卯の刻。起きて伸びを一つ。
いつもの服に着替えたなら、幽々子様の朝食の仕込みをして、この季節なら日々舞い散る桜の花びらの掃除を行う。
幽々子様と過ごすそんな日常も大好きだが、特別な日だって大好きだ。
無論、この日もいつも通りに白玉楼の庭で箒を手に、淡い桃色の花を集めていた。
「ふんふふんふふ~ん。今日は私の~」
「妖夢」
上機嫌に鼻歌なんて歌っていると、突然後ろから寝間着姿の幽々子様に声を掛けられた。
ベタなシチュエーションに、ベタに箒をアワアワさせてしまったこの恥ずかしさといったら…。
「おはようございます。幽々子様」
って今日は本当に『お早い』起床ですね。なんて言おうとして口を開くも、それは一端仕舞っておき、別の問いを投げかける。
「どうかしたんですか?」
その時の幽々子様の顔がどことなく、困惑しているように見えたからだ。
「それがねぇ…ちょっと困ったことになったのよ……」
幽々子様の言葉は字面だけを見れば確かに困っていたものだったが、声を含めて判断すると、それは穏やかな『困った』だった。
「え…と、どうされたんです?」
嫌な予感がする。異変などの大それたことならまだ不安は無いが、中途半端な困りごとは一番苦手だ。困惑が私にも伝染してきた。
「それがねぇ……」
幽々子様の言ったことをまとめて言うとこうだ。
幽々子様のご友人である八雲紫様とその式、八雲藍が喧嘩をし、その結果、今日一日八雲藍が白玉楼で、代わりに私が八雲家にて行くことになった、と。
「庭の掃除は紫の式が来てくれてからやってくれると思うから、妖夢も早めに支度して紫の所へ行って頂戴」
日常も、特別な日だって大好きだ。でもそれは幽々子様と一緒だからこそなのに…。
朝から憂鬱な気持ちになると同時に、ほんの少しだけ八雲家を恨めしく思いつつも掃除を切り上げ、白玉楼をあとにする支度にとりかかる。
「妖夢っ。白玉楼庭師の実力見せ付けてきなさいっ!!」
朝食を済ませ、幽々子様に見送られる。
幽々子様はこの事態をどう思っているのだろうか?さっきは困った顔をしていたが、今や笑顔で手を振っている。
はい!と声を張り上げてみても心までは切り替えられなかった。
白玉楼を出てから半刻が過ぎようとしていた頃、やっとのことで八雲家へと到着した。
「失礼します。白玉楼から参りました魂魄妖夢です」
白玉楼のような屋敷とは違い、見た目はただの日本家屋のような八雲家の玄関に立ち、中の住人を呼んでみたが、返事は無い。
もしかして、寝ている?と不安な気持ちが浮かび、もう一度呼んでみようとした時、中から私に入るように言う声が聞こえた。
「失礼します」
玄関の引き戸に手をかけ中に入るが、そこに紫様の姿は無い。
「紫様ー?」
「あぁはいはい。どうぞ靴を脱いでお上がりなさいな」
やっと姿を見せた紫様が出てきたのは、廊下の突き当たりの部屋で、居間ではなかった。
その部屋の扉を完全に閉め切って、私を居間へと招く。
「まぁ寛いでお座りなさいな。今お茶と、お茶受けくらいは用意するわ」
「い!いえ!!お気遣いなく。それにお茶の用意なら私が…」
「良いから。座っていらして?」
有無を言わさず、ちゃぶ台の前に座らせられると紫様は先程の部屋の中へと消えて行った。紫様の言葉は私にあまり家の内部をうろつかれないようにしているようにも感じ取れた。
「夜雀の作った和菓子は知っているかしら?裏メニューらしいのだけれど」
二人分の煎茶と一人分の茶菓子を机の上に置き、紫様は喋りはじめた。
「えぇ、『和菓子のミスティ屋』ですよね。私は久しく食べてないのですが……もしかしてこれは?」
「えぇ、ミスティ屋の羊羹よ。どうぞ、召し上がれ」
茶菓子を食べようという本能が私の手を運ぶが…。
待て、一端冷静になろう、私。
確かに今日は少々不本意ながら八雲家に仕えることになった。これで、その分をチャラとしようじゃないか。
いやいや、よく見なさいよ、私。私の目の前に羊羹はどれほどある?そう、一人分だ。たった一日と言えど、八雲家に仕えるものが主を差し置いて菓子を頂くことなど出来るだろうか?否出来ない。
「どうしたの?私もミスティ屋の羊羹は食べたこともあるし、食べていいのよ?」
お茶をすすりながら紫様の放つ一言に、私の心は加速度的に『食べる』に傾く。
では……。そう言いかけて、私の脳がもう一度思案を巡らす。
「私は『食べたことがある』から」
そう目の前の紫様は言った。これはどうだろうか?もしもごく最近食べたのなら『この前食べた』というものではないだろうか?つまり食べたのはもっと以前の事であり、少なくともここ暫くは食べていない、ということになる。これをやはり従者である私が食べるのは…。
もう一度紫様に目を向ける。紫様と目が合う。その目は今の私の様子を見て楽しんでいるようにも見えた。
そういうことか…。私の葛藤を見て楽しむのはもう終わりですよ!
これはもう…食べるしかない!
「では……」
私は膝の上に置いた手を羊羹の乗った皿に手を差し出す刹那。
『妖夢っ。白玉楼庭師の実力見せ付けてきなさいっ!!』
私の頭の中で木霊したのは、私を見送る際の幽々子様の声だった。
「どうぞ?」
悪戯っぽい笑みを見せる紫様をもう一度だけ見つめ、差し出された煎茶だけを引き寄せる。
「…その羊羹は紫様が召し上がってください」
紫様は一瞬呆気にとられていたようだが、私の言葉を聞いて、羊羹を自らの方へと引き寄せる。
勝った!
見えない敵との死闘の結果に満足し、私はひそかに拳を握りしめていた。
「いらなかったの?久しく食べていないんでしょう?」
羊羹の最後の一口を呑みこみ、紫様が問う。
「はい、大丈夫です。それに実はミスティ屋の羊羹を白玉楼に一つだけ隠してあるんですよ」
二日前ほどに幽々子様に買ってくように言われた際に、店主であるミスティアが一つおまけしてくれたのだった。
「へぇ?でも白玉楼には幽々子がいるでしょう?それじゃあ…」
「大丈夫ですよ。絶対に幽々子様の触らない場所に隠してありますから。もともと今日の夜中に一人で食べようと思っていたので…」
「あら、いけない従者だこと」
「従者にもヒミツくらいありますよ…ってそういえば、不躾な質問ですが、紫様と藍様はどうなさったんですか?もし私に出来ることがあるなら…」
藍さんとの話題になると、不意を突かれたように紫様は視線を右上へと逸らした。
「あぁ~~。まぁ大したことじゃないから大丈夫よ」
「そうですか…」
私が訝しむように視線を寄越すと
「それより!妖夢のさっき言った『幽々子の絶対触らない場所』ってどうせ調理場だとかでしょう?多分藍が今日そこを使うんじゃない?」
「そうなんですけど…藍様でしたらそこは隠してくれるのではないかと思ってます。ちゃんと箱には『みょん』と書いてますし…」
「あらそうなの…」
この時も紫様は一瞬だけ笑みを零したようだがそれは次の瞬間には消えていた。
「それよりも私はこれから何をすればいいですか?特にないのならまず掃除から始めたいと思いますが…」
雑談もそろそろ切り上げ、本日の段取りへと話題は進む。
「いいえ、掃除や食事の用意は既に藍が済ましているからあなたはゆっくりしていて良いわよ?もし何かあれば私の方から声を掛けるわ」
「え?でも…」
「ただし!さっきの私の部屋には絶対に入らないこと!!何があったとしても、よ?」
紫様はきっちりと閉められた部屋を指差しながら念を押す。
「私はあの部屋で寝ているから絶対に入らないで頂戴。おわかり頂けたかしら?」
再び有無を言わさぬ圧力で、私はただ頷くことしかできなかった。
「とは言ったものの、何もしないのが逆に辛いんだよなぁ…」
八雲家に着いて既に二刻程経過した。紫様は昼食に一回顔を出して以降、またしても自身の部屋へと引きこもってしまった。
これだったら私がいなくてもいいんじゃないか?
なんて何度思ったことか。話相手なら橙でも良かったんではないのか…?
考えれば考える程に溜め息が漏れてくる。
それが起こったのは未の刻辺りだった。
その時の私は庭で剣の素振りをしていた。
「何?この匂い?」
強烈な焦げ臭い匂いが鼻を突く。
急いで台所へと向かうが、そこには誰がいることもなく、この匂いの発生源はここでは無いようだ。
となると
「紫様!?」
開かずの間となっているその扉を思い切り、叩く。
中からは慌てふためく声が聞こえているがどうも紫様以外にも誰かがいるようだ。
「…入りますよ……!」
鞘に納められている刀に手を掛け、居合いの構えをとる。
呼吸を落ち着かせ、思い切り刃を抜く――。
つもりが右手を誰かに抑えられているのに気付く。
「ここには何があっても入るな、と言ったと思ったけど?」
いつの間にか紫様が背後に立ち、スキマに右手だけを突っ込んでいる。
私の右手を見てみるとスキマから伸びたシルクの長手袋が私の右手首を強く掴み、動きを制していた。
「あ、紫様…」
「従者としてはまだまだ未熟なようね?主の命令をこんなにもすぐ忘れてしまうのならね……」
「あ……」
肩を落とす私を見て
「でも、ま、仮であっても、主を思う気持ちは充分合格かしら」
と言ってくれた紫様にちょっとだけ、ときめきそうになったのは内緒だ。
それからまた紫様は自室に入り出てこなくなったが、夕暮れ、酉の刻の頃には私に帰り支度をして白玉楼へ戻るように言った。
散々な一日だったとしょぼくれながら白玉楼へと家路を急ぐ。
「ただいま戻りました」
私の言葉は広い白玉楼の虚空へと溶けて消えた。
異様な静けさに私も息を殺して中へと入る。
気配までも殺し、ふすまの前に立ち、そっと左手を掛けゆっくりと開ける。右手はずっと刀の柄を握りしめたままだ。中に誰もいないことを確認した時の安堵で一瞬だけ気が緩んでしまうが、すぐにまた次の部屋に入るために気を引き締めることの繰り返し。
幽々子様の部屋や私の部屋も確認したが誰の気配も感じ取ることが出来ない。
次の客間のふすまへと手を掛けると今までより一層気を引き締める。
『いる』
ふすまの向こうに微かな気配を感じ、右手にも力が入る。
今回はふすまを思い切り開け、中へと突入する。あからさまに幽々子様とは違う陰に向け鞘から鈍く光る刃を引き抜く。
しかし、抜刀の途中でそれは遮られる。
「ついさっきと同じように止められてるわよ?」
声の主を特定すると同時に、パァンと乾いた何かが破裂する音が響く。
「おめでと~~~」
暗闇から聞きなれた私の主の声が聞こえてきた。
そして部屋に明かりが灯され、私の目に入りこんできたものは
『妖夢いつもお疲れ様!!今日はゆっくり楽しんでいってね!!』
と書かれた垂れ幕だった。
今まで緊張で視覚と聴覚ばかりに気を取られていたが、そいえばどこから甘い香りが漂っている。
「ほら、いい加減刀から手を離しなさい。そして藍。あなたはさっきの『くらっかー』とやらの掃除をして頂戴」
「あ、はい…」
唖然とする私に紫様が今日の出来ごとについて説明し出した。
つまるところ、藍さんとの喧嘩はこの宴会の準備に私を白玉楼から引き離すための嘘だったということだ。
「ってこの料理は幽々子様が作ったんですか!?」
ネタばらしが済んだ後、客間の机の上に次々と料理が運ばれてくる。
こんなに料理を作っていたなんて……。しかも私の為に…?
「いやぁ…最初は幽々子様が全て作られる予定だったんですけど、予想以上に苦戦されてまして、結果的に幽々子様が作ったのは一品のみとなります……」
あはは、と藍さんが笑いながら説明する。
「あ、そうなんですか…でも、今日が私の白玉楼に仕え始めた日なんてよく覚えていましたね……」
「それは主としての当然の務めでしょうに」
「去年は覚えていらっしゃらなかったじゃないですか……」
胸を張っていた幽々子様がちょっとだけしょげたのを見て、慌てて付け加える。
「でも、今年はこんな豪華にお祝いさせて頂いて嬉しいです!!」
「さぁそろそろ宴を始めましょうか!!」
料理が大体運ばれたのを確認し、幽々子様の声を合図に私達は四人で食べ始めた。
「でも、今日は本当に疲れたわ…。スキマでとはいえ、家と白玉楼を行ったり来たりなんて…」
「まだ紫様は良いですよ。私はこの準備に色々奔走することになりましたから…」
「って私だって料理作るの大変だったんだから!結果的に一品が限界だっただけでずっと料理してたのよ!!」
私の知らないところでこんなことが行われていたと思うと、今朝の八雲家を恨めしく感じた気持ちが胸を締め付けると同時に皆さんへの感謝が溢れてくる。
「…その料理の指南役も大変でしたけどね」藍さんが私にこっそり耳打ちしてきたのを聞いて私は、つい苦笑する。
「特に一回ボヤほどまでの事故が起きて…紫様も来て三人で消火活動したんですよ」
あぁ、あの時の焦げ臭いのはスキマを通じて八雲家まで来た匂いだったのか。
「それよりも妖夢!どれが私の作った料理か分かった?」
「あ、ちょっと待ってください」
ふむ。今日の料理は、筍ご飯、ハマグリのお吸い物、鯛のお造り、エトセトラ…どれもおいしかったけど…。
幽々子様の目を見てみる。幽々子様も真っ直ぐに私を見ている。
ふっ、と私は笑みが自然に零れてくるのを感じた。
藍さんと紫様の視線が私と幽々子様を交互する。
「幽々子様。この中に幽々子様の作った御料理はありませんね?どれもおいしかったですけど、幽々子様のでは無いと思います」
「……あらぁ~~~やっぱり分かっちゃうものかしら?」
「幽々子様のことなら一発ですよ」
この時の私は最高に『どや?』という顔をしていたに違いない。
でもこの時の誇らしさを顔に出すな、と言うのはあまりに酷な事だと思う。
「んじゃあそろそろ私の作った料理を持ってくるわね~~」
幽々子様がそういって台所へと姿を消す。
今日はもしかしたら最高の一日なのかもしれない。なんて思っていると、幽々子様が台所から戻ってきた。
手に持っているのはきれいな色をした羊羹だった。
ん?羊羹?
「さっき妖夢が食べたやつには敵わないかもしれないけど……」
「え?えと?」
「私はこっちへ来るときに紫様のスキマで移動したから一瞬で着いたので、さっそく調理場に立つと、たまたまミスティ屋の羊羹を発見したので……」
「本当は私が食べようとも思ったんだけど、紫に『妖夢に出してやって』って言ったのだけど……?」
首の骨がギリギリと音を立てて紫様の方を向く。
当のスキマ妖怪は扇子で顔を隠し笑いを堪え震えていた。
「あらぁ?妖夢食べなかったの?」
「え!?って紫様!?何してんです?ご自分で食べないで妖夢さんに…」
「でも、妖夢が『食べてください』と……」
「あぁーーーー!!!」
私は荒ぶる感情を抑え込もうと机に突っ伏す。なんかもうここまで来ると泣けてきた…。
「妖夢。ほら顔をあげなさい」
幽々子様の声で顔を上げる。
幽々子様が羊羹に楊枝を刺してこちらへと差し出す。
反則的なまでの満面の笑みで口を大きく開けている。
「ほら、あ~~~~~ん」
ま、良いか……今回はこの幸せを味わうことが出来たことだし。
いつもの服に着替えたなら、幽々子様の朝食の仕込みをして、この季節なら日々舞い散る桜の花びらの掃除を行う。
幽々子様と過ごすそんな日常も大好きだが、特別な日だって大好きだ。
無論、この日もいつも通りに白玉楼の庭で箒を手に、淡い桃色の花を集めていた。
「ふんふふんふふ~ん。今日は私の~」
「妖夢」
上機嫌に鼻歌なんて歌っていると、突然後ろから寝間着姿の幽々子様に声を掛けられた。
ベタなシチュエーションに、ベタに箒をアワアワさせてしまったこの恥ずかしさといったら…。
「おはようございます。幽々子様」
って今日は本当に『お早い』起床ですね。なんて言おうとして口を開くも、それは一端仕舞っておき、別の問いを投げかける。
「どうかしたんですか?」
その時の幽々子様の顔がどことなく、困惑しているように見えたからだ。
「それがねぇ…ちょっと困ったことになったのよ……」
幽々子様の言葉は字面だけを見れば確かに困っていたものだったが、声を含めて判断すると、それは穏やかな『困った』だった。
「え…と、どうされたんです?」
嫌な予感がする。異変などの大それたことならまだ不安は無いが、中途半端な困りごとは一番苦手だ。困惑が私にも伝染してきた。
「それがねぇ……」
幽々子様の言ったことをまとめて言うとこうだ。
幽々子様のご友人である八雲紫様とその式、八雲藍が喧嘩をし、その結果、今日一日八雲藍が白玉楼で、代わりに私が八雲家にて行くことになった、と。
「庭の掃除は紫の式が来てくれてからやってくれると思うから、妖夢も早めに支度して紫の所へ行って頂戴」
日常も、特別な日だって大好きだ。でもそれは幽々子様と一緒だからこそなのに…。
朝から憂鬱な気持ちになると同時に、ほんの少しだけ八雲家を恨めしく思いつつも掃除を切り上げ、白玉楼をあとにする支度にとりかかる。
「妖夢っ。白玉楼庭師の実力見せ付けてきなさいっ!!」
朝食を済ませ、幽々子様に見送られる。
幽々子様はこの事態をどう思っているのだろうか?さっきは困った顔をしていたが、今や笑顔で手を振っている。
はい!と声を張り上げてみても心までは切り替えられなかった。
白玉楼を出てから半刻が過ぎようとしていた頃、やっとのことで八雲家へと到着した。
「失礼します。白玉楼から参りました魂魄妖夢です」
白玉楼のような屋敷とは違い、見た目はただの日本家屋のような八雲家の玄関に立ち、中の住人を呼んでみたが、返事は無い。
もしかして、寝ている?と不安な気持ちが浮かび、もう一度呼んでみようとした時、中から私に入るように言う声が聞こえた。
「失礼します」
玄関の引き戸に手をかけ中に入るが、そこに紫様の姿は無い。
「紫様ー?」
「あぁはいはい。どうぞ靴を脱いでお上がりなさいな」
やっと姿を見せた紫様が出てきたのは、廊下の突き当たりの部屋で、居間ではなかった。
その部屋の扉を完全に閉め切って、私を居間へと招く。
「まぁ寛いでお座りなさいな。今お茶と、お茶受けくらいは用意するわ」
「い!いえ!!お気遣いなく。それにお茶の用意なら私が…」
「良いから。座っていらして?」
有無を言わさず、ちゃぶ台の前に座らせられると紫様は先程の部屋の中へと消えて行った。紫様の言葉は私にあまり家の内部をうろつかれないようにしているようにも感じ取れた。
「夜雀の作った和菓子は知っているかしら?裏メニューらしいのだけれど」
二人分の煎茶と一人分の茶菓子を机の上に置き、紫様は喋りはじめた。
「えぇ、『和菓子のミスティ屋』ですよね。私は久しく食べてないのですが……もしかしてこれは?」
「えぇ、ミスティ屋の羊羹よ。どうぞ、召し上がれ」
茶菓子を食べようという本能が私の手を運ぶが…。
待て、一端冷静になろう、私。
確かに今日は少々不本意ながら八雲家に仕えることになった。これで、その分をチャラとしようじゃないか。
いやいや、よく見なさいよ、私。私の目の前に羊羹はどれほどある?そう、一人分だ。たった一日と言えど、八雲家に仕えるものが主を差し置いて菓子を頂くことなど出来るだろうか?否出来ない。
「どうしたの?私もミスティ屋の羊羹は食べたこともあるし、食べていいのよ?」
お茶をすすりながら紫様の放つ一言に、私の心は加速度的に『食べる』に傾く。
では……。そう言いかけて、私の脳がもう一度思案を巡らす。
「私は『食べたことがある』から」
そう目の前の紫様は言った。これはどうだろうか?もしもごく最近食べたのなら『この前食べた』というものではないだろうか?つまり食べたのはもっと以前の事であり、少なくともここ暫くは食べていない、ということになる。これをやはり従者である私が食べるのは…。
もう一度紫様に目を向ける。紫様と目が合う。その目は今の私の様子を見て楽しんでいるようにも見えた。
そういうことか…。私の葛藤を見て楽しむのはもう終わりですよ!
これはもう…食べるしかない!
「では……」
私は膝の上に置いた手を羊羹の乗った皿に手を差し出す刹那。
『妖夢っ。白玉楼庭師の実力見せ付けてきなさいっ!!』
私の頭の中で木霊したのは、私を見送る際の幽々子様の声だった。
「どうぞ?」
悪戯っぽい笑みを見せる紫様をもう一度だけ見つめ、差し出された煎茶だけを引き寄せる。
「…その羊羹は紫様が召し上がってください」
紫様は一瞬呆気にとられていたようだが、私の言葉を聞いて、羊羹を自らの方へと引き寄せる。
勝った!
見えない敵との死闘の結果に満足し、私はひそかに拳を握りしめていた。
「いらなかったの?久しく食べていないんでしょう?」
羊羹の最後の一口を呑みこみ、紫様が問う。
「はい、大丈夫です。それに実はミスティ屋の羊羹を白玉楼に一つだけ隠してあるんですよ」
二日前ほどに幽々子様に買ってくように言われた際に、店主であるミスティアが一つおまけしてくれたのだった。
「へぇ?でも白玉楼には幽々子がいるでしょう?それじゃあ…」
「大丈夫ですよ。絶対に幽々子様の触らない場所に隠してありますから。もともと今日の夜中に一人で食べようと思っていたので…」
「あら、いけない従者だこと」
「従者にもヒミツくらいありますよ…ってそういえば、不躾な質問ですが、紫様と藍様はどうなさったんですか?もし私に出来ることがあるなら…」
藍さんとの話題になると、不意を突かれたように紫様は視線を右上へと逸らした。
「あぁ~~。まぁ大したことじゃないから大丈夫よ」
「そうですか…」
私が訝しむように視線を寄越すと
「それより!妖夢のさっき言った『幽々子の絶対触らない場所』ってどうせ調理場だとかでしょう?多分藍が今日そこを使うんじゃない?」
「そうなんですけど…藍様でしたらそこは隠してくれるのではないかと思ってます。ちゃんと箱には『みょん』と書いてますし…」
「あらそうなの…」
この時も紫様は一瞬だけ笑みを零したようだがそれは次の瞬間には消えていた。
「それよりも私はこれから何をすればいいですか?特にないのならまず掃除から始めたいと思いますが…」
雑談もそろそろ切り上げ、本日の段取りへと話題は進む。
「いいえ、掃除や食事の用意は既に藍が済ましているからあなたはゆっくりしていて良いわよ?もし何かあれば私の方から声を掛けるわ」
「え?でも…」
「ただし!さっきの私の部屋には絶対に入らないこと!!何があったとしても、よ?」
紫様はきっちりと閉められた部屋を指差しながら念を押す。
「私はあの部屋で寝ているから絶対に入らないで頂戴。おわかり頂けたかしら?」
再び有無を言わさぬ圧力で、私はただ頷くことしかできなかった。
「とは言ったものの、何もしないのが逆に辛いんだよなぁ…」
八雲家に着いて既に二刻程経過した。紫様は昼食に一回顔を出して以降、またしても自身の部屋へと引きこもってしまった。
これだったら私がいなくてもいいんじゃないか?
なんて何度思ったことか。話相手なら橙でも良かったんではないのか…?
考えれば考える程に溜め息が漏れてくる。
それが起こったのは未の刻辺りだった。
その時の私は庭で剣の素振りをしていた。
「何?この匂い?」
強烈な焦げ臭い匂いが鼻を突く。
急いで台所へと向かうが、そこには誰がいることもなく、この匂いの発生源はここでは無いようだ。
となると
「紫様!?」
開かずの間となっているその扉を思い切り、叩く。
中からは慌てふためく声が聞こえているがどうも紫様以外にも誰かがいるようだ。
「…入りますよ……!」
鞘に納められている刀に手を掛け、居合いの構えをとる。
呼吸を落ち着かせ、思い切り刃を抜く――。
つもりが右手を誰かに抑えられているのに気付く。
「ここには何があっても入るな、と言ったと思ったけど?」
いつの間にか紫様が背後に立ち、スキマに右手だけを突っ込んでいる。
私の右手を見てみるとスキマから伸びたシルクの長手袋が私の右手首を強く掴み、動きを制していた。
「あ、紫様…」
「従者としてはまだまだ未熟なようね?主の命令をこんなにもすぐ忘れてしまうのならね……」
「あ……」
肩を落とす私を見て
「でも、ま、仮であっても、主を思う気持ちは充分合格かしら」
と言ってくれた紫様にちょっとだけ、ときめきそうになったのは内緒だ。
それからまた紫様は自室に入り出てこなくなったが、夕暮れ、酉の刻の頃には私に帰り支度をして白玉楼へ戻るように言った。
散々な一日だったとしょぼくれながら白玉楼へと家路を急ぐ。
「ただいま戻りました」
私の言葉は広い白玉楼の虚空へと溶けて消えた。
異様な静けさに私も息を殺して中へと入る。
気配までも殺し、ふすまの前に立ち、そっと左手を掛けゆっくりと開ける。右手はずっと刀の柄を握りしめたままだ。中に誰もいないことを確認した時の安堵で一瞬だけ気が緩んでしまうが、すぐにまた次の部屋に入るために気を引き締めることの繰り返し。
幽々子様の部屋や私の部屋も確認したが誰の気配も感じ取ることが出来ない。
次の客間のふすまへと手を掛けると今までより一層気を引き締める。
『いる』
ふすまの向こうに微かな気配を感じ、右手にも力が入る。
今回はふすまを思い切り開け、中へと突入する。あからさまに幽々子様とは違う陰に向け鞘から鈍く光る刃を引き抜く。
しかし、抜刀の途中でそれは遮られる。
「ついさっきと同じように止められてるわよ?」
声の主を特定すると同時に、パァンと乾いた何かが破裂する音が響く。
「おめでと~~~」
暗闇から聞きなれた私の主の声が聞こえてきた。
そして部屋に明かりが灯され、私の目に入りこんできたものは
『妖夢いつもお疲れ様!!今日はゆっくり楽しんでいってね!!』
と書かれた垂れ幕だった。
今まで緊張で視覚と聴覚ばかりに気を取られていたが、そいえばどこから甘い香りが漂っている。
「ほら、いい加減刀から手を離しなさい。そして藍。あなたはさっきの『くらっかー』とやらの掃除をして頂戴」
「あ、はい…」
唖然とする私に紫様が今日の出来ごとについて説明し出した。
つまるところ、藍さんとの喧嘩はこの宴会の準備に私を白玉楼から引き離すための嘘だったということだ。
「ってこの料理は幽々子様が作ったんですか!?」
ネタばらしが済んだ後、客間の机の上に次々と料理が運ばれてくる。
こんなに料理を作っていたなんて……。しかも私の為に…?
「いやぁ…最初は幽々子様が全て作られる予定だったんですけど、予想以上に苦戦されてまして、結果的に幽々子様が作ったのは一品のみとなります……」
あはは、と藍さんが笑いながら説明する。
「あ、そうなんですか…でも、今日が私の白玉楼に仕え始めた日なんてよく覚えていましたね……」
「それは主としての当然の務めでしょうに」
「去年は覚えていらっしゃらなかったじゃないですか……」
胸を張っていた幽々子様がちょっとだけしょげたのを見て、慌てて付け加える。
「でも、今年はこんな豪華にお祝いさせて頂いて嬉しいです!!」
「さぁそろそろ宴を始めましょうか!!」
料理が大体運ばれたのを確認し、幽々子様の声を合図に私達は四人で食べ始めた。
「でも、今日は本当に疲れたわ…。スキマでとはいえ、家と白玉楼を行ったり来たりなんて…」
「まだ紫様は良いですよ。私はこの準備に色々奔走することになりましたから…」
「って私だって料理作るの大変だったんだから!結果的に一品が限界だっただけでずっと料理してたのよ!!」
私の知らないところでこんなことが行われていたと思うと、今朝の八雲家を恨めしく感じた気持ちが胸を締め付けると同時に皆さんへの感謝が溢れてくる。
「…その料理の指南役も大変でしたけどね」藍さんが私にこっそり耳打ちしてきたのを聞いて私は、つい苦笑する。
「特に一回ボヤほどまでの事故が起きて…紫様も来て三人で消火活動したんですよ」
あぁ、あの時の焦げ臭いのはスキマを通じて八雲家まで来た匂いだったのか。
「それよりも妖夢!どれが私の作った料理か分かった?」
「あ、ちょっと待ってください」
ふむ。今日の料理は、筍ご飯、ハマグリのお吸い物、鯛のお造り、エトセトラ…どれもおいしかったけど…。
幽々子様の目を見てみる。幽々子様も真っ直ぐに私を見ている。
ふっ、と私は笑みが自然に零れてくるのを感じた。
藍さんと紫様の視線が私と幽々子様を交互する。
「幽々子様。この中に幽々子様の作った御料理はありませんね?どれもおいしかったですけど、幽々子様のでは無いと思います」
「……あらぁ~~~やっぱり分かっちゃうものかしら?」
「幽々子様のことなら一発ですよ」
この時の私は最高に『どや?』という顔をしていたに違いない。
でもこの時の誇らしさを顔に出すな、と言うのはあまりに酷な事だと思う。
「んじゃあそろそろ私の作った料理を持ってくるわね~~」
幽々子様がそういって台所へと姿を消す。
今日はもしかしたら最高の一日なのかもしれない。なんて思っていると、幽々子様が台所から戻ってきた。
手に持っているのはきれいな色をした羊羹だった。
ん?羊羹?
「さっき妖夢が食べたやつには敵わないかもしれないけど……」
「え?えと?」
「私はこっちへ来るときに紫様のスキマで移動したから一瞬で着いたので、さっそく調理場に立つと、たまたまミスティ屋の羊羹を発見したので……」
「本当は私が食べようとも思ったんだけど、紫に『妖夢に出してやって』って言ったのだけど……?」
首の骨がギリギリと音を立てて紫様の方を向く。
当のスキマ妖怪は扇子で顔を隠し笑いを堪え震えていた。
「あらぁ?妖夢食べなかったの?」
「え!?って紫様!?何してんです?ご自分で食べないで妖夢さんに…」
「でも、妖夢が『食べてください』と……」
「あぁーーーー!!!」
私は荒ぶる感情を抑え込もうと机に突っ伏す。なんかもうここまで来ると泣けてきた…。
「妖夢。ほら顔をあげなさい」
幽々子様の声で顔を上げる。
幽々子様が羊羹に楊枝を刺してこちらへと差し出す。
反則的なまでの満面の笑みで口を大きく開けている。
「ほら、あ~~~~~ん」
ま、良いか……今回はこの幸せを味わうことが出来たことだし。
ゆゆ様も妖夢も大好きだー!
でも、テンポがいいことは悪いことじゃないし……ぐぬぬ。
でも、サクッと読めて面白い作品でした。
前作はまだ全部を拝読しておりませんので、アドバイスは出来ませんが、
ぱっと見たところの印象で言えば、書式などがきちんと整えられて確実に読みやすくなってると思いますよ。