「お箸はいくつご入用ですか」
「……あ、ひとつでいいです」
夜のコンビニ。店員と事務的な会話を交わして、袋を受け取る。
秘封倶楽部としての活動を終え、帰宅する途中のことだった。もっとも、活動といっても、もっぱら蓮子に振り回されただけだったが。
蓮子。自分勝手なのになぜか憎めないあの友人の顔が、懐かしく思い出された。
今日一日を共にすごしたにも関わらず、なぜ懐かしいのか。その答えを、小さく鳴った腹の虫が告げる。
遠かったのだ。今日の『活動』場所が、思いのほか遠かった。行きは蓮子と一緒だったため、それほど長い道のりとも思わなかった。いわゆる蓮子マジックである。
帰りも同じ調子で帰れば問題なかった。ところが、そうは蓮子が卸さない。
いざ帰ろうとしたところで、実は、と蓮子が打ち明ける。近くに親戚の家があるため、今日はそこで一泊させてもらう予定だというのだ。
腹を立てるには至らなかったが、後出しジャンケンのようなずるさを感じた。そうと予定が定まっているのなら、もっと早く言ってくれても良かったのではないか、と。
思い返してみれば、この時私は少し感情的になっていた。そんな時には決まって失策をやらかすもので。
「ごめん、ごめん。流石にメリーまで泊めてもらうわけにはいかないけど、ご飯くらい用意してもらうから。ちょっと寄っていきなよ」
「いい。まだお腹すいてないし、親戚の人に迷惑かけるわけにもいかないし」
夕餉の誘いを断ったことを、今では心の底から反省していた。
あの時お腹がすいていなかったのは確かなのだが、それは数時間前のこと。
なんとか最寄の駅まで帰り着いた頃には、見る影もなくなった太陽の代わりに、おぼろ月と街灯が道を照らしていた。
疲れきって正常にまわらない頭で料理は無理だと判断し、駅前のコンビニで惣菜でも買おうと考えて今に至る。
体に染み入るおでんの贅沢は看過するのに苦労したが、一度買い物を終えればさしたる敵でもない。
ありがとうございましたー。そんな店員の声を聞き流しつつ立ち去ろうとすると、冷たい風が自動ドアをこじ開けて吹き込んできた。
思わず身震いする。本当によく冷える季節だ。こんな時期に、無性に食べたくなる料理がいくつか。キムチ鍋や、すき焼きや、おでんもいいな……あぁいやいや。
逆行して誘惑に屈しそうな思考を断ち切り、意を決して一歩踏み出すと、寒さはさらに強さを増して襲い掛かってきた。
手袋を持ってこなかったことを少し後悔。ポケットに突っ込んだ左手はまだしも、袋をさげた右手は冷やされるがままで、凍りつきそうな気さえした。
空を見上げれば、さっきより思いなしか高くなった月が、相変わらずぼやけたままで浮かんでいる。
それほど田舎の駅ではないものの、コンビニで時間を食ったせいで、道を歩く人は見当たらない。
静かな夜だな、と思った。今日に限ってそう感じる理由が一瞬わからなかったが、すぐに思い当たる。
いつもなら、音楽を聴きつつ歩いている道である。あいにくとイヤホンを修理に出している今、珍しく夜の音に耳をすましてみれば、なるほど静かに感じるわけだ。
どこぞの貯水池から蛙の合唱が聞こえる。あとは、時折道を通る車の音を除けば、聞こえるものは自分の足音だけ。
そんな静寂を楽しみながら歩いていると、狂気的な寒さも許せる気がした。
そうやって、少しだけ、夜の雰囲気も面白いかな、と思い始めた矢先のことだった。
とある一歩を踏み出した瞬間、蛙が、ピタリと合唱をやめる。
なにかゾクリと来るものを感じた。何が、と言えない違和感があった。
しかし、直感の訴えと裏腹に、視覚はいつもと同じ帰り道を伝えてくる。
今歩いているのは、幾度となく歩きなれた上り坂。上りきった先に、ここ数年の住居であるアパートがたたずんでいるはずの道。
道路わきには、枯れ木が等間隔に並んでいる。春になればちょっとした桜並木と化すこの木々も、冬は寂しさを伝えるものでしかなく、特に、クリスマスのときの上辺だけ着飾ったような装飾は大嫌いだった。
辺りを見回して、一つ気がついた。昨日まで危篤状態で点滅を繰り返していた街灯が、今日は完全に事切れている。
なんでもない、良くあること。いくら自分に言い聞かせてみても、先の違和感がよみがえり、得体の知れない恐れとして襲いかかってきた。
それは、あるべきものが、さるべき場所にない恐怖。
例えば、ベビーカーを押して歩く母親があったとして、子供の顔を想像しつつベビーカーをのぞくと、中に誰もいなかった時のような。
ふいに、後ろから足音が聞こえてきて、我にかえる。カツカツと、ハイヒールの音が規則正しく続く。
いつの間にか立ち止まっていたことに気がついた。軽く頭を振り、気を取り直して歩みを再開する。
蛙の声が聞こえないことにも次第に慣れ、消えた街灯を後にすれば気分も回復した。
――カツカツ、カツカツ
私自身も歩くのは速いほうだが、後ろを歩く女性はさらに速いらしい。歩き始めてからも、ハイヒールの音は遠ざかることなく、逆に距離を詰めてきた。
そもそも、歩くのが速い人には、二種類のタイプが存在する。
ひとつめはすなわち、少し大股になって距離をかせぐタイプ。これはおおむね男性に多いのだが、蓮子に連れまわされて走り回っているからか、はたまた天性なのか、私はこちらのタイプだ。
そしてふたつめは、速いペースで足を動かして歩くタイプ。いかにも急いでいるという歩き方をするこのタイプは女性に多く、後ろの女性も然り。
だから、今の心境を説明するならば、ハイヒールの音によって急かされているような、そんな気分。
第一、近い距離で、しかも死角となる位置を他人が歩いているという状況は、本能的にも理性的にも落ちつかないものだ。
まして、今は一寸先も見づらい夜。世界に二人っきりしか存在しないような錯覚を覚えつつ、思考はいつも通りのループにはまり込んでいた。
もし。今後ろを歩いているのが、ナイフを持った殺人鬼で、背後からそれを突き刺してきたらどうするのか。
考えても詮無いことと知りつつ、思考はそこから離れられない。離れることを拒絶するのは、無知という不安か。はたまた、これが夜道の魔力なのか。
考える間にも、女性、あるいは殺人鬼、もしくは女装癖のあるストーカーか、なんだかよくわからないものは近づいてくる。
振り返ることは簡単だ。ほんの少しだけ、歩みをとめて、首をまわせば良い。
ではそれをしないのはなぜか。相手に怪訝な顔で見返されるのが怖いのか。あるいは、振り返ることで、『もし』が確定条件へと変化してしまうのが怖いのか。
私は今、何を望んでいる? 後ろの存在が何であればいいと? なんの変哲もない女性がいいのか? 殺人鬼か? ストーカーか?
そんな考えに没頭していたものだから、急に隣をすり抜けた真っ黒なものに、大仰に驚く羽目となった。
思わず声を上げそうになるのをこらえる。そんな自分に呆れて、少し苦笑がもれた。
よくよく見ればなんのことはない、後ろの存在の影が伸び、私を追い抜かしていっただけのことだった。
街灯が等間隔で並んだ道は面白いもので、歩く者の影が量産され、歩く数倍の速度で自分を次々に追い越してゆく。
それが前を歩く人に対するプレッシャーになってしまう、という欠点も存在するのだが、この際それはそれとして。
数倍に拡大コピーされ、相手の体格も性別もなにも教えまいとする影が、それでも、ある一つの情報をもたらしてくれた。
それは、後ろを歩く存在が、少なくとも人の形をしているということ。ひとまず救われたような思いにほっと安堵し。
続いて、先ほどよりさらに苦々しい笑いが、思わずこぼれた。
なにを考えているんだか。後ろを歩いているのが人間だなんて、そんなの一足す一が五でないほどに明らかだ。
殺人鬼なんかでもない。すわ宇宙からやってきた痴漢の類か、などと考えるのは女性に対して失礼に当たる。
どう考えても普通の女性が帰りを急いでいるだけ。間違いない。
――カツカツ、カツカツ
しかし、いつの間にか心を侵食していた不吉な予感は消えなかった。これより他の可能性もそうそうなかろうに。
ふと、女性でかつストーカーという、珍妙な場合に思い当たる。もし、そんな特殊な性癖の持ち主だったらどうする?
だが、これは大した脅威ではない。蓮子に少しその気があるせいで、既に慣れっこだった。
大方その手の輩は、まず相手の胸を我が手におさめようと襲い掛かってくるだろう。こちらはひとまず、その襲撃をかわせば良い。
続いて、体を丸めて相手の勢力圏から抜け出す。相手も女性であれば腕力のハンデはなく、そうすれば体力に自信のある私に勝機があるはず。
全ては、蓮子相手の不本意な実践演習によって身に付いた、日常では役に立ち得ぬ知識。
そして、こんな無駄なことを考えるほどに、私の思考は空回っている。
――カツカツ、カツカツ
また、無機質な音が近づく。
もはや、手を伸ばせば届く距離にいるかもしれない、知らない誰か。
その正体に期待してか、あるいは純粋に恐怖ゆえか、心臓が早鐘を打ち始めた。
どうしようもなく体が熱くなる感覚は、ともすれば性的興奮とも紛いそうになる。見事なまでのつり橋効果。
自分が喜んでいるのか、悲しいのか、怖いのか、辛いのか、次第にわからなくなって。
全ての音は、自分の心臓と、誰かのハイヒールの音で。
――カツカツ、カツカツ
心なしか音のペースが速くなったように思えた。
胸の鼓動もそれと並行して速くなる。
もう何人目かわからない影が私を追い抜かす。
その持ち主が誰かの議論には、未だに結論が出ていない。
――カツカツ、カツカツ
にわかに肌が粟立った。
追いつかれてはいけないと直感した。
気づかぬうちに、歩みは小走りに変わっていた。
だが、『彼女』との距離は開かない。
逃げ去ることが、出来ない。
カツカツ、カツカツと。
最後の音が真後ろで聞こえて。ついに、『彼女』が私の肩を……。
その時、クラクションの音が空気を切り裂いて鳴り響いた。同時に、車の音やら蛙の声やら、忘れていた音が一気によみがえり、聴覚を埋め尽くす。
肩を叩いた相手に対して、体は無意識の内に反応していた。頬に人差し指が突き刺さるのを警戒するかのように、ゆっくりと振り返る。
そこには、見慣れた結界が開いていて、私と生き写しの女性が、私より少し大人びた笑みを浮かべて、上半分だけ、こちらの世界に侵入していた。
ように、見えた。
次の瞬間、ストロボを焚いたような光が眼前に広がり、思わず目をつむる。
緑色の残光が瞼の裏から消え去り、再び闇に目が慣れる頃には、結界も女性も消え去っていた。
私のうしろには何もない。
唯一、先ほどの歪な体験の名残と言えるのは、いまだ治まらない動悸だけ。しかしそれすらも、じきに消えてなくなるのだろう。
現在の"無"から見れば、過去における"有無"などさしたる問題ではない。
そんな言葉を地で行くように、私のうしろは、最初からなにもなかったかのごとく、何食わぬ顔でいつもの夜を演じていた。
どれほど長い間、立ち止まったまま呆けていたことだろう。
気がつけば、街灯に照らされた明るい道のまんなかで、馬鹿みたいに立ち尽くす自分がいた。
息を止めていたわけでもないのに、深い深いため息がもれる。
右手に持ったコンビニの袋の感触を確かめ、再び歩き始めた。
先ほどの出来事が気にならないわけでは、もちろんない。
だが、どうすれば良いというのか? 全てを説明するには、この世界の常識はあまりに軟弱すぎた。
だから、自分を納得させるのだ。なるべく常識の範囲内で、最も適切に事態を説明できる解釈を考えて。
気のせいだ、気のせいだ。闇に浮かぶ自分の姿を見たように思ったのは、完全なる幻視、幻影。ドッペルゲンガーなどでは、断じてない。
後ろから迫ってくるように思えた影、あれは黒猫だったに違いない。白猫かと思って近づいたものが、ただのビニール袋であったことすらあるのだ。黒猫を影と誤ったとて、一体何の不思議があろう。
ハイヒールの音。あんなものは私自身の足音が反響したか、でなければただの幻聴だ。
蛙の合唱? そんなの、蛙の気まぐれだろう。
全ては、私の気のせいだった……。
…………
………
……
…
こうして、世界から女性が一人消えうせた現実は、常識という固定観念にとらわれ、いともあっさりと抹消されるのであった。
メリーのうしろで、蛙の声が、いつまでも止まずに続いていた。
†
一方、八雲邸。
「藍? らーん?」
「どうかなさいましたか、紫様。わざわざ冬眠から起き出して来られて」
「あ、いたいた。さっきね、結界が一部ゆるんで、外の人間が入り込んできてたのよ」
「なっ、本当ですか? 信頼されて結界の管理を任されているというのに、私の手抜かりです。申し訳ございません」
「いいのよ、それは。あの子は常習犯みたいだし。もっとも、今回ばかりは自分でも気づかないうちに迷い込んだみたいだけど」
「常習犯……? まあ、それはともかく、既になんらかの対処はして下さったのですね」
「ええ。気づかれないよう、向こう側に戻しておいたわ」
「そうですか、ありがとうございます」
「それでねそれでね。私その時、すっごく面白いことに気づいたんだけど、なんだかわかる?」
「はあ、全くわかりませんが」
「あの、迷い込んだ子。私の若い頃にそっくりなのよ! すごく美人でね、思わず見惚れそうだったわ」
「なんの、紫様は今でも十分お美しい、とは口が裂けても言いませんからね。……それにしても、相手の顔をじっくり見たんですよね。本当に気づかれていないんですか?」
「大丈夫よ。ちょっと対面して、写真撮っただけだから」
「おーいスキマババア、寝すぎで呆けたか?」
「そんなことよりほら、藍も見てよこの写真。よく似てると思わない?」
「どれ……。ふむ、確かに。寒さで上気した頬が良いですね。それと、紫様のように老……えー、成熟したところがなく、あどけなさが残るのがまたなんとも」
「でしょでしょ? もう、この子を見たときは私まで若返った気分だったわあ」
「お気持ちは十分わかります。ですが、わかった上であえて言わせてもらうと、年の頃実に1.2×10^4にして、ハイヒールとは如何なるものかと私は思うのであります」
「うわ、藍ったらひっどーい! ゆかりんまだぎりっぎり11000代だもん! 馬鹿にしないでよね」
「ああはいはいそうですねその通りです」
真っ赤なハイヒールの熟女が、いつまでも己の正当性を主張してはばからなかった。
幻想郷というよりは、外の世界との境界にさしかかっていたというところ?
途中までドキドキしながら読みました
身近なところにもいろいろと恐怖が潜んでいるものです。
私の不勉強かもしれませんが、冬に蛙の合唱という部分が少し引っかかりました。
力の無い女性なんかは特にそうなんでしょうね。
でも勝機があるかないかは別にして、その得体の知れなさが怖いんですよねー。