くしゃみをすると目の前に古明地こいしが現れたのだった。
わたしが書斎でちょっとした書き物をしていると、急に鼻の奥がくすぐったい感触に襲われた。口を手で覆いくしゃみをする。次の瞬間に視界を前にやると、こいしがじっと自分の事を見つめていたのだ。吃驚したものの、しばしばあることだったので驚きは顔に出さなかった。こいしはというと、いつもの何を考えているのかわからない表情、実際に何を考えているのかわからないからそう見えるのかもしれないが、そういう顔で私を見ていた。
少しの疑問を覚えながら恐る恐る声をかけてみた。
「こいし?」
「あれ? お姉ちゃん。見えるの?」
「見えるも何もこうしてここにいるじゃないですか」
「それはそうだけど」
こいしは不思議そうであった。どうやら能力任せに気づかれないよう、前に立っていたようだ。
「いつからいたんです?」
「お姉ちゃんがここにきてから」
「つまりはずっと一緒だったと」
「そういうことで構わないわ」
少々頭の痛くなる話である。居るならば最初から姿をみせておいてほしかった。居たならば居たでやっぱり落ち着かなかったであろうが、それでもいないよりずっといい。何より、自分の前でも能力を使われて、存在しないように振舞われるのが嫌だった。そう思った。
「暇なんですか」
「いいえ、とっても忙しかったわ。こうしてお姉ちゃんを見てるのに、全神経を注ぎ込んで」
「おもしろい?」
「いや、別に」
「それはそれでがっかり」
「机に座ってるだけで人におもしろいと言わせるのは相当難しいと思うのだけれども。それともお姉ちゃんは自分がおもしろいと思っている人だったのかしら」
何故か、残念な認識をされてしまった。確かに自分が机に向かっていて愉快かと問われたら否定するだろう。なら、こいしはどうしてずっと自分を見ていたのだろうか。
先ほどのくしゃみを契機にか、鼻の中がぐじぐじとしてきた。ちり紙をとり軽くぬぐう。と、また顔の中心がこそばゆくなってきた。
「くしゅん」
少し気分を害してさらにちり紙をとった。
「風邪でもひいたの?」
「そんなはずは。急に鼻の調子が悪くなったみたいです。こいし、また貴方何か引き連れてきてないでしょうね」
「やだなあ。さすがにもうないよ」
いつぞや、こいしが土蜘蛛と遊んだらしく、謎の病気が地霊殿に広まってしまったことがある。舌べろが麻痺してしまう類のものだったが、幸いにもナ行の発音がニャになってしまう程度の軽いものだった。
そうこうしている内にまた小さいくしゃみが出る。
「ペットと一緒に健康には気をつけてるつもりなのですが、本当に風邪でもひいたんでしょうか」
「妖怪が風邪をひくとか、さすがお姉ちゃんだとは思うよ」
「褒められました」
「褒めてないです」
結局、妹と絡んでいて書き物はあまり進まなかった。心の読めない相手と会話をするのは本当に気を遣うし疲れてしまう。しかし決して嫌なものじゃないと思うのは相手がこいしだからだろうか。妹なのに、妹なのに気を遣ってしまうし、まだ少し怖い。それでも嫌なものじゃないのだ。
あれから三日ほど経っても、まだお姉ちゃんは風邪らしきものに罹っていた。ついには眼も痒くなったようで、涙も出てきた。第三の眼も充血していた。涙は当社比いちてんごばい、お姉ちゃんの涙なんて滅多に見れないのでお買い得なのだ。もちろん誰にも売らないけれど。
そして、私がお姉ちゃんに気づかれないようにしても、不思議とくしゃみをきっかけに私を見つけてしまう。その瞬間のお姉ちゃんの表情はとても好きだ。ほっとしたかのように顔が緩む。でもそのあとは嫌いだ。安堵の表情は一瞬で、ちょっと暗いものが混じる。わたしに気づかれていないと思っているのかもしれないがそんなことはない。それはどこか腫れ物か壊れ物として扱われる感覚。気を遣っているのだろう。心が読めないから? 心が読めないから。妹なのにね。気の置けない相手にはなれないのだ。
だからわたしはお姉ちゃんの無意識に身をおいて彼女を眺めた。彼女が素の自分でいるのを見つめるために。見ているだけでも少しは満足だから。一瞬の大きな満足とずっとのわずかな満足、後者を選んだ。見つめ返してくれないさみしさは無意識にくるんで捨てた。
なのに、気づかれるようになってからは捨てたものが浮かんできた。見てくれるのが嬉しくないわけ、ない。見つかることが増えてからは知らず知らずに会話も長くなった。相変わらずよそよそしさはあるけれど、わたしはその分、お姉ちゃんの分まで、遠慮してやらない。
「ネコアレルギーだったりして」
「まさか」
地霊殿の居間にてお姉ちゃんのペットに話しかけてみる。一匹はネコ、一羽はカラス。ネコアレルギーなんてものがあるらしくネコにちょっかいを出してみた。
「まさか、あたいが原因だったなんて。あたいがさとり様を泣かせてしまうなんて。このお燐、一生の不覚! ペットにあるまじき失態! 一体どうして責任をとればいいの!」
「お燐、落ち着いて。こういう時は誠心誠意、心を込めて謝ればいいのよ」
「お空……」
「心を込めて、切腹だよ!」
「そうか、切腹か」
お姉ちゃんのペットは実に愉快である。ペットは飼い主に似ると言うけれど、彼女たちはそれに反してユーモラスなのだ。私のペットは喋るやつが少なくちょっと物足りない。カラスのように神様を食べれば少しはおもしろくなるのだろうか。家庭菜園を作っていたオオトカゲが居たと思うので、豊穣の神様なんかどうだろうか。きっとおいしい。
「駄目ですよ。主人の許可なしに勝手に死んでは。それこそペット失格です」
「さとり様……」
ドアのところにお姉ちゃんが立っている。鼻の頭が真っ赤になって荒れていた。切なげな感じがしてかわいそうで可愛かった。
一方、ネコは猫車で腹切りしようとしていた。無茶をする。介錯は核の炎である。やっぱり無茶である。
「大丈夫ですよ。ネコアレルギーではありません。ほらこの通り」
そういってネコを抱きしめる。ネコはさとりさまぁと呼びながら弱弱しく泣いていた。
「お空も来たいのですか。全く甘えん坊さんですね」
カラスがうずうずしていたのはそういうわけか。一羽一匹どちらもお姉ちゃんより大きいのにほんとしょうがない。組み付かれたお姉ちゃんが見えなくなってしまう。
カラスも駆けていってお姉ちゃんに抱きしめられる。いい話なのかな。
「こいし、こいしも、ど、どうです」
予想外、ちっとは成長したのかな。鼻だけじゃなく顔全体が真っ赤だった。
それでもまだ遠慮気味。お姉ちゃんは外部の人には完全無欠の覚り妖怪で、うちのペットには甘いご主人様で、妹には、距離がある。
あーあ、もっと堂々と言ってくれればすぐにでも飛びついてあげるのに。
でも、ペットに取られっぱなしは癪なので、抱きしめてあげる代わりに絞めてみた。
わたしはまだ治らない鼻を抱えていた。眼も痒いし、首も痛かった。首の件は保留としてついに病の原因がわかったのだった。
「どうしましょうかね……」
「え、わたしの将来? わたしはずっとお姉ちゃんの脛に噛り付いているからだいじょうぶだよ」
「そのことじゃなくて。いや、そのことも問題ですね」
未だに慣れない彼女との会話で思考が遮られる。むしろ慣れたら駄目な気もする。
気がつくとこいしがちり紙を持って迫ってきた。
「はい、お姉ちゃん。ちーん」
「え、ああ。はい」
妹に鼻をかんでもらった。
「なにやらせるんですか。自然すぎてつられてしまったじゃないですか」
「これがわたしの能力の真骨頂……!」
「いやいや」
「鼻をかんでもらうお姉ちゃんは庇護欲をそそるので問題ないです」
「問題です。というか貴方が原因でしょうに」
「え、わたし……」
しまった。そう思ったときにはもう遅かった。
こいしは愕然とした様子だった。
「わたしが原因でお姉ちゃんが鼻水を出し、それをわたしがかむ。なんて永久機関……」
杞憂だったのか。こいしは変なことを言っている。何を考えているのだろう。心が読めれば、それがただの冗談か強がりかわかるのに。地雷原を歩む気分だった。覚りじゃなければ心の機微にもっと敏感だろうに。そんな矛盾を感じた。
「ねえ、結局どうしてわたしが原因だったの」
こいしは笑顔だった。いつもの笑顔なのだ。その下の感情はいつものものなんだろうか。
「え、ええ。おそらく貴方の妖気に過敏な反応を示してしまっているのでしょう」
「ふうん。わたしアレルギーみたいなものかな」
「大雑把に言えば、そうです」
「やっぱり駄目なんだろうね。お姉ちゃんはわたしのことが」
すっとこいしの声が冷たくなった気がした。表情は変わらない。眼を背けたくなったのを必死でこらえた。
「そんなこと」
「たった一人だけ、心が読めないんだもの。怖いに決まってる」
「それは……」
「怖がって、遠慮して。でも心配しないで。わたしが傷つくことはもうないの。お姉ちゃんがわたしをいくら嫌ってもつらいなんて思うことはないから」
それは多分違うのだ。こいしは楽しいとか嬉しいときに感情をしっかり表す。だから悲しいとか寂しいという感情も存在しているはず。ただ、それらを無意識の海に沈めて意識しないようにしている。それだけなのだ。
「これからはあんまり帰ってこない方がいいかな」
「……」
本当に心が読めないことが辛かった。あの子も、わたしも。わたしが心を読めればこいしが欲しい言葉を言える。こいしが心を読めればどうしてわたしがこの病になったかわかる。
それでも心は見えてこない。言うしかないのだ。勇気をだして。こいしが欲しい言葉を考えて、わたしの病の理由を伝えて、心を彼女にさらす。
怖いなあ。覚りだからわかる。心を見られてどれだけ怖いかが。相手は妹なのに。食べられてしまうような心持ちがした。
けれどこいしは自分を心配してくれたのだった。
「それじゃあ」
「待って、まだ全部、終わってないわ」
「これ以上、何を聞かせるの。病気の原因はわたしでした。ではわたしは消えましょう。簡単よね」
「語弊がありました。病気の原因は貴方ではなく貴方がいないことです」
「わたしがいるとアレルギー出るんでしょ。それなのにいないこと?」
「ええ、こいしを見つけたいからアレルギーが出るんです。わたしにはこいしが居るのにいないフリをするのがどんな病よりも切ないです。妖怪は、精神に重きをおく妖怪は心で病をする。だからわたしはこいしに気づくがためにこうなったのでしょう」
「そう、でもお姉ちゃんはわたしのことを怖がるし、気をも遣う。そんなに心配しているのにわたしから遠ざかるのはお姉ちゃんよ」
「それは認めます」
「ほら、言ったとおりじゃない。言ってしまえばいい。怖いって。嫌いって。どんな言葉だろうとわたしに」
「こいしが好きなんです」
「……ふぇ」
「こいしが好きだから嫌われたらどうしようって怖がるんです。好きだから機嫌をそこねないようよそよそしくしちゃうんです。だいたいアレルギーなんて免疫の過剰反応ですよ。こいしが好きって気持ちが強すぎちゃうから色々溢れちゃうんじゃないですか。あぁ、もう。実の妹に何言ってるんですか私は!」
途中から自制が利かなかった。思うままにぶちまけた。身体が熱い。発火しそうなぐらい熱い。ほんと妹に何を言っているんだろうか。実妹に愛の告白とか常識に囚われてなさすぎだった。
きっと気持ち悪いだろうな。そう思ってこいしを見れなかった。
「えへへ。そっかあ、だからかあ。お姉ちゃんわたしのこと好きなのかあ」
「こ、これ以上わたしを辱めないでください」
「ほんとなんだよね。嘘じゃないんだよね」
「察してください。眼もあげられないほど恥ずかしいんだから」
「えへへへ。お姉ちゃんどうかしてるよ。妹に可愛い可愛い連呼するとかもうダメだよ。えへへへへ」
こいしの言葉が刺さるような気がした。びくつきながらこいしを見た。
「こいし、顔が変よ」
「ぐうっ。乙女に何をいうのさ。お姉ちゃんが乙女すぎるのがいけないんだから。こいしちゃんはお姉ちゃんに好きって言われて無意識がメルトダウンしちゃうんだから。わたしもこいしちゃんのお姉ちゃんである古明地さとりとかいうのが好きだよもう!」
「えと、要約してわたしのことが好きだと」
「察して」
お互いに顔が真っ赤だった。千年生きてきてわたしたちは一体何をやっているんだろうか。初々しい少女のように姉妹でこんなことを。妹の眼が開いていたときはこんなこと好き合っててもなかったのに。
「あ、あの」
「お姉ちゃん!」
「は、はひ」
「好きだって言った以上お姉ちゃんがどれだけ鼻が辛くても、涙がこぼれてもそばにいるからね。離れてなんてあげないからね」
「構いません」
「恋のアナフィラキシーショックさせちゃうからね」
「な、なんですかそれ」
「えーと、二回キスすると死んじゃうとか」
「じゃあもう一度のキスで目覚めさせてください」
「ろ、ロマンチストめ」
「好きでしょう。ロマンチック」
「うん。恋焦がれるような殺掠とか、死体を飾るのとか。お姉ちゃんとこうしてるのとかね、好き」
「恥ずかしいことを」
「どっちがよ」
「どっちもですね」
心が読めないことはもう気にならなかった。こいしが好きだと言ってくれたから。
アレルギーも気にならなかった。こいしがそばにいるのが一番の特効薬だから。
短いけど、のめり込めて、いい話でした。
>ナ行の発音がニャになってしまう
↑kwsk
ニヤニヤがとまらないです
静葉様みのりん逃げてー!
文章のテンポが良かったです。素敵。
↓
ロ、ロマンチストめ
辺りの流れが素敵過ぎる
さとりんもこいしちゃんも可愛過ぎるだろJK
久しぶりに砂糖吐くって感覚を味わったぜ
>ナ行の発音がニャになってしまう
にゃん…だと…?
↑ので一日に消費するエネルギーの30%は失われたかな
やっぱりこの二人は暖かくて幸せなのが一番ですね。
ところでヤマメちゃんこれ確信犯ですよね。
お馬鹿なペットコンビにゃあやられましたわ…火車で切腹、介錯が核とかどんだけ壮大なHARAKIRIなんだwww
甘々なさとこい、御馳走様でした、読みやすい文体でスラスラと読めちゃいましたw
さとりがその心を読めないこいしに抱く感情に共感したし、
さとりのテンパり方がリアルな感じで実に良かった。
これはいい家族愛ですね。
砂糖のせいで喘息が出ちまうぜ……
甘くて素敵なお話でした。
第三の目が閉じることで、後ろ向きになるのじゃなくて前向きになるのがいい。
沈殿しすぎない感じが好きです。