スーっとした匂いが鼻を抜けていき、思わず私は顔をしかめた。この、自分の中が消毒されるような感覚はあまり好きじゃない。
ちょうど今のように私が修行を終えて居間に戻ると、大抵ぬえが色んな場所で見繕ってきたお菓子を口に運んでいる。
その甘い香りは廊下にまでただようのだ。
それが疲れた身体には魅力的でたまらなく、自然と私は足を運ぶ途中で鼻をすんすんやるようになっていた。
だから、こうして匂いに苛まされているのは自業自得と言えばそうかもしれないけれど。
やっぱり悪いのはぬえだ。いつも適当に家事やら修行やらを切り上げて、一人で楽しんでいるぬえが全てはいけないのだ。
急に腹立たしく感じられて、文句の一つでも言ってやろうと、歩調も強く居間に押し入る。
「ちょっとぬえ! またサボっ、て……」
振り向いた顔にある両の目は、想像していた赤色ではなく。
見慣れた緑色の瞳が、正しく点になって私に向けられた。
「や、やっほー、一輪。元気だね、あはは」
「……失礼しました」
「あー、行かないで! 期待してた正体不明の妖怪じゃなくて聖輦船の船長でごめんなさい。ずっと寂しかったんだよう! 一緒にお菓子食べようよ!」
右腕にしがみつく重さが些細に感じられるくらい、頭を羞恥が占めていた。
え? 何でぬえじゃなくて、村紗?
だって私、てっきりぬえだと思って、それで勢い良く声をあげて……。
――そして、それを村紗に聞かれた。
そこまで思考がまわった瞬間、面の皮が熱くなったのをはっきりと自覚した。
「放して! 見ないで! こんな恥ずかしい私なんて放っておいてよ!」
「いやいや、私は全然気にしないから! 一輪の声なんて聞いてなかったから、だから止まってえええええ」
「聞いてたじゃない。正体不明云々言ってたじゃない。どうせ今笑ってるんでしょうそうなんでしょう!」
「笑ってない笑ってない! ほら、ね?」
そう言って正面に回りこんできた村紗は今にも泣きそうな顔をしていた。
それを見た瞬間、何故だか急に全身の力が抜けて、廊下にへたりこんでしまう。
頭上で「うお!?」と声がして、次の瞬間、私の頭を冷たい手のひらがなでつけた。
「お、おー、よしよし。大丈夫だよー」
「何でそんな顔してるのよ……」
「だ、だってー。あ、誰か来たひょっとして一輪かなって楽しみにしてたのに。当の一輪はぬえがよかったんでしょ? 何か自分が情けなくなっちゃって」
「別に、そういのじゃなくて。ただぬえに文句言ってやろうと思っただけで。そしたら……うう、恥ずかしい……」
「あー、また。大丈夫、大丈夫。ぬえには後できつーく言ってやろ? ね?」
「うん……」
「よし」
打って変わって笑みを浮かべながら、村紗は私に手をさしのべてきた。素直にそれを掴んだ瞬間、ぐっと身体が引き上げられる。まだ脱力感が抜けていなくて、立ち上がると足が震えた。
「あ、そうだ。ドロップでも食べる? きっと落ち着くよ」
言われて、ようやく村紗がドロップの缶を握り締めているのに気がついた。
その中から一つが取り出され、私に向かって近づけられる。
……近づけられる?
「はい、あーん」
「…………」
ここでその笑顔は卑怯だと思う。
再び私の頭に羞恥が押し寄せるよりも速く、その手はこちらに向かってきた。
こうなれば意を決するしかない。しっかと目をつむり、口を開く。
ただよってくるのは、爽やかな香り。私の鼻孔はそれにくすぐられスーっと冷えていった。そしてその感覚はそのまま喉元にまで伝わっていく。そう、まるで消毒されるような――
「って、これハッカじゃない!」
反射的に村紗の手をはたく。そして転がり落ちた飴玉は、思ったとおり憎々しい白色だった。
「えー、ここまで来て。えー」
「仕方ないでしょ、私ああいうスースーするの苦手なの! 他のをちょうだいよ」
「あ、ごめん。ハッカ以外全部ぬえが食べちゃったみたい」
「ぬえええええええええええ!」
許すまじ。サボるだけじゃ飽きたらず。
「あの子供舌……。私のチョコレートやブドウやイチゴちゃんを……!」
「い、一輪? 何か怖いよ? それにハッカ食べられないんなら一輪も子供舌」
「何か言った?」
「何でもありません、はい」
村紗は目を逸らす口実とばかりにハッカを拾いあげて、そのまま口に運んだ。「美味しいのになー」とぼやいた後、ばりぼりと噛み砕く。
分からない。ハッカを美味しいと思えるのも、飴を噛み砕いてしまうのも。
そんなこんなでその光景を眺めていると、やがて村紗は、はーっと息を吐いた。
うっ、またハッカの匂いが……。
「村紗、私達しばらく距離を置きましょう」
「え、どうしたの急に!?」
「今の貴方とは私、上手くやっていける気がしないの」
「そんな困るよ! 今までだって喧嘩はしたけれど、はっきり言ってくれたじゃ――」
「近づかないで、ハッカの匂いがあ!」
鼻をつまんで村紗から顔を背ける。
しかし、そうすることによって逆に鼻の中のスースーは増進されるのであった。
「ぜー、ぜー」
「もう、そんなに苦手?」
「苦手! 何でかは分からないけど……」
「んーと、それなら」
村紗はハッカをもう一つ、自分の口に含んだ。からころと転がされる音がして、そのまま村紗がこっちに歩いて来る。
「はい、目つむって」
「えっ」
「スースーするのが嫌いなんでしょ? ならさ」
そして、また満面の笑みで。
「口移しなら、きっと甘くなるよ」
村紗は堂々とそんな事をのたまったのだった。
「え、いや、その」
「恥ずがしがらなくてもいいじゃんか。私と一輪の仲じゃない。それとも、嫌?」
「そういうわけじゃない、けれど」
「ならいいでしょー。子供舌な一輪にハッカの美味しさを教えてしんぜよう」
そして、村紗は目をつむって。私に顔を近づけてくる。
きっと他意はないのだろう。ただ単純に私があまりにも嫌がるからだとか、そういうのに違いない。
私がハッカを嫌がるから。
――それはつまり、私じゃなくてもいいってこと?
「やっぱり、いい」
「……一輪?」
「そういうのなら、ぬえにやってあげればいいじゃない。あの子、どうせ暇してるだろうから。それに子供舌なら同じでしょう?」
目を開いた村紗と視線を合わせたくなくて、私は身体をくるりと回す。
我ながら馬鹿みたいと思う。けれどそれは自己嫌悪にしかならなくて、ますますこの場から姿を消したくなるだけだった。
もう、このまま行ってしまおう。
そう思った瞬間、私の肩に手が乗せられて、強引に振り向かされた。
目の前には、村紗の顔が合って。
そのまま、唇を塞がれる。
「ふむっ……!?」
「んっ……」
突然の事に私の口は半開きで。そこに村紗の舌が割って入ってきた。
飲み込んでしまったのだろうか。そこにハッカのドロップは無かった。けれどもついさっきまでそれを舐め回していた村紗の舌は、ハッカの味でいっぱいだった。
そして、爽やかな香りが私の中に押し入ってくる。
それが全然嫌じゃない。
だってその中に、確かに村紗を感じるのだ。甘くて、優しい。そんな村紗の味を。
全身がそれに染まりきり恍惚としていると、いつの間にか村紗は唇を離していた。
私と、村紗。二人分の荒い息が廊下にしっとりと溶けこんでいく。
「こんな事、一輪にしかしないよ」
「どう、して」
「もうっ。わざわざ言わなくちゃいけないの? やめてよね、恥ずかしい」
「それはこっちの台詞よ! よりによって、し、し、舌まで入れてきて! ハッカの味しかしなかったじゃない!」
嘘だった。
でも、私が感じた事を言うなんて、それこそ恥ずかしすぎる。
当然、村紗にはそんな事分からない。不満げな顔で、私に尋ねてくる。
「やっぱりハッカは嫌い?」
「当たり前よ! ……だから」
だから、今度は本当の事を言おう。
「次は普通に、ね?」
ひっくと、村紗は一つしゃっくりをする。
それもまた、ハッカの匂いがするのだった。
これはいいムラいち。
もっともっと
しかしその前に過去に一輪さんから村紗に告白したときの様子が気になる……
どうもありがとうございました