(一)
天界にも夜は来る。当たり前のことだ。
私は不良天人だから、早寝なんてしない。夜更かししてやる。
と思って家を出て、桃の木の下でずうっと起きてたらもう朝が近くなってしまった。
薄衣の擦れる音がした。ほんとうは音なんて立てずに歩けるのに、わざわざ音を出すのが衣玖流の礼儀作法なんだって、前に訊いたときに言っていた。
「お一人ですか」
「そーよ」
私はむくれる。
衣玖がいなかったから、今夜は私はひとりぼっちだったのだ。
そう言うと、困ったような顔をして、今夜は仕事があったんですもの、と言う。そんなことは知っている。でも月が昇るのを見て、月の周りの星が月の輝きにまぎれて見えなくなるのを見て、少しずつ星座が動くのを見て、動かない星を見つけて……ひとりでやっていると、最初は雰囲気があって面白かったけど、どんどん寂しくなってくるんだ。
「それは寂しいんじゃないんです。総領娘様は退屈しただけですよ」
「そうかな」
「そうです。寂しいっていうのは」
私の横に腰を下ろすと、衣玖は口ごもった。ときどきこういうことがある。
「私は警告を無視されるのが嫌いです」
「わかるわかる」
私はうなずく。衣玖は人妖に災害の警告を伝える。対策をとるものもいれば、てんから信じないで死んでしまうものもいる。
「寂しいっていうのは、好きな人の心にぜんぜん関われなかったり、ひどいときには意識すらされないときのことを言うんです。死んでしまったら、もうどうしようもない」
衣玖は手を伸ばすと、足先に生えていたナズナの花を中指のうえ側で撫でた。
恥ずかしがっているんだな、とわかった。こういうときは私から口を開く。
「仕事の愚痴なんてめずらしいね」
「そうですか? けっこう、言ってるんですけど。総領娘様はそういうの、気にしないですから」
「そうかな」
「そうですよ」
ふふ、と笑う。
「総領娘様は、家出すれば私が絶対にここに来るって、わかっていたでしょう。そんな人は、寂しくもなんともないんですよ」
「うん……来てくれてありがとう」
「いいんですよ。私は総領娘様のことが好きですもの」
ぴんと来た。
「ねえ今、衣玖は、私も衣玖のことが好きなんだ、って言ったの?」
衣玖は答えない。
「退屈だったら、踊りでもおどってればよかったんです」
「音楽もないのに」
「音楽なんてなくても、おどれるんですよ。ほら、ほら」
と言うと、衣玖は靴を脱いで、腕をすいすい動かして腰をふらふら揺らした。いつになくおどけたような、酔っ払ったような踊りだ。でも私は衣玖が好きだから、どんな踊りだって衣玖がおどれば美しいと思うし、手拍子を合わせてやることもできる。
やんや、やんやと囃したてると、もともと踊りが好きな衣玖なので、どんどん興に乗ってきた。私もおどった。朝が近づいてとても寒くなっていたけれど、動いているかぎりは汗をかくくらいにあったかかった。疲れたら休憩した。ナズナを見ると、この花の名前も衣玖に教えてもらったんだと思いだした。それまで私は、ぺんぺん草、としか知らなかったのだ。
「それも間違いじゃないですけどね」
と、衣玖は笑う。それから、
「総領娘様はほんとうに手がかかりますね……」
と言って、頭を撫でてくれた。
夜が明けると衣玖におんぶされて家へ帰った。明け方は、暁・東雲・曙・黎明・彼誰時などとも言う。これも衣玖から教えてもらった。
昔読んだ漫画だと、夜と朝が結婚する時間、と書いてました、と衣玖は言う。そのときなんだか、恥ずかしがっていたのを思い出す。
衣玖が恥ずかしがると、私は嬉しい。恥ずかしがる衣玖が、キュートだと思うんだ。
衣玖の背中でゆっさゆっさ揺られるのは気持よかった。そのまま床にはいって昼まで寝た。衣玖の背中は布団よりも気持いいな、と思った。
起きてから風呂に入って、ご飯を食べて、衣玖にお礼を言うと、衣玖が「いえいえ。それにしても総領娘様は胸がぜんぜん成長しないですね」と言ったので緋想の剣でボコボコにした。
(二)
「へくちっ」
くさめが出た。常に雷雲の中を飛んでいるようなものなので、寒さも湿気も慣れたもののはずなんだけど、そんな私でも風邪をひくんだろうか。
違うな、と思った。誰かが自分のうわさをしているんだろう。十中八九、あの総領娘様だ。
あの子は私のことが大好きで、それは良いんだけど、ずいぶん手間のかかる子である。
なにやら面倒事の予感がした。自分の能力は便利なもので、こういう予感が外れることはまずない。便利だけど、それで物事が解決するわけではないので、つまるところ面倒事はなくならない。
今夜は早めに帰れればいいな、と思って、私はため息をついた。
人里の家を三軒と、山に住んでいる妖怪の住処を二軒まわって、災害の予兆を伝えた。今回は皆、わりと素直に聞いてくれたので助かった。
できるだけ事務的に仕事をこなそうとしているが、それでもやっぱり、警告を無視されたり、軽く聞き流されたりするのは好かない。
(今夜は何人死ぬだろうか)
と考えた。山崩れが起きる。
何日か降り続いた雨が山肌を弱くしており、今夜の夜半に少しだけ降る雨が、傾斜に沿って土砂を押し流すだろう。私の警告をきちんと聞いて、対策をとれば、大方の者は助かるはずだった。
家や財産は失うかもしれないが、自然災害なので、どうしても力の及ばない部分はある。生命さえ助かれば、上出来だと思っていいだろう。
けれどどうしても、いつでも、幾人かは死んでしまう。
私は首を振った。まだ、仕事が残っている。
その日最後の場所に降りた。山の中腹で、人の住処はないだろうから、獣の妖怪でも住んでいるのだろうと思った。
歩いて行くと、粗末な社を見つけた。お地蔵様でも入っているのかと思った。簾を開けると、とても小さな人間が中にいて、ちょこんと座っていた。
老婆だった。髪が長いので、そうと知れた。はじめは死んでいるのかと思った。土気色の肌に数えきれないほどの皺が刻まれていて、ちっとも動かなかった。でも私には、生きているとわかる。
(姥捨てだ)
と思った。たしか麓の村では、七十を過ぎた老人は口減らしに捨てられるのではなかったか。
「お婆さん」
私は声をかけた。
「ここは今夜、山崩れが起きて、土に埋まってしまいます」
そこまで言って、そのあと、どう続けていいかわからなくなった。
この老婆は死ぬためにここにいる。
山崩れが起きなくても、いずれ餓死するか、獣に食われて死ぬだろう。老婆自身も、彼女の家族も、それは了承していることだ。
両手をぴったりと合わせて、拝むようなかたちにしていた。目を閉じている。白い髪も肌もほとんど水分を含んでおらず、ただ唇の端が切れていて、少しだけ赤みのついた肉がそこから見えていた。
そのまましばらく、私は老婆を見つめたまま、じっとそこに立ちすくんでいた。
首を振った。
ただ、勤めがあるだけだ。
「お婆さん」
もう一度声をかけた。聞こえなかったのかと思ったからだ。
ぴくりとも動かなかった。
老婆は耳が聞こえなくなっていた。
老婆は結局、山崩れで死んだ。餓死したのでも、獣に食われたのでもなかった。
土砂に押し潰されて、それだけでは死ねなくって、土に埋まってしばらくして窒息して死んだ。
(見た目より、よっぽど長く生きていたな)
と思った。老婆は、目も見えなくなっていた。だから私は、彼女に災害を伝えることができなかった。
手のひらに指で文字を書いて、伝える方法はあったかもしれない。けれど拝むように合わされている手を崩すのは気が引けたし、それに伝えたところで、と考えると……頭の中がぐらぐらして、「わからない」しか残らなくなってしまう。
ただ、自分が何もできなかったのはたしかで、それからあのお婆さんは、私があの時、あの場所にいたことを、ひとつも知らないんだと思った。
私は彼女が死ぬ場所にいたけれど、彼女にとって、私はいないのと同じことだった。
天界に帰ると、総領娘様が家出をしていたので、迎えに行った。
総領娘様と話をして、自分が寂しいと思っているんだ、と気づいた。
翌朝、総領娘様をお送りした。昼にはちょっとした言葉の行き違いでボコボコにされた。疲れていたので気絶してしまって、気がついたら夕方だった。
夢を見た。桃を食べる総領娘様が消えて、迎えに行っても、木の下には誰もいなかった。はじめから誰もいなかったのだと、夢のなかでそう思った。
起きると総領娘様が手拍子の練習をしていた。曲の途中で拍子が変わるような、ちょっと難しいものだ。夜明け前にお教えしたのだった。
眠る前に、桃の木の下で。
おはようございます、と言うと、
「おはようでもないけどね。衣玖、どうしたの? 泣きそうだよ」
虚を突かれた。
そのまま固まっていると、
「衣玖はほんとうに手がかかるわね……」
と言って、総領娘様が頭を撫でてくれた。
長い話も読んでみたいです!
そんな感じで好きです
ただ、話がシリアスなのと、人の死という重い要素が話(衣玖の仕事)に関わってくるので厳しめにダメだしさせてもらいます。
まず、神様や妖怪が普通に存在する幻想郷で災害を伝える役目をもつ竜宮の使いの警告がたびたび無視されるというのは、説明不足な感があります。
警告を聞いて難をのがれた人はその話を広めるでしょうし、警告を無視して死人が出たとなればより話も広まるのではないでしょうか。
なのにいつまでたっても衣玖の忠告を無視する人が一定数いるのはつじつまが合わない気がします。
姥捨ての理由なんかも欲しかったところです。姥捨ての民謡は日本の一部にしかなかった話ですし、話自体に不合理な点が多くほとんどそういう行為は行われなかったという考えの人もいます。
なのにこの作品ではある村でかなりの頻度で姥捨てが行われているように読み取れ、いくらなんでも作中で人間が愚かに書かれすぎているように思えます。
別にこれらのことに長々と理由を書けとは言いませんが、やはり説得力のある説明やつじつま合わせが必要だと思います。
今、簡単に考えただけですが、衣玖の忠告については「衣玖が小規模な災害を短い周期で伝えてまわる」から「衣玖は大規模な災害が起こる時のみしか警告に来ない」という設定に変えるくらいでいいのではないでしょうか。
これなら話が伝わっても大災害の周期が数十年から数百年あるため、人が親や祖父母から竜宮の使いの話を伝えられても半信半疑であったり、自分の世代で災害が起こらなかった人はその話を伝えなかったり、話自体が年月で風化したりといくらかのつじつま合わせができるように思えます。
また、姥捨てのように反発が生まれやすかったり、何らかのもとの話(史実や民謡)を用いるときは最低限ネットで検索するくらいはすべきだと思います。失礼ですが姥捨てについて詳しいことは全く知らずに用いたのではないかと思ってしまいました。
姥捨てがかつてどれくらい行われていたのか自分で判断してしてからその理由をのべて用いてもらいたいです。
姥捨てがかなり行われていたと判断したらその根拠をのべ、あまりなかったと判断したら作中に「今年はまれにみる飢饉でやむにまれなかった」などのフォローを入れて用いて欲しいです。
この作品を読んで、文章に惚れたというのは地の文が多いのにすらすら読めること、むしろ地の文を楽しんで読めたことでした。
あんまり矛盾点探しやその説明付けに難しく考えすぎるのも良くないですが、重い場面のある作品、重いテーマの作品、シリアスな作品、などを書くときは速筆をいったん止めて心理や場面や行動などをもう一度確認してみてはどうでしょうか。
ありがとうございます。自分はどうも、好みの文章を書くことに注意がいきすぎて、他の部分がおろそかになってしまうところがあります。
衣玖の警告についてや、姥捨ての件についてのご指摘ごもっともで、とくに姥捨てについては小説で読んだくらいで仰るとおりほとんど知りませんでした。(ちなみに『楢山節考』で、あの小説がこれのそもそもの着想のひとつになったんですが、それを読み返すことすらしなかったので、事前の準備が不十分であると言われても、返す言葉がありません)
これまでネタをひとつ出して、それで流れのままに書いていって、詰まったらまたネタを出して……なんとか形ができたら投稿する、というふうにしていたのですが、それだとやはり短いものしか書けないし、粗も多くなりますね。
KASAさんからも言われていることですし、次はちょっと落ち着いて、中編くらいの長さのものを書いてみたいと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。