Coolier - 新生・東方創想話

朱色の想い ― 承 ―

2011/02/02 17:32:32
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※このお話は全四部構成の予定となっております
 当作品はその内の第二部にあたります
 ですので、前作である『朱色の想い ― 起 ―』(作品集136)を先に読んでおくことを推奨します





















「う~ん……ふわぁぁ~……」

 目覚めて一番、私は大きな欠伸を上げた。
 布団を跳ね除けて上体を起こし、大きく伸びをしたところで違和感に気付く。

(あれ?……ここ何処だろう)

 寝惚け眼のまま周囲を見回す。


 青々とした畳に白い襖。
 決して広くはないが清潔さを感じる部屋。
 そして自分が普段使っているものとは似ても似つかない布団。


 どう見てもここは、私の部屋ではなかった。


「あれー? 何でこんなところで寝てたんだろ……ん?」

 首を傾げる私の元に、何かが焼けるような香ばしい匂いが漂ってくる。
 寝起きで空きっ腹だった私は、その匂いに思わず食欲をそそられた。


(何が何だか分からないけど、とりあえず匂いのする方に行ってみよう)

 自分が今置かれている状況を理解するため、匂いの原因を突き止めるため、そして何より自分の食欲のため。
 私は布団から出て、匂いの元を辿ることにした。






(この先の部屋からね……)

 いくつかの部屋を通り過ぎて短い廊下に出る。
 すると、この匂いは廊下の突き当たりの部屋から漂ってきていることが判明した。

 逸る食欲を抑えこみつつ、柱の陰からそっと部屋の中を覗き込む。
 するとそこには――


「――おや、起きたのか。もう少しで朝食が出来上がるところだ」


 ――私の知らないやつがいた。


「だ……」

「だ?」

「誰よあんたはぁぁぁああぁぁぁ!?」




























「世の中には“鳥頭”という言葉がある」

「………………」

「物事をすぐ忘れてしまう人物のことを示す言葉なんだが、どうして“鳥頭”なんて言うのか知ってるかい?」

「………………」

「この場合の“鳥”とは鶏のことを指しているんだ。鶏の記憶力が悪いことから、“鶏のように物覚えの悪い頭”という意味で“鳥頭”という表現が生まれた」

「………………」

「さて、君は昨晩、自分のことを朱鷺の妖怪だと言っていた気がするが、もしかして朱鷺ではなく鶏の妖怪だったのかな?」

「……すみませんでした」


 朝食が並べられた卓袱台を挟み、僕と少女は向かい合って座っていた。
 今朝の朝食は白飯と昨日の残りの味噌汁、それにこんがり焼いたベーコンをレタスの上に盛り付けたものだ。
 程よく焼き上がったベーコンからは、今も尚香ばしい匂いが漂ってくる。


「まったく、たった一晩で顔を忘れられるとは思わなかったよ」

「うう……ちゃんと思い出したんだから許してよ」

「許すも何も、別に怒ってなどいないさ。ただ単にからかっているだけだよ」

「それはそれでどうなの……?」

 少女が不満げな顔でこちらを睨んでくるが、僕は何食わぬ顔で朝食を口へと運ぶ。

 よく考えたら、今のようにまともな朝食をとるのはいつ以来だろうか。
 職業柄早起きする習慣はついているものの、貴重な朝の時間を割いてまで朝食を作る気は中々起こらなかった。
 しかし、たまにはこういうのも悪くない。
 何だか活動のためのエネルギーを補給しているような感じがして、一日を過ごすためのやる気のようなものが湧いてくる。


「……これからは小まめに朝食をとるようにしよう」

「何? 香霖堂っていつもは朝ごはんを食べてないの? 駄目だよちゃんと食べなきゃ」

「君は僕の母親か。だがまぁ確かに、朝食をとった方が1日元気に過ごせるのかもしれないな」

「そうよ、お腹が空いたら本も読めないし」

「君は本当にそればっかりだな」

 無論、僕も他人のことは言えないが。


「そういえば、昨晩は軽くうなされていたようだったが、何か悪い夢でも見たのかい?」

 僕は昨晩の出来事を思い出し、気になって少女に尋ねてみた。
 とは言っても、夢の内容は大体予想がついている。


「そうそう聞いてよ。あの赤いのと黒いのに、夢の中でまで本を盗られそうになったのよ!」

「それは災難だったね」

 盗られそうになった、と言うことは、最終的には本を守りきることができたのだろう。
 あの後も頑なに僕の袖を離そうとしなかったからな……


「夢にまで見るなんて、本当にツイてないわ」

「よほどあの2人のことがトラウマになっているみたいだな」

「とらうま? 何それ?」

「怖い体験や酷い目に遭ったとき、その出来事が忘れられずに後々まで尾を引くことさ」

「? それがどうして“とらうま”なんて言うの?」

「それはだな……」

 それは……何故だろうか?
 トラウマという単語の意味は知っていても、その語源までは知ろうとしなかったし、気にしたこともなかった。
 恐らくはどこかの国の言葉だと思うが……

 黙りこんでしまった僕を見て、少女は嫌らしい笑みを浮かべる


「香霖堂にも分からないことがあるんだね」

 ニヤニヤという表現がぴったり当てはまるような少女の顔は、見ていて非常に小憎たらしい。
 どれだけ豊富な知識を持っていようと、分からないことなんていくらでもある。
 自分の知らないことで溢れているからこそ、この世界は面白いというのに。


「分からなくて悪かったね。生憎僕にはトラウマになるような経験はないんだ。
 だからトラウマという単語に興味を示したことがなかったんだよ」

「ふーん、けど“とらうま”ねぇ……虎も馬も怖くないけどなぁ」

「トラウマと虎と馬は関係ないと思うぞ」

 そもそも馬はともかく虎は怖くないのか?


「そんなに本を盗られるのが嫌なら、名前でも書いておけばいいんじゃないか」

 トラウマの件で少女にからかわれた僕は、そっぽを向くようにして適当に言い放った。
 名前を書いたところであの2人ならお構い無しに強奪していきそうな気はするが。


「名前かぁ……それいいかも!」

 適当に言ったつもりだったのだが、どうやら本気にされてしまったようだ。
 彼女は賢いのか幼稚なのか、未だにはっきりと区分できない。


「そうと決まれば早速書いておかないと。香霖堂、筆貸して!」

「せめて食べ終わってからにしろ」

 僕がそう言うと、少女は急いで残りの朝食をかき込んだ。
 昨日同じことをして痛い目に遭ったばかりだというのに、あの一件からは何も学ばなかったのだろうか。
 いや、鳥頭ゆえに忘れているだけかもしれない。


「ごちそうさま!」

「お粗末様。食器は後でまとめて洗うから、そこに重ねておいてくれ」

 急ピッチで食事を平らげた少女に対し、僕は久々の朝食をゆっくり味わって食べていた。
 そのためまだ半分ほどの量が残っている。
 1人1人食器を洗うよりは、2人分をまとめて洗ってしまったほうが手間も省けていいだろう。


「筆なら机の上にある万年筆を使うといい。滲まないように気を付けてくれよ」

「はーい」

 少女に筆の在り処を教えてやって、朝食を再開する。
 ……うん、このベーコンの焼き具合は我ながら素晴らしい。
 今度はベーコンエッグに挑戦してみるとしよう。


「……ねぇ、香霖堂」

「なんだい、僕は今、自分の料理の腕に感心しつつ今後の制作意欲に胸を膨らませていたところなんだが」

「気付いたんだけど、私って名前がないのよね」

「……ああ、そういえばそんなことを言っていたね」

 彼女のように幼くて力の弱い妖怪にはよくある話だ。
 長い年月を生き、知識と実力を身につけた妖怪は、大抵自分の名前を持っている。
 それには恐らく、2つの理由があるのではないかと僕は考えていた。

 1つ目の理由。
 それは、長く生きて力を得た妖怪は、周囲からその存在を認められるようになるからだ。
 畏怖や尊敬の対象となることで、周りから何らかの名称や呼称が与えられる。
 誰にも知られていない者は誰かから名前を呼ばれるということがないため、名前を必要としないのだ。

 2つ目の理由は、単純に幼い妖怪は“自分の名前”という概念について深く考えることがないからだ。
 自分がいて、自分の意思があって、自分の思うように体が動きさえすれば、生きていく上で特に問題はない。
 多くのことを経験し、ある程度の自我が形成されると、「どうして自分には名前が無いのか」「自分にも名前が欲しい」といった哲学的な思考を持つようになるのである。
 目の前の少女は今まさにその段階にあるのだろう。


「ふむ、君は今まで周りの人間や妖怪からは何と呼ばれていたんだ?」

「何って言われても、“あの妖怪”だとか“あんた”だとか、そういう曖昧な呼び方でしか呼ばれたことがないわ」

「なるほど、まあ名前が無ければ呼びようがないしなぁ」

「名前が無いんじゃ本に名前を書けないよ」

 それは尤もだ。
 本の裏に“妖怪”だとか“私”などと書いたところで、何の意味も成さない。
 “朱鷺の妖怪”と書いたならば、ある程度彼女を連想することができるため多少はマシかもしれないが、やはりそんなものは名前でも何でもない。


「いっそのこと、自分で自分の名前を決めてしまえばいいんじゃないか?」

「えっ?」

「本来名前というのは自分以外の人物に付けて貰うものだ。例えば両親とかね。
 しかし、自分で付けてはいけないという決まりは存在しない」

 かくいう僕もその口で、『森近霖之助』という名前は、僕が新たな人生の出発点に立ったときに、自分で命名したものだ。


「ただし、よく考えて付けなければいけないよ。名は体を表すというように、名前はその人物の生き方に大きな影響を与える。
 それに、一度付けた名前はそう簡単には変えられない」

 名前はあくまで個体を識別するためのものだ。
 コロコロ名前が変わるようでは、その人物のことを何と呼べばいいのか分からなくなってしまう。


「私の名前、かぁ……」

 少女は頭を捻っている。
 今まで自分の名前について考えたこともなかったのだ、そう簡単に決まるものでもないだろう。
 むしろ大いに悩んで決めたほうがいい。

 そう思っていたのだが、


「やっぱり自分じゃあよく分かんないや」


 と、ものの数秒で思考を放棄した。


「おいおい、大事なことなんだからもっとしっかり考えて――」

「だから、香霖堂が付けてよ!」

「――何だって?」

「私の名前を香霖堂が付けてって言ってるの」

「僕が、君の名前を……?」

 確かに名前云々を言い出したのは僕かもしれないが、自分の名前を決めて欲しいなど、出会って1日しか経たない相手に頼んでいいようなことではない。
 どうやら彼女は、名前という概念が持つ意味や大切さを理解していないようだった。
 道具やペットではあるまいし、そう簡単に名前を付けろと言われても参ってしまう。


「いいかい、さっきも言ったが名前とはとても大事なものなんだ。昨日今日出会ったばかりの人物に付けてもらうような代物じゃない」

「でも、普通は自分以外の人に付けてもらうんでしょう?」

「確かにそうは言ったが……」

「香霖堂以外に頼めそうな人もいないし、それに、香霖堂ならきっといい名前を付けてくれるって、そんな気がするのよ!」

「……買い被りすぎだ。僕に名付けの素質などないよ」


 子を生したことは勿論、ペットの類を飼ったこともない僕は、生命を宿したものに名前を付けたことがない。
 自分が創作した道具や拾ってきた物に名前を付けることは多々あったが、道具と生き物ではまるで話が違う。


「僕に頼んでもいい名前なんて――」

「私は、香霖堂に名付けてもらいたいの」

 僕の言葉を遮った少女の顔は、ここまでに見せたどの表情よりも真剣だった。
 大きな2つの瞳は僕の顔をしっかりと捉えて離さない。


(そんなに名前が欲しいのか……)

 それも無理はないのかもしれない。
 今まで自分の名前について深く考えたことがなかった分、一度気になってしまった以上名前に対する羨望が湧いて止まないのだろう。
 そして彼女がそうなってしまった責任の一端は、間違いなく僕にある。


「……本当に僕が決めてもいいのかい?」

「付けてくれるの!?」

 少女は喜びの余り、両手を卓袱台に勢いよく叩き付けて身を乗り出した。


「付けるとは言っていないが、名前を考えるぐらいならしてやろう。
 僕の考えた名が気に入らなければ、別に無理してその名を名乗る必要はない」

 名付けはしないが名は考えてやる、それが僕なりの妥協案であった。

 やはり他人に名前を付けるなど荷が重過ぎる。
 名前がその者の生き方に影響を与える以上、名前を付けるという行為には大きな責任が伴うのだ。
 とてもじゃないが、僕は彼女の今後の人生にまで責任を持つことはできない。

 なので、僕が考えた名前を名乗るかどうかは、彼女の判断に任せることにした。


「ん~、名前を考えてくれるんだったらそれでいいわ」

 少女も僕の出した案に納得してくれたようだ。
 これで妙な責任を負うことからは解放されたが、それでも名前については真剣に考えてやるべきだろう。


 しかし、名前ねえ……

 名は体を表すと先ほど言ったが、名付けにおいてはその逆も言える。
 そう……体は名を示す、とでも言ったところだろうか。

 黒猫に“クロ”、ピーピーと鳴く小鳥に“ピーちゃん”などと名付けるように、見た目やその他の特徴から名前を考え出す事例は多い。
 黒猫に“シロ”、ピーピーと鳴く小鳥に“ガーくん”などという全く関連性のない名前を付けてもしっくりくる筈がない。


(本が好きだから本に関する名前……いや、それだと今にも増して読書狂になる恐れがある。彼女は朱鷺の妖怪だし……)


「……朱鷺子」

 いやさすがにこれはない。
 お前は犬に犬助、猫に猫郎などという名前を付けるのか。
 いくらなんでも安直過ぎるし、これでは彼女も納得しな――


「それいいよ!」

「……えっ?」

 ――納得、してくれたようだった。



「朱鷺子……ときこかぁ……えへへっ」

「いやいや、本当にそんな名前でいいのか……?」

 正直、こっちの方から取り下げたいぐらいだ。
 彼女がその名を人前で名乗るたびに、森近霖之助はネーミングセンスのない人物だと主張しているようなものである。
 ネーミングセンスに関して、某吸血鬼と同列視されるのは御免だ。


「なあ、もっといい名前を考えるから、“朱鷺子”はやめにしないか?」

「えー、いいじゃない、朱鷺子っていう名前!」

「いやしかし――」

「私は好きよ、この名前。ありがとう香霖堂!」

 ――ああ、そんな笑顔でそんなことを言われたら、もう納得するしかないじゃないか。


「……分かったよ。君が気に入ったんならそれでいい。その代わり、後になってやっぱり嫌だとか言わないでくれよ」

「言わないよ~、っと」

 少女は早速自分の本に名前を書き始めた。
 横から少し覗いてみると、ちゃんと漢字で“朱鷺子”と書けている。字体はお世辞にも上手いとは言えないが。

 どこで字を覚えたのかは知らないが、文字が分からなければ本など読めるわけがないのだし、彼女が字を書けるのは当然といえば当然だった。
 名前も無かった妖怪とはいえ、少し軽く見すぎていたかもしれない。


 そうこうしている間に僕は朝食を食べ終え、それとほぼ同時に少女のほうも、3冊の本全てに名前を書き終わった。


「ごちそうさま、と。名前は書けたかい?」

「うん! ……それで、さ」

「うん? 何だい、食器の片付けでも手伝ってくれるのか?」

「それは手伝うけど、今はそうじゃなくって……えっと」

「?」


 少女は何かを言いたそうに、両手をもじもじとさせながら上目遣いで僕を見てくる。
 ああ、もしかして――


「もしかして、朝食が足りなかっ「そうじゃなくて!」

 顔を赤くして声を張り上げる少女。
 お腹が空いているのではないとすると、一体何が言いたいのか。


「すまないが、言いたいことがあるんならはっきり言ってくれないか」

「……言いたいんじゃなくて」

「何だって?」

「……だーかーら! 言いたいんじゃなくて、言って欲しいの!」

「? ……ああ」


 なるほど、“言いたい”じゃなく“言って欲しい”か。ようやく合点がいった。
 少女はその顔を朱色に染めながら、何かを期待するような眼差しで僕を見つめている。
 少々気恥ずかしいが、ここはその期待に応えてやるとしよう。


「理解が遅くてすまなかったね――朱鷺子」

「……ほんとにね。でも、しょうがないから許してあげる」

 台詞とは裏腹に、少女の……否、朱鷺子の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
























「悪いが、そこの鋏を取ってくれないか」

 朝食を食べ終えた僕は、昨日朱鷺子から受けた依頼――服の修繕作業に取り掛かっていた。
 取り掛かっていた……のだが。


「………………」

「聞こえなかったのか? そこの鋏を取ってくれ」

「………………」

「おーい、そこの鋏を……」

「………………」

「……朱鷺子」

「はーい、鋏よね? はい♪」

「……ありがとう」

 このようなやり取りを、かれこれ5回は繰り返している。
 「朱鷺子」と名前を呼んでやらない限り、何を言っても反応してくれないのだ。


「僕は君の服を作っているんだ、もう少し協力的になってくれてもいいだろう?」

「だってー、名前を言ってもらわないと私が声を掛けられたのかどうか分からないじゃない」

「今この場には僕と君の2人だけしかいないんだ。いちいち名前を呼ばなくとも、君に対して言っているんだと分かるだろう……」


 僕が考えた名前をこうも喜んでくれることはありがたいが、作業に支障が出るようでは困る。
 まあその内飽きるとは思うが……


「でも、本当に前の服みたいになるの?」

「ん、ああ、それについては心配しなくていい。裁縫の腕にはそれなりの自信があるからね」

「へー、じゃあ香霖堂に任せるわ」

「任されよう」

 朱鷺子が着ていた服はあまりにも損壊が激しすぎて、とてもではないが修復は不可能だった。
 そこで、以前拾ってきた服の中から朱鷺子が着ていた服と似たようなデザインのものを選び出し、それに手を加えて新しく服を作り直すことにした。

 背中の部分に翼を出すための穴を開け、サイズを微調整し、あとは彼女好みのデザインになるよう、細部や装飾などをアレンジしていく。

 本来服飾は専門ではないのだが、道具作りの一環としてそれなりの技能は学んでいる。
 昔から魔理沙や霊夢の服を縫い直してあげていたというのも大きく、気付けば自然と技術が身に付いていた。


「……そういえば、今日は本を読まないのか?」

 僕は服を縫い合わせながら、側らで寝そべっている朱鷺子に問いかけた。
 昨日はあれほど読書に熱中していたというのに、今日はなぜか本を読もうとさえしない。


「んー? 本ならいつでも読めるし、それに何だか今日は読書の気分じゃないのよ」

「気分、ねぇ……だからといって僕が服を仕立てるところを見ていて楽しいかい?」

 先ほどから朱鷺子は、寝転がったまま肘を畳の上につき、両手で顎を支えながらこちらを眺めてばかりいる。
 視線が気になって作業に集中できないとまでは言わないが、全く気にならないのかと言われれば嘘になる。


「あまり見つめられていると気になってしまうんだが……」

「気にしなくていいわよ、ただ見てるだけだから」

「それが気になると言ってるんだ……はあ、まあいいが、邪魔だけはしないでくれよ」

 これ以上言っても無駄だろうと感じた僕は、朱鷺子の視線を受け流しながら作業を続けることにした。
 朱鷺子は相も変わらず楽しそうな様子で、僕の手元を注視している。
 僕が裁縫をする姿を観察して何が楽しいというのだろうか? 或いは単に物珍しいから眺めているだけかもしれない。



「♪~」


 気付けば朱鷺子は鼻歌を歌い始めていた。
 畳に寝そべったまま膝から先をバタバタとさせる姿は、正に上機嫌のそれである。

 いつしか朱鷺子の視線も気にならなくなり、今では彼女が奏でる軽やかなメロディに耳を傾けてさえいた。
 彼女の歌声は何だかやけに心地よく、それを聴いていると作業が捗るような気がしてくるから不思議である。

 歌といえば屋台を営む夜雀のことを思い出すが、朱鷺子も同じ鳥なだけあってかとても綺麗な歌声をしていた。
 確か朱鷺の鳴き声は非常に濁っていて、お世辞にも綺麗な声とは言えなかったはずなのだが……

 そう考えたとき、表の方から僕の名を呼ぶ声がした。


 「お~い、香霖」


 あの声は魔理沙か。また冷やかしにでもやってきたのだろうか。

 作業中だった僕は店の方まで出て行くのが億劫に感じられたが、呼ばれている以上無視を決め込むわけにもいくまい。

 そう思って針と糸を一旦置き、立ち上がろうとしたのだが、そこで朱鷺子の様子がおかしいことに気付いた。
 見れば、今の今まで愉しげだったその顔は、どことなく青褪めてしまっているように見える。


「い、今の声って昨日の黒いのじゃあ……」

「ああ、魔理沙の声だろうね。それがどうかし……朱鷺子?」

「どどどどうしよう!? また本を奪いに来たんだわ!」

「いや、それはないと思うが……」

 そもそも魔理沙は例の本に興味を抱いてなどいなかった。
 朱鷺子を弾幕ごっこで撃退したのは、霊夢に頼まれたからである。(本人も楽しんでいた節はあるが)
 だが、魔理沙と霊夢のことがトラウマになっている朱鷺子の中では、魔理沙の来訪=本を奪いにきたという公式が成り立ってしまっているのだろう。


「か、隠れなきゃ!」

 朱鷺子は腹這いの姿勢から跳ね起きると、急いで部屋にある箪笥の陰に身を隠した。
 魔理沙が本を奪いにきたと言うのなら、まずは自分の身よりも先に本を隠さなければならないはずだが、そこまで頭が回らないほど怯えてしまっているらしい。


「おーい、いるんだろー?」


 その間にも、魔理沙は僕のことを呼び続けている。
 このまま放っておいたら、痺れを切らして勝手に上がり込んでくるだろう。
 もしそうなったら朱鷺子はすぐに見つかってしまう。


「…………っ!」

 朱鷺子の緊張する様子が、こちらにもひしひしと伝わってくる。
 箪笥の陰から若干はみ出た体は、僅かではあるが震えてさえいる。


「……やれやれ」

 すっかり萎縮してしまった朱鷺子の姿を見やると、僕はその重い腰を上げ、店先へと向かった。


「お~い、出てこないんなら勝手に入るぞ~?」

「――そう呼ばなくても聞こえているよ。で、何の用だい?」

「いるならいるで返事しろよな。別に、暇だったから来てやっただけさ」


 どうせそんなことだろうとは思っていた。
 魔理沙がここに来る理由の7割は、冷やかしか暇潰しなのだ。
 ちなみにそれ以外の理由は、八卦炉の調整(勿論ツケで)だったり、面白そうな道具を見つけて持っていくためだったり……ただの冷やかしの方がマシかもしれない。


「冷やかしなら止してくれといつも言ってるはずだが」

「冷やかしじゃない、暇潰しだぜ」

 どこが違うんだと言うより先に、魔理沙は僕の脇を通り抜けて居間へと向かう。
 その居間に朱鷺子が隠れているとも知らずに、だ。


「……………っ!」

 朱鷺子が息を呑む様子がここまで伝わってくるような気がした。
 魔理沙は靴を脱ぎ、今にも畳に上がろうとしている。


「よっと。ん? 何だあの服、誰かに服の仕立てでも頼まれ――」

「魔理沙」

 気付いたときには、僕は魔理沙を呼び止めていた。


「? 何だよ香霖」

 僕の声音が幾分硬くなっていることに気付いたのか、魔理沙は怪訝そうな顔をして振り返った。


「今は少し忙しくてね、すまないが、今日のところは帰ってくれないか」

 できるだけ優しく言おうとしたつもりなのだが、冷たい言い方になっていやしないかと心配になる。
 特に目的もなく店を訪れ、お茶と菓子を消費しながらのんびりと過ごし、そのまま何も買わずに帰っていく――こんなのは今まで何度も繰り返してきたことだ。
 それを今更、用がないからといって無理やり帰らせる必要はないはずである。

 だというのに、僕は一体何を言っているのだろう。


「……何だよ、私が暇潰しにきたのがそんなに嫌か?」

 僕の言葉を受けて、魔理沙は不機嫌そうな顔でそう返した。


「嫌だなんて言っていないさ。君たちが暇潰しにくるのは今に始まったことじゃないだろう?
 ただ単に、今日は本当に忙しいから1人にさせてくれないかと言ってるだけさ」

「……まあ、別にいいけどよ」

 声や態度は未だに不満そうではあるが、何とか納得してくれたようだ。
 居間に上がりかけていた体を戻し、靴を履き直して店の出口へと向かう。


「その代わり、次来たときはサービスしろよ?」

「君には常にサービスしているつもりだよ。ツケという形でね」

「それとはまた別に、何かおまけしろってことだ。じゃあな!」

 そう言い残し、魔理沙はドアから出て行った。


「まったく、これ以上何をおまけしろって言うんだ」

 口では悪態をつきながらも、頭の中では何をおまけしてやろうかということを、早速考えていた。
 自分で言うのも何だが、本当に僕は甘いなと思う。
 こんなことだから、霊夢や魔理沙に好き勝手されてしまうのだろう。


「っと、もういいよ、朱鷺子」

 そういえば朱鷺子が隠れていたのだと思い出し、もう大丈夫だということを伝えてやる。


「……行った?」

 僕の声を聞き、恐る恐るといった様子で奥から姿を現す朱鷺子。
 既に魔理沙は帰ったというのに、用心深く辺りを窺っている。


「そう心配しなくても、もう大丈夫だ。というかそもそも、魔理沙は本を奪いにきた訳じゃないよ」

「でも、昨日は本を取り返すのを邪魔してきたわ。きっとあの本を狙ってるからよ!」

「いや、別に魔理沙は本を欲しがってなどいなかったが……」

「じゃあ何で私の邪魔をしたの?」

「あー……それは霊夢に頼まれたからだよ」

「霊夢って……あの赤いのね!」

「そうそう、あの赤いのだ。だから魔理沙には悪気があった訳じゃないんだ」

 説明するのが面倒になった僕は、とりあえず霊夢を黒幕に仕立て上げることにした。あながち間違いでもあるまい。


「やっぱりあの赤いのが元凶だったのね……」

 朱鷺子の中で霊夢に対する評価が、最悪から極悪へと引き下がったようだった。
 どちらにせよ低いことに変わりはないが、一応心の中で霊夢に謝っておく。


「だから、次からは魔理沙を警戒する必要はない」

「……香霖堂がそう言うんなら、信じてあげるわ」

 ひとまずこの場は納得してくれたようだ。
 次があるかどうかは分からないが、またいちいち魔理沙を追い返すのも面倒だし、何より少し心が痛む。


「さて、作業の続きをするとしよう」

「……ねえ」

 居間に戻ろうとした僕の背中に、朱鷺子の声が掛けられる
 振り返ると、朱鷺子は若干俯き加減になりながら、何かを言いたそうにしていた。
 中々喋り出そうとしないのを怪訝に思い、先を促すために声を掛けようとしたところで朱鷺子が口を開く。


「どうして……どうして黒いのを追い払ってくれたの?」

「……君があまりにも怯えているようだったからね。魔理沙と鉢合わせになるのは可哀想だと思ったから、かな」

 君のために魔理沙を追い返してやったなどと恩着せがましくするつもりはないが、それでもあの時、朱鷺子のためを思って魔理沙を帰らせたのは事実である。
 別に彼女を匿ってやる義理などないはずなのに、だ。

 その事実が何だか自分でも納得のいかなかった僕は、それらしい理由を後付けする。


「それに、魔理沙は冷やかしに来ただけだったしね。客として来たのなら追い返したりはしなかったさ」

 きっとそうだろう、そうだと思う。自分でもはっきりとは言い切れないが。

 というか魔理沙が客としてやって来ることなど滅多にあるまい。


「もういいかい? 僕は作業に戻るが、君はどうする?」

「私は……そろそろ本の続きでも読むことにするわ」

「そうかい?」

 僕の口から出たのは『そうか』という納得の言葉ではなく、『そうかい?』という確認の言葉だった。
 まるで、彼女が本を読むことを――すなわち、先刻のように側らでこちらを眺めていてはくれないことを、惜しむかのように。


(……やれやれ、何を考えているんだか)

 僕は突如湧いて出た思考に頭を掻きつつ、作りかけにしてある服の元へと戻る。

 その途中、後ろから「……ありがとう」という小さな声が聞こえたような気がした。






















「よし、これで完成だ」

 空が夕焼けに染まる頃、ようやく朱鷺子の服が完成した。
 単純に仕立てるだけならもっと早く出来たのだろうが、途中で何回もデザインを練り直していたため、予想以上に時間が掛かってしまった。
 もしかしなくても、僕は凝り性というやつなのだろう。


「できたの?」

 離れたところで本を読んでいた朱鷺子が、僕の声に気付いてやって来た。


「ああ、これが完成品だ」

「わぁあ……!」

 朱鷺子は出来上がった服を見て、その瞳を星のように輝かせた。
 その顔が見られただけで、何だかとても誇らしい気分になる。

 だが、まだ仕事は終わっていない。
 この服には様々な加工が施しておいた。それらを事細かに説明するまでが商人としての仕事だ。


「いいかい、まずこの背中の部分だが――」

「すごい、すごいわ! 香霖堂!」

「あ、ああ、気に入ってくれて何よりだ。それで、この背中の部――」

「こんな可愛い服を見るの初めてよ! わぁ~、これが私の服……えへへ」

「……まあいいか」

 本当は僕の説明を聞いてもらって、見た目だけでなく機能の方にも注目して欲しかったのだが……

 まぁ彼女も満足してくれたようだし、説明はまた彼女が落ち着いてからすればいいだろう。
 喜びのあまり小躍りする朱鷺子の姿を見て、僕はそう思った。
















「どう? 似合う?」

「ああ、とても良く似合っているよ」

「へへっ、ありがとう!」

 早速服を着替えた朱鷺子は、僕の前で嬉しそうにクルッと一回転してみせた。
 そうすることで白いフリルのついたスカートがふわりと翻る。
 その様が朱色の翼と合わさって、まるで宙を舞う紅白の花びらのように見えた。


「さて、服が完成したところで……もうこんな時間だ。今日こそは暗くなる前に帰った方がいいだろう」

「えっ、あ……うん、そうよね」

 文字通り舞い上がるほど喜んでいた朱鷺子は、僕の言葉にピタリと動きを止めた。


「? どうしたんだ?」

「えっと、その……今はまだ日が出てるけど、あと1時間もしたら暗くなっちゃうし、無理して帰ろうとしない方がいいかなー、って」

 帰る途中で日が沈んでしまうことを懸念しているのか。
 しかし、いくら日が沈むのが早い時季とはいえ、1時間もあれば十分家には辿り着けるだろう。

 昨日は霊夢と魔理沙にこっ酷くやられた上、慣れない場所で寝泊りして精神的な疲れがだいぶ溜まっているはずだ。
 今夜ぐらいは落ち着ける我が家でゆっくりと休息した方が、彼女にとってもいいだろう。


「なに、三里程度の距離なら空を飛んでいけばあっという間だよ」

「そ、そうかな……けど」

 やけに食い下がろうとする朱鷺子。
 まだ他に何か気がかりなことがあるのだろうか。


「ひょっとして、服の代金のことを気にしてるのか? それならまた今度払ってくれればいいさ。
 どちらにせよ、家に帰らなければ代金を取ってこれないだろう? それにあまり長いこと家を留守にしていると泥棒に入られ――」

「……分かったわよ。今すぐ帰るわ、帰ればいいんでしょ。ふん!」

 朱鷺子は口を尖らせながら、拗ねるようにそう言った。
 ついさっきまではあんなにご機嫌だったというのに、一体どうしたのだろう。

 僕の疑問も余所に、朱鷺子はご機嫌斜めのまま何も持たずに店を出て行こうとする。


「あ、おい! 本を持って帰らなくてもいいのか?」

「どーせまたここに来るんだし、私が持ち運ぶよりもここに置いておいた方が安全でしょ?」

「それはそうかもしれないが……」

「ふん、それじゃあ私は帰るわよ……一晩世話になったわね、ありがと」

 ぶっきらぼうな喋り方ではあったが、最後にはしっかりと心の篭った礼を述べた。
 なぜ機嫌を損ねてしまったのかは分からないが、どうやら本気で怒っているわけではないらしい。
 出会ってからそこまで時間が経っていないとはいえ、親しくなった相手と険悪な雰囲気のまま別れるのはさすがに嫌である。
 そのため僕は、彼女が本気で怒ってはいないと分かり柄にも無くほっとしていた。


「どう致しまして。まぁ、その、なんだ……気をつけてお帰り」

「……うん、それじゃあまた明日、香霖堂!」

 朱鷺子は最後に明るく言い放つと、ドアをくぐって帰っていった。

 最後に香霖堂と言ったときの彼女の顔は、間違いなく笑顔だった。どうやら機嫌は直してくれたらしい。
 愉しそうにはしゃいだり、かと思ったら急に不機嫌になったり、やはり子供心を理解するのは難しい。


(それにしても、『また明日』か……)


「……そう連日押し掛けられても困るんだがな」

 思わずそんな独り言がぽつりと漏れる。
 だが、内心そこまで嫌に思っていない自分に気付く僕なのであった。
起承転結の“承”にあたるお話ということで、極々普通のエピソードとなっております

次回は“転”なので、少し展開が変わる予定です
できるだけ近い内に上げたいと思っています

読了ありがとうございました
(誤字等ありましたらご報告して頂けると幸いです)
葉巻
http://hamakiippukudokoro.blog87.fc2.com/
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コメント



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朱鷺子いいですねー
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とっきゅんはいいものだ…
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朱鷺子可愛いよ!!
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朱鷺ぃぃぃぃぃいいいい!
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朱鷺子かわいいよ朱鷺子
次も期待してます!
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朱鷺子かわゆすぎる!
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これはいい朱鷺子
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引き込まれました。
次作も待ってます。
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朱鷺霖…素晴らしい響きだ…
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次は暗転してしまうんだろうか……
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良いコンビで和みました。
続編、期待してます。
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やっべ、ニヤニヤが止まらなくなったw