Veritatem Temporis filiam esse
-Noctes Atticae-
(1)
始まりは、腕からだった。
血肉通わず、イメージとしてあるだけの広げられた五指。
具体的に意識されることは少なかった。いわんや意中にあることさえ知られずに忘れ去られ
るものは、その比ではない。時としてそれは腕ではなく脚や頭部、あるいは膂力や才知であっ
たりもしたが……つまるところ全ては同じところに帰結する。
だがどのような形にせよ、消え去るにはあまりに膨大で、絶え間なかった。水底の汚泥さな
がらに、思い描いた当人たちでさえ認識し得ぬところで溜まっていく想いの数々。
そうして、叶わぬ恋心が降り積もり、幾星霜が過ぎていった。歳月と呼ぶにはあまりにおこ
がましいほどの、幾星霜が――
だから『女』は、そこにいた。行き着くための不滅の肉(ししむら)と、自ら選択する魂を
持って。己が、誰かが、たどり付く筈であった真実のために。
……不意な眠気を押し込めれば、そんな当たり前のことがはっきりと胸に湧き出た。
「あら? あんた人間にしてはずいぶん出来すぎじゃない」
女の前に立つ幼い少女の声音は、舌足らずながらも妙に蠱惑めいた響きがあった。取り澄ま
した顔にも、子供が大人の真似をするだけでは決して含ますことの出来ない艶がある。
きめ細やかな肌と肉の薄さは、まぎれもなく人間の女児だ。だがこの表情にある玄妙さは、
特殊な趣向の輩であってもまず違和感を覚えたことだろう。
それは年端もいかぬ矮躯が匂わすにはあまりに不釣合いな、淑女の気品であった。
背から生え伸び、隠すことすらせず鷹揚に広げた皮膜の翼は――むしろ裏切りではない。こ
の少女が人知の理を超え、遥か過去に幻想へと消え去った御伽の物種であることを、無知なる
者ですら容易に知りえることが出来るのだから。
そしてこの寝物語が残酷極まりないことも。
永遠を生きるとされる、太陽に愛された者たちを喰らい、魂を堕落させる種族。
吸血鬼。それが少女の正体だ。
いくら子供のなりだからといっても、御伽噺となればまやかしでしかない。次の一節に控え
るのは、登場人物からすれば受け入れがたい恐怖だ。
だが、それでもなおこうして全て分かりえた上でそのおぞましい本を手に取ってみれば、女
には畏敬の念しか湧かなかった。
滴る飴の如く煌き輝く頭髪も、緋色に炯々と燃え盛る瞳も、小さな頤(おとがい)のラインで
さえ……慄然を越え賛嘆するしかない。女がこれまで見てきたどの夢現よりも、少女は美しい
夢物語であったから。
「あんた名前はなんて言うの?」
少女の問いかけに女は首を振るしかなかった。
名前はいくつもあったが、本当の名を知ることが出来た人間などこの世に数えるほどしかい
ないことを、女は知っていたからだ。
それに名前など、どうでもよかった。この誰もが到達しえなかった、そして何者かがなによ
りも強く望んだ夢物語の結末に辿り着くためならば、些細な問題でしかない。
「ふーん。じゃ、私がつけてあげるわ」
挑発的に、少女の人差し指が女の下顎に触れる。ついと持ち上げられたその先に、吸い込ま
れるような真紅の瞳があった。
「そう。またお前なのね。完成されすぎて、後ろに戻るには進むしかない、おろかにもかわい
いチクタクウーマン」
少女の小さな唇の隙間に、赤い影がちろりと覗く。慈しみともとれる、憫笑だった。
おそらくこの少女は、女が何者であるか気付いている。もちろん名前同様それとて、重要な
事柄ではなかったのだが……
「決めた。決まっていた。あなたは十六夜咲夜。今からメイド長、十六夜咲夜として、永劫私
に従属なさい」
"十六夜咲夜……"
その響きに、ふと女は懐かしさのようなものを感じた。
これまで誰一人として女をその名前で呼んだことはなく、自ら名乗ったこともない。だが確
かに遠い昔に、誰かにそう呼ばれた気がしたのだ。生まれたときから知っていた気すらする。
初めて耳にしたとも、受け入れたとも、思えない。
なのに、不思議と女には安堵しかなかった。疑問の一つあってもよかったが――形には成り
きらない。喜びも悲しみもなく、あるがまま言葉の響きが染み入っていく。
まるで十六夜咲夜と呼ばれることを、ずっと望んでいたかのように。
「それじゃあ咲夜。紅茶でも淹れてくださるかしら。人間の人間ですもの、もちろん淹れ方く
らい知ってるわよね」
「はい。お嬢様」
返事が、口を衝いて出た。
機嫌取りを考えることも、役割を振舞おうと思うこともなく、そうすることが当たり前のよ
うに唇は自然と湿り、喉が震える。御伽の本を捲り語るのではなく、それはあたかもページに
書かれた文章そのものだった。
鮮明さも、苛烈さもない感覚に、またしても疑念は形を成そうとしない。
ただ、理解だけがあった。
名前も、地位も、あたえられたのではない。女が十六夜咲夜になったのではなく、初めから
女は十六夜咲夜だっただけだ。それを知らず……もしかすれば忘れて、にも拘らずなおその幻
影に焦がれて、今まで生きてきた。
これまでの苦衷も葛藤も、喜悦でさえ、きっとここに来るために……ここに還るためだけに
あったのだ。逃げ水に心惑わされても、肌を打つ冷たさがあっても、歩き続けてきたのは、お
のれ自身とも言うべきその全てが教えてくれていたから。
――ないものなど、求めていないことを。
消え行くまどろみが、名残惜しげに告げる。
『よく見たら死にそうにない顔しているな』
『大丈夫、生きている間は一緒に居ますから』
『時間は無限にあるけれど』
どこで聞いたのか。いつ口にしたのだろうか。急に胸に言葉が溢れた。
だがいくら明確になろうとも、幻像は触れられない。それどころか……もう夢幻のままでい
いとさえ、思った。
誰とも知れぬ船頭の役目は、ここまでだ。そう思うだけで、あれほどしがみついてきた語の
数々が、泡のように溶けていった。
胸の虚が満たされていく。誰の想いでもない、十六夜咲夜だけの真実で。
だからもう、永遠に従者十六夜咲夜で構わない。今までの全てが霞むほどの価値が、十六夜
咲夜を人間にするものが、ここにはあるはずだから。
「ま、期待しとくわ。せいぜい思い出にも味付けされたあの紅茶を淹れて頂戴」
(2)
霧の濃い朝だった。
黎明を孕んだ虚ろな白一色。天地の判別こそつけど、裏切らず視野に入るのが、振り返りざ
まになびく赤髪と、ひるがえる"旗袍<チャイナドレス>"の裾だけとなれば、武人とはいえどこ
か心もとなかった。
なによりただ一歩が、あれだけ堅牢無敵と信じた、背後にそびえる巨大な洋館を瞬く間に消
してしまう。
今に始まったことではないが、紅魔館門番としての矜持がある身としては――妖怪紅美鈴は
この霧が好きではなかった。
「どうしたものか……」
だが、このときだけは寧ろありがたかった。こうして手慰みに前進と後退を繰り返してるだ
けで、心がかき乱される。
余計なことばかり考えていれば、時の流れが洗いさってくれる気がしたからだ。
悩みはするが、少しも問題は無い。館の頭脳、さらにはあの幼くも博識な当主さえ、気付い
てはいない態だった。就任より少し経つが、話題にしたことさえない。そして、人の尺度から
すれば長い間柄である美鈴には、断言できた。
"そんなはずはない"
掛け値なしの評価。あの二者のことだ、一介の門番風情では及びもしない考えがあるに違い
ない。むしろ誰も得をしないとさえ思えるのだから、取り立てて会話に組み込まないのは至極
道理と言えた。
武人には、常人には分かりえぬ感覚というのがある。加えて極めて人に近い妖怪において、
こと気の巡りを感じ取る、という点では、紅美鈴には非凡の才があった。
一生を費やした研鑽の果てでさえ、至れるかという域。その位置に立つ美鈴が感じた不和。
それを気に留めない、強大な当主。そこに惚れ込み仕える身としては、なにを基準にすればい
いのかは、明らかだった。
だからこのままでいい筈なのだ。
この前、おもしろいものを買ってきたと意味ありげにはにかんだあの顔に、同じように笑み
を浮かべ返せば……
「でもなぁ。どうしたものか……」
「あら美鈴ともお方が、珍しい。証拠を録音しようと思ったのに、朝から惰眠よりも考えごと
を取るだなんて。起きてるだけ褒めるべきなのかしら?」
情緒を程々に慎んだ声に、聞き覚えのある毒が混じる。だが吐きたいのは、むしろこちらの
方だ。
「そりゃあ、わたしにだって悩みの一つや二つ……うわっ!?」
思わず身構えてしまった。ふと気付けば、すぐ隣に例の当人がいたからだ。
「さ、咲夜さんッ!?」
エプロンドレスの乙女の姿が、霧からくっきりと浮かび上がっている。のみならず、無駄な
く筋肉のついた体格や凛とした佇まい、人形を思わせる整った小柄な顔立ち、なによりこの気
配は――紅魔館メイド長、十六夜咲夜に他ならない。
美鈴が驚いた拍子に、咲夜も虚をつかれたようだ。そのくりっとした、ガラス玉のような瞳
があらわになった。
「なによ。人をまるで化け物か何かみたいに」
かと思えば、自然にもとの柔らかい微笑に戻った。ただひとつ、柳眉のちょっとした……い
やかなり寄って曲がった角度だけが、咲夜の心情を表している。当然それも、元のままの位置
だった。
考え事をして、視野も効かない。だが目は開けていた。こうも近づかれ、声がなければ存在
に気付かなかったのは、武術家としては度し難い怠慢である。役職からしても、咲夜の言葉の
棘は然るべきものだ。あの眉はそちらでの意味なのだろう。
いずれにせよ、普段なら即刻謝っているところだ。
「いえ、あの! えっと……!」
だが返しの言葉があまりに的を射ていた。謝罪までの流れが、咄嗟に何も思いつかない。さ
らに追い討ちに――
「そういうわけではッ!!」
不自然な裏声が味を付けた。
「――? どうかしたの? なんだか昨日から、よけいにおかしいけど」
「い、いやだなぁ。なーんにも、変わりなんてないですよ!!」
身振り手振りを加えてみる。そのあからさまに妙な態度に、眉が訝しげに角度をつけた。
"あぁどうすれば……"
これではそのまま話が進んでしまいそうだった。親しいがやりづらい、というのは前からだ
が、今はなおのこと。問題がないなら、寝ずに悩みなどしていない。
しどろもどろになりながら視線をあたりに飛ばす。なにか話題でもないかと思ったが、こう
いうときに限って、霧の白しか目に入らない。
「あっ! そ、それ! その四角いやつなんですか?」
しめた、とばかりに指差す。表情ばかりに気を取られていたが、見慣れないモノを咲夜が
ずっと片手に持っていたからだ。
小ぶりなそれは、西洋仕立ての旅行鞄のようであった。だがところどころの金属の鈍い輝き
が、装飾とはまた別の意図を醸し、なにやらスイッチらしきものもいくつかある。
突然矛先を変えられ、咲夜はきょとんとした態だった。
「あぁ、これ? これはラジカセ」
「ラジカセ?」
「そう。ラジカセ」
「へぇー。ラジカセ」
「満足した?」
「いやいや!? な、名前だけ教えられても!?」
本当にその説明だと思っていたらしい。慌てた美鈴に対して、ようやく合点がいったように
咲夜は小さく何度か頷いた。
ときどき、こんな風にどこか抜けたところがあるのが、美鈴の知る十六夜咲夜だった。類稀
な特殊能力も合せて、メイドという役職において彼女の右に出るものはいないはずだ。なのに
私生活では、どこか世間知らずな感と、ずさんさがあった。
だがそれも、決して評価を下げるような域まで至ったことはない。仕事ぶりからすれば、時
には別人かとも思うほどの有様、ひいては失言や粗相があったが、なぜかいつもおちゃめで
通ってしまう。
それを狙っているようではなかったから、美鈴にはそれさえ汚点とは思えなかった。
そう。あくまで絵に描いたような完璧な女だった。
「これはね美鈴、音を残しておける機械なの」
どうやら話題変えは成功したらしい。先ほどの表情の変化とは打って替わり、花咲くような
ぱっとした――どこか自慢げな笑みが色を添えた。
「音を?」
「そっ。テープを入れてね。……あぁ知らないわよね」
咲夜はもう片方の手を眦の高さまで上げると、空を掴むように勢いよく捻ってみせる。たっ
たそれだけの動作。だが何も無かったはずの二本の指先には、まるで魔法かなにかのように、
小箱ともカードとも言いがたい厚みと大きさの長方体が挟まれていた。
「これがカセットテープ。それでこれをラジカセに入れると記録した音が出るの。例えばこん
な風に」
どうやらカラクリ仕掛けだったようだ。手捌きに目を奪われている間にだろうが――気付け
ば側面の一部がポケットのように展開しているラジカセに、咲夜は今しがた取り出したテープ
を軽く押し込むと蓋を閉じた。その指先が、流れるようにボタンの一つに触れる。
すると、先ほどまでただの重たげな鞄にしか見えなかったラジカセから、からからと軽い音
が漏れ始めたではないか。
内部で噛み合うような音がひときわ鳴り……そしてラジカセは沈黙した。
「あれ? あの咲夜さ――」
『こらぁ!!』
「――うぁあ!? レミリアお嬢様!?」
突如ラジカセから響いた怒号に美鈴は肝を潰された。どこか薄れた感はあるが、声は間違い
なく紅魔館当主レミリア・スカーレットのものだったからだ。
「ど、どうしてお嬢様が!? あの? えっ!?」
『咲夜! また変なの紅茶に入れたでしょ!』
「え? 咲夜さん?」
『変などではありません。臼で潰した蛇に、"杜鵑草<ホトトギス>"の花粉、あとパチュリー様
に貰った超人の垢と、翡翠の粉末を足しただけです』
『鍋じゃないのよ!!』
『あ、なら翡翠は肝臓の方が良かったですね』
『噛むのも億劫ね。もういいよ! あーのど渇いた。すぐに別の――』
そこで、ラジカセから聞こえていた声は止まった。見れば咲夜が別のボタンに指をかけてい
る。そして再び、今度は何か歯車が回るような音がしたかと思うと。
『こらぁ!! 咲夜! また変なの紅茶に入れたでしょ!』
先ほど聞いた言葉がラジカセから発せられた。
「あ、あぁ。なるほど。お、おもしろいですね咲夜さん。そのラジカセとかいうの」
にっこり微笑みながらテープを取り出す咲夜の顔と合せて、ようやく納得がいった。推察す
るに聞かされたのは過去の……ある意味、紅魔館の日常茶飯事だろう。原理は分からないが、
音を記録できるというのは本当らしい。
口元を手で隠して咲夜が破顔した。
「お嬢様の紅茶の反応を記録しとけば、もっと喜ぶお茶を淹れられると思って、こないだ市井
(しせい)の雑貨店で買ってみたの。でも、なおいいこと思いついたから、少し出かけるわ」
「あぁそうだったんで」
出会いざまに小言をかけられたから、てっきり見回りにでも来たのかと美鈴は思っていた
が、どうやら違ったようだ。
「でもこんなに早く外出って、どこにですか?」
時に奇術師めいたことをするのが咲夜だ。美鈴も何度かトランプやナイフを使った妙技を目
にしたことがある。ただそれは腕前を披露というより、それを見た側の反応を楽しむためと
いった風に感じられた。
カセットテープにしても取出しからわざわざ勿体つけたあたり、そういう意図があったのか
もしれない。
ラジカセから声を流すだけでも、かなりの反応をえられるはず。見たい側としては、使い方
によれば最高の玩具であろう。美鈴にはその程度しか考え付かなかった。
「前に美鈴には話したかしら? 幽霊楽団の三姉妹がいるって」
「え? あのたまにライブしてるっていう?」
「そうそう。でね、近くに住んでるそうだから、その音楽を録音させてもらおうかと思って」
「咲夜さん、音楽が好きなんですか?」
初耳だったのも合せて、美鈴は少し驚かされた。
もちろん、突然のきっかけで趣味に目覚める、というのは滅多にない話ではない。この館の
主が容姿のままの幼いわがままごころで体現してきた数々、それ目にしてきた美鈴には、よく
よく理解もできていた。
風評だが、騒霊の三姉妹が奏でる音楽にはかなりの人気があるらしい。それを咲夜が気に
入ったとしてもおかしくはないはずだ。
多忙な身の上だが、録音しておけばライブまで足を運ぶ必要はない。ずいぶん合理的ではあ
るが、それでも美鈴はこの乙女に、久々に容姿相応の純情さを見た気がしたのだ。
続く咲夜の笑みは、今日出合った中で一番の晴れやかさだった。
「ううん。聞けばあの子達の音楽って、精神に影響するそうよ。だったら録音した音楽を流す
だけで、お嬢様の感情をコントロールできるかもしれないじゃない。小さなご機嫌取りなんて
しなくてすむから、ずっと楽に仕事できるようになるわ」
「は、はぁ……。そう……ですね。あー、うん。それは素晴らしい……」
霧を愛撫するかのように、咲夜のスカートがゆったりと踊った。無防備に美鈴に向けた背
が、靄の白に薄まる。
「そういうわけだから、ボーとしてないで。ちゃんと留守番頼んだわよ。遅くても、おゆはん
どき……日が落ちるころまでには戻るから」
「……はい」
その今にも消えてしまいそうな姿に、美鈴はかける言葉をもっと持っていたはずだった。
武と遊戯が同義なのがこの幻想郷。外界とは比べるほどもなく、危機は希薄だ。だから美鈴
も、職務中たまに船を漕ぐことはあった。見つかり小言を聞くのも、気配に対してあえて浅い
眠りを通してみるのも、珍しいことではない。
いつものように咲夜の時間を、拝借することもできたはずだ。本質は咲夜と同じだったのか
もしれない。美鈴も見たかったのだ。この悪魔の館に新しい風が吹く様を――
だが、そんな言葉の数々を、今は心のどこかで誰かが嘲る。壊れないと信じていたからこ
そ、なにをしてもされても平気だったのに……打ち壊すものだねひとつ持っただけで、それが
美鈴の魂の全てに根を張り始めた。
咲夜の小首が傾いだ。後ろ向きのまま、艶やかに眇めた瞳だけが美鈴を見つめる。反して眉
だけが、懸念と不満を物語っていた。
「ほんとうになにかあるなら言ってよ? どうせ処理をするのは私なんだから、聞くだけです
むほうがいいわ」
「……あの。咲夜さん」
「なぁに?」
「その……。いいえ。なんでもないです。なんていうか……たんに行ってらっしゃい、て言い
たかったのに、どうしてか言葉につまって」
頭をかきながら、美鈴は歯を出して大きく笑って見せた。
なぜこんなときに限って朴訥なのか。いつもの快活さはどこにいってしまったのだろう。
美鈴には、自分の発した台詞とはまるで思えなかった。逡巡は――時間を稼ごうと囁き、取
り繕った笑顔の仮面を提示するばかりだ。
呆れたか、それとも本心から杞憂だと思ってくれたのか。どうにせよ、安堵したような咲夜
のため息交じりの一笑が、今の美鈴には救いだった。
「いいわ。じゃあ、おせおせモードで行ってきます。変な美鈴さん」
「はい。行ってらっしゃい」
片手を振りながら、咲夜が歩を進めた。小さな一歩にも関わらず、濃霧は咲夜の存在を影だ
けにし……そしてもう気配だけしか感じ取れない。
まるで霧に帰っていくかのようだった。あの日の再現を、逆回しにしているかのように。
「行っちゃった……」
忘れもしない。あの日――初めて咲夜が紅魔館を訪れたときも、霧が濃かった。白く染めら
れた世界から、まるでそこで生み出されたかのように唐突に気配がしたかと思うと、目の前に
一人の女が現れたのだ。
まだ武が遊戯に取り込まれる前の時代。だがどういう気まぐれか、美鈴はそのままその不詳
の輩を通した。なぜか疑問さえ湧かなかったことだけは、よく覚えている。
そして次の日にはその女の名が十六夜咲夜だということが屋敷中に知れ渡り、人間にも拘ら
ず館のほぼ全てを任されるまでになっていた。
時間を操り、ひいては空間までを歪める。咲夜にはそれができた。屋敷内部を外見の何十倍
も広大にしたり、チーズやワインを瞬時に醗酵させたこともある。直接見たわけではないが、
止めた時間の中で動き回ることもできるようだ。
だから人間には過ぎた役職といえど、美鈴が疑問を捨てるのは早かった。今となっては畏敬
どころか、羨望さえ抱いている。特別な学のない美鈴だったが、時間の支配がいかに強大か
は、感覚として重々理解できていたからだ。
だが少し考えてもみれば、それは人間の持てるような力だろうか。
疑えば、いくらでも掘り下げられた。
思えばあの時、門を通ったのは本当に咲夜だったのか。たしかに気配は十六夜咲夜のもの
だった。だが館で雑務をこなす姿はいくらでも思い浮かぶのに……初めて門で咲夜を目にした
とき、どんな風貌だったか。なぜか穴が開いたように、なにも思い出せなかった。
そしてあれほどまでに、全てが完璧な人間が、本当にいるだろうか。
きっかけは小さいものだった。気の巡りが、一定だったのだ。
生類にはそれぞれ、固有の気の動き方があり、それが気配として外に出る。鼠には鼠の、草
木には草木の、といったふうに。もちろん妖怪にもある。咲夜の気配は、あくまで人間のそれ
だった。
だが不変というのは、人間ではありえない。人とは死に向かう生き物だ。どうあっても気の
流れが弱まる瞬間がつきまとう。才のある美鈴は、集中すれば気配どころかあらゆる万物の気
脈の動きを感じることが出来た――そして、咲夜には、それがなかった。
美鈴は止めた時間の中で、唯一動ける者の時がどのように動くかは知らない。だが進む時の
中では、美鈴と咲夜は等しく時計の針が進んだはずだ。
なのに思い返してみれば……咲夜はどこか変わっただろうか。たしかに紅魔館に来た当初に
比べて性格は朗らかになったように思える。だが人間にしては長い館での生活で――十六夜咲
夜が少しでも歳を取っただろうか。
解決の方法は簡単だ、咲夜に聞くだけでいい。だが咲夜は今まで言わなかった。
それは言う必要のないことだからなのか、それとも……言ってはならない禁忌だからか。
美鈴は恐ろしかった。得体の知れない何かがこれまで傍にいたことが。
だがそれにも増して怖かった。聞いてしまえば、この霧に消えてしまったように、今までの
全てが失われてしまいそうで。
果たしてそれを口にしたあと……咲夜は、美鈴の知る今のままの十六夜咲夜でいてくれるだ
ろうか。
「やだな……。忘れたいのに、なんでこんなときだけ馬鹿になれないんだろ……」
昨日、好奇心で咲夜の気を探ったことを。顔も覚えていないのに、気だけ覚えていた――こ
うも咲夜が大きくなるまで疑わなかった己を、ただただ美鈴は憎むしかなかった。
いずれ、咲夜は感づくかもしれない。もし先ほどのように詰め寄られれば、また誤魔化し通
せる自信が美鈴にはなかった。
方法は、ほかにもある。お互い知ることが損ならば、片側が全てを知りそして何も知らない
フリをし続ければいい。
一歩下がった。白の世界に、浮かび上がる巨大な館。なにも直接聞かずとも、あそこになら
答えが溢れている。
咲夜から、門番の仕事には釘を刺されていた。蚊帳の外だった身は、黙ってそれを通せば良
いはずなのだ。だが今は、たとえ真実を教えてもらえずとも、明確な命令が美鈴は欲しかっ
た。すがれるなにかを一つでも。
「咲夜さん……あなたは、本当に……」
"人間なんですか――?"
美鈴は一人、霧の中で呟いた。
(3)
咲夜の能力で拡大された紅魔館は、さながら迷宮の様を呈している。入り組んだ廊下や、無
限とも思える客室の扉。その反復は日を取り込む窓が極端に少ないのも合せて、常人の感覚を
失わせるに足る狂気を秘めていた。
まだただの居館だったころを知っていれば――悪魔が住むにはなお相応しい場所になったで
はないか。もの悲しげに響く一つの足音を耳にするたびに、降り積もる想い。美鈴は紅魔館の
廊下をずっと歩き続けていた。
美鈴は俗人ではない。そうでなくとも、長年の奉公で頭だけではなく感覚としても内装図は
持っている。だから決して、目に見える道に迷っているわけではなかった。
この時間帯に咲夜が出かけたとなれば、最も正解を持っていると思われる者は、吸血鬼とし
ての性質に従い眠りについているのかもしれない。最近は朝にまで活動し、ふらりとどこかに
行くこともあったが、従者を同伴しない場合は滅多になかったからだ。
睡眠といえど、起こせば主の予定を狂わせるのに違いはない。ある程度の厳罰は覚悟の上
だった。
だがいっこうに辿りつけない。むしろ、ほとんどわざと道順を間違えてさえいた。そうして
真実から遠ざかっているにも拘らず……埃ひとつ落ちていない、ガス灯がぼんやりと染める館
の中は、どこに行っても十六夜咲夜の微かな匂いがする。
これが現在の紅魔館。これが、今の美鈴を取り巻く世界の一部だった。
"痛い……チクチクする……"
気付くまでの幸せを思えば、目に映る何もかもが責具でしかない。薄暗いはずの屋敷内が、
妙に眩しかった。
本当は木陰でいつもより深く居眠りをしていて、そのまどろみの内容は地下の大図書館で読
んだ怪奇物そのままで、今も魘(うな)され続けているだけなのだとしたら――だがたとえそう
だとしても、夢路を終わらせる手段が同じなら、現実も悪夢も大差はない。
ならばこの夢の始まりとはどこからだったのか。昨日咲夜の気を読んだ時点か、それとも
……この館が変わったあの日からずっと続いているのでは。
夢にしろ、現だとしても、実際は何もかもが紅美鈴のこしらえた、都合のいい幻だったので
はないか。
"馬鹿だ……馬鹿、馬鹿ッ!"
ドアノブを捻る度に、美鈴は歯噛みする。
まやかしなはずがない。
どんなに寝姿を想像してみても、その隣には一人の女の姿があった。悪い夢から覚める様を
思い浮かべても、まず目に入るのは、心配げに顰めたあの柳眉。
ころころと万華鏡のように変わる表情を、ずっと見てきた。あの憂いで、あの活気で、妖怪
の紅美鈴の心に映るモノの鮮やかさを増して見せてくれた、最初の人間だったではないか。
"夢なんかじゃない。咲夜さんはずっと……いたんだ。なのに、なんで信じれない!?"
就寝室に足が生えていないだけマシだった。真実は決して寄り付いては来ない。近づいてい
るふりが、板ばさみの美鈴の感情の、唯一思いつく誤魔化しだった。
"一緒だ……門の前で立ってるだけと同じ……変わらない"
扉を開ければ広いエントランスホールに出た。不気味な壺や生前の勇ましさそのままの獣の
剥製といった、当主自慢の珍品が陳列棚に幾つか飾られたそこは、立ち居地こそ違えど今日見
るのは二度目だ。迷走しているあいだに、入り口まで戻ってきてしまったらしい。
もちろん、行き先を決めるわけにもいかなかった。幾つもある扉のうち、もっとも遠いと思
われるものをまた見定めると、エントランスを横切ろうと歩を進める。
「あら? 門番風情が主を無視とは、いい度胸ね」
恐ろしいほど鮮明に、舌足らずなはずの声を美鈴の耳はとらえた。
聞き間違えようはずもない。動悸が、戦慄きとなって身体を駆け巡った。職務放棄を見られ
たからではない。来ないと思おうとしていた真実が、目の前に現れたからだ。
「レ、レミリアお嬢様ッ!?」
陳列棚の一つの前に、美鈴を見上げる紅く艶やかな視線があった。貴族の少女の態――にも
関わらず、背から生え伸びた皮膜の翼が微かに動いただけで、魂を握られたかのような圧迫感
がある。
決して人が持つことの叶わない恐怖。紅魔館現当主にして長女、レミリア・スカーレット嬢
に間違いなかった。
「いったい、どうしてこんなところにっ!?」
「なにか? 主人が自分の館を好きにうろついて、問題でもあるのかしら?」
「だ、だって……お、お嬢様は吸血鬼で……その……」
「美鈴。私の名前を言ってみなさい」
「え? レミリア・スカーレット……様ですけど」
「そうよ。問題あるかしら?」
「……いいえ」
「よろしい」
美鈴は失念していた。レミリアは吸血鬼としての強大な力や不老不死そのものには誇りを
持っているものの、吸血鬼として他と大別されることを嫌っていたからだ。
「それよりも問題なのはあんたでしょ?」
「う……」
「仕事ほっぽって館にいるわ。あまっさえ主にまで気付かない。いっそ門番辞めてみる?」
「そ、それは……」
レミリアの軽い口ぶりは、いつものことだ。平生なら、半分本気で美鈴も大げさに驚いてみ
せるところだった。だが今は、冗談には思えない。
萎縮してしまったのが気にくわなかったか、レミリアは肩をすくめた。
「まぁいいわ。不問にしてあげる。代わりに質問に答えなさい」
「……はい?」
「昨日置いてみたの。この板、どう思う?」
レミリアが鋭く伸びた爪先で陳列棚を叩く。
黒ずんでいて素材は銅か鉄か判断できないが、台の上に飾られているのは、少し大きめの札
ほどの板だった。だが灯火の僅かな光に浮かび上がる溝には、目を眇めれば確かな意図が込め
られているのが見て取れる。
版画の原版だろうか。板の上には、机にもたれかかり腕に顔を埋めながら眠る人間の姿が彫
り刻まれていた。
「どうって言われましても……むぅ……」
美鈴は言葉に詰まった。眠りこける人間は、簡素だが的確に描写されているように思える。
だがその背後では、おびただしい数の蝙蝠やフクロウ、獣が蠢き……そして本当にそれであっ
ているか不安になるほど、どの生物もどこかあやふやだった。
まるでこの人間に、よく知った動物と似通った怪物が群れで狙いをつけているかのような様
だ。芸術には疎いと自覚のある美鈴だったが、好みを抜きに考えても、もしそうなら決して趣
向の良い品とは言えなかった。
「そもそもこれ、どういうものなんですか?」
「知らない」
「えっ?」
「使わない客間の額縁に入れてあったのを昨日移動したの。買ったのかもしれないけど、いち
いちどこの出だとか覚えてないわ。なにを思って作られたのかも、ね。でもそんなこと別に大
した価値もないわ」
こともなげにレミリアは嘯く。
「いいと思ったから置いたの。それだけよ」
「はぁ……」
その所以が分からず、美鈴は生返事をするしかない。家臣の薄い反応に、対してレミリアは
なぜか思ったとおりだと言わんばかりに不適に笑んでみせた。
「化け物が人間を襲おうとしてる趣味の悪い絵、とか思ったんでしょ?」
「うっ。どうしてそれを」
「顔に書いてるわよ。なになに、ほんとのこと言ったらすねるからやめとこう、ですって?」
「ひぇええ……」
「手で隠してもムダムダ。そもそもいちおう付き合い長いあんたの考えそうなことぐらい、顔
見るまでも無いわ」
「それは、嬉しいような、傷つくような」
妙なこそばゆさに、しどろもどろに返した美鈴だったが、そこでふと思い至った。レミリア
の意地悪げに細めた目元が視野に入ったからだ。
「だったら、わざわざ聞く必要なかったんじゃないですか、お嬢様?」
美鈴はこの眼差しとくすぐったさを知っていた。
この視線と共に、レミリアの悪戯心に何度弄ばれてきたことか。これもその一環で、悪魔よ
ろしく困惑する様を面白がっているのだとしたら。
毎回決して気分は悪くないのだが、美鈴は訝しさを抱いた。だがレミリアは、太陽に嫌われ
た種族と思えないほどに、当然だと言わんばかりに朗らかな表情を浮かべる。
「だって、想像ひとつで美鈴が出来上がるわけないでしょ? もっとほかの答えが返ってくる
かもしれないじゃない。期待通りの期待ハズレか、期待ハズレの期待通り。どっちに転ぶか
は、こればっかりは、聞いてみないと分からないんじゃなくて?」
「確かに、そうですけど……お嬢様にも分からないことがあるなんて意外です」
「あんた妖怪のくせにたまに変に人間くさいから。昨日と今日が本当は地続きじゃないって、
いい例だわ。これでも二通り考えてたのよ。まっ、水を超えて冒険して見れたのが、期待した
妖怪紅美鈴の方の考えだったけどね。明日聞いたほうが良かったかしら?」
「あれ? じゃあ人間で、だとどういう感想だったんです? お嬢様の中のわたし?」
小首を傾いだ美鈴に、レミリアはとぼけた口調でわざとらしくゆっくりと唇を動かした。
「さっき何て言ったかしら? どっちもくだんないから忘れちゃったわ」
「あ、あれれ? な、なんか遠まわしに」
「ばかにしてる」
「あっちゃあ……」
「ただ覚えてる限りだと、どっちも人間じゃないわよ。二つとも妖怪美鈴で考えてたわ」
「これ、そんなに言うほど違う見方できますかねぇ?」
「変更の余地がないほど趣味が悪い、て解釈でいいかしら?」
「い、いやだなぁッ! 違いますよ!!」
改めて板に向き直ってみる。相変わらず、眠る人間を取り囲む動物の図だが……先ほどの滅
入った気分とは違うせいか、よくよく眺める気になってみると、彫られた生き物の瞳がどこと
なく愛嬌のあるようにも感じられた。
ならば、果たして腕に隠れたこの人間の表情はどうなのだろう。やはり素直に鳥獣の群れと
は思えないが、もしこれが襲おうとしている異形でないなら、この悪夢めいた光景は……実は
幸福な様子なのではないか。
「気のせいよ」
思案の狭間に、不意にレミリアの一声が割って入る。あまりに心中を見透かされたような言
葉に、思わず美鈴はレミリアに向き直った。
レミリアはすまし顔で二、三度陳列棚を叩いてみせる。
「板よ、美鈴。これはただの板」
「は、はぁ……」
「彫ってあるから色々考えるだけよ。でも、これを玄関に持ってきた私の趣味の良さ、理解し
ていただけたかしら?」
「どうでしょうかねぇ。ま、まぁなんとなく」
「なら決まりね!」
突然レミリアが胸元で手を打つ。
音の快活さになぜか美鈴は嫌な予感がした。目に付いたのは、ぱっと爛漫に輝く幼い女の緋
色の瞳だ。
「そうよ。やっぱり置いてよかったわ! あ、じゃあその壺とそこの絵。これより目立つから
移動して! 壺は食堂にでも、その絵は――」
「うげぇええ……」
(4)
ペンの手を休めるとその美女は気だるげに、だが身を正しながら向き直った。豊かに伸びた
髪が、一挙一動のたびに腕や肩に触れては、ガス灯の光に艶めき滝のように落ちていく。
思慮深い微笑。レミリアとはまた違った雰囲気の気品を、白肌の女は持っていた。
「なぁに? 美鈴じゃない? こんな時間に図書館なんて、見つかったらレミィのいい餌よ」
「恥ずかしながら、とっくに見つかってます」
「そっ。よく逃げてこられたわね。見習いたいけど、身体が弱いとムリそうね」
照れ隠しに顎を掻く美鈴に、魔女パチュリー・ノーレッジはおだやかに頬を緩める。
あの後……レミリアが思い付く下知のままに陳列棚の重い品々を十数点も移動させられるは
めになった美鈴だったが、終わってエントランスまで戻ってきてみると、そこに当主の姿はな
かった。
昼から何時間も過ぎていたが、食堂どころか就寝室にも見当たらない。念のため先々で雇い
の妖精メイドに聞いてみたが、どれも昨日のことばかりだった。指示を出して遊びに行く、と
いうのもあのレミリアの性格ならあながちあり得なくもない。
労働で気がまぎれたせいか、ようやく悩みの種である咲夜のことを聞こうと思えるまでに
なったというのに……少々残念だったが、割り切ればすでに足は別に向いていた。
幾つも階段を下り、地下の扉のひとつを開けてみれば、天井まで届かんばかりの押し迫るよ
うな巨大な本棚の群れ。薄暗いそんな大図書館を奥まで突き進めば――果たして、やがてぼん
やりとした明かりに照らされた机と、そこで物書きに勤しむ女魔法使いの姿が見えた。
館の頭脳にしてレミリアの古くからの友人。なりは若者だが、齢は百を数える。となれば、
咲夜の正体についても知っている可能性は高い。
いや……気配を信じるなら、もう一つ話が聞ける可能性が極めて低くてもあるのは僥倖だろ
うか。会話に気付いたのか、気配の主が物陰からひょっこり顔を出した。
吸血鬼よろしくか、それとも姉妹ゆえか。闇に爛々と紅の眼の軌跡が燃え踊った。
「おー! 美鈴じゃん! ごきげんあそばせ」
「フランお嬢様。こんにちわ」
現れたのはレミリアの妹、フランドール・スカーレットだった。持っていた小さめの本を閉
じると、仕える身であるはずの美鈴に、うやうやしくドレスのスカートの裾をひっぱると軽く
頭を垂れる。
金糸のような髪が揺れた。だが何より目を引くのは、姉のレミリアのそれとは異なる翼。
まるで宝石が豊かに実る魔性の枝だった。吸血鬼とは到底思えない歪な形状と爛漫の輝きだ
が、この美しさはいつ見ても美鈴は賛嘆するしかない。その煌きに、どこか残酷なまでの妖し
さを見たとしても。
美鈴が目を奪われたその僅かな隙に、気付けばいつのまにかフランはまた手にした本を開い
ていた。
「二つで十分ですよ」
「え?」
突然の言葉に声を失った美鈴。だがフランは声音を低い男の口調に変えて続けた。
「いや、四つだ」
「……」
押し黙った美鈴に構わず、フランはページを捲っていく。その視線は、もう御伽に夢中な乙
女そのものだった。先ほどの芝居がかった言い回しは……フランの様子からして、その本に出
てくる登場人物たちの台詞だろうか。
やはりうまく可能性が幾つも転がっているわけがない。気配の強大さを考慮すれば知ってい
そうだが、フランとレミリアは姉妹だ。違った形であしらわれそうなのは予期していた。そも
そも情緒不安定なフランの性格を知っていれば、まともな会話さえ危うい。
囀りのような笑い声がした。パチュリーだ。美鈴が向き直ると、パチュリーは一間置いて小
首を傾いだ。
「で、どうしたの美鈴? また暇つぶしの本でも探しに来たの?」
「いえ、そうじゃなくて……相談が」
「相談?」
「はい。あの、実は咲夜さ――」
「ストップ」
先のゆったりとした動作とは打って変わり、パチュリーは指揮棒のごとく勢いよく振るいペ
ン先を美鈴に向けた。
言葉に詰まらされた美鈴の前で、パチュリーは書きかけの一冊の分厚い本を閉じる。
「ちょっと、いま翻訳作業してるの。幻想郷しかしらない白黒田舎魔女向きにね」
「は、はぁ」
パチュリーが息を吹きかけると、突如表紙に無数の光る文目が走った。記号か文字か判別で
きない模様が数種現れては消え、錠が独りでに閉まり……そしてタイトルと思しき文字が浮か
び上がる。
日本語のカタカナだろうか。字体が崩れていてそうだとは言い切れず、意味は少しも分から
ないが、『ストウハ』と美鈴には読めた。
「だからね、美鈴。今はよけいな問題増やさないで。さっさと翻訳終わらせたいの。これ片付
けてから……明日にでも来て頂戴。聞いてあげるから」
「翻訳、ですか」
「魔理沙の話だと、再思の道の近くに落ちてたの拾ってきたそうよ。面白そうな小説だから、
だそう。でも電気だの火星だの、なに言ってるのか分からないから、分かるように書き直して
くれ、ですって」
「別に無視してもいいんじゃ……」
魔理沙といえば紅魔館に出入りしている人間の一人だ。パチュリーの数少ない魔女繋がり
……というより腐れ縁と言うべきか。といっても、そこまで恩を売るほどの相手でもないはず
だが。
パチュリーはしょうがないと言わんばかりに肩を竦めた。
「代わりにね。欲しいキノコいくつか取ってきてくれるって。どうせでまかせでしょうけど」
「やっぱモノですかそうですか」
「だから、ね?」
「どうしても……今は無理ですか? 大事なことなんです」
「それはあなたの大事でしょ?」
「……そう、ですが」
暖簾に腕を押している……そして布にまとわりつかれているかのような感覚に、美鈴は言葉
が詰まった。
この図書館はまさにパチュリーの城だと言っても過言ではない。それも状況によって変化す
る、学の浅い放浪者には特に難攻の城塞だ。
パチュリーは魔女としての生を学に捧げている。その探求を邪魔されぬためなら、たとえ顔
見知りだとしても、会話なら巧みに先回りし閉口させ、もし声を大にして叫ぼうものならその
前に口を塞ぐことも厭わないことを、美鈴は知っていた。
そもそも、茸と天秤にかけられるのは不服だが――パチュリーが頑としてそう言うなら、レ
ミリアの友人として立てなくてはならないだろう。それなら、まだレミリアを探すほうが早い
はずだ。
「……むぅ。分かりましたパチュリー様」
「悪いわね美鈴。あ、そうそう。予約分のギブアンドテイクよ。ひとつ聞いてもいい?」
「はい? いいですけど」
「大したことじゃないわ」
パチュリーは錠のかかった本を小突いた。
「この翻訳前の物語にはね、電気っていう力で動く機械仕掛けの動物が出てくるの。でも魔理
沙は電気なんて知らないから、魔力で動く動物人形、て訳したわ。あいつの知り合いに、そう
いうのも研究してるのがいるから分かりやすいと思って」
「ま、まぁ……分からなくはないですね。私には縁遠そうですけど」
「でね、その人形の種類の中には、人間の形をしているヤツもあるの。それどころか、人間と
同じように飲み食いもするし、話もするし、記憶や感情もあって、本物の人間とまったく区別
できない。でも作られた存在」
「…………」
「そうね、違いは生まれ方だけだとするわ。美鈴はどう思う? そんな人形がもし、自分のこ
とを人間だと言い張っても、やっぱりそれは人間じゃなくて人形なのかしら?」
パチュリーがゆるく握った拳の上に頬を乗せる。たったそれだけで、先ほどまでの艶然とし
た笑みが、好奇心に緩んだ口端へと変わった。
「うーん。いいんじゃないですか。人間でも」
己でもびっくりするほど、美鈴はなめらかにその返事を口にした。
だが驚きは、パチュリーの方が上だったようだ。しばらく惚けたように美鈴を見つめたかと
思うと、力が抜けたように破顔した。
「意外だわ。美鈴はてっきり、そういうの許せないと思ってたから」
「いやぁ。なんとなくですよ。別に理由があるわけでもないですし」
「いいのよ。読み物の感想なんてそんなもんよ。それでいいの」
「はぁ……。まぁ明日になったらまた別のこと言ってるかも――おわッ!?」
不意に腕が持ち上がったかと思うと、美鈴は体位を崩しかけた。当然手を取られて、そのま
ま強引に引っ張られているからだ。
走るしかない。武術には自信があるが――美鈴の手を握る小さな指は信じられないほどの力
で、まったく振りほどけそうにも無かった。
「ふ、フランドールお嬢様!?」
しょうがなく前傾姿勢になってみれば、美鈴の目に映ったのはよく知ったあの小さな背中
と、煌く宝石の翼。離せるわけがなかった。この容姿不相応の怪力は、人間を少し上回る程度
では抗えない、吸血鬼のそれだ。
"あぁ……ッ! 答えがッ!! 咲夜さんの話がッ!!"
肩越しに見れば、パチュリーがどんどん小さくなっていく。早々と流れていく整頓された本
の列が、無情にも正確な距離の開きを告げていた。
「な、なんですか? 妹様!?」
質問を投げかけてもフランは返さない。訳も分からず図書館を抜け、廊下を進み、地上への
階段を上らされる。
「咲夜のことでしょ?」
「――!?」
あと数階段と迫ったとき、フランが喋った。
「どっ! どうしてそれを?」
「さっき咲夜って言おうとしたでしょ?」
「あ、あぁそういえば」
「なぁんだ。あいつが他と違うの、今頃気付いたの?」
不意にはさまれた一言が、見えざる槌の一撃となって美鈴を襲った。
「え? フラン様はお気づきだったんですか!?」
「美鈴。私の名前を言ってごらんなさい」
「あっ……。フランドール・スカーレット様です」
「よろしい!」
上りきるや、フランは優しく放り投げるように美鈴の手を離した。勢いを殺す間もなく羽な
どない美鈴はあわや廊下に転倒しかけたが。日々の鍛錬が生きた。なんとか、踏みとどまる。
フランは悪びれた様子のない、というより悪びれる必要さえないといった態で、屈託のない
笑みを浮かべた。
「なに? あれを人間だとでも思ってたの?」
「違うんですか? 咲夜さんは……」
「違うわよ。お姉さまは言ったわ。人間は脆く儚いモノだって。あんな壊す目が一つじゃない
の、壊すことが面倒だと思うくらいあるやつ、人間なわけないじゃない」
「…………」
フランにはモノを破壊する才がある――むかしレミリアから聞いた忠告を美鈴は思い出し
た。それもただ力任せに破砕するだけではなく、壊したいものの最も脆弱な部分を手中に移動
することも可能なのだ。
理を知るからこそ、浮世を弄べる。まさに夜の王たる吸血鬼に相応しい能力だった。以前、
天上からの災厄の『目』を握り潰し紅魔館を救ったことからも、その才に疑いの余地はない。
そのフランが人間でないと断じた。理そのものが否定するのと同じだ。言葉よりも重い衝撃
に、美鈴は眩暈とともに頽(くずお)れそうになった。
「でもね」
先ほどまでの裏のありそうな笑みとは変わって……フランは歌うように、どこか祈るよう
に、優しげな声音で言葉を紡いだ。
「それは、フランドール・スカーレットの答えよ。門番さん。……あなたはあなただけの答え
を見つけてきなさい」
どこから取り出したのか、フランは図書館で持っていた本を片手で器用に広げた。そして男
を真似た低い口調で一節を読み上げる。
「なにもかも真実さ。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかもが真実なんだ」
フランはもう片方の手を掲げた。そして、見えない何かを握りつぶす。
「――ッ!!」
美鈴は凝然と立ち尽くした。すぐ傍の壁の一部が粉塵となって音を立てて崩れたからだ。差
し込んだ茜色を帯びた光が瞬く間に暗がりを蹂躙していく。
日の当らない壁に寄りかかり、フランは撫でるような指使いでページを素早く捲った。
「行くなら行きなよ。お姫様はもう帰ってくるかもね。でも玄関まで行ってたら、気が変わっ
ちゃうかも」
外の光景は、もう霧など無い。門のすぐ傍だった。美鈴の持っている内装図とはまるで距離
が違う。
吹き込む風が、匂いが、鮮やかさが、もろ手を挙げて美鈴に訴えかけてきていた。
「フランお嬢様……」
「二つで十分ですよ」
「え?」
見れば、フランはまた手にした本に没頭していた。
瞳はすでに夢の世界しか映していないようだ。その耳も、もしかすれば感触さえ、今のフラ
ンは閉じきってしまっているようにも思える。
「いや、四つだ」
だが美鈴は呼びかけた。思い付くままに、フランが口にしたその台詞を。
小さくフランが笑んだような気がした。
あとはもう振り向かない。壁の穴から外に美鈴は飛び出した。門を守るのが役目なら、出て
行く者の無事を信じるのも役割りではないか。
"夕飯時……そうだ。食べるのはあの人だけだけど……時間に遅れるわけ無い……ッ!!"
花壇を越え、門を抜け……荒げた息を整えていると、やがて黄昏に染まる道の向こうに、美
鈴は確かに黒い影を見た。
あの小さな立ち姿を、美鈴は知っている。忘れもしない。忘れてならないと、胸に秘めて
日々を生きてきた。
風に揺れるあの細い髪が、スカートが、昨日と確かに繋がっているのを思い出させる。重た
げに片手に持ったラジカセが、まやかしでない今日であることを確信させた。
逡巡がないと言えば嘘だ。だが足枷は、すでに美鈴を捕らえてはいない。
呼びかけ駆け寄る。そう――いつものように、あのメイド姿の乙女に向かって、ただ真っ直
ぐに。
「咲夜さーん!!」
「め、美鈴ッ!?」
驚き顔で影が……咲夜が立ち止まった。
「な、なによ? や、止めてよね! 急に、恥ずかしいじゃない」
咎めるように咲夜は言って――だが、まんざらでもなかったのか。顔を背けながら微笑ん
だ。夕暮れよりもなお赤く、白い頬が見る見るうちに鮮やかな朱に彩られる。
気付かず、美鈴は慌てて小さく頭を下げた。
「あぁ……す、すいません咲夜さん」
「もう。まぁいいわ。でも朝と違うようで良かった。悪いものでも食べたのかと心配してたの
よ。解決したの?」
「それは……」
美鈴は頭を振った。
小首を傾ぐ咲夜に構わず、両の手を固く握り締めながら俯く。
一呼吸ほどの僅かな躊躇いの隙間に、あらゆる胸の虚が渾然となって美鈴にしがみついてき
た。いっそ奈落に引きずりこまれてしまえば、どれほど楽なことか。
だがいくら恐れても、不安になっても、無骨な紅美鈴はこうするしか知らない。
「ごめんなさい!」
「えっ――?」
訳も分からずといった態の咲夜に構わず、先ほどよりも大きく美鈴は頭を下げた。珍しく、
目を見開きながら咲夜が詰め寄る。
「ちょ、ちょっと美鈴! もういいって言ったでしょ」
「違うんです!」
「…………」
「わたしは……人の気配が読めます。だから、あなたが他の人と違うことに気付きました。あ
なたのことを人間だと、思えなくなりました」
「美鈴……」
「でも……でもッ……! それを認めたらわたしの知ってる咲夜さんがいなくなってしまいそ
うな気がした。だから言うのが怖かった。……だってわたし、紅魔館で働く咲夜さんが大好き
だったんだもの!」
胸を締め付ける想いの数々に歯を食いしばりながら、美鈴は吐露を続けた。
「でも、ごめんなさい。わたし強くなかった……。力や遊びで適わないことがあっても、心だ
けは鋼だと思ってた。でもずっと知らないフリの仮面をつける勇気がなかった。だから嫌な思
いさせるの分かってても……こうして言うしかなかった」
咲夜はじっと噤んでいる。だがその表情は憤慨に荒れ狂うわけでも、悲嘆に曇るわけでもな
い。ただ秋空のようにどこまでも澄み切って、朗らかだ。
そのおかげか、幾分か楽だった。促されるように、美鈴は最後まで口を開く。
「わたしはわたしが安心したいだけ。嫌なヤツ……ッ! だから嫌われたって構わない。ほん
とのこと教えてくれなくてもいいっ! ただ知ってほしかった。だって困ってる顔は好きだけ
ど、私のせいで不安になってる顔を、もう見たくないから!!」
「そう……」
短く咲夜は吐息を漏らす。
言ってしまった。身さえ切り刻むかのような痛みが美鈴の胸で大きくなる。だが、もう後へ
は引けない。これ以上どんな痛撃が来たとしても耐えてやると、美鈴は歯を噛みしめた。
そこに、ひたと――美鈴の頬に冷たくも心地よい感触があった。咲夜の手だ。
「本当に、勝手な門番さんね」
「ごめん……なさい……」
「いいのよ。それに見つけられない答えを見つけようとしてるんですもの。私はどこにも行か
ないわ。大丈夫、だって言ったのにちゃんと触れてるでしょ?」
壊れ物を扱うかのように咲夜の指が頬を流れていく。
「……はいッ!!」
万感の思いを込めて、美鈴は応えた。
指先から伝わってくる気は、美鈴を苛み続けたものと変わりない。それに思うところがない
と言えば、嘘だった。
だが、もう不安はない。美鈴は思い出した。
好きになったのは紅魔館メイド長の人間ではない。あの表情で、あの立ち居振る舞いで、皆
の心に風を吹かせる十六夜咲夜だ。
"どこにも行くわけがない……。どこかにやろうとしてたのは……わたしだッ!!"
安堵が、笑みとなって外に溢れる。そんな美鈴に咲夜も静かに微笑み――かと思うと拗ねた
ように横を向いて目を眇めた。
「やっぱり勝手ね。自分ばっかり生き生きして」
「いやぁ……それは……」
「じゃあ今度は私もいろいろ言っていいかしら?」
「え?」
不意に美鈴の下唇に、咲夜が人差し指を当てた。まるで、美鈴の言葉を禁ずるかのように。
「でもここだと無粋ね。そうだ、今からちょっとデートしましょ」
「で、デート?」
「そっ」
「ってなんですか?」
「もう! しまらないわね! 近くを二人で散歩しようって言ってるの」
咲夜が笑む。朝焼けのように明るく、そしてどこか儚く……。
「教えてあげるわ。ううん、聞いて欲しいの。私がどういう人間なのか」
(5)
波打つ湖畔は、日が沈んで間もないというのに、すでに深夜の物悲しさを醸しだしていた。
早めに漆黒の空に現れた星々が、太陽に取って代わって次々と微々たる輝きで波に彩を添え
ていく。へたな宝石の装飾よりよほど美しいこの湖が、あの嫌いだった濃霧の発生源だとは、
知っていてもなかなか美鈴は納得できなかった。
静寂に響く足音は二つ。波音に耳を傾けながら、紅魔館傍の水際を美鈴と咲夜はあてもなく
うろついていた。
完全に門を開けるという咲夜らしからぬ提案。美鈴は少し戸惑ったが、咲夜は強引だった。
すべて責任は持つ、とまで言われてしまえば、流石の美鈴でも妙な感覚を抱かずにはいられな
い。付いて行く他なかった。
だが、ここまで目立ったやり取りはない。取り留めもない話を幾つかしたぐらいだ。
どういう人間か――あの咲夜の一言が気にならないわけではなかった。それでも、あえて問
い詰める気にもならない。
先までの美鈴なら、その由来は怖さだったはずだ。だが今は、望む湖面のように静かに、そ
のときを待つ落着きしかなかった。
「そういえば咲夜さん。ラジカセ、うまくいきましたか?」
ふと咲夜が持ったままのラジカセに気づいて、美鈴は咲夜に問うた。
「残念だけど駄目だったわ」
言葉に反して、咲夜はにこやかにほほ笑んだ。
「交渉したら快く取らせては貰えたんだけどね。でもためしに聞いてみても、生演奏のときみ
たいに気分が変わるような感じがぜんぜんしないの。たぶん録音だと音が変わってしまって、
効力がなくなっちゃうのかもね」
「そういえば朝のやつも、なんとなく劣化してたような」
思い返してみれば咲夜が美鈴に聞かせたレミリアとの会話は、どこか違って聞こえた。音は
閉じ込めることができても、そこに込められた魂や不可思議な力までこのカラクリは完全に再
現することはできないのだろう。
「いちおう何回かやったんだけどやっぱりダメ。ただの綺麗な音楽になっちゃったわ。それに
ちょっと考えてみれば、人間には影響でるけどお嬢様に影響あるとは限らなかったから、とん
だ徒労だったかも」
「耳に残ってるほうが正確なんじゃないですか?」
「たぶんそう。聞いてみる?」
「よさそうですね。ワクワクするの頼みます」
「じゃあ待って。腰、下ろしましょう」
どこから取り出したのか。すでに咲夜は大きめの布のシートを広げて敷いていた。
霧のためか、地はまだ少々湿りを帯びているようだ。頓着するような美鈴ではなかったが、
先に座り込んだ咲夜に促されて、隣に腰を下ろした。もとより断る理由はない。
からからとラジカセから音がした。そして聞こえてきたのは――金管楽器の奏でる、妖精が
悪戯遊びに興じるかのような楽しげな旋律。加えて弦楽器と鍵盤楽器の落ち着いた導きが、音
の世界に厚みを加えている。
絶賛されているだけはあった。その片鱗がひしひしと伝わってくる。文句のつけようがない
ほどに聞き心地のいい……だがラジカセから流れるのは一部しか心が動かない、綺麗なだけの
演奏だった。
「ねっ? うまいってだけでしょ?」
「そうですね咲夜さん。わくわくしそうですけど……どうもなにかそうなりきれませんね」
「あーあ、またご機嫌取りの毎日か」
再び波音に主導権を渡し、咲夜が宙を仰いだ。
「ま、いちおうお嬢様にも流してみないとね。どうなるか分からないし」
「楽しそうですね。咲夜さん」
「楽しいわよ。あなたもどうなるか興味あるでしょ?」
「まぁちょこっと、なら」
美鈴は親指と人差し指でその幅を示して見せる。軽い冗談のつもりだったが、咲夜は神妙な
面持ちで見入った。
「結果が気になる、か。ほんとうにあなた人間みたいね」
「えぇ!? 人間? いやだなぁ、私は妖怪ですよ。ちょっとばっかし学が浅いってだけで」
「でも気になるっていうのは、頭の良さは関係ないわ」
「そういうもんですか?」
「そういうものよ。足りない、不完全、そう思う渇望だもの」
紅魔館の面々が不意に思い浮かび、美鈴は納得した。その狭い世界の中でさえ、あの強さや
才は決して美鈴の手の届かない場所にある。だがそうと知りつつも、武に生きるものとして、
守護の担い手として、抗い難い欲求があったのも事実だ。
その源がどこか――詰まるところ魔術や魔力あるいは種族そのものといったものに行き着き
それで納得するが、聞くだけだったが調べなかったわけではない。これもまた一つの飢えなの
だろう。
咲夜がまた夜天を仰いだ。ただその瞳は瞬く星ではなく、どこか遥か遠い世界を映している
ようだった。
「強いとね、完結しちゃうの。明日が分かるから。何ができて何が無駄かを、知ってしまうか
ら。……でも人間は弱い生き物。だから誰もが、どんなに強がっても、いつも次の一瞬の結果
を夢見てる。すごく現実的なまやかしと、一緒にね」
「はぁ……」
「あれができたかもしれない。これがあればできたはずだ。そうやって老いを憎んだり、逆に
若さを恨んだり。才能や性別……具体的に、時間というものに対しても怒ったり」
天に向かって咲夜が手を伸ばす。まるで触れているかのように虚空に指を泳がせ、やがて
おずおずと下ろした。
「たまに辿り着けることもあるけれど、でもそうして結果に手を伸ばしても叶わなかったほう
がずっと多かったわ」
「…………」
「それは……どれも叶ったかもしれない真実よ。ま、その人たちにとっての――人間のためだ
けのものだけどね。……出来るはずと信じた願いや、本人たちでさえ忘れてしまうような刹那
の祈り。でも限りがある人間には、いつだって残酷な幻」
薄く儚げに咲夜が微笑んだ。
「時が、夢追い人の夢を本当に幻にしてしまう。そんな時間さえどうにかなれば叶ったり見れ
た真実を、遠いむかしどこかの詩人はこんな風に言ったわ――時の娘、って」
「時の……娘……?」
聞きなれない言葉だった。思わず口にした美鈴に、咲夜は鷹揚に頷く。
「そう。知らず知らず誰もがその人にとっての、時の娘に恋をしたわ」
咲夜は優しげな眼差しで、囁くように続けた。
「その叶わなかった恋心のかたまりが、私よ」
「え――!?」
「私はね。人の思いから生まれた、人間っていう概念そのものなの」
こともなげな咲夜に、だが美鈴は驚きの念を隠せず凝然となった。
筋は通る。咲夜が人間として完成されすぎていることを、己の感覚とここまでの時間で美鈴
は確信していた。もし言うように敗れた願いの塊だったとすれば、逆に咲夜はあり得たはずの
結果で作られた人間ということになる。
ならば、これまでの咲夜の完璧な様も、何もかもが説明が出来た。勿体つけた行動も、知り
たいという欲求の表れだったのではないか。その能力も、単に時を操るためではなく、実はす
ぐに答えを知るためのものだとしたら。
だがこのような答えが、如何に条理に囚われない幻想郷といえども、ありえるだろうか。
「い、いやだなぁ! 咲夜さん! 咲夜さんは人間なんでしょ? 自分でそう言ったじゃない
ですか!?」
「そうよ。人間よ。でもそれが、人間の男と女が揃ったときだけしか人が生まれちゃいけな
いって、理由にはならないんじゃない?」
「…………」
確かにそうだ。美鈴はパチュリーから投げかけられた質問を思い出した。
『そうね、違いは生まれ方だけだとするわ。美鈴はどう思う? そんな人形がもし、自分のこ
とを人間だと言い張っても、やっぱりそれは人間じゃなくて人形なのかしら?』
美鈴は人や獣が妖怪になる例を知っていた。ならば、妖怪がただの人や獣に変わることも、
知らないだけであるのではないか。
そうでなくとも、人でありながら倒錯した狂気に囚われる者もいる。妖怪でありながらも人
の外見を持ち、慈愛に満ちた存在さえあった。
大事なのは器ではない。その魂の拠り所ではないだろうか。
「でもね美鈴。私はずっと悩んでたわ」
「咲夜さんでも悩むことあったんですか?」
「うん。私はね、生まれた時から知ってたから。どうして自分が生まれたのか。それと、どん
な願いが私を生んだのか――強いものは全部」
「…………」
「でもそんなのが人間かって思ったら、私は人間だと言い張る自信がなくなっちゃったわ。生
まれてすぐに、ね。でも求め続けるのが私。そうやって定めに流されて……だからなにも楽し
くなかったわ」
いったい、それはいつからの話なのか。それを聞くことが阻まれるほど、愁いを帯びた咲夜
の表情は物悲しく寂しげで、美鈴の心も微かな痛みを覚えた。
もしかすれば咲夜は、妖怪の美鈴よりも遥かに長く生きてきたのではないか。ただただ人間
というものを追い求め振り回されながら、ずっと。
「でもね。お嬢様と出会って、なにもかもが変わったの」
まるで雲間から光が差したかのように、溢れんばかりの喜びとともに咲夜は破顔した。
「こんな私のことを、お嬢様はただの人間としか見てくれない。それがね、とっても嬉しかっ
たの」
「咲夜さん……」
「初めは、願いに導かれるままにここに来てメイドになった。でも、たとえ今ここにいること
も定めだとしても、私は自信を持って言えるわ。それは、十六夜咲夜の願いでもあるって。こ
こにいれば、その導いた願いとは違う私だけのなにかを見つけられると思ったから」
「…………」
「だから私は自分が人間じゃないと思わないし、私のことをここまで導いてくれた願いに感謝
してる。だってみんなに会えたから」
「その願いって……なんですか?」
小さな躊躇いを感じながらも、美鈴は質問を口にした。
いったい何が咲夜をここまで先導し、出会わせてくれたのか。美鈴は知りたかった。
「永遠は本当にあるのか」
咲夜の答えは簡潔でいて、深淵だった。
それは人間のままでは決して見ることの叶わない願いだ。たとえどれほど人間が歴史を紡ぎ
子に役割を託したとしても、辿り着けはしないだろう。にも拘らずそれは焦がれやすい、儚い
人間だからこそ追い求める恋物語の究極の題材だ。
その恋の結末を知るために、咲夜は導かれるまま紅魔館のメイド長となった。
主のレミリアは吸血鬼だ。吸血鬼とは不老不死でもある。それもまた永遠の形の一つだ。
"だったら……お茶に毒みたいなの入れてたのって……"
咲夜がレミリアにする可愛げのないお茶目。美鈴はようやくその理由が少し分かった。漫然
と永久に観測するだけが、不老不死の確認法ではない。
ならばもしレミリアに永遠を見出しているのだとすれば……あれが咲夜なりの、『永遠』の
確認法であり、『レミリア・スカーレット』を知るすべだったのだろう。
咲夜が己を人間と思い、初めて夢想した時の娘。楽しげに主人にしてきたこれまでの粗相の
数々は、少しでもレミリアを知れたという……それがこれからも永劫続いていくという、咲夜
にしか分からない嬉しさの裏返しだったのではないか。
そしてそれは、不死が不滅と同義であるなら、永遠に全ての答えは分からない。だから咲夜
は美鈴に自信を持って言ったのだ。決して消えはしない、と。
「そっか……そうだったんだ……」
視線を落としながら、美鈴は恥じた。咲夜が人間でないことに戸惑いを感じていたのは美鈴
だけではない。他ならぬ咲夜自身が、なによりもその存在自体に疑いを持ちながら生き続け
……そしてようやく人間であると胸を張れるようになったのだ。
その由来が紅魔館にあると。疑った者の前でこうも明るく言ってのけるほどに……。
「でもね。たまに、不安になることがあるの」
僅かに顰めた咲夜の眉を、美鈴は見逃さなかった。
「どうしてです?」
「人の願いってうつろいやすいじゃない? だから私がどんなに一人で永遠だ、不死だ……そ
れを見つけたいと願っても、身体が持ってくれるか分からない。私自身が人間ていう、世界に
記録された概念そのものだけど、それだって永遠に消えないなんて言えないわ」
「…………」
「だから、美鈴にお願いしてもいい?」
蕩々と美鈴を見つめながら、咲夜は微笑した。
「たまにでいいから。十六夜咲夜を思い浮かべて」
「――?」
「誰だったかしら、どこかの絵描きが言ったそうよ。理性の眠りは妖怪を生むって」
「それは……?」
「夢はそのままだとあやふやな幻のまま。けど、少しでも思い描く心があれば、形になる。てい
う意味らしいわ」
「…………」
「思うの。誰かが私を思い浮かべ続けてくれたなら、それだけで私は、消えてしまってもきっ
とここに帰ってくることができるって。その夢が――人間の描いた夢が私なら……。妖怪のあ
なたが見る夢や幻は、いったい何を産むのかしらね?」
咲夜の問いかけは、美鈴こそ見ているものの、どこか自問のような響きがあった。
美鈴はその答えを持っていない。学もなければ、芸術も分からなかった。せいぜい花壇に咲
く精魂込めて育てた花を美しいと思うぐらいだ。頭の内を形にして外に出そうとなど、思いも
したことがない。
だがそんな自分でも、思い一つで何かを生み出せるなら。小さな願い一つで、この時が永遠
に続くならば……
「そんなお願い聞けません」
陰りを見せる表情にかまわず美鈴は空に視線を向けた。広がる漆黒は、気づけばもう幾万幾
億の星の洪水に飲まれていた。その黒でさえ、色を付けて。
「だって咲夜さんを忘れたくないっていうのは……もうわたしの願い事だったもの」
やっと思い出した。美鈴の世界には、咲夜がいなければならなかったことを。
それを疑った。ただ十六夜咲夜が、己の知っている人間という形と違っただけで。それは後
悔だけしかなかったが……だがだからこそ美鈴は胸を張って思い描けた。もう二度とそのこと
を忘れはしない紅美鈴の姿を。
「そっ、か……」
美鈴の肩に伸し掛かるような重みがあった。見れば咲夜が寄りかかり、小さな頭を美鈴の肩
に乗せている。
「――さ、咲夜さん!?」
「気が抜けちゃったのかな。ちょっとだけ眠くなってきちゃった……」
「えっと、その……」
「お願い」
「…………」
「今だけは……こうして寝させて……。きっと、幸せな夢がみれるから……」
震えた声音に、小さな嗚咽。確かに聞こえたそれを――だが気のせいだと美鈴は流した。
「今日だけですよ」
「うん。おやすみ美鈴」
美鈴は、起きたまま夢想する。
咲夜が目を覚ましたら、またいつものように門番をさぼったことを咎められるのだろう。フ
ランが壊した壁も、自分がやったと言って修復しなくてはならない。パチュリーへの予約も取
り下げる必要もあった。
疲れる明日がやってくる。なのに、楽しいとしか、思えなかった。
「おやすみなさい。咲夜さん」
目覚めの言葉を口にできると信じて、美鈴はそっと呟いた。
(6)
分厚い本を捲る手があった。
錠を外すのは簡単ではなかったが――いざ読んでみれば手の主が驚かされるほどの目新しい
発見はない。
その手が最後の数ページで止まる。明らかに文章の書き方が違ったからだ。
――私信――
最後にまことに勝手ながら、彼女との付き合いで得た、私の感想をこの本の末尾とさせてい
ただきたい。
彼女はまさに探求の星の下に生まれた子だった。人でありながらも、全てを解き明かす定め
を持ち、そしてそれができる能力をなにもかも持っていた。
魔女だとしても、幾ら膨大な著書を読み漁ろうとも、概念から生まれた永遠の存在には勝て
はしない。私は少なからず彼女に羨ましさに似たものを感じ、そして彼女に嫉妬していた。変
われるものなら彼女になりたいとさえ思った。
だが彼女はただの少女だった。そう、調べれば調べるほどただの一人の人間の乙女でしかな
かった。
なぜなら彼女は夢を見ていたから。手の届かない恋に手を伸ばし続ける、夢見る少女だっ
た。
その恋は、永遠に成就することはないのかもしれない。
それでも彼女は、十六夜咲夜は恋をし続けるだろう。いつか必ずそれが叶うことを、いつま
でも夢見ながら。
探求者としての私には、それはどうでも良かった。だから彼女の存在に対する嫉妬も、羨望
も、いつしか消え、今はただ珍妙なこの女を観察する思いしか残ってはいない。
だが、もし一人の友人として言わせてもらえるなら、私はいつか彼女が愛を手に入れること
を、切に願ってやまない。
彼女が彼女だけの真実を手に入れる、その日を。
――著:パチュリー・ノーレッジ――
一度本を払って、書を閉じた。
今その書物を読んだと知る者は、指の主だけだ。そして挟まっていた薄い朱の細髪を払った
のを知っているのも、指の主だけだった。
目を覚ませば、朝の陽ざしに燦然と輝く湖面が咲夜の視野を埋め尽くした。
だが光には咲夜を覚醒へと導くだけの力はない。眦を擦っても、まだ眠気がひどかった。
どうやら、睡魔に勝てず外で眠ってしまったようだ。草の上に敷いた布のシートには、くっ
きりと跡が残っていた。
「――?」
ふと、隣に誰かいたような気がした。不安になって、意味もなくあたりを咲夜は見回す。
だがそんなはずはない。昨日からずっと、自分は一人だったはずだ。
まだ眠気が残っているらしい。
"気のせいか……"
知る事柄は確実に少なくなっていた。
残すはあと少し。ここにいればいずれそれが全て分かる。そんな予感が強くしているせい
か、気が緩んできたのか、こうして眠くなることが多かった。
これではいけない。気付けの意味も込めて、咲夜はいつもと同じようにバスケットから
ティーカップを取り出すと、火をつけるためにマッチを擦った。
やがて熱せられたポットから白煙があがり、咲夜は準備のすでに終わったカップに熱湯を慎
重に注いでいく。
もう何度となく繰り返したことだ。半ば微睡の中であっても、身体が作り方を覚えていた。
鮮やかすぎるほどに赤い紅茶は、だが咲夜が飲むためのものではない。目の前に飲む者がい
なくとも、注がずにはいれなかっただけのことだ。
いつかこれを飲む者が現れると信じていた。それが追い求めた答えの形であるとも信じて。
だがどうやら今日も願いは叶わなかったようだ。
それとも、咲夜がそうだと信じ縋った可能性は真実ではなく、やはりただの幻想だったのだ
ろうか……
「あら? いい匂いじゃない」
不意に背後から舌足らずな声がした。
囁き誘うような声音に、いつになく睡魔が大挙して押し寄せてくる。だがその一言に、今な
によりも咲夜の頭は冴えた。
この響きを、咲夜は知っている。忘れるはずがない。忘れられないほどに、かつて幾度とな
く耳にしたのだから。
その一言を夢見るだけで、どんな苦痛にも耐えることができた。たとえこの事実が同時に、
今ここで懐かしさを感じているのが己一人だけだということを、残酷なまでに告げていたとし
ても……
「お飲みになられますか?」
だとしても、咲夜は構わなかった。もう振り返るだけの力を眠気に奪われてしまっていたと
しても、後悔はなにひとつない。
逃げ水に心惑わされても、肌を打つ冷たさがあっても、歩き続け……ずっとその紅茶を再び
捧げることだけを夢見てきたのだから。
白い指先が、カップに絡みつく。啜り飲む音が、静かに響いた。
「……あんた、人間にしては出来すぎよ」
「お褒めにあずかり、光栄です」
永遠が、永遠でないことを咲夜は知った。
だが進む時間の真実のみが、時の娘ではない。なにもかもが終わりを告げた中、咲夜は唯一
爪はじきにあい、戻された。
そうして今やっと咲夜は確信する。本当の永遠は、永久に終わることがないのだと。
世界は零時を指しても壊れることない時計だった。
それは、他でもない。十六夜咲夜だけの真実だった。
だからもう眠ってしまっていい。瞼を閉じながら、咲夜はいつになく穏やかな気持ちでそう
思った。
再び目覚めたとき、おそらく何もかも忘れてしまっているだろう。だが咲夜に恐れはない。
胸に満ちた思いが、何よりも心地よかった。
あの喜びに満ちた日々が、きっとまた巡ってくるのだから。
何度でも、何度でも……
<了>
-Noctes Atticae-
(1)
始まりは、腕からだった。
血肉通わず、イメージとしてあるだけの広げられた五指。
具体的に意識されることは少なかった。いわんや意中にあることさえ知られずに忘れ去られ
るものは、その比ではない。時としてそれは腕ではなく脚や頭部、あるいは膂力や才知であっ
たりもしたが……つまるところ全ては同じところに帰結する。
だがどのような形にせよ、消え去るにはあまりに膨大で、絶え間なかった。水底の汚泥さな
がらに、思い描いた当人たちでさえ認識し得ぬところで溜まっていく想いの数々。
そうして、叶わぬ恋心が降り積もり、幾星霜が過ぎていった。歳月と呼ぶにはあまりにおこ
がましいほどの、幾星霜が――
だから『女』は、そこにいた。行き着くための不滅の肉(ししむら)と、自ら選択する魂を
持って。己が、誰かが、たどり付く筈であった真実のために。
……不意な眠気を押し込めれば、そんな当たり前のことがはっきりと胸に湧き出た。
「あら? あんた人間にしてはずいぶん出来すぎじゃない」
女の前に立つ幼い少女の声音は、舌足らずながらも妙に蠱惑めいた響きがあった。取り澄ま
した顔にも、子供が大人の真似をするだけでは決して含ますことの出来ない艶がある。
きめ細やかな肌と肉の薄さは、まぎれもなく人間の女児だ。だがこの表情にある玄妙さは、
特殊な趣向の輩であってもまず違和感を覚えたことだろう。
それは年端もいかぬ矮躯が匂わすにはあまりに不釣合いな、淑女の気品であった。
背から生え伸び、隠すことすらせず鷹揚に広げた皮膜の翼は――むしろ裏切りではない。こ
の少女が人知の理を超え、遥か過去に幻想へと消え去った御伽の物種であることを、無知なる
者ですら容易に知りえることが出来るのだから。
そしてこの寝物語が残酷極まりないことも。
永遠を生きるとされる、太陽に愛された者たちを喰らい、魂を堕落させる種族。
吸血鬼。それが少女の正体だ。
いくら子供のなりだからといっても、御伽噺となればまやかしでしかない。次の一節に控え
るのは、登場人物からすれば受け入れがたい恐怖だ。
だが、それでもなおこうして全て分かりえた上でそのおぞましい本を手に取ってみれば、女
には畏敬の念しか湧かなかった。
滴る飴の如く煌き輝く頭髪も、緋色に炯々と燃え盛る瞳も、小さな頤(おとがい)のラインで
さえ……慄然を越え賛嘆するしかない。女がこれまで見てきたどの夢現よりも、少女は美しい
夢物語であったから。
「あんた名前はなんて言うの?」
少女の問いかけに女は首を振るしかなかった。
名前はいくつもあったが、本当の名を知ることが出来た人間などこの世に数えるほどしかい
ないことを、女は知っていたからだ。
それに名前など、どうでもよかった。この誰もが到達しえなかった、そして何者かがなによ
りも強く望んだ夢物語の結末に辿り着くためならば、些細な問題でしかない。
「ふーん。じゃ、私がつけてあげるわ」
挑発的に、少女の人差し指が女の下顎に触れる。ついと持ち上げられたその先に、吸い込ま
れるような真紅の瞳があった。
「そう。またお前なのね。完成されすぎて、後ろに戻るには進むしかない、おろかにもかわい
いチクタクウーマン」
少女の小さな唇の隙間に、赤い影がちろりと覗く。慈しみともとれる、憫笑だった。
おそらくこの少女は、女が何者であるか気付いている。もちろん名前同様それとて、重要な
事柄ではなかったのだが……
「決めた。決まっていた。あなたは十六夜咲夜。今からメイド長、十六夜咲夜として、永劫私
に従属なさい」
"十六夜咲夜……"
その響きに、ふと女は懐かしさのようなものを感じた。
これまで誰一人として女をその名前で呼んだことはなく、自ら名乗ったこともない。だが確
かに遠い昔に、誰かにそう呼ばれた気がしたのだ。生まれたときから知っていた気すらする。
初めて耳にしたとも、受け入れたとも、思えない。
なのに、不思議と女には安堵しかなかった。疑問の一つあってもよかったが――形には成り
きらない。喜びも悲しみもなく、あるがまま言葉の響きが染み入っていく。
まるで十六夜咲夜と呼ばれることを、ずっと望んでいたかのように。
「それじゃあ咲夜。紅茶でも淹れてくださるかしら。人間の人間ですもの、もちろん淹れ方く
らい知ってるわよね」
「はい。お嬢様」
返事が、口を衝いて出た。
機嫌取りを考えることも、役割を振舞おうと思うこともなく、そうすることが当たり前のよ
うに唇は自然と湿り、喉が震える。御伽の本を捲り語るのではなく、それはあたかもページに
書かれた文章そのものだった。
鮮明さも、苛烈さもない感覚に、またしても疑念は形を成そうとしない。
ただ、理解だけがあった。
名前も、地位も、あたえられたのではない。女が十六夜咲夜になったのではなく、初めから
女は十六夜咲夜だっただけだ。それを知らず……もしかすれば忘れて、にも拘らずなおその幻
影に焦がれて、今まで生きてきた。
これまでの苦衷も葛藤も、喜悦でさえ、きっとここに来るために……ここに還るためだけに
あったのだ。逃げ水に心惑わされても、肌を打つ冷たさがあっても、歩き続けてきたのは、お
のれ自身とも言うべきその全てが教えてくれていたから。
――ないものなど、求めていないことを。
消え行くまどろみが、名残惜しげに告げる。
『よく見たら死にそうにない顔しているな』
『大丈夫、生きている間は一緒に居ますから』
『時間は無限にあるけれど』
どこで聞いたのか。いつ口にしたのだろうか。急に胸に言葉が溢れた。
だがいくら明確になろうとも、幻像は触れられない。それどころか……もう夢幻のままでい
いとさえ、思った。
誰とも知れぬ船頭の役目は、ここまでだ。そう思うだけで、あれほどしがみついてきた語の
数々が、泡のように溶けていった。
胸の虚が満たされていく。誰の想いでもない、十六夜咲夜だけの真実で。
だからもう、永遠に従者十六夜咲夜で構わない。今までの全てが霞むほどの価値が、十六夜
咲夜を人間にするものが、ここにはあるはずだから。
「ま、期待しとくわ。せいぜい思い出にも味付けされたあの紅茶を淹れて頂戴」
(2)
霧の濃い朝だった。
黎明を孕んだ虚ろな白一色。天地の判別こそつけど、裏切らず視野に入るのが、振り返りざ
まになびく赤髪と、ひるがえる"旗袍<チャイナドレス>"の裾だけとなれば、武人とはいえどこ
か心もとなかった。
なによりただ一歩が、あれだけ堅牢無敵と信じた、背後にそびえる巨大な洋館を瞬く間に消
してしまう。
今に始まったことではないが、紅魔館門番としての矜持がある身としては――妖怪紅美鈴は
この霧が好きではなかった。
「どうしたものか……」
だが、このときだけは寧ろありがたかった。こうして手慰みに前進と後退を繰り返してるだ
けで、心がかき乱される。
余計なことばかり考えていれば、時の流れが洗いさってくれる気がしたからだ。
悩みはするが、少しも問題は無い。館の頭脳、さらにはあの幼くも博識な当主さえ、気付い
てはいない態だった。就任より少し経つが、話題にしたことさえない。そして、人の尺度から
すれば長い間柄である美鈴には、断言できた。
"そんなはずはない"
掛け値なしの評価。あの二者のことだ、一介の門番風情では及びもしない考えがあるに違い
ない。むしろ誰も得をしないとさえ思えるのだから、取り立てて会話に組み込まないのは至極
道理と言えた。
武人には、常人には分かりえぬ感覚というのがある。加えて極めて人に近い妖怪において、
こと気の巡りを感じ取る、という点では、紅美鈴には非凡の才があった。
一生を費やした研鑽の果てでさえ、至れるかという域。その位置に立つ美鈴が感じた不和。
それを気に留めない、強大な当主。そこに惚れ込み仕える身としては、なにを基準にすればい
いのかは、明らかだった。
だからこのままでいい筈なのだ。
この前、おもしろいものを買ってきたと意味ありげにはにかんだあの顔に、同じように笑み
を浮かべ返せば……
「でもなぁ。どうしたものか……」
「あら美鈴ともお方が、珍しい。証拠を録音しようと思ったのに、朝から惰眠よりも考えごと
を取るだなんて。起きてるだけ褒めるべきなのかしら?」
情緒を程々に慎んだ声に、聞き覚えのある毒が混じる。だが吐きたいのは、むしろこちらの
方だ。
「そりゃあ、わたしにだって悩みの一つや二つ……うわっ!?」
思わず身構えてしまった。ふと気付けば、すぐ隣に例の当人がいたからだ。
「さ、咲夜さんッ!?」
エプロンドレスの乙女の姿が、霧からくっきりと浮かび上がっている。のみならず、無駄な
く筋肉のついた体格や凛とした佇まい、人形を思わせる整った小柄な顔立ち、なによりこの気
配は――紅魔館メイド長、十六夜咲夜に他ならない。
美鈴が驚いた拍子に、咲夜も虚をつかれたようだ。そのくりっとした、ガラス玉のような瞳
があらわになった。
「なによ。人をまるで化け物か何かみたいに」
かと思えば、自然にもとの柔らかい微笑に戻った。ただひとつ、柳眉のちょっとした……い
やかなり寄って曲がった角度だけが、咲夜の心情を表している。当然それも、元のままの位置
だった。
考え事をして、視野も効かない。だが目は開けていた。こうも近づかれ、声がなければ存在
に気付かなかったのは、武術家としては度し難い怠慢である。役職からしても、咲夜の言葉の
棘は然るべきものだ。あの眉はそちらでの意味なのだろう。
いずれにせよ、普段なら即刻謝っているところだ。
「いえ、あの! えっと……!」
だが返しの言葉があまりに的を射ていた。謝罪までの流れが、咄嗟に何も思いつかない。さ
らに追い討ちに――
「そういうわけではッ!!」
不自然な裏声が味を付けた。
「――? どうかしたの? なんだか昨日から、よけいにおかしいけど」
「い、いやだなぁ。なーんにも、変わりなんてないですよ!!」
身振り手振りを加えてみる。そのあからさまに妙な態度に、眉が訝しげに角度をつけた。
"あぁどうすれば……"
これではそのまま話が進んでしまいそうだった。親しいがやりづらい、というのは前からだ
が、今はなおのこと。問題がないなら、寝ずに悩みなどしていない。
しどろもどろになりながら視線をあたりに飛ばす。なにか話題でもないかと思ったが、こう
いうときに限って、霧の白しか目に入らない。
「あっ! そ、それ! その四角いやつなんですか?」
しめた、とばかりに指差す。表情ばかりに気を取られていたが、見慣れないモノを咲夜が
ずっと片手に持っていたからだ。
小ぶりなそれは、西洋仕立ての旅行鞄のようであった。だがところどころの金属の鈍い輝き
が、装飾とはまた別の意図を醸し、なにやらスイッチらしきものもいくつかある。
突然矛先を変えられ、咲夜はきょとんとした態だった。
「あぁ、これ? これはラジカセ」
「ラジカセ?」
「そう。ラジカセ」
「へぇー。ラジカセ」
「満足した?」
「いやいや!? な、名前だけ教えられても!?」
本当にその説明だと思っていたらしい。慌てた美鈴に対して、ようやく合点がいったように
咲夜は小さく何度か頷いた。
ときどき、こんな風にどこか抜けたところがあるのが、美鈴の知る十六夜咲夜だった。類稀
な特殊能力も合せて、メイドという役職において彼女の右に出るものはいないはずだ。なのに
私生活では、どこか世間知らずな感と、ずさんさがあった。
だがそれも、決して評価を下げるような域まで至ったことはない。仕事ぶりからすれば、時
には別人かとも思うほどの有様、ひいては失言や粗相があったが、なぜかいつもおちゃめで
通ってしまう。
それを狙っているようではなかったから、美鈴にはそれさえ汚点とは思えなかった。
そう。あくまで絵に描いたような完璧な女だった。
「これはね美鈴、音を残しておける機械なの」
どうやら話題変えは成功したらしい。先ほどの表情の変化とは打って替わり、花咲くような
ぱっとした――どこか自慢げな笑みが色を添えた。
「音を?」
「そっ。テープを入れてね。……あぁ知らないわよね」
咲夜はもう片方の手を眦の高さまで上げると、空を掴むように勢いよく捻ってみせる。たっ
たそれだけの動作。だが何も無かったはずの二本の指先には、まるで魔法かなにかのように、
小箱ともカードとも言いがたい厚みと大きさの長方体が挟まれていた。
「これがカセットテープ。それでこれをラジカセに入れると記録した音が出るの。例えばこん
な風に」
どうやらカラクリ仕掛けだったようだ。手捌きに目を奪われている間にだろうが――気付け
ば側面の一部がポケットのように展開しているラジカセに、咲夜は今しがた取り出したテープ
を軽く押し込むと蓋を閉じた。その指先が、流れるようにボタンの一つに触れる。
すると、先ほどまでただの重たげな鞄にしか見えなかったラジカセから、からからと軽い音
が漏れ始めたではないか。
内部で噛み合うような音がひときわ鳴り……そしてラジカセは沈黙した。
「あれ? あの咲夜さ――」
『こらぁ!!』
「――うぁあ!? レミリアお嬢様!?」
突如ラジカセから響いた怒号に美鈴は肝を潰された。どこか薄れた感はあるが、声は間違い
なく紅魔館当主レミリア・スカーレットのものだったからだ。
「ど、どうしてお嬢様が!? あの? えっ!?」
『咲夜! また変なの紅茶に入れたでしょ!』
「え? 咲夜さん?」
『変などではありません。臼で潰した蛇に、"杜鵑草<ホトトギス>"の花粉、あとパチュリー様
に貰った超人の垢と、翡翠の粉末を足しただけです』
『鍋じゃないのよ!!』
『あ、なら翡翠は肝臓の方が良かったですね』
『噛むのも億劫ね。もういいよ! あーのど渇いた。すぐに別の――』
そこで、ラジカセから聞こえていた声は止まった。見れば咲夜が別のボタンに指をかけてい
る。そして再び、今度は何か歯車が回るような音がしたかと思うと。
『こらぁ!! 咲夜! また変なの紅茶に入れたでしょ!』
先ほど聞いた言葉がラジカセから発せられた。
「あ、あぁ。なるほど。お、おもしろいですね咲夜さん。そのラジカセとかいうの」
にっこり微笑みながらテープを取り出す咲夜の顔と合せて、ようやく納得がいった。推察す
るに聞かされたのは過去の……ある意味、紅魔館の日常茶飯事だろう。原理は分からないが、
音を記録できるというのは本当らしい。
口元を手で隠して咲夜が破顔した。
「お嬢様の紅茶の反応を記録しとけば、もっと喜ぶお茶を淹れられると思って、こないだ市井
(しせい)の雑貨店で買ってみたの。でも、なおいいこと思いついたから、少し出かけるわ」
「あぁそうだったんで」
出会いざまに小言をかけられたから、てっきり見回りにでも来たのかと美鈴は思っていた
が、どうやら違ったようだ。
「でもこんなに早く外出って、どこにですか?」
時に奇術師めいたことをするのが咲夜だ。美鈴も何度かトランプやナイフを使った妙技を目
にしたことがある。ただそれは腕前を披露というより、それを見た側の反応を楽しむためと
いった風に感じられた。
カセットテープにしても取出しからわざわざ勿体つけたあたり、そういう意図があったのか
もしれない。
ラジカセから声を流すだけでも、かなりの反応をえられるはず。見たい側としては、使い方
によれば最高の玩具であろう。美鈴にはその程度しか考え付かなかった。
「前に美鈴には話したかしら? 幽霊楽団の三姉妹がいるって」
「え? あのたまにライブしてるっていう?」
「そうそう。でね、近くに住んでるそうだから、その音楽を録音させてもらおうかと思って」
「咲夜さん、音楽が好きなんですか?」
初耳だったのも合せて、美鈴は少し驚かされた。
もちろん、突然のきっかけで趣味に目覚める、というのは滅多にない話ではない。この館の
主が容姿のままの幼いわがままごころで体現してきた数々、それ目にしてきた美鈴には、よく
よく理解もできていた。
風評だが、騒霊の三姉妹が奏でる音楽にはかなりの人気があるらしい。それを咲夜が気に
入ったとしてもおかしくはないはずだ。
多忙な身の上だが、録音しておけばライブまで足を運ぶ必要はない。ずいぶん合理的ではあ
るが、それでも美鈴はこの乙女に、久々に容姿相応の純情さを見た気がしたのだ。
続く咲夜の笑みは、今日出合った中で一番の晴れやかさだった。
「ううん。聞けばあの子達の音楽って、精神に影響するそうよ。だったら録音した音楽を流す
だけで、お嬢様の感情をコントロールできるかもしれないじゃない。小さなご機嫌取りなんて
しなくてすむから、ずっと楽に仕事できるようになるわ」
「は、はぁ……。そう……ですね。あー、うん。それは素晴らしい……」
霧を愛撫するかのように、咲夜のスカートがゆったりと踊った。無防備に美鈴に向けた背
が、靄の白に薄まる。
「そういうわけだから、ボーとしてないで。ちゃんと留守番頼んだわよ。遅くても、おゆはん
どき……日が落ちるころまでには戻るから」
「……はい」
その今にも消えてしまいそうな姿に、美鈴はかける言葉をもっと持っていたはずだった。
武と遊戯が同義なのがこの幻想郷。外界とは比べるほどもなく、危機は希薄だ。だから美鈴
も、職務中たまに船を漕ぐことはあった。見つかり小言を聞くのも、気配に対してあえて浅い
眠りを通してみるのも、珍しいことではない。
いつものように咲夜の時間を、拝借することもできたはずだ。本質は咲夜と同じだったのか
もしれない。美鈴も見たかったのだ。この悪魔の館に新しい風が吹く様を――
だが、そんな言葉の数々を、今は心のどこかで誰かが嘲る。壊れないと信じていたからこ
そ、なにをしてもされても平気だったのに……打ち壊すものだねひとつ持っただけで、それが
美鈴の魂の全てに根を張り始めた。
咲夜の小首が傾いだ。後ろ向きのまま、艶やかに眇めた瞳だけが美鈴を見つめる。反して眉
だけが、懸念と不満を物語っていた。
「ほんとうになにかあるなら言ってよ? どうせ処理をするのは私なんだから、聞くだけです
むほうがいいわ」
「……あの。咲夜さん」
「なぁに?」
「その……。いいえ。なんでもないです。なんていうか……たんに行ってらっしゃい、て言い
たかったのに、どうしてか言葉につまって」
頭をかきながら、美鈴は歯を出して大きく笑って見せた。
なぜこんなときに限って朴訥なのか。いつもの快活さはどこにいってしまったのだろう。
美鈴には、自分の発した台詞とはまるで思えなかった。逡巡は――時間を稼ごうと囁き、取
り繕った笑顔の仮面を提示するばかりだ。
呆れたか、それとも本心から杞憂だと思ってくれたのか。どうにせよ、安堵したような咲夜
のため息交じりの一笑が、今の美鈴には救いだった。
「いいわ。じゃあ、おせおせモードで行ってきます。変な美鈴さん」
「はい。行ってらっしゃい」
片手を振りながら、咲夜が歩を進めた。小さな一歩にも関わらず、濃霧は咲夜の存在を影だ
けにし……そしてもう気配だけしか感じ取れない。
まるで霧に帰っていくかのようだった。あの日の再現を、逆回しにしているかのように。
「行っちゃった……」
忘れもしない。あの日――初めて咲夜が紅魔館を訪れたときも、霧が濃かった。白く染めら
れた世界から、まるでそこで生み出されたかのように唐突に気配がしたかと思うと、目の前に
一人の女が現れたのだ。
まだ武が遊戯に取り込まれる前の時代。だがどういう気まぐれか、美鈴はそのままその不詳
の輩を通した。なぜか疑問さえ湧かなかったことだけは、よく覚えている。
そして次の日にはその女の名が十六夜咲夜だということが屋敷中に知れ渡り、人間にも拘ら
ず館のほぼ全てを任されるまでになっていた。
時間を操り、ひいては空間までを歪める。咲夜にはそれができた。屋敷内部を外見の何十倍
も広大にしたり、チーズやワインを瞬時に醗酵させたこともある。直接見たわけではないが、
止めた時間の中で動き回ることもできるようだ。
だから人間には過ぎた役職といえど、美鈴が疑問を捨てるのは早かった。今となっては畏敬
どころか、羨望さえ抱いている。特別な学のない美鈴だったが、時間の支配がいかに強大か
は、感覚として重々理解できていたからだ。
だが少し考えてもみれば、それは人間の持てるような力だろうか。
疑えば、いくらでも掘り下げられた。
思えばあの時、門を通ったのは本当に咲夜だったのか。たしかに気配は十六夜咲夜のもの
だった。だが館で雑務をこなす姿はいくらでも思い浮かぶのに……初めて門で咲夜を目にした
とき、どんな風貌だったか。なぜか穴が開いたように、なにも思い出せなかった。
そしてあれほどまでに、全てが完璧な人間が、本当にいるだろうか。
きっかけは小さいものだった。気の巡りが、一定だったのだ。
生類にはそれぞれ、固有の気の動き方があり、それが気配として外に出る。鼠には鼠の、草
木には草木の、といったふうに。もちろん妖怪にもある。咲夜の気配は、あくまで人間のそれ
だった。
だが不変というのは、人間ではありえない。人とは死に向かう生き物だ。どうあっても気の
流れが弱まる瞬間がつきまとう。才のある美鈴は、集中すれば気配どころかあらゆる万物の気
脈の動きを感じることが出来た――そして、咲夜には、それがなかった。
美鈴は止めた時間の中で、唯一動ける者の時がどのように動くかは知らない。だが進む時の
中では、美鈴と咲夜は等しく時計の針が進んだはずだ。
なのに思い返してみれば……咲夜はどこか変わっただろうか。たしかに紅魔館に来た当初に
比べて性格は朗らかになったように思える。だが人間にしては長い館での生活で――十六夜咲
夜が少しでも歳を取っただろうか。
解決の方法は簡単だ、咲夜に聞くだけでいい。だが咲夜は今まで言わなかった。
それは言う必要のないことだからなのか、それとも……言ってはならない禁忌だからか。
美鈴は恐ろしかった。得体の知れない何かがこれまで傍にいたことが。
だがそれにも増して怖かった。聞いてしまえば、この霧に消えてしまったように、今までの
全てが失われてしまいそうで。
果たしてそれを口にしたあと……咲夜は、美鈴の知る今のままの十六夜咲夜でいてくれるだ
ろうか。
「やだな……。忘れたいのに、なんでこんなときだけ馬鹿になれないんだろ……」
昨日、好奇心で咲夜の気を探ったことを。顔も覚えていないのに、気だけ覚えていた――こ
うも咲夜が大きくなるまで疑わなかった己を、ただただ美鈴は憎むしかなかった。
いずれ、咲夜は感づくかもしれない。もし先ほどのように詰め寄られれば、また誤魔化し通
せる自信が美鈴にはなかった。
方法は、ほかにもある。お互い知ることが損ならば、片側が全てを知りそして何も知らない
フリをし続ければいい。
一歩下がった。白の世界に、浮かび上がる巨大な館。なにも直接聞かずとも、あそこになら
答えが溢れている。
咲夜から、門番の仕事には釘を刺されていた。蚊帳の外だった身は、黙ってそれを通せば良
いはずなのだ。だが今は、たとえ真実を教えてもらえずとも、明確な命令が美鈴は欲しかっ
た。すがれるなにかを一つでも。
「咲夜さん……あなたは、本当に……」
"人間なんですか――?"
美鈴は一人、霧の中で呟いた。
(3)
咲夜の能力で拡大された紅魔館は、さながら迷宮の様を呈している。入り組んだ廊下や、無
限とも思える客室の扉。その反復は日を取り込む窓が極端に少ないのも合せて、常人の感覚を
失わせるに足る狂気を秘めていた。
まだただの居館だったころを知っていれば――悪魔が住むにはなお相応しい場所になったで
はないか。もの悲しげに響く一つの足音を耳にするたびに、降り積もる想い。美鈴は紅魔館の
廊下をずっと歩き続けていた。
美鈴は俗人ではない。そうでなくとも、長年の奉公で頭だけではなく感覚としても内装図は
持っている。だから決して、目に見える道に迷っているわけではなかった。
この時間帯に咲夜が出かけたとなれば、最も正解を持っていると思われる者は、吸血鬼とし
ての性質に従い眠りについているのかもしれない。最近は朝にまで活動し、ふらりとどこかに
行くこともあったが、従者を同伴しない場合は滅多になかったからだ。
睡眠といえど、起こせば主の予定を狂わせるのに違いはない。ある程度の厳罰は覚悟の上
だった。
だがいっこうに辿りつけない。むしろ、ほとんどわざと道順を間違えてさえいた。そうして
真実から遠ざかっているにも拘らず……埃ひとつ落ちていない、ガス灯がぼんやりと染める館
の中は、どこに行っても十六夜咲夜の微かな匂いがする。
これが現在の紅魔館。これが、今の美鈴を取り巻く世界の一部だった。
"痛い……チクチクする……"
気付くまでの幸せを思えば、目に映る何もかもが責具でしかない。薄暗いはずの屋敷内が、
妙に眩しかった。
本当は木陰でいつもより深く居眠りをしていて、そのまどろみの内容は地下の大図書館で読
んだ怪奇物そのままで、今も魘(うな)され続けているだけなのだとしたら――だがたとえそう
だとしても、夢路を終わらせる手段が同じなら、現実も悪夢も大差はない。
ならばこの夢の始まりとはどこからだったのか。昨日咲夜の気を読んだ時点か、それとも
……この館が変わったあの日からずっと続いているのでは。
夢にしろ、現だとしても、実際は何もかもが紅美鈴のこしらえた、都合のいい幻だったので
はないか。
"馬鹿だ……馬鹿、馬鹿ッ!"
ドアノブを捻る度に、美鈴は歯噛みする。
まやかしなはずがない。
どんなに寝姿を想像してみても、その隣には一人の女の姿があった。悪い夢から覚める様を
思い浮かべても、まず目に入るのは、心配げに顰めたあの柳眉。
ころころと万華鏡のように変わる表情を、ずっと見てきた。あの憂いで、あの活気で、妖怪
の紅美鈴の心に映るモノの鮮やかさを増して見せてくれた、最初の人間だったではないか。
"夢なんかじゃない。咲夜さんはずっと……いたんだ。なのに、なんで信じれない!?"
就寝室に足が生えていないだけマシだった。真実は決して寄り付いては来ない。近づいてい
るふりが、板ばさみの美鈴の感情の、唯一思いつく誤魔化しだった。
"一緒だ……門の前で立ってるだけと同じ……変わらない"
扉を開ければ広いエントランスホールに出た。不気味な壺や生前の勇ましさそのままの獣の
剥製といった、当主自慢の珍品が陳列棚に幾つか飾られたそこは、立ち居地こそ違えど今日見
るのは二度目だ。迷走しているあいだに、入り口まで戻ってきてしまったらしい。
もちろん、行き先を決めるわけにもいかなかった。幾つもある扉のうち、もっとも遠いと思
われるものをまた見定めると、エントランスを横切ろうと歩を進める。
「あら? 門番風情が主を無視とは、いい度胸ね」
恐ろしいほど鮮明に、舌足らずなはずの声を美鈴の耳はとらえた。
聞き間違えようはずもない。動悸が、戦慄きとなって身体を駆け巡った。職務放棄を見られ
たからではない。来ないと思おうとしていた真実が、目の前に現れたからだ。
「レ、レミリアお嬢様ッ!?」
陳列棚の一つの前に、美鈴を見上げる紅く艶やかな視線があった。貴族の少女の態――にも
関わらず、背から生え伸びた皮膜の翼が微かに動いただけで、魂を握られたかのような圧迫感
がある。
決して人が持つことの叶わない恐怖。紅魔館現当主にして長女、レミリア・スカーレット嬢
に間違いなかった。
「いったい、どうしてこんなところにっ!?」
「なにか? 主人が自分の館を好きにうろついて、問題でもあるのかしら?」
「だ、だって……お、お嬢様は吸血鬼で……その……」
「美鈴。私の名前を言ってみなさい」
「え? レミリア・スカーレット……様ですけど」
「そうよ。問題あるかしら?」
「……いいえ」
「よろしい」
美鈴は失念していた。レミリアは吸血鬼としての強大な力や不老不死そのものには誇りを
持っているものの、吸血鬼として他と大別されることを嫌っていたからだ。
「それよりも問題なのはあんたでしょ?」
「う……」
「仕事ほっぽって館にいるわ。あまっさえ主にまで気付かない。いっそ門番辞めてみる?」
「そ、それは……」
レミリアの軽い口ぶりは、いつものことだ。平生なら、半分本気で美鈴も大げさに驚いてみ
せるところだった。だが今は、冗談には思えない。
萎縮してしまったのが気にくわなかったか、レミリアは肩をすくめた。
「まぁいいわ。不問にしてあげる。代わりに質問に答えなさい」
「……はい?」
「昨日置いてみたの。この板、どう思う?」
レミリアが鋭く伸びた爪先で陳列棚を叩く。
黒ずんでいて素材は銅か鉄か判断できないが、台の上に飾られているのは、少し大きめの札
ほどの板だった。だが灯火の僅かな光に浮かび上がる溝には、目を眇めれば確かな意図が込め
られているのが見て取れる。
版画の原版だろうか。板の上には、机にもたれかかり腕に顔を埋めながら眠る人間の姿が彫
り刻まれていた。
「どうって言われましても……むぅ……」
美鈴は言葉に詰まった。眠りこける人間は、簡素だが的確に描写されているように思える。
だがその背後では、おびただしい数の蝙蝠やフクロウ、獣が蠢き……そして本当にそれであっ
ているか不安になるほど、どの生物もどこかあやふやだった。
まるでこの人間に、よく知った動物と似通った怪物が群れで狙いをつけているかのような様
だ。芸術には疎いと自覚のある美鈴だったが、好みを抜きに考えても、もしそうなら決して趣
向の良い品とは言えなかった。
「そもそもこれ、どういうものなんですか?」
「知らない」
「えっ?」
「使わない客間の額縁に入れてあったのを昨日移動したの。買ったのかもしれないけど、いち
いちどこの出だとか覚えてないわ。なにを思って作られたのかも、ね。でもそんなこと別に大
した価値もないわ」
こともなげにレミリアは嘯く。
「いいと思ったから置いたの。それだけよ」
「はぁ……」
その所以が分からず、美鈴は生返事をするしかない。家臣の薄い反応に、対してレミリアは
なぜか思ったとおりだと言わんばかりに不適に笑んでみせた。
「化け物が人間を襲おうとしてる趣味の悪い絵、とか思ったんでしょ?」
「うっ。どうしてそれを」
「顔に書いてるわよ。なになに、ほんとのこと言ったらすねるからやめとこう、ですって?」
「ひぇええ……」
「手で隠してもムダムダ。そもそもいちおう付き合い長いあんたの考えそうなことぐらい、顔
見るまでも無いわ」
「それは、嬉しいような、傷つくような」
妙なこそばゆさに、しどろもどろに返した美鈴だったが、そこでふと思い至った。レミリア
の意地悪げに細めた目元が視野に入ったからだ。
「だったら、わざわざ聞く必要なかったんじゃないですか、お嬢様?」
美鈴はこの眼差しとくすぐったさを知っていた。
この視線と共に、レミリアの悪戯心に何度弄ばれてきたことか。これもその一環で、悪魔よ
ろしく困惑する様を面白がっているのだとしたら。
毎回決して気分は悪くないのだが、美鈴は訝しさを抱いた。だがレミリアは、太陽に嫌われ
た種族と思えないほどに、当然だと言わんばかりに朗らかな表情を浮かべる。
「だって、想像ひとつで美鈴が出来上がるわけないでしょ? もっとほかの答えが返ってくる
かもしれないじゃない。期待通りの期待ハズレか、期待ハズレの期待通り。どっちに転ぶか
は、こればっかりは、聞いてみないと分からないんじゃなくて?」
「確かに、そうですけど……お嬢様にも分からないことがあるなんて意外です」
「あんた妖怪のくせにたまに変に人間くさいから。昨日と今日が本当は地続きじゃないって、
いい例だわ。これでも二通り考えてたのよ。まっ、水を超えて冒険して見れたのが、期待した
妖怪紅美鈴の方の考えだったけどね。明日聞いたほうが良かったかしら?」
「あれ? じゃあ人間で、だとどういう感想だったんです? お嬢様の中のわたし?」
小首を傾いだ美鈴に、レミリアはとぼけた口調でわざとらしくゆっくりと唇を動かした。
「さっき何て言ったかしら? どっちもくだんないから忘れちゃったわ」
「あ、あれれ? な、なんか遠まわしに」
「ばかにしてる」
「あっちゃあ……」
「ただ覚えてる限りだと、どっちも人間じゃないわよ。二つとも妖怪美鈴で考えてたわ」
「これ、そんなに言うほど違う見方できますかねぇ?」
「変更の余地がないほど趣味が悪い、て解釈でいいかしら?」
「い、いやだなぁッ! 違いますよ!!」
改めて板に向き直ってみる。相変わらず、眠る人間を取り囲む動物の図だが……先ほどの滅
入った気分とは違うせいか、よくよく眺める気になってみると、彫られた生き物の瞳がどこと
なく愛嬌のあるようにも感じられた。
ならば、果たして腕に隠れたこの人間の表情はどうなのだろう。やはり素直に鳥獣の群れと
は思えないが、もしこれが襲おうとしている異形でないなら、この悪夢めいた光景は……実は
幸福な様子なのではないか。
「気のせいよ」
思案の狭間に、不意にレミリアの一声が割って入る。あまりに心中を見透かされたような言
葉に、思わず美鈴はレミリアに向き直った。
レミリアはすまし顔で二、三度陳列棚を叩いてみせる。
「板よ、美鈴。これはただの板」
「は、はぁ……」
「彫ってあるから色々考えるだけよ。でも、これを玄関に持ってきた私の趣味の良さ、理解し
ていただけたかしら?」
「どうでしょうかねぇ。ま、まぁなんとなく」
「なら決まりね!」
突然レミリアが胸元で手を打つ。
音の快活さになぜか美鈴は嫌な予感がした。目に付いたのは、ぱっと爛漫に輝く幼い女の緋
色の瞳だ。
「そうよ。やっぱり置いてよかったわ! あ、じゃあその壺とそこの絵。これより目立つから
移動して! 壺は食堂にでも、その絵は――」
「うげぇええ……」
(4)
ペンの手を休めるとその美女は気だるげに、だが身を正しながら向き直った。豊かに伸びた
髪が、一挙一動のたびに腕や肩に触れては、ガス灯の光に艶めき滝のように落ちていく。
思慮深い微笑。レミリアとはまた違った雰囲気の気品を、白肌の女は持っていた。
「なぁに? 美鈴じゃない? こんな時間に図書館なんて、見つかったらレミィのいい餌よ」
「恥ずかしながら、とっくに見つかってます」
「そっ。よく逃げてこられたわね。見習いたいけど、身体が弱いとムリそうね」
照れ隠しに顎を掻く美鈴に、魔女パチュリー・ノーレッジはおだやかに頬を緩める。
あの後……レミリアが思い付く下知のままに陳列棚の重い品々を十数点も移動させられるは
めになった美鈴だったが、終わってエントランスまで戻ってきてみると、そこに当主の姿はな
かった。
昼から何時間も過ぎていたが、食堂どころか就寝室にも見当たらない。念のため先々で雇い
の妖精メイドに聞いてみたが、どれも昨日のことばかりだった。指示を出して遊びに行く、と
いうのもあのレミリアの性格ならあながちあり得なくもない。
労働で気がまぎれたせいか、ようやく悩みの種である咲夜のことを聞こうと思えるまでに
なったというのに……少々残念だったが、割り切ればすでに足は別に向いていた。
幾つも階段を下り、地下の扉のひとつを開けてみれば、天井まで届かんばかりの押し迫るよ
うな巨大な本棚の群れ。薄暗いそんな大図書館を奥まで突き進めば――果たして、やがてぼん
やりとした明かりに照らされた机と、そこで物書きに勤しむ女魔法使いの姿が見えた。
館の頭脳にしてレミリアの古くからの友人。なりは若者だが、齢は百を数える。となれば、
咲夜の正体についても知っている可能性は高い。
いや……気配を信じるなら、もう一つ話が聞ける可能性が極めて低くてもあるのは僥倖だろ
うか。会話に気付いたのか、気配の主が物陰からひょっこり顔を出した。
吸血鬼よろしくか、それとも姉妹ゆえか。闇に爛々と紅の眼の軌跡が燃え踊った。
「おー! 美鈴じゃん! ごきげんあそばせ」
「フランお嬢様。こんにちわ」
現れたのはレミリアの妹、フランドール・スカーレットだった。持っていた小さめの本を閉
じると、仕える身であるはずの美鈴に、うやうやしくドレスのスカートの裾をひっぱると軽く
頭を垂れる。
金糸のような髪が揺れた。だが何より目を引くのは、姉のレミリアのそれとは異なる翼。
まるで宝石が豊かに実る魔性の枝だった。吸血鬼とは到底思えない歪な形状と爛漫の輝きだ
が、この美しさはいつ見ても美鈴は賛嘆するしかない。その煌きに、どこか残酷なまでの妖し
さを見たとしても。
美鈴が目を奪われたその僅かな隙に、気付けばいつのまにかフランはまた手にした本を開い
ていた。
「二つで十分ですよ」
「え?」
突然の言葉に声を失った美鈴。だがフランは声音を低い男の口調に変えて続けた。
「いや、四つだ」
「……」
押し黙った美鈴に構わず、フランはページを捲っていく。その視線は、もう御伽に夢中な乙
女そのものだった。先ほどの芝居がかった言い回しは……フランの様子からして、その本に出
てくる登場人物たちの台詞だろうか。
やはりうまく可能性が幾つも転がっているわけがない。気配の強大さを考慮すれば知ってい
そうだが、フランとレミリアは姉妹だ。違った形であしらわれそうなのは予期していた。そも
そも情緒不安定なフランの性格を知っていれば、まともな会話さえ危うい。
囀りのような笑い声がした。パチュリーだ。美鈴が向き直ると、パチュリーは一間置いて小
首を傾いだ。
「で、どうしたの美鈴? また暇つぶしの本でも探しに来たの?」
「いえ、そうじゃなくて……相談が」
「相談?」
「はい。あの、実は咲夜さ――」
「ストップ」
先のゆったりとした動作とは打って変わり、パチュリーは指揮棒のごとく勢いよく振るいペ
ン先を美鈴に向けた。
言葉に詰まらされた美鈴の前で、パチュリーは書きかけの一冊の分厚い本を閉じる。
「ちょっと、いま翻訳作業してるの。幻想郷しかしらない白黒田舎魔女向きにね」
「は、はぁ」
パチュリーが息を吹きかけると、突如表紙に無数の光る文目が走った。記号か文字か判別で
きない模様が数種現れては消え、錠が独りでに閉まり……そしてタイトルと思しき文字が浮か
び上がる。
日本語のカタカナだろうか。字体が崩れていてそうだとは言い切れず、意味は少しも分から
ないが、『ストウハ』と美鈴には読めた。
「だからね、美鈴。今はよけいな問題増やさないで。さっさと翻訳終わらせたいの。これ片付
けてから……明日にでも来て頂戴。聞いてあげるから」
「翻訳、ですか」
「魔理沙の話だと、再思の道の近くに落ちてたの拾ってきたそうよ。面白そうな小説だから、
だそう。でも電気だの火星だの、なに言ってるのか分からないから、分かるように書き直して
くれ、ですって」
「別に無視してもいいんじゃ……」
魔理沙といえば紅魔館に出入りしている人間の一人だ。パチュリーの数少ない魔女繋がり
……というより腐れ縁と言うべきか。といっても、そこまで恩を売るほどの相手でもないはず
だが。
パチュリーはしょうがないと言わんばかりに肩を竦めた。
「代わりにね。欲しいキノコいくつか取ってきてくれるって。どうせでまかせでしょうけど」
「やっぱモノですかそうですか」
「だから、ね?」
「どうしても……今は無理ですか? 大事なことなんです」
「それはあなたの大事でしょ?」
「……そう、ですが」
暖簾に腕を押している……そして布にまとわりつかれているかのような感覚に、美鈴は言葉
が詰まった。
この図書館はまさにパチュリーの城だと言っても過言ではない。それも状況によって変化す
る、学の浅い放浪者には特に難攻の城塞だ。
パチュリーは魔女としての生を学に捧げている。その探求を邪魔されぬためなら、たとえ顔
見知りだとしても、会話なら巧みに先回りし閉口させ、もし声を大にして叫ぼうものならその
前に口を塞ぐことも厭わないことを、美鈴は知っていた。
そもそも、茸と天秤にかけられるのは不服だが――パチュリーが頑としてそう言うなら、レ
ミリアの友人として立てなくてはならないだろう。それなら、まだレミリアを探すほうが早い
はずだ。
「……むぅ。分かりましたパチュリー様」
「悪いわね美鈴。あ、そうそう。予約分のギブアンドテイクよ。ひとつ聞いてもいい?」
「はい? いいですけど」
「大したことじゃないわ」
パチュリーは錠のかかった本を小突いた。
「この翻訳前の物語にはね、電気っていう力で動く機械仕掛けの動物が出てくるの。でも魔理
沙は電気なんて知らないから、魔力で動く動物人形、て訳したわ。あいつの知り合いに、そう
いうのも研究してるのがいるから分かりやすいと思って」
「ま、まぁ……分からなくはないですね。私には縁遠そうですけど」
「でね、その人形の種類の中には、人間の形をしているヤツもあるの。それどころか、人間と
同じように飲み食いもするし、話もするし、記憶や感情もあって、本物の人間とまったく区別
できない。でも作られた存在」
「…………」
「そうね、違いは生まれ方だけだとするわ。美鈴はどう思う? そんな人形がもし、自分のこ
とを人間だと言い張っても、やっぱりそれは人間じゃなくて人形なのかしら?」
パチュリーがゆるく握った拳の上に頬を乗せる。たったそれだけで、先ほどまでの艶然とし
た笑みが、好奇心に緩んだ口端へと変わった。
「うーん。いいんじゃないですか。人間でも」
己でもびっくりするほど、美鈴はなめらかにその返事を口にした。
だが驚きは、パチュリーの方が上だったようだ。しばらく惚けたように美鈴を見つめたかと
思うと、力が抜けたように破顔した。
「意外だわ。美鈴はてっきり、そういうの許せないと思ってたから」
「いやぁ。なんとなくですよ。別に理由があるわけでもないですし」
「いいのよ。読み物の感想なんてそんなもんよ。それでいいの」
「はぁ……。まぁ明日になったらまた別のこと言ってるかも――おわッ!?」
不意に腕が持ち上がったかと思うと、美鈴は体位を崩しかけた。当然手を取られて、そのま
ま強引に引っ張られているからだ。
走るしかない。武術には自信があるが――美鈴の手を握る小さな指は信じられないほどの力
で、まったく振りほどけそうにも無かった。
「ふ、フランドールお嬢様!?」
しょうがなく前傾姿勢になってみれば、美鈴の目に映ったのはよく知ったあの小さな背中
と、煌く宝石の翼。離せるわけがなかった。この容姿不相応の怪力は、人間を少し上回る程度
では抗えない、吸血鬼のそれだ。
"あぁ……ッ! 答えがッ!! 咲夜さんの話がッ!!"
肩越しに見れば、パチュリーがどんどん小さくなっていく。早々と流れていく整頓された本
の列が、無情にも正確な距離の開きを告げていた。
「な、なんですか? 妹様!?」
質問を投げかけてもフランは返さない。訳も分からず図書館を抜け、廊下を進み、地上への
階段を上らされる。
「咲夜のことでしょ?」
「――!?」
あと数階段と迫ったとき、フランが喋った。
「どっ! どうしてそれを?」
「さっき咲夜って言おうとしたでしょ?」
「あ、あぁそういえば」
「なぁんだ。あいつが他と違うの、今頃気付いたの?」
不意にはさまれた一言が、見えざる槌の一撃となって美鈴を襲った。
「え? フラン様はお気づきだったんですか!?」
「美鈴。私の名前を言ってごらんなさい」
「あっ……。フランドール・スカーレット様です」
「よろしい!」
上りきるや、フランは優しく放り投げるように美鈴の手を離した。勢いを殺す間もなく羽な
どない美鈴はあわや廊下に転倒しかけたが。日々の鍛錬が生きた。なんとか、踏みとどまる。
フランは悪びれた様子のない、というより悪びれる必要さえないといった態で、屈託のない
笑みを浮かべた。
「なに? あれを人間だとでも思ってたの?」
「違うんですか? 咲夜さんは……」
「違うわよ。お姉さまは言ったわ。人間は脆く儚いモノだって。あんな壊す目が一つじゃない
の、壊すことが面倒だと思うくらいあるやつ、人間なわけないじゃない」
「…………」
フランにはモノを破壊する才がある――むかしレミリアから聞いた忠告を美鈴は思い出し
た。それもただ力任せに破砕するだけではなく、壊したいものの最も脆弱な部分を手中に移動
することも可能なのだ。
理を知るからこそ、浮世を弄べる。まさに夜の王たる吸血鬼に相応しい能力だった。以前、
天上からの災厄の『目』を握り潰し紅魔館を救ったことからも、その才に疑いの余地はない。
そのフランが人間でないと断じた。理そのものが否定するのと同じだ。言葉よりも重い衝撃
に、美鈴は眩暈とともに頽(くずお)れそうになった。
「でもね」
先ほどまでの裏のありそうな笑みとは変わって……フランは歌うように、どこか祈るよう
に、優しげな声音で言葉を紡いだ。
「それは、フランドール・スカーレットの答えよ。門番さん。……あなたはあなただけの答え
を見つけてきなさい」
どこから取り出したのか、フランは図書館で持っていた本を片手で器用に広げた。そして男
を真似た低い口調で一節を読み上げる。
「なにもかも真実さ。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかもが真実なんだ」
フランはもう片方の手を掲げた。そして、見えない何かを握りつぶす。
「――ッ!!」
美鈴は凝然と立ち尽くした。すぐ傍の壁の一部が粉塵となって音を立てて崩れたからだ。差
し込んだ茜色を帯びた光が瞬く間に暗がりを蹂躙していく。
日の当らない壁に寄りかかり、フランは撫でるような指使いでページを素早く捲った。
「行くなら行きなよ。お姫様はもう帰ってくるかもね。でも玄関まで行ってたら、気が変わっ
ちゃうかも」
外の光景は、もう霧など無い。門のすぐ傍だった。美鈴の持っている内装図とはまるで距離
が違う。
吹き込む風が、匂いが、鮮やかさが、もろ手を挙げて美鈴に訴えかけてきていた。
「フランお嬢様……」
「二つで十分ですよ」
「え?」
見れば、フランはまた手にした本に没頭していた。
瞳はすでに夢の世界しか映していないようだ。その耳も、もしかすれば感触さえ、今のフラ
ンは閉じきってしまっているようにも思える。
「いや、四つだ」
だが美鈴は呼びかけた。思い付くままに、フランが口にしたその台詞を。
小さくフランが笑んだような気がした。
あとはもう振り向かない。壁の穴から外に美鈴は飛び出した。門を守るのが役目なら、出て
行く者の無事を信じるのも役割りではないか。
"夕飯時……そうだ。食べるのはあの人だけだけど……時間に遅れるわけ無い……ッ!!"
花壇を越え、門を抜け……荒げた息を整えていると、やがて黄昏に染まる道の向こうに、美
鈴は確かに黒い影を見た。
あの小さな立ち姿を、美鈴は知っている。忘れもしない。忘れてならないと、胸に秘めて
日々を生きてきた。
風に揺れるあの細い髪が、スカートが、昨日と確かに繋がっているのを思い出させる。重た
げに片手に持ったラジカセが、まやかしでない今日であることを確信させた。
逡巡がないと言えば嘘だ。だが足枷は、すでに美鈴を捕らえてはいない。
呼びかけ駆け寄る。そう――いつものように、あのメイド姿の乙女に向かって、ただ真っ直
ぐに。
「咲夜さーん!!」
「め、美鈴ッ!?」
驚き顔で影が……咲夜が立ち止まった。
「な、なによ? や、止めてよね! 急に、恥ずかしいじゃない」
咎めるように咲夜は言って――だが、まんざらでもなかったのか。顔を背けながら微笑ん
だ。夕暮れよりもなお赤く、白い頬が見る見るうちに鮮やかな朱に彩られる。
気付かず、美鈴は慌てて小さく頭を下げた。
「あぁ……す、すいません咲夜さん」
「もう。まぁいいわ。でも朝と違うようで良かった。悪いものでも食べたのかと心配してたの
よ。解決したの?」
「それは……」
美鈴は頭を振った。
小首を傾ぐ咲夜に構わず、両の手を固く握り締めながら俯く。
一呼吸ほどの僅かな躊躇いの隙間に、あらゆる胸の虚が渾然となって美鈴にしがみついてき
た。いっそ奈落に引きずりこまれてしまえば、どれほど楽なことか。
だがいくら恐れても、不安になっても、無骨な紅美鈴はこうするしか知らない。
「ごめんなさい!」
「えっ――?」
訳も分からずといった態の咲夜に構わず、先ほどよりも大きく美鈴は頭を下げた。珍しく、
目を見開きながら咲夜が詰め寄る。
「ちょ、ちょっと美鈴! もういいって言ったでしょ」
「違うんです!」
「…………」
「わたしは……人の気配が読めます。だから、あなたが他の人と違うことに気付きました。あ
なたのことを人間だと、思えなくなりました」
「美鈴……」
「でも……でもッ……! それを認めたらわたしの知ってる咲夜さんがいなくなってしまいそ
うな気がした。だから言うのが怖かった。……だってわたし、紅魔館で働く咲夜さんが大好き
だったんだもの!」
胸を締め付ける想いの数々に歯を食いしばりながら、美鈴は吐露を続けた。
「でも、ごめんなさい。わたし強くなかった……。力や遊びで適わないことがあっても、心だ
けは鋼だと思ってた。でもずっと知らないフリの仮面をつける勇気がなかった。だから嫌な思
いさせるの分かってても……こうして言うしかなかった」
咲夜はじっと噤んでいる。だがその表情は憤慨に荒れ狂うわけでも、悲嘆に曇るわけでもな
い。ただ秋空のようにどこまでも澄み切って、朗らかだ。
そのおかげか、幾分か楽だった。促されるように、美鈴は最後まで口を開く。
「わたしはわたしが安心したいだけ。嫌なヤツ……ッ! だから嫌われたって構わない。ほん
とのこと教えてくれなくてもいいっ! ただ知ってほしかった。だって困ってる顔は好きだけ
ど、私のせいで不安になってる顔を、もう見たくないから!!」
「そう……」
短く咲夜は吐息を漏らす。
言ってしまった。身さえ切り刻むかのような痛みが美鈴の胸で大きくなる。だが、もう後へ
は引けない。これ以上どんな痛撃が来たとしても耐えてやると、美鈴は歯を噛みしめた。
そこに、ひたと――美鈴の頬に冷たくも心地よい感触があった。咲夜の手だ。
「本当に、勝手な門番さんね」
「ごめん……なさい……」
「いいのよ。それに見つけられない答えを見つけようとしてるんですもの。私はどこにも行か
ないわ。大丈夫、だって言ったのにちゃんと触れてるでしょ?」
壊れ物を扱うかのように咲夜の指が頬を流れていく。
「……はいッ!!」
万感の思いを込めて、美鈴は応えた。
指先から伝わってくる気は、美鈴を苛み続けたものと変わりない。それに思うところがない
と言えば、嘘だった。
だが、もう不安はない。美鈴は思い出した。
好きになったのは紅魔館メイド長の人間ではない。あの表情で、あの立ち居振る舞いで、皆
の心に風を吹かせる十六夜咲夜だ。
"どこにも行くわけがない……。どこかにやろうとしてたのは……わたしだッ!!"
安堵が、笑みとなって外に溢れる。そんな美鈴に咲夜も静かに微笑み――かと思うと拗ねた
ように横を向いて目を眇めた。
「やっぱり勝手ね。自分ばっかり生き生きして」
「いやぁ……それは……」
「じゃあ今度は私もいろいろ言っていいかしら?」
「え?」
不意に美鈴の下唇に、咲夜が人差し指を当てた。まるで、美鈴の言葉を禁ずるかのように。
「でもここだと無粋ね。そうだ、今からちょっとデートしましょ」
「で、デート?」
「そっ」
「ってなんですか?」
「もう! しまらないわね! 近くを二人で散歩しようって言ってるの」
咲夜が笑む。朝焼けのように明るく、そしてどこか儚く……。
「教えてあげるわ。ううん、聞いて欲しいの。私がどういう人間なのか」
(5)
波打つ湖畔は、日が沈んで間もないというのに、すでに深夜の物悲しさを醸しだしていた。
早めに漆黒の空に現れた星々が、太陽に取って代わって次々と微々たる輝きで波に彩を添え
ていく。へたな宝石の装飾よりよほど美しいこの湖が、あの嫌いだった濃霧の発生源だとは、
知っていてもなかなか美鈴は納得できなかった。
静寂に響く足音は二つ。波音に耳を傾けながら、紅魔館傍の水際を美鈴と咲夜はあてもなく
うろついていた。
完全に門を開けるという咲夜らしからぬ提案。美鈴は少し戸惑ったが、咲夜は強引だった。
すべて責任は持つ、とまで言われてしまえば、流石の美鈴でも妙な感覚を抱かずにはいられな
い。付いて行く他なかった。
だが、ここまで目立ったやり取りはない。取り留めもない話を幾つかしたぐらいだ。
どういう人間か――あの咲夜の一言が気にならないわけではなかった。それでも、あえて問
い詰める気にもならない。
先までの美鈴なら、その由来は怖さだったはずだ。だが今は、望む湖面のように静かに、そ
のときを待つ落着きしかなかった。
「そういえば咲夜さん。ラジカセ、うまくいきましたか?」
ふと咲夜が持ったままのラジカセに気づいて、美鈴は咲夜に問うた。
「残念だけど駄目だったわ」
言葉に反して、咲夜はにこやかにほほ笑んだ。
「交渉したら快く取らせては貰えたんだけどね。でもためしに聞いてみても、生演奏のときみ
たいに気分が変わるような感じがぜんぜんしないの。たぶん録音だと音が変わってしまって、
効力がなくなっちゃうのかもね」
「そういえば朝のやつも、なんとなく劣化してたような」
思い返してみれば咲夜が美鈴に聞かせたレミリアとの会話は、どこか違って聞こえた。音は
閉じ込めることができても、そこに込められた魂や不可思議な力までこのカラクリは完全に再
現することはできないのだろう。
「いちおう何回かやったんだけどやっぱりダメ。ただの綺麗な音楽になっちゃったわ。それに
ちょっと考えてみれば、人間には影響でるけどお嬢様に影響あるとは限らなかったから、とん
だ徒労だったかも」
「耳に残ってるほうが正確なんじゃないですか?」
「たぶんそう。聞いてみる?」
「よさそうですね。ワクワクするの頼みます」
「じゃあ待って。腰、下ろしましょう」
どこから取り出したのか。すでに咲夜は大きめの布のシートを広げて敷いていた。
霧のためか、地はまだ少々湿りを帯びているようだ。頓着するような美鈴ではなかったが、
先に座り込んだ咲夜に促されて、隣に腰を下ろした。もとより断る理由はない。
からからとラジカセから音がした。そして聞こえてきたのは――金管楽器の奏でる、妖精が
悪戯遊びに興じるかのような楽しげな旋律。加えて弦楽器と鍵盤楽器の落ち着いた導きが、音
の世界に厚みを加えている。
絶賛されているだけはあった。その片鱗がひしひしと伝わってくる。文句のつけようがない
ほどに聞き心地のいい……だがラジカセから流れるのは一部しか心が動かない、綺麗なだけの
演奏だった。
「ねっ? うまいってだけでしょ?」
「そうですね咲夜さん。わくわくしそうですけど……どうもなにかそうなりきれませんね」
「あーあ、またご機嫌取りの毎日か」
再び波音に主導権を渡し、咲夜が宙を仰いだ。
「ま、いちおうお嬢様にも流してみないとね。どうなるか分からないし」
「楽しそうですね。咲夜さん」
「楽しいわよ。あなたもどうなるか興味あるでしょ?」
「まぁちょこっと、なら」
美鈴は親指と人差し指でその幅を示して見せる。軽い冗談のつもりだったが、咲夜は神妙な
面持ちで見入った。
「結果が気になる、か。ほんとうにあなた人間みたいね」
「えぇ!? 人間? いやだなぁ、私は妖怪ですよ。ちょっとばっかし学が浅いってだけで」
「でも気になるっていうのは、頭の良さは関係ないわ」
「そういうもんですか?」
「そういうものよ。足りない、不完全、そう思う渇望だもの」
紅魔館の面々が不意に思い浮かび、美鈴は納得した。その狭い世界の中でさえ、あの強さや
才は決して美鈴の手の届かない場所にある。だがそうと知りつつも、武に生きるものとして、
守護の担い手として、抗い難い欲求があったのも事実だ。
その源がどこか――詰まるところ魔術や魔力あるいは種族そのものといったものに行き着き
それで納得するが、聞くだけだったが調べなかったわけではない。これもまた一つの飢えなの
だろう。
咲夜がまた夜天を仰いだ。ただその瞳は瞬く星ではなく、どこか遥か遠い世界を映している
ようだった。
「強いとね、完結しちゃうの。明日が分かるから。何ができて何が無駄かを、知ってしまうか
ら。……でも人間は弱い生き物。だから誰もが、どんなに強がっても、いつも次の一瞬の結果
を夢見てる。すごく現実的なまやかしと、一緒にね」
「はぁ……」
「あれができたかもしれない。これがあればできたはずだ。そうやって老いを憎んだり、逆に
若さを恨んだり。才能や性別……具体的に、時間というものに対しても怒ったり」
天に向かって咲夜が手を伸ばす。まるで触れているかのように虚空に指を泳がせ、やがて
おずおずと下ろした。
「たまに辿り着けることもあるけれど、でもそうして結果に手を伸ばしても叶わなかったほう
がずっと多かったわ」
「…………」
「それは……どれも叶ったかもしれない真実よ。ま、その人たちにとっての――人間のためだ
けのものだけどね。……出来るはずと信じた願いや、本人たちでさえ忘れてしまうような刹那
の祈り。でも限りがある人間には、いつだって残酷な幻」
薄く儚げに咲夜が微笑んだ。
「時が、夢追い人の夢を本当に幻にしてしまう。そんな時間さえどうにかなれば叶ったり見れ
た真実を、遠いむかしどこかの詩人はこんな風に言ったわ――時の娘、って」
「時の……娘……?」
聞きなれない言葉だった。思わず口にした美鈴に、咲夜は鷹揚に頷く。
「そう。知らず知らず誰もがその人にとっての、時の娘に恋をしたわ」
咲夜は優しげな眼差しで、囁くように続けた。
「その叶わなかった恋心のかたまりが、私よ」
「え――!?」
「私はね。人の思いから生まれた、人間っていう概念そのものなの」
こともなげな咲夜に、だが美鈴は驚きの念を隠せず凝然となった。
筋は通る。咲夜が人間として完成されすぎていることを、己の感覚とここまでの時間で美鈴
は確信していた。もし言うように敗れた願いの塊だったとすれば、逆に咲夜はあり得たはずの
結果で作られた人間ということになる。
ならば、これまでの咲夜の完璧な様も、何もかもが説明が出来た。勿体つけた行動も、知り
たいという欲求の表れだったのではないか。その能力も、単に時を操るためではなく、実はす
ぐに答えを知るためのものだとしたら。
だがこのような答えが、如何に条理に囚われない幻想郷といえども、ありえるだろうか。
「い、いやだなぁ! 咲夜さん! 咲夜さんは人間なんでしょ? 自分でそう言ったじゃない
ですか!?」
「そうよ。人間よ。でもそれが、人間の男と女が揃ったときだけしか人が生まれちゃいけな
いって、理由にはならないんじゃない?」
「…………」
確かにそうだ。美鈴はパチュリーから投げかけられた質問を思い出した。
『そうね、違いは生まれ方だけだとするわ。美鈴はどう思う? そんな人形がもし、自分のこ
とを人間だと言い張っても、やっぱりそれは人間じゃなくて人形なのかしら?』
美鈴は人や獣が妖怪になる例を知っていた。ならば、妖怪がただの人や獣に変わることも、
知らないだけであるのではないか。
そうでなくとも、人でありながら倒錯した狂気に囚われる者もいる。妖怪でありながらも人
の外見を持ち、慈愛に満ちた存在さえあった。
大事なのは器ではない。その魂の拠り所ではないだろうか。
「でもね美鈴。私はずっと悩んでたわ」
「咲夜さんでも悩むことあったんですか?」
「うん。私はね、生まれた時から知ってたから。どうして自分が生まれたのか。それと、どん
な願いが私を生んだのか――強いものは全部」
「…………」
「でもそんなのが人間かって思ったら、私は人間だと言い張る自信がなくなっちゃったわ。生
まれてすぐに、ね。でも求め続けるのが私。そうやって定めに流されて……だからなにも楽し
くなかったわ」
いったい、それはいつからの話なのか。それを聞くことが阻まれるほど、愁いを帯びた咲夜
の表情は物悲しく寂しげで、美鈴の心も微かな痛みを覚えた。
もしかすれば咲夜は、妖怪の美鈴よりも遥かに長く生きてきたのではないか。ただただ人間
というものを追い求め振り回されながら、ずっと。
「でもね。お嬢様と出会って、なにもかもが変わったの」
まるで雲間から光が差したかのように、溢れんばかりの喜びとともに咲夜は破顔した。
「こんな私のことを、お嬢様はただの人間としか見てくれない。それがね、とっても嬉しかっ
たの」
「咲夜さん……」
「初めは、願いに導かれるままにここに来てメイドになった。でも、たとえ今ここにいること
も定めだとしても、私は自信を持って言えるわ。それは、十六夜咲夜の願いでもあるって。こ
こにいれば、その導いた願いとは違う私だけのなにかを見つけられると思ったから」
「…………」
「だから私は自分が人間じゃないと思わないし、私のことをここまで導いてくれた願いに感謝
してる。だってみんなに会えたから」
「その願いって……なんですか?」
小さな躊躇いを感じながらも、美鈴は質問を口にした。
いったい何が咲夜をここまで先導し、出会わせてくれたのか。美鈴は知りたかった。
「永遠は本当にあるのか」
咲夜の答えは簡潔でいて、深淵だった。
それは人間のままでは決して見ることの叶わない願いだ。たとえどれほど人間が歴史を紡ぎ
子に役割を託したとしても、辿り着けはしないだろう。にも拘らずそれは焦がれやすい、儚い
人間だからこそ追い求める恋物語の究極の題材だ。
その恋の結末を知るために、咲夜は導かれるまま紅魔館のメイド長となった。
主のレミリアは吸血鬼だ。吸血鬼とは不老不死でもある。それもまた永遠の形の一つだ。
"だったら……お茶に毒みたいなの入れてたのって……"
咲夜がレミリアにする可愛げのないお茶目。美鈴はようやくその理由が少し分かった。漫然
と永久に観測するだけが、不老不死の確認法ではない。
ならばもしレミリアに永遠を見出しているのだとすれば……あれが咲夜なりの、『永遠』の
確認法であり、『レミリア・スカーレット』を知るすべだったのだろう。
咲夜が己を人間と思い、初めて夢想した時の娘。楽しげに主人にしてきたこれまでの粗相の
数々は、少しでもレミリアを知れたという……それがこれからも永劫続いていくという、咲夜
にしか分からない嬉しさの裏返しだったのではないか。
そしてそれは、不死が不滅と同義であるなら、永遠に全ての答えは分からない。だから咲夜
は美鈴に自信を持って言ったのだ。決して消えはしない、と。
「そっか……そうだったんだ……」
視線を落としながら、美鈴は恥じた。咲夜が人間でないことに戸惑いを感じていたのは美鈴
だけではない。他ならぬ咲夜自身が、なによりもその存在自体に疑いを持ちながら生き続け
……そしてようやく人間であると胸を張れるようになったのだ。
その由来が紅魔館にあると。疑った者の前でこうも明るく言ってのけるほどに……。
「でもね。たまに、不安になることがあるの」
僅かに顰めた咲夜の眉を、美鈴は見逃さなかった。
「どうしてです?」
「人の願いってうつろいやすいじゃない? だから私がどんなに一人で永遠だ、不死だ……そ
れを見つけたいと願っても、身体が持ってくれるか分からない。私自身が人間ていう、世界に
記録された概念そのものだけど、それだって永遠に消えないなんて言えないわ」
「…………」
「だから、美鈴にお願いしてもいい?」
蕩々と美鈴を見つめながら、咲夜は微笑した。
「たまにでいいから。十六夜咲夜を思い浮かべて」
「――?」
「誰だったかしら、どこかの絵描きが言ったそうよ。理性の眠りは妖怪を生むって」
「それは……?」
「夢はそのままだとあやふやな幻のまま。けど、少しでも思い描く心があれば、形になる。てい
う意味らしいわ」
「…………」
「思うの。誰かが私を思い浮かべ続けてくれたなら、それだけで私は、消えてしまってもきっ
とここに帰ってくることができるって。その夢が――人間の描いた夢が私なら……。妖怪のあ
なたが見る夢や幻は、いったい何を産むのかしらね?」
咲夜の問いかけは、美鈴こそ見ているものの、どこか自問のような響きがあった。
美鈴はその答えを持っていない。学もなければ、芸術も分からなかった。せいぜい花壇に咲
く精魂込めて育てた花を美しいと思うぐらいだ。頭の内を形にして外に出そうとなど、思いも
したことがない。
だがそんな自分でも、思い一つで何かを生み出せるなら。小さな願い一つで、この時が永遠
に続くならば……
「そんなお願い聞けません」
陰りを見せる表情にかまわず美鈴は空に視線を向けた。広がる漆黒は、気づけばもう幾万幾
億の星の洪水に飲まれていた。その黒でさえ、色を付けて。
「だって咲夜さんを忘れたくないっていうのは……もうわたしの願い事だったもの」
やっと思い出した。美鈴の世界には、咲夜がいなければならなかったことを。
それを疑った。ただ十六夜咲夜が、己の知っている人間という形と違っただけで。それは後
悔だけしかなかったが……だがだからこそ美鈴は胸を張って思い描けた。もう二度とそのこと
を忘れはしない紅美鈴の姿を。
「そっ、か……」
美鈴の肩に伸し掛かるような重みがあった。見れば咲夜が寄りかかり、小さな頭を美鈴の肩
に乗せている。
「――さ、咲夜さん!?」
「気が抜けちゃったのかな。ちょっとだけ眠くなってきちゃった……」
「えっと、その……」
「お願い」
「…………」
「今だけは……こうして寝させて……。きっと、幸せな夢がみれるから……」
震えた声音に、小さな嗚咽。確かに聞こえたそれを――だが気のせいだと美鈴は流した。
「今日だけですよ」
「うん。おやすみ美鈴」
美鈴は、起きたまま夢想する。
咲夜が目を覚ましたら、またいつものように門番をさぼったことを咎められるのだろう。フ
ランが壊した壁も、自分がやったと言って修復しなくてはならない。パチュリーへの予約も取
り下げる必要もあった。
疲れる明日がやってくる。なのに、楽しいとしか、思えなかった。
「おやすみなさい。咲夜さん」
目覚めの言葉を口にできると信じて、美鈴はそっと呟いた。
(6)
分厚い本を捲る手があった。
錠を外すのは簡単ではなかったが――いざ読んでみれば手の主が驚かされるほどの目新しい
発見はない。
その手が最後の数ページで止まる。明らかに文章の書き方が違ったからだ。
――私信――
最後にまことに勝手ながら、彼女との付き合いで得た、私の感想をこの本の末尾とさせてい
ただきたい。
彼女はまさに探求の星の下に生まれた子だった。人でありながらも、全てを解き明かす定め
を持ち、そしてそれができる能力をなにもかも持っていた。
魔女だとしても、幾ら膨大な著書を読み漁ろうとも、概念から生まれた永遠の存在には勝て
はしない。私は少なからず彼女に羨ましさに似たものを感じ、そして彼女に嫉妬していた。変
われるものなら彼女になりたいとさえ思った。
だが彼女はただの少女だった。そう、調べれば調べるほどただの一人の人間の乙女でしかな
かった。
なぜなら彼女は夢を見ていたから。手の届かない恋に手を伸ばし続ける、夢見る少女だっ
た。
その恋は、永遠に成就することはないのかもしれない。
それでも彼女は、十六夜咲夜は恋をし続けるだろう。いつか必ずそれが叶うことを、いつま
でも夢見ながら。
探求者としての私には、それはどうでも良かった。だから彼女の存在に対する嫉妬も、羨望
も、いつしか消え、今はただ珍妙なこの女を観察する思いしか残ってはいない。
だが、もし一人の友人として言わせてもらえるなら、私はいつか彼女が愛を手に入れること
を、切に願ってやまない。
彼女が彼女だけの真実を手に入れる、その日を。
――著:パチュリー・ノーレッジ――
一度本を払って、書を閉じた。
今その書物を読んだと知る者は、指の主だけだ。そして挟まっていた薄い朱の細髪を払った
のを知っているのも、指の主だけだった。
目を覚ませば、朝の陽ざしに燦然と輝く湖面が咲夜の視野を埋め尽くした。
だが光には咲夜を覚醒へと導くだけの力はない。眦を擦っても、まだ眠気がひどかった。
どうやら、睡魔に勝てず外で眠ってしまったようだ。草の上に敷いた布のシートには、くっ
きりと跡が残っていた。
「――?」
ふと、隣に誰かいたような気がした。不安になって、意味もなくあたりを咲夜は見回す。
だがそんなはずはない。昨日からずっと、自分は一人だったはずだ。
まだ眠気が残っているらしい。
"気のせいか……"
知る事柄は確実に少なくなっていた。
残すはあと少し。ここにいればいずれそれが全て分かる。そんな予感が強くしているせい
か、気が緩んできたのか、こうして眠くなることが多かった。
これではいけない。気付けの意味も込めて、咲夜はいつもと同じようにバスケットから
ティーカップを取り出すと、火をつけるためにマッチを擦った。
やがて熱せられたポットから白煙があがり、咲夜は準備のすでに終わったカップに熱湯を慎
重に注いでいく。
もう何度となく繰り返したことだ。半ば微睡の中であっても、身体が作り方を覚えていた。
鮮やかすぎるほどに赤い紅茶は、だが咲夜が飲むためのものではない。目の前に飲む者がい
なくとも、注がずにはいれなかっただけのことだ。
いつかこれを飲む者が現れると信じていた。それが追い求めた答えの形であるとも信じて。
だがどうやら今日も願いは叶わなかったようだ。
それとも、咲夜がそうだと信じ縋った可能性は真実ではなく、やはりただの幻想だったのだ
ろうか……
「あら? いい匂いじゃない」
不意に背後から舌足らずな声がした。
囁き誘うような声音に、いつになく睡魔が大挙して押し寄せてくる。だがその一言に、今な
によりも咲夜の頭は冴えた。
この響きを、咲夜は知っている。忘れるはずがない。忘れられないほどに、かつて幾度とな
く耳にしたのだから。
その一言を夢見るだけで、どんな苦痛にも耐えることができた。たとえこの事実が同時に、
今ここで懐かしさを感じているのが己一人だけだということを、残酷なまでに告げていたとし
ても……
「お飲みになられますか?」
だとしても、咲夜は構わなかった。もう振り返るだけの力を眠気に奪われてしまっていたと
しても、後悔はなにひとつない。
逃げ水に心惑わされても、肌を打つ冷たさがあっても、歩き続け……ずっとその紅茶を再び
捧げることだけを夢見てきたのだから。
白い指先が、カップに絡みつく。啜り飲む音が、静かに響いた。
「……あんた、人間にしては出来すぎよ」
「お褒めにあずかり、光栄です」
永遠が、永遠でないことを咲夜は知った。
だが進む時間の真実のみが、時の娘ではない。なにもかもが終わりを告げた中、咲夜は唯一
爪はじきにあい、戻された。
そうして今やっと咲夜は確信する。本当の永遠は、永久に終わることがないのだと。
世界は零時を指しても壊れることない時計だった。
それは、他でもない。十六夜咲夜だけの真実だった。
だからもう眠ってしまっていい。瞼を閉じながら、咲夜はいつになく穏やかな気持ちでそう
思った。
再び目覚めたとき、おそらく何もかも忘れてしまっているだろう。だが咲夜に恐れはない。
胸に満ちた思いが、何よりも心地よかった。
あの喜びに満ちた日々が、きっとまた巡ってくるのだから。
何度でも、何度でも……
<了>
ただ全部理解できたと思えなかったので、時間を置いて読み直させてもらおうと思います。
ありがとうございました。
でも美鈴が消えたのは何故でしょうか
そして私は好きですね、言葉の言い回しや物語全体を覆うまさに霧のように不確かな雰囲気が。
なんとなく昔見たオムニバス映画の一篇を思い起こしました。
この咲夜さんと蓬莱人達が出会ったならば、永遠の生についてどのような意見を交わすのでしょうね。
とにかく十六夜咲夜にはこう言ってあげたいです。
「おやすみなさい、良い夢を」
咲夜さんが真実を手にしてからどれだけの時間を生きるのか。
もっとも、永遠の前にはこの問いも無意味かもね。
こんなよくわからないことを言ってみたくなるくらい浸れました。
ナ、ナンダッテー(AA略
とても面白い設定だと思いました。
彼女はきっと、それでも一生死ぬ人間なのでしょうね。
咲夜さんに付けられた設定が、上手く全体と調和していて、とても面白いと思います。
コメントをする前に、思わず三回ほど読み返してしまいました。