ向かうのではなく、ただなんとなく腰を上げたと言う事。
【そんな日。】
空も見えない竹の群れを掻き分け進んだところに、ぽっかりと開いた不思議な空間。
何故その場所に竹が生えないかなんて、私には分からない。
もしかするとあの子が焼き払ったのかもしれないし、実は大きな岩が下に埋まっているとかそんな事かもしれない。
はたまたどこかの半獣が歴史を食ってしまったとか――まぁ、どんな理由だろうと私にとっては地面を這う蟻よりも興味の無い事だった。
とにかくぽっかりと開いたその場所があって、そこにこじんまりと建てられた小さな小屋がある。
重要なのはこの小屋、もっと細かく言うとこの小屋で生活している一人の少女だけなのだ。
木で出来た戸の前に少しだけ立ちすくんで、ふむと私は腕を組む。
(ノックをするべきかしら?)
それは小さな思案だった。もしこの家が彼女以外のものなら礼儀としてノックは必要不可欠だろう。
だが自分と彼女の間にのみ、そんな言葉は無意味な物になる。
だって私たちは、顔を合わせる度に殺し合いをしているのだから。
うーんと数秒間の唸り。いっそ偶然にも向こうから扉を開けてくれないだろうかと考えたけれど、もちろんそんな偶然が起こる訳も無い。
(まぁ、一応人としての礼儀というものも必要かしらね。気持ち悪がられるのもまた面白いし)
いつもは問答無用で壊している戸――と言ってもこの家に来たのは長い人生でも一度か二度程度なのだが――を、コンコンと丁寧に叩く。
その際わずかに感じた痛みに、呼び鈴ぐらいつけなさいよと軽く眉をしかめた。
返事が無いので留守かと思った矢先に、カラッと想像以上に軽い音がして扉が開く。
相手を確認もせずに開く彼女を無用心だとも思ったが、よく考えれば彼女が今更恐れる物なんて何一つ無い事を思い出した。
そもそも彼女を襲う程知能が低い妖怪ならばノックなんて丁寧な真似もしないだろう。
あえて無用心を指摘するとすれば、ノックに相手の確認もせず開くことよりこの小屋の存在自体が問われるのかもしれない。
以前自分が訪れたときは元より、幾度と無く送り込んだ刺客達に両手では足りない程破壊されているであろう脆い小屋。
彼女からすれば、どうせ壊されるならこの程度で構わない、と冷たく言い放つのだろう。なんとも無用心な話だ。
「……なっ、輝夜!?」
「こんばんは」
案の定、彼女は一瞬目を見開いた後、奇妙なものを見るようにじろじろと私を観察した。
その反応に不思議な満足感を覚え、私は知らず知らず笑みを浮かべる。きっと彼女にとっては不快でしかない、嫌な笑顔。
一通り観察し終えた紅の瞳がすっと私の瞳へ戻される。
暗に「何の用なの」と言わんばかりの表情に、先回りして答えを返してあげた。
「会いにきたのよ、貴方に」
「また殺しにきたっての?飽きないねあんたも」
「その言葉そっくりお返しするわ。そもそも殺し合いは貴方が望んでいる事じゃない」
どうやら彼女は何かしらの作業をしていたらしい。
顔を見てすぐに攻撃してこない所を見ると、機嫌だって最低では無さそうだ。最も私の前で彼女の機嫌が「良い」に変わる事は無いのだけれど。
いつもに比べると随分穏やかな会話をしていると、ふわっと美味しそうな匂いが漂ってきた。
なんとなく懐かしい匂い。思わず鼻を鳴らすと、彼女はわざとらしく眉を寄せ僅かに肩を引いた。
閉められると直感し、無理やり足を進める。だがやはり戸に手をかけた彼女は、慈悲の心も無いのか思い切り戸を閉めた。
頬骨と肩をしたこま打ち付けて、痛い。
「、何すんのよ!」
「いや、昼飯とられそうな気配がしたものだからつい…」
「とらないわよ失礼ね!貴方と違って私はそんなに卑しい人間じゃないわ」
「あっそう。じゃあ早く帰りなよ」
「嫌よ」
「か~え~れ~!」
必死に扉の外に追い出そうと、私の肩を押す細い腕。負けるものかと力をこめる私の足。
純粋に腕力の差であれば、私たちにそれ程大差は無い。
蓬莱の薬を飲んだ時点での筋肉なんて、姫だった私にも貴族だった彼女にもほとんどあってないようなものだ。体力も同じ事。
そうなると決まり手となるのが身長差。大差という程ではないが、それでも拳一つ半程優位に立つ私が負ける筈は無い。…と思う。
お互い粘りに粘って地味に体力を削りあっていると、不意に奥からぐつぐつと何かが吹き零れるような音がした。
おやっと私が顔を上げた際にようやく彼女もその音に気づいたらしい。
「あっ、やばっ火が…!」
「ひぎゃ!」
全体重をかけて押し合っていた所で突然相手が引いたもんだから、私は勢いのまま中に倒れこむ。
咄嗟に出した両手と、しかし支えきれずについてしまった膝がじんじん痛む。何やってるのかしら私。四つんばいの姿勢になって初めて、自分の行動の馬鹿馬鹿しさに気づいた。
だけど今更帰ってもそれはそれで悔しいので、服についた埃を軽く掃って立ち上がる。
顔を上げた時にはもう、妹紅は私の事なんかまるで気にしないという表情で囲炉裏に向かっていた。
なんとも失礼な話だと、軽く唇を尖らせ無意識にあたりを見渡す。そこは外からの見た目以上に狭苦しいものだった。
自分の住処が無駄に広いだけに余計その狭さを感じる。失礼だとは思うが、これ本当に人間が住む場所かと言いたくなるほどに。
最低限の生活スペースしかないその場所で唯一評価出来る部分は、掃除が行き届いており散らかった様子が全く無い所ぐらいか。
蓄えられた食糧や服、布団などはきちんと整理されている。
それをぼんやり眺めていると、何故か息が漏れた。それは感心か、それとも失望か。私自身にもよく分からない溜息だった。
手持ち無沙汰に足は彼女の元へと向かい、何やら作業をしているその手元を覗き込む。
成程、匂いの元はこれだったらしい。
彼女がうざったそうに私を見つめながら掻き混ぜるそれ。それは平凡的な、どこにでもある雑炊のようなものだった。
筍や山菜をふんだんに使ったそれは素朴ながらも美味しそうな匂いを狭い家中に所狭しと広げている。
使用している米は赤米なのだろう。懐かしい色合いに思わず目を引かれた。
「貴方、料理出来たのね」
「…あんたもしかして出来ないの?無駄に長生きの癖に?」
「作る機会なんて一度も無かったもの。あ、でも卵かけご飯は作れるわよ」
「それ料理じゃないし、作る機会を与えられないようなお姫様が食べるものでもないと思うけど…」
てきぱきと音が聞こえそうな程手際の良い手を、手品でも見る様な気分で眺める。
この感覚は遠い昔に経験したものによく似ていた。ぼんやりと思い出すのは、優しいあの人の手だ。
水仕事の為か、それとも年故か、皺だらけになった手は質素な食材から素晴らしい料理をいくつも作ってくれた。
赤子の私をおぶりながらの作業はきっと辛いものだったに違いないというのに、優しい声を何度もかけながら。
ほんの少し裕福になっても、彼女はしばらく自分で料理を作り続けた。それが家の味だからだと、やはり優しい笑顔を浮かべて。
その頃には私も少女と呼ばれるに相応しい年となっていて、必死に手伝いをしようと彼女の周りをちょろちょろと付回していたような気がする。
それを邪魔に思うどころか、やけに嬉しそうに彼女は何度も私の頭を撫でてくれた。皺だらけの手で。
私が求婚される程の年になって、ようやく彼女は水仕事から手を引いた。その頃には質素だった家も大きな屋敷に変わっており、手伝いの者が数名走り回っていたっけ。
それは人の一生から見ても短い期間の出来事だった。けれど私にとっては何よりも大切だったかもしれない。大切な両親との思い出。
ふと、我に返る。皺だらけの優しい手とは違い、目前に動く手は傷一つ無くつやつやとしている。まるで子供のような手だ。
その工程を直に見ていてもおおよそ料理をしている手には見えない。
手から腕、腕から肩、肩から顔、顔から髪。順順に彼女という存在を目で追って、行き着いた白髪に今更ぎょっとした。
普段彼女を見る場所は、夜。それも月明かりの下だ。昼間に彼女と会う機会なんてそうそうないし、あったとしてもすぐに殺し合いが始まる。
だからなんとなく、彼女の髪色は銀なのだと思いこんでいた。いっそ髪から光でも発するような、輝く銀なのだと。
「妹紅って、いつから白髪(はくはつ)なの?」
「はぁ?」
日の光の下で見る彼女の髪。多少青みをおびているが、それは間違いなく白だった。
生憎1000年以上も昔の彼女の姿を覚えてはいないが――そもそも会っているかどうかも分からないのだが――当時からこの色ならば多少は噂になっているだろう。
けれど記憶している範囲ではその様な話も聞いていない。と言うか、もし聞いていたならば私は確実に興味を抱いたはずだ。
あの頃も今も、変わった事が大好きな私なんだから。
「昔からその色って事は無いんでしょう?」
「そりゃ子供の時はね。でもいつからなんて分からないわよ。覚えてないし」
そんなものなのか、と腕を組む。同時に彼女はようやく温度も味もよい感じとなったのか、鍋の中身を茶碗へ移した。
ほのかに見える白い湯気がなんとも食欲をそそる。
まぁ、だからと言って彼女が私の分を分けてくれるとも思えないので、仕方なくその光景を眺めながら正面へ腰を下ろした。
出て行けと言われないなんて、1000年に一度あるか無いかの話だ。この際たっぷり居座ってやろう。
彼女がお玉からレンゲに持ち替えて、雑炊にふーっと息をかける。そして少量ずつ口に運ぶという様は、思っていたよりずっと綺麗な食べ方だ。
てっきりがさつなものだと思い込んでいたのに。これは地上に降りた私が未だ姫と呼ばれるように、彼女もまた貴族であるという事なのだろうか。
何も言わずに食べる様子を眺める私に対し、彼女は過去を振り返っているようだった。
無意識に食べる手を緩めながら、宙を見つめる。
やけにゆっくりした手が幾度目かの動作を繰り返す、直前。「あぁ」と、彼女が声を上げた。
「初めて死んだ時、かもしれない。髪が白くなったの」
「え?」
「死ぬのが怖かったのか、それともあの薬自体にそういう効果があったのか。それは知らないけどね」
レンゲを手放して、長い髪を一房指に絡める。
その表情はあくまで思い出せた事による開放感に満ち溢れており、憎しみもましてや悲しみも浮かべてはいない。
髪は女の命という言葉を知らないのだろうか。それとも父を侮辱された事には憎しみを覚えても、自分の変化にはなんとも思わないのか。
もし後者なのだとすれば、とんだファザコンもいい所だ。1000年恨み続けているのだから既に遅い気もするのだけれど。
妙に満足げな顔で再び食事を再開する彼女に、なんとなく調子が狂う。
もしかして私は彼女に憎まれたかったのか。それではファザコン以上にドMではないか。生憎そんな性癖は無い…はずなのだけれど。
無意識にぽりぽりと頭をかいて、私は彼女から視線を外した。
するとその不自然さに気づいたのか、視界の端で彼女が僅かに眉を寄せる。
「何よ、その態度」
「別に何にも無いわよ」
「…言っとくけど、髪色に関してはこれでいいと思ってるからね」
「どうでもいいわそんな事。……どうしてそう思うのかしら?」
「どっちなのよ」
いつの間にか最後の一口となっていた碗の中を、何故かレンゲも使わず下品な仕草で飲み込んで彼女はくすっと笑った。
不愉快な笑み。いたずらを仕掛ける前のガキみたいな。
ちなみに私は子供があまり好きではない。
可愛いとは思うが、その反面邪魔臭いとも思ってしまう。ずっと寝ていればいいのだけれど。
「黒髪だったらあんたと一緒になるでしょ。そんなの死んでもお断り、って事よ」
なんと。思わず呆れ返ってしまった私は何も言う事が出来ず、食べ終わった碗を片すその動作を見つめるばかりだった。
まだ鍋の中には雑炊が残っている。夜にでも食べるつもりなのだろうか、腐ってしまわないのだろうか。どうでもいいことが頭を掠めた。
彼女はまたてきぱきとした動きで行ったりきたりを繰り返す。その度に白髪がさらさらと流れた。
日の下では輝きを失うけれど、それでも綺麗な事は綺麗かもしれない。
かつて私を愛してくれたあの人達の老いからくる白とは少し違う、生き生きとした白。
「私と一緒だから白でいいって、普通逆じゃない?私の髪色を変えてやるぐらいに思わないの?」
「今のあんたが色を変えても、『竹取物語のかぐや姫』は黒髪じゃない」
「そりゃまぁ………そうだけど」
納得しかけて、やっぱりそれはどうなんだと思う。けれど口には出さない。
めんどくさいという気持ちもあったけど、それ以上に彼女がそれで納得しているなら意味が無いと思ったからだ。
(本当に憎まれたいのかしら、私は)
馬鹿馬鹿しいと胸中で呟きながら、釈然としない何かを抱える。胃の中がもやもやしてたまらない。
そういえば私昼食をとっていないじゃないか。もやもやの原因はこちらだろうか。こちらだったらいいのだけれど。
ふと目の前の鍋が目に入った。彼女は奥に行ったばかり。別にバレても構わない。むしろバレてしまえばいい。
木で出来たお玉に、一口分雑炊。僅かに息を吹きかけて、大口を開ける。
ぱくり。あ、意外と……
「ちょ、ちょっと何勝手に食べて…っしかもそのままってお前な!」
口に含んだ瞬間、煩いのが帰ってきた。
もしゃもしゃと素朴な味わいを楽しむ私の前に、怒りを浮かべた彼女が立つ。
ちりちりと白い髪の先に火の粉が舞った。家の中なのでどうにか抑えてると言う感じだ。
その様子に、先程までのもやもやが一気に消えた気がした。胃が少し満たされたからかもしれない。
「貴方を褒めるのは癪だけど、これ美味しいわね。なんだか懐かしい味がするわ」
「あんたに褒められても全然嬉しくない……」
二口目を頂こうとした手は、思い切り頭を殴られて未遂に終わった。
つまみ食いをしたガキの様な扱いに不満を覚えたけど、よく考えればその通りの行動を犯している事に気づいたので反撃はしない。
没収とばかりに奪われた鍋にちょっとだけ未練を感じつつも、欲しいなんて口が裂けても言えないので何も言わなかった。
口の中に残った薄めの味付けをただゆっくりと味わう。
懐かしいと言ってはみたものの、本当の所はよく分からなかった。
使われた米と彼女の手際にあの頃を思い出しているだけだと言われれば否定は出来ない。それ程に永い時が過ぎてしまった。
もはや顔もおぼろげとなってしまった大切な両親。それはきっと彼女も変わらないんだろうと思う。こちらも口には出さないけれど。
「ていうか輝夜、いつまでいる気なの?」
「そうね、区切りに殺し合いでもしてみる?」
「嫌よ、今日雨降るって慧音が言ってたし」
「嘘!?」
「あんたと違って正直者だよ私は」
慌てて外に出てみると、来る時は明るかった空に薄く灰色の雲がかかっていた。
確かにこれは一雨来るかもしれない。此処から永遠亭まで飛んですぐだと行っても、降り出せば濡れる事に変わりは無い。
今から飛んで間に合うだろうか。悩んでいる間にも雲はどんどん厚くなる。
(どうりで妹紅の機嫌がいいと思ったのよ)
まさか雨のフラグだとは。読めなかった。
「ちょっと、帰りどうすりゃいいのよ」
「知らないよそんな事。あんたが勝手に来たんでしょうが」
「嫌よ濡れて帰るなんて」
私の言葉に、彼女は呆れた顔を向ける。
今日だけで何度見たか分からない表情にムッと唇を尖らせたけれど、相手に効くはずもなく。
「今すぐ帰れば濡れないんじゃないの?知らないけど」
「もし濡れたらどう責任とるの?」
「なんで私があんたの責任とらなきゃいけないんだバカ!」
ついでに言うと傘は持ってないからね、誰かさんが送り込んできた刺客に壊されたから。と彼女が言う側からぽつぽつと嫌な音が耳に届いた。
慌てて家の中に避難する彼女に続いて私もちゃっかり屋根の下へ隠れる。呆れた瞳がプラスして軽蔑を含んだような気がしたけど、そこはどうでもいい。
改めて部屋を見渡して、わざとらしく息を吐く。仕方ない。此処は神のような広い心を見せてやろう。
そんな意味合いをこめての息だ。
怪訝そうに眉を寄せる彼女に向き合って、ぱさっと髪を靡かせる。
「狭くて汚いけど、まぁ仕方ないわね。泊まってあげるわ」
「帰れ。むしろ死ね」
予想通り過ぎてつまらない答え。もう少し面白い受け答えは出来ないのか。全く生真面目な人はこれだから困る。
けれどその答えに少なからず満足している自分がいることも事実で、私はわざと作った嫌みったらしい笑みの裏でこっそり微笑んだ。
なんとなく気に食わないことも多かったけど、まぁ概ね満足かもしれない。
眉を寄せて頭を抑える彼女の姿を見て、この家にわざわざ来た甲斐はあったなと思った。雨で濡れながら帰る事に関しては、後日八つ当たりをする予定だけど。
どさくさにまぎれて扉くらいは壊して帰ろうかと一歩足を引く。
そんな私に、彼女は溜息交じりで言った。
「夕方には止むらしいから、ちゃんと帰りなさいよ馬鹿姫」
「へ?」
「昼ごはん、さっきの雑炊しかないからね」
どうせ食べてないんでしょ、と言いながら再び鍋に手をかける彼女に、私は間抜けにも立ち尽くしたまま動けなくなった。
なんだ。どういう事だ。一体何が起こったのか。
(今日って誕生日だったかしら?)
どちらの?いやそもそも前提がおかしい。だって私も妹紅も、誕生日なんて自分自身が忘れてしまっているのだから。
ならば天変地異の前触れか。苦しい死に方は嫌だなぁなんて考える私に、妹紅はちらりと視線を送るだけでやはり何も言わない。
「…貴方、何考えてるの?毒でも仕込んだのかしら?」
「そんな危ないもの持ってるわけないでしょ。どっかの薬師じゃあるまいし」
「永琳は毒を持ってるわけじゃないわ。永琳の作る薬が毒なのよ」
「どう違うのよ一体…」
はい、と言わんばかりに差し出された、茶碗と箸。もちろん空の茶碗なんて嫌がらせをする訳も無く、中には温められた雑炊が盛られている。
受け取ってから、妹紅の正面に正座して、私は茶碗の中身を凝視した。
(まさか妹紅に限って味をおかしくするようなタイプでもないし…)
腐っても殺しあっても、100年単位で付き合ってきた仲だ。今生きている人の中では誰よりも彼女を知っていると思う。
卑怯な手を好まない事も、私を憎んでいる事も、嫌という程知っていた。
そう、今妹紅の目の前にいるのが私じゃなかったら、彼女の行動は自然のものなのだ。妹紅はお人よしでもあるのだから。
けれど、まさか。
「何かいい事でもあったの?」
「は?」
「だって、おかしいじゃない。私に優しくする貴方なんて、悪戯をしないてゐ並にありえないわよ」
「食べたくなきゃ帰れ今すぐに」
「いや、食べるけど」
慌てて口に含んだそれは、やはり美味しい。箸なので水分を多く含んだ雑炊は多少食べにくいが、明らかに食器も少なそうなので文句は言わない。
一口、二口と口にしているうちに的確なタイミングで差し出された湯のみを受け取り、また食事を再開する。
山菜を色よく使い、薄めのダシと卵を合えた優しい味。永遠亭で食べるものとは大きく違った、家庭の味と言えそうなソレ。
何度か美味しいわと口にすると、満更でもないといった表情で妹紅は軽く目を細めた。
その事に気持ち悪さを覚えつつも、気づけばあっという間の速度で雑炊は全て私の胃へと消えていた。
「ごちそうさま」
「もっと感謝しな」
「安っぽいけど美味しかったわ」
「次は月人の出汁で作るのか。まずそうね」
「永琳汁?毒々しい味よきっと」
「お前だお前」
私が食べ終えた食器を何も言わずに片し、手早く水につける動作はあくまで自然なものだ。
まるで長年付き合った友人が泊まりに来た時のような扱いに、私は更に戸惑いを覚えた。
こんな扱いを望んで来た訳ではない。
私は不機嫌そうに眉をしかめたり、痛みに唇をかみ締めたり、はたまた憎らしいと口汚く煽りの言葉を吐く彼女が見たかったのだ。
それが私と彼女の付き合いでは無かったのか。
「何真剣な顔してんの。らしくないなぁ」
「らしくないのは貴方よ。本当に何があったの?ハクタクが死んだとか?」
「勝手に殺すな!っていうか、私を心配してるあんたも相当らしくないわよ」
「心配してる訳じゃないわ。気持ち悪いって言ってるのよ」
きょとんと妹紅は目を丸くする。
私の発言の一体どこが不思議なのだろう?事実を述べただけなのに。
それとも今日の彼女の言動全てに裏があったとでもいうのだろうか。それに気づいていない私を馬鹿にしている?
いっそその方がいいとさえ思った。私に親切な彼女なんて見たくないのだ。
別にそういう性癖がある訳じゃない。ただ、彼女の中の唯一のポジションを失った様な、そんな何とも言えない寂しさを感じた。
「つまり何だ、あんたは顔を見たとたんに殴り飛ばされたかったって事?ついでに家に入ろうとした段階で消し炭にされて、
更に雨の中放り出してずぶ濡れになったあんたを見て笑え、と?とんだ変態ね」
「そんな扱いがされたい訳じゃないわ。でも、貴方ならそうするでしょう?妹紅、今日の貴方は貴方らしくないのよ」
「そう言われてもねぇ」
妹紅は困ったように苦笑した。
そんな態度もらしくない。
もちろん、彼女がお人よしで案外穏やかな性格をしている事は知っている。数百年来の付き合いなのだ、知らないはずもない。
けれどそれはあくまで彼女本来の性格というだけであって、私の前にいる彼女の性格ではない。
彼女がお人よしな事も穏やかな事も、私は知識として知っているだけ。
私以外の人と接する時の話し方、気の配り方、そして私以外の人から伝え聞いた話、それらを総合しての評価だ。
私を目の前にした時の妹紅はそんな性格を微塵も見せない、紅の瞳に憎しみの炎を宿し憎悪の感情のまま私を睨み付けるのが常だった。
彼女の中の怒りや憎しみを埋めるのは私だけで、それをあざ笑うのが私。
そんな関係だからこそ、気持ちよく殺し合いをしてきたのではなかったのだろうか。
馴れ合いなんて必要ない、そう瞳で語っていたのは誰でもなく、妹紅自身だったのに。
「あのねぇ輝夜、あんたが私をどう評価してるのか知らないけど、流石に家の真ん前で殺し合いなんてしたくないわよ」
「普段の妹紅ならそんな事考えるより先に手が出てるわ」
「……あんた今馬鹿にした?暴れるのはあんたの家だからで、私は自分の寝るところぐらい確保していたいの。分かる?」
「家に入れただけじゃないわよ。普段の貴方ならお昼をくれたりしないわ。絶対に…っ」
「鍋から直接食べるほど腹すかせたのが目の前にいちゃ禍々しいでしょうが。ねぇ輝夜、あんたさっきから…」
「そもそも、雨が止むまでなんて優しさ…!」
おかしい。私はなぜこんなに熱くなっているんだろう。
思わず強まった語尾を無理やり喉に押し付け、無意識のうちに握っていた拳を開いた。
爪の後が残った手のひらを見て、心臓が痛むのを感じる。
どんどんと激しく打つ音がやけに煩くて、私はごまかすように立ち上がった。
妹紅はきょとんと目を丸くしている。ああ、本当にらしくない。
私も、彼女も。
「帰るわ」
「…雨、止んでないけど」
「腑抜けた貴方といるより、濡れて帰るほうがずっとマシよ」
顔を見たくなくて、私は戸口へ視線を送った。
けれど悲しきかな、気配で彼女がどんな行動をしどんな表情をしているのかが分かる程度に、私は彼女を知っていた。
妹紅は怒って立ち上がるでも、馬鹿にして笑うでもなく、少し足を崩し座りなおすだけだった。
それを感じつつ、私は訳の分からない不快感に急かされるように髪を払い、足を進めた。
数歩も歩かない距離にある戸に手をかけ、ぎぎと重い音と共に開く。
からかいにきたはずなのに、ひどく気分が悪かった。
ざあざあと振り続ける雨は全くその勢いを沈めていなかったが、いっそそれが気分転換になりそうとさえ思う程に。
細く開いた戸から、一歩足を踏み出す。吹き込む雨が僅かに頬を掠めた。
その時だった。
「私、一方的にあんたを追ってるつもりだったよ」
苦笑しているような、自嘲しているような、複雑な声が聞こえた。
語りかけるようで独り言のようなそれは、少女特有の高さとハリがあるにも関わらず、遠い昔に思い出として消え去った優しい育ての両親と重なる声色だ。
どこをとってそう思ったのかは自分でも分からない。ただ、私は振り返ってしまった。
軽く崩した足と、両手に抱えた湯飲み。紅い瞳は手に持った湯のみへと向けられ、私を見ることは無い。
開けた戸から僅かに雨が進入した。けれど妹紅は気にする様子も無く話を続ける。
「自覚はあったのよ?逆恨みだって。あんたからすれば、私なんてせいぜい壊れない暇つぶし程度だろう、とか。
これでも自分と相手の力量差が図れる程度に鍛えてはあるつもりだからね」
でも、と区切りを入れて、妹紅が顔をあげた。
憎しみの炎を宿したその瞳が、まっすぐ私を見る。
月明かりの下で見る色と何の変わりもない、炎の色だった。
ただしその表情は、今までに見たこがない…それどころか私の中の知識としての彼女にすら掠りもしない、悪戯を思いついた子供のようなもの。
「大丈夫よ輝夜。そんなに心配しなくても、私は貴方を許さない。
今日家にいれたのだって、懐かしい米が手に入ったのに誰も食べさせる相手がいない寂しい老人の気まぐれ。
例え相手が大嫌いな意地悪婆さんでも、上手に出来たものは褒めてほしいのが人情ってもんなのよ」
実際あんただって美味しいって言ったじゃない。
馬鹿にしたように笑って肩をすくめる妹紅にいつもの必死さは無く、立ち尽くした私はこんなにも心臓が早い。
口で言い負かした時の妹紅は、いつもこんな気持ちを味わっているんだろうか。そして私は、いつもあんな顔をしているんだろうか。
何故か頭――正確に言うと顔あたりがカッと熱くなって、悔しさと苛立ちに唇をかみ締める。こんなの全然私らしくない。
私は今日、妹紅をからかいにきたはずなのに。逆にからかわれるなんて、そんなの。
「あんたが何考えてるのかずっと分かんなかったけど、案外単純なのかもね。月人って言ってもほとんど人間とおなひぎゃ!!!!」
単細胞な妹紅らしくなくぺらぺら喋るその口が気に入らなくて、咄嗟に持っていたものをいつもの弾幕ごっこの感覚で投げつける。
手に持っていたもの、つまりこの立て付けが悪くぼろっぼろの木の板。そう、扉だ。
普段投げている天井よりはコンパクトで投げやすい。私の想像以上のスピードで投げられたそれは、真っ直ぐ妹紅の頭に直撃した。
人間の頭には案外血が詰まっているんだなぁと、噴水みたいに噴出す血を見て改めて実感する。
「っ――何すんだ殺す気か!!」
「それは間違いよ妹紅。殺す気じゃなくて、殺したの。永遠に眠っていれば良かったのに、不便な体ね」
「お前が言うな!しかもちょ、これあんた何投げて…っああ布団に血が!」
「騒がしいわねぇ、これだから卑しい生まれは嫌なのよ」
「っ! 飯の恩も忘れてこの女…っ!!」
「キャビアとフォアグラと松茸も出さないで恩?ふん、貧乏人ってほんと卑しいのね」
「なんでそこでトリュフじゃなく松茸なのよ統一しろ!」
単純な程真っ直ぐ挑発に乗り、ぎゃあぎゃあと言葉を荒げる妹紅。
そう、これが私達のいつもの関係だ。激しかった心臓が、少しずつ収まっていく。これでいい。
妹紅は自宅だという事も忘れてか、それとも天井まで血まみれになった事への諦めか、髪の先からチリチリと広がっていく炎を抑えようともしない。
そんな妹紅を小馬鹿にして私は笑い、殺し合いに発展する。私が馬鹿にされるとか妹紅に余裕があるとか、そんなのは間違ってる。
私達の関係は常に一方的なものだ。そう、妹紅が私に執着して、私が妹紅を馬鹿にする。これが、正しい姿だ。
「こんな雨の中で殺し合いなんて嫌よ、まぁ妹紅は馬鹿だから風邪引かないのかもしれないけど」
「風邪で苦しむ前にその命終わらせてやるよ!」
「言ったわね?その言葉あの世で後悔しなさい!」
戸を無くした玄関をくぐり、私達は雨の中飛び回る。
冷たい雨に混じって血の雨が流れても、派手な殺し合いの為寒さはまるで感じなかった。
妹紅の攻撃を避け、私の攻撃が避けられたと思ったら妹紅の攻撃が私の右手に直撃し、その直後妹紅の左足に私の攻撃が直撃する。
いつもと変わらない殺し合い。
どちらとも言えぬ心臓の音がやけに大きく響き、生を実感する永遠にも似た遊戯。
終わりなんてきっと無い。力尽きて思考が無くなり、体の感覚がゼロになって、ただ心臓の音のみが聞こえるようになった時にようやく中断されるだけ。
「輝夜」
雨などもろともせず燃え広がる大きな不死鳥と風になびく生き生きとした白い髪は、思わず見惚れる程綺麗だった。
お礼に私も、彼女が最も嫌う蓬莱の玉の枝を取り出す。
妹紅はまっすぐ私を見つめていた。
その口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて。
「殺してやる」
馬鹿言わないで頂戴。
殺すのは私の方よ馬鹿妹紅!
やもすれば寂しさを感じますが、この二人の間に於いては、少し酸味が利いているくらいが丁度良さそうです。死別する事もないことだし。
「風邪で苦しむ前にその命終わらせてやるよ!」に篭ってるような感覚が非常にしっくりきました。
いや、裏を返せば風邪で苦しむ姿を見たくないというか。お前は私の手で苦しめというか。
駄文失礼しました。短編なのに中身が詰まってて面白かったです。今後も期待してます。
これからも期待してますw
地球人であれ長命な月人であれ、本来しょせんは有限の命なのに、
神様や悪魔、妖怪や妖精のように無限を生きることを強制されてしまう
元から無窮な存在と、薬で無窮の羽目に陥った者と、
両者には感覚のズレが絶対に生じるような気がする
たとえば、諏訪子さま(ミシャグジは遥か縄文にも遡れる不滅の神様)ならば、
このアホバカ二人の戸惑いと苦悩を前に陽気にケラケラと笑うという感じで