「霊夢、緊急事態よ。」
ある日、八雲紫(やくもゆかり)がやってきた。
やってくること自体は特に問題ないのだが、なにも障子から飛び出してくることはないだろう。
「……なにが?」
大して驚きもせず、気だるそうに対応するのは博麗神社の実質的責任者こと、博麗霊夢(はくれいれいむ)である。
「湖よ。」
幻想郷には湖が二つある。一つは由緒正しい幻想郷由来のもので、もう一つは以前、幻想郷に持ち込まれたものだ。
人間、妖怪問わず、頭に何もつけず単に湖と言うときは、たいてい前者を指す。
「そう、大変ね。」
紫がわざわざ緊急事態だと伝えに来たというのに霊夢は興味なさそうに答える。
余程の事態になるまで腰を上げないのはいつものことだ。
ただでさえ暑くなろうとしているこの時期、面倒ごとはできるだけ避けたい、とでも言わんばかりの様子を見せ付ける霊夢だった。
「いいから来なさい!」
だが、至急の用件である。紫は自らの力を使うことにした。
霊夢一人、別の場所に転移させることは朝飯前なのだ。
有無を言わさぬ紫の行動に対して霊夢はなにか言いかけたが、歪む視界と独特の浮遊感に遮られてされるがままだった。
いくら霊夢でもこればかりはいかんともできなかった。
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「……あんたねぇ。まったく、人の都合もあったもんじゃないわ。」
不満そうな顔と不満を表す言葉が霊夢から溢れる。そう言う自分こそ、他人の都合を考慮しない筆頭だということを棚にしっかりと固定するその姿勢は呆れをぶち破って尊敬に値する。もちろん霊夢に自覚はない。
「見なさい。」
そう言って紫は霊夢の背後を指差す。
そういえば、話の流れからいって湖だというのにどうも影があって薄暗い。
そんな疑問を抱きながらも振り返った霊夢の背後には、あった。
それは巨大だった。
巨大で、巨大だった。
言い換えるとするならば、やはり巨大だった。
それしか言葉が浮かんでこなかった。
霊夢は博麗の巫女として、また幻想郷の住人として、身の丈を越える大きなものを関わることもそれなりにあった。
例えば、紅魔館。幻想郷に存在する造成物の中でもひときわ大きいこの屋敷を始めて目にしたときなど流石の巫女も驚きを隠せなかった。
さらに例えば、妖怪の山。天然自然によって出来上がったこの天まで届きそうな大地は、多くの者に言い様のない高揚感と感銘を与え続ける。
だが、今霊夢の目の前、湖と思しき水溜りに浮かぶ「それ」は常識の範囲を超えた存在だった。
「それ」は山のように強大で雄雄しかった。
それでいて「それ」は紅魔館や博麗神社、あるいは里の建物一切のように雑多な有象無象から切り出され張り合わされてような人工の整然さがにじみ出ていた。
「それ」はただ不気味に湖の上に浮かんでいた。
「紫、これ、一体……?」
霊夢は身動きも思考もできず、ただ「それ」を視界に入れることしかできなかった。
「……外の世界。」
「えっ?」
「外の世界の人間が作り出した、外の世界の本質、と言っていいもの。」
「なによそれ。」
「ロシア海軍重航空巡洋艦「アドミラル・クズネツォフ」。……船よ、桁違いの。」
「ふね……?」
いくら大きな水辺が少ない幻想郷の巫女でも、船というものをまったく知らないわけではない。
子供が作る玩具としては定番で、教養としての書物にも図入りで紹介されている。三途の川まで足を伸ばせば、たいていは岸に係留されている状態だが、実物を見ることができた。少し前など、空飛ぶ船に乗り込んでいる。
だが、霊夢の目の前にある重航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフは、そうした船とはまったく違う。
これを寸分違わず絵に起こして妖怪や人間に知らしめても、よくできた空想、もしくは常識のベースをアウトしたかわいそうなやつだ、と憐れみを注がれるだろう。それだけ荒唐無稽の存在が霊夢の目の前に鎮座しているのだ。
「驚いた?」
紫が声をかける。笑みこそ浮かべているもののその奥底までは計ることができない。
「なんで、こんなものが……。」
「外の世界の人間はね、スペルカードみたいな弾幕戦、高機動戦を行うにも大掛かりな道具を必要とするの。このアドミラル・クズネツォフはそうした道具を海を越えて運搬する船。だからこれだけ大きいのよ。」
紫の説明を耳に入れ、霊夢はさらに絶句した。
彼女には外の世界が分からなくなった。これだけの大きな、人の手によって造られた物、それもただ、スペルカードのような弾幕戦のためだけにこれだけの「山」を作る、外の世界の思考がまったく分からなかった。
「……とんでもないわね。」
ようやく感想をひねり出す霊夢。
「でしょう。」
「でもなんで……。……外の世界じゃ、これは必要なくなったってことかしら。」
「だったらあなたはまだしも、私まで驚く必要はない。……これは幻想でもないのに現れたのよ。」
幻想郷と外の世界の境には結界がある。それは外の世界にとっての幻想を幻想郷へと引き込むものであり、そうした事例を除いて外から入り込むものはごく僅か、小規模なものでしかなかった。
だが、アドミラル・クズネツォフは現役の艦艇で、それも近年になって動きが活発になっている。まだ幻想とは程遠いのだ。
「なら、さっさと送り返したらいいのよ。」
「そうしたいのは何よりもだけど、原因が分からないうちはあまり派手に動けない。」
「……じゃあ、どうすることもできないわね。」
「とりあえず、乗り込んで調べましょう。」
「誰に言ってるの?」
「もちろん博麗の巫女よ。」
紫は始めからそうするつもりで霊夢をここまで連れ込んだようだ。
「あんただけで十分じゃない。」
「これは異変よ。巫女が異変を目の前にして動かないのは怠慢以外の何者でもないわ。」
「……もっと悪化したら動いてもいいわ。」
当然、霊夢は乗り気ではない。
「これ以上は、悪化ではなく崩壊かしら。」
「どういう意味?」
脅すような口調で紫が迫る。
「このアドミラル・クズネツォフ、もし完全な状態なら、局所的とはいえ幻想郷の地形を変えるだけの火力を積んでいるのよ。」
地形を変える、その表現は幾分誇張でもあるし、事実でもあった。艦載機そのものの攻撃力に加え、航空母艦としては過剰なほどの兵器類(もちろんこれらは対艦、防空用途だが決してそれ以外には無害というわけではない)を積み込んでいるアドミラル・クズネツォフの力は計り知れず、幻想郷への影響も計り知れなかった。
「……嘘でしょ?」
「残念ながら。」
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霊夢と紫はアドミラル・クズネツォフの甲板に立っていた。
300mという長大な滑走路があまりにも大げさに思えた。ここまで広い平地は幻想郷でもあまり見かけることはない。微かにだが鼻を突く奇妙な刺激臭があり、とても居心地が良いとはいえなかった。
降り立って早々、霊夢の足裏が真っ黒になるほどの黒々しい地面からは重々しい重圧感が発せられ、それでいて鉄とも木とも違う感触が足を通じて頭に上ってくる。実は霊夢は裸足だった。
「どうするの。」
「確認することは山ほどあるわ。……幸いなのは、これがジェルジンスキーじゃなかったことかしら。」
「は?」
「中身の話よ。とにかく調べましょう。私は中を見て……。」
「紫!」
霊夢は甲板上の一点を指しながら紫を呼んだ。そこには空に浮かぶ雲のような灰色をした「なにか」が並んでいた。
面白い形をしていた。三角形に近い板が左右に貼り付けられ、後ろの方には別の板が斜めに取り付けられていて、まるで兎の耳のようだ。
おそらくは先端と思われる円錐状の部分が霊夢たちの方を向いていた。
「……あれは戦闘機。弾幕戦用の道具よ。」
「あれが……。」
外の世界では戦うにもあれだけの装備を必要とする。
妖怪のいない世界、人間が支配する世界。幻想郷とはまったく違う、外の世界は霊夢にとって未知だった。
話を聞くことはあったし、書物やアドミラル・クズネツォフのように外から流れてきたものに触れる機会もあった。だが、それはあくまで欠片であって、本質を感じることはもちろん、覗くこともなかった。
霊夢はアドミラル・クズネツォフを通して外の世界を垣間見てしまったのだ。
「……変ね。」
紫が言う。これ以上何がおかしいというのか。
「何が?」
「……これはF/A-18E/F スーパーホーネット。アメリカ海軍の艦上戦闘攻撃機で現在も主力として使われている機体。」
「おかしくもなんともないでしょ。この、アドミラル・クズネツォフ、だっけ。こいつに乗せて運んでるんでしょ?」
「……おかしいのよ。」
「え?」
「スーパーホーネットはアメリカ海軍を中心として多くの国で使われている。……でもこのアドミラル・クズネツォフが所属するロシア海軍では使われていない。」
「それはどういう……?」
「本来、アドミラル・クズネツォフが載せている戦闘機はSU-33で、後はMiG-29Kを載せるかどうかってぐらい。だから、おかしいのよ。」
アドミラル・クズネツォフを有するロシアはいわずと知れた東側であり、一方、スーパーホーネットはアメリカで開発され、現時点ではアメリカ海軍、オーストラリア空軍でのみ運用され、その他にはいくつかの西側諸国で採用計画があるばかりだ。
この時点でアドミラル・クズネツォフ、スーパーホーネット、この両者が同じ場所に存在するのは不可解だった。
一機、多くて数機程度なら共同演習か緊急避難という予測も立つのだが、甲板上に並んでいるのは全てスーパーホーネットで、いくらなんでもここまではないだろう。
「トムキャットならまだ可能性はあるんだけど……。」
そして、スーパーホーネットもまた幻想とは程遠い存在でもある。
「これはすごいわ。」
不意に風と共に声が聞こえた。
「誰かと思えば、小説家じゃない。」
「だれが小説家ですか!? 私は真実を素早く正確に広く伝える新聞記者です。」
湖にアドミラル・クズネツォフほどのものが現れたとなれば、取材に現れないはずがない。射命丸文(しゃめいまるあや)の登場はどのようなアングルから見ても必然だった。
「もう嗅ぎつけてくるなんて。」
「天職ですから。紅魔館少し早い夏休み工作取材も面白そうでしたけど、こっちの方が絵になります。」
今現在、このアドミラル・クズネツォフに勝るネタなど幻想郷には存在しないだろう。
「それにしても、この、アドミラル・クズネツォフ、でしたか。これはずいぶんと大げさですね。それも外の世界の弾幕戦用とくれば、なにやら色々起こりますか。」
「盗み聞きとは、はしたない。」
「天職ですから。」
文の言う通りこれだけのものを放置して何も起こらないはずがない。早々にこの異変を解決しなければ幻想郷は未曾有の危機に陥るだろう。そうなれば例え霊夢であっても止めることは難しい。
「……はて、どこかで見たような気がしますが。」
文が首をかしげながらアドミラル・クズネツォフを見回す。
「外の写真か何かでも見たんじゃない。」
「かもしれませんが、……いえ、もう少し色味が強かった気もしますし、ここまで大きくなかったような……。」
文は何か記憶に引っかかるようだ。とはいえ彼女は数百年単位の時間を生きる妖怪、その中でも上位の存在である天狗だ。新聞記者とはいえそこまで記憶力に優れているわけでもない。ほんの二十数年前の出来事だったとしてもまったく憶えてない、ということはそこそこあった。
「まあ、いいでしょう。気になるなら後で過去の記事でも調べればいいだけですし。」
「……今すぐにでも調べに帰ってもらいたいわね。」
「面白そうな事件の消費期限は短いんです。」
文はカメラを構えると、周囲にレンズを向ける。いつもどおりの鴉天狗を霊夢と紫は半ば呆れながら眺めていた。
その時である。
何かがアドミラル・クズネツォフに迫ってきた。
矢のように速く風を切り、音を立てて甲板上に一体の妖怪が降り立つ。それは霊夢が見知った少女だった。
「これが、アドミラル・クズネツォフ……。」
少女は、そう感慨深く呟く。
「あの店主から話を聞かされたときは夢にも思わなかったけど、まさかここで実物を目にすることができるとは思いもしなかった!!」
いきなり現れて、なおかつテンションがとんでもないことになっている。
「ふふふっ……。聖輦船は、今では命蓮寺として大地に根ざし、その身を船として飛び上がることも少なくなった。私は決して不満じゃないけれど、決して不満じゃないけれど、船長と呼ばれたこの身、自らの船の一つもないとあっては話にならない!」
村紗水蜜(むらさみなみつ)は海の妖怪だが、幻想郷には海がない。ならば残るアイデンティティーは船長という肩書きだが、それも聖輦船が飛び立たなくなってから薄れ気味だった。それすら消え去れば後に残るのは一体何か。
底が抜けた柄杓を振り回すだけのただの妖怪でしかない。一体何のために自分は存在しているのだろう、と苦悩するのみだ。
そんな折、湖に現れた謎の巨大構造物、それも少し前、香霖堂で話半分に聞いた重航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフはどれだけの衝撃を水蜜に与えたのだろうか。これならば、これを手中に収めることができたならば船長として、いや、艦長として幻想郷にしっかりと存在できるのだ。
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
「この船は私が貰う! 私が艦長となり、名実共にキャプテン・ムラサとしてこの船を指揮する!! 名前は変えましょう。アドミラル・ビャクレンがいい。」
「何勝手に話を進めているの。」
切りの良さそうなところで霊夢が口を出す。暑さにやられたのか水蜜はどうも熱暴走気味だ。それとも何か抱えているのか。
「私を止めるな。」
だが、水蜜は聞く耳を持たない。幻想郷に無人の船が現れた、となれば是が非でも確保したかった。
手作りでもいいじゃない、という話もある。だが、そんなちゃちなもので満足などできないのだ。
彼女は船長、キャプテン。その名にふさわしい規模と威光を持った船でなければ様にならないし、そもそも大したことのない船でどうやって船長と名乗るのか、いや、名乗れるのだろうか。
彼女の中ではNOだった。そもそも彼女にとって船と呼ぶことのできる最低ラインは聖輦船で、その聖輦船も中々規模の大きい船であった。
それに匹敵する船を一から自作するなど容易な事ではない。
「……まさか、これはあなたが?」
「いいえ、だからこそ力づくでも頂くわ。」
紫の問いをはっきりと否定する。白蓮の手前、みだりに幻想郷を引っ掻き回すことは避けるべきことだ。だが、自らの欲求が目の前に都合よく存在しているのである。
止められるものか。
「そういうわけにはいかないの。これは危険だし、そもそも原因すら分かってない。第一、ここから動かすこともできないのよ? それじゃ船とはいえないわ。」
「それは、河童あたりにでも何とかしてもらうわ。……あくまで邪魔をするというならここで黙らせる!」
水蜜は本気だった。普段の気立てよく明朗な少女の面影はどこにもない。
あるのは己の欲望に忠実な、かつて数多くの船を沈め、数多くの人間を殺した妖怪、船幽霊だった。
「……仕方がないわね。霊夢。」
「私?」
「巫女でしょう? 相手は暴れる妖怪。いつもどおりじゃない。」
まずは水蜜を止めなければ話は始まらない。
紫でなくとも分かりきったことだ。
「……来るのね。いいわ。受けて立ちましょう。」
水蜜の準備はできていた。
「……、しょうがないわね。」
そして、今、霊夢の準備も整った。
「謎の船とそれを巡っての攻防、これは良い記事が書けそうです。」
文はカメラを構えながら、文々。新聞の盛況振りを妄想する。
「……。」
紫はただ黙っていた。彼女の意識はこの闘いに向いていない。ただこのアドミラル・クズネツォフの存在とその元凶のみが彼女の気を引いていた。一体何者の仕業なのか、紫の頭を悩ませていた。
それとは別で、いくつか気になることもある。艦載機といい、霊夢のやけに黒ずんだ足裏といい、そしてなによりこのアドミラル・クズネツォフには決定的な部分が欠けているような違和感が感じられた。
「スペルカードでいきましょう。一枚先取で、延長、霊撃オプションはなし。手の内はお互い三枚。」
「なら、通常と耐久もなしでどうかしら?」
「それでいいわ。私は「撃沈アンカー」、「幽霊船永久停泊」、もう一枚はその場で宣言する。」
「合わせるわ。「夢想封印」が二枚と使用時宣言一枚。」
かくして、霊夢と水蜜、アドミラル・クズネツォフをかけて二人の少女の闘いが始まった……!
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「先手を打たせてもらうわ!!」
気が立っている水蜜は早速、一撃を繰り出した。
巨大な錨が霊夢めがけて飛び込んでくる。
「いきなりね!」
紙一重でかわす霊夢だが、それだけでは終わらない。着弾点から無数の小型錨が展開し、一方で大錨の軌跡からも中玉が列を成して広がっていく。相手の逃げ道を巧妙に封じる恐ろしい技だ。
だが、霊夢は大錨をうまく左右に往なしながら距離を詰めていく。小型錨の密度は濃いが上下にはそこまで広がらず、中玉は広範囲に広がるが列に沿って規則的に広がるため入り込む隙間が多い。大錨の脇を抜ける軌道は非常に効果的だった。
以前、水蜜と闘った際の経験がうまく生きているのだ。
「ふっ!」
霊夢は横方向へのジグザグ機動を中心に、上下にも細かく動くことで巧みに大錨の狙いをずらしていく。
掠りと大きく避けてからの切り返しを使い分け相手の隙を誘導し、そこに間を置かず飛び込んでいく。大錨が直線的な軌道である以上、その動きは分かりやすい。見た目と勢いに流されなければたいした労力もなく回避することができた。
「このッ!!」
水蜜は大錨の軌道を適宜、修正して飛び回る霊夢を狙う。威力そのものはかなりのもので、本来なら重量のある分厚い切っ先は触れただけでも容赦なく体を抉っていく。スペルカード用に調整しているといっても命中すれば相手に大きな打撃を与えることができた。
その一方で取り回しは悪く、機動重視の相手に対しては些か分が悪い。
前回の闘いでは初戦ということもあってまだ対応できていない隙をつけたのだが、幻想郷での闘いは霊夢の方が場慣れしている。同じ手はそのままではうまく通用しなかった。
「こっちもいくわよ。」
右舷から水蜜に接近する霊夢は不意に止まる。
それを隙と見た水蜜が投げた大錨は獲物の姿を捉えたかに見えた。
だが、すぐにそれは間違いだと理解できた。投げられた大錨に沿って弾幕が展開したが、肝心の手ごたえがなく気配もなかった。
「手を貸した……!」
弾幕を利用された。
構成上、大錨の正面は弾が密集し回避することは困難だ。だが、霊夢はあえて水蜜に大錨を投げさせることで、そこから広がる弾幕を隠れ蓑とし一時的に自分の姿を隠したのである。それ自体は一瞬のことだ。目を凝らしていれば霊夢の動きも把握できた。
しかし、意表を突かれた水蜜にとっては困難なことで、事実、気がついたときには霊夢の姿を見失っていた。
大錨を手繰り寄せながら水蜜は思わず頭を左右に振る。先ほどから霊夢は左右へのジグザグ機動によって弾幕を回避し続けていた。
水蜜は無意識のうちにその動きにつられてしまっていたのだ。
左にはアドミラル・クズネツォフの甲板が広がり、右側には先ほど放った弾幕の痕跡が残るばかり、だとすれば。
焦りが募るばかりだった視界に一枚、布切れのようなものが映ったのを水蜜は見逃さなかった。錨か弾に掠った際に破れたと思わしき赤い欠片の機動は自由落下であり、ようやく水蜜の目線に並ぼうとしている。
消えたはずの霊夢の気配も微かにだが、水蜜の上方から感じられた。
「……上!?」
水蜜はとっさに真上へと大錨を飛ばす。重力と大錨の重量が全身にかかり、間接の軋む幻聴が頭の中に響き渡った。
姿を見失わせ、左右へ意識を向けさせて真上から奇襲する霊夢の戦法は中々のものだ。だが、奇襲である以上、意識の多くが攻撃に割り振られているはずだった。
この大錨が狙いの欠片もない軌道であっても、それに反応して即座に体勢を整えることは、いくら機動性に優れていてもたやすいことではない。
まして、着弾点及び、軌跡から多量の弾がばら撒かれるのだ。仮に何とか回避できたとしてもそれまでだ。対応されるよりも速く、次の一撃が霊夢の身体を捕らえる、そう水蜜は確信した。
乾いた音が響いた。硝子が粉微塵になるような、飛び散った破片と破片がぶつかり砕け合い、さらに細かくなっていく、そんな手ごたえがあった。
「違う……!」
思わず水蜜は見上げる。先ほどの音も感触も彼女の確信とはかけ離れていた。明らかに攻撃が命中している、そのはずなのにそこから得られるはずの余波はとても霊夢に一撃与えたとは思えない奇妙なものだった。
陽光を反射する粒子の群れが水蜜に降り注ぐ。鏡のように輝くそれは、硝子でも血でもなく、霊力の粒だった。
そして、それは水蜜には見覚えのある輝きだった。
「まさか……、盾……!」
「夢想封印」は霊力を結界によっていくつかの球に分け、それらを相手に向かって打ち出す技である。打ち出された球の一つ一つが敵を追尾し、着弾と同時に凝縮された霊力が一気に解放される霊夢の得意技だった。
水蜜が投げ上げた大錨は確かに命中していた。だが、それは霊夢にではない。霊夢は展開した霊力球を全弾、大錨の切っ先にぶつけ弾幕の方向を捻じ曲げたのだ。同時に破裂し飛び出す霊力によって弾の一つ一つを相殺し、出来上がった空白部分へと……。
「お返し、よ!!」
あらぬ方向へ飛ばされた大錨と打ち消された弾によって道を作り、霊夢は一気に水蜜の正面へと躍り出る。移動と同時に二枚目の「夢想封印」を展開し、すでに放つ寸前だった。
体勢を崩されたのは水蜜の方だった。今からでは大錨は間に合わない。相手の追尾性の高さは痛いほど分かっていた。それでいて素早い八個の球を機動だけで回避しきることは不可能だった。
絶体絶命の状況下で、不意に水蜜の視界と思考が剥離していく。意識はいつもとまったく同じ速さで進んでいるのに、自身の身体も含めて周囲は恐ろしく低速で動いていた。
極度の興奮に伴う意識と認識の高速化、それはFPS(Feeling Per Strike = 一撃間感覚)と呼ばれる統一指標によって表現される。
およそ60前後で安定しているとされるFPSだが、極限の状況下、特に大掛かりな一撃が放たれたり、今まさに一撃を受けようとする状況では急激に低下し、ゼロに近づくほど周囲全てが遅くなっていく。
今はおおよそ、55、6といったところか。数値の上ではたったそれだけでも実際にはかなり遅延した動きだった。いや、かなりの思考速度、と言うべきか。
その僅かな時間、水蜜にとっては思いがけず手に入れた待ち時間が彼女に冷静さを与えた。
「これで……!」
水蜜も二枚目に入る。「撃沈アンカー」とほぼ同じだが、一度に打ち出される錨の数を増やした拡張版とも言うべき、湊符「幽霊船永久停泊」。先ほど霊夢がやったように、今度は水蜜がスペルで以ってスペルを打ち消そうとする。
幾分、小さくなった錨とはいえやはり取り回しは悪く一対一では分が悪いが、手数で言えばこちらの方が二発分多い。その二発を近接防御用に温存し、残りを放射状に打ち出した。
水蜜はあえて回避を行わなかったため、霊力球の機動も明朗だった。打ち出された錨が霊力球目掛けて飛んでいき、七発を相殺した。
残った最後の球を一度は素早く動いて避ける。もちろんそれだけで回避できたわけではない。
速度を落すことなく方向を変え、向かってくる球に対して水蜜はちょうど直角の方向へ錨を一つ、力を込めて投げる。
同時に全身から力を抜くと反動で彼女の身体は大きく引っ張られた。
急激な機動偏向にはさすがの球もうまく追尾できず、そのまま水蜜の目の前を横切ろうとする。
その瞬間に合わせて、水蜜は最後の錨を投げた。
寸分の狂いもなく錨と霊力球は接触し、双方が破片の塊へと変貌していった。
「……やるわね。」
「キャプテン・ムラサは伊達じゃないのよ。」
二枚のスペルを繰り出し終わり、残っているのは二人とも後一枚。どちらも名前は伏せられたままだった。
「お互い、奥の手かしら。」
残る一撃、どれを使うべきか、それをどのように撃つべきか、そして、どのタイミングで放つべきか、水蜜は思案していた。
スペル一枚を丸ごと盾にするような事態をまったく考慮していなかったとはいえ、すぐに対応して見せただけまだ状況としては悪くない。
水蜜と霊夢のどちらも振り出しに戻り、後は一枚の撃ち合い、それで全てが終わる。
この闘いを制したものがアドミラル・クズネツォフを手中に収めることができる。
再び、自らの船を思う存分駆ることのできる日々は目前に迫っていた。そう思うと、途端に胸が苦しくなっていった。あるのかどうかも分からない心臓が恐ろしい速さで脈打ち、その音が肉体そのものを媒介して耳に響いていく。
湧き上がる高揚感があまりにも激しく、ともすれば変わり果てた昨日の夕食と再会しかねないほどにまで気持ちを高ぶらせていった。
「孫の手かもよ?」
こんなときこそ落ち着かなければならない。相手は幻想郷において妖怪ハンターとしてそこそこ名高い巫女である。たかが人間と侮れば積み上げた石の山が一瞬にして足下に広がるだろう。なんといっても彼女は、水蜜が敬愛し、力においては畏怖もする聖白蓮(ひじりびゃくれん)相手にスペルカード、即ち、幻想郷の決闘という命を伴うことが極端に少ない闘いであったが、勝利を収めた存在なのだ。
相手の出方を見るか、それとも出る前に叩くか、判断の難しいところだった。
水蜜の明文化したスペルの総数は15枚で、マイナーチェンジも含めているため実際の数はもう少し少ない。前回、聖輦船内で闘った際に基本的なものは全て使った。先ほどの闘いの流れを見ても、おそらくパターンは見切られ済みであることは間違いない。ならば、下手にスペルを繰り出しても効果は薄いどころか逆効果になりかねない。
対して、霊夢のスペルはこのルールに最初期から関わっているということもあって30枚は優に越えているらしかった。水蜜と霊夢が闘ったのは今回が二度目で、前回の闘いにおいて霊夢が使用したスペルは僅か二枚、そのうちの一枚は「夢想封印」だった。
水蜜にとって霊夢の手の内は未だ未知の領域であり、逆に霊夢にとって水蜜の手の内は筒抜けとなっていた。
「……どうする。」
誰にも聞こえないように水蜜は呟く。
幻想郷で暮らしていくことになり、スペルカードで闘う機会も巡ってくるだろうといくつか考案しているものはあった。だが、どれも未だ未完成で、しかも片手間に進めていただけだったことが悔やまれる。未完成、全体像の把握もできていないスペルなど、この場、霊夢相手には効果の欠片もないだろう。
こんなことなら、と水蜜は唇を強くかみ締めた。
「こっちからいくわよ!!」
「ッ!?」
思考に時間を掛けすぎた。そう思ったときには既に霊夢の体制が整っていた。
「霊符「夢想封印 牙」!!」
霊夢の孫の手、それは「夢想封印」の派生だった。
「くる……!」
水蜜は強力な力と気の流れを感じ取る。それは霊夢を中心に、いや、霊夢の背後に集中していき、まるで日輪を背負っているかのような神々しさを放っている。五つの霊力球が円を成し、光の粒子を撒き散らしながら回転する。
水蜜の視界が恐ろしいほどゆっくりとなった。またもFPSが下がっているようだ。
意識のみが速くなり、円陣に集まっていく粒子の一粒一粒をはっきりと確認することができる。霊夢にとっては一瞬でも水蜜にとっては無限にも似た膨大な時間だった。
だが、終わりはいつかやってくる。
水蜜が今やるべきことは目の前に存在する一撃を潰し、霊夢を撃ちぬき、自らのアイデンティティーを再確立させることのみで、そのためにだけにこの時間は存在しているのだ。
しかし、いったいどうやって?
水蜜は思案する。思いつくものは全て拾い上げ、引き出したが、未だ何の手立ても浮かび上がらない。むしろ、そうすればするほど空の入れ物しか見つけ出せなかった。
霊夢の背後が一層、輝く。ようやく力の凝縮が終わったのだろうか。
霊夢が横へスライドする。水蜜の目の前には今まさに溜め込んだ光の全てを吐き出さんとする円陣があった。
円陣が光る。それまでとは比べ物にならない光が水蜜の視界に現れる。
極太の光だ。
円陣の直径とほぼ同じ光の束、光線が吐き出される。
水蜜は、記憶の海の中で、ある曖昧な映像を見つけた。それは今朝方、寝床で横になりながら見ていた夢、のような気がした。
今の自分と何一つ変わらない姿、声、だが周りは違う。
見覚えのある、見知った仲間達が見知らぬ部屋の中で声を張り上げていた。暗い鋼鉄の壁が周囲に広がり、いたるところに硝子のようなパネルがはめ込まれ、そのいくつかを見ながら誰もがせわしく動いていた。
誰かが水蜜を呼ぶ。
艦長、と力の篭った声で呼び、指示を請うのだ。
目の前には一際大きい硝子があって、そこには見たこともない船のようなものが映っていた。その船体からは細長い光が何本も飛び出しこちら側に向かって飛んできた。光がこちら側に当たるたびに辺りが揺れ、轟音が響いた。
そして、そのたびに周りの仲間が声を上げるのだ。
水蜜にはどうしようもなかった。勝手も何も分からず、ただ呆然と見ていることしかできなかった。そのはずだった。
気がつくと水蜜は口を動かし、皆に声をかけている。話している実感はあった。何を言っているのかも、なぜそう言っているのかも、何を根拠に言っているのかもなぜか理解できていた。
手を前に出す。そう動作した意識はあったというのに、なぜか自分の意思ではないような気がした。
すべて曖昧だ。元々数多く見る夢の中の一つに過ぎない。眠りから覚めて数秒程度で泡沫に帰すだけの幻のようなものだ。
だが、唯の一つ、鮮明な光景と声を覚えている。
目の前にいた船に指を指している自分と、同時に張り上げた単語。そして、それを合図にするかのように轟音が響いていった。
無数の光が水蜜の側からこれでもかというほど放たれ、それらが相手に向かっていった。一つ一つは細く短い光がお互い寄り添う軌道を取っていき、遂には一本の線となる。
それが、反対側から放たれる光の数々を物ともせず、突き進み目の前の船の一点に突き刺さった。
それだけだった。その結果がどうなったかは分からない。ただそれだけが記憶にしっかりと残っていた。
そこまで思い出して、水蜜ははっとする。目の前には霊夢が放った長大な一撃が迫っていた。
まだ、全ては水蜜の思考に追いついていない。
しかし、光が水蜜に届くまで、もうあと僅かだ。
水蜜はもう一度、記憶の中へ振り返った。
そこで見たのはただの夢だった。
だが、それが水蜜に啓示を与えた。
もはや考えられる手段は取り尽くし、考え尽くした。
だからこそ、最後は確証もない賭けに出るしかない。
もう一度、思い出す。
あの光景、あの言葉、水蜜自身が下した命令を今この場に吐き出す。
「全砲「一点射撃」!!」
水蜜は力の限りを尽くし、撃ちだせるだけの各種光弾を一斉に、迫り来る霊力光線とその奥の円陣に放った。
一点を定めて、そこに全ての力を結集する。
水蜜から放たれた弾の数々は寄り添い一つの光線となり、霊夢が放った霊力光線と正面からぶつかり合った。
切っ先と切っ先が互いを侵し合い滅ぼし合う。
渾身の一撃だけあって、力は拮抗しているようだ。
後は相手よりも長く、せめて、相手が撃ち終わるまでこれを持続させる。
一瞬でも気を抜けば、それまでだ。撃ちぬくか、撃ちぬかれるのか、意地と意地の張り合いだった。
「……くッ!」
水蜜から声が漏れる。
スペルとしてしっかりと練られ、準備も万全だった霊夢に比べ、水蜜の一撃は、見たかどうかも曖昧な夢を参考にした即興で、やっていることも効率や負荷も考えずただ単純に力を集めて目の前に放っているだけだった。
いくら水蜜が妖怪で、霊夢が人間だといってもこれでは水蜜が圧倒的に不利だ。
自らの一撃を持続させればさせるほど体力を消耗し、力を搾り出せば出すほど反動が苦痛となって水蜜に返ってくる。
諦めてしまえば簡単だろう。
勝敗を厳格なルールによって決めるこのスペルカードなら命の危険もない。多少の痛い目は覚悟しなければならないが、耐えられないほどではない。
そもそも闘いの始まりはたいしたことのない簡単な話だ。
いつの間にか麓の湖に巨大な船が現れ、それが聞き覚えのあるものだったために水蜜は興味を覚えた。最近は船長という身分も持て余し気味で、なにより彼女本来のフィールドである海が幻想郷のどこにもなく居心地が悪かった。
そんな彼女の目にアドミラル・クズネツォフは、太陽の如く輝きながら飛び込んできたのだった。
霊夢との闘い、負けたところで失うものは何一つない。後々酒の席で肴にされかねないだろうがそれはそれで自分も肴にしてしまえばいいだけだ。
だが、勝利すれば……、得られるものは桁違いに大きい。
艦長だ。これだけの船、一般的な海軍では大佐階級が指揮を執る、一国一城の主なのだ。船乗りのプライドと精神がひたすら叫びつつけるのだ。キャプテン、と、艦長、と。
我欲に塗れる? 醜い餓鬼のようだ?
そんなことは満ち足りたものだけが言える台詞だ。
水蜜には欠けている。この幻想郷で水蜜が水蜜たる理由が、過去の由来ではなくこの幻想郷において村紗水蜜として生きていくための理由と必然性が欠けている。
「……あれが、あれこそが、私の拠り所!!」
水蜜は力を込める。負けたくなかった。なんとしても手に入れたかった。
光の接触面に変化は見られない。どちらが押すことも押されることもなく、長い思考の間、短い時間と時間の間、放たれ続けている。
まだ、もう少し……。
もう少しだけ……。
「……もって……!!」
光が、消えた。
霊夢の光、水蜜の光、双方がほぼ同時に消えた。
水蜜は耐え切ったのだ。そして、霊夢は押し切れなかった。それだけだった。
「はぁ……。」
水蜜は息をついた。
勝つことはできず、負けることは防いだ。今はただそれだけをかみ締めるのみだ。
だが、水蜜は肝心なことを見落としていた。
「……ッ!?」
水蜜の目の前で光の球が舞い踊った。
霊夢はしっかりと「夢想封印 牙」と宣言した。水蜜にとって未知のスペルだ。それでもそれが「夢想封印」の派生であることは明らかだった。ならば、どうして気づけなかったのか。
はっきりと五つの霊力球が円陣を組んでいる時点で、それぞれの球が襲い掛かってくることを水蜜は微塵にも思いつかなかった。
球はそれぞれが二つに分裂し、計10個の光が水蜜目掛けて飛んでくる。通常の「夢想封印」と同じように追尾性を持った球を全て避けきることが、力の大半を出し切った水蜜にできるのかどうかは、……聞くまでもなかった。
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「お疲れ様です。」
文が霊夢の労を労う。ヒーローインタビュー紛いでも始める気か。
「……霊夢、あなた達が闘っている間に、いろいろ調べてみたんだけど……。」
「ん?」
敗北と疲労から膝を突いている水蜜を放っておいて、霊夢は紫の方を向く。
紫は何かを掴んだようだ。
「どうやら……。」
休憩がてら紫の話でも聞いてやろうと、霊夢は何も言わず黙っていて、文の方も同じように聞き耳を立てながらペンを構えていた。
「……なかなかの絶景じゃない。流石は私ね。」
またしても闖入者が現れる。
「レミリア?」
まだ、昼間だというのに従者に日傘を差させて、優雅にやってきたのはレミリア・スカーレット。湖のほとりに建つ紅魔館の主ならば、湖に堂々と浮かぶアドミラル・クズネツォフに興味を持つのは当然だろう。
「あら、霊夢に、紫に、新聞記者じゃない。なにしているの? こんなところで。」
「こっちの台詞なんだけど。」
霊夢の言うことはもっともだ。
「いいえ。私のものよ。この船は私の作品だから、そこに上がりこんでいるあなたたちがそもそもおかしいの。」
「どういう意味?」
突然のレミリアの登場だけでなく、開口一番、アドミラル・クズネツォフを自分の作品だという吸血鬼の言葉に霊夢、文、そして、水蜜の間で混乱が広がっていく。
紫だけは、ああ、なるほど、といった顔だった。
「数日前の話です。」
次に口を開いたのはレミリアの隣で日傘を差し、主(あるじ)に日光が当たらないよう配慮しているメイド、十六夜咲夜(いざよいさくや)だった。
「お嬢様と私は散歩のついでに道具屋へ寄りました。」
「霖之助さんのところ?」
「ええ。そこでお嬢様が興味を惹かれたものがありました。えーと、プラモデル、というものです。」
「プラ……?」
「外の世界だったか、とにかく幻想郷で作られたものではない模型だそうで、何でも、知り合いから使い道がないから貰ってくれ、と渡されたもののうちの一つと言っておられました。」
「……知り合いからの……?」
水蜜が反応する。何か知っているのだろうか。
「なんといっても見た目ね。壮大で威風堂々とした力強い姿を一目見て気に入ったのよ。幸い、売り物だったし、手に入れたわ。」
レミリアが言う。目を輝かせながら身振り手振りも加えて語る姿は見た目相応の子供のようだった。
「……それが苦労の始まり。……まさかバラバラだったなんて思いもしなかったわ。」
「色も箱に書かれていたものとすいぶん違っていましたし。でも少しはできあがっていましたけど。」
プラモデルなら組みあがった状態である方が珍しい。特に艦船、航空機だと技術や知識も必要になるし、メーカーによっては品質にもバラツキがあってそのまま組み上げられるものはごく小数なのだ。色も塗らないと様にならなかった。
「でも、私は諦めなかった。接着剤や塗料っていうのもいるみたいだから、そのあたりは錬金術で用意して、準備を整えた。」
「……してもらった、の間違いでは?」
文の突っ込みはそのまま流された。
見るからに意図的な行為だ。
「我が紅魔館の総力を挙げて、これに取り組んだわ。」
レミリアが感慨深そうに語る。
水蜜を除いた三者の頭には、全て丸投げしてくつろいでいるレミリアの姿、関連すると思われる文献をある程度は提示して、後は我関せずと本の世界に入り込んでいるパチュリー・ノーレッジ、そして、時間を止めて一人孤独にアドミラル・クズネツォフを組み上げている咲夜の健気な姿が目に浮かんだ。
後の連中? 関わりようがないだろう。
ちなみに水蜜はレミリアたちと初対面なので、一人だけ何も浮かばず除け者だった。本人はそれどころではなかったのだが。
「完成したわ。……昨日の話よ。」
三者の失礼な、おそらく正しいであろう想像は露知らず、話を進めるレミリア。
「色も塗って完璧。後は飛行機っていうのを上に載せるみたいなんだけど、入ってなかったからパチュリーに頼んで用意してもらったわ。資料が少なかったから適当だったけど。」
「だからなのね。」
紫の疑問は解けたようだ。といっても霊夢たちが闘っている間に色々調べて、船体や艦載機の材質がプラスチックであることを突き止めていたので、対して驚くことはなかった。
「……でも、物足りなかった。」
「何が?」
「サイズよ。アドミラル・クズネツォフの実物はもっと大きいの。それこそ紅魔館なんで目じゃないくらいにね。……でも目の前にあるのは精巧な作りだけどこじんまりとした模型だったのよ。たしか1/700のサイズだったかしら。それで……。」
「……大きくしてくれって頼んだのね。」
「正解。パチュリーの力なら本来の大きさにすることは造作もなかったわ。ただ、そのままだと紅魔館が大変なことになるから湖に浮かべることにしたのよ。」
「なんてはた迷惑な。」
「これでも考えたわ。元々、喫……水線?より上を再現する模型のシリーズのうちの一つだったから、底は平らだったけど、いくらなんでもその辺にそのまま置いたら邪魔なだけよ。湖なら何か大きなものが浮いてるわけでもないし問題なかったわ。」
「……いやいや。」
なんとも迷惑千万な話だ。誰もがそう思う。いや、霊夢と紫だけか。
文は熱心にレミリアの話をメモする。たかが模型であっても記者のさじ加減一つでどのような規模のニュースにも様変わりするのが報道メディアの特徴だ。ジャーナリズムがどうとか、モラルがどうとか、そんなことはお構いなしである。
それでもそんな姿勢を隠そうともしない分、まだ文は良心的なのかもしれない。
そして、水蜜はというと。
「……模型……。」
あれだけ張り切って闘いを繰り広げた目標が、自分の目指す最後の希望ともいうべき存在が、まったくかけ離れた存在であったことにショックを隠しきれない様子だ。
模型とはいえこのサイズなら強度や性能はともかく、船としては最低限機能するだろうが、そんなことすら考えられないほど憔悴しきっていた。
空を見上げて、口を大きく開けた姿は、本人には悪いが滑稽に見える。
「……おーい。」
霊夢の呼びかけにも応えない。
文がしきりにシャッターを切っているのに何の反応も示さない。
事の成り行きを知らないレミリアたちは首をかしげていた。
「……う、うう……。」
少しかわいそうに思えてくる。
よく見ると目から光るものが零れていた。先の激戦のせいで自制が効かなくなっていたのかも知れない。
「うわーん!!!」
水蜜は泣きながら飛び去っていった。
「……あ、行っちゃった。」
……ひょっとしなくても今回の被害者は水蜜だろう。
ただ、自分から首を突っ込んでいるので自業自得でもある。
「あのシリーズにアドミラル・クズネツォフなんてあったかしら。」
紫が呟く。それは誰にも聞こえなかった。
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数日後。
結局、あれだけ大きいと邪魔だ、と言うレミリアの鶴の一声によって、ほどなくアドミラル・クズネツォフは製作時と同じ1/700のサイズに戻され、紅魔館の玄関付近に飾られことになったらしい。ただ無理に大きくしたせいで相当劣化したらしく、別の機会に霊夢が紅魔館を訪れた際には修復不能ということで廃棄処分になっていた。
もし、あのとき水蜜が勝利していたとして、その後、アドミラル・クズネツォフを手中に収めていたとしても三日天下に終わっていただろう。それはそれで悲劇だし、惨めな話でもあった。
その水蜜だが、彼女の姿を霊夢はあれから見た事はなかった。
あの様子だと、しばらくは動けそうにないだろうし、当たり前といえば当たり前だ。
何にせよ。人騒がせな事件は終わった。
またしばらくは平凡な日常が続くことを願いつつ、暢気にお茶を啜ろうとする霊夢であった。
「!?」
巨大な爆発音が霊夢の耳を突き抜けた。
地面は特に揺れなかったが、目を凝らすと薄らとした煙が山の方から上がっているのが確認できた。
また、なにやら起こったようだ。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------->To the previous.
ある日、八雲紫(やくもゆかり)がやってきた。
やってくること自体は特に問題ないのだが、なにも障子から飛び出してくることはないだろう。
「……なにが?」
大して驚きもせず、気だるそうに対応するのは博麗神社の実質的責任者こと、博麗霊夢(はくれいれいむ)である。
「湖よ。」
幻想郷には湖が二つある。一つは由緒正しい幻想郷由来のもので、もう一つは以前、幻想郷に持ち込まれたものだ。
人間、妖怪問わず、頭に何もつけず単に湖と言うときは、たいてい前者を指す。
「そう、大変ね。」
紫がわざわざ緊急事態だと伝えに来たというのに霊夢は興味なさそうに答える。
余程の事態になるまで腰を上げないのはいつものことだ。
ただでさえ暑くなろうとしているこの時期、面倒ごとはできるだけ避けたい、とでも言わんばかりの様子を見せ付ける霊夢だった。
「いいから来なさい!」
だが、至急の用件である。紫は自らの力を使うことにした。
霊夢一人、別の場所に転移させることは朝飯前なのだ。
有無を言わさぬ紫の行動に対して霊夢はなにか言いかけたが、歪む視界と独特の浮遊感に遮られてされるがままだった。
いくら霊夢でもこればかりはいかんともできなかった。
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「……あんたねぇ。まったく、人の都合もあったもんじゃないわ。」
不満そうな顔と不満を表す言葉が霊夢から溢れる。そう言う自分こそ、他人の都合を考慮しない筆頭だということを棚にしっかりと固定するその姿勢は呆れをぶち破って尊敬に値する。もちろん霊夢に自覚はない。
「見なさい。」
そう言って紫は霊夢の背後を指差す。
そういえば、話の流れからいって湖だというのにどうも影があって薄暗い。
そんな疑問を抱きながらも振り返った霊夢の背後には、あった。
それは巨大だった。
巨大で、巨大だった。
言い換えるとするならば、やはり巨大だった。
それしか言葉が浮かんでこなかった。
霊夢は博麗の巫女として、また幻想郷の住人として、身の丈を越える大きなものを関わることもそれなりにあった。
例えば、紅魔館。幻想郷に存在する造成物の中でもひときわ大きいこの屋敷を始めて目にしたときなど流石の巫女も驚きを隠せなかった。
さらに例えば、妖怪の山。天然自然によって出来上がったこの天まで届きそうな大地は、多くの者に言い様のない高揚感と感銘を与え続ける。
だが、今霊夢の目の前、湖と思しき水溜りに浮かぶ「それ」は常識の範囲を超えた存在だった。
「それ」は山のように強大で雄雄しかった。
それでいて「それ」は紅魔館や博麗神社、あるいは里の建物一切のように雑多な有象無象から切り出され張り合わされてような人工の整然さがにじみ出ていた。
「それ」はただ不気味に湖の上に浮かんでいた。
「紫、これ、一体……?」
霊夢は身動きも思考もできず、ただ「それ」を視界に入れることしかできなかった。
「……外の世界。」
「えっ?」
「外の世界の人間が作り出した、外の世界の本質、と言っていいもの。」
「なによそれ。」
「ロシア海軍重航空巡洋艦「アドミラル・クズネツォフ」。……船よ、桁違いの。」
「ふね……?」
いくら大きな水辺が少ない幻想郷の巫女でも、船というものをまったく知らないわけではない。
子供が作る玩具としては定番で、教養としての書物にも図入りで紹介されている。三途の川まで足を伸ばせば、たいていは岸に係留されている状態だが、実物を見ることができた。少し前など、空飛ぶ船に乗り込んでいる。
だが、霊夢の目の前にある重航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフは、そうした船とはまったく違う。
これを寸分違わず絵に起こして妖怪や人間に知らしめても、よくできた空想、もしくは常識のベースをアウトしたかわいそうなやつだ、と憐れみを注がれるだろう。それだけ荒唐無稽の存在が霊夢の目の前に鎮座しているのだ。
「驚いた?」
紫が声をかける。笑みこそ浮かべているもののその奥底までは計ることができない。
「なんで、こんなものが……。」
「外の世界の人間はね、スペルカードみたいな弾幕戦、高機動戦を行うにも大掛かりな道具を必要とするの。このアドミラル・クズネツォフはそうした道具を海を越えて運搬する船。だからこれだけ大きいのよ。」
紫の説明を耳に入れ、霊夢はさらに絶句した。
彼女には外の世界が分からなくなった。これだけの大きな、人の手によって造られた物、それもただ、スペルカードのような弾幕戦のためだけにこれだけの「山」を作る、外の世界の思考がまったく分からなかった。
「……とんでもないわね。」
ようやく感想をひねり出す霊夢。
「でしょう。」
「でもなんで……。……外の世界じゃ、これは必要なくなったってことかしら。」
「だったらあなたはまだしも、私まで驚く必要はない。……これは幻想でもないのに現れたのよ。」
幻想郷と外の世界の境には結界がある。それは外の世界にとっての幻想を幻想郷へと引き込むものであり、そうした事例を除いて外から入り込むものはごく僅か、小規模なものでしかなかった。
だが、アドミラル・クズネツォフは現役の艦艇で、それも近年になって動きが活発になっている。まだ幻想とは程遠いのだ。
「なら、さっさと送り返したらいいのよ。」
「そうしたいのは何よりもだけど、原因が分からないうちはあまり派手に動けない。」
「……じゃあ、どうすることもできないわね。」
「とりあえず、乗り込んで調べましょう。」
「誰に言ってるの?」
「もちろん博麗の巫女よ。」
紫は始めからそうするつもりで霊夢をここまで連れ込んだようだ。
「あんただけで十分じゃない。」
「これは異変よ。巫女が異変を目の前にして動かないのは怠慢以外の何者でもないわ。」
「……もっと悪化したら動いてもいいわ。」
当然、霊夢は乗り気ではない。
「これ以上は、悪化ではなく崩壊かしら。」
「どういう意味?」
脅すような口調で紫が迫る。
「このアドミラル・クズネツォフ、もし完全な状態なら、局所的とはいえ幻想郷の地形を変えるだけの火力を積んでいるのよ。」
地形を変える、その表現は幾分誇張でもあるし、事実でもあった。艦載機そのものの攻撃力に加え、航空母艦としては過剰なほどの兵器類(もちろんこれらは対艦、防空用途だが決してそれ以外には無害というわけではない)を積み込んでいるアドミラル・クズネツォフの力は計り知れず、幻想郷への影響も計り知れなかった。
「……嘘でしょ?」
「残念ながら。」
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霊夢と紫はアドミラル・クズネツォフの甲板に立っていた。
300mという長大な滑走路があまりにも大げさに思えた。ここまで広い平地は幻想郷でもあまり見かけることはない。微かにだが鼻を突く奇妙な刺激臭があり、とても居心地が良いとはいえなかった。
降り立って早々、霊夢の足裏が真っ黒になるほどの黒々しい地面からは重々しい重圧感が発せられ、それでいて鉄とも木とも違う感触が足を通じて頭に上ってくる。実は霊夢は裸足だった。
「どうするの。」
「確認することは山ほどあるわ。……幸いなのは、これがジェルジンスキーじゃなかったことかしら。」
「は?」
「中身の話よ。とにかく調べましょう。私は中を見て……。」
「紫!」
霊夢は甲板上の一点を指しながら紫を呼んだ。そこには空に浮かぶ雲のような灰色をした「なにか」が並んでいた。
面白い形をしていた。三角形に近い板が左右に貼り付けられ、後ろの方には別の板が斜めに取り付けられていて、まるで兎の耳のようだ。
おそらくは先端と思われる円錐状の部分が霊夢たちの方を向いていた。
「……あれは戦闘機。弾幕戦用の道具よ。」
「あれが……。」
外の世界では戦うにもあれだけの装備を必要とする。
妖怪のいない世界、人間が支配する世界。幻想郷とはまったく違う、外の世界は霊夢にとって未知だった。
話を聞くことはあったし、書物やアドミラル・クズネツォフのように外から流れてきたものに触れる機会もあった。だが、それはあくまで欠片であって、本質を感じることはもちろん、覗くこともなかった。
霊夢はアドミラル・クズネツォフを通して外の世界を垣間見てしまったのだ。
「……変ね。」
紫が言う。これ以上何がおかしいというのか。
「何が?」
「……これはF/A-18E/F スーパーホーネット。アメリカ海軍の艦上戦闘攻撃機で現在も主力として使われている機体。」
「おかしくもなんともないでしょ。この、アドミラル・クズネツォフ、だっけ。こいつに乗せて運んでるんでしょ?」
「……おかしいのよ。」
「え?」
「スーパーホーネットはアメリカ海軍を中心として多くの国で使われている。……でもこのアドミラル・クズネツォフが所属するロシア海軍では使われていない。」
「それはどういう……?」
「本来、アドミラル・クズネツォフが載せている戦闘機はSU-33で、後はMiG-29Kを載せるかどうかってぐらい。だから、おかしいのよ。」
アドミラル・クズネツォフを有するロシアはいわずと知れた東側であり、一方、スーパーホーネットはアメリカで開発され、現時点ではアメリカ海軍、オーストラリア空軍でのみ運用され、その他にはいくつかの西側諸国で採用計画があるばかりだ。
この時点でアドミラル・クズネツォフ、スーパーホーネット、この両者が同じ場所に存在するのは不可解だった。
一機、多くて数機程度なら共同演習か緊急避難という予測も立つのだが、甲板上に並んでいるのは全てスーパーホーネットで、いくらなんでもここまではないだろう。
「トムキャットならまだ可能性はあるんだけど……。」
そして、スーパーホーネットもまた幻想とは程遠い存在でもある。
「これはすごいわ。」
不意に風と共に声が聞こえた。
「誰かと思えば、小説家じゃない。」
「だれが小説家ですか!? 私は真実を素早く正確に広く伝える新聞記者です。」
湖にアドミラル・クズネツォフほどのものが現れたとなれば、取材に現れないはずがない。射命丸文(しゃめいまるあや)の登場はどのようなアングルから見ても必然だった。
「もう嗅ぎつけてくるなんて。」
「天職ですから。紅魔館少し早い夏休み工作取材も面白そうでしたけど、こっちの方が絵になります。」
今現在、このアドミラル・クズネツォフに勝るネタなど幻想郷には存在しないだろう。
「それにしても、この、アドミラル・クズネツォフ、でしたか。これはずいぶんと大げさですね。それも外の世界の弾幕戦用とくれば、なにやら色々起こりますか。」
「盗み聞きとは、はしたない。」
「天職ですから。」
文の言う通りこれだけのものを放置して何も起こらないはずがない。早々にこの異変を解決しなければ幻想郷は未曾有の危機に陥るだろう。そうなれば例え霊夢であっても止めることは難しい。
「……はて、どこかで見たような気がしますが。」
文が首をかしげながらアドミラル・クズネツォフを見回す。
「外の写真か何かでも見たんじゃない。」
「かもしれませんが、……いえ、もう少し色味が強かった気もしますし、ここまで大きくなかったような……。」
文は何か記憶に引っかかるようだ。とはいえ彼女は数百年単位の時間を生きる妖怪、その中でも上位の存在である天狗だ。新聞記者とはいえそこまで記憶力に優れているわけでもない。ほんの二十数年前の出来事だったとしてもまったく憶えてない、ということはそこそこあった。
「まあ、いいでしょう。気になるなら後で過去の記事でも調べればいいだけですし。」
「……今すぐにでも調べに帰ってもらいたいわね。」
「面白そうな事件の消費期限は短いんです。」
文はカメラを構えると、周囲にレンズを向ける。いつもどおりの鴉天狗を霊夢と紫は半ば呆れながら眺めていた。
その時である。
何かがアドミラル・クズネツォフに迫ってきた。
矢のように速く風を切り、音を立てて甲板上に一体の妖怪が降り立つ。それは霊夢が見知った少女だった。
「これが、アドミラル・クズネツォフ……。」
少女は、そう感慨深く呟く。
「あの店主から話を聞かされたときは夢にも思わなかったけど、まさかここで実物を目にすることができるとは思いもしなかった!!」
いきなり現れて、なおかつテンションがとんでもないことになっている。
「ふふふっ……。聖輦船は、今では命蓮寺として大地に根ざし、その身を船として飛び上がることも少なくなった。私は決して不満じゃないけれど、決して不満じゃないけれど、船長と呼ばれたこの身、自らの船の一つもないとあっては話にならない!」
村紗水蜜(むらさみなみつ)は海の妖怪だが、幻想郷には海がない。ならば残るアイデンティティーは船長という肩書きだが、それも聖輦船が飛び立たなくなってから薄れ気味だった。それすら消え去れば後に残るのは一体何か。
底が抜けた柄杓を振り回すだけのただの妖怪でしかない。一体何のために自分は存在しているのだろう、と苦悩するのみだ。
そんな折、湖に現れた謎の巨大構造物、それも少し前、香霖堂で話半分に聞いた重航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフはどれだけの衝撃を水蜜に与えたのだろうか。これならば、これを手中に収めることができたならば船長として、いや、艦長として幻想郷にしっかりと存在できるのだ。
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
「この船は私が貰う! 私が艦長となり、名実共にキャプテン・ムラサとしてこの船を指揮する!! 名前は変えましょう。アドミラル・ビャクレンがいい。」
「何勝手に話を進めているの。」
切りの良さそうなところで霊夢が口を出す。暑さにやられたのか水蜜はどうも熱暴走気味だ。それとも何か抱えているのか。
「私を止めるな。」
だが、水蜜は聞く耳を持たない。幻想郷に無人の船が現れた、となれば是が非でも確保したかった。
手作りでもいいじゃない、という話もある。だが、そんなちゃちなもので満足などできないのだ。
彼女は船長、キャプテン。その名にふさわしい規模と威光を持った船でなければ様にならないし、そもそも大したことのない船でどうやって船長と名乗るのか、いや、名乗れるのだろうか。
彼女の中ではNOだった。そもそも彼女にとって船と呼ぶことのできる最低ラインは聖輦船で、その聖輦船も中々規模の大きい船であった。
それに匹敵する船を一から自作するなど容易な事ではない。
「……まさか、これはあなたが?」
「いいえ、だからこそ力づくでも頂くわ。」
紫の問いをはっきりと否定する。白蓮の手前、みだりに幻想郷を引っ掻き回すことは避けるべきことだ。だが、自らの欲求が目の前に都合よく存在しているのである。
止められるものか。
「そういうわけにはいかないの。これは危険だし、そもそも原因すら分かってない。第一、ここから動かすこともできないのよ? それじゃ船とはいえないわ。」
「それは、河童あたりにでも何とかしてもらうわ。……あくまで邪魔をするというならここで黙らせる!」
水蜜は本気だった。普段の気立てよく明朗な少女の面影はどこにもない。
あるのは己の欲望に忠実な、かつて数多くの船を沈め、数多くの人間を殺した妖怪、船幽霊だった。
「……仕方がないわね。霊夢。」
「私?」
「巫女でしょう? 相手は暴れる妖怪。いつもどおりじゃない。」
まずは水蜜を止めなければ話は始まらない。
紫でなくとも分かりきったことだ。
「……来るのね。いいわ。受けて立ちましょう。」
水蜜の準備はできていた。
「……、しょうがないわね。」
そして、今、霊夢の準備も整った。
「謎の船とそれを巡っての攻防、これは良い記事が書けそうです。」
文はカメラを構えながら、文々。新聞の盛況振りを妄想する。
「……。」
紫はただ黙っていた。彼女の意識はこの闘いに向いていない。ただこのアドミラル・クズネツォフの存在とその元凶のみが彼女の気を引いていた。一体何者の仕業なのか、紫の頭を悩ませていた。
それとは別で、いくつか気になることもある。艦載機といい、霊夢のやけに黒ずんだ足裏といい、そしてなによりこのアドミラル・クズネツォフには決定的な部分が欠けているような違和感が感じられた。
「スペルカードでいきましょう。一枚先取で、延長、霊撃オプションはなし。手の内はお互い三枚。」
「なら、通常と耐久もなしでどうかしら?」
「それでいいわ。私は「撃沈アンカー」、「幽霊船永久停泊」、もう一枚はその場で宣言する。」
「合わせるわ。「夢想封印」が二枚と使用時宣言一枚。」
かくして、霊夢と水蜜、アドミラル・クズネツォフをかけて二人の少女の闘いが始まった……!
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「先手を打たせてもらうわ!!」
気が立っている水蜜は早速、一撃を繰り出した。
巨大な錨が霊夢めがけて飛び込んでくる。
「いきなりね!」
紙一重でかわす霊夢だが、それだけでは終わらない。着弾点から無数の小型錨が展開し、一方で大錨の軌跡からも中玉が列を成して広がっていく。相手の逃げ道を巧妙に封じる恐ろしい技だ。
だが、霊夢は大錨をうまく左右に往なしながら距離を詰めていく。小型錨の密度は濃いが上下にはそこまで広がらず、中玉は広範囲に広がるが列に沿って規則的に広がるため入り込む隙間が多い。大錨の脇を抜ける軌道は非常に効果的だった。
以前、水蜜と闘った際の経験がうまく生きているのだ。
「ふっ!」
霊夢は横方向へのジグザグ機動を中心に、上下にも細かく動くことで巧みに大錨の狙いをずらしていく。
掠りと大きく避けてからの切り返しを使い分け相手の隙を誘導し、そこに間を置かず飛び込んでいく。大錨が直線的な軌道である以上、その動きは分かりやすい。見た目と勢いに流されなければたいした労力もなく回避することができた。
「このッ!!」
水蜜は大錨の軌道を適宜、修正して飛び回る霊夢を狙う。威力そのものはかなりのもので、本来なら重量のある分厚い切っ先は触れただけでも容赦なく体を抉っていく。スペルカード用に調整しているといっても命中すれば相手に大きな打撃を与えることができた。
その一方で取り回しは悪く、機動重視の相手に対しては些か分が悪い。
前回の闘いでは初戦ということもあってまだ対応できていない隙をつけたのだが、幻想郷での闘いは霊夢の方が場慣れしている。同じ手はそのままではうまく通用しなかった。
「こっちもいくわよ。」
右舷から水蜜に接近する霊夢は不意に止まる。
それを隙と見た水蜜が投げた大錨は獲物の姿を捉えたかに見えた。
だが、すぐにそれは間違いだと理解できた。投げられた大錨に沿って弾幕が展開したが、肝心の手ごたえがなく気配もなかった。
「手を貸した……!」
弾幕を利用された。
構成上、大錨の正面は弾が密集し回避することは困難だ。だが、霊夢はあえて水蜜に大錨を投げさせることで、そこから広がる弾幕を隠れ蓑とし一時的に自分の姿を隠したのである。それ自体は一瞬のことだ。目を凝らしていれば霊夢の動きも把握できた。
しかし、意表を突かれた水蜜にとっては困難なことで、事実、気がついたときには霊夢の姿を見失っていた。
大錨を手繰り寄せながら水蜜は思わず頭を左右に振る。先ほどから霊夢は左右へのジグザグ機動によって弾幕を回避し続けていた。
水蜜は無意識のうちにその動きにつられてしまっていたのだ。
左にはアドミラル・クズネツォフの甲板が広がり、右側には先ほど放った弾幕の痕跡が残るばかり、だとすれば。
焦りが募るばかりだった視界に一枚、布切れのようなものが映ったのを水蜜は見逃さなかった。錨か弾に掠った際に破れたと思わしき赤い欠片の機動は自由落下であり、ようやく水蜜の目線に並ぼうとしている。
消えたはずの霊夢の気配も微かにだが、水蜜の上方から感じられた。
「……上!?」
水蜜はとっさに真上へと大錨を飛ばす。重力と大錨の重量が全身にかかり、間接の軋む幻聴が頭の中に響き渡った。
姿を見失わせ、左右へ意識を向けさせて真上から奇襲する霊夢の戦法は中々のものだ。だが、奇襲である以上、意識の多くが攻撃に割り振られているはずだった。
この大錨が狙いの欠片もない軌道であっても、それに反応して即座に体勢を整えることは、いくら機動性に優れていてもたやすいことではない。
まして、着弾点及び、軌跡から多量の弾がばら撒かれるのだ。仮に何とか回避できたとしてもそれまでだ。対応されるよりも速く、次の一撃が霊夢の身体を捕らえる、そう水蜜は確信した。
乾いた音が響いた。硝子が粉微塵になるような、飛び散った破片と破片がぶつかり砕け合い、さらに細かくなっていく、そんな手ごたえがあった。
「違う……!」
思わず水蜜は見上げる。先ほどの音も感触も彼女の確信とはかけ離れていた。明らかに攻撃が命中している、そのはずなのにそこから得られるはずの余波はとても霊夢に一撃与えたとは思えない奇妙なものだった。
陽光を反射する粒子の群れが水蜜に降り注ぐ。鏡のように輝くそれは、硝子でも血でもなく、霊力の粒だった。
そして、それは水蜜には見覚えのある輝きだった。
「まさか……、盾……!」
「夢想封印」は霊力を結界によっていくつかの球に分け、それらを相手に向かって打ち出す技である。打ち出された球の一つ一つが敵を追尾し、着弾と同時に凝縮された霊力が一気に解放される霊夢の得意技だった。
水蜜が投げ上げた大錨は確かに命中していた。だが、それは霊夢にではない。霊夢は展開した霊力球を全弾、大錨の切っ先にぶつけ弾幕の方向を捻じ曲げたのだ。同時に破裂し飛び出す霊力によって弾の一つ一つを相殺し、出来上がった空白部分へと……。
「お返し、よ!!」
あらぬ方向へ飛ばされた大錨と打ち消された弾によって道を作り、霊夢は一気に水蜜の正面へと躍り出る。移動と同時に二枚目の「夢想封印」を展開し、すでに放つ寸前だった。
体勢を崩されたのは水蜜の方だった。今からでは大錨は間に合わない。相手の追尾性の高さは痛いほど分かっていた。それでいて素早い八個の球を機動だけで回避しきることは不可能だった。
絶体絶命の状況下で、不意に水蜜の視界と思考が剥離していく。意識はいつもとまったく同じ速さで進んでいるのに、自身の身体も含めて周囲は恐ろしく低速で動いていた。
極度の興奮に伴う意識と認識の高速化、それはFPS(Feeling Per Strike = 一撃間感覚)と呼ばれる統一指標によって表現される。
およそ60前後で安定しているとされるFPSだが、極限の状況下、特に大掛かりな一撃が放たれたり、今まさに一撃を受けようとする状況では急激に低下し、ゼロに近づくほど周囲全てが遅くなっていく。
今はおおよそ、55、6といったところか。数値の上ではたったそれだけでも実際にはかなり遅延した動きだった。いや、かなりの思考速度、と言うべきか。
その僅かな時間、水蜜にとっては思いがけず手に入れた待ち時間が彼女に冷静さを与えた。
「これで……!」
水蜜も二枚目に入る。「撃沈アンカー」とほぼ同じだが、一度に打ち出される錨の数を増やした拡張版とも言うべき、湊符「幽霊船永久停泊」。先ほど霊夢がやったように、今度は水蜜がスペルで以ってスペルを打ち消そうとする。
幾分、小さくなった錨とはいえやはり取り回しは悪く一対一では分が悪いが、手数で言えばこちらの方が二発分多い。その二発を近接防御用に温存し、残りを放射状に打ち出した。
水蜜はあえて回避を行わなかったため、霊力球の機動も明朗だった。打ち出された錨が霊力球目掛けて飛んでいき、七発を相殺した。
残った最後の球を一度は素早く動いて避ける。もちろんそれだけで回避できたわけではない。
速度を落すことなく方向を変え、向かってくる球に対して水蜜はちょうど直角の方向へ錨を一つ、力を込めて投げる。
同時に全身から力を抜くと反動で彼女の身体は大きく引っ張られた。
急激な機動偏向にはさすがの球もうまく追尾できず、そのまま水蜜の目の前を横切ろうとする。
その瞬間に合わせて、水蜜は最後の錨を投げた。
寸分の狂いもなく錨と霊力球は接触し、双方が破片の塊へと変貌していった。
「……やるわね。」
「キャプテン・ムラサは伊達じゃないのよ。」
二枚のスペルを繰り出し終わり、残っているのは二人とも後一枚。どちらも名前は伏せられたままだった。
「お互い、奥の手かしら。」
残る一撃、どれを使うべきか、それをどのように撃つべきか、そして、どのタイミングで放つべきか、水蜜は思案していた。
スペル一枚を丸ごと盾にするような事態をまったく考慮していなかったとはいえ、すぐに対応して見せただけまだ状況としては悪くない。
水蜜と霊夢のどちらも振り出しに戻り、後は一枚の撃ち合い、それで全てが終わる。
この闘いを制したものがアドミラル・クズネツォフを手中に収めることができる。
再び、自らの船を思う存分駆ることのできる日々は目前に迫っていた。そう思うと、途端に胸が苦しくなっていった。あるのかどうかも分からない心臓が恐ろしい速さで脈打ち、その音が肉体そのものを媒介して耳に響いていく。
湧き上がる高揚感があまりにも激しく、ともすれば変わり果てた昨日の夕食と再会しかねないほどにまで気持ちを高ぶらせていった。
「孫の手かもよ?」
こんなときこそ落ち着かなければならない。相手は幻想郷において妖怪ハンターとしてそこそこ名高い巫女である。たかが人間と侮れば積み上げた石の山が一瞬にして足下に広がるだろう。なんといっても彼女は、水蜜が敬愛し、力においては畏怖もする聖白蓮(ひじりびゃくれん)相手にスペルカード、即ち、幻想郷の決闘という命を伴うことが極端に少ない闘いであったが、勝利を収めた存在なのだ。
相手の出方を見るか、それとも出る前に叩くか、判断の難しいところだった。
水蜜の明文化したスペルの総数は15枚で、マイナーチェンジも含めているため実際の数はもう少し少ない。前回、聖輦船内で闘った際に基本的なものは全て使った。先ほどの闘いの流れを見ても、おそらくパターンは見切られ済みであることは間違いない。ならば、下手にスペルを繰り出しても効果は薄いどころか逆効果になりかねない。
対して、霊夢のスペルはこのルールに最初期から関わっているということもあって30枚は優に越えているらしかった。水蜜と霊夢が闘ったのは今回が二度目で、前回の闘いにおいて霊夢が使用したスペルは僅か二枚、そのうちの一枚は「夢想封印」だった。
水蜜にとって霊夢の手の内は未だ未知の領域であり、逆に霊夢にとって水蜜の手の内は筒抜けとなっていた。
「……どうする。」
誰にも聞こえないように水蜜は呟く。
幻想郷で暮らしていくことになり、スペルカードで闘う機会も巡ってくるだろうといくつか考案しているものはあった。だが、どれも未だ未完成で、しかも片手間に進めていただけだったことが悔やまれる。未完成、全体像の把握もできていないスペルなど、この場、霊夢相手には効果の欠片もないだろう。
こんなことなら、と水蜜は唇を強くかみ締めた。
「こっちからいくわよ!!」
「ッ!?」
思考に時間を掛けすぎた。そう思ったときには既に霊夢の体制が整っていた。
「霊符「夢想封印 牙」!!」
霊夢の孫の手、それは「夢想封印」の派生だった。
「くる……!」
水蜜は強力な力と気の流れを感じ取る。それは霊夢を中心に、いや、霊夢の背後に集中していき、まるで日輪を背負っているかのような神々しさを放っている。五つの霊力球が円を成し、光の粒子を撒き散らしながら回転する。
水蜜の視界が恐ろしいほどゆっくりとなった。またもFPSが下がっているようだ。
意識のみが速くなり、円陣に集まっていく粒子の一粒一粒をはっきりと確認することができる。霊夢にとっては一瞬でも水蜜にとっては無限にも似た膨大な時間だった。
だが、終わりはいつかやってくる。
水蜜が今やるべきことは目の前に存在する一撃を潰し、霊夢を撃ちぬき、自らのアイデンティティーを再確立させることのみで、そのためにだけにこの時間は存在しているのだ。
しかし、いったいどうやって?
水蜜は思案する。思いつくものは全て拾い上げ、引き出したが、未だ何の手立ても浮かび上がらない。むしろ、そうすればするほど空の入れ物しか見つけ出せなかった。
霊夢の背後が一層、輝く。ようやく力の凝縮が終わったのだろうか。
霊夢が横へスライドする。水蜜の目の前には今まさに溜め込んだ光の全てを吐き出さんとする円陣があった。
円陣が光る。それまでとは比べ物にならない光が水蜜の視界に現れる。
極太の光だ。
円陣の直径とほぼ同じ光の束、光線が吐き出される。
水蜜は、記憶の海の中で、ある曖昧な映像を見つけた。それは今朝方、寝床で横になりながら見ていた夢、のような気がした。
今の自分と何一つ変わらない姿、声、だが周りは違う。
見覚えのある、見知った仲間達が見知らぬ部屋の中で声を張り上げていた。暗い鋼鉄の壁が周囲に広がり、いたるところに硝子のようなパネルがはめ込まれ、そのいくつかを見ながら誰もがせわしく動いていた。
誰かが水蜜を呼ぶ。
艦長、と力の篭った声で呼び、指示を請うのだ。
目の前には一際大きい硝子があって、そこには見たこともない船のようなものが映っていた。その船体からは細長い光が何本も飛び出しこちら側に向かって飛んできた。光がこちら側に当たるたびに辺りが揺れ、轟音が響いた。
そして、そのたびに周りの仲間が声を上げるのだ。
水蜜にはどうしようもなかった。勝手も何も分からず、ただ呆然と見ていることしかできなかった。そのはずだった。
気がつくと水蜜は口を動かし、皆に声をかけている。話している実感はあった。何を言っているのかも、なぜそう言っているのかも、何を根拠に言っているのかもなぜか理解できていた。
手を前に出す。そう動作した意識はあったというのに、なぜか自分の意思ではないような気がした。
すべて曖昧だ。元々数多く見る夢の中の一つに過ぎない。眠りから覚めて数秒程度で泡沫に帰すだけの幻のようなものだ。
だが、唯の一つ、鮮明な光景と声を覚えている。
目の前にいた船に指を指している自分と、同時に張り上げた単語。そして、それを合図にするかのように轟音が響いていった。
無数の光が水蜜の側からこれでもかというほど放たれ、それらが相手に向かっていった。一つ一つは細く短い光がお互い寄り添う軌道を取っていき、遂には一本の線となる。
それが、反対側から放たれる光の数々を物ともせず、突き進み目の前の船の一点に突き刺さった。
それだけだった。その結果がどうなったかは分からない。ただそれだけが記憶にしっかりと残っていた。
そこまで思い出して、水蜜ははっとする。目の前には霊夢が放った長大な一撃が迫っていた。
まだ、全ては水蜜の思考に追いついていない。
しかし、光が水蜜に届くまで、もうあと僅かだ。
水蜜はもう一度、記憶の中へ振り返った。
そこで見たのはただの夢だった。
だが、それが水蜜に啓示を与えた。
もはや考えられる手段は取り尽くし、考え尽くした。
だからこそ、最後は確証もない賭けに出るしかない。
もう一度、思い出す。
あの光景、あの言葉、水蜜自身が下した命令を今この場に吐き出す。
「全砲「一点射撃」!!」
水蜜は力の限りを尽くし、撃ちだせるだけの各種光弾を一斉に、迫り来る霊力光線とその奥の円陣に放った。
一点を定めて、そこに全ての力を結集する。
水蜜から放たれた弾の数々は寄り添い一つの光線となり、霊夢が放った霊力光線と正面からぶつかり合った。
切っ先と切っ先が互いを侵し合い滅ぼし合う。
渾身の一撃だけあって、力は拮抗しているようだ。
後は相手よりも長く、せめて、相手が撃ち終わるまでこれを持続させる。
一瞬でも気を抜けば、それまでだ。撃ちぬくか、撃ちぬかれるのか、意地と意地の張り合いだった。
「……くッ!」
水蜜から声が漏れる。
スペルとしてしっかりと練られ、準備も万全だった霊夢に比べ、水蜜の一撃は、見たかどうかも曖昧な夢を参考にした即興で、やっていることも効率や負荷も考えずただ単純に力を集めて目の前に放っているだけだった。
いくら水蜜が妖怪で、霊夢が人間だといってもこれでは水蜜が圧倒的に不利だ。
自らの一撃を持続させればさせるほど体力を消耗し、力を搾り出せば出すほど反動が苦痛となって水蜜に返ってくる。
諦めてしまえば簡単だろう。
勝敗を厳格なルールによって決めるこのスペルカードなら命の危険もない。多少の痛い目は覚悟しなければならないが、耐えられないほどではない。
そもそも闘いの始まりはたいしたことのない簡単な話だ。
いつの間にか麓の湖に巨大な船が現れ、それが聞き覚えのあるものだったために水蜜は興味を覚えた。最近は船長という身分も持て余し気味で、なにより彼女本来のフィールドである海が幻想郷のどこにもなく居心地が悪かった。
そんな彼女の目にアドミラル・クズネツォフは、太陽の如く輝きながら飛び込んできたのだった。
霊夢との闘い、負けたところで失うものは何一つない。後々酒の席で肴にされかねないだろうがそれはそれで自分も肴にしてしまえばいいだけだ。
だが、勝利すれば……、得られるものは桁違いに大きい。
艦長だ。これだけの船、一般的な海軍では大佐階級が指揮を執る、一国一城の主なのだ。船乗りのプライドと精神がひたすら叫びつつけるのだ。キャプテン、と、艦長、と。
我欲に塗れる? 醜い餓鬼のようだ?
そんなことは満ち足りたものだけが言える台詞だ。
水蜜には欠けている。この幻想郷で水蜜が水蜜たる理由が、過去の由来ではなくこの幻想郷において村紗水蜜として生きていくための理由と必然性が欠けている。
「……あれが、あれこそが、私の拠り所!!」
水蜜は力を込める。負けたくなかった。なんとしても手に入れたかった。
光の接触面に変化は見られない。どちらが押すことも押されることもなく、長い思考の間、短い時間と時間の間、放たれ続けている。
まだ、もう少し……。
もう少しだけ……。
「……もって……!!」
光が、消えた。
霊夢の光、水蜜の光、双方がほぼ同時に消えた。
水蜜は耐え切ったのだ。そして、霊夢は押し切れなかった。それだけだった。
「はぁ……。」
水蜜は息をついた。
勝つことはできず、負けることは防いだ。今はただそれだけをかみ締めるのみだ。
だが、水蜜は肝心なことを見落としていた。
「……ッ!?」
水蜜の目の前で光の球が舞い踊った。
霊夢はしっかりと「夢想封印 牙」と宣言した。水蜜にとって未知のスペルだ。それでもそれが「夢想封印」の派生であることは明らかだった。ならば、どうして気づけなかったのか。
はっきりと五つの霊力球が円陣を組んでいる時点で、それぞれの球が襲い掛かってくることを水蜜は微塵にも思いつかなかった。
球はそれぞれが二つに分裂し、計10個の光が水蜜目掛けて飛んでくる。通常の「夢想封印」と同じように追尾性を持った球を全て避けきることが、力の大半を出し切った水蜜にできるのかどうかは、……聞くまでもなかった。
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「お疲れ様です。」
文が霊夢の労を労う。ヒーローインタビュー紛いでも始める気か。
「……霊夢、あなた達が闘っている間に、いろいろ調べてみたんだけど……。」
「ん?」
敗北と疲労から膝を突いている水蜜を放っておいて、霊夢は紫の方を向く。
紫は何かを掴んだようだ。
「どうやら……。」
休憩がてら紫の話でも聞いてやろうと、霊夢は何も言わず黙っていて、文の方も同じように聞き耳を立てながらペンを構えていた。
「……なかなかの絶景じゃない。流石は私ね。」
またしても闖入者が現れる。
「レミリア?」
まだ、昼間だというのに従者に日傘を差させて、優雅にやってきたのはレミリア・スカーレット。湖のほとりに建つ紅魔館の主ならば、湖に堂々と浮かぶアドミラル・クズネツォフに興味を持つのは当然だろう。
「あら、霊夢に、紫に、新聞記者じゃない。なにしているの? こんなところで。」
「こっちの台詞なんだけど。」
霊夢の言うことはもっともだ。
「いいえ。私のものよ。この船は私の作品だから、そこに上がりこんでいるあなたたちがそもそもおかしいの。」
「どういう意味?」
突然のレミリアの登場だけでなく、開口一番、アドミラル・クズネツォフを自分の作品だという吸血鬼の言葉に霊夢、文、そして、水蜜の間で混乱が広がっていく。
紫だけは、ああ、なるほど、といった顔だった。
「数日前の話です。」
次に口を開いたのはレミリアの隣で日傘を差し、主(あるじ)に日光が当たらないよう配慮しているメイド、十六夜咲夜(いざよいさくや)だった。
「お嬢様と私は散歩のついでに道具屋へ寄りました。」
「霖之助さんのところ?」
「ええ。そこでお嬢様が興味を惹かれたものがありました。えーと、プラモデル、というものです。」
「プラ……?」
「外の世界だったか、とにかく幻想郷で作られたものではない模型だそうで、何でも、知り合いから使い道がないから貰ってくれ、と渡されたもののうちの一つと言っておられました。」
「……知り合いからの……?」
水蜜が反応する。何か知っているのだろうか。
「なんといっても見た目ね。壮大で威風堂々とした力強い姿を一目見て気に入ったのよ。幸い、売り物だったし、手に入れたわ。」
レミリアが言う。目を輝かせながら身振り手振りも加えて語る姿は見た目相応の子供のようだった。
「……それが苦労の始まり。……まさかバラバラだったなんて思いもしなかったわ。」
「色も箱に書かれていたものとすいぶん違っていましたし。でも少しはできあがっていましたけど。」
プラモデルなら組みあがった状態である方が珍しい。特に艦船、航空機だと技術や知識も必要になるし、メーカーによっては品質にもバラツキがあってそのまま組み上げられるものはごく小数なのだ。色も塗らないと様にならなかった。
「でも、私は諦めなかった。接着剤や塗料っていうのもいるみたいだから、そのあたりは錬金術で用意して、準備を整えた。」
「……してもらった、の間違いでは?」
文の突っ込みはそのまま流された。
見るからに意図的な行為だ。
「我が紅魔館の総力を挙げて、これに取り組んだわ。」
レミリアが感慨深そうに語る。
水蜜を除いた三者の頭には、全て丸投げしてくつろいでいるレミリアの姿、関連すると思われる文献をある程度は提示して、後は我関せずと本の世界に入り込んでいるパチュリー・ノーレッジ、そして、時間を止めて一人孤独にアドミラル・クズネツォフを組み上げている咲夜の健気な姿が目に浮かんだ。
後の連中? 関わりようがないだろう。
ちなみに水蜜はレミリアたちと初対面なので、一人だけ何も浮かばず除け者だった。本人はそれどころではなかったのだが。
「完成したわ。……昨日の話よ。」
三者の失礼な、おそらく正しいであろう想像は露知らず、話を進めるレミリア。
「色も塗って完璧。後は飛行機っていうのを上に載せるみたいなんだけど、入ってなかったからパチュリーに頼んで用意してもらったわ。資料が少なかったから適当だったけど。」
「だからなのね。」
紫の疑問は解けたようだ。といっても霊夢たちが闘っている間に色々調べて、船体や艦載機の材質がプラスチックであることを突き止めていたので、対して驚くことはなかった。
「……でも、物足りなかった。」
「何が?」
「サイズよ。アドミラル・クズネツォフの実物はもっと大きいの。それこそ紅魔館なんで目じゃないくらいにね。……でも目の前にあるのは精巧な作りだけどこじんまりとした模型だったのよ。たしか1/700のサイズだったかしら。それで……。」
「……大きくしてくれって頼んだのね。」
「正解。パチュリーの力なら本来の大きさにすることは造作もなかったわ。ただ、そのままだと紅魔館が大変なことになるから湖に浮かべることにしたのよ。」
「なんてはた迷惑な。」
「これでも考えたわ。元々、喫……水線?より上を再現する模型のシリーズのうちの一つだったから、底は平らだったけど、いくらなんでもその辺にそのまま置いたら邪魔なだけよ。湖なら何か大きなものが浮いてるわけでもないし問題なかったわ。」
「……いやいや。」
なんとも迷惑千万な話だ。誰もがそう思う。いや、霊夢と紫だけか。
文は熱心にレミリアの話をメモする。たかが模型であっても記者のさじ加減一つでどのような規模のニュースにも様変わりするのが報道メディアの特徴だ。ジャーナリズムがどうとか、モラルがどうとか、そんなことはお構いなしである。
それでもそんな姿勢を隠そうともしない分、まだ文は良心的なのかもしれない。
そして、水蜜はというと。
「……模型……。」
あれだけ張り切って闘いを繰り広げた目標が、自分の目指す最後の希望ともいうべき存在が、まったくかけ離れた存在であったことにショックを隠しきれない様子だ。
模型とはいえこのサイズなら強度や性能はともかく、船としては最低限機能するだろうが、そんなことすら考えられないほど憔悴しきっていた。
空を見上げて、口を大きく開けた姿は、本人には悪いが滑稽に見える。
「……おーい。」
霊夢の呼びかけにも応えない。
文がしきりにシャッターを切っているのに何の反応も示さない。
事の成り行きを知らないレミリアたちは首をかしげていた。
「……う、うう……。」
少しかわいそうに思えてくる。
よく見ると目から光るものが零れていた。先の激戦のせいで自制が効かなくなっていたのかも知れない。
「うわーん!!!」
水蜜は泣きながら飛び去っていった。
「……あ、行っちゃった。」
……ひょっとしなくても今回の被害者は水蜜だろう。
ただ、自分から首を突っ込んでいるので自業自得でもある。
「あのシリーズにアドミラル・クズネツォフなんてあったかしら。」
紫が呟く。それは誰にも聞こえなかった。
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数日後。
結局、あれだけ大きいと邪魔だ、と言うレミリアの鶴の一声によって、ほどなくアドミラル・クズネツォフは製作時と同じ1/700のサイズに戻され、紅魔館の玄関付近に飾られことになったらしい。ただ無理に大きくしたせいで相当劣化したらしく、別の機会に霊夢が紅魔館を訪れた際には修復不能ということで廃棄処分になっていた。
もし、あのとき水蜜が勝利していたとして、その後、アドミラル・クズネツォフを手中に収めていたとしても三日天下に終わっていただろう。それはそれで悲劇だし、惨めな話でもあった。
その水蜜だが、彼女の姿を霊夢はあれから見た事はなかった。
あの様子だと、しばらくは動けそうにないだろうし、当たり前といえば当たり前だ。
何にせよ。人騒がせな事件は終わった。
またしばらくは平凡な日常が続くことを願いつつ、暢気にお茶を啜ろうとする霊夢であった。
「!?」
巨大な爆発音が霊夢の耳を突き抜けた。
地面は特に揺れなかったが、目を凝らすと薄らとした煙が山の方から上がっているのが確認できた。
また、なにやら起こったようだ。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------->To the previous.
正直紫が何か言おうとした時点で気付いたかなーww
FPSはいい小ネタで笑った。
なぜそんなマニアックな知識を当然のようにwww